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梅林寺の奥の有馬家霊屋に来ました。33.323943, 130.499574最初に梅林院霊屋霊屋の説明の為に、パンフを。マップの12のA,Bのところです。霊屋を囲んで、親族・家臣の墓でしょうか?
2021.07.31
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市民病院の前を通りました。道路と同じレベルまで削られました。相当の土砂が出たんでしょう。左上の森「本村館跡」は残る様ですが、ギリギリまで削られます。以前、遺跡発掘で報告した部分は、もう削られてしまいました。道路の花壇です。企業局、一紡、荒尾作業所、第一製網などが花壇をつないています。
2021.07.30
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梅林寺に来ました。33.322523, 130.500077立派なお寺です。久留米・有馬氏の菩提寺です。江南山梅林寺: 筑後川の清流に臨む、臨済宗妙心寺派の古刹で九州で代表的な修行道場として知られています。本尊は如意輪観世音で、歴代久留米藩の霊廟となっています。寺の起源は、初代藩主有馬豊氏ありまとようじが故地丹波福知山の瑞厳寺を移したもので、 父則頼公の分霊をここに移し、その法号梅林寺殿から寺号を改めました。 南正面には、精巧無比な唐門が威容を見せ、方丈前の石庭の静寂とした、 たたずまいも禅林僧堂ならではの風格を持ち境内の裏山には、 歴代藩主の霊廟や墓塔が静かに立ち並んでいます。ここの寺宝は、600余点を数え「絹本著色釈迦三尊像」の一幅は、 国指定の重要文化財であり、 この他、尾形光琳、長谷川等伯などの絵、加納雨蓬らが描く襖絵なども見られます。隣接の外苑は、梅林の名にふさわしく梅花が風情を競い、市民の憩いの広場としても知られています。梅林寺 (久留米市) - Wikipedia梅林寺[臨済宗妙心寺派][福岡県久留米市]-お寺めぐりの友世代墓:住職の累代が祀られています。十八世が今の最後のようです。
2021.07.30
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久留米城の説明パンフの続きです。そして、展示会の出品リストです。
2021.07.29
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引き続き、久留米城の案内パンフです。
2021.07.28
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引き続き、パンフの照会です。久留米城の紹介です。
2021.07.27
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有馬記念館の展示会に来ました。33.328120, 130.507200「小早川・田中の時代」展です。早速、入場です。展示の写真は禁止でしたので、パンフを掲載します。
2021.07.26
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久留米城跡の小早川神社に来ました。33.328476, 130.508169小早川神社:ご祭神 毛利(小早川)秀包(ひでかね)公:毛利元就の末子として1567年安芸国に出生。初名は元総(もとふさ)。のち兄小早川隆景の養子となる。容姿端麗な美・・(後略)※ここまで読んで、読みにくい字体で頭にきて止める。何でこんな字体を選んだのだ!?そこで、以前の説明文を・・当神社のご祭神は旧久留米城主の毛利秀包公であります。 公は毛利元就の末子として永禄十年(1567)安芸国に出生、初名は元総、一時兄の小早川隆景の養子となったので、小早川神社と称します。 豊臣秀吉に仕え戦功により久留米城主と成りましたが、関ヶ原の戦で西軍に組みした為に領地を失い、本家の領地で慶長六年(1601)に没しました。 秀包公は妻(豊後のキリシタン大名大友宗麟の七女)の引地と共に熱心なキリシタンでしたので、この神社の扉にはアンドレアス十字が刻まれています。十字と言うか、カケル字です。毛利秀包 - Wikipedia有馬氏の神社の先に、ひっそりと保存されています。有馬氏の前の領主の置き土産なのですが、よく保存されました。
2021.07.25
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新九郎坂に来ました。32.88282169083121, 130.56331312545674坂に入る前の道です。坂の中腹に説明板がありました。32.88308297727134, 130.56142485049625新九郎坂: 昔、横島が孤島であったころ(およそ5百年~六百年前)小代一族の武将であった通称「新九郎」という水軍が、この地に本拠を構え、伊倉・高瀬の両港に出入りする商船から案内料や通行料を取り「海賊」と恐れられていた。 本拠地から海辺までの、当時行き来した百五十間(約300m)の坂道を「新九郎坂」と呼んでいる。そして坂の頂上部は、山の上展望公園に来ており、ここにも説明石碑があった。32.88301089833425, 130.56046998396968その石碑に刻まれた説明文は、先程の説明と同じ文章。PS: 250316熊日に載りましたので、追記します。
2021.07.24
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引き続き、展示物です。
2021.07.23
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許可を得て館内の展示品の写真を撮ってきました。あまり説明出来ませんので、拡大して説明をお読み下さい。
2021.07.22
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20日の講演で、講演が延びて質問の時間が無くなりました。質問したい方もいらっしゃった模様です。そこで、このブログのコメントの活用の提案です。例会の実施の記事に、コメントを利用して、質問を投稿して貰えば、講演者につないで回答を得ますので、是非ご利用下さい。コメントが使いずらければ、メールや電話でも結構です。講演の時間に縛られずに、質問出来ます。どうぞ!!ps:質問に限らず、講演の実施に対しては、感想をコメントして頂けると、講演者も励みになります。受講者側のエチケットとして、感想・コメントを投稿する事をお願いします。数年もブログを続けていますが、受講者側の講演への盛り上げ参加が少なすぎます。利益目的の講演会でお客様では有りません。お互いの勉強会です。(資料のコピー代のみ)自分の出来る参加の形を模索して下さい。会を盛り上げて下さい。例えば、「今度の講演、良かった」とか「悪かった」とか。「自分はこんなテーマを聞きたい」とか、「会員相互の交流をしたい」とか・・・意見を下さい。出来るだけ、意見に沿えるようにしたいと考えています。
2021.07.21
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荒木精之の顕彰碑がありました。荒木精之の顕彰碑。荒木精之は明治四十年に菊池に生まれ、日本大学史学科を卒業した後、昭和十三年「日本談義」を創刊したほか、熊本県文化懇話会、熊本県文化協会などを興した人物で、新風連の義烈に感じその顕彰に尽瘁した。そして、いよいよ神風連資料館です。入場券案内パンフレットを貰いました。館長さんのお話しでは、日本の神道の原点がここにあり、憲法の元になった。三島由紀夫もたどり着いたのがこの思想だった。
2021.07.21
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11/16の講演会のテーマを変更します。「大牟田の干拓史」 奥園会員に、変更です。よろしくお願いします。
2021.07.20
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次回・来月の予定です。
2021.07.20
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定例講演会が開催されました。
2021.07.20
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その奥に、誠忠碑があります。 墓地の奥には、肥後勤王党の志士たちの墓が集められている。中央に林桜園の墓。その右には林桜園門下の宮部鼎蔵を中心として同志を結集した肥後勤王党を記念した誠忠碑が建てられている。肥後勤王党は、長州とともに政局を主導していたが、文久三年(1863)の八一八の政変以降、池田屋事件で宮部鼎蔵を失い、蛤御門の変でも大半が討ち死に、或いは天王山で自刃した。以後、目立った活躍は見られなくなった。林桜園 - Wikipedia 同じ墓地に河上彦斎の仮墓もある。河上彦斎も、藩校時習館に学び、やがて林桜園の教えを奉じるようになる。文久二年(1862)細川護美に従って上京し、天下の志士と交わった。元治元年(1864)佐久間象山を斬殺したことでも知られる。その後、藩獄に幽閉されたが、王政復古の大赦によって出獄した。明治三年(1870)には鶴崎有終館館長となるも、再び新政府の忌避に触れて投獄され、明治四年(1871)市ヶ谷監獄にて刑死した。行年三十八。
2021.07.20
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神風連の志士 百二十三士の碑があります。整然と並んでいます。(右)誠忠貫日月 (左)義烈照乾坤 新風連の変では、明治政府の性急な西洋化改革による日本古来の伝統風習の荒廃を憂いた新開大神宮宮司 太田黒伴雄をはじめとする敬神党が決起し熊本鎮台司令官種田政明宅や熊本県令の安岡良亮宅を襲撃したのち、熊本鎮台(熊本城内)に攻め入り砲兵営を制圧し多くの兵士を殺害した。しかし体勢を立て直した政府軍の反撃で敬神党は多くの死者を出し首謀者の太田黒伴雄も銃弾を受け民家へ担ぎ込まれたものの自刃、残る志士も一旦退却して体勢を立て直そうとしたが多くが自刃した。新風連の変に参謀として挙兵に参加した阿部影器の妻 以幾子の墓。夫影器と同じく参謀で参加した石原連四郎の自刃を見届け、その後自らも自決した。辞世の歌は「わが夫のなき魂までよ二世かけてともに渡らん三途の川波」 新風連の変に参加した小篠四兄弟の末弟 小篠源三の愛犬「とら」の墓で『義犬の墓』と呼ばれている。小篠源三は同士とともに谷尾崎山王社で割腹し十八歳という若さで生涯を閉じたが、愛犬のとらは源三の墓前に座り続け餌を与えられても食べず、ついに餓死して主人に殉じたといわれる。奥に、石碑がありました。
2021.07.19
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桜山神社に来ました。32.81525, 130.73251 この神社は白川右岸、337号線沿いに鎮座しています。 入口には左に 「宮部先生 太田黒先生 外百四十四士之墓」碑、右に旧社号標の「桜山祠殿」が立ち、坂道の参道を上がると右に神風連資料館が建ち、更に奥に境内が作られ、妻入りの拝殿、参道に鳥居、流造の本殿が建立されています。 又、誠忠の碑、百二十三士の碑が整然と祀られる様には感動を覚えます。桜山神社は、大正2年に建てられたもので、当所は桜山祠殿と称されました。其の後、昭和23年9月に祠殿から神社へとなったことに伴い桜山神社と称されるようになりました。 神殿の奥には「誠忠之碑」と「百二十三之碑」の二つの碑がたてられており、「誠忠之碑」は維新の際に国難に殉じた肥後勤王党の宮部鼎蔵などの二十三士を祭っており、「百二十三之碑」は、神風連の変にたおれた太田黒伴雄ら百二十三士を祭っています。 また、拝殿の西側には、敬神党二十三士の墓碑と肥後勤王党の育ての親である林桜園の墓があります。 現在は、ここに二百七十八柱の霊が祭られています。宮部鼎蔵の歌碑:宮部鼎蔵 (本名増美、1820生まれ)は、幕末の頃、肥後勤王党の中心人物として活躍した維新の志士です。憂国の志の深かった祖父や勤王党の始祖林桜園の影響を受け、尊皇攘夷の考えを強く持っていました。諸藩の勤王の志士と交流がありましたが、特に長州(山口)の吉田松陰とは深い交わりを持ち、松陰は、鼎蔵のことを「君には忠、友には信、親に孝なり、懇篤剛穀(こんとくごうき)の人」と評し、兄のように慕っていたといわれています。「いざ子供 馬に鞍おけ九重の 御はしの桜 散らぬそのまに」 この歌は、鼎蔵が、熊本を離れ京都に赴く時、まだ幼い子供達を前に尊皇愛国という自らの不退転の決意を詠んだ一首です。この後、鼎蔵は、尊皇攘夷派の勢力回復に力を尽くしましたが、京都の池田屋で新選組の襲撃に遭い自決しました。享年45歳。碑文は、細川護立氏の書で、昭和38年(1963)殉難百年を記念して建てられました。#熊本,#荒尾,#史跡,#史学会,#歴史,#史談会,#熊本市,#神風連,#桜山,#神社
2021.07.18
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バラ園の様子を見に、寄りました。もう、ピークを過ぎたようです。まだまだ、元気な花もあります。誰も居なくて、寂しい感じ、でした。
2021.07.17
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来る7/20の講演会は、予定通り開催出来そうです。 7月20日(火) 6:30~ 中央公民館・視聴覚室 「龍造寺と小代氏の関係」 講師:諸隈会長コロナで中止続きでしたが、やっと開催出来そうです。皆様のご参加、お待ちしております。
2021.07.17
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敬神党・首領 太田黒伴雄先生顕彰碑に来ました。32.74376, 130.64827南区内田町の新開大神宮の境内にあります。敬神党の乱とは、神風連の乱と一緒です。敬神党(けいしんとう)は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった、勤皇党の一派である。太田黒伴雄 - Wikipedia新開大神宮 熊本市南区にある祈りの斎庭 神風連#熊本,#荒尾,#史跡,#史学会,#歴史,#史談会,#熊本市,#神風連,#太田黒,#顕彰
2021.07.17
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西南ノ役 七人組ノ碑:海軍戦死者墓に来ました。32.78506, 130.65946西南ノ役 七人組ノ碑:海軍戦死者墓:明治10年2月21日、清輝艦(国産初の軍艦)が熊本沖に達した。熊本城方面に煙が天に漲っているのを見た井上良馨艦長は、城下の状況を偵察するため、小笠原垣通中尉、坂本俊一少尉と水兵十二名を端艇で松生島(現・熊本市松尾町)に上陸させた。百貫(熊本市松尾町)へ向かう途中、官軍上陸の報に駆け付けた薩軍と遭遇し交戦。その際の戦死者七名がここに眠る。この戦いは、西南の役におけるまさに緒戦であった。周辺は、城山墓地として多くの墓が並ぶ#熊本,#荒尾,#史跡,#史学会,#歴史,#史談会,#熊本市,#西南戦争,#海軍,#7人組
2021.07.16
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薩軍本営跡に来ました。32.7839, 130.69104明治10年、西郷隆盛を擁した薩摩軍が北上し、熊本に入ります。初め川尻に本営を置いた薩摩軍は、鎮台が置かれた熊本城を攻撃するため、城下近くに兵を進めました。その際に、ここ二本木の地も本営のひとつとされました。二本木本営は、二本木神社の西裏手にあった質屋・築地悌四朗方でした。西郷さんは、熊本の井戸水を飲むたびにその美味しさに感激したと伝えられています037.gif西郷さんも、熊本の水にはぞっこんだったんですね#熊本,#荒尾,#史跡,#史学会,#歴史,#史談会,#熊本市,#西南戦争,#薩軍,#本営,#二本木
2021.07.15
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健軍神社の西向かい側の、熊本隊出陣之所に来ました。32.78493, 130.75374明治10(1877)年2月、西南の役で薩軍が立ち上がり熊本に向かうと、九州各地の士族たちも薩軍と提携して政府を倒そうと、一斉に立ち上がりました。中でも熊本では、学校党に属する1400名が、22日早朝、健軍神社に集合して会議を開き、薩軍の熊本城総攻撃の砲声殷々と響く中で挙兵と決しました。同日夕刻、神前に神楽を奏して結成式を行い、池辺吉十郎を隊長に仰ぎ熊本隊と号しました。ここは、同隊が出陣の第一歩を踏み出したところです。(説明看板より)#熊本,#荒尾,#史跡,#史学会,#歴史,#史談会,#熊本市,#西南戦争,#出陣
2021.07.14
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熊本協同隊出陣の地に来ました。32.8108, 130.74383熊本市渡鹿9丁目 東海大熊本キャンパス7号館側保田窪神社(菅原神社)境内側面に刻まれている碑文「西南役に際し、熊本民権党は薩軍に呼応するため、この神前に集結し、宮崎八郎を隊長にえらび、同志四十名が檄を読みあげ出陣した。」案内板には「西南の役(明治10年)に際し、植木学校を中心にまとまっていた熊本民権党は、専制政府を倒すことでは同じ考えだとして、薩軍に呼応することに決した。明治10年2月20日、同志四十名はこの神前に集結して出陣式をあげ、投票で平川惟一を隊長に、宮崎八郎を参謀長にえらび、檄文を読み上げて隊名を「協同隊」と定めた。隊は翌二十一日薩軍本営に入ったが、隊士はのちに400名をこえた。」 とある。菅原神社。鳥居の左手奥にある。
2021.07.13
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引導石に来ました。32.81805, 130.72948寛永17年(1640年)、57歳の時に細川忠利(ほそかわただとし)公より客分として熊本に招かれた宮本武蔵(みやもとむさし)。正保2年(1645年)に62歳で生涯を閉じるまでの5年間を熊本で過ごしました。細川公に与えられた千葉城(ちばじょう)跡の屋敷で息を引き取った武蔵の葬儀は、熊本藩により盛大にとり行われたといわれています。旧国道57号から弓削(ゆげ)に向かう葬儀の途中、禅の道を通じて武蔵と親交の深かった細川家の菩提寺、泰勝寺(たいしょうじ)の二代目和尚・春山和尚が待っていました(泰勝寺の初代和尚・大渕玄弘和尚ではないかという説もあり)。そのとき、棺はいったん参道の石の上に置かれ、和尚が成仏するよう引導を渡すと、にわかに雷鳴が鳴り渡ったと伝えられています。以来、この石は引導石と呼ばれるようになりました。大人3人が両手をまわしたほどの大きな石は、今も国道沿いにひっそりと佇んでいます。(熊本市観光ガイド)
2021.07.12
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丁丑感旧碑に来ました。32.81933, 130.72777丁丑感旧碑(ていちゅうかんきゅうひ)この碑は、西南の役(明治10年)における同志中の戦死者を慎み、旧時を追壊するために、明治18年に熊本隊の生存者たちが手取本町の鎮西館(旧自民党本部)近くに建設したものである。その後、大正12年市電敷設に伴い表道路が拡張されたため、ここ小峰に移された。そのとき左右の二碑『自誓書』と『挙兵終始』が加えられ、当時の熊本隊の総人名をも併せ刻んでいる。
2021.07.11
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佐々友房の墓に来ました。32.81888, 130.72808玉東町吉次峠で勇敢に戦った佐々友房は、熊本市の立田山にある小峯墓地に埋葬されています。明治39年9月53才で亡くなりました。1854年1月、熊本市の内坪井で生まれています。墓は、青山墓地からここへ移転されました。ここは、黒髪の熊本大学東側道路から入ります。明治10年西南戦争で池辺吉十郎と「熊本隊」を組織し、西郷軍に参加し戦いました。後に降伏して監獄に入りましたが、これからの国家を担う青少年の育成が大切であると決意しました。監獄を出た後、同心学舎を開きました。明治12年のことです。この同心学舎が、現在の済々黌高校になります。佐々友房は、政治面でも活躍しました。国権党を組織して第1回帝国議会が開設されると、衆議院議員に選ばれました。
2021.07.10
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隣りにある宮部鼎蔵の墓です。32.81888, 130.72822標柱には、元治元年(1864)六月五日池田屋で、新選組に襲撃され自刃したとある。180514熊本・御船町・鼎春園公園・勤王の志士170321例会・講演・洋式銃開発・南関町・玉名市亀甲
2021.07.09
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神風連副隊長 加屋霽堅(はるかた)の墓に来ました。32.81895, 130.72822お墓の案内がありました。加屋霽堅 - Wikipedia
2021.07.08
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龍口隊長 中津大四郎の碑に来ました。32.81276, 130.72005所在地;熊本市薬園町11-4 久本寺 弘化元年(1844)池田町に生まれる。後に細川藩の馬術師範役となる。明治10年(1877)西南の役に黒髪竜田口方面の同志を集めて龍口隊を結成し、子飼の久本寺(くほんじ)を屯所として主に薩軍に対する食糧の補給につとめた。薩軍が熊本城の包囲を解いて退却すると、ともに各地を転戦した。最後は、長井神社(宮崎県東臼杵郡北川町)付近の山中で自決した。その自決の地については、191117宮崎・延岡市・北川町・中津大四郎自刃の地 九本寺
2021.07.07
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熊本鎮台司令長官 種田政明旧居跡に来ました。32.80389, 130.71975神風連史跡 熊本鎮台司令長官 種田政明旧居跡種田政明は、鹿児島出身の陸軍少将で、東京在任中は、その派手やかな行状から「花の左門さま」と呼ばれていた。明治九年(1876)十月二十四日、熊本鎮台在任中、神風連高津軍記の率いる一隊に襲撃されて落命。時に三十八歳。「旦那ハイケナイ妾(わたし)ハ手傷」はその時愛妾小勝が東京の家許に送った電文であった。その前の川
2021.07.06
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今日も病院建設工事現場を通りました。32.974212, 130.445732相当に丘が崩され、道路と同じ高さとなったところもあります。
2021.07.05
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海を眺めていたら・・・後面に、竜神石祠が在りました。32.9501944,130.435375まだ新しい建立の様です。きっと海の安全を願ってのものだろうと推察します。
2021.07.05
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下樺天神宮に来ました。32.96723, 130.48651説明文を見つけられずにいます。宅地に囲まれてしまっています。この道から正面の歩道を入って行きます。
2021.07.03
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下樺毘沙門堂に来ました。32.96771, 130.48655 ③ 下椛しもかば毘沙門堂 樺字下樺(付図2-105) 下椛集落裏山にある草堂である。主神の毘沙門天木彫は一般の右子持棹、左手に宝塔を捧げ、邪鬼を踏む武装の形である。 地元では火伏せの守護神として崇拝している。堂周辺一帯は中世墓塔が多く存在する。鎌倉時代中期一石五輪塔、元徳4年(1332)銘五輪塔地輪、その他宝塔多数はいま賀庭寺に移され石塔群を構成している。左手の岩にもしめ縄がされている。
2021.07.02
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娑婆神峠の石畳に来た。32.6232, 130.73474枯れ葉が積んでいて、石畳は見えなかった。中へは進まなかった。娑婆神峠の石畳: 昔は小野部田から豊福にかけては山すそまで海だったので、娑婆神峠路が、北へ通ずる幹線ろ路だった。 天正年間以前は人馬も超え難かったのを、鰐瀬(今の城南町)の僧、立善が発願し、里人と協力して石畳の道路を作った。 この峠は、大切な道路であるとともに、位置やけわしさなどから、戦乱の時代には要塞にもなった。 相良18代の義陽が、この峠を超え豊野に入り、響ヶ原で甲斐宗運のため悲運の死を遂げたことは有名である。また、西南の役でも戦場となった。 この娑婆神峠道は昔の薩摩街道にあたる。(しんれい新聞より) 西郷軍に包囲されている熊本城を救うため政府軍は福岡方面から兵を進めます。西郷軍の必死の抵抗に苦戦した政府軍は衝背軍を結成し南からの攻撃も加えました。衝背軍は長崎港から洲口に上陸、北上していきます。それに対抗したのが西郷軍三番大隊の大隊長・永山弥一郎でした。北上させまいと奮戦する西郷軍でしたが多勢に無勢。氷川、小川で政府軍に敗れたため戦場を北に移し松橋、娑婆神峠の守りを固めました。明治10年3月30日午前6時、政府軍・川路利良少将が率いる別働第三旅団が娑婆神峠を守る西郷軍を攻撃。午前11時に娑婆神峠は占領されています。その後、松橋、宇土、川尻などを突破した政府軍は熊本城の窮地を救いました。
2021.07.01
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