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・8、30、木今マスコミが大騒ぎしている竹島、尖閣のことだが、僕なりの突拍子もない想像を述べたいと思う。想像の結論を先に言うと、あれはすべて日本がやらせているということである。⑴まず竹島も尖閣も、ほとんど同時に大騒ぎとなった。⑵そのタイミングが震災の一年後だ。⑶各マスコミの騒ぎ方が異常である。⑷テレビ番組を見ていると、日本人の頭に血が登るようにわざと演出しているように感じる。これらのことを落ち着いて見てみると、何だかおかしいと思うところもある。もしこれがすべて日本側のやらせだとすればどうだろう。韓国大統領、韓流スター、オリンピックでのサッカー選手、これすべて日本がお金を出して雇った者たちだとすれば。そしてわざと日本国民、韓国国民の闘争心に火を付け、大騒ぎさせる。では何故日本がそのような邪魔くさいシナリオを書く必要があるのか。それはこの機会に、要するに日本国民の頭に血を登らせて法改正を実現し、軍備、核保有を実現しようということだ。原発の行く末も何だか怪しくなって来たので、この際核保有を大手を振って行えれば原発などにはもう用はないのだ。まさかと思うかもしれないが、日本はそこまでもやるのではないだろうか。シナリオ作成の犯人は官僚であり、それに??が全面協力、その次に政府を従わせ、マスコミを動かす。やれやれ、何しろどんな小さな隙間にもチャンスを逃さず、手段を選ばず目的を果たす。この大騒ぎで日本と韓国の貿易悪化で、両国の商売人がどれだけ泣こうとも、結局は見捨てることになるだろうし、この国の経済悪化さえ感知しないのだ。まず何しろ軍備、核保有なのだ。最初に述べたが、これはすべて懐疑主義の僕の妄想であるから、本気にしないように。
2012.08.30
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今からそう、5・6年ほど前のことだろうか。奈良市内で、僕から呼びかけて皆様に集まっていただき一つの合唱団を立ち上げた。その働きかけの切っ掛けを語ると、その昔僕が他の合唱団に見学に寄せていただいて後ろに座って聴いていた時、ちょうど僕の前に最近入団されたという親子が歌っていた。知的障害を持っているらしい中学生ぐらいの女の子とそのお母さんだ。女の子は元気に皆に合わせて声を出す、しかし障害があるが上か素っ頓狂な声になり目立ってそれが突出して聴こえる。でもいかにも楽しそうなので、僕は感心して眺めていた。その時、団の役員の方が彼らの後ろに回って来て、お母さんに何か耳打ちしたようだ。役員が去ると、二人は徐に帰り仕度をしてしょぼんと部屋を出て行った。「申し訳ありませんが、ご遠慮願えますか」と言われたのだ。彼ら親子には、こんなことはおそらく慣れっこなのだろう。でも、何度でも傷つく痛みには変わりはない。歌いたいという一心で健常者の輪に勇気を持って踏み入っても、やっぱり拒絶され弾き出される、その境遇に幾度の苦痛と諦めを胸に抱いて来たことだろうか。僕はその時、音が一糸乱されない、秩序と美しさだけを目指すのが音楽なのだろうかと疑念を抱いた。音は、あくまで芸術を具現化する一つの媒体に過ぎないのではないか。芸術とは何か?それは人間の様々な魂とも言うべき感情、重ねて来た苦しみ、喜び、憎しみ、嫉妬、他人への愛、コンプレックス、そのようなものが形にされる作業であると僕は個人的に認識している。ハーモニー、美しい声、大勢の人間の一糸乱れぬ演奏や演技というものは、いわば見て、聴いて美しいと感心する一つの芸に過ぎないのではないか?多人数が集まり声を合わせて演奏する意義というものは、もっと他のところにあるはずだ。僕は兎に角、歌いたいと思う者が何の気兼ねも恐れもなく歌いに来ることのできる合唱団を作りたいと思った。そして生まれたのが「NSK合唱Combinare」である。ベートーヴェンが交響曲第九4楽章に掛けた願い「ウィーン市民が、または全世界の兄弟たちが、この曲を道具にありのままの歌声で、様々な服装で声を、魂を一つに合わせてみて欲しい」という呼びかけに従い、数度の演奏会を創造して来た。それらはいわゆる世間で「すばらしい演奏」とされる音の芸としては未熟なものかもしれない。しかしベートーヴェンが本当に我々未来の者に求めていたぞんざいな演奏としてはある程度適ったものだったと自負している。それはこの世の形だけの音楽に毒されている耳以外の、真っ直ぐな心には届いたはずだ。そして我々は次の扉を開こうとしている。ショスタコービッチ作曲の「森の歌」に曲目を変更しようというのだ。第九に拘り、その作品を長く歌い継ぐというのも一つの生き方かもしれない。しかしこの世には素敵な音楽が山ほどあり、いろんな人物が作り上げたいろんな作品に触れてみるという生き方もあるはずだ。森の歌には「緑深い美しい我が故郷をもう一度取り戻したい!子供から老人までが力を合わせて挑む、戦火に焼き尽くされた荒野」というキャッチフレーズを添えてみた。どんな作品なのか、どのような経緯でこの曲が生まれたかなど、詳しくはフリーページの「森の歌参加者募集!」をご覧いただきたい。関係者一同熱意と情熱を持って、この取り組みを成功に導きたいと働き掛けています。皆様の参加を心よりお待ちいたしております。
2012.08.30
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・8、29、水 もちろん僕も何度か批評家には困惑させられた。 困惑というのは、彼らは畢竟何のために存在するのか考えさせられたからである。 彼らはこの世で最も滑稽な人々である。 僕なりに批評家の意義を探してみるに、例えば音楽の世界なら、その民衆の文化としての芸術を高め鼓舞して、その発展に尽力するというものであろう。 そのためには自分が批評する分野を熟知し、豊富な知識と優れた耳を備えなくてはならない。 僕が思うに、批評家自身が演奏家であり、その苦労と喜びを知っていて、知識だけではない体で感じる経験を持たねば、他人を批評することなど不可能である。 さらにピアニストが声楽家を、ヴァイオリニストがホルンを、更に調律師や一合唱団員が各楽器奏者を批評することなど不可能なのである。 元々芸術一般を、何が正しく、何が悪いかなど誰にも限定できはしないのだ。 しかし実際は、何処からどうやって批評家の看板を上げることにまでなるのか全く理解できないが、多くの曲目を知っているというだけで仕事をしている者がほとんどのようだ。 また東京大学、京都大学で音楽美学を学んだということで、紙の上の知識だけを振りかざす先生も少なくない。 しかしどの批評も文章力(批評学)が巧妙なだけで、よく読んでみると全くトンチンカンである。 僕自身は貶されても褒められても、その批評に感服する文章を目にしたことがない。 更に驚くべきことに、その素人がコンクールのジュリとして審査員席に座ることも多いという事実だ。 そしてもう一つ重要な傾向は、有名人は兎に角褒め、無名なものはできるだけ貶すという彼らのやり方である。 そんなことなら三歳児でもできる。 要するに何が良いのか分からないから、世間が認めているものを褒めておけば間違いはないということだ。 外国から来る有名演奏家を批判する勇気など、彼らには到底持ち得ない。 全く無名な優れた音楽家、芸術家を発掘する能力があれば、彼らの意義も大きなものとなるのだが。 世の中には奇妙な地位を持って仕事をしている者が居るということだ。 芥川の「侏儒の言葉」の中に下記のような作品があったので引用する。 ーーーーーーーーー 批評学 ――佐佐木茂索君に―― 或天気の好い午前である。 博士に化けた Mephistopheles は或大学の講壇に批評学の講義をしていた。 尤もこの批評学は Kant の Kritik や何かではない。 只如何に小説や戯曲の批評をするかと言う学問である。 「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になったかと思いますから、今日は更に 一歩進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと 、これは読んで字の通り、或作品の芸術的価値を半ば肯定する論法であります。しか しその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『より善い半ば 』を肯定することは頗るこの論法には危険であります。 「たとえば日本の桜の花の上にこの論法を用いて御覧なさい。桜の花の『より善い半 ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用うるためには『より善い半 ば』よりも『より悪い半ば』――即ち桜の花の匂いを肯定しなければなりません。つ まり『匂いは正にある。が、畢竟それだけだ』と断案を下してしまうのであります。 若し又万一『より悪い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言 う破綻を生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟それだけだ』――これでは 少しも桜の花を貶したことにはなりません。 「勿論批評学の問題は如何に或小説や戯曲を貶すかと言うことに関しています。しか しこれは今更のように申し上げる必要はありますまい。 「ではこの『より善い半ば』や『より悪い半ば』は何を標準に区別しますか? こう 言う問題を解決する為には、これも度たび申し上げた価値論へ溯らなければなりませ ん。価値は古来信ぜられたように作品そのものの中にある訳ではない、作品を鑑賞す る我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より悪い半ば』 は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に区別しなければ なりません。 「たとえば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は悪いもので あります。又今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いも のに違いありません。或作品の芸術的価値の『より善い半ば』や『より悪い半ば』も 当然こう言う例のように区別しなければなりません。 「この標準を用いずに、美とか真とか善とか言う他の標準を求めるのは最も滑稽な時 代錯誤であります。諸君は赤らんだ麦藁帽のように旧時代を捨てなければなりません 。善悪は好悪を超越しない、好悪は即ち善悪である、愛憎は即ち善悪である、――こ れは『半肯定論法』に限らず、苟くも批評学に志した諸君の忘れてはならぬ法則であ ります。 「扨『半肯定論法』とは大体上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『 それだけだ』と言う言葉であります。この『それだけだ』と言う言葉は是非使わなけ ればなりません。第一『それだけだ』と言う以上、『それ』即ち『より悪い半ば』を 肯定していることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定して いることも確かであります。即ち『それだけだ』と言う言葉は頗る一揚一抑の趣に富 んでいると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の芸術 的価値さえ、隠約の間に否定しています。勿論否定していると言っても、なぜ否定す るかと言うことは説明も何もしていません。只言外に否定している、――これはこの 『それだけだ』と言う言葉の最も著しい特色であります。顕にして晦、肯定にして否 定とは正に『それだけだ』の謂でありましょう。 「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』よりも信 用を博し易いかと思います。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは 先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価 値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇 の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝等の非難を加える事と思えばよろし い。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると罵ってもかまいませ ん。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであり ます。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに 、時には偏頗の疑いを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』は兎に角或作 品の芸術的価値を半ばは認めているのでありますから、容易に公平の看を与え得るの であります。 「就いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套』を出しますから、来週まで に佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加えて来て下さい。(この時若い聴講生が一人 、「先生、『全否定論法』を加えてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定 論法』を加えることは少くとも当分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎 に角声名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加えるのに限る と思います。……」 * * * * * 一週間たった後、最高点を採った答案は下に掲げる通りである。 「正に器用には書いている。が、畢竟それだけだ。」 ーーーーーーーーーーー [広告] 「侏儒の言葉」十二月号の「佐佐木茂索君の為に」は佐佐木君を貶したのではありま せん。佐佐木君を認めない批評家を嘲ったものであります。こう言うことを広告する のは「文芸春秋」の読者の頭脳を軽蔑することになるのかも知れません。しかし実際 或批評家は佐佐木君を貶したものと思いこんでいたそうであります。且又この批評家 の亜流も少くないように聞き及びました。その為に一言広告します。尤もこれを公に するのはわたくしの発意ではありません。実は先輩里見とん君の煽動によった結果で あります。どうかこの広告に憤る読者は里見君に非難を加えて下さい。「侏儒の言葉 」の作者。 [追加広告] 前掲の広告中、「里見君に非難を加えて下さい」と言ったのは勿論わたしの常談で あります。実際は非難を加えずともよろしい。わたしは或批評家の代表する一団の天 才に敬服した余り、どうも多少ふだんよりも神経質になったようであります。同上 [再追加広告] 前掲の追加広告中、「或批評家の代表する一団の天才に敬服した」と言うのは勿論 反語と言うものであります。同上
2012.08.29
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・8、28、火 放射能物質の我々への影響について、時間が経てばガードが甘くなる。 しかし当然のことながら、事故当時に比べて危険度はほとんど何も変わってはいない 。 福島に一週間滞在して受ける被爆量は、未だ100マイクロシーベルト。 汚れた土壌で出来た米、野菜はどのように流通しているか、ますます不明である。 各地に降って地面に染み込んだ放射能物質は、今やどっぷりと地下水を汚染している はずだ。 にも関わらず「福島以外の水道水は全く心配なし」と武田氏は断言する。 本当にそうなのだろうか? 琵琶湖の水を飲んでいる多くの関西人は? また60年前の子供たちへのレントゲンで小児癌が発症したとは、それも一年一回の検 診で。 結核予防のレントゲン検診は今はないが、それでも学校での一年一回の健康診断は行 われているのでは? 先日も、むやみやたらレントゲンを取る歯医者に通う人の話を聞いたところだ。 竹島と尖閣諸島の問題で、何となくごまかされている。 ーーーーーー 2年目に入り子供の被爆をどう考えるか? 「2nenmenotyuuitdyno.219-(12:15).mp3」をダウンロード 福島事故から2年目に入り、子供の被爆をどのように考えるか、不安に思っている方 が多くなりました。私は全体として次のように考えるべきと思います。 1)被曝の限度は事故が起こる前に専門家が充分に考えて「この程度ならまずは安全 」とした1年1ミリシーベルトを守ってやることです。子供の健康より長いものに巻 かれろという人たちの一部が、まだ別のことを言っていますが、その人達は絶対に子 供の将来に責任を持ってくれません。再度、確認しますが日本の法体系はすべて1年 1ミリを基礎にしています。公的な文書はすべて1年1ミリです。「子供がガンにな っても俺は関係ない」というような人にダマされないように。 2)「非常時だから余計に被曝しても良い」という人もいますが、福島原発が事故を 起こしたのは第一に東電、第二に政府、そして第三に今の大人(我々)であり、子供 には責任がないのですから、「非常時だから、子供もガンになって良い」ということ にごまかされないようにしたいと思います。ICRPが「非常時では1年20ミリ」 と言ったのも前提があり、子供がそれに相当する「メリット」の提示を求めています 。 3)具体的な項目を頭の中で整理をしておきたいと思います。 (a) 空間線量からの外部被曝は落ち着いては来ましたが、まだ1時間1マイクロ (福島)から0.15マイクロぐらいのレベルにあります。1マイクロというと1年 に9ミリ、0.15マイクロというと1.3ミリシーベルトですから、安全ではあり ません。それに加えて、すでにセシウムなどの放射性物質はすべて地表に落ちており 、子供は地表に近いところにいます。政府などの測定はすべて「すこしでも小さく見 せたい」ということで高い位置で測定していますので、子供の場合は、1.2倍、砂 遊びなどでは1.5倍ぐらいに考えてください。 (愚痴ではないのですが、このようなことを書くとき、「日本の政府に誠意があった ら良いのにな」と思います。というのは国立環境研究所など多くの研究機関がありそ こが全力を挙げて国民の総被曝量を下げようと努力してくれれば、多くの人の被曝量 が減ると思うのです。) (b)土からの再飛散による呼吸で入るもの 日本の自然放射線はほぼ1時間0.04マイクロですから、仮に外部線量が0.11 マイクロであっても、その差の0.07マイクロは土にあるセシウムなどから来るも のです。それが再飛散しています。再飛散した量をどのぐらい吸い込むかは個人の生 活によってかなり違います。校庭で土ほこりにまみれる生徒さんなどはかなり吸い込 む事になりますし、毎日、アスファルト、コンクリート、そしてビルで生活をしてい る人は少ないということになります。 (福島は1平方メートルあたり50ベクレル、関東東北で10ベクレル程度とすると 、最大でその20倍を吸い込むことになります。福島で1000ベクレル、関東東北 で200ベクレルです。食品の被曝と同じように考えてください。) (c)食材からの被曝 ここでもっとも大切なのは、国の食品安全基準が、本来の1キロ40ベクレルではな く、1キロ100ベクレルとなっていることです。よく知られているように、原発か らの被曝の限度は「外部+内部」であり、外部が0.6とすると内部は0.4マイク ロになります。現在の食品安全の基準が「食品だけで1年1ミリ」と公言されていま すから、正確には40ベクレルになります。従って、「これは基準を満たしているか ら安全」というのはダブルスタンダードですから、かならず「どちらの基準でお話に なっていますか?」と聞いてください。 先日、福島中通りのある地域のお米の検査があり、不検出と報道されていましたが、 測定方法が杜撰なこと、畑の汚染度とのこれまでの移行率の関係が明示されていない ことなど、信頼できるものではありません。日本は科学技術立国ですから、畑の汚染 度との関係が従来の科学で説明できるかも大きな問題です。 食品はウランやプルトニウム、ストロンチウムの問題も解決していないので、引き続 き、柑橘類、太平洋北のサカナ、椎茸などに充分に注意をしてください。また福島産 のお米は測定がいい加減(ベルトコンベアーで測定)なので値は信用できません。 (法律や基準にダブルスタンダードというのは絶対に避けなければならないものです が、それを政府、偉い人、評論家などがおおっぴらにダブルスタンダードを国民に強 いているのは実に奇妙で、不誠実です。) (d)水からの被曝 自家用の地下水を使用していて、福島、関東東北にお住みの人以外はまったく大丈夫 です。水道も全国的にOKで、地下水でも中部、関西、北海道、それより遠いところ はOKです。ただ、関西などでも一部の疑問があり、注意をする必要はあると思いま す。 (e)移動などによる被曝 航空機は国内は一回あたり10マイクロ、海外は100マイクロで見当をつけてくだ さい。福島を短期間(2,3時間)で通過する場合は3マイクロ程度、1週間逗留し て100マイクロ程度です。 (f)子供の被爆の計算 以上の5項目を足し算します。自然被曝1.5ミリ、医療被曝2.2ミリ、核実験被 曝0.3ミリの合計4ミリに5項目の被曝を足します。これが5ミリを超えたら要注 意です。たとえば、原発からの被曝が2ミリでも、この1年、まったく医療被曝がな ければ、1.5+0.3+2=3.8ミリシーベルトで安全です。医療被曝はレント ゲン、CTスキャン、歯の治療などです。 逆に、たとえば関西にお住みの方は、原発からの被曝がほとんどありませんから、医 療被曝は従来通りの必要な治療で被曝する事ができます。また福島、関東東北のお医 者さんは可能な限り医療被曝を減らすようにして下さい。 夏休みが終わり、親としてはざっと夏休みの被曝を計算して秋からの対策を冷静に、 科学的に考えてください。もっとも注意しなければならないのは、哀しいことに今の 日本は政府、自治体、大学の先生、評論家などが「子供の被爆より、経済成長」を大 切にしていることです。しかし、子供はそれを選択できませんから心を強く持ってく ださい。 また、被曝や医療の本当の専門家は「法律の基準」以外のことは言われないし、「基 準を超えていますが健康に影響はありません」などと言うはずもありません。「基準 を超える」というのは全員が全員、病気になるということではなく、全体として危険 ということです。 「酔っ払い運転をしてもほろ酔い程度から大丈夫です」と言っているようなもので、 ほろ酔いで運転して100人が100人、事故を起こすわけではないのですが、社会 でそれは許さないという基準を設けて子供などが交通事故に巻き込まれないようにし ているのです。 「1年100ミリでも、100人に0.5人しかガンで死なないから大丈夫」と言っ た反社会的医師がいます。それに基づいて「1年100ミリまで大丈夫」と言ってい る人がいますが、これは100人に0.5人というのは1億人で50万人です。 一方、酔っ払い運転の死者はわずかに1億人で数100人に過ぎません。自分が病気 で死ぬのならともかく、東電の事故や酔っ払い運転のように反社会的なことで、死ぬ のですから被曝のガン死も酔っ払い運転者にしかれるのも同じことです。いかに責任 のある人がいい加減なことを言っているかわかります。 売名だけを目的としたこのような反社会的、反法律的な言動で、子供達が余計な被曝 をしないように注意しましょう。また周囲にあまり気にしている人がいない場合でも まったく関係がありません。自分の子供は自分しか守れませんから。1年1ミリは「 科学的にハッキリしないが、社会の約束として守ろう」ということです。 また、今から60年前は結核予防法によって小学生が毎年、胸のレントゲンを撮って いたのです、小児白血病の原因となることがわかり、今ではほとんど集団検診をして いません。私たちには経験があるのです。 (平成24年8月26日) 武田邦彦
2012.08.28
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・8、27、月 芥川龍之介の「侏儒の言葉」という本の中にある「星」という詩を読んで驚いた。 以前僕がここに書いたと似たようなことを解いている。 「遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。 生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。」 彼は生きるということを不快に満ちた退屈な時間と思っている。 これは夏目漱石も同様に述べていた。 生の含んだ死の中で何処までも繰り返される不快は、遺伝と状況と偶然によりまたその趣を異にするだろう。 「私は畢竟失敗だった、しかしこの子だけは成功させねばならない」と繰り返された 親の利己主義と同様の愚を繰り返すものである。 「太陽の下に新しきことなし」全くその通りだ。 ーーーーーーー 星 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。 しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万 六千年を要するそうである。 が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いていることは出来ない。 何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。 のみならず死は何処へ行っても常に生を孕んでいる。 光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれ ば、一団の星雲と変化するであろう。 そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。 況や我我の地球をやである。 しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起って いることと変りはない。 生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。 そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。 いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。 この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。 真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり しかし星も我我のように流転を閲すると云うことは――兎に角かく退屈でないこと はあるまい。
2012.08.27
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・8、24、金 下記のものは生徒さんからの情報で、ある医師のFacebookから引用した記事である。 大変なことが現実になっているのだと知って愕然とした。 これらの医師の診察結果を政府は隠蔽し「余計なことは言うな」と圧力を掛けているようである。 子供たちはこれからどうなるのか、兎に角彼らの健康が気になる。 今から騒いでも遅いのだ。 これは東電と政府の撒き散らした深い深い罪ではあるが、子供たちの周りの大人たちの責任も、僕は問わずにはいられない。 もちろん仕事と親をほっぽり出して、他府県に逃げて何処か知らない町に住むというのは、実際には余りにも困難なことだ。 しかしそれをこなしている人たちもいる。 子供たちのことを真剣に考えていれば、と思ってしまうのだ。 しかしこれは福島だけの問題ではないのではないだろうか。 今からでも考えるべきだ。 ********* 「福島のケースは、あまりにも病変が発現するのが早すぎる」 *福島の子供たちに甲状腺結節-日本のマスコミは報じない この記事は、前の記事を受けての、オーストラリアの小児科医ヘレン・カルディコッ ト医師の緊急提言です。 今年6月12日に福島市で行われた第6回福島県「県民健康管理調査」の検討委員会で委 員たちに配られた報告書で明らかにされたことです。 これは「県民健康管理調査」の結果です。(2012年3月末日時点) 38000人を超える子供たちのうち、36%の子供の甲状腺に、異常増殖、嚢胞(のうほ う)もしくは結節(シコリ)があることが分かった。 ・5.0ミリ以下の結節や20ミリ以下の嚢胞が認められた子供は全体の35.3%。 ・5.1ミリ以上の結節や20.1ミリ以上の嚢胞が認められた子供は186人。これは全体の 0.5%。 カルディコット医師は、「1年も経たないうちに、これだけ大勢の子供に症状が表れ ることは、チェルノブイリ事故のときにもなかった」と話しています。 「チェルノブイリ原発事故後、5年目から10年の間にかけて行われた調査によると、 甲状腺に結節(シコリ)ができた子供は全体の1.74だった」とカルディコット医師。 福島のケースは、あまりにも病変が発現するのが早すぎる、と言っているのです。 福島県知事の佐藤雄平は、福島第1原発3号機で昨年3月14日に起きた水素爆発の直 後、福島県が東京電力に「健康被害の心配はない」とする文言を報道発表資料に記載 するよう要請していた事実が、東電が報道関係者に公開している社内テレビ会議の録 画映像で分かった。 http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1508.html ーーーーーーーー 時事寸評 イワシにプルトニウムか? シロアリ駆除にも?? 「tdyno.218-(10:23).mp3」をダウンロード 福島県沖のアイナメに規制値の285倍(法律的に合理的な規制から言えば、712 倍になる。つまり今の食品安全基準は法律の規定に反して「内部被曝だけで1年1ミ リ」になっている。本当に法規を守るなら 、「外部+内部」だから、1年0.4ミ リ程度となる)のセシウムが観測されました。 この測定が東電の測定であることに多くの人が違和感を感じています。東電も事故発 生の原因を作ったのだから、当然、周囲環境のモニタリングは義務ですが、国が国民 を守る立場なのだから、国からも同じような測定が必要でしょう。でも、もっと厳し い内容のものがイワシで出ています。 千葉県産のイワシでトリウム234とプルトアクチニウム234mという聞き慣れな い放射性物質が検出されました。読者の方からの情報で私も知りました。7月30日 に鹿島沖から水揚げされたもので、セシウムが1キロ0.3ベクレル程度、そのほか に上記の元素が10から30ベクレル程度、検出されています。 1)一体、トリウムとかプルトアクチニウムってなにか? 2) それは何を意味しているか? 3) 現実に危険か? について解説をいたします。 ウランなどの重たく不安定な元素は、その元素ができたときから放射線を出し続けて 崩壊しています。多くの放射性元素も崩壊するのですが、ウラン、トリウムなどの元 素は、「ウランが壊れてできたトリウムがさらに崩壊し、それがラジウムやラドンな どとドンドン崩壊して最後に鉛になるまで14ぐらいの放射線元素を出します。 このことを普通「崩壊系列」といって、ウラン(ウラン238)があれば、次から次 へと放射性物質ができて、ウランがなくなるまでその系列にある放射性元素はほぼ同 じ放射線を出しています。 イワシの中で見つかったトリウムやプルトアクチニウムというのは、このウラン系列 のもので、つまりイワシの中にはウラン系列の放射性物質がまんべんなくあるか、も しかするとイワシがトリウムやプルトアクチニウムだけを選んで取り込んだか、どち らかです。 だから、この系列のものが一つ見つかると、普通は14から15ヶの放射性元素が同 時に見つかり、どの元素も同じ放射線を出しますから、一つが30ベクレルなら、キ ログラム450ベクレルはあると推定されます。 ウランの崩壊元素の規制値はほぼ1キログラム1万ベクレルで、通常はその10分の 1の1000ベクレルで注意をしますので、まだそこには達していないことになりま す。 でも、ウランは「核分裂でできたもの」ではなく「原料」です。その意味ではウラン があればプルトニウムもある(3号機)ということになりますから、この測定値はか なり危険な事になると言うことです。しばらく注意をします。 ・・・・・・・・・ ところが、ほぼ同時にシロアリ駆除剤として、ウラン系列と同じようなネプツニウム 系列の放射性物質が使われていることがわかりました。これも読者の方からのご連絡 ですが、読者の方が放射線がないはずのところで線量計で測ったら毎時0.20マイ クロシーベルトだったので、ビックリして、その原因を探したらシロアリ駆除剤であ ることが分かったのです。 シロアリ駆除剤にネプツニウム系列の元素が使われていることは知られていますが、 それでも法規で決まっている1年1ミリ以下になるように(つまり毎時0.11マイ クロシーベルト以下。自然放射線の0.04マイクロを足しても0.15マイクロシ ーベルトを超えてはいけないので、違法なシロアリ駆除剤ということになります。 普段なら放射線の被曝が少ないので、問題にならなかったと思いますが、今は、イワ シからも、アイナメからも、シロアリ駆除剤からも、地面からも放射性物質の被曝を 受ける(足し算)ですので、政府はもっと本腰になって国民の被曝を止めなければな らないでしょう。 放射性ヨウ素の問題も謎のままで、次々とこのようなことが起こるのを一刻も早く止 める必要があります。 このようなことは前向きに進めればすぐ解決します。風評もなくなります。つまり政 府が「法規を守る」と宣言し、法規に基づいた具体的な規制を決め、それをシッカリ 守る姿勢を示せば、解決することです。また日本には多くの国立研究所がありますか ら、でてくるデータを次々と解析して説明をすれば良いとおもいます。 特に巨大な地球コンピュータなどを「税金」で保有しているのですから、それを有効 に使うべきです。また原発の再開に当たっては、2011年の福島の方の苦痛が、次 の事故の時に起こらないように至急、検討をしておく必要があります。 今でも政府、東電は「福島原発事故は事故ではない。死人がでていないのだから、誰 も被害を受けていない。だから原発は再開できる」というスタンスですが、私には国 民に責任を持った政治、社会的責任のある企業とは考えられません。 (平成24年8月22日) 武田邦彦
2012.08.24
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・8、21、火これは領土問題を現実の例として、全く考えさせられる問題である。国の力が弱まると、周りがここぞと仕掛けて来る攻撃そのものだ。竹島、尖閣はまさに「弱い」と見なされて蜂の巣にされるプロローグだ。武田氏が定義する国の三つの力~軍備・経済と技術・文化。明治から昭和までの日本は、確かにこの三つを備えていたかもしれない。そして軍備と経済はある意味で連動しているものだろう。経済力があるから軍備力が上がり、軍備力があるから経済が上昇する。だがここで僕が危惧するのは、軍備と経済が直結したものと皆が認識した時に、おそらくまた力、暴力で国民の思想、考え方を抑圧する動きがエスカレートして行くだろうということだ。歴史的に日本もまた戦争をして金持ちになって来たのだ。事実今でも原発を巡ってその動きは表面化して来ている。技術と文化だけで日本が他国から一目置かれる存在になる方法はないのか?国というものは、やはり優れた軍備なしに外交に打ち勝つ方法はないというのか?現実、竹島と尖閣の他国からの略奪から脱するには、国の力が必要であることは事実だ。例として昔朝鮮半島が周囲の様々な国から蜂の巣にされて、長い歴史いろんな国の属国となり悲惨な思いをして来た、その原因を勉強してみなければならない。国の力が衰退すれば、今でも周囲の国々から蜂の巣にされるということだ。中国が南京大虐殺を、韓国が日本軍侵略や慰安婦問題を未だ外交に用いるのは、日本国民の意識、日本に住む中国人、韓国人の意識を分散して、結集された日本の力を確立させない目的も大きいのではと考える。確かに最も我々が強い力を手に入れる方法は、アジア諸国が力を合わせて共に経済を盛り上げることだろう。でも周りの国は、ずっと日本の軍事力に泣かされ、経済力に屈曲させられて来たライバル心と恨みがあり、ここに来てようやくそのライバルが弱まり、自分たちが力を持って来たことに復讐のチャンスを感じているのだろう。世間の常識として「力が弱まって来たから和解を提案する」と見なされて鼻で笑われることになるはずだ。親善、友情、協力、山分けなどというものは、身近な人間関係も同様、互いが同等の力を持っていてこそ発生する約束だ。おそらく、おそらくだが今から20年後ぐらいには、中国のバブルも崩壊するだろう。そうなった時にアジアはまた違った局面を向かえる。そんなことの繰り返しが経済だから、地味であっても真似の出来ない優れた技術と、独自の魅力に溢れた文化を持って、地に足の着いた外交を目指すことが大事であると僕は思うのだが、甘いのだろうか?ーーーーーーー穏やかで常識的な政策 外交政策「odayakagaikohtdyno.217-(8:57).mp3」をダウンロード竹島、尖閣諸島、北方四島、中国の防衛線などの近隣諸国との領土や海の問題がこじれています。外交の基本から言って、「穏やかで常識的」な外交政策とは何でしょうか?外交の第一は「力」です。力には三種類あって、1)防衛、2)経済力(技術)、3)文化 です。強大な防衛力をもって他国を抑えることを本格的にやっているのがアメリカで、だからこそ、アフガニスタン、日本のように本国から遠く離れているのに、力を持っています。日本は自衛隊がかなり強い戦力ですが、軍隊ではないので、それなりに弱いところがあります。戦後70年、日本人が軍事をどのように考えるのか、それが外交問題の第一であることは間違い有りません。軍事力の議論ができない国が外交で失敗するのは仕方が無いことでしょう。第二には「経済力(技術力)」です。かつて日本の技術に頼る必要があった時には中国は日本に余る強くでることができませんでしたが、最近ではGDPが日本を上回り、独自の技術もできてきたので、日本をおおっぴらに非難することが可能になりました。第三には文化です。文化の力は短期間には弱いものですが、国と国の力のように長い間のものでは力を発揮します。フランスがその良い例で、フランスという国は人口6300万人ほどの小さな国で、しかも農業国ですが、フランス大統領はアメリカ大統領をそれほど違わないように振る舞えます。フランスと言えば花のパリ。その歴史と文化は誰もが認めるところです。アジアでも最近の中国はお金だけのように見えますが、かつては漢字文化を持ち、文化の力で周囲の国に光を与えたこともありました。どうも最近の中国は強面で、軍事力とお金を背景に脅してくるような感じもしますが、かつてのように高い文化で影響を与えて欲しいものです。従って、外交の第一の条件、中国という世界の3大国に囲まれた国は、力が大切です。この世界は「人格」や「犠牲」、「恩」などで力を発揮するところまで言っていません。でも、日本はサボってきました。自衛隊の予算は年々、減少していますし、もちろんその状態は中国も韓国もよく知っています。技術は「日本が1番でなくても良い」という有名な発言ですが、日本はアメリカ、ロシア、中国に囲まれていますから、世界一でなければやられてしまいます。「ゆとりの教育」は創造性や考える力を養うという点では間違っている訳ではありませんが、単に「ゆとり」だけを作ってしまえば日本は崩壊してしまいます。技術者が圧迫される社会は日本では危険です。学力、文化ともに日本の力はあまり上がっていません。そこに隙があります。・・・・・・・・まず、外交の基本は「力」ですから、日本は力を持たないと外国と対抗することはできない。外国は隙を狙っているのです。それを警戒しない日本人の方に間違いがあると考えるべきでしょう。・・・・・・・・外交のもう一つが「口先」です。常に日本の正当性と近隣諸国との親善を言い続けるということです。尖閣諸島も竹島も北方四島も歴史的に日本の領土ですから、それを常に国際社会に対して訴え続ける必要があります。いきなり「竹島は日本の領土だ」というのではなく、その理由や歴史的背景をしっかり整理して機会があるごとに言うことです。イギリスが世界を制したのは「どんなことでも相手国にイギリスが正しいと思わせる力」と言われてきました。自分の論理をシッカリしておくこと、これがイギリスという小国が世界を支配した力だったのです。また、近隣諸国に常に親善を呼び掛けることでしょう。中国、韓国内で政府などが「反日言動」をしたら、そのたびに「親善第一」と訴えることです。すでにドイツとイギリス、フランスなどヨーロッパは老獪で自分たちの中で争いをできるだけ表面化しないようにしています。その点では日本を含めて中国も韓国も子供のようなものでしょう。韓国は長く中国の属国でした。ロシアも朝鮮半島を取ろうとしていました。長さだけではないですが、日本の35年をあまりにも強調することは両国にとって良いことではありません。日本には多くの中国人、韓国人がおられますし、日本の発展にも寄与しています。だから、反感を持つのではなく、共存共栄としての日本の主張をくり返すことです。ただ、南京事件のように中国が「しかけてくる」ものに対して朝日新聞などが両国の対立を激化するキャンペーンをすることが大きな問題です。特に日中関係を破壊してきたのは、朝日新聞で、この際、朝日新聞は過去の報道を総括し、反省し、日本の将来のためにその結果を紙面で公表するべき時のように感じます。・・・・・・・・・外交政策は「力」を背景に、「口先」をしっかりして、常に「国際親善」を強調した平和外交を展開することです。軍事力を高めることも平和外交の一つです。外交でも激憤することなく、冷静に、しかも力を背景にして口先で優位に立つことを政策とするべきです。日本のように「男は黙って・・・」というのは外交には通じません。今、領土問題に火がついていますが、それでも「日本は今後も強い国になるぞ」、「日本はあくまで国際親善だ」ということを明確にすれば、紛争も後退していきます。それが歴史の示す外交政策です。(平成24年8月20日)武田邦彦
2012.08.21
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・8、19、日「河童」という作品について、芥川氏が副題に「どうか kappaと発音して下さい」と書いているので、この小説をkappaと記すことにする。もちろんこれは不可解な「どうか」である。二度読み返してみて、僕なりの解釈を書いてみたい。この作品の紹介には大概「当時の日本社会、あるいは人間社会を痛烈に風刺、批判した小説である」と添えられているが、そうだろうか?と僕は考える。「kappa」と「或阿呆の一生」は照らし合わせて読むことが可能ではないだろうか。この二つの作品は、彼の遺書と捉えて差し支えないと考える。よって、精神的に追い詰められ、二年の間毎日自殺のことばかり考えていた芥川にとって、社会の風刺などを考える余裕などないのではと思われた。両作品とも、いわゆるぎりぎりのところで生きている自分のことだけを書いている。行く行くは精神病患者になる主人公が、結局kappaの世界にうんざりして「後悔しないように」と年老いたkappaに忠告されながらも人間社会に帰って来るその理由は、皆家族や友人と関わりながら生きているにも関わらず、結局は自分個人の利益、名誉、欲しか頭にないということに辟易したからであろう。それはもちろん人間社会と何の違いもないのだ。人の良いガラス会社を経営している資本家のゲールも、家の隣から火事が出たと聞いた時に、家族の安全や不安よりも、家に掛けてある保険を思ってほくそ笑む場面が背筋を冷たくさせるし、学生のラップは、メスのkappaに抱きつかれて腐ってしまった嘴を病んでその後悔しか頭にない。これはあるいは自分の背負い込んだ病気や、障害を諦めきれない人生を現すものとも解釈できる。また詩人のトックは、自殺した後も自分の名声を気に病んで成仏出来ずにいる。霊感師の婦人の体を借りて心霊学協会の者と応答して、自分の死に対する批評や、自分の死後の全集の売れ行きを尋ねる。批評が今ひとつ好意的でないことや、全集の売れ行きが芳しくないことについて自分を弁護する理屈をトックが並べるのを聞いて、主人公は最終的にkappaの世界を脱出する決意をする。作曲家のクラバックは、天才でありながらもライバルのロックの自分を超えた才能に日々恐れている。そしてロックの才能を見抜けるのは自分だけだという自負もまた含んでいる。トックの自殺現場に駆けつけ「自分もいつ自らの命を絶つかもしれない」と言いながらも、トックの書き残したゲーテの詩を読みながら「しめた!素晴らしい葬送曲ができるぞ!」と言って帰って行く場面などは、その場に居合わせた友人たちも含めて、誰一人トックの死を悼んでいる者などいない。クラバックにしても、ロックに打ち勝つ名誉欲しか頭にないのだ。メスkappaについても、そのやらせ主義と得になる方を常に計算している打算性を皮肉に描いている。これは「或阿呆の一生」に出て来る狂人の娘との関係に困窮したものと重なる。生活教なる大寺院を訪ね、年老いた信者に案内されて、生活教信者であった多くの文豪や哲学者の胸像を見て回り、ニーチェやドフトエスキーを含むその有名人たちがほとんど発狂して自殺していることを語る場面も印象的だ。ここで興味深いことは、同時にこれらの登場人物の利己主義は、自分自身もオーバーラップさせて書いているようにも感じることができる。要するに著者は友人や周りの人々の利己主義にどうしても我慢出来ず、また自分の中にも存在する同様の利己主義もまた見逃すことが出来ずに、破滅への道を歩むものと推察することもできる。だが不思議にも人々の利己主事に辟易しながらも、恨みは少しもない。ないどころか、なお人々への親愛さえ垣間見える。最後人間社会で精神病院に入れられた主人公を、kappaの友人たちが代わる代わる見舞いに来る場面がある。医者のチャックは「この病院の院長は、君の病気は早発性痴呆症と診断しているようだが、早発性痴呆症は君以外の正常とされている周りの人間だ」と診断を下す。これは村上春樹の「ノルウェーの森」にも出て来る話だが、この世の歪みに同化出来る人間が正常と言われるのだと。調べてみると、驚いたことに「kappa」を書いたのは、自殺する同年である。「或阿呆の一生」から推察すると、おそらくこの時期は発狂した後で、日にまともに物の考えられるのは、30分か一時間ぐらいという状態のはずだ。そのような中で、この素晴らしい作品が生み出されたというのは俄かには信じられない。だがやはり二つの作品中には、死に対しての憧れ、死ぬことの意義、死への恐怖、自分と同じ境遇の者への哀悼がふんだんに盛り込まれている。昭和二年、とうとう35歳の夏に自殺に成功した芥川氏の遺体に向かって彼の細君が語りかけた言葉は「おとうさん、よかったわね」
2012.08.19
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・8、16、木今芥川の「河童」を読み終わった。これは芥川氏の晩年の作品だと思う。おそらく彼自身の心の病に苦しみ、発狂か自殺かのどちらか一つの道を選ぶしかないというような時期だと思うが、そんな人物がどうしてこのような生き生きとした作品を生み出すことができるのか不思議でならない。かっぱの哲学者であるマッグの「阿呆の言葉」という著書の中に「阿呆は、いつも彼以外のものを阿呆であると信じている」という一文がある。人間は歳を取ると、もしくは若いうちに大成功を収めた者は少なからずこの阿呆に成り下がる。本人が気も付くことのできないうちにそれは体に染みこんで、二度と抜け出すことのできない阿呆が覚醒するのだ。あなたは「周りのやつは皆バカだ」と心の奥底で思っていることに気が付いてはいないのではないか?あなたは「そうかもしれないね」という言葉を長い間口にした覚えがないことに気が付いているか?一年一年歳を取るごとに、阿呆はあなたの肉体のほとんどに毒を回してはいないか?我々は、其々の知識と考えと思想が曇り一つない正論であることの間抜けさに気付けなければならない。「河童」という作品については、何度か読み返す必要がある。冒頭に出て来る深い霧の向こうを透かして覗くように、まだはっきりとこの作品が見えては来ない。でもおそらく、恥も建前も取り繕いも捨てた切実な告白なのではないだろうか。ーーーーーーーーーーー対立の構図 対立は恥ずかしいこと(理科系)「tairitsurikakeitdyno.215-(10:00).mp3」をダウンロード人間には「対立」というのがある。自分の意見が正しくて、相手が間違っているという論理をたてるのだが、理科系の私にはなかなか理解ができない。もし自分が「何の意図もなく、先入観も無い」状態で、相手も「ウソをついていない」場合は、「違う意見になる」ということがあり得ないように思うからだ。多くの人は「そんなことはない。事実、この世は意見が違う事ばかりだ」と言われるだろう。でも「理科系」の私には「意見が違う」と言うこと自体がおかしいように思われるのである。第一の問題は、自分が正しくて相手が間違っているのか、自分が間違っていて相手が正しいのかは、自分とその相手がいくら議論しても決まるものではなく、お釈迦様に聞いて見なければならない。「なぜ、ご自分のご意見が正しいと思うのですか?」と聞くと「私がそう思うから」という自信たっぷりの方がおられるが、ある人間が「正しい」と判断したことが「本当に正しい」かどうかは本人には分からないはずだ。「自分の生きているうちはごまかせる」というぐらいはいけるだろう.・・・・・・・・・この「対立の構図」で整理をしてみたいと思っているのは、このことではなく、第二の問題:「意見が対立するというのは、分からないことか、隠していることがあるから」ではないかということだ。自然科学(普通には科学ということが多い)は「自然現象を解明する」ことが主な仕事で、ついでに「それを応用して工学、農学、医学などを発展させる」という仕事もある。自然現象というのは太古の昔からある原理原則で成り立っているので、「人間が分からない」ということがあっても、「意見が存在する」と言うものではない。たとえば、かつて人間は「宇宙の中心は地球だ」と信じていて、科学もそれを支持した。でも、これには前提があり「人間の目で見る限りの空」ということであり、かつ「ある種の星(後に惑星であることが分かるが)が逆行することがあること、太陽は往復運動をするはずなのに毎日東から出てくる・・・などはまだ解けない疑問として残すという仮定に基づけばということである。しかし、望遠鏡が誕生すると「地球は太陽の回りを回っていて、太陽も宇宙の中心ではない」ということがわかる。でもそれも「望遠鏡でみるという前提つき」である。でも今のところ、それが科学なので「地動説」に異議を唱える学者はいない。ガリレオが「地動説」を唱えたとき、有力な科学者がガリレオに反撃を加えたのではなかった。聖書を信じる教会が彼をバッシングした。科学者は事実を明らかにしようとしているので、ガリレオの地動説が事実ならそれは進歩であり、なにもバッシングする対象ではないからである.ダーウィンが「進化論」を唱えたとき、それにバッシングを加えたのはこれも牧師であって科学者ではなかった.もし科学者がダーウィンを批判するなら、ダーウィンのデータの科学的な解釈に誤りがあるか、あるいは自分がダーウィンと同じように世界一周をしてきて、つぶさに生物の生態を観察し、反論をしなければならない。でも、科学者は基本的には「自然を明らかにする」と言うことだから、反論をしても意味が無い。「そんなこともあるのですか!」と感心するのが普通だ.・・・・・・・・・科学の論文というのは、実験データ(理論でも良い)を示し、それを整理し、専門家なら誰でも合意できないと結論にならない。実験や理論で合理的と(誰もが)判断できる段階にないと結論は出せないのだ。それまでは単に「酒場の独り言」にしか過ぎない.私たちは良く仲間や学生と飲んで話をする.その時には「あのデータはこんな風に思うのだけれどどうだろうか?」と話す。そうすると、そこで議論になり、不足が分かり、研鑽を積む.私たちはただ「自然を明らかにする」というのが目的だから、別にいがみ合う必要などない。若い頃から私がやってきた分離工学、資源、材料などの分野で、「科学的論争」などはなかったし、まして「バッシング」などを経験したことなかった。議論して私が不十分だったら、頭をかきかき再登場するだけである。ところが、忘れもしない1998年のある学会で、私と学生が「リサイクルは資源を余計に消費する」という計算結果を発表した.そうしたら、私は会場から「売国奴!」とバッシングを受け、学生は攻撃を受けて真っ青になって帰ってきた.その頃、私はリサイクルでお金をもらっている訳でもなく、先入観もなく、ただ社会がリサイクルを始めようとしていたので、それを分離工学と材料工学の手法を使って解析したに過ぎなかった.正直言って、当初はなにを非難されているのかということ自体が不明だった.そこで、慌てて関係した文献を調べ直してみたら、やはり学問的に計算しているものは「リサイクルは消費を高める」というものがほとんどだった.ただ、当時、「ライフサイクル・アセスメント(LCA)」という新しい学問の手法が登場して、私たちのような伝統的な学問で計算した結果と違っているものもあった。そこで、LCAで計算している人と何回も研究会をしたが、結局、どちらが正しいかはなかなか分からなかった.新しい学問は大切なものだが、まだ未熟なので、これまでの学問と内容を合わせるということができなかった。それでも、お互いにバッシングするとか、そういうことは無かった.ただ、伝統的な学問で計算するとリサイクルは資源を余計に使い、LCAで計算すると有効な場合があるということがわかり、「研究を続けましょう」と言うことになっただけだった.・・・・・・・・・ところが、そのうち、雲行きが怪しくなった.私が書いた最初のリサイクルの本は「フランケンシュタインの息子たち」という題名が、出版時には「リサイクルしてはいけない」となった。私がフランケンシュタインを出したのは、自分が科学の力で作ったものが、自分を襲ってくる(フランケンシュタイン博士が作った怪物が博士を襲う)ということと、現代の環境問題が類似であるという解釈を題名にしたのだった。それからというもの、私も世の中の動きに巻き込まれ、対立の中に入っていく。それから程なくしてある本に「武田邦彦はウソをついているのか」という題名がついたとき、「ああ、科学者でもウソをつくとみんなが思っているのだな」ということを知った.(平成24年8月15日)「tairitsunokoriitdyno.215-(0:37).mp3」をダウンロード武田邦彦
2012.08.16
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・8、14、火「暗い話を避けていては解決は遠のきます。事実を正面から見て、それを胸に楽しい毎日を何気なく送ることはできます」その通りだと僕も実感する。我々人間がどのような欲に支配され、またそこからどのように抜け出そうとして来たかを事実として見てみる。それがないところに、より良い明日は存在しないはずだ。いろんな明治の文豪のことを調べていて、小林多喜二という人物に突き当たった(意図して、今は彼の著作を紐解かないようにしようと思っているが)。彼は明治38年に秋田県に生まれ、29歳で特高警察によって殺害されていた。彼がプロレタリアート作家として知られている通り、いわゆる当時の赤狩りにあったのだ。ロシア革命とカール・マルクスがそれらの人々を活動に駆り立てた。当時の社会主義者にしても共産党に関わる者も、命が狙われることが分っていて何故そこまで危ない道を選ぶのか。もちろんそこには国規模で行なわれるイジメがあるからだ。秋田の小作農の家に生まれた小林も、働いても働いてもほとんどの取り分を他人に持って行かれる屈辱を味わい続けたはずだ。社会の構造により苛め続けられた者も、いつかは立ち上がる。そして立ち上がれば潰される。小林多喜二も、それは酷い殺され方だ。ほんの最近昭和の最初の出来事なのに、まるで別世界の話のように聞こえる。だから共産主義、社会主義と言っても、当時と今ではその意味が全く違う。軍の一部である警察は、上からの命により(本当は何処から降りてきた命令かは分からないところだが)危険思想人物を逮捕して、堂々と酷い殺し方をしている。現場の警察官は、おそらくゲームでも楽しむみたいに作業を行なっていたのだろう。死亡を確認する病院側も、特高警察を恐れて解剖もせずに遺族に返す。何処やらの相撲部屋内で起こった事件も同様「お咎めなし、何とか内内でごまかせる」と決まれば楽しんで他人を殺すものなのだ。この怖ろしい人間の本性が、今の時代もやはりすぐ身近に存在するということだ。政府に守られ、容認された東電。どんなことをしてもお咎めなしで、何をやろうとも高い給料が受け取れると分っていれば怖いものなしである。こういった日本社会の特性は、何も平成の今になって突然酷くなった訳ではないようだ。形を変えて、色を変えて常にある悪魔の根源である。それではどうやって、皆が其々の人生である程度の幸せを感じて生きていけるのか?分らない。ただ惨い事実を直視することしか出来ない。「協力して、皆が其々の人生で愉快に暮らせるように工夫しようよ」ということがどうしても出来ないのが人間という動物なのか。ーーーーーーーーー時事寸評 死にたい、燃やしたい、いじめたい、出たくない、そして暴れたい「hikikomoritdyno.217-(7:29).mp3」をダウンロード暗い話を避けていては解決は遠のきます。事実を正面から見て、それを胸に楽しい毎日を何気なく送ることはできます。・・・・・・・・・旧共産圏諸国の自殺率が高いのは良く知られているけれど、その中で日本が突出している。交通事故死が1年5000人に近づこうとしている時に自殺は3万人を遙かに超えている。「死にたい!」と日本人は思っている。未来に夢が持てず、誠実な暮らしができないのだ。先進国の火災件数が減り、火災による死亡率が減少している中で日本だけが増えている。アメリカの火災による死者はかつて8000人、今、4000人。日本はかつて500人、今2200人だ。なぜ増えるかというと、失火ではなく放火が50%に迫っているからだ。「燃やしたい!」と日本人は思っている.やり場のない怒りが人間の原始的な破壊欲求に火をつけている。いじめが増えだしたのはバブル崩壊の少し前だ。先進国が経済発展に伴う社会の歪みが教育に悪い影を落とさないようにと教育改革に乗り出し、力を入れてきた。その結果、明治時代には教育立国と言われた日本の教育費はOECD(先進国)で最下位である。「いじめたい!」と日本の子供は思う。自分がなぜ弱い者をいじめたいのか分からない。でも大人が弱い者いじめをしている。だから、それをまねているに過ぎない。新成人を市町村が祝う成人式はあれる。それを見て大人は「甘やかして教育するからだ」、「式が成人のためではなく形式的だからだ」と言う。「暴れたい!」と新成人が思っているわけではない。本当は大人の仲間入りをするのだから、成人式は静かに豊かに、楽しくやりたい。でも久しぶりに子供の頃の友達に会い、かつての生き生きとしていた自分を思い出すと、これからあの汚い大人の社会に出るのが無性に腹立たしくなるからだ。「出たくない!」と叫ぶこともなく部屋に閉じこもる。そうだとおもう。今の時代に世に出たい方がおかしいかも知れない。純粋な心を持っていたら耐えられないのではないか。その点では「引きこもり」の方が「世に出る」よりまともかも知れない。・・・・・・・・・世の中すべて「お金」の時代で、経済学者によっては「原発で被曝しても良いじゃないか。経済が優先なんだから」と公言している人もいる。まともな精神を持っている人が、絶望したりやけになったりするのも分かる。でも、おかしいのは政治家、偉い人、コメンテーターであって、普通の日本人、とくに学生は古い日本の健全な魂を持っている。日本は日本人でできていて、見込みはある。95%は誠実な日本人だから。今日、お盆でゆっくりし、テレビでオリンピックの総集編を見ていて気分が楽になった時に、読者の方から神の言葉を聞いた。さらに自分という存在を再確認し、楽しい気持ちで今日をおわることができる。おそらく明日も来るかも知れない。(平成24年8月12日)武田邦彦
2012.08.14
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・8、13、月 アメリカが「廃棄物を処理できない原発は認可しない」という法律を制定したことは、一つの大きな進歩であろう。 日本はまだまだアメリカ先生に右倣えがこびり付いているから、日本の原発推進派にとってはいやな話しだ。 だがおそらくこのニュースは、日本のテレビ・新聞では報道されないのではないだろうか。 きっと政府から圧力が掛るにちがいない。 先日もテレビの朝のニュースを見ていると、アナウンサーが「それでは次のニュースです、東京電力は今日」まで言って、しばらくの沈黙があり「それでは次のニュースです」と違う話題に転じた。 見ているものは「ああ、圧力が掛かったな」と誰もが思ったことだろう。 国民の目から見るとマスコミは政府を批判し、あたかも政府よりも力があるように見せているが、実の所マスコミも国の黒幕の手の平で転がされているに過ぎないのだろう。 これもまた僕の想像だが、戦時中か、もしくはもっと前に、「広告」という分野がまだチラシ号外ぐらいにしか考えられていなかった時代に、広告の分野全部を買い取ったやつがいる。 広告を買い取るということは、のちのちの新聞・ラジオ・テレビなどマスコミを丸ごと支柱に収めたことになった。 先見の明だ。 その権利は今でも継続されていて、マスコミが報道できる範囲は極めて狭く限られている。 普段はある程度政府を批判する姿勢を見せて国民からの信頼を確立しておいて、いざという時にはマスコミを使って、その権利者が思うように国民と国を動かすのだ。 その人物は決して姿を見せない。 もうこの世を去ったとしても、親族か誰かがその権利を引き継いでいる。 僕の思うところでは、それは日本人ではないだろう。 歴史のある自分の国が辿った道から、広告こそが国を支配し動かすものだということをすでに知っていたからこそ未熟な日本で手を打てたにちがいない。 ーーーーーーー 時事寸評 アメリカ、新規原発建設の認可を停止 「americawastetdyno.218-(4:07).mp3」をダウンロード 大人なら誰でも「得になることだけはもらうが、イヤなことは他人や子供に任せる」 ということをすると「人格のない人」と思われるでしょう。 現在、東京に住んでいる人(大阪も名古屋も似たようなものですが)は、「原発の電 気は欲しい。原発はイヤだ。核廃棄物はもってのほか」という子供のような人たちで す。 先日、アメリカで「廃棄物をしまうところがない原発は認可しない」という内容の判 決がでました。当然と言えば当然で、自分たちが使う原発の電気を作るのに発生する 廃棄物を自分たちでかたづけないのですから、それを認可すること自体、おかしいの です。 今、日本には130万本の核廃棄物がありますが、大人は「危険だからしまうところ が無い。子供に任せる」と言っています。それでもお金が欲しい人たちが「廃棄物な ど考えたくない」と言っていますが、でもそれは少数の人ですから、多くの日本人が 心を合わせて、「子供にツケを回さない」ことを決意したいと思います。 「資源が無くなる」と言いますが、それは1000年も先のことです。「温暖化する 」というのは本当ではありませんが、もし起こるとしても数100年後です。しかも 日本以外でCO2を減らしているのは日本だけです。 「未来の子供達のために」と言っている人が、なぜ「核廃棄物は子供に残して良い」 などと言うのでしょうか? アメリカで判決があったからというのも情けない話です が、真正面から事実を見る必要があると思います。 (平成24年8月12日) 武田邦彦
2012.08.13
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・8、9、木毎日放送の朝のテレビ番組で、キャスターとコメンテーターが声を揃えて「東北の瓦礫を受け入れたくないというのは、日本人として恥ずかしい。苦しんでいる人を助けるのは同国民として当然なことだし、それを拒否する行為は卑劣である」と盛んに論じている。僕の周りの人々も同じく瓦礫受け入れを拒否するものを激しく批難するものも確かにいるし、他の者は「瓦礫が一体どうした」という感じで、そのことには全く無関心な人がほとんどである。もちろんこの無関心さが、平気で子供たちに危険な食べ物を与える無慈悲な行為に繋がる訳だが。しかしそうだからと言って彼らの無関心さを戒めようとしても「考え過ぎ!神経質過ぎ!ごちゃごちゃ言い過ぎ!」と危険思想の持ち主を見るような目で見られるだけだから、僕はもう議論しないことにしているが。彼らの言い分は「国が検査して規準以下と判断した瓦礫なのだから、大丈夫なのだ!」ということだ。何処までも国を信じ込んでいる憐れな人々だ。もちろん政府にはそこに別の思惑がある。その思惑のために「思いやり・絆・助け合い」をスローガンに国民を同調させて、東電の責任を分散させて後で検分できないようにしてしまおうということだろう。その片棒を担ぎながら「瓦礫引き受けを拒否するとは非国民!」とののしる一般庶民は、一体何を考えてそのような発言をするのだろう。しかしこの「瓦礫バッジ」をオリンピック選手に配ったというのは驚いた。しかもそれを子供たちにやらせている。日本の選手がこれを付けてロンドンに乗り込んだのか、ロンドンで他国の選手にまで配ったのか、その辺の細かい事実までは分らないが、それが「放射能物質の拡散」になることぐらいは、他国の知識のある人ならすぐに理解する者がいるだろう。この事件は、日本の非常識と無関心とバカさ加減を暴露した恥ずかしい出来事だ。同時に国のやり方、考え方をも示したことになるので、日本製品の信頼も著しく無くす切っ掛けになったのではないか。ーーーーーーーーー「瓦礫」と「村八分」:国の違法行為強要「tdyno.214-(8:21).mp3」をダウンロード震災瓦礫問題で多くの友人を失った。私にはにわかに信じられないことだが、「規制に違反しても震災地を救うべきだ。瓦礫を引きうけないとは日本人として恥ずかしい!」と激しく言う友人に唖然としたものである。今、オリンピックで環境省と日本オリンピック委員会が「瓦礫バッジ」を作って、子供達を使って選手に配ったと言うことで問題になっている。そこには「日本のすべての人の力を一つに」とある。つまり、日本人なら震災地からの瓦礫の搬出に協力するべきだということを外国に訴えている。[Bandicam_20120805_155409789。]日本人は「瓦礫搬出」に反対している訳ではない。「規制を超えた放射性物質を含む瓦礫の搬出」に疑念を示しているだけだ。つまり、「国が法律を破れといっても善良な国民は規制を守りたい」と言っているだけで、これをすり替えてあたかも「汚染されていない瓦礫の搬出に反対している。ヒステリーだ」と叫ぶ政府、環境省、そして私の友人はどういう意味だろうか?同じ言動だが、おそらく政府関係者は「嘘つき」で、友人は「無知」なのだと思う。そう考えないとつじつまがあわない。・・・・・・・・・国の規制は、格別の注意を払わずに持ち出せる瓦礫は1キログラム100ベクレル以下である。それに対して2011年10月に環境省が示した持ち出し基準は240から280ベクレル以下(環境省廃棄物対策課)である。細かいことを言えば、・・・以下という時には幅を持たせてはいけない。240から280ベクレル以下というと、260ベクレルは片方では違反、片方では合法ということになる。実に曖昧で奇妙だ。実は1キロ100ベクレルが決まったのは、つい最近(原発事故の半年ほど前)であり、その決定は日本の放射線被曝に関する主要なメンバーが参加している。[Bandicam_20120805_154126967。]この表は委員のリストだが、メンバーの中には今話題の原子力規制委員会委員候補の中村佳代子さんや、首相補佐官だった小佐古先生などが居る。[Bandicam_20120805_154439081。][Bandicam_20120805_154503029。]そこで承認した基準は、対象物がこの表に示したように、コンクリート片、燃え殻、煤じんなどであり、セシウムの場合、1キログラムあたり100ベクレルと明示されている。環境省は規制を超えた1キログラムあたり240から280ベクレルの瓦礫を地方自治体に運搬し、それを焼却したときの燃え殻の基準を8000ベクレル以下としていたが、さらに2012年7月に10万ベクレル以下に上げる。放射線を取り扱う特別な施設でなくても、処理して良いレベルが1キロ100ベクレルだから、8000ベクレルとか10万ベクレルというのはまったく論外だ。とくに、「放射性物質」として慎重に取り扱うことが決まっているのは「1キロ1万ベクレル」で、これを超えた物質を取り扱うと「犯罪」になる。環境省は国民に犯罪を強要している。また、「薄めることで規制をくぐる」というのは、規制を「骨抜き」にすることだから、国内法の精神に反し、国際的な約束違反である。この「希釈禁止合意」については法律の精神から当然のことで、「希釈すれば良い」ということであれば、1キロ1万ベクレル以上のものでも太平洋に捨てれば希釈されるからOKということになる。すでにこのことはドイツ放射線防護協会からもクレームがでている。この協会は日本人全部に呼び掛けていて、日本人のミスで漏れた放射線によってドイツ人が2次被曝するような事が無いように、法の精神を守って欲しいと訴えている。国際的にも恥ずかしいことだ。・・・・・・・・・つまり、この瓦礫の問題は「順法精神・国際的約束」を持った善良な日本国民が従うことのできないような違法行為を強要し、それに従わなかった国民を「非国民呼ばわり」するという問題である。これほどハッキリしている間違った行為を、政府、官僚、識者がこぞって「正しい」とするのはきわめて不思議である。仮に、非常時の立法というものを計画しても、それが従来、日本国民の健康を守るために決めた数値となぜ異なるのかについては説明を要する。福島原発から漏れた放射性物質は80京ベクレル(政府)から100京ベクレル(東電)であり、これは日本中に拡散したら日本国土に誰も住めなくなる量である。だから、事故前より瓦礫などで放射性物質が拡散するのをできるだけ防ぐのが政府の役割であり、違法基準を強要するということは考えられない。チェルノブイリ原発事故の後、ソ連政府はキエフから大型バス1100台で付近住民の避難にあてさせた。福島の事故でも避難しなければならない地域は広範囲だったのに、政府はバスも出さなかった。瓦礫の問題は「バスを配車しなかった」という政府の精神状態と共通点があるように感じられる。国民に対する背信行為を続ける政府をなぜ、私の友人や識者が支持して、不安に感じる善良な国民をバッシングするのか、それがオリンピックに及ぶのか、古い迷信的で野蛮な国家に住んでいるようだ。(平成24年8月8日)武田邦彦
2012.08.09
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・8、8、水この頃盛んに死刑制度廃止を唱える意見がある。この動きの本当の理由は何処にあるのかと考えることがある。「人が人を裁くことが間違っている」とか「殺人を犯す人にも何かしらの同情を禁じえない」とか「罪を憎んで人を憎まず」などとよく言われる。弁護士や検察官が死刑に立ち会うと「こんなことはやはり続けるべきではない」と思うらしい。それはそうだろう。判決を下し刑場に送り込む裁判官も嫌だし、刑の執行を決定し判を押す法務大臣もたまらない。だが一番やり切れない仕事は、死刑場で送られて来る死刑囚の首に縄を掛ける職員だ。しかしこの世に刑罰がなくなれば、皆どうするだろう。どんな人間でも大金を手にするともれなく変わってしまうように、誰を殺めてもお咎めがないとなると人はきっと変わる。残念ながら人の中に倫理や常識や情けが必ずしもあるとは言えないからだ。ひょっとすればここもまた日本人独特の「情」「思いやり」「親切」から来る考えが強いのかもしれない。駅構内でも、心斎橋筋でも英語、中国語、韓国語のアナウンスが聞こえる。余計なお世話だと僕はいつも思う。イタリアの独特な雰囲気を楽しみにわざわざ旅行に行って、ローマの町で日本語のアナウンスが聞こえたり、日本語の看板があちこちにあったら幻滅である。知らない国で言葉も分らず困り果てるのが、海外旅行の楽しいところだ。とにかく日本人は余計なところまで親切だから、その親切がふとなくなると皆腹を立てる。初めから不親切だったら、駅員や店の定員に向かって怒鳴り散らす者もいないだろう。死刑制度にしても「人を殺せばよっぽどの理由がない限り、定めとしてもれなく死刑!」とすれば犯罪は減るだろうし、いとも簡単に他人の命を取る行為も一歩立ち止まって「他人を殺すイコール自分を殺す」と考えが及ぶのではないか。。お咎めなしにルールを守れるほど、人は倫理と意思に厳格ではない。苦しい心で人を死刑に決め、実際死刑台に向かわす判を押し、首に縄を掛けることこそが彼らの仕事なのだ。それが嫌なら別の仕事を探すがいい。
2012.08.08
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・8、7、火 今日、介護ケアの会社を経営されている人の奥様である生徒さんと話す機会があった 。 現場で働いているスタッフから電話があり「給料だけではやって行けないので、空い ている時間でコンビニのバイトをしていいですか?」と相談があったそうな。 ご主人は「立場上どうぞとは言えないが、事情はよーく分るので内密にやってくれ」 と言ったそうな。 政府が介護に下ろす予算がとても少なく、やはり会社も大変であるらしい。 または外国人を怖ろしく安い給料で雇い、何とか凌いでいる会社も少なくないとか。 働いている外国人は、国で食べられないから苦労を承知で日本に来る。 昼は介護、夜は水商売で朝方まで働き、次の朝はまた早くからケアセンター。 そんなことを続けていては、命がいくつあっても足りない。 彼らは日本人が受け取るささやかな報酬と、自分たちの更に差っ引かれた物にどれだ けの差があるかは知らないだろう。 全く日本は数百年前に逆戻りしているようだ。 原発と原爆に4500億、米軍に10兆円払う予算を高齢化社会に回すことが、今の日本に は最重要な税金の使い道だろう。 日本を乗っ取っている誰かさん! 高齢化の進む貴方の植民地のことも少しは思いやって欲しいものだ。
2012.08.07
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・8、6、月 このところ働く人の受けるべき施しの単位が、昔に比べて著しく低下している話題ばかり取上げて来たが、今日合唱団の団員(30代女性)で介護の会社で働いている方が僕のところに来て「先生聞いて下さいよ、給料の2倍という約束だったボーナスを、いきなり1,5倍に減らされたんです。 同僚は皆求人広告をぱらぱらめくっています。 夜勤夜勤のきつい仕事で、一人暮らしもできないほどの少ない月給で、その上ボーナスまで減らされてはさすがの私も怒りがこみ上げますね」といつも朗らかな彼女がむっとした顔で述べた。 おまけに話を聞くと、彼女たちスタッフに感謝を持ってケアを受けている利用者は皆無に近いという。 「バレンタインのチョコレートを渡したいと思える利用者さんなんて一人もいません」と笑っていた。 せめて納得のできる施しを受けないと、これはやり切れない仕事のようだ。 ここからはまた僕の妄想であるが、思っていたよりも極端に衰退している日本の経済、実際に企業が持ち応えられず社員の首を真綿でじりじり締め上げ、日本国民からやる気を吸い取り、貧困に追い込み、若い層に就職する意識を与えないようにして、年金制度を破壊し、国力を落ちるところまで落とす。 もし、もしこれが誰かの計画的な仕業とすればどうだろう。 20年前にバブルがはじけたと言っても、その余波がここまで企業の衰退を引き起こすものだろうか? 僕は経済のことは全く無知なので何とも言えないが、そのような突拍子のない想像を立てる余地はないだろうか? この国が、日本国民以外の者に乗っ取られている現実の想像の余地だ。 ーーーーーーーー 感動を失った社会 「kandoutdyno.203-(9:23).mp3」をダウンロード オリンピックが開催されて多くの日本人に深い感動を与えています。商業化されたと か、本来のスポーツマンシップを忘れているなどと批判もありますが、やはり頂点を 目指して努力してきた人の緊張感、努力に接すると人間は感動するのも事実です。 ところが目を日本に転ずると、政府の公約破棄、原発事故と電力会社の横暴、中学校 のいじめ自殺と教育委員会の保身などおよそ感動とはほど遠い事ばかりです。今や日 本には街角にヒット曲が流れることもなく、展覧会がどこで開かれているのかもよく わからなくなりました。 このように、私たちの心を揺さぶることが無くなったには様々な要因があると思いま すが、私の専門の近くから見ると、それも当然のような気がします。 まず第一に「未来が暗い」ということですが、これは「本当に暗い」のではなく、「 一部の人が儲けるために無理矢理作り出した暗さ」です。たとえば、石油石炭天然ガ スは1000年は充分あるのに、太陽光発電などの自然エネルギーに補助金を出すた めに「無い」と言って不安をあおることです。 理想に燃えて太陽電池を研究したり、それを自宅につけたりすることは良いことです が、その時に人のお金を当てにし、電気が余ったら電気料金の約2倍で売ろうとする という背信行為が正当化しています。 「CO2で温暖化する」というのもウソで森林に補助金を入れたい」、「天下り先を 作りたい」というだけのことであることが徐々に明らかになってきています. このような資源や環境の分野での「作り出された暗さ」には、リサイクル、ゴミがあ ふれる、ダイオキシンは猛毒だ、環境ホルモンでメス化、コンビニエンスストアの夜 間営業禁止、レジ袋の追放など枚挙にいとまがありませんし、さらにタバコの追放、 メタボ利権、高血圧利権など人の健康を出汁にするものまで出現している有様です。 このような現象は環境問題に限られるわけではありません。年金は積み立てておいた 記録が5000万人分、無くなってしまったり、現金自身が政治家の圧力で貸し出さ れて戻ってこなかったりしています。さらに地震と原発事故で疲弊している国民に、 増税したり、扶養家族控除を止めたりと追い打ちをかけています。 これらは作り出された暗さで、本物の暗さではありません。世界の資源はたっぷりあ りますし、温暖化はしません。ゴミは焼却すれば町にあふれることはなく、タバコで 肺がんになる人の数は少ないのです. むしろ、日本は諸外国に比べて対外資産が極端に多く、技術力も高く、国民の真面目 さ、勤勉さが残っていますので、未来は全く心配は無いのです。多くの人が毎日を楽 しく過ごせば、景気は良くなり、日本の将来は明るくなるでしょう。 第二に「誠実な社会」を作ることです。ギリギリの商売の中で若干のだましが入るの は良いのですが、毎日の生活や目に見える政治の世界でだましが連続すると、人間は すっかり夢や目標を失います。 現在の日本では「政府が「悪」であるとき、「正」を何で決めるのか?」という問題 に直面しています。そして本来、学問の自由が保障されて学問に忠実であるべき学者 が曲学阿世(御用学者)であったり、表現の自由で守られている報道機関が事実を報 道するのをためらうようなことが起こっています。 選挙の公約の遵守、学問への誠実性、報道の公平性などはいずれも社会の基幹をなす ものですから、これらが崩れたら社会が暗くなるのは言うまでもありません。 さらに、ある主婦の方から「真実を口にするのが憚られる時代」というメールをいた だきました。ヒットラーのドイツ、スターリンのソ連に代表されるように、日本も真 実を口にするとバッシングを受ける社会になりました。 社会的に将来が不安で、ウソが多く、思ったことを口に出せない社会・・・そこに感 動があるはずもありません.どんなに貧乏でも「明日は今日より良くなる」という確 信や、「自分の身の回りは愛と信頼に満ちている」という安心感こそが人間を人間ら しくし、人間の知性、美的感覚、情緒などが花開くのです。 ・・・・・・・・・ ヨーロッパの中世は精神が抑圧された時代でした。ある若者が高僧に「太陽を観測す ると黒い点のようなものが見えます」と言ったところ、高僧は「古典を調べてみる」 といって寺院の中に入り、しばらくして出てきて「古典をくまなく調べたが、そのよ うな記述はない。黒い点やらは君の眼のシミだろう」と言った。 この話は中世の抑圧されていた時代、新しい事実を見いだしてもそれを認めてくれず 、形式論だけで進んでいたことを示しています.このような社会の雰囲気では科学や 芸術は進歩せず、だからこそ「ルネッサンスの爆発」があったのです。 まず、自由な雰囲気の日本、誠実を大切にしてウソを嫌う日本、他人をバッシングし ない日本、優れた子供を素直に褒める日本、自分の国の伝統に誇りを持つ日本、そし て日本の国土は日本人が守るという決意を持った日本を作ろうではないかと思います 。 私個人はどんなことが起ころうと、常に真実を語り、楽しく生活し、誠実に生きよう と思っています。それがたとえバッシングの対象になっても全然気にしません.誰か が行動に起こさないと新生日本は誕生しないからです.たった一人の力ですから微々 たるものですが、それでも同じ気持ちの人が大勢おられることを励みにやっていきた いと思っています。 自殺、放火が世界のトップクラスという今の日本が病んでいるのは言うまでもなりま せんが、それは「回避できないこと」ではなく、私たち大人が決意をすれば回復でき ることだと思っています. (平成24年8月4日) 武田邦彦
2012.08.06
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・8、5、日技術者魂のみならず、すべての仕事に対しての職人魂が必要である。昔高度成長に随って、日本の製品の性能の高さは世界に認められた。金儲けしたいという思いの前に「どうすればより良いもの、使いやすい、楽しい、壊れにくい製品が製造できるか」という使う人の立場に立った職人魂が根強く日本人の中にあったのだろう。今でも多くの中国人の旅行者が日本に来ては電気屋に群がり、炊飯器などをいくつも買って帰るのがその証拠だ。日本の製品は今ではほとんどがメイドインチャイナだが、彼らはメイドインジャパーンを探して買うという。今は少しずつなくなりかけている日本人の高い職人魂は、何故昔根強く我々の中にあったのだろう。僕の推測では、明治以前から流れ伝わる武士道と、それに伴う良いプライドがDNAに残っていたのかもしれない。それに加えて、明治に入ってヨーロッパから様々な技術を学び入れた。ドイツから学んだ鉄鋼業を通じて、ドイツ人と日本人の職人魂がぴったり一致したとも考えられる。そういう意味でも、いつも言うようにドイツ人と日本人はとても似ているところが多いのだ。さて、今日本人が最も取り戻さねばならないのがこの職人魂であると思われる。コストと利益の計算だけでスタートする仕事ではなく、使う人、食べる人の立場に立ったプライドのある仕事。地に足の着いた産業が、長い目で見ると国を救うのではと思う。だがしかし、今の不況の中では、添加物を使用せずに高いコストできっちりした饅頭を作っている店は潰れる。値段は高くとも本当に良い食材で、美味しく体に良い食事を出す店は長続きしない。「安い」ということが、庶民にとっての第一条件なのだ。一ヶ月の生活費を考えると、昼は200円のコンビニ弁当にしないとだめなのだ。この環境の中で職人魂を重んじれば、飢死しなくてはならないかもしれない。どうやってこの悪循環から抜け出すことができるのか。ーーーーーーーー技術者魂「gijyutsurinritdyno.201-(8:16).mp3」をダウンロードあるとき、自動車の大会社の技術担当重役にお会いしました。ちょうど良い機会だったので、私は電気自動車の将来性についてご質問をしたのです。私は質問に対して、将来の市場性(つまり車として有望か、日本で売れるかどうか)などをお答えになるのではないかと思っていたのですが、驚いたことに彼は話を始められてから終わりまで、すべて「いかに安全な車が設計できるか」について微に入り細にいり、私に説明をしてくれました。これこそ「技術者魂」なのです。どんなに素晴らしい車、最高速度が大きい新幹線、電気をもたらす発電方法、そして通信の優れた携帯電話を作っても、それが安全で、快適で、幸福をもたらすものでなければ「技術的作品」とは呼べないものです。福島原発の事故に関して国会の事故調査委員会の結論が公表されたとき、あるテレビ局がコメントを求めたので、私は「一応の評価ができるものだが、技術的踏み込みが不足している」と言いました。たとえば事故原因が「人災」だったとしても、人災をもたらした人間関係、組織を問題にするとしても、技術者だったら、しつこく技術的問題を取り上げるからです。その点で、福島原発事故のあと、まだ原発を推進しようとしている技術者がいるのは実に不思議です。福島の事故が起こるまで、軽水炉で、しかも日本の軽水炉で福島クラスの事故を起こすということは原子力の技術者は考えていませんでした。だから、あの事故は技術者から見ると完全に失敗で、何が間違っていたのかを徹底的に考え、新しい設計をやり直さなければ到底、原発を推進する気にはならないからです。私は、今の技術力では電気は火力発電がもっとも適していると思いますし、石油石炭天然ガスなどは1000年はあるのですから、少し頭を冷やして考える時間は充分あります.また100歩譲ってCO2による温暖化の効果が少しあるとしても、世界でCO2を削減しているのは日本だけですから、原発事故の後、しばらくは火力発電をするのに世界は何も異議を挟まないでしょう.・・・・・・・・・原子力発電技術に少しでも携わった技術者の皆さん、私たち(原子力に関係した技術者)は次のように訴えようではありませんか.政治的なことなどに関心はあっても私たちの本業、技術の魂を守ろうではありませんか.1.私たちは原子力技術が日本のためになると信じて、技術の開発を行ってきました。決して、私利私欲ではなく、原子力の実用化によって日本が繁栄することが目的でした.2.私たち(原子力技術者全体:個別の技術者では軽水炉が危険だと言っていた方もおられます)が軽水炉を選択し、それを推し進めてきたのは負のボイド効果など原子炉の中では格別に安全性に優れていたからです.3.原子炉の固有安全性、多重防御などによって、震度6の地震や15メートル程度の津波で爆発するとは思っていませんでした。事故が起こってから「津波が15メートルだったから」といういいわけをしている人もいますが、私たち技術者は「震度6で津波が15メートルに達したら原発が爆発する」と言わなかったと記憶しています。4.私たちは個別の技術者がどう言ったかは別にして、技術者全体としては日本社会に「原発は安全です」と言ってきました。原発の安全性は技術者以外にはわかりません。だから今回の事故は私たち技術者の責任です。5.「震度6、津波15メートル」で爆発したとなると、私たちの安全の考え方に基本的な誤りがあったことを示しています。「固有安全、多重防御」が意味をなさなかったのですから、私たちは「基本的に考え直す」ことを表明する必要があります。6.当面、私たちの失敗によって国民に迷惑をかけたのですが、節電に協力していただき、できるだけ早く、もっとも技術的に完成している化石燃料の火力発電を早期に稼働できるように努力することが大切です。これがせめてもの国民に対する贖罪の一つです。7.もう一つ、福島を中心として苦しんでいる人に、4500億円の原子力予算、カンパ、労働奉仕、被曝測定・・・なんでも良いですから、ご迷惑をおかけした人の生活の回復に原子力に関係した技術者全員で努力したいと思います。・・・・・・・・・政治が技術に命令する事があります。でも、それによって技術者の魂が奪われるわけではありません。政治が「被曝限度は1年20ミリ」と言っても、私たち技術者がこれまで「被曝限度1年1ミリ」と決めてきたのです。さらに原子炉の設計に当たっては「1万年から10万年に一度の事故に限って臨時に1年5ミリまで認める」という設計基準で審査をしてきました。今回の事故は日本で原子力を始めて40年ほどで起こった事故ですから、その意味では100年に一度。もし地震の規模という点で1000年に一度でも、1年1ミリを超える事はありません。自分たちで決めたことには責任を持ちたいと思います。日本は科学技術立国であり、技術は単に学問的なものだけではなく、今後も社会に貢献する安全な技術を提供していく必要があります。その最も大切なのは技術者の魂、技術者の倫理であることは間違いありません。(平成24年8月4日)武田邦彦
2012.08.05
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・8、3、金 先日書いた日記と偶然一致する内容の記事が掲載された。 その通りだ、これから毎年電力会社に脅され続けなければならない。 我々国民が心がけるべきことは~ 決して節電を心がけない。 脅しだけの計画停電を恐れない。 節電しないことに良心の呵責を感じない。 東京で行なわれたデモの要求項目に、新設の火力発電所の建設要求を加えなくてはならない。 まあしかし周りの人々を見ていると、流行に乗って節電している人はいないようだ。 皆暑さを我慢してクーラーを止めたり緩めたりする気は元々なく「皆で節電しなくちゃね」なんてセリフも聞いたことがない。 しかしこれが電気代の大幅な値上げとなると空事ではなくなる。 値上げされた関東の人々はどのように暮らしているのか、商店や企業の悲鳴はあれから報道されない。 政府が国民側に立ってさえくれれば、クーラーなしでは暮らせないこの国で皆もっと 当然の権利を持って電気を使えるものを。 確かに原爆が大きなネックとなっている。 一体どうしてそこまで原爆が今すぐ必要なのだろう。 ーーーーーー 熱中症を人質に取る作戦を続けるなら、来年は犯罪に 福島原発事故が起こった2011年の夏に続いて、今年も夏になると電力会社の経営 の失敗(原発問題)の尻ぬぐいを国民に強いている。このブログに書いたように、日 、電力会社がサボって1億8000万キロワットしか生産していなかったことに起因 している。 これから毎年、夏になると電力会社の経営失敗の尻ぬぐいをさせられるのはかなわな い。政府は完全に電力側に立っていて国民には電力の召使いの役割を強いている。N HKは電力会社側にたって「なぜ、節電しなければならないのか?」にはいっさい触 れず、「節電しない国民は非国民だ」というような勢いで節電を宣伝している. 節電して国民の活動量を減らすならまずNHKが「節NHK」、「断NHK」を実施して欲し い。それなら誤報が少なくなるし、受信料が減るので国民は大喜びだ。 ところで、原子力を後退させるためには、火力発電所の復旧、増設、自家発電の強化 を最優先しなければならない。私は石油、石炭、天然ガスは当面、無くならないとの 見解だが、もし500年後になくなるという考えを採用しても、原発が使えなくなった 今、それに変わるのは技術が確立している石油石炭天然ガスが妥当であるのは、異論 もないだろう。 しかし、現実には「電気が足りないから毎年我慢することになる」という脅しのもと で「時間のかかる自然エネルギーに税金を投入するか、原発を再開するか」という「 悪い方向」だけを選択させようとしている。それが先日、中部電力課長の驚くべき発 言になった「エネルギーの選択肢」の議論である。 資源が豊富にあり、世界が例外なく火力発電の増強に進んでいる中、そのデータを報 道せずに日本だけを別の方向に進ませようとしている.私も講演していると、多くの 国民がこれまでの報道によって「資源はなくなる」と錯覚していることがよくわかる . また、「当面は資源があるのではないか」と考えている人も、「化石燃料では電気代 が高くなるから」と心配している。原子力発電の売上高は1年に5兆円、それに税金50 00億円を投入していた。これを当面、電力会社は原発の運転を止め、経営失敗の責任 をとって新規火力発電については収益を期待しないとする。 その他の火力発電での収益は3分の2をしめるから、電力会社の経営責任を「3分の1の 収益減少」とすることを意味する.これほど日本を混乱させたのだから納得性がある だろう。 原発の廃炉、核廃棄物の処理、格納にこれまで原子力の開発などに使用していた税金 5000億円を投じ、青森の再処理工場の運転を停止すれば、原発の停止に関して余分な 出費はない.青森の再処理工場は原爆を作るためで、放射性物質で汚染されたものは 2.6倍になるのだから、処理をしない方が格納する使用済み核燃料は減少する. 仮に国民が核兵器の保持を希望した場合、軍事費で支出するべきであり、電力費を核 兵器に流用するのは、どのぐらいの経費が国防にかかっているか、歯止めができるか などで困難を生じるからだ。 原発の処理を現在の税金の範囲でできるので、コスト面での火力発電の増設は「通常 の電力会社の増設計画」でできる。つまり電気代のアップはないということだ。 ・・・・・・・・・ すでに2011年4月の東京電力の計画停電の時には約2000万キロワットの電力生産量の 隠蔽があった。2012年夏の関西電力の電力生産計画にもインチキが見つかっている. なんとしても原発を動かしたい電力が全力で偽装している. そのために「電気が足りない」と国民を恐喝しているのが現状である.熱中症で倒れ た人の補償は電力会社とNHKがしなければならない。というのは、事故直後から火 力発電の増設に努力していれば、来年ぐらいから電力不足はなくなるからである. どの製造業も、「供給責任」というものがある。国民が欲しい物は計画的に、事故を 起こさないように工場を動かして、供給しなければならない。地域独占の電力会社は さらに競争がないのだから、現在の1億8000万キロワットではなく、3億4000万キロワ ットまで増設するのが当面の急務だ. 日本政府は、お金をもらっているからかどうかは不明だが、本来、国民に向かって「 電気は充分に供給できますから、快適な夏を過ごしてください」と呼び掛け、その一 方で電力会社には「はやく火力を作れ.供給責任を果たせないなら地方独占権を剥奪 する」と言うのが筋だ。政府は国民を向いていない. このままでは国民は「電力会社の故意の怠惰によって、毎年脅迫を受ける」という状 態になるので、公正取引委員会は警告を発し、検察は犯罪になるかどうかを検討すべ きである. (平成24年7月26日) 武田邦彦
2012.08.03
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・8、2、木 今ちょうど芥川龍之介の「偸盗」という話を読み終わったところだ。 名作だと思わせた。 こんな話は他の誰にも書く事ができないだろう。 おそらく女性なら読みきられないほど気持ちの悪い話だが、時代背景と滅び行く京都の悲しさと哀愁の中で、何時時代も変わらない人の情が描かれる。 さてここで僕の強い興味を引くのが、僕の故郷である京都がここまで衰退し滅び行く末路を辿ったことがあったのかという驚き。 町中に疫病が蔓延し、ひとけのない麹に漂う死臭とふらふら通りを行く乞食。 家々はしーんと静まりかえり、家の中では疫病や餓死で死んだ人々がそのままに放置されているのだろう。 知られているように、この疫病を抑えるために祇園祭が出来たらしい。 度々芥川の小説で舞台になるこの場所(朱雀門と羅生門があった場所)と時代はいつのことなのか? 「朱雀大路」とは今の京都のどこを指しているのか? しかし町が衰退し滅び行くというのはこういうものなのかと思わせる。 治安を取り締まる者もいないので、盗賊は我が物顔で屋敷に押し入り、殺人もお咎めなし。 住宅街には夥しい野犬がうろうろして、通りの脇に転がっている疫病にやられた腐乱した死体を貪り食っている。 調べてみると、疫病が流行ったのは平安時代の半ばぐらいで、西暦860年代に悪霊に呪われたとして、京都の町から霊を追い払うために祇園祭が始まった(それから計算すると、祇園祭は1200年ほどの歴史を持つ怖ろしく古い祭りということになる)。 疫病は当時の下水の悪状況からコレラ、チフス赤痢などが蔓延した物と資料にある。 下水? 確かにヨーロッパで蔓延したチフスは下水の鼠から出たと言われているが、平安時代の京都に下水があったのだろうか? 当時日本では内乱ばかりが起こり、勢力争いの結果天皇が権力を著しくなくした時代があったようだ。 そのため飢饉が起こり、人が多く住み寄っていた京都に疫病が蔓延し町が滅んで行ったたとは想像できる。 しかし芥川のこれらの話が、実際どの辺の時代を舞台にしているかは不明である。
2012.08.02
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・8、1、水 僕が常々疑問に思っているのが、企業内での学歴による給料の格差、ポストの格差である。 こういったいわれのない格差が何故今なお公然と存在するのか理解できない。 大学に行くのが能力があるからで、大学に行かないのが能力がないからとは全く言えないし、有名大学を出ていても職場で全く役に立たない者もいれば、中卒でも優れた能力を備えた者もたくさん居る。 医学部や歯科大学に親が何千万積んで裏から入学する者もいれば、貧しさ上に早くから働かざるを得ない境遇に生まれ落ちる者もいる。 そしてその両者が同じ職場で働くことになった時、入社した時からすでに給料に差があり、どれだけ誠心誠意働いて成果を上げても、学歴のある者とポストに差が出る。 こんな環境の中で人のやる気が育つ訳がない。 この国の能力が衰退して行く原因の一つがここにもあると思われる。 なぜなら【試験の点数が良いものが、すべてにおいて能力が高いとは全く言えない】のだから。 また格差をつけられている方も「我々は学歴が低い訳だから仕方がない、それが社会というもので、そんなシステムに文句を言っても始まらない」と半ば納得していいるのではないか。 皆が全員そう思っていても、僕はどうしても納得できない。 人が同じだけ働いて、同じだけの施しを受けられないのはどう考えても間違っている。 仕事内容の違いは別にして、性別によっての給料の差も同様である。 もちろん低い賃金の者が生活に余裕のあるだけの年収を受けていれば別だが、家族を養うどころか、自分一人が生活するのもやっとという者であれば、不況をいいことに人の弱みに付け込んだ横暴な雇用ではないのか。 学歴や性別は関係なく、本当に能力を備えた者が責任ある役職について会社を引っ張り、それに似合う報酬を手にする。 そういう社会が実現すれば日本はこの衰退から脱出できるかもしれないし、経済大国を諦めても、皆が喜びも苦しみも共有できる楽しい国が実現できるかもしれない。
2012.08.01
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