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・9、29、土 先日朝の4チャンネル報道番組を見ていると、この福島市の「まるごと博」なるもののPRを行っていた。 司会者とコメンテーターがまた口を揃えて「福島の風評被害を吹き飛ばしたいものです!」と大声語っていた。 僕は「やれやれ、またとんでもないイベントを計画して、一体本当の目的は何だろう」と首をゆっくり横に振った。 何度も言うが、本来福島県と一部の周辺都市には、100年人は住めないのだ。 柵を作って鍵を掛けて、誰も入らないようにせねばならないのだ。 まあただ70歳以上の人はおそらく人体への影響はないのだろう。 どうしても住みたければ、70歳以上の人だけで暮らすことは可能だ。 ただ子供たちや若い人たちを呼び寄せるような博覧会など企画することは、悪魔のすることだ。 どうせそこで汚染された野菜や米や魚を腹一杯食べさせられるのだろう。 こんな博覧会に決して近づいてはならない。 福島の大人たちは、こんな場所に子供たちを住まわせているのだ。 これを言うと攻撃に合うだろうが、大人たちは仕事を失いたくない、親を見捨てたくないというような理由で子供たちを見捨てている。 皆子供を連れて遠くの土地に移り住み、そこで何とか仕事を手に入れて根付いて行く努力をするしかなかったのだ。 年配者が「私はここを離れたくない」と言えば、若いものはその親を見捨てて出て行けない。 年配者の理解と協力も必要だ。 言うまでもなくそれは余りにも難しいことだ。 しかし事故直後遠くに逃げて暮らしている若い家族も多く存在する。 そのような人たちにこそ国は予算を使い「そんなに生活を保証してもらえるのなら、我々も子供を連れて逃げよう」という風潮にならなければならないのだ。 もしくはそこには僕が知らない大きな問題があるのだろうか? いや、そうでなければならないはずだ。 東電はそれほど大変な事故を起こしたのだ。 放射能物質に色と臭いがあればなあと思う。 目の前が黄色く煙、硫黄のような臭いが漂っていたら皆ようやく注意するのではないだろうか。 ーーーーーーーー 緊急呼びかけ!! 福島市の「まるごと博」の自重を求む (緊急で録音が間に合いませんでしたが、読者の方が音読をしていただきました。あ りがとうございました。音声は以下にあります。) http://youtu.be/HCkyy_ieGKU 2012年9月27日の読売新聞に福島市が行う「まるごと博」の記事が大きく出ていまし た。「福島原発事故の風評被害を吹き飛ばすため」とありましたが、読売新聞には記 事の訂正を、福島市には中止を、福島市民には不参加を呼び掛けます。 まず第一に被曝は危険です。本格的な病気に発展するかは別にして、普通なら100人 に1人の甲状腺異常が、福島の女子小学生で54人、女子中学生で55人です。チェルノ ブイリでは26年経っても甲状腺ガンが増えていることを考えると、お子さんを持つお 母さんのご心配はいかばかりでしょう。このような人たちを増やそうとしているので す。 福島市を汚染したのは東電であり、福島市の人ではありません。このままこのような ことをすると福島市民が加害者になります。放射線障害が出る可能性が高く、そうす ると福島市の人は傷害罪と同じです。 すでに法令で「被曝をできるだけ少なくすること」となっていて、それを社会人が知 らないとは言えません。法令は「お上」が決めるのではなく、国民(福島市の人、日 本国民)の合意です。つまり、福島の「まるごと博」に福島市民が参加したら、国民 の合意を破り、病気の人がでたら福島市民が加害者になります。 「まるごと博」の会場前でデモをしてピケを張ってください。自分が被曝を避けられ ないから、他人を被曝させるというのは日本人の気持ちではありません。 ・・・・・・・・・ 第二に、風評被害ではありません。法令では一般人の被曝限度は1年1ミリであり、福 島市ではそれを超えます。福島市の人がそこにお住みになるかは個人のご判断ですが 、それを「風評被害」と称して他人を呼び入れるのは、違法であり、善良な市民がす るべき事ではありません。 日本国民を被曝させて生活を守るのではなく、東電と国に保障を求めるべきです。自 分が交通事故にあったから、他人を車ではねても良いということはありません。交通 事故の被害が大きくても、あくまで補償を求めるべきであり、「俺は傷ついたのだか ら、他人を傷つける」というのは善良な日本人がすることではありません。 福島市の皆さん! 苦しいことは分かるつもりですし、除染もできるだけ早くやって 綺麗な福島を取り戻すために私も全力を挙げます。でも、被曝者を増やすことは賛成 できません。 是非、中止してください。原子力関係者、お医者さん、教育関係者、公務員の皆さん 、協力してください。健康を守り、法令を守ること、それはとても大切なことです。 他人を法令違反の範囲に呼び込んでお金を儲けても何もなりません。辛い反省の一生 が残るだけです。 私もこんなことを呼び掛けると、非難されますが、被曝して傷つく子供達の痛みを思 うと、私などなんでもありません。法令を守る人をバッシングする人など、軽蔑する ばかりです。一致団結して、子供を守りましょう!! (平成24年9月28日) 武田邦彦
2012.09.29
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・9、28、金 我々はもちろん告白をする場所など容易に持たずに生きる。 それどころかどうやって自分を繕い、他人の目を眩まして良い人に着手できるかを大事とする。 だが告白は懺悔ではない。 芸術と呼ばれるものと向き合うためには、告白なしにはそれを成り立ちせしめることはないだろう。 いわんや芸術などと無関係であろうとも、告白のない生活は精神の荒みを引き起こす原因ではあるまいか。 このところ現在活動する詩人たちの詩集に目を通す機会があった。 どれもこれも文章を書く技術という点では感服した。 難しい単語をたくさん知っていて、ちょっと思いつけない表現を用いて、美しく、または斬新な描写を描いていた。 僕にはとても真似できない高い技術である。 それらの詩集を読んだ後、萩原朔太郎の詩集に手を付けてみた。 難しい言葉や単語は一切使われておらず、表面に現れるこれ見よがしの技術もなりにも関わらず何処か体の奥の方に染みとおった。 彼は詩人になろうなどと思っていないように感ぜられる。 いわゆるそれは告白であり、叫びであった。 ある友人が言った。 「明治の文豪たちは多くが発狂し、その中で文章を綴った。 今は薬があるのでそうはならない。 だから天才がいないのだ」と。 例え文豪でない我々とて、告白のない生活に精神的な健康はない。 告白には客体が必要であり、客体を獲得するには自己の何某かが問われるだろう。 また客体は人物であるとは限らない。 僕の経験上、人物をその対象にするのは間違いだ。 罵られて、真っ裸の肌に容赦なく刃物を当てられるが落ちだ。 だから文章に対して告白し、音楽に対して告白して暮らさなければ生きられない種類の者がいる。 丸ごと告白出来うる者が、畢竟芸術家なのであろう。 しかしこれはたやすいことではない。 ーーーーーーー [告白] 完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せ ずには如何なる表現も出来るものではない。 ルッソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔録の中にも発見出 来ない。メリメは告白を嫌った人である。しかし「コロンバ」は隠約の間に彼自身を 語ってはいないであろうか? 所詮告白文学とその他の文学との境界線は見かけほど はっきりはしていないのである。 芥川龍之介
2012.09.28
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・9、24、月 人々は自分の生活の中で不満足が募ると、しょぼんとするのではなく、攻撃的になり他人にやつ当たりすることがはっきり分かって来た。 介護苦や労働苦は置いて、収入にまつわるストレスに着目すれば、自分が娯楽に対して生活費が著しく足りないと少しずつ攻撃的になり、貧困と言えるまでに落ち込むと暴力や殺人にまでエスカレートすることもあるのではないだろうか。 明治時代を見ていると、富裕層、一般中間層、そして教育を受けることも困難な貧困層にはっきり分かれているようである。 もちろん余裕のある富裕層は、貧困層の人たちを何とかしようなどとは決して思わない。 無教育、下品、不潔と大変軽蔑して掛かっている。 余談になるが、貧困層の人たちは教育を受けられない訳だから知識を蓄えることも出来ない訳で、無教育、無礼で当たり前なのだが、実は才能と能力に溢れた人たちが多くさんいたようである。 もしその能力の根を摘まず国の発展に役立てることができるリーダーがいれば、もっと経済、文化に大きな飛躍があったかもしれない。 話を元に戻すと、これから現代の日本もどんどんそのように生活格差の広がりがはっきりして、その分フラストレーションを何処かで爆発させないと生きられない精神状態になる人たちが増えることになるだろう。 日本大使館の前でデモを行う中国人も、まずそのような個人的なフラストレーションであろう。 彼らの本当の敵は中国政府であり、そのことをよく知っている中国政府は、彼らのガス抜きに反日を利用しただけなのだろう。 それはそうと、武田氏のたばこの問題へのこだわりだが、これは何か明らかにすることを許されない問題が隠れているように思えて来た。 武田氏がいつも言う「人間は働いて遊ぶものだから、個人が気を抜いて遊ぶ部分を他人が搾取することは間違いである」ということだろう。 だが、飲酒が交通事故や暴力に繋がることもあるが、加えて火を付けた時点でもれなく他人に不快を与え、迷惑を掛けるたばこ。 この二つを同様に考えることはできないはずだ。 何度でも言うが、べつに喫煙者にたばこをやめろとは言わない、ただ人に迷惑を掛けずに吸うことを義務として欲しいだけだ。 しかしここで武田氏が「たばこ追放は間違っている」と言い続けるのには、別の理由があるのではと思えて来た。 これはまた僕の突拍子もない憶測となる訳だが、プルトニウムとの関係である。 黄砂に含まれるプルトニウムを皆で吸って生活しているとする。 プルトニウムは肺癌の大きな原因である。 しかし政府は何かの事情でそれを黄砂のせいと認めると大変やっかいなことになるため、たばこに責任をすべてなすり付けて「たばこはそこまで肺癌の原因だから、是非追放せねばならない」と焚き付けて、またそのために予算を掠め取ることをしている。 日本からたばこがなくならないことは初めから知っているのだ。 しかし武田氏はこれまた何かの事情で、この事実をはっきり述べることができない。 でもプルトニウムの警告と、予算略奪の憤りを黙っていられない。 だから堂々巡りのたばこ問題を定期的に引っ張り出す。 さて僕の憶測はいかがだろう。 同じ住宅街に大阪府大の先生がおられて、バス停で何度か話したことがある。 彼は黄砂を専門に研究している科学者であるとのことで、幾つかの質問をしてみた。 「中国からの黄砂は工場地帯の上を飛んで来るため多くの化学物質を含んで我々の肺に納まると聞きましたが、本当ですか?」「はいその通りです」「では工場のスモッグを含まず、ただの砂であれば常用的に吸ったとしても問題はない訳ですね?」「いや、それがそうではないのです」「と言いますと?」と続けて質問したが、彼はそれ以上何も答えず、会話の内容を転換してしまった。 ああ、言えないことがあるのだなと感じて、背筋が冷たくなったことを覚えている。 そんなことがあって、僕は常々黄砂を非常に恐れている。 もしそれがたばこに絡んで思惑として論じられているとすれば。 ーーーーーー 健康談話室(1)談話の目的、其の一 「tabaccodanwa01tdyno.236-(9:10).mp3」をダウンロード 「豊かな生活」というのは、ゆったりした家、快適な空間、美味しいご飯、笑いの絶 えない家族、信頼できる友人・・・などを言うのでしょう。そしてその中に、「ゆっ たりした時間」を持つための小道具も必要です。 ほどほどのお酒、香り豊かなコーヒー、紫煙の中の瞑想、湯煙に沈む温泉、そして数 人の女性ならケーキと紅茶も小道具かも知れません。 戦後復興、高度成長を経て、私たちが目指したものは、長寿や健康でもありましたし 、毎日の生活の豊かさ、潤いでもあったと思います。でも、それは実現しているでし ょうか? まず、第一に「先立つもの」が減ってきました。日本人の平均年間所得はこの15年で 460万円から400万円へと大きく減り、さらに年俸10億円を超える経営者も多数出現し て、かつてのように「みんな日本人、みんな同じ」ということからギスギスした毎日 に変わりつつあります。 節約が必要かなどといっても、節約自身をすることもできない人が多いように感じら れますし、まして「家族で旅行」などは遠のいていくばかりです。私たちはなにを夢 見て必死にやってきたのでしょうか? ・・・・・・・・・ その中で、欲求不満がそのはけ口を目指すように、「目を三角にして、他人を非難す る」という方向に走っていますが、あまり感心したことではありません。世の中が成 熟するとともに、私たちは常に穏やかに、ユーモアをもって他人と接することも必要 でしょう。 このような小道具の中に、「タバコ」や「ケーキ」、時には「塩辛い干し魚」はあっ てはいけないのか?私の疑問はそこにあります。もちろん、マナーというのはいつで も大切で、お酒を飲んで暴れたり、人に暴言を吐いたり、女性をからかったり、はて は酔っ払い運転をすることは社会的にも禁じられ、人間としても感心しません。 でも、だから「お酒を飲む人にたいして目を三角にして追放する」というのはどうで しょうか? やはり成熟している社会こそ、お互いの自由を認め、他人を尊重し、公 衆道徳を守るものではないかと思うからです。 ・・・・・・・・・ 「クールビズ」というのが世に出てきてからというもの、暑がりの私はネクタイを締 め背広を着て、汗だくで町を歩いています。私から見ると「クールビズ」というのは 実に野蛮な風習だと思うからです。 第一に服装という個人の問題に政府が口を出すこと、第二に「政府に言ったもらった からネクタイがとれて良かった」などと言う人がいること、第三に「クールビズ」と いう新しい単語を考案し、流通させるのに政府が60億円以上の税金を払った、という ことがとてもイヤなのです。 これこそ「野蛮」を絵に描いたように思います。ときどき、北朝鮮の人が同じような 服装をしているのをみて、「ああ、まだ自由がないのだな」と思う日本人が多いので すが、ネクタイ一つ、自分の意思で決められない社会は日本の方なのです。 ・・・・・・・・・ タバコを追放しようとしている人は何が目的なのでしょうか? まさか、他人の健康 を気遣ってということは無いと思います。医師なら具体的な患者さんを目の前にして いますから、「タバコを止めた方が」と思うのも理解できますが、患者さんを持たな い一般の人がなぜタバコを追放しようとしているのか、他人の健康がそれほどきにな るのか、その理由は何なのでしょうか? この問いを何度も考えていると、どうも自分のストレスを「タバコ追放」という形で 解消しようとしているように見えます。たとえば私は自分でやりたいことがあり、他 人は他人でご判断されていると思っているので、他人がタバコを吸っていても気にな りません。たまに「煙たい」時にはやや気になりますからそっと座を外すということ はあっても、その人が一人、静かにタバコを吸うのに文句を言うような気分にはなり ません。 ・・・・・・・・・ 健康問題も同じです。雇用関係が不安定で60才をすぎて自分の満足する仕事をしてい る人はそれほど多くはありません。確かに長寿であることは大切ですが、定年後、何 もせず、塩気の少ない食事を強制され、血圧降下剤を飲み、コレステロールを減らし て気分が落ち込む生活を続けるのが「人生のクオリティー」でもないと思います。 引退して5年というなら、悠々自適な生活もまたおつなものですが、それが20年にな ると、社会の歪みでもあります。仕事がなく20年を過ごすのは残酷な事とも言えるか らです。 生活、嗜好品、タバコ、健康について私たちは根本的な問いを発したことはあるでし ょうか? 文化人の一部は余裕のある生活の中であるいは議論があったでしょう。で も、日本人全体に及ぶような形で、この難しい問題が正面から問われたことはないと 私は思うのです。 このブログは、精神的な悩みを抱えた若い人を含めて、私たちはどのような人生を送 るのか、それにはタバコや健康という問題をどのように考えれば良いのかについて整 理を進めていきます。 (平成24年9月22日) 武田邦彦
2012.09.24
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・9、23、日 平井憲夫さんの記事に下記のような一節がある。 彼も述べているように、こういう話は言えば差別に繋がるが、言わなければ分からないことだ。 福島の子供たちにとうとう甲状腺癌が出て来たと聞いて、ただただ嘆息するしかない 。 それもこの検査は、たった100人を対象に行い見付かった発癌であり、実際にはもっともっと多くの子供たちにまもなく症状が出て来るものと思われる。 これから政府、医者、裁判所、マスコミが一丸となってこの事実を秘密裏に表ざたにならないように手を尽くすことだろう。 一人の子供の発症を発表して「とりあえず隠蔽はしていないぞ」ということなのか。 そして広島・長崎、大気圏内核実験、チェルノブイリの際のように、国民が気が付かないまま、興味を持たれないままで年月が過ぎ、通り過ぎるのを腹の中で手を合わせて祈るのだ。 彼らにとっての安心の種は、日本国民が「無関心」であることなのだ。 何かあれば彼ら国の指導者が手を組んで国民を騙す行動に出る国など、すでに国ではない。 「原発にある高い排気塔からは、放射能が出ています。出ているんではなくて、出しているんですが、二四時間放射能を出していますから、その周辺に住んでいる人たちは、一日中、放射能をあびて被曝しているのです。 ある女性から手紙が来ました。二三歳です。便箋に涙の跡がにじんでいました。「東京で就職して恋愛し、結婚が決まって、結納も交わしました。ところが突然相手から婚約を解消されてしまったのです。相手の人は、君には何にも悪い所はない、自分も一緒になりたいと思っている。でも、親たちから、あなたが福井県の敦賀で十数年間育っている。原発の周辺では白血病の子どもが生まれる確率が高いという。白血病の孫の顔はふびんで見たくない。だから結婚するのはやめてくれ、といわれたからと。 私が何か悪いことしましたか」と書いてありました。この娘さんに何の罪がありますか。こういう話が方々で起きています。 この話は原発現地の話ではない、東京で起きた話なんですよ、東京で。皆さんは、原発で働いていた男性と自分の娘とか、この女性のように、原発の近くで育った娘さんと自分の息子とかの結婚を心から喜べますか。若い人も、そういう人と恋愛するかも知れないですから、まったく人ごとではないんです。 こういう差別の話は、言えば差別になる。でも言わなければ分からないことなんです。原発に反対している人も、原発は事故や故障が怖いだけではない、こういうことが起きるから原発はいやなんだと言って欲しいと思います。原発は事故だけではなしに、人の心まで壊しているのですから。」 ーーーーーー 時事寸評 福島の子供の甲状腺ガンをどう考えるか? 「informedtdyno.237-(5:39).mp3」をダウンロード 福島の子供に甲状腺ガンが見つかり、また検査した子供の100人に36人が甲状腺 に異常が見つかり、多くの方が心配しています。これに対して福島の医者団は「チェ ルノブイリの時に小児甲状腺ガンの発祥は4年目からだから該当しない」とコメント しています。これをどのように考えるべきでしょうか? まず、かなりの被曝をしたのですから、子供の甲状腺の異常が見られ、ガンも発症す ると考えるのが「普通」で、「大丈夫だ」というような科学的な根拠はありません。 また、医師が「事故から1年半だから、甲状腺ガンの発症は考えられない」というか らにのは、次の事を説明しなければなりません。 1) チェルノブイリという1回だけの経験によると、明らかに事故の影響とみられ る甲状腺ガンは4年目からですが、その前から甲状腺ガンは見られています。 2) どの甲状腺ガンが被曝によるのかは分からないために、「被曝による甲状腺ガ ン」というのは、「統計的に被曝前から明らかに増えてきた時点」からのもので、そ の前の甲状腺ガンが被曝かどうかは分かっていないので、医師はウソをついたと考え られます。 3) いずれにしても被曝によって障害が出る可能性は否定できないので、できるだ け被曝を避けるようにしてください。 これでこそ医師です。 被曝によってガン、生殖異常、免疫疾患などがでることは確かで、それは個人差があ り、また統計的(誰にでるか分からないし、出ない人も多い)ということです。おお よそは「法規の基準以内なら交通事故より多くなり、法規の基準以上なら交通事故よ り危険になる」という感覚で良いと思います。 国際的、あるいは国内で「1年1ミリシーベルト」を決めるときには「もともと被曝 は有害だが、原発からの電気をもらうためには仕方が無いので、我慢する」という「 我慢の限界値」という考え方です。決して、無害とかそのような概念ではありません 。 ・・・・・・・・・ 今回のことで、お子さんを持つ親御さんは福島の方を含めて、「断固として子供の被 爆を減らす。できるだけのことをして何も起こらなかったら、それはそれで良いとす る」という信念をもってください。福島の人はあきらめているように見えますが、子 供は大人を信頼しています。 また、親御さんは今度のことを受けて、驚くことはなく、このようになる可能性があ ったことですから、そのまま注意を続けてください.注意をした親のお子さんはそれ だけ安全です。精神を強くもって頑張ってください。私たちができることはそれだけ です。 マスコミも「事故の2日目に自分たちは逃げて、福島の人には安全だと言った」とい う罪を償う機会ですから、事実を詳細に報じ、解説陣はどんどん被曝を避ける方法を 解説してください。日本の子供は日本の親が守るものです。 もう一つ、甲状腺に異常のある36%の子供達の検査は2年後ということになっていま すが、親御さんとしては心配です。1年後に検査をして欲しいと希望する子供は検査 すべきです。 「インフォームドコンセント」と言われて10年以上が経ちますが、病気に立ち向かう には医学だけではなく、患者さんと一体となった納得性も要ります。その点で、この 「2年後」と決めた医師は実に古いタイプというか、威張っている、患者さんを人間 と思っていないという感じです。 (平成24年9月12日) 武田邦彦
2012.09.23
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・9、22、土 デディケーションとして「頼まれたら無償でする」、「自分が辛いときに頼まれても、二つ返事でする」、「自分と関係ないことでも気持ちよくする」これは耳が痛い。 僕の場合は「頼まれたらまずギャラを尋ねる」「自分が辛い時には頼まれても期限や日程を無理やりにでも先送りしてもらう」「自分と関係のないことを頼まれても、相手に打算や思惑が見えたら即座に御免こうむる」という風で、他人とのいざこざや摩擦が絶えない。 「こちらはこちらの都合で生きているのだから、また他人に良い顔を見せることを目的に生きている訳でもないので、僕は僕でいいや」と済まして毎日を過ごしているが、なるほど考えてみれば、仏教の教えの通り他人に生かしてもらっている。 駅でも公民館でもレストランでも、トイレに入ってそこがいつも綺麗であるのが当たり前だと思っている。 家から仕事場まで毎日移動できるのは、自分の足で歩いて乗り物に乗っているからだと勘違いしている。 店に入って注文したら目の前に食事が出て来るのは、お金を払っているから当然だと思っている。 他人との関わりを、お金の払ったり貰ったりなしに考えられなくなってしまっているのが資本主義社会の子だ。 決してテイクを望まず、ギブできることができなくなってしまっている。 かと言って、いやみばかり言う知人や、策略ばかり企てる趣味の輩に感謝やテイクを望まぬギブなど、到底実行できそうにない。 喜寿を迎えるころまでには、何とか自分をそんな境地までに導きたいものである。 「喜寿を迎えるころまでには」というような未来に頼った考えでいる限り、若輩者の弱さはこの世への興味を完全に失眼する時まで手放すことは出来ないであろう。 ーーーーーーー 人生講座(8) デディケーション 「dedicationtdyno.247-(8:23).mp3」をダウンロード また学生のころの話をしますが、若いので何かが起こるとすぐ激高したり、ガックリ したり、まだ心が落ち着かないのです。時々、学生が「みんなと一緒にやるのはイヤ だ!」とだだをこねることがあります。特に工学系の学生は口が重く、人とうまくや っていくことができません。 そんなとき、私は学生に次のように言うことがあります。 私 「そうだな。人とのつきあいってややこしいから、人のいない山の奥でも行った らどうだ。人もいないから気楽だぞ」 学生「それはそうですけれど・・・」 私 「でも、ずっと一人じゃ、少し寂しいだろうね」 学生「ええ、友達も家族もいないのでは、ちょっと・・・」 私 「それに病気をしても救急車は来ないし、歳を取ってもそのままのたれ死にだか ら、結構辛いものがあるね」 学生は考え込み「そうだな。やはり一人じゃダメかも知れない」と思い直すのです。 「正しければ3年」の時も同じですが、学生はこんな経験をしながら、対人関係でも 我慢が出来るようになり、少しずつ成長していくものです。 ・・・・・・・・・ 私の研究生(工学部では大学4年生と大学院生)は「耳たこ」になるぐらい「デディ ケーション」という単語を聞かされます。日本語に訳すと「献身」と訳されますが、 すこしニュアンスが違うので今のところ、英語のまま使っています。 人間は何かをするときに「お金をもらう」とか「報酬がある」ということが前提にな っていることがあります。でも私は「お金をもらう」とか「報酬がある」と言うこと をあまり問題にせずに、行動します。その理由は、学生との対話の中にあるように、 「自分が生きているということはすでに報酬をいただいている」からです。 ●一人でいると寂しい・・・ということは周囲に人がいるから自分は楽しく生きてい るわけで、その恩を返さなければなりません。 ●病気になったら救急車が来る・・・ということは、周囲に人がいるから自分が病気 になっても助かるし、老いてものたれ死にしなくてよいのです。 ●食堂にいったらご飯を食べることができる・・・自分ではない誰かが作物を育て漁 をし、料理までしてくれるから。 ●トイレが綺麗だった・・・夏休みでしばらく掃除をしないトイレは汚くて入ること もできません。トイレを使う人が一人一人、乱暴な使い方をしなくてもトイレを掃除 してくれる人がいないと自分は快適にトイレを使うこともできないのです。 ということは、「自分はなにもしないのに、すでに多くの人からいろいろなことをし てもらっている」ということですから、まずはその分を返さなければなりません。た とえば、1日1時間は「寂しさを救ってもらっている分」働く、1日1時間は「病気 になったり老後になったりしたら助けてもらう分」働く、1日1時間は「ご飯を食べ させてくれるから」、1日1時間は「トイレを綺麗に使えるから」、1日1時間は「 道路を歩けるから」 ・・・とすると、1日4時間ぐらいは「無償で働く」ということをしないと、回りの 多くの人が自分にしてくれていることの恩を返すことができません。 そこで、「頼まれたら無償でする」、「自分が辛いときに頼まれても、二つ返事です る」、「自分と関係ないことでも気持ちよくする」ということが第一と考えるように なりました。それからしばらくして私は「いざというときの武田」と呼ばれるように なったのです。 たとえば一週間ぐらい前に大きなイベントの委員長などを頼んでくることがありまし た。「ああ、誰かに断られたか、都合が悪くなったのだな」と思うのですが、すぐ「 はい」と引きうけます。 ・・・・・・・・・ もう一つ、デディケーションにはなりませんが、”give and take”(ギブ・アンド ・テイク)というのもあります。英語の順序がgiveから始まっている理由をハッキリ は知らないのですが、私は「まずギブ(与える)」、そして「テイク(もらう)」と いう順序が良いとも学生に言います。普段から協力して上げていれば、いつの日かそ れが帰ってくるものだというおとです。 でも主力はデディケーションなので、テイクを期待せずにギブするということです。 夕刻、私がある学生を呼んで、これを明日までにやってくれないか?と言います。学 生は自分に余り関係がないので、最初はブスッとした顔をしますが、そのうち、「は い」と言うようになります。そうなれば私は学問的な指導だけをすれば学生は自分で 伸びるようになります。 自分が成長し、人が幸せになるというのにもっとも良いのが「無償の行為(デディケ ーション)」、次に「ギブ・アンド・テイク」であることがわかります。「情けは人 のためならず」という諺は、「情けがそれを受ける人のためにならない」という意味 ではなく、人に情けをかけることはやがて自分に返ってくるという意味ですから、こ れもデディケーションでしょう。 ・・・・・・・・・ さてデディケーションというのを何とか日本語でと思うのですが、「人に対する献身 」、「ものに忠実に専念する」というニュアンスの単語が見つからず、今もってデデ ィケーションという英語を使っています。私は英語が専門ではないのですが、「バス ケットボールにデディケーションする」という文章は成立するように思うのです(ded icate to)。この場合はやや「夢中になる」、「入れ込む」、「こだわる」というよ うな意味を含んでいるように思うからです。 人生はデディケーションである。デディケーションをしていて飢え死ぬことはないし 、万が一、飢え死んでも後悔はしないと思ってきた毎日でした。 (平成24年9月11日) 武田邦彦
2012.09.22
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・9、21、金日曜日夜11時からNHKで毎週放映されている、韓国の大河ドラマである「イ・サン」を欠かさず観ている。そのせいか韓国の辿って来た歴史に興味がある。特別勉強した訳ではないのだが、イ・サンの時代のように厳然と王宮が政治を司っていた時から、国力が著しく弱まり、周りの国々に何度も攻められ、長い時代他国の属国として辛酸を嘗めてきたその理由を勉強する必要があると思う。詳しい人に尋ねると、国内でずっと内乱が続いたため王の力が弱まり、そのせいで経済的にも弱くなって行ったという。これは要するに王の政がうまくなかったせいでもあるが、イ・サンを見ていてもそれは一筋縄では行かない大変な苦労だ。王を引き摺り下ろし、利権を我が物にしようとする派閥の戦乱の世界だ。これは平安時代の京都も同じ理由で政治の衰退した状況であったようだ。武田氏の記事によると、1910年に日本に併合されたことによって韓国国民は幸せになったとあるが、実際はどうなのだろう。以下は僕の乏しい知識から僕なりに理解している韓国と日本の庶民通しの関係である。一旦併合を認めた当時の韓国王は、さて書類に判を押す段になって、急に「押すのはいやだ」と言い出したらしい。すると日本の何とかいう大将が鞘から日本刀を抜いて、その中で伊藤博文が王の手を取って無理やり判を押したという。その後韓国の農民が田畑を耕していると、日本の役人がやって来て「韓国の土地はすべて日本の所有となった。ここで農業を営む以上、税を納めてもらう」と伝え、手続きを拒むものからは土地を没収したという。没収された人々は食べていく術を失い、仕方なく小さな船に乗って日本に逃げて来た。また韓国には当時仕事をすることも許されない立場の人々がたくさん存在した。信じられないほどの貧困に追いやられ、併合と同時に彼らも日本に逃げた。日本に来ても過酷な差別に苦しんだが、韓国での苦しみよりはましであったようだ。そして皆至る所で身を寄せ合って細々と暮らした。大阪では当時から生活の糧を確立して行った人々が住み、そこにまた多くの脱国者が身を寄せてコリアタウンのようなものが出来て行った。そして現代彼らは日本で成功を収め、町々を発展させた大きな一端を担っている。これは僕の個人的な感想であるが、軋轢の中で耐えてきた彼らは、実はあらゆる能力を備えた人種であると。商売、芸術、演芸、スポーツなど。今の韓国国民は、彼らに対して嫉妬のような感情を持っている部分があるのではないだろうか。在日の友人がいつも語ることに「私たちは日本人でもない、そして韓国人からも批難されている。どこにも所属できない根無し草のように思えることがあるのです」と。日本人と在日の人たちは、共にこの国を発展させて来たと言える。なに人でもいいから、ここに住むもので、この場所を我々にとって住み良い、誇りの持てるところにして行くべきだと思うのだが。ーーーーーーー尖閣・竹島・四島・・・領土と国(4) 朝鮮「takeshima1tdyno.248-(8:23).mp3」をダウンロード竹島の問題は尖閣諸島とは趣が異なります。それは、「歴史的に見て、日本は中国に比べて、朝鮮にそれほど悪いことはしていないのに、なぜ、朝鮮人は中国人を嫌わずに、日本を嫌うのか? それは本当の姿か?」ということが鍵と思います。というのは、日本との関係ができるまで、朝鮮は中国の属国の歴史が長かったですし、元の時などはそれこそ大変でした。そして19世紀の終わりには帝国主義時代で、「清、ロシア、日本」のいずれかに併合されるという状態でした。1910年に日本が韓国を併合してから朝鮮は発展し、多くの朝鮮人が幸福になりました。だから普通には正しい道筋でもあったのですが、でも日本に併合されたのだから、朝鮮の人にとっては不本意だったでしょう。このことを考えるには、朝鮮の難しい社会構造があります。朝鮮の支配層は「日本より中国に支配されるなら良い。ロシアでも良い」としていましたが、それはやや精錬潔癖を望む日本では貴族の地位が危うくなることでもあったからです。1910年の併合前後、当時の李朝朝鮮は中国の支配下にあって国は乱れていました。ヤンパンと呼ばれる上流階級が一般国民を農奴ように支配するという社会で、上流階級は清朝に隷属していました。その様子は女流旅行家:イザベラ・バードの手記に良くまとめられています。「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。?イザベラ・バード, 『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 fところで、当時は帝国主義時代ですから、国力が弱いので中国、ロシア、日本のいずれかの属国になるしか選択肢はなかったのですが、日本はイヤだったのです。日本の歴史書には「日本が入ってくると、階級制がなくなりヤンパンの特権が奪われるから」とありますが、それならヤンパン以外の朝鮮人はどうなのでしょうか? 私の回りの朝鮮の人はみんなシッカリした魂を持った人なのに、なぜこれほど日本を憎く思うのか、竹島の問題は「国際法」など以前に、私たちが「韓国人」という場合、それは支配層なのか、支配層の影響を受けている人か、それとも一般の人なのか、それを考えなければならないのです。くれぐれも注意がいるのは、「朝鮮人の支配層」が自分たちの利権を守るために日本人が来るのをいやがっていたという事実です。いまでも、もしかすると日本を憎んでいる人は韓国の一部でそれを誇大にマスコミが報道している可能性もあります。日本でも「選挙をすれば負ける」と言う民主党が政権をとっているぐらいですから、外から見たその国と内から見るのとは違うかも知れません。(平成24年9月16日)武田邦彦
2012.09.21
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・9、19、水 読者の方からあるサイトを紹介いただき、平井憲夫さんという方の記事を読んだ。 http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html#page1、 読んだ長文は、21まである項の一つ目である。 読み終わって僕はしばらく動けなかった。 少なからずのショックを受けたのだ。 彼は1級プラント配管技能士として、原発内の現場で長く働いて来られた方だ。 「1997年1月逝去」とある。 内容から、彼がこの膨大な告白文を書いたのは亡くなる一年前ということが分かる。 癌に侵されてから(もちろんそれは原発勤務の結果である)死を覚悟した中での作業であったのに違いない。 話の内容から推察すると、彼は49歳か50歳で亡くなっている。 「私は原発反対運動家ではありません。 二十年間、原子力発電所の現場で働いていた者です。原発については賛成だとか、危険だとか、安全だとかいろんな論争がありますが、私は「原発とはこういうものですよ」と、ほとんどの人が知らない原発の中のお話をします。そして、最後まで読んでいただくと、原発がみなさんが思っていらっしゃるようなものではなく、毎日、被曝者を生み、大変な差別をつくっているものでもあることがよく分かると思います」 という書き出しで綴っている。 設計者が原発の危険を訴える例はあるのだが、現場の作業員が本当の事情と悲惨な現場の嘘に対して重い口を開く例が皆無であると彼は言う。 机上と現場では大きなずれがある、机上で計算された安全は、現場では全く安全とは言えない事実を語る。 また、54機この国にある原発は、運転すれば空に向かって24時間放射能物質をばら撒く。 燃料棒を冷やした水は、恐ろしく高い放射能の値を含んだ熱湯となって、海に垂れ流される。 だから原発の周り半径100キロメートル内に住む人は一年中被曝するし、日本の周りぐるりと囲む海はすべて汚染されている。 例えすべての原発を止めても、核分裂し続ける使用済み核燃料は建物内に生き続けるし、処理する場所も方法もない。 原発を開始した時点で、すでに引導は渡されたということだ。 1997年の時点で、54機を80機に増やすと政府は言っていた訳で、2030年までに原発ゼロが突然閣議決定されないことになった今、当時の恐怖は再び始まったと言えよう。 そして平井さんの警告は押し流され、2011年3月に結果が出た。 この国は狂人によって何処かに導かれている。 我々が知らされていない、もしくは故意に騙されて間違った知識を植えつけられてい る現状に気付き、素人なりの勉強を始めなければならない。 平井さんの記事から、我々が身を寄せているこの船は明らかに破滅に向かっていることが分かるし、皆が知識を持つことがとても大事であることに気付く。 何度も言うが、国が我々の命を守ってくれるということは勘違いなのだ。 ーーーーー [武器] 正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われ るであろう。正義も理窟をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古 来「正義の敵」と云う名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれな ければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。 日本人の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。こ れは正義に反している。亜米利加は新聞紙の伝える通り、「正義の敵」と云わなけれ ばならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命 ぜられた。これも正義に反している。日本は新聞紙の伝える通り、――いや、日本は 二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなか ったらしい。 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も 恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。武后は人天を顧みず、冷然と正 義を蹂躙した。しかし李敬業の乱に当り、駱賓王の檄を読んだ時には色を失うことを 免れなかった。「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限 り、発し得ない名言だったからである。 わたしは歴史を翻えす度に、遊就館を想うことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗 い中にさまざまの正義が陳列してある。青竜刀に似ているのは儒教の教える正義であ ろう。騎士の槍に似ているのは基督教の教える正義であろう。此処に太い棍棒がある 。これは社会主義者の正義であろう。彼処に房のついた長剣がある。あれは国家主義 者の正義であろう。わたしはそう云う武器を見ながら、幾多の戦いを想像し、おのず から心悸の高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを 執りたいと思った記憶はない。 芥川龍之介
2012.09.19
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・9、16、日福島を中心にした地域の医師に「子供たちの甲状腺疾患が認められたとしても、カルテに書き込むべからず」という通達が出ているらしい。もちろんこれは医師会の上の方に、東電、政府から支払いがあったことを意味する。それに反発したまともな医師たちが、他府県に散り始めているらしい。このままでは、福島付近にまともな医師は皆無になるかもしれない。子供たちの健康はどうなるのだろう。知り合いが甲状腺の問題で病院に行った時、20代30代の女性患者の多さに驚いたと述べた。実際には40代にも甲状腺の問題は多く見られる。以前にも述べたが、10代のころの成長の最もダイナミックな時期に受ける被曝は、かなりの割合で症状に出るのだろうと思う。米ソにより1950年終わりから60年初めに掛けて頻繁に行われた大気圏内核実験。それは何千発に及ぶとか。63年に「部分的核実験禁止条約(大気圏内核実験の禁止)」によって規制される直前が最も激しかったという。このころ日本全域に降った死の灰は、今回の福島からのものよりも遥かに多いとも言われている。そのころ奇形の葉っぱや花が多く見られたと聞いた。このころ10代を迎えていた女性は今60代。その子供は30代か40代ということになる。1986年のチェルノブイリ原発事故による死の灰や、食べ物(パスタやパンに使用される小麦が特に危険)から受けた被曝。そのころ10代を迎えていた女性は、今40代。その子供は10代終わりか20代。このように、親が受けた被曝が子供に症状として出るということも大いに考えられる。合唱団の女性団員さんの中にも、驚くほど多くの方が甲状腺の問題を抱えておられる。今回の原発事故までは「女性というものは年を取って来ると甲状腺に異常が出て来るものなのだろう」とぐらい思っていたが「いやそうだろうか?これは人災であるとすれば?」と考えるようになった。そして性別、年齢に関係なく全体的に驚くべき増加を見せている癌発症率。これがそれらの被曝の影響でないとは言い切れないだろう。その上医療被曝もある。それらはすべてマスコミによって報道されず、政府によって隠蔽されて来た。それを見ると今回の医師への通達も、今に始まったことではないのだろう。原発の周りに住む人たちの発病状況や、子供たちの診察結果などはずっと隠されて来ている。これから見ると、今回の事故による被害や、現場で働く作業員の本当の状況もおそらくデータとしては上がって来ないのだ。「今度の事故で誰も死んでいないのだから、原発が危ないとは言えないんですよ」というような発言が堂々と飛び出すその自信もここから来る。ーーーーーーーお医者さんの信頼性を回復してください(これも緊急です)「tdyno.237-(6:35).mp3」をダウンロード脱法行為を続ける医師が多いので、日本のお医者さんの信頼性を回復するように医師の方は力を尽くしてください。●医師は公共の電波、情報、雑誌などを通じて「日本国民を被曝から守る法規定」について脱法行為を勧めないでください。● 医師は「医師」の免許を持っていて、診察と治療が可能ですが、法律に反して発言することは認められていません。●医師で「法規の限度が1年1ミリシーベルトであるが、守らなくて良い」と認めている人がかなり多い。(本日は「公研」という権威のある雑誌に、ある医師が1年1ミリであることは分かっているが法規は守らなくても良いと言っていた。)● 医師がみずから医師免許を返還すれば、社会との直接的な関係がなくなるので「医学者」としての立場から自由に述べて良い。学問の自由は保障されている。●ただ、多くの人が被曝している最中は控える。高速道路の制限速度を変えることはできるが、運転中に速度違反を教唆するのは犯罪行為である。これと同じで原発が爆発しなければ議論は許される。● 医師会は公然と医師の倫理に反する言動をくり返す医師免許の返還を求めるべきである(返還先は厚労省)。1年1ミリシーベルトの法規制を変えるためには、1)原発が爆発せず、余計な被曝をしていないときであって、2)国の委員会などで議論されて改正案が提案され、3)国民の代表である大臣、あるいは議会で改訂されること、が前提である。医師の違法発言によって、危険地域からの退避が遅れ、法規をこえる被曝をさせられている子供がいるので、医師会は医師免許返還の決定を急いで欲しい。(平成24年9月14日)武田邦彦
2012.09.16
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・9.16、日何千人という中国人が日本大使館の前でデモを行い、大声で悲壮な叫びを上げているところが放映され続けている。これを見ても「何だかおかしいな」と思えてしまう。尖閣の下には巨万の資源が眠っているとはいえ、漁民以外は今すぐそれが中国一般庶民にとってどうこうということはないはずだ。にも関わらず、まるで今日明日の自分たちの生活に影響するかのように仕事をほったらかし、時間を裂いて集まり声を限りに叫び回るということが本当にあるのだろうかと。よっぽど皆暇か、貧困によって若いエネルギーを爆発させる機会がないか、もしくは雇われたデモ屋さんかだ。この最後の説が有力ではと僕は思っている。ヒットラーの崇拝者たちを写した映像や、金正日の葬儀の映像のように一部の役者たちを写して、それが国民全員の行動であるかのように報道することは簡単なことだ。中国政府がそれを行っているなら分かるが、日本政府も一枚噛んでいるとすれば、それはプロパガンダに相当する。核が持ちたくて持ちたくて仕方がない。もちろん世界がそのような流れで外交を行う時代なのだから、日本も流れに逆らっては経済的に、国力的に立ち行かないのは事実だろう。しかし何処か立ち上がる国は出て来ないのだろうか?オバマ大統領が当選後一瞬口にした「核廃絶」を実行し始める大国が。軍の力に屈せず、軍なしで経済を活性化させる術を生み出す賢者が。武士が国を征すると必ず国の悲劇は拡大して行く。しかし王の周りには必ず武士は存在する。軍に権力を与えれば、子供のごっこが始まる。ーーーーーー[小児] 軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう? 芥川龍之介
2012.09.16
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・9、12、水皆誰でも、自分は正義と正当と人としての道を貫いて生きていると思っている。しかし実のところ皆いいかげんで、楽を求めて、利益を求めて、人に良く思われたくて、にも関わらず自分の人生に美しい意義を添えたいと思っている。でも自分の打算には誰も気が付いていない。何故なら、誰もがそうして生きているからそれが常識なのだ。ある時矛盾を棚上げした正論を振りかざす者に自分の気付きもしなかった矛盾を指摘されるやいなや、我が人生の正しいと思って来た道のりを愛おしみ、相手の不条理に激怒する。自分を貶めようとする他者を憎悪し、日々困窮する。しかし、誰も気付いていないのだ。正義と正当に満ちた、誰に恥じることもない道のりを歩いて来た者などどこにもいないことを。自分が正当と考えることを自ら実行することは、人並み外れた強い意思が必要なのだ。自分は悪人だと把握しながら悪事を繰り返す者よりも、自分は全く善人だと思い込んでいながら安易な打算、相手を傷つける自己満足を繰り返す者の方が、遥かにたちが悪い。これはもちろん僕自身のことでもある。他人を見ていて、さて自分はそれと違うのかと自問自答した結果、否、結局は自分が見えてはいないだろう。そしてその頭の鈍さにうんざりする。客観的に自分を検証する能力を持つものが、本当の賢者であると思う。ーーーーーー人生講座(7) 正しければ3年で、正しさもいい加減なら天寿を「tdyno.238-(6:44).mp3」をダウンロードこの人生講座も最初は「お金」の話から入り、「健康」へと進みました。両方ともまだお話をすることはあるのですが、次に「心の問題」に入っていきたいと思います。学生の頃、それは私も同じだったのですが、正義感にあふれ、「自分の考えが正しい」と思うものです。若いというのはそう言うことですから、それはそれで良いのですが、時に激高して、「先生っ!なんで正しいことが通らないのですかっ!」と迫ってくることがあります。そんなとき、私は「そう、君が言うことが正しいの?」と聞きます。学生は勢いこんで「正しいですっ! 先生も分からないのですかっ!」とあくまでも激しい。そこで私は次のように言います。私 「君が正しいのなら、君は3年で絞首刑になるだろうな」学生「???」私 「イエス・キリストがお話になったことは2000年も多くの人の心を打っている。だから私や君が言っていることより正しかったのだろうね。イエス・キリストは27才で話を始め、3年後に磔にあって命を落としている。」学生「それがなにかボクと関係があるんですか?」私 「君の言っていることが正しければ、3年で死刑になるだろうね。社会というのは本当に正しいことは通らないのだよ。ややいい加減なことは受け入れられる。無事に一生を終えようと思ったら正しいことは危険なんだよ。」このことがすぐ分かる学生と、時間がかかる人の違いはあるけれど、こんな事がきっかけとなって学生は成長していく。理想を捨ててはいけないが、その限界と社会を知らないと希望は達成されない。・・・・・・・・・歴史的に見て、イエス・キリストを3年で磔にしたのは人類史上、最大の損失だっただろう。私には彼が神様か人間かは分からないが、この世に出現した人類の内で、1,2を争う人格者であり、最大の頭脳を持った人だったことは間違いない。2000年も経ったいま、信者でもない私が聖書を読み、その素晴らしい洞察力、人格、行動力に唖然とするしかないのである。同じように深い感動を覚えるのは、わずかに伝え聞くお釈迦様の言動やソクラテス語録だが、お釈迦様の直伝が少ないこともあって、聖書はひときわ優れているように感じられる。今から30年ほど前のことだったが、ある敬虔なキリスト教徒の方から芭蕉の句の入った挨拶状をいただいた。その句はとても深淵で素晴らしいものだったが、ある時にその人に会う機会に恵まれたので、私は、「芭蕉の句は確かに素晴らしいと思いましたが、それなら聖書の一部の方がもっと素晴らしいのに、なんで芭蕉の句が必要なのですか?」とお聞きした。若かったので礼儀を知らなかったからできた質問だろう。私の質問をそばで聞いておられたその方の奥さんも敬虔なキリスト教徒だったらしく、私の質問にいたく感心されたと後でお聞きした。私には聖書以外の書物で聖書より感銘を与えてくれるものはない。・・・・・・・・・私も時にバッシングされる。ゆえない非難、言ってもいないのにバッシング、子供の健康を心配して「セシウムで汚染されたものは子供に食べさせないでくれ」というと全国の新聞で「不見識」と書かれる。凡人である私はそんなときにやや落ち込まないでもない。でもそんなとき、私はイエス・キリストを思い出す。彼と私ではそれこそ天と地ほどの違いがあるのだが、それでも「あの偉い人でも3年で磔にあった。私が被害を受けてもそんなのは小さいことだ。私もまだたいした事はしていないのだな」と思うと、心の負担は無くなっていく。イエス・キリストの人生を思えば、多くのことは楽になる。すべての人の罪を背負ったと多くの人が感謝している理由も分かる。この世に辛い思いをしている人が多いだろう。ゆえなく他人から非難されたり、身に覚えのないことで悔しい思いをすることもあるだろう。でも、世の中というものは正しければ正しいほど罰せられる、人間という生物はなにか欠陥を持っていて、その歪みをある特定の人にかぶせるクセがあるように思う。人間にとって正しい人生を送ると正々堂々として楽だ。悪いこと、他人をおとしめることをすると後ろめたい。でも、まだ人間の集団は一人が正々堂々と生きることを許さないのだろう。私が話をした学生もやがて大人になり、正義を振りかざせば負担は大きいだろうが、それでもその人の正義を貫いてくれるように願う。それが本当に正義なら、イエス・キリストの受難と同じようになるのだが、それは人間にとって誇りになり、やがて人間の集団も正しいことを受け入れるようになるだろう。(平成24年9月9日)武田邦彦
2012.09.12
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・9、11、火ある小学生が僕に質問した。「どうして勉強ばかりしなくちゃいけないの?人生は長いの?それとも短いの?」僕はただ「ほんとやなー、うんざりやな」としか答えられなかった。自由な空想や想像がどこまでも膨らんで行く10代の時期に、活字の波と、答えが必ず潜む図形を押し付けられる宿命のこの世は、確かに無実の罪で牢に繋がれていることに似ている。今の子供たちだって、大人の知らない野菊の咲き乱れる山の広場を駈け回りたい。馬橋の上から高野川にドブンと飛び込みたい。赤とんぼを追い掛けて、見たことのない段々畑まで行きたい。丘に積もった雪の上を、ダンボールに乗って暗くなるまで何度も滑り降りたい。でも机の前に座り続けないとどうしようもなくなる。今日も帰りの電車に小学生が数人乗り込んで来た。夜10時前、彼らの隣には酒臭い男たちが吊革にぶら下がっている。子供たちは今日の授業の問題について話し合っている。飲み過ぎた一人の男は誰にともなくぶつぶつ口の内で不平を垂れている。人生は長いのだろうか。それとも短いのだろうか。ーーーーーーー[人生] ――石黒定一君に―― もし游泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦げた命令を負わされているのも同じことである。 我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。すると我我も創痍を負わずに人生の競技場を出られる筈はない。 成程世人は云うかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飲んでおり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか? 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。 又 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。 又 人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角一部を成している。 芥川龍之介
2012.09.11
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・9、9、日我々が今を生活していることは、すべて誰かが手に血豆をこしらえて開墾した場所でのことなのだ。日本近代文学では夏目漱石がある意味ではその開墾に思い当たるセンスを持ち合わせていて、その後に続いて優れた作家が続々と生まれて来たとも言える。ドイツ歌曲の分野では、ディートリヒ・フィッシャーディースカウが開墾のセンスを持って初めて未開の土地を切り開いたとも言えるかもしれない。我々はその切り開かれた土地で、あたかも初めからその場所がそこにあったように錯覚しながら先輩の付けた道の上にいることを忘れ、開墾者に対してその世界そのものを批判していることもある。兎に角自己客体の影響を受けずに、今の自分の生が存在することはあり得ない。これを我々は「環境」という平板な一言で片付けてけてしまうのだ。また歴史的な先輩のみならず、周りの友人や後輩からの無意識な影響によって自分が形成されていることも事実である。我がライバルと制定して意識するあの人物も、嫌悪し同じ部屋の空気を吸うのもいやだと思うあの人物も今の自分を形作る原因を成している。実に無意味な場所と思わずを得ない学校という集まりも、客体を必要とする生には大事な場所なのかもしれない。とすれば、嫌がらせを受けたあの人物に、いつか同じ屈辱を味合わせてやると虎視眈々チャンスを伺っているのも、ひょっとすれば相手に帽子を脱いでいることになるのかもしれない。隣の者に競争心とライバル心を抱いて、広い海の上で島を頼りに自分の泳いでいるところを計るように、隣人をある目標にして自分の位置を測り、何かに勝ったとか負けたとかを勝手に定めて喜んでいるのが我々だから。もし客体がなければ、苦しみもない替わりに生きる目標と意義さえも見失うだろう。その謀は国単位であろうと、クラスやオフィスであろうと、住宅街単位であろうと同じことである。帽子を脱いでいる客体には、死を迎える夕暮れに初めて思い当たるのかもしれない。ーーーーー[作家所生の言葉]「振っている」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。こう言う作家所生の言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであろう。なお又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでいるものである。或作家を罵る文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。 芥川龍之介
2012.09.09
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・9、8、土関電が「電力は足りました」と発表することは、もちろん皆夏になる前から知っていたはずだ。嘘の計画停電実施も、エレベーターを止めまくって形だけの節電を見せ付けていたことも、皆冷ややかに見ていたはずだ。元々関電が出してくる数値などは本当のものかどうか分からないし、信じている者はいないだろう。「火力発電をフル稼働もせずに、大飯原発稼動を正当化するなどおかしいではないか」と切り込んでも「いや、火力発電フル稼働はお金が掛かりすぎるし、時間が掛かりすぎますからね」なんて用意した言い訳を並べるに違いない。今中野重治が1965年に公演した「漱石について」の記録テープを聴いている。彼の作品から、おそらくとても変わった人なのだろうと想像していたが、存外普通のおじさんである。しかし危険なことをずばずば大声で言い放っているところを見ると、内に秘めた強い意志と情熱を持った人であることも伺い知れる。「最後に本来お話したかったことを述べます」と言って、それまでにない強い口調で話し出している。「近年明治の精神『明治は遠くなりにけり』と、明治に我々が持っていたバッグボーンが失われていくことを嘆く発言をよく耳にします。確かに明治には素晴らしい力と能力もあった。しかしその裏に存在した俗悪な精神、欺瞞と歪曲に満ちた大きな矛盾を含んだ時代を賞賛する間違った懐古に滑り込んでしまうことにもなります。その矛盾としての氷山の一角が幸徳秋水事件です。何もしていない人々を24人死刑とし、明治天皇の特別の思し召しとしてそのうち12人を無期懲役に改め恩を着せ、残りの12人を殺した。私の今のしゃべり方はまずかったでしょうか?しかしこれこそが明治の精神でした。そして今明治は本当に遠ざかったのでしょうか?今明治よりも遥かに大きな軍備が出来ているし、農民が農村で生きてはいけなくなっているし、独占禁止法はいつの日か形を変えて帝国主義国が再び歩き始めようとしている。これを明治は遠ざかりつつあると見るか、もしくは明治はもっとタチ悪く我々の足元に盛り上がりつつあると見るか、それらのことを関連的に漱石の作品から読み取ることもできます。そしてそのような状況にどう適応して行くかが、良い部分の明治の調和とかバッグボーンであるはずです」と述べた。1965年に語られたこの「明治」は、彼の危惧の通り今も引き伸ばされてはいないか?じわじわと我々の足元に盛り上がりつつありはしないか?ーーーーーー電力はなぜ足りたのか?シリーズ2 関電の能力「tdyno.237-(9:48).mp3」をダウンロードこの夏の電力危機を乗り切った理由として、関電は次のように説明しています。(単位はすべて万キロワット)大飯原発再開前の発電計画 2542大飯原発再開後の発電実績 2988予想された8月の最大消費 2982関西地区の最大消費(8月) 2682【関電の説明】大飯原発を再開しなければ関電が供給できる電力は2542万キロワットでしたが、大飯原発を再開できたので2988万キロワットを生産できました。一方、これまでの実績から猛暑の8月に予想された消費量は2982万キロワットだったのに対して、皆さんが協力してくれて2682万キロワットに留まったので、2988の生産能力に対して、2682を消費したので安定した電力供給ができました。この説明を聞いて、多くの人が納得するでしょう。それは、「ああ、そうか。原発を稼働させて、自分たちも節電したから、何とか乗り切ったのだな」と思うからです。原発の再稼働も正しく、努力も報われたと感じるのですから、自己満足も得られ、とてもいい気分になるからです。政府や大阪市への信頼感も出るでしょう。でもこれは「優れた頭脳の働きをズルに使う」という模範的(詐欺的)な回答です。これは学校教育の失敗が原因です。つまり、もっとも大切なことを回答せず、形式的な回答をすることによって、本当に必要なことを隠すという高級な手口で、これで学校では100点がもらえるところに問題があります。この回答のどこが「詐欺的」であるかというと、「なぜ、大飯原発を再開しなければならなかったのか?」という疑問に何も答えていないからです。真に原発の危険性を心配している人が知りたいのは、このような数値ではなく、次の数字なのです。関西電力が製造・調達ができる最大電力量は以下の8つを合計したものです。1)8月に稼働した火力発電所の最大発電能力2)稼働しなかったが設備としては存在する火力の最大発電量3)火力・原子力以外の発電量の内、8月に稼働したもの(水力など)4)他電力から融通を受けることができる最大電力量5)企業の自家発電の稼働を要請することによって補填する最大電力量6)個人の太陽光発電など分散電源7)原発の電力量・・・・・・・・・もし関電が「良心的な企業」であったとします。多くの人は電力会社は隠すのが当然だと思っていますが、独占的販売権を持っているのですから、そのかわり「正直である」というのは必要なことです。関電「皆さんができれば原発を再稼働させたくないとお考えのことは良く知っています。そこで原発が再稼働しない状態で、関電社員一丸となり、また関係会社にもご協力を得て、「原発を再稼働しない場合の最大調達量」を計算しました。」関電「その結果、上記の1」から6)を合計すると、3500万キロワットになります。猛暑の時の最大消費量は3000万キロワットになりますから、この夏は原発無しに乗り切ることができますし、皆様も特別な節電は必要ありません。でも調達できると考えられる3500万キロワットの内、他の電力会社からの融通、自家発のご協力などは不確定です。また発電所のトラブルも考えられます。その場合はギリギリになりますから、その時は節電をお願いします。」つまり、関電の説明は「原発を動かすために、他の電気を得る方法をサボれば」という仮定が入っていたのです。それに計画より増加した400万キロワットのなかで実は200万キロワットは原発以外ですから、ここもトリックが入っています。大飯原発の再開問題というのは、「原発の再稼働に反対する人がいなければ、再開すればいつもの年のように過ぎる」のは当たり前です。でも「原発の再稼働を心配している人がいるから、検討する」というものだったのですが、実は「原発を動かさないでも大丈夫か?」ということを「誰も考えなかった」のです。トリックというのは恐ろしいものです.特に頭の良い人が集団でズルをしようとするとこのようになるという典型的なことですが、関電の幹部の方にも良心的で国民のことを考えている方が一人ぐらいはおられるでしょうから、ぜひ、1)から6)を示してください。また、これで終わりではなく、来年がありますから、次の2つを追加しなければなりません。1)大急ぎで火力発電所を建設する敷地も持っている場合の発電量と建設期間(突貫でやれば、3年.発電量は1000万キロワット程度と推定される)2)自家発電、他電力の融通枠を緊急に増やすことによって調整できる電力枠(おそらく400万キロワットぐらい)これで原発無しで4000万キロワットレベルに達しますから、関電管内の電力不足は3年後には解消すると考えられます。またこの時の電気代は現在より少し安くなると考えられます。このことについてはすでに整理しましたが、また機会を見て整理します。(平成24年9月8日)武田邦彦
2012.09.08
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・9、6、木「血圧は高い方がよい」というタイトルを読んで「うーん、コレステロールの次に血圧、また悪い癖で世間の常識を破るようなことをタイトルに付けて本を売ろうとして」と思ったが、内容を読んでいるとこれもまた医学会の罠である可能性も否定できないと思わせる。ようするに武田氏が歯向かう内容は、すべて知識のない者の足元をみて金を掠め取ろうとする動きに対してのようだ。本の売り上げはその後に付いて来るということだ。今世の中には脳梗塞で倒れる人がものすごく多い。もしこれが降圧剤の長期服用によって引き起こされるとすれば、ぞっとする話だ。特に男性の中には、医者に「貴方の病気はこうこうですから、この薬をきっちり飲んで下さい」と言われれば、毎日律儀に確実に薬を飲む人が多い。職場では決められたことを忘れるような人は仕事にならないのだろう。薬がなくなればそれはもうきっちりと病院に出向き、検査を受けまた新たな薬をもらって帰って来る。それで本人は安心できる訳だ。このようにして脳梗塞への道を歩んでいるとすればどうだろう。医者は正に死の商人だ。意外といい加減な人がセーフということになる。それと、西洋医学では血圧が高ければ下げる薬、熱が出たら熱を下げる薬、咳が止まらなければ咳止め、腰が痛ければ痛み止めと、要するに外に出て感じる症状だけを薬で抑えるのが治療だと思っている。いや、わざとそうしているのだろう。病気の根源を治してしまえばそれ以上儲からないから。彼らの仕事は人々の病気を治すことではなく、患者からどれぐらい搾り取れるかということにあるのだろう。我々は何かあればすぐ医者に頼るのではなく、我々自身の体の力を学ばねばならない。我々にとってどうしても必要なのは外科だけだ。ーーーーーー人生講座(5) 血圧が高い方が良い「ketuatutdyno.230-(12:39).mp3」をダウンロード(かつては年齢+90が適正な血圧と言われました。でも、今は基準が変わり「高い」というのは血圧が気になる年齢で、働き盛りの人で130以上のこと言います。本当に131は薬を飲まなければならないほどの高血圧症なのでしょうか?)私がこのブログで、タバコ、コレステロール、そして今回のように血圧などを書くと、「なにをそんなにムキになっているんですか?」と訝る方もおられますが、私は地震予知にしても、このような健康問題にしてもこだわったり、ムキになったりすることはありません。ただ、地震では東海地方に先に地震が来ることが「分かっていない」のに、あたかも「東海地震が来る」と言って、阪神淡路、東北の大震災の犠牲者を出しました。地球温暖化もそうですが、科学的な衣を着て、実は狙いが別にあるという場合、その結果として、今回の原発事故のように甚大な被害が起こることがあります。それでも中部電力課長は「死者がでていないのだから、あれは事故とは言えない」と言いました。こんな考えですと、「発がん物質を売ってなにが悪い。すぐガンで死ぬわけではないのに」とか「アスベストを使って何が悪い。20年ぐらい経たないと死なない」という理屈になり、社会がムチャクチャになってしまいます。電量会社の幹部が「反社会的」であるというのは問題です。前回の人生講座で説明したコレステロールでもそうです。体内で70%も作られ、必須のものなのに「悪玉」などと批判し、その実は薬の売り上げのことだったというのでは残念です。事実、コレステロールを抑制して、死亡率があがり、飛び降り自殺が増えているのですから、死の商人でもあります。・・・・・・・・・さて、今回は「血圧」を取り上げますが、これも単にネットで勉強してというのではなく、少なくとも専門のお医者さんごはお話して書いています。血圧が高すぎる(180以上)のが問題であることは言うまでもありません。でも現在の指導血圧(130ミリ)は年配者にとって健康を害するほどの「低い血圧」なのです。血圧は「低い方が良い」のではなく、「適度な血圧が望ましい」ものだからです。なぜ「血圧」というのがあるかというと、体全体に血を流すので、そのために「ポンプの圧力」がいるからです。何しろ体の隅々まで、毛細管まで血を流すのですから、圧力がなければ流れません。それでも人間はまだ低い方で、キリンや恐竜などの大型動物ですとかなり高い血圧でないと頭まで血液が届きません。人間も、血圧が低くなると問題が起きます。そうかといって圧力が高すぎると地を運ぶホース(血管)が破れてしまいます。だから、どうしても「適当な圧力」が必要となります。適当な圧力とは、(「血圧が高いとかかる病気」+「血圧が低いとかかる病気」)の合計を減らすことで、片方だけを減らしてもダメです。血圧が高くなると出血性の病気(脳出血など)になり、血圧が低くなると虚血性の病気(脳梗塞など)になります。脳出血は病気で、脳梗塞は病気ではないなどということはありませんから、「適正な血圧」が必要です。まず第一に知ることは、人間には血圧を正常に保つ機能があり、その機能がダメになるのが「病気」であるということです。人は病気になると薬で血圧を上げたり、下げたりする必要がありますが、正常なら体が判断して「この血圧が適切だ」としている場合は薬で調整する必要はありません。コレステロールや痛風の原因になる尿酸なども同じですが、体内で70%から80%も合成されるものは、体が病気(適正な量をコントロールできなくなった時)だけに治療が必要です。つまり、正しい方法は「血圧が異常に高くなった」と言うときには「血圧を下げる薬」を使うのではなく、「血圧をコントロールできなくなった体を直す」というのが本来の治療です。かつて「肺炎にかかったらペニシリン」という時代がありました。これは肺炎の原因となる細菌が抗生物質ペニシリンの注射を打つことによって細胞壁を作ることができなくなり、その結果、増殖が抑えられて肺炎が治るということでした。これでずいぶんの人の命が助かりました。これとは逆にインフルエンザにかかって熱がでたという場合は、ウィルスの治療薬がなかったので、「とりあえず胃腸の薬を出しますから、ゆっくり寝て栄養のあるものを食べてください」ということになります。つまり、治療薬がなければとりあえずの苦痛を除いたり、回復を早める薬を出すのであり、解熱剤は当座の苦痛を和らげたりする役割で、本当の治療とは言えません。「血圧を正常に保つ」という薬はまだ普及の段階にないので、おどろくべきことに「血圧が正常かどうかを診察せずに決めて、決めた値よりおおきければ降下剤を投与する」という馬鹿らしいことをやっているのです。「日本国民はまったく個性や個人差がないので、血圧の正常値を一律に決める」と厚労省が決め、今は130ミリ(65才以下)になっているという野蛮な状態です。そして医師は労働者のように患者さんが来られると血圧を測り、130以上の場合、その人にとって病気でもなんでもないのに、降圧剤を出すということになります。そしてなんでもお役人を信じるという人が「俺は130以上なのに医師は降下剤を出さなかった。医療過誤だ」というので、病院は面倒でもあり、薬価もあるのでお薬を出すという具合です。なにしろ、国民の1000万人以上が病院で「高血圧の病気」と言われ、推定で5000万人が該当するとも言われています。国民の約半分が「病気」になるという奇妙な基準なのです。・・・・・・・・・それでは、どの程度が「適度な血圧」なのでしょうか? 日本でも有数の優れた医師にお話をお伺いすると、「その人個人や年齢によって違いますので、一概に言えませんが、140,150ミリぐらいは問題がない場合が多く、強いて数字で言えば180を超えるようなら注意が必要でしょう。むしろ下の血圧も注意しなければなりません」と言われる。また病気には血圧が高いと血管が破裂するという場合と、血圧が低いと血管が詰まるという場合があり、高ければ危険、低ければ危険ということはなく、「その人にとって適正な血圧が良い」という当たり前のことなのです。また、今の基準のように130以上は高血圧とすると、50才以上の日本人の半分が「病気」ということになります。人間の体は自らが調整する力を持っており、必要も無いのに降圧剤を服用することは勧められることではありません。端的に言うと、今の「高血圧騒動」は「国民の健康」を犠牲にして「薬の販売」を優先するというお金中心の社会から出てきたものです。ちなみに食塩を摂る量では全国で上位である長野県の男性の平均寿命が日本の都道府県の中でもっとも長いということが、「高血圧騒動」、「減塩騒動」の間違いを良く表しています。(平成24年9月1日)武田邦彦
2012.09.06
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・9、5、水 これは大変興味深い記事である。 「そんな、武田さんの言うことを信じていたらおちおち病気にもなれないじゃないか !」という人も多いだろう。 信じるか信じないかは個人の自由である。 ただ僕はこれも日本社会では在り得る専門家たちの利権だと思っているから、嘘とも 思えない。 なるほど言われるまでそんな罠に気付かなかった。 政府や官僚だけではなく、医師会にも常に疑いの目を注がねばならない。 考えてみればコレステロールだけではなく、すべての病気の危険とされる値に疑念が 生まれる。 薬服用の値を低めに設定するだけで、薬品会社の儲けは大幅に変わって来るし、おそ らくその分医師会にもがっぽりなのだろう。 儲けるためには、医者もそこまでポリシーを簡単に捨てるのだ。 病院の医師から、町医者まで皆そんなカラクリは知っているのだろう。 これもまた政府、医師会、薬品会社、マスコミが手を組んで何も知らないバカな国民 を食い物にして利権を貪って来たとすれば、国というものに一体何の意味があるだろ う。 例えばコレステロールがそのように人の精神に作用するのならば、時間を掛けて虎視眈々と計画される殺人として見ることも可能だ。 そんな社会なら、我々は脱医者、脱薬、脱ワイドショーを実行しなければならない。 「そんなことに腹を立てても、結局庶民にはどうすることもできない大きな流れなのだから、ぐだぐだ言ったって仕方ないじゃない」という人々の声がすでに聞こえるが、知識のない者を騙し堂々と生きている偽善者たちに、腹を立てることを諦めては終わりだ。 ーーーーーー 人生講座(4) コレステロールを増やして健康で心の安定を 「koresuterorutdyno.230-(11:12).mp3」をダウンロード タバコに関して肺がん死との関係が薄いという記事をときどき書きますと、「何をそ んなにムキになっているのか!」とおしかりを受けますが、これも専門の先生とも充 分に議論をしています。今回もやや似ていますが、同じです。 年齢が55才から60才の男性・・・そろそろ定年でもあるし、家族の心配事も多いとい う男性の更年期障害がでるころですが・・・の調査によりますと、駅から飛び降り自 殺をした人のほぼ100%がコレステロールを下げる薬を飲んでいたということが分か っています。コレステロールは気分を安定させる効果があり、それを抑制されるので 飛び降り自殺をしたくなるというのが調査の解析です。 女性の裸体を描く画家が長寿であることが知られていますが、性的な活力が長寿のも とでもあり、頭の回転も速く、積極的で呆けにくい事も知られています。これは体内 のコレステロールの4分の1が脳に集中し、脳の活動の多くを担っているからです。 積極的な気分になるためにはコレステロールが大切です。 ・・・・・・・・・ かつては個別のお医者さんが「患者さんが病気かどうか」を決めていましたが、今で は「薬品会社からお金をもらっている厚労省関係の医師が病気の基準を決め、それに 反すると医師が医療過誤になる」という恐ろしい時代になりました。その結果、コレ ステロールでは「220ミリ(mg/dl)」以上なら病気ということで、薬を出されます。 しかし、事実は、違うのです。 1)総コレステロールが160ミリ未満の人は、280ミリ以上の人に比べてガン死亡率は 5倍以上(日本の大規模な研究)、 2)死亡率がもっとも少ないのは、コレステロールが200ミリから280ミリの間で、「 コレステロールが高い」と診断され、下げる薬をもらっている人の大半が死亡率を高 めている(日本の大規模な研究)、 3)コレステロールの値が高いほど、肺炎やインフルエンザなどに感染し、死亡する 人が少ない(アメリカの研究)、 4)コレステロールが40ミリ上がると、脳卒中の可能性が3分の2になる、 などが分かっています。 それでも「コレステロールを減らそう」という声がなくならないのは、第一にコレス テロール値を下げる薬の市場が実に5000億円で、しかも薬会社はテレビ、新聞などの 広告の大スポンサーであり、医師にあらゆる便宜を図っているからです。本来なら薬 会社は「人の健康を増進する」というのが社会的な役割ですが、それが反対になって います。 第二の理由は「ウソの研究」です。ウソというと少し言葉が厳しいのですが、コレス テロールの初期の研究には誤り(意図的ではない)があったのですが、それが薬の販 売と関係しているので、否定されていないということです。だから今ではやや「ウソ 」の部類に属するようになりました。 まず、今から実に100年前のロシアの研究(ロシア革命の直後)で、「コレステロー ルが動脈硬化の原因になる」とされたからです。この実験はウサギで行われたのです が、ウサギは草食動物でコレステロールを食品から採らないので、人間と違う結果が 得られたのです。 次に、アメリカで「食品中のコレステロールを採ると、血中のコレステロールが上が る」という間違った論文が出たからです。この論文は後に否定され、今ではこの論文 で示された関係は使われていません。その理由はコレステロールの70%は体内で合成 され、食品からあまり摂り入れられないと体内で合成し、食品から入ると体内の合成 量を減らすからです。 最後に「悪玉コレステロール」と言った人がいるからです。だいたい、健康で正常な 人が体内で「悪玉コレステロール」などを作るはずもないのです。「善悪」は人間の 心にあるもので、人間の体の作用に「善悪」はありません。善玉と言われるコレステ ロールは直接、体に必要なもので、悪玉と言われるものは、善玉を運搬する役割を負 っています。 研究の最初のころ、「悪玉」と呼ばれるコレステロールの役割が分からなかったこと 、コレステロールは悪い物質と思い込んでいたことからついた名前で、もし悪玉が少 なくなると善玉を運ぶこともできず、死亡率が上がります。 だいたい、人の体にあるものを「善悪」などと分かりやすい名前をつけて薬を売ろう などいうことが問題なのです。私もコレステロールを勉強してビックリしました。い かに間違った情報が蔓延しているのか、それによって死期を早くした人は本当に可哀 想です。 こんな誤解が生まれるのは原子力と同じように「閉鎖的な村社会と特定の官庁」の組 み合わせの時で、被害が国民におよぶということと思います。そしてここに示したコ レステロールのデータや解釈は「立派なお医者さん」の多くが支持していることです 。でも穏やかな人は強いて間違いを言っている同業者にあまり強く言わないのが普通 です。 また、女性の方で家族の食事に注意している方は特に「コレステロールは良くない」 などテレビでの知識に左右される傾向があります。テレビが薬品会社に強く活動を制 限されていることは家族を守る意味で知っておかなければならないと思います。 (平成24年8月31日) 武田邦彦
2012.09.05
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・9、4、火 ほらほら、やっぱり原発を巡って不思議な動きがせわしくなって来た。 原発0を、驚くべきことに政府が言い出したのだ。 余りにも突然の転回である。 それに青森の使用済み核燃料を各県に引き取らそうという動きまで出て来た。 これはもんじゅを閉鎖にしてしまおうという動きなのでは? さて、これは一体何が起こっているのか? 武田氏は官僚、政府が火力発電以外の新エネルギーに気移りして、そこでがっぽり儲ける手順が整ったからだという風なことを言っているが、それだけかなと僕は思う。 先日書いた竹島、尖閣のシナリオで、核保有への法改正が確実となったことを示すのではないか? 法律が改正されてから原発を止めてはあまりにもあからさまだから。 僕の妄想はそう的外れでもないのではと、僕自身で疑っている。 国民が「そりゃ仕方ないよね」と言わざるを得ない既成事実を引き起こしてからデンジャラスな改革を推進する。 民主党政権以後の日本は、まるで何処やらの国とそっくりになって来た。 そのうち秘密警察が町をうろうろして、国を批判するものを人知れず誘拐、監禁して、それらの者を入れておく収容所が建設されることになるだろう。 僕が一番先に捕獲対象かもしれない。 でもこれも今の段階では僕の妄想だから、まず本気にしないように。 もちろん誰も本気になどしないだろうけれど。 ーーーーーーー 時事寸評 原発ゼロ・・・一歩前進だが官僚の思惑通り 「tdyno.232-(2:46).mp3」をダウンロード 将来のエネルギー政策を政府の3つの案から選ぶという公聴会が行われた結果、原発 の運転に反対の国民が約70%に昇ったので、政府は原発を廃止する方向にしたと報道 された。NHKが報道したから、報道は政府からの要請だろう。 まず、一歩前進であることは確かだ。なにしろ10回に1回墜落すると分かっているヒ コーキに娘を乗せることができないのは当然だからだ。 しかし、この政府の3案はトリックがある。それは官僚が「もう、原発では天下りで きないし、利権もとれない。これからは自然エネルギーで天下り団体を作ろう」とい う計画で、最初から公聴会をやれば国民が原発に反対するから、「国民の要請」とい うことでどんどん税金を使えるという算段だ。 つまり、3案には「原発を止めて火力発電」という案はなかったからだ。官僚は利権 をとれない火力発電を外してシナリオ通りということでもある。それを批判するメデ ィアが無いことが哀しい。かつてなら週刊誌などがかなり噛みついただろう。 (平成24年9月3日) 武田邦彦
2012.09.04
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・9、3、月 普段我々は自分の宿命などというものに注意を注がない。 すべて目の前の道は自分自身の手で切り開き前に進んでいると信じて疑わない。 岐路から一歩を踏み出して、自分の選んだ道に自分の責任として安堵もし、後悔もしている。 しかし本当にそうなのだろうか? 古いギリシャ神話では「人は宿命の下すべての道を選び、その結果訪れる運命を甘んじて受け入れるしかない、そんな風に我々は生きている」とテーマを定めているらしい。 僕もそれに似た考えである。 ただ自由意志で動くことのできる部分もある。 ある者は市内のみを自由意志で歩き回ることができる。 だがある者は府内全域を歩き回ることができる。 これは大変な差別だ。 生きている間の経験の量、楽しみの量、苦しみの量に大きな違いが出てくる。 だが泣こうがわめこうがどうしようもない。 それがそれぞれの持って生まれた宿命だから。 ここで度々生じる悲劇は、我々がせたらう欲のために市内から府に、府内から近畿に果てしない夢を求めて足を踏み出した時起こる。 市内を制覇したと確信した時に、府内に踏み出さずに留まれる者はおそらくいないからだ。 その結果酒に溺れ、不眠に悩み、欝に苛まれ、死を選ぶ。 自らの自由意志で行動できる範囲を認識し、そこから出てしまわないように最善の注意を払って生きる。 これこそを僕は中庸(グッドセンス)と理解したい。 自分に与えられた区域の中で、人生の泉から我々は最高の味を汲み取らねばならない。 ーーーーーーーーーーー [自由意志と宿命と] 兎に角宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われる から、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ず れば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺を免れるから、我我自身に対する我我の態 度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか? わたしは恬然と答えたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。 或は半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。なぜと云えば我我は我我 に負わされた宿命により、我我の妻を娶ったではないか? 同時に又我我は我我に恵 まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帯を買ってやらぬではないか ? 自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦、理性と信仰、――そ の他あらゆる天秤の両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸 と呼んだ。中庸とは英吉利語の good sense である。わたしの信ずるところによれば 、グッドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも 得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に団扇を揮ったりする痩せ我慢の幸 福ばかりである。 芥川龍之介
2012.09.03
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・9、2、日 僕は若い時には「良い人」で通っていたものらしい。 さほど良い人であった訳ではないのだが、黙っていればそう見えるらしく、人々は勝手に僕の人格をそのように推察したのだ。 おそらく目が、若さ特有の澄んだものだったのかもしれない。 皆僕に「茶木君って良い人なね」と感想を述べ、女性は「茶木君て男性を感じない、とても話し易い人ね」と気軽に悩みを打ち明けた。 僕はそれが嫌でたまらなかった。 そんな自分の幻影から何とか脱出できないものかと、いつも悩んでいた。 人々は皆自分を傷つける心配のない、自分を出し抜かない同性の友人、または襲われる心配のない、惚れる恐れのない気軽な男友達を求めているだけなのを、僕は知っていたのだ。 本人たちにはその認識がなくても、見下げることのできる友人を求めているものなのを、僕は知っていたのだ。 そして長い間、僕は良い人から抜け出せずに苦しんでいた。 そしてようやく最近になって、僕は感じるのだ。 周りの人々が僕を倦厭したり、怖がったり、気味悪がったりしているのを。 どうしてそうなれたのか自分でも分からない。 瞳の奥に懐疑主義がちゃんと浮き出るようになって来たせいかもしれない。 または口が達者になって、自分の意見、考えを外向きに表現できるようになったからかもしれない。 何も言わず、何も主張せず黙ってにこにこしていれば誰からも好かれ、自分の頭で物を考え始めると、平行して他人からは疎まれるものなのだ。 長い苦悩から開放された今の世間の目は、僻みではなく僕には心地良いものである。 ようやくバカにされないようになった気がする。 好人物であった僕の目には、人々が皆大事な友人に写っていたからこそ澄んだ目ができたのだ。 真面目で誠実で人を欺くことのない穏やかな人格が最も優れた宝であるという神話は、周りの環境こそが浮き彫りにする御伽噺である。 ーーーーーーーー [好人物] 女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。 しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。 又 好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。 第一に歓喜を語るのに好い。 第二に不平を訴えるのに好い。 第三に――いてもいないでも好い。 芥川龍之介
2012.09.02
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・9、1、土武田氏は下記の記事で、科学者になれる素質としてたばこの例で審査しようとしている。たばこはあくまで例であるということだろうが、実はたばこの議論をまだ続けたいのだ。彼が拘るのは、おそらく「たばこ廃止」を訴えることで、また予算を狙う輩がいるのかもしれない。「たばこは肺癌の原因であることは認めた上で~」と前回は述べていたのに、彼は今回は「たばこを吸うと肺癌は減り、止めると増える」と断言している。それは一般に知られているデータによるものとしているのだ。しかし僕は科学者が命綱としているこの「データ」というものに疑念がある。例えばたばこによる肺癌をデータとして示したとしても、たばこだけのせいで発病したかどうか怪しいものである。のみならず、たばこによる胃癌で死亡することもあるだろうし、たばこによって肺気腫になって死亡する例も多い訳で、たばこのせいで肺癌になるデータもあやふやだし、たばこによる他の発病で死亡する例を含まずにたばこの良し悪しを語ることもできない。もっと言えば、副流煙による肺癌が極めて少ないという武田氏の見解についても、たばこに限らず煙というものに非常に敏感で、気管支や肺に問題を起こす人も少なくない中で、それが肺癌に繋がる原因であることを否定もできない。喫煙者と禁煙者を並べて、肺癌率を比べるだけではデータは不完全であるはずだ。僕は科学者でもないし、なりたいとも思わないので、データというもののあやふやさこそを述べたい。それは薬の効果だけをデータとして見解を出す医者と似ている。ーーーーーーー科学者テスト・・・自分は科学者になれるか?「tabacowosuutosinanaitdyno.226-(7:35).mp3」をダウンロード最近、ある若手の技術者を対象にした教育をしたときに、おもしろいことがありました。それは「タバコと肺がん死のグラフを見て、どのようにデータを解釈するか」という出題です。[Photo。]グラフは単純でここに示したもので、データは紛れがない単純なもので、このグラフに載せた「肺がん死の数」も「喫煙率」もよく知られたもので反論はありません。このグラフを見て、次のどのような反応をするかで、自分が科学者になれるかが分かると私は教育を通じて感じました。1)ムカッとくる、2)変なデータだと思う、3)ウソだと思う、4)点線のところなどが気になる、5)寿命が延びているから、その影響があると思う、6)喫煙率が下がると肺がん死が増えると理解する。7)タバコを止めると肺がんになるのだなと思う。教育をした私の感じとしては、1)から3)のように感じる人は自然科学を選ばない方が良い人、4)の人は技術者になっても成功しない人、5)は何とか技術者になれる人、そして6)と7)は技術者として成功する人のようです。ムカッとくる、つまり1)番の人は科学者には不向きです。学問というのは「心」が入らないようにして、確実な事実と明快な論理で構成されるものですから、そこに「心」や「先入観」が入っては成功しません。タバコに関しては多くの人がいろいろな「感情」を持っています。煙が嫌い、火事の心配、汚らしい、図々しい、かっこいい、大人の雰囲気・・・などです。でも、データを見るときに「頭」と「心」を分離できるのが科学者ですから、どうしても感情が入るという人は科学の道は止めた方が良いでしょう。また、「ウソだと思う」という3番ですが、これも不適切です。つまり、データを見るときにはまずは信頼できるデータを見ることですが、喫煙率と肺がん死の関係はこのデータしか日本には無いのですから、「ウソ」であると言うことになると、他にデータが無ければならないことになります。このような時「ウソ」という感じを持つのは、「自分の先入観と違う」という事です。先入観の方がデータより重要であると考える人は技術者にはならない方が良いでしょう。科学は常により真実に近く、より新しいデータを求めるものです。そして科学者の辛いことはこれまで10年間以上の信じてきたデータでもある時点からそれが間違っていることを認めなければならないことがあります。その時に「自分を捨ててデータを採る」という苦痛を克服しなければならないからです。・・・・・・・・・科学の経験が深く、謙虚な気持ちで観察をしたいと思っている場合、データに接したときに、それまでのすべての知識、先入観をいったん横に置いて事実を見ます。それは「学問は進歩する」、あるいは「今、正しいと思っていることでも覆ることがある」という確信です。だから、たとえ「タバコを吸うと肺がんで死ぬ」と考えていても新しいデータをまずは素直に見る習慣がついています。さて、このグラフはあまりにも傾向がハッキリしていて、「喫煙率が下がるほど、肺がん死が増える」ということですから、もし他の原因がなければ「タバコを吸うと肺がん死が防止できる」、あるいは「タバコを止めると肺がん死になる」ということを意味しています。でも、そこまで一気に行くことができる人も少ないと思います。・・・・・・・・・ところで、厚労省の報告などを見ると、「タバコを吸うと何倍、肺がんにやりやすい」などという数字が多く出てきます。それはどこのデータでしょうか。たとえば1990年に肺がんで死んだ人が4万人います。この時の喫煙率は約60%ですから、肺がんで死んだ人の内、タバコを吸っていた人が60%なら、タバコを吸っていても吸っていなくても肺がんになる比率は同じということになります。しかし喫煙してすぐ肺がんで死ぬわけではなく、肺がんで死ぬ人の多くは20年ほどタバコを吸っていて、70才で肺がんになるというようなケースですから、20年前の喫煙率というと、1970年ですからほぼ80%となります。だから肺がんで無くなった人の80%がタバコを吸っていたとすると、「タバコと肺がんは関係がない」ということになります。つまり、ここに示したような「真逆」なデータが有る限り、ある少数のデータで「タバコを吸うと肺がんで死ぬ」という結論を出すためには、全体の傾向を否定するような強力な証拠が必要ですし、なによりそれが公開されていることです。厚労省のデータは生データ、整理の仕方、判定基準などなにも書いていないのです。特に厚労省の天下り団体で「健康促進団体系統」のパンフレットなどには、結論だけが書いてあってまったく科学の判断ができません。ある国の委員会で委員の一人が素データを求めたところ、「禁煙に反対する人にはデータを見せない」と言われたという有名な事件があります。反対する人にこそデータをよく説明し、納得してもらうのが学問の手順ですが、それをしないということは政治であって学問ではないということを証明しています。「喫煙を禁じる」というのは日本国憲法で定められた「基本的人権」に抵触するのですから、かなり精密なデータと整理が公表されることが必要です。日本国は科学技術立国で技術者が250万人もいるのですから、充分な説明をして国民的な合意をえることが国の義務でもあります。(平成24年8月28日)武田邦彦
2012.09.01
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