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「願成願寺」を後にして、再び「狩野川」を渡り、「いちご街道」を東に進む。車窓から富士山の姿を。この先を右折して、県道136号線・反射炉・富士見ロードを南下する。そして次の目的地の「江川邸 駐車場」に到着。静岡県伊豆の国市韮山山木733−2 「ようこそ、歴史とのかけはし韮山へ」江川太郎左衛門英龍の似顔絵が。 この肖像画は、英龍の絵の師のひとりであった大國士豊が描いた英龍の姿であると(写真はネットから)。江川太郎左衛門英龍👈️リンク の肖像写真をネットから。バスを降りると、説明員のボランティアの方が迎えてくれた。江川邸観光案内所・公衆トイレ。正面から。「江川家菩提寺江川太郎左衛門・江川家代々の墓碑日蓮宗本山 大成山 本立寺」👈️リンク 案内板。 徒歩5分 と。以前に訪ねた寺、詳細は👈️リンクにて。そして忘れられないベンチを。2022年2月18日(金)、会社の先輩二人と一緒にこの場所を訪ねたが、一人がこの場所で心筋梗塞で倒れたのであった。私が救急車を呼び、それまでこのベンチで救急車の到着を今や遅しと待ったのであった。車で10分ほどの「順天堂大学医学部附属静岡病院」に運ばれ、直ちに「カテーテル手術・カテーテル・インターベンション(PCI)」が行われ、一命を取り留めたのであった。現在も薬を服用中、定期通院中であるがお元気に過ごされているのだ。 「担庵公思索の道」案内板。「坦庵公思索の道」という愛称は、平成 26 年度道路愛称選定事業 で、市民から応募のあった路線、愛称名から決定した。 江川邸から反射炉までを結ぶ古い山沿いの道(根方道)の一部で、旧 韮山町時代から、「坦庵思索の路」として親しまれていた。伊豆の山の西麓に位置し、韮山反射炉👈️リンクと江川邸を結ぶ南北の道で、水田、畑などの 農地や集落地及び丘陵の間を通る、自然豊かな2.7Kmのルートである。江川坦庵公はこの道を通って反射炉まで通った。江川家の菩提寺である本立寺には坦庵の墓がある。江川太郎左衛門 享和元年(1801年)~安政2年(1855年)は伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官であった。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも36代の江川英龍が著名である。号の坦庵の呼び名で知られている。近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。赤のラインが「坦庵公思索の道」。そして「江川邸」正面へ。韮山反射炉を建設した江川太郎左信門英龍(担庵)が暮らした家てあり、韮山代官所としても使われた。室町時代に建てられたと言われる主屋のほか、書院、仏間、蔵、門、塀、神社などが国の重要文化財に指定されている。案内幟「江川邸 重要文化財江川住宅 江川太郎左衛門英龍の生家」。「重要文化財 江川家住宅江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。現在の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。同35年より文化庁・静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。またその際に茅葺きだった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍(担庵)は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等を進めたことで知られている。昭和42年(1967)に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。江川家住宅及びその周辺の重要文化財は次のとおりである。江川家住宅宅地 11837平方米同 主屋 552平方米同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等」チケット売り場。「江川邸」配置案内図。 「表門」前に到着。右側が「枡形」であったと。 韮山反射炉を建設させた江川太郎左衛門英龍(坦庵)が暮らした家であり、韮山代官所としても使われました。室町時代に建てられたと言われる主屋のほか、書院、仏間、蔵、門、塀、神社などが国の重要文化財に指定されているとのこと。「表門」。 近づいて。表門は、屋根の中心がやや前側に偏っている薬医門。前後4本の柱のうち、前方の2本がやや太い本柱。後方の控柱2本は中心よりも奥に遠く建てられ、正面から見るとその特徴が分かりにくいのですが、四脚門と比べると来訪者にとっては門の奥への誘いを強く感じさせる設計であった。右手に黒の板塀が続く。この日のボランティア説明員の方。「表門・主屋」と。 表門は元禄9年(1696)建築、文政6年(1823)修復の薬医(やくい)門。主屋は552㎡あり桁行13間(約24m)梁間10間(約18m)棟高約12m。室町時代創建部分と江戸時代初期修築部分が含まれる。近年銅板に葺替えられる前は瓦葺屋根だった。手前に北条早雲が植えた伝承もある豇豆(きささげ)の古木。主屋正面。江川家の屋敷で、入母屋造平屋建銅板葺(元は茅葺)、梁間10間、桁行13間の規模を誇る。柱や梁などの部材の中には、室町時代にまで遡るものもあり、前身となった建物から転用されたことをうかがわせる。北西角に7間四方の大きな土間があり、現在も使われている竈が設置されている。土間は天井が張られていないため、棟高約 12メートルの大屋根を支える、小屋組の架構を一望することができる。 ズームして。1️⃣ 入母屋造(いりもやづくり)屋根の上部が 切妻屋根(三角形)下部が 寄棟屋根(四方に流れる)👉 日本の伝統建築で寺院・城・大名屋敷・名家住宅に多い格式の高い屋根形式。特徴・正面に大きな三角の破風ができる・屋根が大きく威厳がある・武家屋敷・庄屋住宅に多い中央に大きな破風(三角部分)が見えた。2️⃣ 平屋建2階のない 一階建ての建物しかし江川家の主屋は実際には内部に・屋根裏(中二階)・広大な小屋組を持つ 非常に大きな平屋です。江戸時代の豪農・代官屋敷に典型的な形式。主屋を見上げる旅友。紅かなめ。5月になれば(写真はネットから)。主屋前を右手に向かって進む。けやき。そして前方に「井戸」が現れた。「江川家の井戸江戸期以前に掘られ、名水が出、生活用とともに醸造にも使用されたと言われる井戸てす。下の写真は、明治時代の状況がよく残されており、はね釣瓶(竹の弾力を利用したもの)に時代の特長の見られます。なお、江戸時代の当家の家紋(井桁に菊)からもこの外戸の価値の高さが推測されます。」 伊豆石(伊豆地方産の凝灰岩)で組まれている。江川家は、中世から江戸時代初頭にかけて「江川」と呼ばれる酒を造っており、この井戸の水も酒造に使われていたと伝えられている。近代にいたるまで飲料水や生活用水として使われており、はね釣つる瓶べで水を汲んでいた。江戸時代の江川家の家紋(井桁に菊)。「徳川家康が伊豆北条の郷を順(巡)見したとき、ニ十八代太郎左衛門英長が江川酒と白餅を献上した。ご賞味あそばされ、『井水清く軽く、酒に叶(適)い、養老酒ともいうべし』と賞賛され、自ら河原の野菊を折って、これから『井の内に菊を家紋とせよ』と言われたという。菊紋を見て連想するのは天皇家の「十六八重表菊」紋。しかし、「十六八重表菊」紋が公式に皇室の紋と定られたのは、明治2年(1869) 8月25日の太政官布告から。江川家の「井桁に菊」紋も十六弁表菊ですが、八重菊ではありません。しかも、江戸時代は徳川家の葵紋には使用制限がありましたが、菊紋の使用は自由。「井桁に菊」紋を使う前の江川家の家紋は「五三の桐」紋だったのだ と」。天皇家の「十六八重表菊」紋。「パン祖江川坦庵先生邸」の碑 と。三十六代江川英龍は、1842年(天保13年)、韮山屋敷で、兵が携行する乾パンを製造した。碑は、パン食が普及していない時代においては画期的なこととして、静岡県パン協同組合によって建立されたもの。 裏門。敷地の北側に位置する裏門は、切妻造桟瓦葺の薬医門で、小屋裏に文政6年(1823)銘の棟札を収める。寛政5年(1793)、時の老中松平定信が伊豆に巡検に訪れた際に江川邸に立ち寄り、この裏門から真正面に見える富士山の美しさに感銘を受け、御用絵師として伴っていた谷文晁に、裏門を通して見た富士山を描かせた、というエピソードが伝えられている。平成5年(1993)に重要文化財に追加指定された。 書庫。北米蔵・南米蔵。ズームして。明治25年(1892)に建築された米蔵。南米蔵は明治25年(1892)、北米蔵は大正8年(1919)の建築でほとんどが板張りの壁ですが、上部には白漆喰が使われ、瓦屋根との間には風通しの隙間が見られます。現在は、展示スペースになっていて、江川担庵ゆかりの鉄砲や大砲の砲弾などが展示されている と。「武器庫さらに隣りは、上半分が白漆喰壁。幕末に造られ、小銃や彈丸、大砲の砲弾のほか、火薬の原料になる硝石や松脂なども保管されていた武器庫。この武器庫こそ、韮山反射炉を造り、西洋砲術の導入に積極的だったいかにも江川邸らしい蔵」と。 土間入口からいよいよ中へ。「江川住宅平面図(現在)」。主屋に入ると50坪(約162㎡)という広さの土間があり、竃(かまど)が据えられていた。現在、この竃(かまど)に火が入るのは、「具足開き(1月初め)」と「お会式(11月中旬)」の時など数えるほどと。4月12日のパンの記念日に因んで、パン祖のパンを再現して焼く時にも使用している と。見上げて。高い屋根までの吹き抜け。国指定重要文化財「江川家住宅(江川邸)」は、その江川家の住宅で、韮山役所は、その敷地内に設けられていた。1600年頃に建てられたもので、部分的には、より古い中世の建築部材も使われており、改築や増築が加えられ現在に至っている。ちょうな(手斧、釿)の跡が残る部材もあった。江戸時代に使用された駕籠。1️⃣ 網代(あじろ)張り 側面が竹や木を編んだ 網代模様になっていた。 これは軽量、通気性のため と。2️⃣ 小さな出入口 正面には小さな戸があり、ここから乗り降りします 内部は.畳または座布団、横座りになります。3️⃣ 屋根付き 上部に屋根があるため雨、日差しを防ぎます。江川邸主屋の屋根裏構造(小屋組) を見上げて。江川家住宅の最大の見どころの一つで、非常に特徴的な構造。現在の江川邸の屋根は銅葺き。しかし、これは元々茅葺きだった屋根を改修したもの。広さ50坪の土間に足を踏み入れて上を見上げると、桁に梁、束柱、束柱同士を繋ぐ無数の貫の遥か上に、屋根の傾斜を形作り茅を支える垂木などが丸見え。■ この構造の名前これは一般に「合掌組(がっしょうぐみ)」系の大規模小屋組または「梁組(はりぐみ)」と呼ばれる屋根構造です。江川邸の場合は特に 巨大民家型の小屋組として有名です。■ 構造① 無数の梁(はり)横に何段も走る太い木材が 梁 です。役割・屋根の重さを支える・建物の強度を保つ江川邸では梁が 格子状に何重にも組まれています。② 縦材(束・柱)梁の間に立つ柱は束(つか)と呼ばれます。役割・上の梁を支える・屋根荷重を分散③ 茅葺屋根の裏側一番上に見える黄金色の部分これは茅葺屋根の裏側です。厚さは50〜60cmほどあります。■ 江川邸の屋根裏の特徴この屋根裏は普通の民家とは違います。特徴は① とても高い 屋根裏の高さ 約10m近い空間② 巨大な梁 太さ 30〜40cm の梁が使われています。③ 煙で燻された木材 囲炉裏の煙で防虫、防腐効果が生まれます。そのため梁が黒く光る色になっています。■ なぜこんな巨大な屋根裏なのか理由は3つ。① 茅葺屋根が重い 茅葺は1㎡で約40〜50kgあるため強い構造が必要。② 大家族と役所機能 江川家は韮山代官でした。 役人、使用人、来客 多人数が出入りするため建物が巨大。③ 湿気対策屋根裏を大きくすると、空気が循環、茅が長持ちします。■ 実は日本最大級の民家江川邸主屋は延床面積 約700㎡屋根面積 約1000㎡近い といわれる👉 関東最大級の古民家 であると。土間の東側。窯場。「パン焼き窯と鉄鍋」 「パン焼き窯と鉄鍋天保13年(1842)4月12日、江川英龍の命により、邸内に築かれた窯で初めてのパンが焼かれました。当時の日本にはパン食が普及しておらず、長崎出身のオランダ商館用にのみ製造されていました。英龍が焼かせたのは、柔らかいパンではなく、長期保存が可能な乾パンでした。これは、英龍がパンを平時の食糧としてではなく、戦争時に兵が携行することを目的としていたからです。ここにあるのはパン焼き窯を形作っていた伊豆石の一部です。本来は、上に乗せてある鉄鍋が入る、もっと大きな物だったと考えられます。初めてのパンが焼かれた4月12日は、現在は「パンの日」として親しまれています。」「パン焼き窯(想像図)」。 「パン祖」幻の幕末レシピ」👈️リンク。 「日本で最初にパンを作った伊豆國代官、江川英龍でござる」。 江戸後期の1842年、兵糧用に初めてパンを焼き、「日本のパン祖」と呼ばれる韮山代官江川英龍(ひでたつ)(1801〜55年)がその前年、全く異なるパンの製法を記したメモが静岡県伊豆の国市の江川邸で見つかった。「パン祖のパン」は保存や携行に優れた硬い仕上がりだが、メモを基に地元の業者が再現した181年前の「幻のパン祖のパン」はふっくらとしていてこしょうが利いた「食卓で楽しめるパン」だった。(渡辺陽太郎)メモは五月二十六日、江川家の資料を整理していた江川文庫学芸員の橋本敬之さん(70)が見つけた。一八四一(天保十二)年の記述があった。うち数ページにパンのレシピがあり、橋本さんは目を奪われた。材料に粗びきこしょうと記されていたため、「兵糧パンと全く違う」。下記の内容が書かれていると。パンの製法に関する部分👈️リンク を抜粋して示す。『図のごとき大きさにいたし、厚さは焼ナベに油を引き、此位にて狐色に焼き申し候ー パンの法 西洋人の兵糧麦粉 百六十目砂糖 四十目玉子 五ツ右三味 水にてこね、焼なべにて焼く又の法麦粉 百六十目醴(あまざけ) 五勺 是は饅頭の本(もと)に相成り候品砂糖 二十目 又の法麦粉 百六十目醴 五勺水 適量右はいづれも製方手重にて宜しからず、支配極め山人村方にては麦粉水にてこね図のごとくまるめおし平め、ぬく灰にて焼、塩けを付度候得者程よく塩水にてねる。此法一番手軽候て実用に相成ル。麦粉ト認候者、小麦之粉御座候、此度励二郎江書状遣度候得共、御取箇調中大取込は難及、其儀下□□御申伝御座候いたし候度候、早々、以上十月廿五日 太郎左衛門忠兵衛様追而兼松繁蔵態々罷越、先頃一条与程永々申訳いたし候、正存に申進忝候図のパンの大きさ長径66mm✕短径55mm厚さ10mm』大砲の模型。窯の横に幕府に献上された「ペリーの大砲」。アメリカ製のボートホーウィッスル砲車(上陸舟艇用の小型砲車)と砲弾が展示されていた。砲身は複製 と。ボートホーウィッスル砲 (砲車)安政元年にペリーから幕府に贈られた現物とのこと(砲身は近年のレプリカ)。ボートホーウィッスル砲は上陸用舟艇の備砲で、砲車に載せれば陸戦にも使える。江川英龍は1年で倣製に成功した。壬申四月(明治5年)に足柄県から還納兵器の伺書が海軍省に出されている。「旧韮山県権知事江川英武預り大砲還納方件」足柄県(旧韮山県)には安政元(寅)年、米国使節渡来の節に献納され先々代江川英龍に預けられた「ボードホウイツスル 一挺 車台共」「 榴弾 十四 」「散弾 十七」と、フランス製の砲と砲弾やその他の野戦砲や小銃があると伝える内容。この時期、新政府は旧政府時代からの全国の銃砲を調査し、還納という名目で政府に差し出させていた。維新後、38代江川英武が韮山県の権知事となったが、明治4年から兵部省留学生として米国に約8年間留学。ちなみに韮山県はやたら広かった。こちらは、青銅製二十九ドイム型𦥑砲(模型) と。正面に木札がぶら下がっていた。伊東に居住していた日蓮聖人をお迎えした際に聖人より贈られた直筆の「火伏せの護符」を納めた棟札箱が見られます。ピンポイントライトが当てられた〇部分にある箱。その箱に入っているのは 日蓮聖人直筆の曼陀羅(南無妙法蓮華経の題目の周囲に神仏の名前を配したもの)です。弘長1年(1261年) 流罪により伊東に居住していた日蓮聖人を16代英親が数日間江川家に迎え真言宗から日蓮宗に改宗し供養を尽くします。その時、江川家は家の修築を行っており聖人から「この旧家がなお繁栄するように」と曼陀羅が贈られ、棟札として箱に納め屋根裏に設置したのだそうです。そのご利益により、近所で火災があっても江川邸は一度も火災に遭ったことがなく、700年以上無事に保たれていると伝えられています。このお札のご利益は江戸時代に広く知られるようになり、明暦年間(1655年~1657年)に火災にあった江戸城修復の際には江川家から棟木を1本献上しこのお札の版木が作られ、無料で配布されたそうです。こちら左がその版木で作られたお札 と。日蓮上人が幕府に捕まって伊東のまな板岩の上に置き去りにされ殺されかけた時、それを助けたのが土地の漁師で、陰で支えたのが江川さんでした。そのお礼と言ってこのお札を置いていったのだそうです。「行き柱生き柱とは江川氏がこの地に移り住んできた時に、生えていたけやきの木をそのまま柱として利用したとされる柱。」と。「生き柱」土間の隅には「生き柱」の札が提げられ、注連縄が掛けられた柱が立っていましたが、これは、住宅を建てる前からあった欅を切り倒さす、そのまま柱として利用したという意味。しかし、少し難れたところにある「生き柱の柱根」の説明によれば「昭和三十五年の発掘で、掘っ立て柱であることがわかった。」と書かれていましたので、実は「生き柱」ではなかったようです。近づいて。屋根は大きくても、出来るだけ軽く組み、風通しを良くし、揺れにも強い和小屋組みの工法。柱と梁材を固定する三角形の木製楔。真上を見上げて。棟高約 12 メートルの大屋根を支える、小屋組の架構。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.31
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至る場所に五百羅漢が。池と石橋。「五百羅漢」を追う。右手に「宝物館」。「五百羅漢」とは仏陀に付き従った500人の弟子。またはそれをかたどった像のこと。私に似た五百羅漢を探すが・・・。この付近の五百羅漢は眼鏡をかけている方が多かったが。知人に似ている!!そして仲良く夫婦で並んで。十三重塔。「五百羅漢」を更にカメラで追う。この後に訪ねた「守山八幡宮」の舞殿が隣奥に見えた。そして「足利茶々丸公方御墓」を訪ねた。左手には、俳人石田波郷の句碑があった。「寂かにて 願成就院 梅雨はれぬ」。「足利茶々丸公方御墓」。足利茶々丸👈️リンク は堀越公方足利政知の子。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、1493年(明応2年)、北条早雲が伊豆に攻め入った際、願成就院に逃げ込んで自害したと伝えられている。堀越公方家はここで滅亡した。ただし、近年の研究では、伊豆から追放され、1498年(明応7年)、甲斐国で自害したとされている と。「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされる。「成就院九成居士」と刻まれていた。出来たばかりの?五百羅漢。この場所は工房であっただろうか。以前は希望すれば、指導の下、自分でこの「五百羅漢」を作成でき、境内に奉納できたようであったが現在は??斜面にこれでもかと。「永代供養廟」。「大御堂」(右)と「宝物館」(左)を横から。「洗心庭」。「枯山水庭園 洗心庭中央の右手に阿弥陀如来に見立てた大きな不動石を配し五石の石組をし刈入の木と自然な木を調和させ優しいやわらかな雰囲気をかもしだす庭園です。白雲上の仏樣たちを想像するなど見る人それぞれの心でこの庭を鑑賞してください。」そして境内の見学を終え、無縁仏塚越しに山門を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.30
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「願成就院」の散策を続ける。「大御堂」への参道には巨大な石灯籠が。近寄って(左側)。近寄って(右側)。運慶作の仏像5体の国宝を所蔵する願成就院の「大御堂」に入る。新住職の「小崎弘慶(こうけい)」が迎えてくれた。2025年11月、前住職の小崎祥道さんが名誉住職となり、次女の弘慶(こうけい)さんが新住職に就いたのだ。国宝五体が鎮座する内陣を「ネット」👈リンク から。大御堂にお祀りする運慶作、国宝五身區の仏像群をネットから。阿彌陀如来坐像国宝・運慶作・1186年(文治2年) 像高142.0cm力強い体軀で、圧倒的な重量感にあふれている。深く刻み込まれた流れるような衣文も流石運慶と思わせる。縵網相の説法印を結び、激動の時代を生き抜かなければならない当時の武士や民衆を救おうという強い意志を感じさせます。不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像国宝・運慶作・1186年(文治二年)像高 不動明王 137.2cm、羂索をとる左手を、利剣を握る右手と同じ高さに上げた逞しく若々しい上半身、玉眼の両眼をかっと見開き、眉毛をつり上げた眼光鋭い忿怒の形相の不動明王が、左前にあどけなく、清浄無垢な愛らしい矜羯羅童子を、右前に手に宝棒を持ち、眉間にしわを寄せ、ロをへの字にしたきかん気で今にも動き出しそうな制吒迦童子を伴って悪に立ち向かう頼もしいお姿は、様々な難儀、災厄から人々を守ろうとされる強い法力を感じさせます。矜羯羅童子立像(こんがらどうじりゅうぞう)・74.4cm。制吒迦童子立像(せいたかどうじりゅうぞう)・83.5cm。毘沙門天立像国宝・運慶作・1186年(文治2年)・像高148.2cm二匹の邪鬼を踏みつけて、玉眼入りで眼光鋭く一点を凝視して立つ雄渾なお姿には、躍動感、緊張感が巧みに表現されていて、運慶が出合ったであろう東国の若武者のイメージが彷彿としてきます。守護神として、尚武招福の仏様として、東国武士や民衆に崇められてきたことを感じさせます。ズームして。本堂の本尊、阿彌陀如来坐像。県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高86.8cm 玉眼入り 願成就院・本堂蔵十三世紀初頭の作風から、時政公の供養のために、1215年(建保三年) 12月に二代執権北條義時公が建立した南新御堂本尊阿彌陀三尊の中尊であるとされています。地蔵菩薩坐像(通称:北條政子地蔵)県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高51.6cm 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵像座に「寛喜の銘文」が残り、政子七回忌頃の作で、北条泰時が願成就院に奉納したかと思われています。北條時政公肖像制作年代・作者不詳 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵唯一の北條時政公の肖像であります。2025年11月10日、38年ぶりに新住職が就任する「晋山(しんざん)式」があった。晋山式は、新住職を檀信徒(だんしんと)や地域の人たちに報告し披露する儀式。この日朝、寺院前の門前通りから高野山真言宗の各寺院の住職らが読経をしながら」列をつくって寺院内に入った。時政公の墓前で読経した後、本堂に入り式典が行われた と。本堂の本尊、阿彌陀如来に祈りを捧げる新住職の御姿。右が、英スコットランド出身の小崎キースさん英国の企業で働いていた新住職・淳子さんと、ロンドンのレストランで知り合った。2人は交際するようになったが、淳子さんはいずれ帰国し寺を継ぐことを決めていた。2012年、2人は願成就院で仏前結婚。キースさんは日本での生活に不安もあったが、仏教の教えを素直に受け入れられた と。そして「大御堂」を出て、「第御堂」前から参道、山門を見る。 境内の庭園を見る。移動して。「浅草と願成就院伊豆の大仁を愛する浅草の住人高坂公一 和田長敬 大塚金太郎の三氏がゆくりなくも当韮山の願成就院を訪れ荒廃せる堂内に国宝の御佛を拝するに及び痛恨の念に暫し去りやらず茲に護持の一念発起して浅草の人々の協力を求める篤信の人雷おこし主人穂苅氏を講元に仰ぎ昭和三十年九月浅山講を創立爾来講費頓に加わりて本年講費壱阡七百名を算する事となる此の信仰の結果は昭和三十七年二月願成講倉島講元天山講真鍋講元との共同発願に依り不燃建築の護持大御堂を建立し重要文化財なる御佛の数々を未来永劫に安置し得る大業を了し終りぬ本碑に願成就院が浅草人に依り復興の端緒となりたるを刻して記念となす梅が香の千代に伝へむこの御霊」。「浅山講五十回団参記念之碑歳月の過ぎゆくは矢の如しというが、浅山講五十年の歩みもまた夢のようである。創講者の一人である故高坂公一氏は、昭和ニ十九年の晩秋、友人の和田長敬・大塚金太郎の両氏と初めて願成就院を訪れ、荒廃せる堂内にみ佛を拝観したときのことを後の手記に書き残している。「阿弥陀如来の慈顔溢れる結構さと、不動明王・毘沙門天の眼光炯炯としてあたりを威圧するが如き尊厳さを拝し、平伏合掌したのが、私どもの胸の中に今でも強い印象となって残っている。浅草に帰った私たちは、国宝護持の目的をもって上條貢先生(元台東区長・都議会議長)と相談して浅草の浅と韮山の山をとり浅山講という信仰団体を創立することにした。講元には篤信家の常磐堂雷おこし社長徳刈恒一氏の就任をお願いした。第一回団参には約八百名の参加者があった。」創講から八年後、昭和三十七年ニ月、悲願であった不燃建築の新大御堂の建立が、同志との共同発願により達成され、願成就院復興の端緒となる。尊きみ佛護持顕彰の創講の精神は、ニ代目穂刈幸雄講元、三代目穂刈敬子講元に継承され、歴代副講元・世話人・支部長衆の尽力によって毎年団參が継続実施され、本年五十四回目を迎える。本碑に浅草と願成就院の因縁深きことを刻して記念とする。 合掌。」茅葺の本堂。願成就院創建六百周年にあたり、1789年(寛政元年)に建立。時政供養のために1215年(建保三年)にできた南新御堂の後身堂である。二百三十年の風雲に耐えて本日に伝えられています。ズームして。水原秋桜子句碑。「時政が ふるさとにのこす 露の墓」。水原秋桜子(1892~1981)は昭和37年の修善寺来遊の途次願成就院を訪れている。句に詠む時政は源頼朝の正室北条政子の父。晩年は失脚して韮山に隠棲した。人生のはかなさが感じられる句である。鐘楼。ズームして。六地蔵を再び。正面に「北条時政公御墓」。「北条時政公御墓」碑。この碑には「北條時政公 没八〇〇年忌供養として造立北條時政公(一一三八年生、一ニ一五年没 享年七十八歳)は、願成就院の創健者で、今日に伝わる国宝指定の運慶作諸仏の檀越である。時政公は、この地、伊豆国北條に居館を有した平家一門の伊豆における有力豪族の一人で、伊豆国府在庁官人であった。一一六〇年十四歳で伊豆配流となった源頼朝を伊東祐親と共に監視する立場にあった。激動する歴史の中、娘政子が流人頼朝に嫁し、一転して頼朝の岳父となる。一一八〇年八月十七日の頼朝伊豆挙兵では、平家目代山木兼隆攻めの主将となりてこれを成功させる。以後、平氏討伐、鎌倉幕府創設では、頼朝の参謀役、智将として大いに活躍してその立役者となる。頼朝亡き後も、幕府初代執権に就任して、東国武家政権の確立に努め、北條氏繁栄の礎となり、鎌倉北條氏の祖と呼ばれる幕府草創期の最重要人物の一人である。」と。「北条時政公御墓」1205年(元久2年)閏7月19日、牧の方(後妻)と共謀して将軍源実朝を亡きものにして娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようと企てたことから、子の北条義時と娘の北条政子によって出家させられ、伊豆国追放となった。伊豆の何処でどのように暮らしたのかは定かではないが、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で亡くなったのだと。「大日本六十余将の「北条時政」。画:歌川芳虎」。「桓武天皇の後胤上総介直方より五代の孫北条四郎大夫時家が嫡子にして始め四郎と号す 右兵衛佐頼朝伊豆国へ流罪て伊東が館に在しが祐親害心あるにより密に北条が館に遁る時政頼朝が潜竜の気あるを知て息女政子を以て娶せ源氏再興心力をつくし山木判官を討ち石橋山の戦ひには嫡子宗時討死す 賴朝天下を得たまひし后外戚と殊旧功あるを以て自然威権北条氏に帰し子孫繁栄の基をひらく 是時政が遠謀によるところなり 春亭京鶴記」原文の意味(現代語訳)・北条時政は、 桓武天皇の後裔である上総介平直方の五代の子孫で、北条四郎大夫時家の嫡男として生まれ、 若い頃は「四郎」と名乗った。・源頼朝が伊豆国へ流罪となり、伊東祐親の館にいたが、祐親が頼朝を害そうとしたため、 密かに 北条氏の館へ逃れた。・時政は頼朝に将来大人物になる気配(潜竜の気)があると見抜き、自分の娘 政子を頼朝に 嫁がせた。 そして 源氏再興のために力を尽くし、まず 山木判官(山木兼隆)を討った。・しかし 石橋山の戦いでは、時政の嫡男 宗時が討死した。 その後、頼朝が天下を取ると、時政は 外戚(将軍の妻の父)となり、さらに古くからの 功績もあったため、自然と大きな権力は 北条氏のもとに集まった。・そして子孫繁栄の基礎が築かれたのは、時政の遠大な計略によるものである。2022年、三NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で主人公の父親・「北條時政」を演じた「坂東彌十郎」さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.29
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「めんたいパーク」を後にして、狩野川に架かる「松原橋」を渡る。 そして次の目的地の「願成願院」前に到着。前方奥に「願成就院」の「山門」が見えた。山門の少し手前にある石標「國寶旗挙不動尊」碑。ここ静岡県伊豆の国市にある願成就院(がんじょうじゅいん)に安置されている、国宝の「不動明王・矜羯羅(こんがら)童子・制吒迦(せいたか)童子三尊立像」が「国宝旗挙(はたあげ)不動尊」として知られています。 この不動明王は、文治5年(1189年)に源頼朝の奥州藤原氏討伐の際、北条時政が戦勝を祈願して運慶に造らせたものと言われています。源頼朝の挙兵に因み、旗挙不動尊と称されています。 願成就院の国宝不動明王(国宝旗挙不動尊)の特長・作: 鎌倉時代の仏師・運慶(運慶の初期の傑作とされる)。・上人特徴: 三尊形式(不動明王を中心に、矜羯羅童子、制吒迦童子の両脇侍を従える)。 力強い表情やポーズが特徴で、国宝に指定されています。・所在地: 静岡県伊豆の国市寺家。・拝観: 通常公開されており、運慶の国宝仏像が5体安置されている宝物館で拝観できます。 なお、この不動明王が祀られている本堂には、源頼朝の帰依を受けた仏師運慶が制作した他の国宝仏像も安置されています。奥州討伐の旗挙げということでしょう、ちなみに願成就院から国道を挟んで反対方面に伊豆滝山不動尊があり、こちらも旗挙げ不動尊と呼ばれているようですただ、こっちは文覚上人が頼朝に源氏再興の挙兵を勧めたとされる場所で、1180年ころの話ではないかと思われます。ある空き地の前でバスを降り散策開始。「国指定史跡 願成就院跡」碑。「国指定史跡 願成就院跡願成就院は鎌倉時代初期、北条時政によって創建された寺院てす。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」文治5年(1189)6月6日条には、源頼朝の奥州平泉攻めの成功を祈願して建立された、と書かれています。また、大御堂に安置されている国宝の仏像群のうち、四体から胎内銘札がみつかっていますが、そこには北条時政と仏師運慶の名前をみることができます。時政の死後も、子の義時、孫の泰時によって、「南新御堂」や「北塔」などの建立があり、伽藍が整えられていきました。当時の願成就院の姿は、発掘調査によって明らかになっています。昭和36年から現在まで、境内やその周辺20ヶ所以上で発掘調査が行われ、建物の礎石や雨落ち溝の一部がみつかっています。とくにこの一帯は、発掘調査によって、基壇や大量の瓦がみつかっている場所で、承元元年(1207)に時政が建立した「南塔」の遺構と推定されています。また、周辺の地形測量によって広大な池の存在も想定されています。鎌倉時代の願成就院は、西側の守山を背景にして、池の周囲に堂や塔が建ちならぶ「臨池伽藍」と呼ばれる様式の寺院でした。臨池伽藍は、浄土の世界を御堂や庭園の姿であらわす、当時を代表する寺院様式です。」「国指定史跡 願成就院跡」がここ一帯であると。山門前の左側には多くの石碑が並んでいた。「願成就院」の山門。「高野山 真言宗 天守君山 願成就院」と。「北条時政公開基 奥州征討戦勝祈願 願成就院」天守君山 願成就院(高野山真言宗)の創建について鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』と近年発見された国立歴史民俗博物館本『転法輪抄』の「伊豆堂供養表白」により、願成就院が北条時政によって造営され、文治五年(1189)六月六日に立柱上棟の法要が営まれて、本尊阿弥陀三尊と不動・多聞(毘沙門天)の形像が安置され、源頼朝と後白河法皇の長寿と天下泰平、そして北条氏の繁栄と奥州藤原氏征討の成功を祈っていることが明白になった。今日大御堂にお祀りする国宝の運慶作5驅の仏像は正に創建時の形像である。伽藍の営作は、ニ代義時、三代泰時までの40年間に及び北条氏の氏寺として栄えた。前面に池が広がる浄土様式の庭園をもつ大規模な臨池伽藍寺院であり平泉の毛越寺を模したと言われている。昭和48年に守山(後山)東斜面と 内及び東側隣接地が「史跡願成就院跡」として国指定史跡に指定されている。」山門を潜ると参道左側に多くの無縁仏が。近づいて。六地蔵。赤白のおみくじだるまが至るところに。「願成就院略縁起当山は、山号を天守君山と称し、阿弥陀如来を本尊とする高野山真言宗の寺である。創建は、鎌倉時代初頭の文治5年(1189)に遡る。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権北条時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まる。幕府の事績を伝える「吾妻鏡」には、時政公が大御堂と南塔を建立し、二代執権北条義時公が亡父時政公の供養として南新御堂を建立、三代執権北条泰時公が北条御堂と北塔を建立したことが記されており、堂塔伽藍の営作は北条氏三代にわたる。貞応元年(1222)には「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷より下されており、この地に、守山を借景として、中之島のある池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が、北条氏の氏寺として造営されていたのである。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和48年、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡となる。鎌倉時代の伽藍は、15世紀末、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の堀越御所(北条時政館跡)攻めの兵火で焼失するが、創建時に祀られた大仏師運慶謹作の五仏を中心とする七体の仏像と、仏像胎内造像銘札四枚は、奇跡的にも今日に伝えられており、この尊き御仏像を拝観すると、幕府最大の権力者北条氏とこの寺の盛時を偲ぶことができよう。本尊阿弥陀如来・不動明王・矜羯羅童子・制吒加童子・毘沙門天の五体の仏像は、文治2年(1186)の造像で、運慶30代半ばの謹作、日本彫刻史上、運慶様式の成立を考える上で大きな意義を有する尊像とされ、造像銘札4枚と共に重要文化財の指定を受ける。境内には、北条時政公と足利茶々丸公(堀越御所2代公方)の墓所があり、両公の菩提寺である。運慶作五仏、胎内銘板四枚は平成二十五年に国宝に指定される。」 境内の「五百羅漢(ごひゃくらかん)」の表情が楽しいのであった。右手に「弘法大師御像」。 「大御堂」への参道には巨大な石灯籠が。近寄って(右側)。近寄って(左側)。「運慶謹作仏像五体 附五輪形木札四枚国宝指定記念之碑平成二十五年六月十九日指定」 「大御堂」。いただいたパンフレット。表紙には「地蔵菩薩坐像(通称:北条政子地蔵)」。 「願成就院の歴史と仏像の意義当山は天守君山願成就院と称し、高野山真言宗に属す。伊豆箱根鉄道の伊豆長岡駅又は韮山駅より徒歩で十五分程の守山を背にしたところにある。寺の創建は、寺伝によると奈良時代聖武天皇の天平元年(七二九)五月十五日に創立されたと伝えられるが、明らかなことは、鎌倉幕府の事蹟を伝える「吾妻鏡」の記録から、文冶五年(一一八九)源頼朝公夫人、尼将軍北条政子の父で鎌倉幕府初代執権北条時政公が、頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したもので、その後は鎌倉幕府に並ぶ者なき勢力を振った北条氏の寺として、ニ代執権北条義時公・三代執権北条泰時公の三代にわたり、約半世紀の歳月を費やして次々に堂塔が建立され繁栄をきわめた。その伽藍構成は奥州平泉に藤原三代の偉業として伝えられる。中尊寺・毛越寺・無量光院三寺院の中の毛越寺を模したもので、山門入ると大きな池があり、その池の中島にかけられた橋をって参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。しかしこうした繁栄もやがて十五世紀末には兵火にみまわれ、しだいに衰運に向かった。室町時代延徳三年(一四九一)ニ代堀越公方・足利茶々丸公が北条早雲に攻め滅ぼされた際、多くの堂塔が灰塵に帰し、さらに時移り、戦国時代の末、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めの折、韮山城攻撃の際、再び火に見舞われ、ますます寺運は衰えた。江戸時代宝暦三年(一七五三)寺の荒廃をなげいた北条美濃守氏貞が仏像等の修理を行い復興に努めた。現在の本堂は寛政元年(一七八九)に仮本堂として建立されたものである。昭和三十年以降、東京浅草人を中心として、当山の貴重な文化財の護持顕彰を目的に浅山講・大倉願成講・天山講・京山講などの講社が相次いで組織され、その浄業として大御堂が再建され、再び今日の興隆をみるにいたった。寺の創建時より大御堂にお祀りされてきた本尊阿弥陀如来坐像、不動明王立像及矜羯羅・制吒迦童子立像、毘沙門天像の五体の尊像は、胎内に納められていた四枚の五輪塔姿形銘札によって、文治二年(一一八六)にこの寺の開基である北條時政公の発願によって運慶が謹作した仏像であることが明らかになった。運慶三十五才頃とされ、鎌倉幕府の成立に関わった東日本に現存する最古の運慶仏である。この仏像群の特徴である豊かな量感と写実を踏まえた力強い作風は、前代の仏像には見られなかった新しい造形と、運慶の秀でた彫技を伝えるものとされ、運慶自づからが初めて世に問うた極めて意欲的で革新的な挑戦作であるとされている。正に運慶様式、鎌倉彫刻様式の成立を示す日本文化史上、日本彫刻史上大きな意義を有する若き運慶の傑作であり、代表作の一つであるとされ、国宝に指定される。また、現在の願成就院境内を中心に、裏山を含めた一帯は、平泉の毛越寺や京都の浄瑠璃寺など、全国で七カ所残る「浄止様式」と呼ばれる藤原時代特有の寺院様式の貴重な遺構とされ、「願成就院跡」の名称で国の史跡に指定されている。寺宝国宝●阿弥陀如来坐像 鎌倉初期・寄木造・像高一四三・五センチ 運慶作 大御堂本尊・堂々として量感豊かな体躯男性的でたのもしく、しかも限りない慈悲に あふれた面相は神秘的な威厳を具え、一種名状しがたい霊感にうたれる尊像である。国宝 ●毘沙門天像 鎌倉初期・寄木造・像高一四七センチ 運慶作 重い鎧を身につけ、右脚を一歩踏み出し、あばれまわる二匹の邪鬼をしつかりと 踏みつけて立つ、活動的な姿がきわめて巧みに表現された王眼嵌入の像。国宝●不動明王像 鎌倉初期・寄木造・像高一三六・五センチ 運慶作 上半身裸形、両肩がはって胸あつく、腰の太いたくましい力強い体躯、仏敵や邪悪に 立ち向う激しい怒りあらわに出し、除災招福の力にあふれた王眼嵌入の像国宝●矜羯羅童子像(こんがらどうじ) 鎌倉初期・寄木造・像高七八センチ 運慶作 不動明王像の向って右に立っ脇侍、純粋無垢な小女を思わせる可憐な姿で、丸々とした 体つき、裳の表現など、きわめて巧みな玉眼嵌入の像。国宝●制旺迦童子像(せいたかどうじ) 鎌倉初期・寄木造・像高八二・六センチ 運慶作 不動明王像の向って左に立っ脇侍、額に八の字のしわをよせ、ロをへの字に曲げ、左足を 踏み出し、上半身をのりだした力強さがきわめて巧みに表現された玉眼嵌入の像。重要美術品●政子地蔵菩薩像 鎌倉初期・寄木造・像高五一・五センチ 嘉禄元年七月十一日に没した尼将軍政子の七回忌追福菩提のために、三代執権北条泰時公が 奉納したもので、そのひきしまった姿に、生前の政子を巧みに表現した洗練された像。国宝●塔婆形銘札四枚 鎌倉初期 毘沙門天像・不動三尊像の胎内より発見された造像銘札で、文治二年(一一八六)五月三日 北条時政公が発願した仏像を運慶が作りはじめたことが記され、運慶に関する重要資料。その他、阿弥陀如来坐像・北条時政公肖像・古文書 等。史蹟○北条時政公御墓○足利茶々丸公方御墓○北条時政公建立 南の塔 跡「五輪塔形木札四枚・国宝附 木札 (大)二枚は、不動明王と毘沙門天像に、木札(小)二枚は、矜羯羅・制吒迦の二童子像に納められていた。四枚共に梵字で宝篋印陀羅尼が記されていて、不動明王・毘沙門天像の二枚には、壺形の舎利容器が納められていた小円孔を穿ち、舎利が納められていたことがわかります。また、四枚共に造像記が記されていて、文治二年五月三日から造り始めたこと、擅越は時政、巧師は勾当運慶と記し、銘文執筆者は南無観音であると記されています。」 衿羯羅・制タ迦二童子から取り出された銘札裏面(運慶の墨書がある)そして再び大御堂の扁額「大御堂」。 法華経(観音経)👈️リンク の偈文の冒頭部分が書かれた垂れ幕が。第25章「観世音菩薩普門品」に含まれる 「観音経の偈(げ)」と呼ばれる部分最上部が写っていないが。「世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音 具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願 我為汝略説 聞名及見身心念不空過 能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没 或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去 雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦 具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰 無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念 念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂禮 爾時持地菩薩即従座起前白佛言世尊若有衆生聞是観世音菩薩自在之業普門示現神通力者当知是人功徳不少佛説是普門品時衆中八萬四千衆生皆発無等等阿耨多羅三藐三菩提心」 ・とても尊いお姿をされていたお釈迦様へ 私(無尽意菩薩)は尋ねました。 「あの菩薩(仏弟子)を、どのような理由で観音様と呼ばれるのでしょうか」 ・とても尊いお姿をされていたお釈迦様は偈の形で無尽意菩薩へお答えになられました。 「お前は観音菩薩が、様々な場所に赴いて人々の願いに応じている姿をよく聞きなさい。」 ・菩薩の弘い誓い(本願)は、海のように深く、とてつもなく長い間考え抜いても、まったく 想像の及ぶところではない。 数え切れないほど多くの仏の側で学び、清らかな真の心で本願を建てられたのだ。・私(釈迦)はお前に、簡略して観音菩薩について話をしよう。 観音菩薩の名前を聞き、姿を見て、心に常に想念しつづけるならば、様々な苦難災難は なくなるだそう。・たとえ人に害意を持たれて、火の燃え盛る穴へ突き落とされても、観音菩薩のお力を念じれば、 火の穴は池へと変わるだろう。・大海原を漂っている中で、龍や魚、諸々も死霊に襲われても、観音菩薩のお力を念じ続ければ、 荒波にのまれることはない。・高い山の峰から人に突き落とされても、観音菩薩の力を念じ続ければ、太陽のように空へ 浮いていられるだろう。・また悪人に襲われて、金剛山より転がり落ちることになっても、観音菩薩のお力を念じれば、 ほんのちょっとの傷も負うことはない。・また盗賊や山賊などの犯罪者に囲まれて、刀で切りつけられても、観音菩薩のお力を 念じれば、すぐに慈しみの心をおこし、憎しみの心がなくなるだろう。・また権力者の不当な処罰を受け、極刑により命が終わろうとしても、観音菩薩のお力を 念じれば、刀がことごとく折れてしまうであろう。・また囚われて手枷足枷をつけられ、鎖で縛られても、観音菩薩のお力を念じれば、スッと 束縛から解放されるのである。・呪いの言葉や様々な毒薬によって命を脅かそうと思っているものにたいしても、観音菩薩の お力を念じれば、かえって本人が様々な苦しみあうだろう。・悪い魔物や毒龍、様々な死霊に遭っても、観音菩薩のお力を念じれば、危害を加えられる ことはない。・もし凶暴な動物たちに取り囲まれ、牙や爪が鋭く恐ろしいものであっても、観音菩薩の お力を念じれば、ものすごい速さで八方に逃げていくだろう。・毒蛇や毒虫のように、毒気が火のように燃えていても観音菩薩のお力を念じれば、 称名とともに自ら向きを変え去っていくだろう。・雷鳴が鳴りひびき、稲妻が走り、雹が降り、大雨になっても、観音菩薩のお力を念じれば、 すぐに消えてしまうだろう。・人々は困難や災厄にあって、無限の苦しみにあっても、観音菩薩の妙なる知恵の力は、 世の中の苦しみから救うことができるのだ。・神通力を備え、限りない智慧と方便を駆使し、大宇宙にある諸々の国々に、姿を現します。・様々な苦しみの世界、地獄界、餓鬼界、畜生界、生老病死の苦しみも、全て消滅させる ことができます。・真理を観ており、清らかに観つめ、広大な智慧をもって観ることができ、慈悲にあふれて すべての人を観ている。 観音菩薩を常に念じ、尊びなさい。・無垢で清らかな光をもち、智慧の太陽は、もろもろも苦しみの闇を破り、災いの風火を 消し去り、すべての世界を照らすだろう。・慈悲の「悲」の元である「戒」は雷のように震え、「悲」の心は妙なる大雲のようであり、 甘露の法雨をそそぎ、煩悩の炎を滅するだろう。・言い争いは裁判所をへて、戦いの中で恐怖をいただいても、観音菩薩のお力を念じれば、 人々の怨みはすべてなくなるのだ。・観音菩薩の妙なる声は、木々の間を通り抜ける風のようであり、海の潮の満ち引きの ようであり、世界中のすべての音に勝っています。 だから常に念じなさい。・僅かな時間も疑いを生じてはいけません。 観音菩薩の清らかなお力は、さまざまな苦悩や死の縁の際に、大きな拠り所となるのだ。・すべての功徳をそなえ、慈悲の眼差しをすべての人々へ注ぎ、幸福の集まりは海のように 無限である。 このような理由だから、まさに礼拝しなさい。・お釈迦様の話がおわると、地蔵菩薩(持地菩薩)が立ち上がって進み出て、お釈迦様へ 申し上げた。・お釈迦様、もし人々が観音経に説かれる自由自在の衆生済度の働き、人々の機根に合わせて 現れる神通力を聞いたならば、知ることになるでしょう。聞いた人の功徳は計り知れない ことを。・お釈迦様が観音経をとき終えた時、そこに集まった8万4千の人々は、皆この上ない悟りの 心を起こしたのだった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.28
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「かんなみ仏の里美術館」を後にして、昼食の場所「めんたいパーク伊豆」に向かって「国道136号・伊豆中央道」を進む。 「天城連山」を左に見ながら進む。 前方に「伊豆わさびミュージアム」が姿を現した。 そして左折して「かねふくめんたいパーク伊豆」に到着。 静岡県田方郡函南町塚本753−1。めんたいパークは明太子の老舗かねふくが運営する明太子専門テーマパーク。来て楽しい、知って楽しい、食べて楽しい。無料で見学できる明太子工場に、できたて明太子の直売店、つぶつぶランドやフードコーナーなど。家族連れやカップルでも、大人から子供まで楽しめる場所 と。「かねふくめんたいパーク伊豆」へのルートマップ。施設屋上に鎮座した“15メートルのタラピヨちゃん”。駐車場から見上げると、かなりの迫力。しかし、丸々していて、よく見ると表情がかわいいのであった。バスを降り「めんたいパーク」に向かって進む。 富士山が見えるフォットスポット。「タラピヨ」(左)と明太子の研究に勤しむ「タラコン博士」(右)。名前の「タラコン」は、明太子の原料である「タラ(たらこ)」と、親しみやすい博士キャラクターという設定から、「コン」は「〜コン(知識・コントなど)」や、博士らしいキャラクター性をイメージして名付けられたと。窓ガラスにも「タラピヨ」と「タラコン博士」の姿が。まずは「フードコーナー」ヘ向かい昼食を。メニューサンプルが並ぶ。FOOD MENU。「鬼盛り!めんたい丼」を注文。 近づいて。「鬼盛り!めんたい丼の美味しい食べ方鬼盛り!めんたい丼とは明太子を思う存分楽しんで頂きたいという想いから、塩分を抑え、旨味やコクを引き立てた、めんたい丼特製の明太子をたつぷり乗せました。別添の旨味たつぷりのタレをかけてお召し上がりください。・まずは! そのままで明太子の味、つぶつぶ感をお楽しみください。・そして! 海苔をかけ風味をアップ!・最後に! 明太子の旨味をさらに引き立てる秘伝のタレをかけて。」 旅友は明太パスタを。工場直売!できたて明太子ショップ。様々な商品が並んでいた。「おうちで明太子」を食べよう♪」。オンライン注文も可能と。「いか明太しゅうまい」、「明太もつ鍋」。 「Mentai park IZU」全国の「めんたいパーク」のパンフレットが並ぶ。 「かねふく 明太子ふりかけ」を頂きました。 そして隣にあった「道の駅 伊豆ゲートウェイ函南」を訪ねた。2014年度(平成26年度)制定の重点道の駅「伊豆道の駅ネットワーク」の一つであり、川の駅(塚本地区MIZBEステーション、旧・狩野川塚本地区河川防災ステーション)が隣接する道の駅である。PFI事業で運営されている道の駅であり、PFI事業者の加和太建設グループが、開業から15年間管理運営を行う。2019年(平成31年)4月27日に川の駅施設がオープンしている。なお、川の駅駐車場を伊豆中央道から伊豆縦貫道沼津方面への道の駅駐車場として案内しており、道の駅施設と川の駅施設は展望歩道橋により連絡されている。MAP「Welcome to Shizuoka」。 「現在地」に近づいて。「みどころ Sightseeinng Spots1️⃣かんなみ仏の里美術館2️⃣反射炉3️⃣だるま山高原4️⃣日本サイクルスポーツセンター」 「伊豆半島ユネスコ世界ジオパークへようこそ南から来た火山の贈りもの伊豆半島まるごとミュージアムlzu Peninsula is the National and cultual Museum本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かっては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し、本州に衝突して半島になりました。約60万年前のできごとです。伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形をもつ半島が形作られています。海と陸の記憶を刻み込んだこの伊豆半島で、大地からの恵みである美しい景色や食、温泉、文化といった、たくさんの「贈りもの」を楽しんでみませんか?」 地図に近づいて。伊豆半島のおもなみどころ。■海の時代・城山・ユウスゲ公園・竜宮城・堂ヶ島天窓洞・千貫門■衝突とその後の時代・細野高原・走り湯・浄蓮の滝・戸田・御浜岬・河津七滝・楽寿園・白滝公園・大室山・玄岳・柿田川湧水群・鮎壺の滝オラッチェソフトクリームスタンド。学校給食で愛されている「丹那牛乳」らしく、学校をモチーフに売り場をリニューアル。実際に学校で使用されていた廃材を活用した店。丹那3.6牛乳函南町の山あいにある標高250mの小さな盆地、丹那(たんな)地域は140年以上続く「酪農の里」。豊かな自然の中でのびのび育った乳牛からとれた牛乳は、しっかり濃くて栄養豊かな味わい。函南町や県東部での学校給食でも飲まれるほど地域で長年愛されるブランド牛乳。乳脂肪分3.6%以上の新鮮な成分無調整牛乳 と。「蛇口ヨーグルト」!「物産販売所 いずもん」では丹那牛乳やソフトクリームなどを味わうことができますが、メニューの中に「蛇口ヨーグルト」という聞き覚えのない単語を発見。空のカップを渡され、売店の外にある大きな丹那牛乳パックの謎の穴をのぞくと、中に蛇口が…!蛇口をひねるとよく冷えた液体が出てきました。ミルクの風味がしっかりありながら、すっきりと飲みやすく喉越しさわやかなドリンクヨーグルト。「物産販売所 いずもん」(ネットから)。店内を散策。「伊豆ゲートウェイ函南 案内板」 函南町観光マップ。近づいて。そしてヤマモト食品・「伊豆わさびミュージアム」へ向かう。 「三島の老舗わさび屋・山本食品が運営するわさびミュージアムです。伊豆の代表的な名産品である「わさび濆」の製造過程を見学できたり、わさびの辛さを体験できるトンネルがあったりと、わさびの魅力を楽しく学べます。お土産も豊富に取り扱っており、短い時間でも子供から大人まで存分に楽しめます。」と。 「わさびトンネル」入口。 トンネルの中に入ると、不思議なことにわさびはないのにあのツーンとした香りが…。思わず鼻をつまみたくなる刺激です。ガラス窓から顔を覗かせれば、「ツーンとキタァァァ」などのセリフといっしょに、写真を撮ることができます。トンネルを抜けるとその先に現れるのは、「わさび田」。畳石式のわさび田が室内で栽培された、日本初で唯一の場所 と。本来であれば天城の山深い場所にある畳石式わさび田が、室内で見れるのは貴重!栽培されているわさびを、間近で見ることができたのであった。反対側には。「触ってわかる!わさびのおろし板の違い」 「古くから使われてきたわさびおろし「鮫皮」 上等でキメの細かいおろし器具(山葵おろし器)として使用します。江戸時代の宮大工がサメの皮をやすりとして使用していた事から着想を得たとされており、この時に使用されるサメは、板鰓類(ばんさいるい)と呼ばれる種類のカスザメの皮が使用されています。」 「これが鮫皮です。まず、触ってみてください。上から下、下から上。手触りが違いませんか?これが鮫皮の特徴。細かくランダムな凹凸がわさびを細かく摺り出します。だから、昔からわさびは鮫皮。円を描くように摺るのは、様々な方向で当てて、より細かくするためです。」 「木わさび用おろし板鋼鮫"Steel Shark" wasabi grater本わさびの歴史とともに、古くから使われてきた「鮫皮」(さめかわ)。これまではわさびをおろすのに「鮫皮」が最もおいしく仕上がる道具とされてきました。鋼鮫(はがねざめ)は、この「鮫皮」を超える味わいを実現した「本わさび導用」のおろし板です。最上級の辛味と香りを引き出すポイントの「ねばり」を出すため、日本の町工場の技術を駆使し、何度も試作を繰り返して完成しました。わさびをすりおろす際に技術を必要とせずおいしくすりおろすことができる「鋼鮫」。世界に向け本わさびの味わいを次のステージへと押し上げる役目を果たしてゆく秀品です。触れてみて、「上下・左右・斜め」と、どの方向から撫でてみてもザラザラ感を感じられるのが鋼鮫。「目」が一定の方向に向かっているのではなく、どの方向でも均一なため、ねばりを出し、辛味と香りを引き立たせることが町工場の技術により可能になりました。」「そして、これが鋼鮫わさび屋が本気でつくったおろし板。まずは触ってみてください。実は、このおろし板の秘密はこの”盤面”の模様にあります。よく見てください。この盤面がミソなんです。縦でも、横でも、斜めせも。あらゆる方向からわさびをとらえ、より細かく、なめらかに摺りあげます。」 「わさび漬け」の販売コーナー。「わさびのガニ芽」。「わさび ソフトクリーム」ポスター。「わさび ソフトクリーム」を購入し、楽しみました。牛のベンチ。そしてバスに戻るために引き返す。マスコットキャラクター「マモリくん」と記念写真コーナー。「マモリくん」顔出しパネル。「マモリくん」。マモリくんは狩野川に古くから住む、カッパの姿をした神様。狩野川とその地域を守ってくれています。泳ぎが得意なのはもちろん、実はとても足が早く、静岡県内のご当地キャラが競った「快足王グランプリ」では見事優勝した と。再び、めんたいパーク屋上の立派な明太モニュメント「15メートルのタラピヨちゃん」を。 移動して。 ・・・つづく・・・ ・・・もどる・・・
2026.03.27
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24体の仏像群の鑑賞を終えエントランスロビーへ。桜の花が迎えてくれた。そして「かんなみ仏の里美術館」の庭園を鑑賞。 「いにしえより仏の信仰がつづく函南町桑原区の自然と人の営みが映しだされた庭です。春はヤマザクラと周辺の山々に多く自生するハコネザクラ、夏は箱根山原生林を代表するヒメシャラと敷地の中で移植したサルスベリ、秋冬には桑原区から寄付されたシダレモミジとツバキが庭を彩ります。緑豊かな木々と山裾からの湧水を引き入れた流れの間を縫う園路を回遊する、ラウンジに腰をおちつけてじっくり眺めるなど、様々にお楽しみいただける庭です。」 奥にも桜の花が。小さな花びらの桜。「米桜」と。 豆桜(マメザクラ)とも言い、富士・伊豆箱根に咲く自然種の桜でバラ科の低中木です。2mぐらいの高さの木の細い枝に可愛い小さなピンクの花をびっしりとつけていました。とても可愛いらしい桜であった。さらに近づいて。こちらは「シダレモミジ」であったか?そして「ヒメシャラ」と。ここ函南町(静岡県)の町木は、町制施行10周年を記念して1973年に制定された「ヒメシャラ」。箱根山原生林の代表的な樹木であり、夏に白い可憐な花を咲かせ、樹皮が滑らかで美しいのが特徴。サルスベリに似ていますが、サルスベリはミソハギ科サルスベリ属の木ですが、ヒメシャラはツバキ科ナツツバキ属の木で似ているところはありますが全く別の種類。樹形にしても、サルスベリは小高木で幹は良く曲がり、枝を長く伸ばしますが、ヒメシャラは高木で直立して縦長の樹形になりますし、樹皮は橙色で美しく、シラカバ、アオギリとともに「三大美幹木」と呼ばれているのだ と。 これが函南町(静岡県)の町木「ヒメシャラ」の花(ネットから)。 そして「かんなみ仏の里美術館」の隣・東側にあった「熊野神社」を訪ねた。 石鳥居の扁額「熊野神社」。 石段の上に本殿の姿が。左手に「手水場」。 右手には石碑が並んでいた。「江戸時代のくらしを伝える石造物塞の神(道祖神) 単体・丸彫りの伊豆型道祖神。集落の入口に祀られ外から入ってくる 悪弊から村人を守る神としての信仰がありました。順札供養塔 享保十三年(一七ニ八)、西国・秩父・板東番霊場を巡った菅沼與右衛門、中村重兵衛が 建立したものです。庚申供養塔 二基 左から二番目の石塔は「青面金剛明王」と刻む文字塔(寛政二庚申年=一七七二建立)。 左端は三猿を刻む刻像塔となっています。 平成二十九年十一月吉日 桑原区史跡保存委員会」 塞の神(道祖神)。風雪の耐えている単体・丸彫りの伊豆型道祖神 と。「伊豆型道祖神は、単体道祖神の変形で、坐像が丸彫されている特徴があります。研究者たちによって、伊豆に見られる道祖神は他の地域の道祖神とは違うことから、”伊豆型”と呼んで区別するようになったようです。石工が伊豆石の石材の特性から生み出したものかもしれません。伊豆東部と中部を中心に、東は小田原・西は富士市・北は裾野市・南は東伊豆町の範囲に分布しています。」 と。順札供養塔享保十三年(一七ニ八)、西国・秩父・板東番霊場を巡った菅沼與右衛門、中村重兵衛が建立。庚申供養塔。「青面金剛明王」と刻む文字塔(寛政二庚申年=一七七二建立)。庚申供養塔。左端は三猿を刻む刻像塔。本殿に向かって参道を進む。「熊野神社(くまのじんじゃ)桑原の氏神「熊野権現」として古来より村人の厚い尊崇を受けてきました。創建時期は不詳。村人からは『うぶすなさま」「おぶつなさま」と呼ばれ、「宮講」という講が結ばれていた。祭神は伊弉諾命(イザナギノミコト)・伊弉冊命(イザナミノミコト)を祀る。伊弉諾命、伊弉冊命は熊野大神と呼ばれ、本社は紀州熊野大神である。本地仏の阿弥陀如来が神の姿となって権化したものといわれ、桑原ではかって阿弥陀如来を安置していたといわれる平清寺と一体のものとして、厚く信仰されてきた。熊野神社は町内に桑原、上沢、日守(下)に順次、狩野川、来光川の側に鎮座している。山岳信仰や山地での生業に関わる神社としての崇敬が厚かったのでしょう。又、境内地に宝永四年ニ月十七日、境界紛争功労者の石碑「桒里四君表」を建立し故人の遺徳を偲ぶ。ニ月十七日に例大祭が執り行われていたが、近年、ニ月第ニ日曜日に変更され、桑村小学校児童による浦安の舞が奉納されている。 文化庁ー文化遺産を活かした地域活性化事業 平成ニ十八年三月吉日 桑原区・桑原区史跡保存委員会」本殿。見事な彫刻。神輿舎。内部の神輿。「淡島神社」 婦人病に霊験があるとされ、針供養なども行われます。桑里四君表。熊野神社境内の社殿東側にある石塔は、明治18年に再建されたもの。元は宝暦二年に、桑原村の秣場への入会を争った際に、当時の村役人四人が苦労して勝訴した功績を後世に長く伝えるために建てられたもの。桑原・廃平清寺跡・唯念名号塔。唯念上人が地元の人に請われて彫った「南無阿弥陀仏」の六字名号塔が残ります。「伝廃小筥根山平清寺址(こはこねさんへいじあと)「地誌調」(明治十八年戸長役場編)によれば、明冶の初め迄桑原には薬師堂・阿弥陀堂のニつのお堂が有りました。江戸時代の様子を伝える「増訂豆洲志稿」によれば、薬師堂は柿生土の白山の南側に在り、平安時代に創建さ・れた小筥根山新光寺の在ったところと言われます。阿弥陀堂は「廃平清寺」として記されており、熊野神社の斜め後方に在ったと伝えられています。桑原の古文書によれば平清寺は龍泉寺や徳現寺と共に新光寺の塔頭の一つてあり、堂内には阿弥陀如来、子安延命地蔵菩薩・聖観世音菩薩等の諸仏像か安置されてきたということです。廃平清寺址とされる地の隣のお宅には「子安延命地蔵尊平清寺」と刻んた版木(函南町指定有形文化財)が伝えられ、また近くには平清寺住職のものという卵塔一基(宝永六年寂)も有り、この地が平清寺址であることを色濃く物語っています。小筥根山新光寺の塔頭はたくさんあったと「小筥根山縁起并序」は伝えますが、その所在地が推測されるのは廃平清寺のみとなっています。桑原の昔を知る貴重な旧跡の一つと言えるでしよう。安政四年(一八五七)八月ニ十四日唯念行者の名号塔を小筥根山平清寺の前へ建立し、唯念行者が来て開眼供養をしたと森年代記は伝える。その後長源寺境内に立つが、平成二十八年六月にこの地に建立されました。 平成ニ十八年六月吉日 桑原区史跡保存委員会」 「伝平清寺址」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.26
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「薬師如来坐像」の後ろに「十二神将立像」が並んでいた。 「十二神将立像」と「薬師如来坐像」。いただいた「パンフレット」の「十二神将立像」の写真。 十二神将立像 静岡県指定有形文化財本体像髙 91.5cm~105.4cm本尊薬師如来像に随侍していた十二神将立像。当初は鎌倉時代初期にに制作されましたが、時代の変遷とともに傷んだり壊れたりした時に造り直しているため、鎌倉時代初期から江戸時代初期まで、制作年代の異なる像で構成されています。近年の解体修理によって、表面に塗られた後世の厚い彩色が除去され、本来の像容や構造がよく分かるようになりました。いずれの像もヒノキ材の一木割矧造(未神将像のみ内刳りを施さない)、玉眼が嵌入されています。像高は1メートル前後と大型品で、十二体が揃っていることも貴重です。斜めからの写真。①毘羯羅大将(びからたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・十二神将の中でも武勇を象徴する守護神 ・薬師如来の誓願を守る軍神表情 ・眉を強く寄せた怒りの表情(忿怒相) ・眼は大きく見開き、魔を威嚇する鋭い視線 ・口を引き締めた厳格な武神の顔貌 👉 悪鬼・疫神を威圧するための表情頭部の特徴 ・頭上に獣面(鬼面)状の装飾が載る ・武将の甲冑風の冠飾 ・髪は炎状に立ち上がる表現 👉 武神・守護神としての威力を示す身体・姿勢 ・右腕を強く振り上げる戦闘姿勢 ・左腕を胸前に引き寄せる構え ・腰をひねる躍動的な姿勢 👉 敵に飛びかかる瞬間の動き甲冑・衣装 ・武将のような甲冑風の装束 ・胴には装飾文様が彫刻される ・腰から長い天衣(布)が左右に翻る 👉 戦闘の動きを強調する造形足元 ・岩座(いわざ)風の台座 ・一歩踏み出す姿 👉 邪悪な存在を踏み鎮める象徴十二支 ・亥(い)方角 ・北北西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を討つ武神造形の見どころ(この像の特徴) ・躍動感のある腰のひねり ・鎧の細かい彫刻 ・武神像らしい力強い体躯 ・翻る衣の動き 👉 平安彫刻に特徴的な武神表現②招杜羅大将(しょうとらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の誓願を守る武神(軍神) ・十二神将は薬師経に説かれる守護神で、それぞれが七千の眷属を率いるとされる。表情 ・眉を大きく吊り上げた忿怒相(ふんぬそう) ・目を見開き、強い威圧感を持つ表情 ・口を固く結び、悪鬼を威嚇する武神の顔貌 👉 病魔・邪鬼を退散させるための表情頭部の特徴 ・頭頂に炎状に立ち上がる髪(火焔形の髻) ・その上に十二支を表す小動物像頭上の動物 ・犬(戌) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 戌神将 を表す。身体・姿勢 ・右手に武器(棍棒状の武具)を掲げる姿 ・左手を腰に当てた威圧的な立ち姿 ・上半身をやや前に出す攻撃的姿勢 👉 敵を討つ直前の構え武器 ・棍棒(こんぼう)状の武器 ・邪鬼を打ち砕く象徴的武具甲冑・衣装 ・武将のような甲冑風装束 ・胸甲には文様装飾が施される ・腰からは翻る布(天衣) 👉 動きを強調する表現足元 ・岩座(いわざ)状の台座 ・片足を踏み出す姿勢 👉 邪悪な存在を踏み鎮める象徴十二支 ・戌(いぬ)方角 ・西北西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を討つ武神この像の造形的見どころ ・腰に手を当てた堂々とした武将姿 ・強く踏み出す脚の安定した重心 ・武器を掲げる力強い腕の動き ・頭上の十二支像(犬)👉 武神像としての威厳と迫力が強調されている。③真達羅大将(しんだらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の誓願を守護する武神(護法神) ・十二神将は薬師経に説かれる守護神で、各神将が七千の眷属を率いるとされる。表情 ・眉を強く寄せた忿怒相(ふんぬそう) ・大きく見開かれた鋭い目 ・引き締まった口元 👉 魔物や疫神を威嚇する武神の厳しい表情頭部の特徴 ・頭頂に小さな十二支の動物像頭上の動物 ・鶏(酉) 👉 十二神将は十二支を象徴するため この像は 酉神将 を表す。身体・姿勢 ・右腕を大きく振り上げる動作 ・左手を腰に当てた姿勢 ・左足を高く上げた躍動的な踏み込み姿 👉 戦闘中の一瞬を捉えたような力強い動き武器 ・振り上げた右手には武器を持っていた可能性が高い (現在は失われていると考えられる) 👉 武神像では槍・剣などが持たれることが多い甲冑・衣装 ・武将のような甲冑姿 ・胸甲には装飾文様 ・腰布や衣が左右に翻る 👉 激しい動きを表す彫刻表現足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏み出し、敵を踏みつけるような姿 👉 邪鬼降伏を象徴十二支 ・酉(とり)方角 ・西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を討つ軍神この像の造形的見どころ ・左脚を大きく上げた大胆な躍動姿勢 ・腰に手を当てた武将的威厳 ・胸甲の細かな彫刻 ・頭上の十二支(鶏) 👉 十二神将の中でも特に動きの強い像④摩虎羅大将(まこらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の教えを守る武神(護法神) ・十二神将は薬師経に説かれる守護軍で、各神将が七千の眷属を率いるとされる。表情 ・口を大きく開いた激しい忿怒相(ふんぬそう) ・眉を吊り上げた険しい表情 ・魔物を威圧する迫力ある武神の顔貌 👉 邪鬼や疫神を威嚇する怒りの表現頭部の特徴 ・頭上に王冠状の冠飾 ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・猿(申) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴し この像は 申神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を大きく構えた戦闘姿勢 ・右拳を振り上げるような構え ・左腕を胸前に構える 👉 敵に打ちかかる直前の動き武器 ・現在は武器を持たない姿 ・もとは武器を持っていた可能性がある 👉 十二神将像では武器が失われる例も多い甲冑・衣装 ・武将のような甲冑風装束 ・胴部には筋肉を強調した造形 ・腰布や衣が左右に流れる 👉 激しい動きを表す彫刻表現足元 ・岩座(岩形台座) ・左足を踏み出した前進姿勢 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・申(さる)方角 ・西南西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を討つ守護神この像の造形的見どころ ・両腕を大きく構えた格闘的ポーズ ・強く踏み出した脚の安定した重心 ・激しい怒りを表す開口表情 ・頭上の十二支像(猿) 👉 十二神将の中でも戦闘性を強く表現した像三叉戟(さんさげき)を持っていたのであろうと。⑤波夷羅大将(はいらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の誓願を守る護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれる守護軍で、それぞれ七千の眷属を率いるとされる。表情 ・口を大きく開いた忿怒相(ふんぬそう) ・歯を見せた激しい怒りの表情 ・眉を吊り上げた威圧的な顔貌 👉 魔物・疫鬼を威嚇する武神の表情頭部の特徴 ・頭頂部に炎状に立ち上がる髪(火焔形の髻) ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・羊(未) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴し この像は 未神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を前方に構えた格闘的姿勢 ・右手は拳を握り、攻撃の構え ・左手は掌を開き、相手を押さえるような動作 👉 敵に対して身構える瞬間を表す武器 ・現在は武器を持たない姿 ・もとは武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲には簡潔な装飾 ・両袖の衣が左右に大きく翻る 👉 動きと躍動感を強調する彫刻表現足元 ・岩座(岩形台座) ・両足で踏みしめる安定した姿 👉 邪鬼を鎮める象徴十二支 ・未(ひつじ)方角 ・南南西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を退ける守護神この像の造形的見どころ ・腹部を前に出した力強い体躯 ・大きく開いた口の激しい忿怒表情 ・翻る長い袖の衣表現 ・頭上の十二支像(羊) 👉 十二神将の中でも豪快な動きと怒りを強く表す像⑥因達羅大将(いんだらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守護する護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれ、各神将は七千の眷属を率いる守護軍とされる。表情 ・他の神将に比べてやや穏やかな忿怒相 ・口を閉じた引き締まった表情 ・眼差しは鋭く、威厳ある武神の顔貌 👉 激しい怒りよりも威圧的な威厳を感じさせる表情頭部の特徴 ・頭上に髻(もとどり)状の髪形 ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・馬(午) 👉 十二神将は十二支を象徴するため この像は 午神将 を表す。身体・姿勢 ・直立に近い堂々とした立姿 ・右腕を自然に下げる姿勢 ・左手を腰に当てる構え 👉 武将の威厳ある立ち姿武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲・腰甲に装飾文様 ・腰から長く垂れる布(天衣) 👉 武神像らしい重厚な装備足元 ・岩座(岩形台座) ・両足で安定して立つ姿 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・午(うま)方角 ・南象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を鎮める守護神この像の造形的見どころ ・十二神将の中では比較的静かな姿勢 ・武将のような堂々とした体躯 ・細かい甲冑の彫刻 ・頭上の十二支像(馬) 👉 十二神将の中でも威厳を強く感じさせる像⑦珊底羅大将(さんてらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守る護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれ、各神将は七千の眷属を率いる守護軍とされる。表情 ・眉を吊り上げた忿怒相(ふんぬそう) ・目を鋭く見開き、魔物を威圧する表情 ・口を固く結んだ武神らしい厳しい顔貌 👉 邪鬼や疫神を退ける威嚇の表情頭部の特徴 ・頭頂に炎のように立ち上がる髪(火焔形の髻) ・両側に張り出した角状の髪飾り ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・蛇(巳) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 巳神将 を表す。身体・姿勢 ・右手を軽く握り、戦闘の構え ・左手を腰に当てた武将的姿勢 ・上半身をややひねった躍動的立姿 👉 敵に対して身構える瞬間を表現武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲には装飾文様 ・腰から翻る布(天衣) 👉 動きを強調する衣の表現足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏みしめる姿 👉 邪鬼降伏の象徴十二支 ・巳(へび)方角 ・南南東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を退散させる守護神⑧頞儞羅大将(あにらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の誓願を守る護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれる守護軍で、各神将は七千の眷属を率いるとされる。表情 ・眉を強く寄せた忿怒相(ふんぬそう) ・口を引き結んだ厳しい表情 ・強い意思を感じさせる武神の威厳ある顔貌 👉 邪鬼や疫神を威圧する守護神の表情頭部の特徴 ・頭頂に髻(もとどり)状に立つ髪形 ・その上に十二支を象徴する小動物頭上の動物 ・龍(辰) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 辰神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を胸前で交差させた独特の構え ・右手を下方に差し出す動作 ・左脚を踏み出した力強い立姿 👉 敵を制する瞬間を思わせる動き武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲には唐草風装飾文様 ・腰から翻る布(天衣) 👉 動きを強調する衣表現足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏み出した姿勢 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・辰(たつ)方角 ・東南東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を討つ守護神⑨安底羅大将(あんてらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守護する護法武神 ・『薬師経』では十二神将がそれぞれ七千の眷属を率い、薬師如来の誓願を守護すると 説かれる。表情 ・眉を強く寄せた忿怒相(ふんぬそう) ・口を開き歯を見せる威嚇の表情 ・目を大きく見開いた迫力ある武神の顔貌 👉 邪鬼や疫神を退散させるための威圧的な表情頭部の特徴 ・武将のような兜状の冠を着けた姿 ・頭頂部に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・兎(卯) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 卯神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を前方に構えた戦闘姿勢 ・右手は拳を握り攻撃の構え ・左手も前方に出し敵を制する姿 👉 敵と対峙する瞬間の姿武器 ・現在は武器を持たない姿 ・もとは武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲・腹甲に簡潔な装飾文様 ・腰から長く垂れる布(天衣) 👉 武神像としての重厚な装備足元 ・岩座(岩形台座) ・両足を踏みしめた安定した姿勢 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・卯(うさぎ)方角 ・東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を退散させる守護神⑩迷企羅大将(めきらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守護する護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれ、それぞれが七千の眷属を率いる守護軍とされる。表情 ・眉を吊り上げた忿怒相(ふんぬそう) ・口を大きく開き歯を見せる威嚇の表情 ・魔物を退ける迫力ある武神の顔貌👉 邪鬼や疫神を威圧する守護神の表情頭部の特徴 ・武将のような兜状の冠を着けた姿 ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・虎(寅) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴し この像は 寅神将 を表す。身体・姿勢 ・右手を胸前に当てる構え ・左腕を下げた安定した姿勢 ・左脚を前に出した堂々とした立姿 👉 武将のような落ち着いた構え武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲・腹甲に装飾文様 ・腰から長く垂れる布(天衣) 👉 武神像としての重厚な装束足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏み出した姿勢👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・寅(とら)方角 ・東北東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を退散させる守護神⑪伐折羅大将(ばさらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守護する護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれ、それぞれが七千の眷属を率いる守護軍とされる。 ※「伐折羅」はサンスクリット語 Vajra(ヴァジュラ) に由来し、 金剛・雷霆の力を象徴する武神名である。表情 ・眉を強く吊り上げた激しい忿怒相(ふんぬそう) ・鋭く見開かれた目 ・口を固く結んだ威圧的な武神の顔貌 👉 邪鬼や疫神を威嚇する守護神の表情頭部の特徴 ・頭上に火焔状に立ち上がる髪(火焔髻) ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・牛(丑) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴し この像は 丑神将 を表す。身体・姿勢 ・右腕を高く振り上げた攻撃的姿勢 ・左手を腰に当てる武将的構え ・体をひねった躍動的な立姿 👉 敵を討とうとする瞬間の動き武器 ・現在は武器を持たない姿 ・もとは武器を持っていた可能性が高い (伐折羅の名から金剛杵などを持つ場合が多い)甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲には簡潔な装飾文様 ・腰から翻る布(天衣) 👉 武神としての動きを強調する造形足元 ・岩座(岩形台座) ・片足を踏み出した姿 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・丑(うし)方角 ・北北東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を打ち破る守護神⑫宮毘羅大将(くびらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・十二神将の中でも先頭に立つ守護武神とされることが多い。 ・『薬師経』では十二神将がそれぞれ七千の眷属を率い、薬師如来の誓願を守護すると説かれる。表情 ・口を固く結んだ威厳ある忿怒相 ・眉を寄せた鋭い眼差し ・激しい怒りというより静かな威圧感を持つ武神の顔貌 👉 敵を威圧し退散させる守護神の表情頭部の特徴 ・頭上に立ち上がる髪(火焔状の髻) ・両側に張り出した耳状の装飾(または髪飾り) ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・鼠(子) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 子神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を左右に構えた力強い姿勢 ・腰に力を入れた武将的構え ・左脚をやや踏み出した安定した立姿 👉 敵と対峙する瞬間の姿武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲・腹甲に装飾文様 ・袖の大きく翻る衣 👉 武神像らしい動きを表す衣表現足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏みしめた姿 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・子(ね)方角 ・北象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を退散させる守護神十二神将は本来・剣・槍・斧・戟など様々な武器を持ちます。しかし多くの像では武器が失われています。そのため美術館では👉 武器の例として展示したこともあったとのこと。①毘羯羅大将(びからたいしょう)の頭部・両側に張り出す翼状の髪・上に乗る動物 という特徴。頭頂の小像は・丸い体・前方に短い口・小さな耳👉 猪(いのしし)③真達羅大将(しんだらたいしょう)の頭部。頭上の動物頭頂部の小像を見ると・細い首・小さな頭・上に立つ冠状の部分これは👉 鶏(酉)⑦珊底羅大将(さんてらたいしょう)の頭部・頭上を見ると・長くうねる形・とぐろ状の曲線細長い頭部これは👉 蛇(巳)⑩迷企羅大将(めきらたいしょう)の頭部。兜状の冠最大の特徴は武将の兜のような冠。迷企羅大将は十二神将の中でも兜を着けた武将型の表現で軍神的な姿になることが多い。この像も鉢金状の兜上に十二支像という構造。頭頂部を見ると ・耳が立つ ・小型の四足動物 👉 虎(寅)十二神将「頭部識別表」と「薬師如来を中心とした十二神将の円形配置図」 (頭上の十二支像と頭部造形から識別する一覧)十二支 神将名 頭上の動物 頭部・髪型の特徴 表情の傾向 子 宮毘羅大将 鼠 兜状の冠、丸い小動物威 厳ある忿怒 丑 伐折羅大将 牛 火焔状の髪、角のような張り出し 激しい忿怒 寅 迷企羅大将 虎 武将兜型の頭部 戦闘的表情 卯 安底羅大将 兎 兜状頭部、小型動物 強い忿怒 辰 頞儞羅大将 龍 髻状の頭頂装飾 威厳型 巳 珊底羅大将 蛇 炎状の髪+蛇が巻く 強い忿怒 午 因達羅大将 馬 武将兜、穏やかな髪型 威厳型 未 波夷羅大将 羊 炎状の髪、小型動物 忿怒相 申 摩虎羅大将 猿 丸顔動物、髪が大きく張る 忿怒 酉 真達羅大将 鶏 冠状装飾+鶏 忿怒 戌 招杜羅大将 犬 火焔状髪+犬 強い忿怒 亥 毘羯羅大将 猪 丸い体の動物、張る髪 吽形が多い「その他の所蔵品」聖観音像静岡県指定有形文化財 木造/平安時代聖観音とは聖観音(しょうかんのん)は観音菩薩の基本形(原初形)であり、多くの変化観音の原型となる存在です。観音菩薩の役割 ・人々の苦しみを救う ・慈悲を象徴する菩薩造形の特徴① 端正な顔立ち ・穏やかな表情 ・細く切れ長の目 ・優しい微笑 👉 平安仏の典型的な静かな慈悲の表情② 宝冠(ほうかん)頭部には菩薩の宝冠が付く。観音像では通常、中央に阿弥陀仏の化仏が表される。③ 印相(手の形)右手 ・施無畏印(せむいいん)意味 👉 「恐れることはない」左手 ・与願印(よがんいん)意味 👉 「願いをかなえる」姿勢 ・直立する安定した姿 ・両足を揃えた立像 ・細身で流れるような体 👉 平安仏特有の 優雅な均衡美衣文(衣の表現)衣の線は ・細く ・流れるように ・簡潔 👉 平安仏の特徴である 穏やかな衣文表現台座 ・蓮華座(れんげざ)意味 蓮は ・清浄 ・仏の世界 を象徴する。仏像史的特徴この像は ・平安後期の作風 ・穏やかな表情 ・細身の体形を持つ。これは定朝様式の影響 を感じさせる造形。地蔵菩薩像静岡県指定有形文化財 木造/平安時代地蔵菩薩とは地蔵菩薩は ・六道の衆生を救う菩薩 ・特に ・子供 ・旅人 ・死者を守る仏として信仰されます。名前の意味 地蔵 = 大地のようにすべてを包み支える存在造形の特徴① 僧形(そうぎょう) 地蔵菩薩は観音菩薩などと違い ・宝冠をつけない ・僧侶の姿になります。この像も ・剃髪頭 ・僧衣という特徴を持ちます。② 印相(手の形)右手 ・施無畏印(せむいいん)意味 👉 「恐れることはない」左手 ・宝珠(ほうじゅ)を持つ形宝珠の意味 👉 願いをかなえる智慧の象徴 (この像では宝珠は失われている可能性)姿勢 ・直立する安定した姿 ・両足をそろえる ・重心の安定 👉 平安仏の特徴である 静かな安定感衣文(衣の表現)衣の線は ・細く流れる ・自然な曲線 👉 平安時代の柔らかい衣文表現台座 ・蓮華座(れんげざ)蓮の意味 ・汚れた泥の中から咲く清浄な花 ・仏の世界仏像史的特徴この像は ・細身の体 ・穏やかな表情 ・簡潔な衣文などから👉 平安後期の様式と考えられます。定朝様式の影響を受けた落ち着いた仏像表現。不動明王像南町指定有形文化財木造/室町時代以降不動明王とは不動明王は ・大日如来の化身 ・真言密教の守護尊役割 ・煩悩を断つ ・悪魔を降伏させる ・修行者を守護する名前の意味 不動 = 動じない悟りの心造形の特徴① 忿怒相(ふんぬそう) ・眉を吊り上げる ・厳しい表情 ・怒りの顔 👉 煩悩を断ち切る力を象徴② 持物右手宝剣(ほうけん)意味 ・煩悩を断つ智慧の剣左手羂索(けんさく)意味 ・悪人を縛り救済する縄姿勢 ・左脚を前に踏み出す ・力強い立姿 👉 修行者を守る守護者の姿火焔光背背後には火焔(かえん)光背があります。意味 ・煩悩を焼き尽くす智慧の炎この像では ・赤く大きく広がる炎 ・強い躍動感が特徴です。髪型不動明王の典型弁髪(べんぱつ) ・左側に垂れる髪 👉 インドの修行者の姿足元 ・岩座意味 👉 動かない悟り(不動)仏像史的特徴この像は ・やや写実的な体形 ・力強い火焔 ・動きのある姿などから👉 室町時代以降の作風 と考えられます。毘沙門天像静岡県指定有形文化財 木造/平安時代毘沙門天とは毘沙門天は ・四天王の一尊(多聞天) ・北方を守護する神役割 ・仏法を守護する ・財宝を司る ・戦勝の神日本では👉 武士からの信仰が非常に強い仏 として知られます。造形の特徴① 武神の姿この像は ・兜を着ける ・鎧を着る ・武人の姿 で表されます。これは👉 仏法を守る守護神 を意味します。② 踏みつける邪鬼足元にいるのは邪鬼(じゃき)意味 ・煩悩 ・悪👉 仏の力が悪を制圧している象徴。③ 腰の構え ・右手を上げる ・左手を腰に当てるこれは👉 武神の威圧的な姿勢 を示しています。本来の持物毘沙門天の典型は右手 ・宝棒(ほうぼう)左手 ・宝塔(ほうとう)宝塔の意味👉 仏の財宝(仏法)表情この像は ・厳しい顔 ・眉を寄せる ・強い目👉 武神としての威厳 を表しています。平安時代の特徴この像は ・比較的静かな姿勢 ・装飾は控えめ ・顔が穏やかなどから👉 平安仏の武神像 と考えられます。空海上人像函南町指定有形文化財 木造/江戸時代以降空海とは空海(774–835)は ・真言宗の開祖密教を日本に伝えた僧代表的な功績 ・高野山開創 ・東寺の密教道場 ・書家(日本三筆)宗教的には👉 弘法大師(こうぼうだいし) という尊称で呼ばれます。造形の特徴① 僧形の姿空海像は ・剃髪頭 ・僧衣という姿で表されます。この像も👉 修行僧の姿 です。② 坐像この像は坐像であり ・膝を折る ・静かに座る👉 瞑想・説法の姿 を示します。③ 手の形両手は ・胸の前に置く ・衣を持つ形これは👉 祈念・説法姿 に近い表現です。表情顔の特徴 ・穏やかな眼 ・静かな口元 ・落ち着いた顔👉 高僧の精神性 を表しています。江戸時代の特徴この像には江戸彫刻の特徴があります。 ・写実的な顔 ・丸い顔立ち ・彩色の痕跡江戸時代には弘法大師信仰が非常に広まりました。弘法大師信仰江戸時代には ・四国八十八ヶ所巡礼 ・大師講などが全国に広まりました。そのため👉 弘法大師像が多く作られました。経巻(きょうかん)上人像南町指定有形文化財 木造/江戸時代以降経巻上人とは「経巻上人」という名称は、特定の有名僧を指す場合もありますが、多くの場合は ・経典を書写する僧 ・経典を守護する僧 ・寺院の学僧などを象徴的に表す呼称です。つまり👉 経典を守り伝える僧を意味します。造形の特徴① 坐像(ざぞう)像は ・床に座る姿 ・安定した姿勢これは👉 読経・説法の姿 を示します。② 経巻像の前には巻物状の経典が置かれています。意味 ・仏の教え ・仏法の伝承③ 僧形特徴 ・剃髪 ・僧衣 ・袈裟👉 僧侶の正式な姿表情顔の特徴 ・年齢を感じさせる顔 ・穏やかな眼少し口を開く👉 説法する僧の姿 を表しています。彩色衣には ・赤 ・青 ・白の彩色が残っています。江戸時代の仏像は👉 彩色が比較的豊か です。台座台座の前面には唐草文様の金具 が付いています。これは ・江戸時代の仏像台座 ・寺院家具風の装飾の特徴です。仏像としての位置この像は仏(如来)、菩薩、明王、天部とは異なり👉 祖師像・僧像 です。つまり実在の僧侶を表す像 になります。「仏像展示室」を出て、記念スタンプをもらう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.25
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そして、「資料展示室」を後にして「仏像展示室」に移動して、仏像を鑑賞する。以下の写真もパンフレット&ネットから。「かんなみ仏の里美術館」のこの「仏像展示室」には、薬師如来坐像をはじめ、阿弥陀三尊像、十二神将像など計24体の仏像群が展示されていた。 まずは、■像の名称 ・薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう) 「 かんなみ仏の里美術館」の代表的な仏像の一つで、静岡県指定有形文化財。■時代 ・制作時期は、作風からみて平安時代中期、11世紀半ばごろと推定されています。■材質と造り ・榧(かや)材を用いた、一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)。 ・これは大きな木から像の主要部を彫り出し、内部を割って刳り、再びはぎ合わせる技法で、 平安期の木彫仏に多く見られる。■大きさ ・像高110.0センチメートル。実物は、写真で見る以上に量感があり、正面性の強い 落ち着いた存在感をもっていた。 ・写真の奥に並んでいるのは十二神将 ・役割:薬師如来の護衛、病魔の退散、信者の守護つまりこの展示は薬師如来+十二神将という薬師浄土の完全な守護体系になっていた。■この仏さまは何を司るのか ・薬師如来は、一般に病気平癒・身体健全・苦しみの除去を願う仏として信仰された。 ・「医王如来」とも呼ばれ、人々の心身の苦しみを癒やす存在として親しまれて来た。 ・この像も、もともと地域の人々に「お薬師さん」として大切に守られて来た。■もともとの安置場所 ・この像は、函南町桑原の桑原薬師堂に伝わってきた仏像群の中心的存在。 ・現在は保存と公開のためこの美術館に移されているが、もとは地域の堂で信仰されていた、 生活に近い仏さまでしあった。■顔立ちの特徴 ・公式解説では、「円満な顔立ち」がこの像の年代を考える手がかりの一つとされている。 ・実際に写真でも、厳しさ一辺倒ではなく、静かで包み込むような表情が感じられる。 ・眉・目・口の表現は強すぎず、全体として穏やかで端正。■体つきの特徴 ・解説では、「堂々としながらも丸みを帯びた体つき」と。 ・胸や腹部にはしっかりした厚みがあり、ただ痩せた禁欲的な仏ではなく、内に充実し 力をたたえた像として表されている。■衣の表現(衣文) ・衣のひだは、細密に彫り込みすぎず、簡略ながらよくまとまった衣文表現と 説明されていた。 ・写真でも、胸から腹、脚へ流れる線がすっきりしており、装飾性よりも像全体の安定感を 大切にした作りに見えた。■迫力の理由 ・公式には、顔面の彫りの鋭さ、衣文の簡潔さ、胸腹部の厚みが、この像に迫力を 与えていると説明されている。 ・つまりこの像の魅力は、豪華さではなく、簡潔なのに強いという点にある。■手のかたち ・右手を上げ、左手を膝の上に置き薬壺(やっこ)を持つ。 ・薬師如来像の本来の形・薬壺を持つ表現がみられ、この像は現在の姿として、 静かに衆生に向き合う落ち着いた印象を与えていた。■この像の美術史的なおもしろさ ・平安中期の仏像らしく、後の時代の写実性よりも、正面性・安定感・精神性が 重視されている。 ・そのため、横や斜めからの動きより、正面から拝したときの荘厳さが際立つタイプの 仏像といえます。 ・これは、公式解説にある「堂々」「円満」「迫力」という評価からもうかがえる。■信仰史の面で大切な点 ・桑原の仏像群は、明治の廃仏毀釈の時期にも、地域の人々によって別の寺へ移される などして守られて来た。 ・その後、新たに建てられた桑原薬師堂に納められ👈️リンク、今日まで伝えられています。 ・この薬師如来坐像は、単なる古美術品ではなく、地域住民の信仰と保護の歴史そのものを 背負う像。■ 左手の薬壺(やっこ) ・左手の掌の上に、丸い蓋付きの小さな壺を載せている。 ・これは薬師如来を示す最大の特徴で、万病を治す霊薬を象徴。 ・薬壺は ・病気 ・苦しみ ・煩悩 を治す「仏の医薬」を意味する。 ・このため薬師如来は医王如来(いおうにょらい)とも呼ばれる。■右手の印相(施無畏印) ・右手を胸の前で上げ、掌を正面に向けています。 ・これは施無畏印(せむいいん) ・意味 ・「恐れることはない」 ・「安心しなさい」 ・病や死への恐怖から人々を救う姿。■ 平安仏の特徴(体つき) ・胸と腹に厚みのある量感 ・肩幅が広く堂々とした姿 ・膝の張りが大きい → 平安中期仏像の特徴■ 顔の特徴(定朝様以前の古様) ・丸く豊かな顔 ・半眼の静かな表情 ・厚い唇 ・どっしりした頬 ・→ 威厳と慈悲を兼ねた表情■ 衣の表現(衣文) ・胸から腹へ流れるなめらかな衣文線 ・膝前の衣が波状に整然と並ぶ ・線は細かすぎず大きく整理されている ・→ 平安彫刻らしい安定したリズム■薬師如来の信仰薬師如来は東方浄瑠璃世界の仏であり主な功徳 ・病気平癒 ・延命長寿 ・災厄除け ・現世利益特に日本では疫病除けの仏として広く信仰された。正面と横から比較できる合成写真をネットから。■印相(最重要) この像の印相は来迎印(らいごういん)。 ・右手:胸前に上げる ・左手:膝の前で掌を上に これは極楽浄土から衆生を迎えに来る姿を表す印。 阿弥陀像では典型的な表現で、「迎えに来る仏」を象徴します。■正面観の特徴 正面から見ると ・頬が張った顔 ・強い眼差し ・胸の厚い体 が目立ちます。 これは鎌倉初期の慶派仏像の特徴。 この三尊像は奈良仏師 実慶(じっけい)の作とされ、 慶派の力強い写実表現がよく現れています。■横顔の特徴(この写真の見どころ) 横から見ると、非常に重要な特徴が分かる。 ① 顎の張り ・顎が前に出る ・口角が引き締まる 👉 慶派の写実性 ② 鼻筋 ・鼻梁が高く直線的 👉 鎌倉彫刻の特徴 ③ 目の形 ・切れ長の眼 ・強い視線 👉 運慶系の表情 ④胸の造形 横から見ると胸のふくらみが大きい これは、生命感を強く表す慶派の造形。 平安仏は ・平面的 ・静的 ですが 鎌倉仏は ・立体的 ・力強い のが特徴。 ⑤衣の流れ 右肩から流れる衣文は ・太く深い彫り ・大きな曲線 慶派彫刻は布の重量感を表現していた。 ⑥地髪(螺髪) 頭の螺髪は ・ふくらみが強い ・大粒 これも鎌倉彫刻の特徴です。 ⑦体型 体型は ・やや細身 ・胴が締まる これは慶派の中でも運慶の作風に近いと指摘されている。 ⑧制作年代 この三尊像の制作は12世紀末〜13世紀初頭と考えられています。 つまり 鎌倉彫刻の初期名品です。 ⑨この像の大きな魅力 この阿弥陀像の魅力は 正面と横顔の両方が美しいこと。 平安仏は「正面鑑賞」ですが 慶派仏は三次元彫刻なのです。 ⑩見方のコツ 美術館で見るときは ・ 横顔 ・顎 ・胸の厚み ・衣の流れ を見ると慶派彫刻の凄さが分かるのだ と。「阿弥陀如来及両脇侍像」国指定重要文化財。■ 像の構成 ・中央 阿弥陀如来坐像 ・向かって右 観音菩薩立像 ・向かって左 勢至菩薩立像 この三体で阿弥陀三尊(あみださんぞん)を構成。■ 阿弥陀如来とは ・西方極楽浄土の教主 ・名号「南無阿弥陀仏」を唱える者を救う仏 ・死後に極楽浄土へ導く 日本では平安時代以降に最も信仰された仏。■ 阿弥陀如来坐像の特徴 印相 ・両手で来迎印(らいごういん) ・極楽から迎えに来る姿 表情 ・静かで慈悲深い半眼 ・やや面長の穏やかな顔 体つき ・胸が厚く安定した量感 ・正面性が強い■蓮華座(れんげざ) ・阿弥陀は大きな蓮華座に坐る ・蓮は仏教で 清浄・悟りを象徴 泥の中から咲く花であるため煩悩の世界から悟りが生まれる意味を持つ。■ 観音菩薩(向かって右) 役割 ・阿弥陀の慈悲を表す菩薩 特徴 ・穏やかな立像 ・宝冠を戴く ・優しい表情 阿弥陀が救う人を慈悲で導く役目■ 勢至菩薩(向かって左) 役割 ・阿弥陀の智慧を象徴 特徴 ・宝冠を戴く ・落ち着いた立像 観音が慈悲なら勢至は智慧■ 阿弥陀三尊の意味 三体はそれぞれ 仏 象徴 阿弥陀如来 救済の主体 観音菩薩 慈悲 勢至菩薩 智慧つまり慈悲と智慧による救いを表す。■銘:中尊像の首柄内面に「大仏師実慶」、両脇侍像(観音菩薩・勢至菩薩)の頭部内面に 「仏師実慶」。■ 来迎思想 阿弥陀信仰の特徴は 来迎(らいごう) 死の瞬間に阿弥陀と菩薩が現れ 信者を極楽浄土へ迎えに来る という思想。 この三尊像はその世界観を示している。■制作時代の特徴(平安彫刻) ・この像の特徴安定した姿勢 ・なめらかな衣文 ・穏やかな顔 ・正面性の強い構成 これは平安仏像の典型的様式です。■もとの安置場所 この三尊像は 函南町 桑原薬師堂👈️リンク に伝来した仏像群の一部です。 周囲には ・薬師如来 ・十二神将 などがあり地域の仏教信仰の中心であった。■美術史的な価値 この三尊像は ・保存状態が良い ・三尊が揃って伝わる ・平安仏の様式が明確 なため 国指定重要文化財になっています。■鑑賞ポイント 見るときは ① 阿弥陀の穏やかな顔 ② 大きな蓮華座 ③ 両脇侍の静かな立ち姿 ④ 三体の左右対称のバランス を観察すると平安仏像の美しさがよく分かります と。(左)阿弥陀如来及両脇侍像(重要文化財)、(右)薬師如来坐像(静岡県指定有形文化財)パンフレットから。阿弥陀如来の印相■ 印相名 来迎印(らいごういん) より正確には上品下生印(じょうぼんげしょういん)と考えられます。 手の形 右手 ・胸の前で上げる ・親指と中指で輪を作る 👉 来迎印の上手 左手 ・膝の前で掌を上に向ける ・親指と人差し指で輪を作る 👉 来迎印の下手 来迎印の意味 来迎とは「迎えに来る」という意味。 つまりこの印相は阿弥陀如来が極楽浄土から人を迎えに来る姿を表しています。 九品来迎との関係 浄土教では極楽往生は九つの段階(九品)に分けられます。 階級 意味 上品 高い徳の人 中品 普通の修行者 下品 罪深い人でも救われるその中の上品下生という段階を表す印相です。「桑原薬師堂(くわはらやくしどう)」。静岡県田方郡函南町桑原592静岡県田方郡函南町原にある、山号を「深谷山」と称する、1504年創建の曹洞宗寺院である「長源寺」の裏山にある薬師堂。「かんなみ仏の里美術館」が出来るまで、鎌角時代の実慶作とされる、国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像(正式には時代が異なるため、阿弥陀如来像と両脇侍像)をはじめ、静岡県指定有形文化財の薬師如来坐像や十ニ神将立像など、24体の貴重な仏像たちが安置されていたお堂。長い間地元の人々の手により大切に守られてきたが、2008年に町に寄贈されたのを機に、現在は2012年4月にオープンした「かんなみ仏の里美術館」に移されており、堂内には無い。在りし日の「桑原薬師堂」内。在りし日の「桑原薬師堂」内の正面に「薬師如来坐像」。 手前の日光菩薩像、月光菩薩像は現在でも「桑原薬師堂」に安置されているのであろうか? 在りし日の「桑原薬師堂」内の「阿弥陀三尊像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.24
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そして「御殿場JCT」から新東名高速道路に入り、「長泉沼津IC」から「東駿河湾環状道路」で「大場・函南IC」まで進み、「県道141号線・清水函南停車場線」にて東に進む。 そしてこの日の最初の訪問地「かんなみ仏の里美術館」に到着。 「函南町桑原区では、平安時代の「薬師如来像」や鎌倉時代の「阿弥陀三尊像」など、二十四体の仏像群が、里人の厚い信仰心によって守られてきました。これら仏像群の散逸を防ぎ、後世に保存継承していくための施設として、明治30年代後半に桑原の有志により、長源寺の裏山中腹に「桑原薬師堂」が建てられました。2008年(平成20年3月)に桑原薬師堂の二十四体の仏像群が、桑原区から函南町に寄付されました。寄付された仏像群には、国指定重要文化財の阿弥陀如来及両脇侍像(略称・阿弥陀三尊像)の他に、静岡県指定有形文化財(薬師如来坐像、毘沙門天立像、聖観音立像、地蔵菩薩立像、十二神将立像)があり、その中にも全国的に貴重な文化財が含まれています。町民の財産である貴重な文化財を、後世に保存継承するとともに、多くの方々が鑑賞し、学ぶことができる施設として「かんなみ仏の里美術館」が設置されました。里人の心に守られてきた仏像群が、皆さまのご来場をお待ちしています。」とHPから。平成24年4月14日に開館した「かんなみ仏の里美術館」全景。四角錐の特徴ある屋根が美しいのであった。「函南町 仏の里 桑原」案内図。『 里人の厚い信仰が守った、文化財の数々 』廃仏毀釈の嵐に遭遇したのは、函南の寺や仏たちだけではなかったが、当地も御多分に漏れなかった。厚き信仰の里人たちは、寺は隠せないが、せめて仏像だけでもと隠し持つ努力を惜しまなかった。日本全土に根付いた仏教の力は、政治家たちが思うほどひ弱な信仰精神ではなかった一時期、寺から避難させられた仏たちも、後に陽の目を見て人前に出る事が出来るようになった函南の仏たちも手厚く扱われ、「かんなみ仏の里美術館」に収められ、人々の目を楽しませている。』とネットから。「かんなみ 仏の里美術館 周辺案内図」。 「現在の函南町桑原を含む北東部一円は小筥根(こはこね)と呼ばれ、平安時代に筥根権現(箱根、函根)の神領となり、天平宝字元年(757)に筥根権現を開いた萬巻上人の菩提寺・小筥根山新光寺(廃寺)があった。上人が死去した後に、弟子たちが上人の愛した桑原の地(小筥根)に七堂伽藍の大寺を建てたものである。駒ケ岳山頂の元宮から万巻上人が芦ノ湖湖畔に現在の箱根神社の場所に箱根三所権現と金剛王院東福寺を創建したとは言え、標高が高く芦ノ湖から吹きすさぶ寒気も厳しく、冬場では氷点下となり厳しい修行環境だったに違いない。万巻上人は山岳宗教を信奉する修験者団体の取りまとめ役として朝廷から箱根山へ派遣され、自らも厳しい神仏混淆の荒修行を重ねていたものの、歳を重ねるごとに弟子たちの勧めもあり、厳寒の箱根山芦ノ湖畔に比し、箱根の南の低地に位置する小筥根(函南桑原)は数段暖かい(年間平均気温16℃内外)、箱根権現の神領であった同里山へ足を運ぶことが多くなったと思われる緑濃い里山に囲まれ、来光川の流れ下る谷間に茅葺の農家が散在し、村々の老若男女とも顔馴染みとなった万巻上人は次第に閑静な当地へ通うことが多くなって行き、時には赤子を背負う母子の姿を観じて、上人が青年期に離別した母親を思慕したかも知れない。荒ぶる山岳修行の末の開眼、山岳霊峰には不可能な田畑を耕し、土に足が付いた暮らしの奥深さ、万巻上人が最後に見つめた小筥根の里山の平和な姿だったかも知れない。弟子たちも上人が小筥根を深く愛されていることを熟知しており、当時としては驚異的年齢の97才で大往生した上人の心情をおもんばかり、桑原の地に七堂伽藍の大寺を建立し、その後都の一流仏師に仏像を作らせ万巻上人の弟子たちにより永く供養が続けられた。数多くの修験者達の参拝もうでも当然あった筈だ廃寺となった理由や時期は明らかでは無いが、仏像の状態が比較的良好であることから、火災や地震による本堂大倒壊では無く、老朽化や政治的変遷等により廃寺を余儀なくされたと思われる。長源寺裏手にある薬師堂(桑原地区の住民が維持管理して来た)の入口から来光川沿いに北西300mほど離れた水田の中に礎石が残されている。いずれにせよ、万巻上人が生前小筥根を愛したように地元住人も上人への尊崇と崇愛の念が強く、新光寺の廃寺後、誰とも無しに無為自然に仏像の安置維持管理と奉仕に努めて来たのである。南東約300mにある長源寺裏手に位置する桑原薬師堂の中に仏像を安置し、戦火など万難を乗り越え仏像群(全24体)を無事に守り抜いて来た桑原地区の住人の強い信仰心に敬意を抱かざるを得ない。そのおかげで戦後には仏像は県重要文化財などの遺産登録がなされ、2012年4月には「かんなみ仏の里美術館」が落成、万巻上人没後、実に約1200年ならんとする前に新光寺の仏像は国宝として国民の委託に応えるべく保存に相応しい安置場所へお戻りになったのである。これまでの桑原の先人達の御苦労に頭を下げたい。おそらく今後新しく創設された「かんなみ仏の里美術館」に人々の注目の的が集まると予測されるが、私は全く違った切り口により、更に函南桑原の歴史を追及したいと考えている。」とネットから。 入口・庭 案内。バスを振り返って。かんなみ仏の里美術館入口に向かって進む。葉が完全に落ちたもみじの樹。もみじ(カエデ)の種は「翼果(よくか)」と呼ばれ、2枚の羽を持ったプロペラのような形をしています。初夏に成長し、茶色く乾いて枝から落ちる際、くるくると回転して滞空時間を延ばし、風に乗って遠くへ飛ぶことで子孫を広げる仕組みです。この仕組みは自然界の小さなヘリコプターとも言えるのだ。小さなヘリコプターをズームして。さらにズームした画像をネットから。ここが「かんなみ仏の里美術館」の入口。「かんなみ仏の里美術館」 「フロアマップ」。 まずは、「資料展示室」に案内される。 「資料展示室」への通路にも様々な展示、関連本が。「かんなみ仏の里美術館で、図書の出張展示「出張図書館in仏の里」を開催します。町立図書館の蔵書の中から、美術館で読んでほしい、手に取ってほしい本を選んで展示します。普段は図書館へ行かない人も、美術館を訪れる機会がない人も、本を片手に美術館で過ごす時間を楽しんでみませんか。図書の展示スペースへの入場は無料です。お気軽にご来館ください。」 と。「かんなみで、逢いましょう」と展示物の十二神将の姿が。そして「資料展示室」の内部に案内される。これから先は、写真撮影禁止とのことであったので、以下の写真はネットから。「当館では二十四体の仏像群を鑑賞していただく仏像展示室とともに、 無料で入場できる資料展示室を設けています。資料展示室では、仏像の種類や役割、その特徴などを学ぶことができる「仏像鑑賞図鑑」を常設展示しています。」 「仏の里美術館の仏像の由来右:「聖観音像」、「地蔵菩薩像」、「不動明王像」、「毘沙門天像」 正面:「阿弥陀如来とそのグループ」 「薬師如来坐像」と「十二神将立像」説明案内。 「阿弥陀如来とそのグループ」(右)。中尊:阿弥陀如来(あみだにょらい) 極楽浄土の教主。人々の死後を救う仏。印相(手の形)は定印(じょういん)や 来迎印(らいごういん)が代表的。左脇侍:観音菩薩(かんのんぼさつ) 阿弥陀如来の「慈悲」を体現し、人々を苦しみから救い出す役割を持つ。右脇侍:勢至菩薩(せいしぼさつ) 阿弥陀如来の「智慧」を体現し、人々を正しい方向へ導く役割を持つ 「阿弥陀如来とそのグループ」(左)。慶派の系図。実慶は、奈良興福寺を本拠とした奈良仏師「慶派」に属した仏師で、建久(1190~1198年)の末頃に桑原の阿弥陀三尊像を、承元四年(1210年)修禅寺大日如来像の造立にたずさわりました。その製作期間から考えると、当時関東に在住し、仏像の需要に応じた活動をしていたと想定されている。「慶派」は、多くの功績を築いた康慶・運慶父子から、一門の仏師たちの名前の多くに「慶」の字が付くことからそう呼ばれている。実慶は康慶の弟子で運慶と同年代と推測され、その中でも卓越した技術と力強い作風の「運慶」と絵画的で繊細な作風の「快慶」が最もよく知られている。代表的な慶派の仏像(国宝・重文)ズームして。「阿弥陀如来」、「観音菩薩」、「勢至菩薩」。ズームして。「薬師如来」と「十二神将」。 「仏像の由来・聖観音像、地蔵菩薩像、不動明王像、毘沙門天像、・聖観音菩薩・地蔵菩薩立像、毘沙門天像立像の特徴・経巻上人、空海上人」頂いたパンフレット・表を開いて。「かんなみ仏の里の美術館」 「薬師如来坐像」 「十二神将立像」。十二神将立像は、平安時代末~鎌倉時代初期の仏像群で、薬師如来と薬師三尊を守護する武神として配置されたものです。薬師信仰では、薬師如来が人々の病苦を救う際に、その誓願を守護し悪鬼を退けるのが十二神将。■十二神将立像の位置づけ ・薬師如来の眷属(けんぞく)である守護神。 ・それぞれ 7000の眷属を率いる武将とされる。 ・薬師如来の 十二の大願を守る存在。 ・後世には十二支(干支)と結び付けられ、方位や年を守る神ともされた。 ・甲冑をまとい、武器を持つ姿で表されることが多い。 ・多くの寺院では 薬師如来の周囲を取り囲むように配置される。■十二神将(各神将の説明)を左上から右に順に。◯毘羯羅大将(びから)・怒りの表情を持つ勇猛な守護神。・悪鬼を威嚇し退散させる役割。・十二神将の中でも迫力のある姿が多い。・十二支では 子に配されることが多い。・方位では 北を守護する神将。◯招杜羅大将(しょうとら)・邪悪な鬼神を招き寄せて退治する力を象徴。・戦闘的なポーズで表現されることが多い。・強い守護力を示す武神。・十二支では 丑に配されることが多い。・方位では 北北東(丑の方)を守護。◯真達羅大将(しんだら)・軍の統率を象徴する神将。・堂々とした姿で表される。・敵を威圧する守護神。・十二支では 寅に配されることが多い。・方位では 東北東(寅の方)を守る。◯摩虎羅大将(まこら)・名は「マカラ(海の怪物)」に由来するとされる。・強大な力を象徴する神将。・重厚な武将の姿で表されることが多い。・十二支では 卯に配されることが多い。・方位では 東を守護。◯波夷羅大将(はいら)・邪悪な存在を退ける役目を持つ神将。・躍動的な動きを示す姿で表されることが多い。・戦闘的な表情が特徴。・十二支では 辰に配されることが多い。・方位では 東南東(辰の方)を守る。◯因達羅大将(いんだら)・名はインド神話の神 **インドラ(帝釈天)**に由来。・雷や天の力を象徴する勇猛な神将。・強い攻撃力を示す姿で表される。・十二支では 巳に配されることが多い。・方位では 南南東(巳の方)を守護。◯珊底羅大将(さんてら)・軍勢の秩序を保つ役割を持つ守護神。・威厳ある武人として表現される。・武器を持ち堂々と立つ姿が多い。・十二支では 午に配されることが多い。・方位では南を守る。◯頞儞羅大将(あにら)・風や速さに関係する名を持つ神将。・敵陣へ素早く攻め入る武神。・活動的な姿勢で表されることが多い。・十二支では 未に配されることが多い。・方位では 南南西(未の方)を守護。◯安底羅大将(あんてら)・堅固な防御を象徴する守護神。・戦列を整え軍勢を守る役割。・落ち着いた武将の姿で表されることが多い。・十二支では 申に配されることが多い。・方位では 西南西(申の方)を守る。◯迷企羅大将(めきら)・俊敏で機敏な戦士として表される神将。・敵を追撃する役割を持つとされる。・強い守護力を象徴。・十二支では 酉に配されることが多い。・方位では 西を守護。◯伐折羅大将(ばさら)・名はサンスクリットの「ヴァジュラ(雷・金剛)」に由来。・金剛杵などの武器を持つ勇猛な守護神。・邪悪なものを打ち砕く象徴。・十二支では 戌に配されることが多い。・方位では 西北西(戌の方)を守る。◯宮毘羅大将(くびら)・十二神将の筆頭格とされることが多い。・軍勢を率いる将軍的存在。・病魔や悪鬼を打ち払う力を象徴する。・十二支では 亥(い)に配されることが多い。・方位では 北北西(亥の方)を守護。十二神将立像 静岡県指定有形文化財本体像髙 91.5cm~105.4cm本尊薬師如来像に随侍していた十二神将立像。当初は鎌倉時代初期にに制作されましたが、時代の変遷とともに傷んだり壊れたりした時に造り直しているため、鎌倉時代初期から江戸時代初期まで、制作年代の異なる像で構成されています。近年の解体修理によって、表面に塗られた後世の厚い彩色が除去され、本来の像容や構造がよく分かるようになりました。いずれの像もヒノキ材の一木割矧造(未神将像のみ内刳りを施さない)、玉眼が嵌入されています。像高は1メートル前後と大型品で、十二体が揃っていることも貴重です。頂いたパンフレット・裏を開いて。「十二神将立像」。 薬師如来坐像。「薬師如来坐像静岡県指定有形文化財 本体像高 110.0cm薬師如来坐像は、頭部から体幹部を針葉樹の一材から彫出し、頭は耳の後ろで割離し内刳を施し、体幹部は背中と像底から内刳を施しています。面奥が深く胸から腹部に厚みをもたせ重量感があるが、面相は頬や顎にふくよかな円みがみられることから、制作年代は平安時代中期(十一世紀前半)と推測されます。」 「桑原薬師堂から かんなみ仏の里美術館へ」 「桑原薬師堂から かんなみ仏の里美術館へ函南町桑原区では、平安時代の「薬師如来像」や鎌倉時代の「阿弥陀三尊像」など、二十四体の仏像群が、里人の厚い信仰心によって守れらてきました。これら仏像群の散逸を防ぎ、後世に保存継承していくための施設として明治30年代後半に桑原の有志により、長源寺の裏山中腹に「桑原薬師堂」が建てられました。 2008年(平成20年3月)に桑原薬師堂の二十四体の仏像群が桑原区から函南町に寄付されました。そして町民の財産である貴重な文化財を後世に保存継承するとともに、多くの方々が鑑賞できる施設として「かんなみ仏の里美術館」を設置しました。」 「桑原「阿弥陀三尊像」を造った實慶と慶派「慶派」は、平安末期以降に新しく栄えた仏師工房です。一門の仏師たちの名前の多くに「慶」の字が付くことから、そう呼ばれています。卓越した技術と力強い作風の「運慶」と、絵画的で繊細な作風の「快慶」が最もよく知られています。鎌倉幕府の成立て権力を得た東国武士は、運慶ら奈良仏師の作る写実的で力強い作風を好んだとされ、すぐれた仏像のほとんどが近畿地方に集中する中、関東地方でも慶派の仏像が何体も作られました。實慶は、桑原「阿弥陀三尊像」の他、修褝寺「大日如来像」の造像にも携わっています。その制作期間から考えると、当時関東に在住して活動していたと考えられます。康慶の弟子で連慶とは同年代と推測されます。」 「阿弥陀如来及両脇侍像」 「阿弥陀如来及両脇侍像 国指定重要文化財中尊像 本体像高 89.1cm 台座全高 84.7cm阿弥陀如来及両脇侍像は、檜材一木割矧造。奈良興福寺を本拠とした仏師工房「慶派」の実慶作で、写実的で力強い表現に優れ、はつらっとした作風には鎌倉時代初期の慶派の特色が表現されています。頬が張り、ロ角を引き締めて強い眼差しで前方を凝視する若々しい面貌(顔のかたち)や、やや細身の胴で締まった体型、ふくらみをもたせた地髪部の形状は慶派を代表する仏師運慶の作品に近づくものとされ、高く評価されています。」 以前に配布していたパンフレットの写真 をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.23
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この日は3月9日(月)、会員登録している「藤沢地名の会 創立40周年記念」の特別企画のバスツアー「早春の伊豆を満喫しよう かんなみ仏の里美術館から江川邸へ」に参加しました。 「コースの概ねの時間」 ・7:30 藤沢駅南口 OPA(オーパ)前 出発 午前7時15分集合・9:55 かんなみ仏の里美術館(函南町) 廃仏毀釈を守り抜いた桑原地区の慶派仏師他 24体の仏像群・11:15 めんたいパーク伊豆&道の駅『函南ゲートウェイ』 試食・見学/昼食・12:30 願成就院(伊豆の国市) 北条時政が建立した願成就院と運慶が東国で手がけた最初の仏像 5体・13:30 江川家住宅(伊豆の国市) 台場の築造、韮山反射炉を手がけた韮山代官江川英龍と「江川邸」(重要文化財)・14:50 山中城址公園(三島市) 北条氏が対豊臣用として要塞化した山城。小田原征伐の緒戦に落城。・16:20 小田原 鈴廣 休憩 ・18:00 藤沢駅南口 到着 頃見学場所の位置図案内。パンフレット。実は当初は2月9日(月)開催のツアーであったが、前日の2月8日(日)の関東地域の積雪でこの日の朝は、高速道路は通行止め、一般道路も大渋滞が発生しているとのことで、ほぼ参加予定者全員が藤沢駅南口に集合したが、急遽延期となったのであった。出発予定時間の7:30にバスは出発、参加者は35名であった。バスは圏央道の「さがみ縦貫道路」を走り、相模川に沿って北上する。東海道新幹線・相模川橋梁そして奥に大山の姿を見る。「さがみ縦貫道路」は、神奈川県の茅ヶ崎市から相模原市を結ぶ全長約34kmの自動車専用道路(国道468号)。首都圏中央連絡自動車道(圏央道)👈️リンクの神奈川県区間を構成し、東名・中央・関越自動車道を相互に接続、地域経済の活性化や渋滞緩和に貢献しているのだ。「海老名南JCT」から「新東名高速道路」に入り「伊勢原JCT」から「東名高速道路」へ。「大井松田IC」を通過。富士山が見えて来る場所であったが、山頂は雲に隠れて。 左手に「山北町」が見えた。 そして足柄SA・EXPASA足柄でトイレ休憩。EXPASA(エクスパーサ)は、NEXCO中日本が展開する「サービスエリアの概念を超える」商業施設。食事、買い物、くつろぎの場として目的地となることを目指しており、地域特産品や人気店、コンビニなどが充実している。施設名の由来はExceed(超越する)、Excelsior(向上する)の「EX」と、PA(パーキングエリア)/SA(サービスエリア)👈️リンク を組み合わせたものとのこと。富士山の勇姿をズームして。雲の合間から富士山の山頂が現れた。休憩する車の台数は比較的少なかった。時間は8:40。再びズームして。EXPASA足柄👈️リンク の案内図。店内に入る。 トンカツの店「さぼてん」。赤富士の写真が展示されていた。再び外に出てズーム。山頂を。山頂右側。山頂左側は雲に隠れて。宝永火口の上部をズームして。「金太郎ドッグ」の看板。「金太郎ドッグ」は金太郎の焼印がついたかわいいパンを使用し、パンに挟んだフランクは皮はパリッと中はジューシーで肉の旨味をダイレクトに味わうことが出来ます と。これでもかと富士の勇姿を。そして出発時間9:10前にこの日の観光バスに戻る。この日の観光バスは江ノ島電鉄(株)のラッピングバス。シーキャンドルやビーチ、サーフィン、眺望する富士山など、江の島の魅力を散りばめたイラストが車両側面に描かれており、片方は昼、もう片方は夕暮れから夜をイメージ。ウィズコロナ、ポストコロナを念頭に1日を通して楽しめる場所であることを表現した と。市や市観光協会は例年、地方に赴く「観光キャラバン」を実施しており、PR活動の一環としてラッピング車両を運行。初代の老朽化に伴い、同社が所有する7台の貸し切りバスの1台を2代目としてデビューさせることにした。 「(初代のデザインよりも)時間的広がりを表現したコロナ禍でも相応しい装い」と同社担当者。鈴木恒夫市長はコメントで「『走る観光宣伝』として様々な場所を走ることで、選ばれ続ける観光地として多くの方に認識していただければ」と期待した と。「いつでもおいでヨ。」としていた元々のキャッチコピーも「いつでもたのしい!」に変更。右側の写真(ネットから)。後方部の写真(ネットから)。後方には藤沢市のマスコットキャラクター、「ふじキュン」と市の観光ホームページに誘導する二次元バーコードを添えた と。 ・・・つづく・・・
2026.03.22
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さらに、「道の駅 湘南ちがさき」を散策する。「釜揚げしらす」。「つけうお屋」コーナー。「魚介類漬物」のシミズ水産は、魚漬け専門会社として1970年創業以来ひとすじ【ギンダラみりん】をはじめ、日本国内はもとより世界各国から輸入された持続可能な魚介類を、みりん本漬け、味噌本漬け、粕本漬け等、に製造加工し日本国内はもとより海外においても大変親しまれております と。 Choice!CHIGASAKI特設コーナー👈️リンク。「茅ヶ崎市民が選んだ茅ヶ崎名物です!」 「えぼしの雫(しずく)」 茅ヶ崎の海でとれた魚にこだわって作った魚醤「茅ヶ崎ナンプラーえぼしの雫」を開発!道の駅湘南ちがさきにて常設販売。茅ヶ崎市南湖の寿司職人・小又学さんが開発した魚醤「茅ヶ崎ナンプラーえぼしの雫」。 茅ヶ崎の風物詩である地引網でとれた小魚を中心に、相模湾の魚と塩だけで作られている。塩や醤油代わりに、お出汁代わりに、隠し味として・・・エスニック料理だけでなく、和・洋・中どんな料理も美味しくさせる万能調味料。卵かけご飯に、パスタに、炒め物や煮物に、ちょっと加えるだけで旨味がワンランクアップ。しかも素材は魚と塩のみなので安心・安全。子育て中のママさんや保育士さんからも、「赤ちゃんの離乳食にも安心して使えます」とお墨付きをいただいているとか!2025年にオープンしたここ「道の駅湘南ちがさき」にて常設販売中!菊の家・湘南クーヘン・湘南の月「湘南寒川産はち福はちみつ。神奈川にある相模国一之宮寒川神社は全国唯一の八方除けの守護神して約1600年の歴史を持つ神社です。その寒川神社のお膝元で採れた100%国産のハチミツです。八方除の「八」末広がりで縁起の良い「八」ミッバチの「蜂」そしてたくさんの「福」が訪れるようにとの想いで「はち福はちみつ」と名付けました。」 野菜の種コーナー。再びアイスクリームの「Plenty’s」。再び野菜コーナー。私も栽培中の「ロマネスコ」。 ロマネスコ(伊: Broccolo Romanesco)はアブラナ科アブラナ属の一年生植物。カリフラワーの一種である。フラクタル👈️リンク 形態のつぼみが特徴の野菜。ロマネスコのこの花蕾(からい)の部分は一つ一つは円錐形をしています。よくよく見ると円錐形が螺旋(らせん)を描くように配列にされています。円錐形の花蕾が螺旋状にどんどん増殖していって、最終的に出来上がったロマネスコ全体の形は、小さな花蕾と同じ形をしています。これがフラクタル構造!!写真はネットから。海鮮丼ちらし。鮮魚も売られていた。そして2Fのフードコートスペースへ。「和洋中キッチン 茅ヶ崎 なんどき牧場」と「網元 ゆうまん丸食堂」 なんどき牧場:湘南名物 茅ヶ崎メンチ を中心に神奈川産の肉や採れたて野菜を活かした料理で 湘南の食を彩ります。ゆうまん丸食堂:茅ヶ崎市南湖にある人気の海鮮料理店「ゆうまん丸食堂」。 地元の漁師さんが営むお店で、朝獲れの新鮮な魚を仕入れて提供してくれる。 漁師さんの”目”で厳選された海鮮は、それはもう、言うまでもなく旨い。 茅ケ崎名物・生シラスがたっぷりのった「生シラス丼」や、見た目の インパクトにただただ驚くばかりの「舟盛り定食」などが大人気。 そんな茅ケ崎の名店が、道の駅 湘南ちがさきのフードコートで気軽に 食べられる と。 舟盛り定食、定食、丼物。海鮮丼を楽しむ客が多かった。舟盛り定食。地魚を含む7~8種類のネタが並んで。「生しらすと釜揚げしらすの2色丼」。そしてこちらは「和洋中キッチン 茅ヶ崎 なんどき牧場」。ズームして。様々な定食、単品が。そして2Fフードコートのベランダから国道134号&駐車場方向を。手前の円形のグラウンドは「ドッグラン(小型犬用)」と。 ズームして。新湘南バイパスに架かる「湘南ベルブリッジ」。 2Fエスカレーター前から「お会計」を見る。 1Fに下りて。そして国道134号脇に出て。振り返って。「道の駅 湘南ちがさき Shonan Chigasaki」。 「Shounan」ではなく「Shonan」!■SHO(ヘボン式)・現在の主流: 日本の道路標識(案内標識など)は、外国人にも分かりやすい「ヘボン式」で 表記することが原則となっています。・特徴: 長音(伸ばす音)の「う」を省略し、SHOと記載します(例:小学校=SHOGAKKO)。・背景: パスポートや国際的な場でも、SHOが推奨されています と。 歩道を廻り込んで。斜めからズームして。引き返して。円形のグラウンド「ドッグラン」を地上から。無料で利用可。足洗い施設も完備。10㎏以下の小型犬専用 と。「ドライブマップ 道の駅「湘南茅ヶ崎」」。車で5分、10分の範囲を。現在地はここ。「道の駅 湘南ちがさき エリアマップ」。国道134号に出るには、上りと下りで異なるのであった。私の帰路は、下りで「柳島」交差点を右折する必要があることを確認。 上空からの写真をネットから。そして愛車に戻り、新湘南バイパスを利用して帰路へと。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.03.21
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この日は3月7日(土)、平塚での仕事の打ち合わせの帰路に昨年オープンした「道の駅 湘南ちがさき」に立ち寄る。「道の駅 湘南ちがさき」は新湘南バイパス「茅ヶ崎海岸IC」からすぐ、湘南エリア初となる道の駅。2025年7月7日オープンの館内では、地元のグルメや農産物などを豊富に販売。ここでしか手に入らない限定のお土産もあり、湘南の風と、茅ヶ崎の魅力をまるごとお持ち帰りできます と。住所:神奈川県茅ヶ崎市柳島1546番1号国道134号の「道の駅 湘南ちがさき」は、神奈川県では2020年(令和2年)6月26日に開駅した道の駅足柄・金太郎のふるさと以来5番目の道の駅で、茅ヶ崎市および湘南としては初の道の駅である。敷地面積は14,960 m2。2016年(平成28年)3月に策定された道の駅基本計画では2020年東京オリンピック開催前の2019年(令和元年)7月のオープンを予定していたが、用地買収の遅れに加え、前市長の服部信明の急逝、新型コロナウイルスの影響で予算も市民生活を守るために支出配分を見直され、2022年(令和4年)から2025年(令和7年)に延期となったのだ と。「国道134号」と「鉄砲道」に挟まれた場所で、敷地面積は1万4,970㎡で、普通車160台、大型車28台を収容できる駐車場を完備駐車場 と。駐車場の広さが判る写真をネットから。混雑する駐車場の最奥・国道134号に近い場所になんとか駐車できた。「STOP迷惑駐車次の様な行為は、道の駅を利用する方々の迷感となりますのでご遠慮ください。・道の駅以外の施設を目的とした利用・宿泊目的の長時間利用・レジャー目的の利用・違法改造車両の立入・ゴミの不法投棄 など以下略・・・」 「道の駅 湘南ちがさき」の建物に向かって進む。「道の駅 湘南ちがさき」配置案内図。交流広場にはキッチンカーが数台。山形芋煮、十和田牛バラ焼き丼、わかめの唐揚げ、唐揚げ・・ と。交差点前から、「道の駅 湘南ちがさき」見る。海に浮かぶ船をイメージした設計である と。金属と大きなガラスが印象的な外観は、デザイン性の高さだけでなく、年間の一次エネルギー消費量をゼロに近づけることを目指した建築物ZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)に限りなく近い建築物として、茅ヶ崎市で初のNearly ZEB認証を受けている。ロケーションは新湘南バイパス茅ヶ崎ICからすぐ、海沿いを走る絶好のシーサイドルート国道134号沿いという交通至便な場所。海に行く人にとってもドライブを楽しむ人にとっても立ち寄りやすいのが魅力 と。「道の駅 湘南ちがさき 来場者祝 100万人達成2026.02.18」と。 大和市在住の清水渚さん(4)が2月18日、昨年7月7日に開業した「道の駅 湘南ちがさき」(茅ヶ崎市柳島)の来場者100万人目となった。当日はセレモニーが行われ、渚さんと父・祐介さん(30)、母・希さん(30)、妹・漣さん(2)に記念品が贈呈された。清水さん一家が施設の入り口をくぐったところ、道の駅の「駅長」を務める茅ヶ崎市の佐藤光市長が「おめでとうございます」と声をかけた。その後交流広場でセレモニーが行われ、「Choice! CHIGASAKI」認定商品などの名産品と、茅ヶ崎アロハシャツが手渡された とネットから。様々な観光用パンフレットが置かれていた。様々なポスターも。そして「道の駅 湘南ちがさき」の1F入口。「営業時間のご案内1F■直売所 9:00~18:00■フレンディーズドライブイン 11:00~19:00■ホノルル食堂 平日 9:00~19:00(L.O.18:30) 土日祝 9:00~19:00(L.O.18:30) 「L.O.」は主に飲食店での「ラストオーダー(Last Order)」の略称2 F■田中水産ゆうまん丸 11:00~19:00(L.O.18:30) 茅ヶ崎 なんどき牧場 11:00~19:00(L.O.18:30)■ニコとモク 平日 9:00~19:00(L.O.18:30) 土日祝 8:00~19:00(L.O.18:30)」 マスコットキャラクター。近づいて。アイスクリーム屋さんのPlenty'sさんの店頭に立つ『マイキー』。「Plenty's」。茅ヶ崎生まれのアイスクリーム「プレンティーズ」が道の駅にニューオープン! 人気のアイスクリームとソフトクリームの両方が楽しめるスタイルの店舗です。ここでしか味わえないフレーバーも多数ご用意しています と。 野菜販売コーナー。かまぼこ類のコーナー。塩辛コーナー。 ・・・つづく・・・
2026.03.20
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この日は3月3日(火)、夜、全国で「皆既月食」が起こりました。しかしながらこの日の夜は低気圧が本州の南を東進し、広範囲で雨や雪の降る天気となり北海道・中国・四国・九州・沖縄の一部地域でのみ晴れて、月食を見ることができたが、我が家では雨となり、久々の「皆既月蝕」は見ることが出来なかった。月食は、太陽・地球・月が一直線に並び、満月が地球の影に入り込むことで、月が暗くなったり、欠けたりして見える天体現象なのです。2022年11月8日の皆既月蝕👈️リンク について、ブログにアップしていますので、併せて御覧ください。よって、今回は「月食」について再び学ぶブログになってしまいました。 以下の写真は、ネットからのものがほとんどです。ところで、月食で月が欠ける様子と、ふだん見ている月の満ち欠けは何が違うのでしょうか?月は、太陽の光を反射することで見えるようになるので、太陽の光が当たっていない(影になった)部分は、地球から見ることができません。月に当たる太陽の光は一定なので、地球に昼と夜ができるのと同じように、月も明るい部分と暗い部分にわかれます。月は約1ヶ月かけて地球の周りを公転しています。このとき、地球から月が見える方向が変化するため、明るい部分と暗い部分の形が変化するのです。これが月の満ち欠けです。図のように月が地球を太陽と挟む位置に存在するならば、観測者からは月はきれいな丸い形をした満月として見ることができます。そこから少しずつ太陽と地球に挟まれる位置に月が移動していくにつれて、観測者からは月は少しずつ欠けていくように見えていくことになります。これが月の満ち欠けが起こる仕組みです。月齢(げつれい)とは、月の満ち欠けの状態を表す数値です。月齢は、地球から月が全く見えない「新月(しんげつ)」(「朔(さく)」とも呼ばれます)を0として、新月の翌日の月を1、その次の日の月を2……という具合に数えていきます。新月から数えて3日目の月、すなわち「月齢3」の月は「三日月(みかづき)」、新月から15日目前後の「月齢15」の月は「満月(まんげつ)」や「望(ぼう)」と呼ばれます。新月から始まった月齢は、新月→三日月→上弦の月(月齢7)→満月→下弦の月(月齢22)……と徐々に姿を変えながら、月齢29の三十日月(みそかづき)までを1サイクルとします。三十日月の翌日に再び月齢は0に戻り、新月の日がやってきます。月食の種類・皆既月食 (Total Eclipse): 👈️リンク 月が地球の濃い影(本影)に完全に隠れる。 皆既月食では月が赤銅色(赤っぽい色)に見えます。・部分月食 (Partial Eclipse): 月の一部だけが本影に入る。・半影月食 (Penumbral Eclipse): 月が地球の薄い影(半影)に入る。 肉眼では少し暗いかなと感じる程度。日食と異なり、地球上の月食が見える場所であれば、どこでも同じように欠けた月を観察できます。私の住む湘南地域の場所からは「月食のすべてが」見えるはずであったが。 「半影食」と「部分色」の状況。・半影食:月が地球の薄い影(半影)に入る天文現象です。本影に入る月食と異なり、 月面がわずかに暗くなる程度で、肉眼ではほとんど判別しにくい 「ぼんやりとした」月食です。満月の夜に起き、肉眼や双眼鏡で観察すると、 月の一部が薄暗く見えることがあります。 太陽・地球・月が一直線に並ぶ際に発生。地球の「本影(濃い影)」に入らず、 外側の薄い「半影」のみに月が通過する現象。 満月が少し暗く(灰色っぽく)見える程度。欠けたようには見えず、注意しないと 気付かないことが多い。・部分色:太陽・地球・月が一直線に並んだ際、満月の一部が地球の濃い影(本影)に入り込み、 欠けて見える天文現象。 月全体が隠れる「皆既食」とは異なり、月の一部が暗く黒ずんで見えるのが特徴。 地球が太陽と月の間に入ることで、地球の影が月の一部に落ちる。 見た目には月が欠けている、あるいは「かじられた」ように見える。 年に2回ほど発生する。2026年3月3日(火)夜、日本全国で皆既月食が見られる予定であった。18:50頃に欠け始め、20:04頃から皆既食、20:33頃に最大、21:03頃に皆既食が終わる見込みであった。月食の様子。今回の皆既月食では、皆既月食は約1時間にわたって継続します。部分食の始まりから終わりまでの全行程は3時間半に及びます と。ところが、この日の天気予報では九州南部を除いて天候が悪く、皆既月蝕は見えなかったのであった。鹿児島県、宮崎県南部、高知県南部では見えたと。宮崎に住む友人が皆既月蝕👈️リンクの写真を送ってくれました。皆既月食で月が赤銅色(赤黒い色)に見えるのは、地球の大気を通過した太陽の赤い光だけが屈折して月に届くため。大気中で青い光は散乱して消え、赤い光は散乱されずに通過・到達する「レイリー散乱」という現象で、夕焼けが赤い仕組みと同じとのこと。皆既月蝕が赤く見える仕組み。皆既月食が赤く見えるのは、地球の影に入った月を「大気を通過した太陽の赤い光」が照らすためです。地球の大気が、青い光を散乱させて取り除き、赤い光だけを通過・屈折させて影の中に送り込むため、夕焼けと同じ原理で赤銅色(しゃくどういろ)に輝きます。夕方になると太陽の光が地表に届くまでの距離が長くなります。そうすると、波長の短い青い光は散乱されきってしまいますが、波長の長い赤やオレンジの光は散乱されにくいため地表に届きます。これが朝焼けや夕焼けが見られる理由です。5度どのズレで貴重現象に。月食は、地球から見みて月が太陽の反対側にあるとき、つまり満月のときにおきます。日食は、地球から見て月と太陽が同方向にあるとき、つまり新月のときにおきます。ただし、満月と新月のときに毎回おきるわけではありません。これは地球が太陽の周を公転している面に対たいして、月が地球の周りをまわっている面が5度どほど傾いて、必ず一直線になるわけではないためです。この傾がなければ、満月・新月のときには毎回、月食・日食がおきることになっていたはずです。実際は月食・日食がおこるための一直線の状態になるチャンスはおよそ半年に1回となっています。月食の写真を並べると地球の影(赤い点線)が浮かび上がる と。月ごとの満月の呼び方は以下のごとしと。この日を含めて、その後の皆既月食の予定表。次回の皆既月食は、2029年1月1日・元旦(月)の0:07月皆既月食開始と。除夜の鐘を聴いた直後に、皆既月蝕が始まるのだ。その次の1月1日・元旦(月)の皆既月蝕は2048年1月1日と。 年月日 種類 部分始 皆既 食の最大 皆既終 部分終 食時間ただし2048年01月01日の皆既月蝕は昼間 と。皆既月食が昼間に起きる場合、日本では月が地平線の下にあるため、残念ながら直接観測することはできません。皆既月食は「夜」の地域でしか見られず、昼間は太陽の光が強すぎるため、欠けている月を確認することも困難です。2022年5月16日などの例では、海外で見られる皆既月食が日本では昼間となり、観測できませんでした と。 ・・・おわり・・・
2026.03.19
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「藤沢敵御方供養塔」を後にして、「大イチョウ」、「遊行寺宝物館」を望む。 「遊行寺墓苑案内所」。入口の「観音像」。近づいて。そして、再び葉を完全に落とした大イチョウの老木。・幹の肥大とこぶ状の隆起:長年の更新剪定や自重による癒合の痕跡。老木の証です。・四方に張り出す太枝:風当たりの強い境内でもバランスを保つ“構造体”。・細枝の密度:来春の芽吹きを支える生理的な備え。落葉した今は、成長の履歴がそのまま可視化されているのであった。葉を落とした姿は終わりではなく、黄金の季節を知る者には、この“裸木の威容”の美しさも格別なのであった。① 幹の瘤(こぶ)状の隆起幹全体に見える丸い膨らみは、🔹 更新剪定の痕🔹 癒合組織(カルス)の発達🔹 長年の成長による形成層の盛り上がり老齢イチョウに典型的な姿。長寿木ほど、幹は滑らかではなくなります。それは衰えではなく、生存の歴史。② 下部の突起(乳柱状)縄のすぐ上に垂れ下がるような突起が見えた。これは🔹 乳(ちち)/乳柱(にゅうちゅう)イチョウの老木に見られる現象で、空気中の水分を吸収将来的に地面へ達すれば支柱根になる可能性がありるのだ。イチョウの強い生命力の象徴なのであった。①この黒い部分は何か?これは🔹 幹の空洞・腐朽部を保護するための被覆材です。老木になると、・枝の落下痕、震災・強風被害・内部腐朽(心材腐れ)が起こります。その開口部を・防水・雨水侵入防止・腐朽進行抑制のために覆っているのだと。② なぜ完全に塞がないのか?中央に小さな開口?が見えた。これは・内部の通気・湿気の排出・内部状態の点検? のためであろう。完全密閉は逆効果になるのであろう。③ 老木管理の現代的考え方かつては・コンクリート充填などが行われましたが、現在は「樹は空洞でも生きられる」という考え方が主流。重要なのは、外周の形成層が健全かどうかである と。見る限り、外周はしっかり残っているのであった。④ これは“弱さ”ではない空洞は・老木の証・長寿の勲章 でもあった。イチョウは特に・腐朽に強い・萌芽力が強い 樹種であるとのこと。黒い部分の姿は、「下に根を張り、更に上を目指して伸びていけと指さしている」が如くに。私の脳の「空洞」もこうありたいと感じたのであった!! そして境内入口の左にあった「売店・いもと」を。 「創業明治 遊行寺銘菓全国菓子大博覧会金賞受賞和菓子一つ火 菓匠 いもと」 「賞状」。 「全国菓子大博覧会会長賞栗入り饅頭栗の里」 「一つ火、栗の里」をネットから。 そして最後に訪ねた「遊行寺宝物館」に白壁に映る美しい木の枝を。 ポスター「特別展 遊行寺の什宝 令和8年1月1日(木)~2月18日(水)開催日 土・日・月・祭日)」 「明治天皇 御膳水」明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸であると。 移動して。「御行在所日 宿泊(大書院)明治元年四月十ニ日 東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる 供奉員は西郷隆盛明治元年十月十日 明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる明治元年十ニ月九日 明治皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる (遊行五十九代尊教上人)明治ニ年十一月九日 明治天皇東幸の折り御行在所となる明治五年六月十八日 皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月三日 明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月ニ十一日 明治皇還幸の折り御宿泊行在所となる明治九年八月二十七日 皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる明治九年十一月ニ十日 皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年一月十一日 皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年五月ニ十一日 皇太后陛下東京に帰啓の折り御宿泊所となる明治十一年十一月八日 明治天皇北陸からの還幸の折御宿泊行在所となる 供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信 井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省大書記官山岡鉄太郎(鐵舟)等 五十名明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、 上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人)明治天皇が度々この遊行寺を訪ね宿泊していることを知ったのであった。そして「遊行寺宝物館」の入口左にあったのが「江の島道入口鳥居の沓石」。 近づいて。寸 法 縦・横 最大85㎝×85㎝ 高さ 約50㎝岩を八角形に、そして支柱穴を刳り貫いたものであろう。「藤沢市指定重要文化財(歴史資料) 令和三年(ニ〇ニ一)ニ月一日指定江の島道入口鳥居の沓石(くついし)もと旧東海道から分かれて南下する江の島道の入口(藤沢一丁目。遊行寺橋西詰)にあった江島神社の一の鳥居の沓石です。文政六年(一八ニ三)に建てられた青銅製鳥居(ニ代目。初代は明和六年・一七六九建立)が、明治十三年(一八八〇 )十一月の藤沢宿大火で焼損し、翌明治十四年四月に木造(木柱銅板巻き)として再建(三代目)された鳥居の沓石であることが、側面に刻まれた銘文からわかります。鳥居は明治三十年頃に撤去されましたが、沓石は残され、大正末期の道路拡幅時に妨げありとして、藤沢宿の人々が清浄光寺(遊行寺)へ運んだと伝わります。浮世絵に描かれるニ代目鳥居の次の鳥居の沓石で、藤沢宿のシンボル的構造物の実物資料です。 令和四年(ニ〇二二)三月 藤沢市教育委員会」 歌川広重 「東海道五拾三次 藤沢」(狂歌入東海道)。「遊行寺宝物館」を正面から。以前の写真から。 そして、入館チケット・500円を購入し館内へ。「ご挨拶正中2年(1325)遊行四代呑海上人は、江島弁財天窟に17日間参籠し、白蓮が生える地を居とせよと神託をうけた後に藤澤山(とうたくさん)中に白蓮を見つけます。そして実兄である相模国俣野荘地頭・俣野五郎景平の帰依を受けて当地に清浄光寺(遊行寺)を建立し止住したのです。以降、歴代遊行上人が法灯相続後に入山した事から、遊行上人の寺「遊行寺」と呼はれるのです。さて、寺宗は宗祖一遍上人が、熊野証誠殿大権現(くまのしよううてんだいごんげん)から神託を受けた時を立教開宗としています。その本地は阿弥陀仏であることから、遊行寺には阿弥陀仏にまつわる品々が収められています。その一つが、阿弥陀仏が教主となる西方極楽浄土の様子を説き、念仏をすすめる経典「阿弥陀経」てす。その最たる品が弘法大師筆とされる蝶鳥経(ちょうとりきょう)と称された装飾阿弥陀経です。色紙に金字で書かれた経文の上下には蝶や鳥が舞い、見返しには紺紙に金彩で楽浄土が描かれる逸品です。その阿弥陀経が説く念仏を交代で行なう順番表「一期不断念仏結番(いちごふだんねんぶつけちばん)」は宗祖一遍上人自筆の品です。阿弥陀仏を敬い礼讃する姿勢は武家や公家、宮家まで魅了し、宮家から遊行上人となった十ニ代尊観上人の登場にも繋がります。その縁で納められた絵画が「後醍醐天皇御像」です。遊行寺には、阿弥陀仏と結縁(けちえん)する為に、経典をはじめ、絵画や工芸品彫刻などが多数奉納されたのてす。このたびは、遊行寺に伝わる絵画・工芸・経典・典籍・文書なとを一堂に公開します。時宗美術と称賛される遊行寺の什宝を、展示室にてお楽しみ下さい。 令和8年1月吉日 遊行寺宝物館」 「一遍上人像」が迎えてくれた。展示室内は写真撮影禁止であったので、以下の写真、説明書きは全てネットから、転記させていただきました。この日の展示物のリストも詳細は不明ですので、この日に展示されていなかったものもあるかと思います。「展示室」の様子。 「遊行寺の什宝正中ニ年(一三ニ五)遊行四代呑海上人は、江の島弁財天に十七日間参籠し、白蓮が生える地を居とせよと神託をうけた後に藤澤山中に白蓮を見つけます。そして実兄である相模国俣野荘地頭・俣野五郎景平の帰依を受けて当地に清浄光寺(遊行寺)を建立し止住したのです。以降、歴代遊行上人が法灯相続後に入山した事から、遊行上人の寺「遊行寺」と呼ばれるのです。さて、時宗は宗祖一遍上人が、熊野証誠殿大権現から神託を受けた時を立教開宗としています。その本地は阿弥陀仏であることから、遊行寺には阿弥陀仏にまつわる品々が収められています。その一つが、阿弥陀仏が教主となる西方極楽浄土の様子を説き、念仏をすすめる経典「阿弥陀経」です。その最たる品が弘法大師筆とされる蝶鳥経と称された装飾阿弥陀経です。色紙に金字で書かれた経文の上下には蝶や鳥が舞い、見返しには紺紙に金彩で極楽浄土が描かれる逸品です。その阿弥陀経が説く念仏を交代で行なう順番表「一期不断念仏結番」は宗祖一遍上人自筆の品です。阿弥陀仏を敬い礼讃する姿勢は武家や公家、宮家までも魅了し、宮家から遊行上人となった十二代尊観上人の登場にも繋がります。その縁で納められた絵画が「後醍醐天皇御像」です。遊行寺には、阿弥陀仏と結縁する為に、経典をはじめ、絵画や工芸品・彫刻などが多数奉納されたのです。このたびは、遊行寺に伝わる絵画・工芸・経典・典籍・文書などを一堂に公開します。時宗美術と称賛される遊行寺の什宝を、展示室にてお楽しみ下さい。」 ■ 展示されている指定文化財 ■・重要文化財 絹本著色 後醍醐天皇御像 南北朝時代・重要文化財 絹本著色 一向上人像 室町時代・重要美術品 色紙金字阿弥陀経(蝶鳥経) 平安時代・神奈川県指定重要文化財 絹本著色 一遍上人像 南北朝時代・神奈川県指定重要文化財 紙本着色 一遍上人縁起絵 第一巻 南北朝時代・神奈川県指定重要文化財 絹本着色 二河白道図 南北朝時代・藤沢市指定重要文化財 絹本着色 真教上人像 室町時代・藤沢市指定重要文化財 紙本墨書 増壹阿含経 第三十六(善光朱印経) 奈良時代●「絹本著色後醍醐天皇御像・時代 日本 南北朝・解説明治33年(1900)4月7日指定/縦94.2㎝、横40.2㎝/後醍醐天皇が礼服の上に袈裟をかけ、頭に王冠を着け、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴をとり、礼盤の上に坐す図像です。この御影は、おそらく後醍醐天皇が伝法勧請(密教の秘法を授ける儀式)を受ける姿を表したものと考えられ、数多い天皇肖像画のなかでも異色のものといえます。制作は南北朝から室町時代にかかる頃とみられ、応永3年(1396)醍醐寺の杲尊から遊行12代尊観に渡されたものと伝えられています。画面上辺の伊勢(天照皇大神)、八幡、春日の三神名号は、この三社託宣思想(三社のお告げを尊ぶ思想)の盛んとなる室町時代に入ってから貼られたものとも考えられます。所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦94.2㎝、横40.2㎝・分類 文化財 国 国指定重要文化財(絵画)」 「絹本著色一遍上人絵伝・時代 日本 鎌倉・解説昭和27年(1952)3月29日指定/各巻縦38.2㎝/原本にある通り「一遍聖絵」の名で知られています。時宗の宗祖・一遍の生涯をまとめた全12巻、48段の絵巻物です。起草者は一遍の弟と伝える聖戒、4人の公家が詞書(文章)を清書し、円伊を中心とした絵師が絵を担当して正安元年(1299)に完成しました。一遍は念仏の修行・布教のために全国を遊行しており、全巻を通して鎌倉時代の各地の情景が描かれています。絵は、全体的に見て一遍の行動だけでなく、その場面をとりまく風景が重視され、現実感あふれる画面構成となっています。我が国美術史上の傑作として名高いもので国宝に指定されています。所有管理者:清浄光寺(遊行寺)サイズ 各巻縦38.2㎝分類 文化財 国 国宝(絵画)」 ●「絹本著色一向上人像・時代 日本 鎌倉・解説 昭和34年(1959)6月27日指定/縦70.1㎝、横26.6㎝/一向を描いた肖像画と伝えられて います。一向は一遍と同時期に念仏を勧め、全国を遊行した人です。画像は、上人が白の 衲衣に袖なしの阿弥衣をまとい、首から輪袈裟をかけ、素足で腰をかがめて、胸前で両手を 組んでいます。顔立ちは目鼻がはっきりとしていて、毛髪や髭をたくわえています。 この容姿は他の一向上人像と比べると大きく異なるので、ここに描かれているのは 一向の弟子の2代礼智阿とする説もあります。所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦70.1㎝、横26.6㎝・分類 文化財 国 国指定重要文化財(絵画)」 ●「絹本著色二河白道図・時代 日本 南北朝・解説 昭和28年(1953)12月22日指定/縦114.4cm、横52.5㎝/二河白道とは唐の善導大師が 経典の中に説いた教えで、本図はこれを図示したものです。画面右手に立つのは釈迦、 左手は阿弥陀で、両方の足下を一筋の白い直線が結んでいます。白線の上下は水の河・ 火の河で、この「二河」が、釈迦の立つこの世と、阿弥陀の立つ浄土を大きく隔てています。 人が阿弥陀のいる彼岸に渡るには、白く狭い一本道しかありません。この絵は、欲深い心を 表す水の河や、怒り憎む心を表す火の河に落ちずに、清浄な心で真ん中の「白道」を進めば、 浄土に着くことができる、と説いているのです。下辺に描かれている人物はこの世で 合掌する善導です。南北朝時代、14世紀の作と考えられています。・所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦114.4cm、横52.5㎝・分類 文化財 県 県指定重要文化財(絵画)」ズームして。これも「絹本著色二河白道図」。 ■ 1. 主題(何を描いた図か) 浄土教の根本教えである 👉 「念仏によって極楽往生できる」ことを視覚化した図 中国・唐代の高僧 **善導(ぜんどう)**の説いた教えを絵にしたもの■ 2. 画面構成(場面の構造) ● 左:白衣の仏(阿弥陀如来) 白い衣をまとい、迎えに来る姿 👉 極楽浄土の象徴 ● 右:菩薩(観音菩薩) 合掌または導く姿 👉 救済の導き手(来迎) ● 中央:僧(往生を願う人) 小さく描かれた人物 👉 私たち人間そのもの ● 二つの川(最重要) この図の核心です。 ・火の川(右側) 燃え盛る炎 👉 怒り・瞋恚(しんに)・地獄の苦しみ ・水の川(左側) 激流・波 👉 欲望・貪り・迷い ● 白い道(白道) 二つの川の間に細く続く道 👉 念仏の道(南無阿弥陀仏)■ 3. 教え(意味の核心) この図の意味は極めて明快です: 👉 人は ・欲(=水の河) ・怒り(=火の河) に挟まれて生きているしかし 👉 ただ一つの道がある → 阿弥陀仏を信じて念仏する道(白道) と。「紙本著色 一遍上人縁起絵(甲本) 第二巻四段 弘安五年(1282) 相模國瀧口にて利益の場面(左は江の島) 南北朝時代」 江の島徒渉の様子。干潮のとき、片瀬の浜から江の島に徒渉出来るようになったのは、鎌倉時代に入ってからのことだといわれる。「遊行上人絵巻」が描かれたのが鎌倉時代の末といわれているから、この場面は江の島徒渉のかなり早い時期の描写ということがいえよう。(「一遍上人縁起絵(甲本)」清浄光寺蔵)●「絹本著色一遍上人像・時代 日本 南北朝・解説 平成7年(1995)2月14日指定/縦57.1cm、横24.3cm/鎌倉時代の作と推定される 一遍の肖像画です。阿弥衣を着け、手に念仏札を持って口を開く立ち姿で、念仏を 称えながら念仏札を人々に配ろうとする様子を描いています。 遊行・賦算(ふさん・念仏札配り)・称名に生きた一遍の特色を表現しています。 左半分に蓮台と天蓋を配し、中に一遍流の六字名号を金字で付し、上部右側の色紙形には 六字無生頌を書いていますが、後半の2行は絹の欠損のため判読できません。 彩色は口唇に朱を入れる他は墨色を主体に描かれ、画面上下には牡丹の描表装を施して います。・所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦57.1cm、横24.3cm・分類 文化財 県 県指定重要文化財(絵画)」●「紙本墨画淡彩一遍上人像・時代 日本 室町・解 平成7年(1995)2月14日指定/縦51.0cm、横30.5cm/室町時代の作と推定される 一遍の肖像画です。右半分に「南無阿弥陀仏」の六字名号を墨書し、上部左側に 「六字之中 本無生死 一声之間 即証無生(ろくじのうち もとせいしなし いっせいのあいだ すなわちむしょうをさとる)」の六字無生頌(ろくじむしょうじゅ)を 書いています。この頌は一遍が悟りを得たことを表した詩です。一遍は阿弥衣を着け、 手に数珠を下げ念仏札を持って、口を開いて立っています。なお、「一遍聖絵」の最後の 場面で、没後に兵庫の御影堂に祀られた一遍立像が描かれていますが、現存する一遍画像の 古作も同様にみな立像です。・所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦51.0cm、横30.5cm・分類 文化財 県 県指定重要文化財(絵画) 」●「紙本墨画淡彩 一遍上人像 」👈️リンク 南北朝時代の作。念仏札をさし出す図柄の古い例として優れた作品。62.5×31.0㎝画面上部には「佛こそ いのちと身との あるしなれ 我ふるまいも わがこころかは 南無阿弥陀仏」という歌が記されています。尖った頭頂と後頭部、日に焼けた面長な顔で、こけた頬と長い眉が目を引きます。細身の身体には黒色の衣をまとい、柿渋色の上着を重ね、黒い腰の紐には白い布をくくりつけ、膝丈の裾からは薄い黄色の肌着がのぞきます。合掌する左手には赤色と黒色の数珠(じゅず)を懸け、両手で賦算の紙束を挟んでいます。開いた口元から歯をのぞかせ右脚を踏み出すようすは、「阿弥陀如来」の名をとなえ、賦算しながら念仏を勧める旅に生涯を費やした一遍の在りし日の姿です。「市指定 絹本著色 真教上人像 南北時代」「絹本著色 阿弥陀如来迎図 室町時代」。 「絹本著色 熊野垂迹西国三十三観音像 室町時代」。 「空也上人立像(室町~鎌倉時代)」 。この空也上人立像は、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を写実的に表しており、右手に撞木(しゅもく)、左手に鹿角杖(ろつかくじよう)、胸に金鼓(きんこ)をさげている。すねを露わにした足には草鞋(わらじ)をはき、一歩踏み出した姿は躍動的であり、念仏を唱えながら遊行する様子を丁寧に表現している。総体に六波羅蜜寺蔵のそれと似通ってはいるが、六波羅蜜寺のものは若く凛々しい顔姿であり、対して本像は晩年の老いや苦行相が入るが、眼光は鋭く、信念をもち、歩み続ける表情をよくとらえている。また、衣の裾に阿弥衣(あみえ)風の模様を彫り込んでおり、これは『一遍聖絵』の中に描かれる阿弥衣の模様と酷似しているところから、時宗様式がはいったものと考えられる。 ズームして。「重美 色紙金地阿弥陀経(蝶鳥経) 平安時代」 ・経典内容 『阿弥陀経』(正式には『仏説阿弥陀経』) → 西方極楽浄土の荘厳と阿弥陀如来の功徳を説く浄土教の根本経典・材質・技法: 紙本 金地(全面を金泥・金箔で装飾) 墨書 料紙を色紙形に区切る「色紙形装飾」・「蝶鳥経」と呼ばれる理由: 料紙の中に蝶や鳥が優美に描かれている 経文の間を舞うように配され、浄土の世界を象徴・装飾的特徴: 金地に墨文字が浮かび上がる華麗な対比 草花・蝶・鳥の繊細な下絵 経文と装飾が一体化した「装飾経」の代表例・美術史的意義: 平安貴族文化の極致を示す装飾経 信仰と美術が融合した作品 「平等院鳳凰堂」建立期と同時代の浄土信仰隆盛を背景・信仰的意味: 金色=極楽浄土の光明世界を象徴 蝶・鳥=浄土に遊ぶ生命の象徴 読誦だけでなく「見る功徳」も重視・遊行寺との関係: 遊行寺(清浄光寺)は時宗総本山 阿弥陀信仰は時宗の基盤 一遍上人の念仏思想と通底 と。「紙本墨書 一期不断念仏結番 一遍上人筆 弘安元年(1278)」。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.03.18
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「本堂」に向かって進む。前方にあったのは巨大な常香炉。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた常香炉。 常香炉にも寺紋・「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が入っていた。さらに「本堂」に向かって進む。 扁額の「登霊臺(とうれいだい)」の文字は紀伊大納言・徳川治寶(とくがわはるとみ)筆。徳川治寶は「中雀門」の建立者でもある。この額は一遍上人の偈文(教え)に由来し、「霊山(阿弥陀の浄土)に登る」=「念仏によって極楽浄土へ至る」という意味が込められており、寺院が浄土へ向かうための神聖な場所であることを示しているのだ と。そして「本堂 内陣」に案内された。 「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆。外陣と内陣に分かれ、内陣は僧座・尼座・鏡縁に分かれる時宗独特の様式。欄間の彫刻類が美しいのであった。『寺』の文字の下部『寸』が傾いている理由は?、時宗の教えである「踊り念仏(おどりねんぶつ)」の躍動感や、一遍上人の遊行(旅して念仏を広めること)のエネルギーを表現するため、あえて斜めに書かれた(意図的なデザインである)と言われています。 一般的に言われている理由は以下の通りです。・踊り念仏の表現: 時宗は一遍上人が開いた宗派で、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」が 特徴です。寺の文字が静止しておらず、踊っているような動き(躍動感)を表していると 解釈されています。・「遊行」の精神: 宗祖・一遍上人は諸国を旅して(遊行)念仏を広めました。 固定化された場所に留まらない、自由で流動的な精神を傾いた「寸」で表現したとも 言われます。・書体・デザインの意図: 正式な文字(楷書など)にこだわらず、あえて文字に動きや遊び心を 持たせた、書道的な観点での意匠です。 すなわち歓喜の表現: 踊り念仏は、念仏を唱える喜びのあまり「自然に体が踊りだした」ことが起源とされて います。この「抑えきれない喜び(歓喜)」や「躍動する生命力」が、書家・佐々木文山の 筆致によって、静止した文字ではなく「動くような姿」として表現されたと見る説があります。飛龍の勢い: 公式には「龍が天に昇る勢い」を模したとされますが、この「昇天するような勢い」自体が、 踊り念仏を通じて無我の境地に至り、極楽往生を願う時宗の教義的な熱量と合致しています。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があった と。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像。平安時代後期作と伝える。参拝客の数も普段に比べ少なく、参拝をしながら写真を撮れたのであった。ズームして。20分ほど、本堂内で正座して、遊行寺の歴史等について遊行寺宝物館長からの説明を聴いたのであった。遊行寺(正式名称:藤澤山無量光院清浄光寺)の開山(開祖)は、時宗の祖・一遍上人から数えて4代目の呑海上人(どんかいしょうにん)。・正中2年(1325年)、俣野五郎景平の寄進を受け、現在の神奈川県藤沢市に創建された。・特徴: 時宗の総本山。 一遍上人(宗祖)が諸国を行脚したのに対し、遊行寺は遊行(修行)を終えた上人が 住まう寺となった。・なお、時宗そのものの宗祖は、鎌倉時代に踊り念仏を広めた一遍上人(いっぺんしょうにん)・藤沢(ふじさわ)の地名は、古くは「淵沢(ふちさわ)」と呼ばれ、境川などの周囲に 淵や沢が多く存在した地形に由来するという説が最も有力。 また、かつてこの地に山藤が多く咲いていたことから「藤のある沢」が転じた説や、 鎌倉時代の武士・藤沢次郎清親の居住地であったことに因む説など諸説あると。淵沢(ふちさわ)説【最有力】:境川が蛇行し、淵(水が深く淀んだところ)や沢(湿地)が多かったため、それが「ふじさわ」に転化したとされる。正しく、この遊行寺のある場所が境川に面した「淵沢(ふちさわ)」であった と。 遊行寺宝物館館長による境内の案内の中で、正中2年(1325)、遊行上人四世呑海が、俣野氏領地の高台に清浄光院を建て独住して藤沢上人一世と称し、山号を藤沢山(とうたくさん)とした。藤沢の地名となったという淵沢は、館長によれば、遊行寺境内、宇賀神神社のすぐ後の崖から水が流れ落ち開運弁財天がある。そこがその淵沢、水のある淵だということだった と。そしてこの日は、本堂内陣の左側に、「釈迦涅槃図」が下げられていた。「釈尊涅槃会(しゃくそんねはんえ)は、お釈迦様がお亡くなりになった日に修行される法要で、遺徳追慕と報恩のための法要。縦6m45cm、横3m64cmの大きな「釈迦涅槃図」を掲げ、その前で法要を行います。「釈迦涅槃図」とは、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下でお釈迦様が入滅される情景を描いた図。この日、2月14日夕刻に御逮夜法要(おたいやほうよう)、翌日15日の朝勤行後に涅槃会を厳修されたのであった」 ① 画面構成の特徴●上部満月が描かれています。これは釈迦が入滅したとされる旧暦二月十五日の夜を象徴します。その周囲には・菩薩・天部・羅漢が群集し、天界までもが悲嘆していることを示しています。② 中央 ― 横たわる釈迦釈迦は・右脇を下にして横たわる・右手を枕にする「頭北面西」の姿勢これは「涅槃(完全なる安らぎ)」の姿です。表情は苦悶ではなく、静かな微笑をたたえた安らぎの顔。死ではなく“悟りの完成”であることを示します。③ 周囲の人々近くには・弟子(阿難など)・嘆き悲しむ羅漢・合掌する信者感情表現が非常に豊かです。中には・顔を覆う者・取り乱す者・冷静に見守る者仏教が人間の感情そのものを肯定していることが見て取れます。④ 動物たちの存在涅槃図の大きな特徴は、・牛・鹿・猿・鳥など動物も集まること。これは仏の慈悲が人間だけでなくあらゆる生命に及ぶことの象徴です。遊行寺の図でも動物が丁寧に描かれています。「2月15日は、仏教の世界においてお釈迦様がお亡くなりになった日とされ、「涅槃会(ねはんえ)」として大切にされています。本校ではこの日にあわせ、2月13日(金)の学林の時間に、遊行寺本堂にて法要を行いました。法要では、これまで生徒たちが心を込めて取り組んできた写経を奉納し、全員で般若心経を読誦しました。一文字一文字に思いを込めて書き上げた写経をあらためて振り返りながら、厳かな本堂の空間の中で静かに手を合わせ、自らの心と向き合うひとときとなりました。また、この時期に本堂で特別に掲げられ、特別公開されている涅槃図を拝観しました。お釈迦様の最期の様子を描いた涅槃図には、多くの弟子や動物たちが悲しむ姿が描かれています。生徒たちはその一つ一つの表情や情景に目を向けながら、命の尊さや教えの意味について考え、真剣な表情で見入っていました。今回の学林を通して、生徒たちは伝統ある寺院の空間で仏教行事の意義に触れ、感謝の心や他者を思いやる気持ちをあらためて深めることができました。」 と下の写真と共に「藤嶺学園藤沢中学校・高等学校」👈️リンク のHPから転記させていただきました。 この「釈迦涅槃図」については・明治26年(1893)に完成・縦6m45cm × 横3m64cm・掛けると下部が畳に約1mほど垂れる と。倒壊した遊行寺(関東大震災)「屋根を残して倒壊した建物の右側に木材や瓦によるがれきがひろがっている様子がわかります。専門家は遊行寺境内の倒壊した建物を撮影した写真だとしています。遊行寺(藤澤山無量光院清浄光寺)は境内に複数の建物がありますが、写真はどの建物なのかを特定するには至りませんでした。写真からは屋根を残して倒壊した建物の右側に木材や瓦によるがれきが広がっている様子がわかります。神奈川県が昭和2年に出版した「神奈川県震災誌」には「藤澤町所在名利藤澤山無量光院清淨光寺(一名遊行寺)の被害は慘澹(さんたん)たるものなりき。拾六間四面の大伽藍(がらん)は勿論、堂宇(どうう)、書院、寶物庫(ほうもつこ)等は盡く(ことごとく)倒潰(倒壊)し」(藤沢町にある有名な藤澤山無量光院清淨光寺(別名:遊行寺)の被害は見るも無残な様子であった。間口と奥行きが約29メートルの本堂や他のお堂、書院、宝物庫などはことごとく倒壊し)とあり、境内の多くの建物が大きな被害を受けたことがわかります。」と。写真はネットから。よって、関東大震災後の再建建設時に天井高さを低くしたのであろうか!?真相はいかに!?下部が畳に約1mほど垂れているのをズームして。本堂の「木鼻」・獅子と象をズームして。 本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な海老虹梁の本堂。そして外に出て、遊行寺宝物館長から、この後に訪ねた「宇賀神神社」の歴史について再び詳細な説明を受ける。「登録有形文化財清浄光寺堂宇十棟本堂 御番方 小書院 百間廊下 回向堂 宇賀神社 鐘楼 手水舎 惣門 石垣及び築地塀 平成二十八年二月二十五日 登録」 「登録有形文化財 第14-0207~0216号」。「文化財というのは国等の自治体が、後世に残したいものとして指定し、管理を行っていくというのが一般的。それが、重要文化財指定というもの。しかし、国や自治体だけでは把握しきれないものも大多数あり、民間の建造物でも文化財としての価値が見出せるというものがあれば、緩やかでも管理していきましょうと、制度化されたものだと。自治体が指定するわけではなく、あくまで申請者が登録するという制度。どのような価値が登録の基準となるのか。1.国土の歴史的景観に寄与しているもの2.造形の規範となっているもの3.再現することが容易でないものそして、築後50年経過しているもの。」とのネット情報。「本堂」の巨大な鬼瓦を見上げて。 博識な遊行寺宝物館長・遠山元浩(とおやま もとひろ)氏。「放生池」、「御番方」を見る。 「百間廊下」を潜る。本堂と御番方を繋ぐ長い廊下で、境内の起伏により勾配や段差をもち、屈曲してのびる。梁間一間の切妻造桟瓦葺で、漆喰塗外壁に長押を廻らし、火灯窓を並べる。要所に御廟所や宇賀神社の礼拝所を備え、宗教施設としての性格も備えており、境内景観に寄与する と。 そして「宇賀神社」。 宇賀神社に祀られる宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わります。有親は遊行十二代尊観上人の弟子となり名を徳阿弥と、長男の親氏は長阿弥と名を改めました。そして、次男泰親が独阿弥となり、三河国大浜称名寺に移るとき、遊行寺に宇賀神社を奉納しました。長阿弥はのちに三河国松平の酒井家の養子となり、独阿弥は松平家の養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称しました。これが徳川家の祖先といわれる由縁です。(諸説あります)寛政6年(1764)11月に当山の大部分が焼失した際に、宇賀神殿も類焼しました。このとき、幕府より白銀30枚を再興費用としてもらい受けています。天保年間の宇賀神社再興にあたっても同様の援助がありました。現在の建物は明治13年に類焼し、のちに再建されたものです。「宇賀神社」の見事な彫刻。池には黄金の鯉が泳ぐ。ズームして。左側に「宇賀神」の姿があった。竹の樋も新設されて。宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰されました。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されています。銭洗い用のザルと水汲み用の取っ手と一体の竹柄杓が並んでいた。石組みで囲われた小池が横に。赤い毛氈(もうせん)が敷かれた休憩用ベンチが。「宇賀神社」を再び正面から。石鳥居越しに。「信徒会館」方向を振り返る。 「白梅」の香り豊かに。 近づいて。そして「廻向堂」手前から「歴代上人の墓」入口をズームして。 さらに「小栗堂」をズームして。 「歴代上人の墓」入口を正面から。遊行寺の本堂の巨大鬼瓦を再びズームして。再び「小栗堂」をズームして。遊行寺「本堂」の鬼瓦を正面から。鬼瓦(おにがわら)は、屋根の棟端に据える装飾瓦。・魔除け・火除けの象徴・建物の格式を示す意匠もともとは文字通り「鬼の顔」でしたが、江戸期以降は文様化・抽象化される例も多くなったと。ズームして。鬼瓦のすぐ下、棟の三角部分にある装飾は「懸魚(げぎょ)」と呼ばれ、 屋根の妻側(三角部分)中央に下がる板状の装飾。中央上部に見える花形装飾は「蕪懸魚(かぶらげぎょ)型の意匠」 花のようにも見えますが、これは火除けの象徴。魚は水の象徴であり、魚は水中で眠らない→ 火災を見張る守護の意味という伝統があるのだ と。そしてこちらは「酒井忠重五輪塔万日堂、六地蔵の寄進者酒井長門守忠重(一五九八~一六六六)の墓所である。酒井忠重は、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げたため、生前からの関係からこの地に葬られたようである。この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進している。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではないであろうか と。」 「六地蔵」。 「稲葉家墓碑」 稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じ。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となった。正成公は、この偶然に驚く。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋としました。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげられる。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出しています。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。碑面には戒名が陰刻されていたが、どなたの墓碑なのであろうか?そして「藤沢敵味方供養塔」。「国指定史跡 大正十五年(一九ニ六)十月一一十日指定藤沢敵御方供養 総高一四九.五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永ニ十五年(一四一八)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとにくいのですが、次のように解読・解釈されています。南無阿弥陀佛自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日応永ニ十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同ニ十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢).刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過きる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(数)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んています。 平成二十年(二〇〇八)二月 藤沢市教育委員会」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.17
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この日は2月14日(土)、10時に遊行寺の大イチョウの樹の下に集合で、第2回ふじさわ探キュン講座『「ふじさわ」魅力再発見ツアー~遊行寺と藤沢宿をたどる』の2回目が開催された。バスにて向かい、「遊行寺前」バス停で下車し、「遊行寺」に向かう。旧東海道の「旧大鋸橋・現遊行寺橋」を進む。下を流れる川は「境川」。 「遊行寺橋」と。 「境川」その先に県道30号線「藤沢橋」。 朱の欄干の先に「境川」の上流側。 前方右に、前回も訪ねた「ふじさわ宿交流館」。 ポスター「浮世絵すごろく THE WORLD」。江戸時代に遊戯として発展した双六は、東海道の旅にイメージを重ねた道中双六が特に多く作られました。本展では、一般的な道中双六だけでなく、飛び双六など、遊び方に工夫を凝らしたさまざまな双六を紹介します。また、歌川広重や歌川国貞(三代豊国)など有名な絵師たちが描いた双六の美しさも楽しみながら、浮世絵すごろくの多彩な世界を探訪できます と。「第14回 旧東海道藤沢宿まつり 2026.03.01旧東海道藤沢宿戦国時代から交通の要所として栄え、江戸時代には東海道五十三次の6番目の宿場町として賑わいのあった地区。古くからの寺社、江戸末期から昭和初期に建てられた店蔵や町屋が点在しています。このエリアを会場に様々なイベントを開します!」会場案内図。「第14回 藤沢宿まつり人力車から藤沢宿を体験しよう!浅草から人力車出張運行特別価格 遊行寺⇔白旗神社片道の一人様1500円」 「藤沢宿の歴史や伝承を楽しんでいただきます。」 前方に遊行寺の惣門。寺号標石「時宗総本山遊行寺」。藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)はまたの名「遊行寺(ゆぎょうじ)」として知られる時宗の総本山である。時宗(じしゅう)は一遍上人(1239~1289)を宗祖とし、南無阿弥陀仏のお札を配りながら各地を回って修行(遊行という)する踊り念仏の宗門である。この清浄光寺はこうした遊行上人の寺ということで広く一般に遊行寺と呼ばれている。開山は遊行四代の呑海(どんかい)上人で、正中2年(1325)この藤沢の地に開かれ、時宗総本山となった。以後、遊行上人は引退するとこの寺に住み、藤沢上人と呼ばれて全国の時衆(時宗)を指導するようになったという。伽藍はたびたび火災に遭い、現在の伽藍は明治30年(1897)の再建による。「惣門(そうもん)」。柱の扁額には左:清浄光寺(しょうじょうこうじ) = 遊行寺の正式な寺号右:時宗総本山 。大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が遊行寺の惣門。今日では遊行寺の黒門と呼ばれています。惣門前に、青銅製の灯籠が対になって建立されていた。この灯籠については、遊行寺宝物館に蔵されている「籐沢山銅灯籠志記(とうたくさん どうとうろう こころざしのき)」によれば、江戸講中を初めとして遠近の篤志者が一体となって、建造を望みました。時に天保10年(1839)5月であり、江戸講中の者が講元世話人となりました。しかし、実際に建立されたのは、天保13年(1842)8月23日ですから、発願されて3年にして実現しました。右側の脚(竿)に「籐沢山三十九世他阿上人一如(いちにょ)書」とあり、左側の脚(竿)には「遊行五十七世他阿上人一念(いちねん)書」とあります。鋳造師は西村和泉守藤原政時である と左側の青銅製の灯籠。高さ約2m80cm。惣門から続く石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれています。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを与えています。平成19年(2007)に大改修が行われました。地元の皆様には、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれています。「春季開山忌」が開催されると。 柱の扁額には左:清浄光寺(しょうじょうこうじ) = 遊行寺の正式な寺号右:時宗総本山大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が遊行寺の惣門。今日では遊行寺の黒門と呼ばれています。「築地塀」。築地塀(ついじべい)は、飛鳥時代から伝わる「版築(はんちく)」という工法を用いた、屋根付きの伝統的な土塀です。土や泥を突き固めて作られ、寺院や城郭、貴族の邸宅を区画する役割を果たします。表面は漆喰や瓦で装飾され、門跡寺院では最高格式を示す5本の「定規筋(じょうぎすじ)」が描かれることもあります。惣門の右下に石の傍示杭が立っていて「傍示 門前先通道幅四間二尺」と。そして前方に「いろは坂」。 参道の石段は四十八段あることから、「いろは坂」と呼ばれている と。「赤門」前、左手の墓地の入口にあった「地蔵堂」。近づいて。地蔵尊。右側には「赤門 眞徳寺」。左手にあったのが「眞浄院」入口門。遊行寺の寺紋「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」。河野氏の家紋「折敷に三文字」は、古代豪族越智氏が奉じた伊予国大三島に鎮座する大三島神社の神紋を用いたものである。すなわち神様に食物などを供える白木の台「折敷」に、大三島神社の「三」文字を組み合わせたものだ。折敷は三方ともいわれ、四角いものを傍折敷、 四隅を切った八角形のものを隅切り折敷、四隅が内側に入り込んだものを隅入折敷とよび分けた。一遍上人が開いた時宗のこの寺紋も「折敷に三文字」だが、 これも一遍上人が河野氏から出たことに由来したものであると。そして待ち合わせ場所の「大イチョウ」。 昨年11月28日(金)に訪ねた時の大イチョウの見事な紅葉。「時宗総本山清浄光寺(遊行寺)境内案内」。近づいて。「市指定天然記念物 昭和四十六年(一九七一)七月五日指定大イチョウ樹高 約二十一メートル 幹回り 七一〇センチメートルひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約三十一メートルありましたが、昭和五十七年 (一九八二)八月の台風で地上六メートルの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成四年(一九九二)の調査で六八六センチメートルだった幹回りは、平成二十年の計測では七一〇センチメートルと太くなっていました。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約六五〇~七〇〇年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では二五〇年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえません。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても十二世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中二年(一三二五)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年十一月下旬から十二月上旬に色づきます。平成二十年(二〇〇八)九月 藤沢市教育委員会」この日の最後に訪ねた「遊行寺宝物館」を見る。 そして集合時間の10時になり、この日の案内人の「遊行寺宝物館長」の遠山 元浩さんの案内で、「本堂」に向かう。 ズームして。境内の「南無阿弥陀佛」碑。 「中雀門」、「御番方」方向を見る。 多くのお名前が記入されていた。「節分追儺式 御芳名」。「節分とは、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日をさします。今日では、冬から春を迎える立春の前日をさすようになりました。毎年恒例の2月3日に行われる遊行寺節分追儺式(豆まき)は、檀信徒を始め藤沢市民の皆様のご協力を得て厳修しております。この法要は、大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻を転読し、旧暦の年の変わり目に豆を投げて邪気を祓い、福を呼び込み、そして一年の幸福を祈る行事です。家内安全、家門( 貴社) 繁栄、厄除招福、身体健全など、各々の 諸願成就を祈願いたします。また、一般の方々より「年男」「年女」のお申し込みを受け付けています。当日は裃(かみしも)を着用して行列に参加し、本堂にてご祈願の後、舞台から豆まきを行っていただきます。(ご参加に決まった「干支」はございません)なお、当日の豆まきには、各種景品が当る券が入っております。ご家族、御近隣様お誘いあわせの上、ぜひご参詣ください。日 時 2月3日 午後1時半、午後3時・・・・・・参加無料!ご志納金 お一人様 木札<大>1万5千円以上/<小>8千円以上/紙札8千円未満【年男・年女の豆まき参加も募集しております】参加条件 大人 木札<大>お申込みの方 / 中学生以下 祈願お申込みの方申込期日 1月31日まで (各時間定員30名になり次第締め切ります)服 装 平服でお越しください。当山にて裃を用意いたしております。ご参加いただいた方には、祈願木札、福桝、福豆、記念写真及び御供物をお頒けいたします」と。ネットから。 境内の白梅も満開。「手水場」。 「明治百年記念住吉より「餘つてかへる遊行寺の手洗鉢」と世人の諺にまで謂われ文化財にも比すべき本堂前の手洗鉢が大東亜戦火に遭い資源不足の為止むなく供出されて茲に二十五年篤志家の御賛同を得て復元いたしました。 昭和四十四年三月廿六日」 手水鉢。上部は蓮弁(れんべん)形の青銅製。蓮は仏教で「清浄・悟り」の象徴であり、泥中から清らかな花を咲かせる姿が、参拝前の心身の清めと重なります。中央の龍は水を口から流していた。龍は水の神・雨を司る存在。仏教では守護神的役割。口から落ちる水は「清浄の象徴」、とくに遊行寺は時宗の総本山であり、「遊行(ゆぎょう)」=各地を巡り念仏を広める教えの中心寺院です。流れ落ちる水は、まるで絶えず続く念仏の流れのようでもあります。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.16
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「東海道分間延絵図:享保(1716年)(京方見附まで)」 常光寺横の中横須賀公園内にある「弁慶塚」に向かって藤沢公民館分館 済美館横の狭い路地に入って進む。済美館横の掲示板には「弁慶塚のご案内」が。・「「済美館」左側の横路地を進み、最初の左に折れる路地を進むと公園に出ます。 さらに階段を 上ると庚申塔群の一角に「弁慶塚」があります。」 ・「常光寺(山号・八王子山摂取院常光寺)の裏手の庚申塔群の一角に弁慶の霊を祀る 「弁慶塚」があります。主君の義経が祀られている白旗神社の方角に向いています。 「弁慶塚」が出来たのは何時か不明ですが、江戸時代を通じて八王子権現社があり 管理されていました。」・「腰越海岸で首実検後「義経」の首は境川を上り、白旗の住民によって手厚く葬られました。 黄金のの背に乗って辿り着いた「義経」と「弁慶」を祀った白旗神社にも参扞してみよう。」・く義経と弁慶の関係 笛を吹く童名・牛若丸(後の義経)に挑んだ武蔵坊・弁慶は「五条天神」での決闘に続いて 「清水寺」の決闘でも負け、それ以降弁慶は牛若丸と一体となった主従関係を築いて きました。牛若丸が平家によって殺害された源義朝の子であることを聞き、牛若丸の強さと その高貴な血統に惚れ込み、また弁慶も平家の侍と闘ってきたことから、牛若丸と強い絆の 主従関係を結び、後に元服し改名した義経に死ぬまで忠実に仕えた、と巷聞伝えられて います。 そして中横須賀公園への石段の入口にあった「辯慶塚」案内板。 中横須賀公園に到着。庚申尊碑とその横・小さな社の中にあった「辯慶塚碑」。 近づいて。主君の義経が祀られている白旗神社の方角に向いている と。後方には多くの庚申塔が並んでいた。奥州平泉で源義経と共に戦死した弁慶の首は、義経の首と共に鎌倉へ運ばれ、その後、境川に流れ着いたという伝説がある。その弁慶の首が祀られたのが八王子社であったと。そしてここが八王子社跡であると。弁慶の首が祀られた場所は、主君・義経を祀る白旗神社(藤沢市本町)の社領であったとされ、義経の首洗い井戸がある常光寺ともほど近く、弁慶が死後も主君を守っている様子を表しているとされます と。近づいて。こちらの向きも「辯慶塚碑」と同じであった。 この老木は満身創痍。タブノキの大老木?で幹が2つに割れているのであった。被雷したのであろうか?焼け焦げた跡が。こんな状態にも関わらず、枯れてしまったり、倒れてしまったりせずに、空に向かっている姿は古木の生命力を感じさせてくれるのであった。新芽も出ていたが。頑張って欲しいのであった。そして次に訪ねたのが、「辨慶塚」の西側にあった「永勝寺」。 寺号標石「浄土真宗 本願寺派 鳳谷山永勝寺」。本尊は室町後期作の阿弥陀如来立像で、もとは親鸞聖人の東国遊行時に北条氏が鎌倉常盤に建てた一向堂というお堂です。その後、下倉田(現在の横浜市戸塚区)に移り、藤沢に移されました。江戸時代、近在から旅籠に売られて来た飯盛女を手厚く葬った旅館「小松屋」の主人源蔵の墓と、飯盛女の墓が有名 と。「永勝寺(飯盛女の墓)墓地の中に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があります。飯盛女の墓はこの源藏が建てたものです。三十九基の墓石には四十八体の法名が刻まれていて五体は男です。飯盛女のいる旅籠 は繁昌しました。藤沢宿には旅籠が四十九軒あり このうち飯盛女をかかえたのは二十七軒ありました。一軒に二人ずつ置かれました。飯盛女は近くの農村や他国からも両親の借金の代償としてなかば売られて藤沢に来たのです。旅人の世話や食事の給仕だけでなく男たちの相手にもなりました。飯盛女として悲しい一生を終えたのです。」 掲示板「確かなものは 今もはたらいている 如来の本願力」 迷いや苦しみを抱える私たちを、阿弥陀如来が「必ず救う」という誓い(本願力)で今も支え、導いているという浄土真宗の教えです。自身の知識や経験(自力)が崩れる時こそ、変わらぬ救い(他力)に気づくことを伝えています と。こちらにも別の案内板があった。「永勝寺「飯盛女」の墓飯盛女とは江戸時代 、宿場 の旅籠屋で給仕をする女として公認されていたが、遊女としての側面ももっていた。藤沢宿大鋸町では、飯盛女のいない宿場がさびれたため、万延二年(一八六一) 宿民のためとして一旅籠屋二名の飯盛女を置く許可を役人から得ている。永勝寺に眠る小松屋の抱えた飯盛女の墓は三十九基あり、内三十八基が宝暦十一年(一七六一) から享和元年(一八〇一)まで、小松屋の墓域に建てられている。このように供養された者は少なく、借金の形など苦界の中で身を沈めた者が多い中、小松屋の温情がしのばれる。 藤沢市教育委員会」 こちらが飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵・一族の墓なのであろうか?全国的に粗末に扱われることが多かった飯盛女は、供養された者は少ないので、お墓があるのはとても珍しいことなのだとか。お墓を建てて飯盛女を供養した人の優しさや人間味を時間を超えて感じることができたのであった。そして、一段下がった場所にあった「飯盛女の墓」を追う。 永勝寺に眠る小松屋の抱えた飯盛女の墓は三十九基あり、内三十八基が宝暦十一年(一七六一) から享和元年(一八〇一)まで、小松屋の墓域に建てられている と。これらの没年を調べると、41年間に、39人の飯盛女が死亡しているとのこと。飯盛女の生命をむしばんだ原因は瘡気(梅毒)と、それの余病であったと。「飯盛女の墓」を、移動しながら様々な場所からカメラで追う。 万治2年(1659年)に東海道の宿場での遊女が禁止されたため、その代わりとして現れた と。「飯盛女」のほか、「食売女(めしうりおんな)」「宿場女郎(しゅくばじょろう)」「飯売女」とも呼ばれた と。1宿場あたり150人から数百人~1000人以上もの飯盛女が置かれていた と。飯盛女は、宿場を利用する多くの旅人だけでなく、近隣の馬方や住民も相手にしていたのであろうが。そして「本堂」をズームして。 正面から。「本堂」に近づいて。永勝寺は、江戸時代後期の1841 (天保12 )年に編纂されたこ『新編相模風土記稿』高座郡坂戸町の条に次のように記されていると。『永勝寺坂戸町法谷山瑞祥院と号す、一向宗京西六条本願寺末、元禄四年(→1691年)僧真海起立す、本尊阿弥陀を安す。』と。 扁額「鳳谷山」。 「本堂 内陣」。 さらにズームして。「鐘楼」。 「梵鐘」。 移動して。参道左手にあった「太子堂」。 そしてこの日の「「ふじさわ」魅力再発見ツアー」を完了し、スタート場所の「藤沢本町駅」に向かって戻る。 途中、右手にあったのが「諏訪神社・諏訪町内会館」。 藤沢市藤沢3丁目3−2。「諏訪神社」。1957年(昭和32年)、白旗神社の宮司と諏訪町内会が長野県の諏訪大社で御分霊を戴きお祀りしたのが始まりです。諏訪町内会館は、1989年(平成4年)に諏訪神社を地域の共同使用目的として建替えられました。毎年7月の第四週末には祭礼等が行われます と。そして次回・2回目の第2回ふじさわ探キュン講座『「ふじさわ」魅力再発見ツアー~遊行寺と藤沢宿をたどる』の日時は2月14日(土)10:00~ を確認して、帰途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.15
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右手が先程の往路のときに訪ねた「藤沢御殿跡」への路地の入口。 この写真の近くに「蒔田本陣」があったと。 「旧東海道・藤沢宿蒔田本陣跡江戸幕府は、東海道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として、各宿場に本陣を指定しました。江戸時代に 外交使節として日本を訪れた朝鮮通信使も国賓待遇の使節ということで、蒔田本陣に宿泊した記録があります。通常、本陣には その他の旧家や富裕層等、有力宿民が指定され、家屋の格式も特別なものでした。江戸時代の地誌「相中留恩記略」に記された 蒔田本陣の図からも、他とは画然とした本陣の様子が判ります。」 江戸時代の地誌「相中留恩記略」に記された 蒔田本陣の図。 「東海道絵巻」(藤澤御殿絵図)。 「脇本陣和田七郎右衛門・坂戸町問屋場の絵図」。 「旧東海道・藤沢宿問屋場(といやば)跡宿場において人馬の継ぎ立てを行う場所を問屋場と呼び、藤沢宿では、大久保町と颯戸町に一ヶ所ずつありました。問屋場では問屋(責任者)や年寄(補佐役)の指示のもとに、人馬と荷物の割り振りや賃践の記録、御用通行の武家等の出迎え、継飛脚(公用書状の逓送)などが行われました。また、近隣の村へ助郷役や街道掃除役の割り当ても行いました。この場所は坂戸町問屋の敷地跡で、のちに藤沢警察署となり、現在は消防署出張所になっています。」 「問屋場の図 歌川広重「東海道五十三次之内 庄野」部分(藤沢市蔵)そして旧東海道を左折して「常光寺」に向かって進む。右手にあったのが関次商店 「パンの蔵 風土」。 関次商店 「パンの蔵 風土」👈️リンク関次商店の穀物蔵(明治19年築 国登録有形文化財)を改装し、天然酵母に拘ったパン屋としてオープン。穀物蔵(明治19年築 国登録有形文化財)を改装してオープン。その右奥では花苗等も販売していた。そして更に進むと正面に「浄土宗 常光寺」山門が現れた。 山門横のお地蔵さんが出迎えてくれた。境内にも数々の新作石像があった。そして手前には石碑が2基。近づいて。「記念碑 藤澤警察署創設百年」と。明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた常光寺。「藤澤警察署發祥の地明治五年八月常光寺の邏卒屯所(らそつとんじょ)が設置され以後境内地の提供により警察出張所警察署に昇格。大正十四年洋風庁舎を建築し昭和三十九年四月本鵠沼の新庁舎に移転するまで九十年間署が置かれていた發祥の地である。藤澤警察署創設百年を記念して碑を建立す。」 「浄土宗 常光寺」。 創立は元亀三年(1572)、山号は、八王山。正式名は「八王山 摂取院 常光寺」、鎌倉光明寺の末寺であったとのこと。左側に「六地蔵」。 近づいて。六道において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵菩薩。すなわち,地獄道を救う檀陀(だんだ)、餓鬼道を救う宝珠、畜生道を救う宝印,修羅道を救う持地、人道を救う除蓋障、天道を救う日光の各地蔵の総称。 境内の「子育観音像」。「本堂」。 元亀3年(1572年)に光明寺二十七世の明蓮社光誉(西隠)が創立。 本尊は阿弥陀如来三尊立像で、本尊中尊は像高99cm、全高204cm。境内左側の墓地には、歴史を感じさせる墓石が並んでいた。「福禄寿」像。 常光寺境内のカヤの巨木。カヤの巨木が聳えていた。枝を回りに伸ばしているが、幹は空洞化しつつあると。かながわの名木100選にもなっているが、名木というよりは古木と言った方がぴったり。この古木のカヤは樹齢320年と推定されているとのこと。藤沢宿が整備されて85年後くらいに芽吹いたことになる。「かながわの名木100選 常光寺のカヤ」のプレートには、「樹高 25メートル 胸高周囲 5.0メートル 樹齢 約300年(推定)」、と記載されていた。ズームして。「市指定天然記念物 昭和51年(1976) 4月15日指定常光寺の樹林藤沢の旧宿場町の南側に残る貴重な緑地です。駐車場などを除く境内の約7900m2(約2400坪)が指定区域となっています。大小さまざまな木々が生い茂り、すく近くを国道467号線(旧1号線)か通っているとは思えないほどの静けさです。市街地の中でこれほど多くの巨木が集まっているのも、市内では珍しいことです。境内東の墓地にあるカヤは、昭和59年(1984)「かながわの名木100選」に選定されています。また、庫裡の西、裏山のイチョウは、遊行寺の大イチョウに次く太さです。幹の折損部に明治13年(1880)の大火で類焼したという跡があり、半分以上は枯れていますが、新たな枝が生長してきています。主な樹木の分布は図のとおりで、数値は平成21年1月に計測した幹回りの寸法です。平成21年(2009) 3月 藤沢市教育委員会」 下部には巨木に配置図が描かれていた。「常光寺の樹林」についての説明を聴く。 参道両側のクスノキを見上げて。ズームして。立派な墓地、立派な墓石。「本堂」左奥にも墓地が続いていた。 英米文学者で詩人の野口米次郎(1875-1947)の墓碑。近づいて。30cm立方ほどの四角な磨き石が間をあけて二つ。その上を跨いで積み木細工のように、横60cm縦30cm厚さ30cm程の矩形の石が、横長にのせられてあるユニークな形の墓。子息の建築家イサム・ノグチ(1904-1988)が建立したものとのことで納得。「野ロ米次郎辞世碑明治八年愛知県に生まれ二三年単身渡米、新聞記者となり、のち英国に渡る。詩集を出版するなど両国の詩壇で活躍し、三七年日露戦争の報道のため帰国、兄が住職を勤める常光寺や鎌倉円覚寺に住した。慶応大学で教鞭をとり、世界各地で日本文芸について講演し、また広重・春信などの浮世絵や正倉院宝物について英文出版、さらには日本で最初の英文案内書「KAMAKURA」を出版したりして日本の文化・文芸を世界に紹介し、”ヨネ・ノグチ”の名で親しまれている。昭和二二年疎開先の茨城県で没した。 平成五年十月 藤沢市育教育委員会」 墓碑には野口米次郎の臨終の時の詩が刻まれていた。「鐘が鳴る かねがなる これは即ち 警鐘と言うのですこれが鳴ると皆ねます さぁ みんな眠りましょう」と刻まれていた。この誌の意味は?「警鐘」と言いながら最後は「眠りましょう」と。これは人生の緊張からの解放すべてを終えた後の安堵騒がしい世からの離脱 とも読めるのであったが・・・・。歌手・徳山 璉(とくやま たまき)の墓。ふくよかな体格と張りのあるバリトンで歌謡曲の黎明期に活躍した徳山璉。クラシックから歌謡曲、そして軽演劇の世界に転身し、いずれも成功を収めた元祖エンターティナーであった。戦時下には国民歌謡にも挑戦し、ザ・ドリフターズが替え歌にして広く知られた『隣組』などをヒットさせた。過労が祟り、38歳で世を去ってしまった。墓には「徳山家累代之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「馨雲院孝譽樂邦瑞璉居士」。参道に戻って。これも新作石像か?本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基。「市指定有形民俗文化財 昭和五十二年(一九七七)四月十三日指定万治二年寛文九年 庚申供養塔総高一六九センチメートル 火成岩製総高一七八センチメートル 火成岩製向かって右が万治二年(一六五九)、左が寛文九年(一六六九)に造立された庚申供養塔です。ともに塔身に笠石をのせています。万治二年塔は、塔身正面に「萬治二年」「亥己正月吉日」の造立年記があり、下部に十三名の造立者名が陰刻されています。上部にある梵字は、キリークササクと読み、阿弥陀如仏観音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊を表現すもので、この石塔の本尊になっています。その下の五つの梵字は、ア・ビ・ラ・ウン・ケンと読み、胎蔵界大日如来に祈る時の呪文で、万物の生成要素である地・水・火・風・空を表すものです。下方に猿と鶏が陽刻され、両側面と背面に「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれています。寛文九年塔は、塔身両側面に「寛文九酉己年」「五月廿八日」の造立年記が陰刻されています。この刻銘の日は、十干・十二支を組み合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる庚申の日でした。かつて庚申の夜には、三尸(さんし)という虫が睡眠中に身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるため寿命が縮められてしまうので、その夜は眠らずに過ごすという風習がありました。正面下部にある八名の造立者名は磨滅していて読みとれませんが、この人たちも夜明かしをしたのでしょう。この石塔はその時の記念に建てられたものです。塔身の頂部左右に日と月が、上部に阿弥陀三尊の梵字が刻まれています。下方には正面と両側面に「見ザル・聞かザル・言わザル」が一体ずつ配されています。庚申塔に三猿像が彫られているのは、三尸に告げられないように、あるいは庚申塔の申が猿と通じるからなどの説があります。平成二十一年(二〇〇九)三月 藤沢市教育委員会」 そして境内側から山門を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.14
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「藤沢宿高札場」を後にして「旧東海道・ます形」を歩き旧東海道・現神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線に出る。「遊行寺坂」方向を見る。 そして、「藤沢橋」に向かって、江戸時代にはなかった道を進む。 右手のガソリンスタンドの前にあった一際目立つ赤い色の葉を付けるオタフクナンテン?そして前方に「藤沢橋」交差点。 右手の「橋柱(親柱)」には、「境川」と。橋柱(親柱)に付ける・橋名(橋の名前)・河川名(川の名前) の銘板は、実はある程度の「慣例的な配置ルール」があるのだ。基本的な配置ルール(日本の道路橋の慣例)橋名・河川名の銘板位置は「道路の起点側から見て」決まると。この神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線の起点は、横浜市戸塚区影取町・東俣野町にある「藤沢バイパス出口交差点」とのこと。よって① 橋名(橋の名前)▶ 橋の起点側のたもとから橋を渡る方向に向かって左側の親柱表面(道路側)に縦書きで表示されることが多い正面から見て最も目立つ位置例:写真の「藤沢橋」など② 河川名(川の名前)▶ 橋の起点側のたもとから橋を渡る方向に向かって右側の親柱橋名と対になる位置同様に縦書きが多い例:境川 など よって起点方向から見て右側に河川名「境川」。 反対側・起点方向から見て左側に橋名「藤澤橋」。「橋名板取り付け位置」終点側はひらがなでの記入になっているが、最近では起点・終点側共、漢字とひらがなの2種類の橋名板となっているようであった。 「藤澤橋」を渡る。 欄干に見えるこの重なり合う半円の連続模様は「青海波(せいがいは)」同心円状の半円を幾重にも重ねた波模様で、日本の伝統文様の中でも最も古い部類に入ると。青海波は単なる波ではなく、・広がる穏やかな海・永遠に続く平穏・無限の繁栄・安定・調和 を象徴しているのだ と。 赤い欄干の端が旧東海道の旧大鋸橋・現遊行寺橋。 終点側の右側は「藤澤橋」。(以前の写真) 欄干には藤沢市の市の花「フジ」を模したレリーフが飾られ、さらに灯籠が設置されていた。箱根駅伝のコースになっているため、年始の時には多くの見物客が集まり熱気に包まれる。そして右折して、旧東海道方向に向かう。前方の白壁・なまこ壁の建物は「藤沢橋自動車排出ガス測定局」。 「東海道五十三次 藤澤宿」。この浮世絵は、江戸時代の東海道の宿場町 藤沢宿 と 遊行寺 を描いた有名な作品。■ 1 作品の基本情報作者: 歌川広重作品名: 東海道五拾三次之内 藤澤(遊行寺)制作:1833~1834年頃(天保4~5年)版元: 保永堂竹内孫八シリーズ: 東海道五十三次江戸の 日本橋から京都三条大橋までの53宿 を描いたシリーズの第6宿「藤沢宿」の図。■ 2 描かれている場所この絵は藤沢宿の象徴である清浄光寺(遊行寺)の入口を描いています。画面中央にある・大きな黒い鳥居・鳥居の奥の松林・石灯籠・参道の坂道はすべて 遊行寺の参道 を表しています。江戸時代、藤沢宿は遊行寺の門前町として非常に賑わった宿場町でした。■ 3 画面の見どころ① 参道の鳥居遊行寺の入口には大きな鳥居がありました。江島神社(江の島弁財天)への一の鳥居② 宿場町の賑わい画面には多くの旅人が描かれています。見てみると・旅人・駕籠かき・荷物を運ぶ人・托鉢僧・商人・女性旅人など、東海道の往来の賑わいが表現されています。👉 藤沢宿は江の島参詣の分岐点でもあったため旅人が特に多い宿場でした。③ 遊行寺への参詣坂を登る人々は遊行寺へ参拝する人々 と考えられます。遊行寺は・時宗総本山・一遍上人ゆかりの寺として、江戸時代には大変人気のある寺でした。■ 4 広重の構図の特徴広重のこの作品には特徴があります。● 道を斜めに配置参道を斜めに描くことで奥行きと動きが生まれています。● 人物の動き人物は・歩く・話す・休む・荷物を運ぶなどそれぞれ違う動きをしています。👉 宿場町の生活感を描くのが広重の得意技です。■ 5 藤沢宿の位置東海道では1 日本橋2 品川3 川崎4 神奈川5 保土ヶ谷6 戸塚7 藤沢藤沢宿は江戸から約50km地点の重要宿場でした。■ 6 藤沢の歴史との関係この浮世絵は・藤沢宿・遊行寺門前町・江の島参詣という江戸時代の藤沢の町の姿を最もよく伝える資料の一つです。「歌川広重「東海道五十三次 藤沢(隷書東海道)」■ 1 隷書東海道とは正式名称東海道五十三次之内 藤沢(隷書東海道)・作者: 歌川広重・制作:1847~1848年頃・版元: 丸清(丸屋清次郎)特徴は宿名の題字が「隷書体」で書かれていることです。そのため「隷書東海道」と呼ばれます(保永堂版の約15年後のシリーズ)■ 2 この「藤沢」の場面この図も場所は・藤沢宿・江の島道の入口 です。画面中央の鳥居は江島神社へ向かう 江の島一の鳥居 を描いたものとされています。つまり東海道 → 江の島参詣道の分岐点を表しています。■ 3 保永堂版との違い同じ「藤沢」でも、構図や雰囲気がかなり違います。保永堂版 隷書東海道1833年頃 1847年頃大ヒットしたシリーズ 後期作品動きのある構図 落ち着いた情景旅の活気 日常的な宿場隷書東海道はより写実的で静かな宿場風景 になっています。■ 4 描かれている人物この作品では・茶屋で休む旅人・江の島参詣の人々・托鉢僧・荷物を運ぶ人などが描かれ、藤沢宿が参詣客で賑わう宿場町であったことを示しています。■ 5 藤沢宿の重要性江戸時代の藤沢は・清浄光寺(遊行寺)参詣・江の島弁財天参詣・大山詣という三つの信仰の分岐点でした。そのため東海道でも特に人の往来が多い宿場として知られていました。「東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ」。藤沢宿藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。 ①藤沢御殿藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年)、東海道を利用する際の体憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば、将軍の御殿利用は寛水11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。②本陣と脇本陣江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延享2年(1745年)に火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど、特定の家に限定されていなかったようです。③間屋場宿場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々一か所ありました。④見附見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附までが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約1340mでした。⑤高札場高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊行寺橋)の際に設けられました。屋根付で高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模でした。⑥旅籠屋一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は亨和3年(1803年)には4 9軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。⑦枡形宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。ズームして。解説図。「藤澤橋」交差点を振り返りながら旧東海道を平塚方向に戻る 合流下水管のマンホール蓋には「小栗判官」像が。 「旧東海道・藤沢宿」案内図。 そしてこちらは「江の島弁財天 道標」。この道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術の考案者で、江の島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校が、江島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにと寄進したものと伝えられ、藤沢宿から江の島へ続く約4㎞の江の島道周辺に48基の道標を建立したと。市内にほぼ同形の道標が12基指定されています。・正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、・右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、・左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言(もんごん)は、江の島弁才天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています と。 右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」左側面に「二世安楽(にせあんらく)」「江ノ島弁財天道標この石柱は、江の島への道筋に建てたれた道標(どうひょう)の一つです。江の島弁財天道標は、管(くだ)を用いて鍼(はり)をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(すぎやまけんぎょう)(杉山和一、1610~1694)が寄進したと伝えられ、現在市内外に十数基が確認され、市内所在のうちで十二基が藤沢市の重要文化財に指定されてます。いずれも頂部のとがった角柱形で、その多くが、正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言(もんごん)には、江の島弁才天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近こ移設されていましたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により、当時の浮世絵類に描かれている江の島入口の道標を参考として、この地に移設したものです。」 「広重 東海道五十三次之内 藤澤 「行書版」」 境川と藤沢橋と大鳥居の風景です。左が藤沢橋で下に流れているのが境川です。右が江の島弁天の大鳥居です。鳥居の近くの道標に「江のしま道」とあります。現在の境川そして藤沢橋を見る。現在の境川そして旧大鋸橋・現遊行寺橋を見る。「江戸時代の旅籠の様子」 市川克典氏作成。そして往路で訪ねた「旧桔梗屋」の店蔵。 正面から。そしてその先、左手にあったのが「稲本屋本店 明治天皇行在所記念」碑。 「弘化二年(一八四四)初代寺田三郎兵衛(満弘)が創業。質素と誠実を家訓とし、稲元屋呉服店の礎を築いた。明治24年亀井野の陸軍大演習のため行在所となった。石碑は皇紀2600年(昭和15年)町民の意気高揚のため建てたものである」と。側面に平成14年6月、5代目当主と刻まれていた。 近づいて。在りし日の「稲本屋呉服店」。 旧・稲元屋呉服店の内蔵と一番蔵裏山の竹林に「明治天皇行在所記念碑」の石碑があった。呉服屋稲元屋本店(寺田家)は藤沢宿で一番の大店(おおだな)であった。寺田家には現在二棟の土蔵が残っているが、かつては五棟の蔵があった。藤沢駅の開業は明治二十年(1887)、四年後の明治二十四年(1891)に御在所となった。隣はさんこうどう、創業百二十八年の老舗です。明治十四年築の大規模な店蔵と洋館は藤沢市が解体、保存されています。寺田家の竹林を抜けた場所には古典地誌「我棲里」などの多くの著作を残し、藤沢の発展に尽力された医師・小川泰堂の笑宿庵跡があったが、史跡を見つけることはできない と。現在は「メゾンイナモト」のマンション経営か? 道路の反対側にあったのが、酒屋・田島の倉庫。そしてその先には「福田屋人形店」。 明治二十年創業の福田屋は神奈川県を中心に藤沢本店・横浜店・溝口店・町田店の4店舗を。店内を入口から。昭和初期の写真をネットから。店には節句行事、節句人形に関する 豊富な知識を持つ「節句人形アドバイザー(一般社団法人日本人形協会認定資格)」が在籍しており、お人形はどちらの実家から贈ったらよいのか、いつ頃までに用意したらよいのか、お人形の飾り方や取り扱い、処分の方法までなんでもお気軽におたずねください と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.13
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歌川広重作「東海道遊歴双六」。歌川広重による『東海道遊歴双六』(とうかいどうゆうれきすごろく)は、嘉永5年(1852年)に恵比寿屋庄七から出版された、東海道の各宿場名物を描いた絵双六です。江戸(日本橋)から京(三条大橋)まで、宿場の名所や特産を辿る旅を疑似体験できる、江戸時代後期に人気のあった教育・娯楽的な錦絵(浮世絵)。「東海道五十三次と藤沢名物東海道五十三次とは、江戸時代の五街道のひとつである東海道に、江戸日本橋を起点に京都までの間に置かれた五三の宿場のことです。江戸時代後期には誰もが安全に旅行できる環境が整い、社寺参拝を理由とした物見遊山が庶民の間にさかんになりました。旅は当時にとっての、一生に一度の◯◯になりました。歌川広重が幕府の行列に同行して東海道を旅した際に行った写生もとに、天保四年から五年(一一八三~一一八四)に制作した「東海道五十三次之内」は、それ以前は人物画が中心であった浮世絵に対して、風景を叙情的に描いた版画として大好評となりました。その後、他の版元も後を追って、五十三次を一枚にした名所絵が次々と版行されました。東海道五十三次の名所絵を一枚にまとめ、道中訪ねるべき場所や、知っておくべき名物を描いて仕立てた「道中双六」も各種製作されました。「東海道遊双六」は嘉永五年(一八五二)に広重が製作したもので、各宿場の名所・名物を紹介しています。藤沢宿の名物は「砂糖漬」とあります。これは藤沢宿の和菓子屋が販売した防風などの砂糖漬けのことを指しているのでしょう。防風とはハマボウフウのことで、海岸の砂地に自生するセリ科の植物です。砂糖漬けのショウロもまた湘南地方の名物だったようです。ショウロは手入れのされたクロマツ林に生ずるキノコです。砂糖が高級品であった時代の高級菓子だったのでしょう。江戸時代の記録に残された藤沢宿の名物は、これらのほか「ひしこなます・さざえ・あわび・弁慶餅」があります。「ひこしなます」のひしこがシコイワシのことであれば、海岸部で漁師が作って食べていたイワシのぬたでしょうか。さざえやあわびは、藤沢宿から参詣道が分かれる江の島詣でのみやげ物として有名で、浮世絵の美人が手に掲げていたりします。弁慶餅というのは、どんなものだったか、今日ではわかりません。」 藤沢名物 砂糖漬け1852年(嘉永5年)に発行された『東海道双六』(歌川広重画)には、「藤沢」のマスに砂糖壷と器に載った菓子が描かれ「名ぶつ 砂糖漬」と記されています。この砂糖漬については、江戸時代の「東阪戸 町内記録帳」という資料が残されていて(画像は写本)、下記のように記されています。「◯まくの内の始メふしみや重右衛門店ニ藤松と申もの江戸より来りはしめ□代弐百五十文 内五十文ハ宿ノかすり是も文政末の頃ハすたり菓子やニて五色茶びんと云物ヲ出ス是も天保年中ニ至りすたる ◯文政の末ッ頃 いせや又右衛門ニて 松露 初茸 坊風 三品砂糖漬 仕出し 当座ハ殊ノ外商売アリ」文政の末頃(1830年頃)、藤沢宿で「松露、初茸、坊風(ぼうふう)三品砂糖漬」を売っていて、当座(しばらくの間)は非常に売れたということです。これがのち、1933年(昭和8年)に発行された『現代の藤澤』(加藤徳右衛門著)の「藤澤の名物」の項に「◆藤澤名物 三品漬 藤澤東坂戸 豊島屋本店 久保田喜助」 と記され、同店は明治以降も「三品漬」の製作・販売を続けていました。」藤澤宿名物「ハマボウフウ」。 藤澤宿名物「ショウロ」 「歌川広重 東海道五十三図会七 藤沢(美人東海道)」製作時期:弘化4年(1848)~嘉永5年(1852)板元:藤慶(藤屋慶次郎)このシリーズは前面に美人姿を大きく描いているので一般に美人東海道と呼ばれます。広重は風景画の大家であると共に美人画でも評価が高かったようです。右端に「相州 江の嶋詣」とあるのでこの女性が江の島帰りであることがわかりますが、女性の脇の駕籠の上に乗っている品物は、江の島名物「アワビの粕漬け」です。背景(上段)は藤沢宿の景観で、後ろに見える山は大山です 「歌川広重「六十余州名所図会」より「江の島 洞口」」 上段:「東海道図屏風」六曲一双(静岡市蔵) 江戸時代 (17世紀) 静岡県指定下段:右隻の右上部分 右上の江戸城に向かって進む朝鮮通信使一行が中央から左側にかけて 描かれている。「朝鮮通信使縁地連絡協議会、韓国側 財団法人釜山文化財団)が、平成二八年三月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)へ申請していた「朝鮮通信使に関する記録」のユネスコ「世界の記憶」への登録が、国際諮問委員会(フランスのパリ)での審査を経て、平成二九年一〇月三一日、正式にユネスコホームページで公表されました「世界の記億」登録を機に、平和の遺産である朝鮮通信使への理解が深まることを期待しています。」 「藤沢宿と朝鮮通信使朝鮮通信使とは、江戸時代に徳川将軍の代替わりの際などに、朝鮮王国から日本(徳川幕府)へ遣わされた外交使節のことです。使節の往来は一六〇七年(慶長一二年)から一八一一年(文化八年)までの一二回でした。二回目(京都まで)と一二回目(対馬まで)を除く一〇回は東海道を通行した江戸への往復で藤沢を通過し、そのうち九度(往復で一八度)藤沢宿に宿泊しています。通信使は国賓待遇の使節でしたので、大名や公家と同じく宿場の本陣(大名など高家の宿泊所として指定された宿)に宿泊しました。使節一行と随行する大名関係者は総勢五〇〇人を超え、本陣のほか、宿内の宿だった旅籠や寺院に分宿しました一七一九(享保四年)の通行の際には、帰路、藤沢宿を通過したのちに沿道から通信使の駕籠に蜜柑が提供され、一行が喉を潤したという友好交流の記録(申維翰「海游録」) も残されています。通信使の姿を伝える資料として様々な絵画が知られていますが、こに掲げる「東海道図屏風」(静岡県指定文化財。静岡市蔵)もそのひつです。六曲一双の右隻右上の江戸城に向かって、品川宿あたりからチャルメラを吹く先触れや使節◯使)を乗せた輿などが生き生きと描かれています。華やかな外国使節の通過を見て、街道沿いの人々は様々な刺激を受けたことでしよう。」 「浮世絵に描かれた藤沢」 「歌川貞秀 東海道名之内 ふちさハ 遊行寺大判錦絵 竪1枚縦35.2x横229cm制作年代:文久3年(1863) 版元-印なし文久3年( 1863 )の十四代将重家茂の上洛をイメージして出版された東海道シリーズで通打「上洛東海道」の内の一枚です。作者の橋本貞秀は、鳥瞰図的なを図の名所図などに優れ、「空飛ぶ絵師」とも呼ばれます。 この作品は鳥瞰図的構図により、行列が遊行寺坂上(画面右上)から藤沢宿の大鋸橋にまで続き、その長さを強調しています。遊行寺は当時、歌舞伎などにも頻繁に取り上げられていた「小栗判官照天姫」物語の舞台として知られ、街道の名所の一つとなっています。図中にも「小要堂」「小栗十勇土之墓」が示されています。手前に見える鳥居は江の島一ノ鳥居。遊行寺の山門は仁王門が描かれ、現在とは異なります。」 「歌川広重東海道五拾三次之内 藤澤 遊行寺① 手前の黒い鳥居 大きく画面左に立つ鳥居は、江の島一ノ鳥居。 藤沢宿が江の島参詣の入口であったことを示しています。② 大鋸橋(だいぎりばし) 中央の橋は境川に架かる大鋸橋。 旅人や巡礼者が渡る姿が描かれ、宿場の生活感が伝わります。③ 背景の遊行寺 奥の小高い丘に建つのが清浄光寺(遊行寺)。 石段と伽藍が静かに佇み、門前町藤沢の象徴として描かれています。」 「歌川広重東海道五拾三次之内 藤沢(保永堂版)大判錦絵 横1枚 縦25.6x横38.50cm制作年代:天保3年(1832) ~天保4年(1833) 版元:保永堂構図の良さや着眼点に優れ、広重最高傑作シリーズとして大ヒットし、以後広重が風景画の第一人者となるきっかけになった作品。「東海道五拾三次」の藤沢宿にあった江の島一ノ烏居を遊行寺を背景にして描いています。鳥居の後ろにか架かる橋は大鋸橋(現遊行寺橋)。橋の上は大山詣の人たち、鳥居をくぐろうとしている杖をついた人たちは江の島詣での人々で、藤沢宿が両地への参詣者で賑わっていたことを示しています。」 デフォルメされた俯瞰イラスト(バードビュー)館内に掲示された二幅の鳥瞰図は、湘南の海と藤沢の市街を、ひとつの大きな弧として描き出している。相模湾はゆるやかな曲線を描いて広がり、その縁をなぞるように片瀬東浜・西浜の砂浜が連なり、やがて境川が静かに海へと注ぐ。自然の地形と人の営みが、調和のうちにひとつの景観を成していることが、俯瞰の構図によって明快に示されている。上図広域の視野から湘南海岸全体を捉え、江の島を中心とする湾岸の形状と市街地の広がりを一望させる。蛇行する境川は、市街の中をゆるやかに巡りながら海へと至り、海と陸を結ぶ動脈のようである。遠景には富士の姿もほのかに望まれ、湘南という地の象徴性が静かに語られる。下図さらに視点を近づけ、江の島島内や湘南港、ヨットハーバー、新江ノ島水族館など、現代の観光拠点を立体的に描写する。海上に浮かぶ白帆や大型船は、海の町としての躍動を象徴し、島の緑と岩肌は自然の力強さを伝えている。ここには、信仰の島としての歴史と、海洋レジャーの拠点としての現在とが、同時に息づいている。俯瞰図は単なる地理案内にとどまらない。高みからの視線は、私たちの日常を包む地形の骨格を明らかにし、海と川、島と市街が織りなす関係性を可視化する。藤沢という都市は、内陸の田園と海辺の開放性とを併せ持つ稀有な場所であることを、この二幅は雄弁に物語っている。海風を感じながらこの図を眺めるとき、現在の街並みは単なる生活の舞台を超え、歴史と自然が重なり合う一つの風景として立ち現れる。湘南の青は、今日もまた、藤沢の時間をゆるやかに抱いている。「宿場 ~藤沢宿の近くにある宿場~戸塚宿 江戸日本橋から五番めの戸塚宿はひとつ前の保土ヶ谷宿とともに 江戸から最初の宿泊地になることが多く、賑わいました。藤沢宿 藤沢宿は東海道で六番めの宿場です。 鎌倉、江の島、大山など各地へ通じる道が集まる交通の要衝でした。 ←江の島道の起点に立っていた「江の島一の鳥居」四ツ谷の立場 宿場と宿場の間には「立場」という休憩所が設けられ、茶店などもありました。 四ツ谷は大山道への分岐点でもありました ←現在も立つ大山不動尊の道標(藤沢市城南)平塚宿 相模川(馬入川)を渡った次の宿場は平塚宿です。 水運も盛んで、船で厚木方面へ上る大山参詣のルートもありました。大磯宿 高麗山(湘南平)のふもとを過ぎた先に次の宿場大磯宿があります。曽我物語の虎御前や 西行法師ゆかりの鴫立庵(しぎたつあん)など歴史物語に彩られた宿場です。」「旧東海道藤沢宿近隣宿場マップ」 「道 ~藤沢宿を通る道・藤沢宿からのびる道●東海道 江戸と京都をむすぶ主要街道で大名の参勤交代をはじめ、旅人たちや物資・手紙などが 行き来する重要な道路でした。●厚木道 ●八王子道 藤沢宿から北西の厚木へ通じる道と、北の八王子へ通じる道です。●鎌倉道 藤沢宿から東へ向かい鎌倉へ通じる道で、今の柄沢を通る道と手広を通る道がありました。●江の島道 遊行寺前の橋のたもとから南へ江の島まで通じる江戸時代の大人気観光ルートでした。 ←砂州がつながった時は歩いて渡れる●田村通 大山道 西へ向かう東海道の途中から分かれて平塚の田村を通り大山不動尊へ通じる道です。 数人がまとまって参詣する「大山講」が盛んでした。 ←奉納する大太刀をかつぎ、御神酒の台を運ぶ姿が特長」 「ふじさわ宿交流館 おしらせ」コーナー。 藤沢市のマスコットキャラクター「ふじキュン」。 「ふじさわ宿交流館」受付。 「江の島」が描かれた浮世絵の写真?が販売されていた。 「差上申手形之事 内藤若狭守領分 信州伊奈郡福地村 三四郎 榮太郎右之者此度上州沼田林屋半兵衛方迄用事有之ニ付罷越候間 其関所無相違御通シ被遊被下候以上 慶応元丑年 右村 名主 与兵衛 年寄 弥次右衛門 組頭 儀助横川御関所御役人衆中様」 この文書は、信州(信濃国・長野県)伊奈(伊那郡福地村(長野県高遠付近)の住人である三四平と榮大郎が、現在の群馬県沼田の半兵衛方に所用のため旅行するので、関所を通してくれるよう、両名の居住する村の名主らが、慶応元年(1865年)差し出したものです。旅の持ち物の紹介コーナー枕 むかしはまげを結っていたので、寝ている間に髪が崩れないように首の下に枕を 当てました。旅行には小型の枕を持参しました。盜難対策に貴重品を入れる胴乱 (もの入れのこと)が付いた枕もありました。状箱 誰もが気軽に旅に出ることができなかった時代、旅先に届ける手紙を かりました。雨や汗で汚さないように状箱に入れ曲紙でつつみました。七つ道具提灯、方位磁石、矢立、そろばん、巾着、煙管入れ、火打ち石。提灯 日本でロウソク(和蝋燭)が作られるようになったのは、今から600年前、江戸時代より 前で、外出時には提灯に入れて使われました。街灯が無い時代には、夜道を歩くときに 欠かせないものでした。旅行者は、小型の提灯を持ち歩いていましたが、火を大きく できないので、あまり明るくなかったでしよう。火打金 火打鎌ともいう。火打金は鋼鉄の板で、これに火打ち石を打ち付けて火花を出し、 モグサや木くずなど(火口という)に火をつけて、火種にする道具。 帯に挟んで持ち歩くように、根付けが付いている。男性の装身具でもある。煙管入れ。最後に「藤沢市ふじさわ宿交流館 ご利用案内」。 そして外に出ると、再現された「高札場」。高さ:2間(約3.6m) 長さ:3間(約5.4m)と。 斜めから。石垣から上の部分が地面にあったと思われ、現在 私達が高札に書かれている内容を読む状態より 見やすいかったのではと推定されます。「高札とは高札とは、法令、禁令などを板札に墨書し、町辻、橋詰など人目につきやすい場所に掲示したもので、制札とも言います。江戸時代以降、明治初年までの代表的な高札としては、正徳元年(一七一一)の五枚の高札(忠孝の奨励、切支丹禁制、火付・火事場取締、駄馬賃銭の制、毒薬、にせ薬売買の禁止)や明治維新とともに新政府から出された五榜(五倫道徳遵守、徒党・強訴・逃散、切支丹、邪宗門の厳禁、万国公法履行、郷村脱走の禁、の五枚)の掲示などがあります。」 「藤沢宿の高札場東海道藤沢宿は鎌倉郡大鋸町と高座郡大久保町・坂戸町の三町からなりますが、郡境に境川が流れており、そこに架かる遊行寺橋(旧大鋸橋)のたもとの大久保町に高札場がありました。江戸幕府が作成した「宿村大概帳」によると、藤沢宿の高札場は、間口三間(約五・四メートル)、奥行一間(約一・八メートル)、高さ二間(約三・六メートル)の大きさでした。」 「東海道藤沢宿について 藤沢宿は、慶長6年(1601年)に東海道の宿場として設置され、後に戸塚宿、川崎宿が追加されて、江戸から数えて東海道五十三次の第六番目の宿場となりました。古くから清浄光寺(遊行寺)の門前の町として人が行き交う「藤沢」は東国、西国や北相、三浦半島などをつなぐ交通の要衝でした。清浄光寺の東側に江戸側の、江戸時代、この範囲内が藤沢宿でした。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.12
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「旧桔梗屋」の見学を終え、旧東海道・国道467号を遊行寺に向かって進む。 左上:旧藤沢の町並(仲久保町附近)左下:舗装される前の本町通り(◯道) 昭和5年右:藤沢町市街ノ一部左手にあったのが「祭りの小塚屋」創業は明治38年。江戸の粋を受継ぐ当主は三代目お祭り専門店。絆纒(はんてん)や提灯、紅白幕、各種旗、足袋など多数の品揃えをしております と。 さらに「藤沢橋」交差点方向に進む。 そして左折そ「遊行寺橋」を渡る。遊行寺門前の境川に架かる橋は「遊行寺橋」。その昔「大鋸橋(だいぎりばし)」と呼ばれていました。江戸時代に旧東海道が境川を渡るところに架けられた。旧東海道からこの橋を渡ると遊行寺の入口。江戸時代、藤沢は東海道の六番目の宿場町として栄え、 江の島詣の客などで賑わった。 現在の橋は、1960年(昭和35年)に架けられたもの(「かながわの橋100選」)。「東海道 藤澤(文久3(1863)年 二代歌川広重)」 「大名行列」が渡っているのが「大鋸橋」。 境川の上流方向を見る。境川の下流方向を見る。前方に見えるのが、昔は無かった「藤沢橋」。 遊行寺の惣門に向かって進む。そして次の目的地の「ふじさわ宿交流館」が右手前方に現れた。 遊行寺の惣門を見る。「ふじさわ宿交流館」案内碑。旧東海道藤沢宿の歴史、文化に親しむ機会を提供するとともに、地域住民や来訪客の交流の場として、2016年4月29日に開館。ここが藤沢宿の旧東海道の枡(ますがた)部分。この先の旧東海道が右手に曲がりここまで進み左に曲がる。そして境川に架かる「大鋸橋」を渡りその先をさらに右に曲がる旧東海道。Google mapに旧東海道の枡形ルートを記入して見ました。「旧東海道・藤沢宿ます形江戸時代、主要な宿場では、街道を直角に二度曲げたかたちの枡形(ますがた)がつくられ、外敵が進入しにくいようにしたり、大名同士が鉢合わせになることを防いだりしていました。江戸から京へ向かう東海道 が、遊行寺を過ぎて右に曲がり、もう一度左に曲がって遊行寺橋(旧大鋸橋)に至っているのも、典型的な枡形です。」 そして「ふじさわ宿交流館」を訪ねた。旧東海道藤沢宿の歴史,文化等と触れ合う場を提供するとともに,地域の人及び当地を訪れる人の交流の推進を図ることにより、市民の文化の振興に寄与し、旧東海道藤沢宿及びその周辺地域の活性化及びにぎわいの創出に資するための施設である と。 1階【郷土資料展示室】東海道五十三次や藤沢宿に関する様々な資料を展示します。【多目的ホール・広場】歴史散歩やウォーキングで訪れる方などが気軽に立ち寄り休憩が 出来る場です。講演やワークショップなどの催しも開催します。(事業開催ご希望の方はふじさわ宿交流館までお尋ねください)2階【会議室1・2】地域の方や団体の会合などにご使用いただけます。(有料・要予約)施設名称:藤沢市ふじさわ宿交流館所在地 :〒251-0001 神奈川県藤沢市西富1丁目3番3号管理・運営ふじさわ宿交流館の管理・運営は、指定管理者である公益社団法人藤沢市観光協会が行いますふじさわ宿交流館内部の展示物を追う。「東海道五十三次 藤沢宿の様子」上部パネル:「東海道五十三次 藤沢宿の様子」が説明されていた。下部:藤沢宿のジオラマ(立体模型)が展示されていた。 特徴 ・東海道が一直線に貫く構造 ・両側に軒を連ねる町家 ・川沿いの建物配置 ・本陣・問屋場などの中心施設 ・小橋や水路の再現 旅人が行き交う“生きた宿場”の姿を立体的に理解できる構成になっていた。「東海道五十三次 藤沢宿の様子東海道は、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した翌年の慶長六年(一六〇一年)に、徳川幕府を開くよりも早く整備が進みました。江戸ー京都間の人馬と、情報の往来幹線として朱印状で各宿に伝馬を山すことを命じました。藤沢宿は、日本橋から一ニ里一八町(約五〇キロメートル)東海道第六の宿場で、大山詣、江の島参詣の中継地として賑わいました。本陣・伝馬継問屋・高札場も置き、天保十四年(一八四三年) に宿内人口四〇八九人、家数九一九軒、旅籠屋四五軒となりました。宿の名物にさざえ、鮑、ひしこなます(しらす干し)、弁慶餅などが有名でした。六つの挿話一、藤沢宿と遊行寺 藤沢宿と遊行寺は切り離せない縁で結ばれていますニ、宿場の施設 ニつの見附 藤沢御殿 陣屋と本陣三、江ノ島詣で えのしま道に、杉山和一が建てた「道しるべ」がある四、大山参り 藤沢宿の浮世絵にある大刀を担ぐ男達は大山へ向かった五、民話「影取り様」 藤沢宿が出来た頃、旅人の影を喰らう大蛇に里人達は困った六、民話「灰の縄」 灰で縄を作れという難題を解決したのは・・・」 様々な角度からジオラマを追う。ーーは私が追加しました。様々な角度からズームして。「歌川国芳 本朝武優鏡 源義経」。一指 源義経 寿永三年 筆者 弁慶源義經「義朝の第九の子にて頼朝の末弟なり。平治元年に誕生して二歳にて父にはなれ幼名牛若丸と云。又舎那王といへり。幼少の時鞍馬山にて剣術を習ひ、成長して奥州へ下り、路次にて熊坂を討とり、又元服して源九郎冠者と名のつて、後頼朝義兵の時義経のはたらきにて平家の一ぞくを討ほろぼせり。義経武勇すぐれ軍略に達し、讒言の為によつて頼朝の勘気を蒙りて二たび奥州へ下り、秀衡の館に暫らく止りて後に蝦夷の国へ渡るといふ」と。また「吾妻鏡」には「文治五年六月大十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實檢。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各着甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黒漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糧。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々」 とあると。【意訳】<藤原泰衡(ふじわらの やすひら)の使者・新田冠者高平(にった かじゃたかひら)が義経の首級を持参して腰越に到着。首実検のため、侍所別当の和田義盛(わだ よしもり)と同所司の梶原景時(かじわら かげとき)らが派遣された。それぞれ直垂の上から鎧を身に着け、鎧兜の郎従20騎を連れていく。義経の首級は黒漆で塗られた櫃(ひつ)に収められ、中には腐り止めの酒が満たされている。高平の下人が天秤棒に担いで持って来た。果たして首級を見た者は、みな涙で両袖を濡らすほど泣いたそうな。」 「藤沢の義経伝説『吾妻鏡(あずまかがみ)』(鎌倉幕府の記録)によれば、義経は文治五年(一一八九)閏四月三十日に頼朝の意を受けた藤原泰衡(やすひら)に攻められ、衣川の館で自害したと書かれています。まだ三一歳の若さでした。そして、同年の六月一三日の項には泰衡の使者新田高平が義経の首を頼朝の前に持参し、首実検のために和田義盛、梶原景時等が遣わされたとあります。頼朝は、和田・梶原からの報告を聞いたのみで、義経の首は見ていないと言われ、それから義経の首がどのように扱われたのかは史書には見えません。腰越の浜に捨てられたという言い伝えもありますが、『鎌倉大日記』という書物の記載の中には、「閏四月三十日 義経於衣河館自害 五月十三日 首上鎌倉被埋藤沢」と書かれています。(五月十三日は六月の誤りかも知れません)。藤沢に伝わる伝説では、腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川をさかのぼり金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられています。江戸時代の文政一三年(一八三〇)に、小川素堂が著した、藤沢の郷土史『我がすむ里』にはその頃、藤沢の川辺に、金色なる亀、泥に染みたる首を甲に負い出たり。里人驚きて傍らにありける童児たちまち狂気のごとく肱(ひじ)をはり、『我は、源義経なり、薄命にして、讒者(梶原景時のこと)の毒舌にかかり、身は奥州高舘の露と消えるのみならず、首さえ捨てられ怨魂やるかたなし。汝等(なんじら)よきに弔いてくれよ』と言い終わりて倒れぬ。諸人恐れて、これを塚となせり。また、首洗井戸については、白旗横丁のうちにあり、文治五年の夏、彼の義経公の御首をあらい清めし水という と書かれています。また、義経の御首(みしるし)は、文治五年に近くの白旗神社に葬られたとされ、同社は宝治三年(一二四九)に義経を祭神とした合祀し、名称も白旗神社となったと伝えられています。藤沢の旧宿場地域には、先に挙げた史跡のほか、白旗神社境内の義経松碑(松は亡失)、弁慶の力石、芭蕉句碑?、荘厳寺の位牌、常光寺裏山の弁慶塚等が残されています。」 「現代に姿を現した藤沢宿の痕跡江戸時代に東海道の宿場町として賑わいを見せた藤沢宿の痕跡が地下に眠っていることがわかったのは、一九九〇年代の中頃になってからです。これにより、藤沢市教育委員会は平成九年(一九九七)一月、神奈川県理蔵文化財台帳に藤沢市の新たな遺跡として『東海道藤沢宿遺跡』を登録しました。藤沢市の南部には、湘南砂丘と呼ばれる砂丘地帯が拡がっています。ここには東西に延びる砂丘が複数存在していますが、藤沢宿はこれらの砂丘の中でも最北の砂丘列と境川に挟まれた緩やかな斜面地に立地しています。東海道藤沢宿遺跡に初めて調査のメスがはいったのは、遺跡として登録されてすぐの平成九年(一九九七)八月のことです。共同住宅建設の際におこなわれた第一次調査では、戦国時代から江戸時代にかけての五時期の生活の跡が確認されました。江戸時代だけではなく、小田原北条氏が支配していた時期の痕跡が確認されたことは大きな成果でした。つづく第二次調査が平成十五年(二〇〇三)に、第三次調査が平成十六年(二〇〇四)におこなわれ、藤沢宿の様子が考古学の見地から徐々に明らかとなってきました。しかし、調査は主に宿場の中央から東側の地域にかけてのものであり、西側がどのような姿であったか、まだ明らかになっていませんでした。西側の様子を知るきっかけとなった調査は平成十九年(二〇〇七)におこなわれた第四次調査です。この調査では江戸時代から大正時代にかけての生活の痕跡が確認されましたが、その中で注目されたのが、宝永四年(一七〇七)に富士山が噴火した際の火山灰を廃棄した土坑(大きめの穴)です。これまでの調査からも火山灰の廃棄土坑は確認されていましたが、穴が掘られていた場所は東海道から離れた敷地の裏側にあたるような場所でした。しかし第四次調査でみつかった土坑は東海道沿いに掘られており、また噴火前後に人々が住んでいた痕跡は確認されませんでした。天保十三年(一八四二)に記された『鶏肋温故(けいろくおんこ)』という文献には第四次調査地点周辺より西側を「坂戸新宿」と呼んでいたことが記されています。おそらく宿場の中でも新たに発展した場所を新宿と称したのでしょう。文献と発掘の成果が一致した貴重な調査となりました。なお第四次調査地点の北西隣りに位置する第六次調査ではこれまでに文献からは確認できなかった幕末期と考えられる最大幅約四・五mの水路が確認されました。この水路や周辺のゴミ穴からは「伏見屋市兵衛」をはじめ、様々な店の名前が記された荷札が大量に出土しました。今後これらの荷札を研究することにより、藤沢宿の物流の一端が明らかになることが期待されます。」 藤沢宿関連する遺跡下図の上部黄色部🟨は「藤沢御殿跡」 下部茶色部🟫は「東海道藤沢宿遺跡」 ①~⑩は発掘調査地点 「藤沢宿」 東海道分間延絵図(複製)よりズームして。「小栗判官と照手姫「東海道名所図会巻之六」(文書館所蔵)」 「東海道名所図会のさし絵添え書小栗小次郎は鎌倉権現堂にて強盗に出会い既に毒酒にて殺さるべきを遊君照手が貞操にて夜陰に忍び出竹林の荒馬に乗り藤沢の道場へ駈け入り危急の難を逃れたる これ馬上の達人にして 王済が錦障泥を惜しむの類にあらず」 「小栗判官と照手姫「小栗判官」の物語は、ふるくから説経節(せっきようぶし)として語られ、江戸時代には人形浄瑠璃、歌舞伎などの題材となり、登場人物や背景もさまざまに変えて上演され、大変流行しました。そして、江戸時代後半に庶民の物見遊山の旅行がさかんになると、物語の重要な場面で、「藤沢の上人」が登場することから、東海道を旅する人々は遊行寺や長生院をたずねることを楽しみにするようになりました。寛政九年(一七九七)に刊行された名所案内である「東海道名所図会」には、小栗判官照手姫の物語が藤沢に伝えられた話として、次のように紹介されています。相模の豪族横山の屋敷に宿をとった小栗判官が、金品目当てに毒殺されそうになりますが、その場に居合せた遊女の照手姫に助けられて、荒馬の鬼鹿毛を乗りこなして遊行寺へ逃れた・・・実はこの話は、小栗判官の物語の様々な筋書きの一例にすぎません。現在も清浄光寺(遊行寺)の北側には、照手姫が開基となったという長生院があり、小栗判官主従や照手姫の墓、馬具などゆかりの品々を伝えるばかりでなく、「小栗略縁起」という小栗判官物語も伝えています。また、西俣野には「小栗判官絵解き」(花応院)や、小栗判官が埋葬されたという小栗塚跡などがあります。」 「東海道五十三次之内藤沢小栗判官一三代豊国(画)伊勢屋(板)」 「東海道分間絵図元禄三年(一六九〇)、富山藩の遠近道印作成の原図を基に菱川師宣が絵図を描いた、旅行案内書。折り本五冊組で広く普及し、宝暦年間(一七五一~六四)には懐中用の一冊本が刊行されました。」 「江戸時代の旅人のすがた江戸から東京まで東海道を旅するのに、江戸時代には約一四日間ほどの日数を要したといわれています。一日に約四〇キロを往かなければなりません。季節にもよりますが、早朝から歩き始め、日没前には投宿しなければならないと考えると、結構な強行軍です。道中記を片手に街道筋の名所旧跡を巡っていますが、実際には通りすぎたというのが実感だったのではないでしようか。それでも今日とは異なり、一生に何度も体験することのない旅となれば、人びとは懸命に歩き、見て、味わい楽しんだのでしよう。ここで、当時の旅人が携行した旅行用品についてみてみましよう。江戸時代に刊行され旅行の心得を説いた書物『旅行用心集』には、矢立、扇子、糸針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付油、提灯、蝋燭、火打道具、懐中付け木、麻綱、印板が記され、その他に革袋、胴乱、鉤が図示されています。また、これら以外にも鋏・小刀・物差・ぶん回し(コンパスのような道具のことです)・耳掻き・毛抜き・千枚通しなどの七つ道具、弁当箱に方位磁石などがあります。今日の旅行用品とほとんど変わらないようにもみえますが、早朝出発や仕方なく夜道を歩かなければならないときには、やはり提灯や蝋燭が必要です。道脇で弁当を食べたり、木賃宿(燃料代だけを支払って宿泊する宿屋)で炊事をするにも火打道具に懐中付け木が必要でした。それから、方位磁石。不思議でもなく、実は方位磁石の果たす役割は大きかったのです。「東海道分間絵図」をみると、図中にしばしば方位が表示されています。つまり、絵図形式道中記も同様ですが、紙の天地の幅が限定された図鑑の場合は、東海道は一本道として描くことになってしまいます。実際は、場所によっては南北に、あるいは東西に曲がりくねっていた道を右から左へ描いたため、宿場や名所旧跡などを除くと、例えば富士山や大山などの遠め近めの山などが目印となりました。そこで、自分がいる場所からそれらの目標が果たしてどのように見えるかを描き、現在地を確認してもらうために方位が側に記されていました。そこで、旅人は図と方位磁石を合わせてどの方角にどのように富上山が見えるかで、自分の現在地を確認したのです。こうした絵図中に方位を表示する方法は江戸市中の絵図にもみられるところから、ちょっとした散歩でも方位磁石は必須アイテムとなっていたにちがいありません。」 「神奈川 広重 東海道五十三次細見図会」。 「品川 広重 東海道五十三次細見図会品川川崎へ二里半道中風俗戻り駕籠同山駕籠大師参り飛脚仕事を終えて・帰り道、すれ違う戻り駕籠が、声を掛け合っているようです。大師参りは参詣を済ませたのか、みやげらしきものを肩にかけています。」 「広重 神奈川 東海道五十三次細見図会 程ヶ谷へ一里九丁道中風俗江のしま詣もうで盲人弁天参り江の島詣での人々が描かれています。盲人の江の島参りは、江の島で管鍼の着想を得たという杉山検校にあやかるのでしよう。女の人たちは、荷物を運んでもらっています。」 「広重 程ケ谷 東海道五十三次細見図会道中風俗大山参りの諸人宿引午後遅く宿場を通過しようとする大山詣での人たちが、宿泊を勧める宿引と、値段の交渉をしているようです。大山の納め太刀といって、太刀を奉納し、帰りに他の太刀を受けます。また、天秤で担いでいるのは、神前に御神酒を奉納して、大山でもらった水を、大事に持ち帰るための御神酒枠(おみきわく)というものです。」 「広重 戸塚 東海道五十三次細見図会藤沢へ二里道中風俗旅篭屋の留女旅人旅行者を宿泊させるために、宿屋の女が強引な客引きをしています。旅人達は、迷惑そうな顔をしています。」 「広重 藤澤 東海道五十三次細見図会平塚へ三里半道中風俗草原野休の図金毘羅参り六部順禮修行者昼寝六部は旅の宗教者で、側の箱には仏像が入っている。長距離の旅行者達が、休憩しています。なんだか楽しそうです。」 「広重 平塚 東海道五十三次細見図会大磯へ廿七丁道中風俗旅籠屋の座敷屋どの下女宿帳付泊りの旅人宿屋で食事を済ませて、これから寝ようかというときに、問屋が宿帳を付けに来たようです。」 「広重 大磯 東海道五十三次細見図会小田原へ四里道中風俗旅僧旅虚無僧田舎医師ごぜ 旅かせぎプロの旅行者達が描かれています。これらの人々は、門付けといって、人家の前に立って布施を請うて、旅くらしをしました。」 「藤沢宿を通った人々近世藤沢宿にはどのような人々が行き交ったのでしようか。将軍・大名行列慶長関ヶ原戦に際して、徳川家康の軍団が通行し軍事物資の輸送が行われました。以後寛永一一年(一六三四)まで京都・大阪などとの将軍の上洛還御の大通行が一一回ほど行われ、宿場や沿道の民衆に人馬の提供などの役負担がありました。寛永一二年(一六三五)参勤交代制度が確立すると、大名行列の通行が定期的に繰り返されるようになり、宿場も次第に整備されていきましたが、宿場および周辺村落の負担も大きくなりました。外交使節朝鮮・琉球など外国使節も藤沢宿を通りました。琉球の使節は寛永一二年(一六三五)から嘉永三年(一八五〇)まで一八回派遣されています。琉球使は琉球国王即位を感謝する恩謝使で、将軍就任を祝う慶賀使とともに派遣されることもありました。琉球使の派遣は薩摩藩島津氏の監督のもとに行われ、多い時で一七〇人程でしたが、先導する藩士を加えると四千人余になることもありました。オランダ商館使節の参府が恒例となったのは寛永一〇年(一六三三)からで当初は正月に、寛文元年(一六六一)からは三月一日前後に将軍に謁見するようになりました。ケンペル、シーボルトらは、街道沿線の様子や風俗についてよく観察し、日記に残しました。ケンペルは藤沢で食事をして、遊行寺に詣でています。またシーボルトは藤沢宿に宿泊しています。その他の公用交通日光例幣使は、朝廷から家康廟の日光東照宮礼拝のため毎年派遣された奉幣使(参議の公卿)で、正保二年(一六四五)以降毎年派遣されました。一行は五〇人程で、往路は中山道経由で、倉賀野から日光例幣使街道を通り日光霊廟に忌日前日の四月一六日に金の幣帛を奉納、帰途は江戸に寄り浅草寺に詣で、東海道を帰京しました。御茶壺道中は、宇治の御茶を茶壺に入れて将軍に献上するための一行です。これは寛永一〇年に制度化され、東海道通行は往路のみでしたが、元文三年(一七三八)からは往復東海道を通行しました。御茶壺道中は五摂家や宮門跡に準じた権威をもち、これに遭遇した大名は駕籠を降りて挨拶しなければなりませんでした。また、通行に際して、大名に優先して本陣を使用しました。天保三年(一八三二)、保土ヶ谷宿では茶壺の通行に人足五六七人、馬五五疋を要しています。なお、熱海の温泉も、はじめは東海道を通って江戸に送られ、将軍に献上されました。庶民商人、文化人、芸能者、宗教者をはじめ寺社参詣、湯治客など多くの人々が藤沢宿を通りました。特に伊勢お蔭参りは時に爆発的流行があり、江戸時代に慶安三年(一六五0 )、宝永二年(一七〇五)、明和八年(一七七一)、文政一三年(一八三〇)年の四回の流行があり、その度に街道筋では混雑をを極めました。藤沢宿の場合は、伊勢参詣を別として、大山、江の島・鎌倉参詣や、箱根・熱海の湯治など向かう人々が多く通ったという特徴があります。とくに江の島参詣は、弁財天開帳の年に、より多くの通行がありました。」 「ふじさわ宿交流館 浮世絵 絵はがき」。 ふじさわ宿交流館ポスターに見る ―― 江戸の往還と門前町の賑わい館内に掲げられた一幅のポスターは、江戸時代の藤沢宿を情趣豊かに再現したものである。画面中央には東海道の往還がのび、旅人、飛脚、商人、参詣客が行き交う。荷を負う馬の姿や、旅籠の格子越しにのぞく人影、提灯を手にした巡行の人々が、宿場町の鼓動を静かに伝えている。藤沢宿は江戸から六番目の宿場として栄え、門前には遊行寺(清浄光寺)を擁する信仰の町でもあった。東海道を往来する旅人のみならず、江の島詣や寺社参詣の人々が集い、街道と信仰が交差する要衝として独自の活気を帯びていた。本図は、そうした歴史的背景を踏まえつつ、往時の町並みと人の営みを一枚に凝縮している。格子戸、鳥居、橋、そして背後に描かれる松の木立――それぞれが藤沢という土地の記憶を象徴する意匠である。単なる観光案内の図像を超え、往還文化の精神を今に伝える視覚的な物語と言えよう。現在の街並みを歩くとき、この絵に描かれた人々の足音を想像すれば、日常の風景は一層奥行きを増す。藤沢宿交流館のポスターは、過去と現在を静かに結ぶ架け橋なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・・
2026.03.11
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そして次に訪ねたのが「旧・桔梗屋の文庫蔵・店蔵・主屋」。藤沢市藤沢1丁目1−9。街道に南面して建つ土蔵造二階建で、外壁を黒漆喰塗とする。二階正面窓の掛子塗の窓枠や軒蛇腹などを丁寧につくり、一階主屋境には千人扉と呼ぶ重厚な観音開の土戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。藤沢宿において関東大震災以前に遡る貴重な店舗建築 と。下の写真は、今年の正月の箱根駅伝応援の帰路に撮影したもの。そして正面から。この写真は、以前に撮影したもの。左(白、下部・なまこ壁):桔梗屋文庫蔵右(黒):店藏「旧桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家であり、市内に現存する唯一の店蔵及び江戸時代末期の文庫蔵を含む3棟が国登録有形文化財の登録を受け、旧宿場町の雰囲気を伝えています。藤沢宿の歴史・文化を継承するとともに、地域の活力やにぎわいの創出を図るため、令和2年(2020年)10月、旧桔梗屋を藤沢市が取得しました。この旧東海道に面するシンボル的な建物を保全していくとともに、魅力ある活用の実現を目指します。」と藤沢市から。桔梗屋の歴史桔梗屋は鎌倉で寺侍の賄方をしていた初代斎藤清右衛門が創業したと伝えられています。創業年代は明らかではありませんが、記録によると嘉永年間にさかのぼることができます。創業当初は街道の南側に位置していましたが、4代清右衛門による店蔵の建設に合わせて、街道の北側に位置する現在地に移転しました。移転当初の間ロは店蔵の幅のみでしたが、大正10年に西側を、関東大震災後には東側の敷地を取得し、現在の敷地の規模となりました。下は「関東大震災前の古写真」。 「桔梗屋文庫蔵」を見上げて。真ん中に増築倉庫、そしてその先に店蔵の1~2階。旧桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。海鼠壁(なまこかべ)は、土蔵や城の壁面において、四角い平瓦を貼り、その目地(継ぎ目)に漆喰(しっくい)を蒲鉾(かまぼこ)型に高く盛り上げて塗る日本伝統の左官工法です。黒い瓦と白い漆喰のコントラストが美しく、優れた防水・防火・耐火性を持ちます。 目地部分の漆喰が、海生生物のナマコ(海鼠)のように見えることから命名されたのだ。脇の格子戸から入り、店蔵の奥にある主屋に向かう。主屋の北側・境川方向のガラス戸。主屋店蔵の北側に接続して建ち、梁間2間半、桁行6間の2階建てで、1階はゲンカン・ブツマ・オクノザシキの8畳3室を一列に配しています。西側に張り出す箇所は関東大震災後の増築、昭和初期に2階の一部を増築しました。店蔵と西端を揃えて設計されていることやその様式からみて、店蔵と同時に建設されたものと判断されています。1階のブツマ・オクノザシキは家族の生活の場であり、特に北側のオクノザシキは床・違棚・平書院を備えた格の高い造りで当主の居室らしい落ち着いた空間となっています。( 1911年頃建築)北側の前庭。左側にカメラを振って。白梅が満開。主屋の床の間のある「オクノザシキ・奥の座敷」。左側がブツマ・仏間 と。「参考写真(主屋)」(ネットから)。明治44年頃建築。店蔵の北側に接続して建ち、梁間2間半、桁行6間の2階建てで、1階はゲンカン・ブツマ・オクノザシキの8畳3室を一列に配しています。西側に張り出す筒所は関東大震災後の増築、昭和初期に2階の一部を増築しました。店蔵と四端を揃えて設計されていることやその様式からみて、店蔵と同時に建設されたものと判断されています。1階のブツマ・オクノザシキは家族の生活の場であり、特に北側のオクノザシキは床・違棚・平書院を備えた格の高い造りで当主の居室らしい落ち着いた空間となっています。 ネットから「店藏旧東海道に南面して建ち、梁間(短手方向) 3間(約5.45m )、桁行(長手方向) 4間2尺(約8.48m )の上屋の前面に、奥行半間(約0.9m)の下屋庇を設けています。外壁の黒漆喰塗、2階の出桁、軒蛇腹、観音開窓、奥行きの深い下屋は江戸型と呼ばれる店蔵の特徴を表しています。1989年に1階正面をガラス戸にする等、一部に改造はあるものの、外観・内部ともに建築当初の姿をよく残しており、関東大震災前の「蔵の町」としての様相を伝える貴重な存在となっています。( 1911年建設)」 店蔵・主屋 1階平面図 断面図。店蔵の店頭。奥の1段上がった場所が主屋の玄関間。明治44年(1911年)竣工。街道に南面して建ち、梁間(短手方向) 3間(約5.45m )、桁行(長手方向)4間2尺(約8.48 m)の上屋の前面に奥行半間(約0.9m )の下屋庇を設けています。外壁の黒漆喰塗、2階の出裄、軒蛇腹、観音開窓、奥行きの深い下屋は江戸型と呼ばれる店蔵の特徴を表しています。平成元年(1989年)に1階正面をガラス戸にする等、一部に改造はあるものの、外観・内部ともに建築当初の姿をよく残しており、関東大震災前の「藏の町」としての様相を伝える貴重な存在となっています。」 木製看板「和洋紙 日本茶 商 桔梗屋商店横濱出張所」「紙茶 雑貨 商 山三 桔梗屋商店」 主屋への玄関の上部に神棚が。帳場の横壁に多くの棚が設けられていた。ズームして。「下野製紙株式會社特約店」「小田原製紙株式會社關東販賣店」 各種案内板。「藤沢宿における市の取組【旧東海道藤沢宿街なみ継承地区】藤沢宿周辺は、古くから交通の要所となり、戦国時代末期、のちに徳川将軍家専用の宿泊施發となる藤沢御殿が築かれました。江戸時代に入ると、旧東海道6番目の宿場町として整備が進み、時宗総本山清浄光寺(通称:遊行寺)の門前町として、また、江の島参詣、大山参詣の中継地として、たくさんの人でにぎわい、藤沢の中心地として栄えました。平成27年(2015) 4月、この歴史や文化が集積している地域を「旧東海道藤沢宿街なみ継承地区」に指定し、これまで道路・横町の整備、本町公園史跡まわりの修景、案内板・誘導サインの整備、ふじさわ宿交流館の開設等を行うとともに、良質な街なみを形成するための街なみ修景等に関する補助やイベントの開催等に取り組んでまいりました。」 【旧桔梗屋】桔梗屋は、東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家であり、市内に現存する唯一の店蔵及び江戸時代末期の文庫蔵を含む3棟が国登録有形文化財の登録を受け、旧宿場町の雰囲気を伝えています。藤沢宿の歴史・文化を継承するとともに、地域の活力やにぎわいの創出を図るため令和2年(2020)10、旧桔梗屋を取得しました。この景観上重要な拠点を維持管理するとともに、魅力ある活用の実現を目指します。「国登録有形文化財桔梗屋店蔵 主屋 文庫蔵登録年月日:平成25年12月24日所在地:藤沢市藤沢1ー751ー1他所有者:藤沢市構造・形式・建設の年代: (店蔵) 土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺、 明治44年(1911) (主屋) 木造2階建、切妻造、トタン葺 明治44年頃/昭和初期増第 (文庫蔵) 土蔵造3階建、切妻造、桟瓦葺、 文久元年(1861) /大正14年(1925)改修桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家である。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝えている。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝える。※非公開。内部見学はできません。」 「旧桔梗屋の概要」 ・土地(実測) 1,467.11m2・店蔵(公簿) 土蔵造 119.00m2・主屋(公簿) 木造 178.57m2・文庫蔵(公簿) 土蔵造 99.36m2帳場の入口を見上げて。ストップァーを外すと、シャッターのごとく下に下る構造と。2階への階段下。急な階段をズームして。ここが主屋、庭への入口・引き戸式の格子戸。「東海道 藤沢宿昔話のある町 旅籠町 仲久保町」 桔梗屋 店蔵2階の観音開窓と軒蛇腹を見上げて。「桔梗屋店蔵・文庫蔵耐火の仕掛け桔梗屋の店蔵・文庫蔵は「土蔵造」て耐火性を備えているが、耐火の仕掛けが他にも施されている。■店蔵●「漆喰張り鉄板」を一階正面の開口部に取り付ける・1階正面の庇(ひさし)の所に溝が有り、そこに「漆喰張り鉄板」を取り付け、開口部を守る。●店蔵と主屋の接続部「千人扉」前の「漆喰張り鉄板」の引き戸を閉める・通常時はガラス張りの引き戸を使用して生活。・火災時は「漆喰張リ鉄板」の引き戸を閉める。 店蔵と主屋の接続部の 「千人扉」を玄関側から見て。なぜ「千人扉」と呼ぶのか?をネットで調べて見ました。① 🔥「千人でも破れない」説(最有力)・火事の際、蔵を守るための最強の防火扉・「千人力でも破れないほど堅固」・誇張的表現で「千人」👉 江戸時代の“強さを表す慣用的誇張”② 🧱 扉が何重にもある構造から写真にもあるように・外側:土扉(観音開き)・内側:鉄板張り引き戸・さらにガラス戸という多重構造。👉 扉が幾重にも重なる=“千重(ちえ)”転訛説※ただしこれは俗説寄りです。🏛 店蔵の防火思想江戸期の商家は・表は木造(燃えやすい)・財産は蔵に保管・店蔵と主屋の接続部が最大の弱点そこで、接続部を最強の防火壁にする必要がありました。それが「千人扉」です。🔎 構造的意味・土壁の厚い枠・階段状の段欠き・重い土扉・内部に鉄板張り戸完全に火災時の延焼遮断構造です。火が主屋側から来ても蔵内部へ直接炎が通らない設計。そして外に出て2階観音開窓と軒蛇腹を見上げて。旧藤沢宿の多くの町家が関東大震災後の建築である中、店蔵・母屋・文庫蔵とも震災前に遡る店は種めて貴重である.構造の意味① 段欠き(だんがき)構造扉側と枠側が凹凸状にかみ合う閉じたときに一直線の隙間ができない炎や煙の通り道が「直線」にならない👉 火炎や熱気は“最短距離”で侵入しにくくなります。② 多重シール効果接触面が複数段あることで物理的な遮断面が何重にもなる👉 現代で言えば「ラビリンス構造(迷路構造)」に近い考え方です。③ 厚い土壁+土扉土蔵造は内部:木造外側:厚い土壁開口部:土扉+鉄金 という構成。木部を土で覆うことで延焼を防ぐ構造です。🏛 旧桔梗屋👈️リンクとの関係藤沢は旧東海道藤沢宿。商家では店舗部分は木造、財産を守る蔵は土蔵造が一般的であった。旧桔梗屋も、恐らく商品・帳簿・金銭を守るための防火蔵だったのだ。「参考写真 店蔵」(ネットから)。 そして再び「桔梗屋文庫蔵」。文久元年(1861年)建築。敷地の西側に建ち、梁間2間、桁行6間の3階建て。元は、桔梗屋の西側に隣接した質屋の蔵として建てられたものを大正10年(121年)に5代清台衛門が譲り受けたこと等が棟札から判明しました。譲渡前の明治42年、譲渡後の大正10年・14年の3度にわたり修理が行われていますが、旧藤沢宿における江戸期の建築が現存する数少ない事例として貴重な存在です。観音開窓をズームして。こちらは4段欠き(だんがき)構造。「参考写真・文庫蔵」(ネットから)。そして「タウンニュース」の情報です。「藤沢市は2月27日、旧東海道藤沢宿のシンボルとして親しまれている「旧桔梗屋」の保全活用事業における優先交渉権者を選定したと発表した。活用事業者は、1872年設立の老舗蔵元、熊澤酒造(株)(茅ヶ崎市)。飲食、物販、宿泊施設を主な用途に挙げた。官民連携による新たな歴史・文化の発信拠点として、2030年度のオープンを目指し、整備を進めていく。 旧桔梗屋の歴史的建築物を保全しつつ、公民連携によって新たな魅力創出を図る事業。市は2025年7月から公募型プロポーザルを実施し、事業提案の審査を進めてきた。3社が名乗りを上げ、市は「歴史と文化の新たな発信地を旧桔梗屋に生み出す散策したくなる新たな藤沢宿をつくる」がコンセプトの熊澤酒造を中心とするグループに決めた。設計者は(株)久米設計(東京都江東区)、施工者は本鵠沼に支店を置く大同工業(株)(静岡県伊東市)、宮大工の(有)松本社寺建設(鎌倉市)で、歴史的建造物の保全と現代的な活用を両立させる体制を整えた。にぎわい波及も公開された提案イメージでは、敷地内を多機能空間として整備する。店蔵と主屋には、キッチンを増築。調理風景を眺められる小窓も設置する。文庫蔵は歴史的な空間を生かし、物販とラウンジスペースに。境川沿いに位置する宿泊棟では、庭園を望み、眺めながらくつろげる個室空間を提供。その他、敷地奥には回遊できる庭園と池が整備され、藤沢宿の散策スポットとした。これらの提案を受けた市街なみ景観課は「歴史的建築物の保全と事業性の両立を適切に具現化でき、また農家や団体と連携した取り組みなど周辺環境のにぎわいを波及されることも期待できる」と太鼓判を押す。今後のスケジュールは、市と優先交渉権者との間で今年9月以降に事業協定を結び、その後に使用貸借契約、賃貸借契約を締結する予定だ。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.10
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「白旗神社」を後にして国道467号を「白旗」交差点に向かって戻る。この道は旧八王子街道。白旗神社までの道はかっては白旗横丁と呼ばれ、肥料、農業関係の店が軒を並べていた。今でも昔からの店が残っている。藤沢本町駅からの道と交差する所に重厚な建物で目を引くお店、タネや苗を販売するタネトウこと「種藤商店」があった。タネトウの名は種屋藤三郎商店に由来し創業は明治初期。現在は高梨英彦商店、専業農家、家庭菜園向けの野菜や花のタネ、苗を販売、サカタのタネの代理店でもある。 店頭ではジャガイモの種芋が販売されていた。「シンシア」という種類が販売されていたので、帰路に立ち寄り購入したのであった。 「白旗」交差点を左折し国道146号を進むと直ぐにあったが「藤沢宿絵図」。 「この地図は、江戸時代の寛政から文化にかけての様子を現在の地図と重ね合わせたものです。なお、寺社等の位置は移設等により異なる場合があります。」と。 ズームして。現在地はここ。昔は「白旗神社」の境内に「荘厳寺(しょうごんじ)」があったようだ。「荘厳寺(しょうごんじ)」は元暦元年(1184年)覚憲により開山。 嘉禎元年(1235年)覚盛が再建中興した。元文年間(1736年-1741年)に火災で消失した為、延享4年(1747年)に荘厳寺が別当を務めていた白旗神社の隣に再建。天明4年(1784年)火災。天明6年(1786年)には、大雨により境川が氾濫し、6尺(約1.8メートル)の浸水で寺が破壊された。1875年(明治8年)神仏分離令のため現在地に移転した と。現在の「荘厳寺(しょうごんじ)」は神奈川県藤沢市本町4丁目6−12にある。現在の「白旗神社」から徒歩で500mほどの場所・◯。この後に訪ねた遊行寺周辺の「藤沢宿絵図」をズームアップ。「藤沢白旗商店街マップ」👈️リンク そして歩道横にあったが「伝源義経首洗井戸」案内柱。源頼朝に鎌倉を追われた源義経は奥州平泉に逃げていましたが、文治5年(1189)に藤原泰衡の裏切りで、衣川の館で自害したといわれています。鎌倉に送られた義経の首は、首実検の後に片瀬の浜にうち捨てられましたが、首は潮にのって境川を遡り漂着し、この首を村人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたという伝説が残っています。以前は、鳥居が建てられ義経の首を祀った首塚、近くには武蔵坊弁慶の首塚もあり庶民に信仰されていました と。 案内に沿って住宅地の路地に入って行った。路地の入口左側にあったのが「藤沢警察署 本町白旗交番」。 「東海道分間延絵図」では、「白旗旅所義経首洗」として鳥居◯と社があり、周囲を柵で囲んだ様子が描かれている。その首塚周辺の土地は白旗神社の所有地だったが、明治時代民間に払い下げられその土地を買った人は百年の間に次々と破産したり病死したりと不幸な出来事が続いたので、地元では忌地(いやじ)として誰も買う人がいなくなったという。現在ではマンションが建ち首塚の所にあった石碑はこの井戸のそばに移されているのだ と。路地の突き当りの右側にあったのが「伝源義経首洗井戸」。 「伝 義経首洗井戸源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われ奥州(東北地方)に逃げていましたが、一一八九年に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮にのって川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています。この絵は、歌川国芳が描いた源義経の浮世絵です。ここからニ〇〇メートルほど北の白旗神社は祭神として義経を祀っており、境内には、藤沢の御首と宮城県栗原市の判官森に葬られた御骸の霊を合わせ祀った源義経公鎮霊碑などがあります。また、常光寺南側の公園には、「弁慶塚」と記された石碑が祀られています。」「歌川国芳 本朝武優鏡 源義経」。一指 源義経 寿永三年 筆者 弁慶源義經「義朝の第九の子にて頼朝の末弟なり。平治元年に誕生して二歳にて父にはなれ幼名牛若丸と云。又舎那王といへり。幼少の時鞍馬山にて剣術を習ひ、成長して奥州へ下り、路次にて熊坂を討とり、又元服して源九郎冠者と名のつて、後頼朝義兵の時義経のはたらきにて平家の一ぞくを討ほろぼせり。義経武勇すぐれ軍略に達し、讒言の為によつて頼朝の勘気を蒙りて二たび奥州へ下り、秀衡の館に暫らく止りて後に蝦夷の国へ渡るといふ」と。また「吾妻鏡」には「文治五年六月大十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實檢。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各着甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黒漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糧。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々」 とあると。【意訳】<藤原泰衡(ふじわらの やすひら)の使者・新田冠者高平(にった かじゃたかひら)が義経の首級を持参して腰越に到着。首実検のため、侍所別当の和田義盛(わだ よしもり)と同所司の梶原景時(かじわら かげとき)らが派遣された。それぞれ直垂の上から鎧を身に着け、鎧兜の郎従20騎を連れていく。義経の首級は黒漆で塗られた櫃(ひつ)に収められ、中には腐り止めの酒が満たされている。高平の下人が天秤棒に担いで持って来た。果たして首級を見た者は、みな涙で両袖を濡らすほど泣いたそうな。」 「伝 義経首洗井戸」に近づいて。井戸は公園右手の竹塀の前にあり、格子蓋が被せてある。近づいて斜め上方から。中を覗くとやや深い円筒形で、涸れ井戸だった。井戸の手前右には説明板、左には3種類の石碑が。『武蔵坊辨慶公之靈 九郎判官 源義経公之首塚 亀井坊 片岡坊 伊勢坊 駿河坊 各靈』と刻まれた石碑。「九郎尊神」と刻まれた石碑。 「九郎尊神」とは、九郎判官 源義経のこと。<そして『源義経史蹟 藤澤市』と刻まれた石柱が建っていた。そして国道467号まで引き返す。前方にあったのが「旧鎌田商店蔵(藤沢宿)」。荘厳寺入口にある旧鎌田商店蔵は明治30年(1897年)に建てられた築117年の蔵であり、外壁下部から中ほどには鎌倉石を積み、上部はトタンで覆われているが、おそらくは漆喰であろう。内部は丸太または縦に半裁された木材組みによる重厚な造りであるという。昭和初期から主に和紙の商いに使用されてきた。荘厳寺境内横にも土蔵が見えるがこれも旧鎌田商店の土蔵であろう。 藤沢市内の旧街道沿いに設置されているこのボックスは、通信・電力系の地上設置設備(ケーブル分岐箱/端子函)。貼られている写真は藤沢の鉄道黎明期の風景と思われます。右:小田急線藤沢本町駅 昭和12~15年 藤沢市文書館蔵左上:町立藤沢高等女学校 昭和12~15年 藤沢市文書館蔵左下:白旗神社 と。「旧鎌田商店蔵」の脇の路地が「荘厳寺」入口。 右手にあったのが「藤沢公民館分館 済美館」。藤沢公民館分館「済美館」は、歴史ある旧東海道藤沢宿の面影を残すエリアに平成時代に建設された施設です。1階には藤沢宿に関するパネル展示や郷土資料が備えられており、江戸時代の町並みや歴史を学べる地域活動の拠点となっています。 藤沢公民館の分館として、地域の生涯学習やコミュニティの場として利用されている。 「藤沢公民館分館」が済美館として生まれ変わった建物である。「済美館記念碑文この地域は、江戸時代以前から、遊行寺の門前町、東海道の宿場町として栄え、商業(問屋街)も盛んで、近隣の町村から多数の人が集まりました。また、大正初年から町役場があり、市制が布かれてからも昭和二十六年(1951)まで市役所が置かれ、本市の歴史・文化並びに経済の中心地でもありました。済美館は、昭和十七年(1942)一月武道場として飛嶋繁氏によってこの地に建設、藤沢市に寄贈されました。この「済美館」の名称は明治三年(1870)十月大久保町の名主堀内悠久の子郁之助氏により、土地の子弟教育のため藤沢宿に創設された藤沢郷学所済美館の名にあやかり命名されたものです。その後、一時期市議会議場として使用されたほか、昭和六十二年(1987)まで主に市民の武道練成の場として利用されてきました。当館は、建築後五十年近くを経、この度、地域住民の熱望により、地域の活性化と、住民の交流を図るための機能を加え、新しい済美館(藤沢公民館分館)として生まれ代わり、ここに完成をみました。これを記念するとともに、「世々その美を済す」という済美館の原意通り、当館が生涯学習の拠点として、これを利用する人々の創意と工夫により、将来に向けて、今後ますます発展していくことを祈り、この碑を建てます。 平成2年11月 藤沢市教育委員会」そして我が実家の檀家寺「妙善寺」の入口。藤沢市藤沢一丁目にある日蓮宗の寺院。山号は、長藤山。永正元年(1504年)に日純により創立した。前身とされる密教寺院が建立された延暦15年(796年)が創立で、弘安3年(1280年)日聞が日蓮宗に改宗したという説もある。天明年間(1781年-1789年)に洪水により堂が流失したが、天保13年(1842年)に日扇が再建した墓地の一角には本陣職を務めた蒔田家の墓が往時の隆盛を偲ぶように立っています。そして道路の反対側、現在工事中の場所は、「藤沢市消防局南消防署本町出張所」跡地。昔は「藤沢市警察署」のあった場所。 在りし日の「藤沢警察署」の写真。 現「南消防署本町張所」のところに建てられた洋風の立派な「藤澤警察署」。 旧「藤沢公民館」の前身は「藤澤町役場」、その後市制が引かれそのまま「藤沢市役所」となり、旧「藤沢宿通り」には警察署、金融機関等々が連なる官庁街を形成、また米・麦等の米穀肥料商や商家や問屋等流通街として繁栄してきました。その当時の面影を残す「藤澤警察署」です。左:大藤澤復興市街図右上:藤澤全景の一部(本陣付近)昭和戦前右下:藤沢宿本陣跡(藤沢本町通り)「藤沢御殿(ふじさわごてん)の堀跡藤沢御殿跡の堀や土塁は江戸時代後期まで残っていたことが記録に残っています。その後、開発が進み土塁が削られ堀が埋められると、跡地がどこなのか、はっきりしなくなってしまいましたが、平成12年(2000年)に宅地の建設に伴い調査を行なったところ、この付近で御殿の西端の堀と考えられる遺構が確認されています。」藤沢御殿は、相模国藤沢(現在の神奈川県藤沢市藤沢二丁目)にあった徳川将軍家の御殿(別荘)である。御殿は、現在の旧藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあった藤沢宿が設置される前の慶長元年(1596年)頃に築かれたと推定される。徳川家康は天正18年(1590年)関東に入ると地域支配の拠点、休憩・宿泊施設として御殿やお茶屋を設置した。記録としては『慶長記』に徳川家康が慶長5年(1600年)に鎌倉遊覧のため訪れた記述があるのが最初で、秀忠、家光と寛永11年(1634年)まで28回利用されている と。この案内板は、藤沢市民病院前の植栽の中にも立っていた。 「藤沢御殿の堀跡」 四方は水堀で囲まれ、内土塁と外土塁がめぐらされている東南の堀は幅6間、深さ2間半、南北の堀は幅5間、深さ2間半で、外土塁の外側は東西106間、南北62間で、内土塁の中は東西86間、南北36間の広さがあった。表御門は東海道に面した南側にあり、裏御門は東側にあった。表御門の西側には御殿番所、東側には代官陣屋が立ち並んでいた。総面積は6,000坪に及び、これは城郭構えである事は明らかである。2000年8月には藤沢御殿に関し、初の考古学調査が行われ西側の堀の遺構が確認された。相模国内には13箇所の御殿、御茶屋が資料に記載され、うち純然たる城郭構の将軍の恒常的な宿泊施設は4箇所を数える。これらは藤沢御殿のように水堀と土塁または石垣が巡る方形の城郭に準じて造営された(なお、同国内の御殿は元禄時代に全て破却された)。将軍による藤沢御殿の利用は寛永11年(1634年)が最後である。その後、江戸で発生した明暦の大火(1657年)に伴う江戸城再築のために建築物が取り払われた。天和2年(1682年)には跡地が検知され耕地となった。現在では、御殿橋、陣屋小路、陣屋橋、鷹匠橋などが残るほか、藤沢市民病院付近には御殿辺公園などの地名が残っている。そして、藤沢市民病院前の植栽の中には「耕地整理紀念之碑」も立っていた。表面。「神奈川縣知事従四位勲三等井上考哉題字相模東部自北亘東南有川田境川源發東京府南多摩郡境村地界交錯上為武相兩國之境下為高座鎌倉兩郡之境至鎌倉郡片瀬注海流域約十五里従南左曲右折・・・以下解読不能・・・」 石碑末には大正十年(一九二一年)辛酉(かのととり)四月二十日 と。裏面。そして更に「白旗神社」の前を流れる「白旗川」が「境川」に合流する場所まで歩く。 その場所にあったのが「撥塚(はちづか)」。「撥塚」は、かつて旧東海道沿いの藤沢宿付近に存在した刑場跡の地名である。 多くの石碑が並ぶ場所に咲く「河津桜」。 真新しい「五輪塔」の手前には「庚申塔」並ぶ。右の昭和51年建立の「庚申塔」には「陣屋小路」と。「藤沢御殿跡」や「藤沢市民病院」用地から移された石碑が並んでいるのであろう。 一番奥にはこれも「陣屋小路」と刻まれた「道祖神」碑が。 振り返って。高度経済成長期の陣屋小路。旧藤沢公民館の周辺一帯は陣屋小路と呼ばれている。写真は正月3日に撮られたもので、周辺に住まう職人たちがはっぴ姿(正装)で年始まわりであろうか。道の中央をゆく、唐草模様の風呂敷包みに獅子の面を担いだ人物は門付けをしてまわる獅子舞である とネットから。そして引き返すと、白旗神社と藤沢市民病院の中間付近にある御殿辺公園(過去の写真から)。「旧東海道・藤沢宿 蒔田本陣跡江戸幕府は、東海道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として、各宿場に本陣を指定しました。江戸時代に外交使節として日本を訪れた朝鮮通信使も国賓待遇の使節ということで、蒔田本陣に宿泊した記録があります。通常、本陣にはその地の旧家や富裕層等、有力宿民が指定され、家屋の格式も特別なものでした。江戸時代の地誌「相中留恩記略」に記された蒔田本陣の図からも、他とは画然とした本陣の様子が判ります。」下記はネットから「相中留恩記略天保10年(1839年)渡内名主・福原高峯によって描かれ幕府に献上された藤沢宿の様子と藤沢御殿跡付近の絵図。鎌倉時代以前にあった古道(通称・現北仲通り)は厚木や八王子へ通じる唯一の道で御殿橋も描かれています。下段には当時の賑やかな藤沢宿(東海道)の様子が描かれています。」 「藤沢御殿跡広さは約6000坪、東西156m、南北156mの長方形の土地地でサッカーグランド1.5個分です。堀と土手に囲まれた要塞のような施設であったと推測されています。」 「藤沢御殿跡 推定範囲」 現在のgoogle mapから。上部・藤沢市民病院、右側・境川、左側・妙善寺に囲まれた範囲が「藤沢御殿跡 推定範囲」。 「藤沢御殿」(慶長元年・1596年頃設置)は白旗川、妙善寺、旧藤沢公民館付近のやや北東寄りにあり、徳川家康、家光、秀忠3代の将軍が寛永11年(1634年)まで28回利用された将軍専用の宿泊施設。御殿跡地は現在住宅街となっていますが、御殿橋、陣屋小路、御殿辺などの地名が残っています。左上の写真:東海道絵巻きからの藤沢御殿部分(郵政博物館所)「藤沢御殿跡」の南東の角が正面辺り。現在は、工事中の「藤沢市消防局南消防署本町出張所」の仮設庁舎が移設されていた。移動して。「藤沢御殿」の跡地は現在は一面住宅地となっていた。 旧東海道へ戻る途中、右側奥にあった石造りの藏。左:藤沢郵便局右上:横浜興信銀行右中:大久保町問屋場跡(駿河銀行)現近藤眼科右下:酒屋の店頭にて ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.09
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社殿への石段入口の右にあった狛犬、そして江戸時代の山岳信仰において、道中安全・交通安全の神として崇められていた「三笠山大神」、「御嶽大神」、「八海山大神」等の石碑が。 石段を上って行くと参道の左手前方にあったのが「源義経公鎮霊碑」。 最上部には「齋」の文字が。 ここでの「齋」は、🔹 神聖な儀式として祀る🔹 清めた場において霊を鎮めるという意味合いを持つ と。つまり単なる「記念碑」ではなく、神仏に対する敬虔な態度で義経公の御霊を鎮め祀る碑という格調を示しているのであった。そして後方のVの形状は鎧兜の鍬形(くわがた)をイメージしたものか。「源義経公鎮霊碑文治5年(1189年)、閏4月30日に奥州平泉、衣川の高館で藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年6月13日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社近くに流れつき、藤沢の里人により洗い清められたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。 平成11年6月13日 白旗神社」 手前にあった「絵馬掛け(絵馬処)」。 絵馬に近づいて。社殿。この社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。狛犬(左)。社殿前の狛犬像は昭和2年2月に建立された。御社殿に悪魔が入らないよう見張り番をしている。狛犬(右)。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置。源氏の家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」が提灯や賽銭箱等あちこちに。社殿には「忠友殿」の扁額が架かっていた。天水桶は「花手水(はなちょうず)」に。 紫と白の「葉牡丹」が浮かんでいた。 唐破風下の見事な彫刻をズームして。① 最上部:鳳凰(ほうおう)唐破風の内側天井近くに、翼を大きく広げた瑞鳥。・長く流れる尾羽・くちばしを前に突き出す姿・天に舞い上がる動勢意味鳳凰は👉 天下泰平👉 聖王出現👉 吉兆 を象徴します。白旗神社が祀る源義経の「英雄性」と響き合います。② 中央部:雲間の龍鳳凰の下、唐破風中央に雲をかき分ける龍。体をくねらせ顎を開き雲を巻き上げる構図意味龍は👉 水神👉 武威👉 天の力 を象徴。義経の軍略・武勇を暗示する意匠と考えられます。③ 下部:波涛の中の瑞獣最下段には波を背景に獣(麒麟系統にも見える)を配しています。荒波渦巻き躍動する身体意味海浜の藤沢という土地性とも重なり、👉 動と静👉 天(鳳凰)・空(龍)・海(波)の三界構成になっている と。「白旗神社「弁慶の力石」カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています.白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げ力比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。」 「力石」この石は、その昔、神社の西側・古美根茶屋(現・古美根菓子舗)の前に置かれ、茶屋で一服する力自慢がこの石を持ち上げ、力比べをしたといわれています。 「白旗神社」幟の笹竜胆(ささりんどう)も紫色。 白旗神社の幟に描かれている 笹竜胆紋(ささりんどうもん) が紫色なのは、主に次の理由による と。① 竜胆(りんどう)の花の実際の色竜胆の花はもともと 青紫色。そのため、紋章化される際にも自然と紫系統の色で表現されることが多くなりました。② 源氏の家紋としての格式白旗神社は 源義経 を祀る神社で、源氏ゆかりの神社です。源氏の代表的な家紋が 笹竜胆紋 です。紫は古来、高貴さ、武家の威厳、格式を象徴する色とされました。特に平安~鎌倉期には、紫は身分の高い者に許された色でもありました。③ 神社装飾としての象徴色神社の幟や幕では、赤=生命力白=清浄紫=高貴・霊性 という意味合いを持たせることが多く、源氏の社である白旗神社では、源氏の象徴 × 高貴さ を強調するため紫が使われています と社殿前から参道方向を見下ろして。次のグループの参加者が、「源義経公鎮霊碑」について説明を受けているようであった。 さらに前方の大鳥居方向を見る。横の階段を下り、「神輿殿」方向に進む。 境内にあった「古神札納所」をズームして。 「神輿殿」。正面から。昭和54年5月、白旗神社神輿保存会が結成され、これを契機に昭和55年11月に造営された。中央に儀式殿があり、向かって右に義経、左に弁慶の二基の神輿を収蔵している と。「大鳥居」方向を見る。 巨大な今年・令和八年の午歳の絵馬。疾走する黒馬にまたがる武者の姿。これは白旗神社の御祭神、源義経 を象徴的に描いた構図.① 主役 ― 黒馬に乗る武者・翻る五色の吹流し・背後の赤い日輪・風を切る前傾姿勢👉 「勝運」「突破」「前進」の象徴です。午年にふさわしい“勢い”を前面に出しています。② 群馬(ぐんば)の表現白馬・栗毛・鹿毛など多様な馬が並走。これは多様な力の結集、地域の結束未来へ向かう群像を象徴しているかのごとくに。。自治会活動をする立場から見ると、「一頭ではなく、皆で駆ける」構図は実に意味深いのであった。③ 「丙午(ひのえうま)」という年令和八年は 丙午(ひのえうま)。丙=陽の火午=南・真昼・陽気🔥 火の勢いが最高潮に達する干支。古くは迷信もありましたが、本来は・情熱・行動力・再生・飛躍 を意味しているのである。「おみくじ掛け」。 御神札授与所・社務所。昭和51年11月に完成した天平建築様式の社務所。お神札、お守り、おみくじの頒布、お祓い・お願い事の受付を行っていた。そして「義経藤」。 5月になれば。こちらは「弁慶松」と弁慶松碑。 「義経松」と「春日燈籠」。白のテントの先には「弁慶藤」の藤棚があった。 5月になれば。「芭蕉句碑草臥亭(くたびれて)宿かる比(ころ)や藤の花」「笈の小文」(おいのこぶみ)のよるとこの時芭蕉は江戸を出て東海から関西方面へ旅をしています。貞享5年・元禄元年(1688年)春、吉野で桜を堪能した後、大和(奈良)の八木というところでこの句は詠まれました。歩き疲れた芭蕉を鮮やかな藤の花が迎えてくれたのでしょう。と、いうことがわかると、なんだ、藤沢の句じゃないのかと思ってしまいますよね。ではこの句碑はいったいいつ誰が建てたのでしょうか。その答えは句碑の裏側にあります。芭蕉の死後100年余り後の文化2年(1805年)俳人以足(いそく)が建立したと裏に彫ってあります。以足については江戸時代の俳人というほかに判らないのですが、藤の花で最も有名なこの句の碑をここに建ててくれた人がいたことに嬉しくなります。藤沢の地名の由来については諸説あるようですが、少なくとも江戸末期この辺りがすでに藤の見どころであったのは確かなようです。以足は裏に自分の句も残しています。(過去の写真から)「東路(あずまじ)や華にくるまる鈴の音」「お祓所」こちらが「湯立神楽」の奉納場所なのである。 再び「源義経公武蔵坊弁慶公之像」。 石庭の「みそぎ川」。大御神灯慶応元年(1865)6月に建立されました。高さ17尺(5.1メートル)、台座の底辺は7尺(2.1メートル)あります。「御典橋」を渡り「白旗神社」を後にした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.08
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この日は2月7日(土)、藤沢市生涯学習総務課主催の第2回ふじさわ探キュン講座『「ふじさわ」魅力再発見ツアー~遊行寺と藤沢宿をたどる』に参加しました。集合場所:藤沢本町駅(小田急電鉄江ノ島線)集合時間:9時30分(9時20分から受付開始)と。9:20に到着し、受付完了し耳に引っ掛けるイヤホンを受け取る。そして3Grに分かれて散策のスタート。藤沢本町駅前にあり伊勢山公園を見る。藤沢市を一望する高台にある公園。その昔、伊勢参りに行けない人々がこの山から伊勢神宮に向かって参拝したことから、この名が付きました。承応2年(1653)に建てられた庚申供養塔は市指定有形民俗文化財です。この山腹に「神明宮(伊勢神宮の分霊を祀神とする神社)」社が祀られていた事から「伊勢山」と言われる様になり、「伊勢」詣りが出来ない人々がこの山から「伊勢神宮」に向かって参拝された、との事。ここも昔大庭御厨内であったことから伊勢山と呼ばれたのであろう。「伊勢山公園」は藤沢市の公園として地元の方々(「ハローいせやま公園愛護会」会員中心に)よって「ソメイヨシノ」をはじめとした約150本の桜の木等の植栽・管理をはじめ公園一帯の保全取り組みが行われています。春には桜の名所として、また歴史を語る公園として多くに人々に愛され、親しまれている「伊勢山公園」。そして県道43号線に出て右折。1963年3月:藤沢バイパス開通に伴い、国道1号であった旧東海道部分(白旗交差点 - 羽鳥交差点間)が、神奈川建道43号藤沢厚木線に降格となる。前方左手の高台にあったのが「真源寺」。 「真源寺」をズームして。藤沢市本町3丁目17−19。浄土宗寺院の真源寺は、風早山と号します。真源寺は、了達が開山となり安永元年(1772)に創建、文政3年(1820)・慶応元年(1865)と火災に罹災、関東大震災にも全潰したものの都度再建されています。小田急線に架かる「伊勢山橋」。 小田急線の頭上に架かる橋昔も今もモダンなデザインな橋。「今は昔伊勢山参り桜咲く」と。高校時代、毎日ここを通り学校へと。小田急線「藤沢本町駅」を見る。 石段の上に「真源寺」。 「藤沢宿 京見附」 「旧東海道・藤沢宿 京見附」 「京見附 KYO-MITSUKE見附 は土居 ともいい、江戸方は清浄光寺 (遊行寺 )の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場 の範囲で、その目印でもありました。藤沢宿 の京見附 は、古図 などからは判然とはしませんが、この辺りであったとの伝えがあり、近くには「見附」という屋号 を持つ家があります」 「見附の図 歌川広重「東海道五十三次之内石薬師(蔦屋版)」藤沢市教育委員会蔵」 引き返して。「いせやまばし・伊勢山橋」。 「白旗」交差点まで戻り、ここを左折して「白旗神社」に向かって進む。「たねと苗 種藤商店」旧東海道(国道467号)を西へ、白旗交差点を右折する道は国道6号、旧八王子街道、白旗神社までの道はかっては白旗横丁と呼ばれ、肥料、農業関係の店が軒を並べていた。今でも昔からのお店が残っている。藤沢本町駅からの道と交差する所に重厚な建物で目を引くお店、タネや苗を販売するタネトウこと「種藤商店」がある。タネトウの名は種屋藤三郎商店に由来し創業は明治初期。現在は高梨英彦商店、専業農家、家庭菜園向けの野菜や花のタネ、苗を販売、サカタのタネの代理店でもある。 その先、右手にあったのが「鎌倉街道」であると。 そして「白旗神社」が姿を現した。白旗神社の神様・寒川比古命(さむかわひこのみこと) 寒川比古命は、太古の時代に、関東地方を開拓された神様です。農業、漁業、土木、商工業、 建築など、さまざまな開発をされ、関東文化の基礎を築かれました。 そのため、土地や人々、仕事全般の守護神として、また唯一の八方除の守護神とし て、 人々に親しまれてきました。地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事や災難を とり除かせられ、開運をもたらすといわれます。・源義経公(幼名牛若丸)(みなもとのよしつねこう) 義経公は、源義朝と母常盤御前の末っ子として、平治元年(1159)に生まれました。 生まれてすぐに源氏の敵の平家に父を討たれ(平治の乱)、平家に捕らえられ鞍馬寺に 入れられます。やがて平家が父の敵であることを知り、毘沙門天に祈って文武に励み、 伝承では、武蔵坊弁慶と五条橋で対戦し、弁慶を家来としました。その後、奥州(東北地方) 平泉の藤原秀衡のもとで過ごし、治承4年(1180)、異母兄の頼朝が挙兵するとその軍に 加わります。木曽義仲を元暦元年(1184)1月に破り、2月には平家軍を一ノ谷で 破りました。しかし、梶原景時などの関東御家人と対立、また後白河上皇の策により 頼朝の許可なく官位を受けたため頼朝との仲が悪くなり、文治5年(1189)に秀衡の子 藤原泰衡の急襲により平泉の衣川館にて、31歳の若さで自害しました。ズームして。白旗神社は明神鳥居。高さ8m、幅6m、日本初のグラスファイバー製の鳥居です。地震対策を目的に、軽量で耐久性のあるグラスファイバーに着目し、昭和59年12月に建立されました。この白旗神社にはこれまで何回訪ねたのであろう!?。社号標石「白旗神社」。 FRP製の鳥居を潜って。見事な彫刻で覆われった手水舎。龍の彫刻。木鼻にも龍の姿が。亀も鎮座。白旗神社のご祭神である源義経公は、奥州平泉 衣川館にて31歳の若さで自害され、その首は腰越の浜で首実検されました。神社に伝わる伝説によれば、その首は金色の亀の背に乗り当地まで運ばれ、当時 寒川神社と呼ばれていた当社に一緒に祀られ、数百年に亘り御霊の平安が祈られています。また、東海道から当社の方を見ると、当社の北側の山が亀の甲羅に、当社が頭の部分に見えたことから『亀形山・かめがたやま』と呼ばれ地域の方々に親しまれてきました。そのようなご縁をいただき、当社にとって亀は『亀様』です。また『鶴は千年、亀は万年』と謂われるように、長寿のシンボルとなっている亀。『導喜守り』(みちびきまもり)は、故事にならって金色に光った亀が、皆さんを喜びに導いて下さるように祈念されているお守りです。ご参拝の折に、是非ご覧になってみて下さい と。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照阜大神・大国主命・大山祗命・国狭槌命由緒 古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよはれていた。しかし、 創立年代はくわしくはわからない。 鎌倉幕府によって記録された「吾妻鏡」によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、 文治五年(一一八九)閏四月三十日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、 そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承ては、弁慶の首も 同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。 このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことて、 義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社 として祀られた。」 「源義経公武蔵坊弁慶公之像」 「源義経公武蔵坊弁慶公之像」 白旗神社の源義経と武蔵坊弁慶の銅像は、2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の記念事業の一つとして建てられた。白旗の地に流れ着いた義経の首『吾妻鏡』によると、1189年(文治5年)閏4月30日、源義経は、源頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に攻められ、平泉の衣川館で自刃。その首は、藤原秀衡の四男・高衡(新田冠者高平)によって腰越の浜まで運ばれ、6月13日、侍所別当の和田義盛と所司の梶原景時が首実検を行った。首は、黒漆の櫃に入れられ、美酒に浸されていたのだという。伝説によると・・・首実検後、義経の首は金色の亀に乗って白旗川を遡り、現在の白旗の地に辿り着き、埋葬されたのだという。馬上の「源義経公像」。 「武蔵坊弁慶像」 ・・・つづく・・・
2026.03.07
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「吾妻山公園展望台」の展望台下を廻り込んで。展望台の下へと歩みを進めると、景色はまた違った表情を見せてくれた。見上げる位置から眺める菜の花は、斜面を埋め尽くす黄金のうねり。花の高さがより実感でき、まるでその中に入り込んだかのような臨場感が。上からの眺望が「遠くを楽しむ景色」だとすれば、ここは「花の密度を味わう場所」。四阿と青い海は少し遠くに下がり、主役は目の前の黄色。陽光を受けた花房が、一つ一つ立体的に浮かび上がっていたのであった。手前いっぱいに広がる菜の花の黄金色。その向こうに、冬木立の黒い枝が細やかな線を描き、さらに奥では、陽光を受けた海が静かに白く輝いていた。近景の「黄」、中景の「影」、遠景の「光」。三層が重なり合い、奥行きのある春景色をつくって。菜の花は温かく、やわらかい色。枝はまだ冬の面影を残し、海はまぶしいほどの銀色。黄金の菜の花越しに見える展望台の南側。手前では、花房が陽を受けてふくらみ、まるで春そのものが地面から湧き上がっているかのよう。その向こうには石垣と記念碑、そしてゆったりとした広場。黄金色の菜の花の向こうに、どっしりと構える大山。手前の柔らかな春色と、奥にそびえる濃い青灰色の山体。その対比が、季節と時間の奥行きを感じさせた。大山は、ただ高いだけでなく、相模の大地を見守るような存在感。なだらかな裾野から頂へと続く稜線が、静かな威厳をたたえていた。菜の花は「今」の輝き。大山は「変わらぬもの」。石積みの展望台を、下から見上げて。ごつごつとした石の重なりが、この丘の確かさと歴史を感じさせた。その上に腰を下ろす人の姿は、まるで空と対話しているかのよう。青空は大きく、澄みわたり、人のシルエットをやわらかく包み込む。座る人、スマートフォンを手にする人・・・それぞれが、この高みの時間を楽しんでいるのであった。樹の枝の間には鳥の巣の如きものが。すっと空へ伸びる標柱。「吾妻山 標高一三六・二m」その文字が、静かにこの場所の高さを告げていた。数字で見ると決して高山ではない。けれど、ここに立てば、海も、丹沢も、富士も望める・・・その体感の高さは、数字以上。青空を背景に立つこの標柱は、登ってきた人への小さなご褒美のよう。“ここが頂です”と、やさしく知らせる存在!!広い芝生の頂に立つと、視界は一気に海へと開ける。逆光の中、石碑と人影は黒いシルエットとなり、その向こうで相模湾が銀色に輝いていた。光を帯びた海は、まるで大きな鏡のように空を映し、遠くの山並みはやわらかな影となって重なる。一面に広がる、銀色の海。太陽の光をまとった相模湾は、波というよりも「光の織物」。無数のきらめきが重なり合い、静かなのに、圧倒的な存在感を放っていた。手前の丘は影となり、冬木立は黒いレースのように縁取る。遠くの山並みは深い藍色で、光る海とのコントラストがいっそう鮮やか。色は少なく、光と影だけが支配する世界。光をまとった相模湾が、弓なりに続いていた。海面は白くきらめき、その縁をなぞるように町並みが連なり、さらに奥には幾重にも重なる山々の稜線。近景の冬木立は黒いシルエットとなり、中景の町はやわらかな灰色、遠景の山は青の濃淡で溶け込んでいたのであった。ズームして。空には小さな雲が浮かび、広がる空間に静かなリズムを与えていた。吾妻山の高みから見るこの景色は、海と山と人の暮らしが一枚に収まる、相模の縮図のごとくに。淡い青のグラデーションの中に浮かぶ、なだらかな双峰。箱根・二子山は、その名の通り二つの頂が並ぶ姿が特徴的。手前の稜線より一段高く、やわらかな輪郭で空に溶け込むその姿は、決して鋭くはないのに、しっかりと存在を主張している。山頂付近に見える電波塔のシルエットが、現代の風景であることをさりげなく示しつつ、全体はどこか静謐。幾重にも重なる山の層が、距離と時間の深さを感じさせた。吾妻山から望む二子山は、はるか遠くにありながら、空と大地をつなぐ静かな背骨のように。その右側に駒ヶ岳と神山。淡い青の層の中に、ゆるやかに連なる峰々。二子山の右手に続くのが、箱根の主峰駒ヶ岳と神山。駒ヶ岳は比較的なだらかな稜線を描き、その奥にやや高く、どっしりと構えるのが神山。神山は箱根最高峰であり、古くから霊山として意識されてきた山。金時山。淡い青の層の中から、ぽこんと盛り上がる独特の山容。箱根連山の中でも、ひと目でそれと分かる存在感がある。鋭く尖るというより、力強く押し上げられたような台形に近い頂。そのシルエットは、どこか武骨で、頼もしい。坂田金時(まさかり担いだ金太郎)の伝説を宿す山。古くから東西交通の要衝を見守ってきた峰。吾妻山から望む金時山は、距離のせいで色は淡く溶け込みながらも、輪郭だけでその個性を語る山。そして富士山、手前に矢倉岳。堂々と空に浮かぶ富士山。その手前に、こんもりと端正な三角形を描く矢倉岳。矢倉岳は小ぶりながら形が整いまるで富士を仰ぐ前景の門番のように佇みます。濃い山影の上に、白く大きな富士が重なることで、遠近のスケールが一層際立っていた。中腹にたなびく雲が帯となり、富士の高さと気高さをいっそう引き立てる。手前の冬木立の細い線が、その壮大な姿に繊細な枠を与えていた。小さく端正な矢倉岳、そして大きく悠然とした富士山。そして再び光る海・相模湾。伊豆大島の姿は、この日は確認できなかった。吾妻山公園 ローラー滑り台の頂上駅。吾妻山公園の遊具。水仙が迎えてくれた。吾妻山公園 休憩室に向かって。休憩室内の「吾妻山公園 案内図」。 可憐な水仙の花が飾られていた。壁には様々な展示パネルが。「吾妻山公園草木マップ」 「二宮の鳥(1)留鳥」 「二宮の鳥(2) 夏鳥・冬鳥」この時期の「吾妻山公園 航空写真」 にのみや観光絵はがきそして、休憩所を後にして。可憐な水仙の花をカメラで追う。「浅間神社」に向かって。 そして「浅間神社(せんげんじんじゃ)」に到着。浅間神社は、一般的に「せんげんじんじゃ」と読みます。主に富士山を信仰対象とする神社で、静岡県や山梨県を中心に「あさまじんじゃ」と呼ぶ地域もあります。古くは「あさま」と読んでいましたが、鎌倉時代以降に「せんげん」と音読みされるようになった歴史があるとのこと。「浅間山は「あさま」と呼ぶのに、富士山の浅間神社はなぜ「せんげん」神社と言うのでしょうか? その疑問には、まず「あさま」の語源を調べてみることにしましょう。語源には色々な説がありますが、寺田寅彦博士の説が面白い。曰く:《「古語でアサマは火山を意味したのではないか」という。日本の火山の名称には「ア行音+サ行音(浅間、阿蘇、有珠、恐、恵山、雲仙、等)」という「音の類似」が多くある。》他には:《「アサマ」はアイヌ語で「火を吹く燃える岩」の意味から名付けられた。と言う説。》また南方説で:《マレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味するので、その言葉を火山である富士山にあてたとする説。》などなどです。いずれも「浅間(アサマ)」は古来「火山」を意味したようです。それでは「アサマ」がどうして「センゲン」と呼ばれるのか? これは、“元来、浅間は「アサマ」読みだが江戸時代に「センゲン」と読みならわされたようです。「仙元」とも書いたようで、「浅間嶺」にある浅間神社も以前は「仙元神社」とか言われていたとのことです。「センゲン」と呼び始めたのは鎌倉から江戸時代にかけて、中国文化の影響が大きく熟語をむやみに「音読み」にしたためと言われています。山や地名だけでなく、学者や芸術家などもこぞって名前は支那くさい名をつけたからでといいます。そう思うと「アサマ」でも「センゲン」でもなんとなく納得が出来ますが、読みはやはり「訓読み」で「アサマ」の方が私は好きです。」とネットから。 「浅間神社祭神は木花咲耶媛、ニ宮町上町地区の祭神で土地の人には、浅間さんとして親しまれ本社は富士浅間神社です木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。この時姉のニ宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて自分の住まいのこの山上に、浅間神社をまつったと言います。この度社殿老朽にともない新築、内宮は大修理を施し装いも新たになりました。尚、修復した内宮(一部の彫り物も含む)は千七百年後後期寛政の頃の作といわれています。付記 修復されし内宮の各部1、柱 2、象鼻 3、側面蟇股 4、左海老虹梁 以上平成十九年三月吉日二宮町二宮 上町町内会」大磯方面の海岸を望む。石鳥居の扁額も「浅間神社」。先ほどと同様な内容の掲示板。「現在地ポイント 吾妻山」案内板。「吾妻山(神奈川県二宮町)で緊急事態が発生した際は、登山道などに設置されている看板の「ポイント番号」を119番通報時に伝えてください。この番号を伝えることで、現在地が正確に消防や救急へ伝わり、迅速な救助活動につながります。」と。 さらにツツジの間の遊歩道を下る。水仙の群生地をカメラで追う。途中にあった休憩所・展望台?から東海道線方向の眺望。右下がJR「二宮駅」。 JR「二宮駅」。我が市内にある「江の島」をズームして。右端中央に「平塚沖総合実験タワー」が見えた。 平塚沖総合実験タワー(以下、平塚タワー)は、相模湾平塚沖1km、水深20mの海域に設置されている海洋観測のための研究施設であり、我が国の数少ない貴重な沖合プラットフォームです。1965年に建設され(当時の名称は波浪等観測塔)、主として波浪観測の分野で40年以上の長きに亘り、海洋データを集める上で大きな力を発揮してきました とネットから。「吾妻山公園案内図」。今回は、「梅沢口」から「吾妻山公園」の上り、「役場口」へ下ったのであった。 そして「役場口」を振り返って。JR「二宮駅」への道路脇にも、菜の花の植えられた大鉢がパンフレットとともに展示されていた。そいてJR「二宮駅」北口に到着。 そして、JR線で帰路に。途中、大磯の中国語の簡体字文字は「大矶」と。簡体字とは、従来の漢字を簡略化したもので、1950年代に中国で誕生した。難しかった漢字の画数を減らすなど、わかりやすくしたものだ。しかし、旧来の漢字を簡略化した1950年代と現在とでは、事情が変わっている。字は手で「書く」のではなくて、キーボードに「打つ」のが普通になった。画数が多いかどうかは、大きな問題ではなくなってきているのではなかろうか。子供の漢字教育の観点からは理解もできるが。以上の点を考えて簡体字を見直し、極端に簡略化したものはできるだけ本来の元の形に近づけて、象形文字等の漢字の本来の意味が解る姿に戻してほしいのであるが。「磯」の文字の「成り立ち」をネットから。「崖の下に落ちている石と、機(はた)で織り物を織る時のような音に似た波の音」から出来ている「磯」であることが理解できたのであった。 【https://okjiten.jp/kanji2619.html】👈️リンク よりそしてJR藤沢駅から小田急線に乗り換えて帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2026.03.06
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「吾妻神社」を後にして、北西に進むと菜の花」の咲く「吾妻山公園」に到着。前方に「四阿(あずまや)」が姿を現した。 円形の「吾妻山展望台」方向を見る。前方一面に黄色の世界が拡がっていた。陽光を受けた花々はきらきらと揺れ、風が吹くたびに黄色の波がゆっくりと丘を渡っていく。その向こうには大きな常緑樹が堂々と立ち、訪れた人々はベンチに腰掛けながら、この「春の舞台」を静かに味わっていたのであった。斜面を埋め尽くす菜の花は、まるで大地そのものが光を放っているかのように。一面に広がる鮮やかな黄色は、冬の名残を優しく押しのけ、春の到来を高らかに告げていたのであった。視界いっぱいに広がる黄金色。一つひとつは小さな花なのに、これほど集まるとまるで「光のじゅうたん」。陽を浴びた菜の花は、濃く、やわらかく、あたたかい。花房が幾重にも重なり合い、ふわりと丸い形をつくっている様子は、まるで春が無数の小さな太陽になって地面から湧き上がっているかのようで。斜面いっぱいに咲き誇る菜の花。その鮮烈な黄色の波の奥に、まだ静かに枝を広げる河津桜。今はまだ裸枝のシルエット。しかし、その枝先には確かに春の気配が宿っていた。手前の菜の花は「いま」の春。奥の河津桜は「これから」の春。近づけば、黄色は単なる色ではなく、命の色、始まりの色、希望の色。風がそっと吹けば、花穂は一斉に揺れ、その揺らぎが波となって広がる。吾妻山の菜の花は、「春はもうここまで来ていますよ」と、足元から静かに、しかし力強く語りかけてくれる存在なのであった。黄金色の斜面と、まだ色づかぬ桜の対比は、まるで季節がバトンを渡す瞬間のよう。やがて河津桜が淡い桃色に染まれば、この景色は「黄」と「桃」の競演へと変わるでしょう。吾妻山は、一度に春を見せるのではなく、時間差で、少しずつ、丁寧に春を重ねていくのだ手前には、陽光を浴びて輝く菜の花の黄金色。その向こうに、葉を落とした桜の枝が幾重にも重なり、さらに遠く、淡く霞む箱根の山の端。近景・中景・遠景が三層に重なり、まるで自然が描いた遠近法の絵画のように。一面に広がる菜の花の黄金色。その遥か向こうに、淡く、しかし確かに浮かぶ富士山の姿。手前の黄色は、春の躍動。中景の山並みは、静かな季節の移ろい。そして遠景の富士は、揺るがぬ日本の象徴。淡い空の中に、静かに浮かぶ白き峰。ズームした富士山は、遠景でありながら圧倒的な存在感を放っていた。裾野を包む雲はまるで帯のように山腹を巡り、その上にすっと立ち上がる円錐の姿は、やはり整い、美しい。手前の枝が黒い線となって画面に入り、その向こうに、柔らかな青と白の階調で重なる山々。富士は決して派手ではないのに、目を離せなくなる静かな威厳があった。冬から春へと向かう空気の中で、雪を頂いたその姿は凛とし、まるで季節を見守る主役のよう。菜の花の華やかさとは対照的に、ここにあるのは「静」の美。遠くからでも、近づいても、やはり富士山は特別な山。そして、この場所から以前に撮った河津桜とのコラボの写真。視界いっぱいに広がる、静かな青。相模湾は、この日はまるで一枚の絹布のように穏やかで、空と海の境目が溶け合い、どこまでもやわらかな水平線が続いていた。青空を背に、堂々と枝を広げる芝生広場のエノキ。葉を落とした冬姿でありながら、その存在感は圧倒的。太く力強い幹から四方八方へ伸びる枝は、まるで大地から湧き上がる生命の流れをそのまま空へと描いたかのごとくに。枝先は細やかに分かれ、空に繊細な線を刻み、一方で幹はどっしりと大地に根を張る。その対比が、この木の「強さ」と「しなやかさ」を同時に語っているのであった。そして「ヤドリギ」の姿も数個。春になれば若葉をまとい、夏には深い木陰をつくり、秋には実をつけ、そして冬にはこのように骨格の美を見せる。芝生広場の中心に立つこのエノキは、季節を見守り、人々を見守る、まさに吾妻山の“時間の象徴”。これも以前の写真。小田原海岸。小田原市小八幡2丁目付近であろう。この日は、小田原城の姿は確認できなかった。手前に咲き誇る菜の花の黄金色。その向こうに冬木立の黒いシルエット。さらにその奥、陽光を受けて銀色に輝く相模湾。そして水平線の彼方に、静かに横たわる伊豆半島の稜線。光る海面はまるで鏡のように空を映し、伊豆の山々は淡い青のグラデーションとなって幾重にも重なっていた。その柔らかな遠景に対し、手前の菜の花は力強く鮮やか。ズームして 。近景の「黄」、中景の「黒」、遠景の「銀」と「青」。色と距離が層を成し、奥行きのある春景色をつくっていた。吾妻山から望むこの眺めは、花だけでなく、海と山と光が揃ってこそ完成する風景。一面の菜の花の海。その黄金色の向こうに、静かに佇む四阿(あずまや)。木の屋根は落ち着いた色合いで、鮮やかな黄色との対比がとても美しい。自然の色彩の中に、人の営みがそっと溶け込んで。四阿の下では、訪れた人々が腰を下ろし、春の光を浴びながら語らい、写真を撮り、この景色をそれぞれの思い出に刻んでいるのであった。菜の花は躍動する春。四阿はその春を受け止める場所!!。再び「小田原城」の姿を追う。◯であっただろうか。さらにズームして。展望台の石垣と、その向こうに連なる丹沢の山々。手前には菜の花の鮮やかな黄色、足元には冬色の芝、そして遠くには青く幾重にも重なる丹沢の稜線。石積みの重厚さと、山並みの雄大さが呼応し、この場所が「見晴らしの丘」であることを強く感じさせるのであった。石垣に沿って、あふれ出すように咲く菜の花。まるで黄金の波が、斜面を越えてこちらへ押し寄せてくるかのように。一つひとつの花は小さいのに、これほど密に集まると圧倒的な存在感。石の質感は重く、静か。その横で菜の花は軽やかに揺れ、「動」と「静」の対比がとても印象的。冬木立の枝がまだ空に線を描くなか、足元ではすでに春が満ちあふれている。光を受けた黄色は、ただ明るいだけでなく、どこか温もりを帯びた色に。展望の丘に立つ、重厚な石の碑は万葉歌碑。吾妻公園の由来碑であった『相模路(さがむじ)の 淘綾(よろぎ)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思はるるかも』の歌碑。(万葉集 第十四巻 東歌)青空を背に、黒くどっしりとした姿は、この吾妻山の歴史と風景を静かに語り継ぐ存在。刻まれた文字は、光の加減でうっすらと浮かび、まるで山と海と人々の歩みを刻印して。「相模の淘綾(よろぎ)の浜の美しい砂のように、あの娘が可愛く思われることです。」万葉の昔から、淘綾の里 二宮の美しい海浜と、それを眼下に一望できる吾妻山は人々のふるさとでありました。 しかし、第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で山は顧みられることもなく、次第に荒廃が進んでいきました。 町はこれを深く憂え、子孫に誇れる山として残したと思い、地権者65名の協力と5年の歳月をかけて整備し、 昭和62年7月18日に吾妻山公園として開園しました。 現在では健康づくりと自然とふれあうやすらぎの場として人々に喜ばれています。この公園は、名誉町民 第十七代柳川賢二町長の尽力により完成しました。「淘綾(よろぎ)の浜とは、神奈川県の国府津から東へ、大磯にかけての海岸のことで、現在は「こゆるぎの浜」と呼ばれているのだと。「吾妻山」の名は、中腹に吾妻神社があることからこう呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で日本武尊(やまとたけるのみこと)が配祀(はいし)されています伝承では、日本武尊が東征の途中、三浦半島の走水から海路上総に渡る際、突然海が荒れたため、妻である弟橘媛命が 海神の怒りを静めるため、夫の武運を祈願しながら海中に身を投じると、たちまち海は穏やかになりました。7日後に命の櫛が海辺に流れつき、これを埋めて墓とし、又磯辺に漂う命の小袖を取り上げて山頂に祭りました。日本武尊は東征の帰路、この地の峠ではるか東方の海をながめ、海路を開くために犠牲になってくれた妻を偲んで「吾妻はや」(ああ、わが妻よ)と嘆かれたと云ういうことから吾妻神社の名がつき、小袖が漂着した海岸を袖ヶ浦と云うようになりました。このような由来から、縁結びの御利益もあるようです。」とネットから。裏側には「この碑は、公園開園五周年を記念し、柳川賢二顕彰会の有志の寄附により建立されました。 平成四年十二月吉日 顕彰会会長 村山正雄淘綾の濱(よろぎのはま)とは、こゆるぎの浜ともいい二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます」と。 再び、小田原方向の相模湾の望む。そして「エノキ」も。 整然と並ぶ菜の花の列。まるで黄金色の畝(うね)が、丘の上に規則正しく描かれたかのように。一株一株がしっかりと立ち、花房は丸く、密に、力強い。足元の土の色と、横の芝の淡い冬色が、その鮮やかな黄色をいっそう引き立てて。曲線を描く石垣の先に、ゆるやかに広がる菜の花の帯。まるで黄金色の川が、丘の斜面を流れているかのごとくに。その先には四阿が小さく佇み、さらに奥には静かな相模湾の水平線。石の質感、冬木立のシルエット、そして柔らかな春の黄色。直線と曲線、重さと軽やかさが美しく対比しているのであった。カメラをゆっくりと右に振ると。黄金の丘はさらに広がりを見せた。手前の菜の花は、波のように連なり、その向こうに冬木立が黒い線となって並ぶ。そして視線は自然に海と・・・。陽光を受けて白くきらめく相模湾が、静かに、どこまでも続いていた。カメラを振るたびに、景色の表情が変わる。近くの鮮やかな黄色から、遠くの銀色の海へと。青空に枝を広げるエノキ。その高みの一角に、ぽつりと丸い塊――ヤドリギ。葉を落とした大樹の中で、そこだけがこんもりと緑を保ち、まるで空に浮かぶ小さな島のよう。「エノキ 榎ニレ科 エノキ属分布=本州~九州、朝鮮 中国実は食べられる 野鳥も好み、方々に運んでゆく。材は建築や器具などに利用する」ズームして。ヤドリギは「半寄生植物」。宿主の枝に根を差し込み、水分や養分を受け取りながらも、自らも光合成を行って生きている。冬に葉を落とさない常緑であることが、この季節にはひときわ目を引く理由。古くからヨーロッパでは「聖なる植物」とされ、不思議な生命力の象徴でもあると知ったのはバルト3国を旅した時。日本でも、冬枯れの枝の中に緑を宿す姿は、どこか神秘的に映るのであった。大樹に抱かれながら、静かに、しかし確かに生きる存在。吾妻山の広い空の下、この小さな丸い緑が、なぜか気になるのであった。我が人生は「ヤドリギの如き人生」か?「誰かや何かに寄り添い、支えられて生きて来た人生」!!円形の展望台の中央にも円形の案内表示が。ここ二宮町を中心に相模湾、房総半島、伊豆半島、大島が描かれていた。石垣の上に据えられた小さなパノラマ案内板。その向こうに、実際の相模湾と丹沢・箱根の山々が広がる・・・まさに「現実」と「解説」が重なる場所。肉眼では、青く幾重にも重なる稜線。どれが丹沢で、どれが箱根か、ただ「美しい」と感じるだけでも十分だが、名前が添えられることで、風景は一気に具体性を帯びるのであった。あの尖った峰は何山。あのなだらかな稜線はどこ。視線が地図をなぞるように動き、ただの眺めが「知って見る景色」に変わる。右に丹沢、その左に箱根。さらにやや雲に隠れてはいたが富士山の姿が。吾妻山は、花の丘であると同時に、山々を学び、海を読み取る展望の教室でもあった。菜の花の春景色の中に、さりげなく置かれたこの案内板。風景を「感じる」だけでなく、「理解する」楽しみも与えてくれる存在そのもの。海面が、まるで一面の銀箔のように輝いていた。これぞ「光る海」。太陽の光を受けた相模湾は、波というより「光の粒」で満ちているよう。細かなきらめきが無数に集まり、静かなはずの海が、圧倒的な存在感を放っていた。手前には町の屋根や松の黒い影。その対比が、いっそう海の輝きを際立たせる。遠くの山並みは濃紺のシルエットとなり、光る海との明暗のコントラストが美しい。これは「青い海」ではなく、「光そのものの海」、「光る海」。吾妻山の高みからだからこそ見える、冬から春へ向かう、凛とした銀の世界!!。遠く「富士山」そして左に箱根の山々。 右に神山、駒ヶ岳。左に二子山。パノラマ案内板。パノラマ案内板。丹沢の山々。あの尖った峰は何山。あのなだらかな稜線はどこ。視線が地図・パノラマ案内板をなぞるように動き、ただの眺めが「知って見る景色」に変わるのであった。再び富士山の勇姿を。「富士山」の姿をズームして。手前の山は「矢倉岳」。足柄山地の独立峰的な山であるため360度の眺望があり、富士山、金時山や明神ヶ岳などの箱根山地の山々、丹沢山地、相模湾などを望むことができる。「矢倉岳」と「金時山」の鞍部にある足柄峠を越える旅人を見張る櫓(やぐら)のような山容をしていることから、「矢倉岳」と呼ばれるようになったといわれている。 再び、円形の展望台の中央にある円形の案内表示と「エノキ」とのコラボを。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.05
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「熱海駅」からの帰路に「二宮駅」で 下車し、吾妻山の菜の花を愛でに行くこととする。 1箇所のみの改札を通過し振り返って。通路の両側には、プランターに植えられた菜の花が並んでいた。本年度の「吾妻山 菜の花ウォッチング2026.1.10(土)~2.15(日)」ポスター。菜の花に近づいて。そして北口の駐輪場側の階段を降りる。ここにも「吾妻山 菜の花 ウォッチング」の横断幕が。 「駐輪場」前の歩道を「国府津駅」方向に歩く。「吾妻山公園 梅沢登り口 直進⬆️」案内板。徒歩にて約10分・750mで「吾妻山公園 梅沢口」に到着。 右折して石鳥居を潜り石段を上る。前方左側、山の斜面に鎮座していたのが「神明社」。 神奈川県中郡二宮町山西844。覆屋。 扁額「神明社」と小さな社「神明社」。祭神は大日孁貴(おおひるめむちのみこと)。左側の石碑群。左側の石碑群。道祖神・石仏が。文字「道祖神」碑。碑型: 兜巾型高さ: 58センチメートル造立年月日: 明治42年(1909年)1月15日「地神」碑。「馬頭観世音」碑。「双体道祖神」碑。「妙法道録神」碑。碑型: 兜巾型高さ: 37センチメートル造立年月日: 昭和10年(1935年)9月そして更に石段を上って行った。そして15分ほど石段を登って石段上の石鳥居手前に到着。石製の扁額「吾妻宮」は地上に。以前は石鳥居に掲げられていた石扁額であろう。狛犬(右・阿形像)。昭和5年(1930)建立。狛犬(左・吽形像)。石灯籠(右)。「吾妻大權現御寶前」と刻まれた正徳4年(1714)造立「灯籠」一対、右奥に享和3年(1803)六本木奥惣女中により奉納された「手水鉢」、更に奥東に三武社、奉納額を刻んだ石塔が。石灯籠(左)。「吾妻神社 由緒吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まるという。弟橘媛命を祭神とし日本武尊を配祀する。日本武尊は景行天皇の第三皇子であり、天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るとき暴風突如に起こり、命は夫にかわり海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往事を回想され「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノ ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。その七日後に命の御櫛が海辺に 流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の 小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。また日本武尊は東北戦 が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神像は木彫の千手観音で、既に千数百星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に安置されている。吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭 一月 第三日曜日 例祭 八月 十五日」左手に「手水舎」。拝殿左の桜も開花していた。河津桜であっただろうか?「拝殿」を正面から。「 令和7年(2025年) 4月吉日令和6年度吾妻神社本殿(奥の院)改修工事完了のご報告 出梅沢町内会 吾妻神社吾妻山山頂に鎮座する吾妻神社は、縁結びの神様として、梅沢地域やニ宮町の皆さまから長年にわたり親しまれてきました。吾妻神社は梅沢町内会の財産であり、梅沢町内より担当役員(宮係)を選定し、日頃から神社社殿や境内を清掃・管理することで、大切に引き継いでいます。吾妻神社の社殿は、江戸時代寛延3年(1750年)に建立された旧社殿を基礎としています。]現在の社殿は、明治から昭和の建築家の巨匠、伊東忠太博士により設計(昭和5年( (1930年) )され、昭和18年(1943年)に竣工しました。それから約8 0年を経過し老朽化が進んだため、令和6年8月から12月にかけて奧の院の屋根の葺き替え工事を中心とした改修工事を実施いたしました。屋根は塗装のはがれた鉄板をステンレス葺きに換え、深刻な損傷が見られた屋根内部の一部の木部を交換し、さらに社殿の欄干を塗装するなど、大規模な修理となりました。そして、令和7年1月1 9日、吾妻神社例大祭にて、川勾神社ニ見宮司に改修工事竣工のお祓いをしていただきました。吾妻神社にご参拝の際には、改修工事が完了した神社回りや奥の院をどうぞこ覧下さい。」 「奥の院の屋根内部から、江戸時代に建立した本殿についての記録が見つかり、昭和18年竣工した現在の奥の院が、江戸時代の本殿を基礎に改築されたことが分かりました。」 改修工事が完了した奥の院「脇障子」には中国故事に因む彫刻、題材は不明だが、左側「岩山で右手に木枝の杖、腰に2つの瓢箪を下げた翁」、右側「満開の琵琶の花、下の方で実を採る仕草の翁」。以前にいただいた案内書。「吾妻神社の由来吾妻神社は、二宮町吾妻山の山頂(標高百三十六m)にある神社で、創建は第十二代景行天皇の時代と伝えられています。皇子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が三浦半島の走水から上総の国に船で渡る時、突然荒波に遭い、妃である弟橘媛命 (オトタチバナヒメノミコト)が身代わりとなって海に身を投げられ波浪を静めたと伝えられています。後に今の梅沢の海岸に妃の櫛が流れ着き、その櫛を埋めて御陵を造ったことから、この地を埋澤と呼び、現在は梅沢地区の氏神様となっております。また、弟橘媛命の小袖が浜辺に漂着し、これを山頂に祭ったと伝えられており、この辺の浜を 袖ヶ浦海岸と呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命で、【縁結びの神様】として有名です。 ~境内に置いてあった資料~より” 」「吾妻神社 社殿について」。1930年(昭和5年)設計社殿の設計者 工学博士 伊東忠太東京帝国大学名誉教授(慶応3年~昭和29年)代表的設計建築物橿原神宮(奈良県)平安神宮(京都府)弥彦神社(新潟県)築地本願寺(東京都)など多数拝殿の彫刻は、有名な彫刻家である小林直光氏によって手掛けられたものと。歴史110年 (景行天皇)頃 弟橋媛命を祭神として創建741年 (天平13年)頃 僧行基が千手院、東光寺を創立824~834年 (天長)頃 僧空海の弟子杲隣が神願寺梅澤山を建立1218年 (建保6年) 源実朝 雄剣を拳納1580年 (天正)頃 本社を修造(小田原城主 北条氏直)1714年 (正徳4年) 石灯寵 奉納(現存)1750年 (寛延3年) 再建改築1883年 (明治16年) 吾妻神社奉納和歌額 奉納(拝殿内現存)1930年 (昭和5年) 吾妻神社 社殿設計完了 社殿改築等奉賛会 発1942年 (昭和17年) 上棟1943年 (昭和18年) 完成境内の石碑群。石鳥居方向を見る。「吾妻神社の深イイはなし吾妻神社は梅沢自治会が運営してます.自治会が推任した12名で宮係を構成.境内の植栽や清社殿の維持管理を奉仕活動で行ってます。元禄4年(1691年)一枚石彫りの三猿日光東照宮の三猿を模倣して彫刻山頂登り階段人口付近にあり可愛く人気者ですよ。」 「大鳥居を寄贈したのは、武蔵山 武(むさしや またけし)(本名・横山武)第33代横綱185センチ、116キロ横浜市港北区日吉出身 出羽海部屋。1909年(明治42年)12月5日生質しい豊家の5人兄弟の長男として生まれ、幼い時に父観が失踪、幼少期から母親の農家の手伝いをした。坂道を上れない仔牛に代わり、荷車を引っ張った。いっしか右腕の力自慢の少年となり、当時の山羽海親方の耳に入りスカウトされた。武蔵山は右腕の怪力自慢を活かした豪快な相撲で、1926年(大正15年)の初土俵から7場所で入幕を果たし「飛行機」の異名を取った。その後も勝率7割9分を誇る強さでスピード出世した。1929年(昭和4年) 吾妻神社にて奉納相撲1930年(昭和5年) 大鳥居を寄贈1931年(昭和6年) 5月わずか21歳5か月で初優勝。これは現在でも歴代4位の若さである。準優勝7回は戦前では第2位の記録である。幕内優勝 1回、幕下優勝 1回、十両優勝 1回、序二段優勝 1回イケメン力士で細マッチョ、心優しい武蔵山は、女性や子供に大人気であった。また、スピード出世したため、他の部屋の親方やライバル力士たちが妬み、武蔵山の右腕だけを狙い続け、最強のライバル沖ツ海戦で右腕を骨折、致命的怪我をした。神奈川県出身の力士で横綱になったのは武蔵山一人だけである。当時の力士の平均身長は176センチ、6尺(182センチ)超えると巨人型といわれた。甘いマスクの武蔵山は、ハリウッドスターのゲーリー・クーパーに似ているとされ、女性の人気を独占していた。 生涯成績 240勝79負2分71休場(横綱成績15勝15負71休) 1969年 59歳没」 「奉納 吾妻社改築寄附金 参阡五百圓也」 様々な石碑が並んでいた。首が落ちて復旧された石仏も。庚申塔か?こちらの石仏も頭部が失なわれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.04
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「湯前神社」を後にして、「熱海七湯 小沢の湯」前まで戻り左折して坂道を上る。 正面に温泉の蒸気・湯煙が吹き上がっていた。こうした温泉を汲み上げる施設は、熱海市内に数多く点在しているのだ。「熱海温泉事業のあらまし」👈️リンクをネットから。見上げて。「現在地」はここ。 その手前にあったのが「小澤来宮弁財天」。 小澤来宮弁財天(おざわきのみやべんざいてん)は、静岡県熱海市上宿町、熱海市図書館向かいの駐車場敷地内にある小さな弁天社。来宮神社(きのみやじんじゃ)で授与される「来宮弁才天」とは別のスポットであり、由緒は不詳ですが、街中にある弁天様として知られているようだ。「平成八年十二月吉日小澤來宮弁財天改修工事竣工 宮司書」と。 こちらは、「熱海市立図書館」。 この敷地は、「蜂須賀正氏侯爵別邸跡」とのことであったが、石碑等は見つからなかった。蜂須賀正氏は徳島の大名・蜂須賀家の末裔。我々のよく知る刀剣・蜂須賀虎徹はこの蜂須賀家から出て、市井のどこかにあると考えられていると。蜂須賀虎徹が蜂須賀家の外に出た正確な時期はわかりませんが、蜂須賀正氏さんに代替わりした頃(1933)に大規模な売り立てがあり、この際手放された可能性も考えられます。そうだったとしたら、蜂須賀虎徹にとって「蜂須賀家として最後の主」はこの正氏さんだった、のかもしれない。正氏は、鳥類学者として有名であった人物と「蜂須賀家熱海別邸は、熱海市熱海宇野中506(現・熱海市上宿町14-20)にあった。敷地面積約740坪。木造瓦葺き地上三階地下一階で、延べ面積は約197坪。外壁は白漆喰仕上げで、他に車庫と倉庫を兼ねた地上二階地下一階の別館があった。残念ながら1982年に解体されて現在は、熱海市立図書館が建っている。」と。 ここが「後藤新平熱海別荘跡」、現アーバンヒルズ熱海である と。後藤新平は、台湾総督府民政長官や満鉄初代総裁、東京市長などを歴任した人物。熱海との関わりも深く、この別荘は彼が静養や賓客の接待に利用していました。また、後藤は熱海と函南を結ぶ難工事であった丹那トンネルの建設推進にも深く関わっており、熱海の近代化に貢献した先人の一人として知られている。そして同じ敷地前にあったのが「久邇宮家御別邸御旧跡の碑」。明治から昭和初期にかけて活躍した皇族、久邇宮家(朝彦親王家)の別邸があった場所を示す石碑。碑の由来: 久邇宮朝彦親王(中川宮)の遺徳を偲び、かつてこの地に邸宅があったことを記念して建てられたもの。この場所は、明治4年から7年まで和宮(静寛院宮)が住んでいた場所でもあるとされています。 久邇宮家は香淳皇后(昭和天皇后)の実家であり、上皇明仁およびその直系子孫は久邇宮家の血筋を引いている。そのため、昨今の皇位継承者不足による皇位継承問題では皇籍復帰の有力候補として注目を集めている とは以前のTVワイドショー で。その前の広場にあったのが「熱海七湯 野中の湯」。 案内板。「野中の湯野中山のふもとの、このあたりを野中といいます。この辺一帯は、泥の中に湯がブクブク噴いて、杖で突くと湧き出したといわれています。また、このあたりの土は丹(赤色の土)のようで、壁を塗る材料にしました。江戸時代までは、この「野中の湯」は湧き出るところが浅かったので、あまり入浴には利用されなかったようで、そのため、湯をためる湯桝を設けなかったといわれています。」 「野中の湯」。「熱海七湯めぐり」 「野中の湯」 「野中の湯」碑。近づいて。そしてその先にあった「藤森稲荷神社」を訪ねた。 道路沿いにあった急な石段を上る。石段の途中に社名の碑とご由緒が書かれた案内板があった。碑を書いたのは、日露戦争の英雄である東郷平八郎の甥、東郷吉太郎とのこと。「藤森稲荷祭神 稲倉魂命神徳 藤森稲荷の大神は、衣食住の祖神であって農工商を守護しまつるが故に商売繁盛の神として、また延長長寿、厄除の神として崇敬されている例祭 二月初午・九月初午由緒 一、 古記に依れば徳川家康は慶長二年(1597年)同九年に熱海を訪れ入湯し、 更に三代将軍家光は寛永三年、御殿を造営されたその時、御殿の鬼門除として 祀られたのが当神社です 一、 大正二年、今上天皇が皇太子の御時金五百斤を奉幣されました 一、 本社は京都深草の藤森神社であって往古の勅祭社であり、皇室の祈願所でもあった 神領二千五百石を賜り秀吉、家康が神饌を寄進された名社である此のお社から 当社は往古分祠された由緒深い神社であります」 石碑の裏には、小さな仏様のような石像が置かれていた。上へと続く石段の左手は、石が積み上げられていたが、富士塚ではなさそう。そして石段の上に、社殿が姿を現した。左手の岩の上では、神狐が迎えてくれた。右手には、昭和五十九年九月建立の「顕彰碑」があり、「昭和四十九年九月吉日 社務所拡張 昭和五十七年二月初午 参集殿新築 昭和五十八年二月初午 境内地拡張模様替 昭和五十九年六月吉日 参拝殿増改築」と事跡が記され、背面には、役職功績者十余名が刻まれていた。そして社殿に近づいて。創建は江戸時代寛永の時期。徳川家光公 創建の神社 と。三代将軍徳川家光は、熱海の源泉である大湯で湯治した祖父の家康にならい来宮神社の南に温泉御殿を造営。その際に、表鬼門に藤森稲荷神社を建立し、守り神としましたのだと。徳川家とも所縁の深い熱海に商売繁盛・延命・長寿・厄除けの神様として祀られているのだ と。扁額「藤森稲荷神社」。 見事な社殿の彫刻をトリミングして。神狐がここにも。子狐を抱き抱えているような姿や、子狐を背負っている姿も。社殿前から見下ろして。そして引き返して。「後藤新平熱海別荘跡」前の道路沿いにあった紅梅。そして、再びひたすら歩き、熱海市春日町1にあった「紅葉山人の筆塚」へ。 尾崎紅葉の文学的功績を称え、1932(昭和7)年に熱海の「湯宿一番地」付近に建立された碑。紅葉が愛用した筆が納められており、文字は岩谷小波の書と言われる。毎年1月17日には、紅葉の命日に合わせて「尾崎紅葉筆塚祭」の神事が執り行われる名所。 「紅葉山人の筆塚」碑「尾崎紅葉の句碑」 「暗しとは 柳に浮き名 あさみどり」 「紅葉山人の筆塚と句碑明治30年1月から明治35年4月まで、読売新聞に連載された尾崎紅葉の小説「金色夜叉」は、当時空前の人気を博しました。一世を風びしたこの小説のクライマックスの場面に熱海が設定されたことにより、金色夜叉の普及と共に一躍脚光を浴び、観光地として大きく飛躍をみたのであります。あまねく天下に熱海の名を広め、熱海の発展に大きな力となった小説金色夜叉の作者、文豪尾崎紅葉先生の徳を称えた記念碑筆塚の中には、紅葉が生前使用した筆が祀られております。また、紅葉は俳人としても一家を成し、数多くの句を詠んでいますが、柳暗花明「暗しとは柳に浮き名あさみどり」は特に愛唱された句の一つといわれています。句碑に刻まれた文字は、紅葉が遺族に残した自筆の掛軸から写しとったものです。 昭和2 9年1月 建立」 そして「熱海駅」に向かって帰りは「仲見世通り」を歩く。 「仲見世通り」の中央には、多くの昔の写真が展示されていた。「昭和28年仲見世はこんな感じでした。海側からの景色で、一番奥にみえるのが熱海駅です。」 JR東海線[熱海駅]前にある仲見世商店街は、平和通り商店街の隣にある長さ200mほどの商店街。平和通り商店街と同じように活気にあふれた商店街。アーケードを歩くと、熱海の伝統工芸「熱海楠細工(あたみくすざいく)」で作られた照明があり、どこか懐かしさを覚える雰囲気が特徴。「山下清による熱海駅周辺の風景」。 東海道線、熱海駅、丹那トンネル、伊豆山熱海軽便鉄道丹那トンネルは、1918年に着工され、約16年後の1934年に完成した。さらに「仲見世通り」を進む。「・熱海お宮の松 ・金色夜叉記念碑付近 ・熱海名勝 お宮の松 ・同左熱海の代名詞といえば、小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ) に登場する主人公「貫一とお宮」そして「お宮の松」です。 観光写真スポットでもあるこの場所は海岸の国道沿いにあり、多くの人が訪れます。初代「お宮の松」は、昭和初期ま「羽衣の松」と呼ばれていましたが、大正8年8月「金色夜叉」を記念して、尾崎紅葉の弟子:小栗風葉の句碑「宮に似たうしろ姿や春の月」を建立したことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれるようになりました。」「熱海芸姑見番新築落成記念」の写真。 「熱海芸姑見番新築落成記念 昭和29年4月1日」 熱海芸妓の拠点である「熱海芸妓見番歌舞練場」(熱海市中央町)は、1954年(昭和29年)に完成し、現在も芸妓衆の稽古や舞台として活用されています。1990年(平成2年)には見番新館の落成を記念して「熱海をどり」が始まり、現在も伝統的な踊りの披露や座敷遊びの文化を伝える場として親しまれています。 詳細な概要は以下の通りです。・施設名称: 熱海芸妓見番歌舞練場・新館落成: 1990年(平成2年)の落成記念が「熱海をどり」の契機となった・利用状況: 芸妓の稽古場としてだけでなく、毎週土日に「湯めまちをどり華の舞」が 開催されている・特徴: 若手を含む約100名の芸妓が所属し、熱海ならではの温泉地文化を体現する場所 として機能している 熱海芸妓は、現在も厳しい稽古を積んでおり、その成果をこの見番で広く披露しています。 蕎麦店「成木屋本店」。昔は寿司屋もやっていたそうで、その名残が看板に。「宿 丹那屋4代目 磯聖幸君 平成23年 御鳳輩 天狗 大役御鳳輩とは、男子42歳の厄年(一般では後厄)の者が奉賛奉仕活動を行う熱海の慣習です。毎年7月15・16日に神事が行われます。天狗・猿田彦は天尊降臨の際案内した神様で、この例大祭の行列で御鳳輩に鎖座する来宮大神の案内をする役割です。御祭神と御縁の深い『むざこがし』を道に撒き道中を御案内し、また人々は具のこがしに触れると無病息災・身体健康になると伝えられています。※写真は平成12年、平成戌亥會天狗役 なかむらや店主」 そして「JR熱海駅」が姿を現した。 熱海駅前広場にあった足湯「家康の湯」。間歇泉及び足湯には、100%本物の温泉を供給。午後4時以降に足湯部分のお湯を全て抜き、毎翌朝掃除するので清潔。新湯を再び張り利用する“かけ流し”足湯です。足湯部分の床には足裏刺激が楽しめる小石を貼り付けてあり、歩行浴も楽しめます と。こちらは、以前の写真。「熱海第1ビル」の壁を見る。 熱海湾、初島、海鳥・ウミネコの姿が。沿岸部の漁港や海岸では最も普通に見られるカモメの仲間。くちばしが黄色く先端に赤い斑があり、尾に黒い帯があるのが識別ポイントです。また、飛翔時に翼の先端の黒色が目立ちます と。そして熱海駅前では「れいわ新選組」の共同代表「くしぶち万理」氏の選挙演説が早速行われていた。 小選挙区・東京14区では敗れ、比例東京ブロックでも復活できず落選となったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・ ・・・「二宮・吾妻山の菜の花を愛でに」につづく👈️リンク・・・
2026.03.03
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「山口文化財団 熱海山口美術館」を後にして。 国道135号を北に進み、「糸川橋」まで戻り、再び「熱海桜」を見る。 反対側には「あたみ桜基準木」が見えた。 そして「なぎさ通り」を 北に進む。左手にあったのが「熱海七湯 河原湯」。 静岡県熱海市銀座町12。温泉が絶えず豊富に湧出る河原の入浴場。河原湯は熱海村の農村や漁師、近くの人々が自由に利用できた唯一の源泉でした。小田原城主が村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたために「瓦湯」と称したとか。神経痛やリューマチなどに効くほど塩分を多く含み、人が入ると透明な湯が白く濁るといわれている と。石碑「河原湯」。 瓦葺の屋根の下に。近づいて。「河原湯このあたりを東浜といい、道もなく石のごろごろした河原で、温泉が絶えず豊富に湧き出ていて村人の入浴場でした。湯治客は大湯の源泉が主に使われ、ほかの源泉も限られた家のみが使用するお湯で、熱海村の農民や漁師や近郷の人達が自由に入浴できるのは、この「河原湯」だけでした。寛文6年( 1666年)小田原城主稲葉美濃守が、村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたため、「瓦湯」と称したともいわれています。この湯は神経痛やリューマチなどに効能があリ塩分が多く、人が入ると透明な湯が白く濁るほどであったといいます。」 「熱海温泉図集」から繰り返しになるが、小田原城主が村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたために「瓦湯」と称した と。現在は瓦屋根であるが、この絵では藁葺き・茅葺き屋根のようだが。「熱海七湯めぐり古来から数ある源泉の中でも熱海温泉の歴史に重要な位置をしめてきた「熱海七湯」。その七つの源泉をめぐリ「熱海七湯」にまつわる話と歴史にふれ、湯の町情緒を楽しんでください。」 そして「東海岸町交差点」 へ。正面奥には、先程訪ねた澤田政廣作「釜鳴屋平七夫婦像」が小さく見えた。 澤田政廣作「釜鳴屋平七夫婦像」がこれ。海岸線を進むと、「貫一お宮之像」へと。「貫一お宮之像」がこれ。その先、熱海市東海岸町の「熱海市 東町公民館」の横・旧『磯邊館』跡地裏にあったのが「大六天尊神社」。 社号標石「大六天尊神社」👈️リンク狭い境内。「國威宣揚 昭和十七年九月 海軍中将 東郷吉太郎書」と。昭和17年(1942年)は太平洋戦争の最中。この言葉は当時、国家的精神標語として広く用いられた と。■ ①「國威宣揚」の意味 国の威信・力・名声を広く示し、誇りを掲げること。 昭和17年(1942年)は太平洋戦争の最中。 この言葉は当時、国家的精神標語として広く用いられた。■ ② 昭和十七年九月という時代 1942年9月は: ・ミッドウェー海戦(6月)の敗北後 ・戦局が次第に不利へ傾き始めた時期 この頃は特に ・戦意維持 ・海軍の威信保持 ・国民精神の鼓舞 が強く求められていた。■ ③ 海軍中将 東郷吉太郎 東郷吉太郎 ・帝国海軍の中将 ・連合艦隊司令長官であった東郷平八郎 の親族 当時、海軍将官が揮毫(きごう)した石碑は ・海軍ゆかりの地 ・軍関係者の崇敬神社 ・戦勝祈願の神社 に多く建立された。■ ④ なぜ熱海の大六天尊神社に? 大六天尊神社 大六天尊は: ・魔を制する神格 ・武運・鎮護の信仰対象 戦時中には ・武運長久祈願 ・戦勝祈願 ・国家安泰祈願 の場となることが多くあった。 熱海は当時、 ・海軍関係者の保養地、軍人の滞在地 ・戦時下でも重要な観光・保養都市 という側面があり、軍との関係が比較的深い土地でもあった。■ ⑤ 石碑の性格 この碑はおそらく: ・戦時中の精神的標柱 ・海軍将官による国家理念の掲示 ・神社における国家的祈願の象徴 であったと考えられるのだ。そして西に向かい、坂道を上って「熱海七湯 大湯間歇泉」も訪ねた。 「大湯古来からの間歇泉で世界でも有名な自噴泉でありました。「大湯」の喰出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、地面が揺れるようであったといいます。明治中ごろから次第に澱少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき再び出しました。しかし、その後も端出回数は減少しつづけ、昭和のはじめついに止まってしまいました。昭和37年に人工的に出する間歇泉として整備され、市の文化財として保存し現在に至ってます。」 「熱海温泉図集」。 「熱海七湯めぐり古来から数ある源泉の中でも熱海温泉の歴史に重要な位置をしめてきた「熱海七湯」。その七つの源泉をめぐリ「熱海七湯」にまつわる話と歴史にふれ、湯の町情緒を楽しんでください。」 「市外電話創始の地」。 「市外通話発祥の地 熱海温泉と風光に恵まれ、冬暖かく夏涼しい熱海は、明治の頃、多くの政治家や政府高官が保養や会談のため来遊し、東京との連絡が頻繁に必要であったことから、東京~熱海間に電話回線が敷かれ、明治22年(1889) 1月1日に開通しました。電話器は、東京側では木挽町の東京電信局に、熱海側では宮内省の端館内に設置され、通話料と呼出手数料をとって公衆電話の取扱いが開始され、これが日本で最初の市外通話となりました。東京~横浜間で電話交換業務が始まったのは、この2年後の明治23年(1890) 12月のことです。この電話ボックスは、熱海市が市外電話にゆかりの深いことから、明治33年(1900)に東京の京橋のたもとに設置された日本初の電話ポックス(白ぬり六角形)を模して復元したもので、昭和43年(1968)10月に「明治百年」を記念してつくられ、その後、2度にわたり改装しています」 平成31年4月 熱海市」 その先にあったのが「熱海七湯 大湯間歇泉」。 近づいて。左:オールコックの碑右:愛犬トビーの墓ズームして。右側に「Poor Toby (かわいそうなトビー) 23 Sept. 1860」と刻んだ墓碑。左側に「オールコックの富士登山記念・熱海訪問記念碑」。 【予奉國命寫日本荏土府十有六月公暇無事茲萬延元年 庚申七月十八日發江都廿六日登冨士山廿九日到豆州 RA(September 1860) 羅多保津斗安有留古津久英國美仁須登留 浴熱海温泉十有四日愛玩山海奇勝之餘建此石使後人 知英人遊干此自吾輩始矣 】 読みは 《予、国命を奉じて日本江戸府に在ること十有六月。 公暇にして事無し。 茲に万延元年庚申七月十八日、江都を発し、二十六日、富士山に登り、 二十九日、豆州に到る。 ラザフォード・オールコック 英国ミニストル(公使) 山海の奇勝を愛玩するの余り、 此の石を建て、後人をして 英人此に遊ぶは吾輩より始まるを知らしむ。》意味は『私は国の命を受けて、日本の江戸に滞在して十六か月になる。公務もなく、休暇を得た。 ここに万延元年(1860年)7月18日に江戸を出発し、7月26日に富士山に登り、 7月29日に伊豆国へ到着した。 RA(September 1860)ラザフォード・オールコック 英国ミニストル(公使) 熱海温泉に14日間滞在し、山と海の素晴らしい景色を楽しんだ。 その余勢でこの石碑を建て、後の人々に「英国人がここを訪れたのは、我々が最初である」 ことを知らせるのである。』「初代駐日英国大使サー・ラザホード・オールコック」。 「大湯間歇泉と噏滊館熱海温泉には、江戸幕府を開いた徳川家康が二度に来ています。最初はまだ天下をとる前の慶長2年(1597)二度目は夷大将軍となったあと慶長9年 (1604) 3月で、この時には義直(のち初代尾張藩主)と頼宜(のちの初代紀伊藩主)の二人の息子を連れ今井半太夫の本陣を訪れ、大湯で7日間を行いました。家康はこの湯をたいへん気に入り、同年7月には伏見城ににきた周防の古川広家のため 海から大湯5桶を取り寄せています。 4代将軍家継の時代には、江戸の将軍家にこの大湯を献上する「御汲湯(おくみゆ)」が始まり、8代将軍吉宗 10代将軍家治の時代にも多くの湯が運ばれました。当時、大湯は6回、ほぼ同じ時刻に蒸気と熱湯の噴出を繰り返し、その様子を江戸後期の戯作者(げさくしゃ)東京山(とうきょうざん)は「石龍熱湯を吐くがごとく 湯気雲のごとくたち昇り 泉声雷(せんせいらい)のごとし。本朝第一の名湯なり。」(『熱海温泉図彙』)と記しています。 また、およそ一か月に一度、「長湧き」と いわれる昼夜続けざまの噴出があったといわれています。「明治に入り、維新で活躍した政治家や実業家らが熱海温泉に続々と訪れるようになると、明治18年(1885)、この地に日本の近代的な温泉 医学センターともいうべき」が建設されました。これは地元から土地を受けてつくられた宮内省直轄の施設で、規則正しく噴出する大湯間からの蒸気を患者が吸入し胸部疾患治療を施すというものでした。さらに館内には、体重計、身長計、肺活量計、 寒暖計、温度計、 気圧計、雨量計など医療及び測候に必要な当時の最新機器も備え、別に浴室を設けて入浴療法などもおこなわれました。 また、明治22年(1889) 館内に日本最初の市外電話 (東京一熱海間)が設けられ、大日本帝国憲法発布の報道も全国で熱海にだけ電話で通報されたといわれています。 明治24年(1891)、噏滊館は宮内省から温泉業者一同に払い下げとなりましたが、昭和9年(1934) に焼失するまで、 熱海の名所の一つとなっ ていました。噏滊館に噴出する蒸気を提供していた大湯は、明治以降、周辺で新たな源泉が開発されるとしだいに湯量や噴出回数が減少し、大正12年(1923) 関東大震災で一時的に噴出量が増したものの、再び衰え、とうとう休止してしまいました。現在は、昭和37年(1962)の工事により人工的に湯を噴出させ、往年の大湯噴出の様子を再現しています。昭和52年(1977))4月25日、 史跡 「大湯間歌泉跡」として、 熱海市指定有形文化財に指定されました。」 「オールコック滞在記念碑とトビーの墓碑初代駐日英国公使サー・ラザフォード・オールコック(1809~1897)は万延元年(1860)」7月、外国人として初めて富士登山をした際、帰路熱海に立ち寄り、本陣今井半太夫方に2週間ほど滞在しました。この滞在記念碑には「熱海温泉に浴し、山海奇勝(自然)を愛するあまりこの石碑を建て、後の人に熱海に遊んだ英国人は自分が最初であることを知らせる」ということが漢文で刻まれています。また、本国から連れてきた愛犬トビー(スコッチ・テリア)が、噴出した大湯に触れて大火傷を負い死んでしまった際、里人は人の死を悼むのと変わらない葬儀を行い、丁重に弔いました。オールコックは江戸に戻った後、自らの滞在記念碑とともに、「Poor Toby (かわいそうなトビー)」と刻んだ墓碑をこの地に送り届けました。攘夷派による外国人襲撃事件がたびたび起こり、日本人への印象が悪化していたこの時期に、オールコックは愛犬の死への里人の懇切な対応に心を動かされ、帰国後に執筆した著書「大君の都」 ( 1863年発刊)の中で 「日本人はまことに親切な国民である」と記し、英国世論が親日的となるきっかけをもたらしました。」 熱湯を噴き上げる大湯間歇泉。間歇泉の姿を追って。そしてその先にあった「湯前神社」を訪ねた。湯前神社と名がついているとおり、湯、つまり“熱海温泉”と深い関係のある神社。創建時期は749年とされていますが、熱海の地に温泉が湧出したとき(約1500年前)には、すでにお祀りされていたものと考えられている歴史のある古社 と。 石鳥居の扁額も「湯前神社」。 社号標石「湯前神社」。 「熱海市指定文化財湯前神社 石鳥居・石灯籠 平成十八年十二月四日熱海市教育委員会 (第建三号・第建四号)<認定理由> 湯前神社石鳥居、石灯籠(境内中段左右二基)は、江戸時代に熱海温泉に 当時した大名が寄進した石造物で、熱海温泉の歴史を考える上で特に 意義のある資料です。 熱海市内には、江戸時代に遡る石丁場がいたるところに存在し、産石業が 盛んであったと考えられるが、伊豆東海岸で多く産出される安山岩を使用して 作られた石鳥い、石灯籠は熱海市の産石業を考える上で貴重な資料です。<由来> 石鳥居 安永九年(1780)八月に第七代久留米藩主有馬頼徸(ヨリユキ)公が来湯し、 九月に御帰館する際、湯前権現(現湯前神社)に寄進されたものです。 石鳥居の高さは345cm、横幅410cm、柱の太さは105cm(直径35cm)で 両柱の石をくり抜き造りあげた石の鳥居は、全国的にも稀な建造物です。 石灯籠 宝暦八年(1758)夏に第七代久留米藩主有馬頼徸公が熱海に来湯した際、 湯前権現(現湯前神社)に寄進されたものです。 石灯籠の高さは205cm、横幅75cm、柱の太さは105cm(直径35cm) 石鳥居・石灯籠とも関東大震災等多くの自然災害にも倒壊することなく 今日に至っていますが 石鳥居は、柱に捩れが生じたことから平成15年5月に 基礎部分の修復工事を行いました。 寄進の時期は、石鳥居・石灯籠の本体に刻印があります。<有馬賴徸公>正徳四年十一月二十四日~天明三年十月二十三日(一七一四年~一七八三年) 有馬頼徸公は、久留米に生まれ享保十四年に久留米藩第七代藩主となり、 治世は十一代藩主中で最も長い五十五年間でした。(享年七十歳) 関流算学の大家として日本数学史上に特筆され、その功績により明治四十四年 十一月十五日、明治天皇より従三位を追贈されました。 年譜(熱海関連) 宝暦八年(一七五八)四月二十八日 腰痛の為歩行困難、願い出て 出豆州熱海へ御湯治 宝暦八年(一七五八)五月二十六日 御帰殿 明和元年(一七六四)八月八日 豆州熱海、宮ノ下御湯治のため御出駕 明和九年(一七七二)九月七日 御帰館 安永九年(一七八〇)八月八日 豆州熱海湯治御願済 安永九年(一七八〇)八月十六日 御出寫 安永九年(一七八〇)九月十八日 御帰館、 熱海御湯治中熱海權現入常夜灯油代御寄附 平成二十年十月 湯前神社奉賛会」 「湯前神社由来記」 「湯前神社由来記祭神 少彦名神(スクナヒコナノカミ) 玄古(イニシエ) 大己貴神(オオナモチノカミ)、少彦名神の二柱我が秋津洲民が 夭折(ワカジニ)することを憫(アワレ)み禁薬(クスリ)と温泉の術を制めたまいき (伊豆風土記)とある如く温泉の神と(し?)て古代から古代から尊崇されている。例祭 二月十日。十月十日。由緒 旧記に依れば「今から一千二百余年前(天平勝宝元年)神、小童に託して曰く、 諸人此なる温泉に浴せば諸病悉く治癒せんと 因って里人祠をたて少彦名神を祀る」 とあり。 然れども往古熱海に温泉の湧出せし時には既に祀られしものと考えられる。 永正十八年、寛文七年に再興している。平安朝の頃より徳川明治に至るまで 公家、将軍、大名等を始め入浴者及び一般庶民の崇敬が篤い。特殊神事 献湯祭(ケントウサイ)。湯汲み道中。 毎年春秋二季節の例祭に当り神前に元湯の温泉を献湯して浴客の健康安全を祈り 併せて江戸城へ当温泉を献上し往古を偲んで古式に則り「湯汲み道中」が行われ 此の日は市中が賑わう。 撰文 雨宮 治一 書 鈴木 丹陽」温泉の手水場温泉街らしく、蛇口から温泉(お湯)が出ている珍しい手水場。温泉は病気や怪我を癒す不思議な水とされ、その不思議な力は古くから信仰の対象にされてきました。水盤の上の段に子を抱く夫婦神のように見える像がありましたが、こちらの祭神は 「少彦名神と大己貴神(≒大国様)」ですから 手前の女人と見える像は少彦名神の配偶者の伊豆目比売命(いずめひめのみこと・市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト))と。寄進札板の巨石碑には奉納した方々の名前がずらりと刻まれており、温泉旅館の歴史を感じることができたのであった。神社の囲いに使われている玉垣には様々な旅館やホテルの名がこの石柱は?拝殿を正面から。湯前神社にお祀りされているご祭神は、少彦名神(すくなひこなのかみ)。大国主神(おおくにぬしのかみ)とともに全国を回って国土を開拓した神様。“医薬の神”として馴染みが深いが、穀物の神、酒造の神、温泉の神などの顔ももっています。いずれにしても、人間の体・健康について霊力を発揮する神さまとなります。そのご利益は、国土の平和、産業の開発、漁業・航海の守護といった全体に関わるものから、個人レベルでは、病気平癒、縁結び、安産・育児の守護などです。扁額「湯前神社(ゆぜんじんじゃ)」 木鼻(左)木鼻の彫刻は大抵獏ですが これは 大きな耳をもってるから・・・ 象か?木鼻(右)拝殿の向かって右側にあるのが、「源実朝(鎌倉幕府第3代征夷大将軍)の歌碑」。「都より 巽にあたり 出湯あり 名はあづま路の 熱海といふ」と詠んでいますが、源実朝公が箱根権現から三島社を経て伊豆山権現に向かう途中に、熱海の大湯を見て、崇めたたえて詠んだものと言われています。「源実朝の歌碑」について建仁三年(一ニ〇三) 九月一五日、鎌倉三代将軍となった源実朝は、初代源頼朝によって始められた箱根権現と伊豆山(走湯)権現の「ニ所詣」を、最も真摯に受け継ぎました。この歌は建保二年(一二一四)正月、実朝二十二歳、第四回目の二所詣のとき、箱根権現から三島社を経て伊豆山権現に向かう最中、熱海のこの地にさしかかり、海岸に湧出する温泉(大湯)を見て、崇め讃えて詠んだものと思われます。天和元年(一六八二)に描かれた「豆州熱海絵図」にも湯前神社を示す絵図とともに実朝のこの歌が記されています。 案内板提供 湯前神社奉賛会」 「都より 巽にあたり 出湯あり 名はあづま路の 熱海といふ 鎌倉右大臣 源実朝」と。「顕彰碑」と「奉納碑」。「顕彰碑神部千三氏は安政元年六月二十日埼玉県比企郡小川町に生まれる。十九歳にして志を立て上京し刻苦勉励により信盛堂を創立する。商を業とし財を成す 明治三十一年頃より病気療養のためしばしば熱海温泉に逗留する明治三十五年二月火災の発生あり湯前権現社殿が類焼の難に遭う 氏子一同再建を企図するも資金乏しく建設の目途立たず苦慮するを知り率先して金壱千円を寄進し明治四十四年待望の社殿が再建され現在に至る この功績を永く讃えると共に三代目当主俊男氏も当神社への崇敬の念厚く多大の篤志を奉納される併せて顕彰するものである 平成十年十月吉日 湯前神社」 「一金 壱阡円也東京神田神部千三明治四十三年二月」。明治40年代の1000円は今の200万円程度か?境内を振り返って。天然記念物のクスノキ。境内の入り口付近に、熱海市指定の天然記念物である巨樹があった。種別:天然記念物指定日:昭和52年(1977)4月25日員数:1本所在地:上宿町513所有者・管理団体:湯前神社解説 クスノキ科。目通り幹囲7.2m、樹高17m。伝えられるところでは、落雷によって樹幹の ほぼ二分の一は 焼損しているが樹勢はきわめて旺盛である。 クスノキは樹全体に精油があり、天然樟脳を製造する資源植物である。材は木目が 美しいので仏像・仏壇・家具材として貴重な樹木。熱海のクスノキ細工は工芸品として 見なおされている。廻り込んで。「熱海市指定文化財天然記念物 湯前神社のクスノキ 指定 昭和五十二年四月二十五日クスノキ料目通り幹囲 七.二メートル樹高 十七メートル樹幹のニ分の一ほどは焼損しているが、樹勢はきわめて旺盛である。クスノキは、材の木目が美しいので仏像、仏壇、家具材として貴重な樹木である。 熱海市教育委員会」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.02
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最後に展示室12・「アートオリンピア 優秀作品展」の展示会場を訪ねた。アートオリンピアは、才能あるアーティストの発掘と、その活動を支援することを目的として開催される、アートの国際公募展。2015年から始まり、2017年、2019、そしてコロナで1年延期となり2022年に開催され、直近では2024年に熱海市起雲閣にて開催。そして2026年には東京都内にて開催を予定している と。本展示室では、過去の金賞(第1位)及び優秀作品を展示しているとのことであった。入口の手前にあったのは、販売品の「imaginary Portraits(想像の中の肖像)」パブロ・ピカソPablo Picasso1969年想像の中の肖像 29点セットの1枚。ピカソの「想像の中の肖像(imaginary Portraits(想像の中の肖像)」は、1969年に制作された全29点からなるリトグラフ(石版画)のシリーズ。ダンボールの質感を感じさせる背景に、鮮やかな色彩と力強い線で架空の人物が描かれており、晩年のピカソの自由でユーモアあふれる創作意欲が凝縮された、非常に人気のある作品群 と。そして展示室に入る。「ハートボイルド探偵」 画面は圧倒的な情報量で埋め尽くされ、無数の人物・モチーフ・建築・物語の断片が 黄金色のトーンで渦巻くように配置されている。 一見すると祝祭的で、華やか。 しかし視線を進めるほど、秩序と混沌が同時に存在する異様さが立ち上がる。 ■ 視覚構造の特徴 画面全体に「中心」が存在しない どこを見ても物語が進行している 上下左右に視線が拡散し、休む場所がない これは鑑賞者に「一点集中による理解」を拒む構造。 👉 全体像を把握しようとするほど、迷い込む設計になっている。■ モチーフと語りの性格 人物たちは皆、何かを追い、何かを探し、何かに巻き込まれている。 しかし明確な主人公はいない。タイトルにある「探偵」は特定の人物ではなく、 👉 “意味を探そうとする鑑賞者自身”を指していると読める。■ 「ハートボイルド」の逆説 本来のハードボイルドは孤独・沈黙・簡潔さの美学。 だが本作はその真逆で、過剰・饒舌・感情も情報も溢れ返る それでもなお「ハートボイルド」と名付けることで、作者はこう示している。 👉 現代においては、無数の物語の洪水の中で立ち尽くすこと自体が“孤独”なのだ。■ 黄金色の意味 金色は栄光価値理想を象徴する一方で、ここではすべてが同じ価値に均されてしまう 危うさも帯びる。 どれも重要で、どれも決定打にならない。 👉 情報社会・評価社会のメタファー。「アートオリンピア2015ハートボイルド探偵mimasyo—MIMASYOー」 「炸裂」一見すると、これは「絵画」というより覗き込む装置、あるいは封印された空間に近い。平面の中に・奥行き・反射・物理的構造 が組み込まれ、鑑賞者は自然と「見る側」から「覗く側」へと立場を 移動させられる。■ 視覚構造の特徴額縁の中に、さらに“内部空間”が存在する鏡面や金属的な反射が視線を跳ね返す明確な中心がなく、視線が分断される特に印象的なのは、視線が一点に集中することを拒む構造である点。 👉 見ようとすると、見返される。 👉 理解しようとすると、遮られる。■ タイトル《炸裂》との関係「炸裂」とは、本来爆発・破壊・瞬間的なエネルギーの放出を意味する言葉。しかし本作に描かれているのは、爆発の“瞬間”ではなく、 👉 炸裂が起きた後、あるいは起きる直前の緊張状態。静まり返った内部に、目に見えない圧力が充満している。■ 見えない力の存在画面内には、ビス、金属部材、人工的な壁面が露骨に配置されている。それらは「美しさ」のためではなく、構造そのものを露出させるために存在している。 👉 何かが支えられ、固定され、 👉 そして同時に、壊れる可能性を孕んでいる。「アートオリンピア2017炸裂中村宏太NAKAMURA Kota」 「壊れたホッパー」 最初に感じるのは、「出来事が終わった後の現場」という空気。爆発や事故そのものは写っていない。あるのは、・折れ・傾き・崩れ・錆び だけ。時間が止まったようでいて、植物だけが静かに成長を続けている。■ 視覚構造の特徴鉄骨が歪み、交差し、視線を分断するトタン板や鋼材が層を成し、奥行きを生むフレームの中央に「ホッパー(貯蔵槽)」が半壊状態で残る構図は整っているが、構造は完全に破綻している。つまりこれは「秩序ある崩壊」の記録。■ タイトル《壊れたホッパー》の意味ホッパーとは、本来、物を溜め、流し、供給するための装置。産業・流通・効率の象徴です。それが「壊れた」態で放置されていることは、単なる老朽化ではなく、👉 機能の終焉👉 役割を終えたシステム を示しています。■ 人の不在という強い要素画面には人が一人もいない。しかし、人の痕跡は無数にある。・設計・建設・使用・放棄つまりこの作品は、人間が去った後に残るものを見せている。「アートオリンピア2019壊れたホッパー橋本大輔HASHIMOTO Daisuke」 「Period 21」最初に目に入るのは、余白の広さと、人物の静かな立ち姿。華やかな柄の着物をまとっているにもかかわらず、作品全体の印象は決して祝祭的ではない。むしろ、一瞬立ち止まった時間が封じ込められている。■ 視覚構造の特徴背景はほぼ無垢な白人物は画面中央よりやや下方に配置視線は正面ではなく、わずかに横を向く着物の色彩(青・赤・白の花模様)は強いが、それは空間を支配しない。 👉 色は主張するが、感情は語らない■ 人物表現の要点女性は立っているが、動作は最小限。身体の重心は片側に寄り手に持つバッグは実用的で控えめ表情は読み取れないほど抑制されているこれは「ポーズ」ではなく、日常の一断面である。■ タイトル《Period 21》の示唆「Period」は・時代・区切り・状態を意味する言葉。数字「21」は、年齢とも、世紀とも、個人的な周期とも読める。 👉 明確に説明されないからこそ、鑑賞者は自分の時間感覚を重ねてしまう。「アートオリンピア2022 Period 21ジョーンズ美月JOHNES Mizuki」 「甦 ~ HIROSHIMA LIVES ~」 まず感じるのは、音のない風景。色は淡く、形は溶け、輪郭は曖昧。しかし、決して「消えそう」ではない。むしろ、静かに息づいている何かが画面全体に漂っています。■ 視覚構造の特徴画面全体は霧に包まれたような層構造明確な中心点を持たず、視線が彷徨う葉や枝、地表、水、建造物らしき形態が相互に溶解 👉 自然と人工、過去と現在、生と死が分離されず重なっているこれは「描く」というより、沈殿した記憶を浮かび上がらせる構造です。■ モチーフの扱い葉脈、岩、地面、水辺、そしてかすかな建築の痕跡。それらは象徴として強調されない。原爆ドームを想起させる形も、はっきりとは描かれない。 👉 見せるのは「惨状」ではなく、 👉 その後も続いた時間の堆積。■ タイトル《甦 ― HIROSHIMA LIVES ―》の意味「甦」は復活でも再生でもなく、静かに、確かに“生き続ける”ことを指す言葉。副題「HIROSHIMA LIVES」は、過去形ではない、完了形でもない 👉 今も続いている現在進行形であることを示す。「アートオリンビア2024甦~ HIROSHIMA LIVES ~大川真理OKAWA Mari和紙・墨・顔料・鉛筆・ペン」 「春の陽ざし」最初に立ち上がるのは、「見る」という行為そのものへの静かな意識。明るい風景が描かれているにもかかわらず、画面全体はどこか暗く、重い。しかしその暗さは閉塞ではなく、包み込むような静けさを持っています。■ 視覚構造の特徴画面は明確な「枠」によって構成される外側は黒く、内側に向かって段階的に空間が開く中央にのみ、現実の風景(春の海と陸)が置かれている 👉 視線は強制的に「奥」へ導かれる構造これは絵画というより、建築的な「視覚装置」に近い。■ モチーフの扱い描かれているのは、特別な場所でも、劇的な情景でもない。穏やかな海、低い地形、春を思わせる淡い色調しかし、それらは直接的には触れられない。必ず「枠越し」にしか見えない。 👉 ここで主役なのは風景ではなく、 👉 風景を見る距離そのもの。■ タイトル《春の陽ざし》の意味「春の陽ざし」は本来、暖かく、開放的で、直接肌に触れるもの。だがこの作品では、陽ざしは奥に閉じ込められている。 👉 春はそこにある 👉 しかし、すぐには届かないこのズレが、作品全体の緊張感を生んでいます。■ 表現姿勢:感情を抑えた誠実さ本作には、感傷的な演出、色彩による情緒の誇張ノスタルジーの誘導が一切ありません。むしろ、**見る者が立っている「今・ここ」**を強く意識させる。これは、「春を描いた絵」ではなく、春を前に立つ人間の位置を描いた絵です。 「アートオリンピア2024春の陽ざし山本誠YAMAMOTO Makoto油彩」 「おかえりなさい」まず感じられるのは、懐かしさと違和感が同時に立ち上がる感覚。やわらかく、淡く、静かな画面。しかし、その穏やかさの奥に、どこか現実と噛み合わない「揺らぎ」が潜んでいます。 ■ 視覚構造の特徴・画面中央に大きな樹木が立ち全体の軸を成す・人々や建物道は細密に描き込まれながらも、輪郭は曖昧・空間は遠近法に従っているようで、どこか歪む 👉 全体が霧の中に沈んだような構造 視線は定点を持てず、画面内をゆっくりと漂わされる。■ モチーフの扱い描かれているのは・帰還する人々・集落・橋や道・大きな樹のもとに集う気配だが、誰も主役ではない。個々の人物は識別可能でありながら、匿名的です。 👉 これは「誰かの帰郷」ではなく、 👉 帰郷という行為そのものの描写。■ タイトル《おかえりなさい》の重み通常この言葉は、明確な「迎える側」がいて成立します。しかし本作では、誰が、誰に向かって言っているのかが曖昧。・故郷が人に言っているのか・記憶が過去の自分に言っているのか・あるいは、生と死の境界からの呼びかけか 👉 タイトルは安心ではなく、問いとして機能している。「アートオリンピア2015おかえりなさい田中 正TANAKA Tadashi」 「田中正Tadashi Tanaka群馬県前橋市出身のアーティスト。10代のころから地元のグループ展などで作品を発表し、建築塗装業に従事しつつ制作を続けている。油絵、水彩画を主に使用していたが、2006年からはボールペンと色鉛筆を主な画材とし作品を制作している。ペンと色鉛筆による幻想的で緻密な作品を制作し、展覧会への出品や個展を開催している。」 「Lost Landscape ー駐車場の上にかつてあった3つの建物ー」 最初に感じるのは、静まり返った都市の断面。人影はなく、音も気配も消えている。だが廃墟ではない。ここは「まだ都市である場所」が、記憶だけを残して空白化した状態として描かれています。■ 視覚構造の特徴黒と白の強いコントラスト建物・電柱・電線のみで構成された画面上部に大きく残された「何も描かれていない余白」 👉 特徴的なのは、欠落している部分の大きさ。描かれている建物よりも、描かれていない空白の方が強く視線を引く構造です。■ モチーフの扱い描かれているのは、・かつて存在した3つの建物・住宅街の一角・日常的で匿名性の高い都市風景しかし、それらは「存在していた痕跡」として描かれる。 👉 主題は建物そのものではなく、 👉 建物が消えたあとに残る風景。■ タイトル《Lost Landscape》の意味「失われた風景」とは、自然破壊や災害を指す言葉として使われがちです。しかし本作が扱うのは、もっと静かで、もっと身近な喪失。・再開発・用途変更・経済合理性による更新 👉 誰も反対しないまま、 👉 いつの間にか消えていた風景。副題「駐車場の上にかつてあった3つの建物」は、感情を排した事実の記述に徹しています。■ 表現姿勢:感情を語らない記録性この作品は、・ノスタルジーを誘わない・失われたことを嘆かない・批判も主張もしないただ、「ここにあった」という事実だけを残す。モノクロの処理は、記憶を美化しないための選択でもあります。■ アートオリンピア2024の文脈で社会的メッセージや個人的感情を前面に出す作品が多い中、本作は極めて抑制的です。しかしその抑制こそが、現代都市の本質を鋭く突いている。 👉 都市は壊れなくても、 👉 静かに忘れられていく。「アートオリンピア2024Lost Landscapeー駐車場の上にかつてあった3つの建物ー山本晶大YAMAMOTO Akihiroアスファルト道路線引き用塗料(白)」 「山本晶大Akihiro Yamamoto岡山県、中国地方を中心に活動しているアーティスト。建築物や映像表現を用いたインスタレーション作品を主に制作失われていくものの儚さや、視点を変えることの面白さや重要さをテーマに活動を行っている。尾道市立大学美術学科を卒業後、広島県尾道市を中心に活動。2015年から3年間ドイッペルリンに渡欧しアーティストアシスタントやハウスマイスターなどを行いながら創作活動を行う。2018年に帰国し、岡山県を中心に中国地域で制作活動を行っている。」 「アートオリンピアとはアートオリンピアは「世界のアーティストを発掘し、その活動を支援すること」をコンセプトに2015年から開催されました。以降2017年、2019年、2022年、2024年と隔年ごと、現在計5回開催をしています。国内外のアート作品を募集したアートの祭典と称し、審査員は国際的な美術関係者で構成されています。当館館長を務めていただいている東京藝術大学名誉教授で画家の保科豊巳氏が審査委員長として中心となり、点数制で公開審査を行っています。過去の審査員には、第22代文化庁長官の宮田亮平氏、画家の千住博氏、海外からはガゴシアンギャラリーディレクターのキャラ・ヴァンダー・ウエグ、イサム・ノグチ庭園美術館館長のプレット・リットマン氏、三菱一号館美術館初代館長を務めた高橋明也氏など、名だたる美術関係者が務めました。」 「真っ黒な石が見ていた風景」 まず直ぐに感じたのは、音の消えた風景。人も動物もいない。劇的な出来事も描かれていない。それなのに、画面はどこか「重い」。この重さは、感情ではなく、時間が沈殿した重さとして感じられます。■ 視覚構造の特徴・モノクロームに近い、極度に抑制された色調・低い視点から広がる草地と、奥へ続く二本の轍・空は広く、しかし明るさを持たない 👉 視線は前進するが、 👉 到達点は示されない。奥行きはあるのに、未来への開放感は意図的に排除されています。■ モチーフの扱い描かれているのは、・草に覆われた土地・人が通った痕跡としての道・長く放置されたような地形だが、この風景には、「誰が」「いつ」「なぜ」という説明がない。 👉 主役は風景ではなく、 👉 風景を見続けていた“存在”。■ タイトル《真っ黒な石が見ていた風景》の決定性この作品を決定的にしているのは、絵ではなくタイトルです。「真っ黒な石」は、・動かない・語らない・抗わないしかし、すべてを見ている。 👉 人間の歴史よりも長く 👉 判断せず、記録する存在この視点が与えられた瞬間、風景は感傷を失い、冷静な証言者の前に置かれた光景へと変わります。■ 表現姿勢:感情の排除による倫理性本作には、・美しさの誇張・郷愁の演出・破壊や再生のドラマ がありません。それは作者の消極性ではなく、語らないことを選ぶ倫理です。石は、人の営みも、過ちも、忘却も、すべて同じ距離で見てきた。■ アートオリンピア2022の文脈で個人史・社会性・アイデンティティが前景化する中で、本作は極端に非人間的な視点を選びます。しかしそれは逃避ではない。 👉 人間中心の物語から一歩引くことで、 👉 時間と存在を問い直す試み。静かだが、非常に厳しい作品です。「アートオリンピア2022真っ黒な石が見ていた風景藤原史江FUJIWARA Fumie」 「藤原史江Fumie Fujiwara名古屋や亀山など中部地方を中心に活動しているアーティスト人と自然や存在と認知、万物と時などをテーマに、コンセプトやテーマに沿った素材を使用した作品を制作している、一般的な画材だけでなく、サンドベーパーや石、マッチなどを使用し、各個展や芸術祭に作品を出品している。2025年度は、瀬戸内国際芸術祭の秋会期に本島で作品が継続展示される。現在は名占屋芸術大学の非常勤講師としても活躍している。」 「アートオリンピアの折りは本当にありがとうございました。おかげさまで制作しております。その後のご報告です。瀬戸内国際芸術祭2022終了後、現地でお世話になった石材業者さんのお招きで今月初めに庵治ストーンフェアに作品を出品いたしました。開催場所のサンメッセ香川は保科先生の作品のある、やしまーるのお膝元で『屋島での夜の夢』も拝見できました。受賞後に出品いたしました瀬戸芸の本島会場と丸亀マルタス会場、庵治ストーンフェア、三重県の亀山トリエンナーレのご報告を合わせて同封いたします。ストーンフェア出品の縦長の大作は、岐阜市の画廊なうふ現代25周年記念展に7月8日から30日まで出品いたします。これからも良いご報告が出来るよう精進して参ります。もうすぐ夏本番、暑さ厳しくなる頃ですがお体十分ご自愛ください。山口様のますますのご健勝をお祈りしています。 2023年6月28日 藤原史江」 「たばこ屋とひまわり」 どこにでもありそうで、もうあまり見かけなくなった風景。古びた「たばこ」の看板。営業しているのか、していないのか曖昧な店構え。その手前で、ひまわりだけがはっきりと生きている。懐かしさはあるが、それを前面に押し出す甘さはない。■ 視覚構造の特徴建物は正面性を持ち、画面の基盤をつくる色褪せた文字と外壁が時間の経過を示す中央からやや手前に、ひまわりが配置される 👉 人工物(店)と自然(花)の明確な対比構造しかし、どちらも強く主張しすぎない。全体が均衡の取れた静けさに包まれています。■ モチーフの扱い描かれているのは、・町角のたばこ屋・自販機・路地・そして、ひまわりここには象徴的な演出はない。ひまわりは希望の記号として強調されず、ただ「そこに咲いている」存在として置かれています。 👉 主題は対立ではなく、共存。■ タイトル《たばこ屋とひまわり》の意味タイトルは極めて説明的です。比喩も感情も含まれていない。だがこの並列が、作品の核心を静かに示しています。・かつて生活の中心だった「たばこ屋」・時代の変化とともに役割を終えつつある場所・その前で、毎年変わらず咲くひまわり 👉 これは「衰退と再生」ではない。 👉 時間の速度が違うもの同士の同時存在。■ 表現姿勢:感傷を抑えた記録性本作は、・ノスタルジーを煽らない・社会批評を前面に出さない・メッセージを押しつけないただ、今この瞬間の風景を、等距離で記録する。だからこそ、見る側が勝手に思い出を重ねてしまう。■ アートオリンピア2024の文脈で強いテーマ性や象徴性を持つ作品が多い中で、本作は非常に日常的です。しかしその日常性は弱点ではない。 👉 誰の記憶にも入り込める余白 👉 特定の物語に縛られない普遍性を持っています。「アートオリンピア2024たばこ屋とひまわりDandy007アクリルイラストレーション・ボード」 「Withered Plant」 まず感じるのは、美しい、しかし、生き生きしていないそれでも「終わっていない」という、矛盾を孕んだ感触です。枯れた植物でありながら、腐敗や死臭ではなく、彫刻のような緊張感が前に出てくる。■ 視覚構造と画面の特徴・背景は完全に沈んだ黒・主体は白〜銀の階調で浮かび上がる・葉や茎は裂け、折れ、捻じれ、重なっている光は全体を均等に照らさず、形の縁だけを強調するように当てられている。 👉 写真でありながら、 👉 立体作品を鑑賞している錯覚を生む。■ モチーフ「枯れた植物」の扱い通常、枯れた植物は・衰退・終焉・生命の喪失の象徴として扱われがちです。しかし本作では、・生命の痕跡・かつて水を運んでいた構造・生きていた頃の緊張が、形として保存されている。 👉 これは「死」ではなく、 👉 生命が物質へと変換された瞬間を捉えています。■ モノクロ表現の意味色を奪うことで、・時間・季節・種類といった情報が消えます。残るのは、・形・質感・光の反射つまり、存在そのものの骨格。モノクロは感傷を削ぎ落とし、見る側を「考える視線」へと導きます。■ ピクトリコ(写真用紙)の効果ピクトリコ特有の・深い黒の沈み・ハイライトの階調保持により、枯れた葉の繊維一本一本が「止まった時間」として定着しています。 👉 これはスナップではなく、 👉 記録としての写真。■ 写り込み(撮影者の姿)について画面左に、撮影者の姿がかすかに映り込んでいます。これは欠点ではありません。むしろ、・枯れた植物(動かない存在)・生きている人間(今この場にいる存在) が同一画面に共存することで、 👉 時間の層 👉 生と枯の距離が、無言のまま示されます。■ タイトル《Withered Plant》の抑制タイトルは説明的で、詩的ではありません。だからこそ、作品は「象徴」に逃げず、観察の対象として成立しています。「アートオリンピア2024Withered PlantKikoh Matsuura写真用紙(ピクトリコ)」 「Kikoh Matsuura松浦季恒大阪を拠点に活動している美術家。自然、宇宙の美や神秘をテーマに、写真、サウンド、インスタレーション作品を制作している。走査電子顕微鏡で枯れた植物を撮影し、死と生が静かに共存する生命の循環の美を描き出す《WitheredPlant)シリーズを中心に、科学技術を詩的素材として取り人れ、思索的かつ現象的な表現を展開している。2024年アートオリンビアにて銅賞を受賞。」 展示物を振り返って。移動して。そして、この日の熱海山口美術館の全ての鑑賞を終え、コーヒーをご馳走になる。座席からの、売却用の作品をカメラで追う。美しいステンドグラスも。そして多くの人間国宝が造った茶碗を最後に観る。「人間国宝とは?人間国宝とは、重要無形文化財保持者の通称のことです。日本では「日本の歴史上又は芸術上価値の高いもの」を文部科学大臣が重要文化財に指定し、活用・保護しています。お寺などの建築物や絵画、工芸品など形あるものに対しては、そのものを重要文化財として指定しますが、歌舞伎や能、陶芸などの形の無い「わざ」について指定する時、どうするべきかという問題がでてきました。そこで、指定した文化財である「わざ」を高度に会得している人物や団体を指定する事で国が支援をする形をとったのですそして指定された個人を「人間国宝」と呼ふようになります。」 「萩茶碗 三輪 休和」 茶碗は、出張中のようであった。「三輪 休和(みわ きゅうわ)重要無形文化財「萩焼」にて人間国宝に認定休和の家は、江戸時代から毛利藩の御用窯として活躍していた萩焼三輪窯を継承する名家であった。十五歳の頃から祖父、父の元で厳しい作陶修行を行い、一九二七年に三輪窯を継承し十代休雪を襲名した。襲名後は、陶磁器の愛好家を訪ね古萩や高麗茶碗の名品に接することや朝鮮半島を巡歴することで高麗茶碗の研究を重ねた。また、自ら茶道を極めることによって茶陶器の知識を深めていくなど様々なアプローチから萩焼の可能性を模索し続けた。休和の作品は高麗茶碗に日本風を取り入れた独特の作風の茶碗が特徴的で、枇杷釉と呼ばれる淡黄色の伝統的な釉薬を使った優美な作風を得意とした。また休和と弟が生み出した「休雪白」と呼ばれる真綿の様な真っ白な釉薬を使った革新的な作品を作り出したことも大きな功績の一つとして知られている。一九六七年に隠居し、弟である三輪壽雪に休雪の号を継承した。継承後の比較的自由な立場となってからは、優美な作風を大成させた。」 「瀬戸黒茶碗 加藤 卓男」「加藤 卓男(かとうたくお)」重要無形文化財「三彩」にて人間国宝に認定加藤卓男は江戸時代より岐阜県多治見市で陶芸を営んでいた家に生まれる。一九六三年の日展に出品した作品が特選北斗賞を受賞後、フィンランド政府の招きと工業技術院の斡旋によりフィンランドの工芸美術学校に留学する。留学の際ペルシャに旅行し、イラン国立考古学博物館でイスラム陶器、ペルシャ三彩やラスター彩陶に接し、強い影響を受ける。一九八〇年には宮内庁正倉院より、正倉院三彩の◯◯およびニ彩鉢の復元を委託され約九年の歳月を経て復元作品を正倉院に納入した。その後正倉院作品復元で研究した技法を現代作品に生かし、独自の領域を確立した、加藤卓男が研究を重ねた「三彩」は、奈良時代に中国から伝わった「唐三彩」に倣って作られた最古の釉薬である。釉薬は銅(緑)、鉄(赤褐色)、コバルト(藍色)などの鉛釉を用い、互いの釉薬が浸透し、顔料の色が変化しあうこ三彩の技法が存続していたが、その後廃絶し長崎県の長与三彩が桃山時代の楽焼の技法は断片的に残されるのみであった。それらを加藤卓男は正倉院宝物やペルシャ陶器の研究の末に技法を再現させた。また、白い鉛釉の上に銅や銀などで模様を描くことで金を施したようなきらめきを作り出す、「ラスター彩」というペルシャ技法を復元させ高い評価を得ている。「志野茶碗 鈴木 藏」 「鈴木 藏重要無形文化財「志野」にて人間国宝に認定岐阜県土岐市駄知町に生まれる。窯業士、美濃焼の志野や織部などの釉薬の研究者であった鈴木道雄の家に生まれ、岐阜県立多治見工業高等学校卒業後、父が務める多治見市内の丸幸陶苑の研究室に父の助手として勤める。父の元で陶土や釉薬の調整方法など陶芸の基礎について学ぶ一方、東美濃地方にある桃山時代の窯跡を探索し志野や織部の技法について深い関心を持つようになる。昭和三十(一九五五)年ごろには作陶家として頭角を現し、現代日本陶芸展や日本伝統工芸展においてたびたび受賞、昭和四十三(一九六三)年に独立する。耐熱保温、長時間焼成の独特のガス窯を築くことで、伝統的な志野焼や織部焼を再現し現代陶芸としての志野焼や織部焼の開発に取り組んでいる。鈴木は作品を作るなら「新しくて、力強いもの」という姿勢を崩すことなく作陶を続け、花器や大皿などのダイナミックな表現の中にも造詣や意匠に工夫を凝らす理知的な作風によって志野焼の可能性を模索し続けている。」 「ほたるぶくろ茶盌 田村耕一」「田村 耕一(たむら こういち)重要無形文化財「鉄絵」にて人間国宝に認定栃木県佐野市に生まれ、東京美術学校卒業後、京都の松風研究所にて輸出食器のデザイナーとして勤務し、同所の顧問をしていた富本憲吉の指導を受けたことを機縁に陶芸の道に入る。その後、栃木県窯業指導所に勤務し、昭和ニ十八(一九五三)年、郷里の佐野市に築窯して陶芸家として独立した。初期の作品は、黒と黄褐色のニ種の鉄釉を基調とし、これに蝋抜きや筒描きの手法で草花の模様を表すあたたかく重厚な作調により受賞を重ねた。その後も刷毛目を施した上に勢いのある筆致で、鉄絵の模様を表したり、さらに銅彩や青磁釉を併用するなど作域を広げ、暢達な鉄絵を基本に、多彩な陶技を加えて温雅な情趣をたたえた独自の境地を完成させた。昭和四十ニ(一九六七)年からは東京藝術大学にて教鞭を取り、後進の指導にもあたった。」 「掛分掻絵茶碗 浜田庄司」 「浜田庄司(はまだしょうじ)重要無形文化財「民芸陶器」にて人間国宝に認定神奈川県川崎市に生まれる。大正五年(一九一六)年、東京高等工業学校を卒業後、京都市立陶磁器試験場に勤務する。その後、大正九(一九二〇)年、来日していたイギリス人の陶芸家バーナード・リーチに同行して渡英。イギリスのセント・アイヴスで作陶をしながら英国の伝統的な陶芸の技術を学ぶ。大正十三(一九二四)年に帰国してからは思想家・柳宗悦を中心とする民芸運動に参加し、日本各地の民窯や民芸雑器の美の様式と伝統的技法の研究を続けた。民芸運動とは、日本各地で無名の職人たちが民衆のために作ってきた日用品のもつ健やかな美を価値づけしようとする運動のこと。自らも栃木県益子に居を定め、益子の陶土や釉薬を基本として作陶を続けた。益子の土地で作陶をする中、民芸雑器の美の様式と技法を吸収し、重厚で力強い作風を確立した。一度施釉した上に別の釉薬を柄杓や土瓶を使って流し描きをする装飾方法や、古い琉球の赤絵から学んだ力強い赤絵など民芸雑器の美意識を基調としながらも独自の作風を作り出した。」 「象嵌赤絵草花文盌 島岡 達三」 「島岡達三(しまおか たつぞう)重要無形文化財「民芸陶器(縄文象嵌)東京都港区生まれ、三代続く組紐師の家に長男として生まれ、東京工業大学窯業学科を卒業後、「益子焼の中興の祖」である、浜田庄司に師事。栃木県窯業指導所に勤務し、(昭和二十八(一九五三)年、栃木県益子に住居と登り窯を築き独立。島岡は、益子周辺で採れる陶土や釉薬を用いた伝統的製陶法を基礎に手作業による民芸らしい健やかな陶器づくりの精神を受け継ぎ作陶する中、昭和三十五(一九六〇)年頃から組紐師であった父の影響もあり、組紐で模様を作り、素地と異なる化粧土を埋める「縄文象嵌」の技法を取り入れて、独自の作風を確立した。浜田庄司の死後、民芸陶器のさらなる普及と発展に尽力した。 photo: Tsuyoshi INUI 所蔵:東京科学大学博物館」 「純金茶碗「秀吉」 当館館主山口伸廣監修 ¥7,000, 000」 「純金茶碗「秀吉」 熱海山口美術館主 山口伸廣監修 当館館主の山口伸廣が監修した純金茶碗で、豊臣秀吉の黄金の茶碗をイメージして制作された。円盤状にした金の延べ板を、厚さが変わらぬよう外側から細かく何度も叩き、丸みのある碗型になるよう形を整える技法を用いた。金はとても柔らかい素材のため、強度を増すため全体を叩き締め、高台は帯状の延べ輪を造り二十四金よりも強度のある十八金を用いて接合している。〜当館オリジナルの純金茶碗を手に取り、秀吉に思いを馳せて、豪華で幸福な気分を味わっていただけたら幸いです〜」 「指カキ茶碗 金城 次郎」 「金城 次郎(きんじょうじろう)重要無形文化財「琉球陶器」にて人間国宝に認定沖縄県那覇市に生まれる。十三歳にして壺屋の名工として名高い新垣栄徳の製陶所に入る。以後長年製陶に従事し、昭和二十一(一九四六)年、三六歳のとき壺屋に築窯し独立する。戦前より壺屋でたびたび制作を行い、民芸運動に参加した陶芸家・浜田庄司、河井寛次郎の指導を受け、一貫工程を通してその製陶技法を総合的に身に付けた。金城の白い化粧掛けを施した素地の上に、線彫りで躍動感に溢れた魚や海老の模様を彫り藍、飴等の色釉を差した、素朴で親しみのある作調は、県内外を問わず幅広い支持を受けている。金城は、琉球陶器の伝統的な轆轤技術の上に、オリジナリティを盛り込みながら、壺・茶碗・抱瓶など、「用と美」を兼ね備えた作品を数多く制作した。なかでも自由闊達な線彫りによる躍動感溢れる魚や海老の文様は、金城の真骨頂ともいえ、浜田庄司をして「次郎の海老や魚は笑っている」といわしめたほどである。」 「晴白磁練上茶碗 松井 康成」 「松井 康成(まつい こうせい)重要無形文化財「練上手(ねりあげで)」長野県北佐久郡に生まれる。明治大学文学部哲学科卒業後、茨城県笠間市にある月崇寺の住職となる。昭和三十五(一九六〇)年、同寺境内に窯を築き作陶を開始。昭和四十一(一九六六)年、田村耕一(「鉄絵」の人間国宝 )に師事し、「練上手」の 指導を受ける。昭和四十四年(一九六九)年に第十六回日本伝統工芸展に初入選以降、練上などの技法を用いた作品で次々と受賞を重ねる。練上とは、色の異なる土を重ね、または練り合わせたりして文様のある素地土を作り、形成していく技法で、形成と加飾が同時進行で進められる。古くは、中国では唐や宋の時代、日本では安土桃山時代の志野などにも見られる。松井は生涯に渡りこの練上を探求した。そのなかで、轆轤の回転による螺旋運動で器表に生じる自然の裂傷を生かした「嘯裂」や、嘯裂の応用で色土を内側から外側にニ層、三層と重ねる「嘯裂」、薄いシートに描いた文様を生乾きの素地表面に貼り、シートをはがして文様を移す「堆瓷(ついじ)」等の様々な技法と文様表現を考案し、練上を独自に展開させた。 (写真キャプション) 松井康成氏写真(提供:月崇寺)」 「備前茶碗 山本 陶秀」 「山本 陶秀(やまもと とうしゅう)重要無形文化財「備前焼」岡山県備前市伊部に生まれる。大正十一(一九二二)年、当時伊部で最大の窯元であった黄微堂に見習いとして入り、大正十二(一九二三)年に桃渓堂に移る。桃渓堂に八年間在籍し、茶入、花入、水指などの茶陶器の轆轤形成の習得や細工物の技術を学ぶなど作陶の基礎を築いた。昭和八(一九三三)年に独立して以降は備前焼一筋の作陶を続けた。戦前、陶秀は「大正名器鑑」という由緒ある茶道具を記した書物に記される名種茶入を手本とし茶道具作陶の腕を磨き、また天平時代の水瓶を模すなど茶道具、稽古道具への知識、技術を身に着け「茶陶の陶秀」といわれた。昭和三十(一九五五)年に第四回日本伝統工芸展に初入選して以来、備前陶芸界を代表する作家として活躍し、手ざわりの良い茶碗や薄造りの端正な茶入の形から轆轤の名人としても知られ、高い評価を得ている。 (写真キャプション) 山本陶秀氏写真(提供:ギャラリー山本)」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.01
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