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●11、29、木選挙を前に、候補者は誰も彼も「原発0」を掲げ始めている。これを見ていると、存外国民の多くが原発反対なのかもしれない。にも関わらず情報番組の庶民の声VTRでは「原発を止めると経済に悪影響がありますからね、やはり動かしてもらわないと」という男性のインタビューばかりを流している。さて、ここでどの党も原発0を掲げて、彼らが政権を取って本当にそれが実現できるかと言えば、もちろん否である。TPP阻止も消費税減税も同様である。では何故それが無理なのか?そこのところは曖昧跋扈としているのだが、ここからはまた僕の妄想が始まる。もちろん国を動かしているのは政治家ではなく、行政、官僚と??である。と同時に利権を貪り、私利私欲にまみれているのも彼らである。結果国民から巻き上げた税金を少しは政治家にも分けて甘い汁を吸わせた上で、残りは懐に入れ続けている。消えた年金のことも追求の声は消えてしまった。その他予算も同様。下りて来た予算を三つに分配する隠れ蓑が原発であり、郵政である。戦後しっかりと出来上がったこの金銭のシステムを崩そうとするものは、生かしてはおけない。形だけの政治家が政権を取って、さて歴史に残る立派な改革をしようなどと思っても、初めから無理なことなのだ。「今度の選挙ではこいつらが有力だな」と目を付けるや否や、ずんずん甘い汁を吸わせ、その間に巧妙に弱みを握り、それをネタに時々脅しに掛かりもする。政治家にしても、彼らを敵に回せば必ず政界から干されるか、命そのものを消される。一つの例として、酔いどれ大臣の中川氏とその父親を見ろ。だから石原氏と橋本氏も初めから彼らと懇ろにする道を選んでいる。これでは今までの自民党、民主党と何も変わりはしない。というより、他にしようがないのだろう。政権を取る可能性のない政党は、正論を持って有力政党を批判できる。しかしもし彼らも政権を取れるほどの追い風に乗れば、たちまち甘い汁と脅しにがんじがらめになり、結局は公約を100パーセントひっくり返さねばならないことになる。では一体どうすればこの国を変えられるか。一旦今の官僚を辞めさせて、システムを根底から変えてしまわなければならない。道はあるのか?知識のない僕には到底分からない。だが、キャツラは要するに金が欲しいのだから、原子力予算4500億円を他の名目で彼らに与えれば文句はないはずだ。もちろんそれをしてしまうと一層きゃつらに付け込まれて、しゃぶり続けられることになる訳だが。早急に原発を止めるという観点だけで言えばそういうことになってしまう。哀れなことだ。しかし長い目で見れば何とかしなくてはならない。原子力の変わりに太陽エネルギーなどを替わりに引き合いに出すのもこの理由からだろう。太陽光エネルギーなどはものすごいコストが掛かるらしい。となると我々の電気代も今どころではなくなる。でもキャツラにとっては原子力を捨ててもいいぐらいの儲けになる。本来は石油、石炭で火力発電するのが一番であるのは誰もが知っているはずだ。結論は、誰が政権を取っても、今と全く同じであるということだ。政治家がキャツラと懇ろにしなければ立ち行かない限り、何も変わらない。これが僕のたわいもない妄想である。
2012.11.30
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・11、23、金今大阪では梅田・難波・天王寺と三つの町が競って開発を掛けて、どんどん変身を遂げている。これはやはり巨大な副業企業によって付近の商店街や古いホテルなどが買収され、土地が買い占められて開発が掛けられるのだろう。兎に角大阪人は変わっていくことが好きだ。いや、それはすでに大阪人の仕業ではないのかもしれないが。そして人々は新しいものに飛びつき、休みの日にもなれば皆でピカピカのショッピングモールに出向いて行く。しかしたいがい一年もすれば完全に飽きてしまい、見る影もなく閑古鳥が鳴く。そんなことを繰り返していて、投じた資本が回収できているのだろうか。どこでも「そりゃ誰でも飽きるわな」という内容の企画である。それは「兎に角何でもいいから開発を掛けて大きなことがしたい」という興味だけに見える。??も非常に商売が下手になったようだ。そのようにして結局魅力の少ない町がだらだらと広がって、それは醜いだけのものだ。また明治で申し訳ないが、100年ほど前の大阪はそれは素敵なところだったようだ。上品で柔らかな大阪弁、ポリシーを持った信頼の置ける商家の並ぶ町並み、日本橋の夜の通りに灯るガス灯の下で待ち合わせる若者たち、行き交う人力車に乗った小綺麗な芸者。兎に角商売は土地に、地域に根の下りた信頼の上に成り立ち、何処の家もその創業年数と商品の確かさを誇っていた。その大阪は全く消えてしまったとしか言えない。現在は持ち前の資本で、何でもいいから大きなことがしたいのだ。それに比べて京都という町は、市に規制があり、高層ビルが建てられない(大文字が見えるように)、お茶屋などの町並みはそのまま残して商売をする、モダンで奇抜な建築物は禁止など、観光客向けの様々な規則があるため、ある程度の町の保存が実現している。しかし住民たちの心の中にも「変わらないでいる」という精神が強く残っているようである。例えば各家にまだダイヤル式の黒電話を使っている者がいたり、50年・60年全く変わらないメニューと味で営業している店があったり、もう一つ発展し切れない町並みなど。発展しないことがとても美しいと思える部分がある。河原町四条の付近に、幾つかの古いクラシック喫茶が今も営業している。四条河原町を一本上がって東に入ったところの「築地」、ここは昔母に教えられて行ってみた。母が学生時代にこの二階の隅でいつも友人と宿題をしたという。狭く木の床がぐらぐらで、暗い。河原町三条の「六曜社」、ここは種類の多いコーヒーと、手作りのドーナツが有名。四条木屋町下がるにある「フランソワ」、ここもかなり古く、木の床は磨り減って傾いて、今では手に入らないような猫脚の机と椅子。この店で京都では二番目に古く、昭和9年の創業。一番古いクラシック喫茶と言えば、三条寺町の「スマートコーヒー」という店だそうだ。ここは子供のころに度々父に連れられて行ったことがある。この店のお勧めは特製のホットケーキで、それが大好きな父は幼い僕を連れてよく通った。今はホットケーキがあるかどうか知らないが、父の学生時代には友人たちと屯したそうだ。どの店もコーヒーは大変うまい。ついでに五条大宮の「ふくい」というお好み焼き屋。ここは創業51年で、変わらぬ味と大きさを守っている。僕が京都の芸大在学中に友人に連れて行かれて知った。入り口を開くと「おいでやす!」とおばさんが声を掛ける。どれもこれも京都の変わらぬ何十年をずっとそこで守り続けている。なかなか出来ることではないのかもしれない。
2012.11.23
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・11、20、火久しぶりに国民が総理大臣を選ぶことになりそうである。一体何年ぶりだろう。全くこんな国が民主主義だというのだから、とんでもないことである。総理になりたくてなりたくて仕方なかった石原氏がじっとチャンスを伺っているうちに80歳になり、ようやくここで手の打ち所と最後の花を咲かすべく出て来る。そのための国民へのPRに尖閣諸島を都で買い取るといううまいパフォーマンスが時期として重なり、準備万端である。何かをしたい時に、人が一番味方に付けなければならない運というものが強い男だ。都を動かすというのは、国を動かすと同じぐらいの能力が必要と言われるぐらいだから、ある意味で知事として勤め上げた石原氏にその期待も掛かるのかもしれない。しかし自分一人では国政の党に勝てる見込みはないから、同じく地方組みの橋下氏の褌を借りて、兎に角夢であった総理の椅子に一度だけ座って引退をと考えているのだろう。見ていると虎視眈々である。しかし問題は彼の本当の目的が国の行く末なのか、それとも椅子取りゲームなのかというところである。口でどんな公約をその場限りに述べたとしても、土の下の根っこから見通した主案がそこになければ今までと同じである。橋下氏の討論を聞いていても、今までに例のないほどの頭の良さを感じる。論旨は明確で、自分の行うことの目的は明らかで狙いは確実、国を大きなスタンスで見据えているように思わせる。だがこのところ少しずつ人相が悪くなって来ているように見えるのは何故だろう。昔の小沢一郎と同じだ。兎に角椅子取りゲームへの興味なのか、自分の名誉のためでもいいから国の行く末を本気で案じているのかが問題である。今までのリーダーとは違い、これからはこの国の衰退する中でその技量は天才的なものが要求される。まずは兎に角今まで誰も出来なかった、既得権をどう変えることができるかであろう。
2012.11.20
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・11、17、土 今日は中学校での講演で、河内長野東中学に伺う。 朝から酷い雨で、駅からタクシーで山手の方に上がって行く。 運転手の方と、楠木正成の話題になる。 「彼は大阪、奈良、和歌山の丁度分岐点のようなこの河内長野で、山を越えてやって 居来る怪しい者を見張っていたのではないでしょうか。 でも私は思うのですが、結局楠木正成一行もこの山奥に住んで、高野山に行ったり帰 ったりする人々を襲って、身包み剥いで生計を立てていたような、いわゆる山賊にな っていたのではと思いますよ」という彼の説を聞いているうちに、目的地に着いた。 この中学には以前伺って講演をしたことがある。 校長室に通され「以前伺ったのは何年前でしたでしょう?」と尋ねると、すでに4年 ほど前だという。 余りの年月の速さにぞっとした。 体育館に500人の全校生徒と父兄と教員が着席する。 紹介を受けて舞台に出て行く。 500人の学生は水を打ったように静かに僕の話と演奏を聴いているようだ。 しかし実際はどうなのだろう。 それは僕が中学生に戻って、その寒い体育館に座って見も知らないおじさんの言うこ とや歌を聴いてみないと分かりようもない。 まず何故見えなくなったか、見えないとはどういうものかを説明し、幼稚園から盲学 校を経て音楽大学、ドイツ留学、それから帰国後視力が著しく下がった今に至るまで の僕の人生を辿りながら、いろんなエピソードやちょっとした哲学や考えなどを盛り 込んで語り、その間に数曲演奏する。 そんな話に、その客席にいる中学生の僕が少しでも興味を持つことができるだろうか 。 いや、客観的に見て、かなり怪しまれる。 講演が始まって少しすると、体育館の屋根に当たる雨の音が極端に強くなり、マイク で話す僕の声が聞こえないほどになる。 こんな時に限ってどうしてまあこんな激しい雨だろう。 学校からの要望で、赤とんぼと千の風になってを歌った時はさすがに大きな拍手。 講演終了後再び校長室で談話。 僕の住む住宅街の山を少し下りたところに「高向(たこう)」という古い村があり、そ の地名についての話題になる。 「あそこには昔「高向玄理(たかむこのくろまろ)」という人が居て、この人が遣隋使となって中国の国営のあり方などを日本に持ち帰り手本としたそうです。 そのような偉大な人を輩出したということでそこから「たこう」という地名ができた そうで、聖徳太子の時代のことですからかなり古い村であるということです」という 興味深い話を校長先生の口から聴いた。 河内長野には他にも多くの伝説が残っている。 伝説というとほとんど嘘話が多いが、ここには実際にあったことの伝えがほとんどだ。 僕もここに住んで約10年になるが、一昔前までは大変な奥深い山で、人里離れた村が 点在するのどかなところだったそうな。 その後夕方からの仕事で肥後橋の方に向かう。 学校講演の後は、やはりいつもながらの後悔が苦く残る。
2012.11.17
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・11、10、土 「暗夜行路」を読んでの話の続きだが~ 志賀直哉が所属していた同人誌「しらかば」の作風が大体そうなのだが、兎に角だら だらした話で、僕にとっては今までなかったことだが途中で何度も読むのを中止しよ うかと思ったほどである。 二度読もうともなかなか思えない。 だが大概二度目は新しい発見が多く手に入るので「暗夜行路」に関しても少しは興味 が出るかもしれない。 主人公の時任謙作は小説家らしいのだが、大変自堕落な生活で、夜は一晩中友人と引 き手茶屋に通いつめ、昼間はずっと寝ている。 そして夜が来るとまた友達とお茶屋に出向くというような生活である。 引き手茶屋という所は、部屋で袴姿の男たちが馴染みの芸者を呼んで横に座らせる。 そして酒を飲みながら一晩話したりトランプ遊びをしたりするのだ。 まあ丁度今のキャバレーのようなものだろうか。 芸者という仕事は大変なものである。 毎日一晩中暇な男たち相手にだべったり、踊ったり、トランプ遊びをしたりしなくて はならない。 しかしその際の描写がこと細かくて、しかも何も事件らしいものが起こらない。 もともと我々の日々の生活でそう頻繁に興味深い事件が起こるものではないが、小説 中でもただただだらだらと毎日が過ぎる。 それが永遠に続くものだからうんざりして来る。 まあある意味のリアリスティックな小説とも言えるかもしれない。 だがこれが名作として伝えられる明治の代表作かと思うと首を傾げたくなる。 主人公はかんしゃく持ちで、気難しく精神的に不安定であり、気に入らないことがあ るとすぐちゃぶ台をひっくり返したり、暴力をふるったりする。 今なら戸塚ヨットスクールにお世話にならねばならない感じだ。 それは丁度ベートーヴェンを思い起こさせた。 これはおそらく志賀直哉そのままなのだろう。 自分をよく観察しているし、自分の都合の悪いところを隠すこともない。 そういう意味では正直な男だ。 他人には懐疑的で意地が悪く無愛想だが、動物や虫に対しては変に愛情を抱く。 「暗夜行路」後半になると、結婚した辺りからようやく話は緊張感を表し、集中して読めた。 新居は京都であったため、明治のころの京都の様子が詳細に感じられそれはとても面 白かった。 大まかな筋を顧みれば、子供のころから父親に冷たく育てられたが、20歳も迎えたこ ろに自分が母と祖父(母からすると義父)の不義から生まれた子であることを知る。 彼は祖父をもともと嫌悪していたが、その遺伝子の恐怖に怯えて生き、精神的にもと ても不安定な状態が続く。 その後ようやく幸せな結婚をしたが、自分が留守の間に妻とその従兄弟が間違いを犯す。 母によって傷つけられた同じ傷を再び愛する妻から受ける。 その苦しみから逃れるために一人で旅に出るが、旅先で腸カタルによって死去する。 いわゆる大変不幸な一生である。 背負って生まれてきた運命と、偶然に絡まれた我がの天命を描いているようだ。 僕が明治の作品ばかり手にする理由の一つに、明治という時代が不思議な時間の狭間 に思えるからだ。 明治と言っても45年ある訳だが、武士社会の考えや習慣がまだまだ根底に残っている 中で、少しずつ今にも通ずる産物や思想が入り込んで来る。 それは医学の進歩、電気の普及、交通手段の発展で便利になって行くには違いないが 、同時に物質社会、資本主義社会から流れて軍国主義の渦に巻き込まれて行くプロローグでもある。 その中でも人々の学識の高さ、生き方のスマートさ、温かいい義理と情の何処かまだ残る人間関係。 ここから今の我々はやはり学ぶところが多いだろう。 しかし中野重治は「明治は遠くなりにけり」の言葉の裏に潜む独裁主義と資本主義の 影は、それらの加速をも賞賛するものと危惧している。 しかしまた「明治は遠くなりにけり」の良い部分、愛しむべき部分、今の我々にはない重要な部分も否めはしないだろう。
2012.11.10
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・11、5、月志賀直哉の「暗夜行路」を読み終わった。これは志賀直哉氏の唯一つの長編である。書き始めてから書き終わりまでなんと16年掛かっている。といってもずっと16年こればかりに掛かっていた訳ではなく、途中何年もほったらかしていた年月がある。最初小説の中にもあるように、実際尾道に暮らしていた時期があり、その時に夏目漱石から「朝日新聞での連載に、君の作品を掲載したいので何か書きなさい」と申し出て来た。夏目漱石は志賀直哉を大変買っていて、当時漱石から仕事を依頼されるというのは大変な名誉なことであったそうな。その時漱石は「こゝろ」を新聞連載していて、その後に志賀氏のものをと考えていたそうだ。ここから見ると、当時の多くの作品はこの新聞掲載から生まれたものと思われる。ところが志賀氏は尾道でこれを試みるがうまく行かない。私小説である「時任謙作」を経て「暗夜行路」をそれにと書き始めるが、連載などというものは経験がなく、漱石からの依頼である一つ一つの話に盛り上がりと落ちを盛り込むようなことは無理だった。それで彼は尾道から東京の漱石邸に出向き、この話を断っている。しかし漱石は「じゃあこの連載は諦めても、何か書けたら見せて欲しい」と要求している。せっかくの申し出を断られても、なお志賀氏の作品に強い興味を持っていたのだ。志賀氏はその後「暗夜行路」もほったらかし、ぐずぐずしているうちに漱石は亡くなってしまった。漱石への不義理を挽回する機会を失った志賀氏は、何としてもこの小説を書き上げる意欲で取り掛かるがやはり滞り、結局16年掛かって完成となった。書き始めは35歳、書き終わったのは51歳ということになる。 つづく
2012.11.05
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・10、31、水午後のレッスンを終えた後、夜のレッスンまでの間にABCラジオの方が阿波座スタジオまで取材に来られた。新聞の記事を見て、人物紹介のコーナーに僕を取り上げて下さったようだ。僕は全く知らなかったが「はっきりどっきり三代澤康司」という番組があり、その中で障害者、特に視覚障害を持つものが活動する姿を追うコーナーがあるらしい。なぜならこの三代澤アナウンサーの知り合いや家族に、何故か多く視覚に問題を抱える人が多いからだということである。約束の時間になると、三人の男性が見えた。デレクターと番組構成の方と、その三代澤アナウンサー本人であった。デレクターの手で机の上にマイクが据えられ、世間話から入って、いつの間にか三代澤アナウンサーのインタビューが始まっていた。兎に角自然な流れと質問で、相手を硬くさせず、またうまく語らせる独特のオーラがあり、僕は例によってべらべらしゃべって、1時間ほどの内容的にまとまりのあるインタビューが終わった。新聞の記者さんからは度々インタビューを受けるが、番組のジェネラルアナウンサーともなるとさすがだなと思わされた。気さくな方で、取材が終わってもしばらくいろんな話をしていた。ひょっとしたらその間も録音されていたかもしれない。彼はクラシック音楽、特に歌などには全く縁がなかったが、ひょんなことから数年前に番組の関係でベートーヴェンの第九の合唱を歌ったという。半年間練習に参加して、本番の演奏では口では言えない感動を得られたと語る。それでこのラジオ番組から呼びかけて、去年第九を企画して演奏会を行ったそうである。インタビューが終わると、デレクターが「そこに二人で並んで下さい」と言って、三代澤アナウンサーと僕の写真を撮られた。ラジオなのに、写真は何に使うのだろう。オンエアーは来週火曜日6日、朝9時から12時までの番組の中で、10時半ぐらいからのコーナーで流れるそうである。1時間たっぷりしゃべり続けたが、編集されて大体15分ぐらいになる。世の中には様々なことを生業として生きる人々が居て、そこではその分野で熟練された技術を誇る人たちがおられる。そのような方と関わり、話をしてみることでそこからいろんな興味深い生き方を学ぶこともできる。ラジオの番組を制作している人々も、その辺を楽しみたいがために働いているように感じられた。
2012.11.01
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