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日本に仏教文化が花開いたころイスラーム教が生まれ、イスラーム勢力はゲルマン民族の大移動により秩序の崩れた西欧に侵入していきます。これに対しフランク王国のカール・マルテルが勝利しフランス、イタリア、ドイツが生まれます。西欧の一〇〇〇年以後の興隆は、似たロマネスクの名で知られる安土桃山文化に巨大な石造建築のスタイルによっても証明されます。西欧の建築家たちは、それまで西欧に控え目ながら足がかりを作っていたビザンティンの建築スタイルをはっきりと否定し、今に残る古代ローマのバシリカ会堂と、初期キリスト教会の構造を手本としました。崇高な確信のもとに、十字軍(一〇九六年にはじまった)のような事業や、騎士に対して、弱者を助け、女性に奉仕し、母教会を護ることを要求する騎士道の理想の発展によって、少なくとも部分的にはキリスト教化されました。
2024年06月28日
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西欧の中世では、キリスト教は、社会生活と密接に関連しています。教会は絶大な権力をもち、社会生活もすべてキリスト教を中心にしてうごいています。そのため、教会の腐敗は、たちまち社会の堕落につながります。そこでグレゴリー改革派の人びとは、この不正をなおそうと立ちあがり、精神の刷新をもたらしたのです。その影響について、ふたたび『西欧精神の探求』から引用すると「グレゴリー改革は……さまざまな学問興隆のきっかけをあたえました。批判的精神のおこりはここにあったといってよいのです……こういった学問の興隆はやがてヨーロッパの諸大学の興隆をひきおこします。……アラビアをとおしての学芸の導入が、グレゴリー改革終了後、せきを切ったようにおこってくるのです。」グレゴリー改革後に、キリスト教徒の学者たちが真理にあこがれて、熱心に学問をもとめたこと(古代ギリシャとイスラームの学問を吸収した)が進歩の原動力となったのです。宗教改革をなしとげた西欧の人びとは、精神的にも経済的にも発展の意気が充満し、おくれていた文明もようやく発展の時代へはいりました。しかし。西欧よりすすんでいるアジア諸国を追いぬいていくには、まだこれから数世紀の時間が必要でした。これからのち数百年の間、世界は依然としてアジアを中心にして動いています。
2024年06月27日
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西欧では長年、世俗の権力(ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)がローマ法王を決定する習慣がありましたが、これが堕落の源となっていました。ローマ法王庁が世俗の力によって支配されるなら、ヨーロッパ各地の教会はすべて、世俗の(不正な)権力によって左右されることになるからです。この欠陥をなおそうと思って立ちあがった、キリスト教徒のおこなった改革が、グレゴリー改革です。掘米産三編『西欧精神の探求』でグレゴリー改革の意義を次のように述べています。「この改革は、ローマ教会を中心とした教会の改革ではありますが、この時代の社会のしくみからして、教会の改革は必然的に、俗世間とその支配者たちにも、影響をおよばすことになります。純然たる宗教的・精神的なものをこえて、政治的なもの、社会的なものなど、ありとあらゆる影響がこの改革からでてくるのです。」
2024年06月26日
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西欧での農業生産がすすむと、社会も大きくかわりはじめました。まず「農村」がいたるところにあらわれます。さらに重要な点は、この農村が生まれたことによって、農村から都市へ発展していく要因がつくられたことです。水車工とその他の職人や商人があつまり、小さな都市(人口が数千人以下)をつくりはじめ、一二世紀から西欧では(小)郡市時代をむかえます。ようやく西欧も都市の時代、すなわち文明の時代へはいるのです。一一世絶後半から一二世紀はじめにかけて、西欧の発展をうらづける精神的なもの、つまり「グレゴリー改革」とよばれるキリスト教の刷新がおこなわれました。
2024年06月25日
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一〇世紀までの西欧では、農業はひどくたちおくれて牧畜が生産の主流でした。それというのも、西欧の土はしめり気が多く重いので、たがやすのに困難をきわめたからです。「一粒の種をまいて一粒の麦を収穫する」といわれたほどでした。このように農業の生産性がひくかったので、当時の西欧人(ゲルマン)は牧畜に依存しており、中世の前半には、西欧に都市はまだ存在しておりません。その西欧文明がいちじるしく発展した要因として、技術・経済に関するものと、精神的なものがあります。まず、技術・経済に関するものを見て見ます。一〇〇〇年ごろに(アジア人から教わって)「馬がすきをひくのに、馬の肩にかけるのではなく、馬の胸に十文字にたすきをかけると、ずっと能率がよい」ということをはじめて知り、馬で能率よくすきをひいて土をたがやすようになりました。これはたいへん重要なことです。この発明によって西欧において農耕がようやく牧畜より重要な産業になってきたからです。その後農業の生産性が大幅に向上しています。つぎに発展の基礎になったのは、水車の利用です。水車はペルシャからつたわりました。馬の利用で小麦の生産量が増大すると、麦粒を粉にする(パンをつくるために)能率のよい方法が要求され、そこで水車が製粉用に利用されました。水車をペルシャようになると、(水車の製作と修理を通じて)器械工作への関心がたかまり、それが技術の発展するきっかけとなりました。西欧の発展の一つの要因は、技術へのふかい関心、そしてそこからくる技術の発達にあったのです。
2024年06月24日
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社会における産業の発達の段階と、科学の発展における様相の変化は、かなりの程度に並行しています。生産の発展のための技術的問題が科学研究を推進するということもあるし、科学と技術がともに社会の発展の同じ動きのなかにつつみこまれているということもあります。それゆえ科学自身の発展の様相を産業の発達の段階と照応することをもって、その歴史の時代区分におけるおもな手がかりの1つとすることができます――科学は技術とつねにぴったり結合しているものでもなく、技術を離れた独立の体系をつくってはじめて科学が成り立ったのではあるが、しかし技術の問題からの要請で新しい科学分野が成り立つということは、いつも見られる――科学がそうしたことで大きく発展すれば、思想的影響も顕著になるし、哲学的議論も多くなります。これらは科学の発展の結果でですが、それも時代区分の目安にすることが可能です。
2024年06月21日
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15世紀なかばごろから現代にいたるまでの近代科学の発展は、どのような様相を示しているかを見るためには,近代科学の歴史をいくつかの時代に区分することが必要であり、またその区分を可能にするような様相の変化がおこっているのです。ある時期には研究が全体的にさかんになる、またある時期には多くの新分野がひらける、さらに他の時期には方法上の問題をめぐって哲学的な議論が活発にかわされる,といったふうである。
2024年06月20日
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西欧の回復がはじまってから一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、西欧は、アラビア、ビザンティンの高度に発達した科学や数学、天文学を食欲(どんよく)に吸収し、同時に大胆で精力的な創造に力を注いだため、中世文化は古代ギリシャが、古代中東の文化的模範から学びかつそれを超越した時代と同様に輝きを持つにいたりました。スペインと南イタリアの両方で、学者たちは、アラビア語からラテン語への組織的な翻訳を開始し彪大な文献が、教会的な文化しかなかったラテン世界の相続財産となったのです。アリストテレスのラテン語訳は、特に大きな影響をあたえました。アリストテレスの文中に、異教的ではあったが、理路整然として、完全で、説得的な全宇宙観を見出したのです。アリストテレスの学説をキリスト教の真理と調和させる仕事は、新しいアリストテレスの論理学であれ古いキリスト教の信仰であれ、自分たちの知的継承財産をすべて守りたいと願う人々にとり、必要欠くべからざることになりました。キリスト教の愛や希望や慈善と一致しなかった粗野な残忍さと暴力的な騎士の生活スタイルも、キリスト教の鋳型に統合されました。
2024年06月19日
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イスラームの時代が過ぎ去ったのちロマネスクとよばれる西欧のキリスト教文化が作られます。これは十一世紀のことです。イスラーム文明は、十字軍の頃、非常に高い文化をもっています。バグダッドには「知恵の館」というものがアッパース朝のときにつくられていますが、そこでは、古代ギリシャの科学書がアラビア語に翻訳され、インドの天文学や数学を取り入れた代数学や天文学などの著作が著されています。イスラーム世界では、十世紀から十一世紀にかけて、科学、数学、医学、天文学などが非常に発達します。球面幾何(きか)学や三次方程式など、アラビア数字を使った数学も発達します。グレゴリウス暦よりも正確なジャラリー暦もつくられました。イスラーム文明は高度な文化をもっていたのです。このようなイスラームの学問や科学が、西欧に流入しました。十三世紀以降、錬金術から化学が発達しました。レンズの発明から眼鏡や望遠鏡がつくられました。また、天文学や物理学の発達がうながされ、やがて、西欧にニュートンなどの科学者が生まれてくるのですが、そうした素地をつくつたのが、イスラームの高度な文化だったのです。
2024年06月18日
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日本に仏教文化が花開いた頃、世界では、イスラーム教が生まれ、その勢力を増していました。ローマ帝国の衰退の後、西欧はゲルマン民族の大移動によって、それまでの秩序が崩壊していく中で、イスラーム勢力が隆盛してきたのです。こうしたイスラーム勢力による侵攻に対して、フランク王国のカール・マルテルが、ようやくトウール・ポワティエ間の戦い(七三二年)で勝利し西欧がしだいに力をもつようになってくるのです。イスラームを撃退したフランク王国は、その後、ローマ教皇と結び付いて、八〇〇年にはカール大帝がローマで西ローマ帝国皇帝として戴冠(たいかん)します。その後、九世紀半ば以降になると、フランク王国は三分されて、現在のフランス、ドイツ、イタリアが生まれます。このように、現在のヨーロッパの原型が生まれてくるきっかけとして、イスラームの大征服運動は、大きな要因となったのです。
2024年06月17日
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15世紀後半には,たとえば天文学における新しい動きが生じたり,科学者としても大先覚者であるレオナルド・ダ・ゲインチ(Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア)のような人物があらわれたりしています。そして、さらにそれらの先ぶれとなるような社会全体の気分がその前に見られる、だいたい15世紀なかばをもって(人によっては15世紀末ごろをもって)近代科学の誕生の時期とする見かたが成り立つのです。しかし,13世紀なかばをもってその時期にあてる考えかたもありますが、ここでは15世紀なかばごろとする説を採用しておくことにします。新しい科学の基礎となった船尾材舵・火薬・紙・印刷は、それら自身は西洋の発明ではなく支那から来たものです。支那の技術の発達が全世界にとって莫大な重要さをもち西洋のキリスト教文明の優越という考え全体は世界の他の部分に対するごう慢な無知にもとづいた考えなのです。
2024年06月14日
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徳川家康(とくがわ いえやす)の生涯は多くの困難と戦いに満ちていました。幼少期には今川家の人質となり、その後独立して織田信長と同盟を結びます。信長の死後は豊臣秀吉との関ヶ原の戦いで勝利を収め、天下人となりました。その後、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。家康は大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、日本全国を統一する幕藩体制の礎を築きました。三河国(現在の愛知県東部)の大名・松平広忠の嫡男として1543年に生まれ、1616年に亡くなりました。家康は天下統一を達成し、264年続く江戸幕府を設立した人物として知られています。彼は政治的な手腕だけでなく、文化や外交にも影響を与え彼の治世の間に、オランダやイギリスとの交易が始まり、日本は国際社会に開かれた時代を迎えました。また、家康は武家諸法度や一国一城令を制定し、日本の武士社会における基本的なルールを作り上げました。家康の死後、彼は東照大権現として神格化され、日光東照宮などに祀られ、江戸時代を通じて崇拝されました。家康の遺した政治体制は、その後の日本の歴史に大きな影響を与え、今日に至るまでその功績は評価され続けています。
2024年06月13日
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豊臣政権のとった外交方針は、統一政権の基礎を外国貿易と海外発展によって堅固にし、外国に対する威圧と征服とによって勢威の拡大をほかる封建的国家権力独得の方法であって、そこにイスパニヤ・ポルトガルの王権と海外発展との関係に共通せる性格をもちます。東洋及び西洋との貿易を自己の権力のもとに統制して、国交を開き貿易をさかんにしてその利益を収め、国力を外国にまで及ぼそうとするものです。秀吉は国際的な視野を持ち、朝鮮に対する文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を行いましたが、これは成功とは言えず、彼の政権の終焉を早める一因となりました。一五九六(慶長元)年、土佐に漂着したイスパニヤ船サン=フエリペ号の船員が、「キリスト教の布教を領土獲得の手段としてイスパニヤは広大な領土を得た」と放言したことが、秀吉の疑惑を深め、ついに宣教師、信者二六名が長崎で礎刑に処せられ、わが国におけるキリシタン追放の第一歩となりました。
2024年06月12日
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豊臣秀吉による朝鮮出兵は、文禄の役(1592年~1593年)と慶長の役(1597年~1598年)です。これは、秀吉が天下統一を成し遂げた後に行われた大規模な軍事遠征で、 秀吉は、明の征服を目指し、李氏朝鮮に服属を要求しましたが、拒否されたため、遠征軍が朝鮮攻略を開始しました。この戦役により、東アジア情勢が大きく変化しました。最初の遠征である文禄の役では、日本軍は朝鮮半島を急速に進撃し、首都漢城(現在のソウル)を占領しました。しかし、朝鮮国王宣祖は明軍に援軍を要請し、日本軍との戦いを続けました。戦線が膠着したため、一時的な停戦が成立しました。1597年に再び慶長の役が始まりましたが、1598年に秀吉が亡くなり、日本軍は撤退し、戦争は終結しました。この戦争は、明と李氏朝鮮の国力を低下させ、日本国内でも豊臣家内の対立を招き、後の関ヶ原の戦いへの遠因になりました
2024年06月11日
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秀吉は1588年の刀狩令で武装解除を進め、農民から武器を取り上げることで社会の安定を図り、これによって兵農分離を行い、近世封建体制の基礎をつくりました。刀狩令の目的は、一揆を防ぐことで、安定した年貢の確保、応仁の乱の再来を防ぐこと、治安の維持、身分を明確に分けるため、そして京都の方広寺に大仏を鋳造するために金属を集めることなどが挙げられます。この政策は、日本の歴史において重要な転換点となり、その後の社会構造に大きな影響を与えました。刀狩令により、農民が武士になることはなくなり、明確な身分統制ができ、その後の江戸時代には士農工商が制定されることになりました。
2024年06月10日
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秀吉は織田信長の家臣として出発し、本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、織田家の実権を握り、天下統一を目指しました。天下の趨勢を決したのが「中国大返し」でした。この遠征は、天下を信長の支配下に置く決意を示すものでした。この途中で本能寺の変を聞いた秀吉は備中高松城から山崎までの高速行軍で、光秀を打ったもので、日本の歴史において重大な転換点となった出来事です。秀吉は大名たちに対する中央集権的な支配を強化しました。彼は大阪城を拠点にし、全国の大名に対して権威を誇示し、彼らを自らの政策に従わせることに成功しました。
2024年06月07日
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本能寺の変は、1582年6月21日に発生した、日本の歴史上非常に重要な出来事です。この事件で信長は、家臣の明智光秀による謀反に遭い、京都の本能寺で自害しました。信長は当時、天下統一に向けて大きな勢力を築いていましたが、本能寺の変によりその野望は終わりを告げました。この事件は、その後の日本の政治構造に大きな影響を与え、豊臣秀吉の台頭、そして後の関ヶ原の戦いへと繋がる歴史的な転換点となりました。明智光秀が謀反を起こした理由については、多くの説がありますが、信長公記にあるように光秀は、この好機会に乗じて天下の主となるべく、明巣狙いをしたのです。
2024年06月06日
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信長の世界観は、当時の日本における伝統的な価値観や宗教観とは一線を画すものです。彼はキリスト教を受け入れ、その教えに興味を持ち、日本におけるキリスト教の布教を保護しました。信長はキリスト教を政治的な道具としても利用し、仏教勢力の牽制に活用したのです。信長は、自身の力による「天下布武」を目指し、その過程で多くの革新的な政策を採用しました。彼は、日本の伝統的な社会構造や価値観に挑戦し、新しい文化や技術を取り入れることに積極的でした。また、信長は国際的な視野を持ち、外国との交流を重視しました。信長の時代には、南蛮貿易を通じて西洋の文物が日本にもたらされ、それによって日本人の世界観が拡がりました。信長自身も西洋の文物や世界観に強い関心を抱き、京都にキリスト教会の建設を容認するなど、宣教師たちがもたらした新しい知識や文化に対して開かれた姿勢を示しました。信長の世界観は、日本の伝統的な枠組みを超え、国際的な視野に立った革新的なものでした。彼の思想や政策は、日本の歴史において大きな転換点となり、後の時代に大きな影響を与えました。
2024年06月05日
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長篠の戦いは、織田信長率いる織田軍と武田勝頼率いる武田軍が対峙した大きな合戦です。この戦いは、天下統一のきっかけとなる出来事で、現在の愛知県新城市で行われました。織田信長は、鉄砲を積極的に取り入れ、戦術的に活用しました。彼は城の反対側の柵の後ろに鉄砲隊を3列に並べ、武田軍の精鋭騎馬隊を引きつけて砲撃を仕掛けました。この戦術により、わずか500人の兵で武田軍の包囲を応戦し、長篠の戦いに勝利しました。信長は近江に進出し、国友(現在の滋賀県長浜市国友町)を鉄砲の一大産地とし、大坂の堺を掌握して弾丸や火薬を入手するルートを確立しました。また、鉄砲隊の育成にも力を入れ、鉄砲足軽を養成しました。すでに兵農分離を推し進めていた信長にとっては、鉄砲の導入は容易なことでした。長篠の戦いは、新戦法対旧戦法ではなく、豊富な物流と物資を誇る西国(織田)と、それに乏しい東国(武田)の激突といえるものでした。信長の鉄砲戦術と物資の適切な準備が、彼の勝利の要因でした。
2024年06月04日
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新兵器、鉄砲の登場にすぐさま反応したのは、各地の戟国大名たちだった。最も早く実戟に投入したのが薩摩の島津氏。伝来から六年目のことです。中国地方の覇者、毛利元就は、敵の鉄砲に気をつけるよう、家臣たちに言い聞かせている。権力回復を狙う都の将軍、足利義輝も、密かに鉄砲の製造を始めた。その将軍家から火薬の調合法を聞き出した上杉謙信も、直ちに実戟に配備する。そして謙信の宿敵、武田信玄。戦国時代最強の騎馬軍団をつくり上げた甲斐の武田も、やはり鉄砲の配備に力を入れた。信玄は家臣に送った軍役状で、槍を省いてでも鉄砲を持参するように命じている。信玄は、鉄砲を旧来の武器よりも重く見ていたのです。
2024年06月03日
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