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少し先に、月田家の墓所がありました。32.97374, 130.43811おもむきのある墓石に月田先生と刻んでありました。故月田守先生之墓・・・月田家は先生を多く輩出しているようだ。帰ってから調べ直したら、下の写真の右下に映っている小型の墓が蒙斎の墓の様です。
2021.04.30
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ついに!アクセス数、111,111 を確認出来ました。29日18:09:23でした。111,112 には、18:16:19になりました。結構、長い時間、1並びが見れました。有り難う御座います。感謝!!
2021.04.29
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道を通るたびに気にしていたら、草刈りされていることに気づきました。早速登ってみました。上も草刈りされてました。左手に、墓所がありました。月田家のように読めましたが・・・?
2021.04.29
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月田蒙斎の墓に来ました。入り口です。32.97413, 130.43829案内標識がありました。月田蒙斎は1810(文化7)年、野原八幡宮神官を代々勤める荒尾村月田家の長男に生まれた。藩校「時習館」で学んだ儒学者であり、門下生には宮崎八郎などがいる。郷土の人材育成に尽力し、1866(慶応2)年に60歳で亡くなった。墓碑は、坂を上った先の月田家墓地の中にある。ご覧のように草茫々で、この上まで登ってみましたが、下のように更に草茫々であきらめました。多分、あの先の墓のあたりではないかと?
2021.04.28
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本の照会をひとつ、熊本の古戦場という本を読んだ。荒尾関係の部分を照会する。小代、大野の合戦 金山原の戦: 荒尾市金山: 天文19年(1550)2月、豊後守護の大友義鑑が、家督の争いから家臣に殺され、長男義鎮(のち宗麟)があとを継いだが、それまで大友家に服従してきた筑後・肥後の諸氏の多くは、その混乱に乗じて離反をはかろうとした。 しかし肥後の北部では、荒尾の筒ヶ岳城主小代実忠が父重忠の志を継いで大友家への忠勤を守り抜こうとした。そのため4月28日には、筑後の三池氏、南関方面の大津山・和仁・辺春諸氏その他から居城を攻められたが、井手中務少輔・中島佐渡守ほかかなりな犠牲をはらいながらもこれを撃退し、義鎮からいたく賞せられた。勢いに乗った実忠は、7月半ばごろには逆に三池氏を攻めて、その城を落としている。 いっぽう隈本では、やはり大友家の動揺を機に、鹿子木氏が菊池家の老臣田島氏らとはかり、八代にいる義鑑の弟菊池義武を隈本城に迎えて大友家に対抗しようとした。このとき開田城の大野親祐もその味方についており、また南関藟嶽城の大津山氏は、いつのまにか肥前の龍造寺氏と結んでいた。 宗麟はこれを知ると大いに怒り、8月上旬小代実忠に直ちに両者を討つよう命じ、「働きしだいで所領のことも考えよう」と申し送る一方、大軍を隈本城に差し向けた。 10日、実忠の将兵は開田城に向かったが、金山原で大野勢と出会い、激戦のすえこれを打ち破り、翌11日には一転して藟嶽城を攻め、少なからぬ打撃を与えた。隈本城が落ちたのは、それから間もなくのことであった。 いま金山には、金山原の戦で倒れた将士をとむらったという首塚が残っている。近くには最後まで、戦にちなむ「太刀洗」という地名もあったと伝えられている。小代、龍造寺に降る 梅の尾城の戦 荒尾市府本 天正5年(1577)3月筑後の諸将を降した龍造寺隆信は、同月下旬、梅尾城の小代親忠に降参をすすめてきた。だが親忠は、父実忠とともに主家大友氏の恩顧に報いるためこれを断わり、小代越前守・荒尾家経に2千の兵を授け、逆に原万田の山鹿超えから三池へ進撃して肥前勢の虚をつかせようと考えた。 間者の知らせでこれを知った肥前勢は、いち早く山鹿越えに数千の兵を伏せて待ちかまえた。かくて小代勢は、ここに差しかかるやいなや不意を襲われて大混乱におちいった。米の山まで進んだ一隊も、鍋島勢に出会うと一戦にも及ばず引き返して来る。越前守たちは思わぬ犠牲を出し、からくも梅尾城へ逃げ帰ると、場内の乳母を間者の仲間と見破って切り捨てたが、時すでに遅かった。 肥前勢は荒尾になだれ込み、各地で寺社や民家を焼き払いながら梅尾城をめざした。小代勢は、いま「敵亡(てこぼし)」と呼ばれる平山の入り口でこそその一部を全滅させたが、いよいよ城を囲まれると、切って出た越前守も家経も郎党百人余りとともに討ち取られ、やがて戦う力を失った。親忠はついに降参し、父実忠は人質となって肥前に行くことになった。 ところで肥前勢は、小代家の菩提寺である浄業寺の釣鐘を戦勝の記念品として持ち帰るため船に積んで大島を発ったが、急に海が荒れ始めたうえ釣鐘が「帰ろう、帰ろう」と鳴り出したので、これは御仏の怒りに違いないと恐れ、海に投げ捨てて行ったという。そこは「浄業寺えご」と呼ばれ、明治のころまでは、八朔の潮のときだけ釣鐘の龍頭が見えると伝えられた。 小代氏の降参は、やがて肥後北半の降参をさそうこととなる。なお隆信は、実忠が老齢なのをあわれんで、ほどなく帰している。島津勢の輸送船団敗退 大島沖の海戦 筑後と肥後の諸将は、龍造寺隆信に制圧されたあとも、しばしば反抗をくり返した。 天正8年(1580)9月、鷹尾城(33.12897, 130.44279)の田尻氏は、怒った隆信が近く大軍を率いて攻めて来ることを知ると、諸将と相談して大友氏に救援を求めたが、大友氏は、もはやその力がないとしてこれを断わった。田尻氏が、やむなく島津氏に救援の使者を出すと、島津氏はこれを北上の好機として即座に承知し、天草の志岐らに鷹尾への兵糧急送を命じた。 兵糧を山と載んだ十数隻の船は大矢野島の登立を発ち、9月10日、宇土の三角から船団を組んで帆を連ね、その日のうちに鷹尾に着こうとしたが、風が弱くて船足は遅く、荒尾の大島沖で日が暮れてしまい、その夜はそこに錨をおろさねばならなかった。いっぽう、隆信はいち早くこれを知り、船団をさえぎらせるため身軽な兵船30余隻を放った。 11日の早朝、島津方の船団は、美しい旗をなびかせ色鮮やかな木蘭のかいで櫓声勇ましく漕ぎ寄せたこの兵船に取り囲まれて驚きあわて、囲みを破ろうとあせったが、積荷が重くて進退が自由にならず、遠くからは鉄砲を撃ちかけられ、近づいては熊手や長鎌で攻め立てられて犠牲者が続出し、みるまに3隻を乗っ取られ、残りの船はさんざん追い回されたあげく命からがら三角へ逃げ帰った。 戦さが終わった大島の沖には、肥前勢に討たれた島津方の死体がいくつも浮かんだ。土地の人々はあわれんで、荒尾村の浜近くにこれを葬り、まんじゅう型の塚を3つ築き、あとで地蔵を祀ったという。 もちろん筑後勢は、兵糧が届かなかったため戦うことができず、下旬、隆信が3万の大軍を率いて攻め入ると、またも人質を出して降るほかはなかった。島津龍造寺の激突 繁根木川の戦 天正5年(1577)以降、隈部氏の協力を得て、赤星、合志、小代氏らを降して、肥後北方に勢力を持つに至った龍造寺隆信は、天正8年頃には、益城地方を狙い始めた。 一方、南から北上する島津義久は、この頃までには、天正6年の耳川の戦いで大友義鎮を破った勢いに乗って、芦北、八代の相良氏と、宇土の伯耆顕孝を降していた。天正11年10月には、その弟義弘が2万の大軍を率いて肥後北半を目ざしたので、隆信の嫡男政家は3万7千(5万ともいう)の大軍を率い、筑後の柳川を経て玉名郡の高瀬(玉名市)に進み、山鹿・花むれ・伊倉・大浜の線に陣を広げた島津方と繁根木川をはさんで対峙した。 しかし、両軍はともに全九洲に勇名とどろく強兵である。互いに戦機をうかがって無気味なにらみ合いを続けることとなった。もし戦端が開かれたら、いずれが勝つにせよ、九州の天地ははかり知れぬ影響を受けることが明らかである。 そこで筑前の秋月種実が仲介に立った。両軍は、繁根木川を境に領地を分け合うことで和睦し、龍造寺方は大野別府に、島津方は横島城にそれぞれ見張りを置いて兵を引いた。繁根木川の水は、幸い血に染むことを免れたのである。 ところで翌12年3月、島津方は島原で隆信を討ち取った。義久はその首を肥前へ届けるため使者を出したが、使者が筑後の摂津で受け取りを断わられ、再び義久のもとへ持ち帰ろうとして繁根木川に差しかかった。首は両家の境を越えまいとしてかにわかに巨岩のように重くなったため、近くの願行寺に葬って弔ったという。田中城の戦い。
2021.04.27
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旧晴富小学校の田中城ミュージアムに来ました。33.079119, 130.591643こちらは、2019.06.29日の記事で紹介しました。再訪です。肥後国衆一揆の田中城の西400m程のところにある、晴富小学校跡に展示されています。田中城の紹介パネルがあります。そして、田中城阯の丘からは製鉄炉跡が見つかったのだそうです。玉名荒尾の製鉄所群が和水まで広がっていたみたいです。みつかった製鉄炉の模型です。
2021.04.26
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現在のアクセス数が、11万となりました。111,111 の1並びを見たいものです。多分、29日か30日となりそうです。期待して待っています。
2021.04.25
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山鹿の不動岩に来ました。33.028760, 130.736128巨岩がニョッキと鎮座しています。(山鹿探訪ナビHPより)【数億年の歴史を刻む「さざれ石」】この不動岩は、山鹿市三玉(みたま)地区の蒲生(かもう)にあり、その北東・標高389メートルの山の中腹から頂上にかけ、天に向かって突き出しています。岩の高さは約80メートル、根回りは100メートルです。不動岩は、5億年以上も前の古生代(オルドビス紀)の『変はんれい岩』からできたもので、まだ日本列島の形すらできていない時代のものです。この変はんれい岩が気の遠くなる年月をかけて崩れて海に流され、海水に洗われ丸い小石や砂(さざれ石)になり、そのさざれ石が海底に厚く積み重なって強い圧力を受け岩磐となり、その周囲が削り取られていわゆる国歌「君が代」の歌詞にある「さざれ石の巌(いわお)」となったものが不動岩です。また奇岩名勝として、熊本二十五景のひとつにも数えられています。春には約200本の桜が岩の周囲を彩ります。【名前の由来】平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り修行したことに由来します。当時たくさんの山伏たちがこの岩の周りに坊を建て、修行していたと伝えられています。現在も不動岩の付け根には不動神社の拝殿があります。不動岩のふもとまでは登山道路(九州自然遊歩道)が整備されており、乗用車が5台駐車できる展望所もあります。前不動・中不動・後不動の三つの岩から構成され、中不動と後不動には、遊歩道を使って登ることができ、そこからの眺望はまさに絶景といえます。「みいくさの 神の姿を仰ぐかな 平伏す岩は まつろえる神」という古歌が残っています。この威風堂々とした不動岩の雄々しくそそり立つ様が、いかにも男性の力と美を全身にみなぎらせたような姿ではないか、という意味です。歌にも表現されるように、この地域に住む人々の精神的シンボルとしても親しまれています。
2021.04.25
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空襲・焼夷弾について学びました。焼夷弾の上の、長い機材は、日本の消火ポンプ:水鉄砲式:右手の部分を水中に入れ、先端部分が水鉄砲ポンプになっており、左端より水が出る仕組み。試したところ20mほど飛ぶとのこと。
2021.04.24
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四ツ山灯台・展望台に来ました。33.000850, 130.426962ここから、荒尾競馬場跡地を眺めてみましょう。写真中央の白い部分が、旧競馬場です。土地の整備はほぼ終わった様です。ここに登るには、この様にツツジに囲まれた石段を上がりますが、もうツツジは終わりかけでした。
2021.04.23
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海達公子7号:つばめ 32.99624, 130.42792浄水センターの駐車場わきに在ります。2号詩碑「ぎんぎん虫」 大正13年(小2): かやのさきにとまったぎんぎん虫 かぜにゆられている 32.99785, 130.42651前回近づけなかったので再チャレンジしたが、やはり断念。ズームでがまん。
2021.04.23
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おもやい市民花壇 薔薇園に来ました。32.996878, 130.427160ごゆっくり御覧ください。
2021.04.22
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競馬場跡地の北側に来てみました。32.993621, 130.430121平らにされて、幹線道路も作られていました。
2021.04.22
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海達公子ブロンズ像:自然をうたう 32.99948, 130.43578同じく万田小学校内です。海達公子詩碑:0号:夕日 (○号碑の杭がありません。顕彰会が建ててないのでしょうか?そこで0号碑にしました。)
2021.04.22
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市民病院の新築工事現場に来ました。32.974934, 130.446277現在の市民病院の西側駐車場の高台です。工事現場の北側、本村館跡地の竹林ぎりぎりまでユンボが動いています。本村館跡の一部だと言われている土塁も削られるのかなぁ?現在の駐車場の西側です。遺跡の発掘で、いくつかの柱穴が見つかったところですが、表土が削られています。西端の南側です。見張り台という盛土のところです。まだ削られずに面影残っていました。
2021.04.21
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荒尾競馬場・跡地です。32.987577, 130.430988重機が入って土壌整備中です。
2021.04.21
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海達公子詩碑:18号 ひし 32.99954, 130.43581万田小学校内のロータリーにあります。海達公子詩碑:6号 学校 32.99951, 130.4358こちらも万田小学校内のロータリーにあります。
2021.04.21
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海達公子詩碑:2号 ぎんぎん虫 に来ました。32.99708, 130.4269海達公子詩碑:2号ぎんぎん虫:バラ園のハズレ、フェンス前、旧堤防草に覆われており、近づけませんでした。4号に来ました。32.99348, 130.43808海達公子詩碑:4号 ひがん花道路沿いの、個人宅の庭にあります。
2021.04.20
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急ですが、、明日、4/20に予定してました講演会は、中止となりました。コロナの為です。市民の皆様へ(4月18日市長メッセージ)5月は、5/11にならないと未だ判りません。以上、よろしくお願いします。
2021.04.19
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海達公子13号:汽車 32.99754, 130.4347929号:かさ 32.99922, 130.43552 万田小学校正門前
2021.04.19
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いよいよ20日に、講演会実施予定です。ご参加、お待ちしてます。
2021.04.18
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海達公子の墓碑に来ました。32.99233, 130.43701海達公子15号碑:春雨 が一緒に在りました。32.9923, 130.43702荒尾市街が一望できる場所でした。
2021.04.18
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海達公子歌碑16号に来ました。32.99127, 130.43223お日さん:しろ平窯駐車場にあります。海達公子14号碑:巡礼の 32.99294, 130.43734三叉路にあります。ここを登れば、50mで墓碑です。
2021.04.17
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ごんげんさんに行ってきました。32.984619, 130.436241諸熊会長が、氏子代表の席にいらっしゃいました。次々と舞が奉納されました。
2021.04.16
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首塚古墳に来ました。32.99349, 130.49116この石の下が空洞の様です。 (9)首塚くびづか古墳 平山字大坂 (付図2-271) 平山と上井手の字界近くの台地上にある古墳。未調査のため内部主体不明。本墳についての記載は『玉名郡誌』(頁866、首塚の項・大正12年 註(1)がもっとも早いようである。要約すると、①平井村上井手上区にある。②無銘の小石碑叢中そうちゅうにあり③里俗の説によれば竜造寺・小代氏攻伐時の陣歿じんぼつ将士を埋葬せし所なりと。現況では石碑は全く見られない。だから安易に郡誌のそれを本墳に直結することには慎重であらねばならぬが、調査時でも、あるいは現在でも、土地の人は当墳を首塚と呼び龍造寺・小代二氏の戦いをいう。無銘碑類がないのは郡誌調査時以後の同台地上の急激な開発によるものとみてよかろう。さらにつけ加えるべきことは、足で強く踏むと空洞の反応が、農道でもあったことで、むしろこの点が土地の人にはかなり以前から興味をもって知られており、現在も記憶する大が多い。 測量のみの調査を、昭和28年9月10日第3中学校生徒(代表大橋君・当時)らと実施した。巾2m~4mの農道の車縁に、農道面比2m長径7m75cm余の、墳丘があり、老樹の切株が遺存。墳丘の農道寄りの方は凹地となり、石室材と思われる長さ1m巾50cmの切りこみがある板状石材が1枚遺存。「すぐ頂上部天井」と当時のメモがあり、強く踏めば空洞の反応があった。調査当時の周辺はすべて、からいも・粟畠であった。古墳であるが未調査であり、内部主体・遺物および年代などについて言及できない。
2021.04.16
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弥五郎丸宮(浄光寺阯)に来ました。32.96344, 130.43853「名」は荘園の年貢請負(うけおい)の単位であり、請け負った農民が「名主」といわれ、その領有する土地の一部分を小作する農民を小百姓、名子などといわれた。荒尾には、その頃多くの名主が多くあり、いまでも当時の名田の名が地名になっている所が多い。弥五郎丸の名は、正応元年(1292)の「祭事簿」に一度だけ出て来る。弥五郎丸の位置は旧有明小学校の道を東に登ると丘陵を堀切った坂道になる。土地の人に尋ねると「じょもんの坂」と云うそうである。珍しい地名であったので尋ねてみた。これは昭和52、4、29頃、「大園山居館址の調査」を実施したとき、私は館の周辺の土地を調べていたときのことである。坂道から細い道を抜けると左側に広い屋敷があった。右側の小高い台地はミカン畑、下の小径は空掘、そして土塁の跡も見える径を抜けると4x15m程の空地に台地を背に五輪塔が五基一列に並べてあった。(ホ)浄光寺は 当時の蔵(倉)満村松木園(どん)にある弥五郎丸と呼ばれる中世時代の名主層の屋敷跡である。増永台地の上に位置し、西側は自然の五米以上の段丘が西の要害となり、屋敷の周辺は空堀をめぐらしていたらしく、東西150メートル南北100メートルほどの広大な屋敷で、いまも七、八戸の人家がある。昭和三十五年頃からのミカン畑に開拓され空掘の遺構も失われ前畑フキ氏方の北側の空掘は二重の堀と土塁の跡がある幅1メートル深さは埋没し7、80センチ東に延びているが次第に埋没している。人家の入口付近に弥五郎丸宮と云う小堂がある。天正七年、肥前軍ここも激戦地で敵味方の戦死者の霊を祀ったのだそうだ。今は小堂であるが昔の宮の拝殿に掲げた木製の狛犬がいまでは御神体として祀られている。直ぐ側に、五輪塔があるとの事だったが、藪に囲まれて見れなかった。
2021.04.15
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三川抗跡に来ました。33.018202, 130.427450三川坑は、昭和15(1940)年に開坑した三池炭鉱の最先端技術が集結された坑口です.2つの坑口は第一斜坑(主に揚炭)、第二斜坑(主に人員昇降)共に幅6.06m、高さ3.35mのアーチ型で、長さ2km以上という規模の大きさから、特に「大斜坑」と呼ばれました。平成元(1989)年に有明坑と併合され一坑体制となり、平成9(1997)年の閉山の日まで三池炭鉱最後の坑口として活躍しました。現在、第一斜坑は閉坑され更地になっていますが、第二斜坑坑口が一部保存され、その他、守衛室、脱衣場、浴場、安全灯室などの各種建物が残っています。また、三川坑は戦後昭和天皇のご入坑や、三池争議、三川鉱炭じん爆発事故など、炭鉱の光と陰の両面を物語る坑口として三池炭鉱の歴史上、貴重な施設です。
2021.04.14
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首なし地蔵に来ました。32.968324, 130.435678龍造寺の侵攻により、荒尾の仏像は破壊されました。地蔵は首が刎ねられました。左の地蔵は、首が近くに残っていたのでしょうか?首を繋がれています。
2021.04.13
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引き続き、妙見の山ノ神について調べてみました。荒尾の有形文化財31号に指定されています。書籍「荒尾の石造物」には、p247に、また書籍「荒尾の文化遺産」には、p159に、(撮りが悪くて申し訳ありません)今までの説明と同じ内容です。万田坑で働く安全を祈願したものだと思います。
2021.04.12
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妙見の山ノ神に来ました。33.0004, 130.45274公園内の散歩道脇にひっそりとあります。切石を積み上げた基壇の上の石室に、唐破風を持つ入母屋造りの屋根を乗せている。銘文によると、万田坑で働いていた19名が集まり、1916年9月16日に建立したものである。以前は旧万田社宅妙見町にあったが、平成30年に現在の場所に移設した。
2021.04.11
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辺春能登守親行の墓に来ました。33.06415, 130.59693同じく県道194号線沿いにあります。辺春能登守親行の墓: 和水町西吉地字村ノ前: 中世の国衆である辺春能登守親行の墓で、「辺春姓墓」の刻銘があります。 辺春氏は、現在の福岡県八女市立花町あたりを領地とした国衆で、和水町にも城を構えています。立花町の辺春谷には「三ノ瀬城」「高須田城」「熊ノ川城」「前川内城」という四つの城があり、和水町出十町にある坂本城を肥後進出の拠点としたと考えられています。 『肥後国誌』によると、天正七年(一五七九)頃には、父・辺春加賀守親貞と、その子親行が坂本城に在城し、玉名郡十町村・板楠村・吉地村・藤田村・前原村・江田村・山鹿郡茂賀浦八一町を領有したと伝えています。 天正一五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州征伐の際は、城を開いて協力し、本領百二〇町を安堵されました。しかし、同年に勃発した肥後国衆一揆では、一揆に加担した和仁城の姉婿であったため和仁氏に組みし、共に田中城に籠城しました。秀吉軍が田中城を取り囲む様子を描いた『辺春和仁仕事寄陣取図』にも、本丸に「辺春」字が書かれています。最後は、豊臣軍の軍師安国寺恵瓊の謀略にかかり、田中城の城主和仁親実を殺害し、落城させたと伝わります。その後、豊臣側からの恩賞もなく、この地で病死したと『和仁軍談』には伝わっています。
2021.04.10
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大津山家稜の墓に来ました。33.05971, 130.5976県道194号線から上がる歩道があります。大津山家稜の墓: 大津山氏は、藤原不比等より出た中流貴族日野権大納言資名の子資基が、応永二年(一三九五)足利尊氏に属して武士になり、当時振るわなかった北朝の挺入れのために、臼間野荘大津山の地頭に補任され、関外目に下向土着したことに始まる。 以来、北朝側として大津山城を拠点に威武を振るった。大津山の地は交通の要衝であり、戦国時代に入ると大友氏の肥後目代小原鑑元に、また、竜造寺氏の北肥制圧の頃には竜造寺家治に一時城を追われたこともあったが、よく難関に耐え、肥後の国衆として戦乱の世を生き続けた。 八代領主大津山家稜は、天正一四年(一五八六)島津氏の先駆となり、士二五〇人・足軽一〇〇余人を率いて、筑前岩屋城の高橋紹運攻めに参戦し、その翌一五年(一五八七)の豊臣秀吉による島津征伐においては、秀吉を大津山城に迎え参戦を願い出るも、留守役となっている。秀吉の九州平定後には所領を削減、新領主の佐々成政には大津山城を追われ、神尾城に移っている。 天正一五年に国衆一揆が起こると、和仁・辺春氏と共に反佐々の旗を揚げ、二六〇余人を率いて神尾城に立て寵もったが、『南関紀聞』には、佐々成政の偽手紙によって、吉日の浄満院で酒宴中、伝七生駒お千に刺殺されたとある。『中原雑記』『九州治乱記』などを総合して考えると、安国寺恵瓊らの謀略により浄満院で殺された可能性が高い。その時期は恐らく、田中城陥落以前ではなかろうか。
2021.04.09
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天気が好くてプラプラしました。旧荒尾競馬場に来ました。32.987512, 130.431136メインのビル以外は取り壊されて更地になっていました。道の駅になるのでしょうか? 土木工事が進んでいました。
2021.04.08
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大迫六地蔵に来ました。33.02128, 130.55372来光寺跡から更に登ると、道沿いにありました。(南関町HPより)豊永の来光寺五輪塔前の坂を上りつめた台地の上にあって、町内随一の壮大華麗な六地蔵です。現況において全高317cm。龕部に六地蔵尊六体を刻像し、中台には十王と脱衣婆と懸衣翁が二つの人の首をはさんで配され、幢身正面には、仁王像が刻まれています。大迫六地蔵は、仁王像を合わせて刻像している点など六地蔵信仰と十王信仰をうかがい知るうえで他に類を見ない非常に貴重な歴史遺産です。今は、軽トラがやっとという丘の上の畑に向かう農道ですが、その昔は菊水と大牟田を結ぶ重要路だったのでしょうか。
2021.04.08
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来光寺跡 五輪塔に来ました。33.02137, 130.55607県道4号線から、この標識で入ります。細い坂道を登ると、道沿いに石段が見えます。(南関町HPより)この五輪塔は、鎌倉時代に一遍上人が開いた時宗の信者を供養するために建てられたもので、2基とも高さ約140cmで保存状態は良く、石質溶結凝灰岩でできています。指定された2基には、建治2年(1276)と、文治元年(1317)の紀年銘が彫られ、一遍上人が九州を遊行した時期に建造されており、九州で時宗が急速に広まった当時の状況を知るうえで貴重な資料といえます。
2021.04.07
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皮籠田B窯跡に来ました。32.9859, 130.47844周囲を公園にして、窯跡を覆って保護しています。古代須恵器窯跡です。年代は、奈良時代後期(8世紀後半)の様です。甕 壺 鉢 坏 高坏 椀 蓋 盤などが出土しています。この他にも「荒尾窯跡群」として60遺跡が見つかっており、県下最大数です。
2021.04.06
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スマホで、本ブログをご覧の方へ、「カテゴリー別記事一覧」をお使い下さい。画面を下へどんどん移動し、一番下段近くに、以下の表示があります。この「カテゴリー別・・・」を御覧ください。荒尾、玉名、大牟田、など地域別・カテゴリー別に分けていますので、記事を探しやすくなっています。ご活用下さい。
2021.04.05
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去年のことです。宇宙桜をみに文化センターに来ました。32.98536, 130.46295エンデバーで毛利さんと宇宙を旅した種子の蝦夷桜です。まだ木も小さく、花もあまり咲きません(蝦夷桜のせいかな?)後ろの吉野は、もう散り始めています。近づいて見ると、ポツポツ咲いていますが、葉も出始めています。九州の気候に合ってないのでは?とも思われます。ついでに、この日のカラーです。
2021.04.05
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平家一本桜に来ました。33.10951, 130.5392ようやく着きました。平家一本桜: 平家ゆかりの地、天保古山の山頂にそびえ立つヤマザクラ。高さ18m、幹まわり2.8mで、樹齢250年(推定)というスケールの大きさです。平家一門の神木として毎年花を咲かせ多くの人から親しまれています。山の上に1本だけスックとたっています。駐車場が無いだろうと、公園から歩きましたが、結構な距離と登りでした。割と近いところに駐車場がありました。福岡のTV局の撮影があってました。
2021.04.04
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宇宙桜を見に行ってきました。32.985392, 130.462966好い天気でした。ポツポツとしか咲いていませんが、去年の経験からするとこれが満開の様です。エンデバーで宇宙を旅した桜ですが、エゾ山サクラとの事で、九州の気候が合わないのか?花はこの程度の様です。北海道ではもっと咲くのかも知れません。静内で見た時は、道路満開だったのですが・・?エゾヤマザクラは、この様に葉っぱと同時に花が咲くのだそうです。花は少しピンクがかっています。しかし、この程度です。隣に咲いていた、九州のヤマザクラかカンザンか、でしょうか、こんなに咲いています。その隣のソメイヨシノでしょうか、こちらは終わって、葉サクラです。
2021.04.03
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要川古戦場跡・要川公園に来ました。33.11088, 130.52746要川古戦場跡(伝承地): 本市山川町一帯に伝わる平家伝説地の1つ。「南筑明覧」によれば、「要川」の項に、「小萩よりゆすり出たる要川扇の高さ波や立つらん」という西行法師作と称する和歌を載せ、「又、古老伝へ臼ふ、元暦の乱、平家の残党辞世の歌なりと」と平家伝説にも触れており、「両説未だ詳ならず」としながらも「平家搭は道端に在り」と野町の平家搭のことにも言及している。 一方また「明覧」は、要川について「此処応安六年(南北朝期)、田尻・菊池両家の古戦場なり」とも記しており、おそらく「北肥戦誌」の記事に拠ったものと思われるが、後年「筑後将士軍談」もこの記事を採用している。 なお、「筑後志」巻六「文苑」の項には、南筑の景勝地として「金目川」を掲げているが、平家にまつわる所伝は記されていない。 (後略)
2021.04.03
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今、見てましたら、以下のニュースをYahooニュースで見つけました。宇宙旅した「宇宙桜」鮮やかピンクの花 倉敷科学センター、植樹以来最速の開花
2021.04.02
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2000/02/09の朝日新聞に、小代さんが紹介されました。荒尾から、阿蘇市へ移り住んだ一族だと思われます。氏子会長の重責を果されているそうです。小代氏の系図を示します。
2021.04.02
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三池港展望所に来ました。33.01576, 130.4252夕日の航路で有名になりました。下の写真はガイドさんがお持ちでしたので、写真撮らせて頂きました。口之津港での石炭積替えの様子です。大型船で石炭を買いに来ても、有明海に入れず、口之津港に停泊します。大牟田からは下にきている小型船で運んできて、この様に人力で積み替えていた様です。そこで、三角港が開港されたのですが、暫くして、三池港が開港し、大牟田まで船が入れるようになりました。
2021.04.01
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