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「君は不思議な人だね」と僕は彼女に声を掛けた。チョンソンは顔を上げて「なぜ?」というように僕を見た。「どんな人だって育った環境には染まるものだし、考え方だって周りの人に影響を受けるものだよ、でも君はそうじゃない」「それはトシだからよ」と言ってチョンソンはやっと微笑んだ。「そうか、僕だからか」と言って二人で笑った。我々は勘定を済ませ公園内を散歩した。敷地の隅には囲いがありそこに動物たちが居て僕たちは子馬やヤギとじゃれて遊んだ。日差しが夕暮れになって来たので帰りは路面電車に乗って寮まで戻って共同キッチンの椅子に腰を下ろした。僕はもうへとへとだったが、チョンソンは休む暇もなく調理台に立って夕食の準備に掛かった。すごい体力だなと思いながら机に頬杖を突いて彼女の働く後ろ姿を眺めていた。「ねー日本の街ってどんな風?とてもにぎやかなんでしょ」と僕に背を向けたままチョンソンが尋ねた。「こちらへ来てから感じているんだけどまー日本という国は異常だね、何処に行ってもショッピングモールがあって、大阪などには地下街が張り巡らされていて数えられないぐらいのいろんな分野の店が並んでいて、休みの日ともなると町中の人たちがそういった所に集まって来るものだからまるで蟻の巣みたいになって、夜遅くまでそんな状態が続く。店もすぐにつぶれてまたすぐ別の新しい店に変わって行くから何処に何の店があるかなんて到底憶えられない。皆に飽きられないようにあの手この手で新しい物新しい物へと形を変えて行くんだ。要するに日本人は金儲けにものすごい執着心があるんだね。ドイツでいろんな国の人を見てると皆もっと違うところに意識がある。」「でもだからこそあそこまでの経済大国になった訳ね」と野菜を水で洗いながらチョンソンが言った。「でも金に魂を売れば必ず何かを失う、正に日本という国自体がそういう状態なんだ。」チョンソンは振り向いて僕を見てまた前を向いて「そうなの?なんだか怖い話ね」「そう、残念だけど韓国もこれからそうなって行くよ、いやもう引き返せない所に来ている」「そういう意味ではどうやって魂を売るのかさえ分からない私はセーフということかしら」と言ってチョンソンが笑い「それは実は誇るべきことなんだ」と少し大きな声で僕が言った。 つづく
2006.03.29
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7月も終わりになって1ヶ月半ぶりにチョンソンから電話がかかって来た。「久し振り、私ちょっと用事で韓国へ帰っていたのよ」と懐かしい声で彼女が受話器の向こうで話した。「そうだったのか、全く見掛けないからどうしたかと思ったよ」「ごめんなさい、ところで大した物はないんだけど韓国からいろいろ持って帰ったからトシを韓国料理のディナーに招待するわ」「本当に、とても嬉しいよ」と僕は声を上げた。「ねー明日のお昼は時間ある?」「夏休みは毎日暇だよ」「だったら明日も多分お天気が良いでしょうから市民公園まで行ってみない」と彼女が誘ってくれ、僕たちは次の日の昼過ぎに彼女の寮の前で待ち合わせた。チョンソンの予想通り次の日は快晴で、我々は熱い夏の日差しの中並んで歩いた。でも日差しはかなり暑いが湿気がないため汗ばむことはないし、陰に入ると涼しかったので嫌なけだるさはなく、僕たちはいろんな話をして片道1時間ぐらいの道のりを電車に乗らずにひたすら歩いた。市民公園はかなり広大な敷地で、至る所に泉がありその中心には噴水があって高くまで水を噴き上げていて、そばを通ると涼しい空気が感じられた。公園内を少し行くとちょっとしたビアガーデンがあり、僕たちは木陰の席を見付けてそこに座りビールを注文した。もちろんドイツには自動販売機なんてどこにもないし、喉が渇いたらビールしかないのだ。少し大きめのジョッキーに入って運ばれて来たビールを我々はごくごく飲んだ。静かで草木の匂いがして、遠くに噴水の音が聞こえ、涼しげな木陰で飲むビールの美味しさは一体何に例えれば良いだろう。「ねーもう一杯飲んじゃう?」とチョンソンが少し恥ずかしそうに言ったので僕は店員に「僕たちにあと一杯ずつお願い」と注文した。「韓国はお天気はどう」「今は暑いわよ、こんな気持ちいい夏じゃないわよ、日本も同じじゃない?」「ああ、空気を絞ったらドボドボっと水が出てきそうだよ」「本当!韓国はそこまでいかないわね」と言ってくすくす笑った。少し沈黙の後チョンソンが言った。「私もドイツに来て2年半になるけど今まで一度も韓国に帰らなかったの、だからお父さんお母さんや兄弟に今までドイツで何があって、どんな事が韓国と違うかとか積もる話をしたの。皆興味深そうに私の話を聞いて驚いたり感心したりしてたわ。そして私トシのことも話したの、とても良い人で私たち何でも話せる友達になれそうだって。そうしたら突然お父さんもお母さんも顔色を変えて怒り出したの。「お前が何処の国の人と仲良くしても構わん、しかし日本人だけは、日本の男だけは絶対にゆるさん!」って怒鳴って。僕はしばらく黙っていた、チョンソンも黙った。「それは多分そう言うだろうね」と僕が沈黙を破った。「私たちは学校で徹底的にそういう教育を受けるの、日本人に与えられた苦しみと屈辱を決して忘れないように憎しみを植え付けるの」「そして僕たちは昔何があったか一切知らされず、のんきに誰とでも仲良くなれると思っている」「でも私とトシには関係のないことだわ」と乾いた声でチョンソンが言った。僕は彼女の顔を見た。彼女の目は怒りに満ちているように見えたが、諦めたように目を伏せ足元にちらちら揺れる木漏れ日を見つめた。木漏れ日は彼女の髪の上でも柔らかく揺れていた。 つづく
2006.03.27
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7月に入るとアオルマン先生の授業が夏休みに入り、アルバイトのためだけにディーリングハウゼンまで通った。ある時クワストフが「夏用の仕事着が欲しいから仕事の前に少し店に寄ってもいいかな」と言い、2人で運送屋までの道沿いにある小さな店に入った。僕もランニングシャツと袖の無いベストのような上着、それに帽子を買う事にした。しかしそれはすべて群青色で独特な素材で出来ていて、不思議に思って他の商品をよく見るとすべて群青色だった。ここは軍用品専門の店だったのだ。買ってしまった物は仕方がないのでそのまま店を出てその日の仕事を終え家に戻った。次のアルバイトには帽子、ランニングの上にベスト、それに半パンといういで立ちで出掛けた。日本だったら変なお兄さんだが、こちらでは全然おかしくない。ディーリングハウゼンの駅に着いてホームに降りると其処に直子さんが一人でいた。「あれ、直子さんどうしたんですか」「あら、今からアルバイト?私はちょっとアオルマン先生の所に用事だったの、何だかいかにも今から働きますっていで立ちね」「この間クワストフと一緒に買いに行ったんです」「へーでも貴方そのシャツに書いてある文字、ちょっとどうかしら」と直子さんは言って僕の胸を指差した。「え、これ何て書いてあるんですか」「私はドイツ国民であることを誇りに思っている」と直子さんは書いてある文章を訳した。「まー考え方次第だけど、この服って軍隊の物だしね」「そうですね、いつか日本で着ます」「そうね、それがいいかも」と言って直子さんは笑った。「直子さん、車はどうしたんですか」「修理に出してるの、車の生活に慣れていると不便よね、あ、汽車が来たから乗るわ、アルバイト頑張ってね」と言って列車に乗り込んでケルンに向けて去って行った。 つづく
2006.03.23
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チョンソンの部屋は4畳半ぐらいの広さで、備え付けのベッドと机、それに洋服だんすと本棚、洗面所があり、本棚には本がぎっしりと並んでいて机の上にも本が積み上げてあったが、ベッドの横の壁に一つリースのような飾りが有るだけで、テレビもステレオもない至ってあっさりとした部屋だった。しばらく僕たちは楽しく話していたが、僕はあまり長い間女性の部屋に居ては失礼なような気もしたので「そろそろ行くよ、コーヒーをご馳走様」と言って立ち上がった。「あら、もう行っちゃうの、次は韓国料理に招待するわ」と言ってにっこりした。チョンソンは寮の玄関まで見送ってくれ相変わらず強い雨が降っていたので「これ女物だけど」と言ってピンク色の傘を貸してくれ、バイバイと手を振って別れた。それから彼女はしばらくレッスンに顔を出さなかった。1ヶ月ぐらい後に会った時「今大学の方が試験攻めでもう大変なのよ」と疲れた顔で言っていた。5月になり一斉に花々が咲き、6月になって再び夏がやって来た。一年のほとんどがどんよりした曇り空の中部ドイツも夏になると毎日お天気の良い日が続いて、日本のような湿気のある夏ではないので過ごしやすく気持ちが良かった。つづく
2006.03.21
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今日はドイツでは珍しく天気がよかったので我々はブルゼの近くにある公園に行ってその脇にある持ち帰り専門のピザ屋に行き、ほうれん草のピザを注文した。カウンターの中でイタリア人の男性店員が2人で働いていたが、生地を作るところからチーズやトマトソース、それにほうれん草を乗せてオーブンに入れる作業までをものすごいスピードで手際よくこなしていた。一人が生地をこねてから、皿回しみたいに指の上でぐるぐる回し一人分のピザの大きさに伸ばして行き、時々回転させたまま天井近くまで放り投げた。そうしてもう一人にひょいと投げて、受け取ったもう一人はテーブルでトッピングし、オーブンへ入れて行った。皆その作業を飽きもせずじっと見て、出来上がって来たピザに自分でにんにくソースを掛けて店を出る。僕とチョンソンもピザを受け取ると公園のベンチに行きそれを食べた。ちょうど食べ終わるころになって雲行きが怪しくなりそのうちものすごい勢いで雨が降り出した。大粒の雨がバケツをひっくり返したみたいに落ちて来て、バラバラという音がして頭や身体に当たり痛く、チョンソンはキャー!と声を上げた。「なんだかおかしい」と思いよく見るとそれは雨ではなくひょうだった。そこまで寒くないのになぜひょうが降って来るのか訳が分からず、我々はチョンソンの部屋に走って逃げ込んだ。ハイツング「室内に備え付けのオイルヒーターのようなもの」に2人でへばり付いて濡れた服を乾かしながらチョンソンが入れてくれたコーヒーを飲んだ。「ねーチョンソンはキムチを漬けることは出来るの?」と僕は尋ねてみた。「ええ、もちろんよ、トシはキムチが好きなの?」「訳があって一度ソウルに行ったことがあるんだ、そこのレストランで食べたキムチスープが忘れられない、それ以来世界の料理の中で韓国料理が一番好きになったんだ」「へーそうなの、でもキムチを漬けるのは大変なのよ、ここの共同キッチンを丸一日占領してにんにくの匂いもプンプンさせないといけないし、皆嫌がるでしょうね、残念ながらちょっと難しいわね」「そうか、そんな大変な事なのか」と僕が残念そうに下を向いていると「何か他のものなら出来るわよ」と彼女が下から覗き込んで微笑んだ。窓の外からはずっと激しい雨の音が聞こえていた。 つづく
2006.03.17
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チョンソンは韓国から来ている僕より5歳ぐらい年下の女の子で、歌を勉強するため一人でここまで通っていたが、挨拶以外に話をするのは初めてだった。「トシは何処に住んでるの?」「ケルン市内だよ」「え、私もよ、ブルゼって学生寮を知ってる?」「あー、知ってるよ、ドイツに最初に来た時しばらくそこのゲストルームに居たんだ」「そうだったの、今トシの住んでいる所は?」「タチトゥース通りなんだけど分かる?」「マリーエンブルクの近くでしょ、分かるわ」「マリーエンブルクって?」「知らないの、すごいお金持ちの家ばかり有る住宅街よ、そりゃーすごいんだから、家を見て歩いてるだけで楽しいわよ」「へー、僕はそんな所の近くに住んでたのか」「今度一緒に行ってみない?」「面白そうだね、見てみたいな」ということで彼女とのデートが成立した。次の日曜日の朝、10時ぐらいにベルが鳴って下りて行くとセーターにジーンズ姿のチョンソンが立って微笑んでいた。僕たちが10分ほどマリーエンブルクに向かって歩くと高い木が並ぶ林に入り、そこに突然大きな家々が見えて来た。林の中に住宅街があるのだ、まるで軽井沢だ。家はどれもかなり古い物で、中にはドイツの童話に出て来そうな屋根がとんがって、レンガ造りで魔女が住んでいそうなメルヘン的なものもあった。「どの家も敷地が広いね」「でしょ、こんな所に住んでいる人もいるんだ、私は韓国でもすごく田舎の方の出で小屋のような家で育ったの、韓国はソウルのような大都市と田舎の生活の水準が全然違うからこんな大きな家を見ると仰天しちゃうわね」「それじゃドイツへの留学も大変でしょ」「国から奨学金をもらってケルンのユニバーシティーで音楽教育を勉強していて、そしてアオルマン先生の所にも歌を習いに来ていると言う訳なの」「へー、優秀なんだ」「そんなことないわよ」と彼女は言ったが、韓国政府から奨学金をもらえるなんてよっぽど優秀でないと不可能なはずだ。彼女が僕の隣を歩いていると彼女の頭は僕の肩口にあり、いつも大きなドイツ人の女性を見ているせいもあって小柄な日本女性を思い出し懐かしく、言葉が違うだけで見た目も日本の女性と何も変わらなかった。ドイツ語が少しでも話せるおかげでいろんな国の人とすぐにコミニュケーションが取れてとても嬉しい、なぜ世界の言葉が全部共通じゃないんだろうと思った。 つづく
2006.03.15
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朝ごはんを食べながら「今日もう一度アンドレアスの舞台を見てそのまま列車に乗り込むよ」と僕は言い「秋にまたいらっしゃい」とお母さんが微笑み「リゴレットを仕上げて待ってるよ」とアンドレアスが言った。11時前にはアンドレアスが歌劇場に向かい、お昼にはお母さんと昼食を取りながら日本の独特な風習についていろいろ話した。3時を回ると僕は荷物をまとめ、玄関でお母さんと握手をして礼を言った。「次お会い出来る時を楽しみにしているわ、それからお人形をどうもありがとう」と彼女は僕の頬に手を触れさよならと言って家を後にした。音楽大学の中をしばらく散策し町に出ていろんな所を見て回ったり、フライブルグの美味しいビールをもう一度飲んだりして時間を過ごしたが、ギュンター先生にはもう会えなかった。アンドレアスは昨日にもましてすばらしい演奏を聴かせてくれ、僕は壮大なワーグナーの世界に浸りながら駅に向かい、ケルンに向かう列車に乗り上着をかぶって眠る努力をした。僕の周りには上品そうなブロンドの髪のご婦人と若いカップル、それに6歳ぐらいの男子とお母さんの親子が乗っていたが、盗みをしそうな人は何処にもいなかった。男の子は時々ポカーンと口を開けて僕を観察した。子供にとってはアジア人はとても珍しい存在なのだ。子供にしてはもう遅い時間だったので彼はお母さんの膝で眠ってしまい、僕も座ったままうとうと眠り、朝まだ薄暗いうちにケルンに着き、部屋に戻ってベッドの上で手足をのびのび伸ばしてもう一度眠った。その日は朝からレッスンに出掛け、先生の家のチャイムを押し「おはようございます、トシです」と言い「おはよう」という先生の元気な声がインターホンから聞こえ、ドアがジーと鳴ってロックが解除され中に入ってまだ誰も来ていないレッスン室に座っていると先生が入って来られた。先生は手に水の入ったジョウロを持ち、窓際に並べられたたくさんの鉢植えに水を注ぎながら「どうだったアンドレアスの舞台は」と尋ねた。「彼の声とキャラクターに役柄がぴったりですばらしかったです」「ヴォルフラムはもう随分前から歌っているからもうすっかり彼の持ち役ね、でも今度のリゴレットは初めての挑戦だし、不安な部分も有るわね」「声も見た目もリゴレットにしてはハンサム過ぎますでしょうかね」「そう、そうなのよ」と言って先生は笑った。程なく皆が現れ「おはよう」と声を掛け合った。クワストフが来て僕の横に座ったので「昨日はアルバイト行けなくてごめん、代わりの人はすぐに見付かったかい」と尋ねた。「心配ないよ、半分アル中みたいな変なやつがいるんだがそいつと組んでやったよ」と言って悪戯っぽく笑った。お昼休みに一人で前の川縁でパンをかじっていると、チョンソンがやって来て「一緒に座ってお弁当食べてもいいかしら」と尋ねた。 つづく
2006.03.12
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先週の木曜日にAさんが亡くなった、70歳だった。Aさんは僕が指導に当たっている合唱団のテノールのパートを歌っておられ、音程も確かですばらしい声の持ち主だった。僕のホームページもよく覗いて下さり、練習の時にお会いすると「先生のブログ面白いですねー!ホームページを開いて新しい日記が入っていなかったらがっかりするんですよね、昨日もおさぼりになられましたね!」と声を掛けて下さっていました。土曜日に葬儀があり、京都の桃山御陵にある教会へ出向きミサに参列した。聖書のいろいろな部分を起立して皆で読んだり、讃美歌を歌ったりした後神父様がAさんのことについて話出した。「Aさんは奥様やお子様とご一緒に教会に来られていましたが、最後まで洗礼を受けられることはありませんでした、そしてそろそろ自分も洗礼を受けようかとおっしゃっていたその矢先の事でした。ですから本日はあえて私たちの手で神の元にAさんをお送りしたいと思います。Aさんは若い頃には犬を飼い育てることに喜びを見い出されておられましたが、その後はコーラスで歌うことに大変な喜びを感じられていたようです。一人で行う作業から他の人々との交わりなしには出来ない作業へと移行されて行った訳です。これは私の想像で言うことですから間違っていたらごめんなさい。コーラスというのは他の人と音程やリズムを合わせ歌わなければなりません。でもそれだけではきっと駄目でしょう。音色や大きく歌う、小さく歌うというようなことも周りの人々と声を聞き合いながら他人を感じながら演奏しなければならない。しかしそれだけでもまだ駄目でしょう。そう、団員の人たちと心を通い合わせ一つになろうとする思い、それこそが大事なことなのではないかと思われます。そしてそういった行為はこの教会で神と共に我々が常にやろうとしている事となんら代わりのないことなのです。」神父様はそう言って皆で一曲讃美歌を歌ってミサを終えられた。ぼくは合唱に喜びを見い出し、歌うことに情熱を注がれて来たAさんの人生を思い、Aさんが通うことになったであろう教会を後にした。御冥福をお祈りいたします。
2006.03.07
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「あの先生は作曲もやるんだ、随分たくさんの曲をミサの中で歌った、懐かしいよな、ろくに学校も行かずに先生に付いて回って手伝いのような事をしていたが、でも先生はそのことを咎めることは一度もしなかった。不思議な人だよ、僕には真似できない。でも先生の傍でいろんな事を勉強できた。一緒にいろんな所へ行って、いろんな人に会い、先生の仕事をずっと傍で見て10代の後半を過ごした。それはとても幸せな時間だった」と静かに言ってアンドレアスは突然寂しそうな顔をした。彼はそれまでも時々そのような寂しそうな表情を見せたが僕はあまり気にしていなかった、しかしその時彼の中にどうしようもない孤独感が見えたような気がした。夜も遅くなったしアンドレアスは明日も舞台が有るので皆もう休むことにして、僕は半地下に用意してもらった寝室に行き明かりを消して眠った。次の日は朝ごはんの前にアンドレアスとその辺を散歩した。音楽大学の傍を通り過ぎる時「あの今は無き名テノール、フリッツ・ヴンダーリヒはここで音楽を学んだんだよね?」と僕が言うと「そうらしいね、僕ももちろんこの耳で聞いたことはないけど彼はドイツが誇る名テノールだったね。酒場の階段からよっぱらって落ちて死んだと言う事だが別の説もある。彼はとても精神的に不安定な人で、酒場の奥の部屋で数人でロシアンルーレットをして死んだという話も聞いた。正に自殺だ、30代半ばという若さだったのにね。まーこれは根も葉もないうわさだから嘘か本当か分からないけどね。」その辺りは小高い丘になっていて、僕たちは一時間ほどゆっくりと散歩して清々しい気持ちで家に戻った。 つづく
2006.03.04
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「アンドレアス、君すばらしかったよ!」と言って僕は彼に抱きついた。「やーありがとう、無事に来れたかい?」「何とかね、それより午後に君と別れてからも面白い事があったんだ」「へー、そりゃー楽しみだ、後でゆっくり聞かせてもらうよ、とにかく先に食事の用意だ!」と言って彼は休む間も無く準備に掛かった。リビングを外に出ると広いテラスが有り、何とバーベキュー用の暖炉が有って、そこで火を熾して肉をどんどん焼いて行った。3月とは言っても暗くなるとかなり寒く我々は暖炉にできるだけ近付いて火に当たりながら肉や野菜、トーモロコシやソーセージなどをビールを飲みながら食べた。全部焼き終わると我々は余りの寒さに耐え切れず皿とコップを持って部屋に逃げ込んで、今度はワインを飲みながら3人で食事を続けた。どうやらアンドレアスには奥さんや子供はいないようで、お父さんもいないようだったがその事は尋ねなかった。僕は昼間の教会音楽師の紳士の風貌や彼と話した事、彼が鶏肉を切ってくれた事やエンポールの上でオルガンと指揮台の間を忙しそうに行ったり来たりしていたことを話した。アンドレアスはしばらく僕の話を聞いていたが、突然笑い出し「その紳士、何か印象的なことを言わなかったかい?」と身体を乗り出して尋ねた。「そう言えばとても真剣な顔で、貴方の生き様を神は必ずあたたかい目で見ていて下さっていますよ、って言っていたな」アンドレアスとお母さんは同時に笑い出し、椅子の背もたれにドンともたれて「それは間違いなくギュンター先生だ!」と言ってアンドレアスはワインのグラスを手に取った。「知り合いなの?」と僕は驚いて尋ねた。「僕はギュンター先生に出会ったから今こうやって歌っている、僕の一生を決めた人だよ」とアンドレアスはワインを一口飲んで静かに答えた。「この子が12歳ぐらいの時、あの教会で聖歌隊の募集をしていて軽い気持ちで私が連れて行ったのよ、その頃この子は不登校が続いて家で本ばかり読んでいたから何か趣味を持たせた方がいいと思ったの。ところがコーラスの指導をされていたギュンター先生にすごく憧れちゃって、先生を通して音楽も大好きになって行ったの。この子には父親がいなかったから先生を父親みたいに感じてたのね、18歳ぐらいの時先生みたいな教会音楽師になりたいと言い出したんだけど、以外にも先生は歌い手になることを進めて下さったの」とお母さんは説明してくれた。 つづく
2006.03.01
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