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向田地蔵堂に来ました。32.94134, 130.50318(31)金山かなやまの堂宇どうう 金山は野原荘時代以来の古い村落で、名田屋敷の遺構が多く残っている。 八郎丸の小名をもつ屋敷跡には土塁、空堀の痕跡を残さぬが、村本、前田、野田の7家が、 9尺2間の薬師堂(付図2-75)を護っている。堂内の薬師仏は江戸時代中期の彫作で、総高 27cm、享保2年(1717)8月8日、彩色したとされている。 八郎丸屋敷の南、向田の水田のなかにある地蔵堂(付図2-74)は、13戸程の地蔵講衆の奉 仕になるもので堂内には破損した石地蔵が安置され、大正6年高瀬町仏師浅沼勝治が採色した としてあるが、この墨書の間に薄く、天保6年(1835)9月仏師金幸之進加彩色したとしてある。 このほか、金山縫製株式会社南の大辻屋敷にも うえがた観音堂(付図2-71)があり、多量 の中世五輪塔の集積が見られ、金山地方中世名主屋敷の持払堂跡の印象がもたれる。 金山共同墓地には力士白山弥助、文化14年(1817)10月4日の墓石(付図2-72)がある。部落の人と話したら、「鳥の被害で、網で覆っている」とのことだった。
2021.08.31
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力士の墓石 付近に来ました。32.94214, 130.49963(31)金山かなやまの堂宇どうう 金山は野原荘時代以来の古い村落で、名田屋敷の遺構が多く残っている。 八郎丸の小名をもつ屋敷跡には土塁、空堀の痕跡を残さぬが、村本、前田、野田の7家が、9尺2間の薬師堂(付図2-75)を護っている。堂内の薬師仏は江戸時代中期の彫作で、総高27cm、享保2年(1717)8月8日、彩色したとされている。 八郎丸屋敷の南、向田の水田のなかにある地蔵堂(付図2-74)は、13戸程の地蔵講衆の奉仕になるもので堂内には破損した石地蔵が安置され、大正6年高瀬町仏師浅沼勝治が採色したとしてあるが、この墨書の間に薄く、天保6年(1835)9月仏師金幸之進加彩色したとしてある。 このほか、金山縫製株式会社南の大辻屋敷にも うえがた観音堂(付図2-71)があり、多量の中世五輪塔の集積が見られ、金山地方中世名主屋敷の持払堂跡の印象がもたれる。 金山共同墓地には力士白山弥助、文化14年(1817)10月4日の墓石(付図2-72)がある。写真が「金山共同墓地」だろうと思うが、どれが「力士の墓」か、わからなかった。
2021.08.30
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金山天満宮・地神宮に来ました。32.9455, 130.50271 (3)金山天満宮 金山字雨堤(付図2-69) 社殿は神殿入母屋造り、平入り、拝殿は入母屋造り妻人り、祭神は菅原道真。社歴、縁起は詳らかではない。一説によると高倉天皇の嘉応元年(1169)の秋太宰府天満宮を分祀したという。 社前の石鳥居、狛犬、石燈籠などをみると、銅婚、銀婚、金婚、厄靖れに奉納したものである。また、社殿に保管されている花火筒は、村祭りを楽しんだ良き時代の遺品であり、ともに氏子の産土神社崇拝の様子が偲ばれる。(4)金山地区の地神宮 金山犬満宮境内(付図2-69)、金比羅山中腹(付図2-79)にそれぞれ1基ずつ、花崗岩の自然石に大きなシメ縄をはった地神宮石をみる。
2021.08.29
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金山・首塚のあたりに来ました。32.94836, 130.50211個人のお宅なので、前の道路からの写真にとどめました。⑤首塚 金山字雨堤(付図2-67) 市営バス停「金山」近くの宮坂利春氏の前庭がそれである。地元では「首塚」と称している。西南戦争(明治10年)時の戦死者の首を葬った塚と伝える。周辺が削平されているので元状は示しえないが現況の数値を示せば径約3m、高さ80cm、遺物等の出、土なしという。未調査であるので未確認であるが、周辺には土師器の散布もみられ、古墳である可能性も否定できない。 何ですって・・西南戦争の時の??聞いてたのは、大野氏との金山原の戦いの首塚の様な話しだったが???場所違いで、近くに在るのかな??
2021.08.28
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建長の塔に来ました。32.94498, 130.53443建長二年銘宝塔(虎御前の塔)です。建長の塔: この塔は、地元では昔から「虎御前の塔」と呼ばれ、建久のころ曽我十郎?の寵愛を受けた虎御前が、兄弟没後その供養のため各地を?った際この地にて建てたものであると伝えられている。 (後略)日吉神社の手前、毘沙門天の三叉路を左に入り、数分歩くと、案内板がありました。左の道に入ると、すぐ左上に入るところがあります。
2021.08.27
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鉄太の墓に来ました。32.92517, 130.57701大倉団地の上の細い路地から畑の中にあります。高瀬出身の木村鉄太は、若くして江戸へ出て、洋学や航海術を学んだ。万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書交換のため幕府がワシントンへ派遣した日本最初の外交使節団に通訳として随行した。 一行は、新見豊前守正興を正史とする総勢76名で、1月18日横浜から米艦ポーハタン号で出航、米国各地で大歓迎を受け、大統領と謁見し大任を果たした。その後一行は、米艦ナイアガラ号で大西洋を横断し、喜望峰・東南アジアを巡って9月28日帰国した。こうして木村鉄太は日本人初の世界一周を成し遂げた。 帰国後は2年足らずで病に侵され、わずか34歳の若さでこの世を去った。 彼の著書「航米記」は、詳細なスケッチを入れ、外国の風俗文化に対する素朴な感動を率直に記述してあり、最高の傑作と賞賛された。本が出ています。お読み下さい。
2021.08.26
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石仏・地神宮に来ました。32.97087, 130.51275 ⑩ 石佛いしぼとけ(花見坂石碑) 樺字讃岐平(付図2-124) 上椛金比羅宮の所在する一帯の台地を地元では讃岐平、七ヶ原(ひちがはる)とよび、その間の爪先登りの坂道を花見坂といっている。 花見坂を登りつめた峠の上に、周囲を石で囲った祠がある。20m2程の掃き清められた敷地の奥に平石を5段積み、上に3基の自然石をたてて祀る。人々はここを「石佛さん」と崇め、この一帯の字地名にもなっている。 石佛さんの由来について知る人は少ないので何とも書く術はない。按ずるに、花見坂をぐみざかという意もわからぬが「軍見坂」ではあるまいか。この一帯は西郷の小代氏と東郷の大野氏勢力の紛争地であったところで、戦歿者の霊位を住民が弔ったところとも考えられる。 ローリングする台地は蜜柑畑に変じ、石佛さんはその中央部を占めた位置にあり、人々の崇拝の中心になっている。周囲は清掃してあり、地元の方の努力が感じられる。海行原からの雲仙遠景(涅槃像)
2021.08.25
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海行原金比羅宮に来ました。32.97018, 130.5088(41)海行原かいごばる金比羅宮 樺字讃岐平(付図2-125) 海行原集落はずれの丘阜上にある。神像は火焔光背を負い、羽毛はねを拡げ両脚を踏ん張った天狗の像容である(図版8(1))。高さ37cm、「明治十七年申九月上旬 奉彩色 高瀬町東直七」とあるが、創建年代、勧請の由来等は不詳である。 神社境内特有の鳥居、狛犬、石燈籠、石段等の奉献物に、布哇はわい移民団一同36名等がみられ、明治、大正期の住民生活史の一部が窺い知られる。右から布・哇・国の刻字。ハワイと読む。
2021.08.24
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市民病院の工事現場です。左の森が「本村館跡」です。保存されるようです。右のユンボの辺りが、弥生時代の遺跡だったところだと思います。すっかり土砂が崩されて、前の道路と同じレベルになりました。クレーンが出て、穴掘り?でしょうか。そういえば、Gマップの航空写真は、もう変わっているのかな?まだ、工事前の写真でした。貴重な写真になるかも?記録しておきましょう!
2021.08.23
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いま、会長と電話打ち合わせで、来月の講演会は、中止します。コロナで、会場が荒尾市民のみと制限がかかった為です。10月は出来る様になりたいものです。--荒尾史学会 https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/
2021.08.23
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西島家墓碑(推定)に来ました。32.96892, 130.48635(38)西島家墓碑銘 樺字乱塔(付図2-106) 共同墓地に、「伊勢同行」と記した西島家の共同納骨堂がある。 河野一道 河野道哲 川部孫三良 川部政平 門田権平 門田伝太 南部七蔵 荒木安八 門田政彦 西島又次郎 河部源一郎 西島勝平の12人の名が連記される。これは一行が伊勢詣の諸衆で、明治26年4月伊勢詣りを行なったことを示す。下椛の西島勝氏所蔵文書や、参宮記念に賀庭寺に奉納した絵馬に伊勢紀行のあらましが誌るされてある。石碑を見ても、刻字が見られない。説明と合うのか疑問。近くに、新しい墓所があり、西島家との刻字がある。こちらに移されたのか?
2021.08.23
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小岱山の撮影スポット、八幡台の外れからです。山の形が良く判ります。小岱山しょうだいさん・つつがたけ小岱山 荒尾市
2021.08.22
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桜山・山の神に来ました。32.96479, 130.4627桜山の信号のところ、ファミマの裏にあります。 (4)桜山さくらやま山の神祠かみし 一部字山浦(付図2-18) 桜山団地の東の一郭に、玉垣をめぐらしたなかに安置されてある。石室の側壁には「奉寄進 御山口 徳助 文久二年(1862)ロ月二十七日」と彫ってある。以前「五力村 再建」とした側壁があったので、5力村共立の祠である。 昔は、深い雑木山の中にあって山を護っていた山の神も、蜃気楼のように現出した数干戸の桜山団地の守護神として鎮座し、住民の厚い信仰をうけている。このエリアには史跡が無くて、こちらが唯一です。桜山団地が出来るまで、人も住まず、畑も無く、森のままの土地だったようです9
2021.08.21
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地神宮・恵比須堂に来ました。32.97301, 130.49682(42)樺恵比須堂えびすどう 樺字新導しんず(付図2-134) 池の塘の南、三池往還より海行原にむかう分岐点にある。 堂内に石造恵比須神があり、堂前に自然石の地神宮がまつられている。
2021.08.20
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御用宅・虚空蔵堂・宝塔残欠に来ました。32.97064, 130.50057(34)御用宅 樺字塚ノ前(付図2-131) 榎原より海行原に通ずる小径の西側一帯は、明治2年、熊本の蘭法医寺倉秋堤が洋式採掘法による石炭業を始めた所である。 これより南の石垣を繞らした丘阜一帯の蜜柑畑は、「御用宅」とよばれている。御用宅は惣庄屋の役宅の総称である。寛永12年(1635)7月から、寛文4年(1664)までこの地方には府本源左衛門手永が存在していたはず。ここがその手永会所の御用宅ではないかとも考えられる。土地所有者の中平1241、硯川徳彰氏方にはそれを裏付ける資料は何一つない。 字地名「塚の前」の塚は、ここに古墳があるといわれ、この墳丘に虚空蔵尊を祭祀する。尊像は一木作りの小像、石室の壁面に「嘉永三年(1850)戌六月廿三日」の原銘と、「昭和五年一月増設記念、中平氏子一同 木原重松 荒木安太 宗力平 二月十三日祭」の追刻銘がしるしてある。 石室下に、弥陀三尊、大日如来の顕密けんみつ四仏種子を配した、室町時代中期の宝塔々身が遺存する。
2021.08.19
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中平足手荒神に来ました。32.9689, 130.50298 ⑧ 中平なかでら足手荒神あしてこうじん 樺字中平(付図2-127) 手足の痛みを癒す霊験があり「昔は参詣者が多かったが、今は唐池の足手荒神にとられてしまった」と、古老は語る。 もと個人の管理であったが、今は中平区に移り、月の15日が例祭日である。堂内の荒神はケモノの上に怒りの表情で剣を撫して立つ像容である。
2021.08.18
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9月の講演会予定です。
2021.08.17
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講演会が予定通り実施されました。
2021.08.17
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七郎神社に来ました。32.96827, 130.50078 ⑦ 七老ひちろう(郎)神社 樺字野中(付図2-111) 榎原えのきばるより海行原かいごばるに通ずる道中、硯川筋に、木製鳥居をたてたささやかな神社がある。内陣に7体の神像が祭神として奉斎されている。一つ一つの神名はあきらかにされず「ひちろうさん」と呼ばれる。神像は衣冠いかん束帯そくたいに威儀を正して王座にある。氏子は上椛区榎原、中平なかでら両集落に限られる。祭礼は10月10日より15日までおこなわれ、御幣、割木2本、藁皿を各々の神前に供える。けれども七郎神の由来は明らかではない。 玉名郡三加和町西吉地古閑の七郎社は、正治2年(1200)12月4日、坂梨弥吾助義光が土地鎮護と、農耕開拓の守護神として、肥後一の宮阿蘇本宮より分霊を祭祀したものと伝えている。 本所の祭神にはいずれにも次の墨書銘が見られる。 奉彩色 干時 嘉永三庚戊(1850)一月下旬 佛師 小田手永横田村 角田淳蔵 海行原 中平組 註(2) 硯川次ロロロ(不明) 藤左衛門鎮行(花押)とある。また、賀庭寺境内にある庚申猿田彦神石碑は弘化2年(1845)硯川中平藤原貞安、子藤左衛門等の造建とされている。建立の趣意は、三加町古閑の七郎さんと同一と見られる。 それ故、御用宅跡虚空蔵こくうぞう勧請かんじょうの嘉永3年、七郎神社の嘉永3年は共に同じ紀年(1850)であり、賀庭寺庚申石碑弘化2年(1845)はそれを先行すること5年であり、中平を中心に信仰されていた北斗七星信仰の残されたものとして重視すべきであろう。 註(1)三加和町「阿蘇神社」宮司坂梨泉氏ご教示による。 (2)現在の玉名市伊倉町横田のこと。
2021.08.17
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椛地蔵尊に来ました。32.96816, 130.49731 (8)椛かば地蔵尊 樺字榎原(付図2-110) 三池玉名線(往時は三池往還)荒尾市営バス上椛停留所横の木原定重氏宅門前に2体の地蔵石像がある。もと西方墓地人口にあったものという。 「享保十九甲/寅年(1734)奉建立施主 毘沙門若者中 願主 硯川仁左衛門 硯川宅平善兵衛孫ナヨ」 また、左側のものは、 「文化十四年(1817)丁/丑八月十四日 世話人 榎原 櫟野石工 嘉平治」の銘がある。以上2躰はともに頭部を失っている遊行地蔵である。※「遊行地蔵」とは?遊行寺の地蔵堂とのことでしょうか?
2021.08.16
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椛日吉神社に来ました。32.9714, 130.49662 ⑥ 椛日吉ひえ神社 樺字裏毘沙門(付図2-133) もと賀庭寺の鎮守社。明治初年の神仏分離により明治15年2月14日ここに移されたものといわれる。 分離の時期と遷座の間が長すぎるようで多分この年に社殿が造建されたものと推定される。その理由は、境内の石造物の紀年にこの年代前のものがあるからである。 祭神は、白山日枝神社、高良大明神、阿蘇大明神、生目神社であるという。立派な社殿です。
2021.08.15
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周辺の史跡も探しましたが、はっきりとはしません。推定地です。まず「どん坂」。32.99468, 130.50089その坂の上に、「十輪寺窯跡」。32.99479, 130.5004少し離れて、「城の追分石」。32.99672, 130.49918(69)城じょうの追分石 平山字城 (付図2-247) 関道せきみちと旧道の三叉点に建っている追分石である。地面深く生け込まれて、各辺18cmの柱状石は現在47cmの高さをはかり、記名も「右、左」だけが僅かに読みとれる。 長洲から高浜~菰屋~宿・陣屋敷を経て、ここ城より右金屋、左もと村とわかれる三叉路であろうと思うが、はっきりしたことはわからない。枝をかき分けて見るが、石が見つけられない。場所は此処で間違いなさそうだが。
2021.08.14
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十蓮(輪)寺跡・地蔵堂に来ました。32.99421, 130.50051(58)十蓮(輪)寺跡 平山字小路(付図2-240) 十蓮寺遺跡は平山区小路にある。野原八幡宮祭事簿には永正17年(1520)より、慶応2年 (1866)の長期に亘り19回、ぢゅれい寺、十里ん寺、乗林寺の屋敷名で祭礼行事を勤仕している。 屋敷の一隅の堂内に半跏座の地蔵木像がある。鼻、両手に欠損がある。堂前には地神石がある。
2021.08.13
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光徳寺内に入りました。32.99422, 130.50123(60)光徳寺こうとくじ五輪塔 (付図2-238) 平山小路の天福てんぷく山先徳寺は、寺伝によれば、小代家の老臣福山刑部光長が永禄4年(1561)山鹿郡方保田かどだ西光寺丁覚の門弟となり、得道とくどして善正と称し平山に一寺を建立したことに始まる。当時の寺地はここより東1kmの薬師前にあったらしい。 歴代住職墓のなかに据えられた重厚な五輪塔は、もと山鹿郡方保田西光寺の遺品で、火輪を除く他は一具のものである。 地軸は幅43.5cm、高さ22cm、現在その天地が転倒して据えてある。正面の銘は破損による欠落で全容を知ることはできぬが、「造立◻◻ 妙永禅定尼 ◻◻ 稔二月」 碑銘から妙永という婦人の供養碑と分かるが、誰が、いつ建立したかは明確にはわからぬ。地軸の外側面16并の菊花文様は後年の追彫ついこくとみられる。火輪を適当なものと入れ替えると見惚れのする好塔になるだろう。ここで、再度「平山薬師堂」で照会した説明を記す。(62)薬師前藤原加賀守供養塔 平山字東山開(付図2-231) 惟富碑より更に200m登った道路脇に、木造薬師如来を安置する石厨子がある。一帯は寺名不詳の中世寺院の跡である。ここに石憧と板碑が並んで建っていた。 石憧は、凝灰岩製、高さ148cm、幅約39cmの不定形角柱で、頂部に中台、若しくは笠石をうける枘が作られている。塔の原形が、笠塔婆か六地蔵石塔かは明らかではないが、強いて求められると六地蔵の棹石であろう。各所に破損の跡がみられるが、銘の刻字は損傷せず、明瞭にのこり読みとれる。「毎日晨朝人諸定(毎日晨朝に諸の定に入り) 入諸地獄令離苦(諸の地獄に入って苦を離れしめ、)文明十二庚/子年二月九日願主加賀守藤原忠弘 無佛世界度衆生(無仏の世界に衆生を度し)今世後世能引等(今世後生によく引導し賜う)」 仏説延命地蔵菩薩経にもとずく有難い言葉(偈頌げしょう)である。願主は小代忠弘。忠弘は自分のための生前の供養(逆修)を行なって、文明12年(1480)この碑をここにたてた。 左側の板碑は、高さ126cm、厚さ26cm、幅59cm。なかに通肩の納衣のういの裾を長く風に麾かせ、衣の皺を腹部に垂らし、慈眼を正視した尊容は人をして浄土の世界に来迎する荘厳な姿であり造形の手法は阿弥陀が池板碑と同一人の彫作と思われる(図版11(3))。銘文もその左右の聯に「一念彌陀仏、即滅無量罪 現受無比楽 後生清浄土 願主加賀守忠弘 延徳元年(1489)己酉初冬十二日 六字一石百万返右口僧敬白」とよまれる。 藤原加賀守忠弘は、8代小代泰弘の次男重行である。註(1)元亀元年(1501)5月15日、菊池家22代守護職菊池能運よしゆきは叔父宇土為光に菊池館を奪われ、高瀬保田木城に拠ったが城は陥ち肥前国高木に逃れた。この戦いで加賀守忠弘は戦死した。2碑は、延徳元年(1490)12月父泰弘(法名宗鎮 註(2))母妙泉の逆修供養のために建てたものである。 この両塔は現在小路の光徳寺内に移されてある。つまり、此処に移されたのです。どれがそれにあたるのか?良く調べていません、此処に在るのは確かです。
2021.08.12
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光徳寺の道の向いの個人宅と思われるお宅に、祠が在りました。32.994554, 130.501762ところが、「荒尾市の文化財」に載ってないんです。なんでかなぁ?そして、齊藤邸だと思われるのが、この家ですが。32.99446, 130.50227実は、以下の記事で探したのですが、この庭には見当たりませんでした。(64)斎藤邸五輪塔 平山字小路(付図2-237) 斎藤都統氏方庭前に据えられた五輪塔群は、最近某地の旧跡より移設されたものである。そのうちの地輪は重厚で鎌倉時代の風貌をのこす逸品である。側長41cm、高さ24.5cm、比高59.8cmである。碑面は各所に毀損による剥脱、陥落があり、刻銘にも不明の部分がみられるが「ア」をはさんで両側に、「沙弥正阿彌陀仏 命日八月卅目 建武ロ□/□年九月廿日ロロ」とある。 碑銘によれば、命日を8月30日とする浄上教信者正(聖)阿弥陀仏の三十七日の墓塔である。 この碑のもつ歴史的価値は建武紀年である。建武は1334~38の5年で、建武3年2月29日に南朝紀年の延元元年に改められ、北朝はそのまま建武を続ける。その後地輪を改め精査した結果4年の数字を得た、従って干支の欠所も丁丑となろう。元所在していた町における南北朝期の遺物5点中、正平紀年を除く4点は北朝紀年であり本所のこの遺物は最初のものである。(多分、光徳寺へ移設されたのでは??)
2021.08.11
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市民病院新築工事現場です。すっかり平らにされ、崖には青のビニールシートがかけられていました。
2021.08.10
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角目石(?たぶん)に来ました。32.99293, 130.51687標識も無いので、多分これだろうと思います。他に大岩を見られないで。小岱神社の、道の反対側の、崖の上になります。崖が険しくて、近寄るのを断念。これだ!とは言えませんが。説明文とは異なる感じもする。 (4)角目石(かぐめいし)(頭石)平山字東山開323-2、323-32番地(付図2-229) 平山天満宮や製鉄所跡の桧林などをぬけて金屋からの尾根に達すると、みかん園造成の最高地点に達する。約1aばかりを限って巨石名所の小峰となっている。 巨石は山骨の出した台石の上に)乗っており、やや長方形のだんご形をして、長径6m、幅2m70、高さ1m55、推定総重量65tの小岱御影石である。ひび目も入らず結晶の異質もなく、まことに立派な梨地御影である。これを支える基石は、高さ6m、中央に縦にひび目がはいり、ひび目から左(西)4m、東4mすなわち8mもあって中央南面に階段があり、そこには自然木さえ着生している(第7図)。 これは私の昭和22年3月19日の調査であるが35年間経った今日、山地の開発ブームにやっと耐え残ったという状態であるので、緊急に公的資質のものとして資格付をし、後世だれもがこれを私有したり、変形したりするような事がないようにしたいものである。まわりを造作する事はさし控えながら、ある程度の清掃は実施。
2021.08.10
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小岱神社に来ました。32.992718, 130.516279名前に、小岱山の小岱の字をあててますので、小代氏との関係ではなさそうです。由来など、まだ判っていません。比較的、新しい神社です。
2021.08.09
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薬師堂に来ました。32.99336, 130.51103(62)薬師前藤原加賀守供養塔 平山字東山開(付図2-231) 惟富碑より更に200m登った道路脇に、木造薬師如来を安置する石厨子がある。一帯は寺名不詳の中世寺院の跡である。ここに石憧と板碑が並んで建っていた。 石憧は、凝灰岩製、高さ148cm、幅約39cmの不定形角柱で、頂部に中台、若しくは笠石をうける枘が作られている。塔の原形が、笠塔婆か六地蔵石塔かは明らかではないが、強いて求められると六地蔵の棹石であろう。各所に破損の跡がみられるが、銘の刻字は損傷せず、明瞭にのこり読みとれる。「毎日晨朝人諸定(毎日晨朝に諸の定に入り) 入諸地獄令離苦(諸の地獄に入って苦を離れしめ、)文明十二庚/子年二月九日願主加賀守藤原忠弘 無佛世界度衆生(無仏の世界に衆生を度し)今世後世能引等(今世後生によく引導し賜う)」 仏説延命地蔵菩薩経にもとずく有難い言葉(偈頌げしょう)である。願主は小代忠弘。忠弘は自分のための生前の供養(逆修)を行なって、文明12年(1480)この碑をここにたてた。 左側の板碑は、高さ126cm、厚さ26cm、幅59cm。なかに通肩の納衣のういの裾を長く風に麾かせ、衣の皺を腹部に垂らし、慈眼を正視した尊容は人をして浄土の世界に来迎する荘厳な姿であり造形の手法は阿弥陀が池板碑と同一人の彫作と思われる(図版11(3))。銘文もその左右の聯に「一念彌陀仏、即滅無量罪 現受無比楽 後生清浄土 願主加賀守忠弘 延徳元年(1489)己酉初冬十二日 六字一石百万返右口僧敬白」とよまれる。 藤原加賀守忠弘は、8代小代泰弘の次男重行である。註(1)元亀元年(1501)5月15日、菊池家22代守護職菊池能運よしゆきは叔父宇土為光に菊池館を奪われ、高瀬保田木城に拠ったが城は陥ち肥前国高木に逃れた。この戦いで加賀守忠弘は戦死した。2碑は、延徳元年(1490)12月父泰弘(法名宗鎮 註(2))母妙泉の逆修供養のために建てたものである。 この両塔は現在小路の光徳寺内に移されてある。今は、薬師堂のみ。裏に回って、
2021.08.08
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阿蘇惟富(61)薬師前阿蘇どん碑 平山字東山開(付図2-232) 平山小路より小岱山林道に沿うた原田政行氏方前、椿の根もとの土壇上に1基の板碑がたっている(図版11(2))。 凝灰岩製、高さ105cm、幅22cm、厚み13cm、山形の頭頂部下に額部をつくり、碑身に銘を入れるための匡部きょうぶを造りだす。根部は別石の基礎にホゾ穴を窄ち、碑身を差し込むための出ホゾがある。 銘は、額部に一字金輪仏こんりんぶつをあらわす種子「ボローン」を、匡部に五大種子「キア、力、ラァ、バア、ア」をいれ、下に「先阿蘇上四位宇治宿弥惟富大低 永禄五年正月日」とあり、永禄5年(1562)に建てた阿蘇惟富の供養碑である。大低は大祇の誤刻である。 阿蘇大宮司家に見える惟富は、元弘の乱(1331)、大宮司惟時に随って上洛、後醍醐天皇の六波羅攻めの功臣であるが、ここの惟富は大宮司惟長の孫、天文8年従5位下、天文10年従5位上に叙せられた。惟富は何等かの理由により廃嫡させられ、系図上より抹消すると記載されてあるので、結局は勘当させられたものと考える。 惟富の供養碑がここにある理由も詳らかでないが、菊池家の相続をめぐり菊池武包と菊池義武(大友義宗)が、大永3年(1523)争い小代重忠の支援を得た武包の勢が、阿蘇惟豊、甲斐親宣らに攻略された事件があった。 阿蘇大宮司家はこの頃、惟長、惟富が大宮司職をめぐり、惟長-惟前-惟富と惟豊-惟将の一族争いが続き、惟富加その渦中で廃嫡されたのではないかと推量される。裏に回りました。尖頭板碑に 先阿蘇 従正位 宇治宿彌惟富大儀永禄五年(1562)正月と刻印。惟富は元寇の乱(1331)に阿蘇大官司に従い後醍醐天皇の六波羅攻めに功を残す
2021.08.07
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以下の様に、案内があったのですが、2/13予定は中止です。残念でした。
2021.08.06
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久保観音(境崎観音)に来ました。32.98941, 130.43568「荒尾の石造物」の資料です。左の2つ。
2021.08.05
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「玉名五山」を調べていて、以下の資料に出会いました。広報ながす 62号です。この中で、以下の様に書かれている。 (清源寺跡)宮崎にあり、本寺は禅宗に属せりという。廃寺の年代を 審かにせず、寺跡に真宗西派光正寺を建つ。 光正寺は、現存している寺院であり、現在の住職は法康之さんで、六栄地区公民館長を兼務していられる。光正寺の由来は、玉名郡誌に次のように書いてある。 〃当庵由緒之儀は、往古は禅宗清原寺と申す寺跡において玉名郡 長洲町西光寺隠居宗仁と申す僧、慶安四年(一六五一年)三月 当所に転居仕り、其後二男宗善を以て一代住居相願侯処、明暦 三年(一六五七年)四月玉名郡宮崎出目村へ一代住居藩より被差 許侯。猶今般永代庵室に被差許侯也〃 光正寺の御本尊は阿弥陀佛であると記録されている。光正寺を訪ねると、庵室の前に石塔があり、それに梵字が刻まれており、由緒ある古い寺院の跡であることを示している。恐らくこの石塔は、その昔、立派な寺院が建っていたてあろう清原寺の庭に建立されていた石塔の一つてあると推定される。梵字が刻んである石塔は、長洲町ては葛輪の板碑についで二番目のものてある。この中の、光正寺は、32.932798, 130.470932
2021.08.04
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コロナにより、中央公民館も遠方からの入場規制が始まりました。玉東町の先生の来場や、大牟田・長洲・玉名からの入場に規制がかかるのか?諸隈会長が確認に行かれて、連絡がありました。入場OKです。との事従って、予定通り開催予定です!!皆様のご参加、お待ちしています。
2021.08.03
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福島城跡に来ました。33.211761, 130.555864天正15年(1587)豊臣秀吉による九州平定後の国割により筑後国に5大名が配置され、上妻郡(八女)は筑紫広門が領主となり山下城(立花町)に居城したが、福島に規模の小さい支城を築いた(本丸跡、東西112M×南北76M)。これが福島城の始まりである。慶長5年(1600)筑紫広門は関が原合戦で西軍に属したため除封され領地を失った。慶長6年田中吉政は、関ヶ原合戦と石田三成生け捕りの功を賞され、筑後一国の国主になり、柳川城を居城とした。吉政は入国そうそう、領内各地に散在していた必要な古城を残して城郭の強化を行い一族・重臣を配置し防備体制を整えた。中でも福島城は三男の田中康政の居城として筑紫広門が築いていた城を拡張構築したものだ。新しく本丸・二の丸を築き、城内は内堀・中堀・外堀の三重の堀を回らし、堀を深くして(堀幅10-15M)築地を高く、矢倉(櫓)を建てて防備を堅固にした。福島城の大改修構築のとき、古墳や石人石馬類が使われている。※-岩戸山古墳・童男山古墳とう多数あり-元和6年(1620)領主田中家は跡目を継ぐ嫡子がなく断絶。築後国は有馬・立花両氏で分割し、矢部川を境界として領域を定めた。翌、元和7年新領主有馬豊氏が入国し久留米城を居城にすると、「一国一城令」により福島城は破却廃城となる。公園として整備されており、山頭火の句碑もあった。
2021.08.03
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納経塔ソテツです。禅堂庫裏
2021.08.02
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B:春林院霊屋です。パンフをお読み下さい。裏の階段を上がって、右奥の7代目の墓4代目 墓の形を同じにしてますねこちらは霊屋ではなく、位牌廟となってます。
2021.08.01
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