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セルジュク朝は、イスラーム世界では最初のトルコ人の帝国ですが、その領土の東半分を引き継いだのは、やはりトルコ人イスラーム教徒のホラズム・シャ一朝です。ホラズムというのは、現在のウズベク共和国の西部の、アラル海にアム河が南側から注ぐ地方のことです。この王家の祖先も、セルジュク朝のスルターンのトルコ人奴隷でしたが、ホラズムの軍司令官に任命されて、勢力を築きました。このホラズム帝国に対する作戦が、モンゴルの世界征服の第五の段階です。チンギス・ハーンは一二一九年、全軍を指揮してシル河を渡り、七年間の遠征によって完全にホラズム帝国を滅ぼし、北インドの平原にまで達しました。この遠征に従軍したモンゴル人たちの多くは、西トルキスタンの征服地に駐屯し、さらに征服の事業に従事しました。
2024年02月29日
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西アジアのイスラーム世界は、七世紀のアラブ帝国の大征服が創り出したものです。この帝国は八~九世紀、バグダドのアッパース朝のハリーファ(カリフ)のもとで最も繁栄したが、この時代から、中央アジアのトルコ人が奴隷として、大量にイスラーム世界に輸入され始めました。トルコ人奴隷は勇敢で忠実なので、軍人として重宝され、中には君主に仕えて軍司令官や地方長官の地位に登った者もありました。十一世紀になると、カザフスタン草原から、トルコ語を話すトルクメン大のセルジュク家が現れ、イスラーム教に改宗し、西下ルキスタンとイラン高原を征服しました。一〇五五年、その王トグリル・ペグはバグダドに入城し、アッパース朝のハリーファから「スルターン」(権力者)という称号を授けられました。セルジュク帝国は一時、西アジア全体をおおったが、次第に小さな地方王家に枝分かれして、勢いが衰え、セルジュク朝の本家は一一五七年に断絶しました。チンギス・ハーンが生まれた頃のことです。
2024年02月28日
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一二五〇年代に、モンゴル軍は第三次西征にでかけ、一二五八年に有名なバグダッド(現在のイラクの首都)を攻略しました。さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、このときも国内からの不幸の急報に接して、ひきかえしています。また、一二七〇年代には支那本土を平定して、遂にユーラシア大陸の大半をしめる末曽有の大帝国が完成しました。しかもそれだけにとどまらず、モンゴルは元冠で知られるように、日本侵略もくわだてました。一二七四年(文永の役)と、一二八一年(弘安の役)の二回ですが、運わるく(日本にとっては幸運なことに)二回とも九州に上陸したとたん暴風雨におそわれて、モンゴルの艦隊は壊滅的な打撃をうけて失敗しています。モンゴルは世界の征服をくわだてていたのであり、さらに一二九二年には、兵.二万、艦船干せきの水軍をもって、東南アジアのジャワに上陸しています。もっとも、こんなに遠方の島を占領しても利益はなく、翌年の一二九三年にひきあげています。
2024年02月27日
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もともと、モンゴルの文化はそれほど高くはなかったのですが、ホラズム遠征によって、中央アジアやイランの高い文化や都市の繁栄をみて、はじめて世界に目をひらいたのでした。そして、さらに西方を攻略したいという誘惑にかられ、空前の大西征がはじまるのです。一二三六年、モンゴルの将軍バトゥは精鋭な軍隊をひきい、ヨーロッパめざして西へ西へと進撃しました。バトゥはヨーロッパへ侵入してから、まずモスクワをおとしいれ、その西へすすみ、ポーランドでこれをむかえうつヨーロッパ連合軍と決戦をまじえました。ところが、ヨーロッパ連合軍はあっけなく大敗し、モンゴル軍はその後南下し、うわさにきく北イタリアの諸都市へ近づいてきました。ところが、ヨーロッパ人にとってさいわいなことに、そのとき、モンゴルから「国王チンギス汗が死んだ」という通知が将軍バトゥのところにとどき、そのためにバトゥはとつぜん軍をひきかえしました。ヨーロッパはあやうくたすかったわけです。それでもこの遠征以後、広大なロシアがモンゴル領にかわりました。
2024年02月26日
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アジアでは民族がつぎつぎにあらわれましたが、モンゴル帝国はそのもっとも成功し例です。モンゴル帝国の出現によって、当時のユーラシア全体の情勢が一変しました。モンゴルは、モンゴル高原(支那本土の北部)を中心に遊牧生活をいとなんでいましたが、一三世紀のはじめに、テムジンがモンゴル族を統一して、チンギス汗と名のってから、強大な騎馬軍団をつくって外征にのりだします。当時、イランを中心として中央アジアは、トルコ人がたてたイスラーム教国ホラズム帝国が勢力をほこっていましたが、チンギス汗は一二一八年から大遠征して、七年がかりでホラズム帝国を征服しました。この西征により、モンゴル帝国の領土は、支那の東北部(満州)からペルシア湾(西アジア)にまたがる広大なものとなったのです。
2024年02月22日
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これからのモンゴル帝国の発展は、いくつかの段階に分かれます。第一の段階は、西夏王国の征服でする。チンギス・ハーンの即位前の一二〇五年から、すでにモンゴル軍は西夏に侵入を開始し、一二二七年、西夏を滅ぼしました。第二の段階は、天山のウイグル王国の投降です。ウイグル王国はカラ・キタイの保護国でしたが、一二〇九年、カラ・キタイに背いてチンギス・ハーンに忠誠を誓ったのです。第三の段階は、金帝国の征服です。チンギス・ハーンは一二一〇年、金と断交して、翌年から金領の内モンゴル・華北に侵入を開始し、チンギス・ハーンの跡継ぎのオゴデイ・ハーンは、一二三四年に至って完全に金帝国を滅ぼしました。第四の段階は、カラ・キタイ帝国の征服です。戦死したナイマン王タヤン・ハーンの息子クチュルクは、カラ・キタイに亡命して、最後のカラ-キタイ皇帝の保護を受けていたが、一年、反乱を起こして皇帝を廃位し、自ら皇帝となりました。こうしてカラ・キタイ帝国は、耶律大石が建国してから八十七年で滅亡しました。チンギス・ハーンは、一二一八年、モンゴル軍を送ってクチエルクを滅ぼしまた。こうしてモンゴル帝国の最前線は、西方ではカザフスタン東部まで進出し、次の段階は、カラ・キタイ領の西に接する、イスラーム世界の征服です。
2024年02月21日
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フランスの美術評論家プウジナは、一九三五年の著述『支那のイタリア・ルネサンス絵画への影響』のなかで、技術と内容の両方から分析し、支那絵画の影響について、つぎのように指摘しています。「技術方面では、手の運動、とくに美しい手、ほっそりとした長くて白い指が、一四世紀以後のイタリア画にあらわれてくるが、これは支那では古くからもちいられている技法である。内容(題材)については、一四世紀よりきゅうに流行しはじめたものに、人間の群像、聖母を中心とした侍者、天使の群像、さらに動物があり、とくに重要なのは風景(画)である。ところが、これらもまた支那では以前から、普遍的にとりあつかわれてきた題材なのです。すなわち、中世から近代へうつる西欧の文化全体が、アジア(とくにイスラーム)から大きな影響をうけていたわけです。
2024年02月20日
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ルネサンス思潮をもっともよくあらわしたのが、レオナルド=ダ=ビンチやラファエロに代表される絵画だといわれています。それ以前の西欧中世の絵は、完全な宗教画だったのですが、レオナルドやラファエロがのこした絵でもっとも重視されているのは、人間をえがくことでした。神さまが中心ではなく、人間が絵のテーマになっています。一般に、イタリアのルネサンス絵画の特徴は、人間の容姿や肉体や表情に関する実の表現です(おなじことは当時の彫刻についてもいえます)。ルネサンス絵画は、中世の束ばくから脱却して自由を、とくに現世的利益を勝ちとったイタリアの新興ブルジヨアの歓喜をつよく表現しているのです。
2024年02月19日
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ルネサンスのもとの意味は、「再生」です。つまり、古代ギリシア・ローマに花ひらいた人間賛歌の文芸がほろび、その後イスラーム勢力や宗教によって抑圧されていた時代をこえ、いままた再生したというわけです。しかし、今日では意味がすこしかわって、「ルネサンス」は〝文芸の興隆″をさしています。しかし、古代ギリシャがほろんでからかぞえると千六百年、西ローマ帝国がほろんでからでも約一千年のへだたりがあり、けっして、その文化がストレートにうけつがれたわけではありません。ここでもイスラームの影響を見のがすことはできないのです。その証拠に、一五世紀末にイタリア・ルネサンスが最高潮に達していたときの思想界の中心人物であるピコ=デラ=ミランドロは、その著書『人間の尊厳についての談話』のなかで、「わたしがアラビアの書物で読んだところによると、人間ほどすばらしいものはこの世にいない。」とのべています。すなわち、ルネサンスの中心思想である人間主義も、じつはイスラームの影響をうけていたのです。
2024年02月16日
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中世の末期(一五世紀)にイタリアに大きな変化がおきました。西欧は、一二世紀になってようやく都市文明の時代へはいりましたが、都市の発達のもっともはやかったのは、北イタリアでした。一四~一五世紀当時の西欧内部の都市人口は、パリをのぞけば、まだ五千人内外だったのに、北イタリアの都市はすでに、五万人を突破していました。これら北イタリアの諸都市は、イスラーム商人が東洋からはこんできたコショウなどの商品を買いつけて、西欧の各地へ売りさばき、大きな富を得ていたためです。経済的な繁栄を背景にして、思想・芸術・文化も西欧の先端をきっていました。これらの都市に開花した文芸を「ルネサンス」といいます。一般に、西欧文明を発達させた最大の原動力は、ルネサンスにおいて確立された人間主義の思想だといわれています。つまり、ひとりひとりの人間こそすばらしい存在であって、無限の可能性をもっており、人間を抑圧からときはなつことが人類の進歩をもたらすという考え方です。
2024年02月15日
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航海について、重要なことは、天文学も地理学もイスラームの学術書からまなんでいることです。西欧人がイベリア半島からイスラームを追いはらって建国した国の一つにカスチラ王国があります。この国のアルフォンソ十世という国王が、一三世紀に学者たちにイスラーム圏の天文書をあつめさせ、これらをアラビア語からカスチラ語にほん訳することを命じます。これはイスラーム天文学の西欧への移植に大きな役わりをはたしました。また、地理学では、アラブの天文学者アルフラガンが八二〇年ごろにあらわした天文学のテキストが、西欧に大きな影響をあたえています。コロンブスはこの書を見て、西から行くほうがアジアにはやく到達すると勘ちがいして、西への冒険旅行を敢行し、ついにアメリカ大陸を発見したのです。かれらが必要とした予備知識は、アラブの地理学からまなんだものです。しかし、従来の歴史書は、この方面におけるイスラームの貢献をまったく無視し、コロンブスは古代ギリシャ人、プトレマイオスの地図を見たのだ、と書いています。
2024年02月14日
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一二世紀にはいると、西欧にはいくつかの都市が誕生し、大学も設置されるようになりました。そして一三世紀になると、西欧のいたるところに都市があらわれ、また多くの大学がもうけられました。これより西欧人は中世的な迷信から脱却して合理的にものごとを考えるようになり、またしだいに学術が発達していきます。このように学問(とくに科学)と合理的な思考は、第一にイベリアからはいったのですが、いっぽう、これと平行して、イタリアなどを通じて、イスラームの技術や実際的な知識が、このころから西欧へはいってきました。たとえば、航海技術では、イスラームから新しい帆、羅針盤などの計器、それから造船技術をまなんでいます。まず、二十枚、三十枚という、たくさんの帆をもった大きな船がつくられるようになりました。それまでの帆は一枚か、多くて三、四枚でしたが、たくさんの帆をつかうことによって、うける風のつよさを自由に調整できるようになりました。つぎに羅針盤は支那で発明されたのですが、イスラームの商船を経てイタリアにつたわり、イタリア人によってさらに改良されました。
2024年02月13日
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トレドには多数のイスラームの学術図書が保存されたイスラームの大図書館があり、そこには、古代ギリシャの学術研究をアラビア語に訳した書籍もたくさんおかれていました。そして、トレド図書館をみつけた西欧のキリスト教学者(当時の学者はみな聖職者からでていました)は、さっそくぼう大な学術図書のほん訳にとりかかりました。そのため、一二世紀からイスラームの学術がどっと西欧になだれこみ、西欧の学術文化はいちじるしく発展をはじめたのです。もちろんそれは当時の西欧の聖職者の真理への思慕と、学問への情熱とにふかく関連しています。宗教はもともと真理を追求することにはじまり、つねに学問の発達とふかくかかわっています。キリスト教もその例外ではなく、西洋の人びとは、宗教によって点火された情熱から、熱心に新しい学問をとりいれようとしたのです。
2024年02月12日
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当時の西欧の軍事力では、とてもイスラーム軍に対抗できず、エルサレムを奪回することは一時的にはできても、けっきょくは成功しませんでした。しかし十字軍によって、西欧よりはるかに文化の発達したイスラーム世界をみることで、その後の西欧の進歩に大きな刺激となります。より多く西欧が直接イスラームの科学や文化を摂取できたのは、むしろ西への進攻からきています。一一世紀のすえに、西欧は東へ十字軍を派遣すると同時に、イベリア半島(今日のスペイン・ポルトガルのある地域)でもイスラームにたいして攻勢にでました。イベリア半島は八世紀以来イスラームに占領されていたのです。イベリアのイスラームにたいする攻撃は、すこしずつすすんでいきましたが、もっとも注目されるのは、一〇八五年にイスラームの学術都市であるトレドを占領したことです。
2024年02月09日
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イスラームの勢力圏がもっとも拡大したのは一七世紀で、マホメットの布教から一千年のちのことです。一七世紀には旧大陸(ナジアとアフリカ)のじつに半分以上がイスラームの勢力下にはいっていたのです。七世紀から一七世紀までの一千年のあいだ、イスラームは膨張をつづけていたわけで、中世から近代(前半)にかけて、イスラームが世界史の中核となっているといってもさしつかえありません。このようにイスラーム勢力が長年継続的に発展した要因は、どこにあるのでしょうか。それは、人間平等観にもとづく強固な宗教的連帯感をもっているからなのです。
2024年02月08日
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モンゴル(元)の国王につかえたイタリア商人のマルコ=ポーロは、帰途スマトラ島(インドネシア)にしばらく滞在したことがあります。そのころスマトラには、ほぼ現在のインドネシア全域を支配する大帝国マジャパヒト王国がさかえており、マルコ=ポーロの著書『東方見聞録』によると、スマトラ北部の港町ペルラク(現在のベラー)にイスラーム商人が多数出入りしていたそうです。住民は、その影響でイスラーム教に改宗する者も多く、インドネシアのイスラーム化がはじまっていました。一五世紀はじめに、そのイスラーム教徒がマジャパヒト王国をたおし、マラッカ王国が誕生すると、まもなくインドネシア全土がイスラーム化されます。
2024年02月07日
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アフリカだけにかぎりません。インド北部にも、一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊(イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、一二〇〇年ごろ、ついにイスラーム勢力が北インド全域を占領してしまっています。これより約三百年のあいだ、イスラーム勢力が北インドを支配し、インドの南沿岸(デカン高原を中心とするインド半島の部分)にはまだインド固有の政権(ヒンドゥーの政権)が併存していました。しかし、一六~七世紀には、イスラームのムガル王朝が、ついに全インドの統一に成功します。つぎに、インドの東方の東南アジアにもイスラーム勢力が伸長しています。今日でもインドネシアの第一の宗教はイスラーム教です。インドネシアにイスラーム教が浸透しはじめたのは一三世紀でした。
2024年02月06日
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アフリカには今日ではアラブ人の国が樹立され、すべてイスラーム圏に属していますが、中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国がかなりあります。たとえば、ウガンダやナイジェリアもイスラーム教です。イスラームはアラブ人だけにとどまらず、ブラック・アフリカ(アフリカ黒人社会)にもつよく浸透しています。もともと中部アフリカには、同世紀半ばに樹立されたガーナ王国が西アフリカ最大の王国として長くさかえていました。ところが、このガーナ王国が一〇七六年にイスラーム教徒に征服され、以後、西アフリカの大半がイスラーム一色にぬられてしまいます。また、おなじころからイスラームの商人がよくアフリカ東海岸の多数の港に立ちよるようになり、アフリカの沿岸もしだいにイスラーム化されていきます。
2024年02月05日
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永楽帝は南へは、鄭和という提督に数十せきの大艦隊をあたえ、一四〇五年から三〇年までのあいだに七回にわたって航海させています。鄭和の大艦隊は、東南アジアのタイ、マレー、ジャワ、スマトラをはじめ、インドの各地やセイロン島(今日のスリランカ)などを訪問しました。さらに一部の艦隊はアラビアやアフリカ東海岸の商港にまででかけています。目的は、これらの国ぐにに明の強大なことをしめして、有利な貿易をおこなうことにありました。ほとんどの国を服従させることに成功、これを契機にして、多くの華僑(海外移住の支那人)が東南アジアへ進出しはじめました。明時代はまた、政治制度の発達でも重要な時期ですが、この点についてははぶくことにします。ただ皇帝(国王)の独裁がしだいにつよまっていったことを注意しておきましょう。つぎの清の時代には、皇帝の独裁がますますつよまっています。宋時代に生まれた市民社会の芽は、こうして開花することなく現代をむかえるわけですが、この点が、その後の支那を停滞させた一つの要因になっています。
2024年02月02日
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チムール帝国で二つの注目すべきことがあります。一つは、チムールがイスラーク教に改宗したために、イスラームの勢力が一層つよまっていったことです。もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期に、チムール帝国が文化面で発達したことです。サマルカンドとへラット(現在のアフガニスタン西部)という二つの都市で学芸がさかえ、自然科学も発達しました。当時サマルカンドに世界一の天文台が建設されています。チムールが中央アジアを統一したときに支那ではモンゴルの統治(元帝国)を打倒して、新しい王朝の「明」がはじまっています。支那の歴史のなかの王朝は、三百年あまりつづくものが多いのですが、明も約三百年つづいており、大帝国としてさかえました。明時代のなかでとくに注目されるのは、一四〇三年に即位した成祖で、別名永楽帝ともよばれる国王の時期です。第一代、第二代皇帝が、内政を充実させたあとをついだ永楽帝は、積極的に対外進出にのりだします。支那から追いだされたモンゴルが、勢力をもりかえして支那北部へ侵略してくると、永楽帝はぎゃくにモンゴル高原まで兵をすすめ、これを撃破しました。
2024年02月01日
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