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103B 油田の塚に来ました。32.96739, 130.49236同じ油田の塚ですが、100mほど離れています。田んぼの中にポツンと在り、四角く守られています。 ⑥油田の塚 樺字油田(付図2-102 、103) 県指定文化財「賀庭寺古塔群」の北東100mの位置にある。菜切りの支流上椛川と硯川の合流点近くである。100mの範囲内に2基の塚が点在する。その内の1基は径5m、高さ1.6m、水田の中にあって恰好の円墳状を呈している。周辺は耕作のため削平されているが、古墳の用材等なく、五輪塔残欠が裾部に遺存している。他の1基は径約3m、高さ60cm。遺物なし。これらの塚の記録、伝承はないが、賀庭寺と関係ある墳墓の残欠ではなかろうか。下の写真の奥に、その1の塚が見えます。
2021.05.31
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102B 油田の塚に来ました。32.9667, 130.4925賀庭寺から直ぐの所で、下の写真の中央左手の高い木の所が賀庭寺跡です。畑の中に在ります。 ⑥油田の塚 樺字油田(付図2-102 、103) 県指定文化財「賀庭寺古塔群」の北東100mの位置にある。菜切りの支流上椛川と硯川の合流点近くである。100mの範囲内に2基の塚が点在する。その内の1基は径5m、高さ1.6m、水田の中にあって恰好の円墳状を呈している。周辺は耕作のため削平されているが、古墳の用材等なく、五輪塔残欠が裾部に遺存している。他の1基は径約3m、高さ60cm。遺物なし。これらの塚の記録、伝承はないが、賀庭寺と関係ある墳墓の残欠ではなかろうか。
2021.05.30
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96H 妙見堂に来ました。32.96499, 130.49035 ② 妙見みょうけん堂 樺字硯川(付図2-96) 下椛硯川集落裏山にあり、硯川を望む小堂の中に木造の妙見尊天をまつる。 『肥後国誌』賀庭寺の頃の「寺中鎮守四社」が何をさすか不明。荒井繁著『小岱の里』記載では4社中1社を本社とする。 「星宿によって人間の運命が左右される。」という思想から、厄難を逃れ生活の安全を願う妙見菩薩の信仰が、荒尾地方でも古くからあり、屋敷神として節分の日などに星祭りを行なっていた。こちらも小道から個人宅の庭横を通り、この竹やぶを進む。
2021.05.29
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95H 不動堂に来ました。32.96566, 130.49081 ① 不動堂 樺字硯川(付図2-95) 下椛硯川集落の中にある。『肥後国誌』賀庭寺の項に「寺中鎮守四社アリ」と記すが、荒井繁著『小岱の里』には寺中鎮守4社の1社という。 堂内に50cm程の容貌の整った丸彫不動明王木像が安置されている。銘はないが近世中期の彫像である。不動明王信仰は平安時代頃より盛行し、本寺44坊の坊舎の中にもその信仰は盛んであったようで、この明王堂を寺中社堂のなかに入れたとも考えられる。狭い道路から個人宅の庭に入る感じで、庭の角に建つ
2021.05.28
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94i 賀庭寺僧侶墓地に来ました。32.96456, 130.49269賀庭寺から川を隔てた、うっそうとした森の中の小路沿いにあります。歴代の僧侶の墓所だとすると、もっと整然と沢山の墓碑があっても・・とも思いますが?「荒尾市の文化財」の中には、地図上の印だけで、説明はありませんでした。周辺は荒れるにまかせていました。
2021.05.27
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98H シボラ天神石祠に来ました。32.96485, 130.48819県道46号から、個人宅への入り道をつき進んだ畑の中にあります。どうして畑の中にポツンと建てられたのか?気になります。「荒尾の石造物」という本にも取り上げられていました。右と中央のNo8の説明です。(左の11は別)寸法と刻印が示されていますが、由来などは判りません。灯籠が1863年との事です。
2021.05.26
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海達公子の詩碑・32号に来ました。32.98501, 130.43393宮崎兄弟資料館の駐車場です。例ののぼりも立っていません。これが最新で、他のパンフにまだ乗っていなかったので、知るのが遅れました。上が、宮崎兄弟の生家門です。第32号 一般社団法人 海達公子顕彰会 海達公子詩碑 荒尾ロータリークラブ 創立40周年記念 建立平成30年7月30日海達公子の情報も溜まってきました。今までの情報を見るには、この記事トップのカテゴリーをクリックすると他の詩碑についても見れます。
2021.05.25
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蔵満の浄光寺五輪塔に来ました。32.96347, 130.43893以前の記事で、「藪に囲まれて見れなかった。」と言っていたところです。草刈りされたとの事で、見れました。以前の記事は、以前の資料に、 径を抜けると4x15m程の空地に台地を背に五輪塔が五基一列に並べてあった。 列塔の最左端と二番目の地輪に銘があったので、塔の輪部の新旧を見定めて、一応四基に積み替えて第一号塔の銘を調べたら左のようである。因みに一辺39.5高21.0であるが、当初の高さは32.5内外と思われる。 この銘文から教えられたことは、「この地に浄光寺のあったこと、その住職が第二十二代であったこと」。住職の一世代を一代十年と仮定して、逆算すると弘安・正応の頃(1278~92)の年代に遡って、寺があったことと考えられた。次の一基のものは欠損が甚だしく、「妙西が集めた部石を積んで格好をつけたもので、本来の五輪塔ではないが、この部石をみて、ここには十基以前ものがあったと思われる。 私は、浄光寺の住持が二十五代目であるので、浄光寺の創建は鎌倉時代中期頃の創建と推察して、村の人に尋ねてみても、知っている人はなかった。 屋敷の門の坂道が、「じょもんのさか」と云われているところで、「浄光寺門の前の坂道」と云うことであろう。
2021.05.24
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増永城(館)跡だとの話で訪れました。32.96809, 130.43789宅地の庭ですが、家の方は撮していません。庭のみです。庭の近くに、土塁跡と思われなくもないところもありました。よくは判りません。増永 増永では、重俊の子息政平が増永村を領して増永七郎と称した。 南北朝時代の貞和六(1350)年に、足利直冬(尊氏の猶子で、弟忠義の養子)が、増永名内迫村の地頭職を増永孫二郎隆平に安堵状を送っている、この安堵状には、武蔵国人西郡小代郷内に田畑一町(3000坪)と在家も同時に安堵されている。観応年間に起こった観応の擾乱こおいて、直義は京の尊氏を攻めて、一旦は尊氏を京から追い落としたが、後に毒殺された。この時、小代郷に加恩の地を得た隆平が、直冬の徴兵に応じて尊氏攻めに従軍したとも言われる。 なお、室町期に竜造寺が野原庄に攻めこんだ際、多くの地蔵の首を切り落としたといわれているが、その代表的なものが正楽寺付近に残っている。館山 増永には、新才、北外磯、南外磯、北蔵屋敷、南蔵屋敷および堀後などの字がある。堀後天満宮の下に中屋敷という字があり、堀後には堀之内という下名があったと思われる。この東側に森があって、「館山」と呼ぱれ、周囲には濠(堀)を巡らしていたという。ここが、堀之内の屋敷地で、政平の本拠館であったと推測される。 なお、堀後の東奥に潮見という字があり、小代水軍のための高台であったと思われ、近くに鎌倉時代の墓(持ち主不明)がある。
2021.05.23
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市民病院前を通りました。32.9742611,130.4456417ここは、本村館跡なので工事前に発掘があったところの崖下です。上の写真の中央上が「物見台」と云われていたところです。左手上の森の下が本村館跡です。このまま崖が先まで崩されてしまうのでしょうか?
2021.05.22
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薙刀石に来ました。32.9886528,130.4337528なんと、なんと、、標示が新しくなっているではありませんか!朽ち果てて、立て掛けてありましたので、会長が指摘していましたが、行政に届いたのでしょうか。説明文も読みやすぅい!ただ薮に囲まれて道から見え難い状態ですね。以前の状態の記事はこちら↓170317荒尾・宮内出目・下馬石(なぎなた石)
2021.05.22
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14i 伝、渡辺さん屋敷跡石塔残欠群に来ました。32.95798, 130.47168 (1)伝、渡辺さん屋敷跡 菰屋字南屋敷(付図2-14) 長洲航送船道路脇の菰屋南屋敷一隅を渡辺屋敷跡と称し、五輪塔片が集積し、この中に地蔵石像関係の石片も見られる。棹石を寄せ集めて復元すると、次のような銘がみられる。 三界萬霊地蔵建立 月心 明和三(1776)丙戌天 渡辺さんは菰屋の領主と言われ、金社かなしろの森に 清弓院寶誉道樹居士霊位 元禄六癸酉(1693)正月十日 と誌した石塔1基が建っている。この辺を探したが、、、この石塔残がこれだろう?とした。(違うかも?)
2021.05.22
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12i 善源寺跡に来ました。32.95676, 130.47155(4)善源ぜんげん寺跡 菰屋字東ノ前ひがしのまえ(付図2-12) 正円寺の南、水田中に「ぜんげじさん」「ぜんぎょうじ」と呼ばれる藪に覆われた僅かばかりの土地がある。『肥後国誌』に「宗旨、年代は詳らかではないが、伝えるところによれば天台宗の古刹であり、大正の兵乱で焼亡した。」と記される善源寺跡であろう。 1a 程の土地中央にコンクリート製厨子が有り腐朽木造如来像が安置される。像高25cm、面部は剥離し尊容は定かでなく、頭頂の肉髻にくけいが高く盛り上がる。右手施無畏印せむいいん、左手与願印よがんいんらしく僅かに判明する。原初の本尊仏とは考えられない。近世初頭再興後の彫像仏で阿弥陀如来像の可能性がある。 厨子堂周辺に埋没、散乱する五輪塔片があるが復元不可能と思われる。宝塔々身1基分もある。遺物等より考えて小寺院を中心とした惣墓跡で、近世初期に寺名も消失し、小堂宇を中心にした信仰が維持されてきたものであろう。
2021.05.21
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9F 光琳山正円寺に来ました。32.95712, 130.4705(2)光琳山正円寺 菰屋字南屋敷(付図2-9) 天台の古刹光琳山正円寺跡に寛永15年(1638)僧明善が開いた西本願寺派真宗寺院で、旧山下村(岱明町)安養寺の末寺。 寺域に五輪塔、宝塔、宝篋印塔の残欠が集積し寺の古さを物語る。この、五輪塔や宝塔を探したが見つからず、この門の写真のみとなった。
2021.05.20
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市民バラ園に来ました。32.99687428880392, 130.4270897850967ところが、ご覧のとおり「休園」!フェンスごしに眺めるしかありませんでした。 コロナめ!係のボランティアの方は、消毒作業かな?されてました。
2021.05.19
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10J 玉名西高等小学校石碑に来ました。32.95575, 130.47119(8)玉名西高等小学校石碑 菰屋字東ノ前(付図2-10) 明治26年(1893)3月開校、荒尾郷中堅人材を育成した。明治40年3月閉校、のち八幡小学校に合併。当時「菰屋学校」と呼ばれ親しまれた。この碑は当時の在校生一同の資金により建碑されたものである。県道46号から少し離れた、畑の中にある。米善機工横の道を入ってゆくと、その道沿いにある。
2021.05.19
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今日18日予定の5月講演会を中止しましたが、次回、6月15日予定の講演会も中止します。「大牟田の干拓史」の講演予定でしたが、残念です。今日、連絡があり、「6月15日に入っている予約は会場閉館の為、キャンセルとなります」との事でした。7月20日予定は、どうなるか、まだ分かりません。図書館も公民館も、閉鎖で、入れない状態の様です。
2021.05.18
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4I 菰屋祭組地蔵に来ました。32.95749, 130.4692 (2)菰屋こもや祭組まつりぐみ地蔵 菰屋字南屋敷(付図2-4) 菰屋公民館南側道路西側に2基ある。銘は「明治二十六年己四月十四日 祭組中」と誌してある。もと近くの四辻にあったものを道路拡幅でここに移した。きちんと詣ってあり、地域の人がめんどう見られている様です。きれいな、鼻の高い美男子地蔵さまです。
2021.05.18
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276i 川登地蔵尊に来ました。32.9633, 130.47236個人宅の庭の道路脇にありました。 (4)川登かわのぼり地蔵尊 川登字梶原(付図2-276) 元正寺の北、梶原方屋敷西側にある石地蔵尊は、尊容も刻字も磨滅した延命地蔵である。 [天保十五年申/巳(1844)閏正月廿四日 下組」と記載されている。
2021.05.17
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蔵満の地蔵に来ました。32.96149, 130.43545偶然通りかかった道沿いに地蔵を発見しました。由来など未調査です。この日は、好い天気で、この海を見に来ました。その道中でこの地蔵をたまたま見つけたという次第です。
2021.05.16
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海下天満宮と石祠に来ました。32.96323, 130.44272天満宮への階段の左手に、石祠があります。ここの由来など、未調査です。解説出来ずにスミマセン。
2021.05.15
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来る5/18日に予定しておりました、講演会、「長洲の昔話し」中止としております。コロナのためです。期待して頂いた皆さんには、申し訳ありません。6月には開催出来ますよう、祈るばかりです。
2021.05.14
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274H 法蔵寺跡に来ました。32.9622, 130.47223(3)法蔵寺跡 菰屋字高倉たかくら屋敷(付図2-274) 元正寺がんしょうじ裏手の堂宇一帯を古老は法蔵寺跡と呼ぶが『肥後国誌』は「宝釈寺跡 宗旨年代等不分明」と記述。堂宇には如来木像(釈迦との説もある)と天神像が安置されている。標札に「遍勝(照の意か)大師」と記す。契印けいいんの欠失で尊名は断定できないが、阿弥陀如来は修業時代「法蔵菩薩」の時期があるので、名称はこれに起因するのではなかろうか。宝釈寺の名の起こりはよく分からない。
2021.05.14
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275i 法蔵寺跡板碑に来ました。32.96277, 130.47236 ① 法蔵寺跡板碑 菰屋字高倉屋敷(付図2-275、図版6(1)) 法蔵寺跡地に2基の板碑がある。そのうちの小碑は、凝灰岩製、高さ79cm、幅29cm、厚み10.5cm、頭頂部を山形に整形し、下に彫りの深い二条線を設け、額部中央の梵字バンは月輪で囲み、外部をシャクリ取って浮き上げた珍しい彫出法をとったものである。面部中央に、「道順禅門」とあるだけで、願文も紀年銘もない。室町時代中期以後、道順の追善供養のために造塔された、法蔵寺所縁の塔婆であろう。 もう一方の凝灰岩製板状板碑は、高109cm、幅53cm、厚み19cm、根部を別石に差し込むための出枘を造り出している。 碑面は縁を額縁にし、内面を彫り沈め、阿弥陀如来の画像を陰刻。それに願主、紀年、結衆名を列刻する(図版6(1))。銘によれば、長福源訓記室禅師が願主となり18人の阿弥陀信仰講衆が、満願日天文16年(1547)8月念2日にこの造碑をなしたものである。念は20日の意で22日、即、夏の彼岸日をさす。板碑の画像は、阿弥陀講衆往生の際、弥陀の極楽浄土への来迎を希求した願意を表したものである。 この碑はもと南屋敷長福寺跡にあったものを住民が溝渠みぞの橋代りにしていたところ、渡る際人馬の転落事故が多く、調べたら仏尊が画像されていたので、もったいないとここに移しおいたと口伝されている。このような板碑の伝説は全国津々浦々で聞かれているので、本碑の場合もその真偽の程は明確ではない。
2021.05.13
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第2八幡橋に来ました。32.96064, 130.4766846号線(荒尾長洲線)の国道208号野原交差点と野原五差路の中間点あたりです。(19)第二八幡橋(眼境橋・俗称シンコー橋)野原字南屋敷(付図2-42) ① 所在地 荒尾市野原107 ② 管理者 熊本県 ③ 概要 阿蘇凝灰岩を使用 橋長 4.4m 径間3.05m 拱矢比 0.51 ④ 保存状況 北側の欄石がほとんど落下し、組石の痛みもひどくなり、全面取壊しとな る。昭和53年3月新橋が架設される。県道(野原-樺線) ⑤ 建設時期 明治44年1月 〈川上 偉〉石橋の面影は無いのでしょうか? 草に覆われてよく見れませんでした。
2021.05.12
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① 永禄4年銘板碑(付図2-31) 今寺107川上元朝氏庭園内に所在の板碑は塔身の高さ40cm、帽25.5cm、厚み8cmの凝灰岩製、鋭い山形と、深い彫り込みの一条線があり、碑面には主尊の「キリーク」を月輪でかこい、次の銘を陰刻する。「帰頁 道順 千時永禄四年(1561)辛酉十月廿七日」とある。道順のための供養碑。「荒尾市の文化財(Ⅰ)」に、上記のように記載された、板碑ですが、いまだ見つけられずにいます。本に示された地図の位置は、32.96504, 130.48058 なのですが。第4中学校から北へ行った赤マークところへんのはずなのですが。旧住所の「今寺107 川上さん」も分からず、各家の庭に勝手に入る訳にもゆかず、外から眺めたのですが、それらしいものも発見出来ていません。ご存知の方は、教えて下さい。
2021.05.11
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北若神社に来ました。32.965493, 130.480755個人のお宅の庭にあります。おことわりを言って見学させて頂きました。31I 永禄4年銘板碑を探していたのですが、そちらは見つからず、本神社を見つけました。この神社の説明はまだ見つけていません。
2021.05.11
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25K 北円寺跡・地神宮に来ました。32.96804, 130.48021 (24)北円ほくえん寺跡(きたわかさん) 川登字中牟田(付図2-25) 早馬さん石祠の北にある丘陵一帯を今寺という。ダイモン、ジャーモンキド、破須和はすわ、デアーンハル、キャーネ、とん辻などの小名が遺っている。 『肥後国誌』によれば「宗旨、山号等不分明ナリ」と、また、『玉名郡誌』によれば「宗旨興廃年月日等不祥、村ノ中央字今寺ニアリ。一堂二妙恩菩薩ヲ安置セシガ、近年破壊二及ビ、其ノ木像ト縁起并古代ノ琵琶民家二存セリ」と、誌している。 今寺集落の観音堂の本尊は、郡誌に誌るす妙音菩薩像は既に喪われて、後年の十一面観音である。妙恩菩薩は六観音、三十三観音の中にもなく、法華経第二十四妙音菩薩品に「東方彼方百万那由なゆ他恒沙河こうしゃがの果て、浄光荘厳じょうこうそうごん国に住んでいたが、釈尊が霊鷲山れうしゅせんで法華経を説いた時、わざわざ来会して、衆生済度さいどのため、三十八身を現じて活動を誓った」と説かれる。 三十八身とは、観音の三十三身の変化に、註(1)さらに地獄、飢鬼、畜生、女人、国王の五身にも応現することのできる有難い仏様である。この仏の像容は童手形で右手には細葉の蓮華れんげ、左手に梵識ぽんきょうを持っているので、五名郡誌に誌るされた菩薩とは持物が異なる。註(2) 北円寺の寺歴を明らかにする史料はないが、「今寺」の名称や、一帯の小地名などより、野原八幡宮との関係をぬきにしては考えられない。 註(1)(2)佐和隆研『佛像辞典』※実は、此処がこの説明の所か?明確ではありません。分っている方は教えて下さい。
2021.05.10
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6月講演会の予定です。「大牟田の干拓史」 奥園 吉忠6月15日(火曜) 18:30~20:00荒尾中央公民館 まだどうなるか?不安もありますが、予定下さい。
2021.05.09
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来る5/18日に予定しておりました、講演会、「長洲の昔話し」中止としました。コロナのためです。期待して頂いた皆さんには、申し訳ありません。6月には開催出来ますよう、祈るばかりです。
2021.05.09
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140:足手荒神社内・地神宮に来ました。32.97953, 130.48765(52)足手あしで荒神社・地神宮 府本字散見坂(付図2-140) 足手荒神社は、手足の痛みに霊験あらたかな荒神社。参詣者も多く朔さくの日詣りは、門前市をなす賑わいである。 本堂のかたわらにある石造角宝塔は、たて長の方形で、正面に印契いんけいを法衣のだもとで掩い、両側面には観音、勢至、背面は釈迦の種子を薬研彫やけんぼりした、室町中期の供養碑である。掩印ほういんの中尊が何尊か明らかでないが、現世から来世への遣迎けんぎう思想のこもる貴重な遺物である。 また、社前の金剛界四仏を配する円筒宝塔も、年代を同じくする好塔である。 <福島作蔵〉
2021.05.09
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50I 早馬さん板碑(地蔵)に来ました。32.96115, 130.4802(15)早馬さん板碑(野原馬頭観音) 野原字山中(付図2-50) 八幡宮百聞馬場ひゃっけんばば人口に1軀の地蔵板碑が安置されている。舟形光背形の碑面に半肉彫の彫像を区民は「地蔵さん」として敬礼きょうれいするが、像容は磨耗により判然とし難いものの、一面二臂いちめんにひ、明王馬口印みょうおうばこういんを契び、頭上の馬頭は削り取ってあり、明らかに慈悲相の馬頭観音である。註(1)銘は基礎に「安政五年(1858)午三月吉日」とし、ほかに銘文はみられない。 平安の昔、荘内平穏、家内安全を祈願した野原八幡宮の仏神事が時代とともに信仰の形を変えていくさまが知られる。
2021.05.08
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えつ料理の季節になりましたが、今年はコロナで行けません。以前の、以下の記事で思い出しましょうか150513諸富町・筑後川昇開橋・エツ料理コロナめ!! 中国め!!!
2021.05.07
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49H 早馬さんに来ました。32.96276, 130.48061(14)早馬はやうまさん 野原字早馬(付図2-49) 野原八幡宮より今寺に行く四辻に早馬さんの石祠がある。大きな板石を冂字に組み、大ぶりの笠石を載せ、厨子内に高さ50cmはどの馬の石体を安置し、傍の木札に薄れかかった墨書銘がある。「御霊広大 昭和32年5月19日 端浄はしづめ一清かずきよしるす」としてある。 早馬さんは馬頭観世音菩薩の別称で、弘安6年(1283)野原八幡宮東郷方放生会ほうじょうえ神事に早馬神事が行なわれたことが資料に見られる。放生会は東郷方最大の仏神事で 註(1)、1町2反の御供田ごくうでんと、安幕あんまく神田1町、早馬神田2反の料田りょうでんよりの出挙米すぃこまいにより盛大な仏神事が行なわれた 註(2)というので、かっては立派な観音堂が建立されていたと思われる。
2021.05.07
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荒尾競馬場跡地の南側に来ました。32.987594, 130.430937内部の道路工事が進んでいます。南端より、北方面・四ツ山を望む
2021.05.06
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34I おもりさんに来ました。32.96374, 130.47793道沿いから階段が作ってあります。(23)おもりさん 川登字森ノ下(付図2-34) 川登の森川茂氏方裏山は洪積層の軟弱なローム層よりなり、硯川の浸蝕のため常に崖の崩壊に悩まされている。 崖上に高さ130cm、根部の幅10~20cmほどの板碑状の自然石や、塊状の大石5個、小団塊数個が、樹木下にあり、嘗かつて刀3本、折れた剣が出土したと伝承され、或る時期に元正寺の庭石に搬出されたところ、光を発し「光り石」とおそれられ、再び現在地に移し、野原八幡宮の神官小山信胤に祈祷してもらったという。
2021.05.06
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35H 川登妙見石厨子に来ました。32.96404, 130.47682(22)川登妙見石みょうけんいし厨子ずし 川登字森ノ下(付図2-35) 硯川に沿う椿と椋の大本の繁みの中に、「妙見さん」と称する石祠がある。祠は1m余りの板石を冂字形に組立て、上に笠石を載せた簡単なものであるが、両連には「嘉永元年(1848)申 九月十八日 川登村」と記刻してある。 前には五輪塔空風輪くうふうりん16基分、火輪3基分、地輪1基分、宝置印塔笠、相輪そうりんが露呈し、なお、埋没したものもあるようである。厨子内には2枚の板碑が祀られてある。1基分の板碑の断碑で整形すると高さ81cm、幅30cm、厚さ15cm、正面の方郭部の彫り窪めに、仏菩薩の画像を線刻してあるが、磨耗し明らかではない。ただ、種子「バン」「ア」の墨書跡が明らかに遣る。これらの遺品はすべて中世古塔であり、ここは中世堂宇の遺跡であろうか。 『肥後国誌』による「水光寺跡」の可能性も考えられる。 祠の前の石塔残欠の中に砂岩製の石柱が1基あり次の刻文がみられる。 「御山支配 古潭寿平太 川登村庄屋 次郎助 同村御山ノロ 要助」これは、御山支配方の古潭寿平太が、川登村庄屋次郎助に命じて、山の神崇拝を重視させた奉納石燈籠の残欠ではないだろうか。道沿いではあるが、竹林に囲まれている。
2021.05.05
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おほこさん石祠、塚に来ました。32.96307, 130.47444ただ、個人のお宅の庭の様でしたので、道路から写真1枚だけです。(21)おほこさん 川登字梶原(付図2-37) 川登区堀沢氏方の庭に樹木に捲われた塚状の小丘阜がある。径6mほどの円丘で、頂部には四注平入しめひらいりの石室に五輪塔空風輪を安置する。付近には火輪4基分と地・水輪各1基分がある。土中より中世期の土器片2片を採集する。39H 川登観音堂に来ました。32.96254, 130.47506(27)川登観音堂 川登字中川原(付図2-39) 菜切川に架る川登橋畔にある藁茸の小堂でなかに十一面観音菩薩の木像を安置する。36J 中川彦太郎翁頌徳碑に来ました。32.96358, 130.47618(28)中川彦太郎ひこたろう翁頌徳しょうとく碑 川登字中川原(付図2-36) 川登中区を貫流する菜切川畔に、村民たちから「生神様」と称えられた中川彦太郎の頌徳碑が建っている。 明治20年、釜蓋の三つの池が老朽、崩壊し、配水をめぐって村内で盗水、奪い合い等の水争いが起った。 26歳の彦太郎は以来用水係となり、池の改修、管理に当った。また明治27年、37年の旱害には、九つの水車を階段式に改良する等揚水法を講じたが、流血の惨事を起こした。忍耐強い翁は苦心の結果問題を解決した。碑文には、「立徳実行之を不朽という、翁は慶応二年十月十四日、資性温和篤実犠牲奉仕の人、夙に衆望を負いて八幡村収入役二期、富区長二十三年釜蓋、丹蔵用水係五十三年等の略歴に徹しても、社会産業の功績、真に偉大である。齢八十五歳にして尚ほ健在。茲に部落丹蔵係相謀り翁の徳を称える。」「昭和廿五年三月 建立川登中区 丹蔵係一同」とある。 なお、碑前には、中川翁の土蔵があり、当時の土蔵造庫づくりくらの模範となる建造物である。(訳注:現在は無かった)
2021.05.04
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平等山元正寺に来ました。32.96268, 130.47387(20)平等びょうどう山元正がんしょう寺 川登字下川原(付図2-38) もと平山村の瑞光ずいこう寺が、戦国時代の終り頃、肥前国龍造寺勢の兵火を蒙り焼失した。註(1)その折、住僧割宗谷が平山村領主平山権守正利まさとしの子是利これとしに譲った。是利は京に上り修行、得道し「宗西」と称し、帰郷ののち平等山元正寺を開いて真宗に属した。 元和6年(1620)川登村に移り、歴代の住僧 註(2)には宗円、宗甫、明円、慶甫、真岸、正恵、泰岸、正道、実道、僧桂、洗露、円南、磨墨体量、香月を経て今日に至る。 元正寺の創始について「元正寺塔中弟子由緒書」によれば、山北宮の神主となって下向した民部郷多治見直典41代の子孫松丸が出家して達雲と改め入寺した。また曰く、小野村に庵室を営み、宝暦3年(1753)元正寺内に移り正教寺を営んだ。明治12年12月27日分裂して向野村(長洲町)に光智寺を建てたともいわれるが、信憑性に欠ける。 以上の話は元正寺内にある出来多家について述べたものであろう。 註(1)(2)『玉名郡誌』による。道路からの入口には、この様な門があります。
2021.05.03
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油田文珠堂に来ました。32.96061, 130.47728(10)油田あぶらだ文珠もんじゅ堂 野原字南屋敷(付図2-44) 野原の南屋敷一帯は最近住宅改造が進み、旧態を失った地区である。 付近は空堀、土塁で囲まれた寺屋敷でもうで(門田)、あぶらで(油田)の地名が残る。今は堀跡や土塁は消滅している。 文珠堂の内陣には尊名不明の木像と木彫り狛犬1軀が安置され、境内の一隅には地軸4、水輪7、火輪2、空風輪6の中世五輪塔の残欠が集積されてある。以上の遺跡や地名遺物をみると文珠堂は南屋敷では大切な持仏堂であったようである。
2021.05.02
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野原さん近くのやけん地蔵に来ました。32.961688, 130.476761 (3)やけん地蔵と宝塔 野原字注連本 (付図2-41) 野原五ッ角から元正寺に向かう旧道左に「焼けん地蔵尊」の覆堂が建っている。その中に天保10年(1839)造立銘の遊行(ゆうぎょう)地蔵尊が安置される。かつて火魔の厄に遭ったが尊体は無事安泰であったので「焼けなかった地蔵」としてその霊験が称えられている。 堂前に2基の宝塔(ほうとう)塔身があるが、小型の宝塔は高さ30cm、心径32cm、2段の段頸を備えた瓶形(びんがた)宝塔である。胴の正面と左右面には舟形光背(ふながたこうはい)の仏龕(ぶつがん)が造りだされ、正面には智拳印(ちけんいん)の如来が蓮花座(れんげざ)上に結脚跣座(けっかふざ)する像形を浮彫りするが、顔貌は打砕されて明瞭ではない。左右の龕内の像容も石叩きされて尊容を留めない。ただ背面には薬師如来を表わす種子(しゅじ)「バイ」が古調な のみ跡で描かれている(図版13(4))。宝塔の出所は明らかでないが鎌倉時代中期を下らぬ逸品である。 その横にある円筒形塔身の宝塔は、高さ53cm、心径32cm、胴まわり4面に顕教四仏(けんきようよんぷつ)の種子を陰刻した室町中頃の造塔と思われる。塔身に次のような後年の追刻がある。「天保十亥正月吉日 高瀬本町萸屋栄(たばこやさかえ)」 とある。それ故、地蔵尊の造立年号と同一で この石像は蓑屋栄による奉納と推察される。高瀬地方はこの頃 寿福寺を中心に小森田氏、木村氏、線香屋駒次郎等の在俗信者による造塔、造仏が盛んに行なわれていた。註(1) 野原山霊験寺の住職は、寿福寺住職が兼務していたことより、高瀬在住の人々との交流が行なわれていたことは考えられよう。 註(1) 福島作蔵「高瀬町寿福寺遺物調査資料」 「荒尾市の文化財(Ⅰ)」 荒尾市教育委員会 昭和57年 より以下に、この説明文のQRコードを示します。(テスト的に)スマホのカメラで読み取ってみて下さい。このようなQRコードを現場に貼り付けておけば、訪問者がスマホで説明が読める・・ようにしたいなぁ!
2021.05.01
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