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引き続き、広瀬神社です。広瀬中佐像竹田市街が一望されます。
2021.02.28
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広瀬神社に入ります。32.96586, 131.39683(Wikipedia)竹田市出身で軍神第1号の海軍中佐、広瀬武夫命を主祭神とし、竹田市を含む旧直入郡(現在はほぼ全域が竹田市内)内の戦歿者等の霊1400余柱を合祀している。明治37年(1904年)3月27日に日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の人格と報国の精神を敬仰する人々により「広瀬神社創建奉賛会」が結成され、昭和10年(1935年)5月に社殿が落成、同月25日に鎮座祭が行われ、県社に列した。昭和23年7月、大分県直入郡遺族連合会が、郡内の国家公共に尽くして亡くなった人々の霊の広瀬神社への合祀を議決し、翌年、第1回の合祀が行われた。
2021.02.27
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広瀬神社に来ました。32.96586, 131.39683参道に、陸軍大将 阿南惟幾の顕彰碑が在りました。(Wikipedia)より: 阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年(明治20年)2月21日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将勲一等功三級。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。太平洋戦争(大東亜戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。
2021.02.26
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引き続き、岡城です。岡城天満神社です。
2021.02.25
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建長の塔に来ました。32.94498,130.53447「210221玉名・蓮華院誕生寺・皇円大菩薩の母」で取り上げた「虎御前の塔」です。記事にしたので、早速現物確認に出かけました。「山田のフジ」から左手に入ってゆく小路の左手竹林の中にあります。建長の塔: この塔は、地元では昔から「虎御前の塔」と呼ばれ、建久のころ曽我十郎?の寵愛を受けた虎御前が、兄弟没後その供養のため各地を?った際この地にて建てたものであると伝えられている。 (後略)(玉名市HPより)この塔は、建長2年(1250)、藤原太子供養のために建てられたものです。凝灰岩で造られた釣鐘型の塔婆が一基まつられています。主体塔身の高さ97センチ、直径73センチというほかに類を知らぬ巨大さを誇っています。俗に「虎御前の塔」といわれています。この塔は、相輪と笠を失い現在塔身と基礎だけが残っている。塔身の上部には、穴を穿ち、塔身の首部には線刻で朱にて描かれています。塔身の軸部には、前面に扉形が線刻され、その中に宝塔の本尊である多宝如来と釈迦如来の二仏並座をあらわす種子である「ア」と「バク」を線刻した月輪の中に刻み、蓮華座を刻した上に配している。その彫りはするどく力強い薬研彫りです。また、軸部の後面には、雄健な楷書体で次のような銘文を刻み朱が入れてある。基礎はもと4個の石を用い一段式のものと考えられ、現在は2個しか残っていません。塔身と基礎は凝灰岩でつくられ、塔身の大きさは、高さ97センチ、直径72.6センチ、首部の高さ18センチ、上部直径50センチ、穴の深さ15センチ、その直径17.8センチである。基礎の大きさは、69×69×25センチと64×61×24センチです。この塔は、俗に虎御前の塔と呼ばれ、真偽は不明ですが、虎御前が曽我兄弟供養のために建立したと云われています。堂々とした塔身には損傷なく、しかも鎌倉の紀年銘が残っています。文献史料の少ない中世史を知る上で貴重な文化財です。「虎御前」とは、大野氏の娘(皇円上人の母)の名前では無く、曽我十郎の恋人の名で全国に見られる様です。しかもこの塔は、それでは無く、藤原太子供養の為との事で、新聞に書かれていたことが頷けます。「虎御前の塔」とは、間違えて言い伝えられたものの様です。道の途中には案内板がありました。この左の上り坂を進むと、左手に竹林に入る表示があります。
2021.02.24
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岡城跡です。そして、紅葉です。
2021.02.24
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引き続き、岡城です。大手門をくぐり、この景色です。
2021.02.23
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岡城跡に来ました。32.9691, 131.40776紅葉が綺麗岡城、続けます。
2021.02.22
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「180516玉名・史跡巡り・蓮華院誕生寺」の記事への質問がありました。回答容量が大きくなるので、記事にしました。1点目・皇円大菩薩の父は藤原氏の方ですが、母はどなたでしょうか?。結果は、判りませんでしたが、少しヒントになる資料を示します。・皇円(Wikipedia)は、既にご存知でしょうが、以下の様です。豊前守藤原重兼の子として肥後国玉名荘(現熊本県玉名市築地〈ついじ〉)に生まれた。兄は少納言藤原資隆[2]、母親は玉名の豪族大野氏の娘とも推測されるが不明。・玉名の歴史本には、ここでも「母は大野氏の娘」となっています。恐らく情報の出どころは一緒なのでしょう。ここで「とら御前」という名が出てきました。ちなみに、この本は、・さらに、蓮華院発行の「幸福への道」という新聞があり、昭和35年8月の記事を、当会の会員の方がコピーをしておられて、見せて貰いました。上段左よりに「母が大野氏の娘であった」とあり、虎御前塔と呼ばれる供養塔について書かれていた。以上をご参考に。2点目・家紋が丸に桔梗紋ですが、なぜ、その、丸に桔梗でしょうか。全く判りませんでした。以上です。よろしくお願いします。
2021.02.21
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原尻の滝に来ました。32.96414, 131.45121(大分県観光情報HPより)原尻の滝~平地に突然現れる東洋のナイアガラ~おおいた豊後大野ジオパークの特徴を最もよく表すジオサイトの一つです。「田園地帯に突如現れる」ことからとても珍しい滝として知られ、「日本の滝100選」にも選ばれています。滝は幅120mに渡って流れ落ちその落差は20mあって、滝の前にかかる吊り橋から滝を正面に眺めることができます。また、滝のすぐ上にも、すぐ下にも簡単に近づくことができて、滝の迫力を間近で感じることができる、とても親しみやすい滝でもあります。この滝の水が滑る岩盤は、9万年前、大噴火を起こした阿蘇火山がもたらした大火砕流が冷えて固まったものです。柱状節理と呼ばれるヒビがたくさん入っていて縦に割れやすい性質のため、このような美しい滝が生まれたと考えられています。
2021.02.21
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沈堕(ちんだ)の滝に来ました。32.98398, 131.52099沈堕の滝~雪舟も描いた名瀑~(大分県観光サイトより)沈堕の滝は室町時代の水墨画の大家・雪舟の描いた「鎮田瀑図」のモデルとしても有名なおおいた豊後大野ジオパークのジオサイトの一つで、国登録記念物でもあります。大野川の本流にかかる雄滝と、支流の平井川にかかる雌滝からなり、雄滝は幅約100m、高さは約20mあります。その姿はまるで滝が2段重ねになっているような、とても不思議な情景を表出し、撮影スポットとしても大人気です。明治時代に建てられ、近代文化遺産に認定されている石造の沈堕発電所も、沈堕の滝に隣接しています。右手に滝が見えます。
2021.02.20
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三国峠を目指して、近くまで来ました。32.92445942617398, 131.59724255757973天狗山大橋です。国道326号線から、ふるさと林道三国灰立線に入って直ぐのところです。(大分県HPより)岡藩・佐伯藩・臼杵藩の三藩の協会(境界の間違いでは)に位置する三国峠は、西南戦争の激戦地であった。峠を外れると、明治10年6月17日臼杵軍川辺常松らの突入により薩摩軍の兵12名全員が死亡した西南戦争の陣地跡がある。「兵あまた いのちすてたる この丘は いま秋草の 花に うもるる」と刻まれた歌碑が道路沿いに建てられている。三国峠はこの先です。32.91836, 131.60966
2021.02.19
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山縣参軍督戦の地に来ました。32.60244, 131.67815看板には、「西南の役 山県有朋中将陣頭指揮の地」となっていました。西郷隆盛は15日早朝笹首を発ち北川を船で下り和田越山上に開戦以来初めて戦場に立った。 政府軍参軍 山県有朋中将はこの地樫山の山上に立って全軍の指揮をとり西郷隆盛と対峙した。 8月15日和田越決戦に薩軍は敗れ長井に退いた。
2021.02.18
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延岡隊最後の奮戦地に来ました。32.5738, 131.63406西南戦争が起こるや旧内藤藩士を中心に党薩延岡隊として参戦した。 大島景保を隊長として第一陣180人は延岡を出陣し熊本百貫石の守備についた その後熊本に敗れた薩軍とともに各地を転戦敗走し8月13日松山の松尾城趾にて一夜を明かした 翌14日早朝岩鼻から船で渡り西に向かい野田に達し川を挟んで官軍と応戦した やがて薩軍が和田越方面に走ったと知り 今はこれまでと延岡隊40余名は官軍に降伏を申し入れ武装解除の上収容された この地 野田は延岡隊最期の奮戦地となったことを記し残す 薩軍として参戦した延岡隊は2月22日に挙兵。熊本県健軍での戦い(4月20日)を筆頭に多くの激戦を経て、8月14日に投降した。
2021.02.17
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荒尾史学会の講演を下記のように行いますので、ご参加ください。 期日および時間:3月16(火)、18:30~20:00 場所:荒尾中央公民館 視聴覚室 演題:玉名の歴史 内容:古代~近代における玉名の歴史 講師:佐藤夕香(玉名市教育委員会教育部部文化課文化財係) 資料代・部屋使用代:会員(\100) 非会員(\500) 連絡:諸隈 TEL 090-2905-6837(申し込み不要) E-mail qqna2hr9k@estate.ocn.ne.jp https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/
2021.02.16
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計画通り、講演会が実施されました。
2021.02.16
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アクセス数=9万件を達成しました。2/16 12:48 でした。皆さんのおかげです。次の数字を目指して、また頑張ります。有難う御座いました。
2021.02.16
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2月度の講演会が、今日、16日にあります。作品を、ここから読める様にします。講演に参加される方は、プリントアウト・持参して下さい。210201講演会・2月予定・作蔵先生・荒尾地区210201講演会・2月予定・作蔵先生・有明地区予習に復習に、ご活用下さい。
2021.02.16
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山内善吉家跡に来ました。32.56675, 131.6439山内善吉家跡: 8月2日朝桝屋を発し、三須より大瀬川を渡り大貫西ノ園の当時戸長役場だった山内善吉家に入った。山内家に8泊9日間宿陣の後8月10日山内家を出て一路城山を指して進みその夜は原時行邸(旧税務署跡)に宿営した。
2021.02.16
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山田顕義宿営の地に来ました。32.56187, 131.645728月14日当主中城善平宅宿 のに陸軍中将伯爵日本大学設立(Wikipedia)山田 顕義(やまだ あきよし、正体字:顯義、天保15年旧暦10月9日(西暦換算:1844年11月18日) - 明治25年(1892年)11月11日)は、日本の幕末の武士(長州藩士)、明治時代の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝、のち顕義と改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。山田 空斎(やまだ くうさい)としても知られる。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等伯爵。明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ[1][2]。日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わったため、日本大学の学祖とされる。若くして世を去ったが、軍人としても文官としても際立った実績を残した、近代日本としては異色の人物である。長門国出身。吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる[3]。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言があり「小ナポレオン」と称されるほどの用兵家[4]。岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。
2021.02.15
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和田越決戦の地に来ました。32.61737, 131.6835薩摩軍と官軍が戦った最後の激戦地です。西郷隆盛率いる薩摩軍約3千5百人は、山県有朋中将指揮する官軍約5万人に決戦を挑みますが、物量に勝る官軍の攻撃に耐えられず北川方面に敗走しました。その後薩摩軍は高千穂や神門などを経由して鹿児島に戻りました。そして、ここで桐野に任せていた戦の指揮をとりました。
2021.02.14
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2021年度の講演予定です。すでに、1月は完了しました。2月は、16日です。会員希望の方は、講演会当日受付にて年会費を納入下さい。会員になりますと、¥100の資料代で受講出来、さらに過去の講演会資料が閲覧出来る様になります。奮ってご参加下さい。
2021.02.13
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8並び、見逃してしまいました。早朝3:53の状態です。やはり気になっていたのでしょう、深夜に目覚めて、早速確認したのですが、この数字でした。どなたか、確認出来た方は?折角の8並びの、良い数字でしたが、残念です。中国では、8はとても縁起が良いとされて、8並びのナンバープレートは何百万円だそうですが。
2021.02.13
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桐野利秋宿営の地に来ました。32.65172, 131.68719桐野利秋宿営の地: 明治十年八月十五日和田越えの戦いに敗れた西郷軍は、ここ俵野に集結した。 児玉熊四郎宅に本陣が置かれ、最後の軍議が開かれた。 党薩諸隊に対しては、解散布告令が出され、可愛嶽突囲戦が決議された。 ここ岡田宅(当時の戸主は児玉初治)は、桐野利秋が投宿し、最後の作戦指令を出したところである。又、この地は八月十七日夜の可愛嶽突囲戦の出発地点にもなった。可愛嶽突囲戦薩軍登山口: 明治十年(1877)八月十七日夜、官軍の包囲網は完成した。翌朝は、西郷本陣を総攻撃する手筈であった。 午後十時、夜陰にまぎれ、総勢六百人程の薩軍は村人を道案内に、前軍 辺見十郎太、河野圭一郎、中軍は、西郷隆盛、別府晋介の乗るニ挺の輿を守る桐野利秋、村田新八、後軍は貴島清、中島健彦の隊が粛々として続いた。 十八日未明、中の越の頂上に達した前軍は、英式ラッパ一声、官軍 第一・第二旅団の幕営に突入した。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり四散して、見事に突囲戦は成した。しかし官軍の哨戦は網の目のごとく張りめぐらされていた。道なき道の山岳逃避行は故郷 鹿児島城山まで、半月近く続いたのであった。
2021.02.13
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アクセス数の8並びを心待ちしてますが、21時現在、88,813ヤバイ!深夜になるかも?起きてらんない・・・
2021.02.12
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西郷菊次郎療養の地に来ました。32.65289, 131.68914明治10年2月17日高瀬(熊本県玉名市)の戦いで右足に銃創を負った菊次郎(奄美大島で愛加那(アイカナ)との間に生まれた隆盛の長男、17歳)は、延岡陥落を前に成就寺に開設された薩軍野戦病院に入院していましたが、西郷が児玉熊四郎宅に本陣を置くと、その隣りの児玉惣四郎宅(写真左)に身を寄せました。後に台湾宣蘭市庁長、京都市長などを歴任しました。(ブログ写真旅紀行より)(Last Saigo より) 当時十七歳であった菊次郎は二月、熊本の高瀬の戦いで負傷し、北川町俵野の「児玉惣四郎宅」で療養中。「そこに女性が訪れ看病したのが、西郷隆盛の妻:イト(糸)であった」。西郷さんの孫で、参議院議員として法務大臣を務めたこともある「西郷吉之助」の証言。イトの実子でなかった菊次郎を看病した家族愛。 一方、西郷隆盛は、可愛岳突囲を前に菊次郎に「別れ」を告げるとともに、政府軍の陸軍中将として延岡に来ている弟の「西郷従道」に会って投降するよう諭した家族愛と別れ。来たるべき新しい時代を生きて、国を作っていく者を菊次郎の中に見ていたのかもしれない。年譜(Wikipediaより)1861年(万延 2年) 1月2日 - 西郷隆盛と龍一族佐栄志の娘”愛加那”の長子として奄美大島龍郷にて誕生。1869年(明治 2年)- 鹿児島市の西郷本家に引き取られる。1872年(明治 5年)- 12歳にしてアメリカ合衆国に留学。農業学を学ぶ。1877年(明治10年)- 西南戦争に従軍。右足を被弾し膝から下を失う。叔父で陸軍中将の西郷従道の元へ投降。1884年(明治17年)- 外務省入省。米国公使館勤務。1887年(明治20年)- 再度アメリカ合衆国留学1890年(明治23年)10月24日 - 宮内省式部官、奏任官三等[7]1895年(明治28年)- 台湾台北県基隆宜蘭支庁長に就任1897年(明治30年)- 台湾宜蘭庁長官に就任1904年(明治37年)10月12日 - 2代目京都市長に就任1912年(明治45年)- 島津家山ケ野金山鉱業館長に就任。在任中は夜学校を開き、自費で武道場を建てるなど、青少年人材育成と地域づくりに多大な貢献[3]をし、在任8年目の1920年(大正9年)に辞職した。1928年(昭和3年)11月27日に鹿児島市薬師町の自宅で心臓麻痺により死去した。満67歳没。
2021.02.12
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中津大四郎自刃の地に来ました。32.65371, 131.68883中津大四郎は、1844-1877 幕末-明治時代の武士,士族。弘化(こうか)元年生まれ。福田大華の弟。肥後熊本藩士。藩の馬術師範役の中津家をつぐ。西南戦争では竜口隊を組織し西郷軍に糧食をとどけて支援,ともに転戦したが,延岡の戦いに敗れ明治10年8月16日割腹した。34歳。(みんカラHPより)中津大四郎は、元肥後藩士で、明治10(1877)年、西南の役が始まり2月19日、薩軍の攻撃を前に熊本城と城下町が炎上すると同士40人と共に久本寺に本営を置いて龍口隊を結成しました。薩軍を支援し、熊本を撤退した後も各地を転戦し、和田越の戦いに敗れた後、中津大四郎は俵野天満宮(天神社)の神主に後事を託し、龍口隊の副隊長格であった小隊長の野口勝三と共に、「もはやこれまで」と西郷軍敗戦の責任を取り、天神社の山林に入り、野口勝三を介錯人として、自決しました。部下たちが共に自決することを願い出ましたが、すべて禁止しました。33歳でした。西郷隆盛宿陣跡資料館から可愛山陵を経て可愛嶽への登山口を少し登っていったところにあります。付近には俵野庚申塔などもあります。庚申塔: 支那の教導の説(おしえ)に庚申の夜は三尸虫(さんしのむし)がその人の罪過を天帝に告げる。その夜は徹夜で諸善をつくす。慶長2年(1597)すでにこの信仰があった。
2021.02.11
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本ブログのアクセス数、現在:0880198並びまで、あと869件多分、明日~13日位乞うご期待です。皆さんも見た方は、スクリーンショットをお願いします。
2021.02.10
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ニニギノミコトに来ました。32.65286, 131.6883(スタルペス・ブログより)延岡市北川町の西郷隆盛宿陣跡資料館の裏手にあります。「可愛山陵」の正式名称は「北川陵墓参考地」といいます。天孫「ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)」の墓とされています。ニニギノミコトの墓は、九州に3箇所もあっていずれも宮内庁の陵墓参考地となっています。もう一つの墓が、鹿児島県薩摩川内市の新田神社境内にある「可愛山陵(えのさんりょう)」です。ホオリノミコト(火遠理命)の高屋山陵、ウガヤフキアエズノミコ(鵜萱草萱不合命)トの吾平山陵と合わせて神代三陵のひとつとなっています。 しかし、ここ延岡市北川町にも「可愛山陵(えのさんりょう)」があるのです。ここはニニギノミコトの終焉地と言われており、日本書紀に「筑紫日向可愛山之山陵」と記されていることが根拠になっているようです。可愛山とはここ可愛岳(えのだけ)のことで明治29年に御陵伝承地となっています。西南戦争の際に西郷隆盛の陣屋をこの「可愛山陵」の手前に置いたことで、政府軍は砲弾を飛ばすことはできなかったといいます。明治時代にはすでにニニギノミコトの陵墓ということになっていたのだと思われます。
2021.02.10
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2月9日、総会が実施されました。多数のご参加、有難う御座いました。前期の実績・今期の講演計画、承認されました。今期の役員、承認されました。今期の予算、承認されました。今期は、以下の様なポイントで活動します。 ・コロナが落ち着いたら、史跡巡りを再開したい。8月の講演の後、戦争遺跡の発掘地を巡って説明を受講したい。 ・定例で会員の交流会を実施したい。1回目を2/14日13:30~会長宅にて予定。講演だけだと、お互いを知らない、ニーズが分からない。 ・定例講演会は、会員が自発的に発表をする。史跡巡り後、まとめて発表。他の講演受講の内容報告など。 ・会を活性化して、活動に金を使って欲しい、今は講演関係費用のみ。
2021.02.09
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引き続き、です。桐野のかたな延岡の伝説、「イトさんが延岡に来ていた」。NHK大河で取り上げられました。
2021.02.09
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資料館展示パネル続きます。延岡隊について、延岡の大合戦、和田越決戦について
2021.02.08
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予てからご案内の様に、今年度の総会が、2月9日(火曜)18:30~中央公民館 2階会議室です。会員の方のご参加、お待ちしてます。
2021.02.07
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資料館に入りました。(場所は旧児玉宅です)展示パネルの写真が撮れましたので、幾つか照会します。中国式表現で、「西南」となったそうです。此処に「ニニギノミコト」稜があった為か?愛犬もここで放しています。転戦の地図がありました。
2021.02.07
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荒尾干潟に来ました。天気が良くなったので、海を見ながら一休みです。満潮ぎみで干潟は見えません。波の音が心地よい。ライダーも海を見に来ていました。
2021.02.06
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旧児玉熊四郎宅に来ました。32.65269, 131.68858 南洲翁寓居跡(旧児玉熊四郎宅)は西南の役最後となる延岡、和田越の決戦に敗れた西郷隆盛が明治10年8月15日から17日の夜の可愛嶽突破(明治10年8月17日午後10時)まで宿陣したところである。 ここで解散布告を出し、最後の軍議を重ねており重要書類や当時日本で唯一つしかなかった陸軍大将の軍服も焼いたとされている。 昭和8年12月5日に史跡として県指定を受けている。資料館には当時西郷隆盛が愛用した硯・船型枕などの遺品の他、種々の戟争資料が展示されている。陸軍大将の軍服を焼却したとされる場所
2021.02.06
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成就寺に来ました。32.65727, 131.68931西南戦争時 野戦病院跡: 成就寺: 明治10年西南戦争時当地方は激戦地であった。由緒あるこの寺も、当時薩軍に徴用され野戦病院として使用されていたと伝えられる。敷地の南東部には今も当時を忍ばせる墓石が見られる。日豊本線・線路のすぐ脇にたたずむ。
2021.02.05
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小野彦治宅に来ました。32.68204, 131.69492西郷隆盛宿陣の跡(小野 彦治宅): 明治10年8月12日、一夜を吉祥寺で過ごした西郷隆盛は、翌13日、14日をここ小野彦治宅で過ごしている。 (後略)
2021.02.04
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小倉處平加療の地に来ました。32.67566, 131.70649小倉處平は文武両道に優れ、威風堂々として徳望高く「飫肥西郷」と称されたが、32歳の若さで義に殉じた。 しかしその高い志は愛弟子の小村寿太郎の中に生きつづけ、(後略)飫肥の小西郷といわれた小倉處平は、西南の役、和田峠の激戦で負傷し、この地で加療した。記念堂の展示物です。この写真も何故か回転出来ません。まだ原因不明です。
2021.02.03
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吉祥寺に来ました。32.69409, 131.69886西郷隆盛が宿泊し陣をとったところです。8月12日の夕刻、熊田の役場(豊後口本営)からさらに小川を渡り吉祥寺に入り、宿泊をする。住職一山和尚は、川坂の佐藤平四郎方からそば粉をとりよせ、もてなした。西郷はことのほか喜び何杯もおかわりしたと伝えられる。この時、官軍は日向の富高にせまっていた。
2021.02.02
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2月16日予定の講演会の資料として、福島作蔵先生の作品を示します。2部あり、有明地区と荒尾地区のうち、荒尾地区の歴史探訪 です。予習として、ご活用下さい。
2021.02.01
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2月16日予定の講演会の資料として、福島作蔵先生の作品を示します。有明地区の歴史探訪 です。予習として、ご活用下さい。
2021.02.01
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比叡山激戦の地に来ました。32.63495, 131.4423碑文も読めませんし、此処の説明文も探せませんでしたので、解説なしです。急峻な山々に囲まれています。
2021.02.01
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