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先日のテレビで窪田空穂氏(歌人)と島秋人死刑囚との交流を放映していました。窪田さんが松本の人で長野放送製作です。 第15回FNSドキュメンタリー大賞『われに短歌ありき~ある死刑囚と窪田空穂~』限られた命を生きていく姿に感動しました。私たちの命も明日は知れません。1日、1日を大切に生きていきたいです。私の手元にあった『遺愛集』から選んだものです。遺愛集 島 秋人 東京美術選書 9 助からぬ 命と思へば 1日のちひさな喜び 大切にせむ葉の影に ひっそり咲ける朝顔の 紅の命は 夕までたもつ青空に 己がさびしと思ふこと ゆだねて独り仰ぎてゐたり更けてより 激しさ増して降る雨に うたるるものを眺め安らふほめられし ひとつのことのうれしかり いのち愛しむ 夜のおもひに虫あはれ いのちのかぎり鳴くさまを ひとは涼しきものとして聴く昨日まで 鳴きゐしセミの鳴かず暮れ みじかきいのち終へたるらしき許さるる 限りの生きを 愛(いと)ほしみ ちひさき事に幸を得て生くみちたりて 云うべき言のあらざれば 首あげて見る青き空なり私が被害者の立場に立ったら、耐えられないとは思いますが、でもその立場であったとしても死刑制度は廃止して欲しいです。同じ町の方で死刑判決を受け30数年間自由を拘束され、無罪判決を受けたSさんが年老いた母親と一緒に無実を訴え続けた姿が目に浮かびます。昨年亡くなりました。(私たちの職場の組織も支援しました)死刑制度について*世界中で死刑制度がある国が 69ヶ国、ない国128ヶ国。 死刑制度があるのは、先進国では日本とアメリカ(22州)だけです。*日本では検事が起訴した事案の99%は有罪が決まります。 外国の論者は「日本では裁判は行われていない!」裁判は単なる セレモニーだと批判しています。*裁判には誤がある以上、まちがえて死刑にした時は取り返しがつきません。 *殺人を犯した人はもちろん攻められるべきですが、国家が罰として 死刑にすることは、国家による殺人にならないだろうか。戦争はもちろんですが、いかなる場合であろうとも殺人行為を正当化してはならないと私は思います。それこそが命を大切にすることでないでしょうか。
2007年01月31日
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昨日「山の子の歌」を紹介しましたが、私はもっとよく知れ渡った歌かと思いましたが、意外に知られていない歌だったんですね。メロディーを載せましたので聴いてみて下さい。私たちが子供の頃に歌った歌詞と違っている感じがするのと山の子の歌とは言っていなかったと思いますが、どなたか歌った事のある方にコメントいただけたらと思います。私の故郷の子供の頃いつも見ていた山並みに歌をかぶせて見ました。山の子の歌
2007年01月30日
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庭の枯葉の中に傷ついたキジバトがもがいていました。近づいたら、じっとして動きを止めました。しばらくしたら、どこかに飛んでいきました。キジバト(雉鳩)ヤマバト私の故郷は山の中です。誤解されますが、農村ではありません。子供の頃によく歌った歌です。しばらくぶりに思い出しました。私はヤマバト(山鳩)の歌、ヤマビコの歌だと思っていたら正しくは山の子の歌だったんですね。差別的な響きのあるヤマノコを嫌ったのかもしれません。今では山を知らない山の子ばかりで、気持ちだけは都会以上に都会的です。昔は都会でしか目にしなかったことがここでも起きていますし、地域の人の輪も崩れています。夢や希望というようなものではなく、不安や絶望や憂いを持ちながら山も見ながら、その日を生きていた子供の頃を思い出しながら口ずさんでいます。自然の中を自由に飛び回るヤマバトに思いを託した ヤマバトの歌 ヤマノコの歌歌声が あの小道にひびけばあの森かげ あの谷間山にこの歌山の子は 山の子は歌が好きだよ雨が降り てるてる坊主が泣いても私達は 泣かないで山を見つめる山の子は 山の子はみんな強いよ雲が去り 青い美空が見られりゃ歌いましょう 山鳩の兄と妹山の子は 山の子はみんななかよし星の子が星の子が 峠の杉に合図して早く帰れ母がらす 子どもが待っている山の子は山の子は 明日も幸せに(4番の歌詞は山の子を広める会の方から紹介されました 作詞者が一番気にいったものだそうです)
2007年01月28日
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本日、火葬、葬儀、納骨、法事の一切を執り行いました。葬儀のとき山形の一番上の姉の娘(孫)さんが、仕事で忙しくてどうしても来れなかった兄の弔辞を代読しました。おばあちゃんたまに山形から訪ねていくと”あらあ純ちゃん良く来たこと”とあなたは笑顔で迎えてくれます。いつも穏やかな笑顔でした。小さい頃は”純坊”と呼ばれていました。中学生になった頃からは”純ちゃん”に出世しましたが、その後は頭がだいぶ白くなってきても相変わらず”純ちゃん”のままでした。あなたの孫のままでした。小学校の夏休みを●●で過ごすようになった頃、あなたはあの古い家の縁側に机を並べて寺子屋のような私塾の先生でした。私も近所の子供らに混じって勉強させられました。珠盤の授業のとき、それまで触ったこともないので珍粉漢粉(ちんぷんかんぷん)でいるとあなたは大変あわてた様子でした。”この子の将来は危うい”と思ったのかもしれません。翌日から毎日珠盤でした。 だからかどうか私が高校、大学に入ったとき、又学位を修得した時など一番喜んでくれたのもあなたでした。夏休みが終わり山形に帰るときはどこか泣き出しそうな笑顔でした。”それじゃ又ね、バイバイ”独特な手の振り方でした。幼稚園児が星の瞬きを演じるように顔の横で手をひらひらと回しての見送りでした。その頃サギ草という植物を教えてもらったことがあります。花の形がちょうどサギの翼を広げた姿に似ているのでその名がついたという話です。サギの名前がつくとサギ以外のものに見えなくなるから面白くないと屁理屈を捏ねると、そんな小学生の餓鬼が言ったことを真に受けて”なるほどそんな考え方もあるねえ”と妙に納得した様子で、かえって驚かされました。あなたは誰よりも日本の言葉に親しみ日本の言葉に通じ愛していました。源氏物語を原文のまま全て読み上げたという伝説のような話もあなただから出来たのでしょう。斉藤茂吉の短歌にも変なものがあると笑いの種のつもりで2種挙げたときのことです。あかがねの如くなりたる禿頭かくのごとくに我生きにけりわがそばに乙女来たりてどてら焼きしみじみ食いて去りたるかなやするとあなたは”いやあすばらしいねえ”と真顔で頷いていました。これはとてもかなわないなあとつくづくと思い知らされました。青葉城恋歌という曲が流行すると”この歌詞は全て大和言葉で綴られているから優しく美しく響くんだねえ”と解説していました。いったい誰がそんなことに気付くでしょう。自ら文章を書けば、達筆で言葉は優しく美しいものでした。 85歳で胃がんの手術を受けたときは正直もうだめかもしれないと思いました。貧血がすすんで輸血をしたと聞けばいよいよかと身構えたりもしました。それから12年、あなたはなお見事に生き続けました。感嘆しています。 数ヶ月前、病室を訪れたときは、もうその美しい言葉を聴くことが叶いませんでした。たぶん自分の意思とは無関係に顔や首やらを回すばかりでした。こちらの言葉は通じているのかしら、私にはよくわかりませんでした。久しく手を握った後、”じゃ又来るからね”と自分に言い訳をするように挨拶するとその手がこちらに伸びて、ひらひらと回っていました。涙が出るほど感動しました。 最後にお会いしたのは亡くなる前日でした。呼吸は浅く喘ぐようでした。耳元で私が自分の名前を告げると、2度うんうんと頷きました。分かるのかしら、少しの間静かに見守っていると同じように頷きます。さすがにこれはたまたま首がそう動いただけなのかもしれないと思いました。それでももう一度痛いところはないか、大丈夫かと問うと決して大丈夫であろうはずもないのに、又2度頷きました。ここにいたってようやく確信しました。あなたは分かっていただけではない。この無意味とも思える問いかけにすら気を使って頷いていてくれていたのだということを。そしてもしかしたらこの時、夫や亡くなった娘さん(おばさんたちと)話をしていたかもしれないということを。最後の最後まで優しく孫に甘いおばあちゃんでした。私はあなたの孫として生まれてきて本当に良かったと思います。これからもずっとあなたの孫で居させてください。 平成19年1月26日 純
2007年01月26日
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今の時期、たまたま不幸が重なり催事が待たされています。今日は通夜です。母の一生を静に振り返ってみたいと思いました。娘が子供のとき母と一緒におばあさんから聞いて書いた作文が出てきました。これは孫から祖母に奉げる言葉です。おばあちゃんの77年間 おばあちゃんの喜寿を祝う会が8月3日に開かれました。31人が集まりました。おばあちゃんは明治42年生まれ、今年で77歳になります。おばあちゃんは北海道江差町突符村に生まれました。 おばあちゃんの両親は宮城県なのになぜわざわざ北海道までにやってきたかというと、昔は家の跡継ぎ以外は家にいてはいけないことになっていたそうです。本州では仕事が見つからないので北海道まで来たそうです。ひいじいちゃんは巡査をしていました。そこにひいばあちゃんは、顔を一度も見たことのないひいじいちゃんのところにお嫁に行ったそうです。昔はそういう人がほとんどだったそうです。 おばあちゃんは先生になりたかったそうです。でも北海道には女子の師範学校がありませんでした。おじいちゃんに学校に入れて欲しいといいましたが、『女の子は裁縫を習ってお嫁に行けばいいのだから学校に行くことはない』と反対されました。そんなひいおじいちゃんをひいおばあちゃんが説得し続けて入学試験を受けることが出来たのです。 ひいおばあちゃんは学校に行けずに辛い思いをしたので、せめて子供たちにはそんな思いをさせたくない一心で説得し続けたのでした。おばあちゃんの家は貧乏で、子供も多く下に6人もいました。だから国のお金で学校に行ける師範学校を選んだそうです。おばあちゃんは試験を受けるために15歳で北海道から宮城に一人出来ました。冬だったので釧路から函館まで24時間もかかりました。ラッセル車がなかったので機関車2両で引っ張ったそうです。青函連絡船は今のように大きな船でなかったので船酔いがひどく乗る時に枕と吐くための桶を持たせられたそうです。試験に合格し、師範学校の寄宿舎で暮らしました。その後2番目の妹も3番目の妹も師範学校の試験に合格したので、ひいおばあちゃんは子供を連れて北海道から宮城に移って来たのです。ひいおじいちゃんは一人で北海道に残り、お金を送り続けていましたが、15年後に病気のため宮城に戻り、病院で亡くなりました。 昭和7年おばあちゃんは結婚しました。おじいちゃんとおばあちゃんは同じ学校で先生をしていたそうです。その頃では珍しい職場結婚でした。2人で仙台に住みました。太平洋戦争が始まる頃にはおばあちゃんにはすでに4人の子供がいました。女中さんを2人雇って子供の面倒を見てもらっていました。戦争が激しくなってから5番目の子供が生まれました。その頃は女中さんも雇えなくなり、学校の先生方とお金を出し合って保母さんを雇い学校の宿直室で子供たちの面倒を見てもらいました。戦争が激しくなり保母さんも来なくなり、子供の面倒を見てくれる人がいなくなりました。あちこち捜し歩き保母さんをその日ごとに頼み子供の面倒を見てもらったそうです。 昭和20年根白石に疎開しました。仙台の家は空襲で焼けてしまいました。おじいちゃんは根白石の校長になったので学校の宿直室で生活していたそうです。その時、学校の宿直室で生まれた第6番目の子供が私の母だったのです。戦争が終わったばかりの頃一番困ったのは食べ物でした。明治の頃から飢饉の時にと蓄えておいたカサカサの古い米を搗いて食べさせたこともあったそうです。おじいちゃんの立派な仙台平の袴も米に変わりました。食べるものがなくアヒルを飼って卵を食べたり、ヤギを飼って乳を飲んだりしました。一番上のおばちゃんも大学を受ける勉強をしていましたがツブ拾いをして食べ物を集めたということです。2年後おじいちゃんの仕事のため今の所に引っ越しました。当時校長先生の奥さんが働いている時は、どちらか一人がやめなければならなくて、おばあちゃんは学校の先生を辞めました。その時母を除いて5人とも学生でした。母が小学校に入学していた時には、小4、中1、高1、短大1、大学4年と子供たちみんな学校に入っていました。食べていく事が出来なくなって、おばあちゃんは学習塾をはじめました。学習塾は母が大学を卒業するまでの6年間続けました。おばあちゃんは「うちには財産がないから学校に入って自分で生きていく力を身につけなさい」と私の母に言ったことがあったそうです。おばあちゃんから聴いた話の中でこのことが一番心に残りました。おばあちゃんが学んだ学問は立派におばあちゃんの生きる支えになって役立ってきたのでした。だからおばあちゃんは子供たち皆にも学校にいれて勉強させたのだと思います。 子供が自分たちの力で生活できるようになると、おばあちゃんは民謡を習い始めました。それまでは大きな声が出るとは自分でも思わなかったそうです。喜寿を祝う会ではびっくりするほど若い声で白虎隊を歌いました。また十年前から短歌を作る会に入り本におばあちゃんの短歌が載ったそうです。5年前から万葉集を勉強する万葉の会に入り、1ヶ月に2回仙台に通い勉強しています。今はおじいちゃんが残したいろいろな文をまとめたり、自分の思い出を書いているそうです。 このおばあちゃんの70年間をまとめてみて、おばあちゃんは私の知らないところでずいぶん苦労していたんだなあと思いました。私の母が根白石で生まれたことも、今回初めて知りました。母もおばあちゃんの話を私より熱心に聴いていました。 昔の話をしてくれるおばあちゃんの姿を見ながら私は遠い昔のおばあちゃんやおじいちゃんの苦労がわかったような気がしました。もうおじいちゃんは亡くなっていない分おばあちゃんには元気で民謡や短歌に取り組み続けてほしいと願いました。 (1986年作文宮城)
2007年01月25日
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義母が亡くなりました。享年97歳(数え99歳)です。4年前に妻の書いた母への思いです。子供たちが小学生の頃、妻の入院中は、家に来て数ヶ月間、子供立ちのお世話をしていただきました。お世話になったお母さんへ、この言葉を奉げます。「北の国から」狩勝峠を越えて さだこさんは、今93歳。私の母です。85歳で胃を全部摘出したので体は細くなり歩く力も弱くなりました。以前のように家事もこなせなくなり家族のために何も出来ないと嘆いたりします。喜びも苦しみも共にした夫は21年前に他界。仲の良い友達もこの世を去りました。まだ耳も目も健在で1日の大半を本を読んで過ごしていますが、時々自分ではどうすることもできない寂しさと無力感が押し寄せてくるようです。 何とかさだこさんに元気になっもらいたい!そう思っていた時、テレビで「北の国から」の総集編が放映されました。 凄い雪のシーン、 凍てつく大地。あの舞台は富良野。さだこさんは更に東の阿寒育ち。今から80年前、さだこさんは仙台の師範学校を受験するため冬の「狩勝峠」を越えて来ました。当時13歳。まだトンネルはなくスイッチバックでD51が蒸気を吐いて険しい峠をジグザグに登って行くのです。見下ろすと機関車ごと谷底に落っこちてしまいそうな恐怖と凍てつく大地が重なり合い、今でも思い出すと胸を締め付けられ体が震えるそうです。 さだこさんの人生は『狩勝峠越え』そのものでした。昭和初期、教師の職場結婚は許されないことでしたが、障碍を乗り越え結婚。仙台空襲では全てを焼かれ、疎開生活。共働きをしながら6人の子供を育て、夫の大病に何度も遭遇しました。その度に歯を食いしばって頑張ってきました。 ずっと胸にしまいこんで忘れていた狩勝峠。それからというもの、自分が落ち込んでいると気づいた時は、狩勝峠を越えてきたことを思い出し自分を奮い立たせているのだそうです。 さだこさんの生きる姿を見つめながら、私が老いる日、さだこさんのような「狩勝峠越え」の体験はないけれど、自分を奮い立たせるものを捜しながらこれからの生き方を考えていこうと思っています。(母親に関する新聞社の投稿記事用に書いたものですが、採用されずにそのままになっていました)
2007年01月21日
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今年は例年になく暖かです。近くの公園の桜の花が一輪咲いたそうです。道端に咲いていた花です。タンポポモミジバヒメオドリコソウオオイヌノフグリ
2007年01月18日
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今日1月17日は12年前の早朝に起こった「阪神・淡路大震災」の教訓をもとに制定された「防災とボランティアの日」です。 (関東大震災の9月1日「防災の日」)------------------------------------------------------阪神・淡路大震災 1995年1月17日 午前5時46分 犠牲者 6436人 全半壊(焼失)家屋 47万世帯 一昨年までに 被災者の住む仮設住宅の孤独死 233人 災害復興公営住宅での孤独死 251人(自殺32人)------------------------------------------------------尊い命を犠牲にされた方のご冥福を心からお祈りいたします。愛する人を失った悲しみは12年たった今でもけして忘れることは出来ないだろうと思います。こんな悲しみを繰り返すことのないようにすることが残されたものの責務だと思います。宮城県もここ数十年の間に大地震が起こる可能性が90%以上であるのに対策がすすんでいるとはいえません。戦争は人間の英知で避けることが出来ますが、自然災害は避けることが出来ません。少しでも被害が少なくてすむような対策をとって欲しいです。これは10年前に南三陸のアンモナイトの化石を採集した近くの川原で偶然見つけた大地震の化石です。これだけの痕跡が残るのですからさすがの恐竜もひっくり返るような、さぞかし大きな地震ではなかったかと想像されます。私の唯一つのお宝です。
2007年01月17日
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今日、化女沼の近くの田んぼでヒシクイを見つけました。 (ガンの仲間とはマガン、ヒシクイ、オオヒシクイです)オオヒシクイとヒシクイはとてもよく似ていて、区別が難しいです。たぶん以下の特徴からヒシクイだと思います。白い標識が首についていました。警戒心が強いので車の中からの撮影(望遠400、800ミリ手持ち)です。ヒシクイとオオヒシクイオオヒシクイは首とクチバシが長く、額からクチバシにかけ滑らか。ヒシクイは首とクチバシが短く、額からクチバシにかけ曲がっている。首とクチバシの短いヒシクイは、地面に生える短い草を食べ、首とクチバシの長いオオヒシクイは、水生植物や泥の中の植物を食べる。オオヒシクイは沼にいるので「ヌマタロウ」とも呼んでいた。ヒシクイはマガンと同じく餌を求めて飛び立ち「オカヒシクイ」の名前がついています。先日の宮城県のガン、カモ調査では、伊豆沼、蕪栗沼を中心に以下だそうです。ガン 104,590羽カモ 77,066羽白鳥 104,590羽ガンは30年前1000羽だったのにここ3年間は10万羽を超え、激増しています。これも地球温暖化によるらしいですが、こんなに一極集中することは危険な面があります。悪い病気が流行ると全滅の危機に襲われます。蕪栗沼周辺の水田では集中を避けるために水田に水を張って分散化をはかっています。
2007年01月16日
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今日の宮内庁で行われた歌会始の題は『月』でした。私は歌を作れないので万葉集の中にある月の歌です。昔、夜の明かりは月や星だけだったので、月を読んだ歌がたくさんありました。万葉集1 (日本古典文学大系4)岩波書店 から相聞歌を選び出しました。私の目に留まったものです、他にもいっぱいあります。( )は私のかってで、不確かな訳です。目には見て手には取らえぬ 月の内の 楓のごとき 妹をいかにせむ (目には見えるのにとらえどころのないあなたをどうしたら…)ぬばたまの その世の月夜 今日までに我は忘れず 間なくし思へば (あの夜の月はずーと思っていたので私はけして忘れていません)夕闇は路たづたづし 月待ちて行かせわが背子 その間にも見む (夕闇は歩きづらいです。月が出てから行きなさい。その間だけでも)み空行く月の光に ただ一目あひ見し人の 夢に見ゆる (月の光に一目見たあの人を夢に見た)北山にたなびく雲の青雲の 星離(さか)り行き月を離りて (雲が星を離れ、月を離れるように私のもとから去っていった)月夜の光に来ませ あしひきの山き隔りて 遠からなくに (月の夜、遠くないんですから来ませんか)月夜の光は清く照らせれど 惑ふ情に 思ひあへなくに (月の光は清らかですが私は行くかどうか迷っています)月を見ながら、愛の言葉を交換した万葉人の時代を思い浮かべてみました。
2007年01月15日
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最近起こっている特異な事件を考えるとき、皆が納得するような理屈で物事を説明することは危険であると思います。外から客観的大局的に見るのと、当事者が狭い範囲で自分の目の前のことを考えることには大きな差があり、当事者すらも説明できないものがあるように思います。「目の前にある現象が自分の知っている様々なメカニズムの組み合わせに還元できると思うのは予断である」キュリー夫人の自然研究についての言葉ですが、もっと複雑な人間の行動ではなおさらです。私たちの勝手な予断をもたずに真実に迫ることは難しいことです。ただ特殊な個人の特殊な行動と考えてはならないように思います。社会のあり方、社会のありようがこのような事件を引き起こしている面があることを考えておくことが必要です。暮れに自費出版した義父の本の一説「ある日の師範附属学校教室の出来事」思い出 四 (恐ろしい一幕) 昭和16年12月8日未明、大東亜戦争の幕が切って落とされ、毎月、8の日には必ず全校生徒をあげて大崎八幡さまに戦勝祈願に出かけました。寒い朝でした。その日もやはり校庭に集まって主事先生の話をきいて、それから列を整えて大崎八幡に戦勝祈願に出かけました。ストーブには、火を入れていましたので、一人は火を守るために当番を一人残していくことになっていました。 大崎八幡さまは近いといってもたっぷり一時間はかかりました。帰ってきて、すぐ授業、やがてお昼ということになりました。お弁当を開いて「いただきます」一斉に待ちかねていたご飯をいただきにかかりました。すると間もなく、高等二年のYという子が私のところへお弁当を持って来ました。そして「先生、私の弁当に・・・。」といって、私の顔を見守っています。見ると、この子の弁当のご飯の中に、異様なものがまじっています。箸でかき分けて見ると、ポロリポロリと銀色に光る玉がたくさん転がりでてきます。それは水銀であることがすぐわかりました。私はびっくりしました。Yを連れて職員室に来ました。そして、そこに居合わせた先生と一緒に衛生室にいって、指を口の中に入れさせたり、背中をさすったりして、子どもを激励させながら、食べたものを全部吐かせました。誰が一体、この子のお弁当に水銀を入れたのだろうか、他の先生のお知恵をおかりしながら、一人一人とり調べました。恐ろしいことでした。いくら考えても、誰かが毒殺を図ったーとしか考えられませんでした。残念ながら、一応、子どもたちの一人一人を疑ってみて、一人一人とり調べてみるより他に途はありませんでした。あれほどまでにうまくいっておった学級も目茶苦茶でした。 ついに、嫌疑は一人の子どもに絞られました。夕刻になって、もう暮れかかってから、この子は自白しました。ストーブを守っていた子でした。犯行の動機は「このYさんさえいなければ、成績の順からして、自らが師範に入ることができる。」と考えてのことでした。このクラスからは、年々7,8名は師範に合格していました。 それを超えるということは、年々の実績から困難のように考えたこの子は、自らの、このクラスにおかれる成績順からして、「Yさんさえいなければ・・。」と考えたわけです。しのぎを削っての入試勉強の悲劇です。特に内申書を重んずるようになった当時の入試制度がもたらした一つの事件でした。 この事件の後始末は大変でした。知らせまいとしても直観の鋭い、青年初期の、この子どもたちの眼を覆うことはできませんでした。対策の一つとして、ご飯の中に混入しておったのは、「一見、毒物の如く、しらべてみたら毒物ではなかった。」ということにして、一応その場を濁しました。幸いにして賢明なクラスの子どもたちは平気を装い、このことから遠ざかり、ついに忘れてくれました。 (略)補足(追加)こんな処理をしたら、今だったら大問題ですね。処置について疑問が出されました。続きの文を追加しました。この子の父は、ある学校の主席訓導でした。娘をかばい、私に、ある種の圧を掛けて来たりしました。当時の附属の先生方は、受け持ちである私を責めませんでした。そして、心密かに、入試制度のもたらす一つの悲劇と考えておったのではないか。そして、対処療法的な立場で、毒をもったこの子が、これ以上損なわれることのないように配慮すべきであるとして、私に同情し協力してくださいました。今も昔も、時分の目の前のことを解決することだけに目がいって、それによって引き起こされるであろう周りのことが見えないようです。
2007年01月13日
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友人で心理療法の仕事をしているS.Hさんから昨年暮れに1冊の本を贈られました。今までの自分の歩みをまとめたものです。その中に書かれていたプラシボ効果に興味を持ちました。プラシボ(プラセボ)効果 Placebo 「信じるものは救われる」「効き目がある」と信じることにより、「偽せ薬」で病気が治ることです。 新薬の効果を調べる際にも利用されるそうです。『病は気から』の精神と肉体は密接な関係にあるということでしょう。脳と自律神経(交感神経と副交感神経)との連携で生じる効果です。人間には自己治癒力(自然治癒)があり、その原動力は『信じること』です。* 絶対に効かない治療法はない。信念だけでも直ることがある。* その治療法を信じる度合いにより効き方が異なる。* 精神が抵抗すれば治療による効果は出にくい。高い化粧品、高いサプリメントは安いものより効果があるように見えるだけかもしれませんね。高価なワインも高価なゆえにおいしく感じるだけかもしれません。占いもそれを信じることにより実現へのエネルギーが湧き上がるのかもしれません。兄弟の中で私だけ子供の頃、手足にいっぱいのイボがありました。運動会で手を繋ぐときに皆に嫌がられました。これがとても悩みの種でした。あるときイボを直す名人と言う方を母親が連れてきて、怪しげな呪術を ……なんとなんと いつの間にかイボが消えたんですね。「信じるものは救われる」と言うことでしょうか。どんな場面においても、相手を信じさせるようなパーフォーマンスや人間関係を持つことなしには、どんな効果も期待できないのかもしれません。ただし悪意ある人に悪用されて騙されないようにしたいものですね。
2007年01月12日
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今年初めて江合川に行ってみました。人の餌をあてにしたカモやハクチョウたちが、人の姿を追いかけていました。オオハクチョウ、オナガカモヒドリガモとオナガカモが混在しています。オスは頭が赤茶色ですからすぐわかりますが、メスもクチバシは短く、羽の色が濃いのでオナガカモと区別できます。
2007年01月11日
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今年の冬はじめて雪が積もりましたが、日中の暖かさでだいぶ消えました。積もった雪の間から赤い実が顔をのぞかせていました。万両、千両に対してジュウリョウ十両だそうですが、冬の雪の中の、この赤い実に億両とでも名づけたいものだと思いました。庭に植えたわけでもないのに、いつのまにか群生していました。小鳥たちが種を運んでくれたのでしょうか。ヤブコウジ(藪柑子) ヤブコウジ科 ジュウリョウ十両、ヤマタチバナ山橘マンリョウは同じ仲間ですが、センリョウは科が違います。赤い実や緑の葉を山のミカンに見立てた名前です。「万葉集」では、ヤマタチバナ山橘。(この方が響きがいいですね)あしひきの 山橘の色に出でよ 語らひ継ぎて 逢うこともあらむ (気持ちをはっきり出して、自由に会って話もしましょう)寒い冬にも、緑の葉と赤い実をつけるヤマタチバナ正月の飾りとしたイニシエ人の心に思いを寄せました。薬草(紫金牛)としても使われます。(解毒、のど、化膿、せきなど)(すみません。これも昨年ブログに載せた内容です)
2007年01月09日
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先日NHKのラジオでイノシシの生態についての話がありました。興味ある内容でしたのでその話の内容と少し調べたことです。イノシシ 偶蹄目(ウシ目) イノシシ科*【人里にいた身近な動物】 猪鹿蝶(イノシカチョウ)、「もののけ姫」 ライオン・キングにもイボイノシシが出てきます。 イボイノシシは前足を折り曲げて地面の草を食べます。*【高い繁殖力】春に4~5頭を出産し、そのうちの半数ほどが育ちます。 (たいていの動物は1匹だけ残すだけです。)*【単独行動】群れは母と子供。成熟したオスは単独行動*【食べられないくらいに恋焦がれるオス】 雄は長い繁殖期間中(12月頃から約2か月間)ほとんど餌を摂らずに メス(発情は約3日)を求めて奔走し、春が来る頃にはかなりやせ細ります。*【温和で頭の良い動物】臆病で神経質。嗅覚は犬並みです。 猪突猛進とはチョット盲信かもしれません。脅かされない限り走りません。*【植物を中心にした雑食】 地中にある動植物(クズの根、タケノコ、ミミズなど) 果実やドングリ、クリ、昆虫、カエル、ヘビ、カニ、ウサギ
2007年01月08日
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過疎の町では、たくさんのコメントを頂きありがとうございました。たぶん特殊の例ではなく、どこにでもあるよくある話しなのでしょう。最近TVで話題になることが自分の身近なところにもあったと言うことで紹介しました。今日のNHKでの風林火山を見て、私のいる所は甲斐と信濃の境です。近くには風林火山の舞台となった古戦場があります。私は高校に通うために毎日『血が原』を通って駅まで行きました。合戦で亡くなった人を想像しながら夜道を歩くのはいい気持ちはしませんでした。近くを流れる川は『武血川』、死んだ人を9つの穴に埋めたと言う『九つ塚』、『登矢ヶ峰』などの史跡が残っていました。今はどうなったのでしょうか。知る人も少なくなったでしょうか。私のいる場所はもともとは信玄の領地で輿入れの化粧料として信濃にくれた所です。地形的には全く甲斐です。(NHKも甲府放送が入ります)そのときから信濃になったのです。今から私のいる故郷が放映されるでしょう。
2007年01月07日
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1週間ぶりに我が家に帰ってきました。長野の生活は、別な世界の出来事だったような気持ちです。ちょっとこれを書くのは気が重いですが、あえて書きました。過疎の町のわが故郷のこと私の家に隣接して村役場、学校、病院のあった村の中心地でした。私が中学生の頃に村が合併して町になりました。130年の歴史を持つ小・中学校は、私のときで同級生が64人いました。今は6学年で70人程度です。同級生もみなこの地を離れ、残っているのは母のような一人暮らしのおばあさんばかりです。通勤バスも走らず(町の予約バスあり)病院も店もありません。今のままだと遠からず猿やシカの楽園になりそうです。 (家の窓から猿が覗いたそうです)1)川の堰堤、堤防前日の写真で、昔は富士川の上流のこの川は幅が倍あったのですが左の山梨県が半分埋め立てて耕作地にしました。長野県はそのままでした。おかげで川沿いの我が家は子供の頃より半分近く崩れて川になりました。高い崖になっている長野県側の方が切実だったのに政治力の差なのでしょうか?信玄堤で有名な信玄は幅の広い川で川の氾濫を治めたのですがね。川の上流には次から次と堰堤が造られましたが、全て土砂で埋まっています。2)工業団地昔は自給自足で畑で色々な作物を作っていましたが今は作る人がいません。高速道路脇の山の中に工業団地が出来ることになり、皆喜んで売りました。我が家は少しだけでしたが、広い土地を持っていた方には……過疎のこの町にも突然、土地成金が出現しました。しばらくは工場は建てられそうにもありません。3)長さ600メートル幅10メートルの巨大な大橋わが町の八ヶ岳のふもとに大きな橋が昨年出来ました。開通式には田中知事もかけつけ唖然としたとか。近くには高速道路も別にあり、走る車もまばらです。
2007年01月06日
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1週間過ごした生まれ故郷から、今日、宮城に戻ります。夕方には到着の予定です。私の家の窓から見える風景です。この山並みが、私が子供の頃、毎日見て過ごした故郷の山々です。南アルプスの一番北端にあたります。正面の山のスズラン山1955mに登ると、八ヶ岳・南アルプス・北アルプス中央アルプス・大菩薩、奥秩父まで(諏訪湖・御岳山・乗鞍岳・霧ヶ峰)見える360度の大パノラマが広がります。槍ヶ岳の槍もきれいに見えます。(駅からバス30分+歩き30分です。晴れた日にね)川を挟んで左側が甲州(山梨県)右側が信州(長野県)です。流れる川は富士川の上流です。この川沿いの国道20号(甲州街道)沿いの集落(右端)に私の家があります。富士山もこの谷間からぬけ少し上に出ると、この程度には見えます。
2007年01月04日
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新春にふさわしいおめでたい花です。あやかりたい方は挿し木で簡単に殖やせるそうですから、殖やして売ればカネニナルキです(~_~)いま2つの鉢に植えられたカネノナルキが満開です。これだけ大きく見事に咲くのも珍しいです。これは義姉さんが丹精こめて育てたものです。今咲いている花はこれだけです。意外に思う人が多いですが、南アフリカ原産で冬に開花します。南アフリカは雨が少なく寒暖の差が大きいので環境の変化に強いのでしょうか。黄金花月 金のなる木 ベンケイソウ科 クラッスラ多肉質の観葉植物で、乾燥や寒さにも強く育てやすいです。
2007年01月03日
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今年は例年になく暖かなお正月です。道路の雪も全て溶けています。人影はもちろんですが、家の前の国道20号(甲州街道)を走る車も例年になく、少ないように感じます。庭の福寿草が蕾をふくらせ始めました。3月になると庭一面に福寿草の黄色い花で敷き詰められます。日当たりの良い庭の雪解けの合間から花を開いた福寿草です。元旦草といわれるだけありますね。こちらで、この時季にこれだけ花が開くのは初めてのような気がします。福寿草 キンポウゲ科。(元日草、福神草、長寿菊、賀正蘭など)春一番に花が咲き、冨と栄光と幸せの象徴。根と茎は有毒で、病魔よけにも使われるとか。花言葉は思い出、永久の幸福ということで、皆様方に様々なお言葉を頂いた思い出に感謝しながら皆様方の永久の幸福を祈っています。
2007年01月02日
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イノシシ 偶蹄目 イノシシ科* 食べ物 草食性 植物の地下茎、果実、タケノコ、 昆虫類、ミミズ、サワガニ、ヘビなど 稀に鳥類やウサギなども捕食* 蹄をもつ有蹄動物は約6,000万年前に2つに分かれました 90%は偶蹄目で2つに割れた蹄を持ちます。 牛、鹿、カバ、猪、豚、ラクダ、キリン、山羊、羊 奇蹄目はサイ科、ウマ科 、バク科だけです。子供の頃にはミミズ(薬)こそ食べませんが、後のものはみな食べていました。本来人間もこんな食性ではなかったかと?牛と馬は似ているようですが種類としては相当違っているんですね。 イボイノシシ チョベ国立公園(ボツワナ)にて
2007年01月01日
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