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そして「湘南の宝石2025・江の島を彩る光と色の祭典」のメイン会場の「江の島サムエル・コッキング苑」入口に到着。入苑料500円を払って入苑。青く揺らぐ光が足元を満たし、空間そのものが、まるで水の中に沈んだかのように変容していた。中央に吊られた光の結晶は、「見る対象」というより、この場の重心として静かに脈打っているのであった。フレームの中央に吊るされた逆円錐状の光。それは塔でも、シャンデリアでもあり、同時に 結晶化した光そのもの 。この造形は、上へ広がるのではなく下へ、下へと尖り重力を持つかのように垂れ下がっているのであった。光が「降りてくる」ことで、見る者は自然と立ち止まり、見上げ、この場の中心に引き寄せられるが如くに。夜空に浮かぶ、逆円錐のシャンデリア。一粒一粒のクリスタルは個別に瞬きながら、全体としては、ひとつの「落下する光」を形づくっているのであった。上から吊られ、下へと細く尖り、止まっているのに、今にも降りてきそうな緊張感。それは装飾ではなく、重力をもった光の如くに。メイン会場である江の島サムエル・コッキング苑を象徴する正面舞台・“湘南シャンデリア”。上:吊られた結晶の光(理想・象徴)中:フレーム(人の手による構造)下:銘板と人(現実・記憶・体験)この三層が同時に写っていることで、「イベント」「場所」「訪れた人」の関係が一枚の中で完結しているのであった。近づいて。湘南の海の揺らぎと広大な星空を思わせる宝石イルミの空間。イルミネーションを高い位置に配置し、足元は優しく波打つ水のイメージを投影することで、繊細かつダイナミックな世界が広がっていたのであった。闇を背景に、幾何学のフレームが静かに立ち、その中心に、シャンデリアが宙づりになる。余分な要素はすべて外され、残ったのは構造・重心・光量だけ。少しずつ移動しながら、様々な角度、ズーム、カメラ設定を変えて。右に、フレームとシャンデリア——中心。左に、星屑のように散る点光と青紫の樹影・・・余白。光は一点に留まらず、苑内へと解き放たれ、夜そのものが展示空間へ変わって。青の光が、幹の凹凸をなぞり、枝葉の奥へと静かに染み込んでいく。点在する白い光は星であり、同時に、夜露のようでもある。昆明広場に向けて。朱の柱をもつ四脚門(しきゃくもん)が、青と紫の光に包まれ、静かに浮かび上がる。頭上には星のような点光、奥には、かすかな暖色の灯り。ここでは光はこの祝祭を語らず、祈りと記憶の層をそっと照らしているのであった。ウィンザー広場 の方向を望むと、闇の中に、無数の白い点が浮かび上がる。それは星でも、雪でもなく、地上に撒かれた静かな呼吸のような光。手前の欄干に垂れる紫の光が、「ここ」が観る者の立ち位置であることを示し、奥へ行くほど、光は密度を失いながら、夜そのものへと溶けていくのであった。紫の光を追って。低木の間に散らばる白い点光は、星の写しではなく、歩みの軌跡のように見える。右へ左へと進む人影が、光の密度をゆっくりとかき分け、夜を“通り抜け可能な距離”へ戻していくのであった。そして前方にピンクのトンネルが。湘南シャンデリア前方に現れたのは、淡く、しかし圧倒的なピンクの光のトンネル。外の闇を背に、人々は無言のまま吸い込まれていく。輪郭は溶け、影だけが残り、誰が誰であるかよりも、同じ方向へ進んでいることだけが意味を持つ。ここで光は、もはや装飾ではない。それは・・・通過することで完成する光。無数の紫の粒が、天から降り注ぐ。光は壁でも天井でもなく、密度そのものになって、人を包み込む。人の姿は影へと還り、名前も立場も、ここでは意味を失う。ただ、光の内側に立っているという事実だけが残るのであった。ズームして。光は、もはや粒ではない。数でも、列でも、構造でもない。視界いっぱいにひろがり、奥行きだけをもった夜になる。どこを見ているのか分からない。それでも、確かに「中にいる」。左右も、上も、もはや「縁」ではない。光は壁を失い、密度だけが残った空間になっていた。人の姿は、光に照らされる存在ではなく、光の量を測るための影へと変わった。光は、もはや降り注ぐものでも、包み込むものでもない。歩くことでしか体験できない空間として、ここに在る。紫の粒子が四方から迫り、天井と壁の境界は消え、通路だけが、かろうじて現実をつなぎ止めていた。人々は立ち止まらず、しかし急がない。それぞれの速度で、光の内部を通過していくのであった。無数の紫の粒子が、天から、壁から、空気から、一斉に降りてくる。その中心に、ほのかに金色を帯びた小さな輝き。それは出口でも、装飾でもなく、光が自分自身を見つめている点のように見えるのであった。紫の宇宙を満たしていた粒子は、この一点に引き寄せられ、ついに“形”を得る。金色の腕が幾重にも伸び、小さな炎のような灯りが、一つひとつ、呼吸する。これはもはや比喩ではない。「湘南シャンデリア」そのもの。ズームして。圧倒的な密度のLED電球で眩いばかりの光にあふれるトンネルが、人々を感動の渦に巻き込む。さらに迫力あるシャンデリアがいっそう華やかな空間を創造しているのであった。「湘南シャンデリア」途中の横からの出口から外を見る。トンネルの内部で、光は密度となり、中心を持ち、人を影に変えました。その光が再び地表へほどけていく。木立の間に広がる青と紫の点光。天から降りていた光は、今度は地面に散り、道を縁取る光になっていたのであった。紫の密度は、まだ十分に濃い。天井から降る光も、壁を形づくる光も、トンネルの内部と何ひとつ変わらない。けれど、足元だけが違う。人の動きが少し速くなり、視線が前へ、現実の方向を探し始めている。光はまだ包んでいるのに、心はすでに一歩、外へ出かけているかのごとくに。「湘南シャンデリア」は唐突に終わらない。体験から日常へ、光から歩行へ、その移行の数秒を。「湘南シャンデリア」から外に出る。光は再び形を取り戻し、色を名乗り、ひとつひとつが宝石のように立ち上がる。ピンク、紫、虹色。鋭角で、結晶的で、見る者の足を止める光なのであった。すこし移動して。近づいて。遠くからは「宝石」だった光は、ここでは構造と呼吸を見せる。多面体の一枚一枚が、紫の余韻を受け、虹色に割れ、また結び直されていた。光は偶然きらめいているのではない。組まれ、支え合い、反射し合って、この輝きが成立していのであった。夜空に向かって伸びるシーキャンドルの塔。頂点から放たれた無数の光の糸が、放射状に闇を縫い、まるで星空を地上に引き寄せたかのよう。青と紫を基調とした光は、冷たさよりも静かな気品をまとい、塔の螺旋構造をなぞりながら、時間そのものをゆっくりと昇っていく・・・そんな錯覚を覚えるのであった。足元の樹々に散りばめられた柔らかな光は、天空から降り注ぐ星屑の余韻。人の営みと宇宙の広がりが、ほんの一瞬、ここで重なったような光景。「照らす」のではなく、「導く」光。この塔は、夜の江の島に立つ一つの灯台であり、見る者の心を、静かに高みへと引き上げてくれるのであった。足元に広がるのは、夜の大地にそっと降ろされた星の海。無数の青い光が石畳を覆い、波打つように連なって、静かなリズムを刻んでいた。正面に据えられた円形の意匠は、月を抱く額縁のよう。ヤシの影と満月が浮かぶその中景は、ここが「海」と「島」の物語の舞台であることを、さりげなく語りかけてくれるのであった。周囲を縁取る白い光は、さざ波のきらめき、あるいは夜風に揺れる泡沫のように。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.31
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「江の島サムエル・コッキング苑」内に入る前に、その手前左側にあった「亀ヶ岡広場」のイルミネーションを訪ねた。 地を覆う無数の紫の光は、まるで夜の大地に星が降り積もったかのよう。静まり返った闇の中で、木々は白い光をまとい、ここが島であることも、日常であることも、一瞬忘れさせてくれるのであった。ズームして。足元まで広がるイルミネーションが、夜の森を幻想世界へと変えていた。亀ヶ岡広場一面に広がる、紫の瞬き。それは道ではなく、夜そのものを歩いているようだった。低く張られた無数の光が視界いっぱいに広がり、見上げるのではなく「光の中に入る」感覚を味わえる場所。地を覆う淡紅の光の上に、白く輝くアーチが規則正しく並ぶ。視線は自然と奥へ、闇の向こうへと導かれりのであった。足元に広がるのは、面ではなく「無数の点」。一つ一つが瞬き、重なり、紫の大地となってうねっていた。見上げれば、木々の枝先まで同じ光が、異なるリズムで脈打っているのであった。闇を背に、江の島シーキャンドルが静かに立っていた。その足元から、光は木々へと渡され、枝を伝い、空へと拡がって。人工の塔と自然の樹が、同じ光で結ばれる瞬間だった。ここでは、建造物も樹木も、同じ「夜の風景」として息づいているのであった。紫の光の丘と、白くきらめく冬木立。人の姿が加わり、風景はそっと「思い出」へと変わっていくが如くに。闇の奥に、ひとつの緑の結晶が浮かび上がる。足元には、紫と白の光が幾何学のように敷き詰められ、自然と人工、偶然と設計が、ここで交わっている。これは飾りではなく、夜にそっと置かれた「標(しるべ)」。緑の光が、宝石の形をとって宙に結ばれている。荒々しい切り株と流木に囲まれながら、その輝きは不思議と冷たくない。・・・SHONAN EMERALD・・・。それは飾られた宝石ではなく、この地が夜にそっと差し出した輝き。近づいて。湘南の海と風と時間が、この一粒の緑に凝縮されているのであった。白い光のアーチが、夜の奥に静かに並ぶ。足元には、淡く温かな光が曲線を描き、人を急がせることなく、ただ先へと導いていくのであった。左から右へと流れる光の帯。その先に、規則正しく立つ白い輪。直線ではなく、あえて曲がり、視線も心も、ゆっくりと整えられていく。夜の散策に、これ以上の道標はないのであった。白の光は飾られているのではなく、人が立つことで完成するように置かれていた。風景を撮る場所ではなく、人が“風景になる”ための場所。低く広がる光の面と、上へと伸びる木の枝。視線は地から空へ、光をたどるように導かれ、最後に闇へと溶けていく。動きのない構図が、時間だけを前へ進めているが如くに。前景には、深い青の光の野。中景に、人が歩き、立ち止まり、語らう時間。そして奥に、夜を見渡す 江の島シーキャンドル。光は誇示せず、夜を押しのけもしない。ただ、人と場所と記憶を、同じ輪郭に包み込んでいたのであった。紫の光が足元に満ち、人々はその縁を、静かにたどっていく。見上げれば、闇の中に 江の島シーキャンドル。塔は語らず、ただ夜を照らし、人の流れだけが、時間を前へ運んでいるのであった。闇の上に、江の島シーキャンドルが浮かぶ。枝葉の間からこぼれる光は、下へ、横へとほどけ、やがて人の歩みの先に溶けていくのであった。紫の光の野を越えて、視線の先に、再び緑の輝きが現れる。遠くなったはずの光は、距離を置いたことで、かえって鮮明になる。闇の中に、ピンクの宝石の輪郭だけが浮かび上がる。紫でも、緑でもなく、光が「形」を得た瞬間。背景の無数の瞬きは脇役に退き、この一点だけが、夜の重心となるがごとくに。「太平洋展望台」への木橋越しに。見上げれば、闇に浮かぶ 江の島シーキャンドル。見下ろせば、灯りの下で語らい、休み、行き交う人の姿。光は特別なものとして隔てられず、この夜の生業の一部として、静かに溶け込んでいた。「イルキャンティ・カフェ 江の島」の手前の広場を。小さな広場に立つ二本の木が、白い光をまとって夜を迎えている。足元には紫の光が低く回り込み、人を照らすというより、ここが「留まってよい場所」だと告げているようであった。 屋根先を縁取る紫の光と、足元から幹を登る白い瞬き。非日常の光はここで声を潜め、食事と会話のための、やさしい明るさへと姿を変えているのであった。あさひ本店 江の島頂上店。軒先を縁取る青い光の下、人の列が途切れることなく続いていた。冷えた夜気の中で、ここだけは体温と期待が、はっきりと感じられる場所。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.30
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そして「辺津宮銅の鳥居」前まで進むと黄金色に輝く「中津宮広場イルミネーション」が現れた。 石段を下って。「中津宮」への「御屋道」には多くの観光客の姿が。右手にあったのが、「金亀楼別館」碑。老舗旅館金亀楼の跡とのこと。金亀楼とは・江の島で江戸時代後期〜昭和期にかけて続いた老舗旅館・江の島弁財天参詣の隆盛とともに発展・文人墨客や参詣客を多く迎えた、江の島を代表する宿の一つ・本館は主に辺津宮〜仲見世通り周辺(現在の参道沿い)にあった と。参道を挟んだこの中津宮広場は老舗旅館「金亀楼」の跡を花壇に整備したものである とのこと。中津宮広場は黄金に輝く光そのものが息づく庭へと姿を変えていた。枝という枝にまとわりつく無数の灯は、まるで冬の星々が地上へ降りてきたかのよう。木々は輪郭を失い、光の線となって夜空に溶け込み、低木や足元の灯りは波のようにやさしくうねりながら広がっていたのであった。闇の中に、そっと金の息吹が芽吹いたかのように。足元の低木から、幹を伝い、枝先へ・・・光は静かに上へ上へと流れ、まるで樹々そのものが光を生み出しているかのよう。一粒一粒の灯は控えめでありながら、重なり合うことで、夜をやさしく満たして。遠くに滲む青白い光は、夜の奥行きをそっと示し、人影さえもこの光景の一部として溶け込ませるのであった。この場所は照明ではなく、中津宮広場のイルミネーションは、進むほどに心をほどき、振り返れば、自分自身もまた光景の一部になっていることに気づかせてくれたのであった。参道へと視線を向ける。白い提灯の列がゆるやかに連なり、参詣の記憶をそっと呼び覚ます。低木に散りばめられた無数の光は、星屑が地に降り積もった如くに。夜の闇に、光の門がそっと開かれていた。青と白の無数の灯が、天から垂れる星の雨のように降り注ぎ、その下を歩く人々は、現実からひととき離れ、光の奥へと招かれていくのであった。夜空へと溶け込むように、光の回廊がまっすぐに伸びていた。頭上から滴る青い光は、星の雫か、あるいは海から立ちのぼる夜の精の如くに。欄干を縁取る光は、進む者を守るように寄り添い、その中心を歩く人々は、まるで光に選ばれた旅人の如くに。「展望台広場ウッドデッキ」から「江の島ヨットハーバー」方向を見下ろす。ヨットハーバーの灯りが星座のように整然と並んでいた。一本一本のマストは闇に溶け、ただ光だけが、海と陸の境界をそっと教えてくれるのであった。ズームして。滑らかな曲線を描く建物の屋根に、紫と青の光がそっと置かれ、まるで夜の海に浮かぶ一枚の帆の如くに。昼は賑わう施設も、今は人影も少なく、灯を落とし、今日という一日を静かに閉じようとしている瞬間なのであった。逆L型のアーチから垂れる無数の白い灯は、雪解け水が糸となって流れるように、一定のリズムで揺れ、人の歩みをやさしく包み込んでいたのであった。青い光の回廊を振り返って。ズームして。青と白のカオスの如くに。私も参道に戻って。そして右に折れ、石段を更に上って行くと、正面に現れたのが「江島神社 中津宮」。 江の島歌舞伎(手形)。歌舞伎『弁天小僧菊之助』に縁のある音羽屋の七代目尾上菊五郎と五代目菊之助の手形、そして手形の横には、江戸三座の一つといわれた市村座が奉納した石灯籠も見えた。闇の奥から、朱が静かに立ち上がってくる・・・そんな印象を受ける夜の中津宮。昼の光の下では華やかな社殿も、夜になるとその赤は深みを増し、黒々とした森と空に抱かれて、神域そのものの色として浮かび上がっていたのであった。「中津宮中津宮には三女神の一柱である市寸島比賣命をお祀りしています。853年に慈覚大師によて創建され、明治時代までは辺津宮が「下之宮」と称されたのに対し、この十津宮は「上之宮」と呼ばれていました。現在の社殿は1996年に全面的に改修されたもので、創建当時の朱色が鮮明な社殿を再現しています。境内には江戸時代に歌舞伎関係者によって奉納された石灯籠のほか、多くの奉納石造物があり、信仰の深さをうかがい知ることができます。」 「風景江の嶋図会従岩本院不二眺望団扇絵1枚 縦19.5cm 横22.4cm制作時期:安政元年(1854)4月。板元:伊場仙団扇絵として描かれた作品。江の島の老舗旅館である岩本院(現岩本楼)の高楼から富士山を眺めている画面です。手前に描かれたくつろぐ女性はまるで、富士山を見せるために身をよじらせており、広重の画面演出の巧みさが感じられます。高楼の欄干や、床などの構造物は直線で構成されており、自然や人間の曲線を帯びるフォルムとの違いを際立たせているところも見所のひとつです。」 「江の島サムエル・コッキング苑」に向かって歩く。 右手にあったのが「江の島エスカー 3区乗り場」。 参道・御岩屋通りの真上を見上げて。「江の島ふぉとみゅうじあむ」店前の石積塀のイルミネーション。 「江の島ふぉとみゅうじあむ」店頭の色彩豊かなイルミネーション。「江の島サムエル・コッキング苑」手前の「大道芸広場」に到着。 高く伸びるヤシの幹を包むのは、黄金ではなく、青と紫の冷ややかな光。それは炎ではなく、夜気に澄んだ月光や深海の色を思わせ、先ほどまでの参道のぬくもりから、異なる世界へ足を踏み入れたことを静かに告げるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.29
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イルミネーションMAP。別のMAP、いずれもネットから。そして正面にライトアップされた朱の鳥居・江島神社 大鳥居の姿が。朱の大鳥居の下には、琵琶形の案内看板。「日本三大弁財天 江島神社」と。上部には「江島神社 社紋」が。「江島神社 社紋」は、北条家の家紋「三枚の鱗」の伝説にちなみ考案されたもので、「向い波の中の三つの鱗」を表現しているのだと。『太平記』によれば、建久三年(1190年)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うた江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れました。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには三枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にしたと伝えられています とネットから。 正面に「瑞心門」。 石段を上がって行った。既に「初詣 招福開運・厄除」と書かれた横断幕が。 左手には「エスカー乗り場」。昭和34年(1959)に国内初の屋外エスカレーターとして登場。高低差46mを4分ほどで上れます。4連で結ぶエスカレーターの長さは全長106mあり、高齢者や小さな子供連れのファミリーが江の島頂上部へ行く際の頼もしい足となっています と。 門の両脇には唐獅子画が飾られていた。これは片岡華陽が描いた絵。唐獅子はご祭神の守護と参拝者に厄災がふりかからぬよう祈願の意味が込められているのだと。唐獅子(右)。唐獅子(左)。童子を伴い右手に宝剣、左手に宝珠を持った弁財天の石像が階段上の正面に。「弁財天 童子像」に近づいて。「弁財天 童子像建立之記平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。縁起に曰く、「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野にまぞらえへて、これを江野嶋という。天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。折りしも当神社御鎮座1450年を向へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり。 江島神社宮司 相原圀彦」弁財天の梵字が刻まれた石碑が瑞心門の横にあった。近づいて。「江島神社 三宮の御案内 辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す●辺津宮(下之宮)御祭神……田寸津比売命(たぎつひめのみこと) 土御門天皇 建永元年(一二〇六年)源実朝が創建。 弁天堂には日本三文弁財天の妙音・八臂弁財天御尊像を始め、十五童子像・御宇多天皇の勅額・ 弘法大師の護摩修法による弁財天像他が奉安されている。宋国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池・ 御神木の結びの樹等があり、八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座する。●中津宮(上之宮)御祭神……市寸島比売命(いちきしまひめのみこと) 文徳天皇仁寿三年(八五三年)慈覚大師が創建。 現在の社殿は元禄二年(一六八九年)の 御造営で平成八年の御改修により格天井には花鳥画が施され彫刻等が復元された。 境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある●奥津宮(御旅所・本宮)御祭神……多紀理比売命(たぎりひめのみこと) 天保十三年(一八四二年)再建。源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の 力石・鎌倉四名石の一つ亀甲石・御神木・山田流筝曲開祖 山田検校像等がある。●龍宮(たつのみや)・・・・龍神をまつる(例祭九月九日)●岩屋 波の侵食で出来たもので第一・第ニ霊窟からなり約一五〇メートル深奥が当神社発祥の 地である。欽明天皇十三年(五五ニ年)にこの地に鎮座された。春季大祭 初巳例大祭 四月初の巳の日秋季太祭 古式初亥祭 十月初の亥の日 一歳両度の祭祀として欽明天皇の御代より連綿と継承されている」「弁財天 童子像」を斜めから。 右に曲がってさらに石段を上る。杉山検校和一(すぎやまけんぎょうわいち)の建てた江ノ島弁財天の道標とその後ろに『福石』と刻まれた比較的小さい石碑が。杉山検校は、江ノ島の弁財天で21日間の断食をし、祈願したところ、その満願の日、帰り道にこの石につまずいたと。その時、体を刺すものがあったので確かめてみると、松葉の入った竹の管だったいう。この出来事が、管鍼(かんしん)の技術を考案するきっかけとなったといわれている と。「杉山和一総検校(すぎやまわいちそうけんぎょう)之像江戸前期の鍼医杉山和一は、像の建つこの場所で江島弁財天のご神徳を頂き、立身出世をし鍼術を以って、世の中に多大な功績を残しました。御利益 心願成就 病気平癒 学業成就 芸能上達 鍼灸按摩 学術向上お身体の気になる所と同じ部位に触れ、心身を和め癒して下さい。古くからの言い伝えで、この地で物を拾い弁財天にお参りすると福を授かるとわれています。 一般社団法人 藤沢市鍼灸・マッサージ師会」 「杉山和一総検校之像」。「福石」の以前の写真。 「杉山検校(和ー)は、慶長15年(1610年)伊勢に生まれました。幼くして盲目になりました。鍼の治療で身を立てようと江戸に出て、鍼医の師匠に入門しましたが、不器用なため、術を習得することが出来ずに悩んていました。そこで何としても神仏にすがり上達したいと思い、江の島にこもり21日間の断食をして祈願しました。満願の日の帰り道にこの石につまづいて倒れて、気を失ってしまいました。すると、夢の中で美しい5色の雲にのって弁財天が現れたので、手をあわせて拝もうとしたところ、何やらちくちくと身体を刺すものがありました。そこで夢から覚め、手にとってみると松葉の入った竹の管でした。これにヒントを得て管鍼の術を考案してその元祖となり、それによって徳川綱吉の病を治療し、関東総検校に栄進したといわれています。」 そしてさらに石段を上がると、正面に「江島神社 辺津宮」の「手水舎」が。さらに石段を上る。正面に「江島神社 辺津宮」の拝殿。 唐破風を見上げて。扁額「邊津宮」。 「江島神社奉安殿」の前方にあったのが「銭洗白龍王」。 近づいて。正面から。ズームして。「龍神と弁財天水辺に鎮まる龍神は古来より気象を司る国土安泰の神とされました。江ノ島では弁財天の夫神として財宝福徳の神としても信仰を集めています。」Colorfulな「おみくじ掛け」。右側にあったのが八角形の「江島神社奉安殿」。源頼朝が奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請したとのこと。「奉安殿江の島弁財天への参詣の歴史は古く、広島 の宮島、滋賀県の竹生島と並び「日本三 大弁財天」として篤く信仰されて来ました。 弁財天は当初、武人守護の神として信仰を 集めていましたが、時代が進み泰平の世に なることで、次第に“芸能・音楽・知恵 ・ 福徳の神”として信仰されるようになりました。奉安殿では勝運祈願の神として信仰される八臂弁財天(国重要文化財)や音楽芸能の上達を願う人々の信仰を集めている妙音弁財天(市重要文化財)の御尊像をお祀りするほか、多くの宝物を収蔵しています。」奈良の法隆寺の夢殿をモデルとして建てられた。国指定重要文化財の八臂弁財天像、市指定重要文化財の妙音弁財天像のほか、十五童子像などが安置されているのだ(有料)。「八坂神社」。 「八坂神社御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)例祭日 七月十四日旧称 天王社御祭神の建速須佐之男命は八岐大蛇(やまたのおろち)退治で知られる日本神話の英雄で、神仏習合時は牛頭天王(ごずてんのう)と呼ばれました。疫病を始めとするあらゆる災難からお守り下さる神様で、江島神社に祀られる三女神の父神でもあります。」 「藤沢市指定重要無形民俗文化財江の島天王祭(てんのうさい)令和二年(二〇二〇)四月一日指定八坂神社(江島神社境内社)の江戸時代以来の例祭。腰越で祀られていた神体(建速須佐之男命)が大波に流されたのを、江の島の大海士(素潜り漁師)が海中よりすくい上げて祀ったと伝わります。この伝承を再現したのが、毎年七月第三日曜日に行われる神幸祭(神輿の海上渡御・東浜祭典・小動神社渡御)です。その前後数日間の一連の祭礼が天王祭で、「かながわの祭り50選」に選ばれています。祭礼の始まりを再現する形態が、伝承通りに江の島島内の漁師を主体として伝えられていること、特殊神饌として調理した麦を供した後、参詣者に振る舞うことに特色があります。神輿渡御の際に先導して奏でられる「江の島囃子」は、神奈川県の重要無形民俗文化財に指定されています。 令和二年十二月 藤沢市教育委員会」 稲荷社・秋葉社。八坂神社の隣にある小さな社。江島神社の末社だと。豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)と火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)が祀られている。江の島随所にあった小祀(秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など)を合祀した社とのこと。源実朝ゆかりの「宋の古碑」。1204年(元久元年)に源実朝の命を受けて宋に渡った良真が、宋の慶仁禅師より伝えられたという石碑。「大日本国江島霊迹建寺之記」と彫られているとのことだが読み取れなかった。「むすびの樹」。二つの幹が一つの根で結ばれている「むすびの樹」であったと。伐られてしまった大銀杏の樹であった と。 絵馬「八臂弁財天」は既に2026年ひのえ午年に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.28
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江の島シーキャンドルそして西の空には未だ一筋の赤き輝きが。夜はすでに始まっているはずなのに、境川の河口だけが、まだ一日の色を手放していないのであった。雲に押し込められた西の赤は、空ではなく、水面に居場所を見つけたかのようだ。川は語らず、流れを変えることもなく、ただその赤を受け止め、静かに流れを広げていた。江島神社御鎮座記念龍燈籠(右)。この龍燈籠は「江島縁起」による江の島湧出の時から、数え1450年を記念に平成13年(2001年)に建てられたもの と。江島神社御鎮座記念龍燈籠(左)。刻々と色の変わる江の島シーキャンドルをズームして。闇に包まれた海の上を、一本の光の道が江の島へと伸びていたのであった。弁天橋の欄干に連なる白い灯りは、足元を照らすというより、進む先を静かに指し示していた。背後には、赤を失った空と一日の記憶があり、前方には、青く瞬く島の灯りが待っていた。江の島アイランドスパとその奥上に江の島シーキャンドルの青い輝きが。「江の島大橋」の東側の「湘南港北緑地広場」のヤシの木も様々な色彩で輝いて。海の赤も、橋の白も、すでに遠ざかった夜の中で、ここだけが、色を選び直していた。ヤシの幹を昇る光は、白から金へ、青から深い群青へと移ろい、昼の名残ではなく、夜そのものを飾っていた。葉は風に揺れ、光はその動きに合わせてほどけ、広場は静かな舞台のように呼吸を続けているのであった。 この後に訪ねた、江の島アイランドスパの「ENOSPAイルミ」の「ハートのオブジェ」をズームして。「江の島弁天橋」の袂の下部・「境川」の河口の海に入り、頭にヘッドライトを灯して大きな細かい目の網で何かを掬っている若者の姿が。うなぎの稚魚を掬っていたのであろうか?うなぎの稚魚はシラスウナギと呼ばれ、透明で柳の葉のような形をしており、全長5~6cmほどで、河口などで捕獲され養殖に使われますが、希少で「白いダイヤ」とも呼ばれる高級品。深海で卵から孵化し、レプトケファルス(葉形幼生)という透明な幼生を経て、黒潮に乗って日本近海にたどり着き、川を遡上する過程でシラスウナギに変態します。天然資源の減少から人工孵化・完全養殖の研究が進んでいます と。 「シラスウナギ」の写真をネットから。 「江の島弁財天商店街」の入口が前方に見えて来た。 江島神社参道~えのすぱ別館通路~シーサイドデッキに至るまでの小路が、カラフルな中国提灯の幻想的な光で彩られていた。中華飯店 吉祥楼の営業日は中国風の門構えも光に包まれ、江の島を訪れるみなさまをお迎えしていると。中国提灯、ハートのオブジェともに自由に出入りできる箇所にあるので、どなたでも撮影をお楽しみになれます と。ライトアップされた中国提灯が色彩豊かに。見上げて。一つひとつ形も色も異なる中国提灯は、競うことなく、互いの光を受け止めながら、空間をやさしく満たしているのであった。ズームして。真下から見上げて。そして歩いて来た「江の島弁天橋」を振り返って。 弁天仲通り入り口にある江の島アイランドスパの「ENOSPAイルミ」の「ハートのオブジェ」。近づいて。記念撮影するカップルの姿。正面から。江の島アイランドスパの入口。屋外エリアの絶景を楽しむ「露店スパ」をネットから。そして「江の島弁財天商店街」を「江島神社 大鳥居」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.27
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太陽が姿を消したあとも、空はすぐに暗くならず、燃え残った光だけが雲の下に滞まっていたのであった。赤は橙へ、橙は深い朱へと静かに移ろい、稜線は黒く引き締まり、昼の輪郭を一つずつ手放していくが如くに。稜線は影として沈黙し、その上に広がる空は、燃えることも照らすこともやめ、ただ淡い熱を帯びた色をたたえているのであった。この時間の美しさは、何かが現れることではなく、何かが去ったあとに残る余韻そのものに。太陽が姿を消した海は、もはや輝こうとはせず、ただ一日の終わりを受け入れているか如くに。波は白さを抑え、音も色も少し低くなりながら、規則正しく岸へと寄せてくるのであった。山の端は、もはや風景ではなく、光と闇の境界そのものとなって。稜線の輪郭は鋭さを失い、燃える空の色を背に、ただ静かに横たわる影となった。太陽は姿を消したが、その熱と色だけが、山の上縁に薄く滲み、一日の終わりを告げ続けているのであった。この日の太陽はすでに山の向こうへ去り、赤は空から切り離されて、岸辺の水面に残っているのであった。波に砕かれた残照は、一枚の光ではなく、幾重にも重なる細い線となって揺れるのであった。太陽はすでに姿を消し、空の赤も次第に遠のいているのに、岸辺の水面だけが、いま最高潮の色を抱いているのであった。波に削られ、引き延ばされた残照は、朱から紅、紅から鈍い金へと重なり、砂に触れる直前で最も深く燃えるが如くに。岸辺に濃く残る赤の残照へ、白い波が、ためらうように近づいてくる。赤は水面に溶け込み、白は泡となって形を持ち、二つの色は混ざらず、ただ一瞬、同じ場所を共有するのであった。岸辺に集まっていた赤の残照は、もはや縦に揺れることをやめ、波打ち際で、静かに横へと広がっていのであった。それは道ではなく、境界でもなく、一日の終わりを告げる細く長い余韻の線。寄せる波に削られながら、赤は水平に引き延ばされ、砂と水の境目をそっとなぞるようにしばし留まるのであった。白い波がその上を越えても、赤は消えず、水面の奥で静かに光を保っていた。縦に落ち、岸に集まり、そして最後は、夜へ引き渡される前の水平な帯となって。岸に横たわっていた赤い帯は、もはや広がることも、揺れることもなく、ただ薄く、静かに保たれていた。波が一度、その上を越えるたび、赤は削られ、ほどけ、水面の奥へと引き戻されていく。やがて線は途切れ、帯は形を失い、色は水の中へ溶け込む。そこに残るのは、輝きではなく、確かに存在していたというわずかな記憶だけ。夜はまだ完全には訪れない。だがこの瞬間、一日は静かに、誰にも告げずに幕を閉じて行くのであった。岸辺から赤はすべて引き去り、水面はすでに夜の色を受け入れているか如くに。波は灰を帯び、白も赤も失い、ただ静かな起伏だけを繰り返すのであった。それでも、山の端の上だけは、まだ昼を手放していない。空の下層は闇へ沈み、その上にだけ、燃え残ったような朱が張り付いているのであった。赤は降りてこない。海へも、岸へも戻らず、ただ高みに留まり、この日の終わりを最後まで見届けているか如くに。やがてこの赤も消えるだろう。だがこの瞬間、夜はすでに始まり、昼はまだ、空の端に息づいているのであった。やや西へと視線を移すと、先ほどまでの赤はすべて去ったかのように思える。それでも岸辺には、置いてきぼりにされたような残照が、水面に細く、数筋だけ残っていた。その淡い赤の上で、母と子は波と戯れ、時間を急ぐことも、空の変化を意識することもない。一日はすでに終わりへ向かい、空は夜を受け入れようとしているのに、ここだけは、人のぬくもりがまだ夕暮れに留まっているのであった。残照はやがて消える。しかしこの瞬間、光よりも確かなものとして、寄り添う二人の姿が浜辺に静かに刻まれているのであった。昼の熱を抱えていた海は、すでにそれを手放しはじめていた。水面に残ったわずかな数筋の赤は、熱ではなく、ただの名残として揺れ、波の動きに合わせて細くほどけていくが如くに。空はなお朱を宿しながらも、それを降ろそうとはしない。音もなく、合図もなく、ただ空気の質だけが変わり、冬の夜が、同時にゆっくりと近づいてくるのであった。山の端は、もはや太陽を隠す場所ではない。そこは、昼の名残と夜の気配が静かにせめぎ合う、最後の稜線となっていた。雲の下に溜まった赤は、燃えるというより、深く沈み、重さを帯び、山の輪郭をくっきりと浮かび上がらせているのであった。この場を去る理由はもう揃っている。寒さも、闇も、次の予定も。それでも立ち去れないのは、この空間とこの時間が、「終わり」ではなく「手放す前の静けさ」だから。空はすでに色を失い、海もまた、昼の名残を語らなくなった。その代わりに、江の島へ渡る入口の建物が、一つ、また一つと灯りをともし始めたのであった。それは闇を追い払うためではなく、「ここからは夜の時間ですよ・イルミネーションが始まりますよ」と静かに知らせる合図のようであった。昼の熱も、夕焼けの赤も、すでにこの浜からは退いていた。湘南海岸は、色を主張することをやめ、空と海と陸が、それぞれの濃淡だけで並んでいるのであった。大いに楽しみ、感傷に?耽った片瀬西浜海岸を後にして、新江ノ島水族館の売店を訪ねた。「ハナゴンドウ ビーナ」👈️リンク と。 そして点灯が既に12月25日で終わったクリスマスツリーをネットから。そして新江ノ島水族館を振り返って。国道134号の向こう側にあった高級マンション・「パークハウス江ノ島」。国道134号(R134)の平塚方面を見る。国道134号は、神奈川県横須賀市から大磯町まで、湘南海岸線に沿って走る約60kmの幹線道路で、三浦半島や湘南の人気観光地(葉山、逗子、鎌倉、江ノ島、茅ヶ崎など)を結び、美しい海や富士山を望む絶景ドライブルートとして知られているが、夏場は渋滞しやすいのが特徴なのである。国道134号を渡り、高級マンション下のイルミネーションを。近づいて。そしてイタリア料理店「iL CHIANTI BEACHE」越しに江の島の姿を。未だ江の島シーキャンドルのイルミは点灯していなかった。時間は16:53前。そしてハワイ料理店・Eggs 'n Things 湘南江の島店。レストラン・GARB👈️リンク の案内が歩道表面に映像で。そしてさらに進み「境川」の架かる「片瀬橋」から「境川」の上流を見る。 江の島の店の灯りも増えて来ていた。 街の灯りが主役になり、車の流れが夜の速度を刻み始めても、西の空だけは、まだ一日を手放しきれずにいた。厚い雲の切れ目の下、水平線に沿って引かれたわずか一筋の赤。そして「境川」、「弁天橋」の先に、小田急線「片瀬江ノ島駅」の姿が。 そして17:00になり、イルミネーションの点灯開始。白壁がピンクに染まった「片瀬江ノ島駅」をズームして。 西の空から最後の赤が消え、街の時間が確かに夜へ移った頃、片瀬江ノ島駅は、自ら光をまとい始めたのであった。竜宮城を思わせる屋根の曲線は、ピンク・紫と白の光に縁取られ、昼には見えなかった陰影を静かに浮かび上がらせるのであった。それは賑わいのための光ではなく、帰る人、訪れる人をそっと迎え入れるための灯り。海と空が役目を終えたあと、この駅が、湘南の夜の入口として静かにバトンを受け取ったのだ。一日の終わりを見送ってきた視線は、ここでようやく、人の営みの時間へと戻って来たのであった。駅の灯りを背に、橋は夜の衣をまとい、欄干に連なる紫の光が水面へとこぼれ落ちていた。昼を映していた境川は、今は街の光を受け取り、揺れるたびに色を変えながら静かに流れ続けているのであった。橋脚の影は深く沈み、その間を縫うように、光だけが水の上を歩いていく。ここでは、海と空が主役だった時間はすでに終わり、人の営みが放つ灯りが、夜の景色を形づくっているのであった。遠ざかる残照の記憶と、新しく灯った光とが、この橋の上で、一日をきれいに結び直しているのであった。瓦屋根の稜線はやわらかな光を受け、竜宮の意匠は紫と白に縁取られて、昼には見えなかった表情を浮かべていた。橋の欄干に連なる小さな灯りは、流星の列のように駅へ導き、訪れる人の歩調を自然に夜の速さへと整えていくのであった。「片瀬橋」を渡り終えて、「江の島弁天橋」方向に歩を進める。「片瀬橋」を「境川」左岸から振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.26
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雲の切れ間から差し込んだ光が、全ての山の稜線を越えて海へと届き始めた。雲が厚く覆い、空の明るさは大きく抑えられていたが、その下に残った夕日の光が強まり、山の稜線全体を赤橙色に染めてい来たのであった。光は山肌に当たって拡散し、水面には直接的な反射ではなく、面としての明るさが広がって来たのであった。明暗の差が最大になり、この日の夕景が最も強い色とコントラストを示した瞬間といえる光景。そして上部の雲の切れ間から、白く輝く太陽が姿を現した。雲の底が一部切れ、その隙間から白く強い光を放つ太陽が直接見えて来たのだ。周囲の空は橙色に広がっていたが、太陽そのものは色を帯びず、明確な白として分離していた。山の稜線は完全に影となり、光は面ではなく一点の強い輝きとして現れて。雲による遮蔽が一瞬弱まったことで、日没直前の太陽の位置と強度がはっきり確認できるのであった。雲の切れ間がわずかに広がり、太陽の白い部分がより明確に露出して来たのであった。周囲の橙色はさらに濃くなり、山の稜線と空との境界は、光に押されるように曖昧に。太陽はまだ雲に遮られていたが、光の主役が「帯」から「一点」へ移りつつある段階がはっきり読み取れる場面に変化。そして水面に赤い帯が姿を見せた。雲の切れ間に残った太陽の光が、山の端を越えて海へとまっすぐ届いて。その光を受けて、水面の中央に細長い赤い反射の帯が現れ、波の動きに合わせて形を変えながら下方へ伸びて来たのであった。周囲の海面は暗く落ち着いているため、光が当たっている部分だけが明確に区別できる状態で。太陽の位置と水面の角度が一致したことで生じた、短時間に限って現れる現象。雲の切れ間・低い太陽高度・穏やかな水面が揃ったため、「光の道」が非常に明瞭に現れた瞬間のなのであった。雲の切れ間から姿を見せた太陽は、輪郭を失いながら大きく広がり、その光を受けて、水面には幅を持った光の帯が現れて来た。帯は一直線ではなく、波の揺れに応じて明暗を重ねながら、下へ下へと連なって。太陽の存在感が増すにつれて、一点の反射だった光が、面として水面を占めていく、その変化が、静かでありながら印象的な美しさを生んでいたのであった。赤橙色の反射が層を成して連なり、縦の帯となって伸びて来た。雲の切れ間で広がった太陽の光が、山の端に沿って強く滲み、その正面に当たる水面だけが縦に明るく反射。周囲の海面が落ち着いた色調であるため、反射の列だけが時間の進行を示す目印のように際立って。太陽の強さと水面の細かな動きが重なり、静かな条件の中で、はっきりとした美しさが現れていたのであった。刻々と変化する光の帯を追って。さらに。ズームして。雲間から現れた太陽が次第に大きな姿になって。光の帯は一直線に続くのではなく、水面のうねりに合わせて短い反射の列となって現れていた。一つ一つの波が角度を変えるたびに光を受け、明るい部分と暗い部分が交互に並び、帯は途切れながら連なっていたのであった。連続していないからこそ、海面の動きがそのまま可視化され、静かな波のリズムが光として読める夕景になって。光は固定されたものではなく、波とともに刻々と形を変えていることが、はっきり伝わって来たのであった。波とともに刻々と形を変えて行く光の帯を追って。天と海を縫い合わせるように、金色の縫い目が静かに伸びていた。闇の始まりに向かって刻々と変化して行く海原に落とされた、ただ一本の光の通路。ズームして。太陽の余韻が、波に刻まれて下へ下へと流れ落ちてゆく。さらに。光の帯の海面・水面も波のざわめきを映して。 海が空の光を受け取り、細長い記憶として抱きしめているが如くに。揺らぐ水面の呼吸に合わせ、光が途切れ、また結ばれるのであった。夜へ向かう境界で、光だけが名残惜しそうに立ち止まっているかの如くに。金色の道が、遥かな彼方へと人の心を誘うのであった。雲に遮られた空の裂け目から、光だけが海へ逃げ出してきたかのごとくに。太陽の赤みが極まり、光の帯が細かく分節されながら海面に落ちて。山の稜線が蓋を閉じ、光は下へ逃げ場を探すように落ちてゆくのであった。海面に残るのは、輝きではなく、燃え尽きた後の名残か。稜線は静かに幕を引き、太陽は今日という役を終えていくのであった。一日の熱と色を抱えたまま、太陽は静かに隠れてゆくのであった。いや太陽が隠れてゆくのではなく、山の端がそれを包み込んだのだ。焼けた空を背に、光は稜線の向こうへ身を委ね始めた。最後の輝きが稜線に触れ、昼と夜がそっとその場を引き継いでいるがごとくに。そして、太陽は稜線に抱かれるように消えていったのであった。昼と夜の境目を、今まさに越えた瞬間。光の時間から、闇の時間へ移り変わる姿をじっと見つめていたのであった。。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.25
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小田急片瀬江ノ島駅 竜宮城作りを取りいれた新駅舎が2020年7月30日完成。各種の新しい設備・演出がされていますが より竜宮城らしい駅の演出の一つに改札内コンコースに大型の幻想的なクラゲの水槽が設置されたのだ。アカクラゲで水槽内をゆったり浮遊する様子は実に幻想的であった。小田急電鉄と新江ノ島水族館のコラボによるクラゲ水槽。約2.5m高の水槽の背後にはマリンブルーの塩ビ板を設置し、神秘的な照明が施されていた。優美に泳ぐアカクラゲ (Chrysaora pacifica)。・半球状で黄褐色〜橙色がかった傘・非常に長く細い触手が多数伸びている・レース状に縮れた白い口腕(こうわん)が目立つ・全体に「流れるような優雅さ」があるこれらは、日本の水族館でもよく展示されるアカクラゲ(Chrysaora pacifica)の典型的な特徴。近づいて。日本近海でよく見られるポピュラーなクラゲで、春から夏にかけて多く出現する と。・長く伸びた赤い触手と、傘にある放射状の縞模様が非常に美しく、水族館でも非常に 人気のある種類・別名「サナダクラゲ」: 長い触手が真田紐(さなだひも)に似ていることからそう 呼ばれることもある と。・強い毒性: 触手には非常に強い毒(刺胞)があり、刺されると激痛が走ります。 乾燥した死骸の粉末が鼻に入るとクシャミが出るため、古くは「ハクションクラゲ」とも 呼ばれていました。小田急江ノ島線の終着駅「片瀬江ノ島駅」。この駅舎は、竜宮城をイメージしたユニークなデザインが特徴で、2020年に新駅舎としてリニューアル。お正月仕様: 入り口付近には門松が飾られていまた。凛とした空気感が伝わってき来た。竜宮城を模した駅舎: 画像にある通り、鮮やかな朱塗りの建物はまさに竜宮城を彷彿とさせる。夜のライトアップ: 夜になると駅舎全体が美しくライトアップされ、昼間とはまた違った幻想的な雰囲気が漂うのだ。江の島観光の玄関口として非常に人気のあるスポット。屋根の上に鎮座する金の龍や、精巧な木組み、そして「竜宮造り」を象徴する白い漆喰壁のような曲線美が実に見事。五頭龍の装飾:屋根の頂上付近にある金の龍は、江の島に伝わる「五頭龍(ごずりゅう)と弁財天」の伝説に基づいている。屋根の端にいるのは龍ではなく「イルカ」。これは「新江ノ島水族館」が近いことにちなんだ遊び心溢れる装飾で、伝統的な竜宮造りの」中にも現代の江の島らしさが取り入れられているのであった。①唐破風の中央装飾 写真中央の曲線屋根(唐破風)の内側には、波・雲・宝珠を抱く龍のレリーフ。 龍は水神・海神の象徴で、江の島信仰(弁財天)とも響き合います。②屋根の色と素材 緑青色(ろくしょういろ)の屋根は、銅板屋根が経年で酸化した色調を意識したもの。 神社建築を思わせる落ち着きと格調を演出していた。③ 鯱・宝珠風の棟飾り 屋根の棟端に載る装飾は、跳ねるイルカの像。江の島・相模湾を象徴する海の生き物として、 城郭建築の鯱ではなく、海浜リゾートの玄関口にふさわしい意匠が選ばれたのであろう。片瀬西浜海岸に向かって進む。国道134号の「片瀬江ノ島駅入口」交差点から「片瀬橋」方向を見る。 西の空には、厚い雲が空の大部分を覆い、雲の切れ間だけが明るく残っていた。低い位置の空は橙色に染まり、遠くの山並みの稜線がくっきりとシルエットになっていた。海面は直接見えないが、水平線付近の光が一日の終わりを静かに示していた。移動してズームして。雲は依然として厚く、上空は暗い灰色、その下に細く連なる明るい帯がはっきりと見えた。夕日の光が雲の底を照らし、橙色から淡い黄色へと色が移り変わって行くのであった。遠景の山並みは黒く抑えられ、輪郭だけが浮かび、人工物(アンテナやフェンス)は静止した基準線として画面に残っていた。片瀬漁港入口にあったブロンズ像「海の詩」、作者は親松英治。1. 海の中の世界と躍動感鯛を抱えて逆さまになった非常にユニークでインパクトのあるポーズは、「海の中」をイメージして表現されていた。作者の親松氏は新潟県佐渡島の出身で、少年時代に自らが海に潜って元気に遊んでいた記憶や姿を投影して制作された と。2. 安全への祈りこの像は片瀬漁港の整備記念として設置された。躍動的な表現とともに、「海の事故がないように」という切実な安全への祈りが込められているのだ と。丹沢主稜(丹沢山~蛭ヶ岳)を正面に据え、とくに蛭ヶ岳の量感が中央に現れている一瞬。片瀬漁港に停泊する漁船を背景に。江の島の姿を振り返る。船のアンテナやレーダー越しに、山の端がはっきりと。雲が低く垂れ込み、空は暗く沈んでいますが、その下にだけ強い橙色の光が残り、山の稜線をくっきりと浮かび上がらせていた。明暗の差がはっきりしていて、雲・光・山が水平に重なり、時間帯と天候の変化が一目で分かる夕景なのであった。前景に漁船のマストや索具が立ち並び、港の輪郭がはっきりと分かった。その奥で、雲の切れ間に沿って細く残った夕日の光が、水平線を一文字に照らしていた。空は全体に落ち着いた灰色で、人工物の直線と、空と光の水平の帯が対照的。一日の作業を終えた港の静けさと、時間の移ろいがそのまま伝わってくる夕景なのであった。左手奥には、片瀬漁港西プロムナードの先端にある「片瀬漁港白灯台」の姿が見えた。 「境川」の堤防前・片瀬漁港東プロムナードから、江の島を再びズームして。時間は16:20前。「境川」河口にある国道134号「片瀬橋」方向を見る。 片瀬漁港西プロムナード入口の屋根付き無料休憩所・片瀬西浜常設ステージ横から。ズームして。黒い雲の下端がさらに明るくなって来た。江の島シーキャンドルの灯りは未だ。漁港の波は穏やかに。湘南海岸の緩やかに湾曲する砂浜は、波が穏やかに寄せ、引き際にできた濡れた砂浜が空の色をそのまま映していた。人の姿は点在し、それぞれが距離を保ったまま海と向き合っていた。遠景には街の輪郭と山並みが低く重なり、空は日没前の淡い明るさを保っていた。動きは少なく、音も抑えられているかの如くに、夕暮れの時間帯に特有の落ち着きと広がりが感じられる海岸の風景なのであった。ズームして。この後に訪ねた江の島の姿を再び。水面に向かって雲の切れ間から陽光が射し込んでいる姿が現れた。光は斜めに伸び、水面の細かな起伏を拾いながら、帯状に明るさをつくっていた。空と山は暗く抑えられ、その分、海面に現れた光の筋がはっきりと認識できる瞬間なのであった。天候の変化と時間帯が重なったことで生まれた、短いあいだだけの光景んなのであった。片瀬漁港西プロムナードのフェンスも赤く染まって来た。刻々と暗さが増し、フェンスの色も変化して。雲が厚く広がり、空の明るさは全体に抑えられていたが、水平線付近だけに淡い赤みが残っていた。その色の変化がそのまま水面に映り、暗い海面と、わずかに赤みを帯びた帯状の部分との境界がはっきり見えて来た。桟橋や消波ブロックは影として静まり、光と暗さの分布が、時間帯の移行を明確に示していた。落ち着いた条件の中で、空と海が同じ構造で変化していることが分かる夕景なのであった。水面に向かって雲の切れ間から、刻々と陽光が広い範囲に延びて射し込んでいる姿を。湘南海岸の水面も僅かに赤く染まって来た。太陽が雲間から現れる予感が。ズームして。雲が低く覆い、その下に強い光の帯が。山の稜線は暗く沈み、雲間から差した光が斜めの筋となって山肌と水面へ届いていた。海面は細かな波で均一に揺れ、そこに光が当たる部分だけが、わずかに明るさを増す。空・山・海が明るさの段階ごとに分かれて重なり合い、光の方向と強さが明確に読み取れる素晴らしい夕景なのであった。レンズを移動して。更に赤く染まるフェンス。雲に覆われた空は暗さを増していたが、低い位置に残った夕光が、フェンスの隙間に反射して赤みを帯びた線をつくっていたのであった。後方の江の島そして江の島シーキャンドルはほぼ影となり、人工物であるフェンスだけが、光の色を受け取って際立って来たのであった。自然の色が直接見えるのではなく、光が構造物に移り、色として現れている点が印象的。時間が進むにつれて、夕景が「空」から「周囲のもの」へと移っていく様子が分かる瞬間。 ・・・つづく・・・
2026.01.24
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「国会図書館」後にして国会議事堂の裏の「国道246号」を歩く。右側には「参議院議員会館」があった。「参議院議員会館」は、国会議員(参議院議員)が執務を行うための東京の事務所であり、政策立案や国民との対話の拠点。国会会期中以外でも、地元からの陳情・要望を受け付けたり、官僚からの説明を聞いたり、議員同士が打ち合わせをしたりする場所で、国会議事堂の裏手に位置し、議員の仕事場と市民が接点を持つ重要な施設。 そして左側に「衆議院参観受付・入口」があった。 「衆議院参観受付入口」はここ。見学の際に配布された公式小冊子(広報誌)の表紙。「国会 衆議院へようこそ」 衆議院見学用小冊子の「目次・ごあいさつ」ページ。目次国会議事堂について …… 2国会―憲法に見るしくみ― …… 10 三権分立 …… 10 国会の地位 …… 10 議院内閣制 …… 10 国会の構成 …… 11 国会の権限 …… 12 国会議員の地位 …… 12 国会の召集と会期 …… 13 開会式 …… 13本会議 本会議の基本原則 …… 14 本会議の主な議事 …… 14委員会 委員会の構成 …… 17 議案の審査 …… 20 国政調査 …… 20 閉会中審査 …… 20法律案審議の流れ …… 21衆議院議長・副議長一覧 …… 22内閣総理大臣一覧 …… 24国会周辺図 …… 26お知らせ …… 28ごあいさつ(本文)衆議院へようこそお越しくださいました。国会は、国民の皆さまから選ばれた国会議員により組織されており、日本国憲法は、国会を「国権の最高機関」であって、国の唯一の立法機関である」と定めています。衆議院は、参議院とともに国会を構成し、法律の制定、内閣総理大臣の指名、政府(内閣)提出の予算の議決など大切な役割を担っています。また、国政全般に対する調査や国民生活に密接に関係する身近な課題まで幅広く議論するとともに、国政調査権に基づき、行政が適切に執行されているかどうか調査したり、国民からの請願や陳情の審査を行うなど、常に国民の代表機関としての役割を担っています。こうした活動の行われる場所が国会議事堂です。現在の建物は、昭和11年(1936年)に竣工しました。長い歳月を経た現在も大変貴重な建築物であり、そこで行われてきた様々な活動は、我が国の議会政治の歴史そのものでもあります。私たち国会議員は、こうした伝統と様式を大切にしながら、社会経済情勢の激しい変化を受け止め、内外の諸課題解決に向け迅速かつ柔軟に対応し、日々に課せられた責務を果たしています。このパンフレットを通じて、国会の役割や活動に対する国民の皆さまのご理解を深めていただき、国会をより一層親しみやすく感じていただければ幸いです。議長額賀福志郎副議長玄葉光一郎国会議事堂の全体構成が一目で分かる俯瞰図(模型写真)+基礎データをまとめた、非常に重要な解説ページ。① 俯瞰図中央塔を軸に向かって左:衆議院向かって右:参議院完全な左右対称構成中央正面が 中央玄関前庭は半円形の車寄せ構成→ 皇居・官庁建築と共通する「儀礼空間」下段:国会議事堂について敷地面積:103,007㎡建築面積:13,356㎡(延べ53,464㎡)長さ:正面 206.36m/奥行 88.63m高さ:20.91m(中央塔:65.45m)議場面積:衆議院 743.81㎡/参議院 743.81㎡構造:鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階地下1階建(一部4階、塔屋付)建築費:2,570万円(当時の金額)建期期間:17年間{大正9年(1920年) 1月~昭和11年(1936年) 11月)使用開始議会:第70回帝国議会(昭和11年12月)工事延人数:254万人衆議院:正面から見て左倒参議院:正面から見て右側「中央玄関・中央広間」紹介ページ。中央玄関中央玄関は、普段、開放されていません。国会の開会式に天皇陛下をお迎えするとき、衆議院議長や参議院議長、常任委員長の国会登院時に、議員が参院へ登院するとき、外国の元首などがご訪問の際に開かれます。中央広間中央玄関に入ると、中央塔の真下に当たる所に中央広間があります。4階吹抜きで、上から光が差し込んでおり、豪壮大なホールです。天井はステンドグラスがはめこまれており、高さは約32.62メートルあります。この広間には、憲政の功労者であった伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像が三方に立っています御休所中央広間から中央階段を上がると、天皇陛下の御休所があります。陛下は、開会式の当日、この御休所にお入りになり、両院の議長と副議長がここで陛下にお目にかかります。この部屋の造作は、総檜造の本漆塗りになっているなど、当時の建築や工芸の粹を集めたものといわれています。衆議院玄関衆議院議員は、通常この玄関から登院・退庁します。玄関を上がったホール正面には、衆議院議長として50年以上在職し、かつ、憲政の功労者として衆議院名誉議員の称号を贈られた尾崎行雄と三木武夫の胸像が設置されています。登院表示盤衆議院の玄関を入ると左側に登院表示盤が備え付けてあり、議員が登院したときは、各自、氏名の下に表示されているボタンに触れて登院を表示します。赤じゅうたん議事堂内の廊下には、階段などを含めて約4キロメートルにわたって、赤いじゅうたんが敷かれています。化石国会の柱などには化石が多く含まれていることから「化石の宝庫」とも呼ばれています。衆議院議場本会議が聞かれるところで、正面中央の局い子のある席が議長席、その左隣が議長の職務を補佐する事務総長の席となっています。議長席を中心として左右にそれぞれ2列の席がありますが、前列は国務大臣席で、内閣総理大巨は左側の議長席に近いところにあります。議席は、議長席に向かって左から右へ、所属議員数の多い会派から順に並び、各会派別に座るのが慣例となっています。各議席には、氏名が書いてある黒い四角柱に議員の氏名を置いたものが備え付けられています。国会 ― 憲法に見るしくみ ―日本国憲法は、昭和21年(1946年)11月3日に公布、翌22年5月3日に施行され、5月20日に第1回国会が召集されました。ここに、大日本帝国憲法下で明治23年(1890年)に開設され、56年余続いた帝国議会に代わって新しい国会が誕生しました。三権分立日本国憲法は、国会、内閣、裁判所の三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことにより、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する「三権分立」の原則を定めています。国会の地位国会は、憲法第41条によって、「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」 と定められています。議院内閣制内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名されます。また、内閣は、行政の行使について、国会に対し連帯して責任を負うものとされており、衆議院で不信任が決議されたときは、衆議院を解散するか、あるいは総辞職をしなければなりません。このように、内閣の組織と存続の基礎を国会に置く制度を議院内閣制といいます。国会の構成国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成され、両議院とも全国民を代表する選挙された議員で組織されています。各議院には、本会議と委員会があります。衆議院と参議院の議員定数等の比較衆議院定数:465名任期:4年 解散すれば地位を失う選挙権:18歳以上被選挙権:25歳以上選挙制度: 小選挙区 289名 比例代表 176名解散:有参議院定数:248名任期:6年 3年ごとに半数改選選挙権:18歳以上被選挙権:30歳以上選挙制度: 選挙区 148名 比例代表 100名解散:無国会 ― 憲法に見るしくみ ―国会の権限国会の機能 ●衆議院及び参議院は、両議院一致の議決により共同して国会の権限を行使する。 ① 法律の制定 ② 予算その他の財政に関する議決 ③ 条約の締結について国会の承認 ④ 内閣総理大臣の指名 ⑤ 憲法改正の発議 ●法律案などについて両議院の議決が一致しない場合には、憲法に一定の要件のもとに 衆議院の優越が認められている。議院の機能 ●各議院が独立して行使する権能 ① 議院の自律権 議長、副議長、常任委員長などを選挙する。 会期ごとに議事の付託先委員会を設置する。 会議手続や内部の規律に関する規則を制定する。 ② 国政調査権 ③ 議員の懲罰権 ●衆議院または参議院のみが行使する権能 ① 衆議院の内閣不信任決議権 ② 参議院の緊急集会国会議員の地位 国会議員は、主権者である国民の信託を受け、全国民を代表して国政の審議に当たる重要な 職賈を担っています。この職責を果たすため、国会議員の地位には、一定の身分保障が 与えられており、法律の定める場合を除いては、国会の会期中は逮捕されず、また 議院で行った演説、討または表決について、院外で責任を問われません。国会の召集と会期国会の招集は、内閣が決定し、招集詔書の公布により行われます。開会式開会式は、会期のはじめに両議院の議員が参議院の議場に集まり、天皇陛下をお迎えして行われ、その際、衆議院議長が両議院を代表して式辞を述べ、天皇陛下からおことばを賜ります。本会議本会議の基本原則本会議は、その議院の議員全員の会議であり、議院の最終的な意思はここで決定されます。本会議は、公開が原則であり、本会議を開くには議員の3分の1以上の出席が必要です。議事は特別の場合を除き、出席議員の過半数の賛成で決められます。また、本会議は、通常、衆議院では火曜日・木曜日、参議院では月曜日・水曜日・金曜日の午前10時から開かれます。本会議の主な議事本会議の議事は、開会の日毎、その日の本会議に付する案件と順序を記載した議事日程に従って進められます。1 議院の構成・議長、副議長の選挙 議長、副議長の選挙は無記名投票で行われ、議員は投票用紙に選ぼうとする人の氏名を 記載し、各議院に備え付けの木製の名刺箱に入れて投票します。・議席の指定・会期の件、会期延長の件・常任委員の選任、常任委員長の選挙・懲罰委員会委員、情報監視審査会委員、政治倫理審査会委員の選任・特別委員会の設置2 内閭総理大臣の指名 内閣総理大臣はそれぞれので記名投票により指名されます。 記名投票では議員は、投票用紙に選ぼうとする人の氏名と投票者の氏名を言して投票します。3 国務大巨の演説及び質疑 国会が召集されると、まず本会議を開き、議院の構成を行い、次いて開会式が行われます。 続いて衆参両院の本会議において国務大臣の演説が行われます。 常会では、内閭総理大臣が施政方計演説をするほか、外務大臣、財務大巨、経済財政政策 担当大臣が演説します。特別会と臨時会では、通常、内閣総理大臣が所信表明演説を行い 場合によっては他の大臣が演説することもあります。これらの演説に対し、各会派を 代表する議員が質疑し、内閣総理大臣をはじめ各大臣の答弁があります。本会議4 議案の趣旨の及び質疑要な議案について、議員運営委員会が特に必要があると認めた場合には、議員提出の議案にあってはその議員から、内関提出の議案にあってはその担当大臣から、越旨の説明を聴き、これに対して質疑をします。5 議案の審議委員会の審査を終了した議案(法律案、予算及び条約など)は、本会議に上程されます。本会議においては、議題宣告の後、その議案を審査した委員会の委員長が委員会審査の経過及び結果を報告し、場合によっては質疑や討論を行った後、採決を行って可否を決します。採決には、異議なし採決(異議の有無を諮る方法)、起立採決(賛成者の起立を求める方法)及び記名採決(記名投票による方法)があります。参議院では、通常、押しボタン式投票による採決が行われています。総予算や重要議案などでは、記名投票が行われ、議員は各議席に備え付けの木扎の名刺をもって投票します。木札は白票が賛成、青票が反対を表します。委員会委員会の構成委員会は、常設機関である常任委員会と、会期ごとに各議院が必要なとき、議決で設けられる特別委員会とがあります。議員は任期中、少なくとも一つの常任委員になることになっています。常任委員会衆参ともに17種類の常任委員会が設けられています。特別委員会委員数や所管は、設置のときの議院の議決で決められます。 令和7年1月24日(第217回国会(常会)招集日) 現在委員会議院議院運営委員会本会議の開会の日取り、その議事の順序、発言者と発言時間その他議院の運営に関する事項、国会法及び議院の諸規則に関する事頂、議長の諮問に関する事項などについて協議が行われます。国家基本政策委員会国の基本政策及び時々の重要なテーマについて内閣総理大臣と野党党首との1対1の討議が行われます。衆議院と参議院との合同審査会として開かれます。衆議院予算委員会国の歳入歳出の予算を審査しますが、国民の関心事など国政全般についても広く質疑が行われます。予算委員会における総予算の審査は、趣旨の説明を聴取後、基本的質疑、一般的質疑、公聴会、分科会(参議院は委嘱審査)、締めくくり質疑などを経て、探決されます。憲法審査会日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、かつ、憲法改正原案や憲法改正手続に関する法律案などを審査するため、各議院に設けられました。衆議院は委員数50人、参議院は委員数45人です。情報監視審査会行政における特定秘密保護制度及び重要経済安保情報保護活用制度の運用を常時監視するため、特定秘密及び重要経済安保情報の指定・解除、適性評価の実施状況等について調査を行うとともに、委員会等か行った特定秘密又は重要経済安保情報の提出要求に行政機関の長が応じなかった場合に、その判断の適否等について審査を行うため、各議院に設けられました。衆議院、参議院それそれ委員数8人です。政治倫理審査会政治倫理の確立のため、各議院に設けられ、衆議院は委員数25人、参議院は委員数15人です。委員会 法律案審議の流れ(衆議院先議の場合)議案の審査委員会を開くには、委具の半数以上の出席が必要で、その議事は出席委員の起半数の成で決められます。なお、委員会は、報道関係者その他の者で委員長の許可を得た者は傍聴できます。法律案は、議員からも内閣からも提出されますが、予算や条約は内閣から提出されます。各議院において、議員が法律案を提出するには、衆議院では20人以上(参院では10人以上)の賛成者がなければなりませんが、予算を伴う法律案については、衆議院では50人以上(参議院では2O人以上)の賛成者が必要です。議案が提出されると、議長はその議案を所轄する委員会に付託します。委員会では、議案提出者や担当大臣から趣旨の説明を聴取した後、委員が、提出者、国務大臣その他の政府関係者などに一問一答の形式で質疑をします質疑終了後、討論による会派の賛否表明に続き採決が行われます。委員会における議案の採決は、贊成者の起立を求める方法で行われます。国勢調査各議院は、法律を作るためや行政を監督するために、それぞれ国政についての調査を行うことができます。この国勢調査は、各議院の委員会によって行われており、常任委員会は、会期ごとにその所管の範囲内で調査する事項を決めて議長の承認を得て行い、特別委員会は、付託された調査案件について行います。閉会中審査国会は、会期が終了すると閉会になりますが、各議院の常任委員会と特別委員会は、その議院の議決があれば閉会中でも審査を行うことができます。この議決によって、各議院の委員会は閉会中も会議を開いたり、委員を各地に派遣したりして、審査または調査を行っています。「衆議員議長・副議長一覧」。 「内閣総理大臣一覧」。「国会周辺図」。 「お知らせ」。 「◯主な国会施設の案内~これから参観する場所を詳しく知ろう~・中央玄関 中央玄関は、普段、閉められていますが、国会の開会式に天皇陛下をお迎えするとき、 衆議院議員総選挙または参議院議員通常選挙後の国会召集日に議員が登院するとき、 外国の元首などがご訪問の際に開かれます。・中央広間 中央玄関を入ると、中央塔の真下に当たる所に中央広間があります。4階吹抜まで、 上方から光線を入れており、壁と天井にはステンドグラスがはめこまれています。 その広さは267.65平方メートル、天井までの高さは32.62メートルもあります。 この広間には、議会政治に功労のあった伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像が三方に 立っています。・御休所 中央広間から中央階段を上がると、天皇陛下の御休所があります。 陛下は、開会式の当日、この御休所にお入りになり、両院の議長と副議長がここで 陛下にお目にかかります。この部屋の造作は、総檜造の本漆塗りになっているなど、 当時の建築や工芸の粋を集めたものといわれています。・衆議院本会議場 本会議が開かれるところで、正面中央の高い椅子のある席が議長席、その左隣が事務総長席 となっています。議長席を中心として左右にそれぞれ2列の席があり、前列は国務大臣席で、 内閣総理大臣席は左側の議長席に近いところにあります。 議席は、議長席に向かって左から右へ、所属議員数の多い会派から順次、各会派別に 座るのが慣例となっています。 各議席には、氏名標といわれる黒い四角柱に議員の氏名を書いたものが備え付けられています。」 案内に従い見学し、写真撮影可の場所を撮す。国会議事堂参観ロビー中央広間。中央玄関を入った先の中央塔真下にある広間は、「中央広間」と呼ばれていると。2階から6階まで吹き抜けで、天井にはステンドグラスがはめ込まれていた。天井までの高さは32m。中央広間天井 ステンドグラス。中央広間内を移動して。中央広間に立つ伊藤博文の銅像。見上げて。大隈重信像。板垣退助像。中央広間から正面階上のご休所入口を見る。中央広間のステンドグラス。御休所。玉座のテーブルがL字型なのは、軍服着用時に帽子を置く場所の名残である と。御休所内を移動して。衆議院本会議場。案内者の説明を聴く。衆議院本会議場の天井ステンドグラス。ステンドグラスの裏側には 556本の蛍光灯が設置されていると。ちなみに、ステンドグラスに使われる色ガラスはイギリス製。中央広間や御休所前広間などでも使われているのだ と。国会議事堂・衆議院本会議場を、議場中央から議長席正面方向を見る。中庭。「国会議事堂・衆議院」の見学を終え、外に出る。右手に「衆議院第一議員会館」。 振り返って。そして東京メトロ丸の内線で「国会議事堂前」駅から東京駅へ。そして山手線で品川駅へ。ここで現役時代にお世話になった協力会社の社長と久しぶりに再会して呑んだのであった。港南口の品川セントラルガーデンのイルミネーション。ズームして。2025年11月10日(月)午後 6 時、品川国際映画祭のオープニングイベントにて、品川セントラルガーデンのイルミネーション点灯式が行われた と。移動して、品川インターシティー方向へ。2025年度の品川セントラルガーデンのイルミネーションは品川駅側の「ウェルカム感」にこだわり、2階のペデストリアンデッキからも目をひく エントランスゲートを設置 した。今年のイルミネーションは、品川駅側出入口から北品川側出入口まで約400メートルにわたりつながっていた。夜間にロマンチックな光の中を散策されてみてはいかがでしょうか と。この後の飲み会の会場である寿司屋の方向を振り返る。約16万球のLEDが、品川駅からセントラルガーデンの道のりを華やかに彩っていた。ズームして。午後6時から午後8時まで、セントラルガーデンの中央部のイルミネーションが、このゴールドから白色へカラーチェンジし、1時間に8回、雪が降りだす「White Time」(30秒/回)を体験できるとのことであった。そして帰宅の途へ。我が小田急線の駅の西口リータリーのイルミネーション。桜の花が美しく輝いていた。日本大学藤沢高等学校の生徒会の皆さんが設置。そして東口のイルミネーション。こちらは、藤沢工科高等学校の学生の作品・ハンドベルロボット。様々な色に変化しながら音楽を奏でるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.01.23
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国立国会図書館・本館(永田町)の建築模型 。本館内に展示されているもので、地上からは分かりにくい建物全体の構成を理解するための模型。国立国会図書館東京本館断面図(黄色部分が書庫)「本館書庫中央に位置する書庫昭和36 (1961)年第一期工事が終了し、昭和43(1968)年に竣工しました。1辺45mの正方形で、建物の中央に配置され、その周りを事務棟が取り囲んでいます。(図1 )。こうした配置は、中央書庫式と呼ばれ、どの事務室からも書庫が近いなどの利点があります。17層の書庫本館の言庫は、17層に分割されています。2階分の高さを鋼鉄の支柱で3層に分割し、各層の天井の高さは1.8 ~2.3mとなっています。書庫の大部分(6~17層まで)は地上にあり、1~5層までは地下にあります(図2)。積層構造限られた空問にできるかぎり多くの資料を収めるため、鋼鉄支牲を用いて書架と鉄板の床を積み重ねた構造(積層構造)となっています(右の写真)。書架は、床や天井を支える支柱にもなっています。」 光庭地下8階まで自然光が届く光庭(ひかりにわ)が設けられ、地下にある書庫内で働く人の心理的負担を軽減するとともに、停電時の備えにもなっています。(表紙写真)。員重書書庫貴重書を保管するための専用書庫です。急激な温度・湿度の変化を防ぐため、床、壁、天井をヒノキ合板で仕上げています。貴重書書庫は、壁と気密扉で他の部分と仕切られ、埃が入りこみにくいよう気圧を高く保っています。また、他の場所よりも厳格に人の出入りを制限しています。国立国会図書館は、資料の大部分を書庫に収め、請求に応じて取り出す「閉架式」の利用方法を採っています。東京本館書庫の書架の総延長距離は、本館と新館をあわせて約412kmで、東京都から大阪府までの距難とほほ同しです。書庫の設備集密書架可動式書架を動かして資料を取り出します。スペースを節約できるため、固定式の書架に比べて2倍の収蔵能力があります。新館書庫の約半分が集密書架となっています。消火設備書庫内の消火設備は、水を用いるスプリンクラーではなく、本館は不活性ガス、新館はハロゲン化物による消火設備を設置しています。書籍搬送設備資料を利用者に手渡す力ウンターに効率的に届けるため、搬送設備が設けられています。図書や雑誌を載せたトレイが書庫とカウンターの間を行き来します。トレイには、職員が現在位置を確認できるようID番号が付されています。照明書庫内の照明は、センサーで自動点灯・消灯し、必要なときだけ点灯します。資料への影響を減らすため、低紫外線タイプの蛍光灯を使用しています。虫菌害対策資料を傷める原因となるカビや害虫の発生を防ぐため、空気中の麈埃を取り除く集装置の設置、トラップ調査、必要に応じて受け入れ資料の殺虫殺菌処理などを行っています。また、書庫に汚れを持ち込まないよう、靴カバーや粘着マットを使用しているほか、書庫への立入りを制限しています。当日に頂いた「国立国会図書館 National Diet Library」小雑誌です。図書館内は、一部の場所を除き、全て写真撮影禁止でしたので本小雑誌で紹介させていただきます。国立国会図書館は、国会に属する日本で唯一の国立の図書館です。国会法第130条の規定に基づき、国立国会図書館法により設置されています。「議員の調査研究に資するため、別に定める法律により、国会に国立国会図書館を置く。」(国会法 第130条)使命・役割 国立国会図書館の使命と役割は、国立国会図書館法に定められています。使命「真理がわれらを自由にするという確信に立って、 憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、 ここに設立される。」 (国立国会図書館法 前文)役割「図書及びその他の図書館資料を蒐集し、国会議員の職務の遂行に資するとともに 行政及び司法の各部門に対し、更に日本国民に対し、この法律に規定する図書館奉仕を 提供することを目的とする。」 (国立国会図書館法 第2条)基本的役割 国立国会図書館には、四つの基本的役割があリます。・国会活動の補佐・情報資源の利用提供・資料・情報の収集・整理・保存・各種機関との連携協力沿革国立国会図書館には、ニつの源流があリます。一つは旧憲法下の帝国議会に属していた貴族院・衆議院の各図書館、もう一っは文部省に属していた帝国図書館です。これらの図書館の蔵書は、ほとんどが国立国会図書館に引き継がれ、現在の蔵書の基礎となりました。昭和23 (1948)年2月、国立国会図書館法が制定施行され、同年6月5日、国立国会図書館が開館しました。組織 国立国会図書館は、立法府である国会に属しています。国立国会図書館は、東京本館、関西館、国際子ども図書館の三つの施設が一体となってその役割を果たしています。また、各府省庁と最高裁判所に27の支部図書館を設置し、ネットワークを形成して図書館活動全般について連携しています。国会活動の補佐1 国立国会図書館は、専門的知見に基づく調査や豊富な情報資源の提供によって 国会の活動をサポートするという重要な役割を担っています。 ・依頼に基づく調査 国会議員からの依頼を受け、所蔵する資料・情報などを活用し調査を行っています。 調査内容は、政治、経済、社会、科学技術など多岐にわたります。 ・国政課題に関する調査研究 国政課題に関する調査研究の成果を刊行物にとりまとめ、国会(議員)に提供するほか、 国立国会図書館ホームページでも公表しています。2. 国会会議録や法令索引情報のデータベースを作成しています。 インターネットを通して提供することで、国会と国民をつないでいます。資料・情報の収集・整理・保存1 資料の収集 国内の出版物ー納本制度 国立国会図書館法によって、日本国内て発行された全ての出版物(マイクロフィルム、CD、DVD、 地図などを含む)を国立国会図書館に納入することが、出版者に義務付けられています。 この制度により、国内の出版物を広く収集しています。 外国の出版物 講入や国際交換・寄増により、国会活動の補佐や、学術的な調査・研究に役立つ資料、 日本関係資料などを選呎して収集しています。 ウェブサイト 国内のウェフサイトを収集しています。 ・国立国会図書館インターネット資料収集保存事業(WARP) https://warp.da.ndl.go.jp/ 電子書籍・電子雑誌 民間で出版された電子書籍・電子雑誌なども収集しています。2 書誌データの作成と提供 収集した資料の書誌データを作成し、提供しています。 書誌データの提供は、国立国会図書館サーチを通して行っています。 ・国立国会図書館サーチ https://ndlsearch.ndl.go.jp/ 国立国会図書館の資料やデジタルコンテンツのほか、全国の公共・大学・専門図書館や 学術研究機関等か提供する資料やデジタルコンテンツを統合的に検索てきます。 全国書誌データ(国立国会図書館が収集した国内出版物の標準的な書誌データ)について、 各種画面からのダウンロードや外部提供インタフェース(API)での取得か可能です。3 資料の保存 収集した資料を永く保存し、国民共有の文化的資産として後世に伝えるために、資料の デンタル化、破損資料の補修、保存環境の整備などに取り組んています。情報資源の利用提供1 来館せすに利用できるサービス どなたでも、どこからでも、いつでも利用できるサービスを充実させています インターネットから ・国立国会図書館サーチ https://ndlsearch.ndl.go.jp/ ( p. 5参照) 利用者登録をすると来館せすに複写サービスを利用することができます。・国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ デジタル資料の検索、閲覧あるいは視聴をすることができます(絶版など で入手が難しい資料の利用は国内在住の登録利用者に限ります。)。・リサーチ・ナビ https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/ 調査のポイントや参考になる資料、有益なデータベースやwebサイトなど、 調べものに役立つ情報を案内しています。 お近くの図書館から 公共図書館や大学図書館を通じて、国立国会図書館の所蔵資料の取寄せ、複写の申込み、 資料に関する問合せ(レファレンスの申込み)を行うことができます。 また、デジタル化資料のうち、絶版などで入手が難しい資料も、公共図書館などで 利用することができます。2 来館して利用できるサービス 所蔵資料の閲覧や複写、国内外のデータベース提供、レファレンスなどの各種サービスを 行っています。3 行政・司法に対するサービス 各府省庁およひ最高裁判所の支部図書館に対して、資料の貸出し、複写、レファレンスなどの サービスを行っています。4 視覚障害者などに対するサービス ・みなサーチ(国立国会図書館障害者用資料検索) https://mina.ndl.go.jp/ 障害者向け資料を収録したデータベースを統合的に検索できるほか、公共図書館などが 製作したDAISYデータ、テキストデータなどをダウンロードできます。 また、所蔵する学術文献の録音図書を製作し、全国の図書館を通して貸し出しています。5 子どもの読書活動支援サービス 国際子ども図書館において、国内外の児童書による図書館サービスを提供します。 児童書や子どもの読書に関わる活動の支援、展示会等による児童書の持つ魅力の紹介とともに、 子ども向けのコンテンツやサービスを通して、子どもが読書や図書館に親しむきっかけを 提供します。各種機関との連携協力1 国内の図書館等の支援・協力 国立国会図書館の情報資源やサービス、図書館業務に関する知識及び経験が国内の 各種図書館の業務やサービスの向上に役立つよう、研修や情報発信を通して、その活動や 人材育成を支援しています。 ・レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/ 図書館でのレファレンスや、個人の調査研究に活用してもらうため、各種の情報を共有する データベースです。2 海外の図書館・関係機関等との協力 国際図書館連盟(IFLA)等の国際的な活動への参加等を通じて、海外の国立図書館や関係機関と 交流し、図書館に関わる普遍的な課題の解決に取り組むとともに、共通の目的を持つ機関との 協力・連携事業を進めています。3 情報資源への総合的なアクセスの提供 インターネットを通したデータ連携によリ、全国の図書館等が提供する資料 (デジタルコンテンツを含む)を統合的に検索できるサービス(国立国会図書館サーチ。 p.5参照)のほか、東日本大震災の記録の継承(ひなぎく)や、全国の文化資源に関する 分野横断的な検索(ジャパンサーチ)等、様々なデータ連携プラットフォームを提供し、 我が国の情報資源への総合的なアクセスや利活用の利便性向上を図っています。 多様な所蔵コレクション憲政資料 近現代の日本の政治家・官僚・軍人などが所蔵していた資料を収集し、旧蔵者別に整理した コレクションです。手紙・日記・執務資料・写真・録音資料など、多様な資料で構成 されています。古典籍資料 貴重書・準貴重書、江戸期以前の和古書、清代以前の漢籍、蘭書などを所蔵しています。日本関係資料 外国で刊行された日本に関する著作および日本人による著作、日本を主題とする外国の 雑誌などを、帝国図書館以来重点的に収集しています。アジア資料 東アジア、東南アジア、南アジア、中央アジア、中東、北アフリカ地域に関する アジア言語資料および日本語、欧文資料を所蔵しています。地図資料 明治以降の国内外の一枚ものの地図や住宅地図などを所蔵しています。音楽映像資料 録音資料、映像資料、楽譜、電子資料(CD-ROM等)、脚本などを所蔵しています。 録音資料:(レコード・CDなど)主に日本国内で出版されたレコード、カセットテープ、 CDなどを所蔵しています。議会・法令・官庁資料 国内外の議会の議事録・議案、官報、省庁公報、各種法令集、判例集、官庁の刊行資料、 国際連合や欧州連合等の国際機関の刊行資料などを所蔵しています。 法令全書※ 明治5年 明治22 (1889)年刊 【CZ-4-1】 慶応3年10月以降の法令を月別に整理して編集した法令集です。明治5年の巻には太陽暦の 採用を定めた太政官布告が掲載されています。児童書国内外の児童図書・児童雑誌や関連資料を所蔵しています。科学技術関係資料テクニカルリポート、海外博士論文、学協会ペーパー、欧文会議録、規格、海外特許資料などを所蔵しています。新聞資料 全国紙、地方紙、業界紙、政党紙、スポーツ紙など日本語の新聞と、主な外国語の新聞を 所蔵しています。 横濱毎日新聞※第1号 明治3年12月8日【WB43-78】 日本初の「日刊邦字新聞」と言われている新聞です。 発行日は旧暦で、現在の暦では「1871年1月28日」に当たります。数字で見る国立国会図書館。・令和5年度受入点数 69万4619点・ 所蔵点数 4753万1625点 一般に対するサービス、電子図書館サービス・東京本館・関西館・国際子ども図書館そして別の雑誌「利用案内」。利用時間 ( )内は土曜日利用者登録の受付・・・・9 : 00 ~ 18 : 30 ( 1 6 : 30 )開館時間 ・・・・・・・ 9 : 30 ~ 19 : 00 ( 1 7 : 00 )資料請求の受付・・・・・9 : 30 ~ 18 : 00 ( 1 6 : 00 )即日複写の受付・・・・・10: 30 ~ 18 : 00 ( 1 6 : 00 )電子情報等のプリントアウトの受付・ 10: 00 ~ 18 : 00 ( 1 6 : 00 )後日郵送複写の受付・ 10: 00 ~ 18 : 00 ( 1 6 : 30 )休館日 日曜日、国民の祝日・休日、年末年始、 第3水曜日(資料整理休館日)入館資格 満1 8歳以上 ※満18歳未満で所蔵資料の利用を希望する方は、事前にお電話でご相談ください。本館ホール新館1階新館2階閲覧室・売店・食堂・喫茶館内利用のご案内。専門室案内。納本制度をご存知ですか?納本制度とは、図書等の出版物をその国の責任ある公的機関に納入することを発行者等に義務付ける制度のことです。日本では、国立国会図書館がこの制度の運用を担っています。当館に納本された出版物は、現在と未来の多くの読者のために、国民共有の文化的資産として永く保存され、日本国民の知的活動の記録として後世に継承されます。出版物の納入ルート:国立国会図書館に納められるまで納本された出版物の登録と整理収集した出版物の利用と保存クイズ 納本制度そして国立国会図書館・新館の吹き抜け。新館には、雑誌や新聞を中心に収蔵した地下8階の書庫があります。この書庫には、「光庭」という吹き抜けが設けられています。日々、日の差さない地下で資料の管理をするスタッフのメンタルを考慮し、自然光が上からまっすぐに差し込む場所を設けたのだそうです。地下8階から地上を見上げたところ。通常は入ることができない新館書庫。新館書庫は地下8階(深さ30m)まであり、収納可能冊数は750万冊、書架の総延長は約250kmという広さ。ずらりと並んだ書架には膨大な量の資料が並んでいた。漫画雑誌、アルバイト情報誌、時刻表、そし藤沢地名の会の会報等、意外な資料も多数所蔵されていたのであった。そして帰宅後に国立国会図書館の利用者登録を行い、「国立国会図書館デジタルコレクション」掲載の出版物が、自宅でも閲覧できるようになるサービスを受けられるようにしたのあった。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.01.22
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「警視庁本館」を後にして次の目的地の「国立国会図書館」に向かって「内堀通り」を進む。正面に「国会議事堂」が姿を表した。 「警察総合庁舎」前の歩道から「国会議事堂」を見る。 国会議事堂正面・「議事堂前銀杏並木」も黄葉のピークを迎えていた。国会議事堂完成(1936年)前後に整備。銀杏は排気ガスに強い、長寿、再生力が高いことから、官庁街の象徴樹として選ばれた と。黄金の壁のようなイチョウ並木。車道に沿って連なる銀杏が、連続する一枚の「金色の屏風」 をつくる。枝先まで均質に色づき、都市の直線を柔らかく包み込んでいたのであった。行政の街・永田町が、この季節だけ自然に主導権を渡す瞬間なのであった。左手にあったのが「国土交通省・観光庁・海上保安庁」・「中央合同庁舎第3号館」。東京都千代田区霞が関2丁目1−3。銘板 は、同一敷地(同一庁舎群)に置かれている3機関 をまとめて示していた。 観光庁・海上保安庁はいずれも国土交通省の外局。桜田門・国会・官庁街と歩いて来た流れの中で見ると、東京が「城」から「国家運営の都市」へ変わったことが、とてもよく分かる地点なのであった。「財務省上」交差点方向を見る。 「国土交通省・観光庁・海上保安庁」・「中央合同庁舎第3号館」を振り返って。鉄骨鉄筋コンクリート、地上11階・地下2階の中央合同庁舎である。主に国土交通省(旧・建設省系)とその関連省庁が入居している。ズームして。建築概要 ・1966年(昭和41年)建築(1973年(昭和48年)増築) ・鉄骨鉄筋コンクリート造 地上11階 地下2階 ・建面積:7,810m2 延面積:70,111m2 ・使用官署:国土交通省、観光庁、海上保安庁、他「国会前」交差点を左折し、「国会正門前」交差点に向かって歩く。足元まで秋に包まれる道、歩道一面に広がる銀杏の落ち葉。並木が作る黄色の天蓋と相まって、歩く速度が自然と落ちる空間なのであった。 「国会正門前」交差点から見た国会議事堂正門と前庭の全景。先ほど歩いてきた銀杏並木の道が、ここで「国家の正面空間」へ切り替わる瞬間。横断歩道手前からズームして。再び「財務省上」交差点方向を。 「憲政記念館前」交差点方向を見る。 「国会議事堂」👈️リンク を正面から。 ズームして。国会議事堂の設計は、1918年の設計競技で渡邊福三案(ルネサンス風)が1位となったものの、その後、技術・防災面から大蔵省臨時議院建築局が大幅に修正・再構成し、日本の建築界の重鎮たち(辰野金吾、妻木頼黄ら)の意見も反映され、最終的に「帝冠様式」と呼ばれる和洋折衷の様式で1936年に完成しました。特に、中央塔のピラミッド型デザインは、1位の渡邊案のドームから、3位の竹内新七案(直線的・幾何学的)の要素が取り入れられたという説が有力である と。国会議事堂 図解 をネットから。1920年(大正9年)1月に着工、17年の歳月をかけて1936年(昭和11年)月に完成。当時の建物としては日本一の高さを誇り、永田町の高台に美しいみかげ石で装われた議事堂が「白亜の殿堂」と賞賛されたという。同年12月24日に召集された第70回帝国議会から使用され、現在に至る。構造:地上3階(中央部分4階、中央塔9階)地下1階。鉄骨鉄筋コンクリート造り資材:国産品を使うという建築方針に沿って作られ、内装用石材等は33種類の大理石など 最高品質の国産品が日本各地から集められた。しかし、ステンドグラスとドアノブや鍵、 郵便ポストのみ外国製。費用:2570万円(当時の金額。今の貨幣価値では当時の大卒初任給から換算して 500〜900億円か。)工事に従事した人員:延べ254万人敷地面積:10万3001平方メートル建物面積:1万3356平方メートル/(延)5万3464平方メートル長さ(南北):206.36メートル奥行(東西):88.63メートル高さ(屋上):20.91メートル高さ(中央塔):65.45メートル敷地の海抜:本館前で26.66メートル議事堂の総重量:10万9千トン鉄骨:9810トン鉄筋:5522トン石材:花崗石・2万5500トン/大理石・2800トン/日華石・106トンセメント:2万7446トン砂・砂利:7万8572立法メートル木材:24種類、4815立方メートル と。歩いて来た「議事堂前銀杏並木」方向を見る。 ここは「国会正門前」交差点。 このイチョウ並木を見上げて。「憲政記念館」入口案内板。 憲政記念館(けんせいきねんかん、英: Parliamentary Museum)は、東京都千代田区永田町一丁目にある日本の議会政治に関する展示施設。国会議事堂に隣接する国会前庭内に建つ。館は衆議院事務局の管轄である。現役時代に、何度かここで開催されたフォーラムに参加し、訪ねたことのある建物。「国会議事堂」の北門入口。 案内図をネットから。「国立国会図書館」前のイチョウの黄葉。 そして「国立国会図書館・東京本館」前に到着。 「国立国会図書館 NATIONAL DIET LIBRARY」。 敷地内にあった「Pause」像。 【作品名】Pause【所在地】東京都千代田区永田町1-10-1 国立国会図書館前【作者】津田 裕子(つだ ひろこ)(1948年~ )【素材】ブロンズ【制作年】昭和59年(1984)【設置年】平成16年(2004) 「風景の舞奏」。「風景の舞奏 1989 松永 勉」 【作品名】風景の舞奏【所在地】東京都千代田区永田町 国立国会図書館前【作者】松本 勉(まつなが つとむ)(1948年~)【素材】ステンレス【制作年】1989年【設置年】1989年【制作】「風景の舞奏」は、1989年にヘンリー・ムーア大賞展で入賞した作品です。制作者の松永 勉氏は、徳島県阿波市市場町出身。徳島大の学生時代に彫刻家故坂東文夫さんの教え子として、彫刻の世界に入りました。県内の高校の美術教師をしながら、1989年にヘンリー・ムーア大賞展で入賞し、ステンレス素材を鏡のように磨いた抽象彫刻という作風にたどり着き、全国的に注目されるようになりました とネットから。新館で一時的な入館手続きをして、荷物をコインローカーに預け、昼食を。オッムカレーを楽しむ。そして再び外に出て、本館の別の入口を目指す。「国会議事堂」をふりかえって。 中庭の梨木坂方向の黄葉。紅葉もピークに。ズームして。「国会図書館」案内板。手前に「本館」、奥に「新館」。 国立国会図書館・本館。東京都道176号線に面したこの入口から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.21
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東京メトロ「桜田門駅」4番出口の先にあった石製の銘板「警視庁」。 警視庁本部見学の集合場所は「北門」。 正門に向かって進む。入口にあった旧本部庁舎のステンドグラス👈️リンク。正面から。昭和6年に建てられた警視庁の旧庁舎を彩っていたステンドグラスの一部が現在の警視庁本部(東京都千代田区)の改修に伴い〝再発見〟された。「日本のステンドグラスの集大成」とも言われる国会議事堂のステンドグラスなども手がけた別府七郎の歴史的に貴重な作品だという。警視庁は修復を施した上で、1階のエントランスホールに展示を始めた と。頂いた資料・小雑誌「ウエルカム けいしちょう」。頂いた資料「ウエルカム けいしちょう」の内容について写真を撮りましたので紹介します。「警視庁の組織」👈️リンク 警視庁(けいしちょう、英: Metropolitan Police Department、略称: MPD )は、東京都に置かれる警察組織またはその本部である。警察法の規定により東京都知事の所轄の下に置かれる東京都公安委員会の管理に服し、地方警務官以外の警察官などの給与支払者は東京都知事である。東京都内を管轄区域としており、その事務は「警視総監」が統括する。現在の役職は警視総監 迫田裕治副総監 鎌田徹郎(警視監)警務部長 佐野裕子(警視監)。「警視庁の体制」。・警察官:43,657人 ・警察行政職員:3,015人・会計年度任用職員:3,174人・警察署:102署・交番:825か所・駐在所:257か所・パトカー:1,292台・白バイ:958台・警備艇:23隻・へリコプター:14機・警察犬:33頭・馬:16頭👈️リンク 警視庁の馬(騎馬隊)の役割は、交通安全教育(特に子供向け)、各種パレードでの 交通整理・広報、そして外国大使の信任状捧呈式などの国事行事における儀礼的な警護が 主なもの と。警視庁略年表と社会の出来事。警視庁の設置:1874年(明治7年)1月15日川路利良の建議書が採用され、首都警保のために東京府下の警察事務一切を管理する、内務省管轄の東京警視庁を設置(明治七年一月十五日太政官達第六号)。この後に機構の変革があるものの、警視庁の歴史(警視庁創立周年)はこの日を起点としている。地域活動。街の安全を守るため、交番等を拠点として様々な活動を行い、110番通報時には迅速に現場へ向かいます。110番通報の接続先発信元 接続先・固定電話(市外局番が03の地域) 千代田区の本部指令センター(本部庁舎)・市外局番が03でない 立川市の多摩指令センター(多摩総合庁舎) 多摩地域 ・伊豆諸島・小笠原群島 本部指令センター・携帯電話 電波を受信した基地局の固定電話と同じ接続先交通安全各種街頭活動や、イベント等を通し、交通事故防止を呼びかけ、安全で快適な交通社会の実現を目指しています。生活安全。様々な活動を通して、犯罪の起きにくい社会づくりを推進しています。警備活動。災害現場ての救助活動、雑踏警備なと様々な警備活動に従事しています。事件捜査。事件発生時には、現場に素早く臨場し、早期解決に向けた捜査を強力に推進しています。「来て・見て・発見!」警視庁警視庁本部見学 。●警察参考室 明治36年、現在の東京駅付近に本部庁舎があった時代に開設された歴史ある展示室です。 警察制度創設期以来の資料のほか、現在の警視庁の活動を知る上で参考になる様々な資料を 展示しています。●ふれあい広場警視庁教室 クイズを交えて、視庁の活動や防犯、防災などについて学ぶ教室です。●通信指令センター 110番の受理と指令を通じて、東京の安全と安心を守る現場です。警視庁見学のご案内見学施設・警察参考室・ふれあいひろば警視庁教室・通信指令センター見学日・月~金(祝日・年末年始を除く)・所要1時間15分警視庁シンボルマスコット ピーポくん。昭和62 (1987)年4月17日に人々の「ピープル」と警察の「ポリス」の頭文字をとって「ピーボ」くんと名付けられました。来て・見て・学ぶ ポリスミュージアム(警察博物館)。様々な疑似体験コーナーや展示を通して、交通安全、防犯等について学ぶ、子どもから大人まで楽しめるミュージアムです。メモ・スタンプ欄。見学終了後にスタンプをいただきました。持ち物検査完了後に、最初に案内されたふれあい広場警視庁教室。「ふれあいひろば警視庁教室」では、映像を通して司会者やCG(コンピューターグラフィックス)のピーポくんと一緒に、クイズを交えて警視庁の活動や交通安全、防犯などについて学ぶ教室であった。警視庁の概要編(一般用)👈️リンクが放映されたのであった。クイズ形式で説明が進む。次に訪ねたのが、通信指令センター。昼夜を問わず24時間体制、且つ警視庁舎内でも通信指令センターには免震システムが施され災害時でも、迅速に対応するため最新の機器を導入し110番通報を受理。23区内は警視庁本部通信指令センター、多摩地区は立川の多摩庁舎、都内2ヶ所で通報を受けてるとの事。ガラス越しに見下ろし、様子を見学。事件・事故の発生現場やパトカーの現在位置を瞬時に地図上に表示する最新のシステムを導入している と。都内の110番入電件数は一日平均約5,000件、およそ17秒に1件の割合。受理台には、緑→黄→赤のランプが設置され、緊急性により点灯していた。中央の一段高くある島には、無線指令台(指揮台)。受理担当者がタッチペンで専用端末に情報を入力し、無線担当者から警察署・パトロール中の警察官、パトカーへと、通報と指令が同時進行で成されていると。赤ランプ点灯の受理台を発見して、見学者の目が皆そこに集中!!当たり前ですが、音声は聞こえないので気になるばかり!!以下の写真は全てネットから。最後に「警察参考室」を見学した。警察参考室には、明治以降の歴史的な事件や災害などの警視庁に関する貴重な資料など約1,000点が展示されていると。その中には、初代警視総監の愛刀、大久保利通暗殺事件関係資料、あさま山荘事件、明治時代の交番、昭和10年からの制服の移り変わりなどがあり、玉の井バラバラ殺人事件で実際に使われた凶器も展示されていた。警視庁の歴史展示コーナー。旭日章(日本の警察の徽章)。旭日章(きょくじつしょう)は、昇る朝日と陽射しをかたどった紋章。日本の警察のほか、多くの日本の国家機関の徽章として用いられる。日章、朝日影ともいう。家紋とする場合には旭光とも呼ばれている。歴史日本において、もともとは明治時代初めに陸軍の帽章として用いられた。のちに陸軍は五芒星を用い、旭日章は将校准士官の正装の帽章とされた。警察の徽章としては、明治8年(1875年)に「円形万筋彫込(えんけいまんすじほりこみ)」と呼ばれる意匠が採用され、明治15年(1882年)には「日章」(陸軍憲兵の徽章と同じく六角形)が採用され、「朝日影」は「日章」の通称として使用されていた。この六角形の「日章」は、第二次世界大戦後に廃止され、昭和23年(1948年)に現在の五角形の「日章」が正章として採用された。警察官の服制に関する規則(昭和三十一年国家公安委員会規則第四号)等の法令には、「日章」と規定される。「東天に昇る、かげりのない、朝日の清らかな光」を意味するという。警察庁(National Police Agency)」の盾章(公式エンブレム)。初代大警視の愛刀・裃等。あさま山荘事件関連資料。写真撮影コーナーは撮影可であった。白バイ。「白バイPolice Motorcycle大正7年(1918) 1月1日、警視庁ではオートバイ6台を導人し増加しつつあった交通事故の防止に努めた。当時のオートバイは車体が赤く塗られていたことから、「赤バイ」と呼ばれた。昭和11年(1936) 8月1日、欧米各国の例にならい、「赤バイ」をよく目立っ白色に塗りかえ、それ以後「白バイ」と呼ばれ、交通事故防止活動や、悪質運転者の取締り、など、安全で快適な交通社会の実現に向け、機動力を発揮している。」 警視庁シンボルマスコット ピーポくん。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.01.20
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この日は2025年12月2日(火)、藤沢地名の会の見学会。(警視庁、国会図書館、国会議事堂)に参加。警視庁の見学会は初めて。小田急線で代々木上原、東京メトロ千代田線に乗り換え、表参道駅へ、半蔵門線に乗り換えて永田町へ、そして有楽町線で桜田門駅へ。4番出口から地上に出ると警視庁本部庁舎の横に出た。時間は集合時間の約30分前の10時過ぎ。「警視庁本部庁舎・Metropolitan Police Departmentt Headquarters」案内板。 少し時間があったので「桜田門」を訪ねることとした。 正面の三角錐に似た白い塔は「日本水準原点(副標)」。日本水準原点👈️リンク とは、日本全国の 標高(高さ)を決めるための基準点 で、「東京湾平均海面」を0mとしたときの基準高さを定めています。本標(本体)は、すぐ近くの 国会前庭(北庭) 内にあるとのこと。役割は、本標が万一損傷した場合に備えた バックアップ(補助基準点)。これが千代田区・北の丸公園(旧 近衛師団司令部跡地)にある 「日本水準原点標庫(にほんすいじゅんげんてん ひょうこ)」。「日本水準原点日本水準原点は、わが国の土地の標高を測定する基準となる点である。明治24年(1891年)5月にこの場所に設置した。日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は、明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、当時24.500メートルと定めた。その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。平成23年10月21日国土地理院」 「桜田門」交差点の手前から「桜田門」を望む。 振り返れば「警視庁本部庁舎」。 航空写真をネットから。屋上にはヘリポートが造られていた。「霞が関中央官庁案内図GOVERNMENT BUILDING GUIDE」 「桜田門」交差点の横断歩道を渡る。 「桜田濠」方向を見る。 この場所が「桜田門外の変」👈️リンク の場所。衆人環視の中で江戸幕府の大老井伊直弼が暗殺されるという、前代未聞の事件が起きたのだ。 桜田門外の変を描いた『安政五戊午年三月三日於テ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図』(部分/月岡芳年画) をネットから。「桜田門」に向かって進む。 ① 小さい門(手前側)高麗門(こうらいもん)通路側に先に現れる、屋根付きの比較的コンパクトな門。外敵の侵入をいったん受け止め、動きを制限する役割。城門では「前門」にあたる。② 大きい門(奥側・石垣に囲まれた門)桜田門(さくらだもん)正式には 桝形門(ますがたもん)。石垣で囲まれた方形空間(桝形)の奥に構える主門。江戸城三大門のひとつとして有名。再び「警視庁本部庁舎」を振り返る。警視庁創立100年を記念して1980年に建設された「警視庁本部庁舎」は、東京都を管轄する警察本部として機能しています。地下4階、地上18階建ての庁舎は、110番を受信する通信司令センターや留置施設を設置。建物は、警察庁と警視庁が使用する警察総合庁舎、警察庁本庁が置かれている中央合同庁舎第2号館と隣接しています と。1874(明治7)年、「東京警視庁」が設置され、庁舎は「鍛冶橋」の旧「津山藩松平家上屋敷」(現在の「東京駅」の南端付近)に置かれた。その後、制度や名称の変更を経て、1881(明治14)年より「警視庁」となった。1911(明治44)年、「東京駅」建設のため日比谷へ移転したが、1923(大正12)年の「関東大震災」による火災で焼失、復興時、「桜田門」前に新庁舎を建設し、1931(昭和6)年に竣工した。写真は昭和戦前期の様子で、右奥に「帝国議会議事堂」(現「国会議事堂」)が見える。【画像は昭和戦前期】桜田門橋(さくらだもんきょう)から有楽町駅方向を見る。「重要文化財(建造物)指定 昭和三十六年六月七日旧江戸城 外桜田門(きゅう えどじょう そとさくらだもん)現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名か付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。外側の高麗門と内側の渡櫓門のニ重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(三ニ〇坪)。建築されたのは寛永年間(一六ニ四~四四)とされ、現存する門は、寛文三年(一六六三)に再建された門がもとになっています。大正十ニ年(一九ニ三)の関東大震災で破損し、復元されました。万延元年(一八六〇 )三月三日、この門外て大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。」「Sotosakurada-mon Gate of Edo CastleCurrently called Sakurada-mon, this gate is officially named Sotosakurada-mon,soto meaning “outer” as opposed to the “Uchisakurada-mon” or “inner” Gate(Kikyo Gate) near the citadel. These gates were named Sakurada-mon becausethe area was called Sakurada-go (town) in the past.The Sotosakurada-mon Gate has a dual structure consisting of the Korai Gate on theoutside and the Watariyagura Gate on the inside with a square in-between. It covers an exceptionally large area (approx. 1,056 m²) as a highly defensive castle gate for theNishinomaru (west compound). The Sotosakurada-mon Gate was originally built inthe Kanei era (1624 to 1644), while the existing gate is based on a gate reconstructedin 1663. The gate was damaged by the Great Kanto Earthquake in 1923 and repaired it.On March 3, 1860, the Japanese Chief Minister Tairō Ii Naosuke was assassinatedby a group of samurai who seceded the Mito-han feudal state outside of theSotosakurada-mon Gate in an event known as the Sakuradamon Incident.」【旧江戸城 外桜田門現在は桜田門と呼ばれていますが、この門の正式名称は外桜田門です。これは、本丸近くにある「内桜田門(桔梗門)」に対して、「外」を意味する Soto(外)付けられた名称です。これらの門が桜田門と呼ばれるのは、かつてこの一帯が「桜田郷」と呼ばれていたことに由来します。外桜田門は、外側の高麗門と内側の渡櫓門からなる二重構造をもち、その間に枡形の空間を備えています。西の丸を防備するための城門として、非常に防御性が高く、約1,056平方メートルという例外的に大きな規模を有しています。創建は寛永年間(1624~1644年)とされ、現存する門は1663年に再建されたものを基にしています。1923年の関東大震災で損傷を受けましたが、その後修復されました。1860年3月3日、この外桜田門の外で、江戸幕府の大老・井伊直弼が、水戸藩を脱し浪士たちによって暗殺されました。この事件は「桜田門外の変」として知られています。】 高麗門(こうらいもん)を正面から。枡形から外桜田門(そとさくらだもん)を見る。外桜田門を枡形(ますがた)内部から、本丸方向へ見た景観。① 厚い石垣と高い門 両脇の石垣が強く迫り、進路が限定される 敵は横移動できず、集中攻撃を受けやすい構造② 渡櫓門の重厚さ 上部は櫓(やぐら)状で、兵が配置された防御拠点 扉は極めて分厚い板戸で、突破が困難① 扇勾配(おうぎこうばい)の高石垣 下部はゆるく、上部ほど急になる江戸城特有の反り 石の大きさ・形を不規則に組む打込接(うちこみはぎ) よじ登りにくく、崩れにくい防御の要② 渡櫓門の櫓台(白壁部分) 石垣の上に載る門櫓の基壇 白漆喰仕上げで、火災に強く、視認性も高い 小窓は採光兼、内部の見張り用③ 枡形内の“袋小路”感 右に門、左に高石垣で逃げ場がない 上からの攻撃(矢・鉄砲)を想定した圧迫的空間外桜田門の渡櫓門(わたりやぐらもん)を、枡形の内側(城外側)から見た姿。外桜田門の渡櫓門(わたりやぐらもん)を潜って。皇居外苑側から、丸の内・大手町方面を望んだ景観。「皇居外苑 案内図」。 二重橋方向、そして大手町の高層ビル群を見る。正面の坂道を上ると、二重橋が見える場所に辿り着くのだ。引き返して、外桜田門の渡櫓門方向へ。外桜田門・渡櫓門(わたりやぐらもん)を、城内側から見上げて。高麗門(こうらいもん)を潜ると、国会議事堂が見えた。法務省旧本館(中央合同庁舎6号館赤れんが棟)方向を見る。法務省旧本館(中央合同庁舎6号館赤れんが棟)とその先に東京地方裁判所。再び警視庁本部庁舎を。 ・・・つづく・・・
2026.01.19
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「白旗神社」の「大絵馬」を訪ねた後は、「白旗神社」の参拝へ。順序は逆であったが。「白旗川」に架かる「御典橋」を渡る。一昔前まで、白旗川は大雨が降るとすぐに氾濫しました。洪水対策として川幅を広げる改修工事が行われ、この工事に伴い、平成8年8月に建立されました。参拝する人々の幸福を稔らせるとの願いから「御典橋」と名づけられました と。 「社号標石・白旗神社」。鳥居脇にある社号標石は平成8年8月に建立されました。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗です。源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として白旗が用いられることになりました と。 「大御神灯」 慶応元年(1865)6月に建立されました。高さ17尺(5.1メートル)、台座の底辺は7尺(2.1メートル)あります と。前方左手に「手水舎」。 手水舎は平成5年7月に建てられました。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られています。参拝の前に身を清める場所です。1.まず左手を洗います。2.次に、右手を洗います。3.次に、左手に水を受けて口をすすぎ、再び左手を洗います と。亀が鎮座。その昔、街道から白旗神社を望むと、亀の形に見える事から(白旗神社は頭の部分)亀形山と呼ばれているのだ と。横から。「手水舎」の天井には龍が描かれていた。再び右手に「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。七五三詣の記念撮影スポットになっていた。そして正面には「拝殿」への石段が。 「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「白旗神社の神様」●寒川比古命(さむかわひこのみこと) 寒川比古命は、太古の時代に、関東地方を開拓された神様です。農業、漁業、土木、 商工業、建築など、さまさまな開発をされ、関東文化の基礎を築かれました。そのため、 土地や人々、仕事全般の守護神として、また唯一の八方除の守護神として、人々に 親しまれてきました。地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事や災難を とり除かせられ、開運をもたらすといわれます。●源義経公(みなもとのよしつねこう・幼名牛若丸) 義経公は、源義朝と母常磐御前の末っ子として、平治元年(1159)に生まれました。 生まれてすぐに源氏の敵の平家に父を討たれ(平治の乱)、平家に捕らえられ鞍馬寺に 入れられます。やがて平家か父の敵であることを知り、毘沙門天に祈って文武に励み、 伝承では、武蔵坊弁慶と五条橋で対戦し、弁慶を家来としました。その後、奥州 (東北地方)平泉の藤原秀衡のもとで過ごし、治承4年(1180)、異母兄の頼朝が挙兵すると その軍に加わります。木曽義仲を元暦元年(1184) 1月に破り、2月には平家車を一ノ谷で 破りました。しかし、梶原景時などの関東御家人と対立、また後白河上皇の策により 頼朝の許可なく官位を受けたため頼朝との仲が悪くなり、文治5年(1189)に秀衡の子 藤原泰衡の急襲により平泉の衣川館にて、31歳の若さで自害しました。再び「年表創立年不詳 ●●●●●相模国一の宮の寒川比古命を勧請して寒川神社と号する。文治5年(1189) ●●●源義経公、奥州平泉で自害する。建久9年(1198) ●●●荘厳寺住職覚憲が別当職となる。宝治3年(1249) ●●●9月源義経公を合せ祀る。享保3年(1718) ●●●紀州公姫君が参勤交代の折に藤沢御殿で腹痛を起こし、大神に祈願して たちまち全快する。これにより木杯1個、紋章幕、高張が奉納され、例祭は 10万石の格式を誇ったという。亨保4年(1719) ●● 荘厳寺本堂を神社境内に建てる。宝暦2年(1752) ●● 御社殿を再建して、旧坂戸町総鎮守社となり、社号を「白旗神社」に改める。文政3年(1820) ●●●2月8日、火災により御社殿及び古書類等を焼夫する。天保6年(1835) ●●●12月、現在の御社殿を造営する。文政11年(1828) 6月より7年の歳月を かけて再建。明治元年(1868) ●●●神仏分離の法令が発令される。明治8年(1875) ●●●神仏分離令により荘厳寺住職は別当職を解かれ、本堂を移転する。昭和55年(1980) ●●●7月、御社殿の大改修工事を行う。」 拝殿への階段手前の右側には石碑が並んでいた。右側から「御大典記念 永代御供米三俵 藤澤米穀肥料商組合」と刻まれた石碑。その左に順に「八海山大神」、「御嶽大神」、「三笠山大神」と。最初の石段を上りきると、正面奥に「拝殿」が姿を現した。左手には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。「齋源義経公鎮霊碑」と。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。 平成十一年六月十三日 白旗神社」階段からの紅葉。「拝殿」。現在の拝殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に拝殿回廊に高欄が設置されたと。「神社の歴史」をネットから。「白旗神社がいつごろできたのかは定かではありませんが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同し名前の寒川神社と呼ばれていました。文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害されました。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじやたかひら)という者によって鎌倉に送られました。高平が、腰越の宿(鎌急市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認されました。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間にニつの首は、白極川を上り、この地に辿り着いたといわれています。このことを頼朝に伝えると、白籏か源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示しました。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになりました。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになりました。」 源氏の家紋・紋章「笹竜胆」。 藤沢の白旗神社の社紋には、二つの意匠が伝えられています。いずれも、この神社の祭神と成立史を象徴するもの。① 笹竜胆(ささりんどう) 画像左に見えるのが 笹竜胆 です。 由来と意味 ・源氏(清和源氏)の家紋として最もよく知られる紋 ・藤沢・白旗神社の祭神は 源義経公(鎌倉権五郎景政とも縁が深い)であり、 「白旗」自体が源氏の軍旗を意味します ・そのため、白旗神社では 源氏ゆかりの象徴=笹竜胆が社紋として用いられました 紋の象徴性 ・笹:節操・清廉・繁栄 ・竜胆:忍耐・気高さ → 武家の美徳を体現する紋として、源氏にふさわしい意匠です② 輪宝(りんぽう) 画像右に見える円形の文様が 輪宝 です。 由来と意味 ・仏教の法具・吉祥文様 ・「仏法が絶えず回り、世を救う」ことを象徴 ・輪宝は 神仏習合時代の神社にしばしば用いられました。 ・武蔵坊弁慶個人の「家紋」は明確には伝わっていませんが、 芝居の世界などでは「輪宝紋(りんぽうもん)」が弁慶の象徴として装束に 描かれることがあります。白旗神社との関係・白旗神社はもともと **白旗山遍照院(神宮寺)**という寺院的性格を持っていた時代があり・義経公は **怨霊鎮護・鎮魂(御霊信仰)**の対象として祀られた側面も強い・そのため、 武家の神(笹竜胆)+鎮魂・救済の仏教意匠(輪宝) という二重構造が成立しました拝殿の唐破風。正面中央に大きくうねる屋根曲線が唐破風。唐破風の下には精緻な木彫が確認できた。拝殿に近づいて。扁額「忠友殿」と。源義経公と武蔵坊弁慶公の主従関係の深さ、特に主君への忠義と友情(忠義・友愛)を称え、その御霊を祀るために建立された社殿(または慰霊碑)で、義経公が亡き後、その首がこの地に流れ着いたという伝承に由来する と。「天水桶」。この正面にも「源氏の家紋・笹竜胆」が。私の影紋?も。見事な「海老虹梁(えびこうりょう)」。 ● 海老虹梁の名の由来 虹梁(こうりょう):柱と柱を渡す弓なりの梁 海老虹梁:その虹梁を、海老が身を反らせたような強い曲線で造形したもの「本殿」を斜めから。 「白旗神社復興事業奉賛社名」。 そして「拝殿」の右側の案内板とその下に大きな石が。「白旗神社 弁慶の力石「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。」と。「弁慶の力石」。 再び「拝殿」を振り返って。 拝殿前から「祈祷殿」を下方に見る。 「七五三祝」の記念札用の備品が準備されていた。 「カメラ用三脚 ご自由にお使いください」と、優しい心遣いが。 「おみくじ掛け(結び所)」。そして「祈祷殿」を正面から。 ・・・おわり・・・
2026.01.18
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この日は2025年12月15日(月)、藤沢市民病院に眼の検査に出かけた。その帰路に「相州藤沢 白旗神社」に、久しぶりに立ち寄った。 「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「年表」をネットから 創立年不詳 相模国一の宮の寒川比古命を勧請して寒川神社と号する。文治5年(1189) 源義経公、奥州平泉で自害する。建久9年(1198) 荘厳寺住職覚憲が別当職となる。宝治3年(1249) 9月源義経公を合せ祀る。享保3年(1718) 紀州公姫君が参勤交代の折に藤沢御殿で腹痛を起こし、大神に祈願して たちまち全快する。これにより木杯1個、紋章幕、高張が奉納され、 例祭は10万石の格式を誇ったという。享保4年(1719) 荘厳寺本堂を神社境内に建てる。宝暦2年(1752) 御社殿を再建して、旧坂戸町総鎮守社となり、社号を「白旗神社」に改める。文政3年(1820) 2月8日、火災により御社殿及び古書類等を焼失する。天保6年(1835) 12月、現在の御社殿を造営する。文政11年(1828)6月より7年の 歳月をかけて再建。明治元年(1868) 神仏分離の法令が発令される。明治8年(1875) 神仏分離令により荘厳寺住職は別当職を解かれ、本堂を移転する。昭和55年(1980) 7月、御社殿の大改修工事を行う。境内では既に令和八年度丙午歳の大絵馬への掛け替えが行われていた。この大絵馬は平成26年の午(うま)歳から境内に設置しているもので、作者は市内在住の漫画家 佐野絵里子氏と。本年の巳年で干支が描かれた大絵馬が一周したのだと今度は牛若丸からスタート。馬・(午(うま))のおめでたい図案ということで、馬が九頭駆けています(馬九行く=うまくいく)!!と。2019年11月1日に除幕式が行われた「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「源義経公武蔵坊弁慶之像」。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。「轡(くつわ)」とは、馬の口にくわえさせて手綱(たづな)を取り付けるための馬具で、金属製の棒状の「はみ」とその両端の環(かん)からなり、馬を操るのに使われ、転じて手綱や馬を操る意味、さらには「轡を並べる(互角に物事を行う)」といった慣用句にも使われる言葉 と。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。 令和元年(二〇一九)十月二十八日 白旗神社 宮司 鈴木大次(ひろつぐ)」「白旗川」に架かる「御典橋」。 白旗神社の大鳥居。・材質: FRP(グラスファイバー)製。・特徴: 耐久性があり軽量であるため、地震対策のためにこの素材が採用されました。・建立: 昭和59年(1984年)12月に建立されました。・規模: 高さ8メートル、幅6メートルの明神鳥居(みょうじんとりい)様式です。・特記事項: 当時、日本初のグラスファイバー製鳥居として知られました。社号標石「白旗神社」。石灯籠。そして「相州藤沢白旗神社」の干支大絵馬が十二支揃い踏みしていた。白旗神社の前を流れる「白旗川」沿いのフェンスに設置され、市民病院への道路からも見ることができたのであった。御祭神の源義経公(牛若)を干支の動物と組み合わせたデザインで平成二十六年午年から佐野絵里子氏によって描かれ、毎年正月には境内に掲げられていたものと。「平成三十一年己亥(つちのといどし)歳 令和元年・2019年」。牛若丸即ち幼いころの義経公が、猪・(亥(い))親子と遊んでいるような絵柄。「平成三十戊戌歳(つちのえいぬどし)・2018年」。源義経公と様々な種類の犬・(戌(いぬ))が遠方を臨んでいるような絵柄 。「平成二十九年丁酉歳(ひのととりどし)・2017年」。平家物語にある「鶏合(とりあわせ) 」のエピソード(壇ノ浦合戦の前に、熊野別当が平家に味方するか源氏に味方するかを決めるため赤い鶏・(酉(とり))と白い鶏を勝負させたという逸話)をモチーフにしている絵馬。その行司をする牛若丸の姿が。「平成二十八年丙申歳(ひのえさるどし)・2016年」。猿・(申(さる))の子供の持つ的に向かって矢を放つ義経の姿。「平成二十七年乙未歳(きのとひつじどし)・2015年」。牛若丸時代の義経公が羊(未(ひつじ))とたわむれる優しい印象の絵馬。橋は、牛若丸(源義経)と弁慶が出会ったとされる「五条の橋」か?「平成二十六年甲午歳(きのえうまどし)・2014年」。馬・(午(うま))の上の義経と弁慶の絵馬。背景には、源氏の旗印が。源氏の旗印は「白旗(しらはた)」で、平家(平氏)の「赤旗(あかはた)」と対になって源平合戦で敵味方を区別するために使われた。白旗には、歌舞伎などでは「笹竜胆(ささりんどう)」の紋が描かれることがあり、これは源氏の清浄さや神(八幡神)への信仰を表す と。そしてこの神社の社名は「相州藤沢 白旗神社」。 「令和七年癸巳歳(みずのとみどし)・2025年」。牛若丸が干支である白い巳(へび)・(巳(み))と楽し気に笛を吹きながら桜の樹の下の舞台で舞い踊る様子が描かれています。「令和六年申辰歳(きのえたつどし)・2024年」。義経公がこの年の干支である龍・(辰(たつ))に乗って雲の上を駆けている様子が描かれています。「令和五年癸卯歳(みずのとうどし)・2023年」。牛若丸と干支である兎・(卯(う))が「八艘飛び(はっそうとび)」のように船上で戯れている様子が描かれています。「八艘飛び」とは、源義経が壇ノ浦の戦いで平教経に追われ、船から船へ8艘も飛び移ったとされる伝説的な逸話で、そこから身軽に飛び回ることや、非常に素早い動きのたとえとして使われます。この伝説は『平家物語』などに記され、歌舞伎や人形浄瑠璃などで語り継がれ、現代のゲームでも必殺技名などに使われるほど有名。「令和四年壬寅歳(みずのえとらどし)・2022年」。義経公が干支である虎・(寅(とら))の親子と戯れる様子が描かれています。源義経が用いたとされる兵法書『義経虎巻』(ぎょうぎつねとらのまき)があり、江戸時代に兵法秘術として伝わった古典籍で、東京国立博物館や早稲田大学などが所蔵しており、義経の軍略・秘術が記されていると考えられているのだ と。「令和三年辛丑歳(かのとうしどし)・2021年」。牛若丸と干支である牛・(丑(うし))。牛若丸の笛に合わせて牛が気持ちよさそうに歌っている姿。「令和二年庚子歳(かのえねどし)・2020年」。牛若丸と静御前。夫婦岩を意識した配置となっています。この年は「庚子」(かのえね)といわれるねずみ・(子(ね))年ねずみ(鼠)が遊んでいる綱が注連縄でしょうか。絵馬を振り返って。引き返して、絵馬越しに大鳥居を。以後、新年用に絵馬の入れ替えをするにあたり、手間の少ない方法を考えて、この順番に並べたのであろう。令和13年分までは問題ないが、令和14年分からは・・・・?? ・・・おわり・・・
2026.01.17
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大イチョウの前に立ち、視線を中雀門の方向へ向けると、境内は大きく、静かに開けていた。低く並ぶ灯りが一直線に連なり、夜の広がりの中に、確かな道筋を描いていた。大イチョウをこれでもかと追う。なかなか立ち去れない時間と空間なのであった太い幹から四方へ枝を伸ばし、黄金の葉を余すところなく広げて。照明は幹の起伏と枝分かれを丁寧に拾い、樹が積み重ねてきた時間の厚みを、静かに浮かび上がらせていたのであった。大イチョウの幹に近づくと、幾筋にも分かれた木肌は硬く、深く、長い年月を刻み込んだ痕跡を、そのままさらしていた。樹皮の割れ目や盛り上がりは、装飾ではなく、時間そのもの。風を受け、雨に耐え、数えきれない季節を越えてきたことが、触れずとも伝わって来たのであった。この大イチョウの乳根は、鋭く主張することなく、幹の起伏の一部として静かに溶け込んでいた。木肌の割れや隆起と同様、装飾ではなく、時間が自然に刻んだ痕跡なのであった。上部を覆うのは、大イチョウの黄金色の葉。夜空に向かって張り出した枝先が、やわらかな天蓋のように広がっていた。その下、本堂の屋根に浮かび上がる「光」の一字は、瓦の起伏に沿いながら、静かに形を保っていた。強く主張することなく、葉の重なりの向こう側で、確かにそこに在ることを伝えていたのであった。ズームして。黄金の自然の色と、青緑に照らされた文字の光。色も由来も異なる二つが、この一瞬、同じ視界の中で重なり合う。どちらかが前に出るのではなく、互いの存在を引き立て合っているように。見上げれば葉があり、目を少し下ろせば文字があり、さらにその奥に堂内のあたたかな明かりがあった。視線は自然に上下を行き来し、この場が持つ奥行きと時間の重なりを感じさせるのであった。「遊行の光」が、建物の上に浮かぶだけの演出ではなく、大イチョウという生きた存在とともに、夜の境内に溶け込んでいたことを、静かに語っていたのであった。本堂正面に立つと、屋根の上に大きく「光」の一字が浮かび、境内全体を静かに見下ろしていた。石段に沿って並ぶ灯りは、左右対称に配置され、夜の空間に落ち着いた秩序を与えていたのであった。ズームして。石畳の脇に立つ灯りに、「遊行の光」の文字がはっきりと刻まれていた。文字は大きく語るのではなく、この周囲に続く道の性格を、静かに示していた。足元には紫の光が低く流れ、参道の輪郭をなぞるように続いていた。視線の先には、大イチョウが闇の中に浮かび、黄金の葉が、夜の奥行きを確かなものに。奥の門の石柱は動かず、長い時間、この場所を見守って来たのだ。その脇を、今夜だけの光が通り過ぎ、境内は一夜の表情をまとっているのであった。山門跡の門柱に刻まれている紋は遊行寺(時宗)の宗紋。「折敷に三文字紋(おしきにさんもんじもん)」、別名 「隅切三(すみきりさん)」 と呼ばれる紋。●形と意味 ・外形:四隅を切った八角形(=折敷・膳を表す形) ・内部:三つの横画を重ねた「三」、 この「三」は、 ・仏・法・僧の 三宝 ・過去・現在・未来 ・身・口・意 など、仏教的な「三」の世界を象徴するとされる。 ・折敷(おしき)の意味 折敷は、食を供するための器であり、施し・布施・平等の象徴でもある。 遊行の教えと深く結びつく意匠。「いろは坂」を下る。石畳の坂道はゆるやかに下り、両脇に置かれた灯りが、一定の間隔で足元を照らして。 遠くに街の灯りが見え始め、境内と日常との距離が、少しずつ縮まっていき行った。それでも、この坂を下りきるまでは、まだ「遊行の光」の余韻の中に。左右の石垣と樹影は闇に溶け、視線は自然と道の中央へと集まるのであった。坂を下るにつれて、先ほどまで見上げていた黄金の光景は背後へ退いて。一枚一枚の石の表情がはっきりと見えてき来た。長い年月を踏まれてきた角の丸みや、不揃いな継ぎ目が、歩く速さを自然に落ち着かせるのであった。夜の中に、眞徳寺の赤門ははっきりとした輪郭を保って立っていた。朱塗りの柱と梁は照明を受け、昼とは異なる、引き締まった表情を見せて。左右の石積みと低い塀が門の構えを整え、中央の開口部は、内と外とを明確に分ける境界。「遊行の光」の巡りを終え、ここに立つと、境内の静けさが一段深まったように感じられた。赤門は迎えるための門であると同時に、歩いてきた時間を静かに送り返す門でもあった。赤門の先、正面の石碑。本堂。これは?下りきった足元から、ふと振り返る・・・。闇の中に浮かび上がる「いろは坂」は、もはや坂ではなく、光の道。石畳の中央を導く青紫の光は、夜の静けさをたたえ、両脇に並ぶ行灯のやわらかな灯りは、一つ一つが人の祈りのように、過ぎゆく背中を見送ってくれていたのであった。惣門をくぐり、境内を後にして・・・ふと、振り返る。闇の中に大きく構える惣門は、もはや入口ではなく、一つの結界。その奥に、一直線に伸びる光の階(きざはし)が、静かに、しかし確かに、こちらを見返していた。石段に沿って配された青と白の光は、遊行寺の深さを浮かび上がらせ、一段一段が、時間の層のように重なって、過ぎ去った歩みを記憶しているかのようであった。しだいにズームして。惣門の正面に立つと、闇を額縁にして、光の石段が奥へ、奥へと連なっているのであった。門柱に掲げられた「清浄光寺」、「時宗総本山」。その文字が、夜の光を受けて浮かび上がり、ここが単なる坂や階ではなく、信仰の中枢へ至る道であることを、改めて告げているのであった。石段の両脇に並ぶ行灯は、声を潜めた僧の列のように、一段一段を確かめながら、道の意味をそっと照らしていた。足元には白くやさしい灯、樹々の幹には青紫の光。その対比が、現世と彼岸、動と静、二つの世界を溶け合わせ、この階(きざはし)を境界ではなく「通路」へと変えていた。枝葉が天蓋となり、光は奥へ奥へと吸い込まれるのであった。闇に沈む境内の片隅で、築地塀と青銅の灯籠が、静かに向き合っていた。白く浮かび上がる築地塀は、幾重にも重ねられた土と時間の層。粗く、しかし端正な横筋は、風雨に耐え、祈りを受け止めてきた無言の記憶装置のごとく。その脇に立つ青銅製灯籠は、闇を押し返すように、重厚な姿をくっきりと現し、透かし彫りの意匠には、かつて灯された火の温もりがまだ宿っているかのように。惣門を後にして・・・。歩みはすでに外へ向かっているのに、光だけが、なお境内にとどまっているのであった。左右に構える築地塀と灯籠は、夜の闇を背負いながら、門という境界を、静かに、しかし確かに、この場の重みとして刻み込んでいたのであった。振り返る者だけが見る光景。入るときには前しか見えず、出るときになって初めて、道全体がひとつの意味を持つと感じたのであった。「ふじさわ宿交流館」を振り返って。 「藤沢宿高札場」。藤沢宿の高札場は 高さ:2間(約3.6m) 長さ:3間(約5.4m)。高札場(こうさつば)とは、江戸時代に幕府や領主が定めた法令・禁令・掟などを墨書した木の板札(高札)を、人目につきやすい街道沿いや宿場、村の中心などに高く掲げた場所。「ふじさわ宿交流館」を旧東海道上から。そして「大鋸橋・遊行寺橋 (現)」。「ゆぎょうじばし」。 境川上流を見る。境川下流・藤沢橋方向を見る。振り返って。バス停に向かって国道467号の歩道を進む。歩道に設置されていた、藤沢宿(東海道・藤沢宿)を題材にした浮世絵をデザインとして貼り付けた「景観アート電柱・電気通信ボックス」の浮世絵をカメラで追う。「江戸時代の旅籠の様子」 市川勝典 作成。そしてバス停「遊行寺前」に到着。 バス停の真向かいにあった「旧・桔梗屋の文庫蔵・店蔵・主屋」👈️リンク「旧桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家であり、市内に現存する唯一の店蔵及び江戸時代末期の文庫蔵を含む3棟が国登録有形文化財の登録を受け、旧宿場町の雰囲気を伝えています。藤沢宿の歴史・文化を継承するとともに、地域の活力やにぎわいの創出を図るため、令和2年(2020年)10月、旧桔梗屋を取得しました。この旧東海道に面するシンボル的な建物を保全していくとともに、魅力ある活用の実現を目指します。」と藤沢市のネットページから。 そしてバスに乗り15分で帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.01.16
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そして再び本堂前の境内から「遊行の光」を追う。本堂は青い光に包まれ、屋根の広がりと深い軒が夜空に溶け込んでいた。その上に映し出された「光」の文字は、主張するのではなく、この場に流れる時間をそっと見つめているかのように。灯りは前へ前へと続き、人の歩みを急がせることなく、光そのものの気配に満たされて。「遊行の光」は、何かを強く照らすためのものではなく、歩き、立ち止まり、また歩く・・・その繰り返しを、やさしく支えるために!!。 移動して。再び本堂側から大イチョウを振り返って。黄金の葉は夜空に向かって大きく広がり、照明を受けた幹の太さが、この場所に積み重なった歳月を静かに語っていたのであった。足元に落ちた葉と、地を照らす淡い光が重なり、夜の境内に柔らかな余白を生んでいた。手前の手水舎は暗がりの中で量感を保ち、この場所が祈りの起点であることを静かに示していた。紫や青の照明は、柱や樹木、庭の起伏を控えめに照らし、本堂へ向かう視線に段階的な奥行きを与えて。夜空に向かって枝を伸ばす紅葉は、紫がかった光と暖色の照明を受け、昼とは異なる表情を見せてくれていた。幹は下からの光によって白く浮かび、枝先へ行くほど色が深まり、樹の内側に流れる時間が層となって現れているかの如くに。本堂の屋根に浮かび上がる「光」の文字は、瓦の起伏に沿って静かに広がり、夜の闇にやわらかな輪郭を残していた。その手前に、一遍上人像の顔が照らし出されていた。強い光ではなく、陰影を含んだ明かりの中で、まなざしは伏し、表情は静かに結ばれて。祈る姿は動かず、しかし確かに、今この夜の光と向き合っていたのであった。屋根に映る「光」と、像の顔に落ちる影とが重なり、言葉と人、理念と生身とが、一つの画面の中で静かに出会っていた。どちらかが前に出ることはなく、互いを照らし合うように、そこに!!。正面から向き合うと、一遍上人像の合掌はまっすぐにこちらへ届くのであった。指先は揃い、力は込めすぎず、祈りが形として静かに保たれて。顔には強い表情はなく、わずかな陰影の中に、静かな集中が感じられた。目は伏せられ、外を見るというより、内へ向かう視線を留めている如くに。背後の松は枝を広げながらも前に出すぎず、像の輪郭をやさしく支えていた。緑の葉と石の肌、冷たい素材同士が、光によって穏やかに結びついていたのであった。本堂屋根に大きく浮かび上がる「光」を。瓦の起伏に沿って広がる文字は、映り出されたものではなく、屋根そのものから滲み出てきたかのように。常香炉は境内の中央に据えられ、その丸みのある形が夜の闇の中で確かな量感を保っていた。堂内からのあたたかな光と、外側を包む青い照明とが重なり、空間は内と外、祈りと歩みを穏やかに分けていたのであった。右手に「地蔵堂」。左:自由に鳴らせる小さな「鐘」。右:「なでなで地蔵」。斜めから。内陣。日限地蔵 (ひぎりじぞう)。お顔をズームして。「地蔵堂」前から「本堂」を。 正面から。扁額「登靈臺?(とうれいだい)」。一遍上人の霊徳が“登るように高まる台”=宗祖の霊威を仰ぎ、念仏の道へ昇る聖なる場所という意味である と。「藤澤山」と。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤澤山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆 と。本堂前から、境内、大イチョウの輝きを。本堂前に立つと、境内は静かに開け、その奥に黄金色の大イチョウが確かな焦点として輝いていたのであった。視線は自然と中央へ導かれ、常香炉を包む屋根と、その先に連なる灯りが、ゆるやかな軸線を形づくっていたのであった。移動して、ズームして。本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な曲線の海老虹梁の本堂。梁や肘木の曲線は、青い照明を受けて陰影を深め、彫刻の細部が一つひとつ浮かび上がっていた。堂内を。御本尊は阿弥陀如来坐像。ズームして。再び境内を振り返って。ズームして。足元に並ぶ灯りは低く、等間隔に置かれ、大イチョウの樹へと集まる視線をやさしく整えていたのであった。「照らされる中心」でありながら、決して支配的にならない大イチョウの姿を映していた。光は樹を誇らせるためではなく、その存在を確かめ合うために、そっと置かれているかの如くに。白く照らされた「遊行寺宝物館」。 大イチョウの枝は大きく広がり、黄金の葉が夜空に天蓋のような縁をつくっていた。その下に、本堂の屋根に浮かぶ「光」の文字が、静かに息づいて。樹は語らず、文字もまた語りすぎることはなく。ただ、長い時間を生きてきた大イチョウの重みと、今夜だけ灯された「光」とが、同じ空間に重なっていたのであった。葉の一枚一枚は季節の極まりを示し、屋根に映る「光」は、人の歩みを指し示す。自然と人の営み、積み重ねられた歳月と、今ここにある一瞬とが、この場所で静かに交わっていたのであった。足元の灯りは低く抑えられ、視線は自然と、樹から文字へ、文字から樹へと往復。どちらが主であるとも言えず、どちらも欠けては成り立たない姿なのであった。再び振り返って。大イチョウの足元には、落ち葉が厚く積もり、そこに紫や白の光が低く流れていた。光は地面を照らし切ることなく、葉の重なりや凹凸をなぞるように留まって。夜空に向かって伸びる枝先は、細かな葉を無数にまとい、黄金の雲の如くに。光は一様ではなく、紫を帯びた影と、やわらかな黄が重なり合い、葉の一枚一枚に異なる深さを与えていた。そのため、樹は平面ではなく、空へと層を成して立ち上がっている如くに。枝は風を待つように静かで、葉はすでに落ちる準備を知っていながら、今この瞬間だけは、夜の光を抱いて留まっていたのであった。足元に視線を落とすと大イチョウから落ちた葉が、静かに広がっていた。一枚一枚は軽く、すでに役目を終えたはずの葉であったが、夜の光を受けて、なお温もりを残しているのでだった。紫や橙の光は、地を覆う葉の重なりをなぞるように留まり、歩いてきた足取りの痕を、やさしく包み込んで。大イチョウの幹と枝ぶりを正面に捉えて。太い幹は夜の中央に据えられ、そこから幾筋もの枝が分かれ、黄金の葉を静かに支えていた。照明は幹の凹凸を誇張せず、長い歳月が刻んだ質感だけを、確かに伝えていたのであった。大イチョウの太い幹が画面の手前に立ち、その上に広がる枝と黄金の葉が、夜空に大きな弧を描いていた。まるで、この場所全体を覆う門の如くに。その奥、本堂の屋根に浮かぶ「光」の文字は、遠くにありながら、確かな存在感を保っていた。強く主張することなく、大イチョウの葉越しに、静かに呼応していたのであった。樹は何百年もの時を生き、「光」は今夜、この場に現れた。重なっているのは距離ではなく、時間の営み。長く積み重ねられた自然の時間と、一夜のために灯された人の思いが、ここで穏やかに交わっていたのであった。足元に並ぶ灯りは低く、視線を導きながらも、決して上の光景を妨げずに。見上げれば樹があり、その向こうに文字があり、さらにその先に夜が・・・。「遊行寺宝物館」を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.15
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放生池に架かる太鼓橋を渡る。夜の境内の中で静かな導線として浮かび上がっていた。欄干に沿って配された照明が橋の形状を明確にし、歩く方向を自然に示して。木橋の質感は強調されすぎず、周囲の闇と調和しながら穏やかな存在感を保っていた。池の周囲では、石組みと植栽が部分的に照らされ、水辺の起伏や奥行きが分かりやすく表現。光は一点に集中せず、橋・池・庭の要素を均等に結び、夜間でも境内の構成が理解できる景観を作り出していたのであった。放生池の水面は暗く落ち着き、照明に照らされた樹木と建物が静かに映り込んでいた。池の縁に設置された低い光が、水際の輪郭をはっきりと示し、空間の広がりを感じさせて。白く照らされた樹木は背景から明確に浮かび、枝の形や幹の立ち姿が分かりやすく強調されていたのであった。放生池に架かる太鼓橋の上部に見える花頭窓の建物は、内部からの柔らかな光によって輪郭が示されていた。格子越しに漏れる明かりが、建物の構造や屋根の形を控えめに浮かび上がらせて。建物の一部に設けられた格子窓から、室内の明かりが外へ静かに漏れて。周囲はほぼ闇に包まれており、光のある部分だけが明確に切り取られていたのであった。紅葉した樹木が下方からの照明によって照らされ、枝ぶりと葉の重なりが明確に見えていた。赤や橙を中心とした色合いは均一ではなく、光の当たり方によって濃淡が生まれて。再び放生池側から見た本堂。側面の構造が照明によってはっきりと示されて。青を基調としたライトアップが屋根の反りや破風、軒下の組物を均一に照らし、建築の輪郭を明確にして。下部の格子窓からは室内の明かりが漏れ、本堂が夜間も生きた空間であることを感じさせた。上部の青色照明と下部の暖色の光が分かれることで、建物の高さと層構造が分かりやすくなっていたのであった。放生池周辺の紅葉は、複数の樹木が重なり合うことで、夜間でも立体的な広がりを見せていた。下方からの照明により、葉の密度や枝の分かれ方が分かりやすく示されて。赤みを帯びた光が当たる部分と、暗がりに沈む部分とが明確に分かれ、樹冠の奥行きや高さの違いが自然に読み取れるのであった。一部に加えられた青系の光は、背景として控えめに作用し、紅葉の色調を引き立てていた。ズームして。紅葉した枝葉を近くから捉えることで、葉の重なりや密度がはっきりと分かるのであった。照明は一点に集中せず、枝全体に均等に当たり、色の偏りを抑えていた。様々な角度から。太鼓堂の花頭窓を。白壁は均一に照らされ、建物の輪郭や量感が夜間でも分かりやすくなっていた。放生池の中程に立つ聖観音菩薩像は、周囲の水と庭に静かに包まれていた。下方からのやわらかな光により、立像の輪郭と衣文の流れが穏やかに浮かび上がって。水面は暗く落ち着き、像の足元に集まる光が、小さな島のように存在を際立たせていた。ズームして。放生池の水面を前景に、紅葉と太鼓橋、そして聖観音菩薩像を。紅葉は赤みを帯びた光を受け、枝葉の広がりと季節感を明確に伝えていた。太鼓橋は左手奥に柔らかな光で示されて。池の中程に立つ聖観音菩薩像は、周囲よりやや抑えた明かりの中にあり、水面の映り込みとともに、場の中心を静かに保っていたのであった。ズームして。聖観音菩薩像をズームして見ると、石肌の質感と衣文の流れが静かに浮かび上がっていた。柔らかな照明が像の正面を包み、顔立ちや手の所作を穏やかに際立たせて。光背は円環として明確に示され、夜の闇の中で像の存在を静かに支えていた。足元の基壇や周囲の岩組みは暗がりに残され、像全体が軽やかに立ち上がって見えた。放生池側から見る中雀門は、正面とは異なる落ち着いた表情を見せていた。門の反りや柱の構成は控えめな照明によって示され、建築の輪郭が静かに浮かび上がっていた。足元に点在する灯りは地面に低く配置され、門へ向かう空間に穏やかな導線を与えていた。光は門そのものを強く照らすのではなく、周囲の闇と釣り合いを取りながら場を整えて。放生池前から見る本堂は、青い照明によって屋根と外壁の構成がはっきりと示されて。夜の境内の中で、本堂は一段奥に控えながら、確かな存在感を保っていたのであった。手前に点在する蝋燭の灯りは低く、視線を自然に奥へ導きます。一つひとつの小さな光が連なり、放生池側から本堂へ向かう緩やかな道筋を形づくっていた。暗がりの中に、一本の蝋燭の灯りがはっきりと浮かび上がっていたのであった。炎は大きく揺れることなく、安定した形を保ちながら周囲を静かに照らして。蝋燭の表面は柔らかな光を受け、輪郭がなだらかに溶け込んでいた。背景はほぼ闇に沈み、光の存在そのものが明確に際立って。放生池の水面には、太鼓橋、聖観音菩薩像、そして紅葉した樹木が静かに映り込んでいた。橋や石組みは実際の姿よりも柔らかく輪郭を失い、光だけが水面に残ることで、昼とは異なる表情をつくり出していたのであった。紅葉の赤や照明の白は、水の中でわずかに揺らぎ、景色に静かな動きを与えていた。紅葉を照らす赤い光の下に、聖観音菩薩像が静かに立っていた。観音像は下方からの柔らかな照明を受け、衣文や立ち姿がはっきりと読み取れる状態に。赤い輝きと白に近い光とが重なり合い、像の周囲に落ち着いた立体感を与えていた。「放生池」前にあった「河野静雲の句碑」。「放生池」の池畔に昭和44年4月27日に建立されたこの句碑は、高浜虚子門下の 時宗の僧である河野静雲の句碑である。 左:「生きていて 相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲」と。 【こうして生きている今、思いがけず出会ったこのお坊さんよ。 今日は一遍上人のご命日なのだ。】右:「静雲」と刻まれた石碑。「御番方」を振り返って。中雀門の内側から見ると、門の奥に黄金色に照らされた大イチョウがはっきりと。大イチョウは強い光を受けながらも輪郭を失わず、夜空の中に堂々とした立ち姿を示していたのであった。中雀門の内部から奥を見通すと、門の枠に切り取られるように、黄金色に照らされた大イチョウが正面に現れた。左右の扉や上部の梁は暗がりに沈み、視線は自然と中央の光へと。手前の床面は広く影を落とし、その奥に設けられた柵と灯りが、門と境内中心部との距離を静かに示していた。光は近づきすぎず、あくまで「向こう側」に留まって。大イチョウの葉は密に輝き、夜空を背景に、樹形の広がりと高さがはっきりと読み取れた。人工の照明でありながら、樹木そのものの存在感が前面に出ていたのであった。中雀門・御番方側 欄間彫刻。中雀門の反対側、御番方(ごばんかた)側の欄間・下段には、左右一対となる彫刻が配されていた。左側:桜に瑞鳥(ずいちょう) 桜は春を象徴し、瑞鳥は吉祥をもたらす霊鳥。 花の盛りと瑞兆を重ねることで、時のめぐりと祝福、清らかな始まりを表す意匠。 枝ぶりと鳥の配置は動きを持たせながらも過度に躍動させず、 門を守る側として、穏やかな気配を漂わせているのであった。右側:松に孔雀 松は常緑であることから不変・長寿・持続を象徴。 そこに配された孔雀は、華やかさと気品を備えた吉鳥であり、 仏教的には浄土や仏の世界を想起させる存在。 松の静と孔雀の華とが釣り合い、落ち着きの中に格調を与える構成。この二面は、単独の装飾ではなく、対(つい)として構成された欄間彫刻となっていた。放生池を振り返ると、御番方の建物と庭の景観が一体となって広がっていた。手前の地面には蝋燭の灯りが点在し、夜の空間に低く穏やかな明るさを与えていた。奥に見える御番方の建物は、庭木や石組みとともに静かに照らされて。樹木には色味の異なる光が当てられ、枝ぶりや樹形の違いが分かりやすく示されて。蝋燭の暖色と、樹木や建物に当たる青や白の光とが重なり、空間には自然な奥行きが生まれていたのであった。そして「中雀門」の左側にあった「黒門(くろもん)」から本堂側に出て。正面に黄金に輝く大イチョウを再び。大イチョウは広い空間の中心に据えられ、照明によって葉の密度や枝の広がりが分かりやすく示されていたのであった。黄色の光は強さを持ちながらも過剰ではなく、夜空を背景に落ち着いた存在感を保っていた。こちらは「中雀門」の右側にあった「三宝の松」。光は葉の表面に柔らかく当たり、緑の色合いと質感を自然に伝えていたのであった。 そして「中雀門」を大イチョウ側から。 近づいて。中雀門前に立つと、参道の奥に黄金色に照らされた大イチョウが正面に見えた。足元には低い灯りが等間隔に並び、夜の参道に落ち着いたリズムを与えていたのであった。そして鐘楼、本堂を。本堂の内部から漏れる光は控えめで、外部照明の青と暖色のわずかな混在が、建物に奥行きを与えていたのであった。鐘楼は本堂の前景として据えられ、境内の中心に向かう視線を自然に受け止めていた。背後の樹木は色を変えて照らされ、建築の直線と、自然の枝ぶりとが対照をなしていた。光は建物を際立たせながらも、周囲の環境から切り離すことなく、全体を一つの景としてまとめてくれていたのであった。大イチョウに再び近づいて。闇の中に、黄金の大樹が静かに立ち尽くしていた。幹の太さも、枝の広がりも、今はただ光を抱くためにあるかのように。無数の葉は重なり合い、夜空に向かって柔らかな量感をつくり出していた。一枚一枚は小さくとも、集まることで、揺るぎない存在となっていたのであった。足元から見上げると、この樹が見てきた歳月の長さが、言葉よりも確かな重みとなって心に届くのであった。人の営みも、灯りの移ろいも、すべてを受け入れて、なお立ち続ける姿!!。大イチョウは、今夜も変わらず、「遊行の光」を身にまといながら、静かに境内の中心を守っていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.14
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昨年の2025年12月1日(月)から、今月の1月25日(日)まで、地元の六会日大駅前の東口&西口ロータリーで「六会イルミネーション」を開催しています。主催は「六会ステキふるさと実行委員会」そして「六会郷土づくり推進会議」。私はこの「六会郷土づくり推進会議」に参加している「自然部会」の一人なのです。 2025年12月1日(月)はイルミネーション点灯式を16:30から。まずは「六会郷土づくり推進会議」議長の挨拶。右にいる学生さんは、日本大学藤沢高校の生徒会の学生さんで、今年から西口イルミネーションで主体的に協力くださった生徒会の代表者2名。そして藤沢・鈴木恒夫市長も駆けつけてくだり、ご挨拶を頂きました。地元の各種イベントにご協力いただいている日本大学生産資源科学部・学部長様からも挨拶をいただきました。そして、六会駅前自治会長からも。そして、「六会郷土づくり推進会議」議長のカウントダウンでイルミネーションの点灯。中央広場に、高さ6mのイルミネーションツリーが点灯。それを取り囲むように植栽スペースにもカラフルに点滅するイルミネーションを設置しました。頂には大きな星が輝きました。そしてこの日の「オープニングコンサート」の開始。1番目は、「おととき」さんのニ胡の演奏。切なさ・優しさ・情熱・哀愁を帯びた響きが、東口ロータリーに拡がったのでした。そして2番目は、「アンサンブルシャローム」さん。 6名の女性による歌声がイルミの灯りをさらに輝かせてくれたのでした。そして3番目は「SASP(Sustainable Arts & Sports Project)」さんの3名。メンバー全員がプロアーティストとして事務所に所属され活動されているとのことでオペラ風の演出の下、プロの歌声を観客の皆様が聞き入ったのでした。そしてアンコールとして、「世界に一つだけの花」を参加者全員で合唱したのでした。 そして藤沢工科高校製作によるロボット演奏のハンドベル演奏も順調に。ピンク、緑、青とイルミネーションが色彩豊かに変化して。音と音の間に「静けさの呼吸」が生まれ和音は澄んで、光が層をなして広がるように響き。全体が一つの大きな鐘の中で鳴っているかのように。そして12月19日(金)の2回目のコンサート、題して「クリスマスコンサート」。この日も前回と同じ3組にお願いしました。最初に「リトルアンサンブル」の16人による吹奏楽披露。藤沢市の小学生のための吹奏楽団体として【音楽活動の楽しさを体験することを通して、音楽を愛好する心情を育むこと】を目指して地域に根付いた市民活動をされているとのこと。息のあった美しい音色を楽しませていただきました。後方から。歩道には多くの観客の姿が。2番目、「リトル六会」さんの子供達のダンス披露。笑顔いっぱいで激しい動きのパフォーマンスしてくれました!子供達みんなのこれからの成長がさらに楽しみ!! そしてこの日の締め・3番目は「ひまわり団」。 4人による心温まる演奏。右手には六会市民センター長もメンバーとして参加してくださいました。そしてこの日も「クリスマスコンサート」の締めに「赤花のトナカイ」を全員で合唱。事前に歌詞カードを配ってくださいました。【♪♪ 真っ赤なお鼻のトナカイさんは いつもみんなのわらいもの でもその年のクリスマスの日 サンタのおじさんはいいました 暗い夜道はピカピカの おまえの鼻が役に立つのさ いつも泣いてたトナカイさんは 今宵こそはとよろこびました ♪♪】 「人と違うことは恥ではない。それは、いつか誰かを照らす光になる」!!この「希望・自己肯定・共生」をやさしく教えてくれる歌を、子供達と一緒に夜空に向かって大きな声で歌ったのでした。そしてイルミネーション、コンサートに合わせて「六会郷土づくり推進会議」の「つながる部会」主催の「キャンドルナイト」も行われました。 赤、白のキャンドルも時間とともに明るさを増して。子供達の作品・バンブーキャンドル(竹灯籠)に近づいて。そして今回、初めての西口ロータリーのイルミネーション。地元の日大藤沢高校の生徒会の皆さんにご協力頂いた作品。オープニングの昨年12月1日(月)から今月1月25日(日)まで順調に輝いてくれています。イルミネーションの形状を創り上げる為、これも地元の藤沢工科高校の生徒の皆さんにも桜の花びらの形状のフレーム製作をご協力いただいたのです。ここでは光が「飾り」ではなく、意志をもって息づいていたのです。地を覆う青の静かな流れは湘南の海に似て、星屑のような白がその間を漂う。そして、ところどころに咲く桃色の円環は、冬の土の上にそっと置かれた記憶の桜花。中心に灯るやわらかな黄は、心臓の鼓動のように、そっと温度を与えていた。一本の低木は、夜に枝を伸ばし、その先に宿る光は、風に揺れながらも決して散らない。見る者には自然に生まれた光景として映る・・・しかし、それは、光を知り、場所を知り、人の動線と視線を知る者だけが成せる技!!。夜のロータリーに広がるこの光景は、多くの手が重なって生まれた、温かな作品。地を満たす青と白のきらめきは、夜の空気を静かに澄ませ、そこに差し込まれる桃色と金色は、若い感性の鼓動そのもの。規則正しくも、どこか遊び心を残した光の配置から、生徒たちが一つひとつ灯りを手に、考え、語り合い、仕上げていった時間が伝わって来るのであった。幹を包む柔らかな光と、上から垂れる小さな灯りに近づいて。夜の広場の花壇に、春が静かに降りてきたかのような光景。青と白の点光が地を覆い、夜の冷たさを受け止めるその上に、淡い桃色の桜の花びらが、そっと、幾重にも重ねられている。円を描くように配された花弁は、散り際の桜が風に導かれて一瞬だけ形を整えた・・・そんな 刹那の美を思わせてくれるのであった.中央に灯るやさしい黄の円は、花の芯であり、人の心を集める「ぬくもり」の象徴。派手に主張せず、しかし確かに全体を支える光。日大藤沢高校が桜の名所であることを知る者には、この意匠が単なる装飾ではなく、場所の記憶を光で語る試みであることが、自ずと伝わると感じたのであった。そして、散りばめられたこのピンク、そして青、白の灯りは「青春って、すごく密なので!!」と生徒達が自らこの光に語らせていたのであった。ズームして。春には本物の桜が空を覆い、この冬の日には、その記憶が光となって地に咲く。季節を越えて受け継がれる桜、このイルミネーションは、学び舎と街を結びあう、もうひとつの花見なのであった。通り過ぎる人は、理由を知らぬまま足を緩め、「きれいだな」と、ほんの一瞬、心を解く。その一瞬こそが、このイルミネーションの本当の役割。主張しすぎず、しかし確かに街を支える光。この西口ロータリーは、学校 × 自治会 × 地域住民による、地域連携・地域協働によって生まれた、夜の駅前にやさしい呼吸を与えられる場所になったのです。下記写真はネットからの転載👈️リンク。いつまでも、この「学校 × 自治会 × 地域住民による、地域連携・地域協働」によってこの街が住民の皆さんに「住み続けたい街」、転入の皆さんに「住みたい街」として人と人とのつながりの中で、これからも育ち続け、次の世代へと確かに受け継がれていくことを願っているのです。 ・・・END・・・
2026.01.13
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「遊行の光」に照らされた大イチョウは、ただ明るく輝くのではなく、時を重ねた祈りそのものが、葉一枚一枚に灯ったかのようであった。風に揺れることもなく、ただ静かに、長い年月を知る幹が夜気を受けとめ、黄金の葉は星屑のように枝に宿っているのであった。太い幹から四方へ伸びる枝は、長い歳月を語る腕のようにゆったりと広がり、その先々に残る葉は、秋の名残を抱えたまま、夜空にそっと揺れていいた。本堂のライトアップ。本堂の大きな屋根の中央に投影された「光」の文字は、この空間全体のテーマを象徴。書をそのまま光で描き出したような躍動感のある筆致が、硬質な建築物に対して有機的な柔らかさを与えていいるのであった。「光」をズームして。 色も白に変わって。漆黒の夜闇を背景に、ライトアップされた大イチョウは、まるで地上に降り立った巨大な光の彫刻のようであった。 幾千もの扇形の葉が光を透かし、一枚一枚が自ら発光しているかのように、重なり合って深い黄金色の層を成していた。それは単なる黄色ではなく、七百年の歳月を吸い込み、磨き上げられた「熟成された金」の輝き。天に向かって力強く広がる黄金の葉は自ら輝いているが如くに。黄金色の葉は、灯りに照らされるほどに柔らかく、風のない夜にも、どこか微かに揺れているように見えるのであった。再び本堂を正面から。境内には「遊行の光」の灯明が 輝いて。一遍上人像。闇に包まれた境内に、一遍上人は静かに立っておられた。合掌する手は動かず、けれどその姿勢には、旅の果てまで歩み続けた時間が沈んでいるかのごとくに。足もとから当たるやわらかな光が、衣のひだを浮かび上がらせ、長い道のりを経てなお失われなかった祈りの形を伝えていた。顔に落ちる光と影は、語らぬ教えのように深く、人の世を見つめ、また人の世を離れた静けさを宿していた。遊行の夜、灯りに照らされた一遍上人は、導く者としてではなく、ともに歩き、ともに祈る一人の旅人として、今もそこに在るように感じられたのであった。本堂に更に近づいて。別の角度から一遍上人像を。移動して。ズームして。紅葉したモミジを背に、一遍上人は静かに手を合わせて立っていた。背後では、紅葉したモミジが夜の光を受けて、赤や褐色を深く沈ませながらゆるやかに枝を広げているのであった。移動して。瓦のうねりに沿って、光は静かに揺れ、にじみ、確かな形を持たないまま、闇の上にそっと置かれているが如くに。扁額「登霊䑓」。この堂は、人が煩悩の世を離れ、霊性=仏の境地へと一歩ずつ登っていく場所である と。鐘楼。梵鐘も輝いて。本堂を斜めから見上げて。闇を背に、本堂は青と紫の光をまとい、夜の中に静かに浮かぶ。角をなす屋根の線は凛として、古き時を抱えたまま、今の光を受け止めている。見上げるほどに、静けさが深くなるのであった。ズームして。「放生池」方向を見る。後方に「御番方」~「信徒会館」の建物。放生池の水面は静かに息をひそめ、木々の影をやさしく抱きとめていた。枝先に触れた光は、冬へ向かう葉の名残をそっと照らし、赤や紫の色を、闇の中に溶かして行くがごとくに。放生池周辺の輝き。雪を纏った如くに白く輝く老木。闇の中に、ふいに息づくような 深紅の光。一枚一枚の葉が、内側から熱を帯びたかのように照らされ、赤は色ではなく、ぬくもりとして浮かび上がるがごとくに。赤は叫ばず、静かに、しかし確かに、見る者の胸の奥まで染み込んでくる——そんな輝きであった。 ・・・もどる・・・ ・・・どんど焼き・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.13
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今日、1月12日(月)の朝に我が地域の「どんど焼き」が開催されたため、参加しました。「どんど焼き」は、正月に迎えた年神様を、正月飾りを燃やす煙とともに天へお見送りする小正月(1月15日前後)の伝統行事。・一般的には1月15日ですが、地域によって1月14日や近接する土日に行われる。・神社や公園、広場で竹や藁、廃材等を使って「やぐら」を組み、門松・しめ縄・書き初め などを持ち寄ってお焚き上げします。・その火で焼いた団子や餅を食べると、1年を健康(無病息災)に過ごせると言われています。 また、書き初めが火の勢いで高く舞い上がると「字が上手になる」という言い伝えもあります。燃やせるもの: 門松、しめ縄、お守り、お札、だるま、書き初めなど。外すべきもの: 有害物質を避けるため、プラスチック、ビニール、金属、ガラス類などは事前に 取り外すのがマナー。 平安時代の宮中行事「左義長(さぎちょう)」が起源とされ、呼び名も地域によって「左義長(さぎちょう)」や「道祖神祭」「さえのかみ祭り」、「鬼火(おにび)たき」「さいと焼き」「三九郎」とも、さまざまに呼ばれています。8時から開催とのことで、門松、しめ縄、ミツマタの枝の先に取り付けた三色の団子を持ち、自宅を10分前に出る。開催場所は、徒歩2分ほどの場所にある公園。既に、街(村)の老人会の皆さんが、事前に焚き付けの枯れた木々を準備してくださりそれに火を付けてくれていました。火が燃え上がると「どんど」と音がすることから、この名前がついたとも言われています。また、火を燃やす際に「どんど」と掛け声をかけることから来ているとも言われています。近づいて。「どんど焼き」受付。 受付の老人会の方が子供達にお菓子を準備してくださいました。まだ人の数は少なかった。まだまだ熱くて近づきにくい火力であった、既に三色団子を焼き出す方の姿も。小さな三色団子を枝に何個も付けたユニークなものも。暫くすると、ようやく下火になり落ち着いて。私も妻が準備してくれた三色団子を焼き始める。妻が、枝の先端には、アルミ箔を巻いて枝が燃え出さないようにしてくれました。色も順番も、各家それぞれに。次第に人の数も増えて来ました。少しずつ火に近づいて。最近は、なかなか三ツ又の枝が見つからないと。団子を焼く子供達の姿も。そして焼いた団子を自宅に持ち帰り、つぶあんで妻と一緒に食べたのでした。 ・・・おわり・・・
2026.01.12
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この日は2025年12月9日(火)、藤沢市内にある「藤澤 遊行寺(清浄光寺)」では、開山700年を迎える昨年12月、市指定天然記念物「大イチョウ」の見頃に合わせ、境内にて本堂や大イチョウのライトアップを2024年12月7日~22日の期間に実施したので見学に向かったのであった。「藤沢遊行寺ライトアップ「遊行の光」」 ■期間:令和7年12月6日(土)~12月14日(日)■時間:午後4時30分~午後8時 ※荒天の場合は中止■場所:遊行寺境内 ※車でのお越しはご遠慮ください■主催:遊行の光実行委員会 〈構成団体:藤沢市、藤沢商工会議所、(公社)藤沢市観光協会 (一社)藤沢市商店会連合会、かながわ信用金庫、(株)ジェイコム湘南・神奈川、 ふじさわ宿交流館、ふじさわ宿商店会、時宗総本山遊行寺〉■協力:江ノ島電鉄(株)、小田急電鉄(株)、東日本旅客鉄道(株)、DRONE/47、 アーキテイメント(株)自宅近くからバスに乗り、「遊行寺前」バス停で下車。時間は18:45過ぎ。朱の欄干の境川に架かる「遊行寺橋」を渡り、遊行寺の「惣門」に向かう。 右手に神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線の「藤沢橋」。 県道30号の全区間が箱根駅伝のコースになっている。(往路3区、復路8区)藤沢バイパス出口交差点 - 藤沢橋交差点間は、旧東海道である。藤沢宿が遊行寺・藤沢橋付近にあった。なお、旧東海道は藤沢橋の北側で西に曲がり、遊行寺門前で南へ折れ、遊行寺橋(江戸時代の名称は大鋸(だいぎり)橋)を渡って国道467号、神奈川県道43号藤沢厚木線方面に進む鍵の手が設けられていた。藤沢橋が架橋されるのは関東大震災以降である。遊行寺橋(江戸時代の名称は大鋸(だいぎり)橋)を渡る。前方、右手に見えて来たのが「藤沢市ふじさわ宿交流館」。 入口は紫色にライトアップされ、「遊行の光」と書かれた提灯が。 そして「惣門」前に。 遊行寺・境内図。別の地図もネットから。寺号標石「時宗総本山 遊行寺」。後ろに石垣と築地塀。 「時宗總本山 清浄光寺(しょうじょうこうじ)」。 前方の「いろは坂」を見る。趣のある坂道が光に照らされ、幻想的で厳かな冬の夜景を演出。この坂は阿弥陀様の四十八願にちなみ「四十八段」とも呼ばれ、石段のようにも見える穏やかな坂道が特徴。 青銅製灯篭(右)。青銅製灯篭(左)。「惣門」に近づいて。 「惣門」は、俗世と聖域を分かつ境界。「遊行の光」によって照らされた門は、人を隔てるのではなく、静かに仏の道へと導く入口となっていたのであった。夜の遊行寺の「いろは坂」。惣門をくぐると、そこから先は石畳に落ちる青の光に導かれる静かな道となっていた。にぎやかな照明ではない。歩く人の心の速さに寄り添う、控えめな光であった。「遊行の光」は、一遍上人の教えに由来する「遊行」・・・定まることなく歩き、人々の中に身を置く仏道を、現代の光で表現したライトアップに。この灯りは、道を照らすためではなく、歩く人の心に寄り添うために置かれていた。強く導かず、急がさず、ただ静かに、歩みを受け止めてくれるのであった。ここでは、歩くことそのものが祈りとなり、参道は「通路」ではなく心を整える時間へと変わって。夜の参道に灯る「遊行の光」は、静かに並びながら。そこに人が現れると、光は主役から背景へと退き、歩む者の存在をそっと受け入れてくれるのであった。赤く浮かび上がる門の奥に、眞徳寺の本堂は静かに息づいていた。眞徳寺の山門を正面から。遊行寺本山役僧が住職を務めており、講中の宿泊所でもあった。そもそも当遊行寺は真光院・栖徳院・善徳院・貞松院といった遊行寺の塔頭でした。由緒沿革は不明ですが、4院はたびたび火災によって、いずれも困窮はなはだしく、ときには住職が退散することも少なくなかった と。真光院の住職が、栖徳院・善徳院を兼務することもあったとのこと。さらに「いろは坂」を上って行った。 人の数は少なく。「眞浄院」の入口。眞浄院は遊行寺山内の筆頭寺院で、本山役僧が住職を務めている。講中宿泊所でもあった。歴代上人が法燈をつがれるときは、この寺院で旅装をとき、真浄院住職の先導により、清浄光寺に入山する由緒ある伝統的な慣例が、今日まで続けれらている と。奥の中門を潜り階段を降りると本堂ありこちらも端正な堂宇である。 そして「遊行寺の石造山門跡」に到着。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)がありました。現在は本堂内にある。惣門の上中央にもあった「八角形に三」の紋は時宗の宗紋。「折敷に三文字紋」とか「隅切三(すみきりさん)」という。時宗の開祖一遍さんの俗名は河野時氏といって伊予国の土豪の家系。そちらの家紋が「隅切角に三」。開祖の出身家紋がそのまま宗派の寺紋となったのは親鸞聖人の鶴丸と同じである。稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じなのです。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となりました。正成公は、この偶然に驚いた。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となっていた。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋に採用した。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出しています。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。前方にライトアップされた大イチョウが姿を現した。近づいて。 ・・・つづく・・・
2026.01.12
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そして「山門」の北側にあった大きな六体の地蔵菩薩像を訪ねた。手前には「青海波(せいがいは)」に似た美しい影の姿が。「青海波」とは、穏やかな波がどこまでも続く様子を表す日本の伝統的な幾何学文様で、「未来永劫の幸せ」や「平穏な生活」への願いが込められた吉祥柄である と。柵の影が重なり合い、ただの舗道の上に静かな波紋 が生まれていた。人工物の直線が、光によって柔らかな曲線へと変わり、まるで 砂紋や水面のゆらぎを見ているかのようであった。人は写っていないのに、そこには確かに「時間」が通り過ぎた気配がある。午後の太陽の高さまで想像できる美しい影。右手の銘石 には「温顔和楽(おんがんわらく)」と。近づいて。・温顔(おんがん):やさしく温かな表情・和楽(わらく):和やかで楽しい、安らいだ心「仏は、やさしい顔で人を和ませ、楽しませる存在である」という意味。「ほかほか地蔵」 ・表情・姿 目元と口元がゆるみ、包み込むような微笑 肩の力が抜けた、安心感のある立ち姿・意味 心が温まり、緊張や不安がほどけた状態 誰かの存在そのものが支えになること・メッセージ そのままで大丈夫。 無理にがんばらなくても、心は自然に温まる。「らくらく地蔵」 ・表情・姿 どこか余裕のある表情 少し身体をゆだねたような、力の抜けた姿・意味 執着を手放し、肩の荷を下ろした心 物事を「まぁいいか」と受け流せる状態・メッセージ 抱えすぎなくていい。 人生は、力を抜いた方がうまくいく。「ふくふく地蔵」 ・表情・姿 頬がふっくらと丸い 満ち足りた、やさしい表情・意味 足りないものではなく、すでに持っている幸せに気づく心 心の豊かさ・満足・メッセージ 幸せは、もうここにある。「にこにこ地蔵」 ・表情・姿 はっきりとした笑顔 正面を向き、開かれた姿・意味 他者と心を通わせる笑顔 自分も周囲も明るくする力メッセージ 笑顔は、いちばんやさしい仏の教え。「すくすく地蔵」 ・表情・姿 目に生気があり、前を向く表情 背筋が伸び、上へ向かう印象・意味 成長・回復・再生 失敗や停滞のあとでも、また伸びていく命・メッセージ 比べなくていい。 あなたの速さで、ちゃんと育っている。「いきいき地蔵」 ・表情・姿 もっとも生命感あふれる表情 今まさに動き出しそうな躍動感・意味 生きる喜び 今日を全力で味わう心・メッセージ 生きていること自体が、すでに尊い。右から左へ進むと、実は・・・・ほかほか(安心)・らくらく(解放)・ふくふく(充足)・にこにこ(共有)・すくすく(成長)・いきいき(躍動)という、人の心が回復し、前へ進んでいく物語が描かれているのだ と。ドウダンツツジの見事な紅葉の奥に石碑があった。この石碑には「純未生流之碑」と刻まれていると、これも以前に師匠から。その先にも石灯籠が。近づいて。歴史を感じさせる石灯籠。塀の角にあった石碑。これも以前のブログにて高校時代の友人から教えて頂きました。「古松談般若(こしょうはんにゃを だんじ)幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょ をろうす)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。その先には先程訪ねた「鐘楼」、「六地蔵」が。 引き返して。こちらは墓地「湘南霊園」👈️リンクの入口。 「八幡桜」。「若宮大路 八幡桜」。 「鎌倉八幡宮若宮大路の段葛より移植された晋山記念の桜である八幡桜の銘は吉田宮司による平成廿八年降誕会 天嶽院廿九卋正三謹誌」と。春には(ネットから)。そして「山門」右手の大きな台座に鎮座する「聖観世音菩薩立像」を見る。 ズームして。「慈光遍照」と刻まれた石碑。「お大師様(空海)は、常に私どもにお救いの御心「慈光(じこう)」を遍(あまね)く照らされておられますので、いつでもお大師様の存在を感じる心をお持ちください。そしてお大師様を心に念じながら合掌して『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』をお唱えすることにより、本来自身に備わっている穢(けが)れのない清浄なる心の鍵が開き、御仏に包まれ抱かれている境地と共に、どんな場面でも常に仏様と共に歩んでいるという安らぎと喜びを実感できると思います。」と。正面に移動して。見上げて。常香炉・「福聚海」と。山門を見る。この日の山門、仁王像も見納め。正月前の松の手入れも。松の影が白壁に美しく映り込んで。山門の右手側から丘を登る坂道の途中にある案内柱「曹洞禅寺 天嶽院」。 藤沢市立藤ヶ岡中学校の突出している三角屋根・教会のような塔屋を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.01.11
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鐘楼堂の近くにあった「庫裡」。 「鶴夢楼」、「早雲閣」は工事中であった。引き返して。手水場。再び山門方向を振り返って。この紅葉の美を独り占め。防災井戸が境内に。近づいて。「不動殿」横の道沿いに建っていた祠。三体の石仏が祠の中に。参道の南側の散策道を山門方向に歩く。「山門」を背景に。 山門横から。引き返して。枝先に宿る秋が、そっと呼吸しているかの如くに。黄・橙・淡紅・緑が溶け合い、一枚一枚の葉が 時間の移ろいそのものを映していた。燃え上がるほどではなく、静かに、しかし確かに深まる・・・そんな 晩秋の余韻 が画面いっぱいに広がっているのであった。光を透かしたもみじは、空気をやさしく染め、足音さえも和らげてくれるように。「不動殿」横まで戻る。再び寺務所の花頭窓を。山門、参道を独り占めして。ここでは秋そのものが立ち止まっているかのようであった。左右から枝を伸ばす紅葉は、朱、橙、黄金、そしてまだ緑を残す葉までを重ね、まるで自然が幾層にも色を塗り重ねた一枚の屏風。その中心に静かに据えられた山門は、華やかな色彩を受け止める黒の静寂として佇み、紅葉の美を際立たせる舞台装置の如くに。枝ぶりは計算されたかのように門へと導き、視線は自然に奥へ、庭へ、そしてその先の静けさへと吸い込まれていくのであった。光を透かした葉は、揺れるたびに色を変え、一瞬一瞬が「今しかない秋」であることを告げて。人の手による建築と、歳月を重ねた樹々。その両者が競うことなく寄り添うことで生まれる、天嶽院ならではの深い秋の気配なのであった。ここでは紅葉は眺めるものではなく、山門とともにくぐり、包まれ、心に納めるもの。紅葉とサザンカ(山茶花)のコラボ。枝先に広がる紅葉は、朱から橙へ、そして淡い黄へと移ろいながら、一年の終盤を惜しむように光を受け止める。その足元で咲くサザンカ(山茶花)は、冷え始めた空気の中でもためらうことなく、やさしい桃色の花を開いていたのであった。燃えるような紅葉の色彩と、静かに、しかし確かな存在感を放つ山茶花。どちらも主張しすぎることなく、互いの美しさを引き立て合う距離感が、この景色に品格ある調和をもたらしていたのであった。紅葉が「去りゆく季節」を語るなら、この山茶花は「これから来る季節」を告げる花。その二つが同じ視界に収まるこの瞬間は、自然が用意した季節の重なり合う贈り物の如くに。春でも、夏でもない。秋と冬の境目だからこそ生まれた、静かで、あたたかなコラボレーション!!近くまで移動して。淡い桃色の花びらは、重なり合いながらも一輪一輪がはっきりと形を保ち、光を受けてやわらかな陰影をまとって。つややかな常緑の葉は、花のやさしさを引き締め、全体に凛とした佇まいを与えていた。花は誇示するように上を向かず、どこか控えめに、しかし確かな存在感で枝に寄り添う。その姿は、寒さに向かう季節の中で、静かに美しく在り続ける強さそのもの。山門を背景に陽光を浴びて黄金に輝く瞬間を。山門の静かな輪郭を背に、紅葉はその一瞬、光そのものになって。低い角度から差し込む陽光が、葉の一枚一枚を透かし、朱や橙は次第にほどけて、やがて黄金へ。影に沈んでいた山門は、色を主張することなく、その深い闇で光を受け止め、輝きを際立たせる無言の舞台となっていたのであった。参道は、紅葉に迎え入れられる道となっていた。頭上では、朱・橙・黄の葉が幾重にも重なり、枝を交わしながら、やさしい天蓋(てんがい)を。陽光はその隙間から細く差し込み、石畳の上に、揺れる光と影の文様を描き出して。枝先まで、そっと視線を寄せると・・・紅葉は光を受け取る手のひらのように広がっていた。一枚一枚の葉は、朱、橙、淡い黄、そして名残の緑を抱き、その縁を陽光がなぞるたび、色は静かに息づいて。背景の幹や参道は柔らかく溶け、主役である葉だけが、今この瞬間を生きているがごとくに。そして「山門」下から仁王像の後ろ姿を。 振り返って参道を。振り返ると、参道はすでに一幅の絵となって佇んでいた。行きには前へ前へと導いてくれた紅葉が、帰り道では左右からそっと包み込み、朱と橙の枝葉が、道の記憶を留めるように重なっているのであった。苔を帯びた縁石と、まっすぐに伸びる石畳は、人の歩みと自然の時間が交差してきた証。陽光はゆっくりと低くなり、葉の色はさらに深みを増しながら、空の青と静かに溶け合う。先ほど訪ねた中雀門は遠景となり、その存在は、歩いてきた時間そのものへと変わって行ったのであった。振り返ることで、「通ってきた道」は「心に刻まれた景色」になる。この参道は、行きにも帰りにも、それぞれ異なる秋を差し出してくれるのであった。天嶽院の紅葉は、前を見ることで導き、振り返ることで、深い余韻を与えてくれた・・・。視界いっぱいに、秋が満ち溢れていた。枝は自在に伸び、重なり合う紅葉は、朱・橙・黄金を自在に行き交いながら、一枚の色面ではなく、奥行きをもった層として広がって。陽光はその間を縫うように射し込み、葉の裏を照らし、幹の曲線を浮かび上がらせて。低く刈り込まれた緑は、燃えるような紅葉を静かに受け止める土台となり、全体に落ち着いた呼吸を与えていた。騒がしさはなく、ただ、成熟した季節だけがここにあるのであった。これでもかとシャッターを押す。この景色には、中心も主役もない。どこに目を向けても、それぞれが等しく美しく、等しく「今」であった。歩みを止め、言葉もいらず、ただ眺める・・・天嶽院の秋は、そんな贅沢な沈黙を、静かに許してくれるのであった。再び山門を額縁にして。山門は、再び静かな額縁となり、秋の最奥をそっと切り取りとる。門内の影は深く、その向こうに広がる参道だけが、光を集め、色を宿し、息づいていた。朱と橙の葉は、枝を交わしながら道を覆い、歩む者を奥へ、さらに奥へと誘うのであった。木の質感、鉄の金具、重みを帯びた門の構えは、一歩外の世界をきっぱりと断ち、ここに映る紅葉を特別な風景へと昇華させるのであった。再び仁王像(阿形)。山門を背に、不動の像は静かな緊張を纏って立っていた。引き締まった身体に刻まれた陰影は、差し込む陽光を受けて、石でありながら生身のような重みを帯びて。掲げられた剣は、力を誇示するためではなく、迷いを断ち切るための覚悟の象徴として、天を指していた。背後の山門は、深い影となって像を包み、その静けさが、前に立つ不動明王の存在をいっそう際立たせて。そして周囲には、紅葉の名残と常緑の松。移ろう季節と変わらぬ信念が、一つの画面の中で対峙しているが如くに。仁王像(吽形)。この吽形像は、すべてを受け止めた後の沈黙を体現していた。固く結ばれた口元、わずかに伏せられた眼差し。外へ向かって力を放つのではなく、内に深く納め、揺るぎなく保つ姿。掲げられた手は制止でも威嚇でもなく、「ここから先は清められた心で」と静かに告げているかのよう。背後に広がる青空と、丹念に整えられた松の緑。その柔らかな曲線と、仁王像の直線的で引き締まった造形が、互いを際立たせ、場に張りつめた均衡を生み出していた。「仁王尊像」碑。 山門越しの紅葉も見納め。山門という一つの額縁を通して、この秋は、静かに締めくくられようとしていた。重く、低く構えた茅葺の屋根。歳月を含んだ木の柱と梁が、外界と内奥をきっぱりと分かちながら、その中央にだけ、紅葉の道を許している。門の影は深く、その先に続く参道の光は、どこまでも澄んでいるのであった。朱と橙に染まった木々は、もう語り尽くしたかのように穏やかで、風に揺れる葉の一枚一枚が、「これでよい」と頷いているかの如くに。行き交う人の足音も、立ち止まる気配も、すべてを受け止めた上で、山門はただ、黙して立つ。ここをくぐれば、紅葉は背後となり、季節は次の新年へと歩み出すのであった。しかし、この一景は、門の内と外を結ぶ記憶の風景として、心の中に、確かに残るのであった。山門越しの紅葉・・・それは「終わり」ではなく、静かに手渡される、秋からの別れの挨拶なのであった。再び額縁にして。この額縁に収められた紅葉は、今この瞬間だけの「完成形」。やがて色は落ち、枝は空を透かす。けれど、この一景は、門をくぐった者の心の中で、いつまでも色褪せぬ秋として残り続けるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.10
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天嶽院の境内、「不動殿」前に佇む、ひときわ目を引く「聖観音菩薩像」。大きな自然石を舟に見立てた、非常に独創的で美しい「聖観音菩薩像」の姿。自然石の大きな器(石舟)の中央には、蓮華座に結跏趺坐(けっかふざ)する聖観音菩薩が安置されていた。石舟の正面には、大きく「感應」と刻まれていた。これは仏教用語の「感応道交(かんのうどうこう)」に由来する言葉。意味:私たちの祈る心(感)と、仏様の救いの慈悲(応)が、あたかも響き合うように 通じ合うこと。この石舟は、人々の願いを乗せ、仏様の世界へと橋渡しをする象徴的な器であると感じさせるのであった。左手に「龍の吐水口(とすいこう)」。日本では昔から龍神が水を司る神さまとして崇められてきた。水はすべてのいきものにとって命の源。命をつなぐ水は尊いものであり、神道(自然信仰)では穢れや邪気を祓う神聖なものとされた。神社の手水舎で、左手、右手と水をかける行為は、;心身を清めるために行うもので、この水を「龍神から出ている水」と見せることで「神聖な水である」ことを表現しているのである と。聖観音像が乗る蓮華座(れんげざ)を下から一生懸命に支えている、「幼子(童子)」たちの姿が。これは、純真な心を持つ存在が仏を敬い、共に修行する姿を表しているかのよう。・純真無垢な信仰心の象徴 子供(童子)は、欲や汚れのない「純粋な心」の象徴。重い蓮華座を力を合わせて支える 姿は、打算のない、ひたむきな信仰心によって仏様を敬い、支えるという理想的な信徒の姿 を表しているのであった。・「感應」への橋渡し 石舟に刻まれた「感應」という言葉に関連して、この童子たちは「私たちの祈り」を仏様に 届ける媒介者、あるいは仏様の慈悲を受け取る私たち自身の純粋な心を表現しているのだ。・衆生(しゅじょう)の救済 観音様はあらゆる悩みを持つ人々を救う仏様ですが、特に子供を守る仏としての性格も 持っている。童子が観音様のすぐそばにいることは、観音様が常に弱き者、小さき者に 寄り添い、守護していることを視覚的に示しているのであった。聖観音菩薩様が左手に持ち、右手をそっと添えている「蓮華(れんげ)」には、仏教における非常に深い象徴的意味が込められてるのだ。右手の印相は来迎印。1. 泥中に咲く「清浄」の象徴蓮は泥沼の中から茎を伸ばし、泥に染まることなく清らかな花を咲かせる。・煩悩の中の悟り: 私たちが生きるこの世(泥沼)には、悩みや苦しみ(煩悩)が絶えませんが、 その中にあっても、決して汚されることのない清らかな「仏の心」を咲かせることが できるという教えを表している。・知足との繋がり: 「欲張らず、今あることに感謝する」という教えも、まさに泥(日常の苦難)の中で 清らかな心(満足)を見出す「蓮華」の姿そのものです。2. 未敷蓮華(みぶれんげ)が表す「可能性」この観音様が手にされているのは、まだ完全に開ききっていない「蕾」の状態の蓮華(未敷蓮華)。・人々の仏性: これは、すべての人の中に「仏になる種(仏性)」が眠っていることを意味。・感應(かんのう)の導き: 石舟に刻まれた「感應」の文字通り、観音様がこの蓮華を掲げているのは、私たちの 心の中にある「悟りの蕾」を優しく呼び覚まし、花開かせようとしてくださっている姿。3. 童子たちが支える「慈悲の花」観音様の足元で幼子(童子)たちが一生懸命に蓮華座を支えているが、その上に座る観音様が手に持つ蓮華は、いわば「慈悲の結晶」。・純真な心で受け取る: 幼子のような純粋な心で仏を敬うとき、その手にある蓮華の教え(清らかな生き方)が、 私たちの心にも伝わっていく(感應する)ことを表現しているのだ と。「相生松(あいおいのまつ)」。相生松とは、雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。また、黒松と赤松が1つの根から生え出た松のこと と。「相生松」。「昭和平成伽藍恢興之碑」「昭和」の文字がひっくり返した鏡文字のようになっていたが、「昭和」の『異体字』であると以前に国文学科卒の師匠より。石碑の最上部には、北条早雲(伊勢宗瑞)ゆかりの寺院であることを示す「三つ鱗(みつうろこ)」の家紋が鮮やかに刻まれていた。この家紋が見守る先に、美しく整備された伽藍が広がっていた。左手の建物は「寺務所」。禅宗様式の特徴である曲線を描いた「火灯窓」が見受けられ、境内の静謐な空気感をいっそう引き立てているのであった。 「不動殿」と「浄聖殿」との間の石庭の如き庭を見る。天嶽院の境内に建立されている「道元禅師御道詠(ごどうえい)の碑」。曹洞宗の開祖である道元禅師が、自然の風景の中に仏の真理を見出した悟りの境地を詠った、非常に有名な一首が刻まれている と。「峰の色 渓(たに)のひゞきも 皆ながら 我が釈迦牟尼(しゃかむに)の 聲と姿と」【季節の移ろいとともに変わってゆく峰々の色、そして聞こえてくる谷川のせせらぎ、自分を取り囲んでいる自然の姿そのものの中に仏(釈迦牟尼)の姿を見る、道元禅師の澄んだ心の有り様を素直に感じさせてくれる歌。仏は、お経やお堂の中だけにいるのではありません。山や川や海や雲や、世の中全てのなかに仏はいます。】と。その先右手に、入母屋造銅板葺で妻入の「浄聖殿」。大棟と向拝の唐破風に獅子口、軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪目懸魚で唐破風の兎毛通も猪目懸魚、妻飾は狐格子。両開きの桟唐戸と上に菱格子欄間、脇間に花頭窓本尊の「千手千眼観世音菩薩坐像」を安置。扁額「浄聖殿」。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」をパンフレットから。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。こちらの石像は、天嶽院の境内に置かれた自然石の灯籠(とうろう)、あるいは「火灯窓(かとうまど)」を模した石碑のような造形物。これまでの「雨花知佛境」や「流水識禅心」という言葉、そして道元禅師の歌と照らし合わせると、この石像にも深い意味が読み取れるのだと。・「空(くう)」を象徴する: 四角い穴は「空っぽ」ですが、そこには常に「今、ここ」にある風景(仏の姿)が 映し出されます。・「声と姿」を捉える: 道元禅師が詠んだ「我が釈迦牟尼の声と姿」を、この窓を通して静かに見つめ、心を整える ための装置とも言えるだ と。「中雀門」の前、「淨聖殿」の対面に建つ入母屋造銅板葺の「寺務所」があった。 玄関を正面から。参道側入口玄関前には「掃除小僧」の姿が。小僧さんのすぐ後ろには、味わい深い言葉が刻まれた石碑が立っていた。「掃けば散り 散ればまた掃く 庭の落葉(おちば) つきぬ思いは 人の心か」・歌の意味: 掃いても掃いても次々に落ちてくる木の葉。それを繰り返す様子を、次から次へと 湧き出てくる人間の尽きることのない悩みや雑念(煩悩)に例えています。・道元禅師の教えとの繋がり: 「皆ながら(すべてそのまま)」仏の姿である自然の営み(落葉)を、ただ黙々と掃き続ける。 その繰り返しの中にこそ、真の平穏があることを示唆しています と。寄り添うように置かれた二体の「お地蔵様(わらべ地蔵)」。丸太の椅子にちょこんと座り、静かに合掌している姿は、これまでの境内の力強い景観とはまた異なる、穏やかで微笑ましい癒やしを与えてくれたのであった。丸太の椅子の上に鎮座する「蛙(カエル)の像」も。1. 「かえる」という言葉に込められた願い日本語の「カエル」という音にかけて、多くのご利益を象徴している。無事かえる:参拝に訪れた人が、事故なく無事に家まで帰れるようにという交通安全の願い。福がかえる:失ったものや、使ったお金が再び自分の元へ戻ってくるという招福の願い。若がえる:心身ともに若々しく、健やかであるようにという健康への願い。2. 天嶽院の風景としての意味この蛙は、寄り添う「わらべ地蔵」と同じ場所に置かれていた。「感應」の心: 石舟の聖観音像が「仏と人の心の響き合い」を表していたように、身近な生き物である 蛙の姿もまた、道元禅師が説いた「自然のすべてが仏の姿である(皆ながら)」という 教えの一部として、そこに存在している。 修行の合間の癒やし: 掃き掃除に励む小僧さんの像のように、厳しい修行の場である寺院において、ふと心を 和ませてくれる「遊び心」や「安らぎ」を参拝者に与えてくれていた。そして切石敷の参道を進んで行くと正面に切妻造銅板葺の「中雀門」。左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた中雀門を通して本堂(法堂)が見えた。「功徳山早雲禅寺天嶽院」と。 扁額「湘中早雲禅寺」。 「湘中」とは、地理的に「相模(さがみ)の国の中」あるいは「湘南地方の中」であることを指していると。「湘」の由来: 古来、中国の「湘江(しょうこう)」の美しい風景になぞらえて、相模川の東側一帯や 相模湾沿岸を「湘」という一字で表す慣習があった。地域的な誇り: この扁額は、天嶽院が相模の国(現在の神奈川県)において、北条早雲公ゆかりの重要な 禅寺であることを格調高く宣言している と。「常香炉」越しに「本堂・法堂」を見る。中雀門の真ん中に「常香炉」が置かれ、香炉に乗っている鞠を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿形吽形の龍が参拝者を迎えてくれたのであった。「常香炉」には寺紋の「北条鱗」が。鎌倉の北条と小田原の北条(後北条)。家紋も同じ三つ鱗のようでいて微妙に違うらしい。「正三角形の三つ鱗」は、「鎌倉時代の北条氏(特に得宗家)」が使用していたと言われている。一方、「二等辺三角形の三つ鱗」は得宗家以外の北条氏や「戦国時代の後北条氏」が使用しており、「北条鱗紋」と呼ばれる事がある。ただ、得宗家が二等辺三角形の三つ鱗を使用していた形跡もあるのだと。こちらに関しては厳密にどちらが使用していたかを区分するのは難しいと言えるのだ と。再び「常香炉」越しに「本堂・法堂」を。「法堂」をパンフレットより。法堂の前は基本的に白砂で構成するのも、昔の儀式用の礼の場という名残であると。「法堂」(左)。見事な彫刻(右)。見事な彫刻(左)。「本堂・法堂」の内陣をパンフレットから。佛師松久宗琳謹作 一佛両祖を奉安する。(釈迦牟尼佛、道元禅師、螢山禅師)。「相中留恩記略所載」もパンフレットより。「相中留恩記略(そうちゅうりゅうおんきりゃく)」は、徳川家康が相模国(現在の神奈川県周辺)に留め置いた足跡や事績(留恩)を中心に、江戸時代後期(天保・安政年間頃)に編纂された図会形式の地誌で、特に徳川林政史研究所所蔵本を底本とし、金沢区に関する記述(「巻之二十三 金沢」)が有名です。相模国全域を「相中」と呼び、家康の「恩」を記録したもので、徳川家ゆかりの史跡や伝承をまとめた貴重な資料 と。天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が上の写真「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した と。「本堂・法堂」の右手に入母屋造桟瓦葺の僧堂(座禅堂)があった。寺号の早雲禅寺から扁額の書は「雲堂」であろうか。「不論上智下愚、莫簡利人鈍者」の文字が。「上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ。」と。道元禅師が、正しい坐禅をあまねくすべての人々に勧めるために記した「普勧坐禅儀.」の一文であると 。(ふつう世間では思い(アタマ)の智愚ばかりを問題にしているわけだが)坐禅するということにおいては、まるきり人間的智慧・才能の世界ではないのだから,人間の利口・馬鹿、学問のあるなしは問題ではない。)と。右手にあった二重石塔?。引き返して。鐘楼方向を見る。「聖観音菩薩像」の姿。「龍樹菩薩 準提讃準提功徳◯寂静にして心常に踊すれば一切もろもろの大難能く此人を侵すこと無し天上及び人間福を愛くろ◯と佛の如く等し、是の如意珠に遇は◯定んで無等々を得ん若し誓願大悲の中一人として二◯の願を成ぜずんば◯◯罪過の中に堕して本覺に還らず大悲を捨てん御真言 ◯折戻主戻準提姿◯訶」 「大悲願力透徹救永劫尊像原画 永平寺初代◯◯◯伊豆修禅寺三十八世丘球学老師尊像謹刻 岡崎市稲熊町赤松 石田彫刻石田榮一工匠為野内家先祖代々精霊 徳翁院夏山彦聴居士善堤喜捨て功徳之施主 藤澤市藤澤一〇四〇 野内フク媪維時昭和丁卯六十二年七月吉祥◯辰 天嶽◯ 如拙興道代」 「福聚(ふくじゅ)」と正面に刻まれている石灯籠。 福が集まることを願って奉納された、寺院用の石灯籠であろう。「聖観音菩薩像」の姿を横から。鐘楼周辺の紅葉を再び。梵鐘。天嶽院の「六地蔵(ろくじぞう)。6体が横一列に並ぶ、典型的な六地蔵の配置。それぞれに赤い頭巾・前掛け。赤は「魔除け」「子どもの守り」「血の色=命」を象徴。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.09
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正月の恒例行事のブログアップが完了しましたので、昨年の晩秋の紅葉散策のブログを引き続きアップいたします。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この日は2025年12月7日(日)、昨年秋も多くの場所の黄葉・紅葉を楽しんで来たが、地元市内にある「天嶽院」の参道の紅葉も美しいので、この日に愛車で訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、この日も散策開始。「天嶽院」の「山門」は西向きに建っているので、紅葉の参道に陽光が入りこむ14時過ぎからが良いのである。この日も14時45分過ぎに到着。「天嶽院」入口、右に駐車場。住所:神奈川県藤沢市渡内(わたうち)1丁目1−1入口から、仁王像の立つ山門を見る。「参道」入口の門柱。この門柱に書かれている文字は、数年前に、これも我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」と。【雨花佛境を知り 流水禅心を識る】と。「雨花知佛境」(右側)の門柱。雨花(うか):空から花が雨のように降ってくること。仏教では、仏様が説法をされる際や、 素晴らしい悟りの境地を祝して、天から美しい花(曼陀羅華など)が降り注ぐという伝説がある。知(ち):〜を知る、〜によってわかる。佛境(ぶっきょう):仏の境界、悟りの世界。つまり、「降り注ぐ花(の美しさや清らかさ)によって、ここが仏のまします清浄な聖域であることを知る」という意味になるのだ と。「流水識禅心」(左側)の門柱。流水(りゅうすい):絶え間なく流れ続ける水。識(しき/しる):認識する、深く理解する、悟る。禅心(ぜんしん):禅の心。執着がなく、澄み渡り、とらわれない悟りの境地。意味は、「さらさらと流れて止まない水の姿(その音や清らかさ)に接することで、執着のない自由自在な『禅の心』を悟る」となる。すなわち、絶え間なく流れる水の音の中に禅の心(悟り)を悟る と。天嶽院の門柱は、「目に見えるこの美しい景色(紅葉)も、耳に届く自然の音も、すべてがあなたを悟りへと導く教科書ですよ」と、左右から優しく語りかけているのであった。「山門」と「金剛力士像・仁王像」。その手前に「寺号標石・天嶽院」。・真言密教の古寺「不動院」から始まる。・治承四年(1180年)、源頼朝公は、伊豆で挙兵、鎌倉を目指すが、途中「不動院」に立ち寄り 不動明王様に大願成就祈願をされたとの伝説がある。・明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一宇が創建され、「不動院」を改めて 曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山。・天正四年(1576年)、火災に遭い伽藍は全焼。・中興開基 玉縄城主北条綱成公、氏繁公父子。・再中興開基 紀伊大納言徳川光貞卿。・昭和平成(1976年)伽藍復興。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん)」。頂いたパンフレットから「天嶽院境内案内図」を。「嶽」の字について今年も学びました。「嶽(岳)」の成り立ちと変遷この資料は、複雑な字体である「嶽」が、どのようにして現在の常用漢字である「岳」へと簡略化・変化してきたかを説明しています。1. 嶽(旧字体・篆文)の構成画像右側の「篆文(てんぶん)」と書かれた部分の解説。上部(山):「山」の象形。中部(取っ手のある刃物と口):罪人を裁く際などに使われた道具や儀式に関連する象形と されています。下部(耳を立てた犬):左右に配置された「犬」の象形。これらが組み合わさり、 本来は厳しい法や、険しく近寄りがたい山(大きな山)を意味する「獄」に近いニュアンスを持っていました。2. 岳(新字体・甲骨文)へのつながり画像左側は、よりシンプルな構成を示しています。上部(丘):「丘」の象形です。下部(山):「山」の象形です。これらが上下に重なり、現在の「岳」という字の原型となりました。天嶽院との関わり天嶽院は、山号を「功徳山」といいますが、寺名にこの「嶽」の字を冠しています。「嶽」には単なる山よりも「ひときわ高く険しい山」「尊い山」という意味が込められています。門柱に刻まれた禅の言葉や、あの美しい紅葉の参道を思い返すと、この「嶽」という文字が持つ重厚で格式高い雰囲気は、まさに天嶽院の歴史ある佇まいにふさわしいものと言えるのであった。「---北条早雲公開基の古刹--- 天嶽院」文明年間(1469年 - 1487年)に「虚堂玄白」が草庵を営んだ。この草庵を「玉縄城主、北条綱成」が「北条早雲」を弔うために寺院として創建。虚堂を開山、早雲を開基とした。 天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印地30石を賜る。パンフレットより。「功徳山早雲禅寺 天嶽院」。パンフレットより。山門前の「金剛力士像・仁王像」・阿形像。上半身をあらわにした2体は、筋骨隆々。カッと両の目を見開いて、睨みをきかす迫たっぷりの表情。左手に長い金剛杵(こんごうしょ)または(金剛杖)を抱え、右手の五指を下に向けて大きく開いて。長い金剛杵(こんごうしょ)。この金剛杵はあらゆるものを打ち砕けるほど硬く、金剛力士はこれを用いて仏敵や業魔を粉砕するのだと。お顔をズームして。・吽形像。左手に短い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を正面に向けて大きく開いて。近づいて。大きな手のひらを正面に。これが意味するものは??以下、「chatGPT」からの回答です。『仁王像は、仏教における「守護神」として、仏法を守り、信者を悪しきものから守る役割を担っています。掌を正面に向けることには、以下のような象徴的な意味があります。・「掌を向けて守る」という意味:仁王像は、掌を正面に向けて構えることで、悪しき 存在を押し返す、もしくは封じ込めるという意味が込められています。 このポーズは、「悪を寄せ付けず、仏教の教えを守り続ける」という守護的な力を表現 しています。・「加護を与える」:掌を広げて前に向けることで、仏の慈悲や加護が施される象徴として 捉えられます。このポーズは信者に対して保護や祝福を与える力があることを示しています。・宇宙の調和」:また、掌を正面に向けることは、宇宙の調和や力を象徴するとも 考えられます。仏教の守護神として、仁王像は宇宙の秩序を守る存在であるという 意味合いもあります。このように、仁王像や吽形像の掌を正面に向けたポーズは、単に「守る」だけでなく、「悪を退け、加護を与え、調和を保つ」という多層的な意味を持っています。』と。お顔をズームして。短い金剛杵(こんごうしょ)。掲示板には●欲張らず 今あることに感謝して 一年を終えましょう今年も終わりを迎えました。お正月に、あれもしよう、これもしようと計画を立てたこと、どうだったでしょうか。思うようにはいかないのが世の中。不本意だった方もおられるのではないでしょうか。しかし、大切なことは物質的な満足ではないのでは。お釈迦さまが説かれた教えに**「知足(ちそく)」**(満足を知る)があります。「欲が深い人は多くを求めて苦しみが多く、少欲の人はそんな憂いがない。知足の人は、たとえ地面で寝るような暮らしであっても心は安楽であるが、足ることを知らない人はどれほど立派な邸宅で暮らしたとしても満足することはない。知足の人は貧しい生活をしているときも、心は豊かであり、足ることを知らない人はたとえ裕福であっても心は貧しいのだ」『遺教経(ゆいきょうぎょう)』除夜の鐘を聞きつつ静かに振り返ってみれば、たとえ不本意なことがあったにしても、一年を無事に終わることができるのです。神仏のご加護に感謝し、満足して新しい年を迎えましょう。そしてこの日も、山門前から「参道」の「モミジトンネル」を望む。山門右「立春大吉」。立春の日を境に、運気が改まり、すべてが吉に向かう禅宗では特に重視される言葉で、一年のはじまり・再生・転換を象徴します。山門左「鎮防燭(ちんぼうしょく)」仏の灯明の光によって、災い・魔障を鎮め、防ぐ「燭」は 仏法の智慧の光を指し、心の闇・災厄・不安を照らし出す存在。天嶽院(てんがくいん)の山門をフレームに見立てて覗き込んで。・燃ゆるトンネルの誘い 石畳の参道を包み込むように広がる紅葉のアーチ。鮮やかな朱色から、まだ若さを残す橙、 そして深みのある赤へと移ろうグラデーションが、私の視線を奥へ奥へと誘うのであった。・「門」が切り取る別世界 山門の影が、手前に力強い「黒」の境界線を描くことで、光の当たる参道の色彩が より一層際立っていた。まるで現実の世界から、静謐な祈りの聖域へと足を踏み入れる瞬間の 高揚感を閉じ込めたかのごとくに。・光と影のコントラスト 木漏れ日が石畳に描く斑模様と、両脇に整えられた苔や植栽の深い緑。 頭上の燃えるような赤との対比が、秋の午後の穏やかな空気感と、古刹(こさつ)ならではの 品格を物語っていたのであった。・光を透かす「紅葉の羽衣」 ズームされた視界いっぱいに広がるのは、陽光をいっぱいに浴びて輝く楓の葉。 重なり合う葉の一枚一枚が、ステンドグラスのように光を透過させ、参道を温かな 赤の輝きで満たしていた。・空の青と紅葉のコントラスト 燃えるような緋色の隙間から、わずかにのぞく冬枯れ前の澄んだ青空。 その補色の対比が、紅葉の鮮やかさをいっそう瑞々しく引き立てていた。・静寂を歩む、心洗われる道 まっすぐに伸びる石畳は、紅葉の屋根に守られた静かなトンネル。 先ほどの「知足」の教えを胸に、この美しい瞬間にただ身を委ねる贅沢さが、この一枚に 凝縮されているのであった。参道を歩きながら、見事な紅葉をズームして。紅葉の万華鏡を覗いているかのごとき光景が続く。「千寿桜」。「千寿桜天正十九年夏日 徳川家康公御手植」と。「山門」を振り返る。午後3時前の逆光にモモジ葉が輝く。ズームして。参道右側。石畳の参道を包み込むように広がる紅葉のアーチをさらに進む。「言葉はいらない!!」絶景が続く。そして参道の途中にある石段前から「中雀門」が見えて来た。石段を上って「中雀門」への参道を見る。 右手にあったのが「不動殿」。再び山門方向を振り返って。獅子像(右・阿形)。近づいて。獅子像(左・吽形)。近づいて。大型の青銅製灯籠(右)。大型の青銅製灯籠(左)。「不動殿」を正面から。 「葛龍池不動尊」碑と。「本堂」の北側、「鶴夢堂」の東側に「葛龍(ヶ)池」があるようだが、許可なしでは入れないようであった。見事な彫刻の「常香炉」。扁額「不動殿」。 「不動殿」の内陣。「不動殿」には「不動明王像」、「大黒天像」、「愛染明王像」を安置。中央に「不動明王像」。右手に「大黒天像」。左手に「愛染明王像」。見事な「天蓋」。ズームして。鐘楼を見る。ズームして。 ・・・つづく・・・
2026.01.08
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次々に選手が「遊行寺坂」を懸命に上って来た。ユニークな形状の車両。電気自動車であろうか?トヨタの「e-Palette(イー・パレット)」系EVと。この第102回箱根駅伝にて、医務車および緊急対応車として導入された。今大会では全40台の運営車両が電動化(BEV/FCEV/HEV)されており、e-Paletteはその一翼を担っているのだ と。12位 東海大学 ロホマンシュモン選手01:05:05 区間 10 位。東海大学 伴走車(運営管理者)。OP位 関東学生連合 横尾 皓 選手01:05:28 区間 OP位。13位 東洋大学 網本佳悟 選手 シャッターが間に合いませんでした。01:05:53 区間 11 位。ネットから。14位 神奈川大学 遠藤優裕選手01:06:48 区間 19 位。神奈川大学 伴走車。関東学生連合チーム 伴走車。15位 東京国際大学 前田寛明 選手 01:04:55 区間 8位。16位 日本体育大学 吉田黎大 選手01:05:20 区間 12位東洋大学 伴走車。東京国際大学 伴走車。日本体育大学 伴走車。17位 山梨学院大学 松岡一星 選手01:05:01 区間 9位。山梨学院大学 伴走車。18位 立教大学 山下翔吾 選手01:06:54 区間 20位。立教大学 伴走車。19位 東京農業大学 菅原匠人 選手01:05:55 区間 15位。東京農業大学 伴走車。20位 大東文化大学 照井海翔 選手01:06:44 区間 17位。大東文化大学 伴走車。そして「医務車」。 最後に「C」の文字のパトカー。「C」は競技管理・審判用(Competition)の意か?それとも規制解除車 "Clear / Closed"。「規制解除の合図」になる車。戸塚中継所に首位の青学大の塩出翔太(4年)が1時間3分46秒の区間新でたすきリレー。最古の区間記録を3秒更新した。2位の国学院大・飯国新太(2年)は1分44秒差でたすきをつないだ。首位との差は16秒開いた。3位は中大で3分14秒差に開いた。4位早大、5位順大。順大の永原颯磨(2年)は1時間4分4秒で、従来の区間記録をやや下回った。6位城西大、7位駒大。駒大の山川拓馬(4年)は区間4位。塩出から49秒遅いタイムで、首位との差は6分5秒に広がったのであった。そして箱根駅伝・復路の観戦を終え帰路に。バスの時間が迫っていたので、遊行寺の墓地内を歩いてショートカット。慣れ親しんだ文字が刻まれた墓石を発見。そしてバス停「遊行寺前」に1分前に到着。 バス停の前、向かいにあったのが「旧・桔梗屋の文庫蔵・店蔵・主屋」。 旧桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家であり、市内に現存する唯一の店蔵及び江戸時代末期の文庫蔵を含む3棟が国登録有形文化財の登録を受け、旧宿場町の雰囲気を伝えているのであった。藤沢宿の歴史・文化を継承するとともに、地域の活力やにぎわいの創出を図るため、令和2年(2020年)10月、旧桔梗屋を取得。この旧東海道に面するシンボル的な建物を保全していくとともに、魅力ある活用の実現を目指しているとのこと。そして帰宅して、9区~10区をテレビ観戦。復路(箱根・芦ノ湖駐車場入り口~東京・大手町の読売新聞東京本社前)が行われ、 青山学院大 が盤石のレースで首位を終始守り抜き、3年連続9度目の総合優勝を果たしたのであった。3連覇以上を2度成し遂げるのは史上初なのであった。復路も青学大が優勝、そして青学大と國學院大學が復路新記録!!も樹立。指を立ててゴール地点へ向かう青学大アンカーの折田壮太選手右手は3連覇を示していた。そしてゴールの瞬間、両手を広げ、右手は3本、左手は4本を示した折田選手。「SNSでは、手がかじかんで3が4になってしまったのではないかと言われていますが違います」と、きっぱり否定している と。「3は3連覇で、4は来年4連覇を目指すことを示しています」と語った後に「足して7。昨年亡くなった皆渡星七(みなわたり・せな)さんのためのものです」と明かしたのであった。皆渡星七さんは2024年の箱根駅伝では、16人の登録メンバーに入るほどの実力者だったが、2024年11月に悪性リンパ腫と診断され、翌2025年の前回大会でチームが2連覇を果たした1か月半後の2月19日に急逝されたのだと。母校・早稲田大アンカーの瀬間元輔選手(群馬・農大二高出身)が総合4位でゴール。 復路成績 109.6km。6区~10区の数字は復路での順位。復路3位からスタートした青学大は9区で首位を奪還しゴールしたのであった。復路の総合順位の変動。往路でまさかの17位に沈んだ帝京大が、復路で9位に滑り込み大逆転でシード権を獲得した。「日本一あきらめの悪いチーム」は最終10区をシード圏内10位と13秒差でスタート。競り合う相手が見えない難しい状況ながら鎗田大輝(4年)は“タイムの壁”を追い、13・3キロ地点の新八ツ山橋までに9位へ浮上。復路5区間全員が区間7位以内で走り、復路だけなら5位の5時間22分50秒で駆け抜けたのであった。帝京大は復路で巻き返し総合9位てシード権獲得。2日の往路では、2区終わりて20位と低迷。苦しいスタートとなったが、3区の島田晃希選手(4年)が区間5位のカ走て流れを変えた。3日の復路をシード権ライン10位と4分15秒差の17位で迎えると、じわじわ順位を上げて、9区終了時では10位の中央学院大学と13秒差。実に4分もの差を巻き返した。チームは復路一斉スタートをしているため、この時点て走行順では9番手。すでに9位の日本大学、10位の中央学院大学を抜いており、10区では見えない敵との勝負となっていた。10区を託された鎗田大輝選手(4年)は、13.3キロ地点の新八ツ山橋で日本大学と中央学院大学の総合タイムを抜いて、9位に浮上。そのままフィニッシュ後、約2分、2校の結果を待ち、総合9位が確定。大逆転て3年連続のシード権をつかんだのだ。"世界一諦めが悪いチーム"を掲げる帝京大学。それを体現する見事な巻き返しであった。また日本大学が10位で12年ふりシード権を獲得。11位の中央学院大学は予選会に回ることとなったのであった。シード権を獲得してゴールする帝京大・鎗田大輝選手(4年)。★「総合成績」。青山学院大学は往路、復路も優勝し完全総合優勝を勝ち取ったのあった。國學院大學も、青木瑠郁(健大高崎高出身)が1区区間賞を獲得しいずれも2位となったが、往路、復路、総合でも区間新であった。帰山侑大(樹徳高出身)が3区2位の駒沢大は6位だった。3連覇の青学大・原晋監督「300%輝きました」と9度胴上げされ単独最多優勝監督に。原晋監督は、この日の夜のテレビインタビューで頑張った4年生に海外旅行をプレゼントしたい と語ったのであった。そして驚異的な区間新記録でチームをけん引したキャプテン黒田選手も3回宙を舞った。往路では1区で16位と苦しいスタートも徐々に順位を上げ、5区でエース黒田朝日(4年)が大逆転の激走。昨年、若林宏樹がマークした区間記録(1時間09分11秒)を1分55秒上回る衝撃の区間新(1時間07分16秒)を記録。さらに5時間18分08秒で往路新記録も叩きだした。復路では8区の塩出翔太(4年)が区間新(1時間03分46秒)をマーク、続く9区の佐藤有一(4年)が区間賞(1時間07分38秒)を獲得するなど一度もトップを譲らず。最後はアンカー・折田壮太(2年)がチームメイトの待つ大手町を駆け抜け、歓喜のフィニッシュテープを切った。★「区間賞」 1、2、5、8、10区で区間新記録を樹立。★青学大・黒田朝日選手に金栗杯&大会MVP…青学勢が2年連続ダブル受賞5区で1時間7分16秒の圧倒的な区間新記録をマークしたのであった。記録を大きく更新した新記録についても「もうここは声を大にして言いたいと思います。僕が『新・山の神』です!」と宣言したのであった。今年の「箱根駅伝」👈️リンク を1月2日・往路、そして1月3日・復路を両日、3区&8区の「藤沢橋」近くで観戦したのであった。最後に正月の箱根駅伝が日本人に特に人気がある理由を、文化的・感情的背景も含めて箇条書きで整理してみた。■正月行事として完全に定着している。 ・1月2日・3日という正月休みの真っただ中に開催され、家族でテレビを見る習慣と 結びついている ・「おせち・こたつ?・箱根駅伝」という正月の風景の一部になっている。■日本人の価値観に合うスポーツ ・個人とチームの両立 ・1人1区間を全力で走りつつ、「襷(たすき)」で仲間につなぐ ・努力・忍耐・継続といった、日本人が共感しやすい美徳が強調される■大学生という「身近な存在」 ・プロ選手ではなく普通の大学生が主役 ・無名選手が主将区間や山登りで活躍するなど、成長物語に共感しやすい■コースが象徴的でドラマ性が高い ・遊行寺坂・権太坂・箱根の山登り(5区)など、難所がはっきりしている ・特に5区・6区は ・「登り」「下り」という自然条件 ・技術・精神力・体力が試される ・毎年、予想外の展開や逆転劇が生まれやすい■テレビ中継の完成度が高い ・半世紀以上続く放送ノウハウ ・選手の表情・襷リレー・監督や家族の想いを丁寧に描く演出 ・沿道の風景(富士山、湘南海岸、箱根の街並み)が正月らしさを演出■母校・地元への思い ・出身校を応援する「母校意識」 ・地元を通過する区間(藤沢・平塚・小田原など)への親近感 ・OB・OG、地域が一体となる応援文化■長い歴史と継続性 ・1920年(大正9年)から続く100年以上の歴史 ・戦争・災害を乗り越えて続いてきた「継承される物語」 ・世代を超えて語れる共通体験■日本独自のスポーツ文化 ・世界的にも珍しい「正月に全国が注目する大学駅伝」 ・勝敗だけでなく ・襷 ・区間賞 ・繰り上げスタート など、独特の制度が感情移入を生む 一言で言えば「一年の始まりに、努力・絆・再出発を重ねて見ることができる国民的物語・ヒューマンドラマ」なのである。昔、外国人(ヨーロッパ)で仕事の関連で、長年日本に住んでいた方と話をした時に箱根駅伝について不思議がっていたことを思い出したのである。外国人(特に欧米圏)から見ると、箱根駅伝は次の点がとても不思議に映るのだ と。・なぜ大学生の大会が“国民的行事”なのか ・多くの国では大学スポーツはローカルな存在 ・正月に100万人近くの沿道観戦そして全国放送・高視聴率という規模は極めて異例・勝者より「襷をつなぐ行為」が称賛される ・最下位でも、倒れそうになりながら襷を渡す姿に拍手が起きる ・欧米スポーツの「勝者中心主義」と大きく異なる・なぜ走るのに“山を登らせる”のか ・人為的に作られた過酷さではなく、自然地形をそのまま競技に組み込む ・「不公平では?」という疑問がまず出る・涙・無言・沈黙のシーンが美談になる ・インタビューで饒舌に語らない ・うなずき、涙、深い一礼だけで感動が成立する▶ 外国人の率直な感想「これはスポーツというより、年に一度の日本人の“儀式”に見える」と。そして箱根駅伝は、日本人の精神文化を非常に濃く反映していると感じるのである。・襷(たすき)の思想 ・襷は「道具」ではなく、想い、責任、歴史を背負う象徴 → 個人の栄光より「預かったものを次へ渡す」ことが最優先!!・自己犠牲と役割意識 ・速い選手が必ずしも主役ではない!! ・チームのために ・不利な区間 ・目立たない役割 を引き受けることが尊ばれる → 日本の会社・地域・家族社会と同型!!・無常観と再出発 ・正月=「始まり」の時期 ・昨年の失敗、悔しさを背負いながら走る ・ゴール後、すぐに「次の一年」が始まる → 仏教的な無常・精進・再生!!・「美しい負け」の肯定 ・勝てなくても ・全力を尽くす ・襷をつなぐ ・礼を尽くす 姿が評価される → 勝敗より「在り方」を見る文化!!まとめ(核心)・外国人には 「競技に見えないほど精神性が強い」・5区は 「速さより生き様が出る場所」・箱根駅伝は 「走ることで日本人が自分たちの価値観を確認する年中行事」!! ・・・もどる・・・ ・・・GOAL・・・
2026.01.07
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この日は1月3日(土)、前日と同様にバスに乗り、第102回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝) 復路の観戦に向かう。道路脇にあった「交通規制」案内表示。 藤沢橋交差点を左折して、観戦場所の遊行寺坂に向かって進む。遊行寺の境内への車両入口前を通過し、急な坂道を上って行った。しかし、既に例年の観戦場所は、数校の出場大学の応援団が陣取っており、空いた場所はなかったので、更に坂を上り、何とか応援場所を確保。日本テレビの中継用固定カメラの場所から、50mほど戸塚方面にさらに坂を上った場所。固定カメラをズームして。この日の復路のエントリー表。朱記は、この日の朝にエントリー変更になった選手。各大学とも2~3選手が変更になっているが、首位の青山学院大学とオープン参加の関東学生連合のみが変更がなく、青山学院大学の選手層の充実を実感できるのであった、この日の復路のコースマップ。・6区:箱根・芦ノ湖~小田原 20.8km(山下り)・7区:小田原~平塚 21.3km(海風が特徴)・8区:平塚~戸塚 21.4km(遊行寺坂が難所)・9区:戸塚~鶴見 23.1km(復路最長区間、権太坂が難所)・10区:鶴見~大手町 23.0km(最終区間、ビル風が特徴)第102回箱根駅伝・復路6区 復路スタート 箱根・芦ノ湖駐車場入口~小田原中継所20.8kmそして8:00に首位の青山学院大学・石川浩輝選手(1年)がスタート。青学大・石川浩輝選手(1年)がトップでスタートし、早大・山﨑一吹選手(3年)らが追いかける展開。序盤は國學院大・後村光星選手(3年)が中大を捕らえて3位に浮上し、トップとの差を詰めていくものの、再び中大に追いつかれて2人で前を追って行く。後方では駒大・伊藤蒼唯選手(4年)が6位に順位を上げて、小涌園前(9.1km)で青学大との差を40秒ほど縮める。伊藤は区間記録を上回る快調なペースで飛ばしていった。青学大と早大の差はじわじわと広がり、3位争いでは國學院大が後退する。石川の脚は鈍らず、歴代4位の57分16秒。早大が1分33秒差の2位、中大が1分57秒差の3位、國學院大が4位で続いた。城西大が5位、伊藤が歴代3位と好走した駒大が6位となった。創価大の小池莉希選手(3年)が区間記録に1秒まで迫る56分48秒の力走。12年ぶりのシードを狙う日大が9位、中央学大が10位、11位の神奈川大が52秒差の11位とシード争いも熾烈になったのであった。母校・早大が1分33秒差の2位で7区へ。そして私がこの日に観戦する8区コースマップ。遊行寺坂の上りの勾配が激しいことが理解できるのであった。8区は距離21.4km。追い風が吹くと選手と追い風が同じスピードになって無風の中走ることとなり、体感温度がさらに上がって選手たちの体力を奪う。湘南新道に入ってからの、アップダウンを含む9kmにわたる上り坂が、上昇する気温とともにボディーブローのように選手を苦しめるのだ と。11:15過ぎ、ようやくパトカー、白バイの通過が始まった。「大会会長車」が通過。トヨタ・センチュリーFCEV。色が見事!!FCEV(Fuel Cell Electric Vehicle)は燃料電池自動車の略で、水素と酸素の化学反応で発電し、その電気でモーターを動かすタイプの電気自動車(EV)。外部からの充電は不要で、水素を充填する形式(給油に似ている)で、走行中に排出するのは水のみでCO2(二酸化炭素)を出さない点が特徴。トヨタの「クラウン FCEV」やホンダの「CR-V e:FCEV」などがあるのだ。 対向車線には賑やかな車が渋滞の列に。秋田ナンバーの車であったが。そして白バイが通過。私が陣取った場所は、民家の車庫の前近くであったのでガードレールのない場所。関係者車両の方から、選手が、白線近くを走るので、もう一歩下がってくださいと。そして「規」と書かれたプレートを掲げたパトカーが通過。 右上の仮設足場の上の黄色のゼッケンの方が遊行寺・固定カメラのカメラマン。そして選手が遊行寺坂の下に現れるのを今や遅しと待つ。「テレビ中継車1」が近づいて来た。 共同カメラ車。ダークグリーン(濃緑色)のユニフォームの選手の姿が見えて来た。1位 青山学院大学 塩出 翔太 選手1:03:45 区間新記録 区間 1位。応援の人の数が多く、この場所は、ガードレールがない場所であったので、前方の観戦客が前に出てしまうので撮影に苦心した。ネットから。青山学院大学 伴走車(運営管理車、以下同様)。ノア・ヴォクシーのハイブリッド車(HEV)。燃料は、福島で栽培した「ソルガム」を原料とするエタノールを配合した低炭素ガソリン「E10」で、こちらもCO2削減に一役買っている と。原監督の姿が。「大会本部車」。これもトヨタ・センチュリーFCEV。本大会の提供車両一覧(トヨタ車)。次々と。上空にはヘリコプターが。2位の選手が現れた。2位 國學院大學 飯國 新太 選手1:04:01 区間 2位ネットから。國學院大學 伴走車。テレビオートバイ1。3位 中央大学 佐藤 大介 選手1:04:34 区間 4位。ネットから。中央大学 伴走車。テレビオートバイ2。テレビ中継車2。4位 早稲田大学 堀野 正太 選手1:06:09 区間 16 位テレビ画面から。早稲田大学 伴走車。先導の白バイ。5位 順天堂大学 永原 颯磨 選手1:04:04 区間 3 位。順天堂大学 伴走車。6位 城西大学 小田 伊織 選手1:05:26 区間 13位。城西大学 伴走車。ラジオ放送車。7位 駒澤大学 山川 拓馬 選手1:04:34 区間 4 位。駒澤大学 伴走車。白バイ。緊急対応車①。「緊急対応車」として走るのは昨年9月に発売されたばかりの電気自動車の「e-palette」。「緊急対応車」の役割で選手たちと一緒に走っていたのが4台のBEVモデル「eパレット」。公道を走るその様はある種特有で、沿道のみなさんから「何? あのクルマ」と大注目を浴びていた。トヨタ・クラウンFCEVより目立つ存在であった!!8位 創価大学 衣川 勇太 選手1:05:14 区間 11位 。創価大学 伴走車。9位 日本大学 山口 月暉 選手1:06:46 区間 18 位。日本大学 伴走車。テレビオートバイ。10位 中央学院大学 黒谷 優 選手1:04:52 区間 7位。11位 帝京大学 松井 一 選手1:04:34 区間 4位。帝京大学 伴走車。中央学院大学 伴走車。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.07
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14位 神奈川大学 新妻 玲旺 選手1時間03分12秒 区間 17位 伴走車が続く。運営管理車 関東学生連合チーム。神奈川大学 伴走車 。日本体育大学 伴走車。緊急対応車 2。さらに選手が続く。15位 東京国際大学 菅野 裕二郎 選手1時間02分07秒 区間 11位東京国際大学 伴走車。16位 東海大学 草刈 恭弓 選手1時間02分28秒 区間 13位東海大学 伴走車。下位も混戦模様。17位 東洋大学 迎 暖人 選手1時間02分06秒 区間 10位東洋大学 伴走車18位 大東文化大学 菅﨑 大翔 選手1時間04分11秒 区間 20位大東文化大学 伴走車。19位 立教大学 原田 颯大 選手1時間02分56秒 区間 15位立教大学 伴走車。そして最終ランナーの姿が現れた。20位 帝京大学 島田 晃希 選手1時間01分44秒 区間 5位帝京大学 伴走車。医務車が続く。そして白バイ、パトカーが続く。「C」の文字のパトカー。「C」は競技管理・審判用(Competition)の意か?それともClosed? 「規制解除の合図」になる車?その後を追うバイク、自転車。3区の選手別個人成績。3区→4区への平塚中継点での「区間1位との差」が表の右に。 そして21チームの全ての選手の第3区での観戦を終える。観戦場所の後ろにあったスーパー三和 藤沢橋店の仮設店頭販売コーナー。藤沢橋まで戻り横断歩道を渡る。帰宅用のバスの時間までまだまだあるので、「白旗神社」まで歩くこととする。年末に2回続けて訪ねた「遊行寺」の「惣門」前を通過。 駅伝観戦帰りの参拝客でごった返していた。そして我が実家の菩提寺「日蓮宗 妙善寺」。 そして来月2月、白内障の手術で入院予定の「藤沢市民病院」。 入口の少女像・「真心」と。 そして「白旗神社」に到着。 参拝を待つ初詣客の長蛇の列が。老舗・古美根で塩豆大福を購入。およそ100年前、古美根菓子舗がまだ小峰菓子店だったころ。初めて和菓子屋として出した御菓子がこの塩豆大福であると。塩豆大福。その後「白旗神社前」バス停でバスに乗り帰宅したのであった。途中、実家に立ち寄り新年の挨拶を。そして第5区・箱根山登りの往路最終区をテレビ観戦。出遅れた青山学院大学は、平松享祐(3年・中部大第一)選手の激走で8位から5位に順位を押し上げて5区の山登りのエースの黒田朝日主将(4年・玉野光南)に襷を渡したのであった。小田原中継所で1位の中央大学と01:12差の2位で襷を繋ぎ、猛追する早稲田・工藤慎作選手。第5区箱根の山登りのコース案内をネットから。第5区の基本データ・距離:約20.8km・高低差:約700m・特徴:長い持続的上り、気温低下、風の影響① 小田原中継所(標高約10m)ここから山登りが始まります。市街地を抜け、国道1号へ。序盤は緩やかですが、先を見据えたペース配分が重要。② 風祭・入生田(箱根湯本方面)徐々に勾配が増し、箱根らしい山道へ。観光地沿いで声援が多く、リズムを崩さない走りが求められます。③ 宮ノ下(標高約400m)本格的な上りに突入。旧道区間はカーブが連続し、視界が切り替わるたびに勾配の変化を感じます。④ 小涌谷〜大平台(つづら折れ)箱根旧街道の連続ヘアピン(つづら折れ)。体感勾配がきつく、呼吸と腕振りの技術が勝負を分ける名所です。⑤ 元箱根・芦ノ湖へ(標高約725m)最終盤は湖畔へ向けての上り。ゴール直前まで勾配が続き、精神力と経験値がものを言います。弟の然(2年)から給水を受ける青学大の黒田朝日選手、15.8km付近 をネットから。前方に迫った早稲田の工藤選手を抜けることを確信した黒田朝日選手は、早大の監督車を追い抜く際、助手席にいる早大・花田勝彦監督に向かって大胆にもガッツポーズしたのであった。そして母校早大・工藤慎作選手を抜き、力走する青学大・黒田朝日選手(19.26km付近)。抜き去って、引き離しにかかる黒田朝日選手(19.36km付近)。。そして区間新記録で往路優勝のゴールテープをきる切る青学大5区・黒田朝日選手。昨年、先輩・若林宏樹がマークした区間記録(1時間09分11秒)を1分55秒上回る1時間07分16秒の区間新でフィニッシュ。「今年は箱根の山に朝日が上りました」と。 惜しくも18秒差の2位でゴールする早稲田・工藤慎作選手選手。★往路総合順位。★往路順位の推移。★各区間賞。★そして翌日の復路のスタート時刻。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.06
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この日は2026年1月2日(金)、今年も「第102回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)往路」の応援に藤沢橋にバスで向かう。「箱根駅伝」は関東学生陸上競技連盟加盟大学のうち、前年大会でシード権を獲得した上位10校と、10月の予選会を通過した10校、および関東学生連合を加えた合計21チームが出場。関東学生連合チームは予選会を通過しなかった大学の記録上位者から選ばれる(1校1人まで。タイムは参考扱い)。日本テレビのポスター。今年・2026年の出場校は以下の通り。シード校 10校+予選通過校 10校+関東学生連合=合計21校関東学生連合は予選会総合11位から20位の大学に1枠ずつ権利が付与される「チーム枠10名」と、予選会総合21位以下の大学所属選手で個人順位上位者から選出される「個人枠6名」の合計16名となった。実力が増したチームで箱根路を1本の襷でつなぐ。コースと距離。東京・読売新聞社前~箱根・芦ノ湖間を合計10区間(217.1Km)で競う、学生長距離界最長の駅伝競走。コースは国道1号線、東京都千代田区大手町・読売新聞東京本社ビル前 から、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町・芦ノ湖までの往復で、往路107.5km、復路109.6km、計217.1km。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。主に通過する路線名称は日比谷通り、国道15号、国道1号、国道134号などである。「箱根駅伝コースマップ」往路:107.5km 1区 21.3 km 2区 23.1 km 3区 21.4 km 4区 20.9 km 5区 20.8 km 復路:109.6km 6区 20.8 km 7区 21.3 km 8区 21.4 km 9区 23.1 km10区 23.0 km往路1区・復路10区と往路4区と復路7区は、それぞれ途中のコースが少し異なるのである。往路5区間(107.5km)のコース。 1区 21.3 km 2区 23.1 km 3区 21.4 km 4区 20.9 km 5区 20.8 km 私が応援するのは3区・戸塚~平塚間(21.4km)の藤沢橋付近(≒7.8km)。自宅を9時に出て藤沢行きのバスで遊行寺前で下車。今年も多少時間があったので「藤沢市ふじさわ宿交流館」に立ち寄りトイレを利用。出場校の旗が並ぶ。我が母校の旗も。「藤沢市ふじさわ宿交流館」内には、毎年テレビ観戦できるコーナーが設置されているのだ。そして藤沢橋から平塚方面に下った「スーパー三和 藤沢橋店」前に陣取って選手の到着を待った。3区のコース。箱根駅伝3区(21.4Km戸塚~平塚)は戸塚の丘陵地帯から藤沢市内を抜け、湘南の海岸沿いを走るコース。つなぎとして新人を走らせることもあったが、近年、後半のレースを左右することもあって、エース級や、 留学生を投入してくるチームも少なくない。コースのポイントは、前半5Km過ぎからの、遊行寺の急下り坂。「技術総務車」が通過。 神奈川県警の白バイが通過。道路沿いのお宅の2階からオバアチャンが観戦。パトカーが通過。住宅の屋上から観戦する御夫婦。「規」と書かれたプレートを付けたパトカー。「規」の意味「規」= 規制(きせい)通常のパトロールではなく、・行事・行列・パレード・要人通過、・初詣・祭礼・大規模イベントなどに伴う 一時的な交通統制 を行っている車両につけられます。役割としては・先頭に立って進行を管理する・交差点や進路で一般車両を止める・後続の隊列・人流を安全に通す ・「いま通常の交通ではない」ことを周囲に明確に知らせるつまりこのパトカーは取り締まり役ではなく、進行を整える役、すなわち車両規制開始の合図である と。後方に「第1テレビ中継車」の姿が現れた。近づいて来た。2台の白バイが先頭の選手を先導。一定の速度で長時間走り続ける白バイ。こちらも見事な職人技。1位・城西大学 小林 竜輝 選手 2年。1時間01分49秒 区間6位城西大学の伴走車。「伴走車」は以前の呼び名で、現在は「運営管理車」と呼ばれ、箱根駅伝などで監督やコーチが乗り込み、拡声器で選手に声援や指示を送る役割を担っていますが、声かけのポイントや時間、走行ルールが厳しく定められており、プロドライバーが運転する車両は自動車メーカーから提供されている と。運営管理車の主な役割と特徴・役割: 監督・コーチが同乗し、決められた地点(残り3km, 1kmなど)で 「声かけポイント」として1分程度、選手に声援や指示を送る。・同乗者: 監督のほか、チームの主務(補助員)、競技運営委員、走路管理員が同乗する。・車両: 協賛の自動車メーカー(トヨタなど)から提供され、チームカラーに合わせた ラッピングが施され、トヨタノア/ヴォクシーなどが使用される。・運転手: トヨタドライビングスクールの教官など、プロのドライバーが担当し、選手との 距離を保ちながら平均20km/h程度の低速で走行する。・運用ルール: 選手の走行を妨げないよう、他の運営管理車との円滑な順番交代も求められる など、厳格なルールがある「本部車」。 2位 中央大学 本間 颯 選手1時間00分08秒 区間1位「ラジオ放送車」。 中央大学 伴走車(運営管理車 以下同じ)。「テレビオートバイ」。 3位 駒澤大学 帰山 侑大 選手1時間00分51秒 区間2位次に「W」の文字の選手が。 4位 早稲田大学 山口 竣平選手1時間01分54秒 区間8位駒澤大学 伴走車。早稲田大学 伴走車。テレビ オートバイ。緊急対応車①。電気自動車であった。テレビ中継車。5位 国学院大学 占部 大和 選手。1時間01分22秒 区間 18位國學院大學 伴走車。次々と選手の姿が。6位 山梨学院大学 占部 大和 選手1時間03分26 区間 18位山梨学院大学 伴走車。7位 創価大学 織橋 巧 選手 1時間02分04秒 区間 9位8位 順天堂大学 井上 朋哉 選手1時間01分33秒 区間 4位創価大学 伴走車。テレビ オートバイ。9位 日本大学 冨田 悠晟 選手1時間02分30秒 区間 14位 10位 青山学院大学 宇田川 瞬矢 選手 1時間01分51秒 区間 7位11位 東京農業大学 原田 洋輔 選手1時間02分24秒 区間 12位日本大学 伴走車。順天堂大学 伴走車。東京農業大学 伴走車。12位 中央学院大学 坂本 駿 選手1時間03分07秒 区間 16位中央学院大学 伴走車。2選手が競う。OP位 関東学生連合(法政大学) 大島 史也 選手1時間03分21秒 区間 OP位13位 日本体育大学 荻野 桂輔 選手1時間03分37秒 区間 19位 ・・・つづく・・・
2026.01.06
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小田急線で地元の駅まで戻り、駅前駐輪場に預けていた自転車で地元の神社へ初詣に向かう。石鳥居前から神社境内を望む。神社の名は「亀井神社」。この隣にあるのが、我が母校・六会小学校。所在地:藤沢市亀井野553−5。石鳥居の扁額「龜井神社」。扁額にある「龜」は「亀」の異字体。 「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。「お焚き上げ場」に昨年の「破魔矢」を納めました。拝殿に向かって進む。時間は8:30過ぎ。まだ初詣客の姿は少なかった。「御由緒不動ヶ谷の先住氏族はこの地に定住すると農地の開拓にのりだした そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた 即ち不動の森を霊山ときめ法華の教えを信じた 當時の信仰の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った これが不動様の初めである(天正十八年 1590年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた 私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる 祭神天軻句突知命(火の神様)當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし□にして天正十八年堂宇建立宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳ふ 大正十二年大震災により社殿鳥居等倒壊せしを後日氏子中にて再建す 平 成 五 年 六 月 之 建」 「手水場」。拝殿への石段を上る。日本国国旗が棚引いていた。昨年のアイルランド・ロンドンの旅でも感じたのは、なぜ日本はふだんでも国旗を屋外に掲揚しないのかということ。ネットでAIに尋ねると、下記のような回答が。・日本で国旗を日常的に掲げないのは、かつては祝日に掲げる文化(「旗日」)が根付いて いたものの、戦後の一時期に掲揚が制限されたことや、国民性の「控えめさ」「和」を 重んじる風潮、政治的・歴史的背景から「特別なもの」として捉えられるようになった ためで、海外の多くのように「日常的に国をアピールする」という感覚が薄れたことが 理由です。 主な理由1.歴史的背景と制限:第二次世界大戦後、占領下での国旗掲揚の制限(沖縄など)や、戦後の 復興期に「日の丸」が特定の思想と結びつけられやすかったことから、一般家庭での 掲揚が減りました。2.国民性・文化:日本には「控えめ」を美徳とする文化や、「和」を重んじる意識が強く、 国旗を大々的に掲げることに抵抗感を持つ人が多いです。海外のように「国を誇示する」と いうより、「神聖で特別なもの」として捉える傾向があります。3.「旗日」文化の衰退:かつては祝日に国旗を掲げる「旗日」という習慣がありましたが、 現代ではその言葉自体を知らない人も増え、祝日でも掲揚しない家庭が増えました。4.公共の場での扱い:国旗掲揚は「祝日」や「公式行事」など、特定の機会に限定される 傾向が強く、学校や公共施設でも、掲揚はするものの日常的に家々で掲げられることは 稀です。 海外との比較・アメリカなど:日常的に国旗(星条旗)を家や店先に掲げ、愛国心や国民の一体感を 表現する文化が根付いています。・日本:国旗は「日章旗(にっしょうき)」と呼ばれ、特別な意味を持つ一方で、あえて 普段から掲げないことで、かえってその神聖さを保つという考え方もあります。近年では、祝日に国旗を掲揚する家庭を増やそうという動きや、「もっと国旗に親しもう」という意識も一部で見られますが、海外のように「日常の風景」として国旗が溢れることは、文化的な背景から難しいとされています と。拝殿に参拝。亀井神社のご祭神は「天軻句突知命(アメノカグツチノミコト)」、火の神様で、源義経の四天王の一人、亀井六郎重清が崇敬したと伝えられています。亀井重清は、最期の戦い・衣川の戦いで奮戦したという記録が残されています。この神社のある亀井野の地名は、亀井神社に由来すると言われています と。扁額「亀井神社」。社殿に向かって左側にあった「経塚」。そして巨大な石碑。「関東大震災 伝承之碑」と。石碑の全面に文字が刻まれていた。ネットに下記のページがあった。「大震災復興記念碑嗚呼、大正十二年九月一日午前十一時五十八分、冥天(びんてん)何ノ□情ゾ、此日此時、有史未曾有ノ大震火災ニ遭遇ス。天地鳴動□、震源地ハ伊豆大島ノ東方四十五里ノ海底ニシテ、帝都ヲ囲ム東京、神奈川、静岡、千葉、埼玉ノ一府四縣ニ及ビ、其死者三十萬、負傷者百余萬、家屋被害五十萬戸、損害額実ニ一日十五億、人類史上悲絶凄絶、空前ノ大惨事タリ。當時摂政デアラセラレタ今上陛下ニハ、畏(かしこ)クモ御内帑金(ごないどきん)一千萬円ヲ御下賜ニ相成り、山本新内閣非常徴発令ヲ布キ、金九百三十萬円ヲ救護費ニ宛テ、戒厳令、暴利取締令等三大緊急勅令ヲ布キ、罹災民ヲ救護セリ。當時亀井野ハ総戸数ハ百八十戸、全潰(ぜんかい)家屋百十三戸、半潰家屋六十七戸、死者十四名、負傷者百余名、神社佛閣ヲ始メ殆ド全滅ス。茲(ここ)ニ於テ、百七十四名ノ氏子協力ニヨリ、大正十四年十月神社再築ニ着手シ、本殿奥行九尺間口九尺、拝殿奥行二間、間口三間、其他鳥居石垣等、総工費五千三百円ヲ以テ、大正十五年四月落成ス。爾来(じらい)、辛苦粒々、十有余年、茲ニ漸ク復興ス。斯ノ苦シキ試練ハ、人ヲ偉大ナラシメ、大災ノ人生ニ興フル教訓ノ深甚(しんじん)測リ難キモノ存ス。是ヲ永久ニ後世ニ傳フ。 昭和十年四月建之 長」 。意味は【大震災復興記念碑ああ、大正十二年(1923年)九月一日午前十一時五十八分、私たちはかつて例のない大地震に遭遇した。天地は鳴動し、震源地は伊豆大島の東方四十五里の海底であった。この地震は、帝都を囲む東京・神奈川・静岡・千葉・埼玉の一府四県に及び、死者は二十万人、負傷者は百万人余、家屋被害は五十万戸、損害額は実に一日あたり十五億円に達し、人類史上まれに見る、きわめて悲惨な大災害であった。まさに前例のない大惨事である。当時、摂政であられた今上陛下(昭和天皇)は、この事態を深くご憂慮され、勅令を発して五百三十万円を下賜し、罹災者救護の資金とされた。また、非常事態を宣言し、全国に戒厳令を施して救援と秩序回復に尽力された。このような状況のもと、官民協力して復興にあたり、大正十四年十月に神社の再建に着手した。本殿・幣殿・拝殿・鳥居などを整え、総工費五十三円をもって、大正十五年四月に竣工した。その後、幸いにも年月を経るごとに復興は進み、今日に至っている。この苦しい試練は、将来に向けた大きな進歩の糧となるであろう。大災害が人生に与える教訓は、実に深く重いものである。 昭和十年四月建立 長】であろう。境内を見下ろして。拝殿脇には「身代わり不動尊社」が。こちらの蟇股の彫刻も見事。扁額「不動明王」。「不動明王」と「地蔵さま」。「身代わり不動尊」と「社殿」を振り返る。赤い幟には「亀井神社 身代り不動尊」と。 参道には大きな石燈籠が。「身代り不動尊」への石鳥居。その先でおみくじを観る参拝者。「亀井神社 恒例祭事元旦祈祷祭 一月一日例大祭 八月風祭 九月一日不動明王祭 九月二十八日 宮司 嶽山 清」 「社務所」で亀井神社の地元の役員の方々に挨拶。今年も1500円の「破魔矢」を購入しました。 そして今年も「亀井神社」を後にし、もう一つの地元神社にも初詣に向かう。「地神社」案内板。「地神の森公園」内を徒歩で進む。 そして拝殿への参道を。正面に「石鳥居」そしてその先に「狛犬」、「社殿」が。所在地:藤沢市亀井野2丁目36−4。石鳥居を潜ると狛狗が。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「山之神」碑。 「山之神」の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。平成4年に新築整備された。明治の神社統合令で、亀井野南部山之神地区にあった「山神社」が、その場所に「鶴嶋天神社」が祀られた時、この地に移されて地神と合祀されたのだと。山之神社石廟と秋葉権現社石廟も祀られていた。質素な石灯籠と手水場。「地神社」碑。 比較的新しい狛犬の先に「社殿」。創建年代は不明となるが、寛政年間(1789年〜1800年)には、岡部庄九郎知行の内にて、山林安全、五穀成就を祈願したという。文政9年(1826年)には再建され、さらに安政年間(1854~60)、当地を知行していた旗本・岡部庄九郎が当社で山林安全、五穀成就を祈願しているとのこと。大正12年(1923年)9月1日関東大震災により社殿が倒潰し、大正15年(1926年)9月に再建されたとのこと。御祭神は「埴山比売神(はにやまひめ)」、田畑、土壌の神様であると。例祭は9月20日。「神明造り」の「地神社」、屋根の部分の「千木(ちぎ)」が、直角となった造りとなっていることが特徴。屋根の両端で交叉させた部材「千木」、屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材「鰹木(かつおぎ)」が確認できた。扁額「地神社」。 そして地元ニ社の初詣を済ませて、帰宅。亀井神社で購入した「破魔矢」。 今年の絵馬。早速、我が八畳の部屋にある神棚に奉納しました。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.01.05
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片瀬西浜海岸から片瀬魚港に上る石段の上にあったヤシの木。石段の前に立つヤシの木は、この朝の「栞(しおり)」のごとし。南国の記号としてではなく、港と浜をつなぐ境目に立ち、空を見上げる視線をそっと受け止めてくれていた。逆光の中、葉は鋭く、しかし騒がず、雲の端からこぼれる光を細く、細く、すくい取る。それは太陽を隠す影ではなく、光の行方を示す線なのであった。初日の出を追い、雲を見上げ、富士を仰ぎ、浜へ戻ってきたその最後に、残ったのはこの影の自撮り。主役は太陽でも、山でもなく、それを見に来た私・自分自身!?。朝の低い光がつくった影は、長く、静かで、少し誇張されている。しかし嘘はない自分の姿なのであった。「片瀬漁港」と。 「片瀬漁港」入口から江の島を見る。「片瀬こま」。 「片瀬こま昔から藤沢て遊ばれていたこまは大山こまと片瀬こまでした。大山こまと深い縁があリ江戸時代、人々は東海道藤沢宿から大山道を経て大山詣でのお土産として藤沢に伝わって来ました。大正ニ年(一九一三)箱根の挽物(ひきもの)職人が片瀬の親戚を頼り移住してきました。ろくろを使用するため、こま作りにもちょうど良く、そこて箱根の伝統技術と合致して出来たのが『片瀬こま』です。お一人て作っていたのでなかなか作ってもらえず当時の子どもたちにとって持っている子どもは英雄でした。片瀬こまの台は椿(つばき)、心棒には樫(かし)が使われ、非常に硬い木で作られており重量感のある硬い片瀬こまは「喧嘩こま」が強いと有名でした。昔は「祝いこま」とも言われ、片瀬地域では家を新築した時や、男の子が生まれた時など、縁起ものとしても贈られました。全国にこまは数多くありますが、地域の名前がついているこまは多くありません。湘南地域の伝統文化の継承のため、『片瀬こま』はみんなで大切に守っていきましよう。」片瀬漁港に停留された漁船群。片瀬漁港東・西プロムナードの先には、それぞれ小さな灯台が。そして奥には伊豆半島の姿も。西プロムナード・片瀬漁港白灯台。これは、以前に撮った写真です。東プロムナード・片瀬漁港赤灯台。これも、以前に撮った写真です。「海の詩」親松英治 作。鯛(たい)を抱えて逆さになった少年のポーズが躍動的。市内にアトリエを構える彫刻家、親松英治氏が制作し、片瀬漁港の整備記念に寄贈された と。あえて逆光で。陽は正面から像を照らさず、細部を奪い、輪郭だけを浮かび上がらせていた。筋肉も、表情も、年齢さえも、ここでは語られない。語られるのは、動きそのもの、生命の跳躍のみ。江の島を背景に。鯛の重みを抱えたまま、少年の身体は天と地を反転させ、脚は空を蹴り、腕は次の瞬間を探しに伸びる。そこに迷いはない。あるのは、海に身を預けた者だけが知る一気呵成の決断のみ。夕日の赤が、一日の終わりを告げる熱の帯だとすれば、この境川の河口に現れた白い帯は、始まりへ向かう静かな余韻であろうか。境川の穏やかな河口と江の島の姿。赤の帯は、空と雲を染め、感情を外へと押し広げる。燃え、滲み、やがて消えていく・・・別れを伴う光。それに対して、この水面に伸びる白い帯は、色を主張しないのであった。音もなく、ただ縦に、まっすぐ、視線をこちらへ引き寄せる。それは光が水に降りてきた痕跡であり、一日を閉じるのではなく、心を静めて整える光。光の帯は、最後に言葉をほどく。水面を貫いてきた白い道は、岸辺に届く直前で、一つひとつの点に分かれる。線であった光が、粒へ、呼吸へと還っていく瞬間。水面の細かなうねり一つひとつが、光を抱き、放し、また抱く。白は定着せず、瞬きとして生まれては消える。強く照らすものは、もうない。あるのは、揺れに応じて姿を変える受動の光。太陽は命じず、水が選び、その結果としてこの無数のきらめきが生まれているのであった。そして帰路に。龍宮城の如き小田急線・片瀬江ノ島駅。金の鯱(しゃち)ではなくイルカ。そして駅構内のクラゲ水槽。優美に泳ぐアカクラゲ (Chrysaora pacifica)。・半球状で黄褐色〜橙色がかった傘・非常に長く細い触手が多数伸びている・レース状に縮れた白い口腕(こうわん)が目立つ・全体に「流れるような優雅さ」があるこれらは、日本の水族館でもよく展示されるアカクラゲ(Chrysaora pacifica)の典型的な特徴。・長く伸びた赤い触手と、傘にある放射状の縞模様が非常に美しく、水族館でも非常に 人気のある種類・別名「サナダクラゲ」: 長い触手が真田紐(さなだひも)に似ていることからそう 呼ばれることもある と。・強い毒性: 触手には非常に強い毒(刺胞)があり、刺されると激痛が走ります。 乾燥した死骸の粉末が鼻に入るとクシャミが出るため、古くは「ハクションクラゲ」とも 呼ばれていました。長い触手をたたんで。正月も働かせられて、くつろぎの時間か?別のアカクラゲに近づいて。こちらは正月を楽しんでいるのか!?そして小田急線に乗り込み、地元の駅に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.04
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イタリア料理店「iL CHIANTI BEACHE」裏・海岸側の広場から東の空をさらに追う。雲に先を越され、時に置き去りにされながらも、光は決して約束を違えない。東の空、厚い雲の裂け目から、黄金は遅れて、しかし確かにあふれ出ていた。松の梢を背に、影は深く、その奥からこそ、光はいっそう強く生まれているのであった。これは「見逃した初日の出」ではなく、追いかけて出会った初日の出!!急がず、焦らず、一歩遅れた者にだけ許された、静かな祝福の光。出遅れたからこそ、新しい年は、ゆっくりと、確かに、ここから始まっていたのであった。広場から、再び「初日の出」ならぬ「初富士山」を。追いかけて出会った初日の出の陽光を浴びて、淡いピンクに染まって。江の島シーキャンドルの勇姿。東の空、厚い雲の裂け目から、あふれ出ていた黄金の光をこれでもかと追う。そして黄金の光を浴びた富士山の姿を再び。追いかけてきた光は・・・静かに、約束の場所へ辿り着いていた。朝の空気を一身に受け、夜の名残を足もとにたたみ、頂だけが、先に新しい年へ踏み出しているのであった。海はまだ青く、空はまだ淡く、そのあわい(間)に立つ白き山は、黄金をまといながらも誇らず、ただ「在る」ことの強さを示していたのであった。じわじわとズームして。海の青が一段深まり、裾野の靄(もや)がゆっくりほどけ、富士は「景色」から「存在」へと変わっていくのであった。雪の白はなお静かで、朝の光を拒まず、誇らず、ただ受けとめて、内側に溜めているがごとくに。動かぬ山が、時間だけを前へ進ませているのであった。富士はもはや「遠景」ではなく、呼吸する白としてそこに在った。朝の陽光は、黄金から淡紅へとほどけ、雪の稜線に、ほのかな温度を与える。影はまだ眠りを残し、光だけが先に目覚めて、山肌をなぞってゆくが如くに。雪は白ではなく、朝を含んだ淡い桃色。夜の冷えを抱いたまま、光だけを静かに受け渡しているのであった。雪の面に刻まれた微かな皺は、幾千の冬を越えてきた記憶。それでも山は老いず、ただ静かに、今この瞬間を受け入れているが如くに。光は完全に落ち着き、富士は朝を着こなした如くに。黄金でもなく、白でもなく、時間そのものの色をまとっているのであった。雪の面に刻まれた微かな皺は、幾千の冬を越えてきた記憶。それでも山は老いず、ただ静かに、今この瞬間を受け入れているが如くに。山頂をズームして。(画質を落として)山頂の左側。山頂の右側。山頂の中央。そしてその左に箱根の山々。箱根の山々は、主役ではなく、時を受け止める背景として横たわるが如くに。二子山。その右に駒ヶ岳、神山。そして大きく右に。大山。ズームして。さらに。パノラマ撮影してみました。片瀬漁港越しに江の島の姿を。再び江の島シーキャンドルをズームして。更に。2003年(平成15年)1月1日:新たな江の島灯台が初点灯。位置:北緯35度17分59秒 東経139度28分42秒、塗色および構造:白色やぐら形、光度:実効光度39万カンデラ、高さ:地上から構造物の頂部まで60m・平均水面上から灯火まで107m。大きく湾曲する湘南海岸。湘南の浜は、直線を拒み、人の歩みのリズムに合わせるように弧を描いているのであった。湘南海岸のゆるやかな湾曲は、急がなくていい、立ち止まってもいい、それぞれの速さで進んでいい・・・そう語りかけてくる形なのであった。そして「山の端」ではなく「雲の端」からの日の出を見る。山の端は、大地がつくる確かな境界。毎年、ほぼ同じ位置で、同じ時刻に、太陽を受け止める。けれども雲の端は、刻々と形を変え、約束を持たない。今日ここにあっても、明日はない。雲の端からの再びの日の出を追う。そして再び富士山を。左手前に「矢倉岳(やぐらだけ)」。矢倉岳は神奈川県南足柄市にある標高870 mの山。神奈川県西部の箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地にある山で、金太郎伝説で知られる金時山(1,213 m)の北側に位置する。おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かるのだ。富士山頂をズームして。すべてを削ぎ落とした先に、富士は形だけを残している。色は淡く、陰影も語りすぎず、ただ雪の面が、朝という時間を静かに受け止めていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.03
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「初日の出」を諦めて、「片瀬東浜海岸」を後にし、富士山の勇姿を見に「片瀬西浜海岸」に向かおうと、砂浜を歩いていると、突然周囲にザワメキが聞こえて来た。振り返って見ると、「初日の出」の方向の山の端の上部の一部がオレンジ色に染まっていた。 雲の隙間から「初日の出」の陽光が。 ズームして。黄金に輝く領域が刻々と変化して。そしてその輝きも束の間で。そして人の動きが再び。多くの見物客が一斉に国道134号方向に動き出したのであった。私も「片瀬江ノ島駅」手前の「境川」に架かる「弁天橋」まで戻る。 赤く染まった富士山の姿を発見。ズームして。そして「境川」に沿って国道134号方向・「藤沢警察署 片瀬江ノ島交番」横まで戻る。すると東の空の三浦半島の山の端の上が大きく帯状に輝いていたのであった。慌ててカメラをリュックから取り出して赤の帯の輝きを追ったのであった。雲に遮られて姿を現さなかった初日の出・・・その代わりに、時を少し遅らせて天が用意した贈り物のごとくに、三浦半島の山の端の上空で、雲が静かに割れたのであった。厚い雲の裂け目からこぼれ出たのは、太陽そのものではなく、太陽の記憶。オレンジ色の光は帯となって空に横たわり、新たな年の始まりを、やさしく、しかし確かに告げていたのであった。ズームして。雲と雲のあいだに、静かに灯された一枚の光の屏風の如くに。上は重く沈んだ鉛色、下には山の端の深い影。その狭間だけが、まるで天がそっと開いた扉のように、濃く、あたたかな橙色に満たされていたのであった。初日の姿はなく、ただ光だけが、面となって漂い、雲の奥から滲み出るように広がる・・・それは「昇る瞬間」ではなく、昇ろうとする意志が空に残した痕跡なのであった。人々の姿はまだ影のまま、空だけが先に新しい年へ踏み出したかのようであった。直接の「日の出」は見えずとも、光は確かにそこにあり、希望は雲の向こうで燃えている・・・そう語りかけてくる一瞬なのであった。これは初日の出ではなく、初光(はつひかり)。雲に遮られてもなお、年の始まりを告げるに十分な、深く、やさしい輝きなのであった。雲の縁がほのかに縁取られ、金色と橙色が静かに滲み合う。それは太陽が姿を現す直前の輝きではなく、姿を見せずとも、確かに在ることを告げる光。山々はまだ影のまま、人々もまた、言葉を失ったシルエットとして佇む。誰も主役にならないこの瞬間に、空だけが、新しい年の幕を静かに開けているのであった。国道134号「片瀬橋」の横から小田急線「片瀬江ノ島駅」をズームして。 国道134号「片瀬橋」上から「江の島」の姿を。 小田急線「片瀬江ノ島駅」に向かう「弁天橋」上の人々の姿を。 これでもかと!!雲に阻まれた初日の出は、ここで形を変え、帯となり、縁となり、余韻となって現れたのだ。強い光ではなく、胸の奥にゆっくり沈み込む光。それは「始まりは静かでよい」とそっと語りかける、元旦の朝の、深い祝福であるかごとくに。「片瀬橋」の反対側の遊歩道と江の島の姿を。 夜明けの東浜の喧騒がまだ西浜に届かぬが如くに、空は淡く息を整え、その奥から富士は黙して姿を現していた。雪をまとった稜線は、朝の光を受けてほのかに桃色へと移ろい、まるで新しい年の最初の呼吸を胸いっぱいに吸い込んだかのようであった。相模湾の向こうに聳えるその姿は、雄大でありながら、どこか優しい。祝うでも、励ますでもなく、「ここに在る」という確かさだけを示す富士山の勇姿。雪の斜面は、白ではなく、夜の名残を含んだ淡い桜色。太陽がまだ低く、横から差し込む光が、稜線の起伏一つひとつを、やさしく撫でていた。影は青く、光は温かく、その境目は鋭くなく、まるで呼吸のようにゆっくりと溶け合う。これは「照らされた山」ではなく、山が自ら光を放っているかのように見える瞬間。振り返って!、振り返って!!、それでもなお、振り返る!!!・・・・夜へ戻ろうとする街を引き止めるように、空が燃えていた。雲は厚く、道は暗く、車の列はすでに日常の速度へと戻りつつある。けれど地平の奥だけが、一日の始まりをまだ手放さない黄金色を抱えていたのであった。そして太陽が姿を現した。雲の縁を押し上げるようにして、太陽がその輪郭を、はっきりと。先ほどまで空に広がっていたのは、光の気配、余韻、約束。けれどこの瞬間、それらは一点に収束し、「在る」ことを否定しようのない輝きとなって。信号、標識、建物・・・街の構造物はすべて影となり、主役の座を潔く明け渡す。人工の光はまだ点いているのに、その存在を忘れさせるほどの力なのであった。太陽は輪郭を失い、眩しさだけが、面となって広がるのであった。空も雲も、街も、すべてが同じ金色の息の中に溶け込み、境界という概念が、一瞬消え去ったかのように。信号は赤を灯し続け、規則正しく時を刻んでいる。けれどその下で、光は一切のルールを超えて降り注ぐ。止まれも、進めも、意味を持たない時間なのであった。朝の光がすっかり街に行き渡り、空はもう何事もなかったかのように澄んでいた。その下で、国道134号上り線は、静かな列を成して動かない。ヤシの木、ホテル、店舗の看板・・・湘南らしい輪郭が整然と並び、非日常だった夜明けは、ここで完全に日常へと接続されるのであった。雲はまだ空を手放さず、その合間から、太陽が低く、まっすぐに街を見つめていた。光は斜めに差し込み、信号機や街路灯の影を長く引き延ばす。低く昇った太陽が、ヤシの幹のあいだをすり抜けるように光を放つ。ここは南国でも、旅先でもない。湘南の日常に現れた、束の間の異国の如くに。逆光に立つヤシの木は、一本一本が黒いシルエットとなり、空に向かって、静かに祈るよう。その葉先は風を受け、光を掬い取る器のように揺れていた。少し歩き、立ち位置が変わるだけで、同じ太陽が、まったく別の表情を見せ始めるのであった。ヤシの列は奥行きを帯び、一本一本が時間の柱のように並び立つ。その間を縫うように、光は低く、静かに、しかし確実に進んでくる。先ほどは「コラボ」だった太陽とヤシは、ここではもう一体となり、影と光のリズムを刻み始める。葉の隙間からこぼれる金色は、朝そのものが呼吸しているかの如くに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.01.02
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皆さん 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2026年(令和8年)のスタートです。そして今年も市内湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出を愛でに行ったのであった。5:40に自宅を自転車で出発し、地元の小田急線の駅に到着。地元の「日本大学藤沢高等学校」 が全国高校サッカー選手権大会に出場中。昨日・大晦日に日大藤沢(神奈川)は岡山学芸館(岡山)に2―0で勝利し、3回戦に駒を進めたのであった。予定の電車は、混雑の為、6分遅れで到着予定の放送があった。駅構内には、これから向かう「江の島」関連のポスターが並んでいた。「日本三大弁財天 江島神社」。 「藤沢七福神めぐり」。 「関東三大イルミネーション 湘南の宝石」。 「新江ノ島水族館 くらべてみよう サンゴとわたし」。 そして7分遅れで満員電車が到着。久しぶりのギューギュー詰めの電車に押し込まれ、藤沢駅で片瀬江ノ島行きに乗り換えて何とか目的の「片瀬江ノ島駅」に到着。 ホームは自由に歩けないほどの混雑。そして、何とか改札を通過し、駅舎を振り返る。「弁天橋」から「境川」に架かる国道134号の「片瀬橋」越しに「江の島シーキャンドル」を見る。 「境川」の上流側。 そして「江の島」への地下道を経由して「片瀬東浜海岸」前の歩道に到着。国道134号沿いの歩道から「片瀬東浜海岸」へ下る石段には、既に「初日の出」見物客で超満員状態。 石段は既に超満員で座れる場所はなかった。なんとか海岸に下りて江の島を見る。ズームして。さらに。左手には「瑞心門」の姿も確認できた。 日が昇る三浦半島上空には雲はあまりなかったが、その奥は一面に雲の姿が確認できたのであった・・・・。2025年の新年を祝う江の島の初日の出は、午前6時50分前後とのこと。時間は6:31過ぎ。海面に浮かぶサーフボートの人の姿が増えて来た。しかし、三浦半島の山の端の上は赤く染まって来ないのであった。嫌な予感が・・・・!!??ズームして。湘南港灯台の防波堤上にも多くの初日の出見物客の姿が確認できた。そして初日の出の時間の6:50を過ぎたのだが????太陽の位置はこの辺にあるはずなのだが・・・。赤は私が描き入れました。この写真は「昨年の初日の出」👈️リンクの写真です。山の端の上空は微かにオレンジ色に染まってはいたが。ひたすら初日の出を待つサーファーの姿をズームして。「腰越港4号防波堤灯台」方向を。 「腰越港4号防波堤」の先端をズームして。 まだまだ諦めていない若者たち。「江の島シーキャンドル」をズームして。 上空の空もさらに赤くなることもなく。昨年は!!!刻々と様相を変えながら、水面に映し出す黄金の帯をカメラで追いたかったが・・・。サーファーも元気なさなげに・・・。諦めて帰る人の姿が増えて来たのであった。時間は6:57と日の出時間を6分ほど過ぎていたのであった。 ・・・つづく・・・
2026.01.01
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