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テルム/イェスン・テルムは1294年5月10日に 貞淑な母・ココジンの論を諭す説得と軍事権を掌握していたバヤン将軍の擁立で 大元イルス(大元帝国)の君主として 第二代カアンに即位した。 彼は世祖クビライが夢託す皇孫の一人だが、幸運があった。 尊号はオルジェイトゥ・カアン(篤しき完者)とよばれたが、通常では皇帝になれる器でない。 29歳であった。 テルムが即位すると高原に対する西方の勢力・カイドゥの侵攻はますます強まった。 テルム・ハーンは兄の晋王・カマラに加えて従兄弟の安西王・アナンダ(安西王・マンガラの次男で世祖クビライの孫)を始めとする大軍を高原に送り込んだ。 元軍はカイドゥの軍に敗戦を重ねるが、しかし 次第にカイドゥ勢力の行く末を見限った高原西部の王族・貴族が元に投降し始めた。 これに対して焦りを深めたカイドゥは1301年、配下のオゴデイ家とチャガタイ家の諸王に総動員令を発し、全力をあげて高原に侵攻した。 テルム・ハーンは 直ちに甥のカイシャンらを追加派遣した。 ついに 元軍はカラコルムとタミールで行われた2度の戦いでカイドゥ軍を大いに破った。 カイドゥは戦傷を負い、まもなく没した。 後に、カイドゥの死を機にチャガタイ家の傀儡当主ドゥアはオゴデイ家を継いだカイドゥの息子・チャバルを説得して、テルム皇帝に服属を申し出た。 1305年、テルム/イェスン・テルム皇帝はドゥアとチャバルの服従を承認し、祖父・クビライ即位時の内乱以来分裂状態にあったモンゴルル帝国に45年ぶりの平和統合がもたらされた。 カイドゥの戦傷での他界と言う幸運な事態の展開であった。 テルムの政権では、先帝四代にわたって中国の行政に活躍したムスリム(イスラム教徒)官僚・サイイド・アジャッルの孫バヤン・アジャッルが中書平章政事に任命され、 中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤン・アジャッルを首席とする財務部局を構成し クビライの財政制度を踏襲した。 南宋のモンゴル否定の気運は沈静したとは言え不穏な動きもあった。 テルム/イェスン・テルムの後ろ盾であった将軍・バヤンは、テルムの即位後まもなくに亡くなったが、父・チムキン皇太子の莫大な遺産を管理する母・ココジンがテルム皇帝をよく支えた。 テルム/イェスン・テルムは飲酒と荒淫の悪癖があった。 母・ココジンはそれを諌めたが、 はや 鬼籍の人であり、皇帝を諌める人がいなかった。 テルム皇帝は 次第に病気がちとなり、チャバル(カイドゥの長子)との和平を受け入れた頃にはほとんど病床(40歳前後)に就いていた。 政務を執ることが本来 好きでない上に 飲酒と荒淫での衰弱である。 宮廷では 1300年に母・ココジンの他界以降は テルムの皇后ブルガンが勢力を拡大 テルム皇帝の代理として政務を取り仕切って 権勢を振るった。 1301年に、元寇の弘安の役の江南軍司令官の范文虎(賈似道の婿)をはじめ、将校の萬徳彪、王国佐、陸文政らの罪状を、わずかに生き残った将兵が「自分たちを見捨てて逃げ帰った」と告訴した。 このことを耳にしたテルム皇帝は激怒し、皇后ブルガンは徹底的な調査を命じた。 范文虎は妻の賈氏をはじめ、家族とともに斬首に処され、萬徳彪、王国佐、陸文政の一家も皆殺しの刑に処された。 ≪ 当時、大元帝国は、数パーセントのモンゴル人支配層の下 胡人(色目人)の官僚・商人が経済を左右し、南宋に属していた官僚・武人は中間下層に位置づけられ 下層部に農民がいた。 南宋の諸将は、名族と言えども自立は叶わなかった。 モンゴル人・色目人・漢人・南家の四等身分制度があったようです。 このような話が伝わる「郷士の娘は婚儀が整うと、モンゴル人の地方長官宅に半月ほど滞在しなければならない」公則があったとか ≫ 1307年2月10日、テルム皇帝が崩御(享年42歳)すると、皇后・ブルハンとその反対派の間で政変が起こった。 アナンダ( ? -1307年)は、テルム皇帝の父・チンキムの次弟でマンガラの次男、世祖クビライの孫にあたる。 1280年に父の死によって安西王の爵位と領地を継ぎ、京兆府(長安/西安)および開成府(寧夏回族自治区)を中心に陝西・甘粛・四川などの中国西部一帯を支配した。 1294年にアナンダの従兄弟にあたる成宗・テルムが即位し、モンゴル高原西部のアルタイ山脈方面でオゴデイ家のカイドゥとの戦闘が激しくなると、アナンダもモンゴル高原に投入された。 世祖・クビライの曾孫である懐寧王・カイシャンとともにオドデイ家と戦った。 1306年、オコデイ家に与したアリクブケ家のメリク・テルム(クビライの甥)が降伏した。 アナンダはメリク・テムルを監理下に 元の首都大都に向かった。 しかし、 その帰還途上の1307年正月、モンゴル帝国皇帝・大ハーンのテルムが病没した。 テルム皇帝の病床以前から政務をとっていた皇后ブルガンは、夫・テルムの死後も権勢を保つため、テルムの甥で 怨敵・タギ后妃の子息 後継皇帝候補第一位のカイシャン 及び その弟のアユルバルワダではなく、 テルム/イェスン・テルムの従兄弟で傍系に過ぎない彼・アナンダの擁立を画策した。 アナンダはブルガン皇后の誘いに乗り、メリク・テムルを伴ない 大都に入り、政権を奪取した。 しかし、ブルガン皇后の専横に反対する重臣たちが密かにアユルバルワダを河南から大都に迎え入れ宮中でクーデターを起こした。 アナンダは大ハーン(皇帝)への即位を前にしてブルガン皇后、メイク・テルムとともに捕らえられた。 続いてカイシャン(アユルバルワダの実兄)が自らの皇子軍を率いて、他の首都上都(冬の王宮)に到着した。 アユルバルワダは大都にて己の勢力の不利を悟り、カイシャンに禅定した。 アユルバルワダからから帝位を譲り受けた新帝・カイシャンは アナンダには死刑を宣告し、私通の罪で東安州に追放されたブルガンにも死刑を与えた。 ブルガン一党は粛清の嵐に晒された。 ダギ( ? - 1322年11月1日)は、世祖クビライが寵愛した皇孫ダルマバラに歳若くして嫁いだ。 チンギス・ハーンの正夫人ボルテの弟で君臣・アルチ・ノヤンの曾孫にあたり、アルチ・ノヤンの四男ナチンの息子・テルムの娘であり、クビライの正皇后チャブイは大叔母にあたる。 生家は元王朝屈指の勢力を有していた。 幼少のうちから燕王・チンキム(後、皇太子)の宮廷に迎え入れられて その次男ダルマバラに近侍し、成人とともにダルマバラと結婚した。 武宗・カイシャンと仁宗・アユルバルワダを生んだ後に、夫・ダルマバラは有力な後継者候補として将来を嘱望されながらも28歳で他界した。 夫の早世後、遊牧民の間では一般的な嫂婚制(ラトビア婚;父や兄の未亡人を娶ることでその財産を引き継ぐ制度)により、夫の弟にあたる成宗・テルムとの結婚が検討されたこともあった。 が、再婚は行われなかった。 しかし 成宗・テルムの后妃・ブルガンとの確執が深まっていった。 成宗・テルムが第六代モンゴル帝国の皇帝に即位すると ブルガン皇后は不和のダギ皇妃を帝都から遠ざけた。 ブルガン皇后の生家はバヤトウ氏族であり、有力な部族ではない。 しかし、テルム皇帝の第一皇后が他界し、皇帝の生母ココジン皇后の死亡以降 宮中の権力はブルガン皇后に集中していた。 テルム皇帝の晩年、1305年に ダギ皇妃はブルガン皇后によって首都大都を遠ざけられ、次男のアユルバルワダとともに河南の懐州にある亡き夫・ダルマバラの所領で過ごしていた。 1307年、甥のテルヌ皇帝が病死すると、コンギラト氏族の勢力を排除し 権勢を維持しようと努めるブルガン皇后は傍系の王族・アナンダ(亡夫の従弟)を即位させようと目論んだ。 折りよく、安西王・アナンガは投降した世祖・クビライ皇帝への反乱者メイク・テルムを捕獲して 首都大都に帰還して来た。 ブルガン皇后は安西王・アナンガに帝位を持ちかけ、アナンダを取り込み メイク・テルムも支配下の将にした。 権勢を乱用するブルガン皇后に反対するコンギラト系の重臣たちは 秘かにアユルバルワダ皇子とともにダギ皇妃を帝都に呼び戻した。 大都に入ったアユルバルワダ皇子は、ブルガン皇后と新王・アナンダを打倒するクーデターを画策し ダギ皇妃はコンギラトの重臣たちに指示を与えた。 クーデターは成功し 長男カイシャンが第七代モンゴル帝国皇帝(第三代大元帝国皇帝)・大ハーンに即位し、アユルバルワダ皇子は皇太子として立てられ、ダギ皇妃も皇太后に立てられた。 ダギ皇太后は、かつて亡夫ダルマバラの母ココジンが領していた隆福宮を継承し、怨敵・ブルガン皇后が蓄財した全てを手に入れた。 まもなく ダギ皇太后のために興聖宮が立てられて隆福宮を併せもち その権勢は絶大になった。 興聖宮は代々コンギラト部出身の皇后によって所有されてきた莫大な財産と所領を継承し、その管理のために幾多の官庁が設けられ、それ自体がひとつの王国に匹敵するほどの規模を誇っていた。 1311年にカイシャン皇帝が30歳ほどの若さで突如急死し、ダギ皇太后の溺愛する弟のアユルバルワダ皇太子が大ハーンに即位すると、カイシャンの側近たちは突如追放された。 ダギ皇太后の寵臣テムデルをはじめとする興聖宮の重臣が権勢を振るうようになり始めた。 カイシャンが弟アユルバルワダを皇太子に擁立した時、次期皇帝はカイシャンの子のコシラとするよう兄弟の間で約束されていた。 が、 ダギ皇太后は、孫のコシラが幼くして英気があり 将来 自己を主張するであろうことを怖れ、約束を破ってアユルバルワダ皇帝の子で柔弱なシデバラを皇太子に立てさせたのです。 アユルバルワダの治世で皇帝位は名目で実力がなく、ダギ皇太后と側近たちが政治を自由に動かした。 皇帝の勅旨よりも皇太后の懿旨のほうが権威を持ち、シデバラを皇太子に立てるのもダギ皇太后の懿旨によって行われた。 1320年にアユルバルワダ皇帝がやはり若くして亡くなると、その遺児でまだ10代のシデバラが大ハーンに即位し、ダギは太皇太后に立てられた。 シデバラ・ハーンの治世ではダギ太皇太后の権勢は 益々盛んになり、アユルバルワダの末年に罷免されていたテムデルが右丞相に返り咲くなど、太皇太后の意志が押し通された。 しかし、シデバラは成長するとともに毅然として政治に乗り出そうとする傾向を見せ始めたので、ダギ太皇太后は 孫のシデハラを擁立したことを後悔しながら2年後に亡くなった。 ダギ太皇太后が死ぬとシデバラ・ハーンは、太皇太后の寵臣・テムデルの遺族を追放し、その財産を没収するなど強硬的な改革を進め、ダギ太皇太后の党派を一掃している。 ≪ 有閑余話; 元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興した。 また、塩の国家専売による莫大な収入と莫大な農業生産力による穀物が国庫を支えた。 経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からも商税が得られるシステムを構築していた。 その経済政策を担当していた者の多くは色目人であった。 中国の全土を見渡すと、元の国土の内側で最も生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。 江南は、元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、 江南と華北の経済格差はますます広がっており、江南を併合する前の1271年とした後の1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が経済史に出ています。 ・・・・・折を煮て経済官僚の生き様も 後ほど・・・ ≫ _____ 続く ______
2012/06/30
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今朝、5時前であった 地震があった 居候君に たたき起こされた 電灯が揺れていた 震源は何処かな 窓下が騒がしくなった 震度3か・・・・ 耐震設計基準はあるには在る が 施行監理が・・・・・ 再び 寝るのもごうへい とパソコンに向かった ≪ 北京(CNN) 新彊ウイグル自治区で航空機がハイジャックされかけたが、乗客乗員が阻止した。 警察の情報によると、ホータンとウルムチを結ぶ路線で、離陸10分後に搭乗していた6人が 「暴力で」ハイジャックしようとしたが、乗客乗員が阻止。 負傷者も出た。 航空機はホータン に折り返した。 当局は現在、容疑者6人の身元などを調べている。 ≫ と ある 地震とハイジャック未遂事件は滞在五ヵ年で三度 同じ頻度だが ホータン=ウルムチの航空路線は、被ハイジャック確率は世界ランキングでは断突であろう 二位以下を寄せ付けぬさまは 勲章に値するであろうが 流石に赤色王府は発表しない ・・・・・さて、 一杯のコーヒーと心地よいジャズが アイドリングを済ましてくれた 外も明るくなった 何事も無かったように 今日も始まる “ときたんま”は無きがよい 画面の片隅に 北朝鮮 干ばつで食糧難懸念(6月30日 6時9分 配信) ソウルの降水量はこの時期としては過去100年で最低を記録しています ともある・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/30
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1294年に老帝クビライが没すると、ハーン(皇帝)の未亡人が主催する皇帝後継者・次期大ハーンを選出するためのクリルタイ(王族・貴族集会)をココジン后妃が開いた。 このクリルタイでは早世したダルマバラを除く、カラマとテルムの兄弟 チンキム皇太子とココジンの間で生まれた二人が候補となった。 クリルタイは上都に召集された。 テルムは既に帝位継承者として宣言されていたが、長兄カマラを推す声もあった。 諸王侯の間で一時紛糾した。 その際、先帝・クビライ・ハーンより 一身上の尊敬を受け、総司令官の高位にあり、来会者の中で最も勢力のあったバヤン将軍が剣を握って立ち、 大音声で参加者諸侯を恫喝した。 「先帝が指名していた皇子以外のいかなる人をも即位させるわけにはいかぬ」 と語調を強めて宣言し、論争を終止させた。 バヤンとその影響下の大兵団を後ろ盾とした末弟・テムルがモンゴル帝国第六代皇帝(大元帝国第二代皇帝)・大ハーンに即位した。 ココジン后妃は、バヤンら重臣らと協力して、祖父・クビライが生前に皇太子の称号を与えていた弟のテルムを推し、即位させることができた。 テルムが大ハーンになると、その母・ココジン后妃は皇太后となり、皇太子府は隆福宮と改称された。 ココジン皇太后は隆福宮の勢力を背景にテルム皇帝の後見者として活躍し、1300年に没している。 その後、ココジン皇太后の領した隆福宮は、テルムの皇后でバヤウト部族出身のブルガンと、ダルマバラの未亡人で最有力部族であるコンギラト部出身のダギに相続の可能性があったが、 1307年のテルム皇帝死後、権力闘争の後 ダギ后妃の領有に帰します。 大元朝を支える有力部族の政権抗争です。 王位継承からひとたび遠のいたダギ后妃の皇子がモンゴル帝国を継承していく。 その結果、後年には 隆福宮はダギ后妃の興聖宮に併せられ、ダギ率いるコンギラト派の重臣たちの牙城として、 ココジン皇太后の遺産は ダギ后妃の子 武宗・カイシャ、仁宗・アユルバルワダから英宗・シデバララの時代に絶大な権力を保ち続けることになる。 ブルガン( ?-1307年)は、モンゴル帝国(大元)の大ハーン、成宗・テルム・ハーンの第二皇后であった。 バヤウト部族の出身であり、この部族は弱小でチンギス家との婚姻関係はない。 当時の元の宮廷では チンギス・カーンの第一夫人ボルテ、クビライ・ハーンの第一夫人チャブイを出したコンギラト部族が最有力の姻族であった。 しかし、1299年にテルム皇帝の第一夫人・シリアンダが亡くなったため、コンギラトの出身ではないブルガン皇后が第一夫人になり、 更にはテルム皇帝の後見してきたコンギラト氏出身・皇太后ココジンが1300年に没した後は、ブルガン皇后が宮廷の第一実力者となった。 テルム・ハーン・成宗は病弱で、晩年はほとんど政務が取れない状況になっていたため、皇后ブルガン皇后が政権を掌握し、夫・テルムにかわって政務をとった。 1307年に皇帝・テルムが他界 後、モンゴルの伝統に従って皇后ブルガンが監国し、政務に就くと共に後継大ハーンの選出にあたった。 しかし、第一夫人・シリンダリの生んだテルム・ハーンの皇子テシュは早世し、テルム・ハーンには他に正嗣皇子がなく、時局が混乱した。 当時、テルム・ハーンの近親で皇帝(ハーン)に適任な皇子には、テルム・ハーンのすぐ上の兄・ダリマバラの遺児カイシャとアユルバルワダの兄弟がいた。 カイシャとアユルバルワダの生母は、コンギラト氏のダリ未亡人であり、この兄弟に 皇帝への戴冠を許せば、 再び コンギラト部族が政権を握り、ブルガンの出身部族や推戴する諸部族が実権を失うことが明らかであった。 また、義理の兄・ダルマバラの死後、夫・テルム・ハーンとダギ未亡人の再婚が取り沙汰されたことがあり、ブルガン皇后は、個人的な嫉妬心からも ダギ義姉を敵視していた。 ブルガン皇后は あらかじめ 甥のカイシャをモンゴル高原に、その弟・アユルバルワダとその母ダギを河南に追いやって首都の大都から遠ざけていた。 ある折、夫・テルム・ハーンの従兄弟にあたる安西王・アナンダが帝都・大都に入朝しようとしていたのに目をつけ、アナンダに接近して即位を持ちかけた。 この策動が成功すれば ますます政権から遠ざけられることを恐れたコンギラト派の重臣は、ひそかに大都に近い河南からアユルバワダ皇子を呼び寄せ、 宮中でクーデターを起こさせて、ブルガン皇后とアナンダを捕獲した。 ブルガン皇后は私通の罪で東安州に追放された。 その後、クーデターを実行したアユルバワダ皇子の兄・カイシャが 事件を知り、自らの指揮する大軍を率いて 首都上都に赴き、弟アユルバワダに迫った。 アユルバワダ皇子は、兄・カイシャに屈服させられ 皇帝位を譲位している。 弟に迎えいれられて譲位を受けカイシャ皇子は、6月21日に上都にて第七代大ハーン(モンゴル帝国皇帝/第三代大元帝国皇帝)に即位した。 カイシャ皇帝はブルガン皇后の処刑を命令、遺恨を断つ為に 旧要人を粛清、コンギラト氏体制を復旧している。 カマラ( 1263年 - 1302年2月8日 廟号は顕宗)は、 世祖クビライの皇太子チンギムと妻ココジン(コンギラト氏族)が授かった3人の嫡子のうちの長男で、弟にダルマバラとイェスン・テルムがいた。 クビライ・ハーンの嫡子孫であるカラマは、幼い頃から祖母である皇后チャヒブイによって育てられ、長ずると祖父クビライに侍したが、弁舌が苦手で無口であり、あまり聡明に見える性質ではなかった。 祖父クビライ・ハーンは成人したカラマに、オゴデイ家のカイドゥが西部の諸王を束ね侵略する 戦乱激しいモンゴル高原での駐留を命ぜられ進駐したが、1289年にカイドゥに手痛い敗戦を喫した。 しかし、1290年には梁王に封ぜられ、雲南への出鎮を命ぜられた後 翌年に晋王に改封され、高原に移鎮した。 ≪ 晋王の封は数年前に北平王・ノムガン(クビライの四男)が死んで以来、無主となっていたチンギス・ハーンの四大オルドと、 その配下にある高原の遊牧軍団を領する重職であり、その相続はチンギス・ハーンの遺産を受け継ぐと共に、蒙古人の本土である北方における大ハーン(皇帝)の副王に就任したことを意味する ≫ 1294年に祖父・クビライ皇帝が死ぬと、上都で開かれたクリルタイで、先に祖父から皇太子の印綬を与えられていた弟のテルムと どちらが後継者にふさわしいか議論された。 しかし、このクリルタイでは中央政府の軍権を握る知枢密院事・バヤン将軍がテルムの支持を表明し、他の将軍たちや兄弟の母・ココジン皇后もこれに賛成したので、カマラはテルムに皇帝位を譲った。 母・ココジンは、「誰であれ“モンゴルにとって重要な掟である”チンギス・ハーンの訓言を最もよく知っている者が大ハーンに即位すべきである」という祖父・クビライ・ハーンの遺言を持ち出し、 兄弟に訓言を知っているかを問うた。 弟・テルムは聡明で弁舌と記憶力に優れす、多くの訓言を雄弁に答えたが、弁舌の苦手なカルマは口篭もって 上手に答えることが出来なかった。 安集した王族・貴族・将軍たちは一致してテルムが大ハーンにふさわしいと認め、テルムを推戴したと言う。 1300年、カイドゥが中央アジアの諸王の全軍を率いて最後の大攻勢をかけてくると、カマラの高原駐留軍は打ち破られて苦境に陥った。 しかし、テルム・カーンによって派遣されてきたダルマバラの遺児カイシャン率いる皇帝直轄のキプチャク親衛軍や安西王・アナンダの中国西部駐留軍団の増援を受けて、 元軍は翌年にはカイドゥの軍を撃退し、カイドゥを戦傷にて退却させた。 カイドゥはその後 死去している。 カマラはこの戦争からまもなく、1302年初頭に亡くなった。 一連の戦争における不手際、晋王・カマラの急死、年若い弟・イェスン・テルムの即位と前後して、晋王家の所領は大幅に削減されてしまい、1323年に弟・テルムが皇帝に即位するまで目立った活躍はできないまま、 1328年に 第六代皇帝・テルムの子アリギバが倒されてトク・テルムが即位すると、晋王家のハーンたちは傍系の簒奪者とみなされ、皇帝の祭祀から外されてしまい、カマラの血脈は凋落した。 ダルマバラ (1264年 - 1292年 廟号は順宗)は、父・チンキム皇太子の死後には 有力な後継者候補として将来を嘱望されたが、早世した。 ダルマバラは幼い頃から常にチンキム皇太子のもとに留められて膝下に育てられた。 子供のうちに名門コンギラト部族出身のダギを妻に迎え入れるなど、皇孫として恵まれた環境に育っている。 クビライの後継者の最有力候補として権勢を誇った父が 1286年1月5日に没すると、その子である皇孫たちが後継者として重要な候補となった。 ダルマバラは皇孫たちの中でも最も祖父に愛され、しばしば宮廷に呼ばれたので、後継者候補ラとして最有力になっていた。 1291年、ダルマバラはクビライ皇帝の命令を受け、所領である河南の懐州に赴いたが、旅程上で病を発し、大都に呼び戻された。 翌年初頭、クビライ・ハーンの移動宮廷(オルド)が夏の都上都に向かって季節移動を始めた後も病気の治療のため大都に留まったが、その夏に 病死してしまった。 親王・ダルマバラは妃ダギとの間にカイシャン、アツルバルワダの2皇子を残していた。 後に、母・ダギ后妃が率先して行なったコンギラト氏族の策謀が功を奏して、1307年に カイシャンが即位する。 彼は亡父ダルマバラに順宗昭聖衍孝皇帝と諡され、皇帝に准ずる祭祀を受けている。 テルム/イェスン・テルム(1265年10月15日-1307年2月10日 廟号は成宗)には飲酒と荒淫の悪癖があった。 モンゴル帝国第六代皇帝であり、大元イルス(大元帝国)の君主としては第二代カアン(在位1294年5月10日-1307年2月10日)。 尊号はオルジェイトゥ・カアン。 世祖クビライの次男チンキム皇太子の三男、正嗣嫡子の末子である。 祖父のクビライ皇帝に寵愛されていた次兄ダルマバラが 父・チンキムに相次いで早世したため、クビライ皇帝の晩年にその後継者の最有力候補となった。 1293年、モンゴル高原に駐留して中央アジアの クビライ打倒に執着するカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンが、クビライ皇帝に召還されると、代わりにモンゴル高原駐留軍の司令官に任命され、皇太子の印璽を授けられた。 翌年 祖父・クビライ皇帝が没すると イェスン・テルムの母・ココジン皇后は監国として、帝都・上都でクリルタイ(王族・貴族集会)を開催、後継者が審議された。 監国として後継者選定を主導する母ココジンや、知枢密院事として軍事権を掌握していたバヤン将軍は 一致して先帝・クビライ皇帝によって皇太子に指名されていたテルム/イェスン・テルムを推し、 テルムが長兄カマラを抑えてモンゴル皇帝に即位した。 テルムの政権では、オゴデイ皇帝からクビライ皇帝まで四代にわたって中国の行政に活躍したイスラム教徒(ムスリム)の官僚・サイイド・アジャッルの孫・バヤン・アジャッルが 中書平章政事に任命され、中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤンを首席とする財務部局を構成して クビタイ統治の財政制度を踏襲した。 彼は元朝を再興した財務官僚と言われる。 また、雲南省には漢民族と同化したムスリム(回族)が現在も数多く住み、彼らの多くはサイイド・アジャッルの後裔を称し、明代の大航海者・鄭和もその一族です。 テルム皇帝の後ろ盾であった将軍・バヤンはイェスン・テルムの即位後まもなくに亡くなったが、父・チムキムの莫大な遺産を管理する母・ココジンがテルム皇帝をよく支えた。 _____ 続く _____
2012/06/29
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梅雨はいつ明けたのか と思う頃 各地で 山開きが始まる 山麓の社殿で 冬眠を貪る“山の神”を呼び起こして祈願だが 近年 “山の神”は不機嫌らしく遭難事故が多い 生理不調が要因らしいが 他にも原因があるらしい 不機嫌・気侭に 雪崩・豪雨・霧・雷と呼び集めての憂さ晴らしが 酒宴を開くらしいが 我々 登山者は登る一歩一歩が精一杯で “山の神”を癒すすべなどは知らぬ せめて “山の神”が安眠できうる静寂と環境保全にゴミ持ち帰りはしなければ・・・・・ “山の神”’彼女が不機嫌に成る原因は二っあると 『 一に「山ガール」 に 二に「昔山男」です 』 と小声で囁いた そして 『 山がブランドになってしまって 嫉妬している神が多い 』 とも さて、先日もマッキンレーで 雪崩に巻き込まれた邦人が死亡 富士山では 単独登行の外国人の遭難事故 先月は北アルピスでの連続遭難 これでは 安眠できかねる と“山の神々”は6月下旬の定例会議で 07~11年の5年間に山で死亡または行方不明になった遭難者のうち、6割超が60歳以上であることが 下請けの警察庁の調べでわかった と 議題を提示し 今年5月の大型連休中、長野県の北アルプスで60~70代の6人のパーティーが死亡する遭難事故も発生 夏の登山シ-ズンを前に、“山の穏神々庁”は注意を呼びかけねばなるまいと 上申を検討 ◎下請け警察庁によると、07~11年の山岳遭難者は1万426人(60歳以上は5233人) ◎このうち死者・行方不明者は1426人で、60歳以上は918人(64,3%)だった ◎11年は40歳以上の中高年が遭難する原因は「道迷い」が39%と最も多く、 滑落18% ▽転倒16% ▽病気7% ▽疲労5% ▽転落4% ▽野生動物の襲撃2%--など ◎入山目的のほとんどは登山と山菜・キノコ採り ◎中高年を中心に遭難者は増加傾向にある 最後に 下請け・警察庁幹部は「初心者に限らず、 ベテランが加齢による体力や判断力の衰えから遭難してしまうケースも少なくない」と指摘 この会議資料・報告書を受けた“山の穏神々庁”は 直ちに上申 承認・採決の得た後 下請け・警察庁に下記三点を履行させる旨 通達して散会した 公示令第628号 布告 2012年6月21日 一, 自分に合ったコースや日程を設定させるべきこと、 一, 低い山で経験を積むことをせずにいきなり ブランドの山に行かせぬこと 一, 身なり・外観に捕われず、自己を自然の猛威に耐ええるものを着用・携帯せしめること 以上 Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/29
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皇帝の晩年と取巻く諸星 クビライの政権が長期化すると、行政機関・中書省と軍政機関・枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王・チンキムの権勢が増し、1273年に皇太子に冊立された。 一方、アフマドも南宋の征服を経て華北・江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となった。 アフマドはチャブイ皇后の寵愛を背景し権勢を維持していた。 やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化した。 アフマドはチャブイ皇后の絶大な支持を背景に経済官僚を握っていた。 が、1281年にチャブイ皇后が他界した。 対立が頂点に達した1282年、アフナドはチンキムの党派に属する漢人官僚によって暗殺された。 事件の後 アフマドの遺族も失脚し、政争は皇太子派が最終的な勝利を収めた。 皇太子・チンキムの権勢を阻む勢力はいなくなり、父・クビライ皇帝に対して皇太子への譲位を建言する者すら現われたが、チンキムは 1286年1月5日に病死してしまった。 一方、クビライ政権打倒に後半生を掛けるカイドゥは、モンゴル高原に対する攻撃を 益々頻繁に ますます厳しく侵攻した。 元軍は敗北を重ねていた。 他方、外征を支えるためにクビライ政権が整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は 度重なる外征と内乱によって悪化する一方であった。 1287年に財政再建の期待を担って登用されたウイグル人財務官僚・サンガも1291年には失脚させられ、クビライ皇帝の末年には元は外征と財政難に追われて、 日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なくなる状況に陥っていた。 1293年、クビライ皇帝は蒙古高原の総司令官・バヤンを召還し、チムキムの子である皇太孫テルムに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出したが、 まもなく、翌1294年2月18日に 第四代モンゴル(大元)皇帝クビライ・ハーンは、大都宮城の紫檀殿で病没した。 遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所である蒙古高原の起輦谷(現在 未だ場所の確定は無い)へ葬られている。 同年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫・テルムが上都で即位するが、テルム第六代モンゴル帝国皇帝(第二代大元帝国皇帝)の治世下でカイドゥが病死し “カイドゥの乱”は収まり、 クビライ皇帝即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになった。 カイドゥに呼応してクビライ皇帝に反旗を翻したシリギ シリギは、第4代大ハーン(皇帝)モンケの四男で、母はモンケの側室のひとりバヤウチンだった。 バヤウチンの生家は有力な部族ではなく、バヤウチンは美貌の貞淑な皇后であった。 シリギは同母兄弟とともに モンゴル高原にあったモンケ皇帝の所領(アルタイ山脈東部地帯)と領民(ウルス)を相続した。 1260年に皇帝・モンケが死んだとき、モンケ皇帝の本拠地カラコルムを中心とする高原中央部・西部の諸勢力は、父モンケも兄弟の末弟で 末子相続制により叔父のトルイ家が莫大な遺産の大部分を継承した。 モンケ皇帝の後継者選びの折、シリギ兄弟はアリクブケを後継ハーン(皇帝)に推し、異母兄弟のモンケの遺児もこれに荷担したが、クビライか覇権を握ると、シリギも降伏してクビライ皇帝に仕える諸王となった。 アリクブケ病没後の1267年、シリギは河平王の爵位を与えられ、モンゴル高原の諸部族の盟主としてクビライ皇帝が派遣した皇帝の四男・北平王ノムガンの旗下に 河平王・シリギは属すことになった。 1275年、頭角を現したオゴデイ家のカイドゥがチャガタイ家の内紛に乗じてチャガタイ家を併呑した。 この混乱に クビライ皇帝は 皇帝直属の右丞相・アントン、九男で異母弟・ココチュに大軍を引率させ、北平王ノムガンに皇子軍と共に 混乱する中央アジア征圧への進軍を命じた。 シリギもこれに従軍し、彼らの軍は翌1276年にチャガタイ家領の中心であるイリ川渓谷の都市アルマリクに進駐し、一時 この地方で勢力をふるうカイドゥを圧迫している。 しかし同年夏、シリギやアリクブケの遺児・メリク・テルム兄弟らがクビライ家の支配に不満をもっていた高原西部の旧アリクブケ派諸王が軍中で反乱を起こし、オムガンとココチュ、アントンらを捕縛してモンゴル高原に戻った。 反乱者たちから盟主に推戴され、高原の旧都カラコラムに入ったシリギは、クビライ皇帝に対抗するため、北平王ノムガンの身柄をジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、右丞相・アントンの身柄をカイドゥに引渡した。 しかし、ジュチ・ウルスは動かず、カイドゥもノムガン軍の圧力が消えて権力の空白地帯となった中央アジアの状況の収拾を優先した。 ジュチ家やカイドゥの西方の支援軍団を求めるには次期早々であった。 クビライ皇帝は、南宋を平定したばかりの左丞相・バヤン将軍率いる北伐軍を派遣した。 シギルは帝都・カラコルム近郊の戦いでに散々に破られ、高原中央部を失った。 さらに反乱諸王の中には頭抜けた力を持つ雄将がいなかったために内紛が続いて反乱軍は自壊した。 逃亡したシリギは1282年ついにバヤン将軍に降り、虜囚となった。 シリギは中国に送られ、海島に流され、その地で没した。 チンキム(1243年-1286年1月5日)は 世祖クビライが皇后チャブイの間にもうけた4人の嫡子のうちの次男で、長兄ドルジが早世したため、事実上の嫡長子にあたった。 クビライの兄・モンケ皇帝の治世に クビライが中国の経略を委ねられていたために、父・クビライの中国方面における本拠地である内モンゴルの城都市・開平府(上都)で、姚枢らクビライの漢人ブレーンに囲まれて育った。 クビライ即位後の1263年、チムキンは燕王に封ぜられ、さらに中書令に任ぜられてクビライ皇帝が新設した中央行政機関中書省の管轄を任せられ、 上都・大都を中心とする内モンゴルから中国華北方面の統治を委ねられている。 翌1264年、燕王・チンキムは判枢密院事を兼ねて軍政機関枢密院も掌握し、クビライ自身の宮廷も置かれ政権の胴体部分となる中国北部の政・軍を支配する強力な権限を与えられる。 幼い頃から漢人に対する理解を深めていたチンキムは、中・下級官僚として中書省に集められた漢人官僚の支持を受けた。 また、中書省の高官である右丞相・アントンはチンキムの母方の従弟であり、双方の母の実家であるコンギラト部族を筆頭とするモンゴル貴族層は 燕王・チンキムの与党であった。 燕王・チンキムの権勢は高く、1273年には皇太子に立てられて、クビライの後継者として確固たる地位を確立している。 しかし、皇帝が皇后・チャブイの用人であったアフマドを信任して華北の財政長官に取り立て、 財政業務を一手に任せるようになり、チャブイ皇后の後ろ盾ぜ アフマドは財務を取り仕切るようになる。 アフマドらムスリム(イスラム教徒)財務官僚とチンギムの下に集う漢人・蒙古人たちは、統治の方針と権限の領域を巡って水面下で対立を繰り広げるようになった。 1281年にアフマドの後援者であったチャブイ皇后が死ぬと、チムキンの党派とアフマドの党派の政権争いはますます熾烈になり、 ついに、翌1282年に チムキン派の漢人官僚によってアフマドが暗殺される。 アフマドの死後、もはや皇太子・チムキムの権限に干渉しうる権臣はいなくなった。 そのため、チヌキムの党派は華北地方において独裁的な権力を振るうようになり、先走ってクビライ皇帝に譲位を進言する者まで現われるほどの状況になったが、 1286年1月5日、突如 燕王・チンキムは病死した。 チムキムの死後、その絶大な権力に支えられ、非常に広大で豊かに成長していた皇太子府の所領と財産は、チムキンの未亡人・ココジンに引き継がれ、クビライ皇帝の死後、 摂政監国の立場でココジンは、チンキムの三男テルムを第六代モンゴル帝国皇帝(大元帝国第三代皇帝)に即位させた。 ココジンは、賢夫人としても知られ、夫・チンキム皇太子のオルド(宮廷)をよく守るとともに、義理のの母・チャブイ皇后に近侍してよく仕えたと言う。 大ハーンのクビライ皇帝が出猟したときに、その目に止まり 次男のチンキムに娶らしたと言う。 アントン(1245年-1293年)は、チンギス・カーンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家(南宋攻略により王家創建をチンギス・カーンより賜る)の出身で、ムカリの曾孫。 母親はチンギス・カーンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。 息子に猛将・ウドゥルタイ(バイジュの父)がいる。 13歳で宿衛に入る。 クビライの信任が厚く、彼に近侍した。 クビライが“蒙古帝国帝位継承戦争”に勝利した際に、 アリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めて クビライ皇帝に評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢されている。 後に平章政事であるアフナドと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて 彼を失脚させる。 翌1275年には皇太子チンギムや北平王・ノンガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入った庶弟の皇子ココチュに扈従した。 しかし、1276年 ノンガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、 軍中で“シリギの乱”が起こり、アントンは捕縛された。 シリギは彼をカイドゥに引き渡し 自らの反乱への参加を促しとした。 しかし、カイドゥはこの誘いをほぼ黙殺し、シリギはカラコルムを居城に クビライ皇帝に対抗するが、進軍してきたバヤン将軍に敗北し、“シリギの乱”は鎮圧された。 1284年に大都に帰還したアントンは、右丞相に復職し、翌1285年には不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させる。 ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、クビライ皇帝に取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。 この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することが出来ずに2年後に没している。 剛直にして和を求めた右丞相であった。 ココジン( ? - 1300年)は、世祖キビライの皇太子チンキムの妃。 別名はバイライム・rグチ(伯藍也怯赤)。 ノンギラト部族の出身。 父親は不詳。 クビライ皇帝が出猟したときにその目に止まり、次男・チンキムの妻に迎えられて、1263年から1265年までの3年間にカマラ、ダルマバラ、テルムの3人の男子を産んだ。 賢夫人としても知られ、皇太子の称号を与えられ 皇帝後継者の最有力候補となった夫・チンキムのオルド(宮廷)をよく守るとともに、チンキムの母にあたる同じコンギラト部族出身の皇后・チャブイに近侍してよく仕えた。 1281年に母親・チャブイが亡くなると、君主の后妃のオルドとその所領・財産を同一部族出身の后妃が相続するモンゴルの伝統に従って、生前のチャブイが蓄えていた莫大な財産を受け継いだ。 1285年には夫・チンキムが皇帝に先立って没するが、チャブイ后妃の保護下とチンキム皇太子の権勢の下で、元王朝において 最も権力と財産のある勢力となっていた皇太子府の管理権はココジン皇后が収握した。 従って、チンキム皇太子の没後もココジンの正嗣男子の3人王子はクビタイ皇帝の最有力後継者候補であり続けることができた。 1294年に老帝・クビライ・ハーンが没すると、皇帝の未亡人が主催する後継のハーン(皇帝)を選出するためのクリルタイをココジン后妃が開いた。 このクリルタイでは早世したダルマバラを除く、カマラとテルムの兄弟が候補となったが、ココジンはバヤン老将軍ら重臣らと協力して、クビライ皇帝が生前に皇太子の称号を与えていた末弟のテルムを推し、即位させた。 ____ 続く ____
2012/06/28
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絶海の尖閣に領土の証し と 産経新聞 (6月28日(木)7時55分配信)が 今朝早く報じている 中日関係の民意の基礎を破壊しているのは誰か と 人民網(人民日報ネット版)は昨夜(2012年6月27日)夕刻に流していた 人民網(人民日報ネット版)のコラム・論説は 何時も日本の情報を的確に捉え、 それらを踏まえた論調であり、解析速度は的確で 逆読みすれば日本の動向が刻々と解る 民意の基礎を改善することは、中日両国の政治家の最重要責任だ。 日本の一部政治屋は最近再び大局を顧みない挙動に出て、釣魚島問題を煽り立てていわゆる「民意カード」を切り、 両国の民意の対立を激化させ、中日関係の雰囲気を害し、将来の中日関係の発展に深刻な災いのもとをもたらしている。 日本メディアによると東京都議8人が25日深夜に釣魚島海域に潜入し、いわゆる「視察」を行った。 これに続いて日本の新防衛相もメディアの取材に南西地方の防衛力を全体的に強化し、「日本の領土」を守らなければならないと表明した。 釣魚島とその付属島嶼は古来中国固有の領土だ。 日本の一部政治屋のつまらぬ「視察」パフォーマンスであれ島購入の茶番であれ、あるいは高官が度々示す「強硬姿勢」であれ、釣魚島とその付属島嶼に対して中国が有する争う余地のない主権を揺るがすことはできない。 釣魚島問題をめぐる日本の一部政治屋による一連の荒唐無稽なパフォーマンスには、日本国内の現実が一定程度関係している。 近年日本は政界が混乱し、経済低迷から抜け出せずにいる。 一部の政治屋は釣魚島問題を煽り立てることで国を元気づけ、政界における自らの生存空間を確保しようと企てている。 中日関係のパワーバランスの変化を心理的に受け入れられず、「民意カード」を切ることで中日関係においていわゆる主導権を握る狙いもある。 日本の一部政治屋が「民意カード」を切ったことで、中日関係の民意の基礎は悪化した。 そして民意の基礎が悪化すればするほど一部政治屋は近視眼的になり、我先に「民意カード」を切りに行くようにすらなる。 こうした悪循環によっても日本の政治環境は破壊され、保守傾向が強まっている。 これは中日両国民の民意の改善にとって、なおさらにマイナスだ。 このほど両国の関係機関が行った第8回「中日関係世論調査」は警戒すべきシグナルを発した。≪この 世論調査は先週の当Blogに記載済み≫ 中国に対して良くない、または余り良くない印象を持つ日本人が回答者全体の84%を占めたのだ。 これは昨年の78%から6ポイントの増加で、2005年の調査開始以来最悪の数字だ。 この調査では日本側回答者の70%が、領土問題が中日関係発展の障害になっていると回答した。 日本の民衆がこのような認識を持っていることについて、釣魚島問題をしきりに煽り立てている日本の政治屋は責任を逃れられない。 今年は中日国交正常化40周年であり、中日関係は新たな歴史的節目を迎えている。中日関係の民意の基礎を守ることは、両国関係の将来の行方にとって極めて重要だ。 過去40年間で両国関係は長足の発展を遂げたが、曲折も経験し、深い経験と教訓を得てきた。 その重要な1つが民意を大切に扱い、民意を重視し、民意の改善を促さなければならないということだ。 特に両国の大多数の民衆が「中日関係は非常に重要」と認識している今、民意の一層の改善に努力する責任が政治家にはある。 両国の有識者は行動を起こし、自分だけの利益のために中日関係を乗っ取り、中日友好を破壊しようとするこうした悪辣な行為を断固阻止し、中日関係の健全で安定した発展を共に守り、促すべきだ。 /////////・・・・・・ と このスタイルのロラム・論説・主張が 赤色王朝内を駆け巡る 日々刻々と その連鎖が恐ろしい・・・・・/////// Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/28
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モンケ皇帝の急死により、モンケの年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じた。 三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。 アリクブケはこのとき首都カラコルムにおいてモンケ皇帝の留守を守っており、兄・モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、彼がが有力な後継者候補に立った。 一方のクビライはモンケ皇帝が死んだとき長江の中流域で転戦していたので、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。 1260年、戦線から帰還したクビライは、本拠地・ドロン・ノールで クビライ支持派によるクリルタイを開き、クビライのハーン(皇帝)即位を一方的に宣言した。 アリクブカもこれに対抗してハーン(皇帝)即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人の大ハーンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。 この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦の“シトム・ノールの戦い”に勝利し、早々に中国と高原の大半を制覇した。 一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国を押さえるクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。 1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となった。 アリクブケ( ?-1266年) 末子として本拠地を守る任に就くことが多かったため、戦場経験は乏しかった。 1259年に長兄・モンケ(第4代大ハーン)が死ぬと、その後継者として大ハーンに即位するが、 そのために傘下の南征軍を解体せずに保持していた次兄・クビライと、大ハーン位をめぐって争いを始める【“アリクブケの乱”/蒙古帝国皇位継承戦争】。 この争いでは、没落したオゴデイ家から独力で大勢力を構築したカイドゥや、その傘下で同盟を組むチャガタイ家を味方につけたアリクブケが当初は優位であったが、 旧金朝治下の中国を押さえ、華北農耕地帯の豊かな物資を背景としたクビライの反攻と、飢饉による自軍の壊滅など不運も重なり、1264年に降伏する。 弟ということで一命は助けられたが、わずか2年後に病死してしまった。 しかし、アリクブケの子孫であるイェスデルが1388年、北元と明との抗争の混乱下、クビライの子孫を殺害して大ハーン位を奪う事で、百年目の復讐を果たしている。 また、フレグの立てたイルハン朝において、アイクブケの次男・メリク・テムルの子孫のアルバ・ケウンがハン(君主)位に就いたことがあり、トルイ王家の血筋は逸材を多く輩出している。 クビライ皇帝は1260年に モンゴル帝国皇帝即位すると、モンゴル王朝で初めての中国風の元号を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設した。 アリクブケとの内紛の最中の1262年には山東を支配する漢人軍閥が反乱を起こし窮地に陥ったが、これを鎮圧したクビライ皇帝は反乱をきっかけとして、華北の各地を支配していた在地軍閥を解体させた。 これによりモンゴル(大元)帝国皇帝である大ハーンと皇族、モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北の在地支配関係が整理され、地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。 1267年からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改めさせた。 このような一連の改革から、第五代蒙古帝国・大元帝国・クビライ・ハーン(皇帝)の改革は、モンゴル王朝の中国王朝化であり、 クビライとアリクブケの対立は、中国の文明に理解を示し中国に帝国の中心を移そうとする派と、あくまでモンゴル高原を中心と考える守旧派の対立だったと考えられます。 しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。 政治の中枢・中書省の高官は クビライの第二夫人チャブイの甥にあたるアルトンらモンゴル貴族の支配下にあり、また 所領の多くもモンゴルの王族や貴族の所領に分かたれていて、クビライの直接的な支配は限定的にしか及ばなかった。 チャブイ皇后の権勢がクビライ政権を左右した。 クビライ・ハーンはモンケ皇帝の時代に青海・西蔵地方に遠征、この地方を征圧していた。 青海地方で民衆を支えていたチベット仏教の座主がグビライに協力したことがあった。 クビライは宗教の政治力を知った。 クビライ皇帝は即位後、チベット仏教の僧・バクバを国師として招聘し、仏教を管理させている。 バクバ (1235年3月6日 - 1280年11月22日)は、チベットのサキャ派の座主。 その名は「聖者(パスパ)」とも呼ばれた。 1260年に元の帝師に任じられ、クビライ配下の文化・宗教顧問として活躍した。 バクバ国師は皇帝からモンゴル語と漢語の表記を一本化する公用語の制定を命じられて1269年、チベット文字を基礎としたパスパ文字(現代のモンゴル文字の母体)を作り上げた。 彼の文化的な貢献は、元王朝の全盛期を築く礎の一つになったばかりではなく、ラマ教のその後における隆盛を築き上げることとなった。 チャブイ( ? - 1281年)は、モンゴル(大元)帝国の世祖クビライにと嫁いでいる。 第二位の皇后として。 第一皇后・帖古倫大皇后には皇子が授からなかった。 チャブイは名族コンギラト部族の出身で、父のアルチ・ノヤンは チンギス・カーンの第一夫人・ボルテの弟である。 伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍するチンキム、マンガラ、ノガムンの4皇子を産んだ。 チャブイはチンギス・カーン家の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、 兄である皇帝モンケによって中国の経略を委ねられたクビライを 一族で支えて来た。 クビライの即位はチャブイの賜物と居えた。 特に同母姉が嫁いだジャライル部・ムカリの子バアトルはクビライの腹心となり、1259年のモンケ皇帝の死後のクビライのハーン(皇帝)位奪取に功があった。 また、チャブイ自身、そのオルド(宮廷)にアフマドら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて 勢力を拡大している。 1271年、クビライが樹立した元王朝では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガムが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、モンゴル高原を分担して統治し、 中央政府では次男・チンキムが行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を統括し、さらにバアトル夫妻の子で チャブイの甥にあたるアントンが中書省の長官となった。 加えて クビライ皇帝よって新設された財務部局の長官として、チャブイの用人であるアフマドが抜擢され 大元朝の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。 やがて、中央政府で実権を握るチンキムの権勢が高まり 1273年に皇太子の称号を与えられるが、同時にチャブイには皇后の印璽が与えられた。 この頃、帝国の財務部門を握り、中書省の勢力をアントンと二分するアフマドの権勢も高まり、その党派がチンキム=アントンのもとに集まったモンゴル貴族(チンキム派)と漢人官僚(アムハド派)と反目を深めていった。 が、 両者の接点に立つチャブイ皇后が事あらば仲介したために、対立は決定的なものにはならなかった。 後年の1281年に、チャブイ皇后が他界すると、たちまちチンキム派とアフマド派の反目は激化し、翌年には アフマドの暗殺をチンキム皇太子が実行するに至るのです。 モンゴル(大元)帝国第五代皇帝・クビライ・カーンの統治したに於いて、実弟・アルクブケとの“蒙古帝国皇位継承戦争”の余波を受けた、 中央アジアで オゴデイ家から独力で大勢力を構築したカイドゥがオゴデイ家・チャガタイ家を収握し、元王朝の権威から離れ、本来はモンゴル皇帝の直轄領であった オアシス地帯を浸食していた。 さらに クビライ皇帝に従う甘粛方面の諸王や天山ウイグル王国を圧迫し始めたので、多方面からの対応が必要となった。 そこで、クビライ・ハーンはチャブイ皇后との3人の嫡子チンキム、マンダラ、ノムガムを燕王、安西王、北平王に任じて 軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせた。 クビライ皇帝は、これらの3大皇子軍団の上に君臨した。 他方、イルハン朝の智謀将軍・バヤンをもらい受けて南宋攻略の全権を委譲した。 1276年には将軍・バヤン率いる大軍が南宋の都杭州を占領、南宋を実質上滅亡させ その領土の大半を征服する“蒙古・南宋戦争”に勝利した。 この前後に、クビライ皇帝はイスラム教徒のサイイド また チャブイ皇后の用心・アフマドらの財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、大元朝の財務を統括させている。 同時に 運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、モンゴル(大元)帝国の経済的な発展をもたらした。 これらの諸政策にともなって東西交通が盛んになり、クビライ皇帝治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(胡人・色目人)が訪れた。 中国の外では、治世の初期から服属していた高麗で起こった三別抄の反乱を鎮圧し、王太子に娘・クトゥルクを降嫁させて 高麗国王・忠烈王を通じた高麗支配を確立した【蒙古の高麗侵攻】。 また1289年にはビルマのバガン王朝を滅亡させ、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。 しかし、日本への2度の遠征(元寇)や、樺太アイヌ【蒙古の樺太侵攻】、ベトナムの陳朝やチャンバ王国、ジャワ島のマジャバヒト王国などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け敗退した。 同族が支配する中央アジアに対しては、1275年にモンゴル高原を支配する四男の北平王・ノムガンが一時 カイドゥが支配するチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功したが、 翌年の1276年、カイドゥが中央アジアの諸王家を統合し モンケ・ハーンの遺児シリギを筆頭にモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家等 蒙古高原東方諸王家と連携して 公然とクビライ政権に対抗し始めた。 クビライ皇帝は、南宋征服の功臣・バヤン将軍率いる大軍をモンゴル高原に振り向け カイドゥを防がせたが、1287年には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主・ナヤンを指導者として叛いた。 老齢のクビライ皇帝自身がキピチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利した。 ナヤンは捕縛・処刑された。 その処刑は貴族のみに施される血を見ない袋詰めであったと言う。 諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。 クビライ皇帝は東方三王家であるジュチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えている。 カイドゥは三度この混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、 クビライ皇帝は翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。 カチウン家の王族・カダアンがなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落延びてこの地域を劫掠したが、 1292年に皇孫・テルムが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した【ナヤン・カダアンの乱】。 ______ 続く _____
2012/06/27
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異質な文明で生活 =・・・いや 大げさな= 異邦の地で生活していると 視座・視点の構え方が変化するようだが その 盲点を突く NewsWeek氏の記事を見た 外国人に優しくない国ワースト5 (The World's 5 Worst Immigration Policies) 2012年06月26日(火)17時24分 by Tarria Raluf 不法滞在の疑いがありそうな人物を見かけた警察官に、相手の身分確認を義務付けるべきだ ──移民取締りの強化を進める米アリゾナ州が打ち出したこの条項について、連邦最高裁は6月25日、 違憲とはいえないとして容認する判決を下した(移民法の大部分については違憲と認定)。 とはいえ世界を見渡せば、移民に優しくないのはアリゾナだけではない。 外国人が暮らすのに最悪な環境の国ワースト5を挙げてみた。 ■1位 ラトビア 欧州で開発された移民統合政策指標(MIP)によれば、東欧の小国ラトビアの移民政策は調査を行った世界31カ国で最悪。 移民の受け入れ判断には差別もあるし、移住後すぐに就労の権利を与えられない点も問題だ。 当局の場当たり的な受け入れ手続きのせいで、多くの移民が不安定な立場を強いられている。 ■2位 日本 日本は外国人に金を払って国外に追い払っている。 09年春、南米から出稼ぎに来た日系人労働者が母国に帰る場合には30万円を支給し、一緒に帰国する扶養家族にも20万円を支給する制度が導入された。 ただし、条件が一つある。 少なくとも3年は出稼ぎで戻って来ないと約束すること(実際には、3年経過後も再入国は認められていない)。 こんな馬鹿げた話は聞いたことがない。 ■3位 タイ タイとアリゾナ州には意外と共通点が多い。 タイ当局は10年3月、国内に暮らす150万人の外国人に身分登録を義務づけた。 自分の国籍を提示し、母国の承認を得なければ国外追放される。 ■4位 アラブ首長国連邦 東南アジアやインドから大挙して押し寄せる不法労働者のおかげで中東随一の経済成長を遂げたが、移民関連の法整備は進んでいない。 特に論争の的になっているのは、外国人の労働組合への加入を禁じる法律だ。 そのせいで週80時間労働や過酷な肉体労働、最低賃金水準を下回る低賃金といった劣悪な待遇がまかり通っている。 小さなプレハブ小屋の1室に12人が押し込められ、茶色く濁った不衛生な水で体を洗い、あふれたトイレの隣で料理するのが、UAEの不法労働者の日常だ。 ■5位 オーストラリア 移民に厳しい国というイネージはないかもしれないが、ビザをもたない非オーストラリア市民の拘留を義務付ける1958年の法律が今も生きている。 さらに「オーストラリアに留まる許可を与えられないかぎり、実現可能な範囲で早急に国外追放する」とも定められている。 子供の難民が拘留中に虐待を受けたとの報告もある。 難民はともかくとして、移民や他国での長期滞在者は増加の一歩を辿であろう 流出する国は増加し、受け皿になる国が大変だ その多様性は拡大の傾向のみ そこで、上記のようになるのだが 日本は誠に可笑しな国だ・・・・// Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/27
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1248年新春、慶賀の祭事を終えたモンゴル帝国皇帝・グユク・ハーンは帝都カラコルムを離れ、西に進軍した。 天山山脈北麓で帝国内の諸王族を結集させ、 ジュチ・ウルス(バトゥ領地)を貫き オロス(モスクワ諸公国)を蹂躙 ウィーンに進撃する積もりの進軍であった。 と 『集史』などの史書にあり、続いて・・・ 1248年4月にグユク皇帝は急死を遂げているが、ビシュバリク(ウルムチし北郊)方面にグユク・ハーンが遠征しているのを警戒するようにと 姉のソルコクタニ・ベキ(バトゥの叔母)を通じてバトゥに知らせていた。 との記述があります。 多くの歴史家は この文面より ソルコクタニ・ベキが危惧した事態を未然に摘出する意味で、バトゥが第三代モンゴル帝国皇帝・グユク・ハーンの謀殺司令を出したと考えています。 確かに遠征途上の皇帝が急に病死した と言う歴史の表現は謀殺されたと解釈すべきでしょう。 グユク・ハーンの突然の死が状況を証言しています。 オルガミッシュ バトゥはオゴデイ家とチャガタイ家から政権を奪い、帝国で最大の勢力を誇るジュチ家とトルイ家が共同して帝国の国政再建を計画し、ソルコクタニ・ベキと連携した。 二人はグユク皇帝後の採るべき行動を密約していた。 グユク・ハーンが没した後、グユクの皇后オルガミッシュ(正嗣皇子授からなかった)が摂政となった。 オルガミッシュは次期皇帝の選出・決定という国事最高の協議・クリルタイを 後見人であるチャガタイ家のイェス・モンケと共に 開催すべく政務の最優先事項とした。 しかし、 バトゥは 再び 先手を打ちます。 ソルコクタニ・ベキやモンケ、クビライなどトルイ家の王族たちや有力諸将たちとともに 独自にクリルタイを召集、集会を開き 摂政国監・オルガミッシュはじめオゴデイ家政権の拒絶を表明した。 バトゥは このジュチ家とトルイ家が 強行に主催するクリルタイで、全会一致でモンケを次期モンゴル皇帝に指名している。 オルガミッシュ側は後継候補としてグユクの息子ホージャ・オグルを望んでおり、他のオゴデイ家やチャガタイ家の王族たちは シムレン(オゴデイ皇帝の孫、長子クチュの子、オゴデイが後継者に指名)を推していた。 しかし、シムレンやホージャ・オグルはいずれも幼少であり、バトゥらが推すモンケに比べ、モンゴル皇族や諸将の多くの支持は得られないでいた。 オルガミッシュはバトゥらの行動を非難したが、逆に当時 オノン川、ケルレン川の河源地域にあったチンギス・カーンのオルド(宮廷)で開催する2回目のクリルタイへの参加を勧められた。 グユク・ハーンによってチャガタイ家の当主になったイェス・モンケも長老・バトゥを非難したが、バトゥは広大な帝国の統治を年少者に委ねることは不可能であると書簡で論駁し、重ねてクリルタイへ出席を求めた。 こうしてバトウ側とオルガミッシュなどそれに対抗する諸勢力は、帝国各地で支持者の獲得に奔走してさらに2年を費やしたが、 これ以上の遅滞がもたらす帝国の混乱を懸念した長老・バトゥは、トルイ家と東方三王家とも協議してオルガミッシュ側とイェツ・モンケに最後の説得を行った。 ついに体勢が不利と判断した後継候補のシムレン皇子とホジャ・オルグら自身が バトゥ主催のクリルタイに出席を表明した。 ここに至り、トルイ家当主・モンケを推すバトゥを始めとするジュチ家、トルイ家、東方三王家はクリルタイの開催を早急に準備した。 クリルタイは一月に及ぶ最高決議機関であり、諸王族・貴族、諸部族長・諸将が移動・参集する。 日夜酒宴を開き談笑、交友を深め 情報の交換を行なう。 参集指定場所には一ヵ月を要することもあったでしょう。 しかし、参加を約束したシムレン皇子とホジャ・オルグは約束の日時には指定の場所に姿を表さなかった。 また オルガミッシュ側のチャガタイ家のイェス・モンケの参加しなかった。 かくて、1251年7月1日、かねて指定されていたチンギス・カーンの大オルドのあったコデエ・アラルの地のクリルタイにおいて、モンケは全会一致をもってモンゴル帝国の第四代皇帝(カーン、ハーン、カアン)として即位した。 このときの協議事項に、後々の害になるとして、先帝グユクの皇后として隠然たる影響力を持っていたオルガミッシュ、さらには シムレン、イェス・モンケなど オゴデイ家やチャガタイ家への粛清 反対派の処刑が決議された。 権力闘争とは冷酷なものです。 ソルコクタニはただ頷くだけであったと史書は記す。 擁立された第四代モンゴル帝国皇帝・モンケ・ハーンは、その後 皇帝としての地位と支配力を固めるべく、河北やトルキスタンなどに行政府を設置するとともに、 官僚のマフムード・ヤラワチ、マスウード・ベク父子を重用して財政政策に重点を置き、財政を潤わせた。 さらに次弟であるクビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を、三弟のフレグを征西方面軍の総司令官に任じてイラン・イラク方面を侵略させた。 フレグは1258年にはイスラーム世界の雄・アッバース朝を滅ぼしている。 しかし、モンケ・ハーンは有能な次弟クビライの存在を恐れて、これを一時的に更迭するなどの猜疑心を深めている。 このためもあって 南宋を早急に併合することを望むモンケ皇帝は、クビライの慎重策に不満を持ち、クビライの南宋攻略は遅れ、これに苛立った。 南宋への戦線を自らの陣頭指揮により行うことを決したモンケ・ハーンは、1258年 自身の実力に恃んで軍を自ら率る親征に出立した。 ウビライをこの作戦の責任者から更迭した。 1258年初頭、自ら陝西に入って親征を開始したモンケ皇帝は、河南から四川の南宋領を転戦した。 四川方面から黄河を南下、西安・?州・南京を目指す 南宋攻略を、帝国諸軍(クビライは北京から南下、たの一軍は雲南征圧後に南宋攻略軍に合流)に先行、突出して侵攻した。 南宋の地は河川と頑強な城郭で守られ 南宋攻略軍は 至る所で進軍に齟齬をきたしたが、モンケ皇帝軍は 翌年7月末に重慶を攻略した。 しかし、その後 合州の釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかってモンケ・ハーンは 1259年8月11日に死去した。 ≪ クビライ派による毒殺説も囁かれているのですが、それは穿った考えでしょう ≫ ソルコクタニ・ベキは1252年に他界している。 グユクの死後、ソルコクタニ・ベキはバトゥと協力してオゴデイ家の政権を否定して自らの長男・モンケを擁立し、1251年までに第4代のモンゴル皇帝として即位させた。 それを見て安心したのか、間もなく病に倒れ、1252年からモンケ・クビライ・フレグらによる遠征が始まる中で死去した。 夫・トルイが早世した後、その間に生まれた若年の息子たちを育て上げてトルイ家を盛り立て、その息子たちがいずれも王朝の王となった子息を養育する生涯であった。 『集史』は ソルコクタニ・ベキを「王国の4つの支柱として立ったチンギス・ハーンの4人の息子のような、彼(トルイ)の尊厳ある4人の息子の母」と称しています。 ソルコクタニ・ベキが世をさった四年後の1256年、モンゴル帝国の長老・バトゥが身罷った。 ジュチの息子たちは総勢40人以上いたと言われている。 バトゥは彼ら兄弟を束ね、当主として その実力を遺憾なく示していた。 また バトゥには4人の正嗣皇子たちがいた。 サルタク、トクカン、エブゲン、ウラクチである。 長子サルタクは 父・バトゥが死去したときモンケの大オルド(宮廷)にいたため、モンケ皇帝は彼にジュチ家の家督を認証したが、サルタクがジュチ・ウルスへ帰投する途中で病没してしまった。 かわりに4男で幼少の末子のウラウチに家督を継がせるよう勅が下った。 しかし ウラウチは程なく夭折し、実質的にジュチ・ウルスを統括していたバトゥの次弟・ベルケへの家督継承が勅によって認証されている。 因みに バトゥとベルケの血脈は後 数代で途絶えます。 フレグ(1218年-1265年)は、1253年、兄モンケ・ハーンの勅命により西征軍総司令に任命され、イラン方面総督であったアルグン・アカ以下アムダリア川以西の帰順諸政権を掌握し、 ニザール派、アッパース朝、シリア、アナトリア、エジプト諸国を征服すべく出征した“フレグの西征"。 1256年にはニザール派(イスラム神秘主義、暗殺集団)教主ルクヌッディーン・フryシャーが投降、本拠地アラムート城塞が陥落。 1258年にはバグダードを征服しアッパース朝カリフ・ムスタアスィムを捕縛・殺害して同王朝を滅亡させた。 1260年2月にはアレッポを攻略し、同年4月にはダスマスクスを陥落さるなど、快進撃を続け次々と領土を広げる。 1259年に長兄・モンケ皇帝が没し、フレグの次兄・クビライと末弟・アリクブケが皇帝位い後継をめぐって争い“蒙古帝国皇位継承戦争”を始めた為、 フレグはカラコルムのモンゴル帝国には帰還せずに中東地域に留まり、1260年秋にイルハン朝を建国した。 この頃 ジュチ・ウルスから派遣され西征軍に従軍していた諸将・王侯があいついで謀叛・急死したため、バトゥの跡を継いだジュチ家の当主ベルケはこれを不審視し、 フレグとの間に深刻な対立を生じてしまった。 以降 数世代に及ぶ抗争を繰り返す。 1264年に後継者争いに勝ったクビライが跡を継ぐと、フレグはクビライの大ハーン(皇帝)位を支持した。 フレグは当時 アーザルバーイジャーン地方の州都であったタブリーズを首都と定め、アルメニアのヴァン湖近辺のシャーフクーフを夏営地に、現在のアゼルバイジャン共和国のクラ川低地地域であるアッラーン地方、バグダードなどを冬営地に選定している。 また、アーザルバーイジャーン地方の古都であるマラーゲに大規模な天文台と複合施設を建造し、当時の大学者であったナースィルッディーン・トゥースィーに『イルハン天文表』を作成させている。 1265年2月8日にラーゲ周辺のチャガトゥーの地で没し、ウルーミーエ湖湖畔のシャーフー山に設けられた大禁地に埋葬された。 同年4月に正嗣長子・アバカが後継者として即位している。 クビライは、1215年にチンギス・カーンの四男トルイの三男として生まれた。 母はケレイト部族出身の正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニ・ベキとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたる。 青年時代の事歴についてはほとんど知られていない。 ただ、中華文明に憧れていた。 1251年に兄モンケが大ハーンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。 1252年には自身が所領とする京兆(西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。 雲南からの帰還後は金の旧都である中都(北京)の北、南モンゴル(内蒙古自治区)中部のドロン・ノール(赤峰付近)に幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服の総指揮を取った。 クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。 しかし、南宋を早急に併合することを望むモンゴル帝国第四代皇帝モンケ・ハーンは、クビライの慎重策に不満を持ち、1256年に南宋への戦線を自らの陣頭指揮により行うことを決し、クビライをこの作戦の責任者から更迭した。 1258年、自ら陝西に入って親征を開始したモンケ皇帝は、河南から四川の南宋領を転戦したが、翌1259年に軍中で流行した疫病に罹って病死した。 南宋攻略の一翼を担い、中都(北京)方面から河南方面へ進軍していた。 他方、末弟・アリクブケは、このとき首都カラコルムにあって モンケ皇帝親征の留守を守っていた。 _____ 続く _____
2012/06/26
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面白いニュースを拾った 中国 あひる5000羽大行進 (6月24日 16時24分 NHK配信) 中国東部の町で、およそ5000羽のあひるが路上を行進し、交通渋滞も引き起こして、話題を呼んでいます。 中国東部、浙江省台州の路上に現れたのは、およそ5000羽のあひるの大行進です。 地元の農家が飼育しているあひるを運動させるため、年に数回、路上を歩かせているということで、農家の男性が長い棒を使ってあひるを誘導していました。 道路はあひるで埋め尽くされ、交通渋滞も起きましたが、あひるは時折隊列を変えながら自動車やバイクに道を譲る場面もあり、道行く人たちを驚かせていました。 その場に居合わせた男性は「あひるの行進は整然としており、車に道を譲られるのではなく、あひるのほうが車に道を譲っている様子がとてもおもしろかった」と話していました。 手慣れた手つきであひるを誘導していた農家の男性は「あひるを歩かせ自然に近い状態で育てることで、卵や肉の品質を上げることができるのです」と話していました。・・・・・と 写真を添えての報道である その誘導する男性の顔が ふと 小沢先生にダブった ● 涙目首相に小沢系ヤジ「バカか」/ ● 小沢氏は、離党して増税反対を掲げれば 選挙で勝利、戦えると鼓舞したに違いない / ● 消費税 民主「反対」55前後か / 日本の政治は何時もこれだ アヒルを交通激しい路上で散歩させる事の是非を考えない 二三日前に 経団連の会長だったと思うが「小沢氏は常識をもつべき」とコメントしていた 鳩山発言などは 何時も無責任そのものだし 若手の議員がアヒルに見える アヒルは 己が良い品質の卵や肉にされる為の行進とは考えず ただただ盲従 周囲の観衆は 小沢誘導が 迷惑行為であることなど考えず ただただ盲信 このような妄想を想起させる 報道であった・・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/26
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ソルコクタニ・ベキ グユク皇帝の死後、その皇后であったオルガイミシュが摂政監国として国政を代行したが、バトゥとモンケらトルイ家の王族たちは オルガミシュの招請を拒否し、 約4年の間 モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治は 再び 混乱する事となった。 ジュチ家のバトゥ当主とトルイ家当主・モンケのグループは独自にクリルタイを開催した。 モンゴル帝国・摂政監国オルガイミシュはこの動きに抵抗したが、 東方王家(チンギス・カーンの弟達の諸王家)のジュチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちがバトゥとモンケのクリルタイ集会に参集したことに加え、 シムレンンやグユクの子であるホージャ・オグルやナグの兄弟も参加を表明するに及び、また モンゴル帝国の最高実力者・長老であるバトゥの支持を得たモンケが第四代蒙古皇帝・大ハーンに即位した。 時は1251年7月1日、祖父チンギスの大オルド(宮廷)のあったコデエ・アラルの地で モンケ・ハーンは戴冠した。 ソルコクタニ・ベキ(1192年? - 1252年)は、チンギス・カーン末子第4男・トルイの正妃、賢妻慈母である。 ケレイト部族の王であったオン・ハン(トグリル)の実弟・ジャガ・ガンボの第3女。 長姉がチンギスの妃になっているため、チンギス・カーンの義妹にもあたる。 また次姉ベクトゥトミシュ・フジンはジュチに嫁いでいる。 モンゴツ帝国の王族・トルイとの間に、帝国の第4代皇帝となった長男モンケ、第5代皇帝で元王朝の創始者となった次男クビライ、イルハン朝の創始者となった三男フレグ、クビライとハーン(皇帝)位を争った四男アリクブレを出産している。 父のジャガ・ガンボは実兄であるオン・ハンやその嫡子であるイルカ・セングンと不仲で、テムジン(チンギス・ハーン)と仲が良かった。 そのため、1204年に兄と甥がテムジンに敗れて死去しても、長女をテムジン(1206年、チンギス・ハーに即位)に嫁がせ、また 三女ソルコクタニ・ベキをテムジンの末弟・トルイと結婚させている。 ≪ 尚、オン・ハンの長女はテムジンの長子・ジュチに嫁いでいる ≫ このようにオン・ハン家はチンギス家と親交な関係にあった。 特に、ジャガ・ガンボは チンギスからの厚遇を手にしていた。 ソルコクタニ・ベキは夫・トルイと仲が良く、二人の間に 次々と 4人の男児に恵まれている。 1206年にテムジンがチンギス・ハーンとして即位しモンゴル帝国が成立した。 ケレイト部はチンギス一門の姻族とされ、モンゴル遊牧部族連合の有力部族のひとつとして、 万里の長城北部、ゴビ砂漠周縁の草原・黄河大湾曲部のオルドス地方で覇権を維持していた。 オン・ハンとケレイト王国 『集史』「ケレイト部族誌」によると、ケレイト王国は盟主であるケレイト氏族を中心に、トベイト、トンカイト、ジルキン、サモアト、アルバトの六つの氏族からなっていたという。 記録に残る最古のケレイトの王はマルクズ・ハンという人物で、マルクズ・ハンは東方のタタル部族の王ナウル・ブイルク・ハンと長年 熾烈な抗争を繰り返していたが、ついにこのナウル・ブイルク・ハンに捕らえられた。 東方の遊牧部族連合“ヒターイーとジュールチャの帝王たち’に引き渡されて処刑されたと伝えられる。 ≪ 東方の遊牧部族連合を統合したのが“金・女真の阿骨打(アコツダ)”です。 無論 チンギス・カーンが金帝国を崩壊させるのですが ≫ 言い伝えでは、マルクズ・ハンの死後寡婦となったマルクズの妃クトクタニ・ケレクチンが、モンゴル部族と示し合わせて勇士百人を馬乳酒のつまった皮袋に潜ませ、タタルのナウル・ブイルク・ハンを酒宴に招いた。 ナウル・ブイルク・ハンが宴席についたところで、皮袋から躍り出た勇士百人がナウル・ブイルク・ハン以下タタルの首長たちを殺害させて亡夫の仇を討ったと伝えられる。 こうして父の後を継いでケレイト王国を復興させたのが、マルクズの息子クチャクス・ブイルク・ハンであった。 クチャクス・ブイルク・ハンには、世嗣と目された息子も8人いたと伝えられ、トグリル、トラ、マルクズ、タイ・テムル、タイ・ダイシ、ブク・テムル、エルケ・カラ、ジャア・ガンボ、イェデ・クルトカであったという。 12世紀後半のケレイト部長トグリル(トオリル)は、モンゴル部キヤト氏族の長イェスゲイ・バートル)とアンダ(盟友)の関係にあり、イェスゲイ・バートルの死後 その息子のテムジンが台頭してキヤト氏族長に立つのを助けている。 テムジンをわが子のように考えていた。 しかし、1195年にトグリルは弟のエルケ・カラに追われて流浪していたところ、別の弟ジャガ・ガンボがモンゴル部に亡命した。 これをきっかけに、トグリルはアンダの息子 モンゴル部キヤト氏族のテムジンと同盟を結んで ケレイトの内紛を収めている。 翌1196年 金の要請を受けたトグリルは、テムジンと共にタタル部(室韋族の一派)を討って、トグリルは金帝国より オン・ハンの称号を与えられた。 テムジンは父の敵討ちの合戦であり 金の称号などは眼中に無かった。 オン・ハンはテムジンと共に北西部のナイマン、北部のメルキト、北東のタイチウトなどの諸部族を攻め、オン・ハンのケレイト部とテムジンのモンゴル部で高原の大半を制圧した。 1203年、テムジンのアンダ・ジャムカの策動で二人は対立した。 オン・ハンは 一度は勝利を収めたものの再起して兵力を結集したテムジンの奇襲を受けて殺され、 ケレイト部はモンゴル部に降った。 オン・ハンの遺児イルカ・セングンも息子のトサカ・ベキと共に逃亡先のクチャ(新疆、クチャ市)で殺害され、ケレイト王家の嫡流は断絶した。 ソルコクタニ・ベキやジュチに嫁いだ姉・ベクトゥトミシュ・フジンの宗家は無くなっていた。 話しが前後しますが・・・・ 蒙古草原西部・アルタイ山脈南西部の大草原いにナイマン王国があった。 ナイマンは東にケレイト王国と隣接していたため、ケレイト王国の内紛に幾度か関わっている。 チンギス・カーンの勃興以前に、ナイマン王国ではその王位を兄のナルクシュ・タヤン・カンと弟のイナンチュ・ビルゲ・ブク・カンとで争っていた。 ナルクシュ・タヤン・カンは美貌の妃を持ち、敬虔なネトリウスはキリスト教徒であった。 ナルクシュ・タヤン・カンは弟イナンチュ・ビルゲ・ブクとの戦いに敗死する、妃は奪われ 一人娘・マリアは重臣に手配でコンスタンチノーブルに難を避けていた。 マリアは 後年に ソルコクタニ・ベキと生活を共にしています。 ≪ ナイマンの王女・マリアを主人公にしたのが瞬鄭臣さんの『ジンギスカンの一族』です ≫ イナンチュ・ビルゲ・ブク・カンの時代、ケレイト王国ではトグリル(トオリル)・カン(後のオン・カン)が即位したが、親族たちを粛正したためトグリルの叔父グル・カンはナイマン王国のイナンチュ・ビルゲ・ブクのもとに亡命した。 グル・カンはナイマンの軍事的援助によってトグリル・カンを撃退してケレイト王位を襲い、トグリル(トオリル)は逆に東のモンゴル部族の有力王族イェスゲイ・バアトルのもとに亡命する事となった。 トグリルはイェスゲイとアンダの契りを交わしその援助によって、グル・カンを打ち破って西夏に敗走させ、再びケレイト王位に復帰した。 しかし、トグリル・カンは復位すると弟たちなどを粛正し始めたため、ナイマン王国のもとに亡命したトグリルの弟の一人エルケ・カラがナイマンの支援を受けて再びトグリル・カンを追放した。 トグリル・カンは西夏やウイグル、カラ・キタイ(西遼)など各地を放浪する事になった。 やがて、アンダ・イェスゲイの息子テムジンが強大になったことを聞いて、再びイェスゲイ・バアトルとの縁故を頼ってモンゴル部族のテムジン陣営もとに亡命して来たのだった。 叔父を迎えた、ソルコクタニ・ベキとトルイは父を迎えるように世話をしている。 テムジンも同様に歓迎しているのです。 他方 ナイマンは、イナンチュ・ビルゲ・ブク・カンの死後、その正嗣2子であるタイ・ブカとブレイクが、父の一愛妾(元々、叔父ナルクシュ・タヤン・カンの妃、マリアの母)を手に入れようとして不和となり、2っの勢力に分かれた。 ブレイクは自分とつながりの深い数部族を従えてアルタイ山脈に近いキジル・バシュの山地へ退き、兄のタイ・ブカは父の帳殿(草原に豪壮なレンガ造りの宮殿)と平原地方を保持した。 1199年、両兄弟の争いが続いたため、モンゴルのテムジンとケレイトのワン・カンがそれに乗じてブレイクを攻め、多くの部民と家畜を略奪した。 ブレイクはキルギスに附属するケム・ケムジュート地方へ避難し 再起を図るが、オン・ハンのケレイト軍に敗北している。 以降 歴史から消えている。 テムジンは イナンチュ・ビルゲ・ブク・カンが築いた城塞に本陣を置くタイ・ブカを攻めた。 草原に誘い込み勝利している。 ≪ テムジンは美貌の妃を尾のが皇后の一人に加えている。 タイ・ブカの正嗣王子は逃亡し、後年 カラ・キタイの王女を誑かし カラ・キタイ帝国を乗っ取るがチンギス・カーンの逆鱗に触れ、自滅して行く ≫ チンギス・カーンが帝国を築いて行く過程をソルコクタニ・ベキは 見守っていた。 夫・トルイはテムジンの末弟であり、智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かった。 戦いのたびに 夫から敗北した敵方の姫・王女の運命を聞かされていた。 また ケレイト族は華中に近く、オン・ハン始めケレイトの王族はネトリウスはキリスト教徒が多かった。 父・ジャガ・ガンボの影響でソルコクタニ・ベキもキリスト教徒であった。 帝王・チンギスは宗教に拘りが無かった。 義理の兄フレグが 後に イルハン朝をイラン・イラク高原に創建する。 イルハン朝下の西アジアで時期によってはキリスト教徒が優遇されるなど モンゴル王家のキリスト教徒に対する好意的な姿勢は、 ケレイトの王族・貴族を通じて ≪その中心はソルコクタニ・ベキなのです≫ モンゴル帝国の王族・貴族に数多くのキリスト教徒が含まれていたこと また ソルコクタニ・ベキの姉・ベクトゥトミシュ・フジンの子がローマ法王の一族と結婚するなど オン・ハンは優柔不断の一面を持つ激動する時代の王君ではなかったが、 チンギスの“?馬王家(婚姻家)”であるケレイトの王女たちは チンギス一門の精神的な支柱を形成していた。 1232年に夫・トルイが急死する。 長男のモンケンにトルイ家を継がせ、自らはその後見役のような立場となったソルコクタニ・ベキは、 1241年に第2代モンゴル帝国皇帝・オゴデオ・カーンが死去して次代の皇帝位をめぐる争いが起った。 帝国の摂政監国となった皇后・ドレゲネは強引な政治工作 五ヵ年を費やして、我が子・グユクを第三代モンゴル帝国皇帝に即位させた。 1246年7月の戴冠式は蒙古帝国の権勢を誇示するに十分であった。 しかし、ジュチ家の当主バトゥやモンケ その母ソルコクタニ・ベキらはこの即位に不満を持ち、ソルコクタニ・ベキはバトゥと密かに連絡を取り合って密約を交わした。 グユク・ハーンは即位前に、バトゥが蒙古帝国の総力を結集して臨んだヨーロッパ遠征軍に従軍した折、バトゥと諍いを起こし、父・オゴデイ・カーンの叱責を受け 問責裁判への召還令を受けていた。 その帰還の途上、父が他界 母・ドレゲネの工作で 宿願のハーン(皇帝)位を手にしたが、ジュチ家当主バトゥには含むものがあった。 更には 未だにバトゥは参賀せず、帝位を無視する態度をとっていた。 グユク・ハーンは即位後、支持派の王族・諸部族長・諸将でクリルタイを開き、第二次ヨーロッパ遠征の承認を取り付けた。 ヨーロッパへの親征はバトゥへの挑戦でもあった。 1248年新春、慶賀の祭事を終えたモンゴル帝国皇帝・グユク・ハーンは帝都カラコルムを離れ、西に進軍した。 天山山脈北麓で帝国内の諸王族を結集させ、 ジュチ・ウルス(バトゥの領地)を貫き オロス(モスクワ諸公国)を蹂躙 ウィーンに進撃する積もりの進軍であった。 1248年4月にグユク皇帝は急死を遂げているが、ビシュバリク(ウルムチし北郊)方面にグユク・ハーンが遠征しているのを警戒するようにと 姉のソルコクタニ・ベキ(バトゥの叔母)を通じてバトゥに知らせていた。 ______ 続く _____
2012/06/25
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昨日 フィリピン沖 東シナ海で漁民が二人死亡した 共色王朝が自国領海と言い張る海域近くでの両国漁船の事故らしい 詳細は解りかねるが 両国間で対峙が続いている火種海域 フィリピン政府の出方一つで 大火事になるかも知れない そして尖閣問題だ 釣魚島を利用して私利を図る日本の政治屋 今回のいわゆる釣魚島「視察」は11日の衆議院「決算行政監視委員会」会議に向けた準備とも見られている。 会議では石原慎太郎東京都知事の「島購入」劇が議題になる見通しだ。 中日国交正常化40周年にあたり、日本右翼が続けざまに打ち出している釣魚島をめぐる言動は、表面上は中日関係を汚すものだが、実際には私利を図るためなのだ。 「中国之声」が伝えた。 11日の衆議院決算行政監視委員会では石原慎太郎東京都知事、中山義隆石垣市長など右翼4人が顔を揃え、沖縄県石垣市のいわゆる「釣魚島保護」について意見を述べる。 石原氏の島購入計画および政府の参加の是非が議題になると日本メディアは見ている。 石原氏らの島購入のどたばた劇の大きな原因として、新党結成構想があると分析される。 釣魚島問題で大騒ぎをしているのは、民族感情を煽り立て、右翼勢力と中間勢力の支持を勝ち取り、新党結成に向けたムードを盛り上げるために過ぎない。 だが中日関係の安定を犠牲にして個人の政治的資本を追求するこうした彼の行為は、国内の有識者から批判されてもいる。 例えば、中日関係の最前線にいる日本の丹羽一郎駐中国大使は島購入のどたばた劇に反対の声を上げて、ただちに日本政府の敏感な神経に触れた。 ■中日間の暗黙の了解に背くもの 上陸をわめき立てたり、魚釣り大会を開催したりと、日本は小芝居を大げさに演じ、小細工を次々に弄している。 「中国之声」特約オブザーバーの丁兆林教授は、本日(10日)のどたばた劇によって日本右翼の一部が公益よりも私利を重視していることが明らかになったと指摘する。 そしてこれは中日の政治家がこれまでに合意した政治的な暗黙の了解に背くものだという。 丁氏は「彼には自らの政党を結成する目的があり、より多くの支持を必要としている。こうした騒ぎを起こすのは、完全に私利を秤にかけてのものだ。 中日関係全体に立ったものではない。 これはたとえ日本の国益に立って考えたとしてもだ。 これは過去30年の間に中日両国の政治家が合意した政治的な暗黙の了解にさえ背くものであることがわかる」と指摘する。 島購入のために東京都が募集した寄付金は10億円を超えた。 先月の民主党の全体会議では党内意見を統一すべく島購入問題が話し合われた。 各党派の議員の9割以上が島購入に態度保留または反対で、意見の開きは大きいとされる。 (人民網日本語版より)//////// この種の報道が無い日はない、 しかし 不思議だ 昨日のフィリピン漁民死亡の記事は 赤色王朝のいずれのソースにも 見当たらない //////// Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/25
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ドレゲネ ドレゲネ( ? - 1246年) ドレゲネは再婚した。 チンギス・カーンの第2皇后であったクラン・ハトゥンの父、ウハズ・メルキト族の族長ダイル・ウスンの妃であった。 チンギス・カーンのメルキト討伐によって、前夫・ダイル・ウスンは戦没死し 彼女は捕らえられた。 チンギス・カーンは戦功著しいオゴデイに与え、オゴデイはドレゲネを第六夫人にした。 オゴデイにはジュチとチャガタイという2人の有能な兄がいた。 ジュチの出生疑惑を事あるごとに言い立て 兄・ジュチを貶めるチャガタイ 知略に富むが寡黙なジュチ、二人は不和であった。 チャガタイは気性が激しすぎるころとで、チンギス・カーンや帝国の諸将からは後継者として不適格と見なされていた。 オゴデイは温厚で、一族の和を良く纏める人物であったため、父から後継者として指名された。 長兄・ジュチはアルタイ山脈の西方に牧草地(封土・ウルス)を与えられ、自立していた。 1227年の父・大ハーンの死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟・トルイ(末子)を後継者に求める声があった。 トルイは自身が智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かった。 父・チンギスの創建時代の多数の武勲、人望、指導力・気配りなど 彼を推す声っは当然であったが、トルイはこれを固辞し あくまで父の指名に従うと表明した。 1229年9月13日のクリルタイ(王族・貴族、部族長の最高議決会議)でオゴデイはチャガタイやトルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位することとなった。 夫のオゴデイは自分の後継者を指名することなく、1241年12月に過度の酒色が祟って死去してしまう。 オゴデイ皇帝は、生前 三男でコンギラト部族の出身であった第1皇后ボラクチン・ハトゥンとの子であるクチュを後継者に指名していたが、 1236年11月に皇太子・クチュは南宋遠征中、徳安府(河北省安陸付近)の戦線で陣没した。 オゴデイ皇帝は、クチュの長子であったシムレンを身のそばに置き 孫を溺愛し、改めて後継者にシムレンを推していた。 しかし、ドレゲネ皇后はオゴデイ皇帝の死後、自分の息子・グユクを大ハーン(モンゴル皇帝)にしようと狂奔しだした。 夫・オゴデイの死に前後して筆頭皇后ボラクチン・ハトゥンをはじめ、第二皇后キュルゲネ(チンギスの元皇后)などの主だった皇后が相次いで没していた。 本来 長子・グユク皇子の母后であること以上には 権力を持っていなかった第6皇后ドレゲネだが オゴデイ・カーンの皇后としては最年長であった事もあって、 突如として大ハーン没後のモンゴル帝国における摂政・監国として帝国を総攬することとなった。 しかし、摂政監国のドレゲネには トルイ家やジュチ家はもちろんのこと、オゴデイ家内部でも後援する勢力が絶無く、頼みのオゴデイ皇帝後見人・チャガタイは亡き人であった。 更に、息子・グユクは モンゴル帝国の総力を挙げるヨーロッパ遠征に参軍していた。 ヨーロッパ遠征軍の総指揮官はジュチ家の家督を継いだバトゥであり、 グユクは 従軍中にバトゥと諍いを起こしてしまい、父・オゴデイ・カーンの逆鱗に触れた。 尋問会議に召還されていた。 大カーンの崩御のこの時、帰還の道中であった。 オゴデイ・カーンが没した直後に、チンギス・ハーンの末弟であるテムゲ・オッチギンが帝都・カラコルムに上京して帝位を狙う構えを見せたが、摂政監国・ドレゲネはこれを叛乱に当たると非難して牽制した。 ほどなく、長子・グユクが西方からオゴデイ家の封土があった中央アジアのイミル湖畔に到着したとの知らせが有り、テムゲ・オッチギンは オゴデイ皇帝の弔問に訪れたのだと弁明したため、ドレゲネは他勢力によるカラコルム制圧を回避できた。 ドレゲネはまず、夫に重用されていた功臣の耶律楚材やチンカイ、ヤラウチらを政治の場から遠ざけて、 オゴデイの治世晩年に中国地域の歳入監査で頭角を表したイスラム商人のアブドゥッラフマーン(ドレゲネの愛人)を重用し、帝国の財政運営を彼に委ねた。 アブドゥッラフマーンは民衆に重税を課し 私腹を肥やし、耶律楚材やヤラウチの善政を覆していくが、モンゴル帝国の摂政監国・ドレゲネの経済的基盤は強固になった。 【 アブドゥッラフマーン(? - 1246年); 監国として実権を握ったドレゲネの後ろ盾を得て、 耶律楚材(チンギスの最高参謀)、チンカイ(軍事行政官僚)、ヤラウチ(経済官僚)ら父・大ハーンから引き継いだオゴデイ時代の官人を失脚させ、事実上の最高権力者として権勢を振るった。 しかし、あまりに専制・横暴を極めたためにその施策は不人気であった。 1246年にドレゲネが死去すると、彼女と共に自らが擁立したグユク皇帝によって罷免された後、死刑に処された。 アフマド・ファナーカティーとともに『元史・奸臣伝』が連記するほど悪評の人物として名高く、1239年の功績も実際は漢人に対する極度な搾取が要因だったとされている。 また、ドレゲネの信任を良いことに平気で法を破ったり、酒毒で酒を控えていたオゴデイ皇帝に葡萄酒を勧めて死期を早めたというエピソードも 挿入されている 】 ドレゲネは アブドゥッラフマーンと共に また 自身の監国としての立場から、帝国の実権を掌握した。 夫・オゴデイ皇帝によって後継者に指名されていたはずのシムレン皇太子を、成人に達していないという理由で後継候補から除外させた。 そして、オゴデイ家の年長者であるという理由で自らの実子であるグユクを後継者に推した。 西方の遠征諸軍を率いていたバトゥは、これに反対して ドレゲネのクリルタイ召集に応じず、以後約5年間モンゴル帝国は大ハーン(皇帝)位が空位のまま、ドレゲネの監国時代が続いた。 【 テルゲ・オッチギン( ? - 1246年); チンギス・カーンの末弟、モンゴル帝国の皇族。 他の同 母兄にはジュチ・カサルとカチウンがいる。 チンギス・カーンより6歳年下とされる。 オッチギンとは「炉の番人」の意、テルゲが母ホエルンの家産を相続する末子であったことから呼ばれた。 蒙古族では末子を呼ぶ尊称。 武勇が無かったために戦場における功績は無かったが、政治能力に優れていたため、行政面において兄から重用された。 兄のテムジンがナイマン族の討伐をためらっていたとき、これを討伐するように強硬に進言 し、ナイマン征圧でテムジンはチンギス・カーンとして推戴された。 モンゴル統一後、チンギスのもとで神巫を務めていたテブ・テングリ(母・ホエルンの再婚相手、義父)が専横を極めると、兄の許しを得て義父を殺害したている。 その後、チンギス・カーンの金遠征や大西征では、本国の留守居役を任されている。 オゴデイ・カーンの時代には 一族の最長老として重用され、 1233年の金討伐では、金の首都・開封の攻略で功を挙げている。 1241年、オゴデイが病死すると、自身がチンギスの弟に当たること、オゴデイが生前に明確な後継者を指名していなかったことなどの諸々の理由から、 軍を動かして自ら第3代の大ハーンに即位することを画策したが、監国・ドレゲネに反対されて失敗した。 そして1246年のグユク即位後、間もなく病のために死去している 】 ゴレゲネの工作によって、結局1246年6月にクリルタイが招集された。 ソルクタニ・ベキ(トルイの正妃)を筆頭としてトルイ家からはモンケなどその息子たち、東方諸王家の統括者テルゲ・オッチギンとその一族、 チャガタイ家からは第2代当主となったカラ・フレグ、イェス・モンケ、ブリ、バイダル、イェスン・トアらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功している。 長子・グユクが第三モンゴル皇帝に即位した。 1246年8月24日 オリオト河の湖畔であった。 その即位式には 帝国内部からは旧金朝領である華北に派遣されていたノヤン将軍や官僚たちと在地漢人勢力の代表者たち、 パミール高原西部のマーワラーアンナフル総督、イラン・ホラーサーン総督、彼らに随行してきたカフカス南部境域、 アゼルバイジャン地方からイタクに至るまでのモンゴル支配地域とその周辺の有力勢力や王族たち、その使節が参加している。 更には、ルーム・セルジューク朝のスルタン=カイカーウース2世の弟、ウラジミール大公国・ヤロスラフ2世、グルジア王国のダヴィド兄弟、 十字軍撃退の英雄・サラーフィッディーンの曾孫でアイユーブ朝の君主ナースィル・サラーゥッディーン・ユースフの弟君、モースルの君主バドルッディーン・ルウルウの使者がおり、またヨーロッパからはローマ教皇インノケンテイウス4世の使節、 ケルマーン地方のカラキタイ朝の王族クトブッディーン、ケルマーン地方・サルグル朝の君主アブー・バクル・ブン・サアドの使節が参加していた。 その他、アッバース朝の大カーディー・ファフルッディーン、ニザール派教主アラーウッディーン・ムハンマド3世の使者がそれぞれ 参列している。 ≪ 私の手元に、ローマ教皇インノケンテイウス4世が派遣したジュヴァンニ修道士の『われらがタルタル人と呼ぶモンゴル人の歴史』紀行著作があります。 驚くべき旅行記、 それにしても モンゴル帝国の権勢は ものすごいですね ≫ ジュチ・ウルスも結局 バトゥは体調不良を口実に欠席したが、モンゴル本土に派遣していた、異母兄のオルダを始めシバン、ベルケ、ベルケチェル、タングト、トカ・テルム等々 ジュチ家の主要王族たちとそれに随行する将軍(ノヤン)たちを出席させている。 総じて、グユク推戴のクリルタイは、モンゴル帝国最大の勢力を誇っていたバトゥ自身の参加は欠いていたものの、 ドレゲネの工作によって帝国各地や周辺の主だった勢力を参加させることが出来たため、モンゴル皇帝選出という大業に見合った大規模なものにすることに成功したといえるでしょう。 しかし、ドレゲネは当初の目的通り、1246年8月、息子のグユクを大ハーン(皇帝)に即けることに成功したが、息子の即位に安心したかのように、2ヵ月後の1246年10月、病のために没してしまった。 ドレゲネの政治工作による強行的なグユク擁立は、特に東欧遠征中に反目を起こしていたバトゥやモンケ(トルイ家長子)など、多くの人物から不満があがり、その後のモンゴル帝国分裂の一因になってしまった。 第三代蒙古帝国皇帝・グユクは、即位後の10月、母・ドレゲネが病死すると、自ら親政を開始した。 父オゴデイ皇帝の死から5年が経過していた。 グユクは母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑し、父時代の功臣であるヤラワチ、チカウン、等を復位した。 そして、自身の即位を支持するチャガタイ家のイェス・モンケ(五男)を当主カラ・フレグを廃してチャガタイ家の第3代当主に任命するなど内政を建て直し 彼らを重用した。 軍事面では南宋・イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めている。 そして 自らもヨーロッパ遠征再開のため、父の遺領(ウルス)であるバルハシ湖近傍のエミル地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した。 しかし グユク皇帝は1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面(ウルムチ市北郊)で急死した。 享年43歳。 この死は、かねてからの過度の酒色で健康を害したための病死といわれている。 しかし トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケの生母)が、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、姉であるオキ・フジン(バトゥの生母)を通じてバトゥに警戒するよう知らせていた。 この史実の記録から、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説があります。 グユク皇帝の死後、その皇后であったオルガイミシュが摂政監国として国政を代行したが、バトゥとモンケらトルイ家の王族たちは オルガミシュの招請を拒否し、 約4年の間 モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治は 再び 混乱する事となった。 _____ 続く _____
2012/06/24
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中国のメディアは先週来 “【特集】神舟9号パノラマ報道” で満ち溢れている 国威高揚にはうってつけのエポック しかし、巨額な資金を投下しても お釣りが来る 神格化に/軍事に/威圧に 月の表面に旗でも投下すれば 我が新々新疆(疆;獲得せり領地) と言い出すであろう 子育ての“奴隷”になる1980年代生まれ 一人っ子政策で甘やかされて育った世代が親になった と題する 北村豊氏のレポートを読んだ 北村豊氏は“住友商事総合研究所 中国専任シニアアナリスト”、明晰に諸事の核心を突いている 中国で2010年1月頃に“孩奴(がいぬ)”という新語が生まれ、中国語で「子供」を“孩子” 言うが、“孩奴”は“孩子”に“奴隷”を組み合わせた言葉で、そのまま訳せば「子供のため の奴隷」となるが、「我が子のために懸命に働いて金を稼ぎ、自分の欲望を抑えて奴隷のよう な生活を送る父母」を意味する 中国では末尾に“奴”を持つ新語が次々と生まれているが、“孩奴”もその系統に属する 言葉である。 因みに、“房奴”は「住宅ローンの返済に苦しむ人」、“車奴”は「自動車のローン返済や維持費 の支払いに苦しむ人」、“?奴”は「カードローンの返済に苦しむ人」を指すが、 “孩奴”はこれらに続く新語として位置付けられている 筆者は2010年1月29日付の本リポート「子供の教育費のために人生を捧げる」で“孩奴”の 概要を報じたが、それから2年が経過した現在、中国では改めて”孩奴”が話題となっている 2年前のリポートと一部重複する内容もあるが、 再度“孩奴”をテーマに取り上げる と アプローチしての報告書で、その概略は・・・ ※ 24年間で子供の養育費用は40数倍に増大 ※ 月収13万円以上でも月末には使い果たす ※ 両親からの援助がないと生活は成り立たない ※ 子供の養育支出(小学6年まで)の8割前後は教育費である 等々 ネットユーザーの声を拾い集め 色々な夫婦をワークテーブルに乗せ 両親2人と祖父母4人の大人6人にかしずかれて“小皇帝”として君臨し、蝶よ花よと甘やか されて育った“小皇帝”=“80后(1980年代生まれの世代)”の悲鳴を分析している その一つ 小莉は国の事業組織に勤務し、夫は医者なので、一家の収入は1万元以上あって恵まれているが、 それでも今の彼ら夫婦は“孩奴”となっており、収入を月末までに使い果たす“月光族”になっている これから子供の成長にともない、早期教育、幼稚園と費用が増大するので、養育費の家計に対する圧力はますます高まるに違いない 中国では一度“孩奴”になったら最後で、怖くて病気にもなれないし、高価な消費もできないし、安易に転職もできないし、 と 北村豊氏は、子育ての“奴隷”になった“80后”の未来に同情 中国社会の動向を見据えている ・・・・・・・神舟9号の女性宇宙飛行士・劉洋さん、浮かれて宇宙遊泳している時では無いので しょうか、 無論 市民の声は 完全なる情報遮断シェルにて届かないでしょうが・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/24
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ボルテ・ウジン ※「ウジン」とは漢語の夫人に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称です ボルテは、カブル・カン以来 モンゴル部族の姻族として知られたデイ・セチュエン部族の一氏族の首長デイ・セチュエンの娘で、チンギス・ハーンより1歳年上だったから 姉さん女房です。 父デイ・セチュエンの姓はボスカウル氏であったといい、コンギラト部族本家から分岐した一族と思われる部族長の娘であった。 チンギス・ハーンが名を成した後、チンギスが属するボルジギン氏は最高に家柄となり、彼女の部族はチンギスの姻族・?馬(フマ)家筆頭 “コンギラト?馬家”として蒙古高原で第一等の家柄になる。 ボルテがテムジン(後のチンギス・ハーン)に嫁いであまり経たない頃、高原北部の有力部族メルキトの首長・トクトア・ベキが傘下のウアス、カアトの各氏族の首長たちと軍を引連れてテムジンの幕営を襲った。 ボルテは逃げ遅れて メルキトに抑留された。 まだ勢力の弱小だったテムジンの保護者であったテムジンの父・イェスゲイの盟友、ケレイト部の王である0ン・ハンはメルキトに圧力をかけ、ボルテの身柄を メルキトからじりょう自領のケレイトに引き取った。 ケレイトに移され後、ボルテはテムジンのもとに無事送り返された。 この旅路の最中にボルテはテムジンの長男を生み、「旅客」を意味する“ジュチ”という名前を テムジンは長男に授けた。 この話しは 小説などでは脚色され、『元朝秘史』ではより劇的に史実を小説化しているようです。 このときテムジンはオン・ハンおよび アンダ(血盟の契りを交わした肉親以上の関係)のジャムカの支援を受けて メルキトを破り、武力でボルテを救い出したという話になっています。 一方、『集史』ジュチ・ハン紀によると、ボルテがメルキトの手勢に連行された時、既に彼女は妊娠した状態だった記載しています。 結婚生活が浅い折での事件。 テムジンは未だ弱小であり、父親・イェスゲイのアンダであるケレイト王・オン・ハンがメルキト側と交渉して ボルテを取り戻した経緯が史実でしょう。 オン・ハンは テムジンを自らの「息子」と称して尊重していたため、彼女を鄭重に保護してテムジンのもとへ送り戻したはずです。 その旅中でボルテはにわかに産気づいて男児を出産した。 そのため、この男児は旅中で生まれたため「ジュチ」と名付けられた。 しかし、ジュチが成長すると共に出生の疑惑に悩み 早い時期から 正嗣の資格を自棄するであろう「旅客」という名前、 また 生まれてくる出あろう次弟達との不仲な関係を生むであろう事などの心配は、テムジンには無かったのでしょうか。 ボルテはテムジンの子であることは当然の自覚と自信があつたはずですが・・・・。 尚、後年に テムジンはケレイト王・オン・ハンと対立し、勝利します。 逃亡したオン・ハンは落ちぶれ果て、彷徨います。 ボルテとテムジンはオン・ハンを手厚く保護している。 もともと、ボルテがメルキトに襲われる原因は テムジンの父親・イェスゲイ・バアトルが作っていた。 イェスゲイはモンゴル部族の首長層を輩出したボルジギン氏の一員として勇者であった。 キヤト氏族の祖カブル・ハーンの次男であるバルタン・バアトルの三男に生まれた。 彼の勇敢さを示す逸話は枚挙に暇が無い。 妻・ホエルンをメルキト部族から略奪して娶った物語など蒙古高原では知らぬ者がいなかった。 12世紀の第2四半期頃、カブル・ハーンが死ぬと タイチュウト氏のアンバガイがハーンに即位し、その死後にはバルタン・バアトルの弟であるイェスゲイの叔父・クトラがハーンに即位した。 アンバガイ・ハーンはタタル部族(金帝国に飼いならされて、遊牧民を強奪して褒賞をもらっていた)の謀略により中国の金に引き渡されて殺害された。 イェスゲイの叔父・クトラ・ハーンは、その復讐のためアンバガイ・ハーンの遺児たちが率いるタイチュウトと協力してタタルと戦争を繰り返した。 クトラ・ハーンの傘下にあるキヤト氏の首長であったイェスゲイはこの戦争に加わってタタルと戦い、有力な指導者として頭角をあらわし、敵のタタルはもとより モンゴル高原 また 金帝国でも知られていた。 クルチャクス・ブレルク・ハンの後を継いだケレイト王国の王・トグリル(後、金帝国からの爵位・オン・ハンを名乗る)が親族間の内紛に敗れ、放逐されて 王国から東方へ逃れてきた。 テムジンの父・イェスゲイはトグリル王を匿い、「アンダ(盟友)」の関係を結んで同盟すると トリグル王に全面的なる援助お差し延べ、まず 彼の兄をケレイト領外へと放逐した。 ケレイト王国の王になっていたトグリルの弟・グル・ハンの軍を撃破し、トグリルの復位をさせている。 後年、トグリルは再び内紛に敗れてケレイト王国を放逐されたが、この時 イェスゲイはすでに歿し、替わりにその嫡子・テムジンがオン・ハン(トグリル)を匿っている。 蛇足ですが・・・・・後年の事、袂を分かったテムジンのアンダ・ジャムカが ケレイト王家の内紛を策謀したのです。 以降 この二人は蒙古高原の覇権を巡り生涯の宿敵になります。 蒙古高原の各氏部族が二っに分かれ、テムジン陣営とジャムカ陣営で決戦を繰り広げる。 ジャムカの智謀にテムジンの勇知が勝利する。 草原の覇者としてチンギス・ハーンの名を与えられたテムジンが 氏部族長の推戴を受けたのは1206年、テムジン44歳の時です。 テムジンがアンダのジャムカと袂を分ける切っ掛けは、愛妻ボルテの直感による助言と言い出せば後に引かぬ行動力になのですが・・・・ 『元朝秘史』に載る有名な逸話である。有力な部族連合の盟主・メルキトの王トクトア・ベキの弟・イェケ・チェレンが、キヤト氏族と婚姻関係が強かったモンゴル部族の一派コンギラト部族のオルクヌウト氏族の娘・ホエルンとの婚儀を計画していた。 しかし、キヤト氏族のバルタン・バアトル(テムジンの祖父)の世嗣であった、ネクン・タイシ、イェスゲイ・バアトル、ダリタイ・オッチンギンの兄弟たちは、 イェケ・チェレンの嫁入り行列がメルキトの本拠地に帰還する旅中を襲撃し 花嫁・ホエルンを奪取、このメルキトの政略結婚に伴なう勢力拡大計画を頓挫させた。 この作戦の成功の後、未婚であったイェスゲイは 美人のホエルンを娶る事になった。 このリベンジが テムジンの愛妻・ボルテ・ウジンに降り掛かった災難だった。 ある年、イェスゲイ・バアトルはタタル部族と戦い、タタルの首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカを捕虜として本拠地に連れ帰った。 このとき身重であった妻ホエルンがイェスゲイの長男となる男子を出生したため、戦勝を記念して、子供にテムジンの名を与えた。 ≪ その年は『集史』によれば1155年、『元史』によれば1162年です。 尚、名前のタイシは「太子」、バートルは「勇者」、オッチンギンは「末子」の意味です ≫ その後、イェスゲイ・バアトルはホエルンとの間に、カサル、カチウン、テムゲ、他に女子を5人儲け、別の妻との間にベルグテイと4人の正嗣子を儲けた。 が、 長男のテムジンもまだ幼い頃(テムジン、9歳の時)、若くして急死した。 『元朝秘史』によれば、テムジンとコンギラト部族のボルテの婚約を決めた帰り道に、道中で行き逢ったタタル部族の者に毒殺された。 婚約交渉には、テムジンも父に同行していた。 父は帰郷し テムジンは首長デイ・セチュエン(岳父)が支配するデイ・セチュエン部族の幕舎に留まっていた。 父の殺害事件を知ると テムジンは 家長として 婚約解消を申し出るがボルテが それを拒否している。 ボルテは10歳です。 後獏者のイェスゲイ・の死によって、その配下の遊牧民集団は分裂、瓦解した。 その後のテムジンはきわめて微小な勢力から出発しなければならなかった。 母親のホエルンは 従者も去り、幼子を抱え また 必要に追うメルキトから身を隠し 草の根を掘り起こしてテムジンや側室の子供までも養っていく。 幾多の作家が テムジンの幼少時代、母・ホエルンの苦闘 メルキトの圧迫を書き また映画・劇画等でご存知でしょう。 ただ、ひもじさから テムジンの幼い弟達が第二夫人・ムルタンの子供達に苛められる。 テムジンは第二夫人の仕打ちにも我慢できずに 彼女の長子を、義理の弟ではあるが 矢で射殺す。 母・ホエルンはテムジンを激しく叱咤し 家長が取るべき道を教え込んでいくのです。 夫・イェスゲイ・バアトルの家産の管理権を握ったものの、配下の遊牧民がほとんど去ってしまい、非常に苦しい状況に立たされたホエルン。 しかし、そんな中で ホエルンはイェスゲイ・バアトルの遺児たち テムジン、カサル、カチウン、テムゲ、妾妻の子ベルグテイ、ベルグタイを育て上げ、家族を支えた。 ホエルンとテムジンは苦難の末に 四散した父の配下を一人ひとり呼び戻していった。 その努力をボルテの父親・首長デイ・セチュエンは見守っていた。 母・ホエルンの勧めでテムジンはボルテを迎えにいった。 首長デイ・セチュエンはボルテの持参金として草原に二っとない白貂の毛皮に羊・馬 更には 配下まで連れて行かせた。 テムジン兄弟を中心に テムジン一党が形成されていった。 その中心にはホエルンがいた。 ホエルンはイェスゲイ・バアトルの領地を守り抜いていた。 また 取り戻した愛妻のボルテはテムジンと共に領地保全に 外敵の侵入に いつも移動する生活を送っていた。 テムジンは ジャンダラン部族のジャムカと同盟 アンダの関係を一層深めていたある日、ジャムカの一統とテムジンの一門が同じ宿営地に滞在し 酒宴を張ろとした。 ボルテは テムジンに語ったジュムカの発言に、彼の変心と背離を読み取り、ジャムカを危険視して彼を避けるようテムジンを説得した。 テムジンはボルテの言葉を疑い 酒宴の準備に入った。 ボルテは素早く、一門の若者に撤収を命じ 自らジャムカを無視して 宿営地を引き払い 丘を越えていった。 テムジンも その後を追い、丘を超え かなり離れた森の中を宿営地とした。 その夜にジャムカが差し向けた一派が宿営地を急襲したが森の中での騎馬は動きが鈍く、テムジンは事なきを得ている。 これ以降 ジャムカとテムジンの戦いが 宿命の戦いへと拡大していく。 母・ホエルンは部族のシャーマン統括者と再婚し、また ボルテと共に 戦いで孤児となった幼児を敵味方無くの境無く 引き取り養育している。 これらの孤児からチンギス・カーンの諸将が生まれるのです。 ボルテ・ウジンは その後、ジュチの3人の弟チャガタイ、オゴデイ、トルイと5人の女子を生み 男子はチンギス・カーンの後継者候補としてその征服事業を助けて活躍できる教育を行い、また 孤児から彼らの取り巻き武将にするべく養育している。 また、5人の女子はいずれも夫と同盟した有力な部族の長のもとに嫁がせ、チンギス・ハーンの事業を支えている。 チンギス・カーンが勢力を拡大すると やがて様々な部族から迎えられた36名の后妃(側室不詳)が夫・チンギスの身の回りに集まるのですが、 ボルテ・ウジンは正妻、第一皇后としての地位を保って 彼女達のオルド(宮廷)を見事に差配し、各妃からも 尊重されている。 チンギスの後継者候補として認められたのは ボルテの生んだ4人の男子のみであったことからも、ボルテ・ウジンが他の后妃とは別格の扱いであったことがうかがえる。 チンギスが高原を統一して 大モンゴル帝国を興すと、チンギス・カーン直営の宮殿である四大オルドのうちの第一オルド(別名大オルド)の管理権を委ねられ、 大オルドに付随する領民を治めてチンギス・カーンの盛んな遠征の留守を守り、他のオルドおも統括している。 彼女はチンギスの本営であるの首長として『元史』によれば自らを含め7人の皇后(カトン)と1人の妃(エメ)を司ったと明記されている。 _____ 続く ____
2012/06/23
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経済音痴である私にも 最近の報道から 世界的規模の不況に両足を突っ込んでいる さまは 解る アメリカは 数年で白人グループと有色人を含むヒスパニッシュ・グループの 可処分資産・所得の格差は22倍に開いたと言う(CNN報道)後者の平均所得は 日本では生活保護者レベルなのだから 驚き以上に 事あらば 直ちに暴発状況だ 中国では不動産バブルが沈静 暴落は無いが 投機筋は投機先を血眼でさがし 欧州ではギリシャ危機の後 スペインもが危ぶまれ ユーロ通貨は 与信が回復しない 何時も 慎重なNHK氏が 大手金融機関を一斉に格下げ (6月22日 10時16分 NHK配信) 大手格付け会社ムーディーズは、欧米を中心に事業を展開する15の大手金融機関について、 ヨーロッパの信用不安の影響などで経営環境が悪化しているとして、格付けを一斉に引き下 げました。 ムーディーズは、21日、アメリカとカナダ、それにヨーロッパに拠点を置く15の大手金融機関の格付け を引き下げたと発表しました。 このうち、スイスに本社があるクレディ・スイスの格付けを一気に3段階引き下げたほか、アメリカの シティグループやゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレーなど、10の金融機関の格付けを2段階、4っの 金融機関を1段階、それぞれ引き下げました。 ムーディーズは、ことし2月、ヨーロッパの信用不安の影響で金融市場が不安定になっている事 に加え、世界的に金融規制が強化され金融機関の収益環境が悪化しているとして、 世界の主な金融機関の格付けを見直す方針だと発表していました。 大手格付け会社が、アメリカをはじめ世界的な金融機関の格付けを今回のように一斉に大き く引き下げるのは異例のことで、ヨーロッパの信用不安がアメリカの金融機関の経営にも影響を及 ぼしているものとして、 金融市場の反応が注目されています。 ・・・・・・とする報道だが、NHK氏の信頼度がして ますます不安を煽り、 不況のスパイラルを加速する。 資産を持たぬ私には 馬耳東風な事かも知れぬが 世界的大不況に追随するのが戦争だ 歴史の証言を待つにしかず この閉塞感から いつ開放されるであろうか それとも やはり・・・・・・か Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/23
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香妃と文成公主 其2 吐蕃(トバン)、吐蕃王国、吐蕃帝国は、 7世紀初めのソンシェン・ガンボによる統一以後、唐とは東部では吐谷渾(トヨクコン、興嶺山脈南部より西進し漢中北西部地帯で建国)の帰属、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡って度々戦った。 唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶこともあったが、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。 唐王朝末期の“安史の乱”以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配する。 新・後漢の時代です。 9世紀になるとティソン・デツェン王が仏教を国教とする方針をたて(791年)、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された。 822年には唐との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した。 その後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂、やがて滅亡した。 吐蕃の歴史的概略は このようです。 チベット一帯を統一し、吐蕃帝国を確立したソンシェン・ガンボの時代、唐の皇帝の妹として生まれた“文成公主”が時代に翻弄されて生涯を閉じる。 現代では文成公主を 観音菩薩の涙から生まれた“ターラ菩薩”の化身として 信仰の対象になった経緯を お話しよう。 634年、ソンシェン・ガンボ王は唐へ相互に使臣を遣わし、礼物を贈りあう。 さらに王国の南に位置するリッチャヴィ朝ネパールに使者を遣わし、ティツシン王女を妃に迎え、さらに636年、唐の太宗のもとへ妃を迎えるため使者を遣わすが、太宗に拒絶された。 同年、王は20万の兵を率いて唐の強い影響下にあった青海の吐谷渾に出兵、白蘭などの羌族の部落を攻め落とし、松州(四川)に迫るが、唐に敗れた。 その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、さらに大臣ガル・トンシェンを遣わし、金五千両を結納として贈り、吐蕃の強勢いを誇示しつつ 外交交渉を続けている。 さらに 王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えていく。 647年、印度・ヴァルダナ朝の王・戒日王が亡くなり混乱したヴァルダナ朝へ ソンシェン・ガンボ王は派兵・進軍し、政権を簒奪したアルジョナを捕らえ、ヴァルダナ国を属国とした。 更に 大軍を率いて当時分裂状態に陥っていたガンジス川北岸の小国を幾つか帰服させて年賦金を課した後、 中部インドのマダカ国まで侵攻すると、大した抵抗に出遭うことも無く仏教寺院を略奪し多くの聖遺物を奪い、ガンジス川北岸一帯を支配下に置き ラサに凱旋帰還している。 634年、吐蕃は唐に対し公主を迎えたいと申し出ていた。 しかしこのときは吐谷渾の妨害にあって実現しなかったため、 638年にソンシェン・ガンボは吐谷渾へ兵を送って攻撃し、その上で 唐の皇帝・太祖に降嫁を迫った。 636年以降の外交政策、国力の誇示、貴族の留学 更には 唐の太祖はソンシェン・ガンボ王の軍事力を恐れ 妥協した。 640年に妹・文成公主(ギャサ)を送る事を約束した。 641年 文成公主(ギャサ)はラサの王宮に着いた。 公主は女官の頭髪に繭を隠し持たせ、随員には桑の幼木を秘かに運ばせていた。 漢中から繭を持ち出すことは酷刑に値した。 ≪イギリスの探検家・R.スタインがニヤ遺跡でこの説話を題材にした絵を発見している。 また、ネパールの友人からしばしば聞いた話です ≫ ソンシェン・ガンボ王は文成公主が赭面(シャメン:顔に赤土を塗る)の風習を嫌がったため この風習を禁じるなど公主を丁重に扱った。 公主は、ソンシェン・ガンボ王の息子であり当時王位にあったグルソン・グンシェン(在位・641-643)の妻となった。 642年に王子をもうけたが、その翌年にグルソン・グンシェン王は落馬が原因で急死した。 公主はラサにラモチェ寺を建立し、唐から取り寄せた釈迦牟尼像を祀って夫の菩提を弔っている。 また、ネパールのティツシン王女(赤尊公主、ソンシェン・ガンボ王の妃)の大昭寺建立を手伝い、王室の繁栄を祈願している。 文成公主の行動はチベットの段通織物産業や精神的な支えをこの地に植え付け、また この結婚により唐との結びつきを強めていった。 夫の死から3年後、文成公主は正嗣子の死によって再び王位についたソンシェン・ガンボ王と再婚した。 ≪ 再婚までに3年の期間があるのは、喪に服していたためと考えられます。 それにしても、唐の周辺諸国は唐の皇女を求め、大切に扱っている ≫ しかし、ソンシェン・ガンボ王との結婚生活は 649年の王の死によって、わずか3年で終わりを迎えた。 再び、寡婦となった文成公主は グルソン・グンシェン王の子(ソンシェン・ガンボの孫)にその身を委ね、幼い後継者の養育に生涯を捧げて行く。 ソンシェン・ガンボ王の崩御に先立っつ643年に王の子グルソン・グンシェン王が23歳で死去していたため、グンシェン王の子であるマンソン・マンシェン(在位:650年 - 676年)が8歳で即位し、 ガル・トンシェンが宰相として国政を執った。 文成公主は新王が成長するまで国政を監理した。 663年、吐谷渾の大臣が吐蕃に投降したのを機にガル・トンシェンは兵を率いて吐谷渾を征圧する。 さらに唐の制度を参考に吐蕃の行政、軍事、租税登録、徴発制度を改めて整備した。 667年に、宰相・トンシェンが死去すると、子のガル=シェニャ・ドルブがその地位を継いだ。 ガル・シェニャは積極的に唐の西域に軍事行動を行い、670年、唐の安西都護府管轄の安西四鎮(亀茲、焉耆、于?、疏勒)を攻め落として天山南路を遮断した。 唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、ガル・シェニャは40万の大軍を用いて、青海湖南の大非川で唐軍を大いに打ち破った。 唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅が反乱を起こしたため、この間、吐蕃と唐はしばらく小康状態を迎えており た。 676年、マンソン・マンシェン王が24歳で逝去し、ティ・ドーソン王が即位する。 唐はこの間に再び新羅を冊封して東方を固め、678年に中書令の李敬玄が18万の兵で青海へ侵攻してきたが、吐蕃はこれを撃退した。 この戦争後の682年に東突厥が離反の動きを見せ、唐の北方域が不安定に成り、吐蕃と唐は小康状態を迎えた。 そして、680年に 唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて逝去している。 唐より使者が遣わされ弔意を表されている。 692年、唐は軍を起こして西域へ侵攻、安西四鎮をとりもどすが、696年、吐蕃は唐に対して勝利を収め、河西街道を支配している。 連年の戦争により、両国は疲弊した。 699年、ティ・ドーソン王は東部に割拠して国政を王と二分していたガルー族の排斥を目論み、軍を率いてガル氏の拠点を襲撃、 ガル・シェンニャを継いで宰相となっていたガル・ティンディン・シェンドーを自殺に追い込み、宰相の弟は唐に亡命した。 この粛清劇により、吐蕃を二分したガル氏は表舞台から消え、ソンシェン・ガンボ王の血筋が吐蕃の皇統ななった。 因みに この頃、吐蕃に茶葉と喫茶の習慣がもたらされ、陶器が造られるようになる。 文成公主が移植した習慣が広がりを見せている。 7世紀前半、吐蕃のソンシェン・ガンボ王がチベット統一を果たすと共に、ネパールと唐から嫁いだ2王妃の勧めで、ソンシェン・ガンボ王仏教に帰依した。 吐蕃の首都ラサにはトゥルナン(大昭)寺が建立された。 ティソン・デツェン王(在位:742年-797年)の代には仏教が国教と定められ、国立大僧院・サムイェー寺が建設されて、 インドのナーランダー大僧院の長老シャーンタラクシタが招聘された。 また、バドマサンバヴァが密教を伝えた。 さらに、786年には敦煌から禅僧摩訶衍(マカエン)がチベットに招かれたが、シャーンタラクシタの弟子カマラシーラと摩訶衍の禅宗との間で論争“サムイェー宗論”が行われた結果、カマラシーラのインド系仏教が正統とされた。 以来、サンスクリット語経典をチベット語へ翻訳する事業が始められ、824年頃までかけて膨大なチベット大蔵経が作られた。 吐蕃末期には、国家仏教の支配体制に揺らぎが生じた。 最後の王・ラン・ダルマは仏教勢力の排除を目論んで廃仏を行い、842年に暗殺されたという伝説が伝えられている。 9世紀に王家が地方に四散した後は、チベットは長い分裂時代を迎えた。 ソンシェン・ガンボ王の吐蕃王朝が滅亡して統制がなくなると、チベット仏教も一時退廃を見せた。 僧伽の活動は衰退し、当時 インドで流行していた性瑜伽論(性的修行法)や呪術的修法を説く在家密教、すなわち、タントラ主義が横行した。 吐蕃王家の亡命政権の1つである西チベットのグゲ王国は、王朝時代の伝統保存と仏教復興の担い手となった。 11世紀になると、インドから入国して仏教界を指導したアティーシャ(在位:982年 - 1054年)らによって戒律復興運動が起こり=カダム派=、出家教団が再興された。 般若経の解釈学、唯識や如来蔵思想の研究、中観思想の二派の論など、顕教の哲学研究が盛んになった。 他方、マルバらによって新たにインド直伝の後期密教がもたらされた=カギュ派=。 アティーシャも、戒律に違犯した行法は禁止したが、密教を学ぶことは容認したため、密教化した大乗仏教が排除されて、 初期仏教の本流に近い上座部仏教が徹底されたスリランカや東南アジアとは異なり、 チベットでは相互に矛盾する見解を持つような、あらゆる学派の顕教や、密教が総合的に学習される傾向が生じた。 1240年、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、当時ツアン地方(青海湖西部)を中心に一大勢力を持っていたサキァ派はモンゴル王族を懐柔する事に成功し、チベットの自治支配権を得た。 さらに、クビライが即位すると、座主サキャ・バンディタの甥・バクバは元朝の帝師として篤く遇された。 この時代に、チベット仏教はモンゴルの諸部族に広く浸透し、僧侶は国師として迎えられた。 1368年の元朝崩壊後は、サキァ派に替わってカギュ派系のバクモドゥ派が中央チベットに政権を確立した。 バクモドゥ派政権の衰退後は、同じくカギュ派系のカルマ派と、新興のゲルク派が覇権を争った。 サキァ派やバクモドゥ派は、宗教貴族と化した一族が座主や高僧を半世襲的に輩出する氏族教団であったが、一方の カルク・カギュ派は化身ラマ(転生ラマ)制度を導入した。 ゲルク派ものちに化身ラマ制度を取り入れ、ダライ・ラマ、パンチョン・ラマの二大活仏を中心として勢力を伸ばした。 当時代の有力宗派は、モンゴル諸部族や明朝と代わる代わる同盟関係を結んでいる。 特に、モンゴルの諸ハーンは、元朝の後継者としてチベット仏教の保護者となることで権威付けを図った。 元朝・明朝・清朝と ときは流れ、ダライ・ラマ14世がチベット族の先頭に立っている。 ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/22
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尖閣報道に見る中国の足元 日本の民間非営利団体「言論NPO」と中国英字紙China-Dailyは20日、 共同で行った世論調査の結果を都内で発表 (以下、産経Newsの一部転記) 中国に「良くない印象を持っている」と答えた日本人の割合は84.3%(対昨年、6ポイント増加) 日本に良くない印象を持つ中国人の割合は64.5%(1.46ポイント減少)の高水準 日本国民は「資源やエネルギーの確保で自己中心的に見える」・ 「領有権争いでの強硬な態度」が主な理由 中国国民の理由は歴史問題が最多だが、 「尖閣問題での日本政府の強硬な態度」を挙げる人も多く、約40% さて、日中に生活基盤を置く専門家の分析は・・・・・・・・ 姫田小夏 [China Report 中国は今] / フリージャーナリスト“ローアングルでの中国最新情報”を提供する =チャイナビズフォーラム主宰= 日中を往復、中国の商業・流行・社会問題を発信 氏が尖閣諸島いてき問題の核心を指摘している 流石に中国Watcherだ 長文だが 転記させて頂こう 今月上旬に、日本の民間団体が尖閣諸島付近で漁業活動を行ったことに対し、人民日報をはじめとする中国の国内メディアがさまざまな報道や論評を行っている。 それらを読んでみると、共通した特徴があることに気がつく。 要するに中国のメディアは一様に、日本側の行動を「茶番」「空騒ぎ」だと貶めた上で、「われわれはそれに動じることはない」と高をくくっているのである。 たとえば6月12日付の人民日報の掲載論評は、今回の漁業活動を東京都による尖閣購買計画と結びつけて、それは「日本の経済低迷・政局混乱」を背景にした「国内向けの茶番」だと分析した。 同じ日に、政府系メディアの工人日報の関連記事もまた、「茶番」という言葉を使って上述の漁業活動を評している。 曰く、「石原一味」の尖閣購買と「右翼分子」の漁業活動はすべて、一部の日本人が反中的騒ぎを起こすことによって「少しの快感」を得ようとするための行為であるという。 人民日報系の環球時報は同11日掲載の論評で、中国語の「闘気(意地を張って争う)」という言葉を使って、「実力の面では中国に負けている日本人が、意地を張って中国と争うようなパフォーマンスを演じているだけのことだ」と、日本側の動きを嘲笑してみせたのである。 中国メディアによるこのような論調は当然、的外れである。 尖閣をめぐる日本側の動きは決して無意味な「茶番」ではなく、むしろ島への日本の実効支配の強化につながる重要な行動であることは明らかだ。 にもかかわらず、中国側が極力、それらの動きの持つ意味を矮小化してみせたのは一体なぜなのか。 その答えは上述の環球時報論評にあった。 論評はその文中、中国メディアとしては初めて「釣魚島は今日本の実効支配下にある」と認めた上で、「優位に立っているのは日本側だ」と嘆いているが、このセリフにこそ、中国側の抱えるジレンマがあるのだ。 中国政府はとにかく、尖閣諸島は自国の領土であると強く主張している。だが現実的には、尖閣は日本の領土として日本の実効支配下にある。 中国は今、この現実を変えることもできないし、日本側による実効支配強化の動きを阻止することもできない。 そうすると、「尖閣問題」で何か大きなトラブルでも起きれば、苦しい立場に立たされるのはむしろ北京政府の方であろう。 日本との争いが表面化すればするほど、自国の「領土・核心的利益」である尖閣を「奪還」できない中国政府の無力さが国民の前で露呈してしまうからだ。 しかも、秋の共産党大会開催を控えて国内の安定維持を何よりも重んじる今の胡錦濤政権には、尖閣問題で日本と事を構える余裕なんかはない。 したがって現在、尖閣をめぐる日本側の動きに対し、中国政府は結局なすすべもなく目をつぶっていくしかないが、それでは国民からの「弱腰批判」にさらされる恐れもあろう。 政府にとってこの苦しい板挟みから脱出する唯一の方策は日本側の動きの持つ意味を貶めた上で、「だからそれを無視すればよいのだ」との逃げ道を自分たちのためにつくっておくことである。 日本側の動きを「茶番」だと嘲弄して軽く受け止めるふりをしている中国の国内報道はまさに政府の「苦衷」を察した上での挙動であろうが、 そこからは逆に、尖閣問題ではどうにもならない中国政府の足元が見えてきたような気がする。 後は、日本の領土を守るためにやっておくべきことを、われわれの方で着々とやっていけばよい、というそれだけの話である。 Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/22
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香妃と文成公主 カシュガルの阿?克和卓麻扎(アパク・ホージャー・マーザー) 複合体で 中心をなす、最大の建物であり、最も重要な建築作品であるアパク・ホージャー廟は 私には側壁が妙に落ち着きがなく感じられる。 この廟は、ムハンマド・ユースフが 1670年に、自身の廟として創建したもので、その時 息子のアーファークは まだ 45歳であったが、 父の死後に跡を継ぐと 正嗣子の方が有名になり、1694年に世を去ると この廟を拡幅して、彼も この同じ廟に葬られている。 以降、 この廟はアパク・ホージャー廟と呼ばれるようになった。 私の側壁への違和感はこの為かも知れぬ。 ムハンマド・ユースフの一族もここに葬られたので、その総人数は 5代にわたる 72人、堂内に 現在残る墓碑は 58を数えられる。 また、この地方では 香妃墓(シアンフェイ・ムー)とも呼ばれていますが、墓碑の一つが、清の第 6代皇帝、乾隆帝の妃であった 容妃(イバルハシ)と混同された為です。 この地方、特に 南方のヤルカンドの人々は 熱狂的な香妃ファンで史実は史実として認めながらも、香妃は乾隆帝の慈愛で 死後 124名の衛兵が三年半の日時を費やて 北京から 父の下に嘆送したと信じているのです。 72歳を過ぎた井上靖さんも 香妃ファンでしょう。 この地を訪れ、ヤルカンドまで足を伸ばし、案内してくれるウイグルの美形を“香妃”の再来と錯覚するさまの狂信ぶりを 見事な作品に仕上げています。 されはともかく、“香妃/容妃”(イバルハシ)は肌に棗(ナツメ)の花の香りがあった。 カシュガルは、古代には疏勒国の国都であった。 タリム盆地周辺には古くからトカラ語系の人々が住んでいた。 彼らはコーカソイドではない。 彼らが建国した政権は多く、疏勒国もそのひとつです。 匈奴が強盛の時代には その間接支配を受けたが、中国が統一され、漢が西方に進出して西域都護府を設置すると、その勢力下に入った。 (紀元前二世紀の頃) その後、漢の勢力が後退すると、柔然や突厥など北方民族の間接支配下に落ちたり、唐が安西都護府を設置すると、安西四鎮のひとつである疏勒都督府が置かれ、その支配下で閉塞していた。 疏勒はタリム盆地南部を通るシルクロード南路の要所であり、この地を訪れた唐の玄奘は疏勒を仏教が盛んな国であると記述している。 12世紀、蒙古族のテムジンがれのジンギスハーンとして蒙古高原の支配者に推戴され、彼の帝国はユーラシア大陸の東部から小アジアまで及び、インド地方を除く大モンゴル帝国と成った。 モグリースターン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)はジンギスハーンの正嗣次男のジャガタイの血脈であり、騎馬遊牧民族の征服王朝である。 チャガタイの系譜を引く、トルファンの支配者・アヘナの子サイードが 1514年に カシュガルでハン(君主)位に就いた。 建国の祖・チャガタイ以降 チャガタイ・ハン国は大モンゴル帝国の皇位継承に絡む内紛が続き、 その影響を受けたチャガタイ・ハン国も内部の権力闘争は絶えなかった。 内紛の結果が東西への分裂であった。 西チャガタイ・ハン国ではイスラーム教徒が台頭し、イスラーム文化がタリム盆地に押し寄せていた。 西チャガタイ・ハン国の蒙古王族・貴族たちは 草原の遊牧生活を忘れ去り、各地の封建領主の生活に満足している凋落ぶりであった。 サイードが立位したのは こうした時代であった。 サイードは カシュガルの南南西約300キロのヤルカンドに定都した。 国政の中心をヤルカンドに設けた事で、ヤルカンド・ハン国と呼ばれ、ジンギスハーン一党の王国です。 その勢力は次第に拡大し、タリム盆地一帯の主要なオアシス都市だけでなく、最盛期には天山以北のバルハシ湖南岸や パミール高原以西のフェルガナ盆地にまで 勢力は及んだ。 しかし、統治集団内部の権力闘争や 何時しか浸透したイスラム教の黒山派と白山派の教派対立によって衰え、1680年に モスレム(イスラーム教徒)のムハンマド・ユースフが政権を確立していた。 サイード政権が また チンギスハーンのチャガタイ政権が この地を統治する以前、このタリム盆地はウイグル族が支配していた。 三世紀中頃 古代の疏勒国が、唐に解体させられた以降のことです。 751年7月から8月に掛けて、中央アジアのタラス地方(現在のキルギスタン領内)で 唐とアッパース朝の間で “タラス河畔”の戦闘が行なわれた。 西部へ西部へとその勢力を拡大する唐帝国、東部へとコーランと剣で領域を伸長させるアッパース朝。 唐は この“タラス河畔の戦い”で敗れ、パミール高原の東部域に後退した。 その後、蒙古高原に巨大な帝国を確立したウイグルに追われたモンゴル草原の勢力・カルルクが唐の勢力下で地番を築いて行く。 他方、“安史の乱”(755年)で唐を支援し 漢中に勢力を伸ばしたウイグル帝国は唐帝国を併呑しようとするが、天災と疫病の発生 また 内部闘争の虚をキルギスに突かれて崩壊した。 ウイグルの王族とウイグル人が大挙して、西に逃走した。 そして、9世紀の初頭には カルルクをパミール高原の西部域に追い落とし、また 土着のトカラ語系民族と混血し、天山ウイグル王国を建設した。 10世紀には、最初のテュルク系イスラーム王朝であるカラハン朝の勢力が パニール高原を越えてカシュガルに延び、カシュガルは、その王都となって 天山ウイグル王国と対峙していた。 唐はタリム盆地から撤退し、漢中は五胡十六国時代に変わっていた。 タリム盆地から漢中の勢力は消えるが、カシュガルの城市は 宋代には契丹族が建てた西遼に属し、元代にはチャガタイ・ハン国の陪都となり、明代には 上記・ヤルカンド・ハン国に属していた。 このような歴史のなかで カシュガールは、イスラーム化したウイグル人の中心的都市と変化していた。 清代に入ると、乾隆帝の新疆征服により、カシュガル直隷州が設置され、新疆南部を統治する参賛大臣が駐在した。 乾隆帝は戦いを好む皇帝であった。 清の第6代皇帝に即位したのは24歳。 1735年10月8日 に戴冠している。 皇帝として、領土を拡大して行った。 10回の外征を行なっている。 ジュンガル、雲南の金川、ヒマラヤ南麓のグルカに2回ずつ、回部、台湾、ビルマ、安南に1回ずつ計10回の遠征を“十全武功”と言って誇り、自分を十全老人と呼んでいた。 1736年の春、“香妃/容妃”はヤルカンド・ハン国の国祖・ムハンマド・ユースフの子であるアパク・ホージャーの孫そして生を受けた。 四代目の皇女として生まれた。 当時、ヤルカンド・ハン国は清朝に統治権を奪われ、毎年 清朝にに貢賀し、燕京(北京)には強制使役に駆り出されたウイグルが多く滞在し、 また シルクロード交易に携わるウイグルが幾多生活の基盤を設け 回教寺院らしき館屋設け、圧政から逃避する拠り所にしていた。 花香る姫に成長した“香妃/容妃”は パミル高原から流れ来る莎車(ヤルカンド)川の川原が好きであった。 遠く天山山脈の雪嶺を望み、莎車(ヤルカンド)川の冷水は真夏でも砂漠を忘れさせた。 しばしば、襲い来る凶悪な竜巻すら、彼女には自分を守ってくれる守護神の使いだと思っていた。 いつしか “香妃/容妃”が発する棗(ナツメ)の花の香りが、彼女の美しさに輪をかけて 疆南部を統治する 清朝の代理人・参賛大臣の耳に入った。 1756年、乾隆帝は第二回目のジュンガル征圧の親征を行なった。 ジュンガル地方は完膚なきまでも破壊され、ジュンガルのオイラト・モンゴルやウイグル人で生き残った者はロシアや南方の莎車(ヤルカンド)・ホータンに逃散した。 ≪ このジュンガルのジェノサイトは 紀行記“草原の道”・“最後の騎馬遊牧民国家・ジュンガリア”に 記載済み、閲覧下さい ≫ 閉塞するヤルカンド・ハン国第四代君主は、莎車(ヤルカンド)城市に逃げ来る逃亡者を匿い、参賛大臣の目をごまかし 支援の手を差し向けたが、参賛大臣はこれを咎めた。 翌年になり、婚期の遅れていた“香妃/容妃”の婚儀が進められている中、 参賛大臣が新春の貢賀の折に“香妃/容妃”を伴ない、燕京(北京)宮廷に参内する旨 厳命した。 1760年、“香妃/容妃”は22歳、乾隆帝は49歳であつた。 乾隆帝は“香妃/容妃”に魅せられ、直ちに イタリア生まれのイエズス会の宣教師である絵師・ジュゼッペ・カスティリオーネに彼女の容姿を描かせた。 “香妃/容妃”は第15位の皇后として、以降28年間 乾隆帝の寵愛を受けている。 “香妃/容妃”は、燕京(北京)に住むウイグル族・イスラーム教徒の安住が確証されるまで 乾隆帝を拒み続けたと言う。 北京市内にあるモスク(回教寺院)の清真女寺・ 牛街礼拝寺などは宋・明時代の建立ですが、朽ち果てた寺院を修復し、名刹としたのは彼女の力でしょう。 1788年 “香妃/容妃”(イバルハシ)は54歳の時、病に倒れた。 彼女の遺体は 124名の衛兵が三年半の日時を費やて 北京からカシュガル 父の元に帰国したと “香妃ファン”は信じて、疑わない。 シルクロードのロマンです。 乾隆帝は 1796年2月9日に崩御した。 彼は“十全老人”と自称する武将であり、“文字の獄”と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、 禁書も厳しく実施した独裁者であったが、欧州列強を見据えた清帝国の確立者でもあった。 順治帝・雍正帝・乾隆帝と清帝国の全盛期は幕を閉じ、 愛新覚羅・溥儀(アイシンカクラ・フギ)がラスト・エンペラーとして最後の幕を切り落とした。 清朝皇帝の終焉は 1912年2月12日の事です。 尚、乾隆帝の陵墓は清東陵内の裕陵。 だが、中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き“東陵事件”、 乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。 “香妃/容妃”(イバルハシ)も この陵墓近くに眠っていたと言う。 この事件は溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近への布石にもなったと言われる。 ソンシェン・ガンボ(581年頃 - 649年)は、古代チベットの王。 伝説上では33代目とされるが、事実上の吐蕃の建国者です。 ラサを都として、領域を拡大。 チベット文字を制定し、インドや中国の文化を積極的に取り入れた。 十六清浄人法という道徳律や大小の宝石で十二位階に分けた位階を制定したりと、聖徳太子にも似たところがあります。 また、ネパールから王女ブリクティー・デーヴィー(タクリ王国の王女、赤尊公主)を妃に迎え、更に唐の太宗に頼んで、皇女の文成公主を息子・グンソン・グンシェン王(在位641-643)の妃に迎えている。 グンソン・グンシェン王が落馬事故死した後、63歳で重祚し、息子の未亡人・文成公主を自分の妃にした。 また、王はチベット人の妃も3人娶っていた。 ソンシェン・ガンボ王は吐蕃を発展させたが、晩年は功臣の処刑が続き、蘇族平定に大功のあった将軍や、蔵蕃を帰順へ導いた謀臣を粛清している。 ・・・・・・・ さて 明日は 唐帝国が覇権を確立した太宗の時代にラサに下った皇女“文成公主”の話をしましょう。 彼女はラサに赴く折、頭髪に門外不出の“繭”を隠し持ち、ヒマラヤ近隣に絹を伝えたと言われています。 ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/21
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およそ120カ国の首脳らが出席する国連の会議「リオ+20」 ブラジルのリオデジャネイロで始まり、 国連のブン・ゴムン事務総長は『リオ+20は、 経済成長と環境対策のバランスをとったうえで、 人類の繁栄に向けた新しい方向性を打ち出すための、 またとない機会だ』 と述べ、 環境対策と経済発展の両立に向けて国際社会が一致して取り組むよう訴えた 今回の会合では、 環境対策と経済発展の両立の鍵となる、 いわゆる「グリーン経済」をどう位置づけるかが焦点で討議され、 先進国は、 すべての国が「グリーン経済」に移行すべきだと言う だが 中国をはじめ 経済発展に邁進する諸国は反対の決議 日本とブータン王国は「幸福の尺度」を提議した しかし 昨日の最終日 採択された合意文書では グリーン経済の重要性という考え方は 打ち出されたが 具体的な取り組みは玉虫色の政治的表現の文書になった 私は昨年に記載したBlogを再確認して見た 2011,11.17日のBlogである 幸福の尺度 ブータン国王閣下ご夫妻の来訪で 幸福の尺度が話題に成っていること と思う 先代国王が提唱した 精神的な豊かさを重んじる国民総幸福量(GNH) とは を考えてみた GNHは 1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、 8.生活水準、9.自分の時間の使い方 の 9つの構成要素を 先代国王は提唱 政策の要として布告・実施し 来日中の国王閣下はこの哲理を継承している 国内総生産(GDP)で計測できない項目の代表例として 心理的幸福が挙げられるのが特異で 2年ごとに聞き取り調査を実施し、8000人に 1人あたり5時間の面談を行い、データを集める これを数値化して、歴年変化や地域ごとの特徴、年齢層の違いを把握して行政に生かす この面接調査では正・負の感情(正;1.寛容、2.満足、3.慈愛 負; 1.怒り、2.不満、3.嫉妬) を心に抱いた頻度を地域別に聞き 国民の感情を示す地図を作るという 凄い事業だ! どの地域のどんな立場の人が怒っているか? 慈愛に満ちているのか? 一目でわかるという 怒り・慈愛の感情は 近隣者とのコミニケーションに端を発するであろうから 物質・虚栄を離れ 人との触れ合いが“幸福の尺度”である と 謳いあげている “白樺派”が思考した理想郷であろう ブログ・囁きツィート・Mixe・Facebookに心の交流を求めているが “人との触れ合い”を 器械に頼る私達は 幸福なのであろうか /////// ・・・・・・・ と 書き綴っている 先週記載の 国連報告「地球は既に限界点」警告が示すよう もはや 一国の利害だけでは立ち行かない ブータンの先代国王の柔和な顔を思い出す ////// Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/21
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江都公主と楚王公主 其(2) 翁帰靡(オゥキビ)・肥王が死ぬと、烏孫の貴人たちは共に先代の遺言に従い、岑陬の子の泥靡を立てて昆弥(コンビ:烏孫の君主号)に即位させ、狂王(キョウオウ)と号した。 狂王は楚王公主・解憂を娶り、その間に鴟靡を生んだ。 ≪楚王公主・解憂は 岑陬・軍須靡と一女少夫を生み、翁帰靡・肥王と三男二女を授かった後 三番目の夫・狂王と一男を産んでいる ≫ この頃、漢の李広利将軍が匈奴に降り、霍光将軍が匈奴を追い詰めていた。 また、漢帝国は楼蘭王を謀殺し ハミ・?善を併呑して、?善に西部地域所管の西域護府を設けていた。 因みに、李陵の匈奴への投稿を弁護した司馬遷が宮刑から回復し、『史記』の執筆を開始したのは この前後です。 漢の宣帝は、本始三年(紀元前71年) 西域護府から衛司馬(外交部;官職名)の魏和意と副侯の任昌に 楚王公主・解憂の要望で侍子を送らせるべく2人を派遣した。 到着した漢の官吏に解憂公主は 狂王に患わしく苦しめられていると告白した。 魏和意と任昌は 公主の憂いを取り除くべく 狂王を暗殺することを共に謀った。 狂王が催した歓迎の宴・宴会の席で 魏和意と任昌は狂王に斬りかかるが、失敗し、狂王は負傷しただけで馬に乗って逃げ去った。 狂王の子の細沈?(胡婦との正嗣)は魏和意と任昌及び公主を赤穀城にて包囲した。 数ヵ月後、西域都護の鄭吉が諸国の兵を発してこれを救った。 漢は中郎将の張遵を遣わして狂王を治療させ、金20斤を賜っている。 魏和意と任昌は長安に連行され斬首された。 車騎将軍・長史の張翁(張騫の子)は公主らに狂王暗殺の尋問をした際、公主・解憂の頭をつかんで罵った。 解憂公主はこのことを 宣帝皇帝に上書したので、張翁は逆に死刑となった。 肥王・翁帰靡(オゥキビ)と胡婦との子である烏就屠は、狂王が負傷した時に、諸翕侯(諸豪族)とともに アルタイ山脈に避難していた。 烏就屠はアルタイの北山中にて、母家である匈奴に帰順し、狂王を襲撃して殺し、自ら立って昆弥(君主)となった。 紀元前68年の頃です。 この狂王殺害事件を知った漢王府は 破羌将軍の辛武賢を派遣してこれを討たせたが、西域都護の鄭吉が馮夫人(肥王・翁帰靡の皇后、烏就屠の生母)に烏就屠を説得させたので、烏就屠は帰順した。 以降 烏就屠の血脈が小昆弥(コンビ)政権として烏孫領内東部を支配していく。 漢は新たに元貴靡(肥王・翁帰靡の正嗣長子)を大昆弥、烏就屠を小昆弥とし、烏孫の君主を二つに分け、さらにその人民も二つに分け、長羅侯(官職名)の常恵に赤穀城にて監督させた。 イシク湖湖畔に閉塞した大昆弥政権下で過ごす楚王公主・解憂は、甘露3年(紀元前51年) 靡や鴟靡がみな病死したので、遺骸を漢の地に埋めたいと 宣帝に上書している。 漢の皇帝・宣帝は公主・解憂の上告を受け入れ 解憂の孫三人とともに漢への帰国を許し、解憂は田宅と奴婢を賜っている。 楚王公主・解憂 公主はその2年後に亡くなった。 その後 漢帝国は内紛の時代を向かえ、王莽が哀帝を殺害し帝位を奪うのは50年後の事です。 王莽は西域経営には勢力を注がず 東西に分裂した匈奴は再び その勢力を盛り返していく。 烏孫はその狭間で 強大な帝国となった西匈奴に併呑され 何時しか 都・赤穀城はイシク湖の湖底に沈んでしまった。 日本人には馴染みの王昭君は、東匈奴の呼韓邪単于に嫁ぎ 夫・呼韓邪(オカンヤ)から生涯に渡る献身的な愛で身を包まれた皇后(カトゥン)です。 楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人に数えられ、“昭君”と呼ばれている。 彼女が嫁いだのは楚王公主・解憂が他界の15年後の事です。 勿論、王昭君も呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若?単于の妻になっている。 そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったと記述があり、この話が日本に伝わり 『今昔物語集』に、戯曲や小説の世界で創作意欲を掻き立てている。 ・・・・・・・ この 北方遊牧民が 歴史上だ活躍した時代背景としての蛇足を 下記に・・・ 李陵の禍 前漢にとって異民族との争いは重要な問題だった。 司馬遷が『史記』に取り組み始めた太初元年は西域征伐に取り掛かり始めた年でもあり、将軍李広利による遠征によって太初四年(前101年)に区切りがつくと、今度は匈奴に眼が向けられた。 匈奴の且?侯単于は当初こそ従順な態度を見せた。 しかし翌年、漢の使者を迎えた匈奴の態度は高慢で、しかも悪いことに単于の母への脅迫的工作が露見してしまい、漢と匈奴の関係は悪化した。 天漢二年(前99年)に武帝は派兵を決断したが、ここで李陵が単独行動を願い出た。 武帝は 李陵に出陣を許し 騎都尉に任命して 漠北で苦戦を続けている貮師将軍・李広利の軍を助けるために 五千の歩兵を率いて出陣させた。 李陵は敵地深くに入って情報収集などに成果を挙げた。 しかし、李広利将軍を合流する前に 単于が率いる匈奴の本隊三万を超える匈奴の敵軍と遭遇し包囲されてしまった。 李陵は激しい戦いを繰りながら 進路・退路を求め続けた。 李陵の祖父・李広は文帝・景帝・武帝に仕えた悲運の将軍として知られた人物であった。 父の李当戸は武帝の寵臣であった韓嫣を殴打した剛直の士であった。 李陵は父の李当戸が若くして逝去した後に生まれた子供である。 李陵は激しい戦い、退却を続け 戦闘に入り、獅子奮迅の働きを見せ、李陵軍は 六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取った。 李陵は 時を見て、そのことを部下の陳歩楽を遣わして、武帝に報告させた。 また、貮師将軍・李広利への連絡を図った。 戦闘は 未だに継続していた。 さすがに李陵軍も矢尽き刀折れ、やむなく降伏しなければならなくなった。 匈奴に打撃を与えた彼であったが、矢も尽き裏切りもあって、ついに 李陵は投降の道を選んだ。 李陵が匈奴に降伏したとの報告を聞いた武帝は激怒し、郎中に任命されていた陳歩楽を問詰し、陳歩楽は自決した。 武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れた限り自刃すべきところを、李陵が投降したという報に触れ、怒った武帝は臣下に処罰を下問した。 群臣も武帝に迎合して李陵は罰せられて当然だと言い立てた。 皆が李陵を非難する中、司馬遷はただ一人彼を弁護した。 司馬遷は強弁した。 李陵の勇戦と無実を訴えた。 が、 武帝は司馬遷を李広利を誹るものとして宮刑に処すことを厳命した。 司馬遷は、李陵の人格や献身さを挙げて国士だと誉め、一度の敗北をあげつらう事を非難した。 5000に満たない兵力だけで匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばない。 自害の選択をしなかった事は、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると 友・李陵を弁護した。 しかしこれは逆効果だった。 意に反する李陵の擁護が投げかけられた上、司馬遷が言う「過去の名将」のくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく、 李陵を救援しなかった寵妃・李夫人の兄である李広利将軍を非難しているものと受け止めた。 武帝の命によって、即座に司馬遷は、獄吏に連行された。 高官であったが、司馬遷には賄賂を贈れる程の財力は無く、友人の中にも手を差し伸べる者はいなかった。 だが、天漢三年(前98年)になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。 ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報がもたらされ、事態は一変した。 武帝は激怒し、李陵の一族は全て処刑された。 そしてこの累は司馬遷にも及び、彼には宮刑(腐刑)が 即刻 処された。 この処罰は、司馬遷にとって大変な屈辱だった。 彼は、人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも腐刑は最低なものだと言った。 そして、宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと述べた。 ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。 彼には、父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ。 ・・・・・・・ 司馬遷は 記述している・・・・・・・ 「自分は死を恐れない。 あの事件の時、死を選ぶのは実に簡単だったが、もし死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。 死ぬことが難しいのではない、死に対処することが難しかったのだ。 死んでしまえば史記を完成させることが出来ず、仕事が途中のままで終わるのを自分はもっとも恥とした」 更に、「今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生き永らえている身であり、この本を完成させることが出来たなら、自分は八つ裂きにされようともかまわない。」 匈奴に投降した李陵は、 李陵の才能と人柄を気に入った且?侯単于は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。 だが ある夜、李陵は 武帝が“匈奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えている”と聞かされて激怒し、 李陵の妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、そして従弟の李禹一家らをまとめて皆殺しにした事実を 且?侯単于から聞かされた。 しかし 実際には「李将軍」とは、李陵より先に匈奴に帰順した漢人の李緒という将軍のことであると且?侯単于は言った。 一族の非業の死に嘆き悲しんだ李陵は憤慨し、その李緒を殺害した。 李陵は後に且?侯単于の娘を娶って、その間に子を儲けた。 彼はそのまま匈奴の右校王となり、紀元前74年に没した。 匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は、呼韓邪単于の時代に別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓邪単于に斬られている。 李陵の生前の事、かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。 蘇武は呼韓邪単于の逆鱗に触れ、蒙古高原の北方に幽閉され 帰国を許されなかった。 李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けているのです。 ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/20
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今度は銀行をでっち上げた偽造大国 「アメリカの銀行を買収した」という大ボラが示す中国・偽物市場の限度のなさ 2012年06月19日(火)17時45分 NewsWeek配信 ・・・・・ 私には ここまでくれば 驚きを超え、可笑しさがこみあがる・・・・・・ 今年1月、デラウェア州を拠点とするアメリカの銀行をチャイナマネーが買収した、というショッキングなニュースが駆け巡った。 浙江省・温州出身の林春平(リン・チュピン、41)率いる中国春平集団が、破たんした米アトランティック銀行を6000万ドルで買収し、USA-New-HSB・Federation・Consociamと改名したというのだ。 チャイニーズ・ドリームを象徴するような買収話に中国メヂアは熱狂し、林のキャリアを「伝説的」と絶賛。林は中国政界の中枢う機関である中国人民政治協商会議(CPPCC)の委員にも任命された。 ところが、この話にはとんだオチがあった。 アトランティック銀行は架空の存在で、買収話はすべて大ボラだったのだ。 嘘が発覚したのは、事実確認をしようとした中国ネヂアがアトランティック銀行が存在しないことと、林が新銀行を登記していないことを指摘したため、 話に信憑性をもたせるため、林はアトランティック銀行が創業85年の老舗で、金融に強いイネージがあるユダヤ人がオーナーだったという脚色までしていた。 3月に会見を開いた林は、話を誇張したことについては謝罪したが、悪意はなかったと語った。 林は先週、買収とは無関係の脱税容疑で、2週間の逃亡の末に広東省で逮捕された。 他に6人が共犯の容疑で身柄を拘束されている。 「無名のビジネスマンが外国の、それもアメリカの銀行を買ったと聞いて、人々は衝撃を受けた。 彼は銀行家ですらなかったのだから」と、 財政法に詳しい中欧国際工商学院(CEIBS)の研究員、朱小川(チュー・シアオチョアン)はAP通信に語った。 「主流メディアが報じたのだから事実に違いないと誰もが思った。人々は温州商人のリッチさに驚愕したものだ」 温州の経済界も、林のサクセスストーリーに喝采した。 当時、中央政府の金融引き締め政策によって大物起業家の破たんが相次いでいた地元の沈滞ムードを吹き飛ばす明るい話題だったからだ。 「林の行為はこの町の信用を傷つけた」と、 温州中小企業委員会のトップは語っている。 推薦状も成績証明書も偽物が当たり前 林の大ボラは、中国にはびこる偽物主義が新たな次元に到達したことの表れともいえる。 iPhoneそっくりのスマートフォンに海賊版DVD、ルイ・ヴィトンのコピー商品まで中国の「偽物市場」は大盛況だが、林は銀行をまるごとでっち上げてしまったのだから。 もっともこれは氷山の一角かもしれない。 山東省では6月初旬、架空の大学が地元メディアによって告発された。 大学入試の全国統一試験で高得点を取れなかった学生に、実在する山東軽工業学院の名をかたって偽の合格通知を送り、4年分の学費4800ドル相当をだまし取ったのだ。 学生らは大学の施設を借りて行われた授業に出席していたが、卒業間近になって学位を得られないことに気づいたという。 アメリカへの留学希望者向けにコンサルティングを行うジンチ・ドットコムの中国支社ジンチ・チャイナによれば、 アメリカの大学に提出される中国人志願者の推薦状の90%は偽物で、70%の入学志望エッセイは代筆されたもの。 成績証明書の半数も偽造されているという。 ・・・・・・ 詐欺・ペテンの行為は 至るところに存在する 日本国内はもとより ペテン師のペテンとは 中国語・繃子(ペンツ)の方言・俗語と以前に記した 流石に言葉を生んだ 大先輩 諸事万端 言葉に忠実だ NEWSWEEK氏では 太刀打ちできまい ・・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/20
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江都公主と楚王公主 其(1) 秦の末年、匈奴が冒頓単于のもとでモンゴル高原を統一し、さらに前漢の孝文帝の時代に、 その周辺国であった楼蘭,烏孫,およびタリム盆地の26国は匈奴に征服された。 昆莫(コンパク)は、中国前漢時代の烏孫の昆彌(コンピ烏孫の君主号)。 難兜靡(ナントウビ)の子。 名は猟驕靡(リュウキョウビ)という。 匈奴の西境にある小国の王であった難兜靡(ナントウビ)の子として生まれる。 紀元前150年頃、匈奴によって父が殺されると、幼い昆莫(コンマク)は野原に棄てられた。 しかし、昆莫の上空で鳥が肉をくわえて飛びまわり、狼がやってきて乳を飲ませたので、不思議がった匈奴の単于(ゼンウ;匈奴の君主号)は神だと思い、収容して育てることにした。 昆莫が成長すると、兵を統率し、たびたび手柄を立てた。 単于は昆莫の父・難兜靡(ナントウビ)の人民を昆莫に与え、首長として西城を守らせた。 昆莫は周辺の小さな町を襲撃し、弓をひけるものは数万となった。 紀元前161年、匈奴の老上単于が死ぬと、昆莫は烏孫の民を引き連れ、西方の勢力を侵略し、イシク湖周辺(キルギスタン)にいた大月氏を駆逐し、支配地を拡大して 烏孫国を建国した。 烏孫は次第に強大となり、匈奴の勢力範囲に属しながら、匈奴の部族会議に出席しなくなった。 単于が死ぬと、昆莫(コンマク)はその配下を引き連れて 遠くイシク湖湖畔に移動し、中立を保って、匈奴の会議に参加することも入朝することもしなくなった。 匈奴は軍を派遣して 烏孫・昆莫を攻撃したが、勝てず、逆に神と崇め敬遠するようになり、それからは服属させるだけで攻撃はしなくなった。 昆莫には十人余りの子がおり、その中に大禄(ターロゥ)というものがいて、強くて民衆をリードするのがうまかった。 大禄は早くから独立し、配下の人民を従え一万余りの騎兵を持ち、父・昆莫(コンパク)らとは別の土地に住んでいた。 大禄の兄が太子であったが、その太子には岑陬(スイメゥ)という子がいた。 太子は早くに亡くなり、臨終のとき父の昆莫に「正嗣の岑陬を太子にして、他の者がその地位を取ることのないようにしてください」と言い残した。 昆莫は哀れに思ってそのことを承知した。 その結果、岑娶を太子に立てたが、従弟の大禄はこれに怒り、反逆し、岑陬と昆莫を攻撃しようと企んたが、母に諌められ 矛を収めた。 昆莫は老齢なので、常に大禄が岑娶を殺害することを心配していたので、岑陬に一万余りの騎兵を与えて別の場所に駐屯させ、自分は一万余りの騎兵を持って万一に備えた。 こういった経緯で烏孫は昆莫・大禄・岑娶の三つに分かれており、その大部分は昆莫が支配していた。 この頃、漢の張騫(チョウケン)は匈奴(キョウド)と烏孫(ウソン)を切り離し漢に服属させるべく、武帝に上奏した。 武帝は張騫を中郎将に任命し、三百人の部下と一人につき二頭の馬、数万の牛と羊を引き連れ、さらに数千万の黄金と絹織物を携えさせ、節をもった副使多数とともに烏孫へ派遣した。 漢の武帝は、北方域で常に侵略と略奪を繰り返す匈奴対策に烏孫を同盟国に取り込みたかった。 張騫が烏孫に到着すると、昆莫(コンマクは匈奴の単于に対するのと同じ儀礼で漢の使節と面会し、天子の賜り物に拝礼したが、 張騫は「天子よりわざわざ下賜された品々である。王が拝礼もしないのならば、賜り物を返してもらう」と言った。 ≪匈奴風の拝礼ではなく、漢風の拝礼をさせたかったのでしょう≫ 昆莫は立ちあがって賜り物に対して恭しく拝礼した。 張騫は「烏孫が匈奴の渾邪王(コンヤ)の旧領に移住することに同意すればさらに漢の公主を昆莫王の夫人として差し上げる」と言った。 しかし、昆莫自身は老齢で、まず漢がどのくらいの国なのかもわからず、さらにこのころの烏孫国内は三つに分裂している状況下、 烏孫の大臣たちは、匈奴を恐れており移住を望まなかったこともあって、昆莫が独断で決められることではなく、はっきりした返事を出さなかった。 そこで張騫は烏孫の者数十人を連れて帰国し、漢の偉大さを見せつけた。 その後 張騫は一年あまりして亡くなった。 烏孫の使者たちは帰国すると、漢は人口が多く裕福であることを報告し、烏孫の者たちはますます漢を尊敬するようになった。 それからというもの、烏孫をはじめ西域諸国は漢との交際を始めた。 これを聞いた匈奴は烏孫に攻撃しようと決意した。 匈奴の襲来を恐れた昆莫は 漢の公主を娶り、漢と兄弟となることを希望した。 烏孫は千匹の馬を結納として送り、漢は皇族の娘である江都公主を嫁にやった。 昆莫は公主を右夫人とし、匈奴からもきた嫁を左夫人とした。 しかし昆莫は老齢だと言って、公主を孫の岑娶に娶らせた。 その後、昆莫は亡くなった(紀元前120年頃と思われる)。 【 張 騫(生没年、? - 紀元前114年)は中国前漢代の政治家、外交官。 字は子文。 漢中郡の出身。 武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴く。 匈奴に囚われ、波乱万丈の末 パミール高原を超え、大月氏の至るも 目的遂行叶わず帰国。 帰国後 武帝は西域の情報を活用して、宿願の匈奴対策を打ち出し 成功し、張騫を西域経営の最高責任者の地位に任じ 漢帝国に不動の権勢を齎した。 張騫は自らの地理知識を活かして大きく貢献し、衛尉・博望侯とされる。 しかし紀元前121年の遠征の際に期日に遅れた罪で死罪となる所を金銭で贖って庶民に落とされているのですが、 紀元前119年、張騫は 烏孫への使者として赴いている。 張騫の孫・張猛も匈奴の呼韓邪単于と盟を結び、漢皇帝・元帝に信任された 】 江都公主(コウトコウシュ、生没年不詳) 江都公主は江都王劉建(武帝の甥)の娘です。 名は細君とも言い、烏孫公主(ウソンコウシュ)とも呼ばれる。 江都公主の父の劉建は、淫乱で残虐、しかも武帝に対して謀反を起こしたという罪で自害させらている。 その後、元封年間(紀元前110年ー108年)に娘の江都公主は 漢と烏孫との友好の印 同盟の証として、はるか遠くの烏孫の地に嫁ぎ、烏孫王・猟驕靡(リュウキョウビ)の夫人になった。 その後、猟驕靡・昆莫(コンパク)が老いたため、遊牧民族である烏孫の習慣(レビラト婚)に従い、彼の孫の岑陬・軍須靡(スイメゥ・グスウビ)に嫁ぐよう命令された。 この習慣には未亡人を保護する目的があったと思われますが、 夫の孫の妻に、しかも夫が存命の内からその孫の妻になるという事は、彼女ら漢の人間の通念からすれば、受け入れがたい事であった。 この夫の孫に嫁がねばならぬ事を 江都公主は武帝に訴えた。 武帝は当時、烏孫と同盟して匈奴を攻めていたため、烏孫の習慣に従うようにと彼女に伝えている。 江都公主は耐え忍ばなければならなかった。 心と肉体の葛藤に苦しみ、その苦しみを詩歌に託し、読んだ。 大空を舞う鳥になって故里に帰ろうと詠むだ。 高祖劉邦が前漢を建てると、引き続き臧荼が燕王であったが、紀元前202年に反乱を起こしたため殺され、代わって高祖の幼馴染である盧綰が燕王に封ぜられた。 江都公主の生家です。 しかし、高祖がこれら異姓の諸侯王たちを粛清し、自らの親族たちを諸侯王に立てる郡国制を施行したため、盧綰は廃され、高祖の八男である劉建が燕王となった。 これ以降、燕国では劉氏一族による燕王が立てられていた。が、江都公主の父の劉建は淫乱で残虐、しかも武帝に対して謀反を起こしたという罪で自害させられた。 元狩六年(紀元前117年)、8代目燕王となった劉旦は後継問題で父の武帝と揉めたため、所領の良郷・安次・文安の三県を没収され、江都公主の生家は凋落していたのです。 元封年間(紀元前110年ー108年)に江都公主は 漢の公主として、昆莫王の夫人・第二皇后として嫁いできた。 昆莫王・猟驕靡(リュウキョウビ)は公主を右夫人とし、匈奴からもきた嫁を左夫人とした。 しかし昆莫は老齢だと言って、公主を孫の岑娶に娶らせたが、その後、昆莫は亡くなった(紀元前120年頃と思われる)。 昆莫が死ぬと、孫の岑陬が代わって立った。 岑陬(スイメゥ)というのは官号で、名は軍須靡(グスウビ)という。 岑陬は江都公主を娶り、一女少夫を生んだ。 しかし 江都公主は望郷耐えがたく病死してしまった。 江都公主が死ぬと、漢はふたたび楚王劉戊の孫の解憂(ゲユウ)を公主とし、岑陬に娶らせた。 岑陬が臨終の際に、岑陬と胡婦との間に生まれた泥靡は幼いので、王位を伯父の大禄の子の翁帰靡(オゥキビ)に与え、泥靡が成長したら王位を譲るよう遺言した。 岑陬が死に、翁帰靡が即位すると肥王と号し、楚主公主・解憂≪叔母に当たる≫を娶り、三男二女を生んだ。 昭帝の末年(紀元前81年)、匈奴の壺衍?単于は烏孫を攻撃し、車延,悪師の地を取った。 楚主公主・解憂は 漢に上書し、漢に救援を要請したが、漢では昭帝が崩御し 返事ができなかった。 昭帝の跡を継いだ宣帝が即位すると、昆弥(コンビ:烏孫の君主号)の翁帰靡(オゥキビ)・肥王(ヒオウ)は ふたたび 漢の宣帝に上書して救援を要請した。 本始2年(紀元前72年)、漢は要請に応じて、祁連将軍の田広明、度遼将軍の范明友、前将軍の韓増、後将軍・蒲類将軍の趙充国、雲中太守・虎牙将軍の田順の五将軍を派兵した。 校尉の常恵は烏孫西域の兵を指揮し、翁帰靡は自ら翕侯(キュウコウ:諸侯)以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万が 東西から匈奴を攻撃した。 五将軍にはあまり戦功がなかったが、常恵が指揮する烏孫軍には戦功があった。 しかも、匈奴の被害は甚大で、匈奴は 以前にまして 烏孫を深く怨むこととなった。 同年(紀元前72年)の冬、壺衍?単于は烏孫を報復攻撃した。 がしかし、その侵攻の帰路途上 大雪にあって多くの人民と畜産が凍死させている。 豪雪で帰還がままならぬ匈奴軍団は さらに、これに乗じる北の丁令、東の烏桓、西の烏孫に攻撃された。 壺衍?単于は、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。 この侵攻失敗の結果 匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大虚弱となった。 ______ 続く _____ Cooperate with me ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/19
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スウェーデンのストックホルムで開かれた100年前の五輪に日本は初参加した マラソンの金栗四三は疲労困憊して途中で倒れ 民家で介抱されるうちに行方不明扱いになった 時は流れて、当地の五輪委は55年目の祝賀行事に金栗を招いた 金栗四三さんがスタジアムでテープを切ると、「日本の金栗、ただいまゴールイン、タイムは54年と8カ月6日5時間32分20秒3。 これをもって大会の全日程を終了します」とアナウンスが流れたそうだ こんな話は理屈なしに頬がゆるむ さて、1991年のノーベル平和賞授賞式も、一昨日ようやく全式典を終えたことになろうか。 自宅軟禁で出席できなかったミンマーのアウンサンスーチー氏(66才)が、21年の後に ノルウェーで受賞演説に立った 2年前には想像もできなかった軍政国家の変容である。 スピーチで、平和をめざす人々を「救いの星に導かれる砂漠の旅人」と語った。 砂漠に例えたのは、一歩一歩を黙々と歩むイメージだろうか 話し終えると拍手が鳴りやまなかったそうだ ノーベル平和賞は栄誉ながら悲痛を伴う。 戦乱が激しく、虐げられた人が多いほど注目され、輝きを増す 氏の背後には恐怖で支配される民衆がいた。 本人も万感胸に迫る演説だったろう 金栗に話を戻せば、粋なはからいに「長い道中の間に孫が10人できました」と応えたそうだ 片やスーチー氏は英国人の夫を看取ることもできず喪った。 夫君が眠り、平和の祭典五輪の近づく英国を、このあと訪ねるという ・・・・・・ いつもながら 天声人語氏は博覧であり、名調子には驚かされるが・・・・ 「シリアで暴力激化、町に戦車80台が入り砲撃か」と激化一方のシリア情勢 他方には ノールウェーを訪問しているミャンマーの民主化運動指導者・アウン・サン・スーチー氏が18日、オスロ郊外で開かれた平和集会に出席 集会にはノルウェーのストーレ外相とU2のボノ氏も加わった と 朝日新聞は写真も記載 ・・・・・・・ U2は好きなグループだ しかし ボノ氏の髭面から 確かに 長い時間が過ぎたと 確認した記事であったCooperate with me ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/19
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「人民日報網」2012年6月18日記載の論文二題を転記しよう 共に 石原慎太郎・東京都知事をターゲットにする論調だ 言論は自由と言えども その品格が疑われる ◎中日関係発展の急務:「正気」を助け「邪気」を抑える ◎日本は石原をしっかりとしつける必要がある の 主著だが・・・・・・・・ 日本は石原をしっかりとしつける必要がある (文:唐淳風・商務部研究院研究員。「環球時報」掲載) 中国では昔から「隣近所と仲良くしたければ、ニワトリやガチョウはあまり飼うな」と言う。 ニワトリやガチョウは勝手に隣家に入って餌を食べたり、人をつついたりして、いざこざや衝突の種になるからだ。 犬を飼う場合はなおさらのこと、外に出て人を咬むことのないよう、しっかりとつながなければならない。 狂犬を放って人を咬ませようものなら、隣人になる気など全くなく、皆を敵に回すつもりなのだろう。 日本人はみな石原慎太郎の個性の狂気じみた、極端な部分を知っている。 石原はこれまでいざこざを引き起こし続けてきた。 まるで誰かを咬まなければ忘れられ、死んだと思われるかのように、自分がまだ息をしていることを証明するために、度々跳び出てきては無闇に咬みついてみせる。 石原は30代からヒステリックに中国を攻撃する道を歩み始め、80歳になる今年まで飽きたらずにわめき続けてきた。 石原は毎年靖国神社に参拝し、第2の日本の「アジア進出」を夢見、中国が数十の小国に分裂するよう呪詛しているうえ、中国から「釣魚島(尖閣諸島)を守る戦い」を繰り返し鼓吹している。 石原は中国だけでなく、米国にも咬みついている。 自己宣伝のため、影響力の大きい相手であればすぐ咬みつくのだ。 石原の背後に釣魚島「購入」の茶番を演じるよう指図している人物がいるのかどうか今は不明だ。 だが石原が4月16日に釣魚島「購入」構想に初めて言及すると、同18日午前にはもう野田佳彦首相が支持を表明した。 試しに聞くが、民主党当局は一体何をしたいのだ? 1945年に調印した「無条件降伏文書」および文書中で承認した「カイロ宣言」「ポツダム宣言」などの国際文書について学び直すことを日本の政治家達に提案する。 まさか無条件降伏を無効とみなすことにしたわけではあるまい。まさかあの軍国主義の時代にまた戻りたいわけではあるまい。 もし中国が当時の戦争賠償を改めて請求すれば、日本は優に数十年間苦しむことになる。 1945年の民国政府の概算統計によると、日本の中国侵略戦争は少なくとも1兆8400億ドルの損害を中国にもたらした。 これは508億オンスの金に相当する。 67年間の利息を加えれば約137兆4300億ドルになると筆者は推定する。 これには日本が直接奪い去った金、銀、賠償金は含まれていない。 日本が平和友好を重んじている間は、賠償は請求せずともいい。 だが中国の金で中国の領土を「購入」し、武器・装備を開発して戦争を再び発動する準備をしているのに、賠償を請求しないわけがあるまい。 島を購入する金はあるのに、なぜ賠償する金はないのだ? 計算のできる日本国民は考えてみるべきだ。 石原の狂犬が中国に咬みつく代償に137兆ドルを支払う価値があるのか? 中日間に再び戦争を起こすというのか? 石原をしっかりとしつけるよう日本政府と日本人民に勧める。 石原をしっかりと監視し、好き勝手に人を咬むのを放置しないこと。 ましてや故意にけしかけて人を咬ませてはならない。 現在の中国人はみな、石原が正真正銘の狂った輩であることを知っている。 だが日本側が狂った輩が無闇に咬み続けるのを傍観するだけで、力強い制止の声に耳を傾けないのなら、中日間の感情の冷え込みは避けられない。 そしてその結果損害を被るのは、民主党政権と日本の民衆全体なのだ。 /////// 日本が無償援助で贈与した総金額をご存知無いのであろう、 また 技術協力の名目で支援した金額も 視野の外に置いている 他方、日本の知性 数学者の岡潔博士(70年代に他界)が石原慎太郎氏(私は彼の 小説は読んだことがない)を50年も前に 日本を築いた・築く人物エッセイで評価している 論ずるならば 激情に走らず 歴史から真実を学ぶべきであろう 唐淳風さん ////// ◎中日関係発展の急務:「正気」を助け「邪気」を抑えるは明日にでも・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/18
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記載日付が前後しているかも知れぬが・・・・・・ ◎中日関係発展の急務:「正気」を助け「邪気」を抑える ◎日本は石原をしっかりとしつける必要がある(記載済み) 「人民日報」6月18日の記事より 中日関係発展の急務:「正気」を助け「邪気」を抑える 今年は中日国交正常化40周年に当たるが、上半期に中日関係が改善されることはなく、むしろ異常な事態に陥った。 その根本的原因の一つは、日本右翼勢力による「邪気」という、中日関係にとっての害毒だ。 野田内閣は国内のさまざまな政治難題に直面し、中日関係に向け良好な国内環境を整えるどころか、右翼勢力の言いなりになり、受動的な立場に立たされている。 日本の右翼勢力は、中日間の釣魚島(日本名・尖閣諸島)の領有権を巡る争いを突破口とし、中日関係を恣意的に損ねている。 石原慎太郎東京都知事による「買い取り騒動」が、ますますエスカレートしている。 日本右翼団体の協力を得た6名の国会議員が釣魚島海域に向かい、「魚釣り大会」を催した。 これは中国に対する挑発行為に他ならない。しかしこの手の行動が、釣魚島および付属島嶼が中国に属するという事実を覆すことはない。 その一方で日本の右翼勢力は、日本国内の反対意見を押さえつけ、「邪」によって「正」を圧迫している。 丹羽宇一郎大使は、釣魚島の買い取りに対して懸念を示すと、国内からの「警告」を受けた。 日本の右翼勢力と一部の野党はこれを機に、政権与党人事を批判し、大使の更迭を要求した。 日本政治の右翼化、一部の政治家による誤った見解は、すでに日本の対中国外交を乱しているようだ。 日本が現在直面しているのは、中日関係の大局が釣魚島問題による影響を被り続けることを黙認するかという問題であり、右翼の力を借り自らの目的を達成することは許されない。 日本社会がこの点を理解できれば、同問題を利用し日中関係を損ねる右翼の言行に対してこそ、「警告」を与える必要があることを意識するだろう。 日本の利益を真の意味で損ねているのは、右翼による「邪気」であるのだから。 日本の政治家は、前駐中国大使の宮本雄二氏が昨年1月に出版した、『これから、中国とどう付き合うか』を一読するべきだ。 本書の第2章「日中が抱える3つの問題」の1つは「領土問題」で、中日両国に対して対話による協議を求めている。 著者は、言論の自由と民主を掲げる日本が、反動的な右翼の「邪気」により、中国との対話を妨害されることを懸念している。 今年で政権3年目となる民主党は、有権者からの信頼、中国との交流により築いた友好を重視するべきだ。 民主党は、大平元首相の外交姿勢を参考にできる。大平元首相は右翼勢力を恐れず、「愚直」を貫き通し、日本のエリート人材に対して献策を行った。 大平元首相は低コストで日本の安全と繁栄を獲得し、日本の世界的な評価を高めた。また中国からの尊重を勝ち取り、中日両国の民間交流を促した。 その根本にあったのは、「正気」(正しい気風、「邪気」の反義語)である。 中日関係を発展させるための当面の急務は、「正気」を助け、「邪気」を抑えることである。 (清華大学教授、中日友好21世紀委員会委員:劉江永)/////////////////// さすがに 清華大学の教授・劉江永さんである 格調??がある しかし 清華大学の事務総局長(胡錦濤主席の長男)が秋に退任すれば この種の論調を再び 発表できるであろうか 後継者はどのような人物が 就任するであうか・・・・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/17
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国連報告「地球は既に限界点」UN warns environment is at tipping point のダイジェストをNewsWeekでよんだ 政府は原発再稼動に踏み切った 大阪の革新を叫ぶ市長は夏場だけならOKと 愚弄した この一年間の議論は何だったのか 国連報告は「もう後戻りできない地球環境になった」と警告している 気候変動と環境破壊は予想以上に加速しており、もう後戻りできないかもしれない 地球の気候変動が臨界点に近づいていると、最新の報告書である 約600人の専門家が携わり3年をかけてまとめられ報告書は525pペ-ジに及ぶ。 専門家らは地球の未来について極めて暗い見通しを示した。 歴史的に見れば、氷河期など地球に突然大きな気候変動が訪れたことはある。 だが 北極などの氷床の融解、アフリカの専砂漠化、熱帯雨林の森林破壊が、私たちが想像しているよりはるかに急速に進行していると指摘した。 専門家らは今回の気候変動は自然要因のものではなく、人為的な要因によるとみている。 人間活動に伴う温暖化ガスの排出などが変動を加速し、影響は地球の生態系の破壊にまで及んでいると言明、ネイチャー誌に掲載された報告書の要約にはこう書かれている。 「人為的要因により、気候変動が限界点に迫っている、または既に限界点を越えてしまった地域がいくつもある。 一度限界点を越えると、もう元には戻せない変化が起リ始め、地球上の生命体も影響を受けるだろう。 人間の生活や健康にも大きな悪影響を及ぼす可能性がある」 「今世紀の終わりまでに、この地球が現在とはまったく異なる環境になっている可能性は極めて高い」と、 “人間が生き方を変えるしかない”と結論ずけている。 「窮地に追い詰められた」人間は、環境の変動に適応するために急激な生活の変化を余儀なくされるだろうと、 ただし生活の変化には「相当の困難を伴うため、政治紛争や経済危機、戦争や飢餓が起きやすくなる」 科学者たちは希望を失ったわけではない。国連環境計画(UNEP)事務局長は記者会見で、今回の報告書を「告発」として受け止めるべきだと語った。 「この報告書で指摘されているように私たちは無責任な時代を生きている。 1992年にも、将来起こり得る変動が指摘された。 それから20年後に発表された今回の報告書では、予測された数々の現象が現実になったことが証明された」 人類はもう「生き方を変える」より他に選択肢がない地点に来たのだと、国連事務局長・スタイナーは続けた。 「針路を変えることは可能だ。違う方向に向かうことはできるはずだ」と 2012年06月08日(金)NEWS_WEEK ・・・・・・孫達は どのような環境で 生きていくのだあろうか・・・・・・ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/16
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スピタメネス (2) 報告を受けたアレクサンドロス大王は、部下に対し敗北の知らせを外部に漏らさないように指示を出すと、自らサマルカンド奪回へと向かった。 スピタメネスはアレクサンドロスとの直接衝突を避け、その到着前にサマルカンドを引き払って行方をくらました。 スピタメネスが身を隠していた頃、反ギリシャ・反マケドニアの気運は ソグディリア地方だけでなく バクトリアでも高まり始めた。 アレクサンドロスは、バクドリアやソグディリア また タシケントに六つの砦を築き将兵を配しスピタメネス追跡の激を飛ばしていた。 紀元前329年の秋、3000人の歩兵を残したアレクサンドロスは、越冬の為 南のバルフに移動した。 自ら 西方からの新しいギリシャ人を中心にした補充兵員を受け取るためでもあった。 翌年の紀元前328年春に、バクトリアにシ守備隊の将兵を補充し 自らはタシケントに入城 兵力をスピタメネス追跡と討伐に傾注した。 ソグディラアのマケドニア軍の将兵も日増しにスピタメネス追跡の勢いを増していった。 他方 天山山麓に潜んでいたスピタメネスは、アウキタイ人やマッサゲタイ人などと同盟を結び、ソグディリア各地の都市住民を組織して軍事力を保持し、アレクサンドロスが占領地に残したマケドニアの守備隊などを襲撃して回った。 ギリシャ・マケドニアの追討軍が現れると、或いは現れる前にただちに撤退するという ゲリラ戦法で1年以上にわたって アレクサンドロスの軍団を撹乱・翻弄した。 アレクサンドロスはこれに対し、新たにギリシャ人傭兵部隊を増援に迎えて兵力を確保するとともに キュロポリスなど 激しく抵抗した都市に対しては、 占領後完全に破壊し住民を強制移住させるという 強権な見せつく方法で鎮圧戦を行った。 また、スキタイ人に対しても 目先の利益で吊る切り崩しの工作が行われた。 更に アレクサンドロス指揮下の将軍達も スピタメネスの反乱鎮定に大規模に動員されるようになり、これによってスピタメネスの活動範囲は次第に縮小していった。 しかし、紀元前328年の夏、スピタメネスはマッサゲタイの騎兵・600騎の支援を受けて、秘かに 重要な基点城砦・バクトラを攻撃たした。 この攻撃は 当初の目的こそ失したが寛大な損害を与え、マケドニアの救援隊が来る前に 引き上げている。 アレクサンドロスは、この時の夏をゼラフシャン川流域で過ごしており バクトラへは晩夏に入城する予定であった。 彼はこの冬をソグディリアのナウタカで過ごす事に変更した。 バクトラを攻撃に成功したスピタメネスは 引き続き、クレイトス将軍(前記、参照)が指揮するギリシャ騎兵部隊を襲撃した。 智謀に長け アレクサンドロスの右腕・クレイトスとの戦いが始まった。 タシケント近郊・チルチク川が緩やかに流れる草原域で騎馬兵同士が激突した。 互いに二千相当。 スピタメネスは右腕を負傷、800名以上の部下が戦死した。 負傷したスピタメネスは陣を引いて脱したが、致命的な敗北を喫た。 スピタメネスはアウキタイ人やマッサゲタイ人の信望を失い、ソグド人のみが支える小さな勢力となり、その反ギリシャ・反マケドニアの指導者としての力は大きく減退した。 【 スキタイ ; 紀元前8世紀~紀元前2世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。 その地域の住民をスキタイ人といい、ギリシャの歴史家・ヘロドロスが「スキティア」と呼んだ。 ヘロドロスはスキタイ人を、王族スキタイ・遊牧スキタイ・農耕スキタイ・農業スキタイに分類している。 王族スキタイが支配者層を形成し統治したと記し、王族スキタイが馬のハミを創作 轡・鞍改良して騎馬戦術練り上げたという。 遊牧スキタイは戦争・略奪行動じの歩兵兵士集団、農耕スキタイは半農半遊牧・猟遊、農業スキタイは黒海沿岸から東部のドナウ河流域に定住していた。 王族スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続け、東方にその技術が伝承され遊牧騎馬民族の諸帝国。国家の創建の原動力になった。 マッゲタイ人 ; 紀元前6世紀から紀元前1世紀までその存在が確認される中央アジアの遊牧民および遊牧国家。 カスピ海の東側に住んでいたと思われる。 紀元前520年当時 マッゲタイでは、夫に先立たれた女王・トミュリスが執権統治していた。 アケメネス朝のキュロス2世(在位:紀元前550年-紀元前529年)はバビロン人を征服すると、今度はマッゲタイ人をも配下に収めたくなった。 キュロス2世は使者を通じ、自分の妻に迎えたいとこの女王に求婚した。 しかし、トミュリス女王は、キュロスが求めているのは自分ではなく、マッゲタイの王位であることを見抜き、彼の来訪を拒絶した。 キュロス2世は計略が成功しないのをみてとると、兵を進め、公然とマッゲタイ攻撃お開始した。 トミュリス女王は先頭に立ち遊撃した。 紀元前五百年代の激戦であると歴史家は規す。 トミュリス女王が 自らの手を血潮に染めて勝利している。 マッゲタイ人の風習として マッゲタイにおいて男は一人ずつ妻を娶るが、男たちは妻を共同に使用する。 マッゲタイの男がある女の住む馬車の前に自分の矢箙を懸け、なに憚ることなくその女と交わる。 とどこかで読んだ覚えがあります。 】 スピタメネスはアレクサンドロスの追撃から逃亡を繰り返した。 マッゲタイ人と共に彼らの故里にも潜伏した。 スピタメネスが愛する妻や子供達も 常に その逃避行には同行していた。 彼の妻の美貌は際立っていた。 苦難に満ちた逃亡生活に 妻・ザーラは ついに疲れ果て アレクサンドロスにいくら抵抗しても所詮無駄だから、家族の為にむ、降伏してくれるよう懇願した。 二人の間には三人の成人した息子たちがおり、ザーラは この息子達のも、父親に降伏することを頼んで欲しいと幾重にもいい 家族全員がアレクサンドロスに降伏しようと言い出した。 しかし、スピタメネスはザーラの真意を誤解した。 彼はザーラが自分の美貌に自身を持ち、彼を裏切るつもりだと思い込み、口論の末に剣を抜いて彼女を殺そうとした。 幸いにも居合わせたザーラの兄弟たちに引き止められ、その場は納まったが 夫婦の心はともに深く傷つき 離れていった。 この事件以降、スピタメネスは妻・ザーラに当てつけるように 毎晩、娼婦を呼び入れ寝た。 ザーラの心の傷は更に深まった。 程なくして、スピタメネスは どんなに深くザーラを愛しているかを悟った。 妻に向かって、アレクサンドロスに降伏することなど考えずに どうか今までと同じように 一緒に居てくれるように頼んだ。 ザーラは夫の言葉を聞きながら、いかにも納得した素振りを示したが、心中は夫の行為を憎んでいた。 スピタメネスは愛する妻と仲直りができたことを喜び、昼間から酒宴を始めた。 スピタメネスがすっかり酔い潰れ、寝込んだのを見届けたザーラは スピタメネスが脇に置く長剣を引き抜いて心臓に突き立てた。 刺し殺し、その首をはねた。 紀元前328年の初春のことです。 ザーラは腹心の奴隷に夫の首を持たせ、アレクサンドロスの陣営に赴き 首実検をしてくれと申し込んだ。 血で汚れた衣服に奴隷を従える美貌の婦人に驚いた将官が 直ちにアレクサンドロスに取り次いだ。 同意したアレクサンドロスは、庭にて接見し 美貌の婦人が何者かに暴行されたのかと 話を促した。 ザーラは外で待つ奴隷を呼び 包みを開かせ 無言のまま アレクサンドロスの顔を見ていた。 その首は見覚えのあるスピタメネスのものとも思えぬほど変わり果てていた。 アレクサンドロスは その経緯を聞いた。 彼女が宿敵・スピタメネスの妻であること。 スピタメネスに嫉妬したこと。 夫の真意が解らずに 酩酊させた上での殺害したザーラ。 アレクサンドロスは不愉快さと怒りをザーラに感じ、『その首は 勇者として 丁寧に弔う。 醜き女よ、即刻 立ち去れ』と言った。 【 蛇足ながら、 ある作家は“ソグディアナ”(歴史小説)で 美貌のザーラが幾度かの結婚を繰り返すうちに、遥か彼方のシシリー島まで流れ着き、 「なかば潰れたミミズのような」惨めな姿で物乞いをしながら98歳まで生き延びた。その間に 若くして他界したアレクサンドロスをはじめ、英雄・武将たちがこの世から消えていくさまを描いています。 この作者は 最後に「死を望む者は愚かだ、栄光の中で死ぬよりも、悲運の中で生きながらえるほうがましだ」とシシリーの海岸に佇むザーラに独り言を言わせ、 打ち寄せる波の音に 幾十年も前に ザーラ自身が手を下した夫の『ザーラ・・・ザーラ・・・・』という断末魔の叫びを聞き流れ、なお 生きようとするザーラを描いています。 】 アレクサンドロス帝国 紀元前336年、ペルシャ遠征を計画していたピリッポス2世が暗殺されると、その息子・アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)があとを継いだ。 アレクサンドロス大王は紀元前334年 アケメネス朝ペルシャへの遠征を開始し、紀元前333年のイッソスの戦いでペルシャ王・ダレイオス3世の軍を打ち破り、 アルベラ・ガウガメラの戦いで再び ダレイオス3世率いるペルシャ軍を撃破し、ペルシャ征服を実現させる。 ペルシャの征服に成功したのちも アレクサンドロス大王の東方への遠征は続き、インドの外辺まで支配下に治めた。 この世界帝国の実現によって、ギリシアの文化や考え方が各地へと広まるだけでなく、東西文化の交流や民族の融合が盛んになった。 ヘレニズム文化が勃興した。 紀元前323年、アレクサンドロス大王が後継者を決めないまま急逝すると、配下の将軍たち(デァドコイ)による後継者戦争が勃発した。 その結果として、大王の直系は断絶して帝国は分割された。 ヨーロッパ側領土には、カッサンドロス朝マケドニア、リュシマコス朝トラキアが立ち、アンティゴノス朝が小アジアに拠った。 三者の争いの中でアンティゴノス朝が生き残り、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝スィシリアの3王国が成立した。 その後 マケドニアは、地中海世界に勢力を拡大するローマの圧力に直面することとなった。 第一次マケドニア戦争(紀元前214年 - 紀元前205年)では勢力を保てたものの、第二次マケドニア戦争(紀元前200年 - 紀元前196年)に敗れたのち、 第三次マケドニア戦争(紀元前171年 - 紀元前168年)の敗北によって、マケドニア王・ペルセウスは捕虜となり廃位、アンティゴノス朝は廃止させられ、王国は4つの共和国に分割された。 第四次マケドニア戦争(紀元前149年 - 紀元前148年)での反乱がローマに鎮圧されると、紀元前148年 ローマの属州の一つ(マケドニア属州)として組み込まれたことで、マケドニア王国は滅亡した。 ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化は アレクサンドロス大王の帝国とその後継王朝へ根付き、ラオコオン、ミロのヴィーナス、サモトtラケのニケ、瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された。 また、エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリイスタルコスらの学者も輩出、その後古代ローマに強い影響を及ぼし、中東のサーサーン朝などにも影響を与えていったのはご存知でしょう。 優秀な指導者・スピタメネスを亡くしたソグド人は 東方に四散します。 シルクロード沿いにコロニーを造り、交易でシルクロードの支配者に成ります。 中国歴代王朝は漢王朝から明王朝までの長大な期間 各王朝・帝国の経済官僚は全てソグド人系と言えるでしょう。 ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/15
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石原都知事は「思想の毒蛇」 中国紙、尖閣購入で痛烈批判 2012.6.14 19:01 配信産経新聞 因みに;「人民日報」系”新華通信社“6月14日配信《中日関係総覧》 ◎ 日本が黄海にイージス艦配備を検討 メディア「一石二鳥」 ◎ 日本民族を新たな悲劇に導く石原氏 の政治方針 ◎ 南京大虐殺紀念館、加藤嘉一氏の発言に反論 ◎ 日本防衛省が自律型水中航走体購入 掃海に使用 ◎ 石原知事 釣魚島購入へ「近々上陸する」 <尖閣諸島>領有明確化に国会動くべきだ…衆院委で石原知事 【毎日新聞 6月11日(月)21時57分配信】のニュースに対する反応が 下記の様である 石原都知事は「思想の毒蛇」 中国紙、尖閣購入で痛烈批判 14日付の中国共産党機関紙「人民日報」系の環球時報は、尖閣諸島を購入しようとする東京都の石原慎太郎知事について、「思想の毒蛇」と例えるなど激しく批判する記事を掲載した。 同記事は、最近の石原氏の一連の言動を「包丁を振り回して、国交正常化40周年を迎えた中日関係をめった刺ししている。 両国関係が出血し苦しくなればなるほど、彼は快感を味わうだろう」と表現。「この好戦かつ狂気な政治家に導かれるまま行けば、最終的に日中間で戦争が起きる可能性がある」と恫喝した。 日本民族を新たな悲劇に導く石原氏の政治方針 石原慎太郎東京都知事は、東京都による釣魚島(尖閣諸島)の買い取りを推進し、中日関係の緊張を高めている。 石原氏は12日、釣魚島の実地調査を随時行う準備があると表明した。石原氏の上陸により、両国の緊張関係がさらに悪化すると懸念されている。 中日国交正常化40周年の今年、石原氏は釣魚島の買い取りを武器に、両国関係を損ねている。 両国関係が悪化するほど、石原氏は快感を得られるらしい。 今年80歳の石原氏は、日本国民と外部の対立を煽ることで、日本社会での影響力を蓄えてきた。 反中・反米の石原氏の世界観は、日本の国民性の最も暗い一面を示している。 石原氏は、日本の軍国主義から民主主義への変化を目撃し、日本の最も悲惨な時代と最も繁栄した時代を経験した。 石原氏は実力主義を吹聴し、日本の核武装を主張し、中国など日本と摩擦のある国家に強硬な姿勢を示している。 この好戦的で狂気じみた政治家の示す道を歩み続ければ、最終的に日本と中国の戦争を招くだろう。 日本は再びアジアおよび太平洋の動乱の渦に巻き込まれ、日本民族の新たな悲劇が演じられるだろう。 石原氏は日本の「民主」が生み出した「毒」と言える。 連合軍が日本を占領した当時、軍国主義が根絶やしにされず、残された毒素が日本の思想界および世論の中に浸透している。 石原氏、右翼の精神的指導者らは、ファシズムの精神的土壌を形成し、「愛国主義」を中国等の隣国との対立に結びつけている。 彼らの存在により、日本軍国主義が復活すれば、アジアに災いがもたらされるだろう。 石原氏のような政治家が日本で支持を得ているため、中日関係の安定化が現在も実現されておらず、今後も一層不安定になるだろう。 近代史で日本からの侵略を受けた中国は、現在ようやく経済成長の軌道に乗ってきたが、石原氏らにとってはこれも「日本の脅威」であるのだ。 石原氏らの影響を受けた日本の世論は、日米・米韓・米豪軍事同盟の脅威にさらされる中国側の立場になることはできない。 石原氏は釣魚島を巡る両国の争いを極端化に向かわせ、日本政府と中国に圧力をかけている。 東京都による釣魚島の買い取りが実現されれば、中日両国の外交には近年最大の波瀾が生じるだろう。 中国は対抗を望まないが、中国が動員できる力は日本を決して下回らない。 日本はアジアの歴史と現状、近隣諸国との関係に対して、最後の理性を失ってはならない。 (単仁平:環球時報コメンテーター) そして、昨日 赤色王府は、尖閣諸島の調査船が出航した と公表のニュースを拾った /////// 日本国内の報道機関は 赤色王朝がプロバガンダを冷静に報道すべきであろう 一部の新聞社の記者諸兄は入国拒否を受けていると聞く いずれにしても 前回記載の国際機関の見解を世論に 報道機関の勤めであろうと 愚考する //////// Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/15
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スピタメネス (1) スピタメネス 紀元前370年 - 紀元前328年の頃、アケメネス朝ペルシャ時代のソグデリアはバクトリアの豪族。 ソグド人。 ダレリオス3世の死後、バクトリアの総督・ベッソスとともにアレクサンドロス大王に敵対したが、その後 ベッソスを裏切って、彼をアレクサンドロス大王に引渡し降伏した。 スポタメネスは その後更にアレクサンドロス大王に反旗を翻したが、最後は妻に暗殺される・・・・・ アケメネス朝末期のバクトリア総督であったベッソスは、アレクサンドロス大王の東征が始まるとダレイオス3世によって招集されて軍の指揮を執った。 アレクサンドロスの遠征中最後の大会戦となった紀元前331年のガウガメラの戦いでは、騎兵を中心とするバクトリア兵やスキタイ兵によって構成された左翼部隊の指揮を執り、 マケドニア軍を大いに苦戦させたが本隊が壊走し、最後はマケドニア軍の勝利に終わっている。 ガウガメラの戦い ペルシャ軍は先に戦場に到着した。 ダレイオスは事前に戦場の樹木を刈り払って戦車部隊の障害とならないようにしておいた。 軍勢の中央にはダレイオス3世と最精鋭の歩兵部隊が布陣した。 両翼は騎兵部隊であり、左翼をベッソス、右翼をマザイオスが指揮した。 戦車隊は騎兵の前に配備された。 ペルシャ軍がマケドニア軍の両翼を攻撃するため進撃するのに応じて、アレクサンドロスも攻撃に出た。 彼は自分の率いる部隊をくさび状に編成し、自ら突撃の先頭に立った。 その後ろには援護のため軽装歩兵が続いた。 アレクサンドロスは騎兵の大半を率いてダレイオスの前線と並行に移動し、戦場から離れていった。 ダレイオスは前線の騎兵にアレクサンドロスを食い止めるように命じた。 この騎兵はアレクサンドロスの後衛の軽装歩兵に防がれ、アレクサンドロスはペルシャ軍に向かって急転回して、ベッソクスの左翼とダレイオスの中軍の間にできた裂け目に突入した。 アレクサンドロスはダレイオスを追撃するつもりだったが、バルメニオン(古代マケドニア王国の武将)、から必死の救援を求める伝令に接した。 マケドニア軍が崩壊する危険を犯してまで追撃を続けるか、左翼・バルメニオンを救援するかの選択に迫られたアレクサンドロスは結局バルメニオンを救援し、その後で ダレイオスを追撃することにした。 マケドニア軍の左翼と中央の間に大きな裂け目ができており、ペルシャ軍の中央にいたペルシャ騎兵とインド騎兵(傭兵部隊)はその裂け目から マケドニア軍の戦線を突き破った。 が、彼らは背後に回りこむよりも、マケドニア軍の宿営地に進軍して物資を略奪するほうを選んで 戦場を離れた。 ダレイオスの中軍が崩壊した。 左翼・マザイオスも右翼・ベッソスも 同様退却を始めたが、彼の部隊はまもなく潰走状態となった。 アレクサンドロスの騎兵は続いていまや弱体化したペルシャ軍の中軍を襲い、ダレイオスの近衛兵とギリシャ人傭兵部隊を撃破した。 左翼のベッソスはガレイオスから切り離されてしまい、アレクサンドロスの騎兵に攻撃されるのを恐れて退却した。 ダレイオスも包囲されるの恐れて退却したが、そのためペルシャ軍の中軍は潰走することとなった。 ベッソスはダレイオス3世らとともに戦場から離脱して東へと逃げたが、大軍を擁しながら敗北を続けたダレイオス3世の権威は既に失われており、 紀元前330年、ベッソスは仲間と共謀してダレイオス3世を暗殺し、ソグデイアナの有力者・スピタメネスや総督のオクシュアルテスらと同盟を結び、自らペルシャ王を名乗って名前をアルタクセルセスと改名した。 しかし アレクサンドロスはダレイオス3世の死体を発見すると盛大な葬儀を執り行って、ダレイオス3世を葬り その仇を討つという名目によってベッソス追討の命令を出し、更に東へと進んだ。 アレクサンドロスがヒンドウークシュ山脈を越えてバクトリアに侵入すると、ベツソスは抵抗を諦めて逃亡し、スピタメネスやオクシュアルテスとともにオクサス川(アムダリヤ川)の船を焼き払ってアウタクへと逃れた。 ベッソスを追討しつつ中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは 330年の春 オクサス川渡り、ソグデイアナ地方にへと進軍し ベッソスを追跡した。 アレクサンドロスは前年にタシュ・クルガンと バルフを無血占領している。 ソグデイアナではスピタメネスを中心とするソグド人による激しい抵抗に直面した。 アレクサンドロスがソグデイアナの地に足を踏み入れてからまもなくして、ベッソスの武将・スピタメネスからの使者が陣営に訪れた。 スピタメネスの伝言は、彼らがベッソスを指導者とは認めずに捕らえたこと、ベッソスをアレクサンドロスに引き渡したい事を提案する内容であった。 ベッソスから取り上げたダレイオス3世の王冠と衣服が使者からアレクサンドロスに手渡され、アレクサンドロスは直ちに 将軍・プトレマイオスが率いる大部隊を派遣した。 彼らは、普通10日はかかる道程を四日で駆け抜け、スピタメネスの陣営に到着した。しかし、そこには少数の兵士に守られたベッソスだけが居て、スピタメネスらはソグデイアナの奥地・天山山脈の懐に消えていた。 ・・・・・・ この地方の旅は 誠に楽しかった。 紀行拙文“汗血馬の故里へ”を参照下さい・・・・ アレクサンドロスはベッソスを裸にし、手枷と首輪が一体の鉄具をつけて ギリシャ・マケドニアの将兵の前 市街の婦女の前 バザール内を引き回し、ダレイオス3世の皇后・皇女・親戚の前で鞭打たせ、その身柄を王子に引き渡した。 彼らはベッソスを八つ裂きにした。 ベッソスは、かって彼がダレイオス3世にしたと同じことを、今度は自分自身に加えられて他界した。 マケドニア軍は紀元前329年から紀元前327年まで ソグデイアナとバクトリアにおける過酷なゲリラ戦を強いられ、将兵の士気の低下を招いた。 クレイトス殺害事件や近習による陰謀事件など、アレクサンドロスと部下たちの間に隙間が生じ始めていた。 アレクサンドロスは、将兵に強奪・略奪を禁じていたが 性のはけ口としてペルシャ人との結婚を奨励し、集団見合いを各地で実施させている。 自らも、紀元前328年に帰順したこの地方の有力者、オクシュアルテスの娘・ロクサネを妃としている。 【クレイトス;古代マケドニア王国の武将で、アレクサンドロス3世(大王)の友人、側近将校の一人。マケドニア貴族・ドロビデスの子、アレクサンドロより年上で 姉・ラニケはアレクサンドロの乳母であった。 クレイトスは アレクサンドロス3世によって騎兵親衛隊長に任命され、グラニコス川の戦いでアレクサンドロスに背後から襲い掛かったペルシャの武将・マザイオスの腕を斬り落として王の命を救った。 その後ガウガメラの戦いで王とともに騎兵隊を率いて敵陣に突入し、フィィロタスの処刑によって空席となったヘタイロイ騎兵の隊長にヘファイスティオンとともに任命されるなど、優秀な指揮官であった。 しかし伝統的なマケドニアの風習を重んじていたため、ペルシャ風の宮廷儀礼を導入したり異民族との融和を重んじるをアレクサンドロスの政策に異を唱え、王に阿諛追従する近習たちの言動を遠慮なく糾弾した。 紀元前328年にソグディアナのサマルカンドでペルシャ人のバクトリア総督・アルタバゾンが老齢のため辞任を申し出たのを受けて、王はクレイトスを後任のバクトリア総督に任命し、祝賀の宴を開いた。 しかし、上記のようないきさつでクレイトスとアレクサンドロスとの間に かねて緊張関係が生じていたため、酒宴の席上でクレイトスはアレクサンドロス大王と東方政策をめぐる口論をはじめた。、酔った王はクレイトスの挑発的な言動に激怒して、彼を槍で刺し殺した。 その後酔いが醒めたアレクサンドロスは自分の行為に激しい衝撃を受け、三日三晩にわたって部屋にこもったまま慟哭し続けたという。 オクシュアルテス;バクトリア地方の有力者。 紀元前331年のガウガメラの戦い後、ダレイオス3世を暗殺してペルシャ王を称したバクトリア総督・ネッソスにアレクサンドロスに対抗した。 しかし、ベッソスはバクトリア地方で満足な抵抗が出来ないままソグディアナへ逃走した。 オクシュアルテスはその後、ソグディアナの岩砦の守備を勤めたが、同じくベッソスとともに戦っていたスピタメネスらと共にベッソスを裏切った。 ベッソスの身柄をアレクサンドロスに引き渡し、彼に降伏した。 その後、アレクサンドロスに娘・ロクサネが嫁ぐ事になり(紀元前327年)、紀元前324年の集団結婚式では娘・アマストリネが アレクサンドロス大王の騎兵隊長・ヘファイスティオンの妻となっている。 政治家である 】 紀元前331年のガウガメラの戦いでアレクサンドロス率いるマケドニア王国軍によってペルシャ軍が破れ、宰相・ベッソスはダレイオス3世を暗殺し自ら王を称したが、 バクトリアの豪族・スピタメネスは、ベッソスとともにアレクサンドロスに対抗したが、ベッソスはは呆気なくバクトリアを追われ、スピタメネスも彼とともにソグディアナに逃走した。 彼は逃走途上でベッソスが将の器でない事を知った。 そこで仲間のオクシュアルテスとともにベッソスを捕らえ、彼の身柄をアレクサンドロスに引渡して降伏した。 その後、アレクサンドロスは サマルカンドを占領、更に シルダリア川方面へと向かったが、スピタメネスは間もなく 姿を隠していた天山山麓からソグディアナに現れ 反乱を起こした。 紀元前329年の春です。 アレクサンドロスはシルダリア川近辺の現地人との戦いで重傷を負いつつもこれを平定してアレクサンドロス・エスタタ市を建設していたが、スピタメネス反乱の知らせを受けて将軍・バルヌケスに鎮圧の命令を出した。 スピタメネスはサマルカンドを包囲したがバルヌケス率いるマケドニア軍が救援のために送られたことを知ると包囲を解いた。 その後、深追いしてきたバルヌケス軍歩兵2,000、騎兵300をスピタメネスは全滅させ、勝利を収めた。 この敗戦の報告を受けたアレクサンドロス大王は、部下に対し敗北の知らせを外部に漏らさないように指示を出すと、自らサマルカンド奪回へと向かった。 スピタメネスはアレクサンドロスとの直接衝突を避け、その到着前にサマルカンドを引き払って行方をくらました。 _____ 続く _____ Cooperate with me ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/14
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630年頃、西突厥の統葉護可汗(トウヨウコ・カガン)は自国が強盛であるのを自負し、支配下の国々に対する恩賞を与えなかった。 諸部の衆は怨みを抱き始め、遂に葛禄(カルルク)種族の多くがこれに離反した。 葛禄(カルルク)は 天宝年間(742年-756年) 回?(ウイグル)、拔悉蜜(バシュミル)と共に東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)を攻め殺した後、 回?と共に拔悉蜜を撃ち、その可汗を北庭に走らせ、京師に出奔した。 その後、 葛禄(カルルク)は 回?の葉護(ヤブグ))を立て、懐仁可汗とし 臣下した。 葛禄は烏徳?山(ウテュケン山)を拠点として回?に臣従し、金山(アルタイ山脈)と北庭都護府に在って 族長の葉護は自立し、毎年来朝していた。 天宝10載(751年)、ズィヤード・イブン=サーリフの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍が、天山山脈の西北麓のタラス河畔で衝突した“タラス河畔の戦い”。 この時、葛禄(カルルク)がアッパース軍に寝返ったために唐軍は壊滅し、大敗を喫している。 ≪ この“タラス河畔の戦い”で製紙技術が西欧世界に伝播したと言われる ≫ 760年頃には、葛禄(カルルク)は強盛となって回?(ウイグル)と双璧をなし、西突厥可汗の故地・イリ地方に移って碎葉(スイアーブ),怛邏斯(アラス)の諸城を占拠している。 これ以降、葛禄(カルルク)は唐に入朝しなくなった。 766年に、イリ地方を占領した葛禄(カルルク)は、その後もモンゴル高原のウイグル可汗国(回鶻)と敵対しながら勢力を保ったが、あくまでヤブク(領主)の称号を帯びて カガン(君主)号を用いなかった。 これは、回?(ウイグル)を宗主国と輩上していた為と思われ、『カラ・バルガスン碑文』には、「ウイグルが征西した際、フェルガナでカルルジュのヤコブをカルルク王に冊立した」と書かれています。 しかし、カルルクとウイグルが東西で対立していたことは確かであり、碑文はウイグルのモニュメントです。 840年、ウイグル可汗国は内乱の最中に北方のキルギスの大軍に襲撃され、ウイグルの可汗が殺された。 この事件によって モンゴル高原のウイグル可汗国は崩壊し、その残党が西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた。 これが天山ウイグル王国であり、別の一部はさらに西へ移動してベラサグンに至り、葛禄(カルルク)と合流した。 パミール高原西部では ウイグルの入来以前に、熾俟(シギル)部が葛禄(カルルク)から独立している。 しかし、進行してきたウイグルに併呑されています。 その後の葛禄(カルルク)の歴史は不明です。 940年頃にカルルク領内(パミール高原以西)で最初のテュルク系イスラム国家・カラハン朝が生まれたとされるが、その 史跡は定かではありません。 ただ、ウイグル可汗国の皇統がカルルクの上層部を占め、支配体制を維持していた。 可汗(カガン)位に立てるのは“皇統の血筋”です。 北方遊牧騎馬民族の伝統が生きていたのでしょう。 西遼の侵攻 1125年、遼が金によって滅ぼされると、その一部を率いた耶律大石がモンゴル高原において可汗を称した。 しかし、1130年 再び 金の攻撃を受けて中央アジアに逃れてきた。 耶律大石は、まず ビシュバリクを拠点とする天山ウイグル王国を臣従させた後、天祐皇帝に推戴され 1132年に西遼(カラ・キタイ帝国)を建国した。 1134年、カルルク・カラハン朝は領内の諸勢力とともに西遼(カラ・キタイ帝国)への反乱を起こしたが、耶律大石によって鎮圧されている。 以降、カラハン朝は 大石の西遼(カラ・キタイ)の属国となり 歴史から消えるますが、その史跡は・・・ カラ・ハン国 10世紀の前半頃、伝説的な初代ハンの孫サトゥク・ボグラ・ハン(? ~993年)がサーマーン朝の影響を受けてイスラム教に改宗し、異教徒であった伯父を倒して副都・カシュガルから首都・ベラサグンにかけてのイスタム王国を築いたとされる。 イスラム側の史料は、カラ・ハン国は、960年に帳幕(ユルト)20万帳にのぼる遊牧民たちのイスラム教への集団改宗を行ったと記す。 960年の改宗以後、カラ・ハン国はジハード(聖戦)を掲げ、ボラク・ハンの跡を継いだイリグ・ハンは西に拡大し、999年にブハラを征服、サーマーン朝を滅ぼしてマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を併合した。 しかし、1008年にはホラーサーンのガズナ朝に敗れアム川以南へは進出できなかった。 イリグ・ハンの跡を継いだトゥガン・ハンは、タリム盆地の仏教国・ホータンやクチャを征服するが、軍を返す途上で死去したため アルスラン・ハンが跡を継いだ。 現在の新疆ウイグル自治区西部からウズベキスタンに至る広大な領域を支配するに至ったカラ・ハン国では、征服したタムリ盆地やマーワラーアンナフルのオアシス都市に テュルク系ムスリム(イスラーム教徒)たちが入り込み、徐々に遊牧生活をやめ都市へ定住していった。 同じ頃、カラ・ハン国との境となる天山山脈の東側にはウイグルの残存勢力による天山ウイグル王国が形成され、同様に定住化に向かい、この二つのテュルク系国家のもと当該地域のテュルク化が進んだ。 また、ホータン、カシュガルなど タリム盆地(タクラマカン砂漠)の西部もカラ・ハン国のもとでイスラム化していき、後に「トツキスタン;テュルク人の土地」と呼ばれる契機となっていった。 カルルク人の上にウイグル人が乗っかる形で成立したカラ・ハン国は 軍事封建制が布かれ分権的性格が強かった。 可汗(カガン)が2名いたことが貨幣の研究から明らかになっています。 また、全土を統治する大可汗がバラサグンに在って アルスラン・カラ・ハンを、 副可汗がカシュガルに居住し、ボグラ・カラ・ハンを名乗り、王やテギン・ヤブグなどの上に君臨していた。その大可汗・副可汗は ウイグル可汗国の皇統 亡命王子の正嗣達である。 11世紀のカラ・ハン国は幾つかの封侯国に分かれ、可汗(ハン)に対して完全には服さなかった。 1041年に至って正式に東西に分裂、シィル川とパニール高原を境として西カラ・ハン国と東カラ・ハン国に分かれている。 1100年の前後、定住化が進んで軍事力を弱体化させていた東西のカラ・ハン国は、同じ11世紀に マーワラーアンナフルの西で興ったセルジューク朝に打ち破られ、1089年に西カラ・ハン国はセルジューク朝のホラーサーン政権に服属している。 さらに12世紀初頭には耶律大石を指導者とする集団が 東方の金帝国に追われ、中央アジアにあらわれた。 大石はカラ・ハン国発祥の草原地帯に入って カラ・キタイ(西遼)帝国を建国した。 東西のカラ・ハン国はカラ・キタイの流入以後、徐々に記録から消えていった。 併呑されて行った。 1131年に大石のカラ・キタイと戦って敗れた東カラ・ハン国は カシュガルのオアシスをわずかに支配する小国となり、1211年になってカラ・キタイを乗っ取ったナイマンのクチュルクによって滅ぼされた。 西カラ・ハン国はサマルカンドを中心にーワラーアンナフルを支配するカラ・キタイ帝国の属国として命脈を保ったが、13世紀初頭にホラズム・シャー朝がカラ・キタイを破って マーワラーアンナフルを占領し 覇権を打ち立てると ホラズム・シャー朝にサマルカンドを追われて完全に滅ぼされた。 ホラズム・シャー朝は50年後にジンギスハーンに遺恨を植え付け、それが基で 徹底的な破壊・略奪の上 皇后・王女は卑しめに晒されます。 大蒙古帝国時代のウイグル族に関しては 前日 記載しましたが それ以降、・・・・・・ その後、中央アジアひ広がったウイグルの民は 長らく モンゴル系領主の支配を受けた。 16世紀の1514年、モグリスアーン・ハン国(大ハーン・ジンギスの次男、チャガタイ・ハン)の系譜を引くトルファンの支配者アヘマの子・サィードが、カシュガルでハン位に就き、ウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立した。 ヤルカンド・ハン国の最盛期には天山以北のバルバシ湖南岸や パミール高原以西のフェルガナ盆地にまで及んだが、政権内部の権力闘争やイスラム教の黒山派と白山派の教派対立によって衰えた上、 17世紀に北方からやってきた オイラト族(モンゴル系と同種別族)のジュンガル部に滅ぼされた。 ジュンガルは タリム盆地周辺のオアシス住民をイリ渓谷に移住させ、農耕に従事させ 帝国を築いて行く。 強制移住させられたウイグル系住民は 後に、タランチという集団となります。 タランチ集団は 1864年に清朝へ反乱を起し、大虐殺・ジェノサイトを受ける。 さらにロシアがイリを占領後、1881年に清朝へ同地域が返還される際、報復をおそれロシア領へ大移住しているのです。 18世紀半ば、ジュンガる帝国はが清により征服され、その支配下に入った。 ≪ 前作 オイラトの興亡“エセン”の章参照 ≫ 1755年、清の乾隆帝はモンゴル・ハルハ軍と満州軍を動員した大軍をジュンガルに進軍させ、ジュンガル帝国を滅ぼした。 清朝政府は、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、蒙古八旗人による軍政を敷いた。 ウイグル族の住むこの地域を清朝は、イリ将軍統治下の回(ムスリム)部として、清帝国・藩部の一部を構成することとなり、この土地を「ムスリムの土地・回疆」、もしくは「新領土・新疆」などと呼んだ。 ジュンガル帝国を継承した清朝も1760年以降 イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行っている。 遠く満州の地より シベ(錫伯)族は国境防衛(対ロシア)の為に一万キロも歩き、移住させられている。 19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国とロシア帝国との“グレート・ゲーム”が展開されていた。 ロシア帝国は イギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカランド・ハン国を滅ぼし、1868年にブハラ・ハン国を、1873年にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、 ≪ 全て、ジンギスハーンが長男・ジュチの皇統諸国 ≫ 1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。 19世紀後期、フェルガナ盆地を支配していたコーカランド・ハン国の軍人ヤクブ・ベククが イギリスの支援の下、東トルキスタン(新疆)を占有し この地は清から離脱する。 しかし、間もなく清は欽差大臣・左宗棠を派遣して再征服に成功した。 この時期、 列強が積極的に東アジアに進出してきており、清は“ヤコブ・ベクの乱”をきっかけにロシア帝国との国境地帯である「新疆」支配を重視し、 1884年に従来の民族自治権を認めるベグ官人制(民族議員制)を廃止し、同地を新疆省とし 清朝内地並の行政制度がしかれることとなった。 1931年から1933年にかけて、東トルキスタン(新疆)のイスラム教諸民族の抗中蜂起が頻発した。 ウイグル族を中核とする蜂起軍は、ソ連の全面支援を受け、1933年から1934年にかけて新疆省に東トルキスタン共和国の建国を宣言した(第一次)。 更に 1944年から1946年にかけて新疆北西部の東トルキスタン(ジュンガリア)でも、建国が宣言された(第二次)。 この独立運動はソ連の後援をうけ、当時の新疆省当局による鎮圧行動を退け基盤を確立することに成功した。 1949年、国共内戦で勝利した中国共産党は 中華人民共和国を建国すると、国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧して行く。 東トルキスタン共和国と中華人民共和国の戦いが勃発した。 東トルキスタン共和国は内部からの裏切りによって敗退する。 新疆は中華人民共和国に帰属することとなった。 この地域の中華人民共和国による併合後、民族名称は中央政府によって 特別行政区・ウイグル自治区と公式に定められ、現在に至っている。 しかし、新疆が中国の統治下に入った経緯や新疆統治に不服な人々は国内外で独立運動を続けており、中国が抱える民族問題のひとつとなっている。 ここで 筆を折ります 乱筆の咎めなく 長期にわたるご支援 ありがとうございました
2012/06/13
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天山ウイグル王国 839年、回鶻の第11代彰信可汗が、ソグド系と思われる大臣安允合に暗殺され、さらに連年の天候不順による飢饉に加え、 翌840年には雪害による家畜・遊牧民の大量斃死“チャガン・ゾド”のためにキルギス族の反乱に抗しきれず、回鶻(ウイグル)王国は遊牧政権として完全に崩壊してしまった。 このためウイグル人たちはゴビ砂漠以南の華北や甘粛方面、天山山脈方面のオアシス都市地域へ大量に流出することになった。 回鶻可汗国が崩壊した後、西に逃れた15部のうち、河西(黄河中流の西、現在の甘粛省付近)より西へ移動して天山山脈の北東麓に 敗走し、落ち着いた一部が王国を興した。 別の一部は河西に入り、敦煌を制圧 甘州ウイグル(回鶻)王国を建国したが、1028年、定難軍節度使・李徳明は息子の李元昊を派遣して甘州を襲撃させ、甘州を陥落させた。 甘州ウイグル王国は滅亡し、河西地方はまもなく西夏に併呑され 西夏の一部となった。 しかし、甘州ウイグル王国の一部の王子(テギン)は 更に一部は西へ移動してベラサグンに至り、カルククと合流して後に ハミール高原の西部域にカラハン朝を作った。 この混乱期に、九姓鉄勒(トグス・オグズ)の一翼であった僕固(ボクトゥ)氏の首長・僕固俊(ボクトゥ・シュン)に率いられた一団が 当時、可汗浮図城と呼ばれていたビシュバリク地方へ進出し、これを拠点として押さえ、占拠した。 これが西回鶻王国(天山ウイグル王国)の直接の基盤となった。 程なく9世紀中頃、擬ヤグラカル王朝ウ(エディズ氏)による回鶻可汗国の最後の可汗である膏?特勤(コウソウ・テギン)の外甥であった?特勤(ホウ・テギン)が、 ビシュバリクの西部にあった天山山脈山中のユルドゥス地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とした。 ユルドゥス地方は夏季の放牧地として豊潤であったが、同時に焉耆(エンキ、オアシス都市国家 玄奘の『大唐西域記』では阿耆尼国(アギミコク)と記す)があり、タリム盆地接していた。 東部では、高昌(コウショウ、南北朝時代から唐代にかけて存在 シルクロード街道の要衝 漢人系の王国)があった。 強力な支配力でシルクロードの交易権を握っていた。 ?特勤(ホウ・テギン)は焉耆を獲得して可汗(カガン)を名乗り、この地ユルドゥスに城塞を築き 最初の首都とした。 彼は、856年には唐から「懐建可汗」の称号を受けている。 唐からの封冊ではない。 以降、ウイグルのカガン(君主)に即位した人物は数名判明しているのですが、西方のイスラーム政権でも東方の宋、遼、金の諸王朝でも断片的な情報のみが伝わる程度で、天山ウイグ王国の王統すら判明していない。 このため、王国の具体的な記録はモンゴル帝国時代まで待たねばなりません。 ウイグル西遷の後、何時からかは判然としないが、後期には天山ウイグル王国の君主は伝統的な「カガン」から「イディクト(「神から授かった吉祥」の意)」 という称号を用いる。 元来 ウイグル族は突厥など同じく、シャーマニズム信仰を有していたが、牟羽可汗(ボウウカガン)が洛陽滞在時の763年頃に、 マニ教の僧侶の感化を受けて僧侶4名を伴って帰国して以来、ウイグル王侯にマニ教が広く普及した。 マニ教をもたらしたのはソグド人であったと見られている。 この地に来てからは仏教・景教なども信仰するようになり、ウイグル文化が昇華する。 天山ウイグル王国と、カラハン朝の成立が 中央アジアのテュルク(トルコ)化を進め、後にトルキスタンという領域が生まれることになります。 12世紀に入り、耶律大石がこの地へを征服して“西遼(カラ・キタイ)帝国”を建て、ウイグル族はこれに服属するようになる。 しかし、13世紀にモンゴル・蒙古高原でチンギスハーンが勃興すると、1211年に天山ウイグル国王(イディクト)のバルチュ・アルト・デギンが ジンギスハーンに帰順した。 『元朝秘史』によると チンギスハーンは 彼の帰順を大変に歓迎して息女の一人アル・アルトンを娶らせ?馬(キュレゲン)とした。 さらに、バルチュク国王は ジンギスハーンの長子・ジュチなどジンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された と記述されている。 以後 ウイグル王家は「ウイグル?馬王家」としてコンギラト?馬家と並ぶ、?馬王家筆頭と賞され、モンゴル王族に準じる地位を得る事となるのです。 モンゴル帝国および大元朝では ウイグル出身官僚が蒙古宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになった。 大蒙古帝国以後、ウイグル族はイスラーム化して行きます。 他方、西夏王国に併呑された甘州ウイグル王国から西に逃走した一部の王子(テギン)は 更に一部は西へ移動してベラサグンに至り、宿敵・カルククとを支配下に収め、ハミール高原の西部域にカラ・ハン朝を作った。 ≪ カラハン朝の経緯は 次回にしましょう。 その前に 私の興味を一番に引く人物をスケッチしたい ≫ 耶律 大石 1122年、女真人王朝の金から攻撃を受けた遼の最後の皇帝・天祚帝は、この攻撃を防ぐことができず、中京から西の雲中(山西省)の陰山に逃亡した。 この時、大石は宰相の李処温とともに南京(現在の北京)において、第7代興宗の孫の耶律淳(天祚帝の従父)を半ば無理やりに擁立して、天錫帝として北遼を建国した。 耶律淳は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任した。 大石は北遼の国力をもって宋・金の両国を相手取って戦うことは至難であると考え、宋、金との和平を検討したが、結局 宋は“海上の盟”に則り燕雲十六州攻撃を開始した。 宋は童貫の指揮の下で20万の大軍を動員したが、大石はこれを白溝河において撃破している。 その後、天錫帝が病死したため、北遼は秦王・耶律定(天祚帝の五男で皇太子)を立て、天錫帝の未亡人の蕭皇妃が摂政するところとなり、宋はこれに乗じて再び侵攻してきた。 宋は劉延慶将軍の指揮の下で南京(燕京)に奇襲をかけた。 大石は南京において市街戦にまで追い込まれたが、宋軍を再び撃破し、同時に宰相・李処温が宋と金と内通したことが露見したため、大石は李処温とその子の李?を捕らえてこれを処刑している。 宋の皇帝・童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。 金の阿骨打(アボダ)はこれを受理し、北方より三路から燕京を攻撃した。 大石は万里の長城・居庸関で迎撃を試みたが失敗し、金軍に捕らえられた。 阿骨打は敵将・大石を厚遇したが、大石は信を屈せず 秦王、蕭徳皇妃など奉じて1123年、前帝・天祚帝の元へと逃亡してしまった。 天祚帝は大石に天錫帝を擁立したことを責めたが、大石は傲然と『天祚帝が逃げたから擁立したのだ』と反論し、天祚帝も反論が出来なかったという。 大石は天祚帝の下で身の安全に不審を抱き、1124年、金軍が迫ると200人ほどの契丹部の重装騎兵を引き連れて 外蒙古、遼の北庭都護府である可敦城に逃れ、モンゴル高原一帯の18部の王を招集して自立した。 1130年、金の阿骨打(アボダ)皇帝は 耶律大石に対して耶律余賭(ヤリツヨト、叔父)を派遣して攻撃をかけた。 大石はこれと交戦したが、激戦にならないうちに突然撤退し、さらに西へ移動してアルタイ山脈西部に入り、ビシュバリク(天山ウイグル王国の古都)に向かった。 耶律余賭は逃亡幇助の疑いで 家族を阿骨打に殺害されている。 彼は宋に降る。 トルファン・高昌城を府内とする天山ウイグル王国のビルゲ国王は、自ら国境に赴いて大石ら契丹王侯を迎え、大量の軍馬やラクダなどの贈物を贈っている。 また 改めて大石ら契丹王家に臣従することを 承認 誓っている。 遠来の亡命者にです。 また、後年には 娘を大石の皇后に嫁がせているのです。 この背景は 大石の北方遊牧民としての貴族性とマニ教の大幹部であること、ソグド社会の有力者多数と親交が深かった 等々が考えられます。 大石は ビシュバリクから 更に西方に進攻し、イリ渓谷に拠点を築いている。 イリ盆地では、他の西域諸国が10万余の兵を挙げて来行を阻んだが、対陣90日で大石に降り貢納し 従属を盟約している。 大石は このイリ渓谷の城砦・葉迷立(イミル/ハーミン)で 1132年に即位し、天祐皇帝と名乗り、元号を延慶とした。 これが西遼の建国です。 1134年、西方でテュルク系の葛邏禄(カルルク、ウイヅルと同種別族)部族による反乱が発生すると、大石は出兵した。 カラルク人の上にウイグル人が乗っかる形で成立したカラ・ハン国の反乱を鎮圧し、この地の北辺を西遼の直轄地と定め、ベラサグン(キルギスタン・ドクマク付近)へと遷都している。 このように カラ・ハン国の中央部を占拠し 地盤を固めた大石は、天山山脈の南北でシルクロードを押さえ、 東西に分裂していた東カラハン朝の軍を1137年に撃破して、東部を領域に治め 中央アジアに覇権を確立している。 当時、ベラサグンは東カラハン朝の君主・イブラーヒーム2世が治めてたが、近隣のカルルク部族やカンクリ部族などへの支配力は低下していた。 大石の進軍と占領は、逆にこれらの周辺諸部族からの掠奪や反乱に見舞われていた東カラ・ハン朝にとっては、大石率いる契丹軍の侵攻に抵抗できる余力はなかった。 この東カラハン朝の君主は、西進してきた大石に使者を派遣し、首都に招き入れて政権を移譲する意思を伝えたという。 東カラハン朝を手中にした後、大石は北西のカンクリやキルギスの諸部族の征服と帰順に成功し、さらに天山、パミール高原を超えたフェルガーナ地方まで支配を及ぼして行く。 西カラハン朝の第20代君主・マフム=ド・ハン2世は 1137年に臣属した。 大石のカラ・キタイ帝国は マーワーラーアンナフルを領有していたホラズム・シャー朝のアトスズ君主から歳貢としてを毎年金貨3千ディーナールを納めるよう誓約させ、ホラズム・シャー朝両王朝を臣従(1141年に)させている。 1141年、大石はカラ・ハン朝を支援していたセルジューク朝の第8代スルタン・サンジャルの率いる大軍を サモルカンド近郊の“カトワーン平原”で撃破し、中央アジアに覇を唱えた。 スルタン・サンジャルは自らの封土であったハラーサーンを拠点としてセルジューク朝君主によるイラン全土の統一的な支配を目論んでいたが、この敗北によって計画は頓挫し、 結果、間接支配ながらも中央アジアのイスラム政権は異教徒の傘下となり、これに連動してテュルクメン諸集団(テュルク系の諸勢力)の統制が不可能になった。 12世紀後半に活発化したテュルクメン諸集団によるイラン各地での騒乱と セルジューク朝諸王家の崩壊が生じていますが、 イラン高原各地のこの流動は 耶律大石による中央アジア侵入とスルタン・サンジャルを打ち破ったカトワーン平原の勝利に遠因を見ることができます。 大石は、更に故地・遼帝国の奪還を願って 金帝国に対する17万の親征軍を出発させるが、行軍中に病死している。 享年58歳であった。 東征軍は引き返さざるを得なくなった。 大石死後、末子の夷列(イリ、仁宗)が跡を継いだ。 西遼は中継貿易で栄え、軍事的には活発な運動を見せなくなりますが、ジンギスハーンに亡ぼされたナイマンの王子・クチュルクが流浪の末、 1208年に 西遼の第3代皇帝・チルク(在位:1177年-1211年)の王女を誑かし、娘婿となり 父君を幽閉して 王位を簒奪する。 ジンギスハーンは信義に背く行為に怒り、将軍・ジュペに西部遠征軍を委ね 進軍させます。 _____ 続く _____
2012/06/12
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烏介可汗(オカイカガン、? -846年、回鶻可汗国崩壊後の可汗) 彼は、昭礼可汗(ショウレイカガン)の弟で、彰信可汗の叔父。 特勤(テギン;皇族)だった。 ≪ 本文中の回鶻可汗国に関する役職名は 下記参照願います ≫ 烏介可汗 開成5年(840年)頃、渠長(キョチョウ:将軍)の句録莫賀(キュリュグ・バガ)は、北の黠戛斯(キルギス)軍10万騎を招き寄せて回鶻城(オルド・バリク)を破り、?可汗と掘羅勿を殺してその牙帳を焼き払った。 これによって回鶻可汗国は崩壊し、国人たちは各特勤(テギン)を奉じて各地に散らばった。 そのうち、可汗庭(カガンテイ:可汗の牙帳)近くの13部は、烏介特勤(ウゲ・テギン)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。 途中、烏介可汗らは太和公主を唐まで護送する黠戛斯(キリギス)の達干(タルカン)らと遭遇した。 烏介可汗はそれを見つけるなり達干らを殺し、太和公主を奉じて代わりに唐の天徳界まで護送している。 時に宰相の赤心、僕固(ボルク)、特勤の那頡啜(ナイル・チュル)がおり、烏介可汗に臣従せず、犯塞を欲していたため、 烏介可汗は先に王子の?没斯(オルズス)を天徳軍戍将の田牟の所へ赴かせ、唐と接触をはかるとともに、赤心を殺害した。 一方、那頡啜(ナイル・チュル)は赤心の7千帳をあわせて東へ逃れたが、のちに烏介可汗によって殺されている。 推戴された烏介可汗は 回鶻可汗国は崩壊後の政権維持に努力・奮闘する。 ≪ 崩壊の遠因は回鶻可汗国の唐帝国すら併呑しようとする驕りでしょう。 “安史の乱”を境に唐は “甘露の変”が示すように宦官が皇帝を左右する軟弱な政権ではあったが、 ウイグルの兵団は黄河の民・唐の定住民には住み分けて共存できなかった上に、回鶻可汗国内の旱魃と唐より感染したペストの大流行が一挙に 領土を遮蔽したのです。≫ 史書は記す・・・・・・・ ・会昌3年(843年)春、特勤の?扁遮,阿敦寧の二部、回鶻公主密羯可敦(皇后、カトゥン)の一部、外相の諸洛固阿跌の一部、牙帳大将の曹磨?らの七部、 共に3万衆が相次いで幽州に降ったので、唐の皇帝・文宗は詔で諸道に配してやった。 ・特勤の?没斯,阿歴支,習勿啜の三部、回鶻相の愛耶勿弘順、回鶻尚書の呂衡らの諸部が振武軍に降ってきたので、 三部首領には唐の国姓である李姓を賜い、名をそれぞれ思忠,思貞,思恵,思恩と改めさせ、帰義軍使に充てた。 ・その他唐に帰順しなかった者もおり、特勤葉被沽兄李の二部は南の吐蕃に奔走し、特勤可質力の二部は東北の大室韋に奔走し、特勤荷勿啜は東の契丹との戦いで戦死した。 《 室韋(シツイ);は、6世紀から10世紀まで中国東北部の嫩江,アルグン川,黒竜江流域に存在していた民族。 モンゴル族の源流と考えられておます 】 また、回鶻尚書の僕固・繹は幽州に至り、太和公主を幽州に帰すことの約束履行を烏介可汗に促した。 ある夜、河東の劉?が兵を率いて烏介可汗の営に迫ったので、烏介可汗は驚いて東北の約400里外にまで逃げ去り、室韋の営に依った。 このとき太和公主も同時に逃げ去ったが、烏介可汗に追いつけずにいたところを、豊州刺史の石雄の兵と遭遇したので、ようやく唐に帰国できた と 皇后すら護衛できない混乱の様子が史書にあります。 ’’’’’・・・・・・・・・・ 会昌6年(846年)7月、万策尽きた烏介可汗の部衆が幽州に降った。 その折、烏介可汗は妹を室韋(シツイ)に降嫁させている。 回鶻(ウイグル)相の美権者逸隠啜は諸回鶻に迫って、可汗の指導力を問うた。 ≪ 騎馬遊牧民族は指導者が 従属者に遊牧地にを与え、拡大し、南の富を略奪して公平に分配、神を祭ることが不可能なれば 別の特勤(テギン;皇族)それを行なえばいいと考えます、 禅譲はなく、政権を簒奪することは決してないのです。≫ 烏介可汗は 宰相の美権者逸隠啜に金山(アルタイ山脈)で殺され、烏介可汗の弟である特勤遏捻(アチネン・テギン)が可汗に推戴された。遏捻可汗(アツネンカガン、? -848年、回鶻可汗国崩壊後 最後の可汗) 会昌6年(846年)7月に、宰相の美権者逸隠啜によって 兄・烏介可汗が殺されると、国人はその弟である遏捻特勤(アチネン・テギン)を立てて可汗とした。 しかし、この時の兵力は5千しかなく、遏捻可汗(アチネンカガン)は奚(ケイ)の大酋である碩舍朗に食料を求めている。 旱魃による国土の遮蔽は甚だしかった。 大中元年(847年)春、唐の東面招撫使の張仲武が回鶻を援助する奚を大破したため、回鶻は次第に消耗していった。 大中2年(848年)春、遏捻可汗(アチネンカガン)のもとには 名王貴臣が500人しかいなくなったため、彼らは室韋(シツイ)に依ることにした。 しかし、張仲武が遏捻可汗らを捕えるべく黠戛斯(キリギス)などを室韋に向かわせたため、遏捻可汗は 懼れて妻の葛禄(カルルク)と子の特勤毒斯(テルグ・ドス)ら9騎だけを連れて夜に西へ逃亡し、行方をくらました。 室韋(シツイ)は回鶻の余衆を分けて七分とし、後年 回鶻は七姓室韋の各一分を占領していきます。 そこへ黠戛斯(キリギス)宰相の阿播が領する諸蕃兵7万が遏捻可汗および諸回鶻人を捕えるべく室韋に攻め込んできた。 室韋は阿播の軍に大敗し、回鶻人ともども黠戛斯の略奪を受けた。 ここにおいて、回鶻可汗国は完全に滅亡し、残る回鶻の残党は甘州に拠った?特勤の勢力“甘州ウイグル王国” と 北庭(ジュンガル)に拠る僕固・俊の勢力“天山ウイグル王国”のみとなった。 河西ウイグル 840年(開成5年)に回鶻可汗国が崩壊すると、いくつかのグループは各王子(テギン)を擁して各地へ散らばった。 このうち、吐蕃に亡命したグループは吐蕃から吐蕃領となっていた河西地方に住むことを許され、その北辺であるエチナ地方で遊牧生活を始めた。 この河西ウイグルはしばらくの間河西に先住する定住民と衝突することなく遊牧に従事していたが、30年が過ぎると人口も増え、周辺住民に掠奪行為などの危害を加えるようになった。 874年にはそれが原因であろうか、吐谷渾と?末によって撃退されている。 川は血の川となり牧民は壊滅したと史書にあります。 甘州ウイグル王国の成立 870年代~880年代の時点ではまだ甘州を占領していなかった河西ウイグルも、890年代に起きた沙州(敦煌市)の張氏政権の内紛に乗じて甘州を占拠し、 甘州ウイグル王国(甘州回鶻)と呼ばれるオアシス定住国家を建国した。 902年(天復2年)、甘州ウイグル王国は相次ぐ叛乱で衰退しきっていた唐朝に上奏し、援兵派遣の用意があることを伝えた。 しかし、かつて回鶻に“安史の乱”を鎮圧してもらった後の回鶻の専横に頭を痛めたことのある唐朝はその申し入れを断った。 だがしかし、 907年(唐:天祐4年、後梁:開平元年)、唐朝は後梁に禅譲して滅亡した。 甘州ウイグル王国は建国以来、その隣国である沙州の西漢金山国と友好関係にあったが、906年を境に両国は戦闘を交えるようになった。 兵・民ともに犠牲者が 年々 増大していった。 この問題に対処するため、911年(開平5年)に沙州の住民1万人が甘州・ウイグル可汗に嘆願書を送り、甘州ウイグル王国と西漢金山国を和平に導いたと史書にあります。 このときの講和条約として、甘州の権知可汗(仁美)は父となり、沙州の白衣天子(張承奉)は子となることを認めさせている。 甘州・権知可汗が統一支配者であると認めさせている。 ≪ 沙州近くにソグム人のコロニーが在り、シルクロードの経済を握るソドム人は常にウイグルと表裏一体ですから、甘州ウイグル王国はソグド・ウイグル連合政権でしょう。≫ この年の11月、甘州ウイグル王国は都督の周易言らを遣わして後梁に入朝している。 923年に後梁が滅亡したため、権知可汗の仁美は翌年4月に都督の李引釋迦らを遣わして後唐に朝貢した。 これに対し、後唐の荘宗は仁美を冊立して英義可汗とした。しかし、その11月に仁美が死去したため、弟の狄銀が代わりに立って可汗となる。 926年に狄銀が死去すると、阿咄欲が立ったが、一方で仁裕も権知可汗の位に就いており、互いに後唐に遣使を送って朝貢をしたている。 明宗は928年3月、後唐の荘宗は仁裕を冊立して順化可汗としたが、その後も順化可汗仁裕は後唐に朝貢を続けている。 936年、後唐に代わって後晋が成立すると、順化可汗仁裕は後晋に朝貢するようになり、939年には 仁裕は後晋より、奉化可汗に冊立された。 一方の阿咄欲は後晋の高祖の在位中(936年-942年)に死去するが、奉化可汗仁裕はその後も中国の五代王朝に朝貢し続けている。 沙州の曹氏・敦煌王国を併呑 911年以降、西漢金山国の張承奉は民心を失い、やがて沙州の張氏政権が倒れ、代わって曹氏政権が成立した。 930年、沙州帰義軍節度使(敦煌王)の曹議金は甘州に赴いて順化可汗仁裕と会談した。 これによって、両国は時の中国五代王朝に使節団を送り込み、シルコロード交易を発展させた。 しかし、936年から940年の間に甘州ウイグル王国が 何らかの理由で沙州と中国の交通を遮断してしまう。 940年以降は沙州の朝貢が断続的になったものの、比較的両国の関係は良好に戻っている。 それは敦煌王の曹元忠が積極的に甘州の可汗と婚戚関係を結んだ結果だと言われており、 甘州ウイグル王国の優勢がうかがえます。 この頃から、甘州の可汗は甘・沙州回鶻可汗と呼ばれるようになる。 960年頃以降から 甘州ウイグルの他に西州ウイグル,亀茲ウイグル,秦州ウイグルといったウイグル系の国家も中国の北宋に朝貢するようになっている。 しかし、11世紀に入ると、甘州ウイグル王国は夏州の定難軍節度使(西夏)と何度か衝突するようになる。 時に夏州の定難軍節度使は夏州のみならず、銀,綏,宥,静の計5州を支配下に置いており、1006年には北宋より西平王に封ぜられるほど強盛となっていた。 1028年、定難軍節度使の李徳明は息子の李元昊を派遣して甘州を襲撃させ、甘州を陥落させた。 ここに甘州ウイグル王国は滅亡し、河西地方はまもなく西夏の一部となった。 後年、ジンギスハーンが興ると、天山ウイグルは いち早く 「ウイグル?馬王家」としてコンギラト?馬家と並ぶ、?馬王家筆頭と賞され モンゴル王族に準じる地位を得る事となり。 がジンギスカーンが“西夏”を亡ぼす、 ・・・・・・・歴史の流転 _____ 続く _____
2012/06/11
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ラサからカトマンズーへ抜けようと誘う友人がいる 無論 国際線があり 簡単に飛べるが陸路で踏破したい タクラマカン砂漠から聖山・カイラースを巡り プラマプドラ源流⇒ラサが憧れのルート 愚図愚図する間に 行けなくなった 中国政府が5月末から、外国人のチベット入り当面禁止 チベット自治区への外国人の入境を当面、事実上禁止したことが8日わかった。 同自治区の旅行当局が明らかにした。 5月27日に同自治区ラサでチベット族2人が 焼身自殺を図り、政府が警戒を強めていることが関係しているとみられる。 同自治区は、外国人が訪れる際は政府の許可が必要な地域。 旅行当局によると、同自治区共産党委から通達が届き、外国人の入境審査を厳格 にするよう求められた。 入境手続きの再開時期は未定という。(上海情報) //////// さて オルドスの北端から黄河と離れ バダインジャラ砂漠を無許可で 西夏王国の都・カラコラムまで踏破した あの裏の手を使おうか ////// Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/11
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貞元11年(795年)2月、奉誠可汗(ホウセイカガン)が死去し、子がいなかったため、国人たちは宰相である阿跌(エディス)氏の骨咄禄(クトゥルク)を立てて可汗とした。 骨咄禄(クトゥルク)は同年の6月に 唐から 回鶻可汗国の第7代可汗・懐信可汗(カイシンカガン、在位:795年-805年)として、冊立されている。 これによって回鶻の薬羅葛(ヤグラカル)政権が終わり、阿跌(エディス)政権が始まったことになる。 懐信可汗はマニ教を再び受容し、西方からの文化を受け入れていった。 この後、マニ教は回鶻可汗国の国教になっていきます。 骨咄禄はもと阿跌(エディス)氏で、幼くして回鶻の大首領に養われ、合骨咄禄毘伽可汗の時に何度か主兵を率いたため、諸酋に慕われるようになり、回鶻可汗国のとなった。 骨咄禄は阿跌氏であったが、薬羅葛氏に恩義があったため、あえてその氏族名を名乗らなかった。 こうして薬羅葛氏の政権が終わり、阿跌氏の政権が始まる。 唐帝国・徳宗皇帝は秘書監の張薦に節を持たせて骨咄禄を冊立し、騰里邏羽録没密施合禄胡毘伽懐信可汗(テングリで・ウルグ・ボルミシュ・アルプ・区トゥルク・キュリュグ・ビルゲ・カガン)の称号を授けている。 永貞元年(805年)、懐信可汗が死ぬと、唐は詔で鴻臚少卿の孫杲に臨弔させ、後継ぎを冊立して滕里野合倶録毘伽可汗(トウリヤコウクリョクビガカガン)を冊立している。 回鶻可汗国は元和(806年-820年)の初め、再び朝献し始め、摩尼(マニ)を唐に至らせています。 マニ教が復興していた。 また、元和3年(808年)には、滕里野合倶録毘伽可汗は咸安公主の喪を唐に報告させている。 咸安公主は四人の四可汗に嫁ぎ(レビラト婚)、回鶻にいること21年間に及んでいた。 間もなくして滕里野合倶録毘伽可汗も死んだので、憲宗は宗正少卿の李孝誠に冊拜させて 保義可汗(ホギカガン、愛登里羅汨蜜施合毘伽保義可汗)を任命した。 即位した保義可汗(ホギカガン)は 元和4年(809年)、唐に遣使を送って国号を迴鶻(回鶻)と改めたことを報告している。 元和8年(813年)4月、保義可汗は使者の伊難珠を唐に遣わして請婚した。 しかし、唐がそれに応じなかったため、保義可汗は3千騎を率いて鵜泉に至り、唐の辺境を脅かした。 唐の辺軍は戒厳令を敷き、両国に緊張が走った。 皇帝・憲宗は使者を送り、回鶻・保義可汗を説得させたが、保義可汗は求婚をあきらめず、翌年にまた合達干(アルブ・タルカン)らを送って 再び 強行に求昏させている。 【 保義可汗の求婚 ;元和3年(808年)、合骨咄禄毘伽可汗以来、4代の可汗に嫁いできた咸安公主が亡くなったため、 保義可汗(在位:808年-821年)は唐に新たな公主を求めた。 しかし、唐がそれに応じなかったため、保義可汗は3千騎を率いて鵜泉に至り、唐の辺境を脅かした。 憲宗(在位:806年-820年)は宗正少卿の李孝誠と太常博士の殷侑を回鶻に赴かせ、説得させたが、保義可汗は求婚をあきらめず、更に 強行姿勢をとった。 長慶元年(821年)、穆宗皇帝(在位:821年-824年)の代になってようやく許しが出たが、保義可汗はこの世を去ってしまう。 そこで穆宗は皇妹である太和公主を次の崇徳可汗(在位:821年-824年)に出嫁することにし、太和公主が新たな回鶻可敦(ウイグル・カトゥン、皇后)となった。 ≪ 回鶻可汗国の可汗にとって 己の皇后が唐の皇女である事で、支配する諸氏族・豪族を抑制する権威になっていたのです。≫ 穆宗(ボクソウ)皇帝 ; 父の憲宗が宦官の王守澄によって殺害されると、その王守澄によって皇帝に擁立された。 穆宗は 主体性に欠け、享楽に耽る生活を送っていた。 このため宦官による専横がこの穆宗の時代にさらに顕著化し、“牛李の党争”と呼ばれる官僚らの派閥闘争が激化した。 なすすべもなく、自らの長命のために道士が勧めた金丹中毒により、31歳にして崩御している。 因みに、 穆宗の後継者・敬宗(ケイソウ)皇帝は12歳で景王となり、翌年に皇太子となる。 穆宗の崩御により即位するが、史書によれば暗愚で暴虐な人物であったとされる。 敬宗は相撲などの遊興に耽った上、 宦官を粛清するなどしたために、これに不満を持った宦官の劉克明らによって、19歳の時に寝所で暗殺されている。 文宗(ブンソウ)皇帝が 唐朝の第17代皇帝として跡を継ぐが、宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった“甘露の変”で死す 】 保義可汗(808年-821年)の治世には、ジュンガル(北庭大都護府所在地域)盆地を制圧してカルルクを服属させ、タリム(タクラマカン砂漠)盆地を制圧し、交易路を確保しているが、南東の戦線では吐蕃が優勢を保持していた。 長慶元年(821年)2月、保義可汗が薨去したので、穆宗皇帝は使者を送って弔問させ、4月に新たな回鶻君長を冊立して 崇徳可汗(スウトクカガン、登羅羽録没密施句主録毘伽可汗)を冊立した。 当時、回鶻可汗(ウイグル・カカン)国の辺境では、809年に吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻-唐間の直道を遮断していた。 813年、回鶻可汗の保義可汗は 漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し 周辺を制圧されている。 821年、唐は回鶻との連合を より強固な結束に図るため 公主を降嫁させる決意をいている。 が、この年に、長慶元年(821年)2月、保義可汗が薨去したのです。 穆宗は使者を送って弔問させ、4月に新たな回鶻君長を冊立して登羅羽録没密施句主録毘伽可汗とした。 保義可汗は生前、何度も唐の憲宗に請婚をしたが、ことごとく断られ、ついに唐の辺境を侵すようになっていた。 保義可汗の他界で、回鶻可汗国と唐帝国のぎくしゃくする問題は霧散し、穆宗は皇妹(第10皇女)である太和公主を崇徳可汗(スウトクカガン)に出嫁することにした。 崇徳可汗(スウトクカガン)は、保義可汗が薨去すると、穆宗皇帝が使者を送って弔問させ、4月に新たな回鶻君長を冊立しせねばならぬ折、 正嗣を崇徳可汗(スウトクカガン、登羅羽録没密施句主録毘伽可汗)と命名し、回鶻可汗国の第10代可汗に即位させた人物です。 長慶元年(821年)5月、崇徳可汗は回鶻宰相の伊難珠と句録,都督の思結,葉護公主,摩尼(マニ僧)ら573人を唐に入朝させて太和公主を迎えるとともに、葉護公主を穆宗皇帝に娶らせた。 互いに王女を嫁がせている。 翌年の長慶2年(822年)2月、「 唐は回鶻に馬価絹5万匹を賜う。 3月、さらに馬価絹7万匹を賜う。 この月、唐の裴度は幽州・鎮州の乱鎮圧に回鶻を招こうと考え、回鶻の方でも反乱鎮圧に協力することを請願した。」と 史書にあります。 しかし、唐の朝廷は宝応元年(762年)の史朝義討伐“安史の乱”の事を思い起こし、回鶻には参加させないことを決めた とも追記されています。 この決定がすぐに回鶻に伝えられるが、気の早い回鶻軍はすでに豊州の北界まできており、命令を聞かされても、引き返そうとはしなかった。 そこで 穆宗皇帝は詔で絹帛7万匹を回鶻に賜うことによって彼らを帰らせている。 閏10月、太和公主は金吾大将軍の胡証らに護衛されて回鶻可汗国に到着した。 太和公主は早速、崇徳可汗と面会し、回鶻風の儀式を受けて回鶻可敦(ウイグル・カトゥン、皇后)に即位した。 崇徳可汗はこの御返しとして唐に遣使を送り、国信4床・女6人・葛禄(カルルク)捕虜4人を献上している。 824年に、河西街道(シルクロード)の武威・白塔寺で 吐蕃と唐が停戦協定を行なう状況に至って以降は、 回鶻軍は専ら西部で戦闘を継続し 吐蕃との抗争を繰り広げる。 そして、840年に和睦するまでの間に、漠南を奪還し河西地域を征服してた。 吐蕃と唐が停戦協定を結んだ年(824年)に崇徳可汗が他界し、その弟の曷薩特勒(カツサツ・テギン)が立って可汗に即位した。 翌年の宝暦元年(825年)5月、唐は新可汗を冊立して昭礼可汗(ショウレイカガン、愛登里?汨没蜜施合毘伽昭礼可汗)とし 認証している。 内乱と可汗国の崩壊 崇徳可汗(スウトクカガン)の次は親弟の曷薩特勒(カツサツ・テギン)が立って昭礼可汗(ショウレイカガン、在位:824年-832年)となったが、彼はその配下に殺されてしまう。 大和6年(832年)のクーデターです。 続いて従子の胡特勒(コ・テギン)が立って彰信可汗(ショウSンカガン、在位:832年-839年)となったが、彼もまた宰相の掘羅勿(キュレビル)に殺される。 開成(836年?840年)の初め、回鶻宰相で安允合という者がおり、王族の柴革とともに彰信可汗簒奪を欲したが、 彰信可汗に発覚し、柴革と安允合は殺された。 しかし、 開成4年(839年)、宰相の掘羅勿は彰信可汗が柴革と安允合を誅殺したことを怨み、沙陀族(サダ族、8世紀から10世紀頃まで、華北-オルドス-山西近辺の地域で繁栄したテュルク系民族・突厥の一部族)を招き寄せて彰信可汗を攻めたため、彰信可汗は自殺したのです。 国人は?特勒(コウソウ・テギン)を推戴し、立てて可汗とした。 時に回鶻では連年、疫病と飢餓に悩まされた上、大雪にも見まわされたため、多くの羊や馬を死なせてしまっていた。 そんな中、渠長(キョウチョウ:将軍)の句録莫賀(キュリュグ・バガ)は 宰相の掘羅勿を恨み、北の黠戛斯(キルギス)軍10万騎を招き寄せて回鶻城(オルド・バリク)を破り、?可汗と掘羅勿を殺してその牙帳を焼き払った。 これによって回鶻の衆は散り散りになって諸蕃に奔走することとなり、宰相の?職(ソウショク)は外甥の?特勤(ホウ・デギン)および男鹿并遏粉ら兄弟5人、計15部を擁して西の葛邏禄(カルルク)に奔走し、一部は吐蕃へ、一部は安西(亀茲)へ投じた。 また可汗の牙帳近くの13部は、烏介特勤(ウグ・デギン、昭礼可汗の弟で、彰信可汗の叔父)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。 回鶻を破った黠戛斯(キルギス)は太和公主を得る。 こうして 北方から南下した黠戛斯(キルギス)族に モンゴル高原に覇を唱えた回鶻可汗国は崩壊させられた。 これによって回鶻可汗国は崩壊し、諸部は分散した。 可汗国の崩壊後 回鶻可汗国の崩壊後、モンゴル高原を支配したのは黠戛斯(キルギス)であったが、その支配は長続きせず、860年代には東方のタタル族によって高原を追い出されてしまう。 以後、モンゴル高原は諸部族が割拠する時代に入り、ジンギスハーンの大蒙古帝国が現れるまで統一政権が生まれなくなる。 一方、回鶻のいくつかの勢力は逃げ延びた地域で力を持ち、天山ウイグルや甘州ウイグル,亀茲ウイグルなどの諸王国が生まれることとなった。 中でも天山ウイグルは 大蒙古帝国の支配下にあっても存在し続け、13世紀までその勢力を保ち、その文化的昇華は 現代のシルキロードのロマンなのです。 _____ 続く _____・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/10
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昨日のニュースに イギリス人が手こぎボートで太平洋を横断中 救援された とあった 二人の男女である 半世紀近く前になろうか ケンブリッジ大の学生五名が 日本の外周をカヌーで一周したことがある なにかの目的で、それが名誉、利益のために、あるいはなんらそれがもたらすものがなくても冒険それ自体のために危険な企て、冒険、試みに 敢えて挑戦を試みる人たちが冒険者なのだが 肉体的な冒険のみならず 政治的な冒険者の革命家 目撃者たらんとして行動するジャーナリスト 個人的興味にて実践してくれるおかげを 私達は 彼らの成果を 甘受している 商人だった伊能忠敬が地球の緯度1度の子午線弧長について正確に知りたい測量の旅に出た 55歳を過ぎたご隠居さまだ 二十有余の年月を費やして大日本沿海輿地全図を完成させた 完成には 幕府の政治的意図と支援があったが 開始当初はたった一人の独行が冒険 伊予国宇和郡の二宮忠八は ライト兄弟の飛行(一分間)成功の 18年前に試行した その百数余年前に 三宅幸吉が岡山・吉井川の橋梁欄干からハンググラーダー = 彼は 私が所属したハング・グラーダー会のシンボルだった = 彼は牢屋送りとなったが 異能者・冒険者を 抹殺すれば文明の前進はない 江戸時代にこんな話がある とある藩主が異能者を集め 御前での披露会を催した ある跳躍に秀でる若者が 板垣を飛翔・飛越した その着地点には槍の穂先が並べてあった 冒険者・異能者を受け入れない社会は進歩しないであろう オリンピックで異能を競う それを空調完備の温室で楽しむよりは 自分は行動する冒険者でありたい Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/10
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742年、回?(ウイグル)部は葛邏禄(カルルク)部とともに、拔悉蜜(バシュミウ)部を盟主として反東突厥同盟を結び、拔悉蜜大酋の阿史那施(アシナセ)を立て頡跌伊施可汗(イルテリシュカガン)とした。 三者は協調して東突厥を攻撃し、東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュカガン)を殺した。 744年、回?部と葛邏禄部は盟主である頡跌伊施可汗を殺し、 代わって回?部の頡利発(イルテベル:部族長)であった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が毘伽闕可汗(ビルゲ・キョル・カガン)となり、 唐に遣使して懐仁可汗の称号を賜った。 回鶻(ウイグル)可汗国の建国である。 745年には最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥を滅ぼし、ついにモンゴル高原の覇者となった。 葛勒可汗(カツロクカガン)の代になり、唐において安史の乱が勃発した(755年)。 これにより唐の皇帝であった玄宗は退位し、粛宗が皇帝となった(756年)。 粛宗は回?(ウイグル)に援軍を求めるため、李承?を燉煌王に封じ、李承?は将軍の石定番を回?(ウイグル)への使者に任命して修好を結ばせるとともに、対安禄山の徴兵をさせた。 葛勒可汗はこれに承諾すると、娘の毘伽(ビルゲ)公主を李承?に娶らせ、両国の友好関係が成立した。 至徳2載(757年)9月、唐の元帥は広平王・李俶(後の代宗皇帝)で、回?からは太子葉護(ヤブク)と僕固氏・懐恩が回?軍を指揮して安禄山討伐にあたった。 唐・回?連合軍は11月までに首都の西京(長安),副都の東京(洛陽)を奪還することに成功し、太子葉護は司空忠義王に封じられた。 翌年(758年)、粛宗は葛勒可汗(カツロクカガン)を英武威遠毘伽可汗に冊立するとともに、寧国公主を葛勒可汗に嫁がせ、唐帝国と回鶻(ウイグル)可汗国が婚姻で結ばれる同盟国になった。 葛勒可汗は759年4月に死に、寧国公主は唐へと帰国する。 太子葉護は帰国後亡くなったため、その弟である牟羽可汗(ボウウカガン)が立って即位した。 宝応元年(762年)4月、唐で粛宗が崩御したため太子の代宗が即位した。 代宗は史朝義(安史の乱指導者)がなおも河洛の地にいるので、それを討伐するために劉清潭を回?(ウイグル)に派遣して徴兵させるとともに、旧好を修めさせようとした。 しかし 8月には、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」と牟羽可汗(ボウウカガン)を誘ったため、回?軍が大軍を擁して南下を始めていた。 劉清潭はそれに遭遇したので、まず唐への侵攻を踏みとどまるよう牟羽可汗(ボウウカガン)を説得したが聞き入れられなかった。 このとき回?軍はすでに三城の北まで到達していた。 牟羽可汗は使者を派遣し、北方の単于都護府の兵馬と食糧を奪取するとともに、劉清潭をひどく侮辱した。 この時、牟羽可汗(ボウウカガン)の可敦(カトゥン:皇后)である僕固氏(僕固・懐恩の娘)が牟羽可汗を諫めたため、牟羽可汗は思いとどまり、そのまま唐側に付いて史朝義討伐に参加している。 牟羽可汗は僕固・懐恩とともに史朝義軍を圧倒し、史朝義を自殺に追い込むと、河北を平定して8年に及ぶ安史の乱を終結させた(763年)。 これにより牟羽可汗は唐より英義建功毘伽可汗(エイギケンコウ=ビルゲカガン)に冊封され、可敦(皇后)や左右の殺(シャド),諸都督,内外宰相以下にも封号が与えられた。 広徳2年(764年)、安史の乱鎮圧の功労者である僕固・懐恩が叛き、吐蕃の衆数万人を招き寄せて奉天県に至ったが、朔方節度の郭子儀によって防がれた。 翌年(765年)秋、僕固・懐恩は回?,吐蕃,吐谷渾,党項,奴剌の衆20数万を招き寄せて、奉天,醴泉,鳳翔,同州に侵攻した。 しかし 僕固・懐恩が死んだため、吐蕃の馬重英らは10月の初めに撤退し、回?首領の羅達干(ラ・タルカン)らも2千余騎を率いて徑陽の郭子儀もとへ請降しに来た。 これ以降、回?と唐の和平が保たれたが、唐国内で安史の乱鎮圧の功を鼻にかけた回?人の暴行事件が相次ぎ、大暦年間(766年-779年)において社会問題となり 両国の関係が怪しくなる。 大暦13年(778年)になると、遂に牟羽可汗自身も回?軍を率いて唐に侵攻するようになり、今まで良好であった唐との関係が一気に崩れた。 翌年(779年)、代宗が崩御して徳宗が即位すると、ソグド人の官僚はその喪中を狙って唐に侵攻するよう牟羽可汗に促した。 それを聞いた牟羽可汗はふたたび唐に攻め込もうとしたが、それに反対だった宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タンカル)が牟羽可汗とソグド人官僚を殺害し、自立した。 頓莫賀達干は酋長の建達干(ケン・タルカン)を唐へ入朝させ、牟羽可汗殺害の経緯を報告させている。 牟羽可汗代わりに、頓莫賀達干が立って合骨咄禄毘伽可汗(アルブ・クトゥルク・ビルゲカガン、武義成功可汗)と成り、回鶻(ウイグル)可汗国の第4代・カガンに即位した。 合骨咄禄毘伽可汗は、唐との関係を修復したので、唐よりの称号を賜っている、また 牟羽可汗が信仰していたマニ教を弾圧し、ソグド人たちにも圧力をかけた。 貞元3年(787年)8月、合骨咄禄毘伽可汗は唐との関係を改善するために唐に皇女の降臨を願い、咸安公主を娶っている。 その後 両国の平和が保たれ、合骨咄禄毘伽可汗は国号を回?から回鶻に変えるとともに、再び唐から長寿天親可汗の称号を賜っている。 建中元年(780年)、徳宗は詔で頓莫賀達干を冊立し、武義成功可汗の称号を賜うべく、京兆少尹の源休に節を持たせて回鶻可汗国に向かわせた。 しかしこの時、唐で回鶻酋長の突董,翳蜜施,大小の梅録らの4人が九姓胡(ソグド人)にそそのかされた振武軍使の張光晟によって殺されるという事件が起きた。 徳宗は張光晟をすぐさま罷免したが、すでにこのことが可汗のところにも伝えられており、両国に緊張が走った。 翌年(781年)、源休は詔と4人の遺体を回鶻にもたらしたが、大相の頡干迦斯(イル・オゲシ)にその罪を咎められ、50日間拘束された。 合骨咄禄毘伽可汗(クトゥルク・ビルゲカガン、武義成功可汗)は源休を許して釈放すると、散支将軍の康赤心らを源休に随わせて唐に入朝させている。 貞元3年(787年)8月、合骨咄禄毘伽可汗は首領の墨啜達干および多覽将軍の合闕達干(アルプ・キョル・タルカン)らを唐へ遣わして方物を貢納させ、和親を請うついでに求婚をさせた。 徳宗はこれを許可し、咸安公主を嫁がせることにした。 翌年(788年)10月、合骨咄禄毘伽可汗は宰相の阿跌(エディズ)都督ら1000人とその妹の骨咄禄毘伽(クトゥルク・ビルゲ)公主など60数人および馬2000匹を送って咸安公主を迎えに行かせた。 しかし、阿跌都督が室韋族(シツイ族、6世紀から10世紀まで中国東北部の嫩江,アルグン川,黒竜江流域に居住していた民族)の襲撃に遭って死んだので、骨咄禄毘伽公主ら700人のみが唐へ入朝することとなった。 この時、合骨咄禄毘伽可汗は上書して「昔は兄弟の関係であったが、今は婿か子の関係にある」と述べると、回?の名を回鶻に改めることを請願している。 徳宗皇帝は骨咄禄毘伽(クトゥルク・ビルゲ)公主をもてなした後、滕王の李湛然と右僕射の関播に骨咄禄毘伽公主と咸安公主を護送させ、 冊書で合骨咄禄毘伽可汗(武義成功可汗)を汨咄禄長寿天親毘伽可汗に拝し、咸安公主を智恵端正長寿孝順可敦(皇后)に拝しています。 貞元5年(789年)12月、合骨咄禄毘伽可汗(武義成功可汗、汨咄録長寿天親昆伽可汗)が薨去し、子の多邏斯(タラス)が立って忠貞可汗(チュウテイカガン)となった。 しかしながら、 貞元6年(790年)の初頭に、吐蕃が回鶻に従属していた白眼突厥,三姓葛禄(ウチュ・カルルク),沙陀(サダ)部などへ贈物を贈って 共に北庭大都護府を攻撃した。 また、東方では奚,契丹の反乱が起きていた。 忠貞可汗は頡干迦斯(イル・オゲシ)を派遣して、北庭大都護府の唐軍への救援に向かわせた。 【北庭大都護府;唐朝は当時西域の二元化管理を行い、漢族居住地には中原地区同様に均田制や租庸調制や府兵制が施行され、 その他音地域には民族毎の行政管理制度が採用され、その首領には唐風の官職名が与えられ統治権を付与した。 新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州の庭州(ジムサル県北庭郷、ウルムチし北方)に設置された 】 しかし、貞元6年(790年)4月、忠貞可汗(チュウテイカガン)は少可敦(皇后)の葉公主に毒殺され、忠貞可汗の弟が擁立され、可汗となった。 だがしかし、擁立された弟も 間もなく 彼らも国人たちに殺され、忠貞可汗の幼子である阿啜(アチュル)が立てられ、可汗となった。 同年の6月、大将の頡干迦斯(イル・オゲシ)が西の吐蕃征討から帰還すると、可汗阿啜と国人たちは彼を出迎え、ひれ伏して可汗廃立の事情を説明するとともに、留守中に惨事を起こしたことを陳謝した。 事情を聞いた頡干迦斯は新たな可汗に臣下の礼を執るとともに忠貞可汗(チュウテイカガン)の死を悲しんで蟄居している。 10月、可汗阿啜(カガン=アチュル)は将軍を唐へ派遣して忠貞可汗の死を報告している。 貞元7年(791年)5月、徳宗皇帝は鴻臚少卿の??を派遣し、阿啜を冊立して奉誠可汗(ホウセイカガン)として冊立している。 頡干迦斯(イル・オゲシ)が一応鎮圧した北庭大都護府は 再び 吐蕃連合軍に侵攻されていた。 北庭大都護府が陥落し、楊襲古・総督は兵と共に西州に奔走した。頡干迦斯は徳宗皇帝の要請で 楊襲古と連合して北庭を取り返すべく5,6万の兵で攻めた。 大敗を喫し、兵の大半が死んだ。 このとき楊襲古がまた西州に逃げようとしたので、頡干迦斯は彼を殺している。 一方で吐蕃連合軍の葛禄(カルルク)が勝ちに乗じて 回鶻可汗国の西部・浮図川を奪ったので、回鶻は大いに恐れ、北西にある部落の羊馬を南部へ移動してこれを避けている。 その後の791年に、可汗阿啜(カガン=アチュル)は北庭を奪還、また唐軍と共に塩,霊州へ攻撃を掛けて陥落させ吐蕃の首領を捕えた。 がしかし、この後、タリム盆地~河西地域~隴右~漠南一帯を巡る 吐蕃・葛禄(カルルク)・回鶻は唐の衰退と共に 三者三様に覇権を競う戦争を 50年に渡って続けるのです。 貞元11年(795年)2月、奉誠可汗(ホウセイカガン)が死去し、子がいなかったため、国人は宰相である骨咄禄(クトゥルグ)を立てて可汗とした。 骨咄禄はもと阿跌(エディズ)氏で、幼くしてウイグルの大首領に養われ、合骨咄禄毘伽可汗の時に何度か主兵を率いたため、諸酋に慕われるようになり、回鶻可汗国の宰相となる。 貞元11年(795年)2月、奉誠可汗が死去したが、彼に子がいなかったため、国人たちは骨咄禄(クトゥルグ)を立てて可汗とした。 骨咄禄は阿跌氏であったが、薬羅葛氏に恩義があったため、あえてその氏族名を名乗らなかった。こうして薬羅葛(ヤグラカル)氏の政権が終わり、阿跌氏の政権が始まる。 同年(795年)の6月、唐は秘書監の張薦に節を持たせて骨咄禄を冊立し、懐信可汗(カイシンカガン、騰里邏羽録没密施合禄胡毘伽懐信可汗)の称号を授けた。 永貞元年(805年)、懐信可汗が死ぬと、唐は詔で鴻臚少卿の孫杲に臨弔させ、後継ぎを冊立して滕里野合倶録毘伽可汗(トウリヤコウクリョクビカガン)とした。 彼は808年に崩御しますが・・・ ______ 続く _______
2012/06/09
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乾元二載(759年)四月に回鶻(ウイグル)可汗国の懐仁可汗が他界の折、「その長子は、以前に殺されていたので、回鶻は末子の移地健を即位させ、その妻を可敦とした」という『史記』の記述がある。 この記述からすると、葉護(ヤブグ)皇太子は粛宗皇帝の期待を一身に受け、凱旋帰国た後に 間もなく殺害されたものと思われます。 回鶻(ウイグル)可汗国内でのカガン位継承問題は無かったのですから、安禄山の配下で参謀の史思明が謀殺した と考えるのが、時代背景に合うと考えられます。 尚、記述中の《その妻を可敦(カトゥン:皇后)とした》はレビラト婚のことで、寡婦が死亡した夫の兄弟・子供と結婚する習慣です。 死亡した妻の代わりにその姉妹がその夫と結婚する習慣のことはソロレート婚というのですが、レビラト婚の目的は、最初の婚姻で結ばれた両親族集団の紐帯を維持し続けようとする風習です。 モンゴル族、匈奴、チベット族などで一般的です。 仏教・キリスト教・イスラヌ教では奇異であり、北方民族と漢中王朝との狭間で苦しんだ王女の話は歴史上に幾多もあります。 ・・・・・・・ さて、粛宗皇帝の話から 回鶻(ウイグル)可汗国の史跡を追いましょう。 粛宗、唐朝の第7代皇帝。 玄宗の第18子、幼少時に改名を繰り返し 即位時は亨であった。 生母の楊氏は楊貴妃とは別人の楊氏です。 長兄の李宗が早世し、皇太子である次兄の李瑛が737年(開元25年)に武恵妃らにより廃位されると、その翌年皇太子に立てられた。 744年(天宝3載)には『享』と諱を改めている。 755年(天宝14載)11月、安史の乱が勃発した翌年 長安に反乱軍が迫ったことを受け、玄宗と共に 粛宗は長安を脱出した。 馬嵬(陝西省興平市)で兵士らによる反乱が発生し、楊貴妃一族の粛清が行なわれた。 玄宗は蜀へ避難した。 李享(粛宗)らは安禄山らに対抗すべく 北伐の為に反転し、 粛宗の討伐軍が奉天(陝西省乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武(寧夏、霊武市)に到着した時、 側近である宦官・李輔国の建言を容れ、李享(粛宗)は自ら皇帝に即位、至徳と改元した。 これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となっている。 即位後、郭子儀の軍を中心にウイグルの援兵を加えて態勢を整えると、粛宗皇帝は鳳翔(陝西、鳳翔県)に親征し反撃に転じた。 757年(至徳2載)に、異母弟の永王・李瑞が江北地方で勝手に軍勢を動かす背信行為をしたので、激怒した粛宗は父・玄宗のもとに参内することを命じたが、永王は兄の勅命に従わなかった。 粛宗は江西采訪使・皇甫?と高適(李白と親交があり磊落な性質で家業を怠り、落ちぶれて食客となっていたが、発憤して玄宗の時に有道科に挙げらた)に命じて、 兄・永王を討伐させた。 粛宗は皇甫?に永王を捕虜とした際に自分のもとに護送することを命じたが、皇甫?は独断で永王を斬っている。 同年、757年に 安禄山が自らの息子安慶緒に殺されると、郭子儀や粛宗の長子の広平王・李俶(後に豫と改名)と第3子の越王・李係らの活躍により長安や洛陽を奪還する。 【 安慶緒(アンケイショ)、燕の第2代皇帝。 安禄山の皇太子であったが、父帝が洛陽で病を患い、視力を失って人間不信に陥り、奢侈にもふけるようになり 親への孝を失った。 父・安禄山が慶緒の廃嫡にまで言及し始めたので、757年1月、唐軍と交戦が続く中で 側近とともに父帝を殺害し、帝位を簒奪。 しかし人望のない慶緒に、家臣の忠誠を繋ぎとめる事はもはや出来なく、757年10月 唐の粛宗に派遣された郭子儀らと回鶻の連合軍に長安と燕の都城・洛陽を奪われる。 黄河を渡り?城(河南省安陽市)に逃亡する。 759年3月、有力部将・史思明の援軍によって唐の大軍勢を撃退したが、間もなく自身も史思明の裏切りで殺害された。 その後、史思明は安慶緒の軍勢を引継ぎ、本拠地・范陽(河北省北京市一帯)に戻り、大燕皇帝を称するようになる・・・・・】 粛宗は10月、玄宗は同12月に長安に帰還しているが、安慶緒や史思明らの残存勢力はなおも存在しており、唐軍と安史軍の膠着状態は継続していた。 758年(乾元元年)、粛宗は第五奇(幼い頃両親を亡くし、兄の第五華の下で学問を修め、富国強兵の術をもって自任する政治家・財政家)を塩鉄使とし塩の専売制を政策するも、 朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官達に掌握されており、自らの政治力を発揮できる状況ではなかった。 自らの政治力はなく、宦官・李輔国の宦官政治だった。 その後、李輔国は張皇后と主導権を巡る政争を引き起こし 両者に不都合な次子の建寧王・李峻に謀反計画を名目に自殺に追い込むなどの事件を起こしている。 このころから粛宗皇帝は病床に就くことが多く、政治には疎んじて行き、 762年(宝応元年)4月、玄宗が崩御した13日後に、安史の乱を終結することなく粛宗皇帝も52歳で崩御した。 粛宗が宦官に擁立されていたことが、以降の皇帝の擁立に宦官が関与する慣例を生んでしまい、宮廷内宦官の増長が唐帝国を蝕んでいくのです。 葛勒可汗の子として牟羽可汗は生まれる。 牟羽可汗(ボウウカカン ?-779年)は、回鶻(ウイグル)可汗国の第3代可汗。 葛勒可汗(カツロクカカンの子。 氏は薬羅葛(ヤグラカル)氏、名は移地健。 初めは登里可汗(タングリカカン)と称したが、唐に入朝した際に英義建功毘伽可汗(エイギケンコウ=ビルゲカカン)の称号を授かっている。 乾元2年(759年)4月、葛勒可汗が死去し、長子の葉護(ヤクブ)は先に殺されていたため、次子の移地健が立って牟羽可汗となり、その妻である僕固氏・懐恩の娘が皇后となった。 8月、前皇后(義母)の寧国公主は子がなかったので唐に帰国することとなった。 上元元年(760年)9月、牟羽可汗(ボウウカカン)は大臣のらに入朝させて、寧国公主の帰国を奉表させている。 上元2年(761年)2月、安史の乱指導者である史思明が子の史朝義によって殺された。 “安史の乱”は 一応の終焉を見たが、 宝応元年(762年)4月、唐で粛宗が崩御し 太子の代宗が即位した。 代宗皇帝は史朝義がなおも河洛の地にいるので、討伐するために劉清潭をウイグルに派遣して徴兵させるとともに、回鶻(ウイグル)可汗国との旧好を修めさせようとした。 しかし 劉清潭到達前に、史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」と牟羽可汗(ボウウカカン)を誘ったため、回?軍が大軍を擁して南下を始めたていた。 同年8月、劉清潭は南下する軍団に遭遇した。 劉清潭は、まず唐への侵攻を踏みとどまるよう牟羽可汗を説得したが聞き入れられなかった。 このとき ウイグル軍はすでに三城の北まで到達していた。 牟羽可汗は使者を派遣し、北方の兵馬と食糧を奪取するとともに、劉清潭をひどく侮辱している。 劉清潭が密かにこの状況を代宗皇帝に報告すると、朝廷内は震撼した。 時に牟羽可汗の皇后・僕固氏は、唐にいる父と祖母に会いたいと言い出した。 父の僕固氏・懐恩は太原へ赴き、娘に会ったついでに牟羽可汗を説得しいる。 その説得で、ようやく牟羽可汗(ボウウカカン)は思いとどまり、ウイグル軍の進軍が止んだ。 そして、引き続きウイグル軍は賊軍(史朝義)討伐に参加することになり、 再び進軍を開始した。 牟羽可汗は 唐軍の兵馬元帥の雍王・李?や御史中丞の薬子昂らと面会に赴いた。 その時 幕舎内で、 可汗が拝礼をするべきか否かで 両者の間で言い争いが起き、ウイグルの車鼻将軍が薬子昂、李進、韋少華、魏?を引っぱり出して、おのおの百回棒で打った。 韋少華と魏?は棒で打たれたのがもとで翌日死んでしまった。 この事件で、雍王・李?はまだ若造で未熟であるという理由で 代宗皇帝から放免され、本営へ還っている。 この事件もあって 僕固・懐恩が回鶻の右殺(シャド:官名、左右の要職)とともに先鋒となり、諸節度たちを叱咤し、賊軍を攻撃して破った。 史朝義は残党を引き連れて逃走した。 牟羽可汗は引き続いて河陽(河南省孟県)に進軍し、幕営をならべて数ヶ月ここに駐屯している。 この時、幕営より百余里のあいだでは、人々がウイグル軍の掠奪と凌辱をうけ、その害悪に堪えきれなかったという。 進駐したウイグル兵が邁進していた。 草原の遊牧社会と定着農耕社会の文化的な溝が露呈し これが遠因と成り、相互の信頼が揺らいで行く。 僕固氏・懐恩は常に軍の殿軍となって戦っていた。 過酷な戦いであった。 節度使たちが河北の州県を占領すると、息子の僕固・?はウイグルの部衆とともに 2千余里も追跡し、平州の石城県で史朝義の首を梟して帰り、ついに河北はことごとく平定された。 この戦果に 代宗皇帝は、宮廷・宣政殿に臨御して冊文を出し 牟羽可汗(ボウウカカン)と皇后に爵位を与えている。 また、左右の殺(シャド),諸都督,内外宰相以下も、共に実封2千戸を加えられることとなり、左殺は雄朔王、右殺は寧朔王、胡禄都督は金河王、拔覽将軍は静漠王に封じられ、諸都督11人が封国公となった。 しかし、広徳2年(764年) 僕固氏・懐恩が叛き、吐蕃の衆数万人を招き寄せて奉天県に至った。 この反乱軍は、朔方節度の郭子儀によって鎮圧されたが、 回鶻(ウイグル)可汗国内での権力闘争 即ち、争薬羅葛(ヤグラカル)氏と僕固(ボッコ)氏の勢力抗争の勃発だった。 翌年(765年)秋、僕固・懐恩は回鶻,吐蕃,吐谷渾,党項,奴剌の衆20数万を招き寄せて、奉天,醴泉,鳳翔,同州に侵攻した。 しかし 懐恩が進軍途上で死んだため、吐蕃の馬重英らは10月の初めに撤退し、回鶻(ウイグル)首領の羅達干(ラ・タルカン)らも2千余騎を率いて徑陽の郭子儀もとへ請降しに来た。 これ以降、回鶻と唐の和平が保たれたが、唐国内で安史の乱鎮圧の功を鼻にかけた回鶻人の暴行事件が相次ぎ、大暦年間(766年-779年)において社会問題となった。 回鶻可汗国の光親皇后が卒去し、代宗皇帝は 明年(767年)に、懐恩の娘を崇徽公主として牟羽可汗に嫁がせ、回鶻(ウイグル)可汗国との和睦を図り、国内を安定させようとした。 しかし、大暦13年(778年)1月、回鶻は太原を寇しす。 太原の鮑防は回鶻軍と陽曲で戦ったが、死者は千余人に上る敗北を記したている。 他方 代州都督の張光晟は回鶻と羊武谷で戦い、これを破り、回鶻軍が撤退している。 牟羽可汗(ボウウカカン)は唐帝国領内を浸食する手を緩めなかった。 大暦14年(779年)、代宗が崩御し、徳宗が即位した。 徳宗は中官の梁文秀に回鶻へ赴かせ、両国の関係を修復させようとした。 牟羽可汗は礼をなさないばかりか、九姓胡(ソグド)の大臣を重用し、その勧めで唐の喪中に乗じてふたたび唐へ侵攻しようとした。 その時、宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)は牟羽可汗を諫めたものの、聞き入れてもらず 翌朝、牟羽可汗とその近親者および九姓胡ら2千人を殺害した後に、 自ら立って合骨咄禄毘伽可汗(アルブ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン)と号し、唐に使者を走らせた。 ______ 続く ______
2012/06/08
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740年 - 聖武天皇、東大寺大仏建立を発願、藤原広嗣の乱 741年 - 聖武天皇、国分寺建立の詔。 東ローマ帝国皇帝にコンスタンティノス5世 が即位 743年 - 聖武天皇、墾田永年私財法を施行、大仏建立の詔 744年 - 東突厥滅亡 745年 - 唐の玄宗が楊太真(楊貴妃)を貴妃とする。 テオドロスがエルサレム総主教 に就任 749年 - 聖武天皇譲位し、孝謙天皇即位する ・・・・・・・・ の頃 742年、回?(ウウグル)部は葛邏禄(カルルク)部とともに、拔悉蜜(バシュミル)部を盟主として反東突厥同盟を結び、大酋の阿史那施(アシナ・シュ)を立てて頡跌伊施可汗伽可汗(イルテリシュカカン)とした。 三者は協調して東突厥を攻撃し、東突厥の烏蘇米施可汗(オズミィシュカカン)を殺した。 翌々年の744年、回?(ウウグル)部と葛邏禄(カルルク)部は 盟主である頡跌伊施(イルテリシュ)を殺し、代わって回?(ウウグル)部の頡利発(イルテベル:部族長)であった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が 骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カカン)となり、唐に遣使して懐仁可汗(在位:744年 - 747年)の称号を賜った。 また、骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は 本拠地を南の突厥故地(漠南)から烏徳?山(ウテュケン山)・昆河(オルホン川)の間に移した。 天宝4載(745年)、骨力裴羅は東突厥の白眉可汗(ハクビカカン、烏蘇米施可汗の弟、東突厥の最後のカカン)を攻め殺し、 骨力裴羅=骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カカン)が 頓啜羅(トンチョラ)を唐に遣わして白眉可汗の首を献上させると、 唐によって左驍衛員外大将軍に拝されている。 骨力裴羅はさらに領土を広げ、東は室韋、西は金山(アルタイ山脈)、南は大漠(ゴビ砂漠)と接するまでとなり、古の匈奴の地を手に入れることとなった。 骨力裴羅が死ぬと、子の磨延啜(モユン・チョル)が立ち、葛勒可汗(カツロクカカン)と第二代・カガンを号した。 ウイグルはもともと歴代遊牧国家同様、天や太陽のほか狼や鳥を信仰しており、主要な24氏族のトーテムは、4氏族が隼、4氏族が鷲、12氏族が鷹(鷹4・白鷹4・青鷹4)、その他は狼・豹えあった。 第3代の牟羽可汗(ボウウカカン、在位:759年-779年)の時に初めてマニ教を受容し、多くのソグド人官僚を採用した。 しかし、反対派によって牟羽可汗が殺されると、マニ教とソグド人はことごとく弾圧され、一旦マニ教は息をひそめる。 そして 第7代懐信可汗(カイシンカカン、在位:795年-805年)の代に再びマニ教が受け入れられると、多くのマニ教高僧がモンゴル高原に呼び寄せられ、 名実ともにウイグル可汗国の国教となった。 このようにして、ウイグル可汗国は世界史上唯一、マニ教を国教化した国となり、後年のトルファンでウイグル文化の昇華の大輪が開きます。 葛勒可汗(カツロクカカン、? - 759年)は、回鶻可汗国の第2代可汗。 懐仁可汗(カイシンカカン)の子。 氏族は薬羅葛(ヤグラカル)氏、 名は磨延啜(モユン・チョル)。 英武威遠毘伽可汗(エイブイエンブルカカン)の称号を唐から授かっている。 父の懐仁(カイジン)可汗が死去すると、太子であった彼が立って葛勒可汗(カツロクカカンと号し、即位した。 天宝14載(755年)11月、中国において節度使の安禄山が唐朝に対して反旗を翻し“安史の乱”が勃発した。 唐・玄宗皇帝は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫や 貴妃の一族楊国忠の専横を許した。 楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。 【 節度使は 玄宗の時代の官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度、 北方3州の節度使を兼ね大軍を握った安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ 大燕皇帝と称した 】 瞬く間に 安禄山は首都圏を制圧した。 都の長安を占領され玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因だとされた楊貴妃と楊国忠は誅殺された。 玄宗皇帝は蜀の地(四川省)へ逃れ、失意の玄宗は、翌年(756年)帝位を太子の李亨(粛宗)に譲り、自らは太上皇となった。 【 9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれ、 “安史の乱”によって、唐の国威は大きく傷付いた。 以降、唐は次第に傾いていく 】 至徳元載(756年)7月、粛宗(シュクソウ)は霊武(寧夏・霊武市)で即位すると、李承案を燉煌王に封じ、 将軍の石定番を回鶻(ウイグル)可汗国に使わして修好を結ばせるとともに、対安禄山の徴兵を依頼させた。 756年の9月、葛勒可汗は 娘を燉煌王・李承案に娶らせるとともに、首領を粛宗皇帝に遣わして和親を請うた。 和睦の為に、回鶻公主を封じ、毘伽(ビルゲ)公主としている。 唐皇帝とウイグル王室は婚姻で結ばれた。 至徳2載(757年)2月、葛勒可汗(カツロクカカン)は また首領大将軍の多攬(タラン)ら15人に入朝させた。 同年9月、粛宗は人事を一新し、回鶻公主・ビルゲを妃とした。 葛勒可汗は太子の葉護(ヤブグ)を遣わし 帝徳らの兵馬4千余衆を統領させた上、正嗣・葉護太子に唐の助国討逆を命じた。 迎待した粛宗は 大いに喜び、盛大な宴を開催して葉護太子を歓待した。 また、元帥の広平王・李俶(後年の代宗)に命じて葉護(ヤブグ)と会見させると、2人は兄弟の契りを結び、葉護は広平王を兄と呼んだ。 こうして、両国の間で同盟が成立すると、回鶻(ウイグル)からは太子葉護と僕固(ボッコ)が回鶻(ウイグル)軍を指揮して安禄山討伐に進軍した。 兵馬4千余の部衆を率いての出兵であり、唐を助け 逆賊の安禄山を討つ為であった。 粛宗は 討伐軍の元帥に広平王・俶を命じ、直ちに出陣させている。 葉護太子が進軍途上、唐の将軍・郭子儀(カク・シギ、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた)が 一行を留めて、3日間の宴を開こうとしたが葉護(ヤブグ)太子は以下のように答えて固辞したと言う。 『 唐の国家の危難があるために、私は遠方から来てご援助しようとしているのです。どうして宴会をして、暇をつぶしておれましょうか 』 しかし、郭子儀は固くこれを引きとめた。 宴が終わると葉護太子はすぐに出発した。 その軍隊には毎日、羊200頭、牛20頭、米40碩が食料として 郭子儀がてはいし、給与された。 元帥の広平王は郭子儀らを率いて香積寺の20里の地点に到着すると、西方は豊水に臨んだ。 賊軍は精鋭の騎兵を唐軍の本陣の東に隠し、唐軍の背後を襲撃しようとした。 朔方左廂兵馬使の僕固懐恩は廻?の葉護太子を招いて唐軍の救援を求めた。 葉護太子は依頼を受けて賊軍を攻撃し、賊軍の一匹の馬も逃がさなかった。 賊軍は大敗を喫したために西京(長安)を放棄した。 至徳二載十月、広平王及び副元帥の郭子儀はウイグルの兵馬を率いて賊軍と陝州の西において戦を展開、 葉護太子は 将軍・車鼻施吐撥裴羅らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵を全滅させている。 郭子儀は新店にいたり、賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却した。 ウイグル軍団は唐軍が山を越え、嶺上を西方に進み、白い旗をなびかせたのを望見した。 葉護太子の軍は進んでこれを攻撃し、直ちにその背後に出たので、賊軍は大敗して逃げる。 賊軍の人馬は重なりあい、互いに踏みにじられて、死者は数えきれぬほどであったという。 郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。 賊軍の武将の厳荘は馳せて、大敗したことを安慶緒に報告した。 安慶緒はその大敗を聞いてあわてて賊党を率いて、東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。 そこで葉護太子は広平王、僕射郭子儀に従い、東京に入城した。 葉護太子は広平王から錦、毛氈、宝、貝を贈り物として与えられたのでそれを受け取ったという。 至徳二載11月癸酉の日に、粛宗が西京に帰還したので、葉護太子は東京から西京に行った。 粛宗は百官に勅してこれを長楽駅に出迎えさせた。 粛宗は宣政殿に臨御して宴を開いて葉護太子をねぎらった。 葉護太子は殿に升り、その配下の武将たちは階の下に列を作って並んだ。 粛宗は錦、薄絹、綾絹、金銀の器皿を葉護太子に贈り物した。 葉護太子が暇乞いして西域に帰るにあたって、粛宗は 「国家のために大事をなしとげ、義勇をなしたのは卿らの力である」と言った。 葉護は答えて以下のように言ったと言う。 『 廻?の戦兵は沙苑に駐屯しております。 今はいったんは霊夏に帰り、新たに馬を取って来て、その上で范陽を占領して残賊を討伐するつもりです 』 至徳二載十一月己丑の日に、粛宗は詔をくだして、以下のように述べた。 葉護の功績は艱難を救い、その大義は国家を保ってくれた。 葉護の国・回鶻(ウイグル)は唐とは万里も離れたはるか遠い地方ではあるが、本朝(唐)と徳を一にし、心を同じくするものである。 このような事実は古今に求めようとしても、いまだ聞いたこともないことである。 回鶻(ウイグル)の葉護は、特別に英姿を天から授かり、人よりぬきんでていて、人知れぬ計略を生んだ。 その言はかならず忠信であり、その行いは温良をあらわし、その才は万人にも匹敵し、その位は北方諸蕃族の筆頭につらなっている。 凶悪にして醜いやからが人道を乱したため、中原はまだ不安な状態に陥っている。 可汗は(唐と)兄弟の約束があることによって、国家のために父子の軍をおこし、その智謀を発揮し、あの凶悪なる逆賊を討伐した。 ひとたび太鼓を鳴らして勇気をふるい、万里の遠きにわたって敵の鋒をくじいたので、20日間で両京は奪還された。 その力は山岳を抜くほどに強く、その精神は風や雲を貫くほどにたくましかった。葉護は疲れてもその労を辞すことはなかったし、難事に急いで立ちむかっても、その分際を越えることはなかった。 もとよりこのことは、日月に懸け、これを子孫に伝えるべきことがらである。 分土に封じたり、封爵の誓いという恩賞のみにどうしてとどめておけようか。 それ、位の崇高なのは司空があり、名誉の大なるものは封王が最高である。 それゆえ、葉護を司空となし、なお忠義王に封ずべきである。 唐は葉護に毎年、絹2万匹を送り、これを朔方軍に届けるから、葉護はよろしく使者を派遣してこれを受領せよ。』 唐・回鶻連合軍は11月までに首都の西京(長安),副都の東京(洛陽)を奪還することに成功する。 ・・・・・・ しかし、 ウイグル可汗国の葉護(ヤブク)太子の凱旋帰還後の足跡は 歴史から 忽然と消えている。 殺害されたのか史家の判断は謀殺なのですが・・・・ _____ 続く _____
2012/06/07
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中国の歴史は北方の騎馬遊牧民族を片方に据えて鳥瞰しなければならない。 その証が“万里の長城”であろう。 【民族の興亡】をテーマに掲げ、匈奴・突厥・モンゴル等の史実を眺めてきた。 不思議にも 現在 中央アジアに民族主義的に立国しているテュルク系諸国家(トルコ共和国を含め)、これらも民族の故地はシベリア東方のバイカル湖近隣である。 千数百年の歴史の中で 国を起こし、栄華の後に(約200年周期だろうか)衰退し 西に追われている。 東北で勢力を高めた新たな民族が 彼らの王国を侵略し、滅亡に導き西に追放するる。 ユゥラシア大陸的規模でのゲルマン民族の大移動はバイカル湖を震源とするドミノ現象でしょう。 ・・・・・・ さて、ウイグルの話をしょう。 私にはウイグル族の友人が多い。 彼・彼女らは欧州系と言い得る外貌で 総じて髭が濃い。 顎鬚などは勇壮であり、知り合いの女性など良く見れば薄っすらと髭がある。 中国の諸将軍の挿絵などで見かける英雄・豪傑は全て北方系の騎馬遊牧民の末裔であろう。 また 中国の餃子・シュウマイを含め、肉・小麦の料理法は北方民族のものです。 イタリヤ料理のなどはウイグル料理の伝承ではないかと思う。 事実、ウイグル族はローマ帝国が崩壊するまで各地の王朝・王国の中枢で有力な地位を占めてきた。 唐はウイグル族がいなければ存在しえなかった。 大蒙古帝国もウイズル族の存在が非常に大きい。 回?(ウイグル)の祖先は南シベリアからモンゴル高原北辺にかけて居住していた丁零(中国資料にて)と言われている。 その内 東部にいた遊牧集団が回?となり、西部にいた半農半牧の集団が突厥になったとされる。 『旧唐書』や『新唐書』では、迴?/回?の祖先は匈奴であるとしているが不詳であり、 テュルク系の集団の文献は北魏(386年 - 534年)の時代から勅勒(テュルク)、高車などと記され始めた。 ウイグル(袁?)は 高車を構成したとされる六氏族(狄氏、袁?氏、斛律氏、解批氏、護骨氏、異奇斤氏)の中に見え、 柔然に服属していたらしい。 605年、鉄勒(テュルク)諸部は 西突厥の泥?処羅可汗(デイカツショラカガン、在位:603年頃 - 612年)の攻撃を受けた。 特に薛延陀(センエツダ)部(遊牧民族鉄勒の有力部族)のひとつにいたっては叛乱の疑いがあるとして渠帥など数百人が生き埋めにさせられた。 そこで韋?(ウイグル)部は僕骨部,同羅部,拔野古部,覆羅部などとともに西突厥の支配から脱して回?(ウイグル)部と号し、鉄勒(テュルク)諸部の部族長はみな俟斤(イルキン)を称した。 このとき、回?の部衆は薬羅葛(ヤグラカル)氏の特健俟斤(トクケン・シキン) を推戴して回?部の俟斤(イルキン:部族長)とした。 貞観3年(629年)に東突厥(ヒガイトッケツ)が唐に敗れると、回?部は薛延陀(センエツダ)部と共に北方の草原地帯における2強の勢力となったが、 回?(ウイグル)部の吐迷度(ツマイド)が諸部とともに薛延陀(センエツダ)部の多彌可汗(タヤカカン)を大破したため、単独で鉄勒(テュルク)諸部の盟主となった。 貞観21年(647年)、回?(ウイグル)部は唐の羈縻(キビ、中国の唐王朝による周辺の異民族に対してとった統御政策)支配下に入り、燕然都護府(エンゼンゴフ、唐代に外モンゴルに置かれた軍事行政機関)に属することに成った。 しかし 662年、回?(ウイグル)部は同羅(ドウラ)部,僕固(ボッコ)部と共に唐の国境を侵し、唐に対して反旗を翻した。 唐の高宗(在位:649年 - 683年)は鄭仁泰(テイジタイ)に命じて僕固(ボッコ)らを討たせ、回?(ウイグル)の比粟毒(ビソクド)を敗走させる。 龍朔3年(663年)、唐は燕然都護府(エンゼンゴフ)を回?(ウイグル)に領させ、瀚海都護府(シュカトゴフ)と改名した。 武周・武則天(ブソクテン、高宗の皇后)の時代(690年 - 705年)、東突厥第二可汗国が 再び草原地帯の覇者となると、 回?(ウイグル)部を始めとする九姓鉄勒(トグス・オグス)はその圧迫を受けるが、第二可汗国の衰退と共に再び勢力を増していった。 吐迷度(トゥメド/ツマイド、? - 648年)は、回?(ウイグル)部の俟利発(イルテベル:部族長。 氏姓は薬羅葛(ヤグラカル)氏で、名は吐迷度(トゥメド)。 貞観3年(629年)、菩薩(ブサツ、回?部の英明な部族長)が死去すると、その酋帥である胡禄俟利発の吐迷度は諸部とともに薛延陀部の多彌可汗を大破し、その余衆と領地を併合した。 貞観20年(646年)、回?部は遂に南の賀蘭山を越えて黄河に臨み、唐に遣使入貢した。 唐の太宗は回?部が薛延陀部を破った功をもって内殿で宴を賜った。 貞観21年(647年)、太宗は鉄勒諸部から13の部族を選んで13の州府を置いた。 このとき回?部は瀚海都督府とされ、吐迷度は懐化大将軍を拝命し、瀚海都督となった。 時に吐迷度はすでに可汗を自称しており、外宰相6名、内宰相3名を任命し、都督、将軍、司馬の号も使って官吏を割り振っていた。 貞観22年(648年)、突厥の車鼻(シャヒカカン)可汗の婿であり吐迷度の兄の子である烏?(ウイグル)は吐迷度の妻と姦通し、 遂に同じく車鼻可汗の婿である羅勃(キュレビル)と謀り、夜に部下10余騎に吐迷度を謀殺させ車鼻可汗へ帰来した。 吐迷度 = 薬羅葛(ヤグラカル)氏は 突厥可汗国が中央ユーラシアを支配した時代に、突厥可汗国の圧制に対して反旗を翻した部族の指導者となることから始まった。 薬羅葛(ヤグラカル)氏は鉄勒(テュルク)の諸部族を纏め上げながら、徐々に自らの地位を確立していった。 744年にはクトゥルグ・ボイラが 自らキョル・ビルゲ可汗(カカン)と名乗り、中国から懐仁可汗として冊封を得て、回鶻(ウイグル)可汗国を成立させた。 可汗国となった後、薬羅葛(ヤグラカル)氏の氏族はより西方に領土を広げていった。 軍事大国となり、唐と周辺民族の戦争では唐を保護するため兵力を拠出し、何度も戦った。 一方で、中国やソグド人の影響で定住生活化が進み、遊牧民が多かった回鶻(ウイグル)に混乱が起きた。 その後、回鶻可汗国の内部での混乱によって薬羅葛(ヤグラカル)氏は徐々に力を失っていき、懐仁可汗から数えて6代目の奉誠可汗の代で血筋が途絶えた。 その後、回鶻(ウイグル)ではエディズ氏が立つことになるが、その“ヤグラカル”の名は非常に価値があったと考えられ、エディズ氏は自らをヤグラカル氏に擬制して権力を保ったため、 ヤグラカル朝と自称し、また、甘州に分かれていった甘州ウイグルたちはヤグラカル氏の可汗を立て、11世紀初期に西夏に滅ぼされるまでその王朝が続いた。 ソグド人は、中央アジア、ゼラフシャン川流域地方に住んでいたイラン系のオアシス灌漑農耕民族です。 また、商業を得意とし、あまり定住にこだわらず、シルクロード周辺域で多様な経済活動を行った。 シルクロードをシルクロードたらしめ、シルクロードを経済的に支配していたと言われています。 居住地であるソグディアナがシルクロードの中間に位置することから、アケメネス朝支配下にあった頃より広く交易に従事し、 マケドニアのアレクサンドロス大王の征服、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても、独自のアオドグ語を守り、ウイグル文字の祖であるソグド文字を利用していた。 ウイグル文字がモンゴル文字に成ります。 宗教的にはゾロアスター教、のちに一部がマニ教を信奉して、東方のイrン系精神文化を中国にもたらした。 その活動範囲は東ローマ帝国から唐の長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭により イスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。 しかし ウイグル族が文化的遺産を継承します。 ソグディアナ地方はのちに、ウズベク人南下によるテュルク化が進んでいった。この地方は名馬の産地です。 漢の武帝は“血汗馬”を求めて20数余万の軍団を遠征させている。 因みに、東京・上野公園のイスラム寺院の建立は ソグドの末裔、ロシア革命期の亡命者の子孫・在日ソグド人の組織です。 外人タレントのロイ・ジェームスさんは建立推進の中心人物が長子です。 _____ 続く _____Cooperate with me ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/06
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コーカランド・ハン国 16世紀以来、フェルガナ地方には中央アジアに進出したウズペク系諸部族が流入し、ウズペグ系のブハラ・ハン国がその支配者として君臨していた。 しかし、17世紀末頃にはブハラ・ハン国は弱体化し、フェルガナ地方ではイスラム神秘主義教団であるナクシュバンディー教団出身のホージャ(指導者、領主)たちが都市の自治を担うようになっていた。 18世紀前半にはフェルガナ地方に土着したウズベク諸部族のひとつ、ミング部族のビー部族長が ホージャ権力を打倒してフェルガナ地方に自立政権を樹立し 彼らは1740年には都をコーカンドに定めて、コーカンド・ハン国の建国を建国した。 建国当初のコーカンド・ハン国は弱体であり、天山山脈北麓に割拠するオイラトのジュンガル帝国による侵攻をたびたび受け、東部地帯は 大いに脅かされていた。 18世紀半ばに 清がジュンガルを討って ジュンガルの支配する東トルキスタンを併合すると、 コーカンド・ハン領に隣接するタリム盆地東縁であるシルクロードの最重要城砦・カシュガル また そも近郊地方において 強大な清の勢力と直接接触することになった。 他方、清の支配を逃れて、タムリ盆地各地を支配してきたホージャたちがフェルガナに流入して来た為に、清との潜在的な敵対関係に入らざるを得なくないた。 コーカンド・ハン国君主・エルデニは清の脅威に対して南のドゥッラーニー朝(アフガニスタン)に援助を求めるも、拒否されている。 当時 清朝の勢力は拡大一途を辿り、ラサからヒマラヤ南部までも侵攻 コーカンド・ハン国は清に朝貢使節の送誼を通じて 防衛策にした。 この 清との朝貢関係樹立は その代償に清朝支配下の新疆(東トルキスタン)との通商権をコーカンド・ハン国に与え、コーカンドはシルクローオの交易で経済的繁栄を齎すことになった。 また コーカンドにかかる清朝の直接的軍事圧力が薄れたことが、コーカンド政権の支配地域拡大を可能とした。 コーカンドの君主たちは かつてジュンガルでも軍の主力として活躍してきたキルギス人の傭兵や砲兵を受け入れて軍事力を増強し、18世紀末の頃までにフェルガナ地方の統一に成功していた。 しかし、1740年 抗争していたハルハ部とオイラト諸部の間で約定が交わされ、東方の憂いを無くしたオイラトのガルダンシェリンが 西方に進軍、別働隊をコーカンドに侵攻させた。 侵攻は北方のカザフ・ハン国とコーカンド・ハン国であった。 カザフ・ハン国はロシア帝国に庇護を求めた。 コーカンド・ハン国はバタフシャン王子をジュンガル帝国の本拠地・イリに連れて行かれた。 東方で清朝と対峙していたロシア帝国はキャフタ条約を清朝と交わし、中央アジアに進軍を開始した。 康熙帝;順治帝の第3子、勤勉実直 英明な帝王。 1670年代、ジュンガル部のガルダン・ハーンがオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧していた。 1693年、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガンダンとの対決を決意、みずから軍勢を率いてのガルダン征圧に遠征した。 いく度かの交戦を経て1696年、ガルダン・ハーンに致命的打撃を与え、ガルダンは敗走中に死去した。 康熙帝は 他の朝貢国と同様である 冊封を受けるのみで、内政自主権を行使できる従来の法策を ガルダン・ハーンの死以後改め、ハルハ諸侯を清の盟旗制に組み込むことに変えた。 モンゴルの直接支配に乗り出した。 他方、18世紀初頭、ダライ・ラマ6世を巡って生じたチベッタ内紛に、青海のグシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのシュワンララブタン・ホンタイジが同盟を組み 1717年に、ジュンガル軍がチベットに侵攻してラサを制圧、チベット・ハンのラサンを殺害する事件が起った。 康熙帝はラサン・ハーンの救援要請に応じ、1718年 チベットに出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた。 これに対し康熙帝は、グーシ・ハン一族(オイラトのホシュート部)の主立った者たちを、ジュンガルと同盟したが離反した者達を含めて北京に招き 爵位で釣って清朝側につけることに成功した上で、1720年の第二次派遣軍を進軍させた。 グーシ・ハン一族も この軍勢と共に進軍、また グシ・ハン朝の一派がゲリラ戦を展開、各地で蜂起した。 ジュンガル軍はこの情勢に戦わずしてチベットから撤退し、康熙帝の戦略が勝利した。 戦いの後 康熙帝は「グーシ・ハンの法の道(ダライラマを擁するチベットの君主)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にする統治に変更た。 がしかし、グーシ・ハン一族は 位継承候補者選出に、内紛の極みに達しており、ラサン・ハーンの後継者は決まらなかった。 康熙帝は ラサンを継ぐ君主(ハン)を冊封せぬまま没し、諸問題は正嗣の雍正帝の手に委ねられた。 雍正帝;康熙帝の第四子、1722年(康熙61年)、康熙帝が病を得て死ぬと、遺詔によって雍正帝が指名されて皇帝に即位した。 この時、雍正帝は45歳であった。 政務に明け暮れた皇帝であった。 康熙帝はダライ・ラマ位をめぐる混乱を整理し、グーシ・ハン一族には、ハン位継承の候補者を選出するよう促した。 しかし、康熙帝は ラサン・ハンの死によって空位となったチベットのハン位を埋めることなく没した。 雍正帝は、グーシ・ハン一族の定見のなさ、ジュンガルと結びつく可能性などについて強い不信感を有しており、父帝の方針を一転させて 即位後、ただちにグ-シ・ハン一族の本拠であった青海地方に出兵、一族を制圧した。 【 グ-シ・ハン一族がジュンガルのオイラト連合に加担すれば、アルタイ山脈から甘粛・四川・雲南にいたる長大なラインが前線と化し、清朝と対峙する 】 雍正帝はグ-シ・ハン一族が持つ広域な領域支配権を接収、チベットをタンラ山脈からディチュ河の線で二分し、この線の北部は 更に 青海地方と甘粛・四川・雲南の諸省の間で分割 南に位置する39族やカム地方西部は「ダライ・ラマに賞給」し、その支配をガンデンボタンに委ねた。 清朝政権は 外モンゴルにまで勢力を拡大したことで、新たにロシア帝国との国境を画定する必要が生じた。 そのため、1689年のネルチンスク条約以降 南進するロシア帝国と(1727年)キャフタ条約を締結。 外モンゴルの国境を定めるとともに、両国間での交易に関する協定が結ばれた。 ロシア帝国は 清朝との国境問題を相互の妥協で処理すると、極東に注いでいたコザック兵団を中央アジアの侵攻に向けた。 カザフ・ハン国の支援要請が侵攻の御旗となり、カザフ・ハン国に足掛りを設け ジュンガリアとコーカンド・ハン国が覗った。 ロシア帝国はシルクロード交易が生む富を収穫しようと図った。 乾隆帝;雍正帝の第4子として生まれる。 祖父康熙帝に幼い頃から賢明を愛され、皇帝になる人物と目されており、太子・密建を経て即位している。 生まれついての皇帝であったため、乾隆帝は祖父、父とは違い派手好みの性格であった。 乾隆帝の功績として、まず挙げられるのが「十全武功」と呼ばれる10回の外征である。 ジュンガル、金川、グルカ(ヒマラヤ南面の王国)に2回ずつ、回部、台湾、ビルマ、安南に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自分を十全老人と呼ぶんだ。 これにより清の版図は最大規模に広がり、また、ビルマ、ベトナム、ラオス、タイまで朝貢するようになった。 しかし オイラトのジュンガル帝国は完膚なきまでも破壊され、ジェノサイトが至るところで行なわれ、亡び去った。 ジュンガルの衰退と滅亡 1745年、ガルダンシェリンが亡くなると、ジュンガル部およびオイラト部族連合はたちまち分裂状態となった。 1750年に 息子のラムダルジャーが継いだが、庶出の異母兄に幽閉され、1752年にはホイト部長のアムルサナーによって バートル・ハンタイジの玄孫・ダワチが擁立された。 ダワチが即位した翌年から ドルベト部などが清に投降するようになり、1754年にはダワチと不和になったアムルサナーまでも清に投降してしまった。 1755年、清の乾隆帝は この機に乗じてモンゴル軍と満州軍を動員した大軍をジュンガルに進軍させ、わずか100日でクリム地に逃げ込んだダワチ・ハンを捕獲し、ジュンガル帝国を滅ぼしている。 清朝政権は四オイラトにちなんで 帰属したオイラトの人々を四部に分け、各部にハーンを置こうとした。 しかし、アムルサナーがこれに不満を抱いて 自らヒンタイジと称し、鉄の菊印璽を勝手に使用して清朝に叛き、独立を宣言した。 が、 その後 アムルサナーは清軍の追撃を受けてカザフスタンンに逃げ込んだが、ヤムィシュ湖に到着した時、天然痘を発病し、トポリスクで死んだ。 ジュンガル残党はしばしば清軍を襲撃するなどしたが、それを掃討する清軍によって天然痘が持ち込まれ、オイラトの人口が激減し、特に ジュンガリアの人々はほぼ全滅したのです。 【 その後の ジュンガリア地方、ロシア帝国が雪崩れ込み、大英帝国の支援を受けたコーカンド・ハン国のヤクブ・ペグが乱入(一時占拠し、建国)、清朝と三つ巴の戦乱に至ります。 前作“草原の旅”紀行記を ご参照下さい 】 第二次大戦後 清が崩壊しモンゴル国がボグド・ハーンのもとに独立を宣言すると、蒙古高原に散在するオイラト諸部はモンゴル政府に従い、モンゴル国に編入されて モンゴル国がモンゴル人民共和国となると、オイラト人たちは多数部族であるハルハに対する少数部族として扱われ、文化的にはハルハ・モンゴル人への同化が急速に進ん行った。 彼らはロシアのキリル文字を使っている。 モンゴル国はアルタイ山脈方面のオイラト諸族をも併合しようと軍を派遣したが、中国によって阻まれ この地方は新疆省(新疆ウイグル自治区)に編入され、 また チベットのオイラトはチベット政府の統治に接収されている。 新疆のオイラト人は、民族的に圧倒的に少数派であり、周辺の漢民族、ウイグル人、カザフ人などとの混交が進んおり、アイデンティーが希薄になっている。 同様に チベットに散在するホシュート・モンゴルは チベット社会への同化が進み、1950年の段階で人口は20万人弱、オイラト語は殆ど操れない。 中国領内のモンゴル族は 旧来からのモンゴル文字を使用し、新疆のモンゴル族と内蒙古のモンゴル族は文化的自覚を強め、 氏部族を超えた モンゴル民族とする意識の一体化が進んでいる。 が、 オイラト・モンゴルはトド文字に変わって 縦書きのモンゴル文字を使っている。 この事はオイラト族の文化、習慣に大きな破壊を与えていると思う。 他方、ロシア領内・ヴァルガ河流域にいたトルグート部は、18世紀に入るとロシア帝国による圧迫に苦しみ、イリ川渓谷がジュンガルの消滅によって空き地となったことを知って故郷への帰還を決意した。 このとき、ヴァルガの西岸にいたトルグート部民はヴァルガ河が凍結しておらず、渡ることができなかった。 ヴォルガ地方に取り残され、そのままロシア帝国統治下に組み入れられ、彼らはソビエト連邦の下でカルムイク共和国を形成し、現在に至っている。 帰還を決意した50有余万のトルグート・モンゴルはロシア軍団に追撃され、コザック兵に狙撃され 逃避行くの困難さから イリ渓谷に辿り着いた名は者は十万人前後だった。 ・・・・友人の一人がトルグート・モンゴルで 彼の大祖父がイリへの逃避行の指導者の一人。長兄が蒙古史の教授、弟がホーミー(喉歌)の専門家でソビエトへ公演・指導に赴いている。 その友人が逃避行のルートをトレースしようと私を誘う。 彼の長年の夢である。 東北大学を卒業した秀才である。 “アルタン・ウルク”ジンギスハーンの血脈四部作は ここで幕を降ろしましょう・・・・・
2012/06/05
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ここ二三日 パソコンが調子悪く 可能な限りの修復をした 所詮 素人が故に限られた作業 経歴の削除 残骸の削除 負荷を取り除く作業 当Blogは写真登録容量がもはや限界 写真を削除し 日記を削除しだしたが やたらと時間が掛かる 二三年を並記する業務用の日記帳がある 誠に簡便な忘備録 十年は一昔と言われる 十年周期の忘備録を記帳すれば面白かろう 昨年の六月五日の日記を下記に転記し これから消去しようと思う それにしても 昨日の閣僚更新 野党の批判は例の如しで しらけるが 防衛相の後任に森本敏・拓大大学院教授が就任とは興味深深 正論を期待する さて 昨年の今日の記載の一文は・・・・・ 【 一国の元リーダーが 現職のリーダーをペテン師と呼び、 己が愚行を自ら吐露し 己が愚行を転移している様に接し、開いた口が塞がらない インターネットでは英語版・日本語版が閲覧できる しかも 即刻 世界中で 元リーダーは 己が発言が世界中に流れ反応すことを わきまえているのであろうか 日本人が外交音痴と言われるゆえんである、日本の常識は世界では通用しないし唯我独尊 …アア 恥ずかしい、益々 諸外国から軽視されていく いいのですか国会議員の先生方… ちなみに ペテンとは中国語が訛ったと聞く、 本家の上前を撥ねると本家が立腹いたしかねない 増々 日中関係が怪しくなって行く そして 海外在留者の肩身が狭く成っていく まして 国のリーダーが詐欺師と言われれば 国民はどうすればいいのか…涙が落ちる… 】 誰が元リーダーで誰が現職のリーダーなのか 猫も目のように政権が変る日本の政治世界のことは それこそ 二三年を並記する業務用の日記帳が必要だ!!! Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/05
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青海からチベット一帯を翼下に収めたグーシ・ハーンは、援軍としてチベット遠征に従っていたオイラトのジューンガル部(ジュンガル)の首長・ホトゴチンに自身の娘を娶わせてバートル・ホンタイジの称号を与え、ジュンガリアのオイラト本国に帰国させて その支配を委ねた。 バートル・ホンタイジ(ホトゴチン)の死(1653年)後、ジュンガリアは再び部族間の内紛が再燃し、1672年にはバートル・ホンタイジの子・センゲが内紛により殺害された。 センゲの弟で、チベットのダライ・ラマ5世のもとで仏門に入っていたガルダンは、その報を受けるとチベットからジュンガリアに帰還し、還俗してジュンガル部族長となった。 そして、ガルダンは、オチルトをはじめとするオイラト内のライバルたちを次々に屈服させ、全オイラトの支配権を握る有力な支配者にのし上り、ジュンガル帝国の礎を確立した。 ダライ・ラマ5世は、かつての弟子でもあるガルダンに強い支持を与え、ガルダンはそれに応え、チベット仏教の守護者として、イスラム教勢力やゲルク派(ダライ・ラマ派)に反抗する勢力との戦いに明け暮れ、東トルキスタン全域からモンゴル高原の西部にいたる大遊牧帝国を築きあげていった。 さらに ガルダンは、モンゴルのハルハ部族(内蒙古地方が基盤)の内紛に介入し、モンゴル高原中部に攻め入ったが、 ハルハの反ガルダン勢力は 雪崩を打って内モンゴルに逃れ、清の康熙帝に服属したため、モンゴル高原の支配権をめぐってオイラトと清朝の全面戦争となり、 ガルダンは遊牧兵力の機動力を生かしてよく抗戦したが、偶発的に康熙帝の親征軍に遭遇して敗れ、逃走した。 このとき、ジュンガリアのオイラト本国において ガルダンの甥・シュワンララブタンが叔父に反旗を翻して自立し、補給を断たれたガルダンは逃走中に死亡した。 この抗争の結果、ハルハは内モンゴル諸部と同様に清に服属し、オイラトは清に朝貢することになったが、シュワンララブタン以下歴代のジュンガル部族長たちは ガルダンの地盤を引き継いで オイラトを支配し続ける一方、チベットや青海をめぐって時に清と対立した。 その結果、ジュンガルに対する不信感を強めた清は、1723年-1724年にチベット、1754年-1755年にジュンガリアに出兵、グーシ・ハン王朝とジュンガル帝国を征服・解体し、その領土と部族民を清朝の支配体制に組み込んだ。 さらに1760年にはイチ川渓谷にあったジュンガル帝国本領の故地で 反清反乱が勃発するが、乾隆帝はこれに激しい弾圧をもって応え、 清軍の持ち込んだ天然痘の流行もあってイリ川渓谷にいたジュンガル部族はほとんど絶滅してしまった。 現在イリ川渓谷に住んでいるのは、その後清が入植させたカザフ人や満州軍人(白伯族)たちの子孫です。 バートル・ホンタイジ 1636年、オイラトのホシュート部長グーシはチベット仏教ゲルク派の要請に応じて、青海に割拠するカルマ派のチョクト・ホンタイジを討伐した。 翌年の1637年、チョクト・ハンタイジを殲滅したグーシはダライ・ラマ5世から「持教法王」の称号を授かり、グーシ・ノーミーン・ハーン(国師法王)となると、 青海遠征に同行したジュンガル部長・ホトゴチンに「バートル・ホンタイジ」の称号を授けて中央アジアのオイラトを任せるとともに、自らはチベットを統一に邁進する。 そして、1642年 チベット王の位に自ら就いた。 当時、オイラトのホシュート部はオイラト連合の盟主・最大勢力であった。 グーシ・ハーンはホシュート部長であり、ホトゴチンはジュンガル部長の立場でありグーシは自らその領域を拡大し グーシ・ハン王朝を創建し、バートル・ホンタイジはジュンガル帝国を建設していく。 【 元来 モンゴルではジンギスハーン直系ではない者がハーン位を名乗ることはなく、できなかった。 グーシはダライ・ラマらら授かったことでハーン位を名乗り 彼以降使われるようになる 】 グーシ・ノーミーン・ハーンの娘を娶り、中央アジアのオイラト諸部の盟主となったバートル・ホンタイジ=ホトゴチンは、ロシアと盛んに使節を交わし、交易をおこない、諸部族を統括してジュンガリアを富ませていった。 彼の史跡はロシア史料に頻繁に登場しています。 しかし、1653年に病死してしまった。 ガルダン・ハーン 1653年、バートル・ホンタイジが亡くなると、息子のセンゲが領民の半分を相続して後継者となった。 しかし、センゲの異母兄たちはこれを恨んで相続争いを起こし、1670年にセンゲを殺害した。 時に、センゲの弟(父・ホトゴチンの四男)であるガルダンは13歳のころからチベットに留学していたが、兄の訃報を聞きつけたガルダンは 10年の留学の末に還俗し、 ジュンガリア・エルティシ川に舞い戻ると同時に、兄の仇を討った。 1671年、ダライ・ラマ5世は ジュンガル部を平定した弟子・ガルダンに「ホンタイジ」の称号を授け、ガルダンがジュンガルの第三代ホンタイジに就くことを祝い 承認した。 1675年、ガルダンは舅でホシュート部長であるオチルト・ハーンと衝突し、翌年 オチルト・ハーンを捕虜とした。 これにより、それまでオイラト部族連合の盟主であったホシュート部に代わり、ジュンガル部がオイラト部族連合の盟主となった。 ダライ・ラマ5世はガルダン・ハーンに「持教受命王」の称号を授け、ゲルク派の擁護者として全オイラトのハーンに認定した。 しかし、ジュンガル部でハーン位に就いたのは彼が最初で最後である。 騎馬遊牧民族が推戴する指導者はガルダン・ハーン以降 現れていない。 1678年、ガルダン・ボシュクト(受命)・ハーンは ハミとトルファンを征服し、1680年にはカシュガル,ヤルカンド,ホータンといったシルクロードの交易で栄えるオアシス都市を征服して タムリ盆地(タクラマカン砂漠一帯)を支配する。 モグーリスタン(チャガタイ・ハン国)のハーンと黒山党(カラ・タグルク、イスラム急進派)のホージャ(教主・領主)をイリ渓谷に幽閉した。 ガルダンは黒山党と対立する白山党(アク・タグルク)のホージャをヤルカンドに据えて毎年莫大な貢納を取り立てた。 こうして タリム盆地を支配する一方、1681年以降西方遠征にも着手し、カザフ草原のカザフ人やキルギス人を攻撃した。 1684年にはタシケントとサイラムを占領し、1685年にはアンディジャンに遠征している。 【 アンディジャン ; 古来よりシルクロードの要衝で、カシュガルとコーカランドの中間にある。 ジンギスハーンに徹底した破壊されるも、13世紀にカイドゥに再建され、以後300年間、フェルガナ地 方の中心地として栄えた。 アンディジャンの商人は中央アジア一帯で名を馳せた。 インド大陸でムガル帝国を築いたバーブル (ティムールの末裔、モグーリスタンの王女がバープルの皇后)が1483年この地で生まれている 】 1688年、ガルダン・ハーンは ハルハ部(蒙古高原東部が基盤)の内紛に乗じて ガルダンの弟を殺したハルハ左翼部のトシュート・ハーンを討つべく、モンゴル高原に侵攻した。 ガルダン・ハーンは迎え撃つトシュート・ハーンを破り、仏教寺院エルデニ・ジューと左翼のチェチェン・ハーンを攻撃、その地を略奪した。 トシュート・ハーンと弟のッジェブツンダンバ・ホトクト1世は南の内モンゴルへ逃れ、清の康熙帝に庇護を求めた。 ガルダン・ハーンはは2人の引き渡しを 清帝国に要求したが、清が応じなかったため、遂に清と衝突することとなった。 1690年、ジュンガル軍と清軍は北京北方300キロのウラーン・ブトンで激しい銃撃戦をおこなったが、決着がつかず、ガルダン・ハーンは漠北へ退いた。 その間に内モンゴルに避難していたハルハ部のトシュート・ハーンらが康熙帝に臣従を誓ったため、モンゴル族すべてが清の支配下に入ることとなり、 ハルハ部の故地を奪還するという大義名分を得た康熙帝は1696年、ジュンガル親征を開始した。 時を同じくしてガルダン・ボシュクト(受命)・ハーンの甥であるシュワンララブタンが ガルダン・ハーン不在のイリ地方とタリム盆地を制圧して ガルダンに反旗を翻し、康熙帝と手を結んだ。 この結果、ジュンガリアは康熙帝の親征を受けた“ジョーン・モドの戦い”で、故地に帰れなくなったガルダン・ボシュクト(受命)・ハーンは1697年4月4日に病死してしまった。 シュワンララブタン シュワンララブタンはすでにダライ・ラマ5世から「エルデニ・ジュリスト・ホンタイジ」の称号と、鉄の菊印の印璽を与えられていたが(1694年)、ガルダン・ハーンの死去によって正式なジュンガル部長となった。 シュワンララブタンは カザフ草原や中央アジアの0アシスを侵略する一方、清朝とは友好的な関係であったが、1715年 ハミ,トルファンで衝突が起こって以降、清朝との全面戦争状態となった。 1715年当時、チベットではダライ・ラマ5世の死後混乱状態となっており、ダライ・ラマ6世の乱立が起きていた。 そんな中、青海ホシュート部長でチベット王のラサン・ハーンの権威が失墜し、彼に対するチベット人と青海ホシュート部領主たちの反感は増えていった。 シュワンララブタンはそれを利用して チベットに侵攻し、ラサン・ハーンを討ち取った。 しかし、ジュンガル軍がゲルク派以外の寺院や僧侶などを殺略したので、チベット人たちはジュンガルに敵意を抱くようになった。 1727年、ヴォルガ河畔からオイラトのトルグート部の使節が到着したすぐあとに、シュワンララブタンは毒を盛られて急死しているのです。 ガルダンシェリン シュワンララブタンの子であるガルダンシェリンは継母を毒殺の罪で処刑し、その子のロブサンショノを追い出すと、ジュンガル部長となり、ホンタイジの位に就いた。 ガルダンシェリンは父の遺志を継ぎ、カザフ草原やシル川流域,フェルガナ,バダフシャンに侵攻した。 1731年には漠北のモンゴル高原に侵入し、ボブド(アルタイ山脈東部)の西で清軍を破り、ハルハ各地を侵犯した。 翌年、ジュンガル軍は 再びハルハに侵入したが、親王・ダンジンドルジとエフ・ツェリン率いるハルハ軍に大敗した。 1739年、ハルハ部とオイラト諸部の間で境界が画定され、お互いアルタイ山脈を越えないことを約束した。 モンゴル高原の領有は失敗したものの、東方の脅威が無くなったため、ガルダンシェリンは西方攻略に専念できた。 当時3つのジュズ(封土)に分かれていたカザフ・ハン国は頻繁にジュンガルの侵攻を受けたため、ロシア帝国に庇護を求めた。 これによってカザフ草原へのジュンガル侵入は止んだが、ジュンガルの別動隊が中央アジアのタシケントとトルキスタンを占領し、コーカンド・ハン国に侵入してバタフシャン王子を本拠地・イリに連れて行った。 ロシア帝国は東方でアムール河で清朝と対立していた。 また、中央アジア・シルクロードの交易網を占有しようと 企んでいた。 清朝はジュンガル帝国がわき腹を刺えぐろうとする凶器の存在であった。 産業革命で生産力が飛躍した大英帝国が 新たな市場を求めて中央アジアに触手をのばす・・・ ______ 続く _____Cooperate with me ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/04
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最後の騎馬遊牧民帝国・ジュンガール帝国 オイラトは、モンゴル帝国成立以前の12世紀にバイカル湖西部のアンガラ川からイェニセイ川に掛けての地域、現在のモンゴル国西部のフブスグルからトゥヴァ共和国の地にかけて居住していた部族集団。 13世紀初頭、オイラト部族集団の首長のひとりとしてクダカ・ベキの名が知られている。 『元朝秘史』によると1200年頃に 一時アルチ・タタル氏族、グチュト・ナイマン氏族、メルキト部族などの諸部族の盟主となったジャムカが オン・ハーン、テムジン(後のジンギスハーン)の連合軍に敗れた“コイテンの戦い”において、ジャムカ勢の先鋒としてクダカ・ベキも参加している。 その後、ナイマン,キルギスなどの周辺諸勢力が征服されたことから、1208年夏にクチュルクおよびメルキト部族連合の盟主・トクトア・ベキらの追撃に イルティシュ川周辺に親征してきたジンギスハーンに、クダカ・ベキは 自ら赴いて帰順した。 この時、彼・クダカ・ベキは チンギスハーンより オイラト部族4個万戸隊の長に任命され自治権を安堵された。 併せてこの時の帰順によって、クダカ・ベキの一門は ジンギス家の皇女の降嫁を受けて?馬(キュレゲン)家、つまり ジンギス家の婿・姻族となり、モンゴル帝え国の有力部族集団となった。 クダカ・ベキはジュチに従って「森の民」と呼ばれるブリヤト、キルギス、コリ・トマトなどシベリア南部の狩猟民の征服に協力し、さらにクチュルク、トクトァ・ベキの連合軍を撃破して トクトァ・ベキを戦死させている。 その後もジンギスの諸子や孫たちと皇女の降嫁や婿などを交換し、各地の遠征には子息たちも従軍するなどモンゴル帝国の中枢で活躍していった。 姻族クダカ・ベキ家の発展 オイラト族のクダカ・ベキ家は13世紀を通じて コンギラト部族などと並ぶジンギスハーン家の主要な姻族となった。 部族として その勢力を高める。 クダカ・ベキ自身はその後 トルイ(ジンギスの末子四男)の右翼軍の幕僚となったが、彼にはイネルチとトレルチという二人の息子がおり、 その妻としてジンギスハーンは イネルチには長男・ジュチの次男・バトゥの姉妹コルイ・エゲチを与え、トレルチには皇后・ボルテとの間に儲けた第二皇女・チチェゲンを降嫁させている。 モンゴル帝国の最後のイラン総督であったアルグン・アカも クドカ・ベキ家ではないがオイラト部族の出身であった。 トレルチの娘たちは ジンギス家との姻戚が特に多く、最初 トルイに嫁ぎ後に モンケ(トルイの長男)の第一正妃となったオグルガイミシュ皇后(夫・トルイの他界後再婚)、や フレグ(トルイの三男)の第四正妃・オルジェイ・ハトゥン、ジュチ・ウルスのバトゥ当主の次男・トクカンに嫁ぎ モンケ・テムル、トデ・モンケの生母となったクチュ・ハトゥンがいる。 また、チチュゲンとの娘には チャガタイの嫡孫・カラ・フレグに嫁ぎムバーラク・シャーを産んで、一時 チャガタイ家の監国となったオルクナ・ハトゥンや アリクブケの第一正妃・イルイガミシュ、フレグの第二正妃・グユク・ハトゥン 等々 “アルタン・ウルク/黄金の家”にクダカ・ベキ一族が深く関わっている。 蒙古高原からかなり離れたイラン・イラク地方に王朝を構えたフレグ一族でも、コンギラト部族と並んでオイラト王家との姻戚関係が強かったことでも知られている。 例えば、特に上記のクドカ・ベキの嫡子・トレルチ・キュレゲンとジンギスの第二皇女・チチュゲンとの娘グユク・ハトゥンは、後に フレグの第二正妃となっている。 チチュゲンは 他に後嗣のブカ・テムルなどを儲けているが、このブカ・テムルは妃となった姉妹たちとともに万戸隊(テュメン)を率いて フレグの西方遠征に参加しており、イルハン朝の重鎮・将軍に成っている。 更には 彼・ブカ・テムルの姉妹オルジェイが フレグの後嗣アバカの正妃となり、アバカの兄弟ジュムクル、テクシらはブカ・テムルの娘を娶っている。 また、イルハン朝のオルジェイトゥ・ハンの第四正妃であるハージー・ハトゥンは、ジュチ家バトゥの筆頭部将であったオイラト部族のチチャク・キュレゲンの娘で、イルハン朝のアブー・サイードの母となった人物ですから、 オイラト部族とジンギスハーン一族の姻戚関係の繋がりは 世代を超えて濃密になる。 しかし・・・・ クトカ・ベキの後裔を中心とするオイラト部族の将軍たちは、ジンギス家の姻族として帝国の各地に移住し、イルハン朝下のイランで活躍したものもあらわれたが、原住地のモンゴル高原ではふるわなかった。 モンゴル高原のオイラト部族は、上述のようにジンギスハーンの末子四男トルイの末子アリクブケの一族と姻戚関係を結んでいたが、 1264年にアリクブケが兄クビライとの後継者争いに敗れたために アリクブケ一門が政治的にふるわなくなり、オイラト部族もその影響を受け 閉塞状態に陥った。 オイラト部族連合形成 14世紀後半以降、モンゴル帝国が解体してゆく過程で アリクブケの後裔・イェスデルが、クビライ家正統継承者である北元のトグス・テルム・ハーンを殺害して皇帝(ハーン)位を奪取する事件を起こした。 14世紀の末から15世紀の前半にかけて、当時のモンゴル高原では 西部域の諸部族、中でもアリクブケ一門支持派の基幹部族であるオイラトの力が高まっていた。 オイラト勢力は 陰山山脈南部の草原 ゴビ砂漠東西の牧草地帯から 万里の長城を超えて、明の領内を侵略・略奪を繰り返した。 15世紀初頭には、オイラト部族長・マフムードは高原でもっとも有力な勢力となっていた。 興安山脈南部から南侵を繰り返すアスト部族のアルクタイを 明の永楽帝が攻撃するのにマフムードは協力し、一躍 高原最大の勢力に拡大した。 北方の騎馬遊牧部族を互いに戦わせ 相殺させる戦略の中 永楽帝は今度はオイラト追撃に万里の長城を北にこえた。 1414年 永楽帝自らが親征を断行、 肥大したオイラト部族の覇権を阻もう進撃し マスムードを追討している。 以降、永楽帝の親征は十数回に及び オイラト部族は衰退を余儀なくされる。 1415年以降は オイラトのフムードとアストのアルクタイは 永楽帝の介入を巻き込んでモンゴル高原を左右する争いを続けている。 この騒乱の結果、モンゴル北元朝の皇帝(ハーン)が次々に改廃され、部族集団が陣営を集合離散する大混乱が起こり、部族の再編が進んだ。 こうして形成されたのが四十モンゴル(中国史料では韃靼いう)と四オイラト(瓦剌)と呼ばれる二大部族連合であり、オイラト集団はケレイト,ナイマン,バルグドなどを含む部族連合集団に変容した。 エセインの覇権 永楽帝の死により明の圧力が弱まったあと、勢力を拡大したマフムードの子・ドゴンは1434年にアルクタイを滅ぼし、北元ハーンを自らの傀儡に擁立して四十モンゴルを従えた。 ドゴンおよびその子エセンは西ではモグーリスタン(チャガタイ)・ハン国やウズベグといった遊牧国家と戦って勢力を拡大し、ついにモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至った。 ドゴンが没すると、エセンはトグス・テムルの横死以来50年ぶりに訪れた統一を背景に 明に対する侵攻を開始し、 1449年に迎撃してきた正統帝の親征軍を撃破して、正統帝を捕虜にした“土木の変”。 この戦果は、明側が正統帝の弟景泰帝を即位させて徹底抗戦の構えを見せたために エセンに十分な利益をもたらさなかったが、これに力を得たエセンは1453年に傀儡のハーンを滅ぼして 自らハーンに即位している。 しかし、ジンギスハーンの子孫ではないエセンの即位には モンゴルの間ではきわめて不敬とみられて評判が悪く、 また同輩中の第一人者であったエセンが君主として君臨しようとしたことはオイラト部族連合内の諸部族長が募らせていた不満を爆発させた。 エセンは即位からわずか1年ばかりのちの1454年に殺害され、オイラトの覇権は挫折した。 この混乱により、モンゴルの王族・貴族の数多くが殺害され、生き残ったのは わずかにオイラト部族の母をもつ数人の王子だけという状況となり、モンゴル高原の混乱はさらに続いた。エセン没落後のオイラト エセンの死後、オイラトは勢力を大幅に後退させた。 それでも幾人かの有力な首長はモンゴルのハーン位争いに介入し、オルドス(黄河大湾曲部)などモンゴル高原の西部を制する勢力を誇った。 しかし、1487年にダヤン・ハーン(本名はバト・モンケ、ジンギスハーンの末裔、ホルジギン氏族)が即位すると モンゴルの再編統一が行われ、オイラトの勢力はダヤン・ハーンの子孫によって次第に西に追いやられた。 16世紀半ばにはダヤン・ハーンの孫・アルタン・ハーンに敗北し、世紀の後半にはダヤン・ハーンの別の系統の子孫であるハルハ部のハーンたちに オイラトは服属することを余儀なくされた。 やがて モンゴルがダヤン・ハーンの後裔たちの間で分割相続が進み、アルタンの死から後はモンゴル全体を統一する権力が消滅した結果、 1623年になってオイラトはモンゴルより独立を果たした。 この時代のオイラト人の間では モンゴルとは別個の集団としての自意識の形成が進み、モンゴル文字をオイラト方言を記しやすいように改良したトド文字が考案し アイデンティーを高めている。 同じころ、満州に勃興した後金が内モンゴルの諸部族を服属させ、国号を大清と改めた。 これに対して清の脅威にさらされた外モンゴルのハルハとオイラトの各部は同盟を結び、1640年に「オイラト・モンゴル法典」を制定して部族間関係を調整、ハルハとオイラトの抗争は終止符を打つ。 しかし オイラトの内部では、やはり同じころ、部族間の力関係が変化し、内紛が絶えず起こっていた。 1632年、ケレイトのオン・ハンの後裔を称するオイラトの有力部族・トルグートは内紛を避けて西方に移住し、 ヴォルガ川下流域に移住した。 彼らの後裔が現在のカルムイク共和国に住むカルムイク人なのです。 グーシ・ハーンのチベット征服 17世紀のオイラト族は、モンゴル高原の西部からアルタイ山脈を経て東トルキスタン北部のジュンガリアにかけての草原地帯に割拠し、ホシュート部族が有力となっていた。 1630年頃の内紛の後、ホシュート部の首長となっていたグーシ・ハーン=トゥルバイフは、帰依していたダライ・ラマの宗派ゲルク派が チベットにおいて政治的に危機に陥っているのを救うという名目で、 1636年にオイラト軍を率いて出動、1637年初頭、チベット東北部のアムド(現青海省)を制圧、その後 ラサに上って ダライ・ラマ5世より「シャジンバリクチ・ノミン・ハン、テンジン・チューキ・ギャルボ」の称号を授かっている。 世上の支配君主の称号です。 オイラト各部の首長たちは ジンギスハーンの子孫ではなかったため ハーン(君主)になることができず、従来は 全オイラトを統べる実力者であってもタイシ(中国語の太師)などの称号を名乗っていた。 が、ダライ・ラマから称号を得たグーシ・ハーン以後、時代ごとに、オイラトの有力指導者の一人にダライ・ラマがハーン号と印章を授けるという手続きを経て、ハーンを名乗ることができる慣例が生じた。 グーシ・ハーン=トゥルバイフは 1638年より1639年にかけ、傍系の兄弟たち、オイラト各部の首長家の傍系者らをその配下とともに呼び寄せ、彼らを率いて残るチベット各地の征服に乗り出した。 グーシ・ハーン=トゥルバイフの軍は1642年までに チベットの大部分を制圧、ホシュート本領は兄の子で正統継承者のオチルトに譲り、チベットにおいてグーシ・ハン王朝を樹立した。 グーシ・ハーン率いるオイラト軍団はアムドを主として チベット各地に配置され 駐屯したが、彼らのうちアムドに居住する者たちが、のちに青海モンゴル族と呼ばれるようになった。 また、一部のオイラト部民は ラサ北方100キロ付近のダム地方に移り住み、グーシ・ハーン=トゥルバイフ王家に仕える直属部隊となったが、これらの人々の後裔がチデットのオイラト人として現在も続いている。 片や ジュンガール盆地に進出したオイラトは・・・・・・ ______ 続く _____
2012/06/03
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六月三日 水無月三日 梅雨の季節である 砂漠に囲まれる新疆・ウルムチは 当然 梅雨の季節などはない 今朝 雀の涙ほどの降雨 いや 水滴が落ちた 路面はすでに乾いている “六月の花嫁/June Bride” この言われは知らないが イスラームのヒジュラ暦では今日は1433年“Sha'ban”月の13日なのだが この暦は毎年 月日がずれる 厄介だ そして 次月に“Ramadan/断食”月が始まる 「梅雨で天の水がなくなる月」のゆわれが“水無月”なのか 「田植で水を水を張る必要のある水張の月」がそれなのか 農耕民族の思考は現実的だ 田植という大仕事を仕終えた月「皆仕尽(みなしつき)」であるとも聞いたが やはり “天上の水が無くなる月”にはロマンがあって 嬉しい 話は変わるが 北朝鮮は大旱魃のひでりが続き 餓死者が続発するであろうと危惧されている 師走の予定 出雲大社の会議を先取りして 早急に臨時総会を開き 大和の地震・竜巻対策を協議した上で 世界中の神々と連携よろしく補完しないと 地上の世界は大変だ Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/03
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チャバル(生没年 ? -1315年)は、14世紀のモンゴル皇族で、オゴデイ・ウルスの盟主。 カイドゥの長男。 オゴデイ・ウルスのみならずチャガタイ家やアリクブク家(トルイ家の支流)のウルス(遊牧所領)を服属させて中央アジアに王国を築いていたカイドゥの長子であるが、母親の身分が低く、後継者候補から外されていた。 父・カイドゥも母方に有力な王族がいず、生涯 王(ハン)位を名乗っていないが、勇気と智謀で大蒙古帝国(大元ウルス)のクビライ皇帝と対等に戦える勢力を築いていた。 しかし、1301年、カイドウが大元ウルス(元朝)との戦いで受けた傷がもとで死亡すると、実力のないイドゥの子らに代わって、 マーワラーアンナフルに影響力を有していたチャガタイ家当主でバラクの息子ドゥアが発言力を持つようになる。 チャバルはドゥアの後援を受け、カイドゥが生前に後継者に指名していた弟・オロスとの間でオゴデイ家の後継者の地位を巡って内紛を始めた。 この内紛中の過程で 1304年、ドゥアとともに元に遣使し、大元ウルスを祖父クビライ皇帝(ハーン)から継いだモンゴル皇帝(カン、ハーン)・テルムルに臣従を誓いっている。 カイドゥのもとで、30年来続いていた中央アジア諸王家と大元ウルスのクビライ皇帝家との争いを終結させた。 しかし、オロスとチャバルの争いは時を経るに従って オゴデイ家の分裂を促進させ、そこに ドゥアのチャガタイ家と、懐寧王・カイシャン(後の第7代蒙古帝国皇帝)率いる元のモンゴル高原駐留軍が介入した。 オゴデイ家の本拠地ジュンガリア(現在の新疆ウイグルル自治区北部)は西のイリ川渓谷地方を本拠地とするドゥアの軍と 東のアルタイ山脈を越えて侵入してきたカイシャンの軍によって挟み撃ちされる形勢になり、 チャバルはドゥアの背信・裏切りと大蒙古帝国の権勢に敗北した。 1306年に カイシャン軍がジュンガリアを平定した。 これにより、旧オゴデイ家領の遊牧民は ドゥアの保護下に入り、いまや邪魔者としてドゥアに追われる身となったチャバルは 1310年ついに 元朝・カイシャン懐寧王に 投降した。 このころ大元ウルス・大蒙古帝国の皇帝となっていたカイシャは チャバルの来帰を喜び、曽祖父・クビライ皇帝の時代に 中国内のカイドゥの領地として設定さていた 河南省南部の地を授け、汝南に住まわせた。 このころ大元ウルルの皇帝となっていたカイシャれていた河南省南部の地を授け、汝南に住まわせた。 1315年、チャバルは カイシャン皇帝の弟で次のモンゴル皇帝大元ウルス皇帝)となったアユルバルワによって汝寧王の爵位を与えられ、同年に没した。 以降、オゴデイ家の血筋は元朝の時代、また ジンギスハーンの血脈王朝が 明帝国に追われ、北帰した北元時代 そして 清帝国時代にも 歴史のうねりの中に埋没する。 【 ドゥア の史跡は 前章“チャガタイ一党の系譜”で記述していますが、オゴデイ家との絡みで・・・・・】 ドゥア(生没年 ? -1307年頃)は、モンゴル帝国の皇族、チャガタイ家の第10代当主(在位:1283年-1307年)、tyガタイ・ハン国の実質的な建国者と言われる。 父はバラク、建国の祖・チャガタイ・ハンの他界以降 チャガタイ・ハン国の政権が安定しない次期に クビライ皇帝からtyが対・ウルスに送り込まれた人物。 1282年、バラクの失政で、 オコデイ家のカイドゥにバラクは暗殺された。 チャガタイ家の政権はカイドゥに奪われ、怨敵カイドゥにバラクの遺児・ドゥアが チャガタイ家当主に任命された。 1283年の事です。 以降、1301年にカイドゥが死ぬまでチャガタイ家のウルスは カイドゥ・ウルス(オゴデイ家)の支配下に置かれた。 しかし、ドゥアは 1270年より 父・バラク仇敵であるカイドゥと対立してきた。 カイドゥ側についたチャガタイ家の第5代当主アルグの遺児チュベイらと激しい抗争を10年近くに渡って繰り広げた。 その後、情勢の変化から ドゥアはカイドゥに服属することになり、逆にカイドゥと対立するようになったチュベイらが、 モンゴル帝国のクビライ政権(大元ウルス)に逃亡したので、1282年になってカイドゥによって空席となっていたチャガタイ家の当主の座に据えられた。 しかし実際には ドゥアはカイドゥの傀儡であり、カイドゥが中央アジアに成立させた「カイドゥ王国」の一部をなす諸王に過ぎなかった。 1301年、カイドゥが元朝(大蒙古帝国)との戦い“ナヤンの反乱”に引き続く戦役で陣没するとカイドゥ王国内における長老として発言力を増し、復権をはかった。 ドゥア・ハンはまず カイドゥによって生前後継者に指名されていたオロスを遠ざけて カイドゥの長男・チャバルを後継者に推し、チャバルの即位を実現させた。 1304年にはチャバルと共に、第六代蒙古帝国皇帝・テムルに使者を送り、チャガタイ家当主を認証され、オゴデイ家はチャバルが認証された。 モンゴル帝国の再統合(ジンギスハーンが封土した)を実現した。 しかし、オゴデイ家の主導権をめぐって抗争が再燃すると、ドゥアは この内紛を好機とみてアルタイ山脈を越え、ジュンガリアに侵攻してきた元軍と連携してオゴデイ家の各勢力を各個撃破していった。 1306年、ドゥアはチュバルの追放に成功し、アルタイ山脈以西の「カイドゥ王国」の旧勢力圏を統一して、中央アジア一帯にチャガタイ・ハン国の広大な支配圏を築き上げた。 このとき、モンケ・ハーン(第四代蒙古帝国皇帝)の粛清以後、政権としては解体同然であったチャガタイ家のウルス(封土・領土)が、実質的に 後世に チャガタイ・ハン国と呼ばれる姿で建国を果たしたのです。 ドゥア・ハンはさらに ヒンドゥークシュ方面にも進出して アフガニスタンまで勢力下に置きチャガタイ・ハン国の最盛期を築き上げたが、まもなく病を得て死去している。 記述して来たように オゴデイ家のウルス(封土・領土)はジンギスハーン以降、オゴデイ、グユク、モンケの治世には独立した国家(ハン国)として機能していたか疑わしい。 また、カイドゥの率いたウルスは事実上彼が一代で築き上げ、旧来のオゴデイ・ウルスに留まらない国家へと発展させたもので、 史料上では「カイドゥの国」の名で呼ばれており、当時の人々にカイドゥがオゴデイ家の君主(ハン)あると見られていたわけではなかった。 彼自身の君主としての称号、「兄」を意味する「アカ」と呼ばれていたのが事実んごるです。 騎馬遊牧民族のモンゴル帝国の系譜に於いて、ジンギスハーンの“アルタン・ウルク/黄金の家”はその血筋 しかも 男子系のみが君主*ハン、ハーン、カン、カカン、カアン*を自称・他称できたのです。 カイドゥの死から70年後 ジンギスハーンの再来と言われたティムールですらアミール(将軍)が称号です。 自らは[ジンギスの娘婿]なのです。 しかし、ジンギス家と婚姻関係が密接なオイラートの一部族が 17世紀から18世紀にかけてジュンガル盆地を中心にジュンガル帝国を築きます。 この帝国の滅亡後、このような遊牧帝国が2度と生まれなかったため、最後の遊牧帝国とも呼ばれています。 ジュンガール帝国をスケッチして第一章から続けた“アルタン・ウルク/黄金の家”の系譜のエピローグにします。 “ドルベト・ジュンガールの一族は天から出た。 管(チョルゴ)状の樹の下に幼児がおり、その樹液を吸って育ったので、その子孫をチョロース”とガワンシャラブの『四オイラト史』にある。 ウイグルの誕生説話に類似している。 15世紀にモンゴル高原の覇権を握ったオイラトのトゴン・タイシ,エセン・ハーンの後裔が蒙古高原の覇権を握っていた。 オイラトはハルハ部・ホシュート部・トルグート部・ドルベト部に分かれていった。 ジュンガール盆地に勢力の根幹を置いたのがドルベト部であった。 伝統的な遊牧国家は南面して中央、右翼(バララゥラル,西方)、左翼(ジュンラル,東方)の三部構造をとっており、ドルベト・ジュンガールは オイラト部族連合の左翼の勢力であったが明帝国に追われた西走して来た。 ジュンガルの登場 北元時代に 長らく分裂状態にあったモンゴル諸部を再統一し、ハーンの権威を回復させたダヤン・ハーン(1464年-1524年)の孫・アルタン・ハーン(ウバシ・ホンタイジ)はロシア皇帝に使節を送り、 「カルムィクのカラクラ・タイシャがモンゴルとロシアの間にいて、使節の往来を妨げているので、カラクラ・タイシャの部族を両方から挟撃しましょう」と申し出ているのが史跡上の文献です。 この「カルムィク」というのは イスラム教に改宗しなかったオイラトを指し、「カラクラ・タイシャ」というのはジュンガルの始祖であるハラフラ・部長を指します。 尚、アルタン・ハーンは 「アルタイ地方も王」です。 ダヤン・ハーンの孫・アルタン・ハーンの親書はモスクワ・ツアーリ当局によって却下されたが、1620年頃に攻めてきたトグルート部・ジュンガル部連合軍を ウバシ・ホンタイジ(アルタン・ハーン)自身で撃退した。 この時、侵攻したジュンガル部長であったハラフラは 妻子を奪われた上、他のオイラト諸部と共にシベリアのロシア帝国領内に逃げ込んだ。 1623年、四オイラト連合軍は ハルハ部のアルタン・ハーンであるウバシ・ホンタイジを殺し、モンゴルの宗主権から脱した。 以降、トグルート部を中核にジュンガール地方でモンゴル族の勢力 ジンギスハーンの一党に成り代わり 世界史の中に史跡を残します。 オイラト語の英雄叙事詩『ウバシ。ホンイジ伝』は伝承民族文学として、最高傑作のとして残っている。 ジュンガール帝国が残した史実は現代の縮図です。 現代まで尾を引く資本主義を誹謗する覇権帝国主義、覇権帝国主義に押し込められ反発する民族主義 現代史はジュンガール盆地から始まった。 _____ 続く ____Cooperate with me ・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/02
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バラクはイリ渓谷に入るとムバラーク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪ったが、自らチャガタイ・ウルスの支配を確立すると、クビライ皇帝(大元ウルス)の傀儡となることを嫌ってクビライ・ハーンに反抗した。 バラクは本来 大蒙古帝国皇帝の所領であるが、クビライ・ハーン即位前後の混乱によって帰属が曖昧になっていた中央アジアのオアシス地帯を支配下に置くため、マーワラーアンナフル(トタンスオクシアナ)に兵を送ったが、 その支配権を巡って同じくクビライ皇帝に反旗を翻していたオゴデイ家のカイドゥと対立することになった。 1269年の春になって バラクとカイドゥは お互いに漁夫の利をもくろむ、ジュチ家の存在に気づき、 結局 バラクとカイドゥは 和議を結びんだ。 ジュチ家の当主・モンケ・テムルを交えて三者で“タラス川の河畔の会盟”を行い、チャガタイ家がマーワラーアンナフル(トタンスオクシアナ)地方の3分の2を領有し、残りをオゴデイ家とジュチ家が分割することを約した。 特にジュチ家・モンケ・テルンムらジュチ・ウルスの王族たちは、モンケ・ハーン没後の後継者争いにはクビライ、アリクブケ両陣営に対して基本的に中立的立場をとったが、 このタラス会盟も バクラがチャガタイ家の当主位を奪ったことに警戒して、マーワラーアンナフルおけるジュチ家の食邑の保持と、ジュチ・ウルス東部境域の安定化を狙う意味合いが強かった。 カイドゥやバラクにしても それぞれ中央アジアにおけるオゴデイ家、チャガタイ家の権益の確保に腐心し、クビライ皇帝に抗する連合が必要だった。 南方にはマムクール朝と対峙するも 親クビライのイルハン朝が存在する。 バラクは、タラス会盟で なおも所領を欲し、三者はホラーサーン方面へ遠征してその不足分を補う事を約した。 これは オゴデイ家・ジュチ家の両家との同盟を後ろ盾とし 皇帝・クブラインの甥であるイルハン朝第二代当主・アバカの支配地域であるホラーサーン地方を奪取するためであり、バラクを先陣に アム川を渡った。 この遠征軍に参加したチャガタイ、オゴデイ家の王族たちは、前チャガタイ家当主・ムバーラク・シャーや、バカクの後に当主となるニグベイ、 オゴデイ家からは グユク・カカンの孫のチャバトや甥のキプチャクなどがいた。 しかし、アム川を渡った前後に、遠征に参加していたオゴデイ家の王族・キプチャクとチャバトが、軍中で バラクの家臣と口論のすえ離反し、カイドゥのもとへ帰還してしまう事件が起きた。 バラクの遠征軍はなおも進撃してニーシャーブールを劫略するなど ホラーサーン東部を略奪していった。 西方のマルク-ト朝にシリア領内を侵略されている中、アバカ・ハンはバラク軍を撃退することを決定、1270年4月 アゼルバイジャンを出発した。 途中軍勢を整えながらハラーサーン方面へと進軍を開始した。 途中、アバカ・ハンは一度捕らえた間諜をわざと離すことで、バラク軍に対し罠を張った。 急いでバラクの下に戻った間諜は、アバカ軍が進軍はしてきたものの バラカ軍を恐れて退却を始めたと報告した。 アバカ・ハンがわざと放棄した天幕や食料が発見されたことで、元々あまりの大軍に浮かれていたバラカ軍の首脳部は、アバカ軍の解体をあっさりと信じた。 会戦を覚悟していた将兵の緊張は緩み、酒宴をするなど すっかり油断した状態で進軍が続けられた。 一方、アバカ・ハンは カラ・スゥ川の流れる平原を戦場に決め、バラク軍を待ち構える。 突如出現したアバカ軍に、バラクはさすがに動揺したが、 かろうじて隊列を整えて戦いに挑みんだ。 モンゴル帝国史上屈指の規模の会戦が始まった。 が、 ヘラート近郊の“カラ・スゥ平原の戦い”で、イラン各地の諸軍を率いたイルハン朝当主・アバカの智謀の迎撃にあって バラクは大敗を記した。 この敗北によって、タラス会盟は空文化した。 ジュチ・ウルスのモンケ・テムルはアバカの勝利を祝して多数の贈答品を送り、イルハン朝との積年の遺恨を水に流すべく友好関係の修復を図った。 一方でバラクの支配下の諸部族、王族たちが バラクから離反したうえ、カイドゥ陣営に与力した。 カイドゥ(オゴタイ家)とバラク(チャガタイ家)との対立が再燃した。 バラクの即位と圧政を不服とする王族たちは カイドゥのもとに投降した。 カイドゥは 和解と称して大軍をもって バラクの幕営に進んだが、バラクはカイドゥとの会談を控えた前夜に営中で急死した。 彼の死はカイドゥによる謀殺・毒殺であろうと言われている。 バラクの死後、遠征軍に参加していたムバーラク・シャーがカイドゥに帰順するなど、チャガタイ家では利害を異にする王族同士の内紛が起こり、およそ三派に分裂した。 カイドゥ、アバカの介入によってチャガタイ家の領土が荒廃した末に、 結局 1282年になって、 カイドゥと和解したバラクの遺児・ドゥアが カイドゥによって当主に任命されることになり、1301年にカイドゥが死ぬまでチャガタイ家のウルスは カイドゥ・ウルス(オゴデイ家)の支配下に置かれた。 【 アバカ・ハンの事跡は 前章“フレグ一党”をご参照下さい 】 1287年、ジンギスハーンの弟テムガ・オッチギンの子孫でモンゴリア東部を支配する元の貴族・ナヤンが クビライ皇帝の日本遠征政策に不満をもって、カチウン家、ジュチ・カサル家など他の東方三王家を率いて反乱を起こした。 1287年春には、ナヤンは オゴデイ・ハン国のカイドゥと通じ、同じ東方三王家のカダアン(カチウン家当主)やシクドゥル(ジュチ・カサル家当主)らと手を組んで反乱を準備していた。 ナヤンの祖父・父はモンケ・ハーン、クビライ・ハーンに仕えた有力重臣であった。 彼もクビライ皇帝に仕え知ていた。 失敗を省みず、二次・三次と日本遠征を企てる政策に不満であった。 ナヤンはキリスト教徒で、反乱のときも軍旗に十字架を掲げ、先陣を切って進撃した。 カイドゥとの挟撃が 唯一の望みであった。 カイドゥは、直ちに この反乱の狼煙に呼応し、西のジュンガリアからモンゴリアに侵攻した。 バヤンは モンゴルの名族出身である。 曾祖父の代にジンギスハーンに仕えて 東部の千人隊長となったモンゴル貴族で、父・シャオクタイが 1253年に始ったフレグの西方遠征に参加した。 バヤンも父と共ににフレグ軍に従い、戦功を立て 若くして建設されたイルハン朝の将軍となった。 その後、1264年に使者としてイルハン朝から中国・元朝に使者として立った折、バヤンを接見したクビライ皇帝は、その容貌がすばらしく才幹に優れていることを知り、そのまま引きとめて自身の部下とした。 1274年、前年に南宋の北方の守りの拠点として長らく抵抗を続けてきた襄陽の呂文煥が降伏したのをきっかけに、南宋本土への大規模な侵攻が組織されると、 バヤンは南宋討伐の総司令官を任ぜらた。 荊湖行省を任せられて河南地方一帯の政軍の全権を委ねられた。 バヤンは自ら中軍を率い、襄陽から漢水に沿って南下を続け、漢口(武漢)で長江に至ったている。 元軍はここで南宋の艦隊と対峙して渡河を阻まれたが、3000人の騎兵を上流からひそかに渡河させ、挟撃を恐れて浮き足だった南宋の艦隊を敗走させた。 以降、快進撃を続け、ほとんど手間取ることなく長江を渡り、さらに呂文煥を説得の使者に送り出して、この地点の南岸に位置する都市、鄂州(武昌)を降伏させた。 バヤンは出撃に先立って、クビライ皇帝からむやみに敵を殺害することを避け、できるだけ無傷で降伏させていくよう指示されていた。 このため、いずれの戦いでも降伏した者を寛大に扱い、抵抗を諦めても降伏を潔しとせずに自殺した者がいれば丁重に葬った。 このためもあって、南宋の諸軍は圧倒的な勢いの元軍に抵抗する意欲を失い、長江に沿って南宋の首都臨安に向かって進むバヤン軍に降伏していった。 1275年、宋の宰相賈似道は、歳幣(毎年の貢納)を条件に、元に占領された領土の返還を要求したが、バヤン将軍は拒否した。 賈似道は13万の兵をもって出撃したが、戦意を失っていた宋軍は元軍の騎兵の突撃と砲撃によってたちまち崩壊し、南宋の最後の抵抗もあっけなく壊滅した。 こうして、バヤン将軍は、ほとんど損害を受けることなく豊かな南宋の領土を元に併合することに成功し、クビライ皇帝の期待に応えた。 この英断なバヤン将軍がカイドゥの反乱軍に立ち塞がった。 南宋討伐から帰還したばかりのバヤン率いる精鋭を クビライ皇帝はカラコルムに送り込んだ。 バヤン将軍をカラコルムの総督任命し、全権を授けた。 バヤン将軍は皇帝の期待に 再び十二分に答えた。 まず、1282年に 中央アジアで反乱軍の盟主と自称するシリギの軍を破って、逆にモンゴル高原の大半を元の勢力圏に取り戻す戦果を挙げた。 さらに、アルタイ山脈・ジュンガリアにまで勢力を広げたカイドゥを牽制するため、モンゴル高原での駐屯を続け、諸侯の動向を監視していた。 【 シリギの反乱 ;1275年 カイドゥとジュチ家が賛同せずカラコルム近隣で自立していた、 カイドゥはシリギ反乱軍の東方移動で勢力を拡大した 】 蜂起したナヤン軍のは バヤン率いる元のモンゴル駐留軍に阻まれた。 また、クビライ皇帝が親征に出で敗死させたられている。 1287年の暮れ 皇帝自らの親征だったため元軍の士気は高く、ナヤンはわずか1日で敗れて逃走を図るも捕らえられたの後、クビライ皇帝の命令で 2枚の毛布に包まれた上で、激しく振り回される方法で処刑されたという。 他方、1289年にはハンガイ山脈を越えて中央モンゴリアに入ったカイドゥは、モンゴリア方面の領主・晋王カマラの軍を破り、更に 東進する。 この方面の戦線は次第に元側が劣勢になってきた。 そのため、クビライの宮廷の中に、バヤン将軍の軍事行動に不満を持つものや、カイドゥとの内通を疑うものも現れた。 そこで1293年、クビライ皇帝は 皇帝直属の精鋭を付属させた皇太孫・テルム(皇太子チンキムの子)をモンゴリア駐屯軍の指揮官に据えてカイドゥにあたらせることにし、バヤン将軍を召還した。 帰朝したバヤン将軍に対して、皇帝・クビライは厚くこれを待遇し、彼を公に褒め称え、首席の宰相に任命しているのです。 ちなみに バヤンは クビライ皇帝が崩御の後 帝位継承者として宣言されていたテルムに対し 長兄・カマラを推す声があり、諸王侯の間で一時紛糾した。 その際、先帝から一身上の尊敬を受け、総司令官の高位にあり、来会者の中で最も勢力のあったバヤン将軍が 剣を握って立ち、 「先帝が指名していた皇子以外のいかなる人をも即位させるわけにはまいらぬ」と語調を強めて宣言し、論争を終止させている。 バヤンは 1295年1月に59歳で急逝した。 彼の死は、あまねく中国人にも蒙古人にも惜しまれたと伝えられる。 1294年にクビライ皇帝が病没し、テルムが大ハーン位(蒙古帝国)・皇帝位(元朝)を継ぐと、元の政権安定を見てカイドゥの許から元に投降する者が続出し始めた。 カイドゥはこれを食い止め、決戦に臨むため、1300年に中央アジアの諸勢力の総力を挙げて出征したが、 1301年のカラコルムの戦い、タミールの戦いのいずれにも元軍の迎撃の前に大敗し、その時の戦いで負った戦傷がもとでまもなく死亡した。 カイドゥの死後、以前にチャガタイ家にカイドゥが据えていた傀儡当主のドゥアが中央アジアの最高実力者にのし上がり、1306年にカイドゥの遺児・チャバルを追ってオゴデイ家を併合する。 ____ 続く _____
2012/06/01
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私のような愛煙家には耳が痛い “禁煙Day”なのだ 喫煙者が3億人を超えている中国では、国民の健康被害が年々深刻化だ と 「世界禁煙デーにあわせて、禁煙を強く呼びかける報告書を発表している 報告書の数字など どうでもいい どうせ鉛筆を舐めての数字合わせ 現実は 路上のポイ捨てと 古くからの 立ち話ですら タバコを人に勧める習慣がある 飛行場は全面禁煙 汽車の駅は喫煙場が狭くなる一方 得意の煙に巻く論法で 煙に巻く話ができる場所が無くなって行く 禁煙すらできない意志零弱な私には ますます 安住の空間が狭くなる いっそ 改宗しようか イスラム教徒は禁酒・禁煙なのだから Cooperate with me・・・クリック!! 宜しく 再会を期して, 涯 如水
2012/06/01
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