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10月の講演会の開催が決定しました。会場の制限が解除されました。荒尾史学会 月例講演 荒尾史学会の講演を下記のように行いますので、ご参加ください。 演題:伊能忠敬の県北測量内容:江戸時代に初めての実測による日本全図の作成という壮挙を成し遂げた忠敬による熊本県北の測量について解説 期日および時間:10月19日(火)、18:30~20:00場所:荒尾中央公民館 視聴覚室講師:平田 稔(菊水史談会 会長) 資料代・部屋使用代:会員(\100) 非会員(\500) 連絡:諸隈 TEL 090-2905-6837(申し込み不要) E-mail qqna2hr9k@estate.ocn.ne.jp https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/
2021.09.30
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金剛寺に来ました。32.986935, 130.431433法雲山金剛寺の御朱印こちらをご参照下さい。
2021.09.30
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ぼうじ石(牓示石)に来ました。32.98617, 130.43146「鎌倉将軍下馬石(なぎなた石)」と共に、浄業寺の寺領を示す境界石。説明文も何もありません。さびしい荒尾・・
2021.09.29
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晒(さらし)船着場跡に来ました。32.89568, 130.53567 菊池川右岸の最下流部に位置する晒は、その地理的特徴から寛永16年(1634年)には川口番所が置かれ、のち晒番所として鉄砲や槍等が配備されました。文化5年(1808年)には、川床が浅くなり海辺の村々から高瀬御蔵まで遡るのが困難になっていたことから、晒に御米山床が設置されました。その後、天保5年(1835年)には高瀬御蔵の支所として機能させるために逐次整備され、年貢米輸送のために平田船からより大型の上荷船へ積み替える中継地点として重要な役割を果たすようになりました。 安政年間に作成された「菊池川全図」の晒周辺には、堤防沿いに上流から津口改小屋、ワク1基、俵ころがし2基、ワク2基が描かれ、また堤防内には俵ころがしに隣接して「晒御米山床」、下流のワク2基付近に「御番所」、「遠見」の施設が描かれています。このうち、俵ころがし2基と下流側のワク2基が残存しています。 晒船着場跡はこれまでの河川管理上、修復されてきた部分もありますが、近世の船着場としての形跡を良く残しており、船着場と俵ころがしが一体となって整備されている状況は、高瀬船着場跡以外では類例をみません。晒船着場跡は高瀬船着場跡とあわせ、近世の熊本藩が全国有数の米産地で、菊池川の水運を利用して年貢米を大坂の堂島へと積み出し、藩の財源としていたことの象徴として位置付けられる重要な遺跡であるとして、玉名市の史跡に指定されました。
2021.09.28
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肥後四位官郭公墓に来ました。32.90417, 130.57334四位官郭公墓は、船津に通ずる御幣振坂から約20メートル東方、通称鍛冶屋町に存在します。「しいかんさんの墓」と呼ばれ、伊倉町の人々及び近郷の里人から親しまれ、大切に保存されてきました。四位官郭公は中国福建省海澄府内海澄縣の出身で、江戸初期日本に在留した朱印船主であり、幕府より朱印状を得てコウチン、ルソン方面にジャンク船を航行させました。四位官郭公墓は、その子珍栄が元和5年(1619)に建立したものです。四位官郭公墓は近隣の唐人墓とともに玉名の近世初期における国際的、経済上の役割を明示すると共に、玉名においての日本在留明人の活躍を示す学術上極めて貴重な文化財です。南北に伸びる長方形の境内は甚だ広く、その形状及び技法は中国風で福建南部の様式と共通性を有しています。南に面する斜面を利用して地面を凹字状に掘りくぼめ、中央に礎石磐上に6つの雲脚をもつ石櫃を置き、石櫃中央に小形雲脚3個をもつ鏡板石が設けられています。その鏡板の全面は、額縁様にふちどり、上部中央左右に雲形を彫り、雲形間に2つの円を浮彫し、その上に皇明と彫られています。中央に「元和己未年仲秋吉旦 孝濵沂郭公墓 海澄縣三都男国珍栄立」との銘文が陰刻されています。鏡板の両脇、即ち石櫃の後部左右にほぼ波形袖石をそれぞれ1枚設け、また石櫃の左右にはそれぞれ3段の長方形の石を重ね石櫃を囲み、参道には所々石段を敷き両側には手すり石が設けられています。
2021.09.27
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唐人舟繋ぎの銀杏に来ました。32.90523, 130.57104玉名市伊倉の唐人町にある大きなイチョウの木を、昔から「唐人舟繋ぎの銀杏」と呼んでいます。このイチョウの木は西斜面5~6mの高さの崖の上に立っています。昔はこの崖下まで有明海が迫り、唐船をこのイチョウの木に繋いだといわれています。中世においては、イチョウがある一帯には伊倉五山の1つである桜井山安住寺という禅寺があり、イチョウも寺の境内にあったそうです。イチョウの樹齢は約700年と見られ、主幹の幹囲が約7.5mあります。大人5、6人は楽に収容できるほどの空洞をつくり、中には神様が祀ってあります。3分の1を失った残りの表皮だけで保たれていて、高さ10mを越える崖の端に根の半分を露出させながら立っています。主幹そのものの上部はなく、幹の周りから生長した6本の大枝が茂っています。枝張りは周囲に約20mあります。昭和40(1965)年2月に県指定の天然記念物に指定されている老名木です。
2021.09.26
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吉利支丹墓碑に来ました。32.90702, 130.57022この蒲鉾型の吉利支丹墓碑は、玉名地方唯一のもので前面に花十字を印刻してあり、16世紀中ごろのものと推定される。明治初年に地中より掘り出されたもので、東に向く方向、位置、形状等当時のままだという。また玉名の高瀬に永禄9(1566)年、ポルトガルの宣教師アルメイダがキリスト教を布教し、江戸後期になると城北地方で最も多くの信者がこの伊倉にいたという。寛永11年(島原の乱の4年前)、伊倉町にキリシタン信者がいることがもれ、長崎キリシタン奉行、肥後藩奉行、郡奉行等から捜索を受ける大事件もあった。宗門改めの令ではほとんどが改宗したが、その後、隠れキリシタンとしてバテレンの修法を守り、祭具、式目等を極秘に伝承したと伝えられる。 この吉利支丹墓碑は、玉名市指定重要文化財である。きちんと守られて保存されている。
2021.09.25
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堺会員より、有明新報に取り上げられてますよ、と連絡ありました。写真に撮って送って頂きました。荒尾史学会ではなくて、荒尾二造の会の方でした。立派な活動されています。
2021.09.24
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補陀落渡海及び板碑群(報恩寺跡)に来ました。32.90847, 130.57282補陀落渡海及び板碑群(報恩寺跡): 現在地は、中世寺院であった中尾山報恩寺跡であり、現在、大小十基からなる板碑の一群が残っており、その中の一基に補陀落渡海碑がある。 補陀落渡海とは、海上にあるとされる観音信仰における補陀落浄土を目指して往生(船出)することで、その供養として立てられたのが補陀落渡海碑である。 この補陀落渡海碑は、安山岩の自然石で三角形を帯び、地上高135センチ、幅90センチで、梵字阿弥陀三尊を配し、その下に「補陀落山渡海行者下野之住夢賢上人」、右にはこの碑の施主を明らかにする「本願尾州之住月照上人」の文字が刻まれている。 この渡海碑は、本市羽根木八幡宮の稲荷堂前にある渡海碑とともに全国的にみても大変貴重なものである。
2021.09.24
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宇佐八幡宮関係石塔に来ました。32.9085, 130.57271宇佐八幡宮関係石塔: 伊倉はかつて菊池川沿いの港をもち、肥後北部の要衝地として宇佐大宮司の直轄神領地として伝領された。 宇佐公満墓 1219年没。 公満は太宰大武や三国の国司を兼ねた公通の子である。伊倉七姓の祖伊倉地方の発展の基礎を造った人として知られた。 宇佐大宮司公長逆修塔(1260) 公満の子、公長が生前に自己の冥福を祈り建てた供養塔である。 伊倉保一方地頭沙弥行恵供養塔(1322) 宇佐公貞、公勝が行恵のために建てた供養塔である。 行恵は伊倉荘の北方もしくは南方の一方を治めていた地頭で、関東御家人であった。
2021.09.23
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大明振倉謝公墳に来ました。32.90855, 130.57219ここは、本堂山緑地の中にあり、この案内板の史跡は次回照会します。上の案内板の横の階段の途中に、石づくりの案内が在り、その直ぐ左側です。大明振倉謝公墳:この墳墓は、中国明人謝公の墓である。 墳墓の構造は棺郭も屋根型の厚い屋蓋も特殊な漆喰造りで棺郭の中の木棺と接するように別の木棺一基ががり謝公夫妻の墓であろう。 このような全面漆喰造りの墳墓形式は極めて特異なものである。 中国明代(1368~1615)の末期、日本へ貿易をめざして移住した明人の多くは有明海、八代海の河港近くに住み東洋の各地と交易をしていた。謝公もその一人である。 この謝公墳は伊倉堀川町の郭公墓とともに17世紀の始めごろまで伊倉が海外交流の拠点であったことを示す貴重な文化遺産である。振倉謝公墳 玉名市
2021.09.22
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宝成就寺跡古塔碑群(高瀬五山)に来ました。32.92752, 130.56159宝成就寺跡古塔碑群・石仏群 - 玉名市
2021.09.21
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保田木神社・保田木城跡に来ました。32.93122, 130.56446保田木神社(保田木城): 南北朝時代の正平2年(1347)、菊池武尚がここ保田木台に保田木城を築きました.ここは菊池川の下流をおさえ、有明海に臨む要衝の地だったのです。 武尚の子武国は高瀬氏を名乗り、代々の高瀬氏はこの城を本拠として菊池本家を支え、海外にも活発に進出しました。5代武教の名は朝鮮の「海東諸国紀」に出たほどです。貿易で築いた富で隣接の清瀬寺、宝成就寺など五ヶ寺(五山ともいう)や神社の保護に務めました。高瀬氏は16世紀はじめには菊池本家ともども衰亡します。 江戸時代に入り寛永11年(1634)、高瀬町は肥後五ヶ町のーつになり、保田木城跡に町奉行所が置かれました。 現在、城跡は保田木神社となり、菊池武尚と奈良時代肥後と筑後両国の国司をつとめた道君首名を祀っています。 なお、境内の一帯には縄文時代の貝塚の跡があります。
2021.09.20
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9/21日予定の講演会は、残念ながら、中止となりました。コロナにより、会場が市内の人に制限が入った為です。来月は再開出来る様に・・・
2021.09.19
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清源寺井戸跡に来ました。32.93065, 130.56385清源寺の井戸が確かまだあります。保田木神社と官軍墓地の間です。ご存知かもしれませんが、念のため。高瀬五山の清源寺は、この辺で、ここは寺内だったということです。
2021.09.18
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高瀬官軍墓地に来ました。32.93095, 130.5627高瀬官軍墓地 - 玉名市
2021.09.17
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願行寺の龍造寺隆信の首塚に来ました。32.93024, 130.56285龍造寺隆信の首塚:「肥前の熊」ともいわれた、戦国時代の猛将龍造寺隆信は1578年3月24日島原・沖田畷の戦いで有馬・島津連合軍に討ち取られた。 肥後高瀬川に遺棄された隆信の首は、ここ願行寺の四阿上人によって丁重に葬られ、その後1871年隆信の故郷肥前高傳寺に移された。 願行寺: 一遍上人を宗祖とする時宗のお寺です。貞和5年(1349)、遊行五世他阿其阿弥陀上人の開山によるものです。 寺は代々菊池・小代・大友・細川氏の保護を受け、天正年間には、玉名郡7ヶ村内に千石余の寺領を有したほどです。 御堂には本尊の阿弥陀三尊のほかに、鎌倉末期の時宗高僧の倚像が安置されています。また、天正15年(1587)、九州平定の際、当寺を宿陣とした豊臣秀吉が寺への謝礼として残したとされる陣太鼓も所蔵されています。 境内には、天正12年(1584)、島津・有馬の連合軍と戦って敗死した肥前の戦国大名龍造寺隆信の首塚と伝えられる石塔のほか、高瀬町別当をつとめた荒木家の五輪塔、高瀬町教導師黒田紫山の祠堂・祠堂記碑などがあります。
2021.09.16
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野原八幡宮・天満天神石祠・地神宮に来ました。32.96138, 130.4817 (2)野原天満天神石祠せきし 野原字山中 野原八幡宮境内(付図2-51) 野原八幡宮神殿東軒下にある石祠である(第73図)。「旹とき享保四(1719)乙/亥天三月廿五日奉勧請 天満大白在天神 肥後国玉名郡増水村之住 願主 猿渡弥市滋栄しげひで」と記すので、猿渡滋栄が祀ったことがわかる。南側に「延享元(1744)甲/子天七月再建 猿渡右衛門滋久」の刻銘がある。これは享保4年に祀った天神石祠が何等かの理由で破損し、その子滋久が延享元年に再建したとけとられる。御神体は失われている。 (2)野原のばら南屋敷地神宮 野原字南屋敷(付図2-45) 江川徳次氏方屋敷(野原南1585の8)にある。もと吉丸屋敷にあったという。高さ100cm、幅43cm、厚さ13cmの小岱花崗岩である。北面に「猿田彦大神」の陰刻の跡がみえる。春、秋の彼岸日に、煮しめと神酒を供え、神酒を石にかけ流痕の長さで米価を占なったと言う。
2021.09.15
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農地改革記念碑・川上芳太郎頌徳碑に来ました。32.96072, 130.48088(17)川上芳太郎頌徳碑 野原字宮ノ前(付図2-52) 八幡小学校の正門入口に建てられた碑である。川上芳太郎は、慶応3年(1867)9月1日川登村今寺に生まれ、野原村小山信胤塾に学び、塾の教師となり、八幡小学校開校とともに、開校に奉職、以来32年多くの子弟を教導し、その後長洲小学校5年計37年間教鞭をとり、大正8年教員生活を退くまで、数百名の子弟を社会に送った。碑は大正8年、岩尾喜鶴、村上市八、磨墨香川らが相謀って建碑したものである。 <福島作蔵〉(16)農地改革記念碑 野原字宮ノ前(付図2-52) 八幡小学校校庭にある。題字は熊本県知事桜井三郎。昭和20年8月18日 記載事項の主たるものは、「荒尾市第二地区(旧八幡村、旧府本村) 農地買収 248町6反4畝6歩 延人員490人農地委員会事業経過 1.農地買収 総面積2,048町6反4畝6歩 1.買収サしタル地主ノ延人数490人 1.買収ヲウケタル農家延人数1、453戸 1.農業田施設 1.買収反売渡 宅地 20,813坪 建物 25棟 1.未開墾地買収 総面積 78町1反6畝8歩」 その他多くの石刻文がみられる。
2021.09.14
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吉丸屋敷宝塔残欠跡に来ました。32.96043, 130.47851(11)吉丸屋敷宝塔残欠 野原字吉丸屋敷(付図2-46) 吉丸屋敷は八幡小学校西隣「前田」に隣接し、南は国道208号線、東は国道より八幡宮鳥居前に通ずる通路、北は「もうで(門田)」と称する地区に囲まれ、近年都市化の進む当地方にとっては、珍らしく原型を維持する屋敷跡である。 屋敷の中心に当る上田日左太郎氏方敷地の小こ屋敷という辺りは、曲りくねった道、溝、土塁に囲われ、中世の五輪塔、宝塔類が1ヶ所に集積されている。この中にある宝塔塔身は群をぬいた好塔である(図版6(2))。軸部の高さ34cm、心径30cm、円壔えんちゅう形、首部は高さ7.5cm、正面に方郭ほうかくを造り、浅い彫り窪めの中に二仏の並立像べうりつぞうを陽刻するが、頗る磨耗し尊名の判定は困難である。ただ左右に金胎こんたい二尊の「バ」「アーンク」が配されてあるが、背面の梵字は削り取られて明らかでない。相輪そうりんは中央部を欠失し、上・下の部分が現存するが、これが塔身と一具をなすものかどうかは明らかでない。考古資料として重要である。この記述により探したが見つからず、ご近所の方に伺ったら、此処を案内して貰った。「今は無し。以前は畳2条程度に残欠が集められていたらしいが、供養して処分した?みたい」との事。
2021.09.13
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三池藩処刑場跡地に来ました。33.01066, 130.43728こちらも御覧ください。https://ameblo.jp/tegama-asunaro/entry-12417407720.html
2021.09.12
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庄山猿田彦大神碑に来ました。33.00924, 130.51458猿田彦を探して、見つからず、帰り道沿いに石碑を見つけて、近づきました。猿田彦大神と刻字されています。これだ!(74)庄山猿田彦大神碑 上平山字山際(付図2-256) 庄山小岱山登山路のかたわらを公園化したところに、昭和40年1月30日の熊本県知事寺本広作書道路建設記念碑と相対して建てられてある。下幅45cm、上幅38cm、厚さ23cm、高さ208cmの巨大な凝灰岩に「猿田彦大神、天保四歳巳、庄山産子中」と大書されている。 もとこの上の方、鉄拐の丘阜上にたてられていたものをここに移設して祭祀している。きっと、移設されたのでしょう。
2021.09.11
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猿田彦の元場所:道路記念碑に来ました。33.00389, 130.51765猿田彦の場所は、確かこの辺で、本に載っているのですが・・・ありません。奥へ進むと、木立の合間に、石碑が見えました。道路記念碑と書いてあるので、この道路を作った記念碑の様です。隠れてしまって気づかれない状態です。
2021.09.10
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庄山水神宮石祠に来ました。33.00798, 130.51531(73)庄山しょうやま水神宮 上平山字栄田(付図2-257) 稲作農民にとって水は生命である。水源、池畔、提防、井戸端、河川に水神がいろいろの形で祀られている。 ここの水神塔は、2段の石階の上に、基礎石をのせ、塔身は、正面を筥形に彫りこんで厨子をつくり、奥壁に「水神宮」と大きく陰刻する。荒尾地方で唯1基みることの出来る水神碑である。
2021.09.09
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金屋番所跡に来ました。33.00209, 130.50696ただ此処は、説明板も無く、よく判りませんでした。この路地裏が旧道で、この辺りのハズです。(68)金屋番所 平山字平(付図2-251) 平山城より平山宇城の下、高尾をへて県道荒尾~南関線を横ぎる古道が往時の関道である。道嘔も狭く、溝渠みぞに架る石橋や、民家の石垣から江戸時代が偲ばれる。金屋の人口に当る字「番所」は山川工務店の屋敷である。ここは記録によると肥後藩の米穀不法搬出を禁止するために番所をおいたところのようである。 関道は金屋村中より天神社下を通り、金掘を山越えして一ノ谷より庄山屋敷に入る。再び龍原りゅうのばるの山路にかかり南関町杉本に出る。
2021.09.08
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唐崎宮に来ました。32.99953, 130.49483夜燈(よど)(9月10日):荒尾市HP「祭りやイベント」場所:唐崎宮 400年の伝統があり、夜通し賑わったことから夜燈(よど)と呼ばれる。手作りの行灯行列は幻想的。18時30分頃から20時頃まで
2021.09.07
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八つどんの石祠・禁厭板碑に来ました。32.99788, 130.49636毘沙門天への入り口かどに在ります。(66)八やっどんの石祠(図版12(3)) 平山字籏ヶ坂(付図2-267) 城集落西の平坦な丘陵は大蔵と称し、中世寺院大蔵寺の跡と伝えられ、今は毘沙門天堂のみ残る。堂前150 m程の所に八っどんと言われている石祠がある。広形の阿蘇凝灰岩の中味を刳くり出し、柱、壁、入口の袖壁等を模し、別石製の寄棟四注平入よせむねしめひらいりの屋根を載せる構造である。装飾を省くいたって質素な点を除けば妙見石厨子、住吉明神石厨子と似ている。大きさは軒幅81cm、軸石の正面幅31cm、奥行45cm、低い基礎に載る。 この石祠は経典奉納用の宝篋ほうきょうと推定した。 30年程前までこの中にご神体として「八つどん」「八つの尾さん」と呼ばれる石体が1基安置されていた。長さ37cm、中央周囲55cm、重量14.6kg、黒色紡錘ぼうすい形団塊で、故坂本経尭氏により隕石と紹介された。その後盗難をおそれて、氏子の家々を輪番で保管されている。名称の起こりについて次のような伝承がある。「昔八つ(丑うし)刻に雷鳴もろとも八つの光芒ぼうを曳いてドーンと落下したものがあった。翌朝調べてみると大穴の中に見慣れない石が落ちていた。住民はこれを八大龍王の御神体として石祠を造り奉安した。」というのである。 限石説もここから生じたと考えられるが、隕石かどうかの断定は化学分析の結果をまたねばならない。筆者は火山弾の一種と鑑定する。 ①禁厭きんおん板碑いたび 八つのお石殿の中には二つに折れた自然石石碑が祭祠されている。全長65cm、幅20cm、片刃の剣状で背厚さ13cm、刃厚さ6cm。小型ではあるが内容的に珍らしい。板碑正面上方に2ヵ所径13.5cmの円相がありその中に曼荼羅種子が描かれ、下部に「急々如律令刄」と陰刻文がある。刻文の下部欠失が惜しい。この偈文げぶんは山伏や修験者によく使用される護符の一種で、一般に禁厭符と呼ばれる。曼荼羅は中央カーン(不動明王)、東アーク(不空成就)、西タラーク(宝生)、南ウーン(阿悶)、北キリーク(無量寿)と配置される金剛界五仏曼荼羅といわれるものである。この上方の円相内に類似の曼荼羅があるが彫りが浅く明瞭でない。 八つのおさん信仰は遺物、伝承から、山伏を呼んで大蔵寺寺域で盛んに雨乞い祈願の修法が行なわれた事に起因するのではなかろうか。現在、年2回程〆繩が張られ御幣があげられている。
2021.09.06
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大蔵廃寺毘沙門天堂に来ました。32.99777, 130.49483(65)大蔵おおくら廃寺毘沙門天(図版12(1))平山字簸ヶ坂はたがさか(付図2-268) 城集落西の平坦な丘陵を大蔵という。中世寺院の跡で小堂のなかに、小代八郎影向ようごう仏と称する毘沙門天像が1軀ある。その法量は、総高180cm、像高160.5cm、楠の一木づくり、無銘ではあるが、室町時代中頃の製作である。右手に宝棒、左手に宝塔を捧げ邪鬼を踏みしめた武装忿怒ふんぬ形は、仏法守護、北方守護の法力をそなえ、衆生のために除災招福与えるところより参拝者が多い。 調査者菰田宗二郎(文化庁公認)、多田隈豊秋(元福岡県文化財専門委員)。
2021.09.05
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浄光寺阯五輪塔に来ました。32.96347, 130.43893浄光寺阯と、この五輪塔は、以前ご照会済ですが、草ボウボウの中、良く見えませんでした。「草刈りしてキレイになってる」との情報でしたので、見に行きました。なんと!こんなにキレイに見られます!!以前の写真と比較してみて下さい。201029蔵満・浄光寺五輪塔これで、此処に説明板があれば良いのですが・・・
2021.09.04
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社日さんに来ました。32.94636, 130.50388お堂が崩れたのか、ビニールシートがかかっていました。 3.荒尾地方の地神信仰 天神信仰とともに地神に対する信仰は地神塔、山の神塔の存在でも明らかである。 春分、秋分に最も近いツチノエ(戊)の日を「社日」といい、この日に地神を祀る。地神を祀る講を地神講、社日講とよぶ。子供の頃は「社日さん」、「地じんぐさん」といってアンコロ餅をよくたべたものである。一般に土を動かしてはならぬという禁忌がある。講中が当家に集り地神を祀り酒を飲んで、言わば農家の休日でもあったわけである。今も大切に守られている様です。前が国道208号線です。三池往環の旧道と208号線につながるこの細い道の左手に在りました。
2021.09.03
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本村薬師堂に来ました。32.94227, 130.50348 八郎丸の小名をもつ屋敷跡には土塁、空堀の痕跡を残さぬが、村本、前田、野田の7家が、9尺2間の薬師堂(付図2-75)を護っている。堂内の薬師仏は江戸時代中期の彫作で、総高27cm、享保2年(1717)8月8日、彩色したとされている。きれいにされていました。
2021.09.02
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うえがた観音堂に来ました。32.94281, 130.50175道路から、個人宅の裏のあぜ道ほどの小道を上ると、上の畑の横にある。 金山縫製株式会社南の大辻屋敷にも うえがた観音堂(付図2-71)があり、多量の中世五輪塔の集積が見られ、金山地方中世名主屋敷の持払堂跡の印象がもたれる。
2021.09.01
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