全19件 (19件中 1-19件目)
1
1569年年の四月八日、信長は都を追放されて堺に住んでいた、宣教師ルイス=フロイスに面会しました。フロイスはこのときの信長の印象を、つぎのようにローマに報告しています。「この尾張の王は年齢が三十七歳ぐらい、せいは高くやせていて、髭は少ない。声ははなはだ高く、武技を好み、粗野で傲慢で名誉を重んじ、正義と慈善をたのしむ。戦術にたくみで、部下の進言にはほとんど従わない。諸人から異常な畏敬をうけ、酒を飲まず、日本の他の王侯をことごとく軽蔑している。神仏その他の偶像を軽視し、卜(うらない)を信ぜず、法華宗ではあるが、主や霊魂不滅などはなく、死後はなにごとも存在しないと、きっぱりといった。」
2024年09月30日
コメント(0)
のちに信長と京都で会った耶蘇会士ルイス=フノロイスは、かれを評して「倣慢」「ほとんど規律に服せず。」といっています。規律に服さないとは、旧来の習慣や規格にとらわれないという意味です。信長は将軍・守護・守護代といった古い権威にあぐらをかいた姿勢では、もはや武士を支配し、領内を治めていくことができないと悟りました。信長は理性的で明断な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者です。形だけは当初法華宗に属している態度を示しましたが、権力者としての高い地位に就いて後はすべての偶像を見下げ、禅宗の見解には若干は従いましたが、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なしました。ナンセンスな習慣や、考え方をうちやぶって、奔放さを求めた前進的なところに、近代の体現者であり偶像破壊者として、「大うつけ」の真価があったのです。
2024年09月27日
コメント(0)
一五四三年に、ポルトガル人の乗ったジャンク船が種子島に漂着して鉄砲を日本に伝えました。船の持ち主は、倭寇の首魁(しゅかい)である明人の王直(おうちょく)です。ポルトガル商人が倭寇と一緒に、南シナ海から東シナ海へと活動の幅を広げていたのです。明人や日本人からなる倭寇は、この海域の海賊であり貿易商人でもありました。マラッカで出会った日本人に案内されて来航したポルトガル系のイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは、それから数年後の一五四九年です。一五五〇年には平戸(ひらど)にポルトガル船が入港し、領主の松浦隆信(まつらたかのぶ)がキリスト教を保護したので、五年後には信徒が五〇〇人を超え、六一年には九〇人のポルトガル人がいました。一方、スペイン人が日本にやってきたのは一五八四年のことです。そこからマニラを拠点にした対日交易が始まり、やがてスペイン系のフランシスコ会宣教師たちもマニラから渡航し、日本布教に取り組みはじめました。日本布教をめぐって、イエズス会系とフランシスコ会系の争いを生み出したのは、まさしくサラゴサ条約ライン上の争いです。
2024年09月26日
コメント(0)
われわれは知るところが少ないにもかかわらず、大洋を航海する船が、病原菌を広めた全体的な結果について、知ることはできます。第一に、それまで孤立して暮らしていた住民たちが、致命的な人命損失を被りました。例えば、結果として新世界のスペイン帝国の中に組み入れられたアメリカ原住民の諸地域の人口は、一五〇〇年には五千万人位であったが、それが一六五〇年ごろまでにたった四百万人にまで減少しました。しかもこれはスペインの移住者を勘定に入れての話です。同様に甚大な人口減少は、太平洋の小さな島々およびその他の地方でもおこりました。これは新しい病気が、人口桐密な、それまでは孤立して病気に対する抵抗をもたなかった住民を襲ったときにはいつでもおこりました。しかし、文明化した世界の人口は、ひじょうに多くの種類の病気に長い間さらされてきているので無傷です。
2024年09月25日
コメント(0)
西欧の船は、多くの疫病――その中には黄熱病やマラリアのような命にかかわる病が明らかに含まれていました――をアフリカから新世界に運び、そこで蚊の媒介によって中央アメリカおよび南アメリカの各地方を、ほとんど人が住めない状況にしてしまいました。西欧の人々の間に昔から定着していた病気が、一度アメリカの原住民を襲うと、致命的な結果となりました。彼らは、天然痘、はしか、チフスのような伝染病に免疫をもっていなかったのです。逆にアメリカの原住民は、梅毒を旧世界に伝えました。
2024年09月24日
コメント(0)
病気は、価格の変様と同様、人間の意思とは無関係に、まったく理解されることなしに、広まりました。病気の拡大に伴う事情ははっきりとはしません。その理由は、アメリカにおける原住民の間であれ、西欧のどこかの都市であれ、伝染病の流行の記録はひじょうに不正確で、医学的診断をつけようもないからです。しかし一般的にいって、船が大洋を航海するようになったため、港から港へ商品と同様、細菌も運ばれたことは明らかです。アメリカの原住民にとって、このことは重要な結果をもたらしました。
2024年09月20日
コメント(0)
アメリカ産の栽培植物の発見は、各地域の食橿供給を増大させ、それに伴う人口増加を引きおこしました。このことは確実に支那南部におこりました。またアフリカ、特に西アフリカにおける人口の劇的な増大させました。この西アフリカからは、十七、十人世紀に新世界のプランテーションで働いた何百万人もの奴隷として拉致されたのです。アメリカ大陸の食用作物の移植の詳細は、あまりよくわかっていません。新しい作物の大きな影響は、一六五〇年より後に現れた可能性が強いのです。西欧についてはたしかにこのことが言え、無学な農民や、伝統に縛られた農夫たちが、新しい穀物の利益を知り、それを栽培する方法を学ぶには時間がかかったのです。
2024年09月19日
コメント(0)
アメリカの栽培植物は、植物学的に、旧世界で知られているものとはまったくちがっていました。西欧、アジアおよびアフリカの農民たちがそれまで知っていたものを補うきわめて価値ある作物でした。例えばアメリカ大陸のトウモロコシは、支那南西部、アフリカ、西欧南東部に速やかに広がりました。支那では、ジャガイモは、植物学的にそれとは無関係なサツマイモより重要度が低かったが、サツマイモは、米の作れない丘陵地、その他それ以前は荒野として放置されていた地帯で、大量に生産されました。西欧ではこの関係が逆となって現れました。それは気候が寒かったため、アンデス高地で生まれたジャガイモが適当であったのに対し、西欧の夏はサツマイモを成熟させるほど暖かくはなかったのです。
2024年09月18日
コメント(0)
伝統的な社会・経済的諸関係によって定められていた、確たる日常生活の中のすべての安定性は、一五〇〇年と一六五〇年の間に西欧におこった激しい物価変動のためついえ去りました。各政府は、それまでの収入源では足りなくなり、歳入をあげる新しい方法を見出しなければなりません。市場でわずかな卵を売る貧乏な農民や、最も貧しい職人ですらも、価格革命の力を実感しました。もちろんだれも銀の供給の増大と価格の上昇の間の関係を理解していません。しかしあらゆる社会が影響を受け、ある者たちが栄えるのに対し多くの者が富を奪われ、そして金持ちも貧乏人もこぞって未来に対する不安に脅かされたとき、多くの人々は、それまでの時代にあったものよりもっと大きな食欲と邪悪が世間に放たれた、と結論しました。こうした確信が、この時代の西欧史をその前後から分かつ、きわめて激しい宗教的、政治的な論争を生んだのです。
2024年09月17日
コメント(0)
コルテスは翌二一年、大軍を率いてふたたび来襲し、四カ月かけてメキシコを完全に征服しました。つづいて、フランシスコ・ピサロは、南米のペルーを中心とするインカ帝国の首都クスコに入城し、ペルー、チリをスペイン領へ編入しました。一五四五年、ペルーのポトシ銀山が開発され、大量の貴金属が本国へ輸送されると、以後西欧の銀の保有量は高まり、西欧の物価がいっせいに上がり商工業の発展が促されました。これが価格革命と呼ばれるもので、一世紀内のうちに、スペインにおける物価は、約四倍にも上がりました。ヨーロッパの他の地域での物価の上昇はこれほどでもありませんが、どこでもこの変化が、伝統的な経済諸関係を深く揺さぶるに充分な力をもっていました。一定の収入をもつ人々も、深刻な購買力不足に陥り、一方事業に携わる人々は商品の価格が上昇したので大金を儲けました。
2024年09月13日
コメント(0)
いっぼう、スペインの植民者は中南米地方へ探検を進め、一五一三年九月には.ハナマ地峡を乗りこえ、太平洋を望む地点へ到達しました。その間、冒険と黄金の夢にとりつかれた投機的な荒れくれ男たちは、火砲の威力を用いて悪辣(あくらつ)な手段で、原住民のインディアンを酷使し、彼らの無知を逆用して国土から財産まで掠奪しつくしました。白人はもちろん、馬さえ見たことのないインディアンは人馬一体となる不思議な人種の出現に驚きましたが、そのうちスペイン人のひとりが落馬したのを見て、はじめて人と馬が別々の存在であることを知ったのです。
2024年09月12日
コメント(0)
一五世紀の末に、地理上の発見を他国に先がけてなしとげたスペインとポルトガルは、一六世紀の前半にさらに探検の歩みを進めました。ボルトガルはインドのゴアに基地と商館を設け、香料とくに胡椒を求めて、セイロン、マラッカ、ジャワから遠く「胡椒の宝庫」といわれるモルツカ諸島へ進出しました。そして中国のマカオ(襖門)へ寄港し、一五四三年には日本の種子島に来航しました。これはわが国から見れば、最初の西欧人との接触ですが、ポルトガル人からいえばついに世界の涯までをきわめたことになります。日本との遭遇によって、西欧人は最後に取り残された東洋の最終地点にたどりついたのです。
2024年09月11日
コメント(0)
フランス、イギリス(イングランド)、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となりました。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころは他国の海軍は貧弱で実行は難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなありませんでした。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。
2024年09月10日
コメント(0)
ジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、1494年に教皇子午線からさらに西に270レグア進んだ子午線を境界線とするトルデシリャス条約を締結しました。1506年にはアレクサンデル6世の次の教皇、ユリウス2世による確認を受け、この取り決めは教皇庁にも認められました。スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つのです。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられました。この条約はアジアにも適用されると考えられていましたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアへの適用は未解決でした。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認しました。
2024年09月09日
コメント(0)
1492年、クリストファー・コロンブスが「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、帰還しポルトガル・スペイン両国において「新世界」への冒険的航海がブームとなりました。しかしコロンブス以前から、船団の到達先において両国はしばしば争い、抜本的な解決策が求められていました。すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(Aeterni regis)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていました。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうと、カーボベルデの西わずか100レグアの地点を通過する子午線を境界線に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告しました。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は不愉快でした。
2024年09月06日
コメント(0)
わが国への鉄砲の伝来についてはよく聞かされますが、鉄砲の放棄についてはあまり聞かない。しかし鉄砲放棄のもつ意味合いは大きい。世界の歴史は戦争の歴史ともいわれ、同時に武器の発達の歴史でもあります。武器の発達は、技術の発達と密接な関連をもち、人類史において、技術は一貫して発達してきました。しかし、技術の発達は、同時に人類殺戮の技術の発達です。この過程は後戻りのないように見えますが、例外がありました。日本は戦国時代に深められた国際交流のなかから西欧の科学技術の精華である鉄砲を導入し、その製法をマスターし、やがて世界最大の鉄砲保有国になりました。秀吉の朝鮮の役でも大いに活用されました。それが近世江戸社会の展開とともに顧みられなくなり、刀の世界に逆戻りしたのです。結果的には技術の後退です。この事実は、今日の核兵器のディレンマ――人類の輝かしい科学技術の進歩の象徴であると同時に、人類の絶滅の象徴でもある――に、一つの示唆を与えてくれます。鎖国の選択には、西欧との対比でみれば、鉄砲の放棄による平和の選択という面があります。「鎖国」のなかでわが国が天下泰平の世を謳歌していたとき、片や「近世世界システム」の中で西欧は戦争にあけくれていたのです。
2024年09月05日
コメント(0)
活発な経済的、文化的な交流の背景に、中世における人知・人力を超えた疫病のような共通の体験(危機)があったのです。その解決を求めての未知なる海外への進出、そこでの強烈な国際交流のなかから、そのときまで地理的にも歴史的にも文明世界の辺境でしかなかったユーラシア大陸の両端の地域――イギリスと日本――に、それぞれに合理的で新しい秩序をもった近代社会が形成されたのです。その一つの方向が西欧の開放的な「近世世界システム」に帰結し、もう一つの方向が封鎖的なわが「近世江戸社会」に結果するのです。西欧が拡大しようとしたまさにそのときに東亜諸国が国を貝のように閉じる有様に驚きの念をもたざるをえません。活動の規模を新世界にひろげた西欧と、それを内政の充実に求めた日本とでは、合理的な経済社会としての共通性よりも、確かに相違の方が際立ちます。相違は、軍備と経済、広くは戦争と平和の問題に係わるもので、江戸社会の成立は「鉄砲の放棄」とともにスタートしています。
2024年09月04日
コメント(0)
網野善彦は「南北朝の内乱は民族の体質、あるいは民俗の根底に関わる大きな構造上の転換期」で、この動乱期を節目として「呪術性が次第に社会から消えていく……理性が優位を次第に占めてくる」としています。西欧における宗教への不信、合理精神の擡頭と軌を一にしているのは偶然ではありません。旧大陸の人類は押しなべて十四世紀半ばに未曾有の生活上の危機に直面し、その解決を求めて海外に進出し、旧大陸に囲まれたインド洋上で海賊もどきの貿易商として活躍したというように有史以来初めて多数の民族による多彩な国際交流が繰りひろげられます。その舞台はアジアの海で、日本人もアジアの海――環シナ海――で勇躍したのです。同時にそこには異なる精神が火花をちらす華々しい文化交流が随伴しました。西欧文化のインパクトがキリスト教の布教活動に代表されるとすれば、日本文化の精華の一つは茶道です。茶の湯は西洋人に強烈な精神的インパクトを与え、特にイギリス人の生活にくいこんでいきました。
2024年09月03日
コメント(0)
ユーラシア大陸のかなり広域な部分を襲ったとみられる疫病はほぼ一三五〇年に始まり、その後少なくとも百五十年間は深刻な危機をもたらす形で続発しました。一三五〇年頃というと、わが国ではちょうど倭寇の跳梁が始まる時点に当たっています。倭寇は支那、朝鮮の沿岸を荒らし回り、南北朝の内乱期で国内の食糧事情に問題があったので主として人と米を略奪しました。南北朝の内乱は日本史全体の転換期とみなされる深い断絶を画した時代でした。
2024年09月02日
コメント(0)
全19件 (19件中 1-19件目)
1