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市民バラ園に来ました。32.996739, 130.427764コロナ規制で立ち入り禁止の情報をお伝えしたまま、でしたので、様子を見に来ました。規制は解かれて、ゲートも空いていました。バラも咲きほこっている様でした。どうぞ、お出かけ下さい!
2021.06.30
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峠の岩清水に来ました。32.59989, 130.77741名水との事です。こんなところにあります・・小川町の東端に、美里町へ通じる標高300mの白石野越と呼ばれる峠があります。小川町の中心部からおよそ9Km、かつては長崎や鹿児島、遠くは異国とも交易があった港町として栄えた小川町と、矢部や五家庄などの九州の中央部とを往来する物資の重要な要衝となっていた峠です。その峠からおよそ500m下った小川町舞鴫(もうしぎ)地区蕨野(わらびの)に、「峠の岩清水」があります。標高265m、県道105号線の急カーブ脇にあり、花崗岩質の大きな岩盤の裂け目からこんこんと湧き出す清らかな水は、古くから地元では「出水さん」と呼ばれ、枯れることなくここを通る旅人ののどを潤わせてきました。昭和30年に発足した舞鴫地区住民でつくる「蕨野岩清水保存会」が、平成6年度に地下に浸透していた分をコンクリートで固定するなど周辺を整備しました。現在の湧水量は日量40t程度で、湧水を溜桝(ためます)にため、3本の水道管に流す工夫がしてあります。詳しくは、峠の岩清水 | 熊本県総合博物館へ薩軍陣所跡があるらしいのですが、水汲みに来た人に聞いても分からず、どれ位行くのかも分からず、訪れませんでした。(gooブログより) 県道105号線を美里から宇城市街方面に進行すると、峠の石清水という湧き水がある。この石清水は標高二六五メートルの蕨野断層から自噴し、古来涸れたことがないという湧き水である。西南戦争では、三月二十六日、敗走する薩軍がこの地(芥神峠)の洞窟に陣所を構えて立て籠もり、石清水で飯盒炊きしながら駐屯した。二十八日未明、石清水を水筒に汲んで、雪明りをついて難所の白石野越を、積雪を掻き分け中山郷へ遁走した。
2021.06.30
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今日は良い天気で、競馬場跡地の様子です。ユンボが居なくなってます。一応の道路工事完了の様です。上の写真の、右手の新道路です(下の写真)。侵入規制が無く、入っても良いようです。なんか、雲に登ってゆきそうな・・好い写真!そして、荒尾駅からの道・・こちらも規制が解かれ、入って良いようです。32.993625, 130.430104なんと!荒尾の新しい道路の形・・左端が歩道、横に自転車道となっています。でも、100m先は行き止まり・・ここに、沿岸道路のインター降り道がつながるのでしょうか?#熊本,#荒尾,#史跡,#史学会,#競馬場跡,#新道路,#自転車道
2021.06.29
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昨日のアクセス数が、新記録を出しました。この様に、887です。皆さんに感謝!です。有難う御座いました。
2021.06.29
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竹崎秀長公墓に来ました。32.60065, 130.75546周辺は公園になり、駐車場もありますが、墓は外れに在り分かり難いので案内板が要所にあります。そして、墓です。没年が1314年頃と云われていますので、その頃の墓なのでしょうか?しっかりと守られています。
2021.06.29
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諸隈会長が、グーグルのニュースに登場、その元は西日本新聞でした。https://www.nishinippon.co.jp/item/n/761713/若々しく撮れてますよ。
2021.06.28
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塔福寺に来ました。32.58491, 130.74554竹崎氏の菩提寺です。竹崎季長 - Wikipedia を
2021.06.28
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懐良親王御陵に来ました。32.4935, 130.64243王墓が出来る以前には護神寺が建っていたそうです。懐良親王(かねながしんのう)1329~1383 (まるごと八代!より)後醍醐天皇の十六皇子で、南朝の征西将軍宮として康永元年(1342)薩摩に上陸、南朝方の菊池、阿蘇氏らの助けによって北上し、延文6年(1361)大宰府に征西府を置いた。一時は全九州を統一するほどの勢いであったが、北朝の鎮西探題今川了俊に次第に圧迫され、応安5年(1372)に大宰府を追われ、菊池に退いた。永和元年(1375)征西将軍職を良成親王に譲り、筑後矢部に隠退し、弘和3年(1383)この地でなくなった。親王の墓は各地に伝説があったが、明治11年(1873)宮内省の調査で、八代郡宮地村(現八代市)の墓地を親王の墓とし、翌々年八代城本丸跡に親王を祀る八代宮が創立された。懐良親王御陵
2021.06.27
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いま、中央公民館から連絡がありました。「県外の方の施設利用に制限がありましたが、解除されました」との事。大牟田の方の来訪もよくなった、という事です。7月の講演会は開催出来そうな様子になって来ました。よかったぁ!(私は、今日、これからワクチン接種1回目です。会長は、もう2回目済んだのかな?)
2021.06.26
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春光寺に来ました。32.49133, 130.63599春光寺:明治10年(1877)の西南の役では、この地は戦場となり、所々に弾痕が残っています。春光寺 しゅんこうじ国指定史跡:八代城跡:昭和40年4月12日指定 春光寺は八代城主松井家の菩提寺です。 その創建は、 天正11 年 (1583) 初代松井康之が亡父正之追善のため、 丹後久美浜(京都府京丹後市久美浜町) に常喜山宗雲寺を建立したの に始まります。 その後、豊後杵築・豊前小倉・肥後熊本と移り、延宝 5年 (1677) 直之の代に現在地に移され、 江東山春光寺 と改称し、今日に至っています。 寺名の由来は. 松井康之の法号 「春光院殿英雲宗傑」によります。 境内の本堂は明治時代の再建ですが、 大書院及び庫裏は熊本の臨川山松雲院(熊本市中央区東子飼町) から移築したままの姿をとどめています。 大書院には城主の 「お成りの間」と「お次ぎの間」があり、 大床・違棚・畳廊下がみられるとと もに板戸の極彩色の花鳥図・大襖の農耕の絵・欄間の波と葦を表した表した豪華な彫刻など、建「築意匠としても優れた特徴がみられます。 また、 裏山には松井家歴 代の古・新潮と、 主君に した10名の墓があ ります。 平成28年3月31日 八代市教育委員会 春光寺 臨済宗。八代城主・松井家の菩提所。 1646年松井興長が八代城に入すると、北の丸(現 ・八代一中) の泰勝院(細川幽斎菩提所)を松井家菩提所・宗雲寺に改める。 1675年、泰嚴寺(織田信長菩提所) 焼失後、泰嚴寺を北の丸に移し、1677年、新たに当地に松井家菩提所・春光寺を開く。同年、講堂も落成する。 境内はかつて相良家時代の陣内であった場所。石桁橋をわたると門がある。門は八代城三の丸永御蔵の門を1987年に移築した。 無骨な薬医門である。門塀の瓦に細川家紋、松井家紋がある。門の隣も永御蔵番所の移築である。 現在の本堂は明治時代の再建である。寄棟造のしころ屋根で、正面右側に唐破風がつく。唐破風は参道軸上に位置する。屋根 は近世寺院の造形を継承し、中心をずら唐破風は、禅宗寺院の方丈の玄関を継承する。この唐破風の??をはじめ松井家の三ツ笹紋が多用されている。 本堂裏の大書院・庫裏は熊本・松雲院から移築した当時の もので、お成りの間、お次ぎの間があり、座敷飾り、極彩色の板戸の絵、欄間彫刻など建築意匠も豪華である。大書院からは庭園・長春園を望むことができる。 裏の高台には松井家歴代の墓所である古廟・新廟がある。丁度、紅葉が見事でした。
2021.06.26
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訪れたかった宮崎八郎戦没碑に来ました。32.50056, 130.62706此処萩原堤一帯は、明治10年の西南の役に於て田原坂と共に多数の死傷者が出た激戦地である。 当時、熊本共同隊の参謀長であった宮崎八郎は薩軍を援助して奮戦したが4月6日の拂暁、遂に此の地で戦没した。時に弱冠27歳であった。 因みに後年中国革命の父孫文と校友深く活躍した宮崎滔天は、その実弟にあたる。(後略)宮崎八郎 - Wikipedia宮崎八郎とその時代 | 宮崎兄弟|荒尾市宮崎兄弟生家資料館パンフ#荒尾,#史跡,#史学会,#宮崎,#八郎,#宮崎兄弟
2021.06.25
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八代・種田山頭火句碑に来ました。32.50071, 130.62654自由律の俳人として知られた種田山頭火は、昭和5年9月9日熊本を発ち、八代萩原塘の吾妻屋に一泊したあと宮崎・鹿児島・大分方面へと行乞の旅を続けた。それまで書きためていた日記を出発直前に焼き捨てているため、わたしたちが今日読むことのできるのは山頭火が思いも新たに旅へ出た日に八代の宿で書き記した部分からである。その意味では、八代は山頭火再生の地と称しても過言ではない。新たに書き起こされた日記の冒頭を飾る句が、「このみちや いくたりゆきし われはけふゆく」 である。 八代山頭火句碑建立期成会では、記念すべきこの句を碑面に刻み、見晴らしの良いここ萩原塘に据えたることで異色の俳人の文学的業績と放浪・漂泊の生涯を後世に伝えようと発起した。愛知県松山市の大山澄太先生のご尽力により句碑本体には伊予の青石を用い、碑文は日記の文字を拡大複写することができた。また、会員が五木村より取り寄せた石で台座をかため、石のベンチも据えた。この場所が山頭火ファンのみならず広く市民の方々から親しんでもらえるよう、心から祈念するものである。
2021.06.24
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萩原堤に来ました。32.50077, 130.62635萩原堤(堤防):この堤防は加藤右馬允正方が松江の地に新しく八代城を築くに当たり球磨川の洪水から城下町を防護する重要な水衝部に強固な堤防とそれを補強するため「天神七刎」を築いた。 加藤家改易後、細川三斎、松井家代々、当主は堤防に松を植え、のちに「松塘」といい、その景観は「八代八景」にも詠まれる名勝地であった。1750年6月の大洪水で決壊したが、郡目附稲津弥右エ門頼勝によって修復された。今も4つの刎跡が遺っている。(注)刎(はね)については、以下の資料を参考に。緑川中流域において藩政時代に考案された 合流点
2021.06.23
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山頭火石像に来ました。32.43343, 130.57408日奈久温泉のシンボルとなっている様です。自筆の文がありました。
2021.06.22
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もう一箇所の官軍上陸地Bに来ました。32.43377, 130.57351日奈久温泉の前の港です。こちらは、大きな石碑が建っていました。西南の役と日奈久: 西郷隆盛は15千の兵をひきいて熊本城に迫ったが当時日奈久は薩軍の勢力下にあり糧食基地であった。3月19日日奈久南方洲口に官軍数百の兵が上陸、その援護に日奈久に向って艦砲射撃、これと前後して数隻のボートにより日奈久港に上陸を敢行したとき銃火が交えられたその時の官軍の銃弾のあとが海岸に面していた八代屋二階の柱に痕跡をとどめている。 穂多田正典書港石碑の向いにくまもんが居ました。干物屋さんでしょうか?
2021.06.21
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セキアヒルズに行ってみました。33.06006750712663, 130.51162066548815ホテル・グランデセキアです。ロビーに明かりは見えましたが、5月9日~6月30日まで、コロナで休館との事です。ダンボールSL館も閉まっていましたが、ガラス戸越しに写真撮ってみました。
2021.06.20
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官軍上陸地Aに来ました。32.42229, 130.55495標識が建っていましたが、サビだらけでした。維持管理は大変です。詳しくはこちらをどうぞhttps://www.welcomekyushu.jp/event/?mode=detail&id=9999902006962&isSpot=1&isEvent=
2021.06.20
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「みよし」でお昼です。32.23432244204733, 130.4651264846565下調べしていたお店です。おばぁちゃんがやっている食堂で、ちゃんぽんがメインです。評判通り、懐かしい美味いチャンポンでした。Gマップではくちこみをご覧下さい。食べログでは
2021.06.19
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一部漁港にきました。32.9671333,130.43155その日の有明海(島原)です。満潮でした。曇りでした。
2021.06.18
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久しぶりに、鎌倉将軍三代の塔に来ました。32.985885, 130.434531また、後日、詳しく照会します。
2021.06.18
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津奈木城に来ました。32.23375, 130.46003右下に、「小代氏」が、(前略) 関ヶ原の戦い以降は、加藤清正領となり清正の重臣が津奈木城の城主を勤めることとなった。平野長時・小代下総守・竹内吉兵衛・森田義太夫らの名を見ることが出来る。(後略)城跡までは車で登れる。では、天守台へ頂上からの眺め。以前から、小代氏の転勤先ということで来たかったのですが、実はもう一つの理由は、紅葉です。紅葉の名所だと、以前行った人からの伝言があったので、どうせ行くなら紅葉の時期にと、今日にした訳ですが・・・全然パットしません!今年は紅葉の外れでした。名所の重盤岩
2021.06.18
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峰崎官軍墓地に来ました。32.30538, 130.509411890年建立。明治10年の戦争における政府軍戦没者86名の墓地である。みかん畑の狭い畑道をのぼってゆくと、道沿いにある。駐車場もある。薩軍の墓も、と思ったが分からなかった。以下の資料にであった。薩軍兵士の日記である。(佐 々 木 克先生著資料)「高城 (七之丞,三番小隊長)日,今般上京 ノ儀道中非常警衛 ノ為ニシテ何 ソ戦争二及フノ主意ナランヤ,只手 ヲ懐こシ道中歌 フテ行 ン,実 ンソ戎服二及 ンヤ ト,蓑二於テ同十六日通 ヲ出水街道二取 り,該隊倶共二鹿児島出発,熊本県下佐敷 ノ駅二至ル時初テ先隊既二台兵 (鎮台兵) ト戦端 ヲ開ク事 ヲ聞ケリ・・」
2021.06.17
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大瓦の横に、城代加藤縁者の墓がありました。この2つの石塔は佐敷城代加藤重次(?~1613)の母親の逆修塔と奥方の墓と伝えられ、(後略)
2021.06.16
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発掘された文字瓦のモニュメントです。32.30359, 130.50432日本一の大瓦だそうです。 佐敷城跡の棟飾瓦(鬼瓦)で発掘調査により出土した全国唯一の文字瓦です。 年代については慶長年間とされ、堂々たる筆跡から高僧の作といわれており、歴史を物語る貴重な資料として、20倍の巨大モニュメントを建設しました。
2021.06.15
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佐敷城跡内に、石碑が在りました。山王三所大権現だそうです。『ウィキペディア(Wikipedia)』権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。
2021.06.14
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貰ってきた、佐敷城のパンフを照会上は、関連年表です。下は、城の歴史です。次のページ
2021.06.13
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中央公民館より電話がありました。「6/14日より開けます。15日は開催は可能ですが、県外の方の参加は駄目ですが・・・」との話し。大牟田の方が参加出来ませんので、中止の連絡のままと、します。7月は、開催予定です(今のところ・・)。
2021.06.12
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20112301佐敷城跡に来ました。32.303125, 130.502628 佐敷城は、16世紀後半に肥後国(現在の熊本県)を治めた加藤清正が薩摩国(現在の鹿児島県)や球磨、天草地方へつながる交通の要であった佐敷に築かれた近世城郭で、城山(標高87・3m)と呼ばれる丘陵一帯を城域とし、山上からは不知火海や天草諸島、城下町、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠を一望できます。 肥薩国境を守る「境目の城」であり、島津軍とは二度、直接戦火を交え、これらの戦いにまつわる言い伝えは葦北郡一帯に残っています。 大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永15年 (1638年)、天草・島原の乱終結直後にも江戸幕府から、「壊し方が不十分」と指摘され再度壊されたことが、古文書や発掘調査等により確認されました。 城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成され、石垣は石材や積み方の違いなどから三時期に分けられ、築造技術の進歩を一体的に確認することができます。また、石垣隅角部や石段を念入りに壊すなど、「城の壊し方」の痕跡が確認されています。 発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦や豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦、文禄・慶長の役に際し朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土しました。また、本丸周辺からは、お酒を飲む杯(かわらけ)とともに魚の骨や貝殻が出土し、宴会を楽しむ人たちの姿を想像することができます。 このように佐敷城跡は、石垣築造技術の進歩や一国一城令による破壊の実態等、近世初頭頃の政治・軍事を知るうえで重要な遺跡であるとして、国史跡に指定されました。実は、小代氏の転勤先の津奈木城を訪問する目的で、周辺の史跡もついで、の旅です。津奈木城の紅葉がすばらしいとの事で、この時期にしました。最初は、この佐敷城で、数回に渡ってご紹介します。石垣がきれいでした。一度崩されたのでしょうか?
2021.06.12
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しまったぁ・・・見逃した!
2021.06.11
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277C 番城跡を探しました。推定地32.96667, 130.49525 ⑤番城ばんじょう 樺字番城(付図2-277) 円城の北方下の水田地帯に「番城」という字名が残っている。地形的に見て、館跡と思われる様な微高部分はないが、後世の開墾による結果とも考えられ、一概に否定は出来ない。狭い農道から左の畑の先にあります。入れませんでした。この道をさらに進むと、菜切川に出て、賀庭寺に繋がります。
2021.06.11
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現在のアクセス数=123006 です。あと450です。多分、土曜12日ではないかと思われます。皆さんと一緒に見てみたいと思っています。見られた方は、コメントでお知らせ下さい。
2021.06.10
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本村館跡の南側、随分と掘り進められました。32.9742583,130.4456472
2021.06.10
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6/8の有明海です。干潟でした。
2021.06.10
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278C 鳥ヶ城跡を探しました。推定地32.96428, 130.4985 ③烏うヶ城 樺字鳥ヶ城(付図2-278) 丘陵地の末端に位置する市立府本小学校一帯に「鳥ヶ城」という字名が残っており、地元では城跡と伝えている。しかし、開発が進んでいるため、城跡に関連あろうと思われる遺構は、観察出来ない。県道124号から入ります。写真の先が124号線で、右が府本小学校です。この道へ入ると、すぐ左手にこの様な地点がありましたが?よくは判りません。
2021.06.10
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279C 円城跡を探しました。推定地32.96523, 130.49653ちょうじん山賀庭寺住僧墓のあったナシ園から更に山頂部です。 ④円城えんじょう 樺字円城(付図2-279) 市立府本小学校の北側対岸に、迫を挟んで位置する丘陵の末端に「円城」という字名が残っており、「鳥ヶ城」と同様に、地元ではここも城跡と伝えている。丘陵地は、東西に主軸を持つ楕円形状の平地があり、端部の西側には小山状をなす高まりがある。さらに、丘陵の付け根にあたる東側部分の「野首」は、極端に、くびれている事から、景観的には城跡として体裁がある。しかし今日、全面ミカン畑に開墾されている事から、これ以上の推論は無理である。ここナシ園から賀庭寺方面の眺めです。良く分からなかったので、反対側からの(府本小学校の横を入って)登頂を試みました。この道の先が、上の写真の地点だと思われますが、ミカン畑で入れず。
2021.06.09
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57I 豪潮律師妙法蓮華経一字一石埋納地・イザヨイの墓がよく判りません。推定地です。32.95739, 130.47855ご存知の方は、教えて下さい。資料によると、同じ位置ですので、並立している様です。(12)豪潮ごうちょう律師妙法蓮華経一字一石埋納地 野原字釜田(付図2-57) 豪潮律師は、玉名郡山下村(今の岱明町高道)安養寺塔頭たっちゅう専光寺2代貫道の二男として、寛延2年(1749)6月18日に生れた。宝暦5年(1755)9月3日繁根木山寿福寺豪旭の弟子となり快湖と称し、野原山霊験寺に移り住んだ。 宝暦8年(1758)10歳の快朝は門徒衆に法華経が妙典であることを説き、一石に一字宛写経させ、これを埋納供養して、この上に一字一石塔を建てた。元の場所は今の八幡小学校校庭であったが(付図2-55、第73図)、明治初年神仏分離のため、経石は西方の現在地に移し、一字一石塔は樺区賀庭寺に移設した。石塔の碑銘は磨耗しているが、宝暦8年仏生日(4月8日)八幡宮別当野原山霊験寺教寺現住快潮謹誌と刻んである。 法華経を一石に一字書写すると無慮6万9384コになる。(13)イザヨイの墓 野原字釜田 野原共同墓地(付図2-57) 塔身だけでも高さ105cm、幅45cmの巨大な石塔である。正面を花頭形に縁どり、「清右衛門墓」と大書し左側面に十六/夜 役人中 平山寿吉外4名の名を連ねる。 村人は相撲取の墓という。力士清右衛門であろうが、十六夜いざよいと呼ぶのは、相撲のシコ名だろうか。十六夜を三尊仏配置の鼎位ていいにおいた意味はどうしてだろうか。この推定地の周辺は、墓所があるが、分からなかった。ここは、道路沿いの高台にあり、崖を登れなかった。奥に石碑があるのは分ったので、写真を拡大してみたが、よくわからない。
2021.06.08
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40B 下川原の塚に来ました。32.96083, 130.47417 ③下川原しもがわらの塚 川登字下川原(付図2-40) 第一菰屋橋の北方約10mの水田中に在る。径2~3m、高さ70cm。硯川の氾濫原のためか、水田の畔には30~50cm大の石塊が山積みされている。この塚状部にも石塊が巣積されている。地元では塚の呼称もなく、また伝承もない。塚状部のすぐ近くにこれと似た形状地に墓地があるところから墓地の可能性もある。遺物として土師器の細片があった。未調査。直ぐ近くに同じような形状地があった。こちらが墓地か?
2021.06.07
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89I ちょうじん山賀庭寺住僧墓に来ました。32.96508, 130.49475 ⑤ 賀庭寺住僧墓 樺字円城(付図2-89) 硯川を距てた「ちょうじん山」という所に4基の住僧墓がある。最古の夫婦の石塔には、 覚了院道察禅定門 貞享五戊/辰(1688)七月十六日 涼峯妙察禅定尼 延宝八庚/辰(1680)十一月廿八日 孝子 敬白 の銘が刻まれている。 2基目は 当寺中興開山贈権大僧都法印慶玄大和尚位 寛保三発/亥(1743)天九月十二日 3基目は無縫塔むほうとうである。 権律師円観院豪源 寛保三発/亥年(1743)六月初日 この石塔は筑後三池今山吉田甚六という生縁者が之を建てたとしてある。 4基目は 権律師快良大徳 賀庭寺中興三世 宝暦十一辛/巳(1761)天七月十日 以上4基は、賀庭寺再興の住僧墓であり「数年退転セシヲ、貞享3年(1686)再興シ乞、元禄13年(1701)造立シ、延暦寺ノ末寺トナレリ」の『玉名郡村誌』の記述を裏付ける資料である。此処は、梨畑のなかに在った。最初は、入っては行けないかなと、ためらったが、本の地図が先を示していたので、見えるところまで、ナシ園の道を進んだ。かなり入ったところで、墓石が見えた!!ナシ園の方も、ここだけ手を入れず保存して頂いたようだ!草刈りは、ナシ園なので、きれいに除草されていた。
2021.06.06
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アクセス数カウンターが、現在=121702 となりました。アクセス数=123,456 となるのは、週末と予想されます。楽しみです。是非見てみたいものです。
2021.06.05
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99H 馬場天神石祠に来ました。32.96647, 130.49016県道26号線沿い、賀庭寺入り口に在ります。 (6)馬場天神 樺字堂辺田(付図2-99) 硯川、賀庭寺馬場口にあったが、昭和51年道路拡幅のため東方100mの現在地に移す。 四注平入しめひらいりの石厨子いしずし内に天神石像を安置する。祠前に、「文化五年(1808)六月、仁左衛門」銘の石燈籠あり。道路拡幅の際、幅29cm、高さ17cmの地輪1基出土。碑面の痛み甚だしいが、次の銘文をよむ。「奉逆修石塔一基、妙善神尼、大永五乙/酉(1525)九月十ロロ(不明)」。妙善が生前に法供養して立塔したもの。いま、賀庭寺石塔群中に安置する。
2021.06.05
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107i 雲霧栄七の墓の位置が分かる方、いらっしゃいませんか?(40)雲霧くもきり栄七えいひちの墓 樺字相撲場すもうば(付図2-107) 椛区相撲場の山中にある郷土力士の墓碑である。「雲霧栄七墓、明治十二年九月二十八日五十有八年而歿」とあり、世話人の氏名が塔身、基礎に45名列刻されてある。金山、井手、平山、川登、野原、菰屋、府本、椛の力士たちのシコ名にその当時の日吉ひえ神社草相撲の盛大さが偲ばれよう。推定位置は、32.96885, 130.49126周辺を見ましたが、不明。
2021.06.04
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97i 硯川笠塔婆(やぶどん)の位置が分かる方、いらっしゃいませんか? ⑨ 硯川笠塔婆(やぶどん) 樺字硯川(付図2-97) 硯川妙見堂の対岸、河部喜藤氏屋敷裏、藪のなかに数個の中世石塔片がある。地軸上に柱状の「やぶどん」という石塔婆が置かれている。下幅17cm、上幅16cm、高さ54cmの下張り上細りの四角柱状塔である。頭頂部に高さ16cm、径8cmの笠石をうける首か枘が付くので笠塔婆であろう。 塔身の4面、中央を二重光背形に彫り凹めた龕中に、弥勒(東)、弥陀(西)、薬師(南)、釈迦(北)の四仏を高肉彫する。東と南の配置に疑問をもつ。推定位置は、32.96524, 130.48941辺りを見ましたが、判りませんでした。
2021.06.03
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島原です・・・満潮でした。曇ってました。堤防線です。
2021.06.02
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109H 毘沙門堂に来ました。32.96939, 130.49535天神堂から北へ100mくらいの所で、車道の道沿いです。 ④ 毘沙門堂 樺字毘沙門(付図2-109) 金塚天神の北にある本堂は、賀庭寺の鬼門にあたる東北地に置かれたものといわれる。 堂内に近世作の毘沙門天像を安置し、堂外には江戸期末の石燈籠をおくほかは賀庭寺の昔日を語るものはない。ただ、堂一帯を毘沙門という門名で呼称すること、20数戸の門田姓があることは本堂の歴史を伝えるものであろう。
2021.06.02
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108E 金塚製鉄跡・金塚天神堂に来ました。32.96845, 130.49521 ③金塚かなつか遺跡 樺字榎原えのきばる(付図2-108) 小岱山製鉄遺跡群の中では、最も低地に立地する遺跡である。硯川流域の水田中に位置し、遺跡の一画には「金塚天神」と呼ばれる小堂が建っている。スラグ・炭化物の散布は、その堂の周りから南側の斜面にかけてみられる。堂の周りのスラグは小塊が多いが、南側斜面には大きな流出滓の一部が露出している。 坂本経尭氏らが一部分を発掘され、ふいごの羽口や土器片が出土している。土器は瓦器埦の口縁部破片である。また、福高作蔵氏によって採集されている羽口は大型で、径12~12.5cm、孔径4.7cm、長さ約24.5cmを測り、一端にはスラグ分が付着している。 採集したスラグの分析結果は、砂鉄を原料とした製錬滓と判定されているおり、遺跡の状況からみても製錬遺跡と考えてよい。お堂の周辺は畑である。畑の中にポツンとある。道は農道。
2021.06.01
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