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新しい年1992年がやって来た。1月1日の朝は花火の燃えカスやゴミやビールやシャンパンの空き瓶が至る所に散乱し、酷い風景だが、一日経つと綺麗さっぱり整備される。大変な作業だと思うが、ものすごく派手なオレンジ色の作業着を身に付けた職員によって驚くべき速さで片付けられる。新年は日本とは違い、こちらではあまり重要ではなく情緒もない。4日からすでにレッスンは始まり、朝から我々は先生の家に集まった。部屋に入ると窓際にあるテーブルの上に写真立てがあり黒いリボンが掛けてあって、見るとアンドレアスが舞台でリゴレットを歌っている写真だった。僕の隣のソファーに座りワイングラスを手に持ち、ビルエヴァンスに耳を傾けるアンドレアスの横顔が一瞬頭に浮かんだ。黒い服に身を包んだアオルマン先生が部屋に入って来て席に着き「夕べアンドレアスが亡くなりました」と言って一つ大きくため息を吐き黙り込んだ。先生はしばらくの沈黙のあとそれ以上は何も言わず授業を開始した。僕はその時何故かアンドレアスの家で見た夢の中にいた。教会の前のレストランの外のテーブルに座り食事をしていて、ギュンター先生と少年が横で親密に話をしていて、僕は微笑ましくまた羨ましくそれを眺めていた。我々はこの世に生を受けて限られた短い時間の間に何をすべきなのだろう。そしてそれはいったい何を意味するのだろう。皆一瞬にまたたく宇宙の微生物だ。 つづく
2006.09.27
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また僕は一人で散歩に出た。ゆったりとした敷地に建った家々を抜け、村の端まで行くと小川が流れていて地平線まで野原が続いていて、所々に木立も見えた。僕は小川の畔に腰を下ろし、流れる水を眺めた。やはり何処からも車の音は聞こえず、とても静かでせせらぎの音だけが辺りの地面や木々に吸い込まれて行った。そよ風の匂いもせせらぎの音も空気の種類までが日本のものとは何かしら違うように感じられ、何だかミュラーのような詩が書けるような気がして来た。ドイツ歌曲を歌う時にまず詩人の詩を生み出した時の空気を肌で感じることが必要な気がするが、そういう意味で今とても貴重な経験をしているように思えた。家に戻るともうお昼になっていて「さあ、皆でレストランに行こう」とオッテさんが楽しそうに言い、我々は皆で出掛けた。10分ほど歩いた所にそのレストランはあったがどう見ても普通の家だった。料理は本物の七面鳥で僕は初めて食べたがとても美味しかった。昼過ぎには僕とチョンソンは荷物をまとめ、「大変お世話になりました、いろいろと貴重な経験をさせていただきました」と皆に挨拶した。「来年もまたいらっしゃい」とオッテさんはにこにこして言い、僕たちを一人一人抱きしめた。僕たちはまたタクシーに乗って、古い家々や教会を窓から見ながら中世の村を後にした。 つづく
2006.09.23
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朝起きると隣にチョンソンはおらず、下に降りて行くと奥様と二人で朝食の準備をしていた。「おはよう」とチョンソンが元気一杯挨拶し、まだぼんやりした僕は洗面所に行って冷たい水で顔を洗った。リビングに戻ると昨日のままツリーがあり、後ろの窓からはどんよりしたドイツの空が見えていた。皆も起きて来て、テーブルに着いてお祈りをしてから朝食を食べた。オッテさんは年に何度もエルサレムの教会へ行き、そこで神父の活動をしていたが、家族は反対していた。現地では酷い内戦が続き、教会の窓ガラスも割れてほとんどない状態だそうで、そんな危険な所に誰も行かない。でもオッテさんはだからこそ自分が行かなければならないと考えている。そのためここの教会はどうしても弟子に任せてしまうことも多く、オッテさんはカトリック教会から訴えられている。彼は温厚そうな紳士に見えるが結構頑固で、自分のスタイルを守って突き進むタイプのようだった。もちろんそんな危険な所に行って命の保障もないというのは問題だが、彼の神父としてのポリシーと野心には好感を持った。少しするとプレゼントの交換が始まった。家族は皆でプレゼントを渡しあい、僕たちも用意して来た物を出した。プレゼントをもらうとその度に抱き合い必要以上に何度もキスをしていた。プレゼントはお金の掛かっていない簡単な物か手作りのちょっとした物で、これもまた彼らにとっての大事な儀式なのだ。結局物は形だけで、家族がお互いの愛し合う心をあらためて態度で見せ合い、これからもそうやって続けて生きて行くための、僕たちには知らない長い間に培われた幸せに生きて行く一つのテクニックなのかもしれない。 つづく
2006.09.21
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私に一人妹がおり、京都の出町柳で「ラッシュライフ」というジャズ喫茶を経営しており、店主催で毎年いろんな国から世界的なアーティストを呼んで京都市北区の上賀茂神社でジャズコンサートを企画しております。神社のお堂を会場に作り変えたり、神戸からフルコンサートのピアノを運んで来たり、アーティストを呼び寄せたりするのに大変な費用が掛かってくるそうで、もちろん本人たちに儲けは一切ないみたいです。それどころか用意したチケットが売れ残れば赤字だそうで「どうしてそこまでして毎年苦しいことをやり続けるのか」と尋ねると「お兄ちゃんだって同じようなことをしてるじゃない」と言って笑っておりました。今年のピアニストも特にヨーロッパで大変有名な人物で、すばらしいコンサートになると豪語しておりました。日が迫っておりますが、もしご興味のある方がおられましたら是非小旅行を兼ねて上賀茂神社まで足をお運び下さいませ。チケット申込みはホームページからも可能です。どうぞよろしくお願い申し上げます。 茶木敏行【アブドゥラー・イブラヒム/チャリティ・ピアノコンサートVol.2】●日時 9月30日(土)/10月1日(日) 開場 6:30pm. 開演 7:00pm●会場 上賀茂神社●HP:http://www.lushlife.jp/
2006.09.17
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教会内はすでに満員で熱気とたくさんのろうそくで寒さは感じなかった。その人々の間をゆっくりと歩み出たオッテさんはミサを開始した。我々も席に着き、腕時計を見ると0時を少し超えたところだった。オッテさんのミサは今まで見たどのミサとも違っていた。詩を朗読するように聖書を大きな声で情熱的に読み上げたり、静かに感情を込めたりして身振りも付け、途中に歌まで歌った。一通りミサが終わるとオッテさんは「今から私の世界からの友人を紹介いたします」と言ってまずアフリカから今日のために来たという若い男性が前に出て自分の紹介をした。その後サンフランシスコから来た女性がしゃべり、その後に「それではアジアからの友人がお国の歌を歌ってくれます」とオッテさんの紹介があり、我々が前に出てチョンソンがオルガンの前に座った。僕は短く曲の説明をして3曲を歌った。中世そのままの教会でろうそくの光の中で歌う「故郷」は歌いながらとても不思議な気がした。ここから遠く離れた祖国がとてもいとおしく、小さい頃に遊んだ山や川が懐かしく脳裏に浮かんだ。日本にいてはそんな風には祖国を思えないかもしれない。座席の前の端の方から嗚咽のような泣き声が聞こえて来た。日本からお嫁に来てこの田舎に長く住んでいるおばあさんだった。最後にはオッテさんが皆に小さな丸い味のないスナックのようなものをお祈りを唱えながら配り、皆は順番に前で娘さんが持って立っているかめの中のワインに浸してそれを食べて教会を出て行った。僕たちも外に出て時計を見ると4時前だった。部屋に戻り皆で一杯お茶を飲んでから僕とチョンソンは3階の屋根裏部屋に当たる部屋にセットされたベッドで眠った。僕とチョンソンは隣同士のベッドだったが何も考えられないぐらい眠くすぐに二人とも眠りに就いた。 つづく
2006.09.17
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食事の時間にたっぷり2時間ほど掛けて、少ししてから皆リビングのツリーに向かってオッテさんを真ん中にして椅子を並べ座った。ツリーの無数のろうそくに火が灯され、電灯が消された。巨大なツリーは窓際に置かれていて窓ガラスにろうそくの火が映り、その向こうにとても親密な闇と神が用意したような静けさが満ちていた。オッテさんは聖書を開き一文を読み上げ、顔を上げてツリーを見ながら長い祈りの言葉を捧げた。その後小さくて古い聖歌集が皆に配られ、オッテさんの「何ページを開けて」という声に従い開いたページの曲を皆で斉唱した。何曲も何曲も歌い、その間にオッテさんのお祈りの言葉が入り、皆は指を組んで目をつぶった。ろうそくの匂いと物音一つしない静けさの中で家族の歌声に包まれながら僕は本当に500年前のクリスマスイブにいるような気がしていた。たぶん他の家でも今同じ事をそれぞれの家族が行っているのだろう。ろうそくの明かりの中で指を組んで一心不乱に祈る皆の横顔を見て、初めて本当のクリスマスに出会えたような気がしていた。去年ドイツでの初めてのクリスマスでも思ったことだが、クリスマスの本当の意味も知らない我々日本人が面白半分に彼らにとっての大事な儀式をちゃかしてはならない。家でのお祈りが終わると皆それぞれの部屋に行きミサに出る準備をして玄関に集まった。娘たちもとても綺麗に着飾り、頭にはおしゃれな帽子を乗せていた。オッテさんが神父の姿で現れるとそれはもうさっきまでのオッテさんではなかった。体中からほとばしる強い力のようなものを僕は感じた。時計が0時を差すと教会の鐘が荘厳な音を響かせて鳴り始め、オッテさんはゆっくりと教会への坂道を歩き、その後に僕たちも続いた。つづく
2006.09.14
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教会の外に出ると丘の上から村が見渡せた。かわいい木組みやレンガ造りの家が教会を中心にしてぐるりと集まったように建っていて、それほど多くの数ではなく、15分もあれば村の直径を歩いて通り過ぎることが出来るぐらいに見え、その向こうには海の底のような野原が広がっていて夕暮れの空に地平線が見えた。「この家々も古いのですか?」とオッテさんに尋ねた。「全部300年から500年は経っています、村全体が中世の博物館みたいなものですね」と言って笑った。電気が通っているだけで景色や人々の生活は500年前とそんなに変わっていないのかもしれない、教会には電気さえ来ていないのだ。でもそれにしては家々はどれもとても綺麗だ、ドイツ人は定期的に壁を塗り替え補修工事を行い、常に手入れをしてお金を掛けて家をとても大事にする。石の基礎の上に建てられた木組みの家もそのようにして何百年も美しく保たれて来た。散歩から戻ると奥様と娘たちはリビングの方で何やら作業をしていたのでそちらへ行ってみるとそこには高い天井に届くほどの大きなクリスマスツリーが立てられ、3人でそれに飾り付けをしていた。近づいて見るとどうやら本物の木で、いろんな小物が吊り下げられ、枝の所々に無数のろうそくが立てられていた。家の中で木全体に備え付けられたろうそくに本当に火を付けるのだろうか、何だか危険なような気もした。近くの村に住むという日本人のご婦人からの楽譜も届き、椅子に腰掛けて見てみると日本抒情歌の「故郷」「もみじ」それに「赤とんぼ」だった。「どう歌えそう?」とチョンソンが僕の肩に手を掛け楽譜を覗き込んで尋ねた。「そうだね、この三曲なら歌詞も覚えているし何とかなるね、ところで教会にピアノがあるの?」「貴方はオルガンで歌うのよ」「まーそういうことだろうね、やれやれ」と僕は言ってチョンソンの顔を見上げて二人で笑った。隣村に住むオッテさんのお母さんもやって来て夕食の時間になり、全員が大きなテーブルに着いた。明かりが消され、テーブルの上の10本ほどのろうそくの前でオッテさんが神への感謝の祈りを述べ、後に続いてテーブルを囲んで皆も手をつなぎ声を合わせて感謝の言葉を言ってから我々は食事をし、楽しくいろんな話をした。とてものどかでゆったりとした食事で、これも500年前とそう変わらない風景だろうなと思った。 つづく
2006.09.11
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僕たちはオッテさんに誘われて少しその辺を散歩してみることにした。カウベルをガランと鳴らして重い木のドアを開け外に出るとやはり羊と牛の匂いがした。車の姿は全くなく、通りを挟んで向かいに小高い丘があり、その上に小さな教会が見えた。オッテさんが中を見せてくれるというので我々は坂を登り入り口のドアの前に出た。建物は全体に丸い形をして壁は所々剥がれていて、屋根には沢山の蔦が絡まっていた。アーチ型の分厚い木のドアを押し開け中に入るとろうそくの強い匂いがして、教会内は上の方にあるステンドグラスからの薄暗い明かりにぼんやり照らされていた。そんなに多くの人が入れるわけではないこじんまりとした教会内はドアを閉めてしまうとしーんとしていて壁には幾つかの燭台が備え付けられていた。「この教会は500年以上ここにあります。この村が出来た時に最初に建てたわけです」なるほど、どうりで何とも重みのある空気がここにはある。長い年月の中で数え切れないほどの人々がここに通いそしてこの教会を通じて天に召されて行ったのだ。「今晩ここでクリスマスのミサが行われます。そこでトシにも歌って欲しいのですが、いいですか?」とオッテさんは神父の顔で尋ねた。建物に入った時から彼の表情と声は神に仕える者と変わっていた。「歌う!?」と僕は驚いて尋ねた。「あら、言ってなかったかしら、オッテさんのミサにはいろんな国から友人が招かれて皆の前でお話をしたり歌ったりするのよ」とチョンソンがいつもながら無責任に微笑んで言った。「楽譜なんて持って来てないよ、どうするんだよ」「大丈夫です、ここから少し行った別の村にもう何十年も前にお嫁に来た日本人のおばあさんがおられて、その方が楽譜をお持ちだったので借りて来ました。トシもよく知っている曲だと思いますよ」とオッテさんが横から言った。「伴奏は私がするから大丈夫よ、しっかりね」と言ってチョンソンは僕の背中を軽く叩いた。 つづく
2006.09.09
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その紳士は満面の笑みで「今日は、初めまして」とたどたどしい日本語で挨拶し手を差し出した。チョンソンがまず彼の手を取り、次に僕の方に手を差し出した。「こちらこそお邪魔いたします」と日本語で言ったが彼はにこにこしてドイツ語で「どうぞ中へ」と会話を進めた。どうやら彼の話せる日本語はそこまでのようだった。彼は50代後半ぐらいでわずかに残った白髪がいろんな方向に跳ね、ずんぐりした体型で黒い服に蝶ネクタイといういで立ちで立っていると御茶ノ水博士そっくりだった。チョンソンは僕のことを紹介してくれ、彼も「私はオッテと申します」と日本語で言った。「オッテさん、日本語は何処で勉強されたのですか?」と僕はドイツ語に切り換えて尋ねてみた。彼は我々に椅子を勧めながら「京都の同志社大学に時々呼ばれて講義をしに行きます」「同志社?!」と僕は驚いて尋ねた。「オッテさんはハンブルグの大学で哲学と宗教学の先生もされていて、毎年京都の大学にも招かれておられるのよ」とチョンソンは説明してくれた。「もう何度も日本まで行っているのに全然日本語が上達しないんですよ、去年は大学の向かいにある飲み屋で学生たちと飲んでいて帰りに転んで腕の骨を折ったんです」「えっ!もう大丈夫なんですか?」と僕は尋ねたが、「オッテが腕の骨をおって」と覚えたての日本語で言って自分から楽しそうに笑った。やがて奥様と二人の娘も現れ我々は挨拶をした。奥様は背筋のピンと伸びた見た目も話し方もとても上品な婦人で娘たちは20歳前後、これもまたとても上品で父親に習い笑顔を絶やさなかった。こんなドイツ人はケルンでは見たことがない、とても気持ちの良い家族だった。娘たちは「私たち今から何々さんの所まで頼まれた物を届けて来ます」と言って父にキスをした。ちょっと近所まで行くのにわざわざきっちりとキスをするのだ。「それじゃまた後で」と僕たちにも笑顔を向け、娘たちは古い大理石の床に靴音を響かせて出て行った。「ケーキを焼いたので是非召し上がって下さい」と奥様が我々の傍に来て両手を重ねて嬉しそうに言ったので、僕たちはテーブルに着いた。巨大な丸いケーキが三つテーブルに運ばれ、一人分が皿に切分けられた。驚くほど大きな一人分で全くの手作りケーキは忘れ難き美味しさであった。一つ目は生クリームと新鮮な果物のスポンジケーキ、次に皿に乗せられたのはヨーグルトクリームのタルト、そこで我々は満腹でお腹の中は蟻の這い出る隙間もなかった。「あともう一ついかが、これもとても美味しいのよ」と奥様は言ったが我々にはもう不可能だった。「残念ですがもう無理です」と言うと、彼女は悲しそうな表情をして首を小さく振った。横を見るとオッテさんは何でもないような顔をして三つ目を平らげていた。おそらくドイツ人にとっては普通の量なのだ。 つづく
2006.09.07
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読者の皆様へお待たせいたしました。迷惑メールによりパソコンが凍結しておりましたが、ようやく完了いたしました。日記を再開したいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 茶木
2006.09.07
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皆様、いつもお読み頂き有難うございます。ただいまT・茶木のパソコン不具合により日記が滞っております。数日中には善処いたしますので申し訳ありませんが今しばらくお待ち下さい。 管理人より
2006.09.05
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24日の午前中にチョンソンと二人で列車に乗り込みコブレンツまで行き、そこからローカル線でアルテンキルヒェンまで行き、駅に降りた。寂れた小さな駅で人影はほとんどなく、公衆電話でタクシーを呼び「メーレンまで」と運転手に伝えた。ドイツのタクシーはどれもメルセデスでドアを開ける時もカシャという気持ちのいい音がして車内も広い。どこまでも広い野原の真ん中に通ったアスファルトの道をスピードを上げて爽快に走った。運転手は口数の少ない農家の仕事の合間にやって来たという雰囲気のおじさんで、黙ったままじっと前を見てハンドルを握っていた。僕もチョンソンも何も言わずお互い窓の外を眺めていたが、しばらくすると道がくねくねと曲がり、林の間を抜けると村らしきものが見えて来た。広大な野原の真ん中にぽつんと村があり、どうしてこんな所に村を作ることになったのだろうという疑問が生まれる。車はある一つの家の前に止まり「さー着いた」と運転手が始めて声を出した。料金を払い我々は車を降りた。羊の匂いと強い草木の匂いがして、爽やかなそよ風が頬を撫でた。目の前の家は相当古い、まるでおとぎ話に出て来るような家だった。分厚い木のドアの上に大きな丸い窓があり、レンガ作りの壁一面につたが絡まっていて、切妻のとんがった屋根はかなり高い位置に見えた。古風なドアベルを押し、しばらくすると黒い服に蝶ネクタイの白髪の紳士がドアを開いて微笑んだ。 つづく
2006.09.02
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