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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク19番札所:立江寺この日(10月15日)は12番札所:焼山寺の宿坊で5:30に起床。朝風呂をTRYしたが、残念ながら風呂にはお湯なし。6:30に朝食が部屋に届けられた。そして7:00過ぎに焼山寺宿坊を出発して19番札所:立江寺に向かう。昨日利用した狭い坂道を下ると、左手にある四国遍路の元祖といわれている「衛門三郎」ゆかりの「杖杉庵(じょうしんあん)」に到着。弘法大師伝説の残る四国八十八箇所霊場番外札所。本尊は地蔵菩薩。 最初に四国八十八箇所を巡った伝説の人物とされる衛門三郎の終焉の地伝説が残る場所に建つ寺院伝説によれば、平安時代前期の天長年間(824年 - 833年)に、伊予国の人であった衛門三郎は四国巡錫中の弘法大師に行った無礼な行いを詫びるため弘法大師を追って旅に出たという。21回目に逆回りを行っている途中、四国八十八箇所12番札所焼山寺近くのこの地で力尽き病に倒れた。そこに弘法大師が現れ、衛門三郎は非礼を詫びた。大師が衛門三郎に来世の望みを訊くと、生まれ変われるなら河野家に生まれたいと望んで息を引き取った。そこで大師は「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。天長8年(831年)10月20日のこととされると。大師は衛門三郎をこの地に葬り、墓標として衛門三郎が遍路に使用した杉の杖を立てた。これがやがて根を張り杉の大木となったという。 衛門三郎が弘法大師から許しを得る姿の像が。更に坂を下って行くと右手に広場があり、その隅に「おへんろ駅」 と書かれた看板が。ここ鍋岩の左右内の人達が運営している「おへんろ駅」という売店らしいが、早朝の為まだ人もおらず品物も並んでいなかった。道沿いにある土産物屋「すだち館」を訪ねる。ここは宿坊も営んでいるとのことで欧米人のお遍路を含めた男性達が宿泊していたようであった。 店の内部には所狭しと土産物が並んでいた。10/2日のNHK『鶴瓶の家族に乾杯』の放送で、俳優の遠藤憲一と鶴瓶が「素敵な家族を求めて」のぶっつけ本番旅で夏にこの店を訪ねたとのこと。しかしその部分はカットされたとオバチャンが。袋に入ったスダチを土産に購入。 33号線⇒55号線に出て勝浦川を渡り55線へ出る。立江川手前で右折し川沿いを走ると19番札所:立江寺(たつえじ)に到着。 仁王門は入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置。金剛力士仁王の阿吽像。 立江寺 境内配置案内図。山門を入ると左に鐘楼が、右には毘沙門堂があり隣に手水場がある。その先左側に本堂が建ち、本堂左に観音堂がある。本堂を背にして境内の南に進むと右に多宝塔、左に神変堂があって奥に大師堂が建つ。大師堂の右に黒髪堂がある。納経所は山門の正面奥の右側である。手水舎と子授け地蔵尊。聖龍美観音像。 子授け地蔵尊。 多宝塔とその前に毘沙門天堂が。 内部の毘沙門天立像。 先祖供養、水子供養の「経木流し所」 。修行大師像。 多宝塔。大正7年建立、一辺5.59m、上重は銅板葺き、初重は本瓦葺き。 太師堂。堂内。 赤い涎掛けの様々な地蔵。 多宝塔を見上げる。 庚申堂・神変堂。 正面が方丈、客殿。護摩堂。 本堂。 縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5センチほどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9メートルもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。当時は現在地より西へ400メートルほど山寄りの景勝地にあって、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。「天正の兵火」(1575〜85)では立江寺も逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。のち、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に移って再建されたと。本尊の「延命地蔵尊」と書かれた扁額。鰐口(わにぐち)前にも太い綱が下がっていたが。そしてこの寺を再建した蜂須賀家の家紋「蜂須賀万字 」が。 賓頭盧様(びんずるさま)。寿老人 。本堂の天井画は花鳥風月などが描かれていた。東京藝術大学教授ら40名余が描いた286枚の格天井画であると。橋池山 摩尼院 立江寺(きょうちさん まにいん たつえじ )宗派 高野山真言宗本尊 延命地蔵菩薩創建 天平19年(747年)開祖 聖武天皇(勅願) 行基 所在 徳島県小松島市立江町若松12本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 本堂内部。 納経所前から多宝塔と仁王門を見る。 観音堂。 内部。 鐘楼。黒髪堂。大師堂右手にある小祠。不義をしたお京という女がこの寺に詣り懺悔するとお京の髪の毛が逆立ち、鐘の緒に巻き上げられて残ったという伝説のお堂。白杉大明神。鐘楼と仁王門。 本堂から仁王門を見る。毘沙門堂と多宝塔そして修行大師の姿も。納経所、寺務所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました ------------------------------------------------------------------------------------------------20番札所:鶴林寺 「お鶴さん」と呼び親しまれる鶴林寺は、標高550mの鷲が尾山の山頂にある山岳霊場。寺への遍路道は険しく、遍路にとっては八十八ヶ所指の難所であるとのことだが我々は山門近くまでの車道を利用し、山深い霊場に到着できたのであった。仁王門。阿形像。吽形像。鶴林寺 境内配置案内図。山門を入ってしばらく参道を進むと右手に六角堂があり、さらに進むと左手に手水鉢があり右に70段の石段がある。石段下の右手に忠霊殿、左手に護摩堂と大師堂があり、石段を上り詰めると本堂が建つ。本堂の周辺に鐘楼、三重塔がある。納経所は大師堂の先にある。六角堂。地蔵尊が並ぶ。 苔むした境内の美。 様々な仏像が参道沿いから迎えてくれた。 慈母観音像。水子地蔵尊。忠魂殿。不動明王。手水場。本堂への階段を上る。本堂。本尊である「波切り地蔵・地蔵菩薩立像」は国の重要文化財。暴風雨で難破しそうになった船を導いてくれた伝説がある。 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺(りょうじゅさん ほうじゅいん かくりんじ)宗派 高野山真言宗本尊 地蔵菩薩創建 延暦17年(798年)開祖 桓武天皇(勅願)、空海(弘法大師) 所在 徳島県小松島市立江町若松12本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 別名「波きり地蔵」とも呼ばれる本堂を護るように、両脇に鶴の像が立つ。寺伝によれば、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願によって空海(弘法大師)が開創。空海がこの山で修行中に雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵菩薩像を守護していた。空海はそれを見て、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた1寸8分の地蔵像を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定めた。境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号にいただいたという。平城、嵯峨、淳和の各天皇からの篤い帰依、源頼朝、義経、徳島藩祖蜂須賀家政などからの信仰も受けて大いに栄えた。本尊の伝承として、昔、猟師が猪を追って山に入り矢を放ち、たどって行くと本堂で地蔵菩薩の胸に矢がささり血を流していた。猟師は殺生を懺悔し仏門に入ったということから矢負いの地蔵と呼ばれ、本尊にはその傷が残っていると云われていると。 延命地蔵尊。三重塔の塔が雲の中から姿を見せた。文政6年(1823年) に建造。各層は和様、唐様と、それぞれに異なった建築手法をとっている。江戸末期における代表的建築物であり、徳島県でただひとつの三重塔として、県の有形文化財に指定されているのだ。銅板葺、高さ 23m。三重塔の見事な木組みと扁額。 延命地蔵尊。弘法大師像か?更に苔むした本堂裏の階段を上る。石造宝塔。 小さな祠が。扁額等は無かった。 祠内部。 三重塔への下り坂の途中にも小さな堂が。 鎮守堂か。再び三重塔。鶴と延命地蔵尊。本堂前の鶴と後ろに三重塔。本堂への階段を下る。 太師堂。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 宿坊は休業中。再び雨で緑の色を増した苔に覆われた参道を楽しみながら鶴林寺を後にしたのであった。
2017.10.31
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク18番札所:恩山寺今宵の宿泊寺(宿坊)の12番札所:焼山寺到着の目標時間は16:30過ぎであり、まだ多少時間の余裕があったので、予定を変更して18番札所:恩山寺へ向かう。55号線⇒136号線を利用して20分強で恩山寺に到着。いきなり大きな修行大師像が迎えてくれた。恩山寺は徳島市を離れ、小松島市の小高い山の中腹にある寺。 恩山寺境内入り口の石柱には「弘法大師 御母公玉依御前 ゆかりのお寺」の文字が。恩山寺 境内配置案内図。坂道を登って行くと大きな修行大師像の立つところに出た。車は左上方へ上がると駐車場に出てそこから坂道を5分ほど歩いて上がると大きな修行大師像の前に出る。左手の数段の石段を上ると境内に入り、直進すると右手に手水場があり石段をさらに上り詰めた所に本堂が建つ。手水場手前まで戻って本堂を背にして右手先に大師堂が、その手前に御母公堂がある。納経所は大師堂と反対側の客殿の左に。 「四国第十八番 恩山寺」と刻まれた石碑が。山門は、駐車場へ向かう途中にあった母養橋(赤い欄干橋)の傍にあり、山門の近くには大師が植えたという「びらんじゅ」の樹が今も残ると。 太師堂とその右側に大師御母公剃髪所。大師がこの地で修行されていた時、大師の生母の玉依御前が訪ねて来たが、あいにく女人禁制であった。そこで大師は一七日間の女人解禁の修法をして母を迎えたが、喜ばれた母君は剃髪して、髪を納められたので「母養山 恩山寺」と改めた。大師堂の前に「大師御母公剃髪所」の石碑があり、母君の髪の毛が納められていると。 ここにも再び「弘法大師修行像」。 手水場。 水子地蔵尊。数え切れないほどの水子地蔵が。 松の枝の裏には素朴な歴史を感じさせる石仏が。 多くの石仏、石碑が境内に。 鐘楼。 本堂より階段下を。 本堂。本尊は空海自刻と伝える。真言八祖像が脇仏として並んでいると。母養山 宝樹院 恩山寺(ぼようざん ほうじゅいん おんざんじ)宗派 高野山真言宗本尊 薬師如来創建 不詳(天平年間末か)開祖 行基 聖武天皇(勅願)所在 徳島県小松島市田野町字恩山寺谷40 本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” ご本尊のお姿も。 本堂内部。 本堂手前より水子地蔵尊を見下ろす。 大師堂と同じ敷地の向かいに長い屋根の中には、彩色豊かな観音像や十大弟子の木像があり、これもみどころの一つ。地蔵像。十大弟子像。空海の十大弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされると。様々な表情が今でも語りかけて来そうであった。 本堂、大師堂はじめ恩山寺の伽藍は歴史を感じさせ、大きな修行大師像もなんとなく趣きがあり、山寺の雰囲気ある古刹なのであった。境内全景。右の階段上に本堂。ここにも弘法大師像が。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 12番札所:焼山寺そしてこの日の最後に今宵の宿坊がある12番札所:焼山寺に向かう。焼山寺は四国八十八ヶ所は四国八十八ヶ所の中では2番目に標高の高い山の中に位置する寺。国道55号線⇒438号線⇒43号線で鮎喰川を渡り狭いクネクネとした山道をひたすら上る。約1時間で焼山寺宿坊に到着。荷物を案内された部屋に置き、早速焼山寺の参拝に向かう。部屋からの山々と次第に白が拡がる雲。なにはともあれ、徒歩でのお遍路の入口の山門(仁王門)に向かう。大師像。歩き遍路「遍路ころがし」では石段を上り切ると、修行姿の大師像が迎えて下さるのだ。深い山中にあるため、四国八十八箇所霊場の中でも随一の難所として知られる。また、阿波霊場三難所の1つにも数えられ「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と呼ばれる。藤井寺からの遍路道で行くと、長戸庵、柳水庵、浄蓮庵を寄りながら焼山寺に至ると。山門(仁王門)。 阿形像。 吽形像。 焼山寺 境内配置案内図。参道より石段を上ると山門があり、入っていく左手に手水場、右手に鐘楼があり正面に本堂が。本堂右手に2008年に落慶した大師堂がある。本堂左手に三面大黒堂が、大師堂の右手に十二社神社がある。納経所は山門を背にして左側、その奥には茶堂がある。本尊と大師像は、本堂裏の斜面上にある収蔵庫に収められていて、本堂と大師堂にあるのはそれぞれの前仏である。 本堂が近づいた、見事な大杉に見とれてしまう。太古の息遣いが聞こえるようだ。 境内の杉の巨木は樹齢数百年といわれる。昭和37.1.16に県指定天然記念物に。山門をくぐり境内に入ると、右側に2体のお地蔵様。 観音像? 宿坊の裏山には雲が湧き上がってきた。こんな所に牛の像。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 正面に本堂が。寺伝によれば大宝年間(701年 - 704年)、役小角(役行者 えんのおづの)が開山し庵を結び蔵王権現を祀った。のちに空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(まろ/別名:水輪水)の印を結びながら進むと、山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願するととうとう大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したと。このエピソードが摩盧山焼山寺の名前の起源となっていると。足利尊氏は本寺を祈願所とし、江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の帰依を受けていたと。 左から三面大黒天、本堂、太師堂、十二社神社。 可愛らしい稚児地蔵。 鐘楼。銅鐘は 昭和59.8.3県指定有形文化財 、径51cm、高さ103cm。鐘楼の前に何故かブランコが。子供連れで来られるお遍路さん用?文化財に指定された初代の鐘は別の場所に保管され、これは2代目との事。響きが徳島市まで届くと。焼山寺の手水場がなかなか新鮮な造形。緑の濃い苔を植えていた。手水場の横には古い石仏や小さな祠。三面大黒天堂秘仏として、中央に大黒天像、右に毘沙門天像、左に弁財天像が安置されていると。通常は前立三面大黒天が拝顔できる。多宝塔。 本堂 摩盧山 正寿院 焼山寺(まろざん しょうじゅいん しょうさんじ)宗派 高野山真言宗本尊 虚空蔵菩薩創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師)所在 徳島県名西郡神山町下分地中318 本尊真言 ”のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おんあり きゃまり ぼり そわか” 本堂内陣。十二社神社 境内。太師堂。 太師堂内部。 そして初日の車によるお遍路を終了。この日の移動ルートを我がIphonesのソフトより。1番札所:霊山寺から18番札所の寺までのお遍路の走行距離は約125km。予約していた焼山寺宿坊に到着。玄関。1階の廊下の廊下に客室の和室が並ぶ。 厨房への連絡用廊下。2階にも客室があるようだ。 8畳の我々の部屋、隣の部屋との仕切りは唐紙。 電気コタツ、ストーブも用意されていたが、テレビはなし。客は我々の部屋の隣に同じく男二人のみ。標高938mの部屋からの眺め。そして夕食は全て精進料理。アルコールは可とのことで旅友Sさんは日本酒、私はビールを楽しむ。 真ん中は芋茎(ずいき)そしてその右が焼きナス。 ヤツガシラ?の赤い茎である赤ずいき。そして食後にも購入済みのビールを楽しむと、この日の疲れが一気に出て消灯もせずに爆睡。
2017.10.30
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク14番札所:常楽寺 15番札所の国分寺を後にし192号線に戻り直ぐに右折し細い住宅地の道をカーナビに従い進むと鳥居が現れたのでここで車を駐め徒歩にて進む。実はここは八幡神社である事に気がつき、再び車に戻り神社脇の急な坂道を上がった先が常楽寺の駐車場。常楽寺には、山門が存在せず、代わりに石柱が立っていた。1番霊山寺から順にお遍路巡りをしている我々にとっては、初めての山門なし。入り口に山頭火の碑で、「人生即遍路」と。正面には巨岩の上に石垣が立ち上がり、まるで山城の城壁の如し。階段も巨岩をそのまま階段状に削り出していた。 歌碑には・・・・・・・・。 下の石柱から50段の石段を上がって来ると境内入り口の石柱門が。石柱門には「四国第十四番 盛寿院 常楽寺」と刻まれていた。常楽寺 境内配置案内図。 階段下から石柱門を通って50段の石段を上ると起伏のある流水岩の境内に入る。左手に手水場があり、その奥に鐘楼が。一番奥に本堂が建ち、その手前右側に大師堂があった。本堂と大師堂の間にアララギの巨木があって、その木の俣にはちいさな大師像が安置されていた。納経所は石段を背にして右手に。手水場。 無縁塔には「まつり人(て)のない霊さまをおがんであげて下さい」の文字が。合掌。 大僧正智俊猊下の胸像。修行大師像。 鐘楼。 境内は断層が剥き出しとなった自然の岩盤の上にあり、その形状から流水岩といわれていると。 寺の建物全てがあるのは天然の岩の上。境内移転の際に山を削り、岩盤の奥に堂宇を建てたためで、露出した様々な岩が自然に庭を形作り「流水岩の庭園」と呼ばれているのだと。岩は風雨に削られ、今も少しずつ姿を変えていると。 常楽寺 本堂。開基は弘法大師。この地で修行していると、多くの菩薩たちとともに弥勒菩薩が現れ、説法を行った。大師はその姿を刻み、本尊とした。弥勒菩薩は、お釈迦様が入滅されてから56億7000万年後に現れて、衆生を救済する未来仏。現在は、地球ができて46億年、人類が誕生して700万年。弥勒菩薩が現れた時、果たして人々は存在していたのか…。こんな思いを巡らすのは未だ煩悩具足の凡夫。弥勒菩薩を本尊とするのは四国霊場でここ常楽寺だけであると。 盛寿山 延命院 常楽寺(せいじゅさん えんめいいん じょうらくじ)宗派 高野山真言宗本尊 弥勒菩薩創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県徳島市国府町延命606番地本尊真言 ”おん まいたれいや そわか” ここ常楽寺は弘法大師が堂を建てた後、弘法大師の弟子・真然(しんねん)僧正が金堂を建て、祈親(きしん)法師が、講堂・三重塔・仁王門などを増築し、立派な寺となり栄えたが、天正年間(1573~1592)の長宗我部勢の兵火で焼かれてさびれてしまった。それを万治2(1659)年に、蜂須賀家が再興した。灌漑用の溜め池を造るために文化15(1818)年に、少し高台の現在地へ移されたのだそうだ。「本尊弥勒大菩薩」と書かれた扁額。 奉納幕の左手に五三桐の紋章。天皇から弘法大師の称号を下賜された時に一緒に天皇家の家紋である五三の桐紋も頂かれたと。併せて右手の「三頭左巴」の紋章は、空海・佐伯真魚(幼名)は讃岐国の豪族である佐伯直田公の3男として生まれた。巴紋は佐伯家の家紋であると。本堂内部。 本堂回廊から左手に太師堂。太師堂。 太師堂内部。 境内の仏像群。手前に不動明王、後ろに聖観音菩薩?。 多くの石灯籠に囲まれ中央に三界万霊塔、方柱台の上に文殊菩薩が安置されていた。 本堂前に繁るアララギ(イチイ)の老木。弘法大師が糖尿病に苦しむ老人に持参の霊木を煎じて飲ませ治療した後、その霊木を挿し木したものが育ったと。樹周8メートル、高さ10メートルの巨木。また木の股には小さな石仏が安置されていた。 この弘法大師の像は「あららぎ大師」と呼ばれており、糖尿病や眼病の治癒にご利益があるのだと。大師の廻りには多くの枯れた小枝が。鳥が以前に巣を造った跡なのでしょうか。本堂横から再び境内を。こちらは納経所前からの境内。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------13番札所:大日寺 常楽寺から10分ほど、県道21号線沿い、寺から西の方角に駐車場があった。駐車場から大日寺までは徒歩で1分強。 大日寺 山門。 大日寺 境内配置案内図。県道に面した山門を入ると向かいにしあわせ観音が見える。しあわせ観音を背にして右手に手水場があり、左に大師堂が建つ。右奥に入っていくと大師堂と向き合う形で本堂があり、その左手に地蔵堂がある。納経所はしあわせ観音の後にあった。弘法大師がこの地で護摩修法をされていた時、空から大日如来が舞いおり「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」 と、告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して、本尊とし、安置したのが寺の縁起とされている。 戦国時代 「天正の兵火」 により堂塔はすべてが罹災。江戸時代前期に 阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により 本堂が再建され、県道を挟んで建つ一の宮神社を管理する別当寺となったが、明治の神仏分離令により独立。そのとき一宮神社の本地仏であった十一面観世音菩薩が本尊となり、大日如来像は脇仏となったと。 右手に太師堂。 「しあわせ観音」。合掌している手を模した中に小形の観音像が入っていた。 正面からは直ぐに合掌している手と判らなかったが、斜めから見ると納得したのであった。 しあわせ観音と呼ばれる合掌した手のなかに彩色された観音様がやさしいまなざしで立つ姿に多くの巡拝者はしばし立ち止まっていた。 私もしばし合掌。 手水場。 水子地蔵尊。 交通事故で亡くなった方を供養する慈母観音像。 地蔵堂。本堂。 彫刻も見事。大栗山 花蔵院 大日寺(おおぐりざん けぞういん だいにちじ)宗派 真言宗大覚寺派本尊 十一面観音創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県徳島市一宮町西丁263 本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 本堂内部。 灯籠も美しい造形。本堂左手にある真っ赤な目が大きい像。「びんずる様」も願い事を唱えながら撫でると叶うとか。境内の池の中には剣に龍が巻き付いた彫像も。3番札所:金泉寺の倶利伽羅龍王(くりからりゅうおう) と同じか。 本堂から再び境内を見る。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 そして国道向かいの一の宮神社を帰りに訪ねました。 正面に2頭の神馬。拝殿。御祭神:大宜都比売命、天石門別八倉比売命神馬越しに大日寺本堂を見る。こちらが正面の鳥居。
2017.10.29
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク16番札所:観音寺17番札所:井戸寺から29号線、123号線を走り7分ほどで16番札所:観音寺に到着。 国府町の住宅街のど真ん中、狭い道路に突如、立派な鐘楼門が出現。和様の堂々とした楼門であり、こぢんまりした境内に重みを見せている。観音寺 境内配置案内図。 手水場。 太師堂。左下に夜鳴き地蔵尊。夜鳴き地蔵尊をズームで。 「子供の夜泣き止めをお願いして下さい」と。本堂横の仏足石。本堂より鐘楼門を見る。庚申堂と隣に郷友殉国之霊碑。八幡大神宮と惣社大御神とが合祀。本堂と左下に仏足石。木造平屋建、正面三間側五間、入母屋屋根及び平入流向拝本瓦葺。寺伝によると741年、聖武天皇の勅命により行基が勅願道場として本寺を建立、816年に弘法大師が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで安置、現在の寺名に改めたとされる。いったん天正の兵火(1573~92年)で焼失するが、1659年に徳島藩主蜂須賀光隆(はちすかみつたか)の支援を受け宥応(ゆうおう)法師が再建。 光耀山 千手院 観音寺(こうようざん せんじゅいん かんおんじ)。宗派 高野山真言宗本尊 千手観音創建 天平13年(741年)開祖 聖武天皇(勅願) 所在 徳島県徳島市国府町観音寺49-2本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 扁額には「六無礙」???。六とは「地と水と、火と風と空と、そして、人の心」。無礙とは「障りや妨げが無く自由自在であること」とあるが。本堂を斜めから。修行大師のお姿。境内から手水場そして鐘楼門。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------15番札所:国分寺16番札所:観音寺から192号線を北上し、2km、7分ほどで15番札所:国分寺に到着。山門。 「薬王山」と書かれた扁額。国分寺 境内配置案内図。単層の山門を入ると右手に手水場が、左手には地蔵堂、七重塔礎石、鐘楼堂と並び、正面奥に工事中の本堂がある。本堂の手前右に大師堂がある。烏瑟沙摩明王堂はその横にある。納経所は境内の右手奥にあり、庭園の入口は納経所の左にある。手水舎には仮設?の水道水が。本堂は改修工事中で入れず。聖武天皇が諸国66の国分寺を建立したうちの一つ。天平13年(741年)に建立したが、天正年間(1573 - 1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となったと。重層の入母屋造りで、聖武天皇、光明皇后の位牌が祀られていると。 薬王山 金色院 国分寺(やくおうさん こんじきいん こくぶんじ)宗派 曹洞宗本尊 薬師如来創建 天平勝宝8年(756年)以前開祖 行基所在 徳島県徳島市国府町矢野718-1本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” いつもなら。 【http://cultural-experience.blogspot.jp/2015/11/15.html】より。七重塔心礎。心礎とは礎石の中で七重塔などの木造塔の中心柱(心柱)を受けるもので,檫礎(さつそ)ともいうと。七重塔心礎説明板。この心礎の環溝型は珍しいと。塔の元の地か、興禅寺前の近くの水田で発掘され、ここに運ばれて来たのではないかと。心礎の大きさは3.75m×1.54m×0.75mで、孔の外周径は1m、内周径は52cm、溝巾24cm、深さ10/4cmとのこと。地蔵堂。工事中の本堂に替えての仮本堂は、うすさま明王堂。うすさま明王堂は不浄の神様で、なんでもひとつ願いを叶えてくださるのだとか。婦人科の悩みにも霊験あらたかとの事。多くの涎掛けが奉納されていた。うすさま明王堂正面。鳥瑟沙摩明王堂(うすさまみょうおうどう)の明王像は弘法大師が刻まれたもので不浄除けにご利益があるのだと。左手に鐘楼。四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波国分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724〜49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建したと。阿波国分尼寺跡はここから北へ約1km、昭和45〜46年に発掘調査が行われ、金堂・北門跡・寺域などが確認され、寺域は約160m四方に及ぶ広大なものであると。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.28
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク11番札所:藤井寺 10番札所:切幡寺をあとにし、吉野川沿いの12号線を下り右折し阿波中央橋を渡る。下を流れるのは吉野川。高知県および徳島県を流れる幹川流路延長194 km、流域面積3,750 km2の河川。最長川幅は荒川の2,537 mに次いで広く、2,380 m。そして11番札所:藤井寺の駐車場まで約30分。有料駐車料金300円を支払うSさん。 藤井寺山門。四国八十八箇所霊場のうち、寺号の「寺」を「じ」ではなく「てら」と読むのはこの寺だけであるとのこと。 吉野川を渡り、約3kmの山麓にある藤井寺。三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、弘仁6年にこの地で護摩修法をしたと。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄祓い、衆生(しゅじょう)の安寧(あんねい)を願い、薬師如来像を刻み堂宇を建立。このとき空海が堂宇の前に藤を植えたことから藤井寺と号すると。 寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍(しちどうがらん)を構える大寺院であったが、天正年間(1573年~92年)の兵火により焼失。その後、延宝2年(1647年)に臨済宗の南山国師(なんざんこくし)によって再興。その時に宗派を臨済宗に改めたと。四国霊場で臨済宗のお寺は2ヶ寺だけ。もうひとつは高知の33番札所雪蹊寺。本尊は「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されていると。山門の仁王像は、野鳥対策か?細かい金網で前面が覆われていたため、仁王像への焦点が旨く合いませんでしたので遠くから撮影し2枚をコラージュ。藤井寺 境内配置案内図。山門を入ると右側に弘法大師お手植えと伝えられている藤の藤棚があり、その後に鐘楼が。参道は先で右に折れ左側に手水場、水掛け地蔵、不動堂、白龍弁財天堂が並び、最奥に本堂が建つ。本堂手前右側に大師堂がある。納経所は手水場の向かいにある。 左にはちょっとお茶目な河野清弥太翁の立像あり。ネットで調べてみると藤井寺公園保存会初代会長、昭和10年頃から荒廃していた寺を奉仕者を募って再建させ、新八十八ヶ所、西国三十三観音をも再興した中心人物とのこと。歴代??の墓碑。手水舎。 「六道能化」の文字が。仏語で六道の巷(ちまた)に現れて、衆生を教化し救う地蔵菩薩のこと。水掛け地蔵とお札流しの札 。鐘楼。 藤井寺は真言密教の道場として七堂伽藍を持つ寺に発展したが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失。延宝2年(1674年)に臨済宗の南山国師が再興したことから臨済宗に改められたが、天保3年(1832年)に火災によって本尊以外は全焼、その後万延元年(1860年)に再建されたのが現在の伽藍とのこと。 太師堂。太師堂内部。 この祠は? 修行大師像。 「焼山寺みち」 。12番札所で標高938mの山の8合目にある「焼山寺」までの山道は「遍路ころがし」と呼ばれ、へんろ道で1番の難所だと。約13kmの山道は健脚で5時間、弱足なら8時間かかると。申し訳ありませんが我々は車遍路 m( ̄ー ̄)m 。白龍弁財天。八本の手を持つ白龍弁財天が祀られている。八つの手には、弓、矢、刀、蔵の鍵など様々な物を持っていると。金運、武術、芸術の願いを聞いてくれると。弁財天内部。 「第八十八番 大窪寺」の文字が。 「西国一番 那智山 青岸渡寺」の文字が。そして本堂。三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは弘仁6年のことと。 大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立。その地からおよそ200m上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになったと。 金剛山 一乗院 藤井寺(こんごうざん いちじょういん ふじいでら)。宗派 臨済宗妙心寺派本尊 薬師如来創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 屋根の瓦そして正面の彫刻も見事。鬼瓦としゃちほこならぬ、獅子ほこ。地元出身画家の作による雲龍の絵が天井いっぱいに描かれていた。本堂天井に描かれている雲龍は、地元の吉野川市(旧鴨島町)出身の日本画家、林雲渓の作。本堂を全面改修した昭和52年に描かれたもので、30畳ほどの大きさがあり、にらみをきかせた表情は迫力満点。本堂内部の仏像。 本堂回廊横のびんずる様。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 17番札所:井戸寺次のお遍路先は、順番では12番札所:焼山寺であるが、焼山寺の宿坊は今宵の宿泊場所。よって17番札所:井戸寺まで行き、時間を見ながら順次12番札所に目指していくことを決断したのであった。藤井寺から約1時間で17番札所:井戸寺に到着。駐車場に車を駐め遍路の開始。仁王門。大門とも呼ばれます。朱塗りで大型の武家造り。徳島藩主蜂須賀氏の大谷別邸より移築されたと。阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が寄進されたもの。 阿形像。 吽形像。 井戸寺境内配置案内図。仁王門を入ると左に手水場があり正面奥に本堂が建つ。手前右側に大師堂があり、左には日限大師堂とその中に面影の井戸がある。横に鐘楼があって、納経所は日限大師堂の左奥にある。 境内を歩く。正面に本堂。寺伝によれば、阿波の国司に隣接し天武天皇が勅願道場として673年に創建し、七堂伽藍、末寺12坊を誇る壮大な寺院となり妙照寺と称していた。本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来で聖徳太子作、また、日光菩薩、月光菩薩は行基作と伝えられる。伝承ではその後、弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩を刻んで安置したと。 手水舎。 六角形の大悲殿(護摩堂)。毎月28日に護摩が焚かれると。太師堂。 正面が日限太師堂(ひかぎりたいしどう)。 太師堂横には薬師如来像。こちらが日限太師堂正面。石造の大師像で「水大師」ともいわれます。5日、7日などと日を限って参拝するとご利益があるのだと。日限太師堂の内部には「面影の井戸」が。覗き込んで自分の姿がうつれば無病息災、うつらなければ3年以内の厄災に注意すべしといわれている。 おもかげ井戸の由来。 弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地を訪れた際に、水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出したと。そこで、寺名を「妙照寺」から「井戸寺」にあらため、村の名前も「井戸村」にしたと。ご詠歌は『おもかげを うつして見れば 井戸の水 むすべば胸の あかや落ちなん』本堂。現在は鉄筋コンクリート造り。 本堂を斜めから。 本堂内部。 瑠璃山 真福院 井戸寺(るりざん しんぷくいん いどじ)。宗派 真言宗善通寺派本尊 薬師如来創建 白鳳2年(673年)開祖 天武天皇(勅願) 所在 徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 堂内で本尊を拝顔して参拝できました。ご本尊の横。本堂の回廊からの境内。 境内の枯山水の庭。鐘楼。 納経所入口。 納経所は本坊内に。 遍路ポスター「お大師さまと絆を結ぶ遍路旅」。3年前の平成26年に「四国八十八ヶ所霊場 開創千二百年」 であったと。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 そして境内の石仏群。
2017.10.27
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク9番札所:法輪寺8番札所:熊谷寺から139号線を2.5km強の場所にあるのが9番札所:法輪寺。のどかな田園の中にあり、親しみを込めて「田中の法輪さん」と呼ばれていると。山門の仁王門は入母屋造楼門。扁額には「正覚山」の文字が。濃い朱に塗られた阿形像。唇は白く塗られていた。吽形像。法輪寺境内配置案内図。山門を入ると左側に手水場がある。最も奥に本堂が建ち、本堂の右に大師堂が並ぶ。本堂に向かって左側に参拝者休憩所、納経所等が建てられている。その休憩所の左手に鐘楼がある。仁王門を潜ると正面に本堂、右手に太師堂。境内は芝生に覆われていた。左手に手水場。本堂。巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺と号した。天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644年 - 1648年)に現在地に移転して再興され、現在の山号、寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に火災で全焼、明治になって現在の堂宇が再建された。 本尊は入滅時の涅槃釈迦如来を取囲む十数体の羅漢達を仏像化したもので、2014年に1年間にわたって開帳された。なお、向って右脇陣には薬師如来坐像が左脇陣には釈迦如来坐像その左に弁財天が祀られていると。正覚山 菩提院 法輪寺(しょうかくざん ぼだいいん ほうりんじ)宗派 高野山真言宗本尊 釈迦如来(涅槃像)創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市土成町土成字田中198-2本尊真言 ”のうまくさんまんだ ぼだなん ばく”弘法大師が刻まれたと伝わるご本尊・釈迦如来涅槃(ねはん)像は、5年に1度開帳されると。お釈迦様が入滅されたときの姿を写した涅槃像を本尊としているのは四国霊場でこの寺だけ。美しい彫刻絵画も。修行大師像。方丈。太師堂。太師堂内部。京都・東寺のポスター。鐘楼。納経所から境内を見る。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 七福神石像。------------------------------------------------------------------------------------------------10番札所:切幡寺09番:法輪寺から139号線を進み、右折し門前の古い街並みを抜ける狭い道を進むと10番札所:切幡寺に到着。ここまで約10分。寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち即身成仏して千手観音の姿になったという。空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。伝統行事の一つとして、毎年春分の日と秋分の日に、先祖の戒名などを経木に書き清水をかけて流して供養する経木流しを行なっていると。駐車場に車を駐め、山門に向かう。 六地蔵。 そして仁王門。阿形像。 吽形像。 切幡寺境内配置案内図。山門を抜けて参道を進むと経木場があって、その横から333段の石段が始まった。沿道には石仏が祀られており、上部の女厄坂、男厄坂を上りきると右手に手水場、その後ろに鐘楼が。正面奥に本堂があり、その右にはたきり観音像が建てられていた。本堂手前の右側には大師堂が、左側には不動堂がありその先の石段を上ると大塔が。その高台からは吉野川が流れる平地や第十二番焼山寺のある山々を望むことができた。納経所は手水場の向かい側。仁王門から本堂までは800mほど全て階段で。階段のスタート部には「是より333段」と。階段を上っていくと「是より234段」 と刻まれた石碑。経木場。弘法大師が錫杖でつかれてから湧き出した水と言われている。左手に祠に納められた石仏群が。 八大竜王。竜王は水を司り、雨を降らす力を持つ竜の王。釈迦如来の侍者として請雨曼荼羅に描かれている。 石仏群。 古希を迎える旅友も階段を元気に。 途中、二種類の厄除け坂が。女やくよけ坂は33段。。 男やくよけ坂は42段。年の数だけ賽銭を置けば厄除け祈願できるらしいのですが・・・・。 階段を上がりきると右手に手水舎。 鐘楼。 本堂。拝殿土間と本堂と奥殿の三重構造で、本堂には大塔の本尊であった大日如来が奉られ、奥殿には秘仏千手観音菩薩が奉られていると。 得度山 灌頂院 切幡寺 (とくどざん かんじょういん きりはたじ)宗派 高野山真言宗本尊 千手観世音菩薩創建 弘仁年間(810年 - 824年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市市場町切幡129本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく”扁額には「得度山」と書かれた金色の文字が。太師堂。 修行大師像。 右手は弁財天。はたきり観音。機織の乙女が即身成仏した伝説の観音像。 右手に鋏を、左手に布を持つ姿。 はたきり観音を横から。いかにも人間的な体の曲線でスラリとした少しセクシーな美人。像の傍らには、平成9年の宮中歌会始(御題「姿」)に寄せた歌碑が建てられていた。『この寺の 由来に於はす御佛 はたきり觀音 姿うるわし 当山主・智叡』鐘楼を横から。手前に修行大師像。 不動堂。 国の重要文化財に指定されている大塔。徳川2代将軍秀忠が大阪の住吉神宮寺に再建寄進したものを、明治維新の時神宮寺が廃寺となったため、第45世住職天祐上人が東西両塔あったうち、当時残っていた西塔を買い取り、明治6年へ1879)から15年かけて移築。普通二重の塔は三間四面のものが多いが、この塔は五間四面と大きく、初重、二重の間という様式をなす大塔になっている。明治42年1909)祝融の災に遭い、寺は1山23棟の伽藍を一夜にして失ったものの、この塔のみは火難を免れた。そのため現在でも再興時のままの姿が残り、歴史的にも日本における重要な建造物になっていると。 豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うため1607年に建立。明治15年移築、本瓦葺、高さ24.168m、昭和50年に国の重要文化財に指定 。 寺からの眺めは絶景。 太師堂の屋根の鯱。 十三重石塔。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.26
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク7番札所:十楽寺 6番札所の安楽寺からは1km強の所にあるのが7番札所の十楽寺。寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定されると。大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたと。美しい中国風の鐘楼門。龍宮城を連想させてくれる朱塗りの門を潜り境内へ。十楽寺 境内配置案内図。竜宮門形式の山門を入ると前に水子地蔵が並んでいた。左側の石段を数段上ると遍照殿の額がかけられた中門がありその上層は愛染堂となっていた。中門の向かいに手水鉢があり左に奥へ入ると本堂が、さらに左へ行くと治眼疾目救歳地蔵の小堂があって、その先の石段を上ると大師堂が。本堂の向かいのあたりに十三不動明王像がある。納経所は中門を背にして右に。山門を入るとすぐ正面に約70体以上?の水子地蔵。産声をあげることなく、この世を去った多くの水子達。中門遍照殿・愛染堂を境内から。十楽寺の宿坊 光明会館。岩が削り取られたのか芸術作品の如き手水場。光明講 追悼之碑。光明講とは朝に「般若心経」読経、真言念誦の時間を持ち、お勤め終了後は堂で朝粥(あさがゆ)等をいただき、月に一度「食」の原点に立ち返る集まりのようだ。本堂。阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失、しかし、本尊・脇仏・舎利仏など大切なものは住職真然と弟子が運び出し大門ケ原に安置したが、弟子は矢に射られ死んでしまった。その後、寛永12年(1635年)に現在地で再建された。平成6年本堂の新築。平成26年本尊と脇仏が開帳されたと。 光明山 蓮華院 十楽寺(こうみょうざん れんげいん じゅうらくじ)宗派 真言宗単立本尊 阿弥陀如来創建 大同年間(806年 - 810年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市高尾字法教田58 本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん” 扁額には「光明山」の金色の文字が。地蔵堂。 地蔵尊。背から眼病・盲目に霊験があるとのこと。 修行大師像。十三不動明王。太平洋戦争時の第13期海軍飛行予備学生の慰霊のために建立された。子育地蔵尊。太子堂。太子堂内。この十楽寺は、眼病にご利益のある「治眼疾目救歳地蔵」でも有名だとか。太子堂より中門遍照殿・愛染堂を。波切不動明王。 納経所。納経を頂く旅友Sさん。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 中門の二階は愛染堂。中門に祀られた愛染明王。今回、大活躍の旅友Sさんの愛車DUKE。 ------------------------------------------------------------------------------------------------8番札所:熊谷寺7番札所:十楽寺から徳島自動車道に沿って139号線を走り、7分ほどで8番札所:熊谷寺に到着。山門(仁王門) は 現在の境内地からは100mほど南にあった。寺伝によれば、815年(弘仁6年)空海(弘法大師)がこの付近で修行をしていた際、熊野権現が現れて1寸8分 (約5.5cm) の金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたという。1927年(昭和2年)火災により本堂とともに空海作と伝えられていた本尊も焼失した。本堂は1940年(昭和15年)に再建が開始されたが戦争により中断、1971年(昭和46年)に全容が完成し、新造された本尊が開眼したと。 駐車場から南へ200mほどの所にある仁王門は江戸初期(1687)建立。高さ12.3m、間口9mと四国霊場最大級の威風堂々とした四国霊場最大級の姿。和洋と唐様の折衷による重厚な趣を示していた。県指定有形文化財。阿形像。吽形像。2層目の天井や柱には極彩色の天女の姿などが描かれていると。残念ながら非公開。納教所の横にレプリカが展示されていた。また天女絵は散華(寺院で法要を巌修する時に、諸仏を供養するために撒かれる、蓮の花の形をした紙片)に描かれて、肌守りとして納教所で販売されていた。駐車場に戻る右手にある池の太鼓橋のかかった弁天島に鎮座する弁財天。安産の祈願所。駐車場手前の手水舎。熊谷寺駐車場に車を駐め本堂を目指す。熊谷寺 境内配置案内図。山門(仁王門)をくぐって50mほど進み公道を横断すると右手に弁天池が左手には寺務所。駐車場の先から左手に上がっていくと参道の左側に多宝塔が。参道を進むと中門に至る。さらに三十三段の女厄除け石段を上ると右側に手水場があり、正面に本堂が建つ。本堂手前の左手に鐘楼があり、本堂左の四十二段の男厄除け石段を上っていくと大師堂がある。納経所は駐車場の南側である。参道入口近くの歌碑。『防波堤を 激しく叩く波頭 しぶきとなりて 風に飛ぶ見ゆ』多宝塔。内部は胎蔵界大日如来像を中心に、東に阿閦如来、南に宝生如来、西に無量寿如来、北に不空成就如来を祀っていると。江戸時代中期 安永三年(1774年)建立。本瓦葺・高さ 20.7m。多宝塔は四国で最大最古の規模を誇る。中門(二天門)に向かって進む。中門前で左に分かれている坂道の左右に 四天王 石像2体。多聞天(北の守神)。持國天(東の守神) 邪鬼を踏みつけ仏法を守る勇ましい姿。中門(二天門)にも持国天と多聞天が両脇に立つ。この中門は、現在の山門が出来る以前の山門であったと推測されると。持国天(東)、多聞天(西)は、貞享4年(1687)の作。色鮮やかな持国天。足下に邪鬼を踏みつけ、刀を持つ右手を振り上げて仏敵を威嚇。多聞天。右手に三叉戟、左手に宝塔を持つ。手水場。鐘楼堂。寛文2年(1662)長意和尚32歳の時の建立。当時の鐘楼堂は、四本柱に一般的な屋根といった形だったが、文化6年(1809)快塹和尚(かいざんおしょう)が、長意和尚百回忌の記念事業として改築を行い、現在の立派な二層の鐘楼堂が完成したと。当初の梵鐘は太平洋戦争末期に、武器弾薬等の材料として供出させられた。現在の梵鐘は、昭和24年に新たに鋳造されたものであると。本堂。本尊は千手観世音菩薩。昭和2年(1927)に火災に遭い、本尊と本堂を全焼。 昭和15年に本尊を安置する宮殿と拝殿が完成。昭和45年に入って、やっと供養殿と本尊が完成し開眼供養が行われた。この遅れは、戦争時代を挟んで工事が中断され、その後再開の糸口が掴めなかったためと。普明山 真光院 熊谷寺(ふみょうざん しんこういん くまだにじ)宗派 高野山真言宗本尊 千手観音菩薩創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿波市土成町土成字前田185 本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 毎年正月三が日と、毎月18日本尊千手観音が開帳されると。 太子堂。内部は胎蔵界大日如来像を中心に、東に阿閦如来、南に宝生如来、西に無量寿如来、北に不空成就如来を祀っていると。建立年代は、屋根に据え付けられた露盤に「露盤宝形一具 本願熊谷寺龍意宝永4年 丁亥天八月吉日 冶工 長谷川久左ェ門」の銘があることから龍意和尚(りゅういおしょう)の代の宝永4年(1707)の建立とわかったと。安置されている弘法大師像(徳島県指定有形文化財)は、寄木造りの坐像で、永享3年(1431)の作であると。平成19年に行われた解体修理の際、弘法大師十大弟子の墨絵が見つかり、全国的に貴重な作品であることが判明したと。 太子堂からの境内、手水舎そして手前に鐘楼。紅葉も始まっていた。鐘楼前の修行大師像。「長意和尚行録碑」寛文年間に地元の土成の新水氏より出て熊谷寺の住職となった長意和尚(ちょういおしょう)が、元禄年間の頃に、現在の境内の主な部分を手がけたとのこと。これについては、長意和尚の業績を記した石碑「長意阿遮黎行録」に残っているのだと。延命龍頭観音像。帰路の参道横の地蔵尊。「鎮守神縁起」。稲荷大明神。最後に、納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.25
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク5番札所:地蔵寺大日寺から5分ほどで5番札所・地蔵寺に到着。山門は単層。青い文字で「無尽山 」書かれた扁額が。左右に色鮮やかな多聞天、持国天の二天像が見張っていた。向かって右は口を閉じた宝棒を持つ持国天・吽形像。ここの仁王様は逆に配置?されていた。向かって左に金剛杵を持ち口を開いた多聞天・阿形像。地蔵寺 境内配置案内図。境内。山門を入って行くと右に大銀杏がありその先で石畳が交差。左に進むと左手に手水鉢があり、正面奥に本堂が建つ。その右手には不動堂・恵比須堂があり、石畳を戻ると手水鉢の向かいに水琴窟のある水子地蔵尊がある。大師堂は本堂に向かい合わの位置にある。大師堂の右に淡島堂がある。納経所は山門の正面にある庫裏の右端である。庫裏の左前には八角堂が。弘仁12年(821)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創された。本尊は弘法大師が自ら彫ったという1寸8分(約5.6cm)の勝軍地蔵であったが、宇多天皇の頃、浄函上人が熊野権現の神託を受け、霊木で2尺7寸(約88cm)の延命地蔵菩薩の像を造り、大師御作の勝軍地蔵を胎内に納めたと伝えられると。修行大師像。鐘楼。「淡島堂」は和歌山県にある淡島神社の分身とされ、万病封じの守護神。「たらちね大銀杏」は樹齢800年を越えるといわれる大木。太子堂。これも弘法大師像か?庫裏入口。方丈。八角堂。手水舎。先祖供養地蔵尊。本堂。嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤かった。熊野権現の導師であった函上人が、権現の霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納めたという。本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏により再建された。無尽山 荘厳院 地蔵寺(むじんざん しょうごんいん じぞうじ)宗派 高野山真言宗 本尊 延命地蔵菩薩 創建 弘仁12年(821年) 開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県板野郡板野町羅漢字林東5 本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 境内から大銀杏、山門を。本堂正面横には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)、通称「おびんつるさん」が祀ってあった。奥の院「五百羅漢」は地蔵寺の北側、階段を登った先にあった。安永4年(1775年)に実聞・実名という兄弟の僧によって創建された。なお、五百羅漢とは、「釈迦入滅後の第1回の経典結集(けつじゅう)、および第4回結集のときに集まったという500人の聖者。また、その像。」参道の階段を登っていけば、五百羅漢入口へ。羅漢堂は、コの字型の回廊となっていた。回廊途中に五百羅漢が並んでいると。回廊の真ん中に位置する釈迦堂。釈迦堂内部。奥の院・大師堂。ここが回廊の終着点。羅漢堂入口階段から地蔵寺境内を見る。地蔵寺 納経所。納経所の壁にはお遍路のポスターが。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------6番札所:安楽寺県道13号線を進むと右手に六番札所・安楽寺の駐車場があった。駐車場の中の小高い植え込みの中には修行大師が。 安楽寺へ向かう入口左にも大師蔵「思案之大師」 。この弘法大師像の像の左には「済世利人思案之大師」と書かれ、台座には「四国六番安楽寺」と大書されていた。通常の修業大師像は、笠をかぶっているが、この像は、笠を外していることが特徴か?そしてこの像の足下には歩き遍路の思案の姿も。中国っぽい作りの山門。白壁の竜宮門形式で上層が鐘楼になっていた。門の左右の切妻造建物内に金剛力士(仁王)像が安置されていた。 金剛力士(仁王)像 阿形像。 吽形像。 安楽寺 境内配置案内図。 手水場。地蔵の後ろに「逆松・さかまつ」。なんでも、修行中の空海が弓矢で射られそうになったところ、矢が松の枝に刺さったと。空海はその折れた松の枝を逆さに植えて、無事に育ったらこの地は栄えると。もちろん松は立派に育って今に至るとのこと・・・・であったが最近何故か切断された模様。 太子堂。太子堂内部。安楽橋手前からの多宝塔。 多宝塔の周囲では、八十八ヶ所霊場のお砂踏みもできるようになっていた。紅葉に時期には多宝塔が映えるのであろう。 多宝塔内部。 本堂。本堂の前には拝殿があるのは珍しいのでは。 寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたと。天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治年間(1658年 - 1661年)に駅路寺であった瑞運寺を併合して現在地に再建。本尊薬師如来坐像は、昭和37年(1962年)当寺の住職にすすめられて、妻の難病平癒祈願のため四国遍路を続けていた夫婦が、遍路途中に病気平癒をした報恩のために奉納したもので、43cm程の古来の本尊を胎内仏として納められていると。 屋根の左右に金の鳳凰。 「温泉山」 と書かれた扁額。大師堂前から湧き出る宿坊の温泉とラジウム鉱泉入りの薬湯も有名であると。彫刻も見事。 本堂内部。温泉山 瑠璃光院 安楽寺(おんせんざん るりこういん あんらくじ)宗派 高野山真言宗 本尊 薬師如来 創建 弘仁6年(815年) 開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県板野郡上板町引野字寺ノ西北8 本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 願い棒修行像。この寺には願い棒修行というのがあると。年齢ごとに決まってる数の棒を持って、お経を唱えながらこの大師像の周りを回るのだと。大師駒つなぎ石。本堂横の書院風の建物の前に、堂々たる巨石が横たわっていた。石の頂部には浅い穴がくり貫かれ、そこに大きな柱状の石がはめ込まれていた。聖徳太子が馬の手綱をここに結わえたのだと。その横には「源泉井戸」。金泉と銀泉の上には童観音が。本堂の横側の建物の造りも見事で美しかった。 西国三十三観音。 慈母観音。 境内の池には大きな鯉がのんびりと。 竹林の前の宝篋印塔? 池の周囲を散策。 池からの境内、山門。 巨大な石塔。 四国八十八箇所モデルトイレ 。「オンクロダノウ ウンジャク」トイレ掃除をする時オンクロダノウ…を唱えると良いと。遍路途中のトイレでも勉強しました。いつもより一歩前に出て、業を達しました。 温泉付きの宿坊。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.24
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク3番札所:金泉寺2番札所・極楽寺からほど近く、徳島の市街地にある3番札所・金泉寺(こんせんじ)に到着。まずは朱塗りの仁王門。三間一戸楼門、入母屋造。 阿形像。 仁王の目は、白眼の所が金色に。吽形像。 金泉寺境内配置案内図。 朱塗りの山門を入り小さい橋を渡ると左手に手水鉢がありその後に鐘楼・慈母観音が。向かいに観音堂がありその前に修行大師像が立つ。正面に本堂が建ちその左に護摩堂が、手前右手にあるのが大師堂。大師堂の右奥に黄金の井戸と閻魔堂が。手水鉢の場所から奥へ入ると納経所があり、その手前に弁慶の力石が置かれていた。極楽橋と本堂。寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したと。弘仁年間(810年 - 824年)に、空海(弘法大師)が訪れた際に、水不足解消のため井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたと。亀山法皇(天皇在位1259〜1274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。また、『源平盛衰記』には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載があると。 手水場。 八角形をした観音堂。寿永4年(1185年)の2月、屋島に向かう途中の源義経が必勝祈願の為に立ち寄ったと。内部の天井には美しい壁画があり、寺の中で一番古い仏像・勝運観音が安置されていると。観音堂の横には修行大師蔵が。大師堂と八角観音堂の間を奥に行くと、「黄金地蔵尊」と書かれた小さな祠があります。ここには、寺名の由来にもなっている黄金の井戸が。この井戸には言い伝えがあって、井戸を覗きこんだ時、自分の顔がはっきり映ったら長生きできるのだと。ただし、ぼやけていた場合、残念ながら短命なのだとか。もちろん私の顔ははっきりと水面に!井戸のそばに座っている北向きのお地蔵さんが黄金地蔵尊。首から上の病気に霊験があるのだと。大師堂。本堂。本堂内部。 亀光山 釈迦院 金泉寺(きこうざん しゃかいん こんせんじ)宗派 高野山真言宗本尊 釈迦如来創建 天平年間(729年~749年)開祖 行基 (聖武天皇勅願) 所在 徳島県板野郡板野町大寺字亀山下66 本尊真言 ”のうまく さんまんだ ぼだなん ばく”倶利伽羅龍王(くりからりゅうおう)。不動明王が右手に持つ剣に龍が燃え盛る炎となって巻きつき、煩悩を打ち破ると言う。 迫力あり。十二支の御守本尊。私は虚空蔵菩薩。丑・寅年の守り本尊。成績向上、記憶力増進、頭脳明晰、商売繁盛、技芸向上のご利益があると。丑・寅年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けると。六地蔵尊。 多宝塔(別称:忠霊塔 / 阿弥陀堂)。 総高10m、一辺2.5m。階段の上の忠魂塔。 長慶天皇陵。 『長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇だが、長らくその即位が疑問視されてきた幻の天皇であった。 長慶天皇研究の最大の障害は関連資料の乏しさにあり、長慶天皇の在位・非在位をめぐっては江戸時代以来議論が分かれていたが、大正時代に八代国治・武田祐吉による実証学的研究が決定的な在位説として評価され、長慶天皇の即位は動かない事実とされる ようになり、大正15年10月21日に詔書によって長慶天皇は第九十八代天皇として正式に皇統に加えられた。』と。墓石か?長慶天皇はこの寺で崩御されたと伝えられていて、本堂の裏には石灰質の自然石で「高さ約80cm、横約40cmで菊花の御紋入り」の御陵石と呼ばれるものがあり、案内によると「南朝長慶帝寛成尊太上天皇御陵」応永五年三月十九日崩御御寿五十三才とあると。慈母観音。慈母観音から慈悲の水を掛けられている幼子。苔の緑が美しかった。 護摩堂など広い境内にはいろいろと。 ここ護摩堂の格天井に花鳥画が描かれていると。太子堂と観音堂。 天満宮。鐘楼。 寺務所。 境内庭園。 弁慶が持ち上げたという伝説が残っている力石。源義経は平家追討の命を受け、讃岐国屋島へ向かう途中に金泉寺に立ち寄り、勝戦開運を祈願。その時、家来の弁慶が自らの力量を披露するために、この巨石を持ち上げたと。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------4番札所:大日寺三番札所・金泉寺より車で10分程で4番札所・大日寺に到着。 弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして5.5センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと。また「黒巌山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたと。 鐘楼門。朱塗りの山門で、上部が円柱の鐘楼となっており、1階は角柱という珍しい造り。(2018年春に新たに新山門が建立される予定)。 鐘楼門2階の梵鐘。 大日寺 境内配置案内図。上層を鐘楼とした山門を入ると左手の池の先に手水鉢があり、正面奥に本堂が建てられていた。本堂右手にある回廊を、安置されている観音像を鑑賞しながら進むと大師堂の横に出る。納経所は大師堂の向かい側に。手水舎。 参道脇の延命尊像他。 薬師堂。 薬師堂内部。 太子堂。 太子堂内部。 大師像を拝顔できました。 弘法大師画像 右。 弘法大師画像 左。 本堂。本尊は住職でも住職交代の折の人生2度しか見られない秘仏、前仏と同じ大きさで金色に輝く室町時代作。その本尊が修繕を期に2017年の3月から12月の毎月28日開帳されていると。本堂内部。黒巌山 遍照院 大日寺(こくがんざん へんじょういん だいにちじ) 別称:黒谷寺 宗派 東寺真言宗本尊 大日如来創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師) 所在 徳島県板野郡板野町黒谷5本尊真言 ”おん あびらうんけん ばざらだどばん”西国三十三観音像に向かうと左手に辨財天女が。 こういう姿は何故かほっとする自分がいました。西国三十三観音像。本堂と大師堂をつなぐ回廊全体にわたって木造の観音像は、江戸時代中期の明和年間(1764年 - 1772年)に大坂の信者が奉納したとされる。西国三十三観音霊場にちなんで西国三十三所霊場の三十三体の観世音菩薩像が安置されていた。これだけ並ぶと壮観そのもの。 丹後國 青葉山松尾寺 馬頭観世音菩薩。 美しい姿の十一面観世音菩薩。 ここにある千手観音、十一面観音は修復中。護摩堂か? 方丈前でお接待を受けました。美味しいノンアルコールの甘酒をご馳走になりました。 お菓子も頂き満足げな旅友Sさん。 四国ではお遍路さんは大師様と同じと考えるため、お接待は「大師様への功徳」なのです。また「自分の代わりにお参りを託す」という意味もあるため、時にはお賽銭など現金を渡されることも。道筋の小さな休憩所から、うどんやお菓子、お茶などを出してくださる接待所、ほかにも善根宿(無料で泊める宿)や通夜堂(寺の境内に設置された無料宿泊できる堂)など、お接待にはいろいろな形があるのだと。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.10.23
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク1番札所:霊山寺7時の開門を待つ間に駐車場裏の広場の様々な彫刻を楽しむ。ちょっとユニークな十二神像。鯨に乗った孫悟空。阿弥陀如来に土下座する孫悟空。お釈迦様の手のひらで 頭を抱える孫悟空。何かをして叱られている所でしょうか?横になって寝ころんでいますが、なぜかフクロウが膝の上に。全て若手の一人の作品の様に感じたが誰?そして漸く7時になり総合案内所も点灯しOPEN。お遍路グッズ販売店前のマネキンはお遍路フル装備。なぜ外人? なぜハイヒール?参拝をする前に境内外にあるこの総合案内所へ行き、白衣(びゃくえ)と輪袈裟(わげさ)を購入しました。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と背中に書かれた白衣。これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』。仏さまの慈悲の光は、すべてのものに及びます。そして、すべてのものに幸せを及ぼそうという智慧(ちえ)の働きは、ダイヤモンド(金剛石)のように堅固で輝きを失いません。これが「遍照金剛」の由来とのこと。そしてその横に「同行二人(どうぎょうににん)」の文字も。「同行二人」とはお遍路がお大師さまと二人ずれという意味。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けていると。そして一番上には、弥勒菩薩を表す梵字が。読みは「ユ」と。輪袈裟(わげさ)。輪袈裟は、僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務(さむ)や移動の時に用いるのが一般的であるとのこと。そもそも袈裟とは、サンスクリット語kasaya(「色の濁った」「よごれた」の意)の音写で、仏教の僧侶のまとう衣のひとつであると。霊山寺境内案内図。本坊側駐車場にある発心の門をくぐると山門前に出て、山門を入るとすぐ左に手水鉢がありその後に鐘楼がある。先に進むと左手に多宝塔、その向かいの池の先に大師堂があり、正面の最も奥に本堂がある。本堂に向かって左に十三仏の最初の不動明王坐像が祀られ、その左に続く十二仏が立姿で並んでいる。納経所は個人用が本堂の中の右側に、団体用は東側の駐車場から入ってすぐの所にある。 【これからの境内案内はWikipediaより転載させていただきます。】 【これからの上記地図は 【http://boianuf.hatenadiary.com/entry/20140802/1406960227】 より転載させていただきます】 言い伝えでは空海が四国八十八ヶ所を定めたといわれますが、これは事実ではないようです。江戸時代に真念というお坊さんが『四国邊路道指南』というガイドブックを書いて八十八ヶ所と札所の順番を定めたのが事実と。 霊山寺入り口の発心の門より境内へ。四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。四国遍路では、徳島に始まり高知・愛媛・香川に至る霊場巡りをそれぞれ「発心・修行・菩提・涅槃」といい、人が悟りをひらいて心の平安を得るまでの4段階になぞらえているのだと。「発心」は悟りを求める心、これから始めますという決心。そして我々も四国八十八ヶ所お遍路の旅を、ここ「発願の寺」・霊山寺からいよいよスタート。寺伝によれば霊山寺(りょうぜんじ)は奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間留まって修行したと。空海はこの地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難をはらって、心身の救済ができる霊場を開こうと修行をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・一乗院 ・霊山寺(じくわざん いちじょういん りょうぜんじ)」と名づけられたのだと。仁王門は入母屋造楼門。 「四国第一番 霊山寺」と書かれた大きな提灯。仁王門には口を開いた阿形(あぎょう)像が正面向かって右側に。 吽形(うんぎょう)像も左側に。 水屋。手を洗う場所ではなく心を洗う場所「洗心」、「心洗」。縁結び観音。仁王門を入ってすぐの所にある縁結び観音は、恋愛はもちろん、仕事の縁や健康との縁、幸せの縁など様々な「縁結び」にご利益があると。水でお清めして心の底からお祈りすれば、さらに功徳があるとか。水屋の廻りにはカエルの置物と不動明王像が添えられていた。仁王門を境内側から。 水子地蔵の池。池(泉水池)の中には稚児像が沢山浮かんでいた。そして大きな鯉が悠々と泳いでいた。泉水池と大師堂。多宝塔。歴史を感じる多宝塔だが、応永年間(1394〜1428)の建造で、五智如来像が祀られている。天正十年(1582年)、長宗我部元親の攻撃で堂塔は炎上。現在の塔は、その後に阿波藩主・蜂須賀光隆公によって再建されたもの。ちなみに、明治二十四年(1891年)にも霊山寺は出火により、本堂と多宝塔以外を残して焼失してしまう。本堂と並んで600年近い歴史を持つ、数少ない遺構で組み物が見事。右下には1945年にアメリカ軍が広島に落とした原子爆弾で燃えた火が灯され続けているのだと。水子地蔵。弘法大師も旅立ちの姿。三鈷松(さんこまつ)。密教法具「三鈷杵(さんこしょ)」を空海が中国から日本の密教成就の地に向かって投げたところ、 高野山の松の木に引っ掛かっているのが発見されたということから、三鈷松と言われ ますが、この松の葉が驚いたことに3本(普通の松葉は2本)あると。 ここの三鈷松の松葉を財布にいれていると幸せに。黄金色になったのを入れると 金持ちにと。本堂への階段を上る。本堂。本堂は改修工事がされており、中に入れず残念。 竺和山 一乗院 霊山寺(じくわさん いちじょういん りょうぜんじ)宗派 高野山真言宗 本尊 釈迦如来 創建 天平年間(729年~749年) 開祖 行基 (聖武天皇勅願) 所在 徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126番地 本尊真言: “のうまくさんまんだ ぼだなん ばく”板塀の前には、心静かな仏像が。 聖龍美観音像。等身大の十三佛。実際は十二佛。 再び多宝塔。多宝塔は上層が円形、下層は方形で建立され600年近い歴史を持つ。鐘楼。1505年に移された県下で4番目に古い梵鐘であり、県指定有形文化財に指定。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。霊山寺は2回目ですので「重ね印」を頂きました。そしてこちらも2枚目の御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も。---------------------------------------------------------------------------------------2番札所:極楽寺1番札所霊山寺から2番札所極楽寺まで1キロ余り、あっという間に第2番札所極楽寺に到着。ここ、2番札所極楽寺は、安産祈願子授祈願にご利益のあるお寺。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に小山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。 三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門が迎えてくれた。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置 金剛力士像。 朱塗りの仁王門を入って先方には赤い旗で囲んだ願かけ地蔵堂が。お地蔵さんの真言を唱え、自分も精進努力すれば不思議なご利益があると。 日照山 極楽寺 境内配置案内図。招福弁財天。境内には「雲海の浄土」と呼ばれる庭園が広がっていた。 見事な彫刻の手洗場。見上げると、極楽浄土のような絵が彫られていた。 柱にも龍の見事な彫刻が施されていた。子授招福大師。極楽寺は子授け祈願ができるお寺として四国の中でも有名。境内に祀られた子授招福大師は、子供を抱いている数少ないお大師様で、子授けの強いご利益があると釈迦如来像。水子地蔵尊。 六地蔵。三界萬霊(さんがいばんれい)の文字が刻まれていた。三つの世界・三界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものと。三界とは、無色界(むしきかい)、色界(しきかい)、欲界(よくかい)の三つをさすと。平和観音像。 阿弥陀如来像石仏。 鐘楼堂。薬師堂。江戸時代末期建立。 仏足石。釈迦が石の上で説法をすると、石に足形が残ったといわれるもので、本堂階段の上り口に。 44段ほどの石段を上る。正面に本堂が。本尊・阿弥陀如来像 は国重要文化財。「両界曼荼羅図」(二幅)と「地獄極楽図」はともに県指定文化財。日照山 無量寿院 極楽寺(にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ)宗派 高野山真言宗本尊 釈迦如来 創建 弘仁年間(810年 - 824年) 開祖 行基 (聖武天皇勅願) 所在 徳島県鳴門市大麻町桧字ダンノ上12番地 本尊真言: “おん あみりた ていぜい からうん”安産大師像。大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもの。 弘法大師像と聖観自在菩薩。太子堂。観音堂。観音堂には千手観音が祀られていると。本堂から右奥の大師堂の途中に 抱き地蔵の「重かるさん、軽かるさん」が。 地蔵さんを抱いて 軽いと感じたら 願い事が叶い、重いと感じたら悩みが長引くと。四国霊場会 特認大先達 田渕義雄さんの像。四国八十八ヶ所霊場巡拝百回成満記念に建てられたと。100回も納札に巡るのは、大変な時間と努力と労力が。長命杉。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル周囲約6メートルもある霊木。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定 大杉に繋がっている紅白の綱に触れると霊気が伝わり長寿のご利益があるそうです。一願水掛不動尊水を掛けてお願いすると願いがかなうという不動尊。ただし一回だけ。欲張ってはいけません。 本堂下の階段を下りる。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。極楽寺も2回目ですので「重ね印」を頂きました。そしてこちらも2枚目の御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も。
2017.10.22
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク10月13日(木)の夜から旅友のSさんと、四国八十八箇所お遍路の旅にSさんの愛車で向かいました。高速道路の深夜割引料金(3割引)を利用するために19時に茅ヶ崎のSさん宅を出発。「深夜割引」とは0時~4時の間にNEXCO東日本/中日本/西日本(NEXCO3社)が管理する全国の高速道路高速道路を利用(京葉道路・第三京浜道路・横浜新道・横浜横須賀道路は割引の対象外)しているETC利用車であれば、走行距離や割引適用回数の制限がなく割引を受けることが出来るのです。易しく言えば、0時~4時の間にチョットでも高速道路上にいれば利用した全区間の割引となり高速道路に入った時間、高速道路を降りた時間は関係ないのです。深夜割引のほかに休日割引、障害者割引のうち複数の割引適用条件を満たす走行に対しては、割引率が最も高くなる割引が適用されるのです(重複して適用されません)。 【http://www.driveplaza.com/traffic/tolls_etc/etc_dis_night/】より。四国八十八ヶ所(四国八十八箇所)は、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。単に八十八箇所ともいい、あるいはお四国さん、あるいは本四国ともいわれている。四国八十八箇所を巡拝することを四国八十八ヶ所霊場会では四国巡礼といい、似たような呼び方として四国遍路、四国巡拝などともいうのです。ウィキペディアによると『現代においては、従来の信仰に基づくものや、現世・来世利益を期待する巡礼者も引き続き大勢いるが、1990年代後半からは信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒しとしての巡礼者が増えたといわれている。一時期減ったといわれるすべての札所を徒歩で巡礼する歩き遍路も同じ頃から増えた。徳島大学、今治明徳短期大学など、四国の大学・短期大学の中には歩き遍路を自分を見つめ直す機会ととらえ、教育課程に組み込んでいる学校もある。遍路をするに当たり予約や届け出などをする必要がなく、いつどの札所から始めても終わっても自由で統計が取れないため人数は定かではないが、巡礼者数は年間10 - 30万人(うち歩き遍路が2500 - 5000人)ともいわれる。ニューヨーク・タイムズが2015年1月に掲載した世界の観光地ベスト52で「四国と遍路」が35位にランクされている』 とのこと。各寺本堂での参拝後は、境内にある納経所にて、持参した納経帳や掛軸や白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字の種字などを墨書してもらい、各寺の本尊が描かれた御影(おみえ)を頂き、納経料を支払うのです。 一昨年、同じく旅友のSさんと日本100名城スタンプラリーで四国を巡った折に、11寺程は立ち寄り、「お納経」を頂きましたが、その折、後日に四国八十八ヶ所お遍路の旅を行おうと決断し、今回の車でのお遍路の旅・前半となったのです。 【http://www.haruhino.com/archives/51779328.html】より。ネットでガイド本も購入し予習を行いました。19時に茅ヶ崎にあるSさん宅を愛車DUKEで出発し、ガソリンを満タンに。そして圏央道・寒川北ICから高速に乗り四国に向かって走り出す。そして海老名JCTから東名高速道路に。そしてひたすら東名高速道路を西に向かって走る。途中、工事渋滞を避けるため新東名を利用し、浜松SAにて休憩。豊田JCTから伊勢湾岸自動車道に移り、四日市JCより東名阪自動車道へ。亀山JCから新名神高速道路に移り土山SAにてトイレ休憩、運転を私に交代。新名神から草津JCから名神高速道路で大阪方面に向かう。そして吹田JCTから中国自動車道へ。カーナビに従い三木JCTから山陽自動車道(神戸西線)、山陽自動車道神戸西ICから神戸淡路鳴門自動車道を利用して漸く神戸-淡路島に架かる明石海峡大橋へ。明石海峡を大橋を渡る。時間は10月14日午前1時過ぎ。 明石海峡大橋は、兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路市岩屋とを結ぶ明石海峡を横断して架けられた世界最長の吊り橋。全長3,911 m、中央支間1,991 m。そして本州側から明石海峡大橋を渡ったところに位置する淡路SAに滑り込む。淡路SAは神戸淡路鳴門自動車道の本州側からの玄関口。明石海峡大橋などが一望できる絶景のビューポイント・淡路SA大観覧車。 北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が拡がっている。日本国内では主要4島、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬についで第11位の面積を持ち、人口では主要4島以外では沖縄本島に次いで第2位。大阪湾、播磨灘、紀伊水道に四周を囲まれ、北端の松帆崎で明石海峡に、南東端の生石鼻で紀淡海峡に、南西端の門崎(とさき)で鳴門海峡にのぞみ、本州四国連絡道路の神戸・鳴門ルートで本州・四国と繋がっている。 淡路SAに1:30に入る。 SA内部には思いの外多い人の姿が。 瀬戸内海特有の温暖な気候と風土で育つ淡路島産玉ねぎは「甘い・やわらかい・みずみずしい」と全国的にも有名。 明石といえば、なんといってもタコ!「明石ダコ」として全国にも知れわたっています。明石海峡は、潮流が激しく、そして豊富なエサに恵まれそんな環境の中で育つ明石ダコ。 このSAで3時間ほど車の中で仮眠。そして5:00になり四国八十八ヶ所お遍路のスタートとなる1番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」に向かう。鳴門ICから高松自動車道へ。時間は5:50過ぎ。 6時前に漸く空が白み出す。 板野ICから一般道へ。 そして6:05過ぎに1番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」に到着。 茅ヶ崎・Sさん宅から11時間・625kmの長距離ドライブ。殆どの行程を運転したSさんお疲れ様でした。 霊山寺駐車場で7時の寺の開門をしばし待つ。既に数台の乗用車が我々と同様に開門待機中であった
2017.10.21
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香取神社を後にし、香取市佐原の市街地にある歴史的な建造物の中にある伊能忠敬旧宅に向かう。佐原の街並みは、千葉県香取市佐原の市街地にある歴史的な建造物が残る街並み。商家町の歴史的景観を残す街並みは重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。車窓前方にレンガ造り2階建ての、ルネサンス風建築が。佐原三菱館 (千葉県指定文化財)。旧三菱銀行佐原支店本館、大正3年建築時は川崎銀行佐原支店、設計・施工清水満之助商店、現清水建設。歴史的な街並みゾーンの千葉県道55号佐原山田線(香取街道)を忠敬橋に向かって走る。 小野川沿いの美しい伝統的な屋並みを走り、駐車場へ。 「伊能忠敬記念館」の隣に立つ忠敬像。左奥は天体観測器の「象限儀(しょうげんぎ)」。天体の見える角度から現在地の緯度を割り出したと。伊能忠敬は現在の九十九里町小関の出身。「伊能忠敬記念館」 記念館に隣接する町営観光駐車場に車をとめると、佐原観光のメインとされる小野川沿いの美しい伝統的な屋並みはすぐ。正面に伊能忠敬旧宅が。小野川にかかる樋橋を渡る。 倉敷の街並みのミニ版の如し。 小野川にかかる樋橋の目の前が伊能忠敬旧宅(国指定史跡)。 旧宅入口。 伊能忠敬旧宅は、平屋造の瓦葺で、正門・炊事場・書院からなる母屋、店舗、土蔵からなる。母屋は玄関、書斎、納戸などの5室、建坪は24坪で、店舖は店および居間などがあって建坪32坪。旧宅は、伊能忠敬(1747~1818)が17歳から50歳まで30年余りを過ごした家。伊能家は佐原の有力な家の一つであり、酒造業や米穀売買業などを営んでいたが、忠敬は1762年(宝暦12年)に17歳で伊能家に婿養子に入り、1795年(寛政7年)50歳で江戸に出るまでこの旧宅に住んでいた。店舗・正門は忠敬が来る前に建てられ、書院は忠敬が設計したと伝えられていると。旧邸宅配置図。店舗と書院を斜めに繋ぐ部屋にある炊事場。この奥にも天体観測器の「象限儀(しょうげんぎ)」が。用水路沿いの書院は伊能忠敬自ら設計したと。 旧宅の庭にも伊能忠敬像が。こちらの像はやや細身。 伊能忠敬は、50歳になってから江戸へ出て西洋流の天文学を学び、55歳のときから、幕府の命によって、何回も測量旅行におもむき、17年もかかって、全国の海岸線を測量して精密な地図を作った。忠敬は測量旅行の旅ごとに、その地方の地図をつくり、最後にその総まとめとして日本全図を作り始めた。文化15(1818)年、江戸において73歳で亡くなったが日本全図である大日本沿海輿地全図は、弟子たちの協力によってその3年後に完成。日本の国土の正確な形は、忠敬によって、初めて明らかにされたのであったと。現在も残る土蔵は江戸中期の建築といわれ(文政4年(1821年)の修理銘が残る)伊能忠敬が婿養子に来る前からあったと。佐原でも現存する土蔵では、最も古い時期の建物。扉は観音開きが普及する以前の土の引戸。伊能忠敬家訓書碑。第一 仮にも偽をせず、孝悌忠信 にして正直なるべし。第二 身の上の人ハ勿論、身下の人 にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし。第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず。 水路沿いの洋館を樋橋越に。水路沿いは遊歩道になっており、かなり観光地化された感はあったが。 佐原の街並み案内図。 中村屋商店 【千葉県有形文化財】 1855(安政2)年築 正文堂。明治13(1880)年建築の土蔵造り。三重の防火設備を施している。登り龍と下り龍を配した看板「正文堂」の文字は、明治の三筆のひとり、巌谷修の書。 中村屋商店の3階建ての袖蔵は、1892年 ( 明治25年 ) の竣工。開口部の観音扉も銅版製。 国指定重要無形文化財「佐原の大祭」のポスター。諏訪神社の祭礼である秋祭りは、新宿地区を14台の山車が曳き廻され、あちこちで勇壮にして華やかな曲曳き「のの字廻し」などが披露されると。再び小野川に架かる樋橋に戻る。 堤防の階段を降り樋橋を見上げる。日野川の柳も剪定がされた後か。 帰路に向かう。再び佐原香取ICから東関東自動車道に。 渋滞もなく順調に。 東京ディズニーランドホテルが左手に。 首都高速湾岸線東京港トンネルを通過。 多摩川を渡る。右手に太子橋。 首都高神奈川1号横羽線からの横浜駅前近く。 横浜新道戸塚料金所を通過。 そして国道1号線原宿付近で渋滞にあったものの、ほぼ順調に藤沢バイパスを経由して茅ヶ崎のSさん宅にカーナビの当初の到着予定時間通りに17:50に到着。 3:35~17:50の14時間15分の日帰りドライブ観光を完遂し、我が車で帰宅したのは18:30。私の行動時間は15時間15分なのであった。そして13日(金)の夜からは4泊6日の四国八十八箇所巡りの前半戦に再びSさんの愛車で動き回って来たのである。
2017.10.20
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国道51号線を利用し鹿島神宮に向かう途中に、右手前方に茨城県立カシマサッカースタジアムが見えたので立ち寄る。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する鹿島アントラーズがホームスタジアムとして使用中。施設規模は、建築面積30,499m2、延べ床面積85,019m2を有し、主要構造部が鉄骨鉄筋コンクリート造+鉄骨造の地上6階建てで、建物の最高高さは49.5 m。2収容人数は約41,000人とのこと。 クラブハウスの中に入るとライトアップされたカシマサッカースタジアムの写真が。 巨大な鹿島アントラーズチームエンブレム。 階段を上がり競技場内部へ向かう。 しかし、全てのゲートは閉まっており、緑の芝生は見ることが出来なかった。 そして鹿島神宮へ到着。ここは若い頃、仕事で当時の住金鹿島に来た折り2回ほど既に訪ねた事のある神社。 鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社と。 鹿島神宮の主な祭典と行事。 鹿島神宮境内案内図。 参道を進むと左手に手水舎。 楼門には工事用足場が掛けられていた。楼門は社殿の入口に建ち、寛永11年(1634)に造られたもの。その大工に鎌倉時代以来の工匠の家柄坂上氏の一人、坂上吉正であった。形もよく、社殿の一環として重要なものであるばかりでなく、建築工匠史上の重要な資料となるものであると。三間一戸楼門、入母屋造、銅板葺の重要文化財。鹿島神宮 拝殿。御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。その昔、諏訪の神様と力比べをして武甕槌大神が勝ち、国家統一を果たしたと言われているため、鹿島神宮は武の神様が祀られているとして有名。鹿島神宮の特徴として欠かすことができないのが、多くの神社仏閣が東向きなのに対して、鹿島神宮の本殿は北向きに建てられていること。その訳は、武神の霊力を当時未開発の地であった東北地方に及ぼすため。そしてその後、大和朝廷は北へと勢力を伸ばしていった。このようなことから、鹿島神宮は日本建国の出発地点とも言われているのだと。 祈祷殿。 御朱印を頂きました。 奥宮への入口。奥宮は以前訪ねた事があったので今回はパス。 稲荷大明神。 神宮橋(じんぐうばし)は、茨城県潮来市と鹿嶋市を結ぶ950mの橋。 北浦は霞ヶ浦を構成する湖の1つ。面積約36km2、海抜高度0m、最大水深7m。潮来市の水原洲吠崎、鹿嶋市の爪木ノ鼻は北浦に伸びで出来た砂嘴。 潮来ICから東関東自動車道に乗る。 そして佐原香取で降りる。 次に香取神宮を訪ねる。この神社今回が初めて。香取神宮は下総国(千葉県北部)の一宮で、全国約400社の香取神社の総本社。茨城県の鹿島神宮・息栖神社と合わせて“東国三社”と呼ばれている。日本書紀にも登場する武術の神様「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」を祀り、勝運・交通・災難除けなどにご利益があると言われている。近年では“関東屈指のパワースポット”としても注目され、遠方からもたくさんの方が参拝に訪れる人気の神社。参道の入口には、「歓迎」「香取神宮」と書かれた立派な燈籠が。参道脇には食事処や土産屋など、いろいろな店があったが、かなりの店は、この時は何故か閉まって寂しい参道であった。 参道を進むと程なく見えてきたのが大鳥居。春は桜と大鳥居のコラボレーションも美しそう。大鳥居をくぐると5~6mほどもあると思われる幅広い参道が。参道の両脇には大きな石燈籠が建ち並び、厳かな空気が広がっていた。緑のモミジはあと1ヶ月も過ぎれば紅葉を始め美しい姿となるのであろう。 参道をまっすぐ数分進むと、朱塗りの総門そして楼門が登場。 総門。 手水舎。 楼門。重要文化財・楼門は本殿同様元禄13年の幕府造営のもの。三間一戸で、様式的には純和様で構築され丹塗りが施されていた。屋根は入母屋造銅板葺ですが、当初はとち葺であったと。楼上の額は沈黙の提督の名でしられる「東郷平八郎」の筆によるもの。楼門内安置の随身は俗に左大臣右大臣と呼ばれている。一説には、正面に 向かって右は竹内宿祢、左は藤原鎌足とのこと。左大臣(正面に向かって右)。右大臣(正面に向かって左) 楼門を抜け、見えてきたのは本殿・拝殿。奥の本殿は5代将軍徳川綱吉によって造営され、経津主大神の和御魂(にぎみたま)を祀っていると。 黒の拝殿は珍しかった。重要文化財である本殿(元禄13年(1700)建築)の正面に、権現造風に繋げて建てられている。昭和11年(1936)から15年(1940)にかけて行われた、内務省神社局の直轄による大修築に際し、造営されたもの。木造平屋建で、拝殿正面には、千鳥破風と軒唐破風を付け、足元から頭貫下端までの軸部は黒漆塗り、組物と蟇股は極彩色が施されていた。また、拝殿の内部は、床板と折上小組格天井の格縁が黒漆塗り、幣殿内部の床板・化粧垂木も同じく黒漆塗りであるのに対し、神饌所内部は、床・壁・天井とも素木(しらき)で仕上げられている。屋根はいずれも檜皮葺きで、複雑な権現造と調和。拝殿上部にも色鮮やかで見事な装飾が施されていた。 御神木御神木とは神様が降りてくる時の目印になる大きな木を御神木と指定され禍や厄災を招くものが、簡単に行き来できないように、結界として注連縄が貼られ、禁足地となっているのだと。 樹齢千年余りの杉の木。目通り(目の高さでの幹の直径)は、約7.4m。宝物殿。 宝物館には、国宝の海獣葡萄鏡など様々な美術品が展示されているのだと。宝物殿横で御朱印を頂きました。 社務所。 神饌殿。 本殿の隣にあるのが、三本松。中央に真っ直ぐ、そして両脇に斜めに伸びている二本は、実は根元でつながった一株の松なんです! 中央の松はなんと空洞香取神宮の末社に「匝瑳神社」本殿を裏から。 桜太刀自神社(さくらおおとじじんじゃ)。 御祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。香取神宮旧拝殿。千葉県指定有形文化財。元禄13年(1700)に楼門、本殿とともに造営。昭和13年に現拝殿造営に伴い移築。参道を戻っていくと二つの胸像が右手に。よど号ハイジャック事件で乗客の身代わりとして人質になった山村新治郎(11代目)と、その父(10代目)の像。千葉県佐原市(現在の香取市)出身。江戸時代から米穀商を営む由緒ある名家に生まれ、九代目新治郎のころから深く政界にかかわり合いを持ち、父の10代目新治郎は、衆議院議員として予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、第3次池田内閣において行政管理庁長官を務め、政界に重きをなしたと。山村の名前を一躍有名にしたのが、よど号ハイジャック事件である。1970年、山村が運輸政務次官を務めていた時にハイジャックが発生。当時の橋本登美三郎運輸大臣と共にソウルに向かい、交渉の末、乗客の身代わりとして人質になり、よど号に搭乗して犯人らと共に北朝鮮に向かい、その後解放されて帰国した。この英雄的行動により「男やましん」「身代わり新治郎」として山村新治郎の名が広く知れ渡った。乗客救助の功により内閣総理大臣顕彰を受賞したと。
2017.10.19
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大洗町の海岸散策を終え、8時前に最初に駐めた無料駐車場に戻り市場の散策開始。那珂湊漁港前に11店舗が軒を連ねる「那珂湊おさかな市場」。旬の魚介類、那珂湊や近海で漁れる地魚を豊富に取り揃えていると。初秋を迎え…岩牡蠣・カツオ・秋刀魚の美味しい季節!お食事処や土産屋、たくさんの楽しい店が集まっていた。しかしここは未だ全ての店が準備中。 更に歩を進めるとヤマサ水産(株)総本店が。既にこの朝捕れた多くの新鮮な魚、貝等が並べられていた。 涸沼しじみ。 鯛やキンメの高級魚も。 ヤマサ水産本店が経営する、2Fにある和風レストランやまさに入る。 レストランから見た那珂湊漁港前。僅かに陽光も。 おしぼりの袋には「おしぼりの日 10月29日」と。 手(指10本)を「拭く(29)」という語呂合わせからと。メニュー。何を食べようか迷ったが海鮮丼・1500円(税別)を注文。 海鮮丼にはアサリの味噌汁付き。 肉厚、大切の魚が10種類ほどそして大きな海老、蟹も。 完食して十分満足し、この日の目的地「国営ひたち海浜公園」に向かう。コキアの丘に近い「海浜口駐車場」に向かい開門の9時前に到着。 駐車場に500円を払い車を駐車し入場ゲートへ。 シルバー割引210円でチケットを購入し開門を待つ。 そしてコキアの丘に向かい進む。巨大ススキ「パンパスグラス」の間に観覧車が。 「パンパスグラス」はイネ科の多年草で、アルゼンチンやブラジルなど南米に群生する植物。「パンパ(南アメリカの草原)に生えている草」という意味の名を持ち、花の穂先までの高さが約4メートルにまでに。まさに「ススキのお化け」って感じ。 マリーゴールドも一面に。 国営ひたち海浜公園 全体案内図。 はまかぜ橋を渡るとそして目の前にコスモスそしてコキアの真っ赤な丘が。 この付近のコスモスはほぼ満開。 丘の頂上に向かい遊歩道を上っていく。 ここは「見はらしの丘」 。ひたちなか市内で一番標高の高い「みはらしの丘」からは、4月下旬から5月中旬にかけては、可愛らしい色・姿をしたネモフィラで、丘一面のネモフィラで彩られると。青い空、青い海、そして青い丘。この3つの青がひとつにとけあいながら繰り出す世界は、他では決して見ることができないものと。ネモフィラが終わると、ここみはらしの丘はコキア(ホウキグサ)を植付け、新たな見所を創出。ユニークな形に加えて、夏場の緑色からこの初秋は真っ赤に紅葉し、コスモスとともにみはらしの丘の表情を豊かにしているのであった。真っ赤なコキアを背景に様々な濃さのピンクのコスモスの競演。 真っ赤に変身したコキアが一面に拡がっていた。和名をホウキグサといい、昔はこの茎を乾燥させてほうきを作っていたのだ。実(み)は“とんぶり”といい「畑のキャビア」として親しまれていると。この公園のコキアや我が庭のコキアは観賞用の品種のようだ。9月下旬から10月上旬頃にかけて、夏の緑色から少しずつ紅葉し始め、日々移ろいゆく緑と赤のグラデーションの色合いは実に魅力的と。また、鮮やかに紅葉してみはらしの丘を真っ赤に染め上げる様も真に絶景。 みはらしの丘・頂上付近からの展望。 真っ赤な炎の如し。 19000m2のコキア植栽面積、32000株のコキアが植えられていると。 みはらしの鐘は強風で自ら爽やかな音色が響かせていた。 丘を下る。下方には未だ五分咲きのコスモス畑が。 遠くに巨大なカボチャが。 近づいてみると50cm以上の大きさの巨大カボチャ。 ひときわ真っ赤なコキア。 一方では周りに染まらず緑のままのコキア 。人間社会と真に同じか。コスモス畑の先に観覧車が。 手前に蕎麦畑、そして丘を上がっていくとコスモス、コキアと拡がる丘の裾野。 蕎麦畑には白の可憐な花が。 古民家の庭からは拍子木の音が。 古民家前広場で茨城の伝統芸能である大道芸「がまの油売り口上」が披露されるとのこと。 10分程待つと70代のオバチャンの口上実演が始まる。「さあさ、お立ちあい、ご用とおいそぎのないかたは、ゆっくりと聞いておいで・・」。筑波山がまの油売り口上研究会の一員の方と。 「だが、お立ち合い。血がでても心配はいらない。なんとなれば、ここにガマの油の膏薬がござりまするから、この膏薬をば此の傷口にぐっと塗りまするというと、タバコ一服吸わぬ間にピタリと止まる。血止めの薬とござりまする。これこの通りでござりまする・・」。西口・翼のゲートに向かって歩く。小高い丘では赤い萩の花が満開。 西池と翼のゲート。 中央ゲートに向かって更に歩く。観覧車を背景にパンパスグラス。 中央ゲートの手前のゲームランド。 「海浜口駐車場」に向かって更に歩を進める。プレジャーガーデンの花壇のコキアは真っ赤赤。 子供達がミニ電車に乗って。 青の朝顔が一面に。 コーヒーや軽食が楽しめるカフェ「Sea Side Cafe」では、光と静寂の中で太平洋を眺めながらゆっくりとした時間が楽しめると。 そして「海浜口駐車場」出口に到着。時間は11:30過ぎ。コキア鑑賞を中心に2.5時間の国営ひたち海浜公園散策を楽しんだのであった。
2017.10.18
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この日は日帰りで茨城県ひたちなか市の「国営ひたち海浜公園」に行って来ました。旅友のSさんから、この公園の名物コキア(ほうき草)が深紅に変わり見頃を迎えているとの情報を頂き、急遽Sさんの愛車で連れて行ってもらったのです。この日は、高速道路の深夜割引を利用するため、圏央道茅ヶ崎JCTゲートを4時前に通過し海老名JCTから東名高速道路、首都高速3号渋谷線、首都高速都心環状線、首都高速中央環状線首都高速6号三郷線を利用し三郷JCTから常磐自動車道へ入る。途中つくば市付近で濃霧に遭遇するも無事濃霧の中を進む。友部JCTで常磐自動車道から北関東自動車道に入る。北関東自動車道~東水戸道路を進み、水戸大洗ICで降りる。 臨海大洗鹿島線(おおあらいかしません)の常澄駅前の高架下を通過。大洗鹿島線は、茨城県水戸市の水戸駅から鹿嶋市の鹿島サッカースタジアム駅に至る鹿島臨海鉄道が運営する鉄道路線。 那珂川(なかがわ)に架かる湊大橋を渡る。 那珂川は、栃木県北部那須郡那須町の那須岳山麓を源とし同県東辺部を南に流れ、芳賀郡茂木町で東に向かい、茨城県を南東に流れてひたちなか市と東茨城郡大洗町の境界部で太平洋に注ぐ、一級水系那珂川の本流。そして那珂湊港那珂川河口にある無料駐車場の到着し車を降りる。時間は6:10。右手に赤いアーチ橋・海門橋。 那珂川の対岸にはアクアワールド茨城県大洗水族館が。 この時は曇天の強風で対岸の防波堤には大きな波が。 近くの那珂湊おさかな市場で海鮮の朝食を食べることにしたが回転は8:30~。よって待ち時間は大洗町の海岸線の散策に再び車で向かう。赤いアーチ橋・海門橋を渡る。 大洗海岸通りを進むと前方に多きな石灯籠が。これは大洗磯前神社の一の鳥居。鹿島灘の波も強い風で荒かった。大洗マリンタワーが前方に。地上60mの大洗町のシンボル「大洗マリンタワー」。高さ55mの展望台から眼下に大洗港の様子を眺めることができるとのことであるが開業は9:00。1988年(昭和63年)10月 開業。2011年(平成23年)3月11日に東日本大震災の津波で1階が被災し休業したが4月16日 に営業再開にこぎつけたと。出っ張った3Fが展望台、その下の2Fには喫茶店がある模様。 そして道を戻ると再び先程潜った大洗磯前神社の一の鳥居が。「大洗磯前神社」と書かれた巨大な扁額。 神社の駐車場に向かって坂道を登る。 参道入口の烏帽子岩。大洗磯前神社御鎮座1140年記念事業之碑。平成10年(1998年)が御鎮座1140年(干支一巡60年x19回=1140)。本殿の解体修理、大洗海洋博物館の改築、参拝者休憩所の新築、駐車場、参道の整備拡張、瑞宝垣の改築などの記念事業が行われたことが記載されていた。そいて駐車場に車を駐め散策開始。参道を進むと左手には「軍艦那珂忠魂碑」が。 大正14年11月に竣工した「那珂」は5500トン型「球磨」「長良」型の最終改良艦である「川内」型の二番艦(姉妹艦「川内」「神通」)。新造時の常備排水量5595トン、全長262.46メートル、全幅14.2メートル、走力35.25ノット、主要兵装14センチ砲7門・8センチ高角砲2門・61センチ魚雷発射管8門水偵1機。球磨型・長良型の3本煙突に対して、ひとめでわかる4本煙突が特徴と。那珂は1944年2月のトラック島空襲により沈没、戦後茨城県大洗町に鎮座し水戸黄門こと徳川光圀により再建された大洗磯前神社の境内に1983年2月17日軍艦那珂忠魂碑が建立され那珂が沈んだ2月17日には慰霊祭が行われているのだと。大洗磯前神社(おおあらいいそさきじんじゃ) 案内板。中世には戦乱で荒廃するが、近世になって水戸藩主の徳川光圀・綱條により再興。本殿・拝殿・随神門が茨城県・大洗町の文化財に指定されているほか、海岸に立つ鳥居で有名。主祭神は大己貴命 (おおなむちのみこと)。大己貴命が国造りを行うため、境内前方の岬の岩礁に降臨したと。 その岩礁方面の鳥居。手水舎。 随神門は町指定文化財。 随神(正面右手)。随神(正面左手)。 拝殿は県指定文化財。一間社流造で茅葺。享保15年(1730年)に現在地に遷座。拝殿内部。彫刻も色彩豊か。 拝殿前には蛙が三匹。左右には、狛犬ではなく「あ・うん」の蛙。そして中央にやや小さな蛙。蛙は「無事かえる」などの語呂合わせで縁起が良いから??授与所は早朝のためまだ開いていなかったので御朱印は頂けなかった。大己貴命が国造りを行うため、境内前方の岬の岩礁に降臨したと言われる場所に立つ鳥居と日の出を撮した巨大な写真が境内に。 階段を降り写真の鳥居に向かう。 岩礁に立つ鳥居。 鳥居の上で羽を休める海鳥。 岩礁には白波が絶えず。 こちらが正面鳥居。扁額「大洗磯前神社」は熾仁親王の書。 右手に神池。神池の手前に清良神社。不運の内に亡くなった小幡宥円という人物を祀った社だとのこと。階段下から境内の鳥居を見る。 階段を上がり再び境内へ。社務所。神馬所。境内の一角には御用を終えた船の錨が沢山奉納されていた。錆びついた奉納の錨はやや寂しげ。
2017.10.17
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先日、TVK(テレビ神奈川)で紹介されていた、横浜市旭区にある追分市民の森にコスモス畑を見に行って来ました。道路渋滞もあり自宅から1時間弱で到着。 旭区の西部、帷子川の源流域のある自然豊かな市民の森。谷戸の田んぼや畑の田園風景が樹林と一体となり、四季折々の自然を楽しむことができるのです。花畑は季節によってコスモス、菜の花、ヒマワリ、などのいろいろな花を楽しむことが出来るのだと。 コスモス畑には、様々な色合いのピンクそして白のコスモスが今や盛りと咲いていました。 地元民しか知らないと言われている絶景のコスモス畑。 コスモスの花をズームで。 白も。 この日は蜜蜂の姿は確認出来ず。 様々な場所から撮った写真のコラージュ。コスモス畑の前の水田は既に稲刈りが終わって、稲が干されていました。 そして更に車で狭い道を進み奥へ。再び追分市民の森 お花畑マップ。小さな広場に車を駐める。回りの杉林もしっかりと管理されているようでした。 旭区では、豊かな自然が残る区の特色を活かした「旭区グリーンロード構想」を推進していると。この構想は、街路樹や遊歩道、公園などを緑でつなげ、区全体がひとつの大きな公園となることをイメージしたものと。仮設トイレが2つ。 歴史を感じさせる看板。 春には菜の花が、夏にはヒマワリが植えられる場所は綺麗に耕耘され、この後は菜の花の種蒔きか?ヒマワリが咲くと。【https://blogs.yahoo.co.jp/zacho_syjhs0096/GALLERY/show_image.html?id=25588481&no=2】より。春には1万m2以上の畑に30万株以上の菜の花が咲き誇るのだと。 菜の花が咲くと。 【https://www.youtube.com/watch?v=595TgBvDGw8】より。来年は春の菜の花、夏のヒマワリ、秋のコスモスを再び訪ねたいと思っています。
2017.10.16
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この時期、我が家の庭には紫の花や実が溢れて楽しませてくれています。まずは紫苑 (しおん)。 そしてコムラサキの実。 コルチカム。 そして酔芙蓉。 朝顔。 こちらも朝顔。 ネットに「紫が好きな人ってどんな人?」のHPがあったので、その中で私に似ていると勝手に思ったもものを紹介します。★プライドが高い。★文化的なものに関心があり、威厳や地位に憧れ重んじる。★団体行動より、ひとりでいることを好む。★自分の感性を大切にし、独自の世界観をもっています。 他人に侵されたくないと無意識に思ってしまっている。★平凡さを好みません。 特別なものを見る能力に長けている分、どこかで刺激を求めている。★物事を見る力に優れているので、その時々にどうしたら良いのか、誰にどのように 指導すれば良いのかを本能で判断することが出来る。★・・・・・・・・・・・・・・・・・・??私をご存じの皆さん、いかがでしょうか?
2017.10.15
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我が趣味の養蜂場のコスモスが次々とピンクそして白の花を咲かせています。 花の少なくなったこの時期の、ミツバチの貴重な花粉源、蜜源として種を蒔き育ててきました。 濃いピンク、淡いピンクそして濃いピンクが放射状に入ったコスモスそして純白のコスモス。 ズームで。2種類のピンクの競演。 こちらは淡いピンク。 まだまだ蕾があり、次々に開花中。後ろには西洋ミツバチの巣箱が。 純白のコスモスの中心には真黄色の両生花。 濃いピンクの花。薄いピンクの花。白地に濃いピンクの縁取りが入るピコティ咲き(覆輪咲き)の品種。こちらはピンク地に濃いピンク色の縁取りが入るピコティ咲き。花は周囲に8片の舌状花(雌花)、中央部に筒状花(両性花)が多数。筒状花は5弁花で星形に開き、雄蕊は黒紫色の花糸5個が筒状になっており、葯室は5個で黄色。我が蜜蜂が訪花して、花粉と蜜を集めていました。並んでいる巣箱の目の前がコスモス畑。巣箱にはスズメバチ対策用のトラップを設置しています。そして訪花中の我がミツバチを発見。別のカメラで他の花のミツバチをズームで撮影。コスモスは英語で「宇宙」の意味だが、植物でいうこのコスモスはギリシア語の「kosmos」に由来し「美しい」という意味とのこと。もちろん美しい花の姿に由来。 原産地はメキシコ高地とのことであるが、ヨーロッパへは17世紀末~18世紀初頭にスペイン人神父によりもたらされたと。そして日本へは江戸時代末、文久年間に伝わったと。広く普及したきっかけは明治前期、イタリアから東京の美術学校に赴任してきたラグーザによって持ち込まれたタネによると。 以下はネットからの情報をそのまま掲載させていただきます。【http://www.tenki.jp/suppl/romisan/2016/09/13/15081.html】『コスモスは外来種なので、和名が「秋桜」であっても、それを「コスモス」とは読みません。 「秋桜」と書いて「あきざくら」と読みます。 なぜ「秋桜」と書いて「コスモス」と読むようになったのでしょうか。 それは、昭和52年に山口百恵が歌った「秋桜」という歌謡曲が大ヒットしたからなのです。 嫁ぐ娘が母を思う気持ちを歌った歌で、当時の山口百恵は18歳でした。 作詞作曲はさだまさし。曲のタイトル「秋桜」を「コスモス」と読ませ、歌詞の中でも 「秋桜」と表記して「コスモス」と読ませました。・・・・・・・中略 「秋桜」と書いて「コスモス」は図鑑や難読漢字にも取り入れられるほどで、歌の世界から 抜け出し、ほぼ一般化しています。今では「秋桜」を何の疑問もなく「コスモス」と読む人が 多いのではないでしょうか。 』と。
2017.10.14
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この日は我が趣味の養蜂場のある畑で栽培していた落花生の収穫を行いました。今年はやや少量の10株程度を栽培。 日本ではサヤのままのものを「落花生」や「南京豆」と呼び、この中の実だけのものをピーナッツと呼ぶのが一般的になっているのでしょうか。ナッツに分類されることが多いので、木になる果実のイメージがあるかもしれませんが、落花生は地中に出来るのです。今の子供達の中にも、落花生が地中に出来ることを知らない子供が多いのではとも。株を抜いて見ると思いの外落花生が付いていました。 落花生(らっかせい)は面白い植物で、マメ科の蔓なし品種と同じように30cm前後の大きさに成長し、夏になると黄色い花を咲かせます。面白いのはここからで、普通の豆は花の付け根が膨らんできますが、落花生は子房柄と呼ばれる一本の蔓が花托の脇から伸びて地面にもぐっていきます。その先が膨らんで殻付きの実をこの様に実らせるのです。その様子から「落花生・・・花が地面に落ちるようにして実を付ける」と名付けられたのです。 畑で一つ一つ摘んで収穫しました。 サヤ付きの落花生の場合、サヤが白く綺麗な方がいいとは限らないのです。サヤがつるっとしている場合収穫が早すぎて未熟な場合が多くあります。私は丸く太りすぎたものではなく、やや細長いピーナッツの形をしたものが美味しいのではと感じています。 自宅に持ち帰り、早速一部を水洗い。 そして早速『茹でピー』 に。水に対して3%ほどの塩を加え沸騰させます。茹でている間アクが出てくるので除去。沸騰しているところにサヤごと落花生を投入し、実の大きさにもよりますが30分~40分程茹でました。30分を過ぎた辺りから時々1つ取り出して固さを見ながら試食。茹で上がった落花生。ザルにあげ、そのまましばし冷却。 殻を割り取り出したのピーナツ。 程よい塩加減と温かくて柔らかい食感はやみつきになる美味しさ。止められない、止まらない茹でピーだったのです。 そして学生の頃、北海道を旅行した折、知り合った比較的若いオバチャンの会話を想い出したのです。A:南京豆の畑が見事に拡がっているよね。B:エッ、落花生の畑じゃないの?C:二人とも何言ってるの、ピーナッツ畑じゃん!!因みに3人の年齢はA>B>C。日本での名前の順番もA:南京豆>B:落花生>C:ピーナッツであることを帰宅してから知ったのでした。
2017.10.13
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我が家の車庫の横の「ミズヒキ」が今年も開花を始めています。 長さ20〜40cmになる花穂を出し、それに小花がまばらに咲いています。正月飾りや祝儀袋などに使う「水引」の名のとおり、線のように細い長い花茎を伸ばして小さな赤い花を穂状に咲かせています。花はこの時期、夏の終わりから晩秋にかけて長く咲きますが、ひとつひとつの花が小さいせいか郡植しないと存在感が出ないのです。妻はこのミズヒキの花が好きなようで、大切にしていますので、かなりの群生になって来ました。 上から見ると赤く見え、下から見ると白く見える花を、紅白の水引に見立てたのだと。白色は花の裏側に隠れているので普段はよく見えませんが、このように花が開くと、紅白ともにハッキリと確認することが出来るのです。別のカメラで接写。 名の通り紐の様に細く。赤い針金が延びているような、花なのか何なのかよく分からない、不思議な容姿。先がカギ形に曲がった白い花柱が外に。 先端が鈎状に曲がる雌しべ(柱頭)、細くて頼りなさそうですが、思いのほかしっかりとした固さを持っているのです。そしてタネは俗に言うひっつき虫の一種で、めしべの先端が動物の毛などに引っかかってタネが遠くに運ばれるのです。ミズヒキの花は地味な草花であまり目立ちませんが、群生してすくっと立って赤い小花を咲かす姿は風情があり、妻の好きな花。撮るとなるとなかなかピントが合わなくて苦労するのです。やはりこの花は近づいて見る花なのです。
2017.10.12
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先日、イチゴの苗の定植を行いました。今年のイチゴの収穫が終わった6月下旬ごろに太くて生育の良いランナーを残しておいて子株を育てて来ました。そして子株の根がしっかりと根付いたら、子株の根元からランナーを親株側数センチを残してハサミで切り取りました。そして切り取った子株はこの苗床に植え付け更に苗を生長させておいたのです。子株は親株から見て最初のものは病気などを受け継いでいる可能性があるので利用しないで、2番目以降の子株を利用するようにしたのです。 すなわち長男(太郎苗)は利用せず、次男(次郎苗)、3男(三郎苗)・・を来年用の苗として利用するのです。定植用の苗床を作りました。堆肥、化成肥料、鶏糞そして少量の過リン酸石灰を施肥しました。 イチゴの肥料は肥料は窒素(N)、リン酸(P)、カリ(K)、その他の要素(Ca、Mgなど)をバランスよく与える必要があります。特に、実の付きをよくしたり味をよくしたりするには、リン酸が必要と昔母から。植付け用の苗床は写真のように20cm程盛り上げて造りました。そして約30cm間隔に2列で植え付けました。 定植の際は浅植え、深植えにも十分注意しました。特にクラウン部が土に埋もれないように深植えは厳禁。クラウンとは「王冠」の意味で、イチゴでは葉柄の付け根である地上部の短い茎の部分を表しています。すぐ下の地下部の葉柄の付け根からは根が出ます。クラウンが大事なのは、その中に生長点があり、新しい葉や花房がそこで形成されるから。クラウンの大きさで果数などがある程度予想することが出来るのだとこれは近所の農家の方から。定植後はタップリ潅水する必要が有るため、翌日は雨との天気予報からこの日にしました。翌日はたっぷりの降雨、1週間位は株元が乾かないようなったので活着が促進され根付いてくれた株の状況です。苗も再び生き生きと立ち上がって来ました。定植後に発生したランナーは早めに摘み取って株の充実を図るようにしています。また、古くなった下葉は摘み取り、出来ることなら展開葉が5~8枚の状態にして冬を迎えられればベストなのですが。 そして今年も孫用にプランター4鉢にも3本ずつ苗を植え付けました。 イチゴは寒さが厳しくなると休眠する性質を持っていて、寒さが厳しくなればなるほど活動を停止し、寒さから身を守るのです。そのため、低温、乾燥に耐えられるのですが、プランター栽培の場合は、極度の乾燥はイチゴの株を枯らしてしまうので注意が必要なのです。 そして年越し立春を過ぎると陽射しは日増しに強くなり、休眠しているイチゴの株は、気温、地温の上昇を待ち望んで来ます。地域差はありますが、3月を迎える頃にはイチゴの葉もいくらか緑色を増して、少しずつ活動を開始します。この頃、保温資材を取り除き、枯れた葉や古い葉をきれいにに取り除きます。付けておくと病害虫の発生源になるのです。次に地植えのものは、黒いポリフィルムでマルチングをしてやります。株全体をすっぽりと覆い、株の真上を小さく切って、株全体を引き出すのです。マルチングをすることにより、地温の上昇、雑草の発生防止、泥のはね上がり防止、イチゴの実の腐敗防止等々の効果が大いに期待出来るのです。そしてソメイヨシノの開花期まもなくイチゴも開花を始めるのです。開花からおよそ1ヶ月で収穫を迎えます。我が家ではゴールデンウィークの終わり頃になるのです。下の写真は、今年の5月中の最後のイチゴ収穫の状況です。来年も真っ赤な実をたくさんつけ、孫と一緒にイチゴ狩りを楽しみたいと思っている「ジイジ」なのです。
2017.10.11
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身延山散策のブログアップで時間を要しましたが、先日我が長男のパートナーのご両親から、地元岡山名産の高級ブドウが届きました。 大きなブドウと岡山城そして後楽園の描かれた箱の蓋を開けると、緑と紫の大きなブドウが仲良くビニール袋に包まれて。 ビニール袋に入っているためピントが合いませんが。 『岡山県産 まるごと皮ごと食べられるシャインマスカット「晴王」』。 そしてもう1種類も紫の大粒。 『NEW ピオーネ 種なし』。 巨峰とマスカットの交配種・ピオーネにデラウエアと同じようにジベレリン処理を行うことで種無しに育てたものが、NEWピオーネであると。シャインマスカットの色は黄緑色で、粒はやや楕円形。 早速ご馳走になりました。種が無く本当にパリッと張った薄い皮ごと食べられ、そして「甘かった」のです。 「ピオーネ」は「黒い真珠」と呼ばれ、その色はポリフェノールのひとつであるアントシアニンから。 粒がふっくらとしていて、全体が濃い色づき。酸味と甘みがバランスよく風味が最高と。 そして昨夜は「ピオーネ」も。食べている途中の写真ですが。ピオーネの切断面です。真ん中はやや緑ですがほぼ全面紫色。多汁で、糖度も高く、強い甘さとそれを支える爽やかな酸味も。さすがにピオーネの皮は食べられませんでした。ところで昔、ヨーロッパを旅した時、我々日本人がブドウの皮をむいたり、食べずに皮だけ出しているのを見て驚いていた現地の女性がいたことを想い出しているのです。欧米ではブドウの皮を食べる人の方が多いのです。日本で一般的にブドウの皮を食べないのは、一つには昔、日本で作られているブドウは皮が厚く、硬いものがほとんどだった、ということでは。日本は世界の中でも雨が多い国なので、ヨーロッパのブドウのように薄い皮のものは栽培が難しいのだとこれもテレビからの情報の受け売り。最近では日本のブドウでも、皮を薄くして食べやすくする工夫が重ねられていて、ヒットしているブドウの多くは、「皮まで食べられる」ことを売りにしているのです。その代表が今回送っていただいたシャインマスカットでは。岡山のSさん、高級ブドウを大いに楽しませて頂いております。いつもいつもお心遣いありがとうございます。
2017.10.10
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日蓮聖人の祖廟を訪ねる。右手に常唱殿。正面を透かしガラス張りにした殿堂で、祖廟塔に正対。あくまでも祖廟を拝礼するための建物。はじめ常経殿と名乗ったが、一時、常唱殿を称したこともあったので、その後の混乱を避けて、平成12年5月1日より正式に常唱殿となったと。常に参拝者の祖廟拝礼の唱題が盛んにおこなわれるよう、願ってのことであると。 納骨供養塔。 納骨を依頼すると、 納骨は身延山のお勤めに併せて法要を行うと。法要後は、この合同の供養塔にお骨を埋葬してくれるようだ。霊山橋(りょうぜんきょう)を渡る。祖廟ならびに草庵跡などに参拝するために架けられた石橋で、渡る川が、聖入の消息にもしばしば登場する身延川。霊山とは、お釈迦さまが法華経をお説きになっている法華経の霊山浄土のこと。日蓮聖人は「かの月氏の霊鷲山は本朝この身延の嶺なり」あるいは「仏菩薩の住みたもう功徳聚の砌なり」などと仰せになり、ここに霊山浄土を感得されたと。その霊山浄土感得の霊域へもうでるための橋であるからこの名になったと。水屋。参詣者の清め、手水のために設けられたもので、屋根の下に自然石を繰り抜いた水盤を置き、そこへ身延川の清水を導いていると。階段の上が祖廟拝殿 。拝殿の下、階段の昇り口中央には巨大な一本灯籠が。正面には「大光普照(だいこうふしょう)」と刻まれ、これは法華経の経文であると。祖廟拝殿。祖廟を拝礼するための建物で、千鳥破風、御所向拝丸太建築桧皮葺きの造作。 殿内の頭上中央に掲げる「立正」の大額は昭和天皇より賜った勅額で、大正天皇から聖人に賜った「立正大師」の贈り名にちなんだもの。 日蓮宗本山の身延山久遠寺のご紋は、近衛家から与えられたもので、近衛牡丹と同じような「抱き牡丹」。 祖廟塔。拝殿の正面に厳然と聳立するのが、聖人の「墓をば身延」にというご遺命にしたがって立てられた御墓。聖人の御墓は、祖師の御廟ですから祖廟、あるいはたんに御廟と呼び、これに架けられた塔を祖廟塔、御廟塔というと。五輪塔に刻まれた「妙法蓮華経」の5字は、聖人の本弟子・日昭上人あるいは日向上人の筆であると伝えられていると。 祖廟に向かって右側の奥にあるのが、延山久遠寺歴代上人の墓所。 第二祖・佐渡阿闍梨日向上人以来の身延山久遠寺歴代上人の墓。聖人滅後、祖廟格護の身延山は、聖人の本弟子6人(六老僧)を中心とする月交代の輪番制によって守られて来たが、聖人7回忌を機に住職制が敷かれることとなり、本弟子の一人である日向上人が選ばれ住職となった。以来、聖人を開山に仰いで日向上人二祖となり、これより世代は連綿と継承されて現代に至っていると。正面には二祖:日向上人の墓。石造の玉垣に囲まれた正方形の地面こそ、聖人9か年生活の御草庵跡。 聖人はここで、法華経の読誦と弟子・信徒教育のための法門の談義、さらに多くの曼荼羅本尊や、厖大な著述・消息の執筆などに明け暮れたと。法界堂。聖人の御草庵のおもむきを今に伝えるために、その形を模写・縮小しながら建造したもので、聖人ご在山のご生活を偲ぶよすがとしていると。 日朝上人が移設するまでは、「久遠寺」はこの質素な堂であったのだ。堂内部。 常唱殿に立ち寄る。 御首題を頂きました。 日蓮宗海外開教先師顕彰碑。 祖廟を後にし、参道を歩く。南之坊。 南之坊 身延山研修道場。 樋の沢川に架かる竜潜橋(りゅうせんきょう)を渡ると、ここが日蓮聖人 御墓・御草庵跡 正式参道入口。 清兮寺。明治18年(1885年)官有地であった旧樋沢坊の跡地の払い下げを受けて日鑑(身延山久遠寺74世)の隠居所として起工され、翌明治19年(1886年)に完成したが、日鑑はすでに遷化していたため1度も居住できなかった。明治32年(1899年)酒井文子(旧姫路城主で伯爵酒井忠顕の室)によって本堂が建立されたと。樋之沢川に架かる赤い欄干の三味橋を渡る。 更に久遠寺境内に向けて急な坂道を登る。再び林蔵坊(りんぞうぼう)入口。階段と石垣がその歴史を感じさせてくれた。 斜行エレベーターが久遠寺境内に向かって上昇中。 久遠寺境内を横切り再び甘露門を潜る。 帰路は急階段の「菩提梯」ではなく、女坂を下る。 女坂の途中の杉林の間から菩提梯が見えた。 円台坊(えんだいぼう)入口と文殊堂。円台坊は中老僧日源上人の開基で、正和年間に開創。 菩提梯を再び見上げる。夫婦が久遠寺境内を目指して頑張っていた。 久遠寺三門横の竹之坊。 身延山久遠寺の宿坊として最古級の坊。弘安3年(1280年)大国阿闍梨日朗(六老僧の一人)を開山に創建。数度の移転を経て現在地に移転。 再び身延山・久遠寺三門。 三門の斜め前の恵善坊。日信上人がが開いた寺院。三門の前に位置し、夜はライトアップされた三門が目前にと。南無金剛子育観世音菩薩像。 田中智学先生法勲碑。田中智学(1861~1939年)は日蓮主義運動を展開、日本国体学を提唱した宗教家。「八紘一宇」を造語したことでも知られるので、軍国主義者のように思われているが、それは誤解で戦争批判や死刑廃止を訴えていたという。 久遠寺三門を後にする。「またのお越しを心よりお待ち申し上げます」バスの時間に余裕があるので商店街を更に進み総門まで歩くこととした。途中の左手高台には石割稲荷社の鳥居が。そして積善坊と刻まれた石碑も。身延川に架かる太平橋を渡る。 前方に総門の姿が現れた。総門に到着。 右手の長い階段の上の高台には発軫閣(ほっしんかく)が見えた。日蓮聖人御在世の折りには、この発軫閣の位置を通る道があり、日蓮聖人はその道を通って御草庵に入ったという説があるとのこと。 総門を潜り正面から。国道52号線に面した身延山の玄関で、参詣者がまずくぐらなければならない関門。日蓮聖人入山の折、出迎えの南部実長公と対面したのが、いま身延の総門を入ってすぐ左の玉垣でかこまれている場所。日蓮聖人は石に腰をかけ南部実長公と対面されたので、このところをむかしから「逢島」とよんで、山梨県の史跡になっているのだと。この総門は寛文5(1665)年28世日奠上人によって建立。 扁額の「開会関(かいえかん)」は36世日潮上人の筆によると。開会とは、一切の人々は法華経の信仰によって仏になるとの意味から、この門を入ることによって仏さまの世界に入っていくことを示していると。これで右から「開会関」と書かれているのだと。総門に付属した関所?警備員詰所?の如き建物。 そして総門前からバスに乗り身延駅へ。そして帰路も往路と同じルートで。帰宅したのは20:30。 早朝、始発電車に乗り日帰りで身延山を訪ねたのであった。久遠寺は、身延山にある日蓮宗の寺で、神聖で荘厳な雰囲気が漂っていた。本堂はもちろん、三門も立派で圧倒的な存在感が。本堂に辿り着くには長い階段があったが、登り切ったときの達成感は格別。そして本堂、祖師堂の見事な彫刻を楽しむ事が出来たのであった。身延山・奥の院からの眺望は雲に邪魔され残念であった。久遠寺の周囲には多くの宿坊が。両親はどこの宿坊に宿泊したのであろうか。次回は桜のシーズンまたは紅葉のシーズンにもう一度とも。 --------完---------
2017.10.09
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山頂奥之院駅に到着するロープウェイ・ゴンドラ。 最初の予定は、下山はロープウェイを使わずに徒歩で奥の院・表参道(片道5km/徒歩約90分)の尾根道のこの下山道を下ろうと考えていたが。しかし、90分という時間の関係、そしてそれ以上に食堂で大きな黄色スズメバチの姿を何匹か見てしまったので尾根道を下ることを諦め、ロープウェイで下ることを決断したのであった。 下方に久遠寺の境内、五重塔が見えて来た。 そして斜行エレベーターの姿も。坂道や階段を登らずに山麓の駐車場からから本堂のある境内までアクセスできるスロープカー路線。 高低差50m以上を5分で無料で移動可能と。ロープウェイ山麓駅に到着。 そして徒歩にて宿坊巡りを開始。下り坂途中の琥珀明珠大菩薩堂。 坂を更に下ると「本行坊」が。 身延山久遠寺の宿坊(しゅくぼう)として最古級の坊。宿坊とは、参拝者のための宿泊施設のこと。 本来は、僧侶のみが宿泊する場所、もしくは参拝者の心身を清めるための施設であったが、現在では一般観光客などの宿泊も受け入れる施設が増え、設備やサービスの充実、寺社文化の体験ができるなど、時代とともに神社・寺の宿坊に泊まる旅は広がりをみせているのだと。この「本行坊」は立正大師日蓮が開眼し比企能本に与えたと伝わる帝釈天像を祀ると。花弁が丸くキュートな花「ピュアブルー」であると 。初めて見る花。法界満霊供養塔。三界万霊とも十方法界萬霊とも四生六道法界萬霊とも言われ、迷いの中に生まれるありとあらゆる精霊を合祀して供養をするために建てられた塔。 本行坊本殿。垂れ幕には日蓮宗・紋章の「井桁に橘紋」が。次に清水坊。永仁元年(1293年)、日蓮聖人の孫弟子にあたる肥後阿闍梨日像(にちぞう)上人により開かれた。正式名は「龍華樹院 清水房」。日像上人は、臨終間際の日蓮聖人から京の都に教えを広めるよう託された。その悲願を達成すべく身延山にて七日七晩加護を祈念したところ、満願の日に清水が湧き出した。以来この水を「龍華水」と呼び、坊は「龍華樹院 清水房」と名付けられ、現在に至ると。 江戸時代に建立された寺を移築した本堂。 樋之沢坊(ひのさわぼう) 。西谷にある「樋之沢坊」は身延山第二世日向上人霊蹟。日向上人は身延山第二世となるが、晩年は茂原藻原寺に隠居したと。山門は身延町指定文化財。緑の美しい苔が付いた山門は大変見応えが。林蔵坊手前のブロンズ像「春待月」 雨宮敬子作。この像との関係は如何に。林蔵坊。 開創は1288(正応元)年。六老僧(日蓮聖人の直弟子)の1人、白蓮阿闍梨日興上人によって開かれた。 手入れの行き届いた庭に、2つの歴史ある塔が建立されていた。ひとつは1962(昭和37)年、中印国境紛争の時のもの。インドのネール首相(当時)より仲介を依頼された藤井日達上人でしたが、生きて帰ることは出来ないだろうと残された四海唱導の碑。もう一つは、1981(昭和56)年に大分県内寺院が七百遠忌記念で建立された宝塔。下の写真は由緒のある題目の碑と宝塔。観音様も。 「武井坊」。本堂そしてその手前に句碑が。句碑。●相対す吉野桜の幹太く 虚子●芹青く西谷の水澄めりけり●西谷の花の浄土に住み古りて 知寂坊。開創:宝永3年(1706) 開基:智寂院日省上人。七面大明神を奉安。八木妙真尼?像。岸之坊(きしのぼう)。宝徳2年(1450年)久遠成院日親(なべかむり日親として知られる)を開山に創建された。 岸之坊を開かれた日親上人像。北之坊(きたのぼう)。御草庵に向かう参道の高台にある北之坊 。開創:永仁5年(1297) 開基:法寂院日円上人(南部実長)。日蓮宗信行道場。僧侶となるための修練を積む道場。信行道場は、僧侶を志す者が出家し教学の基礎を学んだ後、人々を教え導く「教師」になるための修練の“関門”。入場生は、35日間にわたり給仕を第一に修行・学問に励み、生涯の使命を自覚するのだと。高座石 妙石坊 案内図。西谷檀林(だんりん)跡。檀林は、仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所とのこと。後ろの建物には「山梨県第一部宗務所」と書かれた木札が掲げられていた。日蓮宗の宗務所は、日本全国に74カ所あり日蓮宗宗務院を中心に寺院教会結社の様々な活動管理や僧侶の修行や研修の届け出等の事務を行っていると。
2017.10.08
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久遠寺の境内を散策後は、身延山ロープウェイで身延山山頂、奥の院・思親閣を目指す。外からの宝物館入口はこちら。ロープウェイの駅への木道を進む。 山麓「久遠寺駅」が前方に。 ロープウェイ・ゴンドラに乗り込む。定時運行は20分間隔。片道所要時間は7分。 往復料金1400円、片道760円。客は私とこのオジサンの2人のみ。 全長1665m、高低差763m(関東一の高低差)、最急勾配33°15″ を登る。反対側から下りのゴンドラが降りて来た。雲がなければ富士山の雄姿が見えるはずであったが。 約7分で山頂・奥之院駅に到着。 奥之院駅。1Fは土産物売り場、2Fは食堂。 山頂・奥之院駅隣りの東側展望台からは、『関東の富士見百景』にも選出されている富士山の眺望をはじめ、山梨県南部と静岡県北部にまたがる天子山地から駿河湾・伊豆半島へと続く大パノラマを望むことができるはずであったが・・・・。 天気が良ければ、この様な富士山の姿が(パンフレットより)。 日本三大急流の一つに数えられている富士川の姿。 身延山 山頂展望食堂「身延庵」で腹ごしらえ。「身延庵ねぎ玉スタミナ丼」を注文。豚バラ肉とちょいピリ辛ダレ、それにたっぷりキャベツとねぎ、さらに温泉玉子が。栄養満点、ボリューム満点のスタミナ丼を楽しんだのです。 しかし、私の窓際のテーブルの横のガラス窓の内側には大きな黄色スズメバチが迷い込んでいた。食堂の人に言って何とか追い出してもらったのであったが。七面山展望台。七面山は身延山の守護神「七面大明神」が祀られている場所。しかしこちらも山頂は雲に隠れて。七面山案内之図。 北側展望台まで歩を進める。山頂・奥之院駅から徒歩3分の場所にある北側展望台からは、七面山・早川渓谷・南アルプス・八ヶ岳連峰、そして、奥秩父の山々を背にした甲府盆地へと続く大パノラマを望むことが出来ると・・・・。特に空気の澄む冬は、富士山に次ぐ日本第二の高峰北岳をはじめとする南アルプス主峰・赤岳をはじめとする八ヶ岳連峰が白銀を頂き、ひときわ輝きを増すとのことであったが・・・・。裏参道側からの奥の院・思親閣(ししんかく)入口。 奥の院・思親閣は日蓮大聖人が、道なき道を登り、山頂より遠く、故郷、房州 小湊を拝し、亡き両親、師匠様を追慕し供養された場所と。この故事にちなみ、親を思う堂、「思親閣」と名付けられたと。奥之院・思親閣入口左には案内板と共に様々な石碑や像が。奥之院・思親閣MAP。 【http://www.kuonji.jp/okunoin/keidai/keidai.htm】より。日蓮聖人立像。日蓮聖人が身延山山頂より遙かに故郷房州小湊(現在の千葉県鴨川市)の両親、5年間の修行をした千葉県鴨川市にある日蓮宗 大本山 ・清澄寺(せいちょうじ)での恩師の道善房を追慕する姿の立像であると。育恩殿はお守り等の販売所と信徒休憩所になっていた。 仁王門に向かって階段を登る。 日蓮聖人お手植の樹齢700年以上の杉が4本、階段の両側に。 日蓮聖人父妙日・母妙蓮、御師道善坊の追善のために日蓮聖人が自ら植えたものと。身延町指定文化財(天然記念物)。御父「妙日尊儀」菩提の杉。 御母「妙蓮尊尼」菩提の杉。 「立正安国祈念」の杉。 神社の裏にある御師範「道善房」報恩の杉。手水舎。 思親閣・仁王門。本院本堂前の仁王門(二天門)を移転したもの。六浦平次郎入道の建立で、天和年間31世日脱上人代に本堂域から移転された。門の前の石段は昭和45年、佐藤玄守別当代に造営された。 「思親閣」と書かれた扁額。 仁王像は31世日脱上人の開眼。阿像。朱に塗られた像高は179cm。 吽像。 仁王門を境内側から。知思報恩塔。思親閣では、平成27年4月より報恩浄行『母への手紙』を募集したところ、2万通にも迫る数の母への感謝の手紙が寄せられた。報恩法要中、木箱に納められた手紙が御宝前に奉安され、報恩法要終了後、新たに開眼されたこの納経塔『知思報恩塔』に納められたのだと。常護堂。登詣者を守護する常護菩薩を安置。「南無常護稲荷大菩薩」と書かれた幟も。 思親閣・祖師堂。思親閣祖師堂は“親を思うお堂”という意味で名付けられており、身延町指定文化財。現在3年任期の別当制が敷かれており、七面山敬慎院とともに久遠寺法主が任命すると。 「祖師堂」の扁額。 祖師堂内部。 祖師堂右横の寺務所・受付。御首題を頂きました。田中智学の石碑。親孝行の心を詠んだものと。 日蓮系の宗教団体「国柱会」の創始者で、「八紘一宇」という造語を作り、戦前の日本の右傾化の思想的背景になった人。元政上人埋髪塚。身延町指定文化財(史跡)。元政上人は、年老いた母を輿に乗せ、病身の身を顧みずに身延に登詣し、父の遺骨と自らの黒髪をこの地に埋葬されたと。これは紀行文「身延道の記」としてまとめられているのだと。常護堂横の鐘楼は改築の為か鐘のみが別の場所に展示されていた。 外口径:3尺(91cm) 重量:250貫(937kg)と。 祖師堂横の左奥には本師釈迦牟尼仏像が。昭和45年(1970)4月、岡山県小野哲敬氏が奉納したものとのこと。 奧之院表参道ルート終点部からは正面に奥の院・開基堂が。開基堂(かいきどう)を奥の院境内から。多宝塔形式で、身延山の開基檀越南部(波木井)実長像を奉安。以前は本堂前にあった建物。身延町指定文化財。開基堂仏壇。大孝殿(だいこうでん)。大孝殿は昭和40年(1965)佐々木順栄別当代に建立。信行会等に使用されており、山務員の宿舎にもなっていて別当所とも言われていると。山頂・奥之院駅からは奥の院登詣の中間点付近にある大光坊(だいこうぼう)が見えた。 境内には、三光堂・大黒堂といった堂宇や相輪塔・釈尊像があり、休憩所が置かれていると。富士川がうねうねと蛇行しながら駿河湾へ続いていた。
2017.10.07
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報恩閣まで連絡通路を進む。立教開宗750年慶讃事業のひとつとして建築されたこの「報恩閣」は、受付と信徒休息所を備える。また、『バリアフリー』であることも大きな特徴。 身延山 久遠寺 五重塔 を撮したポスターが壁に。 久遠寺の御首題を頂きました。報恩閣から拝殿裏の庭園を見る。奥に御真骨堂の白亜の八角堂。報恩閣と仏殿の間の廊下の壁の宗祖御真骨前で一礼。 法華経の教えが描かれてていた。しょうろうびょうし「生老病死」。仏教語で四苦ともいい、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。人生における免れない四つの苦悩のこと。日蓮聖人の生涯を描いた絵巻・日蓮聖人傳絵巻。 全36巻のうちのその主要な場面6点が壁に掲げられていた。1)善日麿誕生 4)滝ノ口法難2)旭ヶ森立教開宗 5)身延入山3)伊豆法難 6)聖者涅槃への道御真骨堂拝殿内部。祖師堂横の妻飾り。 巨大な力神が。力強い姿、形相をして、いわゆる金剛力士像をアレンジしたような形。 拝殿回廊からの開基堂。 真骨堂拝殿の見事な彫刻。 ズームで。御真骨堂は白亜の八角堂。 身延山周辺案内図。 身延山・久遠寺の周囲には多くの宿坊が取り囲んでいるのが理解出来たのであった。祖師堂の回廊。 祖師堂から大本堂への連絡通路。 大本堂地下にある宝物館入口。 階段を降り、地下にある宝物館へ。宝物館に入場し内部を。身延山宝物館は、国宝・重要文化財・指定文化財を数多く所蔵する身延文庫の収蔵品を、随時、適宜に展示中。地獄図。日蓮聖人御影。美しいお顔の像。日蓮上人像。ロビーの一角では一生懸命写経をされている女性の姿も。宝物館入口ロビーにはこんなコーナーも。内部の見学を終え再び境内を散策。祖師堂正面。扁額には「棲神閣」と書かれていた。祖師の日蓮上人の御魂が棲んでおられるという意味で、74世日鑑上人の筆と。祖師堂向背の彫刻。 祖師堂拝殿正面の妻飾りの力神。 中央の太平束に当たる部分で屋根を支えるような形。つまり、「建造物を力の神がしっかり支える」という意味合いの像。報恩閣。身延山久遠寺の総受付。91世日光上人の発願で平成14年落成。内部からは気がつかなかったが、屋根はドーム・3次曲面の美しい形状であった。報恩閣前庭には見事な枝垂れ桜の巨木が。この枝垂れ桜は樹齢400年で全国枝垂れ桜10選のひとつ。桜の花が地面に垂れ下がる様子は大変見応えがあり、満開の時期は非常に多くの観光客で賑わうのだと。開基堂。開基堂は、もともと上ノ山にあった(といわれる)文明4年(1493:一説には寛文10年:1670)建立の多宝塔を何度か移築した末、昭和54年2月本堂の建設に伴い、現在地に移転。現在、開基堂は上階部を丹塗りとし、下階部を土蔵造りとされ、久遠寺開基の南部實長(法寂院日圓上人)の座像を安置していると。日蓮聖人は文永11(1274)年、この領主南部實長(波木井)公の招きによりここ身延の山に入ったのであった。 下の石碑は、身延山久遠寺内の御真骨堂と仏殿の丁度間に位置しており、身延山で有名な枝垂れ桜の近くにあった。石碑には日蓮聖人の御遺文が書かれており、この御遺文に刻まれた文字の書が本覚寺開山加藤雲洞上人によるものと。●親は十人の子をば養へども 子は一人の母を養うことなし ●異体同心なれば萬事を成し 同体異心なれば諸事叶ふ事なし●矢のはしるは弓の力 雲の行うことは龍の力 男のしわざは女の力なり一番下の「矢のはしるは・・・」の日蓮の言葉が身に沁みたのであった。すなわち「矢が飛ぶのは弓の力があるからであり、雲が流れるのは竜の力であるといわれているように、 男性(夫)の振舞いは女性(妻)の力のおかげである。」。妻に感謝し合掌!!仏殿納牌堂 獅子口瓦。 この獅子口瓦は、仏殿納牌堂の大棟西側に備えられていた鬼瓦で、昭和6年(1931)日蓮大聖人第六百五十遠忌の報恩事業として仏殿納牌堂が新たに建立されてより、日蓮大聖人御降誕八百年の慶賛事業として、平成24年に屋根瓦を銅版に葺き替えるまでの約八十年間、仏殿納牌堂の屋根を平穏ならしめてきた鬼瓦であると。仏殿・納牌堂。昭和6年(1931)に竣工したこの堂は、日蓮聖人第六百五十遠忌を記念して、八十一世日布上人のとき全国寺院檀信徒の丹精にて出来たもの。全国信徒の御納骨・御納牌・追善法要が毎日ここでおこなわれていると。大客殿と庭園。 見事な境内の松。 法喜堂。法喜堂は、寺務所・職員寮・学生寮・台所等があり庫裡といわれるところ。かつて豊臣秀吉の姉瑞竜院殿がわが子関白秀次の菩提のため、慶長13年(1608)十八世日賢上人のとき本堂・唐門と共にこの庫裡を建立寄進されたが、明治8年(1875)の大火で焼失したため、明治16年(1883)に七十四世日鑑上人の時山梨・静岡両県寺院檀信徒の総協力のもとに再建したのが現在のこの法喜堂であると。 鶯渓閣(おうけいかく)は売店。 甘露門(かんろもん)。 菩提梯下から女坂を登った先に甘露門が。 甘露の語源は「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」の経文中の「濡甘露法雨」(観世音菩薩が我々を救うために甘い雨を降らす)からと。時鐘(じしょう)。 その名の通り時を告げる鐘。明治20年(1877)山梨県の南条講題目結社の建立によるも、昭和27年(1952)焼失し、永田雅一氏が再建。梵鐘は四国松山城主久松家の祖定頼の正室養仙院殿の寄進で、延命8年(1680)に鋳造され、三十一世日脱上人の鐘銘があると。釈迦殿納骨堂。仏殿手前6階建の建物。本堂建立により釈迦堂を移した釈迦殿は6階にある。納牌堂は1階から5階までとなっており、全国の信徒の先祖の遺骨を安置してある建物。 再び御真骨堂 拝殿を境内から。真骨堂拝殿向背兎の毛通(うのけとおし)。梅福(ばい ふく)。 梅福は、前漢後期の人物。「梅福は中国前漢時代の人。もともとは役人であったが王莽(紀元前45~紀元後23) の専制に嫌気がさし、仙人となるために諸山遍歴の旅に出た。 空同仙君に教えを請いつつ、飛鴻山で庵を結んで修行した結果、金童玉女が青鸞(せいらん)を連れて梅福の前に現れた。梅福は青鸞に乗って天空に飛び去った」と。青鸞はキジ科の鳥、鳳凰(ほうおう)のモデルといわれると。
2017.10.06
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久遠寺三門を潜ると久遠寺参道が続く。この石畳の道は、小伝馬町の村雲結社が昭和4年(1929)日蓮聖人650遠忌の折に修復していると。「南無妙法蓮華経 身延山 八十世 日調」 と刻まれた石碑。手前に見える丸石の橋は「解脱橋」。参道の左右の杉は、11世日朝上人が並木として植えたと伝えられていると。右側の解脱橋東側の橋は「慈済橋(じさいばし)」。「慈済」の由来は「慈悲為懐、済世救人」(慈悲を抱き、世を助け人を救う)。乃木大将 詩碑。本多日生(ほんだ にっしょう)上人像。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す僧侶とのこと。誰の言葉なのであろうか?『生命の充實したものは美しい』 と。 左下の様な字が読めると楽しいのであろうが。宮澤賢治歌碑。「塵点の 劫をし過ぎていましこの 妙のみ法に あひまつりしを 賢治」 宮沢賢治が病床で綴り、死後発見されたいわゆる「最後の手帳」の鉛筆差しに巻いてあった紙片に書いてあった歌であると。ネットによると『塵点の劫とは、法華経にある時空観で、ひとつの三千大千世界をすりつぶして、山それを一粒、一粒東方はるかに五百千万億那由多阿僧祇世界の国を過ぎて落としていったところを一塵とするという、とてつもない時空観ですが、これも嘘ではありません。宇宙のはじめとおわり、広さとはそのようなものだからです。そして、それくらいのはじめも終わりのない時間の中で、この妙法蓮華経に出会えたことの喜びを歌っています。』と。賢治は、日蓮主義を説く田中智学の国柱会(こくちゅうかい)に入会し、法華信仰の道に入ったと。「解脱橋」越しに三門をズームで振り返る。菩提梯のすぐ右脇にある坂が男坂。男坂は、菩提梯(ぼていだい)のような階段ではなく山道。 女坂は三門と甘露門とをつなぐ山道。菩提梯や男坂よりも歩きやすいが、距離が一番長いルート。菩提梯の脇にあった南部實長(なんぶ さねなが)公銅像。 1274年に、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を自分の住む波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった人物。 實長公は「13里に四方の堺を立て今、日蓮聖人に之を寄附す」との置文をして、身延山を中心とした13里四方を日蓮聖人に寄附され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められ、永仁5年(1297)9月、76歳で亡くなったと。菩提梯(ぼていだい)。287段の石段の参道を見る。高さ104m三門と本堂を真一文字に結ぶ。菩提とは、煩悩(ぼんのう)を断ち切って悟りの境地に達することをいい、菩提梯には、悟り(さとり)に至る梯(きざはし)の意味が込められているのだと南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画・41段毎に分けられているのであった。菩提梯を一人占めして登る。石段は一段一段の蹴上げ高さが揃っていないのと、蹴上げ高さがかなりあるので上りづらかったのであった。休み休み上って約20分弱といったところか。今登ってきた階段は と見るとこの通り。よく登りました。 しかしこの時には、菩提梯には人の姿は皆無。漸く登り切ると、境内の五重の塔が迎えてくれた。 水屋。 身延山に五重塔が建てられたのは、江戸時代の初期元和5年(1619年)にさかのぼると。しかし、文政12年(1829年)火災により五重塔を含め境内28棟が焼失。その後、万延元年(1860年)に五重塔が再建されたが明治8年(1875年)全山を巻き込んだ大火によって再び焼失。そして平成21年9月(2009年)に134年ぶりによみがえった宝塔。 総高126尺(38.2m)で現存木造五重塔としては国内第4位の高さ。因みに1位は京都・教王護国寺五重塔(東寺):54.84m(1644年)。第1層の総間は18尺6寸(5.6m)という壮大な塔の心柱には永年安泰の祈りを込め、身延山の峰より切り出した樹齢500年の霊木が納められているのだと。 五重塔の初層の軒の3つの美しい見事な彫刻。左が「牛」、真中が「鼠」、右が「猪」で干支(えと)の動物が刻まれていた。一面で3個づつ四面で総計12個の干支の動物の極彩色の彫刻がぐるりと取り巻いていた。中央の「鼠」をズームで。大鐘楼は寛永元年(1624年)21世日乾上人の代に鋳造、鐘楼堂は明治15年(1881)74世日鑑上人の代に甲斐国南条講中により寄進されたもの。徳川家康の側室お万の方が寄贈したと伝わるものであるとのこと。毎朝夏は五時、冬は五時半、夕方は五時ないし四時半に撞かれるが、その他は除夜の鐘と身延山に緊急のことが起こったとき以外は撞かないことになっていると。久遠寺本堂。日蓮宗総本山 間口32m、奥行51m、総坪数970坪。 1985年、日蓮聖人700遠忌の主要記念事業として再建されたと。「久遠寺」と書かれた扁額。本堂の屋根の上に、身延山ロープウェイの奥の院駅が見えた。 靴を脱ぎ本堂に入る。まず目をひくのが天井の大きな龍。加山又造画伯による勇壮な黒龍の天井画。 龍は、法華経を信仰する者の守護神といわれており、また水を司る神ということで、火災除けの意味もあるとのこと。本堂内の金色に輝く豪華な巨大な仏壇。 日蓮上人像。 隣ににある祖師堂に移動する。祖師堂は日蓮聖人の神霊を祀る堂閣。「棲神閣」と称する。明治14年、江戸にあった寺院のお堂を移築、再建。祖師堂の正面軒下には、見事な色彩豊かな彫刻が施されていた。祖師堂回廊より境内を見る。右から本堂、五重塔、手水舎、鐘楼。 祖師堂内部と仏壇。
2017.10.05
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先日、9月26日(火)に日帰りで身延山・久遠寺(くおんじ)に行って来ました。久遠寺は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号が身延山。 我が実家は代々日蓮宗の檀家であり、私が子供の頃も両親が檀家寺の住職と何度となく身延山・久遠寺に泊まりがけで訪れていたことを覚えているのです。私の長男が小学生の頃、20年以上前ですが一緒に訪れたことがありますが、それ以来の久しぶりの身延山散策です。小田急線の始発に乗り東海道線を利用。熱海駅で浜松行きの電車に乗り換え富士駅で下車。富士駅7:45発JR身延線 甲府行きに乗り換え身延駅を目指したのです。車窓から富士山の姿が。 富士山本宮浅間大社の鳥居そしてその横に本年末に開館予定の世界遺産文化センターが見えた。富士川沿いに電車はすすむ。車窓から、稲刈りが終了し、稲を干している長閑な光景が。子供の頃、今の私の趣味の養蜂場のある畑の前は田んぼが一面に。今は見掛けなくなりましたが、当時は「稲干し」をしていて、そこでかくれんぼをしたり、おにごっこをしたりして遊んだことを思い出したのです。そして稲の懐かしい香りも想い出したのです。 南部町付近を走る。山梨百名山の山々。工事中の中部横断自動車道の下を通過。静岡県静岡市清水区の新清水ジャンクション (JCT) から長野県小諸市の佐久小諸JCTに至る総延長約132 kmの高速道路。略称は中部横断道。 完全開通は2019年の予定とのこと。身延駅に近づくと車窓斜め前方に身延山そして山頂近くにケーブルカー駅が見えた。身延駅に9:01に定刻通り到着。 乗って来たJR身延線 各駅停車甲府行き。 身延駅正面。それまでの富士身延鉄道を国が借り上げ、1941年(昭和16年)に国有化され、国鉄身延線の駅となる。1980年(昭和55年)に 駅舎改築。 1987年(昭和62年)に 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道の駅となる。1999年(平成11年) に 関東の駅百選に選定されたと。駅前には石のモニュメントが。テーマは?蓮の蕾のようにも見えるが。 「しょうにん通り」の町並み。身延駅前通りは、平成2年から約7年の歳月をかけ、新しく生まれ変わったと。日蓮聖人にちなみ、その名も『しょうにん通り』と名付けられたこの通りは、身延山の玄関口にふさわしく魅力的で近代的な装いを見せていた。整備にあたっては、新しく五十二棟がすべて純和風に建て替えられ、たとえば建築物は三階以下、外壁の色は白、灰色、黒または木材の自然色、屋根は日本瓦風に統一。また街路灯や看板、自動販売機に至るまで、周囲の景観イメージを損なわないよう和風デザインを採用。そのほか電線や電話線は地中化することですっきりとした町並みが形成され、ゆったりとした歩道と併せ、訪れる人のために明るさと楽しさを演出。平成9年10月には都市景観大賞に選定され、心のプロムナードとして新しい身延のシンボルとなっているのだと。身延駅の北300メートルほどのところで橋長233メートルの身延橋を渡る。1972年(昭和47年)現在のトラス橋が完成したと。 身延橋からの富士川。身延山に向かうバスの運賃表示は10円単位。19の表示は190円のこと。これは初体験。県道804号線を西に進み、久遠寺入口交差点を北に進むと、総門が。「総門」を潜りバスは更に進む。この総門は8世日奠上人が建立。途中から客は私一人。そして身延山駅終点でバスを降りる。 門内商店街。総門から身延山久遠寺までの約1キロに及ぶ商店街は未だ人の数はほとんど無し。 店のガラス窓に貼られていた「身延」のポスター。「身延山 御会式」 のポスター。そして商店街の先には「歓迎 ようこそ日蓮宗総本山久遠寺へ」の横幕が。商店街を久遠寺へ向かい歩いて行くと、右手に見えてくる「松井坊」。松井坊は日長上人がが開いた寺院。伝教大師作と伝えられる北辰妙見大菩薩を安置している歴史ある宿坊とのこと。 観光案内所で観光地図を入手。 文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、その後日蓮は妙法蓮華経(法華経)の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念しのがここ身延山・久遠寺なのです。 三門は間口23m、奥行9m、高さ21m。日本三大門の1つに数えられることもある。仁王門ともいわれ金剛力士を祀り、上層には十六羅漢を祀る。空・無相・無願の三つの門をへて、覚りに至ることから、本堂を覚りの世界に見立て、本堂にいたる正面のこの門を三門と言うと。寛永19年(1642年)に建立されたが、焼失し現在の門は明治40年(1907年)に再建されたもの。79世日慈上人の筆による「身延山」と書かれた扁額がかかる。 三門右手の売店そして御札所、御首題所。阿像が中に安置されていました。 こちらで御首題を頂きました。御首題は、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」の文字をいただいたもの。悪心・邪心を召しとる(飯取る)「力しゃもじ」そして多くの絵馬が。 三門の仁王様については、丁寧な説明が掲げられていた。三門に向かって左側の仁王像の安置部屋。 吽像。敷居を跨ぐときに便利な石下駄。 三門を潜り、観光案内所で頂いた地図2つを片手に、身延山そして久遠寺の散策開始。身延山全体図。久遠寺境内周辺図。
2017.10.04
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横浜市は、今春実施した「第33回全国都市緑化よこはまフェア」で人気を集めた「里山ガーデン」(旭区)の大花壇を、秋らしい花で覆い尽くす「秋の大花壇」として装いを新たに9月22日から期間限定で公開している事を民放テレビで知り早速出かけて来ました。我が家から車で1時間弱で到着。駐車場に車を止め里山ガーデン入口に向かう。 「よこはま動物園ズーラシア」に隣接している里山ガーデン入口。 「秋の大花壇」の案内。開催期間は9月22日から約1ヶ月間。入り口の「ウェルカムガーデン」は色彩豊かな花壇に。 約1ヘクタールの大花壇にはコスモスやサルビア、マリーゴールド、ジニアなど秋にふさわしい多様な草花を組み合わせて配置し、立体的な花壇を楽しむことができるのです。 このフェアで広報親善大使を務めた三上真史氏が「感謝」をテーマにデザインした花壇が。全国都市緑化フェアに続いて ガーデンベア がキャラクターとして登場中と。開園は午前9時半~午後4時。入場料金は無料。 ガーデンに向かって木道を進む。 ここは森の空中散歩道(GL-FL高さ:約9m、延長:84.6m)と呼ばれると。ここにも開花中の花の紹介が。 そして目の前に広いそして秋らしい花で覆い尽くす「秋の大花壇」が現れる。 花の見晴らしデッキ(楕円部床面積:215m2)からの絶景。傾斜面を利用した大花壇には様々な秋の花が。 展望台から大花壇の方へ階段を下りる。階段の中腹からも眼下の美しいな風景が飛び込んで来た。手前の集合花壇。華やかな色合いになるように植栽。キバナコスモスの夏色が、まだまだ主張。いろいろな場所・角度から。ミツバチを発見。ややピンボケ。蝶も。羽を広げた瞬間を撮りたかったが。ピンクと白のコスモス。これも様々な場所・角度から。白い穂はススキ?パンパスグラス?チカラシバ?ノゲイトウ。花色は淡いピンクから濃い赤紫色で、ロウソクの長い炎の如し。コスモス・フラッシングピンク。コキアは赤へのお色直しの準備中。このピンクの花の名は? 深紅のハゲイトウ。花の見晴らしデッキから。帰路の木道(森の空中散歩道)の下は竹林。里山ガーデン入口広場には多くのテント小屋が。里山ガーデン前の街路樹は紅葉を始めていた。そしてここからズーラシア北門へ。1時間ほどの散策でしたが、コスモスやサルビア、マリーゴールドなどの秋らしい彩あふれる多様な品種の草花を組み合わせた、立体的な花壇を多いに楽しむことが出来たのです。
2017.10.03
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今年も我が家の近くの公園の大きなキンモクセイ(金木犀)が開花し甘い香りを漂わせ近くを通るとその存在感を示しています。この香りが漂う期間は残暑はあるものの、夏から秋に確実に向かっていく季節。空気もだんだんカラッとしていき、気がついたら紅葉が始まっているのです。 オレンジ色の花が無数に咲いています。 オレンジ色の花びらと濃い緑色の葉っぱのコントラストは鮮やかで印象的。 「謙遜、謙虚」など控えめな言葉や「気高い人」などうちに秘める花言葉をもつキンモクセイ。日本でキンモクセイの果実を見ないのは、植えられている物の殆どが雄株だかららしい。原産国中国では丹桂・金桂・桂花と呼ばれているのだとか。キンモクセイの花の開花期間は短く、1週間ほど。 ズームで撮るとオレンジ色の花びらが可愛い金木犀(キンモクセイ)。 花冠は 4つに別れ、雄花には雄しべ2個と、その間に先のとがった不完全な雌しべが1つ。 そしてこの夜の雨にあたりキンモクセイの花はあっけなく散ってしまいました。 花言葉・「気高い人」は、雨が降るとその芳香を惜しむことなく潔く花を散らせることから来ているといわれているのです。中国では白ワインにこのキンモクセイの花を3年間漬け込んだ桂花陳酒は、香り高く、甘味も強い混成酒で人気の酒と。また、お茶に混ぜて花茶(桂花茶)にしたり、蜜煮にして香味料(桂花醤)としても利用されているのだと。彼岸に曼珠沙華が咲き終わり、酔芙蓉もしきりに色を変え中秋の名月(10/4)が近づくと、金木犀が香りだしそしてアッと言う間に散っていく。不思議なくらい彼岸~中秋の名月近くになると季節が変るのです。暑さ寒さも彼岸までと言いますが、真にその通り。季節が確実に歩を進めていることを実感しているのです。
2017.10.02
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今年も我が家の前庭の酔芙蓉(スイフヨウ)が花を開いています。毎年、この時期にブログアップし書くことも同じなのですが。この日の早朝の酔芙蓉です。 それにしても酔芙蓉は不思議な植物なのです。朝、白かった花が、昼ごろにはピンクになり、夕方になると赤くなる。1日花なので、翌朝にはしぼんでしまうのです。普通の芙蓉も1日花ですが、白は白で赤は赤であり、1日のうちに色が変わることはないのです。酔芙蓉は朝は白かったのがやがてピンクになり、赤くなるというので、ついた名前がまるで私の如く飲んべえみたいだというので「酔芙蓉」。なかなか粋な命名なのです。 早朝の酔芙蓉です。まだアルコールの全く入っていない純白の姿。 そして数時間すると淡いピンクが花の下の方に。 そして昼頃になると花全体にアルコールが廻って来ました。 花全体が淡いピンクに染まっています。 人によって酔いの回り方が異なる様に、花一つ一つも微妙に色合いが異なるのです。 そして夕方の酔芙蓉。午後6時ごろの酔芙蓉。かなり赤くなっていました。なぜ酔芙蓉は時間とともに赤くなるのか?原因はアントシアニンという色素の働きだと。花は、人に気に入られようとして美しく咲くのではなく、あくまでもその目的は自分たちの為。子孫繁栄のためには、動くことができない植物は動いているものを何とか味方につけようと、美しい花を咲かせ、甘い蜜を出して、花粉媒介をしてくれる虫たちを呼び寄せるのです。虫が見える色と人間が見える色とでは違っていて、白色はかならずしも白色ではなく、蜜のありかを教える色というのもあるらしいが、人間の目からは白に見える色は、虫にとっては魅力的な色なのだと。因みに、我が家の玄関横の朝顔の花も、わが家の朝顔は青色ですが、朝、青かった花が、昼ごろにしぼんだころには紫色に変化しているのです。これもアントシアニンの作用なのでしょう。そして翌朝には完全に萎んでしまった酔芙蓉。 お彼岸の朝に落ちてしまった花も。 白粧い日の出を待つは酔芙蓉・・・・・詠み人知らず夕虹の色を映して酔芙蓉 ・・・・・詠み人知らず酔芙蓉一つ落ちたり彼岸の朝・・・・・詠み人知らず
2017.10.01
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