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オゴデイ家は、ジンギスハーンの三男・オゴデイから始まる家系、オゴデイは父・大ハーンの存命中からその戦役に従って多くの功績を立てた。 温厚な人柄からチンギスウハーンに後継者に指名され、1229年にモンゴル帝国の第二代皇帝として即位した。 オゴデイは耶律楚材ら多くの漢人ブレーンを重用して帝国内の整備を行ない、金を滅ぼし、またジュチ家のバトゥらを大将にして西征を行なわせて東欧にまで進出させ、ウイーン近郊まで侵攻させている。 しかし、南宋攻略には失敗し、皇太子のクチュまでも失った。 このため有力な後継者を欠いたまま1241年にオゴデイが急死すると、後継をめぐって ジンギスハーンの後嗣たちが打ち立てている。 三男のオゴデイ家と次男のチャガタイ家、末子四男のトルイ家と長男のジュチ家の間で抗争が起きる。 帝位継承闘争です。 夫の他界で摂政監国の立場に立たされた第一皇后のドレゲネは 巧みな政治工作で1246年にオゴデイの長男・グユクを 大蒙古帝国第三代皇帝に即位させる。 グユクはドレゲネの実子である。 だがしかし1248年、グユク・ハーンは急死した。 ドレゲネも先年に没しており、オゴデイ家やチャガタイ家では有力な人材を欠いていた。 オゴデイ家は三男・クチュの子シムレンを擁立したが、ジュチ家のバトゥに推されたトルイ家のモンケが1251年に第四代皇帝に即位すると、 モンカ・ハーンや長老・バトゥの徹底的な粛清を受けたオゴデイ家ではシムレンをはじめ、グユクの皇后だったオグルガイミシュらが処刑され、以後はトルイ家のもとで細々と生きることになる。 しかしながら、モンケ・ハーンの没後、トルイ家の次男・クビライと末子四男・アリクブケの間で帝位継承戦争が起きると、オゴデイの孫であるカイドゥはアリクブケに与してクビライと敵対しする。 そしてその後、 カイドゥは 継承戦争終結後もジュチ・ウルス(封土・領土、ジュチの早世後、諸後嗣がバトゥを中核に幾多建国)やチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)を巻き込んでクビライ・ハーン(大元皇帝)と敵対した。 カイドゥはオゴデイの孫ではあるが、しかし 母方には有力な部族がいず 1301年にカイドゥが死去すると、オゴデイ・ハン国(オゴデイ・ウルス)は急速に衰退し、 最終的にはチャガタイ・ハン国によって滅ぼされ、オゴデイ家の系統は仇敵であるトルイ家(クビライ家の元王朝)を頼って没落して行く。 1241年、オゴデイ・ハーンが没し、その翌年にはチャガタイ・ハンが没すると、重鎮を立て続けに失ったモンゴル帝国では皇帝(ハーン)位の後継者争いを巡って内部に葛藤が起こった。 チャガタイ家は チャガタイ・ハンが生前に バーミヤーン攻囲戦で戦死した長男・モェトゲンに代わり、四男・ブリの弟カラ・フレグを後継者と決めていた。 カラ・フレグ=ハンにはチャガタイ・ハンが褒め称えたオルガナ(オイラト族の王女)皇后がいた。 モンゴル皇帝(ハーン)位の後継者争いは オゴデイ・ハーンの皇后・ドレゲネがカ監国の立場に立って、巧みな政治工作をかさせた。 オゴデイ家とチャガタイ家は ドレゲネ皇后の説得の結果、オゴデイ・ハーンが意向のシムレンを擁立することを諦め 協力してオゴデイの長男・グユク(ドレゲネの実子)を第三代皇帝に即位させたが、 グユクと個人的に不仲なジュチ家の当主・バトゥがこれに難色を示した。 バトゥはジンギスハーン一党で最大の有力者、勢力を維持していた。 チャガタイ家の第2代当主・カラ・フレギの協力もあって即位したはずのグユク・ハーンであったが、グユカ・ハーンはカラ・フレグの認証の席で公言した。 『チャガタイの嗣子たちが生存しているのに、まだ若いカラ・フレグがチャガタイ家の当主であることは不可解である』と称し、カラ・フレグをカラコルムに留め カラ・フレグを当主位から廃してチャガタイの五男・イェス・モンケをチャガタイ家当主に任命した。 1248年、在位わずか2年でグユク・ハーンが没すると、ジュチ家の長老・バトゥは 先にオゴデイ即位の時、最大の実力者でありながら兄に皇帝位を譲っていた大ハーンの末子四男トルイの一門と協力して政変を起こし、トルイ家の当主・長男モンケを第四代蒙古帝国皇帝に即位させた。 モンケは即位すると謀叛の疑いをかけてオゴデイ家とチャガタイ家の王族や諸将に対して大規模な 粛清と追放、所領の没収を行い、チャガタイ家の第三代当主・イエス・モンケの処刑を命じた。 この処置により モンケ・ハーンの認証を受けてカラ・フレグが再び当主に復帰するはずであったが、カラ・フレグ=ハンが イリの所領へ帰還する途中病没してしまった。 この夫・カラ・フレグの他界に接したオルガナ皇后は 直ちにイエス・モンケの処刑を執行している。 これらチャガタイ家、オゴデイ家の二つのウルス(封土)は実質上解体し、政権としての実質は失われた。 イェス・モンケの後には 第2代当主の皇后・オルガナが摂政監国(名目上、幼少の嫡子・ムバラーク・シャーが当主)として当主に据えられ、未亡人を指導者に迎えたチャガタイ・ウルスは本来の所領であるイリ渓谷に押し込められ、チャガタイ家は逼塞を余儀なくされた。 1259年、モンケ・ハーンが南宋に対する遠征の途上に没し、その弟であるクビライとアリクブケによる内紛が始まると、もうひとりの弟・フレグは遠征先のイランに留まって政権(イルハン朝)を樹立した。 新生・イルハン朝政権はジュチ・ウルス(ジュチの後嗣たちがバトゥを中核に所領で建国)の当主ベルケとアゼルバイジャンおよびホラズムの支配権を巡って対立した。 蒙古高原ではトルイ家の次男・クビライと末子四男・アリクブケの“モンゴル帝国帝位継承戦争”が勃発した。 このような帝国全体の混乱の隙を突いて、衰退したチャガタイ家やオゴデイ家に再起の機会が訪れた。 “モンゴル帝国帝位継承戦争”この最中、クビライはさらなるチャガタイ家懐柔の意向を持って、チャガタイ・ハンの長男・モエトゥケンの息子であるブリの長男・アビシュカを イリ渓谷に派遣し 寡婦となっていたオルガナ・ハトゥンに娶らせ、チャガタイ家の当主となるよう送り込んできた。 しかし、その道中で アリクブケの軍が彼を捕縛してアリクブケのもとへ連行し、アリクブケに組みしていたモンケ・ハーンの長男・アスタイによって処刑された。 今度は、アリクブケの命令により、アビシュカに替わってチャガタイ・ハンの六男バイダルの息子であったアルグンが チャガタイ家の家督を受継ぐよう命じられた。 このように、モンケ・ハーンの他界後、チャガタイ家の当主が空位のままであったことから、モンゴル帝国の皇帝位の継承問題に影響される形で、 チャガタイ家の家督を巡って クビライ・アリクブケ両陣営で争奪する様相を見せ、またチャガタイ家当主位の継承が カラ・フレグの寡婦であったオルガナ・ハトゥンが絶世の美女であった事と絡み、 オルガナ・ハトゥンとの婚姻も併せて交察する事態となった。 フィレグ一党のカイドゥは混乱するモンゴル帝国の王族達の中で 勢力基盤を拡大して行く。 ムバーラーク・シャーがチャガタイ家の家督を実質的に継いだのは クビライがアリクブケを破り、アルグも没した1266年であった。 しかし、このムバーラーク・シャーの家督も カラ・フレグの甥であったバラクに実力で奪われる事になる。 【 チャガタイ家の興亡は 前記“チャガタイ一党の系譜”をご参照 】 1260年、クビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発し 両陣営とも、一進一退の探りあいをする中 最初 チャガタイ家は摂政・オルガナの下 アリクブケを支持した。 しかし、アリクブケはクビライに連敗した上、クビライの経済封鎖策によって深刻な食料不足に陥った。 追い詰められたアリクブケは 本営のカラコルムに食料を送る事を条件に側近だったアルグをチャガタイ家当主に任命、チャガタイ家に送り込んだ。 しかし、チャガタイ家領に入り オルガナ・ハトゥンから実権を奪うったアルグは アリクブケに対して反旗を翻した。 この謀反の背景には、第三代蒙古帝国の即位時に チャガタイ家の有力者の多くを粛清したモンケ政権の後を継ぐ形でできたアリクブケ政権に対するチャガタイ家の反発が底流していた。 アリクブケは チャガタイ家の反抗に報復軍を送り、チャガタイ家の本拠地・アウマリク(イリ河沿い)を占領し、チャガタイ家をサマルカンドに退却させている。 しかし、1264年 アリクブケがクビライに降伏したことでついに全チャガタイ・ウルスを チャガタイ家第五代当主・アルグが統一した。 帝位継承戦争集結後、クビライ・ハーンが統一クリルタイの開催を提唱したとき、アルグは真っ先に参加を表明したものの、実現される前に病没した。 バラク(生没年 ? -1270年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第7代当主になる。 チャガタイ・ハンの長男・モエトゥエンの三男イェスン・トアの次男である。 伯父にブリ、叔父に第2代当主カラ・フレグ、第6代当主ムバーラク・シャーは従兄弟である。 1266年に第5代当主のアルグが死去したとき、中央アジアのイリ川渓谷にあるチャガタイ家のウルスではなくモンゴル高原におり、蒙古帝国の中央政権である大元ウルス(元朝)の大ハーン、クビライ皇帝に近侍していた。 アルクが死去すると、チャガタイ家の正嫡であるムバーラク・シャーが第6代当主に即位したが、クビライ皇帝は チャガタイ家の当主に自身の側近を据えることで、中央アジアの統制を強化することを狙って、バラクをアルグの後継者に指名して中央アジアのチャガタイ・ウルスに送り出した。 カイドゥ・ウルス建国 1270年、チャガタイ家のバラクはイランに侵攻するが、フレグのイルハン朝の君主であるクビライ皇帝の甥アバカに“カラ・スゥ平原の戦い”で敗れて勢力を失い、これをきっかけにカイドゥ(オゴデイ家)との抗争も再燃した。 バラクは カイドゥと講和した直後に急死するが、カイドゥにより毒殺されたとも言われる。 カイドゥは、バラクの後継者に自らの推すニグベイを立てたが、ニグベイは間もなくカイドゥに反抗して戦死した。 これにより タガタイ家の権力が空白となり、後嗣を巡って紛糾するが、カイドゥはバラクの遺児・ドゥアと和解してこれを擁立し、チャガタイ・ウルスを自らのオゴデイ・ウルスの支配下に置くことに成功した。 一方、1271年に国号を大元としていたクビライ皇帝は、同年に 自身の四男・ノムガン率いる軍を中央アジアに派遣し、チャガタイ家の本拠地アルマリクを占領した。 しかし、1276年、このノムガン軍に参加していたモンケ・ハーンの遺児シリギが反乱を起こしてカイドゥと結び、ノムガンを捕えてカイドゥに引き渡した。 シリギの乱はクビライ皇帝によってすぐに鎮圧されたが、ノムガンの率いた元朝=中央アジア駐留軍は解体し、このノムガン軍に従軍してきたアリクブケの遺児・メリク・テルムらモンゴリア東部にいた王族・貴族がカイドゥのもとに投じた。 これにより、カイドゥの支配地域はジュンガリアのオゴデイ・ウルス(オゴデイ・ハン国)を中心に、東はアルタイ山脈東麓のアリクブケ家(トルイ家)のウルス(領土)、 北はトゥヴァ地方のオイラト部族、西はイリ川流域のチャガタイ・ウルスからトランスオクシアナに至り、アム川でイルハン朝と境を接する広大な領土に広がった。 北方のジュチ家が南を虎視眈々と覗っている。 _____ 続く _____Cooperate with me ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/31
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コデン、オゴデイの次男 コデンは第2代大ハーン、オゴデイイの次男で、グユンの弟にあたり皇帝位に一番近くに居た。 父のオゴデイが皇帝(カカン・ハーン)に即位した後、有力な後継者候補のひとりとみなされていた。 オコデイが戴冠し、モンゴル帝国を束ね 諸策を推進していたオゴデイ・カカン時代の早期に、 モンゴル族の伝統である末子相続の慣習に基づき オゴデイの弟であつジュンギスハーンの四男・トルイが帝国内の蒙古高原遊牧民群の大半への その支配権・リーダーシップを保持していたが、まもなくトルイは早世してしまった。 すると、オゴデイ・カカンは次期光景主後継者として長男のクチュに期待し 次男のコデンに末弟・トルイの後裔に相伝されるべき領民のうち4個千人隊すなわち4千戸を割いてコデンに与え、 涼州の平原から河西回廊東部にかけての西夏の故地(現在の甘粛省一帯)を勢力圏とする封土を与えた。 コデンは 在世中、その支配圏は甘粛のみならず東の陝西、南のチベットにまで及領土を拡大していった。 これはオゴデイ皇帝(カカン)即位の折、クリルタイで決定した事項であり、兄・クチュは南宋地方の攻略を担当していた。 1239年 コデン率いるモンゴル軍は青海・カム地方からチベットに侵攻し、中央チベットでは仏教寺院を焼くなど猛威をふるった。 この侵略・侵攻に対し、チベットで旧来から勢力を張る土着の豪族と結びついて各地に割拠した仏教教団のひとつであるサキャ派が宗派保全の為に策動している。 サキャ派の教主・サキャ・バンディタは 新興のモンゴル帝国と繋がりを得るため、1247年にコデンの本拠地・涼州に赴いてコデンと会見した。 この会見が、現代まで続くモンゴル人とチベット仏教の深い関係の端緒として非常に有名な事件のです。 これ以降、モンゴル族はチベット仏教に帰依していく。 チベット仏教・赤帽派です。 元朝時代にはチベット仏教の尊師を国師とたっとび、清朝時代には蒙古族はチベットの支援を受けて満州族と戦っている。 コデンの正確な没年は不明です。 しかし、サキャ・バンディタとの会見から間もなく、兄の第3代皇帝・グユクの急死(1248年)を見ることなく 没したとされている。 また、オゴデイ意中の後継者であった三弟・クチュ(シムレンの父)は 十二三年前の1236年2月に 南宋遠征に死亡している。 オゴデイ家の後嗣は カラチャル、カシ(カイドゥの父)、カダアン・オグル、メリクの四名とその息子達になった。 その四名の後嗣は母方の出身部族の勢力が弱く、大蒙古帝国の皇帝継承位は他家の王族とは抗しきれなかった。 シムレン(生没年 ? -1252年)は、モンゴル帝国の皇族。 大蒙古帝国第二代皇帝オゴデイ・カカンの第3子・クチュの後嗣。 父のクチュはオゴデイ・カカンから後継者として期待されていたが、十二三年前 1236年2月に南宋攻略の途上で陣没している。 このため、シムレンは皇帝の宮中に引き取られ、居住を伴にしている。 祖父・オゴデイ・カカンはシムレンを溺愛した。 そのため、シムレンが帝位を継ぎ、オゴデイ・カカンの後継者として期待されたが、1241年にオゴデイ・カカンが死去すると、 シムレンと彼を推戴しようとする勢力は叔母・ドレゲネ皇后(オゴデイの第一皇后、叔父・グユクの生母)の摂政監国である権勢を利用し、巧みな政治工作で 息子のグユクを即位させた。 伯父のグユクが第三代のモンゴル皇帝に即位したが、グユク・ハーンの治世が短命に終わる。 ジュチ家当主でジンギスハーン一族の長老・バトゥがグユク・ハーンを暗殺したと言われる。 大蒙古帝国皇帝・グユク・ハーンが他界すると、皇帝位を争う戦いが王族内で再燃した。 再び、若年で後ろ盾も無かったシムレンと彼を推戴しようとする勢力には力が無かった。 シムレンは 第4代をめぐる権力闘争で有力候補になりながらも トルイ家の当主・モンケが第4代を継いだ。 このモンケ勝利の背景には 王族で最大勢力を有する長老・バトゥがモンケの推戴を支持したことと、グユク・ハーン即位の折に交わされたドレゲネ皇后とトルイ家・タソルクニ・ベキ(トルイの第一皇后、モンケの生母)との密約があったのです。 モンケ・ハーンの即位に不満を抱いたシムレンは、先帝・グユク・ハーンの皇后だったオグルガイミシュやホージャ・オグル(グユクの後嗣)らと共謀してモンケ・ハーンの暗殺を謀った。 が、 1252年の秋 機先を制され モンケ皇帝に捕らえられた。 しかも、シムレンの後見人だった人物がモンケ皇帝に寝返って計画の全てを自供したため、モンケ・ハーンの報復により オグルガイミシュらは死刑されている。 シムレンは モンケ・ハーンの弟・クビライと仲が良かったため、叔父であるクビライの助命嘆願により一時的に華北に追放されたが、やがて禍根を恐れるモンケ・ハーンにより、毛布に包まれて河に投げ込まれる方法で処刑された。 モンカ・ハーンの時世は 大蒙古帝国はさらなく拡大を意図し、各地に遠征軍を派遣していく。トルイ家は大蒙古帝国の皇統を強化していく。 オゴダイ家は皇帝位を受け継ぐ後嗣がいなくなり、凋落の影が濃厚になった。 シムレンにはブーラードチという息子がひとりおり、クビライが皇帝に即位した後の1272年に ブーラードチの息子カダイが靖遠王に封じられている。 また、カダイの弟・アルグイも襄寧王に封じられており、カダイの息子・イェスブケンも襄寧王に封じられているます。 広大な大蒙古帝国を統治するにはジンギサハーンの血族が遊牧民社会で必要だったのでしょう。 ・・・・・・ここで、オドデイ家からトルイ家に大蒙古帝国の政権が移行した経緯を話しておきましょう。ジンギスハーンの第4子・トルイの正妃 ソルクタニ・ベキはジンギスハーンの末子・トルイの正妃となった。 彼女はケレイト部族の王であったオン・ハン(トグリル、オン・ハーンは金帝国から与えられた王位)の実弟・ジャガ・ガンボの第3王女です。 長姉がチンギスハーンの妃に成っているため、ジンギスハーンの義妹にもあたり、また 次姉がジュチの正妃ベクトミシュ・フジンであり、バトゥの叔母にあたる。 トルイとの間に、大蒙古帝国第四代皇帝・モンケ(長男)、第五代皇帝・クビライ(次男で元王朝の創始者)、イルハン朝の創始者・三男のフレグ、四男のアリクブケ(クビライと皇帝位継承戦争を起こす)等の後嗣を出産している。 父のジャガ・ガンボは実兄・オン・ハーンやその嫡子であるイルカ・セングンと不仲で、チンギスハーンと仲が良かった。 そのため、1204年に兄と甥がチンギスハーンに敗れて死去しても、娘をチンギスハーンやジュチ、トルイに嫁がせるなどして 大蒙古帝国内で 厚遇を手にしていた。 1232年に夫・トルイが急死すると、長男のモンケにトルイ家を継がせ、自らはその後見役のような立場となった。 1241年に第2代モンゴル皇帝・オゴデイ・ハーンが死去して次代の皇帝位をめぐる争いが起こると、 オゴデイ・ハーンの長男・グユクが生母・ドレゲネの強い支持を受けて1246年に第3代蒙古皇帝として即位する。 しかしジュチ家の当主・バトゥやモンケと彼の後見役であり母・ソルクタニ・ベキらは この即位に不満を持ち、ソルクタニ・ベキはバトゥと密かに連絡を取り合って密約を交わしたりした。 1248年4月にグユン・ハーンは急死を遂げているのですが、 蒙古高原の王族・諸部族長を率いるグユン・ハーンはクリスタルの決議を経ずに軍団を西方に進めた。 この進軍に警戒するようにとソルクタニ・ベキは姉・ベクトミシュ・フジン(ジュチの皇后、バトゥの叔母)を通じてバチゥに知らせている。 グユン・ハーンがビシュバリク(現在のウルムチ市北方)方面に差し掛かり、イリ渓谷に向かう天山山脈の北麓にて急死している。 知らせを受けたバトゥが グユカ・ハーンの暗殺を企てたのでしょう。 史書には明確な記述はありませんが、それを窺わせる文は幾多ある。 夫・トルイが早世した後、その間に生まれた若年の息子たちを育て、長老・バトゥと力してオゴデイ家の政権を否定し、自らの長男・モンケを擁立し、1251年までに第5代のモンゴル皇帝として即位させている。 長男・モンケが第五代蒙古帝国の皇帝として戴冠すると、それを見て安心したのか、間もなく病に倒れ、1252年からモンケ・ハーンの雲南遠征、次男・クビライの南宋遠征、三男・フレグのイラン・イラク遠征が始まる中で死去した。 全力を注いで 寡婦でありながら、トルイ家を盛り立て、その息子たちがいずれも王朝の王となったことから、彼女を「賢夫人」と評価する声が圧倒的です。 寡婦となった女性、たとえ 王族であっても、前夫の後継者(自分が生んだ子供以外)に身を任せ前夫との子供を育て上げるなが遊牧民の風習です。 『集史』・トルイ・ハン紀ではソルクタニ・ベキを「王国の4つの支柱として立ったジンギスハーンの4人の息子のような、彼(トルイ)の尊厳ある4人の息子の母」と称しています。 クビライ・ハーンへの反逆 カイドゥの属するオゴデイ家一門は、モンゴル帝国の第3代皇帝であったグユク・ハーンが1248年に亡くなると、第4代皇帝となったモンケの一門トルイ家に帝位を奪われ、 ジュンガリア地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)エミル川流域の所領(ウルス)は没収されなかったものの、有力者が追放されるなど厳しい圧迫を加えられた。 カイドゥはオゴデイの孫、五男・カシの長子。 カシの生母は有力な家柄ではなかった。 カイドゥは トルイ家一門の権勢、モンケ・ハーン(1259年8月11日に雲南方面への遠征と途上に他界)や第五代モンゴルy帝国皇帝・クビライ・ハーンに不満をもった。 1259年にモンカ・ハーンが急死しその弟・クビライとアリクブケが後継者争いの“大蒙古帝国帝位継承戦争”を始めるとアリクブケに与し、クビライに反旗を翻した。 すなわち、この帝位継承戦争の混乱の間に オゴデイ家内での権力を掌握していたカイドウは、1266年に西北モンゴルリアにいたクビライ配下の軍を攻撃して反抗の意図を明確にした。 しかし、この内紛がアリクブケの敗北に終わると、入朝して帰順するよう要求する大蒙古帝国皇帝・クビライ・ハーン(大元朝皇帝)の求めを拒否した。 クビライ・ハーンは、新当主・ムバラク・シャーを母后・オルガナが摂政として補佐するチャガタイ家の勢力を吸収して西方の諸王家を掌握することを狙い、 幼少のムバラク・シャーの叔父イェスントアの次男・バラクをチャガタイ家の本領・イリ渓谷に派遣した。 しかし、バラクはクビライ・ハーンから飽くまで共同統治、せいぜい補佐を命じられていたにもかかわらず、ムバラク・シャーが年少であるのを理由に 力ずくで当主位を奪い、後見すると称して服属させてしまった。 バラクはチャガタイ家を掠奪し、イリ方面の勢力を統合すると、隣接するカイドゥの勢力を狙い、北東方面に進出するようになった。 チャガタイ家は北西にジュチ家と領土問題を抱え、北東にオゴデイ家と事を構える事になった。 この状況下 かくして、バラクのチャガタイ勢力とカオドゥのオゴデイ勢力が チャガタイ家のウルス(領土)と西南で境を接するマーワラーアンナフル(現在のウズベキスタン)にある肥沃なモンゴル皇帝直轄領の支配権横領をめぐっての争ったとなった。 このマーワラーアンナフル地方のモンゴル皇帝直轄領にはジュチ家の触手を伸ばし、侵略を繰り返していた。 1269年に至り、バクラおよび西北ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の代表者と会盟し、マーワラーアンナフル領を両家で分割するとともに、共同してクビライ・ハーンへ反旗を翻すことを決した。 この時点で、カイドゥはクビライ・ハーンに対抗するオコデイ家の継承君主(ハン)ではなく、まして 大蒙古帝国皇帝・クビライ・ハーンに反抗する勢力の指導者ではなかった。 ______ 続く _____
2012/05/30
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耶律 楚材の話をしておきましょう。 大蒙古帝国を帝国たらしめた人物です。 インギスハーンの死後に後継者を巡ってクリルタイが紛糾すると、耶律楚材はチンギスの遺志を尊重して オゴデイを立てることを王族に説き、また 諸後嗣を説得している。 この帝国への貢献が礎となってモンゴル帝国を揺るぎなきものにしたと史家は評価する。 ただし、モンゴル貴族ではない楚材がクリルタイに出席して発言権をもったとするには無理があり、この話は中国で書かれた史料にしか伝わっていないことから、 この逸話は疑わしいという説もありますが、彼のジンギスハーンの後嗣達への影響力や彼の人格からして 疑う余地はないでしょう。 オゴデイが即位すると、新皇帝(ハーン)にも書記として仕え、中国語で中書省と呼ばれた書記機構の幹部となり、北中国の金の旧領の統治に携わった。 楚材は、あるモンゴル軍人が、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜とした中国人を皆殺しにしようと進言したのを押しとめ、 捕虜たちを「万戸」と呼ばれる集団に分けて3つの万戸を置き、各万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍をつくって、戸単位に課税する中国式税制を導入させた。 新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイ皇帝はこれに感嘆して楚材を賞賛したという。 1234年にモンゴル帝国が金帝国を最終的に滅ぼし北中国を併合した後には、中国式に全土を皇帝の直轄領にするために、モンゴル貴族に征服した領土を分与することに反対したが、これは黙殺されている。 また、儒学を家業とする家を「儒戸」に指定する制度を考案し、税を軽減するかわりに儒教の学問と祭祀と行わせ、実務官僚層の供給源とした。 オゴデイは中国の歴代王朝にならって孔子の子孫を保護するが、これも楚材の進言によるとされる。 しかし、オゴデイ・ハーンの晩年には、西アジア式に人を単位として課税する人頭税制度を中国に導入することを説く中央アジア出身のムスリム(イスラム教徒)財務官僚層が台頭して 中国行政について干渉するようになり、伝統的な中国式統治システムを維持しようとする楚材らの派と対立した。 ウイグル人財務総監・チンカイやマフムード・ヤラワチ等がその代表ですが、彼らの一部は皇后に取り入り、帝国の財政を破綻に導く。 結局、西アジアの財務官僚に任せる方が単純に収入を確保しやすいことからモンゴル人は彼らを重用するようになり、楚材らは信任を失っていった。 1241年12月7日に「大猟」を催したオゴデイ・カアンは、同月10日にウテグ・クラン山というところで幕営して深夜まで飲酒に興じていたが、翌朝、1241年12月11日に寝床で絶命していた。 1241年初頭、オゴデイ・カアンの長男・グユクはバトゥの西征(前章参照)で最高指揮官であるジュチ家当主バトゥと対立し、この不協和音に 父・オゴデイ・カアンは激怒した。 グユンは本国への召還を命じられ、同年12月7日は 本国に帰還する途上であった。 史実は問責を恐れるグユンは蒙古高原の鳥羽口で時間稼ぎえをしている。 欧州西征最高指揮官・バトゥへの伝令から また 自己への連絡で 父の病没をしったグユクは直ちに 帝都・カラコルムに戻っている。 グユクは 1206年、初代ハーン・ジンギスの三男オゴデイの長男として生まれる(生没年 1206年-1248年4月)。 1233年、蒲鮮万奴を討ち、これを捕らえる功績を挙げ、 1235年初春、父オゴデイがカラコルムを帝都・首都と定め、併せてこの時召集されたクリスタルで、ジュチ家の当主・バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍の出立を言明した。 グユクの三弟クチュは、次弟コデンを総司令官とする南宋遠征軍を率いることが決議され、さらには 他の王族後嗣を指揮官として高麗へも軍を派遣することが決定した。 グユクは オゴデイ家を代表してバトゥの西方遠征に従軍することになった。 グユクは バトゥに次するトルイ家の長男・モンケやチャガタイ家のブリなどとともにルースィ・キプチャクの侵攻遠征で活躍した。 しかし、グユクは他の兄弟をはじめ、特に従兄弟のバトゥと仲が悪く、他の王族たちと常に対立していた。 『元朝秘史』や『集史』によると、遠征中の酒宴でブリがジュチ家の王子たちと口論になり、遠征軍の総大将であるバトゥを面罵し、グユクもブリに同調したと伝える。 このことでジュチ家の王族たちと グユク・ブリが対立した為、グユクの素行を知った父親・オゴデイ・カアンは 自身が一族の和を重んじる性格であったことから、 一族の最有力者であるバトゥと仲の悪いグユクは自分の後継者として不適格と見なし、候補から除外していた上で 問責の使者を発し、グユクとブリをカラコルムに召還した。 実際、バトゥがオゴデイの兄・ジュチの息子であるとはいえ、大蒙古皇帝の息子を家臣の指揮下に置かせるなどということは異例といっても過言ではない。 出陣前からグユンは後継者として失格であると思い悩んでいたのでしょう。 『元朝秘史』によると、遠征中のバトゥからこの報告を受けた父・オゴデイ・カアンは激怒し、グユクは本国への召還を命じられたという。 『集史』ではグユクに伴ってモンケもモンゴルへ帰還したという。モンケは従兄グユクの監視者として同行する旨を命じられていたと記す。 帰還する途上の1241年12月7日に 大蒙古皇帝第二代皇帝・オゴデイ・カカンは病没してしまった。 父の死により、本国に最も近い場所にいたグユクは幸運にも、皇帝(ハーン)位を望むに一番優位な立場となった。 『集史』によると、オゴデイは生前、第一皇后・ボラクチンとの間に儲けた三男クチュを後継者に定めていた。 南宋遠征において、次男・コデンが右翼軍として四川の成都に入城、陝西方面を劫掠し、中軍(本体)を率いるクチュも河南からは湖南に侵攻し、棗陽方面まで制圧していた。 しかし、1236年11月に湖広方面の前線でクチュは陣没してしまった。 このためオゴデイ・カカンはクチュの長男シムレンを寵愛して自らの後継者として宮中で養育していた。 こうした中、グユクは本国・カラコルムへ召喚中に、1241年1月に発せられたオゴデイ・カカンの訃報に接し、加えて生母・ドレゲネが摂政としてオゴデイ・カカンの後継者を選出するクリルタイの招請にも接した。 モンケ(トルイの長男、第四代ハ皇帝)は欧州西征軍から召還されるグユクに伴い、彼に随伴したという。 このため、グユクの生母ドレゲネは摂政監国として 政治工作を行い、一族の最有力者で息子と不仲の従弟・バトゥの強硬な反対こそあったものの、 ドレゲネはモンケを抱き込み、トルイ家と密約を交わし 1246年8月24日、祖父ジンギスハーン即位所縁の地であるココ・ナウルにおいて開催されたクリルタイにて、 息子・摂政を第3代モンゴル皇帝に推戴することに成功する。 しかし、摂政の体制は崩せなかった。 グユク即位後の10月、母のドレゲネが病死すると、グユク・ハーンは自ら親政を開始する。父オゴデイ・カカンの死から5年が経過していた。 グユク・ハーンは母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑し、父時代の功臣であるヤラワチ、チンカイを重用し 自身の即位を支持するチャガタイ家当主・カラ・フレグを廃し、イェス・モンケ(チャガタイの五男)を第3代当主に任命するなど重用した。 この任命がチャガタイ家の内紛に結びついていきます。 軍事面では南宋・イラン諸地方、高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めている。 そして 自らも欧州遠征再開のため、父の遺領(ウルス)であるバルハシ湖近傍のエミル地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した。 しかし グユク・ハーンは1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク(ウルムチ市北方)方面で急死した。 享年43歳であった。 この死は、父同様に過度の酒色で健康を害したための病死といわれている。 しかし『集史』などでは、トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケの生母)が、この巡幸はグユク・ハーンによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、 あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていたと記録されており、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説もあります。 トルイ家のソルコクタニ・ベキの姉・ベクトミシュ・フジンはジュチの皇后ですから バトゥは彼女の甥です。 グユン・ハーンの死後、その皇后・オグルガイミシュが摂政監国として国政を代行したが、ジュチ家のバトゥとモンケらトルイ家の王族たちはオグルガイミシュの招請を拒否し、 約4年の間 モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。 バトゥとモンケのグループは独自にクリルタイを開催し、オグルガイミシュはこの動きに抵抗したが、ジュチ・カサル家とカチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たち(ジンギスハーンの実弟である東方三王家の諸家)が バトゥとモンケの集会(クリルタイ)に参集したことに加え、 グユンの姪・シムレンやグユクの子・ホージャ・オグルやナグの兄弟もモンケのクリルタイに参加を表明するに及び、モンケが 一族の長老・バトゥの支持を得て第4代モンゴル皇帝として即位した。 グユクの即位と生母・ドレゲネ皇后『世界征服者の歴史』や『集史』などによれば、ドレゲネの工作によって、グユクの即位のクリルタイに、 トルイ家からは ソルコクタニ・ベキを筆頭にモンケなどその王子たち、東方諸王家の統括者テムゲ・オッチギンとその一族、 チャガタイ家からは第2代当主のカラ・フレグ、イエス・モンケ、ブリ、バイダル、イxrスン・トアらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功した。 さらに帝国内部からは旧金朝領である華北に派遣されていたノヤン将軍や官僚たちと在地漢人勢力の代表者たち、マーワラーアンナフル総督のマスウード・ベグ、 イラン・ホラーサーン総督アルグン・アカとそれに随行してきたカフカス南部境域、アゼルバイジャン地方からイラク、ホラーサーンに至るまでのモンゴル支配地域とその周辺の有力勢力や王族たち、その使節が参加している。 ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン4世、ウジーミール大公国・ヤロスラフ2世、グルジア王国・ダヴィッド兄弟公、有名なサラーフッディーンの曾孫でアイユーブ朝の君主ナースィル・サラーフッディーン・ユースフの弟君、モースル朝君主・バドスィディーン・ルウルウの使者がおり、 また ヨーロッパからはローマ教皇インノケンティウス4世の使節として派遣されたジョヴァンニ修道士、ケルマーン地方のカラキタイ朝の君主代理 同地方のサルグル朝の使節が参加していた。 その他 このクリルタイに 当時のユーラシア大陸で覇権を唱える勢力が参集しているのです。 グユク推戴に反対するジュチ・ウルスも結局 バトゥは体調不良を口実に欠席したが、モンゴル本土に派遣していた、異母兄のオルダを始めシバン、ベルケ、ベルケチェル、タングト トカ・テムルといった自らの兄弟であるジュチ家の主要王族たちとそれに随行する将軍たちを出席させている。 総じてグユク推戴のクリルタイは、モンゴル帝国最大の勢力を誇っていたバトゥ自身の参加は欠いていたものの、ドレゲネ皇后の工作によって 帝国各地や周辺の主だった勢力を参加させることが出来たため、大蒙古帝国の皇帝選出という大業に見合った大規模なものにすることに成功したといえます。 蒙古族は男女平等です。 それにしても、女傑です。 しかし、当のグユクは皇帝の器ではなかった。 ____ 続く _____
2012/05/29
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オゴデイ・カアンの誕生 オゴデイは、父・ジンギスに従ってモンゴル統一や金遠征、大西征に従った。 彼はジンギスハーンの三男、出生の噂に悩む長兄・ジュチ、父が折々に諭す遊牧民の規範に厳格な次兄・チャガタイ、その二人を融和させるにているのが彼であった。 弟のトルイは 何かにつけ父に従い兄弟でいがみ合う事がなかった。 長兄には覚めた英知、次兄は感情を己で抑制する忍従の人であった。 オゴデイは豪楽で外面には現さないが他者の心情を察する温情の人。 弟のトルイは、そつなく状況判断ができる秀才であった。 兄弟四人で酒を酌み交わせば、オゴデイが最後まで崩れることなく黙々と飲んだ。 父・ジンギスハーンの遠征には常に先陣を受け持っていた。 特に父の(中央アジア)においては ホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部(アルタイ山脈南東部)に所領を与えられた(後年のオゴデイ・ウルス)。 オゴデイには ジュチとチャガタイの有能な兄がいたが、ジュチは出生疑惑をめぐる問題を早く父から自立する事で解決しようとし チャガタイはジュチとの不和、また チャガタイは気性が激しすぎるところから父・ジンギスハーンから後継者として不適格と見なされていた。 オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として、父から期待されていた。 1227年 ジンギスハーンが 大西征の折に従軍を約束した西夏王が 出陣せず約束を履行しなかった責務を諌める遠征軍を率いて西夏王国を陥落させる前日に 突然他界してしまった。 大君主・ジンギスハーンの死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオドデイの弟・トルイを後継者に求める声があった。 これは、慣習だけではなくトルイ自身が智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かったこと、また 父時代に立てた多数の武勲などが要因で後継者として 周囲の期待を受けたのであるが、 トルイはこれを固辞した。 あくまで 生前の父・ジンギスハーンの指名は三兄・オゴデイであったと表明した。 1229年9月13日のクリルタイで、オゴデイはタガタイやトルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位することとなった。 長兄のジュチは病死しており、彼の後嗣が西方の大草原にてジュチ・ウルスを確立していた。 オゴデイには「カアン」の称号が贈ら、彼は大蒙古帝国第二代皇帝・オゴデイ・カアンとなった。 ・・・・・・・オコデイ・カアンへの歴史家の寸評は 概ね・・・・ ◎ オゴデイの治世晩年は後の帝国分裂の要因となる癌が多く発芽したが、急激に帝国領を拡大し、偉大なる父の覇業を見事に受け継ぐことにも成功している。 ◎ 偉大な父を持つ2代目は坊ちゃん育ちで国を傾かせる者が多い中で、オゴデイは理想的な二代目であったといえる。 ◎ 酒豪揃いの蒙古族に在って 大変な酒豪であった、が 彼の病死の原因は律義さ故の過労と 酒で自己を開放してきた積年の性癖であろうといわれる。 ・・・・・ さて、オゴデイ・カアンの史跡を追及しよう。 まずは 彼の沿革は・・・・・・ オゴデイ・カアンは戴冠後、父・ジンギスハーンの偉業を受け継ぐべく、積極的な領土拡大を行なった。 1232年にはトルイの活躍で金帝国の名将・完顔陳和尚率いる金軍を壊滅させ、1234年までに金を完全に滅ぼしている。 さらに1235年、首都としてカラコルムの建設を行い、同地でクリルタイを開催。 南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征と、あわせて高麗、チベツト、カシュミールへの遠征計画を決議した。 南方遠征については、総司令として中央軍を三男のクチュに任じて山西経由で南下させ、次男・コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣しこれを征服させた。 1236年からは甥でジュチ家の当主であったバトゥを総司令官とし、功臣・スブタイ(ジンギスハーンの四天狗の猛将軍)を宿将としつつ長男グユクやトルイ家の当主・モンケなど 各モンゴル王家の後継者クラス、王族たちを派遣し、 ヴォルガ・ブルガール、キプチャク諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ハンガリー王国(アールバード朝)、ポーランド王国(ピャスト朝)など東欧の大半までを制圧するに至った。 しかし、南宋に送り出した遠征軍は、皇太子のクチュが陣中で没したために失敗に終わった。 内政面においては父時代からの大功臣・ウイグル人財務総監・チンカイやマスムード・ヤラワチ、耶律楚材らを重用し、 全国に駅伝制を導入して領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めている。 ユーラシア大陸中央部のいかなる辺地と帝都・カラコルムとの連絡網(伝令の駅舎・狼煙台 等)を整備した。 また、オルホン河畔に首都・カラコルムを建設し、農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けている。 統治システムを改善を勧めて行くが、 しかし 相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れずにいる間に、 次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりもオゴデイの長男・グユクとジュチ家当主・バトゥの対立(欧州遠征時のいざこざ)が決定的となって “アルタン・ウルク”即ち、ジンギスハーン一族間に不和が生まれたことなどが、オゴデイの晩年には大きな癌となって行きます。 さらに、『集史』などによれば、後継者最有力候補であった三男・クチュが早世したため、オゴデイは 父・チンギスハーンのように自分の息子から後継者を指名せず、愛するクチュの長子・孫のシムレンを後継者として告示していたと記述している。 しかし、シムレンは未だ若年であり、壮年の王族はオドデイの息子たちはもとより、ジュチ家やトルイ家、チャガタイ家にも大勢いた。 オゴデイは即位の時に オゴデイ裔に皇位継承権が固定されるよう各王家に誓詞を提出させていたという。 1241年12月7日に「大猟」を催し、同月10日にウテグ・クラン山というところで幕営して深夜まで飲酒に興じていたが、翌朝、1241年12月11日に寝床で絶命していたという。 享年56歳。 過度の酒色で健康を害して死去してしまったと『集史』や『元史』などでは述べられている。 死後は父親・ジンギス、母親・ボルテと同じく起輦谷(この場所は 未だに特定されていない)に葬られた。 オゴデイ・カアンは生前、後継者としては3男のクチュを指名していたが、不幸にも1236年2月に早世し、それ以外の息子(グユク以外)のほとんどは早世してしまっていた。 このため、生前はクチュの長男シムレンを後継者とし、あるいは甥にあたる、トルイの長男モンケ(幼少時、オゴデイ・カアンの側で生活している)を後継者として考えていたらしい。 しかし、オゴデイの死後、皇后のドレゲネ(グユクの生母)による巧みな政治工作でグユクが第3代皇帝(ハーン)に選出されたのです。 【 カラコラム ; ジンギスハーンが大西征の兵站基地をこの地に造営し、第2代大ハーン(カアン)であるオゴデイが1235年に宮殿・城壁を築いて モンゴル帝国の首都に定めた。 オゴデイ・カアンの時代にジャムチ(駅伝制)が整備され、大蒙古帝国各地との結びつきが強められた。 第5代大皇帝であるクギライ・ハーンが首都を大都に定めた後もモンゴル本土の拠点都市として重んじられる。 明を建国した朱元璋による北伐を受け、モンゴル族が北方に追われた後は北元の首都となっている。 16世紀末、チベット仏教の寺院エルデネ・ゾー建設の資材調達のためカラコルムは荒廃した。 その後、しばらく歴史上から姿を消すが、19世紀末にロシアの研究者が遺跡を発見し研究が進められた。 20世紀末には日本とモンゴルの共同調査が行われている。 現在、近郊のハラホリンは温泉保養地として知られています。 朝青龍の父の故郷でもあり、彼の親族が経営するリゾート施設があるそうです。 ・・・・・蛇足ながら 】 ジュチ・チャガタイ・オゴダイ・トルイの母親・ボルテ モンゴル帝国の始祖ジンギスハーンの第一皇后であるボルテ、コンギラト部族の王族出身です。 ボルテ・ハトゥン(皇后)は カブル・カン以来 モンゴル部族の姻族として知られたコンギラト(オンギラト、フンギラトとも言う)部族の一氏族の首長デイ・セチェンの娘で、『元朝秘史』ではジンギスハーンより1歳年上だったとされる。 父・デイ・セチェンはコンギラト部族本家から分岐した一族と思われます。 『集史』の「コンギラト部族誌」によると コンギラト部族はモンゴル部族において、 キヤト氏族をはじめとするエルン部族集団に隷属するドルルンキ部族集団を代表する部族であった。 モンゴル部族の中では 有力で名門の宗家の一族がボルテ・ハトゥンの血脈です。 ボルテはまだ子供の頃に父とテムジン(ジンギスの幼名)の父・イェスゲイ・バートルとの間で婚約が結ばれ、成人した後にテムジンと結婚した。 父・イェスゲイ・バートルは怨敵のタタル族に毒殺される。 結婚してあまり経たない頃、高原北部の有力部族メルキトの首長トクトア・ベギが傘下のウアス、カアトの各氏族の首長たちと軍を引連れてテムジンの幕営を襲い、ボルテは逃げ遅れてメルキトに抑留された。 まだ勢力の弱小だったテムジンの保護者であったイェスゲイ・バートルの盟友でケレイト部の王・オン・ワンはメルキトに圧力をかけ、ボルテの身柄をケレイト陣内に引き取り、テムジンのもとに無事送り返した。 この旅路の最中にボルテは長男・ジュチを生んだ。 「旅客」を意味するジュチという名前をテムジンはこの子に授けた。 『元朝秘史』は より劇的に、テムジンはオン・ハンおよび親友のジャムカ(後年最大の宿敵となる)と同盟して メルキトを破り、武力でボルテを救い出したという話になっています。 一方、『集史』ジュチ・ハン紀は、父親・イェスゲイ・バートルがメルキト族長の後嗣の婚礼に向かうホエルン(テムジンの生母)を兄弟で奪い去り、妻にした遺恨の仕返しにテムジンの妻・ボルテを略奪したと書き、 ボルテがメルキトの手勢に連行された時、既に彼女は妊娠した状態だったとも書いている。 やはり、オン・ハンがメルキト側と交渉してボルテを取り戻し、オン・ハンはテムジンの英知を愛し テムジンを自らの「息子」と称して尊重していた史実 また 蒙古高原に覇を打ち立てる過程での二人の関係からも 彼女を鄭重に保護してテムジンもとへ オン・ハンが送り戻したのでしょう。 その後、ボルテ・ハトゥンは ジュチの3人の弟チャガタイ、オゴデイ、トルイと5人の女子を生み、男子はジンギスハーンの後継者候補としてその征服事業を助けて活躍し、女子は全て チンギスハーンと同盟した有力な部族の長のもとに嫁いでいる。 ジンギスハーンが勢力を拡大するとやがて様々な部族から迎えられた36人の女性が后妃とされ、ボルテ・ハトゥンは正妻、第一皇后としての地位を保って尊重された。 他の后妃とは別格の扱いであった。 勿論、遊牧民の王族の皇后として、ジンギスハーンが親友として考えているジャムカの性格を見抜き、テムジンが窮地に陥るのを未然に防ぎ、オン・ハンとの関係(三度敵に回り、三度助けられる)など非常な明晰な内助の功を発揮している。 ______ 続く _____
2012/05/28
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イルハン朝の最後の君主(ハン) トガ・テムル(生没年 ? -1353年)はイルハン朝の君主(ハン)を称した人物の中で最後に没した、イルハン朝の事実上最後のハン(在位:1337年 - 1353年)である。 チンギスハーンの弟ジュチ・カサルの末裔、"アルタン・ウルク/黄金の家”の皇統ではない。 フラーサーン、マーザンダラーンを統治した。 ムハンマド・ハン(イルハン朝の第12代君主、トガ・テムルは ジャライル部の有力者・タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(通称、大ハサン、ジャライル朝の創始者)に擁立されて君主(ハン)になった。 その大ハサンの政敵・アリー・ジャファル、ホラーサーンの統治者・シャイフ・アリーを中心とする貴族によってトガ・テムルはハンに擁立された。 トガ・テムル・ハンは アルバ・ケウン・ハン(在位:1335年 - 1337年)が殺害されて 先に君主(ハン)を称したムーサー・ハン(第11代君主、在位:1336年 - 1337年)と共同戦線を張って ムハンマド・ハンの陣営、大ハサンとの戦いに挑むが、 マラーガで大ハサンの軍隊と遭遇すると一戦も交えずに逃亡してしまった。 大ハサンとトガ・テムルの擁立者・ハサン・チュチュク(小ハサン)の和解が成立した後、 大ハサンはトガ・テムル・ハンのハンの地位を承認し、イラクの帝都・バグダードにトガ・テムル・ハンを招いた。 イルハン朝の融和を共に図っている。 トガ・テムル・ハンは 宰相の意見に従って増税と給与の削減を行うが、この政策は大ハサンの意図からは外れたものであり、シャイフ・ハサン・小ハサンの策謀の離間策にかかって大ハサンとの関係は完全に決裂し、彼はホラーサーンに帰国した。 当時の1338年に タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(大ハサン)が擁していたムハンマド・ハンが戦死したため、ジャハーン・テムルが君主(ハン)に擁立されていた。 また、1340年に シャイフ・ハサン(小ハサン)との戦いに敗れた大ハサンは バグダードに帰還した後に自らの王朝・ジャライル朝が建国し、ジャハーン・テムル・ハンは廃され、フレグの皇統王朝は消滅していた。 1341年にトガ・テムル・ハンは 弟アリー・ケウンに説かれて3度のイラク遠征を敢行するが失敗している。 フレグ・ウルスの西部は大ハサンのジャライル朝や 地域は新興勢力・サルバダール政権に浸食され、トガ・テムル・ハンはイルハン朝の再興、フレグ・ウルスの領土挽回に東走西奮の様子が覗える。 しかし、1353年 アストラバード付近で、サルバダール政権の君主ヤフヤー・ケラヴィによって暗殺された。 この時点で フレグの皇統王朝は中央アジアから その姿を消した。 ティムール朝は、中央アジアのトランスオクシアナ(ウズベギスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)。 その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はガンジス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつての大蒙古帝国の西南部地域を制覇した。 ティムール王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人・チャガタイ人の一員であった。 ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。 これらは最終的に16世紀初頭にウズベグのシャイバーン朝(ジュチの子孫)によって中央アジアの領土を奪われるが、 ティムール朝の王族の一人ホパーブルは アフガニスタンのカブールを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。 ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら都市の優れた文化を理解していたので、首都サマルジャンドを始め王族たちが駐留した各都市では盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いた。 とくに、自身が数学、医学、天文学などに通じた学者でもあったティムールの孫・ウルグ・ベグがサマルカンド知事時代に行った文化事業は名高く、彼がサマルカンド郊外に建設したウルグ・ベグ天文台では当時世界最高水準の天文表が作成されていた。 また、都市には優れた宗教・教育施設が建設され、サマルカンドのグーリ・アミール廟、ビビ・ハヌム、ウルグ・ベグ・マドラサ(イスラム学院)や、現在のカザフスタン南部テュルキスタンのホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟などが名高い。 しかし、このように都市文化に親しみ都市の建築に力を注いだティムール朝の君主たちも一方では遊牧民の末裔であって、 都市の中の窮屈な宮殿よりも都市の周辺に設けた広大な庭園の中でくつろぐことを好んだ。 こうして大小さまざまな庭園が建設されたが、サマルカンドのそれはこの町で生まれ育ったバーブルの自伝『バーブル・ナーマ』において詳細に描かれ、その見事なさまが今日に伝えられている。 このようにティムール朝の時代に栄えた中央アジアの宮廷文化が頂点に達したのが、15世紀後半のヘラート政権のスルタン・フサインの宮廷においてであった。 ヘラートの宮廷では、モンゴル時代のイランで中国絵画の影響を受けて発達した細密画の技術が移植され、芸術的にさらに高い水準に達した。 スルタン・フサインや、その乳兄弟で寵臣として宰相を長く務めた有力アミールのアリーシール・ナヴァーイーは非常に優れた文化人で、彼らの文芸保護によって文学が繁栄した。 当時の中央アジアでは文化語はペルシア語であったが、ナヴァーイーらは当時テュルク語にペルシア語の語彙と修辞法を加えて洗練された「チャガタイ語」を用いた文芸、詩作をも好んで行い、 ティムール朝のもとでチャガタイ語をアラビア語やペルシア語と比肩しうるレベルまで文学的な地位を向上させた。 チャガタイ語散文文学のひとつの頂点を示すのが、先にも触れたティムール朝の王子・バーブルの著書『バープル・ナーマ』です。 現代も愛読されている。 ティムール朝では王朝側による修史事業もまた盛んに行われた。 シャーミーとヤズディーによってティムールの伝記である二種類の『勝利の書』が著されたのを初めとして、シャー・ルフの時代にはティムール朝はチャガタイ・ウルスの後継国家としての意識が一段と顕著になった。 シャー・ルフは歴史家ハーフェズ・アブルーらに『集史』をはじめとするイルハン朝時代からの歴史情報の諸資料の総括を命じ、あわせて『集史』自体もモンゴル帝国におけるバルラス部族とジンギスハーン家の関係を強調した。 この過程でモンゴル的な祖先伝承と預言者・ムハンマド(マホメット)との血縁的・宗教的関係を連動させ強調する主張も盛り込まれた。 この種の主張はイルハン朝時代に萌芽があったが、ティムール朝ではより鮮明にされるようになった。 この影響は、後のオスマン朝やサファヴィー朝、シャイバーニー朝などでも受継がれていく。 またこれらシャー・ルフ治世下のヘラートでの修史事業の伝統は、スルタン・フサインの治世にンサヴァーイーの保護下で世界的な通史である『清浄園』を著したミールホーンドや、その外孫でバーブルに仕えた『伝記の伴侶』の著者ホーンダミールなどを輩出している。 これらの高い文化の影響は、ティムール朝の中央アジア領をそのまま引き継いだシャイバーン朝のみならず、西のサファヴィー朝、南のムガル帝国にまで及んだ。 こうしてティムール朝の滅亡後も、東方イスラム世界と呼ばれる一帯の文化圏で優れたイスラム文化が続いてゆく。 また、ティムール朝時代の進んだ文学や科学が言語を同じくするアナトリア(小アジア)のトルコ人たちの間にもたらされたことが、当時勃興の途上にあったオスマン帝国の文化に与えた影響は大きい。 この様に、ティムール帝国で形成され花開いたイスラーム文化を、特にトルコ=イスラーム文化と言われ、今日まで継承されている。 さて、ティムールに関して、また 彼の王朝系譜は前作“ティムール伝”にて詳細を記載しておりますが、ティムールの事跡概略を俯瞰して フレグ一党の話はこれで筆を置きます。 次回からはジンギスハーンの三男・オゴデイと彼の一党について書き綴りましょう。 ・・・・・ ティムールはジンガスハーンの築き上げた世界帝国の夢を理想としていた。 その帝国再現の為に、外征を繰り返した。 ホタズム・ッペルシア遠征 ;ティムールはマーワラーアンナフル統一を果たした後の10年間にモグーリスタン・ハン(チャガタイ・ハン)国が支配する東トルキスタンへ遠征を繰り返し、コンギラト部族が支配するホラズム地方を併合 1378年 ジュチの末裔トクタミシュを支援して、彼をジュチ・ウルスの君主(ハン)に据え周辺の諸勢力を自己の影響下に置いた。 トクタミシュは 1380年に、“黄金のオルド/ジュチ帝国”からの独立を図ったママイを クリコヴォの戦いで破り、1382年にはそのままモスクワ大公国へ進撃し、戦勝に沸く勢いで モスクワをも焼き払った。 トクタミシュはティムールの大恩を忘れ 権勢を拡大した。 1380年からティムールは イルハン朝解体後分裂状態にあるイランに進出してハラーサンを征服した。 3年戦役 1386年から始まる3年戦役で ティムールはアフガニスタン、アルメニア、グルジアなどまで支配下に置いた。 そして、大恩を忘れたトクタミシュと対決する。 トクタミシュとの戦い 1388年、トクタミシュが“3年戦役”の隙を突いて遠征遠中のティムールを見透かすように、ティムール領を攻撃したのをきっかけにティムールは 遠征を打ち切り、帰還し 3年戦役を終了して、直ちに北上 トクタミシュを追撃した。 トクタミシュは西方に逃れ、カフカス北方域を占有して、再起を図った。 5年戦役 1392年から始まる5年戦役でイランへの遠征を再開した。 ムザッファル朝を滅ぼしてイラン全域を支配下に入れ、バグダードに入城してマムルーク朝と対峙した。 ティムールはさらに北上してカフカス山脈を越え トクタミシュと対峙 トクタミッシュを破り、ヴァルガ川流域に至ってジュチ・ウルスの帝都・サライを破壊、ルーシ諸国まで侵入し、16年に帰還した。 インド遠征 1398年、インド遠征を決行し、デリー・スルタン朝を破ってデリーを占領し、西北インドを支配した。 7年戦役 1399年に始まる7年戦役では、アゼルバイジャンで反乱を起こした三男・ミーラーン・シャーを屈服させ、グルジア、アナトリア東部からシリアに入ってダマスカスを占領、さらにイラクに入りモースルを征服した。 オスマン帝国との戦い 1402年、中央アナトリアに転進したまた ティムール軍は“アンカラの戦い”で バヤズィト1世率いるオスマン朝軍を完膚無きまでに破ってオスマン朝の拡大を挫き、 アナトリアのオスマン領をバヤズィト1世に領土を奪われた旧領主へ返還して 帰還した。 この遠征でかつてのモンゴル帝国の西半分がほぼティムールの支配下に入り、オスマン朝、マムクール朝がティムールに名目上服属、ティムールの支配地域は 更に大きく拡張した。 中国遠征 1404年末、20万の大軍を率いて明を破り、元の旧領奪還を目指し中国遠征を開始した。 しかし、ティムールは1380年代末より患っていた病のため、遠征途上の1405年2月18日の夕刻、オトラル(天山山脈西北西)で病没した。 臨終の言葉は「神の他に神なし」と伝えられている。 禁断の棺 グリ・アミ-ル廟にある彼の黒石の棺の裏には 「私がこの墓から出た時、最も大きな災いが起こる」というような言葉が刻印され、棺は開封されることなかった。 しかし、1941年6月19日になってソ連の調査により初めて開封され、脚の障害などが確認された。 しかし、そのわずか3日後、バルバロッサ作戦が実行され、これがソ連から見た第二次世界大戦の戦端となった。 のちに畏怖を抱いたソ連によって蓋が鉛で溶接され、これ以後二度と開封されていない。 ________ 続く _______
2012/05/27
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<登山>足かけ18年で偉業達成…竹内さん8000m峰の高峰14座登頂… 26日午後5時30分(現地)ごろ ネパール北西部のダウラギリ峰の登頂に成功 たいしたひものだ 単独にての登攀だからなおさら しかも 無酸素 偉大である 最終C3・キャンプ地が7400mの高度 頂上までの700mを 5時間程度でき極めている まさに超人 国力が向上している時に 冒険者・挑戦者が現れる 先般の渡辺玉枝さん(73歳)が最高峰・エヴェレスト(8848m)の女性最高齢登頂記録を更新 ドラムカンの筏で太平洋に挑んだ金子・リヤカーを轢いてサハラ砂漠を縦断した大場 堀江に植村は有名すぎる 酷寒のシベリアを馬橇で横断した人もいた 日本の 国力が向上している時に 冒険者・挑戦者が現れた 登山家の竹内洋岳さん(41歳)は 足かけ18年で この偉業を達成した 01年以降 ラインホルチ・ネスナーの「アルパイン・スタイル」で 登り続けことに爽やかさがある 登山は 所詮 個人の遊び 組織に頼っての「極地法」など 堕落した登山活動である それにしても 日本では登山行為・冒険者をあまりにも評価しない 事故を起こせば批判される 欧州・アメリカでは英雄だ イタリアのラインホルチ・ネスナーなどは国家的名誉市民で 13世紀頃に建築された城に住んでいる 無論 著作と講演で購入資金は捻出している 1970年のナンガ・パルバット“魔の山”のルパール氷壁初登頂を成功させた際に登攀予定計画には無かったアタックで 同行の実弟・ギンター・メスナーが遭難死の原因を作ったと言われ 彼自身も重度の凍傷に罹り足の指を7本切断しているのであるから 第三者の批判などは論外で 一億総評論家の日本の風潮などお門違いも甚だしい 1974年には 人類初のエヴェレスト無酸素登頂の成功を二人で成し遂げたベーター・ハーベラー(ドイツ人)と “魔の岩壁”アイガー北壁を登攀中 別の登攀者の救助を手伝った上で 世界最短登頂記録を更新 18歳頃から東アルプスで500回を超える記録的な登攀をこなし 世界初のガッシャーブルムI&II峰縦走にも1984年に成功 1986年に人類史上初となる 8000m峰全14座完全登頂という登山史における大金字塔を打ち立てた 1990年には92日間をかけ徒歩で世界初の南極横断に成功している なぜ 彼らは冒険的な挑戦に挑むのであろうか 私は思う 危険と困難は違う 危険は無知・傲慢の産物 分析・透視すれば危険は困難へと変わる 困難への挑戦は人のみが持つ 心の昇華であろう 【「極地法」; 登山や未知の地域で 安全に前進の手法のひとつ、包囲法とも呼ばれる 安全な地点に基地(ベースキャンプ)を設け、比較的連絡のとりやすい 1日行程くらいの距離に次々と前進キャンプを設営し、各キャンプの隊員の援助のもと、最終的に少数の隊員が頂上を目指す登山法である。 8000メートル峰を中心とした高所登山において成功率と安全性を高める為に生み出された方法であり、登頂に多くの期間と人員そして多額の費用が必要であること、少数の登山者のために大量の人員を投入すること、山に膨大なゴミを残すことなどに対して批判も存在する。 技術や装備が進歩し世界中の高峰登頂が達成され尽くした現代では、記録達成を目指す先鋭的な登山家においてはアルパインスタイルによる未踏の困難な登攀ルートを 少数精鋭で切り開くことに主眼が移っている。・・・・・・蛇足ながら 】日記用=A= Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/27
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“パクって何が悪い” 「日本こそパクリ先進国だ」 ・・・・・・ 変な言葉があるものだが 言いえて妙な表現でもある・・・ 中国で開催されるモーターショウでは毎回のように他社の意匠を侵害するパクリ自動車が登場する 自動車に限らず、中国ではパクリを意味する『山寨』という言葉が話題になっているが この『山寨』は中国のありとあらゆる産業で見られる行為で、開放経済下 世界の顰蹙を買うも 華中世界の常識 歴史的な伝統と思える 中国人コラムニストが『山寨』を肯定する意見を綴ったものを見た 以下はその論趣を二件 パクって何が悪い!『山寨』は正常な行為だ 中国で開催されるモーターショーでは、毎回のように「山寨(パクリ)」版の車を見ることが出来る。今回の上海モーターショーに出展された車の中では吉利汽車のGEはロールスロイスに酷似し、力帆汽車の320はBMWグループのMINIに酷似している。 中国の自動車産業は“山寨(パクリ)”の道を歩き続けている。 以前はソ連のトラックや乗用車を模倣していた。 聞こえの良い言い方をすれば「参考」であり、聞こえの悪い言い方をすれば「剽窃(ヒョウセツ)」、今風に言えば“パクリ”である。 中国メーカーは“パクリ”の道を歩み、発展してきた。 双環汽車のSUV「CEO」はBMWのX5に酷似し、BYDのF3はトヨタ・カローラに酷似しているなど枚挙に暇が無い。 中国でのモーターショーでは毎回、少なくない数の山寨(パクリ)自動車が登場するが、外国メーカーはこの機を利用して山寨自動車を探し、裁判を通じて模倣行為を排除しようとしている。 しかし、これまでの模倣行為に関する裁判を見ると、パクった側が勝訴していることが分かる。 中国政府は知的財産権を保護しているというものの、中国は世界最大のパクリ大国となっている。 自動車のみならず、IT・通信産業や服飾産業など、ほぼ全ての産業において「山寨」が存在するのである。 “山寨”の発展は中国国内の消費者にとっては消費への敷居を下げることになる。 また、経済発展を促進し、産業の競争度合いを強めるものでもある。 業界にとっても庶民にとっても、「山寨」は弊害よりも利益のほうが大きいのである。 米国アポロ計画はナチスの科学技術の上に成り立った成功であるし、日本の学習能力の高さが日本の経済発展をもたらしたが、学習ですら模倣であろう。 韓国の自動車産業、電子産業、半導体産業も米国や日本の先端技術を模倣し、それから改善することでイノベーションを手に入れたのである。 つまり、模倣も剽窃も実は正常なことであり、模倣したことのない人がこの世に存在するだろうか? 最も重要なのは、模倣の上にイノベーションがあることで、模倣を通じて技術を自らのものにすることなのである。 ・・・・・・ ご立派な切論で、恐縮してしまう で、 次なる論客曰く 「日本こそパクリ先進国だ」…遊園地問題… 中国の娯楽・ゲーム専門サイト「多玩遊戯」は15日付で、日本では中国の遊園地における「パクリ」を問題視するが、実際には「日本こそがパクリ先進国だ」と主張する藪睨みな論説を発表した。 まず、日本で有名になった「パクリ施設」として、北京の石景山遊園地の問題を改めて紹介。 同遊園地は米ディズニーランドの劣悪な「パクリ施設」として有名になったのは、ミッキーマウスそっくりのキャラクターを使用しながら、指摘されると「耳の大きい猫だ」と強弁 拍手喝采を浴びたからだと評価。 しかし 一方で、施設全体のキュッチフレーズでは「ディズニーランドは遠すぎる。 ぼくたちのところへおいで」などの文句を使い、実際には関係ないにもかかわらず、ディウニーランドのイメージを利用していていると批判する。 論説はその上で、「石景山遊園地がアジアのパクリ版ディウニーランドドの始まりというわけではない」と主張し、1961年に日本の奈良県に建設された「ドリームランド」を例に挙げた。「『眠れる森の美女』の城などディズニーをイメージさせるアトラクションが多く存在」などとして、「奈良ドリームランドは、アジアのパクリ版ディウニーランドドの先駆け的存在である」と説明した上で、 遊園地の「パクリ問題」では、先進国であるのは日本だ と主張した。 奈良ドリームランドは2006年に営業を終了したが、建物は現在も残されていると解説するも、閉館の経緯や知的所有権の使用ロイヤルティー等は一切述べずに、 論説は「四川省に出現した山寨(パクリ)巨大ガンダムが日本のネット上で大きな関心を集めている」ことを受け、 「日本のメディアは再び、中国が知的財産権を尊重していないことの証拠とするだろう」との見方を示しつつ、日本を批判している。 ・・・・・ さてさて 筆者の主張は山寨(パクリ)の風潮批判なのか?擁護なのか解らぬが タイトルからして 日本批判のキャンペーンに違いない ・・・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/23
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古代中国では日食など天変を天の警告とみなしており よって 統治者は天体観測に非常に関心を示し そのため天体観測は 施政者の重要事項で 多くの記録が残された 古来 イスラーム世界では月・太陽はシンボルであり 12世紀以降 学術的な運行観測は世界をリードし サマルカンドには その遺構が残る ところで、 『日は太陽の精気で、君主の象徴である。 君主の道に欠ける所があれば、陰に乗じられることとなり、日食が起こる。 日食とは陽が勝たないことである・・・・』 と 華人は考えた。 従って、日食は 霊獣の「天狗」が日を食べて起こるとされ、緊急に部隊を編成して銅鑼を叩き、天狗を追い払わなくてはならなかった。 ある日食の時に、酒ばかり呑んでいて観測を怠った罪で、観測係の羲和という男が斬首されたという話が伝わる。 日食はたいてい天子の死や国の滅亡を、兵乱や天下の大乱を 日食が引き起こし 発生する凶害の種類は 天象の具体的な表現から分かるとした。 例えば 日食が上部から始まれば天子の政に誤りがあり、横から始まれば内乱や大きな兵乱が起こり、新たに天子が立つ兆しとし、下から始まれば妃や大臣が自ら恣とするとした。 さて、 今回の日食はいづれから その“蝕”が始まったか、迂闊にも確認していない、 羲和の二の前はごめんだが 凶害なき事を切に願う・・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/21
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上海一の繁華街、南京路 上海一の繁華街、上海一のメインストリート、活気に満ち溢れている 外灘(バンド)の和平飯店角から静安寺の西まで続く全長約5.2Kmの大繁華街 老舗の百貨店や食品店を中心に、活気あふれる繁華街“南京東路”とハイソな“南京西路” 歩行者天国に美術館 人民公園に博物館 時を過ごすには最適の場所アクセスは便利である 定宿のホテルから15分歩けば東西の分岐交差点に立てる その北西角が“新世界”であり、西蔵路100号が番地であると思う 世界の諜報員が蝶ネクタイでめかしこみ 暗黒街の大ボス達も同様に 世界一の大キャバレー“新世界”に屯し 懐に拳銃を忍ばせチャイナドレスの美女達と戯れた “新世界”の西方三っ目が最高級ホテル・国際飯店 共にレトロな中層ビルデング “新世界”の屋上南面外壁が中国一の高額広告スペースと言われている その広告テナントが【SUMUSON】に成っていた 以前は【SONY】であったと記憶する 九龍側から香港島を望めば 同じ感慨にひたる 日本の企業は弱くなったと Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/17
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山梨県出身の女性登山家、渡辺玉枝さん(73)が 19日午前7時(現地時間)前後に 最高峰・エヴェレスト(8848m)の登頂に成功 自身が10年前に樹立した女性最高齢登頂記録を更新 健康状態は良好だというニュース ・・・・・・・・・ 取って置きの写真で敬意を示そう 渡辺さんは山岳カメラマンの村口徳行さんらと4月中旬、中国側のベースキャンプから登山を開始 5月18日夜 高度8300メートルの最終キャンプから頂上を攻撃(アタック) 翌朝7時の登頂 十時間以上の苦闘であったろう 中国側に下山を始めていると言う 中国側からの登頂と言えば イギリスのクリス・ボニントンが 彼女をベース・キャンプ(5400m前後)に置き去り 単独・無酸素で五日間で登頂 人間業ではない 十数年前だ 因みに ネパール側からの登山料は 1人25,000米$(約240万円)であり 7名以上は割引があり それでも 一人100万円は必要 中国側からの入山料は知らない そう言えば 今春 親友が愛妻を伴って エヴェレスト参拝に行った 私も 三度目のエヴェレスト街道の巡礼に向かおうか 登山料も体力もないが故に・・・・・夢か・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/16
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明清時代の建物風格を模した雄大な商業ビルが立ち並ぶレトロな通りである どの建物も特徴的なとんがり屋根 下町風情漂う街の中 狭い道を通行者・観光客がひしめく 名園・豫園を訪れずに上海老街を東に抜けて黄浦河左岸に向かった 上海老街は下町・庶民の商店街 抜け出たビルの一角に公衆便所があった 用を足しに入った姪が 驚いて飛び出してきた 中は厚板二枚に屈みこむ便器であった 見上げる前方に 上海環球金融中心展望台のテレビ塔・高さ492mが眩しく輝いていた 東京スカイタワーにその席を譲ったが 多くの中国人は環球展望台が 世界で一番高い場所にある展望台であると 今尚 信じて疑わない Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/14
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外灘・バンド “中国の窓”と例えられる上海 その“上海の玄関”と呼ばれているのが、外灘(バンド) 南京条約で上海が開港して以降、『バンド』は租界の玄関口になった 密航した高杉晋作が驚嘆した場所 幾多の大陸浪人がこの地を闊歩した アールデコやネオ・バロックなどの建築様式が融合する独特の建造物を徘徊するのは楽しい 夜 姪たちの希望で和平飯店(Peace Hotel)へジャズを聞きに行った 1930年代の世界である 翌日 家内ともどの五名で豫園・上海老街から黄浦河左岸を黄浦公園まで歩き その翌日 蘇州河右岸を二時間ほど歩いて黄浦河に達した 小雨降る中 家内と二人で 外灘(バンド)周辺を4時間費やしての散策であったが 対岸の高層ビルが これみよがしに虚勢を張っていた テナント占有率は50パーセントを割ると言う Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/13
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中国で長距離列車のキップ購入は至難のわざだ ・・・当ブログにしばしば 書いてはいるが 購入日が乗車予定の三日以内日に変更されていた ネットと電話での購入可能に成ったせいだ ・・・しかし 旅行者にはお手上げである 私は二度 駅に出向いた ネット・電話の利用も即刻に窓口に行かねばキャンセルになる しかも 身分証明が必要なのだ 驚いた事には 購入した切符にパスポート番号が刻印されていた 御丁寧な事である 以前の便利屋・ダフ屋の利用は これで出来なくなってしまった ・・・乗せてやる思考も ここまで来れば 御立派そのもの 驚いたことは他にも幾多 まず 駅舎構内への検問は無くなったが 荷物安全検査の後に検問があった 何時もの8番待合室が1番待合室に変更されていた 入り口にも検問があった 赤色王朝の哲学を示すが如く 1番待合室はラサ行きとウルムチ行きの専用であった 発車30分前にプラットホームへのゲートが開く 全席座席指定なのだが 我先にと乗客が殺到する 何時もの光景だ 五六人が私の前に割り込んだ 虫の居所が悪かったのであろう 私は 大声で叱咤した その声に駅員が 彼らを最後尾に追いやったが ゲートの混乱は納らなかった ・・・・発車後の細事は昨日書いたが ユウッな気分を雄大な風景が慰めてくれた・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/11
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本日 5月17日 一時間半遅れでウルムチに着いた 上海からの汽車の旅 44時間だが 十数回になるも何時も新鮮 上海駅にて 臨席の御仁が読む新聞を覗い見れば フイリッピン沖の孤島は戦争状態と大きな見出しで一面トップ 尖閣諸島問題も記載しているだろうと 顔をそむけた 車中にて 金バッチ厳しい党員であろう御仁が日本人かと話しかけてきた 聞けば 日本人は不愉快・迷惑・厄介 南京大虐殺と飛躍 話はとどまらぬ喋りよう 四五人が話しに加わり こちらの戸惑い・迷惑ははなはだしい 国内の飛行場の改築・新装は何処の国の経済援助で最近完了したのかと大声で言いたくなった 先ほど開いたニュースに「世界ウイグル会議」と「尖閣諸島問題」で日中首脳会談が流れたとあった ・・・・・どこかが おかしい ブログの記載 明日から再開 よろしく・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/10
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今日 午後の便で上海に向かう 五時間のフライト ユウラシアのど真ん中 から 南シナ海へ 5000キロ 午後の便ゆえ 上海には夜遅い 明日 家内と姪が 上海に飛来する これが無ければ 都会などには行きたくもない さて 落ち合った その先は 風の風太郎 足の向くまま気の向くままに “旅立ち”と言えば≪草枕≫が季語 「山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。 情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 とかくに人の世は住みにくい。」 と漱石先生は喝破された 砂漠の旅は≪草枕≫ならぬ≪砂枕≫だが 大自然の中を旅すれば 漱石先生の憂いを知ることは無い 都会は愈だ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/09
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早朝からの雨である 菜種梅雨と言うのであろうか しとしとと 止まぬ 珍しい 砂漠地帯のオアシス 何時も通り雨なのだが 一昨夜の美しすぎる月が 異郷に居る事の幸せを教えてくれた モスクやミナレットにかかる月に イスラム世界なのだ と再確認 ・・・・・・明後日 家内と姪達が上海に遊びに来る さて 都会は嫌いだが 何処を案内しようか Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/07
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山好きの私にとって 山での遭難事故のニュースに接する これほど 嫌な事はない ヒマラヤ、カラコルム、欧州アルプスから未だ帰らぬ友を思い出す 昨日の白馬岳での遭難 その詳細を知った また 北穂・涸沢岳、爺ケ岳、小蓮華 と立て続けである この時期危険な「春装備」…天候悪化に対応できず 2012.5.5 13:12 [山岳事故] 「ゴールデンウィークのこの時期は 冬と春のはざまで、冬の装備の人がいる一方で、軽装だったり冬山登山の経験が浅い人も登ってくる。 アイゼン(靴底に装着する金属の爪)さえ持たない人もいる」と話すのは、山梨県の八ヶ岳で山小屋を経営し、日本山岳ガイド協会理事を務める竹内敬一さん。 「昨日は寒気が入ってきていて八ヶ岳でも気温がかなり下がった。 白馬岳のあたりはここよりも圧倒的に雪が多い。 高い山ほど天候も厳しいのは当然のことだ」といい、 「難しい山に行くとすれば、天候を予測するための勉強をするべきだが、なおざりにされている側面がある」と指摘する。 中高年を中心にした山ブームに加え、最近では「山ガール」など若者の登山人気は高まっているが、 「低い山で経験を積むことをせずにいきなりすごい山に行ってしまう。 山がブランドになってしまっている」と懸念。 「山は厳しいもの。 経験がないのに登ってしまう人がいれば事故が起こるのは当然だ」と警鐘を鳴らした。 と、表現は穏やかだが 竹内敬一さんの心中の悲しみ・怒りは いかほどであろうか 警察によりますと、6人は雪に覆われた尾根にまとまった状態で倒れていて、 Tシャツにジャンパーを羽織るなどいずれも軽装で、防寒着などは身につけて いなかったということです。 雪洞を掘った形跡もない。 北九州市の63歳から78歳の男性6人の登山グループである 全くの ど素人がブームに乗り遅れまいと 自殺行為に走った 自殺行為であることを自覚していない事に腹が立つし 誠に悲しい Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/06
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昨夜 白馬岳に登山するパーテーが連絡不能のニュースを知った 先ほどの情報では 【長野県警察本部に入った連絡によりますと、北アルプスの白馬岳に向かう尾根の近くで、 5日午前8時ごろ、6人の登山者が倒れているのを別の登山者が発見したということです】 携帯電話の反応が途絶えていたとの事ゆえ、救助は最悪の状況を考えねばならない 大雪渓から登ったのであろうが あの登山ルートは霧に巻かれると小沢に紛れ込む まして 五月の山は一転すれば冬山に変貌してしまう 十二分な装備で入山したのであろう この時期に北アルプスに登山するのであるからには経験豊富なメンバーであろう 無事で居られることを切に願う Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/05
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おぞましい報道に接した 日々刻々 嫌な・不快な・慙愧慙斬な・愚劣愚悪な ニュースに接する「政治家は無責任な発言すべきでない」 習近平副主席、尖閣購入を牽制 2012.5.4 00:49 ・共同通信[尖閣諸島問題] 中国の次期最高指導者に内定している習近平国家副主席は3日、北京の人民大会堂で高村正彦元外相ら日中友好議員連盟(会長・高村氏)の代表団と会談した。 習氏は「相手にとって核心的利益、重大な関心を持つ問題については慎重な態度を取るべきだ」と述べ、意見対立の先鋭化を避けるため注意を払うよう求めた。 ・・・・「日中の政治家は無責任な発言をすべきではない」とも強調。 具体的に何が核心的利益に当たるのかは明言しなかったが、 石原慎太郎東京都知事が表明した都による沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)購入方針への牽制とみられる。 中国が譲歩できないことを示す「核心的利益」という表現を使うのは台湾や独立運動が続くチベット、新疆ウイグル両自治区の問題に対してだけ。 日中間の懸案ではこれまで使用することはなかった。・・・・・・ “産経抄”氏は激怒し、啓蒙した (2012.5.4 03:12 配信、産経新聞コラム)「大使館を出なければ、妻を殴り殺す」。 AP通信によれば、北京の米大使館に保護されていた盲目の人権活動家・陳光誠氏に対し中国当局者は米側を通じこう伝えたという。 事実だとすれば、暴力団や闇組織としか思えない、れっきとした「脅迫」である。 ▼陳氏はその後、大使館を離れて北京市内の病院に入り家族と再会したという。米側は陳氏への圧力を否定し「安全は保証される」としているが、まだまだ不透明だ。 もし「脅迫」をバックに米国が中国と妥協したというのなら、批判は免れないだろう。 ▼ただ今回の事件では「収穫」もあった。 中国の人権抑圧の実態や当局者の「粗暴」な体質がかなりな程度明るみに出たことだ。 軟禁されていた自宅から脱出し、ケガをしながらも8時間かけ北京にたどりついた。 その逃避行が間をおかず、外国メディアで生々しく報道された。 ▼凄惨(せいさん)な権力抗争だった文化大革命をはじめ、この国での少数民族抑圧や言論封じはすべて分厚いカーテンの向こう側で行われてきた。 このため特に日本では、中国を見る目が曇らされた。 いまだに経済成長に関心を奪われ、その陰湿さに向き合おうとしない人が多い。 ▼しかしそのカーテンも良い意味でほころび始めた。 中国にネット社会が広まり情報がもれやすくなった。 外国メディアもアンテナを張り巡らせているからだ。 実力者だった薄煕来氏の失脚事件も、新たな権力抗争として早くから報道されている。 ▼北朝鮮の「ミサイル」発射のときにも書いたが、独裁国の横暴を防ぐには、ベールを一枚、一枚はがし監視していくしかない。 中国も、そのことを世界で一流国と認められるための試金石と考えてもらわないと困る。 ・・・・・・ この二件に関する“天声人語”氏の声は聞けないが 怒りは同じであろう ・・・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/04
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尖閣諸島問題で 中国世論が加熱している 穏やかな海に海底の底流が表面に現れいでた 中国海軍の軍船が 大隅海峡を横切り 南シナ海では フィリピン沖合いで 両国の海軍が三週間以上も対峙している 何をしているか 共に 国内世論を背景に めんつを賭けた持久戦だ 世界の世論を意識しながら 「フィリピンごときに負けるな」南シナ海問題であふれる主戦論に危惧する・・・・ ・ 中国とフィィリピンの公船が、双方とも領有権を主張する南シナ海のスカボロー礁(中国語名黄岩島)で4月10日から対峙を始めて、すでに約3週間が経過した。 中国当局の漁業監視船を増派して巡航を行うなど強硬な姿勢を崩していないが、インターネットでは「なぜ発砲しないのか」「フィィリピンごときに負けるな」と言った過激な書き込みが溢れ、主戦論が圧倒的な多数を占めている。 ・ 中国外務省などによると、対峙は今月10日早朝、同島付近の海域で、操業中の中国漁船を取り締まろうとした比海軍の艦船に対し、近くにいた中国の海洋調査船が妨害したことで、にらみあいが始まった。 双方の外務省が相手国に対する非難声明を発表するとともに、応援艦船を派遣するなど緊張が高まっている。 「先に撤退したほうが劣勢となる」と言われているため、28日現在も、フィィリピンの海洋警備船と中国の海洋監視船2隻が現場に残り、互いに監視しあっている模様だ。 対峙開始後、中国外務省の劉為民報道官は、中国の立場を繰り返し強調し、口頭でフィィリピン側に即刻の撤退を求めた。 しかし、劉報道官の姿勢はインターネットで「弱腰」とやり玉に挙げられ、猛烈な批判を浴びている。 共産党機関紙「人民日報」が運営しているサイト「強国論壇」では「口調が優しすぎて国民の怒りが伝わらない」「まるでかつての弱い清朝の政府をみているようだ」と言った書き込みが寄せられた。 ・ 中国軍に対しても批判が寄せられた。「予算要求の時だけ元気で、今は逃げ腰か」「中国の軍は災害救援だけを担当する消防団になってしまった」と言った厳しい声が集まった。 中国とフィィリピン双方の海軍が持つ艦船の戦力を比較して、「衝突が起きれば中国軍の圧勝に終わる」との結論を出した軍事マニアもいた。 ・ 4月17日ごろ、石原慎太郎都知事が米・ワシントンでの講演で、東京都による尖閣諸島購入計画を発表したニュースが中国国内に伝わると、 世論はますます過激化し「弱腰の付けが回ってきた」「フィィリピンをやっつけないと日本になめられる」といった意見が多くよせられた。 中国外務省の日本に対する抗議も「弱すぎる」とされ「東京都に対する経済制裁を」「弱腰外相を更迭せよ」といった意見もみられた。 ・ 外交問題に関する書き込みは、こうした強硬姿勢が9割を占めている。 一部の軍高官も強硬的なネットユーザーの意見にあわせ、主戦論を支持する声を挙げている。 中国軍事科学研究会副秘書長の羅援少将は4月中旬、南シナ海問題に関する論文を国際情報紙に寄稿し、「中国は今の平和な状態に最後のチャンスを与えているだけだ」と指摘した。 「中国に刃向えば、必ずその報いがある。今すぐでなくとも、時期が来れば必ず相応の報いを受けることになるのだ。 フィィリピンもそのことを肝に銘じておいた方がよい」と強調した。 この羅少将の意見は、ネットでは「骨のある軍人だ」と絶賛されている。 ・ 羅少将は習近平国家副主席と同じく、元高級子弟で構成する太子党に属しており、良好な関係あるとされる。 今秋以降に発足する習政権で安全保障分野で羅氏の影響力が高まるとみられる。 習近平政権下で、中国の対外政策はますます強硬になるだろう。 ・・・・・と論ずる報道に接した (2012.4.30 12:00 [中国・右翼系論説者の論説] / 中国では右翼がラディカルな左翼です、念のため ) また、下記の中国人ブロガーの「愈求愈模糊」さんの見解のも興味をひかれた 日本は先進国でありながら、日本人は強い危機意識を持つ民族であり、物を利用することにおいては驚くぐらいにけちけちしている。 「このような民族が海洋資源を手放すことなど考えられない」と主張し、中国にとっては尖閣諸島とは利益問題というよりも政治問題と言うほうが適切かもしれない。 中国の政治指導者にとってもっとも重要なのは、社会を長く安定させられるかどうかであり、領土問題もそれが前提となっている。 もしも領土を失って社会が不安定となれば、それは指導者にとって生死をかけなければならない事態だ。 と述べ、 「愈求愈模糊」さんは 日本と中国では、中国のほうが国としての実力は上だと述べるが、戦争の勝ち負けは力で決まるものではないと主張。 「歴史を見ても、北方の騎馬少数民族が強い意志、高い技術、整然とした組織を持っていたゆえに、まとまりのない大国を打ち破った例がある」と引き合いに出した。 中国は広大な領土を持つ多民族国家だ。 それゆえに単一の制度を持つことが難しく、歴史を通して何度も混乱を招いてきた。 更に、「もしも中国を高度な自治権を持つ連邦国家に作り変えるならば、おそらく米国のような社会を長く安定させられる国家になるだろう」と主張している。 また一方で、筆者は日本について、進んだ軍事技術と科学的な政治体制、すばらしい社会を持っていると称賛しつつも、「このような国家が強い戦争意識を持つと、ものすごい勢いで無敵の軍隊を作りあげる」と警戒感を示しつつ、 「複雑な民族問題を持つ大国が、精密かつ整然とした小国に軍事解決を迫るのは現実的ではない」と指摘、 尖閣諸島問題の解決に向けて長期的な戦略と外交や経済などに訴え、 最後は運に任せた解決策が効果的かもしれないと主張、論争を棚上げして、何もしないことだけは避けなければならないと 強く訴えたている。 ・・・・・・中国のブログ・論説では 確かに強硬論が圧倒的だ 中国の底流は確かに盲目にされている民衆の思いであろう しかし、上記の論調に共鳴する人々が その流れに抗して漂っている Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/05/01
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