2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全11件 (11件中 1-11件目)
1
31章での大島さんと少年のレストランでの会話で大島さんがふと口にする「国宝級の雷」が一昨日であったとすると、二日前に旅館でナカタさんと星野青年の手で入り口の石は開かれていたということになり、だからこそ少年と甲村家の長男が重なった一人のカフカ少年となり佐伯さんと交わることとなるのか。行為の後佐伯さんは枕にうつ伏せで泣き、少年は彼女の裸の背中をずっと見ている。これもナオコの時と全く同じである。ここに来てやっと一つナカタさんと佐伯さんとの共通点が見付かる。二人とも以前に入り口から一度出て、戻って来た人たちなのだ。おそらくジョニー・ウォーカーもその一人であろう。そして少年も同じように何か特別な能力を身に付け、何かを失うことになり、半分の薄さの影を持つようになる。星野青年が繁華街に買い物に出てふと入ったレトロなクラシック喫茶で初めて聴き入るクラシック音楽がベートーヴェンの大公トリオであり、彼は自分でもCDを買って何度も聴き返す。これは彼にとって大きな変化であり、ナカタさんに出会っていなかったら起こらなかったことだ。僕も話に出て来る「百万ドル・トリオ」の古い録音のCDを買い聴いてみた。実は僕はベートーヴェンという作曲家がどうも好きになれない。(歌曲は何故か大好きなのだが)ルービンシュタイン、ハイフェツ、フォイアマンの三人が演奏する大公トリオはステキでこれならと思ったのだけれど、ベートーヴェンの後に三人はシューベルトの「ピアノトリオ1番」を演奏していて、それを聴いたとたん僕の中でベートーヴェンは色あせてしまった。僕にとっていったい何が違うのだろうと注意深く聴き比べてみて気付いたことは、大公トリオの場合一曲の中でほとんど転調らしき転調が行われない。(おそらく知ってそうしているのだろうが)シューベルトのピアノトリオ1番の場合、それがおなじみのワンパターンなものとしても途中で何度も劇的な転調が行われ、絵本のページをめくって行くような強い引力を感じることが出来る。そして三つの楽器はそれぞれがそれぞれの感情と自覚を持っていて、議論の中で意見をぶつけあったり、賛同しあったりしながら一つの流れとまとまって行く。それはとても躍動感に溢れた魅力的なものである。(そのような生き生きとしたものはモーツァルトの何かを引き継いでいるようにも思える)それに対して大公トリオの場合は三つの楽器がまるで生まれる前から対立しない、皆が同じ方向を見て疑う余地のない信じる場所に向かって一歩ずつ躍進しているようなある意味ではきわめて男性的なものを感じる。しかしそういったものは(あくまで僕にとってはということだが)時にうんざりした気持ちにさせられる時がある。でもおそらく僕自信がベートーヴェンの音楽を理解するだけの能力に欠けているからだろう。いや、そうでなくてはならない。だってベートーヴェンは何百年の時を超えて大作曲家として多くの人々の心を引き付け、敬われて来ているのだから。 つづく
2006.06.28
コメント(0)
読み進めて行くとナカタさんという存在が不思議になって来る。彼は少年の代わりにジョニー・ウォーカーを殺し、佐伯さんのために入り口の石を開けるべく苦労してひたすら四国に向かう。彼と佐伯さんの間にどんな関係性があるのか、何も思い当たらない。インターチェンジでナカタさんはいよいよトラック運転手の星野青年と出会うが、そのシーンでは著者は星野青年に四国まで同行させようとは思っていなかったのではないか。しかし彼がとても重要な役目を負うことになり、彼自身も大きく変化する所がとても興味深い。下巻にメタフィジカルな観念的客体であるところの「カーネル・サンダーズ」が登場し、機能を完遂させるべく入り口の石を星野青年に神社の祠から盗ませる。この神社は間違いなくカフカ少年が血だらけになって気を失っていた神社であろう。28章と30章の星野青年とカーネル・サンダーズのシーンはとにかく笑える。僕は電車の中で一人で何度も噴出した。数々のセリフが著者の性格からどうやって出て来るのかさっぱり分からなくなる。このシーンはとにかく哲学の話題が多く、ヘーゲルの「自己意識の確立」がテーマとなっている。自己は客体という媒介に自己を投射することによってより自己の意識を認識し得るというような内容であるが、そこに下品な風俗的表現が交じり合ってなんとも奇妙なコントラストとなっている。29章の後半に少年が現在の佐伯さんの生き霊と性行為を体験するシーンがあるが、これはこの本全体の中での最も強い緊張点の一つと言える大事な部分ではないだろうか。著者は度々性行為でもってストーリーの最高点を図ることがあるが、それは人間における自己と客体の投射と交換の最もシンプルでストレートな原始的な行為であるからかもしれない。 つづく
2006.06.26
コメント(0)
19章で男女平等を訴える女性が2人図書館に現れる。おそらくこのシーンは元々大島さんの性別告白のために用意されたものだとは思うけれど、その事実よりも彼女たちと大島さんとのやり取りがとても興味深いものになっている。僕も普段の生活の中でこういうタイプの人々に詰問された場合にどう対処するかという意味で勉強になる。そして大島さんは彼女たちとの会話の最後に「僕らができないでいることを見るよりは、できていることのほうに目を向けてください、それがフェアネスというものではありませんか」という。彼女たちが去った後少年は大島さんに向かって「大島さんがたとえなにであれ、僕は大島さんのことが好きだよ」と生まれて初めての言葉を口にする。一人の人間の心を開いて行くという作業はやろうと思って出来ることではないし、基本的に心を閉ざしている相手に対しての好意のようなものがそこになくてはならないように思う。なぜなら子供たちにとってほとんどの大人たちが失望の対象だからである。メタファーの中だけでも子供たちは大人たちの手で救われなくてはならない。そして大島さんはTSエリオットのいう「うつろな人間たち」の話をする。何が暴力を引き起こし何が差別やいじめを引き起こすかについて話す。「想像力を欠いた人々」それがおそらく戦争そしてアドルフ・アイヒマンを引き起こすのだと。 つづく
2006.06.24
コメント(0)
読んでいるうちにまたもう一つのことに気付く。この物語は「ノルウェーの森」と共通する部分が多いことである。17章で大島さんがカッサンドラの呪いの話を持ち出し、ギリシャ悲劇のユーリピデスなりアイスキュロスなりの戯曲を読んでみることを少年に勧める。そこには我々の時代の持つ本質的な問題がとても鮮明に描かれているという。大島さんの口からは度々ギリシャ悲劇の話が持ち出されるがこれはノルウェーの森で主人公と緑のお父さんとの病院での会話でも出て来る。著者はとても長くギリシャ悲劇を愛読していてそこから現代の人間の本質を見て自己の小説への軸としているのかもしれない。大島さんにしてもどこかノルウェーの森の永沢に重なる部分がある。片や尊敬も出来る真の友人になり得る人物、片やそうは成り得なかった人物という違いはあるにせよ著者はどうしても文学の話題で理解し合える、または影響を受けることの出来る存在が必要なようだ。2人は似たようなセリフも言っている。(大島)僕は退屈している暇はあっても飽きている暇はない。(永沢)時間の洗礼を受けていない本を読んで無駄な時間を費やしたくない、人生は短い。そして佐伯さん、彼女はまさしく直子である。大島さんがいうようにアリストパネスのオトコオンナの話の通り、佐伯さんと甲村家の長男・直子とキズキはこの世とあの世に分断されてもお互いを求め合い、どちらの主人公もこの世を去った者に対して嫉妬心を抱くことになる。村上春樹はこの関係を一生を通じて書き続けるためだけに物書きをやっているのではとも思わせる。二人の女性にも似たセリフがある。(佐伯さん)「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えて いてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」(直子)「私のことを忘れないで、私が存在していたことを憶えていて」著者は誰かとの約束を守り続けるため、文章という不完全な容器に不完全な記憶を盛り続ける。 つづく
2006.06.20
コメント(0)
16章に入るといよいよそのジョニー・ウォーカーの話が佳境に入る。「中田さん、これは戦争なんだ」と彼は言う。まさしくこれは戦争そのものを表現している。殺さなくては殺される、それは相手に対して殺意があろうとなかろうと誰かが定めた規則によって。「躊躇しないことだ。巨大なる偏見を持って、速やかに断行する」皆好むと好まざるとに関わらず規則のもと否応無しにそれをやらされた。15章でカフカ少年は高知の山の中で「アドルフ・アイヒマン」についての本を読んでいた。村上春樹の小説はどれも必ずその時期に彼が並行して読んでいた本が話しに反映しているようであり、と同時に彼が皆に読んでみることを推薦しているようにも思える。それにしてもなぜこの部分にその話を持ち込まなくてはならないのかいくら考えても分からない。音楽も多くストーリーの中に登場し、本によってはジャズであったりロックであったりするが、今回はほとんどをクラシックの音楽が重要なウエイトを占める。そしてやはり音楽においても「一度試しに聴いてごらん」と我々に推薦しているように感じる。高知の山小屋に行くまでの車の中で大島さんの口から出る数々の名言は我々音楽に携わる者にとっては大変興味深いものである。シューベルトのニ長調ピアノソナタを聴き「不完全な作品だからこそ特別な心の糸の引っ張りかたがある」という。ひょっとすれば文章においても同じ事が言えるのかもしれない。「シューベルトの音楽はものごとに挑んで敗れるための音楽、それがロマンティシズムであり、そういう意味で彼の音楽はロマンティシズムの精華なんだ」ともいう。最初このセリフを聞いた時「知ったかぶりの音楽愛好家が口にするようないかにも臭いセリフだ」と思ったが、少し時間を掛けてよくそのセリフを味わってみると、正にその通りだと思えるようになって来た。言われて初めて気付いたが僕が以前から漠然と感じていたシューベルトの持つ独特な言葉に出来ない魅力はそう、その大島さんの言葉通りかもしれない。いくらクラシックを好んで愛聴する村上春樹といえど音楽の専門家でもない彼になぜこのような文章が書けるのだろう、いや、専門家でないから分かるのかもしれない。 つづく
2006.06.18
コメント(0)
三つ目にキーワードとして考えられるのが「メタファー」13章に最初のメタファーという単語が大島さんの口から述べられる。「ゲーテが言っているように世界の万物はメタファーだ」メタファーを辞書で引いてみると「比喩」とある。比喩を僕なりに簡単に説明すると「例えば」で繋がれたその後のこと。何度も大島さんや少年の口からメタファーという単語が述べられるが、この物語自体がメタファーであるということならば「例えば」の前は何かということだ。14章になるとジョニー・ウォーカーが登場するが、村上春樹の話には時々こういった滑稽なキャラクターが出て来るが(羊男のように)、恐ろしいことを行う人物にも関わらずどこかくすっと笑えるかわいい所も備えている。また彼の小説の特徴として、とんでもないむごたらしい場面と(ねじまき鳥クロニクルにもあるように)そして性行為のシーンを必要以上に克明に描写する。これはもちろん興味本位なものや読者を引き付けるためではない。惨酷シーンと性行為シーンを一緒には出来ないが、前者は人間が人間である限り皆押入れの中に持っている物であり、我々はそんなものが生まれつき押入れに有ることすら知らずに生きている。何かの具合で人格が崩れるとそれが露出するものであり、本来は人間の本質であるからではないか。著者は自宅に何匹も猫を飼っている大の猫好きにも関わらず、このような猫虐待のシーンを自ら書くことにどれだけ胸が痛んだことだろう。それでも彼は書かなくてはならなかったのだ。後者については「ノルウェーの森」のナオコやミドリ、今回のサクラによって手で射精に導かれることがセックスそのものよりも大事なこと、彼女たちの純粋な優しさに包まれる最もダイレクトな行為であり、とても大事な儀式なのかもしれない。 つづく
2006.06.15
コメント(0)
2回目に読み返していくつかのキーワードに気付く。まず一つは「血」である。少年が高松の神社の林の中でシャツに大量の血を付けて気を失っていた。1944年に山梨の山中で子供たちが集団睡眠に掛かったトリガーとしての血、それが女性教諭の前夜に見た夢が原因のもの。ナカタ少年が意識を戻す切っ掛けとなった逆トリガーとしての血。ナカタさんが見た大量の猫の血。そして最後に少年が佐伯さんの腕から飲む血。人間にとっての「血」の持つ意味が隠されているのかもしれない。憎しみが引き起こす血、親子を証明する血、死を望む者がその入り口として流す血、自分の中に流れる母親の血。我々は血によって生かされ、血を恐れ、時には錯乱するほど恥とも思う。二つ目のキーワードは「生き霊」である。源氏物語に出て来る生き霊が何度か説明されるが、古来の日本人にとって生き霊は当然そこに存在するものとして認識されていたとある。若い女性教諭のもとに戦地から現れた夫の生き霊、それがナカタさんの記憶欠落に繋がった。少年が四国にいながらにして東京の父を殺す(父自身の予言によって)しかし手を下したのはナカタさん、でも返り血はナカタさんではなく少年が受ける。これも生き霊であろうか?そして15歳の佐伯さんの生き霊。人間のあまりに深い思念がやがて生き霊となるということ。 つづく
2006.06.12
コメント(2)
申し添えるのを忘れたが、この本についてなんやかやと述べているのはあくまで僕個人の感じ方でそれを人に押し付けるつもりは毛頭ないし、いろんな風に取れる箇所が沢山ある。それぞれの経験と環境の中で理解して行けばいいと思うし、それに結局は著者自身にしか分からないという部分もあるのだ。これもまた僕の勝手な憶測だが、村上春樹はいろんな人にインタビューをして回るという作業をずっと昔から続けているようだ。本の中の佐伯さんが落雷に打たれた人をインタビューして回ったように。そこでこういった15歳の少年をインタビューする機会があり、今回の田村カフカ君の人物像に繋がったのではないだろうか?なぜそう思うかというと、少年は自分を捨てて姿を消した母に深く傷つき、父を邪悪なものとして徹底的に拒絶している。この深い傷は著者のものではなく、想像から来る痛みでもない誰か第三者の傷口であるように感じる。それでもやっぱり主人公の性格はいつもよく似ている。きちっと物事を考え、体の隅々まで清潔に保つことを好み、友達を作ることを避け、本を読むことだけに安らぎを感じる。そして出会った小さな図書館が生まれて初めての場所としての安らぎ。そこは安らぎである本たちに囲まれた自分が含まれていたいと思える至福の建物。人間は困ったことに精神的にも物質的にも自分がそこに含まれていると感じなければ安心して生きられない。少年にとって大島さんがその図書館そのものであるように思う。「音楽紀行」の最初の方に書いたように、15歳ぐらいの男の子にとって自分を受け入れてくれる年上の男性との出会いが一生を左右する。(大島さんは男ではなかった訳だが)。 少年は最初にその閲覧室に入った時の印象を次のように述べている。「天井が高く、広くゆったりとしていてしかも温かみがある。開け放たれた窓からはときよりそよ風が入って来る。白いカーテンが音も無くそよぐ。風にはやはり海岸の匂いがする。ソファーの掛け心地は文句の付けようがない。部屋の隅には古いアップライトピアノがあり、まるで誰か親しい人の家に遊びに来たような気持ちになる」 つづく
2006.06.09
コメント(0)
村上春樹の小説ではよくある形だが、この本でも最初三つの話が別々に進行し、頭が混乱する。最後まで幾つかの話が繋がらないまま終わることもあるのだが、この本に関してはそれは一つの繋がった話で、三つのうち二つは現在、そしてもう一つは1944年の戦争中の話である。そこで山梨県の山の中の森が出て来る。この本から一貫して山の中の森林の木の匂いと、古い本の何十年も前の人の営みがずっとページに挟まれたままになっていたような古い紙の匂いを感じる事ができる。物語でも音楽でも僕にはそこに匂いがあるかないかということがとても大事である。第5章でさくらという女性と出会うが彼女が「そでふれあうもたしょうのえん」の意味を15歳の少年に尋ねる、そして少年が「前世の因縁、たとえ些細なことでも世の中に全くの偶然というものはない」と答える。僕は「え!本当にそんな意味なのか?勝手に意味付けていないか?」と思い調べてみると「見ず知らずの者同士がふとした近づきになるのも、この世に生まれる前から結ばれている深い縁があるのだということ。限りなく多いものの中から、たった二つが何かのかかわりを持つということは、偶然といって片づけるには心残りのものがある」と有った。そんなすてきな意味であったのか、僕はとても驚いた。大体漢字が「多少の縁」ではなく「袖触れ合うも多生の縁」であり、僕はそんなことも知らなかった。 つづく
2006.06.08
コメント(0)
読んでというよりも僕の場合は聞いた訳だが。僕には一つ年下の従兄(母の姉の娘)がいて、彼女は若い頃から演劇を経て声優の勉強をしていた。今は2人の子持ちでそれどころではなくなったが、自分の勉強だと言ってよく本をテープに録音してくれて、今回は村上春樹ファンの僕のために(海辺のカフカ)を送って来てくれた。テープにして20本(彼女はMDというものを持ち合わせていない)になった。それをMDにおとして仕事の行き帰りの電車の中で聞いている。この本が出版されてから何年か経つわけだが、ブームが過ぎてから読むことを好む僕にはちょうどいいころあいだった。「音楽紀行」も書き進めたいのだが、基本的に今の僕の思いを書くことがブログの意味でもあるので、少しこの本の印象的な部分について一箇所ずつ述べて行きたいと思う。この本を読んだ人はそれなりに面白い話かもしれないが、読んだことのない人にとっては阻害感のあることだろう。だからそういう人は思い切って「海辺のカフカ」を読むしかない!1度目に聴いた時随分集中して聞いたのでもう一度始めから聞き返してもおそらく新しい発見はないだろうと思っていたが、とんでもない、細かい部分で物語全体に左右するキーポイントが所どころに隠されていることに気付く。最初はどうしても大きな物語の進行にばかり興味が引かれてしまうが、2度目はちょっとしたところでいろんな人が語る哲学や物の考え方がとても興味深い。元々小説の醍醐味はストーリーよりもそういった細部の人々の言葉や思いに有るのではないだろうか?「これは最低でも3度は読み返さないとだめだな」と思った。村上春樹自体が何度も読み返してそれでも色褪せないものを目指しているのではないだろうか?そういうものが彼にとってすばらしい本だと。最初に15歳の少年がお父さんの部屋の中でもう一人の自分と語り合いながら家出する前の一時を過ごす。彼は父を憎んでいる、だからこそ自分の存在を自分で取り戻すため家出する。にも関わらず父が不在の部屋の中でまるで父から何かを受け継ぐみたいにライター・携帯・ナイフ・サングラス・写真とお金を盗む。どれも15歳の少年にとっては手にずっしりと重みのある大人の男性を感じさせるものだ。僕にも覚えがあるが、父の部屋で一人でいろんな物をいじくっている時が一番身近に父を感じている時だ。もちろん彼も受け入れられるものなら父を受け入れたいのだ。 つづく
2006.06.07
コメント(0)
話題の内容から少しそれるかもしれないが、その人物が年月を重ねて生きて来た中で体験して来た感情や出来事、培われて来た思想や思念、運命や予感まで、他の者に対して言葉では表現するすべのないことを何かの形にしてみる作業。人々はそれを芸術と呼んで来たのではないだろうか?人によってその媒体はさまざまである。絵・美術・写真・文章・料理・音楽、その他もろもろ。僕にしてもその方法が音楽でなくてはならないという訳ではない。僕に能力があればそれは何だっていいのだ。ある画家がテレビで自分の作品の前に立ち「こうやって僕の作品をテレビで映してもらうというのは、言わばカメラの前でズボンを下ろして尻の穴を写してもらっているのと同じようなことですよね、とても恥ずかしい行為です」と言っていました。しかし以前にも述べたようにそれをあえてやらないと生きて行けない人々がいる。たまたま表現方法が見付かりそのための技術が伴った者はよいが、それ以外の者は病んで行ってしまう。芸術とは残忍な死神にもなりうるのだ。しかしながらたいがいの者はどの分野でも技術を競うことに熱心でその先にはなかなか目が向かないように思う。今話題になっている画家の和田氏はいわゆる自己を表現することに興味がないわけで、それを審査する者も彼の技術ばかりを評価して来たのではないか。よって僕の観点からいうと和田氏は優れた技術を持っている絵描きであるが、芸術家ではないということになる。またその逆もある。外に向けて形にしたい強い欲求と情熱を持っているにもかかわらずそのための技術をどうしても手に入れることの出来ない者。20年以上前の映画「アマデウス」の中のサリエリのセリフに「神は私に性欲にも似た音楽への情熱を植え付け、そして声を奪われた」というのがある。とても辛く悲しいセリフだ。とにかく僕の自論からいうと、芸術とは自分の欲求のためだけ、自分が生き延びるためだけのもので、本来は人を楽しませたり、自分から評価を求めたりするものではないのかもしれない。
2006.06.03
コメント(2)
全11件 (11件中 1-11件目)
1