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テレビを見ていたら災害で止まった電車に缶詰になり、近くのおじさんに親切にされた話しを聞いて学生時代の事を思い出しました。貧乏画学生だった私はすごく安くなる学割を利用して、急行列車で、確か6時間掛けて何度も東京に展覧会や画廊巡りをしに行きました。昔の学生だからお金は無くとも時間はあるのでした。アルバイトで時間を失う代わりに食費を削ってでも絵を描いたり観察や感じる時間の方を取ったのでした。泊まるのは東京で働いている友人のアパートでした。行きの急行列車では長い時間電車に乗っているので、携帯用の小さなパズルやゲームを持って行きました。でも昔だから今のゲームのように何時間もやれるほどのものではなく、本を読むのも眠るのにも飽きるので、隣りや向かいの色んな人と話しをしました。この時の経験が、今人と話す事に物怖じしない私を作り出したのかもしれないとこれを書きながらふと思いました。ある時、向かいに50代の男性が座っていました。今は何を話したのか忘れてしまったのですが、そのおじさんと何時間も話をしました。楽しく話しをした記憶があります。するとそのおじさんは会津若松で止まった時に、駅で売っている釜飯を二つ買って一つを私に下さったのでした。「こんなおじさんと沢山話しをしてくれた お礼だよ。 食べて食べて」私は喜んで素直に釜飯を美味しく頂きました。今思うと当時でさえ十九、二十歳の娘が中年のおじさんと楽しく話しをするというのは珍しい出来事だったのだと思います。私は色んな事があったにしては屈託のない少女だったのでしょうね。今も十分警戒心が無くて子供達に心配される人間ですが。きっとあのおじさんは屈託のない私と色んな話しをして気持ちの良い時間を過ごしたのでうれしい気持ちを表してくれたのでしょうね。多分私の事だから自分が貧乏画学生で東京まで展覧会を見るために急行列車で時間を掛けて行く事を話したろうと思われ、おじさんは貧乏画学生に美味しい釜飯をご馳走してあげようと思ったのでしょうね!そのおじさんは大宮あたりで降りて行き美味しい思い出を残して去って行ったのでした。あんな風に見返りを求めない関係って良いなあぁ~~♪と、自分がおばさんの年齢になった今つくづく思います。私、良い経験をしたなあ~~~。すごく強烈な思い出(命の恩人の話)もあるんですが、こんな柔らかくてほのぼのした思い出もあったなあ~と思ったのでした。
September 18, 2007
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●私が22歳で17歳の女の子を預かった話し●私が22歳の頃、職場の近くに住む高校生達と仲良しになりました。バイクの乗り方を教えて貰ったりしました。何しろクラッチとブレーキを同時に握って突っ込んで怪我をしたくらいに乗り方を知らなかったのです。毎週日曜日には空き地に行ってモトクロスもどきのコースで数人で一緒にバイクを走らせたのでした。ある日、その少年達の中でも私と一番気の会う少年が友達の彼女を預かって欲しいと言うのです。私は当時、人に断わると言う事が出来ませんでした。でも私が仲良くなった少年達はいわゆるグレた不良でした。その子達の彼女って・・・・・・。実に恐ろしい事になったと思いましたが断われませんでした。私はその頃は仙台の南光台で六畳・四畳半二間に台所、お風呂、トイレのある家で一人暮らしをしていました。六畳にベッドとテレビを置いて、四畳半にはオーディオセットとバイトの工事看板を置いていました。看板屋で働いていたのですが、給料が安過ぎてバイトを家でもやっていたのです。それで、高校生の友人の彼女がやって来た時、四畳半を片付けてそちらに寝かせてあげようかと思いました。でもバイトの看板は広げて置かないと、乾かせないんです。困ったなと思っていました。ところがやって来た女の子はふわふわの茶色の髪の毛と同じふわふわしたお菓子のような優しい女の子でした!!生まれ付き茶色の髪の毛で色が白くてポーッとしたおっとりした優しい女の子でした。17歳より幼い感じの可愛い女の子でした。事情を聞くと、学校帰りに女子高の友達と遊んだ内容を書いた日記を親に見られて激昂した親が高校を中退させてしまったそうです。どんな内容の日記かと思ったら学校帰りに喫茶店に行った事やゲーセンに行った事等だと言うのです。それが本当かどうかと言うのは毎日Hちゃんと暮らしてみて解りました。人を騙したり出来ない正直でちょっと頼りない女の子でした。Hちゃんの彼氏の方は髪をカールしたリーゼント頭と言う外見でしたが、とても知的で穏かな少年でした。聞けばお父さんが教師で、ちょっと似た境遇かと驚きました。I君と言うその少年は高校を中退していましたが、自暴自棄になると言う事はなくて何をして良いのか解らない、と言う感じでした。I君は毎日やって来てHちゃんと話をしていました。とても可愛らしいカップルでした。お互いを思いやる優しい幼いカップルでした。Hちゃんを預かって良かったと思いました。Hちゃんは素直な子だったので共同生活はとても楽しいものでした。料理が全く出来なかったのでお母さんのようになって教えてあげたりしました。Hちゃんは近くのスーパー内のパン屋さんでバイトしていたのですが、一度帰りが遅くなった事があります。I君が私に話してくれたのですが、店長から車で送ると言われて山の中に連れ込まれてもう少しで乱暴されそうになったそうです。Hちゃんは恐い思いをして泣いていました。そこでI君と私は相談して、I君と私の都合を合わせて毎日必ずどちらかが店にHちゃんを帰りに迎えに行くようにしました。Hちゃんはすっかり怯えていました。何しろ家を追い出されていますし、生活をしなければなりません。高校中退の女の子を雇ってくれるバイトは当時なかなか見つからないのでした。こんな優しい素直な子を親はどんな了見で追い出したのだろうかと憤りさえ感じました。一度だけHちゃんの家に行った事があります。大きなアパート郡が並んでいる所の一室でした。両親はいたのですが、お世話をしている私に対してまともに挨拶するでなし、存在を無視されました。そして娘に対しても何の呵責も無い様子でした。この親がHちゃんを追い出したのかと頷いてしまいました。結局Hちゃんは2ヶ月ほど私の部屋にいて家に戻って行きました。親が許した事とやはり他人に世話になるよりはとHちゃんが考えたらしいです。私はあの親の元に帰るのかと心配したのでしたが十代の少女をずっと預かる訳にもいかないので何かあったらおいでと言って送り出したのでした。その後、HちゃんとI君は時々私の部屋に遊びに来ました。でも段々足が遠くなり私も実家に引っ越したのでそれからは会った事がありません。I君の家はまだ憶えているので今からでも探せば探せない事は無いのですが。二人とも、あれからどんな人生を送ったのだろうかと今も時々思い出します。私の生活で一度だけ同居人を置いた良い思い出です。人に断れずに良い思いをした珍しい出来事でした。
May 18, 2007
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世間の行事と全く関係無く生活している我が家は今日も普通の一日です。雪が無い大晦日は 有難い~~~~~~~ヽ(*^ー^)人(^ー^*)ノ一昨日の夜に母とガストで食事をしていた時、ピー(中2)がミニスカートにハイソックスだったのを見て母がこう言いました。母「ピーちゃん、寒くないの? 私は小さい頃から冷え症だから そんな格好は考えられないわ~」私「私は十代の頃は暑がりだったから 冬以外は裸で寝ていたんだよ」母「えええ===っ! 下着も着ないで?」私「うん。昔は元気でした。 そう言えば大学3年の頃の夏休みに 久々に帰って来て、 締め切った部屋の締め切ったベッドで 裸で寝たら、 ゼニタムシになった事があるんだよね。 お尻にポツポツが出て お母さんに見てもらったら 『ゼニタムシだ!』って言われて、 薬屋さんで買った薬で治したんだよね。 あの頃お母さんは、 『男性と良からぬ事をしているから うつされたんだ!』って決め付けて 私をすごく非難したんだよね。 でも私が思うに、 何ヶ月も締め切った部屋のベッドで 寝たからじゃないかな~と思うんだよね。 だって、私が帰省するからと言って 布団を干してくれたりした事は一度もなかったし あの頃は布団を干さない家だったし。 だからお母さんの非難は 濡れ衣だと思うんだよね。」母「いやいやいやいや。 あなたがいけないの!! 布団のせいじゃないの!! 男の人から貰って来たのよ!!」私「それは無いと思うよ~」母「いぃーいや!!! 布団のせいじゃない!!」その後、母はしぶとく自説にしがみつき私を責め続けたとです。(涙)それでさっきそれを思い出してネットでゼニタムシを調べました。なんと、ゼニタムシは水虫でした!!!!( ̄□ ̄;)!!(llllll゚Д゚)ヒィィィィ市販の薬ですぐに治って良かったです。しかも浴場の床には水虫菌が必ずあると書いてあったり、どこにも水虫菌はあると書いてありました。あの頃住んでいたアパートのお風呂は共同の大きなお風呂だったんです。それかな~~?危ない危ない。ミクロ、マクロの世界は危ない危ない。私は足の水虫になった事はありません。でも、足の水虫が広がって体の色んな所が水虫になるって書いてありました。(llllll゚Д゚)ヒィィィィ!そこら中に水虫菌があぁぁ!!(llllll゚Д゚)ヒィィィィ!!あれ?うちの母の足の指の爪が水虫じゃないか?誰だ?誰のせいで母が水虫になったんだ?誰のせいで私のお尻にゼニタムシがうつったんだ?でも日本人の5人に一人は水虫持ちって書いてもありました!ひいぃぃぃーーっ・・・・・(大汗)恐いよーーーーーっ!!!ヽ(≧Д≦;)ノ!!(≧ω≦)/ ●参考に
December 31, 2006
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今日の脳は働かず何も浮かんで来ないので写真をちょっと載せます。●昨日の朝焼け●一昨日、風邪気味でコタツで寝てしまい朝方に起きて撮った朝焼けです。 今使っているカメラは画素数は多いけど色が綺麗に出ません(涙)実際はもっと綺麗な色でした!●お邪魔虫マシロ●私がパソコンをしていると時々こんな風にマシロがちゃっかかりコタツの上に乗りパソコンの向こうから私を見ている時があります。 可愛いので、つい叱りそびれてしまいます(^^; ●怒りんぼ クレハ姫●前よりは怒りんぼじゃないですがやっぱり「外に出る!」と言う意思表示の時はウ~~ッ!て唸っています(涙) これは台所の勝手口で「出る!早く!」と唸っている所です。台所は最近3週間に渡って資源物を出しそびれてしまったために資源物に占領されつつあります。頑張って荷物を片付けたのに資源物で埋まりました~~~(;_;)勝手口近くまで溢れて出入り口が狭いです。カメラを向けると必ずそっぽを向くクレハです。最近は夫の部屋のコタツがお気に入りでぬくぬくしています。でもマシロが器用でしっかりドアが閉まり切っていないと爪や足や頭を使ってドアを開けて中に入ってしまうんです。それで廊下に逃げて来たクレハがウ~ウ~唸っている声で私が気付いてクレハを助けに行くのですが、助けても怒られます(悲~)今日、○ャスコに行って糸を買おうとして余計な布を買ってしまいました。だって「68」とか「58」の「半額」と言うすごくお安い値札が付いていたんです。でも切って貰ってから解ったのですがなんと1メートルではなく10センチ68円だったとです。。。ああ~当たり前な値段だった。。。。よけいな買い物をしてしまった。。。た。。。反省。値段はしっかり確認すべし!!!ううう(;_;)
December 6, 2006
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自動車学校の思い出私の親は、私が二十歳にならないと車の免許を取ってはいけないと言いそれではと素直な私は3月にようやく二十歳になったので大学3年の春休みと夏休みを全部使って実家の近くの自動車学校に通いました。近くと言っても、車で10分掛かる所なので自動車学校の送迎車などで通いました。学科講師の先生は大抵の場合は校長先生でした。小柄でゴマシオ頭で眼鏡を掛けた50代くらいのおじさんでしたが、話がとても面白いので学科講習はとても楽しみでした。所がたまに他の先生が学科講習をするとすご~~くつまらないのでした。私は小柄な眼鏡の校長先生がきっと特別なのに違いないと思いました。よその学校の生徒は学科講習が嫌いだろうと思いました。実技教習の方は混んでいたためなかなか乗れませんでした。実家にいる春休みと夏休みに絞ってしか通えない私は用事が無い時はいつも自動車学校でキャンセル待ちをするようになりました。そこで朝から晩まで一日中自動車学校にいるため友だちが出来たり、先生方に用事を頼まれて手伝いをしたりしました。校長先生と一緒に草取りもしました。夏になると、毎日朝夕の水撒きをしました。自動車学校の建物近辺の水撒きは土地が広いので結構な時間が掛かります。先生や事務員の方は忙しいので待合室でおしゃべりするだけの私が適任だったのでした。(^^ゞそうして毎日一日中自動車学校にいた私はいつしか校長先生から「うちの娘」と呼ばれるようになりました。(^^ゞそのくらい毎日一日中自動車学校にいたんです。ある時、私は東京の友人の所に遊びに行きました。毎年泊まりに行っていた東京の友人はその頃はブティックに勤めていたのでとてもオシャレでした。4~5日泊まっているうちに友人のご主人が(彼女は早く結婚した)元美容師だったので髪を切ってあげると言い出してどうした訳かパーマも掛けてあげるよと言われえ~~と、ひゅらひゃら~って感じのふわふわした髪型になりました。しかも友人が最先端を行く人なもので私にラフでオシャレな服を着せました。そして手足の爪に黒いマニキュアを塗られまして。。。。。(イヤだと言ったのに遊ばれたの)つまり、出掛けた時には私は真面目なOL風のシンプルな服と普通の5センチくらいのヒールのパンプスに長めのストレートな髪の毛だったのですが帰りにはふわふわ頭に当時の田舎ではあまり見掛けないラフで派手な服にミュールを履きしかも手と足の爪が真っ黒けでその上友人が持たせた犬のぬいぐるみをそのまま抱えていると言う実に、別人になって帰って来たと言う訳でした。それに久々の遠出で欲張ってしまい、帰りの電車から直接自動車学校に行かないと時間が無いようになってしまいました。つまり、田舎にしては派手目でラフで爪は下も上も黒くてふわふわの髪の毛で挙句にぬいぐるみまで持っていたまんまの姿で自動車学校に行ったのです。そして予定表を見て愕然としました!その日の実技の先生が笹原マスクだったのです!!!笹原マスクとはいつも渋くてカッコイイおじさんなのですが何しろ笑った事がなくて厳しいと言う噂の恐い印象の強い先生なのです!!恐い人が苦手な私は大変ビビリましたっ!!!とてもとてもビビリましたっ!!!だって恐い笹原マスクの眼の前で真っ黒い爪の手で運転するんですよ。髪はふわふわだし、服は軽薄だし。(昔々は田舎には黒いマニキュアなんて してる人がいませんでしたから)これはヤバイじゃないですか!(昔々は服装でも怒られましたから)厳しい笹原マスクが怒り狂うかもしれません!どうしよう~~とすっかりうろたえた私。考えて、無い知恵を絞りました。これは素直に謝ろう!!それで車に乗る前にドアの所で私は先制攻撃に出ました。実は東京の友人の所に遊びに行ってさっき帰って来た所なんですが時間が無くてマニキュアを落とす事が出来ませんでした。先生はこれを見て不愉快に思うかもしれませんがどうか許してやって下さい。するとどうでしょう!渋カッコイイ恐い笹原マスクがマスクの下でにやりと笑ったのです!!!ほ~~~~っと安心したのと同時に私の心の中では「笹原マスクが笑ったよ! 笹原マスクを笑わしちゃったよ!! あの笹原マスクを笑わしちゃったよ!!」と転げまわらんばかりの有頂天さでした~~♪♪♪勿論実技は普通に行われOKの判子を頂きました。そしていつものごとくに待合室でキャンセル待ちに入りました。そこでは私の自慢話に花が咲きました。「あの笹原マスクを笑わしたよ!!」そして事の成り行きを話し、黒い爪を自慢げに皆に見せたのは言うまでもありません\(*^0^*)/そのようにして「自動車学校の娘」と言われた私は武勇伝まで付け加えたと言うアホな思い出です(_≧Д≦)ノ彡☆
August 13, 2006
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●私のバイク遍歴●ギタークラブの部長から私がどんなバイクに乗っていたのか?という質問をいただきました。長くなるのでブログに載せます。以前からバイクの事はちょこちょこ書いていたのですが遍歴記録として残しておくのも良いかな~と思いました。期間限定で私とどわぁい好きなガンマの写真も載せます。(私はブミに写ってますだ)最初に乗ったのがヤマハTY50cc。黄色で可愛かったです。(空冷・2サイクル・私はこれでバイクにはまりました)2代目がホンダのTL50。(空冷・4サイクル・白青?)(中古で買ったら、あちこちボロくて 走っている最中にクラッチのコードが壊れて 危なく事故る所でした)3台目が今の夫から借りたカワサキZ400FXE2。(空冷・4サイクル・ミッドナイトブルー)(11月18日の日記右側に写真が載ってます)重くて重くて、力自慢の私でもよく立ちゴケしました。4台目が夫から借りたスズキハスラーTS80ccで (空冷・2サイクル・赤)(これが大好きでした~♪)5台目がスズキのGSX250Eで(11月18日の日記左側に写真が載ってます)(空冷・4サイクル・ブルー)6台目がスズキの初期型RG250ガンマだす。(10月15日の日記に写真が載っています)(水冷・2サイクル・ブルー白)新婚旅行もこれで行きました。宮城県で最初の5台のうちの1台です。チラシを見て一目ぼれして予約しました。宮城の女性では私が最初だと思います。他にも夫のバイクを何台か乗りました。多分、十台くらいは乗った事があると思います。おもに通勤に使いました。他にツーリングに行きました。大勢で行った事は2回くらいしかありません。ほとんど単独行動でした。東京にもガンマで行きました。後は独身時代に夫と2人で何度かツーリングしました。北海道への新婚旅行で筋肉は倍増して腕がムキムキになりました。菅生スポーツランドの講習を受けてレースコースを走りに行った事があります。ガンマで行きました。ガンマは私の分身みたいに気が合いました。でも、走る直前にプラグが不調で中止して見ていたら途中でコケた人がいて、後続車も何台か巻き込まれて転倒しました。頭を打った人が担架で運ばれて来て眼の前を通り過ぎました。その人は頭蓋骨の中で脳が動いたらしくその後、亡くなったそうです。私はドン臭いので前で転倒したら絶対巻き込まれていたと思われプラグの不調に助けらたとすごく思いました。普段はしょっちゅうプラグがカブって掃除で泣かされていたのでしたが。そんなこんなの単独ツーリング好きの化粧もしない女の子でした。ヘルメットを取るまで女だと思われないのでした。運動会で走るといつもビリだった私はガンマで走るとダントツでした。気持ちが良かったです~~~♪そうですね~、右肩を治して体力を付けてまたバイクに乗りたいですね。50ccなら乗れるかもしれません。ああ~バイクの事を思い出すとニヤニヤしちゃいます~~\(*^0^*)/
July 4, 2006
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先日、娘と話していた時に「ピンチ」だった事を記憶していると言うので驚きました。話になった二つの出来事は彼女がまだ赤ちゃんだったのです。憶えているんですって!一つ目は娘が1歳半の頃です。ピー(娘)は車に乗っても絶対寝ない子でした。眠くてもどんな時でも、ぎらぎらと起きているのです。寝かしつけるのが大変でした。息子は逆に夜鳴きすると車で走れば寝る子で、とにかく車に乗っていればご機嫌でいつもころっと寝ました。それで初夏のある日に家に帰り着いた時、とても珍しくもピーが車の中のチャイルドシートの中でころりんと寝ているのを見た時、これはしめたぞ!!!と思ったのです。でも、寝付いたからと言って抱っこして家に連れ込もうとするとその時点でピーは起きてしまうのでそのまま寝かして置こうと思ったのです。それで窓を三分の一ほどあちこちを開けてサンシェードを東と南の窓に貼り付けて、念のために車の日よけで押さえにしました。そしてしめしめと私は家に入り、優雅に家事を始めたのでした。そうでよ、赤ちゃんのいる母親なんて自分の事はおろか、家事だってのんびりしていられないんですから。危なくて、片時も傍を離れられないんですから。始めは10分置きに見に行っていたのですがそのうちに一人で家事をする快適さにピーを見に行くのをちょっと忘れたんですね。それで20分後くらいに見に行くとサンシェードが落ちていてピーの白くて柔らかい太ももが真っ赤になっていたのでした!!!あせった私はピーを抱きかかえてお風呂場に直行してピーの太ももに真水をザーザー掛け続けました!ピーはその間、ギャーギャー泣いていました。勿論、軽度の火傷である所の太ももが痛いのではなく、気持ちよく寝ていたのにいきなり真水を足に掛けられて冷たいやらショックやらで泣いていたのでした。あくまでも今、思えばなんですよね。その時はピーに火傷をさせてしまった!!とあせっていたのです。もっとひどい火傷をした事があるので火傷には敏感だったのかもしれません。まあ~7分くらいの修羅場を終えると自分が取り乱していた事に気付いたんですが赤ちゃんが相手だと冷静になるのは難しいです。ピーは、その時の事を憶えているんですって。「冷たかった」「ビックリした」憶えているんですって。すみません、至らなくて(- -ヾ寝ない子が寝て、ちょっと楽したかったんです。(^^; もう一つは、やはり1歳半の頃です。あれも夏前頃だったと思います。日曜日に用事があって皆で出かけようとしていたのですが、その前にお昼を片付けておこうと台所で私が作業をしていました。6歳の息子は私の手伝いをして一緒に台所にいました。夫は昼寝をした直後で、ボーっとしていました。台所の隣りの脱衣所では全自動洗濯機を廻していました。すると、脱衣所から何か聞き慣れない音がしたような気がしました。「ラーさん洗濯機を見て来て」と息子に言うと、息子はすぐに見に行きました。そして大慌てで戻って来て「お母さん大変だ!!!」叫んだのでした。慌てて見に行くと、全自動洗濯機の蓋が開いていてそこから二本の足が逆さまに突き出ていて、洗濯機の動きと一緒に右にぐりん左にぐりんと回転していたのです!!!その様は「犬神家の一族」の湖から突き出た二本の足を彷彿とさせる物でした!!!ギャーーーーーッ!!!!ヽ(≧Д≦;)ノピーが洗濯機に頭から落ちて廻っている!!!!:w|;゚ロ゚|w :w|;゚ロ゚|w :w|;゚ロ゚|w 私はすぐに足首を掴んで引っ張りましたが重くて持ち上げられる物ではありません!!!ヽ(≧Д≦;)ノ今度はピーの足首を肩に乗せて両腕で足を押さえ込んで全体重を私の肩に掛けてよいしょ!と一気に引き上げました。上手く行きました!!!びしょ濡れの娘が現れ、ぎゃーーーーーーッ!と泣き出しました。泣くのは良いぞ!と思いました。次にどうして良いか分からず、まずは息子に「お父さんを呼んで来て!!」と叫びました。息子は事情を察して走り出しました。その頃夫は車に乗り込み、出掛けるために私達を待っていたのです。私は悩んで、とにかく服は着たままでまずは頭から暖かいシャワーを掛けました。泣き叫ぶ娘に構わず、とにかく石鹸を洗い流して服を脱がせました。どこも何ともないようです。そこに息も荒く息子が戻って来て「お父さんが遅いって怒っている!」と叫び、なんと出掛ける準備の物を持って車に戻って行ったのでした。呆然自失デスヨ。(゜ロ゜)!!!!!!なんのこっちゃでしたよ。(T◇T)助けてもくれないのかと驚きでしたよ。見捨てるのかと思いましたよ。夫は息子を連れて、私と娘を置き去りにして最初の予定の所に出掛けて行きました。ふん。後で息子に聞いた所、息子はあせって裸足で外に飛び出して行ったのに夫は「遅い!!何してんだ!」と怒ったんだそうです。「ピーが洗濯機に落ちた!」と言ったら「さっさと荷物を持って来い!」と叫んだそうです。ふん。私は娘を洗い流して乾いた服を着替えさせてから一人で考えました。そして日曜日だったので日曜診療所の電話番号を探してドクターに事情を話すと洗濯水を飲んでいるかもしないので牛乳を飲ませて胃腸を保護してから、とにかくいらっしゃいと言われました。診て貰いましたが、肺からは濁音がしないので多分洗濯水が肺には入っていないだろうから大丈夫でしょう。でも念のために今日は様子を見ていて下さいと言われました。洗濯水が肺に入ると肺炎になるかもしれないんだそうです。病院から帰ると出先の夫から電話がありました。「何か大変だったんじゃない?」とか何とか。そんなボケた電話でしたよ。命だって危険だったのに。私がすぐにピーを引き上げられたから良かったもののもたもたしていたら一大事だったんですよ。なのに「寝ぼけてたんじゃないかと思うよ。後でじわ~っと来た」と言うんですよね。ふん。本来の姿を見た!とか思いましたね。予定の方が大事なんですかね。とかイヤミの一つも言いたかったです。しかも後であれは危険だったんじゃないか?と気付いたら家に戻ってくるべきなんじゃないでしょうか?息子は事の重大さを理解していたものの父親には逆らえなかったんですよね。ふん。この恐ろしい出来事もピーは憶えているそうです。シャワーがお湯になる前の冷たい水を頭から掛けられてショックだったそうです。洗濯機の中でどうだったのかはっきりしていないのかな~~?この点でピーが「違う」と言ったら追記します。赤ちゃんを育てる時には思いも掛けない色んな事件があります。全自動洗濯機は深いので洗ったものを篭に取り出す時に楽なように、洗濯機の近くに丸椅子を置いていたんです。ピーはその椅子を引き寄せて洗濯機の中を見ているうちに中に落ちたらしいです。勿論その丸椅子はすぐに撤去しました。どこに危険が潜んでいるか解らないですね。ああ~今思い出しても恐い情況でした。犬神家の映画を見る度に娘の逆さまに突き出た足を思い出します。皆様もおさおさ怠りの無いようにご注意くださいましm(_ _)m●私の好きな窓辺●いつも私の真向かいにこの窓があります。もっと光に満ちています。蘭もセージもローズマリーも綺麗なシルエットです。
June 13, 2006
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昨夜の雨が上がり、天気が回復して来たのでごみ収集所の掃除をしたり洗濯物に光と風が当たるように広げたりしていると近所で年配の婦人の話し声が聞こえて来ました。しばらくするとリュックを背負った70~80代の人の良さそうなお婆ちゃんが現れました。「ふきとわらびを すぐに食べられるようにしたの 買ってけさいん」と言いました。『けさいん』という言葉使いは北の田舎の方のお婆ちゃんと思われました。一軒一軒訪ねて歩いて山菜を売り歩いていたのでした。この辺はこんな売り歩きの人がよく来るんですよね。米買わないか。リンゴ買わないか。漬物買わないか。あさり買わないか。パン買わないか。イッパイ来るんですよ~~。遠い所から来るんですよ~~。色んな人が来るんですよ~~~。弱いんですよ、私。遠い所から知らない土地に来て一軒一軒訪ねて物を売っている人なんて気の毒で痛ましくなって同情から買ってしまいそうになります。でも、食べ物を知らない人から買うのはちょっと恐いんですよね。何があるか分からないし、責任も取って貰えないし、連絡も取れないし。それで最近は包丁研ぎの方以外はみんな断わっています。以前はこれが出来ませんでした。断わるのが全く出来ませんでした。布団を買わされそうになったり、排水管掃除をされそうになったり。それで思い出すのが、小学6年だったか5年の時に行った遠足の事です。山形の小学生はその年代の遠足はみんな松島に行きました。当時の松島には今のようなシャレた船は無く、小さな漁船のような船に10人くらいずつ乗って松島湾の中の島に行きました。その頃は公害が問題になっており、川や海に何でもて垂れ流していた時代なので一見美しい松島湾は鼻がもげそうなどぶの匂いがしました。吐きそうになりながら小船に揺られて行くと小さな島に着いたのですがそこの浜に行って海を見ていると小さな縮んだお婆ちゃんがワカメを持って「ワカメ買わんか~」みたいにやって来たのです。それを見た私は気の毒になりワカメを買いました。次の島でもお婆ちゃんがやって来て私はワカメを買いました。それで松島の観光に行った時には少ないお小遣いは消えてしまっていました。つまり私はお小遣いを全部ワカメで使い果たしてしまったのでした。夜に家に帰ってリュックから大量のワカメを出した私を見て、そして他には何も買わなかった事を知って意地悪婆さんで誉れ高い((((((^m^)私の祖母のおゆうさんが「ありゃ~~~むつこいごど~」と同情してくれたのでした。『むつこい』とは山形弁で「可哀想」と「可愛らしい」が合体したような同情の言葉です。あのおゆうさんが私に同情してくれた!!内心驚いていました。この人にも同情心なんかがあったのだと新発見をしたような気持ちになりました。そして、可愛いものを何一つ買えなかった私の惨めさがその一言で随分慰められました。だから、とっても印象深く記憶に残っています。私って断われない人なんだとつくづく思うんです。その後もそんな事だらけでした。ひどい経験を沢山重ねてようやく自分を大事にするためには断わるべき時には断わらないといけない、ととても思う今日この頃です。気付くのが遅いワタスです。(- -ヾ(- -ヾ(- -ヾI先生のカウンセリングを受けていて見えてきた事の一つにこの、断われずに他人を優先してしまうクセの理由として子供時代に親に受け入れて貰えなかった人は自分を自分で受け入れる事が出来なくて自分よりも他人を優先してしまうのです。自分は我慢する存在であって自己主張なんかしてはいけない、と思っているらしいんです。そこの所を自分で意識していかないといけません。自分に刷り込まれてしまったクセを意識して自分を大事にして行きたいと思います。断わらなければいけない時に断われるようになるぞ==!!!\(~o~)/●下手くそ写真集●昨日は朝からパニック症状がでて調子が悪くて半日何も出来ず、午後から頑張って花を植え替えたり外の掃除をして頑張りました。すると私のメル友のよん様から宅急便で荷物が送られて来ました!!! そこかしこによん様の遊び心と優しい気遣いが溢れたものでした~~~♪メールが来なくなって私は過去の人なのだろうと勝手に諦めていたのでした。ああ~~~踊りました~~♪うれしぃ~なぁ~~♪中身はCDやビデオやお菓子や手紙でした。ありがた~~く頂きますm(_ _)mそれで夜は浮かれて庭のヨモギを天ぷらにしてついでにあれこれ揚げました。また大量になりました(- -ヾ ヨモギは香りは良いのですが苦味と硬さが出て来ました。今年はこれでお仕舞ですね。庭のレモンタイムをお茶にしました。 同じものでもカメラの設定でこんなに違うんですよ~。今日のプラティア・ホワイトスターです。 こちらはプラティア・ブルースターです。匍匐性です。可愛いです。5ミリくらいの花です。 これが娘が小さい時に見つけた「謎の花」です。 接写の設定にしたのに、すごくボケボケです(- -ヾ直径1センチくらいの青い花です。手前のボケているのが「謎の花」で右がホワイトスターで左がブルースターです。 鉢の中がブルースターで、手前のボケているのが「謎の花」です。 駐車場の一角です。 ホワイトスターが右に、ホワイトスターの中に混じっているのが「謎の花」、ブルースターが真ん中の右に、真ん中の赤い花は娘が気に入った「ダイコンソウ」です。初めての花なのでどうなるか様子見です。そして寛ぐく~たんです。
May 30, 2006
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今日は何も浮かんで来ません。頭がとっても悪いです。何もしていないのにすごく疲れています。それで先日撮った写真の話をします。あれは息子が2歳前の頃の夏の昼下がりでした。仙台のとあるミルキー○ェイで親友K子ちゃんとK子ちゃんのお母さんの4人でランチを頂きました。おいしく頂いた上にK子ちゃんおお母さんにご馳走になってしまい楽しい気分で店の表で分かれました。K子ちゃんの車は店の表の駐車場に止めてあったのです。私はその頃、軽のワンボックスワゴンに乗っていました。 この古い形です。スズキのジョイポップと言う荷物を沢山載せられる車です。軽でも背は高い車です。それで店の裏にある広い駐車場に車を後ろ向きに止めていました。すぐに前進出来るように前向きに止めていました。真夏のカンカン照りの昼下がりだったので私は車の中に乗らずに、外から鍵を掛けてエンジンスタートさせて蒸し風呂常態になった車の中を少し涼しくさせてから乗ろうと思ったのです。その頃はクラッチを踏まないとエンジンが掛からないと言う事は無く、キーを差し込んで廻せばエンジンは掛かったのです。車の右側に立って車の中に半身を入れてエンジンを掛けた所、何故か車がガックンとバックしてタイヤが私の足の上に乗って止まってしまったではありませんか!!!(||゚Д゚)ヒィィィ(゚Д゚||)(||゚Д゚)ヒィィィ(゚Д゚||)どうしたの?これは一体!!!良く考えてみるとそこの駐車場は建物の近くが斜めに高くなっていたので後ろ向きに止めた時にギヤをバックに入れていたのでした。用心のためにバックギアを入れたのですのにすっかり忘れてしまっていたのです!!それでエンジンを掛けると一旦掛かるもののエンストを起こすわけですよ。一旦エンジンが掛かった時に私の足の上に乗っかりそしてエンストした、と言う訳です。でも足に乗っかったとは言っても真上ではなくてちょこっと左足の上に乗っかっていただけなんです。「あらやだ」なんて笑いながら余裕で足を引っ張ってみたんですがこれがちょこっと乗っかっているくせにビクともしないんですのよ!!!ちょっと焦りだしてまだ幼少のみぎりの息子っちに「誰か人を呼んで来て!」と言ってみましたがそれはそれ、いかに屁理屈大王でもまだ幼くて状況を把握出来なかったんですよね。多分息子っちはお母さんが楽しそうに叫んでいるようにしか見えなかったんですね~~♪ニコニコしていた息子っち。それで誰かに助けてもらおうと周りを見渡したのですが、広い駐車場の向こうに作業場や車庫などが沢山あるのですが昼時のせいか人が見当たらないんです。しかも国道沿いなので車がブンブン走っていて私の声なんかはどこにも届かないんです。そう、一応叫んでみたんですが私の声なんかかき消されてしまいました。焦った私はハンドルブレーキを外すと車は前に進んで足から離れるんじゃないか?と思って左足をタイヤに乗られたまま身を伸ばしてハンドルブレーキを外しました。所がどっこい!!そう、こんな昔の言葉を使いたくなるような状況に陥ってしまったんですよ!!なんとハンドブレーキを外したら車はもっとバックしてしまったのです!!!だってバックギアに入ったままんですもん。(゚Д゚;)しかも何故だか左足の真上で止まってしまったのです。今度は笑う余裕はありません!!すぐに足の甲がギーーッ!と痛くなりました!!!||( ̄□||||これは本気でヤバイですよ!これは汗汗の冷や冷やですよ!!ヽ(゚д゚ヽ)トッ!!(ノ゚Д゚)ノテモ!!また辺りを見回しましたが人影は無く、10メートルほど先を走り抜ける車の人たちは私なんかに気付くわけも無いんです。だって私は車の陰になっていてタイヤに乗っかられて見えませんから!!(_≧Д≦)ノ彡☆(_≧Д≦)ノ彡☆うううううう、今度は本気で無い知恵を絞りました!考えに考えて、右手でクラッチペダルを押しながら左手でギヤをロウに入れました。そしてまたもやエンジン点火!!!車はエンジンが掛かり今度は前方にガックンと移動してエンストを起こして止まりました。ほ~~~~~っ。足は骨折もせず、何とか事無きを得たのでした。その間、息子は何もない広い駐車場で楽しげにのびのびと走り廻っていました。するとこれは凄いネタだ!と私は思い夜に帰って来た夫に笑い話として楽しく話をして笑いました。これで終わったら笑い話で済んだんですよね~。(‐‐ヾ翌日、外に出て朝陽を浴びた車を見て夫は私にこう教えてくれました。「バックドアの上がヘコんでるよ」なんだろうか?と見に行くとバックドアの左の上の方にボッコリと凹みが出来ておりました。。。。???!!!!!!そう言えば、私がバックで止めたミルキー○ェイの屋根に飾りの長い棒のようなものが沢山突き出ていたのでした。つまり、私の左足の真上で止まったのは屋根から長~く突き出た棒に車がぶつかったためだったと言う訳です。(TT)そうしてバックドアを直すために結構なお金が掛かってしまって笑い話で済まなかった。。。と言うオチなのでした。(^^ゞ勿論それ以後はエンジンを掛ける時には幾ら暑くてもしっかり乗り込んで掛けるようになり、障害物が上にもないかをしっかり観察するようになった私です。 何故か雨どい部分に突き出ていた棒がなくなってしまった最近のミルキー○ェイです。先日、夫の車に乗って仙台に行ったので私は珍しくも助手席に乗っており思い出の場所の写真を撮ったのでした。ふん。
May 28, 2006
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一人暮らしで栄養失調になった話私が大学を卒業して看板屋さんで修行奉公?に困難を覚えていた頃、(それにも事情があるので、またいすれ)何を思ったのか、母が急に弱気になって家に連れ戻されました。呼び出されて実家に帰ると親族会議が待っていたのでした。私を真ん中に置いて両親の他に母の弟2人と妹などが私を責め立てました。「母親の体が弱いんだから家に帰って来て 親の面倒を見ろ!」みたいな内容でした。あれ、おかしいなぁ~~?私は小さい頃から「子供は家を出て行くものだ」「子供はいつか家を出て行くから生活力を付けろ」そんな事を母に言われ続けて育ちました。だから今更そんな事を言うのはおかしい、と思ったのですが、その頃は自分の気持ちを上手く話せなかったので渋々実家に帰りました。帰っても親とは色々ありました。すると、始めに勤めた看板屋さんで間借りをして独立した人から自分の仕事場を持ったので手伝って貰えないか?と言う打診が来た時に渡りに船とばかりに半年後に無理矢理家を飛び出しました。そして仙台に舞い戻って来たのですが、やりたい事は沢山あって、食事は二の次三の次になっていました。昔は食事に対して、今のようにいろんな知識があるわけではなくしかも私は食べ物に対して全く興味が無かったのでした。それで朝はマーガリンをつけたトースト。昼は近所の店で買った菓子パン類。夜はインスタントラーメン。と言う野菜を全く摂らないひどく偏った食事をしていました。とりあえずお腹がイッパイになれば良いくらいにしか考えていませんでした。半年くらい経った頃に精神的に不安定になり出し徐々に体の具合が悪くなって行きました。夜に眠れなくなりました。手がしびれて来ました。足が脚気になりました。視野が狭まりました。ひどく具合が悪くて何もできなくなりました。具合が悪くなった頃に内科の病院に行ったのですがどこも悪くないと言われました。どこがどうなっているのか分からなくて混乱していました。漢方薬店に行ってマッサージをしてもらったり、ニンニクエキスを飲んだり、色々とあがいてみました。でも食事には思い至りませんでした。向かいのお婆ちゃんが雑炊を作ってくれた事もありました。思えば隣人には恵まれていました。他にも仲良くしていた近所の人が心配してくれて食べ物を持って来てくれたりしました。そのうちに光が辛くて昼もカーテンを閉め切るようになりました。人に会うのが辛くなりました。頭の中を「死ぬ」が巡りました。だるくて気分が悪くて何もしなくなり、仕事が出来なくなりました。沢山の友だちが心配して尋ねてきてくれました。でも何を言われても心には届かず、悲しみと惨めさと無気力に支配されていました。説教されると益々殻に閉じこもりたくなりました。近くに山崎君と言う同じ年の友だちが住んでいました。彼は1年浪人して1年留年していたのだったか、2年留年したのだったか、私が働きだして2年目の時に大学4年生でした。教育大学に通っていて教師になるのが夢でした。山崎君の彼女も同じ学年で2人でいつもおしどり教師を目差していました。山崎君は子供が大好きで、幼稚園に行っては色んな事をしていました。私が鬱状態で部屋にこもっていた時、時々やって来ては子供達の話をして行きました。そう、説教でもなく説得でもなく子供の話をして行きました。それはとても楽しそうな話でした。何しろ教師になりたい人が幼稚園に行って子供達の反応のあれこれを喜んでいるわけです。それをうれしそうに私に報告してくれました。「容量が同じだけど、 見た目が縦長の容器と横に平べったい容器を見せて 子供達に聞いてみるんだ。 どっちが沢山入ると思う? すると子供達は背の高い方を選ぶんだよ。 それで同じ入れ物から同じ量の水を入れると 同じ量の水が入るから 子供達は大騒ぎをするんだよ。 どうしてこっちの方が溢れないのかって。 面白いだろう?」紙に図解して私に説明しながら山崎君は楽しそうにしていました。以前は尊敬していた人や仲良しの友人達が私に説得に来てこんこんと話をしても苦しいばかりで心にさっぱり響かなかったのに、山崎君の子供達と接して楽しかった話は心に染み込んで暖かい思いをさせてくれたのでした。今思えば、山崎君は私を心配していても直接話をするのが苦手だったのかもしれません。それで子供達の話をしたのかもしれません。気持ちがほぐれた私は具合が悪くて働けないのでこのままではお金が無くなって来て餓死するしかないかな~と話をしました。すると山崎君は「じゃあ家に帰れば良い」と実にあっさり言いました。家に縛り付けておきたかった親を振り切って家を出て来たのでもう帰れないと思っていたため家に帰るなんて考えもしていませんでした。「ああ、そうか。 そう言えば私には家があったんだ」言われてようやく家の事を思い出したのでした。そのままでは餓死するしかなかったので次の日に家に帰りました。熱が39度以上ありました。その頃は熱が出たまんまで下がりませんでした。ふらふらしながら電車に乗ると、向かいや斜め前にいた行商のおじさんやおばさんたちがとても心配してくれました。おにぎりやバナナを私に持たせようとするのです。私は見るからに具合が悪かったと思います。意識も余り無かったのです。モウロウとしながら事情を話すと、おじさんとおばさん達は自分のジャンバーを私に掛けてくれました。そして優しく声を掛けてくれて励ましてくれました。私がモウロウとしていると「大丈夫かな?」「心配だな」とおばさん達が話している声が聞こえて来ました。私は自分の親から優しく看病なんかしてもらった事が無いので涙が出てきました。とってもうれしかったです。忘れられない思い出です。なんの見返りも要求しない純粋な親切を沢山頂きました。そうしてようやく家に辿り着いたのですが勿論親は「何しに来た」と言う冷たい眼差しでした。だから尚の事、電車の中での行商のおばちゃんおじちゃんたちの優しさが忘れられない素晴らしい思い出になりました。そして無骨ながらも心配して時々来てくれた山崎君の優しさも忘れられません。その後、私は丸一週間寝込みその後も半年間寝たり起きたりをしました。魑魅魍魎をみたり、毎晩金縛りに合って朝にならないと恐くて眠れなかったり、私の生活は滅茶苦茶だったので、勿論母の態度は最悪でした。でも生き永らえさせてもらったのは実家があったからなんですが。針の筵での生活を耐える時行商のおばさん達の優しさは支えになりました。それから半年かけてようやく元気になり私は行動を始めたのでした。よくよく考えてみると病気になるための食事生活だったのです。あれからは、いくら貧乏でも野菜やたんぱく質を考えてバランスの取れた食事をするようになりました。栄養のバランスについては私は今じゃうるさいですよ~~~~~。一人暮しの皆さん。是非とも野菜、納豆、豆腐は食べて下さいね!!!脚気を侮ってはいけないですよ。脚気で死ぬんですからね。手間隙掛けても栄養のバランスの取れたものを食べましょう~~!!!脚気と栄養失調による鬱病を経験した昔の若者の記憶話でした。
May 16, 2006
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どこに危険が潜んでいるか分からない話ヽ(。_゜)ノ自己啓発のための精神掘り返しと言えどもキツイ事を考え続けるのはシンドイので、今日はちょっとビックリした話しを書きます。あれは12年くらい前の事でした。私は父の入院のお見舞いなどをして実家から車で家に帰る途中でした。山形から48号線で関山峠を通って広瀬総合運動場から左に折れて山の中に入り芋沢・赤坂・みやぎ台・小角・実沢と通って泉中央からイト-ヨー○堂の北側向かいの細い裏道に入りました。と言ってもその道は途中からバスが通る昔からの道になるので結構車は沢山通っています。でも信号が少ない道なので以前はそちらの裏道を通っていました。ところが細い道なので、バイパス(片側3車線かな?)を跨ぐ信号が短く、いつもそこで信号待ちをさせられて延々長蛇の車の列が出来ているのです。その信号さえ抜ければ白百合短大・鶴が丘・県民の森の下を抜けてするすると走り抜ける事が出来るんです。それでみんな我慢の忍の字で耐えているんですよね。何十メートルも前からちょこっと移動して待ち、ちょこっと移動して待ち、じりじりじりじりと信号渋滞を7分8分と耐える道なんです。バイパスとの交差点の左側にはパチンコ屋さんがあります。奥にお店があり、道路までの10メートルくらいの敷地と道路の右側が駐車場になっていました。その店の手前の駐車場は道路際までぎりぎりに車が止めてありました。私は車に娘と息子を乗せていました。多分娘は1歳で息子は6歳くらい?小さい子を乗せての長距離は荷物が増えて世話も忙しいのです。オシッコと言いだしたり、お腹が減ったとぐずったり。だからじりじりしながらもようやく先頭から3番目にたどり着き、次回の青の時には通り抜けれるかもしれないと一安心の状態でした。そして前を見ていると視界の端を何かが動いて行った気がしたのです。え?と左のミラーを見るとうちの車の左後ろ側に白い乗用車が後ろ向きに斜めにぶつかって止まっているではありませんか!!!!!:w|;゚ロ゚|w Σ( ̄□ ̄;:w|;゚ロ゚|w Σ( ̄□ ̄;ガーーーーン!!!!ですよ!ビックリ!!!ですよ!!一体、何がどうなったのかさっぱり分からなくて混乱のパニックですよ!!わーーっ!!と外に出てアセアセで見ると驚いた事にギリギリうちの車はセーフだったんです!その距離は10センチもありませんでした。6~7センチと言う本当にギリギリの所でうちの車は助かっていたのです!!!それでも事情が解せ無くてキョロキョロ見るとその白い乗用車はどうやらパチンコ店の駐車場に止めてあったもので、多分ハンドブレーキが甘かったか忘れたかでスルスルスルとバックして来て私の後ろの車の左フロントにぶつかって止まった、と言う訳でした。パチンコ店の駐車場は道路より高くなっていました。ハンドブレーキを忘れたら道路に落ちてくるんですよ~~~~。私はギリギリで助かった己の車にほっと安心したもののギリギリでぶつけられてしまった後ろの人がとっても気の毒になって思わす運転者を見るとその方は40~50代の男性だったのですがもうすっかり諦めきった顔で私を見ると「良かったね、助かって」と言ったんですね~~~~~。うおお~~~~!!!ゴメンナサイね~~~。ギリギリで助かってしまって。ゴメンナサイね~~~。私が助かってしまったためにあなたを被害者にしてしまって!余程私は呆然としていたんでしょうね。黒っぽいバンに乗っていたその男性に皮肉っぽく慰められた私?でした。その方はきっと、白い乗用車がスルスルとバックして来るのを見てあっと思いつつも止めるに止められずに前の車に来るかな?自分の車かな?と思ったていたら自分の車にぶつかっちゃったよギリギリで~と言うなんとも言えない気分でいたんでしょうね。ああ言うのを「諦観」と言うのじゃないかと思いましたね~~。どうしようかと思ったんですが、情況は一目瞭然でしたし、信号は青になって前の車が動き出し、後ろには延々と車の列が並んでいたのであせってそのまま走り出してしまいました。危うく私が被害者になる所だったので今思うと、残って警察を呼んだり店に知らせたりと手伝いをしてあげれば良かったかな~~と反省してます。どうも頭が固いので突発的な出来事には弱い私です。(- -ヾ皆さまも、目は後ろも前も横にまでもおさおさ怠り無く用心しましょうね♪(*^_^*)赤い矢印の所が問題の交差点です。
May 6, 2006
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一度だけ、K子ちゃんを泣かせてしまった話。昨夜、気圧の谷に打撃を与えられて何とか回復しつつ気力で頑張って晩ご飯を作っていたら何故か学生時代に命の恩人のK子ちゃんを泣かせてしまった事を思い出しました。あれは深夜に二人だけでK子ちゃんの部屋にいたので、多分大学3年生の頃です。どうしてその話になったのか憶えていないのですが、親が死んだらどうするかと言う話をしていたんです。私は「死んだんだな~と思いつつ生きて行くよ」と言ったら、K子ちゃんはビックリして「え~~っ!私だったら 親が死んだら生きて行けないよ==!!! どうしてMYちゃんは 平気そうに生きて行けるの?!!」と大騒ぎをしました。私はケソッと言いました。「別に事実を受け入れるだけだよ」K子ちゃんは益々興奮してしまいました。「親が死んでも平気なの==っ!!?」「経済的に大変だろうけど、 ああ死んだんだなと思って生きて行くよ」と言ったらK子ちゃんは泣いてしまいました。「ひどいよMYちゃん! 親が死んでも悲しくないの?!!」泣きながらK子ちゃんは私に訴えていました。その頃の私は親が死んでも平気だと思っていました。高校3年まで箒の柄で殴られていましたから親への敬愛とかはありませんでした。自分の思いどうりに育たなかったからと言って子供は口で言っても理解出来ないからと言って高校生だった私に正座をさせて母が殴るわけですが、手で叩くと痛いと言って箒を持って来て柄の方で体を叩く訳です。絶対、親の前では泣かないと決めていたので親の前で泣いた事はありませんでした。逆に本気で睨んでいました。唯一の私の感情表現だったと思います。ずっと睨んでいると母は益々興奮するんです。「お前のその目付きが憎らしい」と言って箒の柄で殴るんです。敬意なんて生まれません。憎しみしか生まれません。話し合いはありません。親が良いか悪いかで総てを決めるので私に決定権がありませんでした。私は人を攻撃するタイプではないので睨んで心から軽蔑するしかなかったのです。だから親が死んでも平気だと思っていました。私を何一つ受け入れてくれず、認めてもくれず、褒めた事も一度もありませんでした。K子ちゃんは親と仲が良くて愛されて育ちました。K子ちゃんのご両親はよく遠方から出て来て食べ物を差し入れていました。段ボール箱に色んな野菜や食べ物を詰めて来ました。そして貧乏な私達にも快く分けてくれました。家に皆で遊びに行くと、心から歓迎してくれて一緒に出かけたりしました。だからK子ちゃんが泣いたのも頷けるものでした。ああいう優しくて子供の心を大事にしてくれるご両親の下で育ったので当然だと思いました。K子ちゃんは愛されて、受け入れられて育ったんだと思いました。正直、優しい親しか知らないK子ちゃんに何を言っても通じないだろうと思いました。向かい合って話をしているのにとても遠くにK子ちゃんがいるような気がしました。K子ちゃんとは違う世界で生きて来たような悲しい気持ちになりました。そして同時に親と闘わなくてはならなかったのでまだまだ私の心は尖っていました。高校生の時、廊下の窓越しに外を見ながら友達に「昨日のアザ」を報告していた記憶があります。「今度はここにアザが出来たよ」と言って脇腹を見せていました。日常的な一コマで、誰も驚かなかった記憶があります。その頃の私は自己表現が下手で自分がどんなに惨めかを話す事が出来ませんでした。いつも言葉を飲み込んでいました。話す前に諦めていました。K子ちゃんにも自分が何故親の死を平気に思うのかをちゃんと説明しませんでした。ただ黙っていたのでした。多分、子供の頃から黙っている事に慣れていたのだと思います。私が6歳で母の実家から家に戻った時既に弟が我が物顔で振舞っており、私の意思を表す所はありませんでした。家で一番権力を持っているのは祖母で反対勢力の中心に母がいて、その中でも威張っていたのが弟でした。その母も今や認知症になって私に甘え、弟は相変わらず自分が正しいので言う通りにならない母に苛立ち、母は弟を急に恐がり出して私に電話を寄こす訳です。ようやく私は体調を崩した事で頑張ってせっせと実家に通うのを止める事が出来ました。いつも我慢する事が身に付いていたのでしたい事は我儘な事で、しなければいけない事をするべきだと思い込んでいました。今もその呪縛からは溶けていません。気が付くと自分を責めています。いやんなっちゃいますね。関係は年齢と情況によって年々変わって来るものです。今ではK子ちゃんも病気のお母さんの看病を長年続けて、自分の病気も抱えて大変な毎日です。愛されて育ったK子ちゃんは優しかったお母さんが認知症になって性格が変わって来たのを毎日見ながら看病しなければなりません。辛い日々だと思います。片や私も母が違う人になって来た事がとてもストレスになっています。私の母は孫が生まれてから随分丸くなって来て付き合いやすくなっていたんです。日々の変化に付いて行けない自分がいます。二十歳の頃に一度だけK子ちゃんを泣かせてしまった私です。あの頃は自分の気持ちもよく分かりませんでしたし客観的に自分を見る事も出来ませんでした。今ならK子ちゃんもあの頃の尖った私の気持ちを分かってくれるかな~。二十歳の頃に「フォーク愛好会」でやったライブの合間の写真。多分、右側の背中がK子ちゃん。ポスターが時代を物語りますね。
April 25, 2006
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うれしくなかった賞状小学生の時のうれしくなかった賞状の話をすると人の反応は大体3種類に分かれます。1、「ふ~ん」と言って反応のない人。2、「ひどいね」と共感してくれる人。3、「あら、良かったじゃない」と言う人。1、の人は多分、人にあまり興味が無い人。2、の人は私と共感出来る部分を持っている人。そして3、の人が私には分からないんです。分からないので、今から書く事に「あら、よかったじゃない」と思った人は是非に教えて下さい。どこがどう良かったのか、どういう風に思えば良いのか教えて下さい。●小学生の時に貰ってうれしくなかった賞状の話●私の母は努力家で頑張り屋で負けず嫌いでした。父の母に出会うまで、母は恐い人がいませんでした。どこに行ってもバリバリやる人で強気で、自分が一番正しい人でした。字もとても上手です。歌も絵も上手です。私はと言えば、ぼーっとした子供でした。小学1年生の時は知恵遅れだと思われたらしいです。自分の関心のある事しかやる気がなかったからだそうです。所が知能テストの結果を見た母は「やる気さえあればなんでも出来る!」と私を追い廻すようになりました。知能テストの結果が良過ぎたのです。そして、自分の娘のくせに不甲斐ないといつもイライラしていたのでした。母は仕事を頑張っていたので、家でも仕事をしていました。家事に仕事で毎日がてんてこ舞いでした。ですから私の情況なんか母はろくに見ていません。ろくに見ていないのにやたらと注文だけは付けました。優等生で聞き訳が良くて、キチンとしている良い子が母の理想でした。小学生の頃の私は、いつも空が青くて美しいとか雲が白くてふわふわしているとか鳥が飛んで行ったとか鳥の巣はどこにあるんだろうとかそんな事ばかりを考えていました。動物や虫が好きで、一人で歩き廻っていました。家には誰もいないので、一人で楽しく過ごしていました。家に誰もいない夕方は好きでした。家族が集まって来る夜は嫌いでした。あれは小学4年生の頃に芋煮会の絵の宿題を描いていた時でした。テレビのある真ん中の部屋で一人で絵を描いていました。私は細かいものが好きです。線描画や点描画、ジグソーパズルなども大好きです。ですから、私の描く絵はちまちましたものでした。真ん中に鍋を描き、人を細かく描き込みました。川原を描きその周りの雑木林を描きました。そんな風に全体をみっちり描き込みました。すると、たまたま通りかかった母がちまちました私の絵を見て注文を付け始めました。母がいたと言う事は日曜日かもしれません。母はここをこうしろ、あそこはこうしろと注文を付け始めました。私は子供の頃、自分の考えを具体的に言葉に出来なくて人に意見を言う事が出来ませんでした。だから私は母に言われるままにちょこちょこと直していました。すると全体像に我慢できなくなった母は新しい画用紙を出して来るとざっさっざっと大まかな絵を描き始めました。「子供の絵はこういう絵なの!!」母は叫びながらカッカとしていました。それから、すごい勢いで絵の具を塗り始めました。「子供の絵はこういう風に 大胆で大雑把なの!!!」それは画用紙の三分の二ほどの大きさの巨大な鍋と芋煮。鍋を下から攻め立てる凶暴な火。隙間で鍋を取り巻く小さな小さな人間達。ざぁーっ!ざぁーっ!と描き上げた母は最後にまた言いました。「子供の絵はこういう風に大胆なの!」9歳の私は黙って母のする事を見ていました。私も子供なんだけど、と思いながらそのまま学校に提出しました。母が描いた芋煮会の絵なんか忘れた頃に先生から教室で皆の前で言われました。「MYの絵が県の絵画展で入賞したよ」内心参ったと思いましたが誰にも事情を言えませんでした。しかも事はそれだけで済みませんでした。月曜日の全体朝会の時に校長先生から発表があり、名前を呼ばれて壇の上で賞状を渡されました。全校生徒の前で絵の賞状を渡されました。後ろめたかった私は首をすくめ猫背になってもらった記憶があります。体育館の状態も生徒達の様子も全部憶えています。私は本当はここにいる資格は無いと思いました。だってあの絵は私が描いたものではない。母が「子供の絵はこうだ」と言って描いたものが入賞してしまった後ろめたさは皆から「MYちゃんは絵が上手い」と言われる度にちくちくと棘になって私の良心を刺しました。同級生は皆「MYちゃんは絵が上手い」と脳に刷り込まれてしまったので、私は絵が上手いと言う前提で話しが進むのでした。非常に惨めな情況でした。その上、多分自分で絵を描いた事を忘れた母は私には絵の才能があると思ったらしくて5年生になってから山形で行われていた美術教室に通わせました。でも母には何も言えませんでした。母に言い返す事が出来たのは中1の時でした。それまではいつも言いなりでした。母は自分だけが正しいので人の言う事なんか聞く気がなく、思いを言葉に出来ないわたしなんか太刀打ちできる訳が無かったのです。18歳で大学の美術科に入りましたがたまに褒められても「本当に上手いのは母だ」と言う思いがありました。未だにそこから抜け出していないかもしれません。こうして私の心の傷になってしまった母の独走と出来事でした。そこで最初にお聞きした3、の方がいらしたら是非私に教えて下さい。どう考えれば自分が描いた絵じゃないのに「賞状がもらえたんだから良かった」と思えるのか知りたいです。
April 15, 2006
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ギタークラブの部長のK2jogzrさんの所で「きょうせいバトン」に感染しました。見た人は必ずやるように、と言うバトンです。でもやってみたらかなり恥かしいバトンでした。部長!!このバトン恥かしいよーっ!Q1、モテたと思う時期はいつ?大学時代と結婚するまで?あれをもてたと言うのなら高校時代からやたらチカンに合いました。肉感的な体型だったらしいです。(- -ヾ大学時代は始め寮にいたので宮城県の寮連に参加させられました。すると出入りしていた東北大のM寮で「○○MYを育てる会」というのが出来ていてものすご~~~く驚きました。だって高校生の頃は美人に囲まれていたので私は引き立て役だったしね。東京や仙台でやたらナンパされてギョッとした事もありました。私って声を掛け易い安っぽい女に見えるのかと落ち込みました。銀座では清潔そうなサラリーマンに真面目に声を掛けられて必死で断わった事がありました~~(遠い目)その頃はフレヤースカートなんかはいてミュールをはいていたし、化粧をしていたし、痩せていたし、目は大きかったし。(貧乏生活をして貧しい食生活をしてやっと腎臓病の後遺症から脱却した)遠い過去だなあ~~~~。ヽ(。_゜)ノでも、チカンに合わなくなってうれしいです。Q2、似てると言われたことのある芸能人は?24~25歳頃に子役の見栄晴に似ていると言われました。「 欽ちゃんのどこまでやるの!? 」のね。今の見栄晴じゃないよっ!!!言うまでも無く、今の私は別人です。(笑)Q3、恋人を選ぶポイントは?自分が好きになるって事でしょうか。高校生の時に一度、大学生の時に一度、一方的にせまられて付き合った時があるんですが最後にはバッサリと嫌いになっちゃうんですね。私って非情な女にもなれるんだと知りました。基本は、価値観が合わなければ付き合えないし、気が合わなければ楽しくないし。ポイントなんて考えた事もなかったですね。私は自分を知らない人だったんですね。Q4、ここぞという時の香水や服装がありますか?全くないです。あ、大学4年次の時に一度だけ積極的に行動した事がありました。その時は化粧してウエストをギュッと絞ったパンツルックで行ったら普段とのギャップに驚かれて異性として認識してもらったと言う事がありました~~(また遠い目)今は素で生きています。一度だけですよそんな事をしたのは。ずっと素で生きています。Q5、告白されたことがありますか?あれば何人?告白?ん~~~???(考え中・考え中・考え中)言葉に出して言われたのは3人かもしれないです。遠回しとか、人伝てとか、行動でとか流れでとかばっかりでした。でも、付き合って、とか結婚してと言われた事はありますが「好きだ」と言われた事がないです!!!無いです!!!!!少女マンガやドラマを見ると納得行かないのは私だけ?あんなに皆が「好きだ」と言われているんでしょうか?いいなあ~~誰かに好きだなんて言われるって。自分を丸ごと受け入れて貰える感じがしていいなあぁ~~~。これも考えた事も無かったです。何人に告白されたかなんて。Q6、わざとデートに遅れていったことがありますか?無いです。策略を練るとかが嫌いです。そんな事をして人と付き合う意味が分かりません。(ふっ、そんなだから騙されるのさ)これを見た人は感染するそうですが、私の所でウイルスが弱ったためやりたいと思った人だけやって下さい。恥かしかったですが、自分では考えた事がない方向性だったので面白かったです。知らない自分が又見えたような感じです。ありがとう部長!●期限限定写真●ボケ加減がナイスです!一度だけ女性の格好を意識して出掛けたのがこんな服装でした。これにペンダントをしてました。友達が台湾土産?の不思議なペンダントを買って来てくれてVネックの所に下げていました~~(遠い目)21歳の頃の私です。今はこれを見て私に気付く人はおるまい。(- -ヾ追記・写真はお終いにしました。
April 13, 2006
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電源が入ったり入らなかったり、電池が1時間で切れてしまったり、と言う携帯に困り果ててauに出掛けた息子に付き合ってカウンターで座っていた私は、窓から見える青空と白い雲が気持ち良くて子供の頃に一人で行った山の事を思い出しました。●子供の頃、一人で山に行った思い出●私が高校1年生まで住んでいた所は山形市のちょっと田舎でした。山形市は細長い盆地の真ん中にあります。ぐるりを蔵王、月山、出羽山、鳥海山と言った沢山の山に囲まれています。そして山形は平たくて広い所です。私が住んでいた所も平たくて道沿いに家が軒並み並んでいました。田舎の農村地帯ですが、家がぎっしり詰まっていました。昔の道なので狭い道でした。車2台がすれ違うのがやっとの道でした。家が並んだ道から脇道に抜けると畑が続き、その後に田んぼが山に守られるように広がっていました。田んぼを抜けると山がありました。蔵王連峰の端っこにあたります。向って左側に突き出ている小高い山には天辺に小さいお寺がありました。除夜の鐘を鳴らす鐘の堂?がありました。中学3年の時に初めて友達と山に登って山で年越しをしました。その地域では除夜の鐘を鳴らすために沢山の人が山を登って来ました。そこの山は片道15分ほどで上れる山です。そのお寺山の右隣りには「ハゲ山」がありました。粘土質の山で木があまり生えていませんでした。そこには頂上に小さな祠がありました。まばらに生えた松の木と赤い土と祠。後は静かな空気。その隣りにはもっと低めの山が並び、正面には大きな台形のO山がありました。O山は小学校の高学年で遠足に行きました。急勾配の坂道をずーっと上って行く、遠足と言うより登山のキツイ行軍でした。片道2時間ほど掛かったでしょうか。辛かった記憶しかありません。O山の隣りには低い丘のような山が並びます。一番右端の山には奥の方に水源があり水を守るための神社がありました。一年に一度、お祭りがありました。水の湧き出る池には、毎年カエルの卵がありました。苦手な人もいるかもしれませんが、私は全く平気で手に取って観察していました。今もカエルや昆虫は大好きです。私はいつも一人でしたが、たまに近所の子と遊ぶといじめられました。小学校に入るまでは母の実家にいたので途中から入って来た私は仲間に入れてもらえないのでした。うちの祖母は私が帰る頃には遊びに出掛けます。私は小学1・2年の頃には淋しくて毎日泣いていたそうです。預けられていた母の実家は大きなお寺でいつも誰かしら人がいたので誰もいない家に慣れなかったのでしょう。小学1・2・3年の記憶は殆んどありません。4年からは記憶があります。4年生の頃にはきっと自分の情況に合わせる事を私は学んでいたのかもしれません。5年生の頃になると、私は一人でいる事を楽しむようになりました。それでO山に一人で出掛けてみました。家の脇の細い道を抜けて、畑を抜けて、田んぼを抜けて、山の下の道を歩いて行きました。多分、夏休みだと思います。青い空と白い雲。緑豊な山と田んぼの中で働く人達。日本の懐かしい情景の中を私は歩いて行きました。O山の麓までは家から15分ほどでしょうか。そこから急に坂道が始まります。山道を登り始めると、視界から開けた田畑がなくなります。そして覆いかぶさるような山の緑しか見えなくなります。圧倒的な夏の緑の匂い。むせ返るような夏の山。緑の中を掻き分けて歩いて行くと人工物の気配が全く無い世界になって、圧倒的な生が襲い掛かって来るような恐怖を感じました。私は恐怖に全身をあわ立ちながらそれでもすぐに引き返すのが悔しくて登り続けました。誰もいない、でも何かが濃密に満ち満ちている空間で一人で緑を掻き分けているとどんどん自分が小さく思えて来て埋もれてしまうような気さえして来てそこまで来て私は耐えられなくなり慌てて引き返したのです。帰りは何かから逃げるように駆け出して走り続けました。田んぼで働く人が遠くに見える所まで走り続けました。人の生活が感じられる所まで来て私はようやく全身の緊張が取れて安心しました。初めて一人で山に入り山を恐いと思いました。私はどうしていきなり一番大きい山に挑戦したのでしょうか。いつも行く山ではない、遠足でしか行った事のない大きい山に向った私は何を考えていたのでしょうか。探り出せませんね。それからしばらく経って、今度はお寺山の右隣りにあるハゲ山に挑戦しました。そこは片道15分程で登れる丘ほどの山です。赤土の草の生えていない山です。弟や近所の子と来た事があり、生々しい生の匂いに満ちている訳ではないので一人でも登る事が出来ました。あまり葉の生えていないまばらに生えている松の木を見て歩きました。粘土質の土なので成長が良くないのかもしれません。陽が当たり輝いている赤土の山で巨大な山蟻の行列を付いて行きました。風の音と鳥のさえずりしか聞こえない誰もいない山の上で一人を満喫しました。祠はちょっと恐いので近寄りませんでした(((((^m^)私をこづく人もいないし、いじめる人もいないし、命令する人もいないし、自然に飲み込まれそうな圧倒的な深さではない、ほどほどの山の上で私は一人をタップリ味わう事ができました。とてもうれしい記憶です。多分、一人でいる事を自分で選んだ大事な出来事だったのかもしれません。でも恐くないぞと自分に言い聞かせていましたが実は少し恐かったのでした。やはり人のいない空間は何が現れるか分からない恐さがありました。その後に一人で行った右端の湧き水のある山は恐くなかったのです。空に近い所は心もとなくさせるんでしょうか。今はまっているコミックの「蟲師」や山を一人で歩き廻っていた辻まことに惹かれるのは子供の頃に山歩きをしていたそのせいだろうか?と思いました。「蟲師」のギンコも辻まことも一人で山深くを歩き回る人です。特に辻まことは実在の人物で、私が憧れる生き方をした人です。辻まことの文章はちょっとユーモアがあって誠実で暖かいです。ああ~辻まことのように山を巡り巡りながらの人生も素適だな~。●辻まことの世界 http://www2s.biglobe.ne.jp/~go_green/Tsuji/Tsuji.html●辻まことの本を読んだひとのHP http://www.din.or.jp/~climbing/tuji-makoto.html●みすず書房の辻まこと全集 http://www.msz.co.jp/list_prep/tsuji.html●蟲師HP http://www.mushishi.jp/
April 4, 2006
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私のニックネームの話昨日の日記のコメントでかいさんが友だちからからかわれたと書いていたのを読んで自分の事を思い出しました~。それでニックネームの事を書きます。私はあまりニックネームを付けられる事は無かったのですが2度だけ付けられた事がありました。一度目は高校2年の時で、腎臓を悪くした時に太ったのがまだ少し残っていたので私はぽっちゃり系でした。性格的には・・・・・どうなんでしょう?最近、自分の事は分からないと知ったので何とも言えないですね~。でも丸顔で大きい目でのんびりしていた私の元に冬になると友達が集まって来るんですね~。そして私に手をかざして暖を取るんですね~~。その頃の私は「クマ」と言われていましたが、冬になると「電気グマ」に昇進しました。一番後ろの席の椅子に座っている私の回りに群がる女子の群れ5~6人。「私冷え性だよ」「いいよ。暖ったかい気がするから」「暖かくないよ」「いいよ。暖かい気がするだけで」「どうしてストーブにあたりにいかないの?」「いいよ。暖かい気がするから」そう言う訳で、冬の休み時間は私の回りに女子の人垣が出来ていました(^^ゞ「MYはあったかい気がするんだ~」そう言って手をかざすんですよ。私は冷え性で暖かくないんだってば!一番後ろで冷えてるんだってば!!私は暖めて欲しいくらいだってば!!!名前負けの「電気グマ」でした。これは二冬続きましたね~~ヽ(´▽`)ノ”二番目にニックネームを付けられたのは22歳か23歳の頃です。秋に芋煮会をしようと言う事になりました。ロック喫茶に集う音楽好きが15~16人集まってマイクロバスをレンタルして、免許を持っている友人が運転してくれました。芋煮会と言うのは川原なんかに行って芋煮を作って飲んだり食べたりしてコミニュケーションを取ってアウトドアを楽しむ訳なんですが、たまたまその日は雨になってしまったのです。それで行き先を急遽変更して関山峠の手前にあるニッカウヰスキーの工場に見学に行く事にしました。(無料で見学が出来ます)小雨の中、連絡を入れて向いました。大きな樽を並べている所や色んな所を案内してもらいました。最後には広いラウンジのような所で試飲できます。ワインやウイスキーを無料で飲む事が出来ます。皆浮かれて試飲していました。運転手以外は皆で飲んでいました。私も少し飲んだのですが、弱いのでほんの一口でした。その手前の樽を貯蔵している所の近くでの事です。とても広い敷地の中に点在する建物を見て廻っていた時、余りの広さにふと中学1年の時の部活の体操部の団体体操を思い出したのです。体操部だったのは10年前の事で、しかも夏には腎臓を悪くして退部したのです。だから3ヶ月くらいしか在籍していなかったのですが、歩き方からリズムの取り方、手足の動かし方などを丁寧に教えてもらったので、とても印象が深くて強く記憶に残っています。団体競技の規定のダンスのステップを皆で教えあいながら夢中で憶えました。休み時間にも練習しました。とても楽しくてうれしくて憶えました。それが10年後のニッカウヰスキー工場の見学をしている時に団体体操の競技のステップを思い出したのでした。それでちょっと踊ってみたのです。皆が前を向いて歩いていた一番後ろでこっそり踊ったのです。すると、一番見られてはいけないクミちゃんとヒロミちゃんに見られてしまったのです!!何故一番見られてはいけないかと言えば2人は大学が一緒で1学年下の私と長い付き合いの仲良しの友だちなんですが、2人とも頭の回転が速くてすぐに状況を飲み込むタイプなんです。そして決して見逃さないんです。打てば響く素早さで反応する鋭いタイプです。許さないんです。なので私が体全体を使ってダンスをしているのを見てしまった二人はすぐに笑い出しました。だって山の中のニッカ工場ですからね、そんな所でダンスを見るとは思わなかったのでしょうね~。それに思えば私は中学の時に体操部で団体をやっていたなんて2人に話しをした事がないんです。だからクミちゃんとヒロミちゃんにとっては寝耳に水だった訳でやっぱり笑っちゃうんですよ。今思えば笑うしかないですよね~~。体操部だったなんて知らないんだし、体操部の団体競技を知らないので私の動きが怪しく見えたんでしょうから~。笑う二人。あせって事情を説明する私。説明しても益々大笑いする2人。事情を知って益々大受けする2人。体操部の団体競技の規定だと言っても信じてくれないんですよね。まあね~~。10年振りで踊ったら無様でしょうしね~~。笑うわけですよね~~。でも広くて気持ちが良さそうだったので踊りたくなったんですもん~~(`へ´)クミちゃんとヒロミちゃんは私にこう言ったんです「MYちゃんもっと踊って~~」「もう一回見たいよ~MYちゃん踊ってよ~~~」何度も言われると、笑われると分かっていてもやっちゃう私ですよ。しぶしぶまたやりましたよ、団体の規定のダンスを。大受けして笑う二人。「マミダンス!!」「それマミダンスだ!!」私の名前から取りましてね、ダンスに名前を付けられちゃったんですよ。それ以来、何かと言うと2人は私に「マミダンス踊って~~!!」とせがむようになったんですよね~~。その後6~7年はからかわれましたねぇ。しばしば皆の前で踊らされました。まあ、特別な身内の前ででしたけどね。ちゃんとした体操部の方が踊ればあそこまで面白がられなかったんでしょうけどね~。gizzさんなら笑われずに魅了させたでしょうにね~~ヾ(´▽`*)ゝ確か芋煮会はその後、運転手さんのお店に行って屋内でやりました。楽しかったです。そんなニックネーム二つの苦笑いの話しでした。本当にあるんですよ、団体体操の規定って!!
March 15, 2006
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以前、ちきんたったさんがコメントで母との良い思い出も、そう言えばあった。みたいな事を書いて下さってなるほど私だって母との良い事はあったのに母へのうらみつらみから良い事を覆い隠そうとしていた自分に気付いたのでした。それで今日は母との良い思い出を絞り出そうと思いました。(笑)●母から教えてもらった良い事●・小学4年ごろにりんごのむき方を教えて貰いました。 これは大事ですよね。・その時にナイフの渡し方を教えられました。 刃を自分の方に向けて、相手には柄を出すように と言われました。 これは理にかなっていると思われ、とても良い事を聞いた と思って新鮮な驚きをもって記憶しました。 これは子供達にも教えました。 ・「良い文章とは分かりやすい文章」 母は国語の教師で、あらゆるモノを常に添削して、 日常会話でも文章の怪しさを注意するという 気の抜けない家庭でございました。(*´д`*)~З! でも、純文学小説から入った私は、段々と小難しい 文章を書きたくなりましたが、やはり母の言った 「分かりやすい文章」が常に頭に残り、 なるべく分かりやすくしようと心掛けるようになりました。 これはとっても良い事を教えて貰いました。ん~~~後は思い出せません。これを期に母との良い思い出を探してみようと思います。★下手の横好き俳句★母の背に 優しさ偲ぶ 春の雪
February 27, 2006
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Pepepewさんが私をもてたろうなんて言うからおかしなプロポーズを思い出してしまいました。私が高校生時代の友達はスタイルの良い美人ぞろいでした。ユミちゃんはデパートの中を歩いていると化粧部員に声を掛けられて引き留められました。無料で是非化粧させて欲しい、と頼まれるのでした。○○ユミちゃんは大人びた線の細い垢抜けた美人でした。1歳年上のカッコイイ先輩と付き合っていました。スズキライオン丸はもち肌とすらりとした肢体のちょっとバタ臭いセクシーな女性でした。髪が生まれ付き赤くてぼさぼさに伸ばしていたため、その頃派流行っていた「怪傑ライオン丸」から取ってライオン丸と呼ばれていました。とてももてたので年上年下関係なくいつも複数の男性を喰らっている子でした。良心的な事に興味の無い、悪い事が好きな子でした。○○ヨーコはふわふわの髪の毛とクリクリした瞳のアイドル系の可愛い女の子でした。我儘なぶりっ子で私たちの間では煙たがられていました。同じ年同じ部活(写真部)のヒロシ君と付き合っていました。○○ヒデヨちゃんは知的でシャープで暖か味のある背の高いすらりとした美人でした。明るく知的でハキハキとして人当たりの良い真面目な人でした。○○ワコジャ丸は大きい一途な瞳としなる柔軟性のある体と真実を見抜く心を持ったチャーミングな子でした。長い長い間、定時制(私たちの高校には定時制がありました)の1歳年上の人を思い続けていました。そして一番の真打ちは○○にゃんこさんでした。にゃんこさんは小さい時から垢抜けていて、沢山の人の中にいても、パッと輝いて見えるような特別可愛い美少女でした。スタイルも良くて、明るくニコニコしていて人当たりが良くて如才なくて、センスが良くて気が利いて働き者でした。腰まで伸ばした髪の毛は女の子らしかったのでした。にゃんこさんはとてもとてももてました。高校にもファンが沢山いて、小学校から好きだったという男子が数人いました。笑顔が美しくて華やかでした。笑顔が美しい人はなかなかいませんよね。最後にこの私。私は中学の時に腎臓を患っていたのでまだ痩せきっておらず、なおかつスポーツを余りしていなかったのでぽっちゃり系でした。目は大きかったのですがオシャレをしようという意思がありませんでした。何しろトラ刈りヘアーでも平気で登校していたくらいのなんて言いますか、非常識なタイプでした。(≧m≦*)ププにゃんこさんと一緒にいると男子の視線は全部にゃんこさんに行ってしまうのでした。でもにゃんこさんは性格が優しくて穏かな人なのですぐに諦めが付きました。そして高校3年の秋の事です。にゃんこさんが私に紹介したい人がいると言ってトミオちゃんを連れて来ました。トミオちゃんはにゃんこさんと同じ小学校・中学校出身でした。背が高くて痩せ型で、優しい人でした。バンド活動をしていてヴォーカルをやっていました。そう言えば高校の文化祭でバンド演奏をして真ん中で歌を歌っていたカッコイイ人でした。にゃんこさんに紹介されて、私は困りました。知らない男性と簡単に話せるほど私は裁けていませんでしたから。所がトミオちゃんという人は不思議な人で一緒にいても緊張しない人でした。初めて会った私にも話しを沢山しました。一番話したのはにゃんこさんの事でした。トミオちゃんもにゃんこさんに長い間恋焦がれてきた人でした。なのでずっとにゃんこさんの話を私にしていました。にゃんこさんに勧められて他所の高校の文化祭に二人で出掛けました。はたから見ればカップルかもしれませんが実はにゃんこさんにいかに憧れていたかをトミオちゃんが語り、私が聞いて慰めるという現実でした。でもトミオちゃんは立派なお兄ちゃんでした。お母さんが病気で若くて亡くなっていたのでトミオちゃんが家事をしていました。5歳下の妹がいて、とてもかわいがっていました。高校には行かずにお父さんの自営業を手伝っていました。皆とは違う生活をトミオちゃんは選んで生きていました。皆は高校に行ったのに、トミオちゃんだけ働いていたのでした。そして夜はバンドのヴォーカルをしていて、それはトミオちゃんにとってとても大事な事でした。それで腹筋をして歌唱力を上げようと鍛えて頑張ってる真面目な人でした。そんな話しもしてくれました。今と違って17歳の私は寡黙でずっと聞き役でした。翌日、にゃんこさんに「どうだった?」と聞かれました。せっかく紹介してもらって悪いんだけどにゃんこさんをいかに好きかって話しを何時間も聞いたんだよ、とは言えず誤魔化しました。「MYちゃんと絶対気が合うと思ったんだ」とうれしそうに話すにゃんこさん。うう、罪作りだぜにゃんこさん!!!にゃんこさんに恋する男子は沢山いましたからまたファンを一人知った、と思ったくらいでした。所が何を思ったのか、その後もトミオちゃんは私に連絡を寄こして断われない私はトミオちゃんの家に出掛けて行き小学生の妹さんに会ったりしました。本当に仲の良い兄妹でした。トミオちゃんは妹を大事に大事にしていました。その優しさは、見ているとすぐにわかるものでした。周囲には粗暴な人間が多かったのでトミオちゃんて男子の中では珍しいと思いました。何度か一緒に友達の家に出掛けましたが、トミオちゃんは忙しかったので大抵私が出掛けて行って妹さんの世話や仕事をするのを見ていたりしました。後はにゃんこさんが昔からいかに可愛かったかなんて話しでした。こういうのは付き合っていたと言うんでしょうかね?違うと思いますね~。なにしろにゃんこさんへの思いを聞いてあげていたのですから。それはそんなに長い期間ではありませんでした。多分、3ヶ月くらいでしょうか。その後は会った事がありませんでした。一度だけ19歳の頃に呼び出されて会った事があります。バンドの練習を見てと言われて一緒に出掛けて行きました。歌を歌うのを見ていました。ああ~それもまた青春だな~~。その頃はトミオちゃんの恋もいよいよ諦めなくちゃいけないかな~と思い始めていたようでした。にゃんこさんはもてましたが誰にもなびきませんでしたから。後で聞いた所、お兄さんの友達を一途に思っていたそうです。それで大人になってからのにゃんこさんはかなりの人に迫られて辟易していましたが誰とも付き合う事がありませんでした。一人暮らしの部屋に上がりこまれて帰らなくなり、逃げ回って男性恐怖症になって実家に戻った事もありました。無理矢理付き合うよう迫られたり、ストーカーされたり、美人でもてるのも大変なようでした。そうして、トミオちゃんやその他大勢の恋心は儚くも消えて行きました。にゃんこさんは結局独身を貫いています。最後にトミオちゃんに会ったのは私が一人暮らしをしているうちに体を壊して23歳で実家に帰って3ヶ月ほど寝込んだ後ようやく動けるようになって友達の親類のGパン店でバイトをしていた時でした。この日もトミオちゃんはにゃんこさんと一緒にやって来ました。店の近くのジャズ喫茶に行って3人で話をしました。懐かしいね~~って、旧交を温めていたのですが突然トミオちゃんはこう言いました。「MYちゃん。オレと結婚しよう!」何を突然言い出すかと思えば5年ぶりで会ったと思ったらいきなりプロピポーズをしてからに!呆然としてトミオちゃんを見ていた私。トミオちゃんの横でニコニコしていたにゃんこさん。にゃんこさんは知っていたようでした。人前でプロポーズされたのも初めてならプロポーズされてガッカリしたのも初めてでした。だって~~~。それまでの話しを聞いて考えるにトミオちゃんは淋しかったのです。だから誰でもいいんだわ~と思いました。第一、結婚できるくらいお互いの事は知らないもの。特にトミオちゃんは私の事は何も知らない。「私、トミオちゃんとは結婚しないよ。 だってトミオちゃんは私の事を何も知らないもの」と言ったらトミオちゃんはえ~~~っ!と叫び「どうして~~?オレと結婚しようよ~~~」ああ、思い出すとおかしいです。可愛いさ~~トミオちゃんは。なんか憎めないさ~~~(笑)「おれ淋しいからさ~~。MYちゃんオレと結婚しようよ~~~」ごねるトミオちゃん。(((((^m^)だって~~、高校生の時も大学生の時もトミオちゃんの片思いのもんもんとした思いの憂さ晴らしに付き合っていただけで私なんか何も気持ちを出さなかったんだもの~~。私が何を感じてどう生きてきたのかこれからどうしたいのか、トミオちゃんは何一つ知らないんだもの~~。第一、あなたと私は友達以外のなんなの?なんなのよ~~~?なのにどうしてプロポーズなんか出来るんですか?なのに私にプロポーズって。にゃんこさんも何考えてんのよ~~~!!!この人にゃんこさんがまだ好きなんじゃないの?目の前で、なにプロポーズしてるのぉー?もう思い出しながら笑っています、私。そう、これが忘れられないプロポーズです。(_≧Д≦)ノ彡☆私は友達なのに、好きなにゃんこさんの前でプロポーズしている報われないトミオちゃん。よっぽど淋しかったんだろうなあ~。妹さんが大人になって淋しかったのかな~?その後、相手が見つかったらしくてトミオちゃんは結婚したそうです。優しくて親切で温和な人だから奥さんはきっと幸せだろうと思います。今、どうしているかなぁ~。そしてトミオちゃんの唐突なプロポオーズの数日後、夫と知り合ったんですよ~。やっぱり可笑しくて忘れられないプロポーズです。でも、もてると言うのとは違いますよPepepewさん!
February 26, 2006
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昨日、Kちゃんの話をしたついでにもう一つKちゃん(男性)関係の話しを書きます。私が22~27歳頃までKちゃんの家にはいつも20人位の人が集まっていました。夫婦で子連れの人もいましたが殆んどは独身者でした。そして音楽を聴くのが好きと言う共通点がありました。それでKちゃん宅に集まっては飲みながら音楽の話に花を咲かせていたのでした。ある時、いつも飲む部屋の隣りにあるトレーニングルームに行って皆で品定めをしたり、試したりしていました。Kちゃんは色んな器具を置いて体を鍛えていたようでした。そこにはバーベルやベンチプレスやダンベルなどが置いてありました。男性達はベンチプレスを試していました。好奇心の強い私はすぐその気になってやってみたくなりました。これがベンチプレスです。初めてなので、何がどうなるのか分かりませんでした。でもやってみたくなるんですもの~。それでベンチに横になりました。私の上方に男性達がバーベルを持ち上げてくれました。私はさてどんなものかしら?と両手で握り、上に伸ばしました。バーベルは重くて危険なため、男性達は両側を持ち上げたまま様子を伺っていました。ですが私が平気そうなのを見て男性達は手を離し、私はバーベルをひょいひょいと上下させました。実に簡単に、な~~んて事は無くひょいひょいとバーベルは上下したではありませんか!すると、楽しげにバーベルを上下させていた私を見てヒロミちゃんが「私もしたい」と言いました。ヒロミちゃんは同じ大学出の学年が一つ下の友だちです。大学では年に関係なく友人がいました。打てば返す、切り返しの素早い頭の回転が速くて鋭い女性でした。なかなか個性的で、かなりのマイペース型です。ヒロミちゃんはベンチに横になり上方にバーベルを上げてもらいヒロミちゃんが持ち手を握りました。そこで男性達は私を見ていたため油断して手を放しました。私が簡単にやっていたのだからヒロミちゃんも簡単にやれるだろうと思ったのです。所がヒロミちゃんは重みに耐えられず、腕は持ち堪えられずにくしゃっと肘が折れてバーベルはヒロミちゃんの首を絞めていましました!!!「苦しい~~~!助けて!」紫色の顔になり、足をバタバタさせるヒロミちゃん!!!あわわわわわわ!((( ;゚Д゚)))慌てる男性達!苦しむヒロミちゃん!!ぽかーんと見ていた私。(- -?え?何があったの?何で?どうして?みんな訳が分からなくなりました。それで「私がやってみる」と言ってまた横になり、バーベルを持ち上げました。やっぱり私が持つとひょいひょいと簡単に上下します。全くなんて事ないんです。すると、それを見ていたヒロミちゃんは首をひねり「私もう一度やってみる!」と言ってまた横になりました。ヒロミちゃんも腑に落ちなかったのです。そうですよね~~。MYちゃん(私)が出来るのにどうして?と言う訳です。何か間違いがあったんだろうと思うわけです。だけど、もう一度横になってバーベルを渡されたヒロミちゃんはまたしても重みに耐えられずに首絞め状態になってジタバタジタバタ・・。ひっくり返った亀さん状態でジタバタジタバタ・「苦しい~~。助けて~~~」慌てる男性達!!!訳が分からない皆。分からないながらにその場を離れました。その後は誰もその事に触れませんでした。疑問符だらけだったようです。何だろう?今の現象は?ですが、後で気付いた事には実は私は力持ちだったんですね!!!(゚Д゚;)うはははは・・・・(≧m≦*)ムプ私は小学生の時に逆上がりも出来ないほどずっと腕の力が弱かったのですが、大学生のうちから看板屋さんでバイトをしてその後もそこで働いたので、現場仕事をこなしていつの間にか力持ちになっていたんですね~~~♪そう言えば、初めはドリルさえ満足に使えませんでした。腕の力が無くて抑えられなかったのです。重い物も持てませんでした。ノコギリも上手に使えませんでした。金槌も釘から外れてばかりいました。役立たずでした。それが、スコップで砂利やセメントをこねたり、たて看板を埋めるための穴を掘ったり、看板を作るためにベニヤ板や角材をのこぎりで切ったり金槌で釘を打ったり、重いものを運んだりしていたのでいつの間にか筋肉もりもりになっていたんですね!だからバイクの免許を取る時は、割りと簡単に取れたのでした。中型免許は倒れた400CCのバイクを起したりメインスタンドを掛けられなければズタートラインにも立てないんです。でも私は思えば力持ちで、バイクを起すのに苦労は入りませんでした。そしてバイクに乗る事でまた筋肉を付けて行ったのでした。なのでヒロミちゃんが首絞めになるのに私がひょいひょいと上げ下げ出来たのは当たり前とっては当たり前だったのですね~~。だって現場とバイクで鍛えた体だったんですもの~。ヒロミちゃんは音楽メーカーのデスクワークでしたから筋肉が付くわけがないんですよ。それに毎日重い物を運んでいる大柄で脂肪付きのマッチョ体系のKちゃんが体を鍛えるためのベンチプレスですからヒロミちゃんが持てるわけが無いんです!逆に言えば、私が軽々とバーベルを持ち上げたのが間違いっちゃ~間違いです。(((((^m^;皆で思い込みがある訳です。女性だから同じくらいの腕力だろうとみんな思っていたわけです。私も考えた事がありませんでした。人と自分の腕力の違いなんて!だって逆上がりも出来ないくらいにひ弱な私だったのですもの~。それに誰も私が現場でどんな仕事をしているかなんて知る良しも無く、ましてや女性の筋肉の付き方がそこまで激しく差が付くなんて誰も知らなかったのでした。この私も知らなかったのでした。それで皆でポカーンとして現象を理解できずに無視したのでした~(笑)いえ、その頃の私は現場を離れてデスクワークをしていたんですが一度付いた筋肉はバイクを乗る事で締まって行ったようです。バイクに乗るためには筋肉が必要と言うのも知りませんでした。腕だけではなく、背筋や足腰も強くないと乗れないんです。そうして自分が力持ちである事にようやく気付いた私はそれ以後は筋肉を自慢の種にしていました。腕の筋肉をうにうにと動かして見せて自慢しちゃったりして~~~♪(^^ゞ太ももの縦に割れた筋肉も女性に見せたりして~~♪(^^ゞ私って筋肉が付きやすい体質だったようです。そういえば父は50才まで腹筋が割れていました。まあ、今や全ては過去の栄光で長い間寝込んでいたために筋肉は消失し、肩の靭帯損傷のために重い物を持てないひ弱な現在のワタクシでございまする~~(- -ヾでもポカーンとしていた皆と自分。そんな筈は無いと再チャレンジしては首絞めになったヒロミちゃん。あの時の皆の間の抜けた顔は忘れられませんね~~。(((((^m^;思い込みは真実を隠すんですね。目の前にあっても、信じないんですね。う~~ん。気を付けよう・・・・。
February 23, 2006
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一人暮らしだった私の夜の過ごし方~♪●仕事の後、毎日のように通っていたロック喫茶に行って 閉店まで音楽に浸りまくる。●帰りに部屋に友人が来て、カード崩しゲームや 迷路遊びなどをする。●寝る前に、弱いくせにウィスキーをちょこっと飲んで ほやや~~~んとしつつレコードかFMを聴く。●ほやや~~んとしたまま寝る。独身時代の私の友人の一人はアメリカのオークション落札をしてレコードを買い漁っていました。今でこそ個人輸入やオークションなんてみんながやっていますが昔々は誰もやっていませんでした。大抵の一般人は。私なども、その友人がやっているのでオークションを知ったのでした。その友人はKちゃんという同じ年の男性で自営業をしていました。あまりに大量にレコードを買い漁るため「趣味で購入」を税務局から疑われるという事件もありました。趣味と偽って商売をしているのだろうと疑われて調べられたのです。(((((^m^)Kちゃんはお店の中でブルースを流すと言う暴挙をやってのける変人でした。しかもレコードも販売していました。全く違う販売業だったのに。大量に買い込むレコード盤の重みを支えるために家を鉄筋コンクリートで作り変えたほどのレコードマニアでした。店のシャッターにはキャブ・キャロウェイ(戦前のヴォーカリスト)イラストが描いてありました。部屋にはレコードが何千枚もありました。みんなは「Kちゃんが死んだら 俺の体重分だけ頂戴! 遺書に書いておいて!!」なんて、毎回迫っていました。本当に何人もの友人が迫っていました!(((((^m^)でもKちゃんのレコードは見た事の無いような古いゴスペル・ブルース・ジャズが中心でしたので私には殆んど魅力的には見えませんでした。だって行く度にエノケン(1904-1970喜劇王)のレコードを聴かされたんですよ~~。エノケンなんてご存知ないでしょう?昭和初期の喜劇王です。おかしな歌も歌っていました。私は美しい音や調和の取れた音楽が好きです。なので笑える歌を聴いても感動しないんです。その上毎回、つまり週に2回くらいはエノケンを聴かされました。そして手廻しの蓄音機の前に座らせられてあれこれ薀蓄を聞かされて音量は扉の開き加減という具合のクラシックでした。その手の古い蓄音機は3台くらいはありました。行く度にこっちの蓄音機、あっちの蓄音機という具合で聴かされました。勿論普通より音の良いオーディオセットもあるんですよ。だのに蓄音機のほわほわした音で聴かせて満足するんです。ゴスペル(アメリカの黒人の教会音楽)・ブルースが中心でしたから数時間聞き続けるのは辛いんです。たまにはビートルズなんかを私が見つけると「そんな新しい音楽は許せない」とKちゃんは言いまして、昭和初期以外の音楽は音楽じゃないなんて語り始めるのでした。昭和初期の音楽が好きで古いゴスペル・ブルース好きのKちゃんにあろう事かこの私ときたら民族音楽のレコードのオークション落札をお願いしてしまったのでした。私は民族音楽が好きです。でも何処のなんて言う音楽なのかよく分かっていませんでした。だからKちゃんに「民族音楽のレコードを買ってね」なんて頼んでしまったのです。そこらのレコード店では見つけられないと思っていた私でした。それだけ変人Kちゃんの博識を当てにしていたんでしょうね~~。頼んでからかなりしばらく経ってKちゃんが私の部屋にレコードを2枚持って来てくれました。確か一枚が2千円くらいだった記憶があります。当時のレコードは3千円くらいでしたから、格安ではありました。Kちゃんにお礼を言ってお金を払い、夜寝る時にターンテーブルの上にレコードを置きました。一人暮らしの女性が夜を楽しむのです。ふふん♪お風呂上りの私はいい感じ~で飲めないウィスキーを舐めながらさてどんな民族音楽が流れてくるのかな~~♪ウクライナかな~♪インドネシアかな~♪いやチリかもよ~~~♪なんて浮かれ気分でレコードに針を落としベッドに腰掛けて待ったのでした。そして流れて来たのは・・・・・・・・・・そして流れて来た音は・・・・・・・・・・そうです、飲めないウィスキーを舐めていた私の耳に聞こえて来たものはチベットのお坊さん達数十人の奏でる超低音のお経でした!!!!!ヽ(≧Д≦;)ノ深夜の一人暮らしの女性の部屋に流れるチベット仏教の超低音のお経の調べ・・・・・!あわてて私は読めないジャケットを見ました!!!およよ。裏には沢山のお坊さん達の写真が!!!!!まさか、まさか、まさか======3裏も勿論チベット仏教!もう一枚の方も裏表みんなチベット仏教のお経!!!!部屋に響き渡る食用ガエルの声のような超低音合唱!!!えええええ~~~~~~ん!!!(涙・涙・涙・涙・涙)お風呂上りの心地良い開放感も何処へやら塗り壁に囲まれたような閉塞感に押しつぶされそうになりウクライナの音楽に身を浸して優雅な一人暮らしの乙女の夜を夢見ていた私はがっくりと肩を落とし、ずささささーーーーっと全身の血が引いて行ったのでした。うううううう・・・・・。変人Kちゃんを信用した私が悪かった。うううう・・・・。その後、初めてのオークションで入手したレコードを諦めるのが悔しくて再度挑戦したものの、やっぱりもろくも朽ち果てんばかりの大打撃を受けて敗退したのでありました。ああ、一人暮らしの乙女の夜は悲しかったわよ~。23才のか弱い私だったのよ~~。
February 22, 2006
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昨日、小学校の階段近辺の事を思い出していました。すると久しく忘れていた同級生の名前を思い出しました。私が通っていた小学校は木造の大きな校舎でした。4・5・6年生は東の昇降口から入って大きな体育館を通って二階に教室がありました。1・2・3年生は西の昇降口から入って小さな体育館を通り抜けて行きました。1・2年生は一階に教室がありました。3年生からは二階に教室がありました。私の小学1~2年の頃の記憶は殆んどありません。でも、月曜日の朝礼の後で憧れの先輩の後を追って行き、美貌の先輩は階段を上って行き私は上に行ってはいけないので先輩について行けずに階段の下でじっと見ていた記憶があります。(小さい時から美しい人に目が無かったんですね(((((^m^) 美貌の先輩は4~5歳上でした)ですから3年生になってその広い階段を上るのは私にとってとても誇らしい気がしました。でも私はうっかり屋なので、その広い階段の一番多い記憶は何度も落ちた事です。ヽ(。_゜)ノその頃の私はよく落ちていました。とても痛くて、しばらくはうずくまっていました。5~6回は落ちたと思います。でも9歳の私は体が柔らかくて怪我はしませんでした。今の私があんな所からゴロゴロ落ちたらきっと満身創痍です。(- -ヾ忘れられない取って置きの記憶もあります。それは、ほんの少しだけ知能障害があったミノルくんと体の障害もあったチズちゃんの思い出です。私はミノル君やチズちゃんとは同じクラスになった事が無いので詳しい事は分からないのですがミノル君は小柄でやせた、人の良い少年でした。チズちゃんは堅太りした大柄な少女で、ノル君より大きいくらいでした。チズちゃんが話をしているところは一度も見た事がありませんでした。顔の表情も全く動かず、丸い顔に細い目のチズちゃんは能面のようでした。チズちゃんは歩くのも大変そうでした。ゆっくり一歩ずつ歩く事しか出来ませんでした。チズちゃんは毎日学校に来ていたのでは無かったと思います。滅多に見かけなかった気がします。ある時、私が階段を下から上って行くとミノル君がチズちゃんの手を引いて階段を上っていました。その歩みはとても遅くて私が上に上り切るまでにチズちゃんは1段上ったくらいでした。その間ミノル君は手を引いてずっと待っていました。私はミノル君とチズちゃんを追い越して上の廊下から階段を見下ろしました。足を曲げるのも、上の段に足を乗せるのも大変そうなチズちゃんは何処を見ているのか分からない暗い穴のような目がオカッパ頭の下にあってとても印象的に見えました。坊主頭のミノル君はよれよれの服を着ていました。追い越した時の映像を今も憶えています。ミノル君は話をしない、反応のないチズちゃんの手を引いて心配そうに足元を見ていました。いつもは話す内容がとんちんかんで皆からからかわれているミノル君がまるでナイトのように見えました。辛抱強くチズちゃんの歩みに合わせているミノル君はとても賢くて知的に見えました。階段を上り切るための時間は長くて、それを考えると家からの道のりはとても長かったと思うのです。私はミノル君の家もチズちゃんの家も知らないので距離は分かりませんが、きっとかなり早目に家を出て来たに違いないのです。チズちゃんの家の人にチズちゃんを託されたミノル君はチズちゃんを無事に学校に連れて来る事だけを考えていたに違いなく、とても集中した顔で真剣でした。小学3年生9歳当時の私は自分よりも体力的に劣る人の世話をする事の意味が余り分かっていませんでした。それでも私にとって助け合っている二人の姿はとても美しいものに写ったのでした。ある時、ミノル君とチズちゃんが静かに階段を上っていた時悪ガキ大将のマサユキ君と子分の子の二人がミノルくんをからかってはやし立てていました。「やーいやーい、ミノルが女と手を繋いでいる~!!」「ミノルが女の手を握っている!!」愚かな二人組みはずっとからかっていました。ミノル君は「うるさい!」「あっちに行け!」と珍しく反撃していました。ミノルくんとチズちゃんの静謐な時間は急に下卑たものになりました。私が今くらい意識がはっきりしていたら絶対ミノル君とチズちゃんを助けてあげたのに。その頃の私はボンヤリしていたので黙って見ていたのでした。マサユキ君達は卑怯者だと思いながら黙って見ていたのでした。4年生になると、チズちゃんは学校に来なくなりました。学校が変わったのか、病気になったのか。ミノル君は小学6年までは隣りのクラスにいました。でも中学校では見掛けた記憶がありません。やっぱり学校が変わったのかもしれません。障害のある人と学校が一緒だったのは小学生の時だけでしたが、頑張っている健気な姿が忘れられません。ミノル君とチズちゃんがいなかったら障害がある人の大変さや、あんなに頑張ってる姿を知らないでいたと思います。私の父は小学校の校長をいていた時足の悪い生徒の転入を断わりました。教師が大変になるからと言う理由でした。母と私は父を責めましたが、父は保身の人なので無駄でした。障害のある子や、周りの子達の違いや共感を分かち合える機会を父は奪ってしまったのだと思いました。一緒に過ごさないと、違いも何も分からないと思います。チズちゃんのナイトだったミノル君。真剣に送り迎えをしていたミノル君。広い階段を見ると複雑な気持ちになります。差別は嫌いです。階段を上るのさえ大変な人がいる事を正面から受け止められる社会になればいいのに。●友人宅のにゃんこ●今日、友人宅にお邪魔して足ツボ指圧をしてもらいました。血の巡りが良くなってホクホクしました。サーにゃんは帰るまで食器棚の上から下りて来ませんでした~。寒いと上から下りてこないそうです。ちっ。抱っこしたかったのに~~。遊びたかったのに~~~。
February 14, 2006
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三日続けて高校時代の事を書いています。暗~い気持ちになっています。書きながら思ったのですが、多分私は高校生の自分を許していないのかもしれません。幼くて無知で無垢で知恵が無くて自己主張の出来なかった自分を嫌いなんだと思います。そのためにもちゃんと書こうと思います。私がマツオカ先生に守ってもらわなければいけなくなった発端の事件・32年生の秋にKちゃんたち4人が問題を起して退学になりました。その事件を調べる時に、私は何度も何度も相談室に呼び出されました。私はKちゃん達と学校以外では付き合っていないので分からないと何度言っても信じてもらえませんでした。女子の付き合いなんて、些細な事で変わるのが分からなかったんでしょうね。だから先生方は、私がKちゃん達を操作して容疑を免れたとでも思っていたのだと思います。何をしてもしなくても先生方には色眼鏡で見られました。私はKちゃんとクラスが一緒になってからは逆に放課後は付き合わなくなっていました。いえ、それは正しくありません。私は断わる事が出来ない子だったのでKちゃんに誘われて引っ張られたら幾らひどい目に合うと分かっていても断われずに一緒に行ったと思います。危ない所でした。また自覚無しに、問題を起していたかも知れない所でした。たまたまKちゃんが私に対して積極的に関係しようとしていなかっただけでした。私はKちゃん達が何を起して退学になったのかも知りませんでした。大人になってから、偶然4人のなかの一人のYちゃんに会った時に一体何があったのか?を聞いてみました。「お母さんが浮気をしている事を知ってショックを受けたYUちゃんが、『お母さんがそんな事をしているんなら私もする!』って言ったから、私とKやれやれーってふざけて言ったの。まさか本当にやると思わなくて言ったの。そしたらKが斡旋したらしい」そんな内容でした。哀しいYUちゃん。YUちゃんは素朴な少女でした。異性不順交友なんて縁の無い少女でした。ヤケになったんでしょうね。母親の行動に対して何かしないではおれなかったんでしょうね。そして隣りにKがいた。事の重大さに気付かずに「けしかけた」YちゃんとKちゃんは自覚も無しに自主退学させられ遠い親類の家に身を寄せたのだそうです。なんてこった。気の毒な役回りの同級生達。もしかしたら先生達は私がKを操作した裏の立役者とでも思っていたんでしょうか?私はあの頃Kが私に興味を持っていなくて良かったと思いました。Kと付き合う事の危険性を改めて知ったのでした。Kが私に勧めたのはタバコと不良と言われている人達との付き合いだけでしたが訳の分からない子供の私がそそのかされたら何をするか分からなかったかもしれません。高校1年2年の頃は私は物凄く幼くて何をするか分からなかったと思います。そうして私はSちゃん先生が危惧していた状況の中で日々を過ごす羽目に陥っていました。そんな危険が隣り合わせになっていた生活の中でいつもマツオカ先生は事ある毎に私と話し合いをしました。私のねじれた心を真っ直ぐにしたり薬を塗ってくれました。「私はMYを信じているよ。MYは何を信じている?」「大人の矛盾にばかり目を向けているけれどMYの矛盾はどうするの?」私の幼い感情に何度も付き合ってくれました。泣きながら話す私に真剣に答えてくれました。マツオカ先生がいたので高校を頑張って卒業しようと思いました。親は私を理解せず、受け入れてもくれないけれど、私を信じてくれるマツオカ先生に応えたいと思いました。私は2年生の終わり頃には深夜に家を抜け出したりたまり場で皆で騒いだりしていました。親に見つかると殴られました。「子供は言っても分からないから身体で教え込む」「手で叩くと痛いから」と箒の柄で殴られました。まともに話合いなんかした事もないくせに両親は一方的に命令して怒りました。人間扱いされている気がしませんでした。絶対言う事を聞くまいと思いました。私と言う人間を全く見ていない親の言う事なんか聞くものかと思いました。親が大事なのは自分達の評判だけでした。しかも内容ではなく表の顔でした。私は未だにそう言う事には敏感です。母は、母のために一生懸命家事を始めた娘の気持ちなんか一度も考えた事がありませんでした。だから、親が怒っても殴っても絶対言う事を聞くつもりはありませんでした。ただ、1年生で行方不明事件を起してからは門限が5時半になり、それは守っていました。この辺が私らしいな~と、今思い返すと思います。だって反抗するならいっそ何もかも反抗するだろうに5時半と言う早い門限を守っていたのです。なんかな~~~。私って大ボケ者ですよね。マツオカ先生と話し合いをしたのは私だけではありませんでした。問題を抱えている生徒と何度も話合いをしました。マツオカ先生と話合いをした後はみんな泣いて反省をしていました。自分の甘さやいい加減さや視点の違いについてとても感じる所があるので泣いてしまうのです。でも一週間すると忘れてしまって「マツオカうるさい」と呼び捨てを始めるのです。それが私には分かりませんでした。話合いをして感じたり思ったりした事をすぐに忘れて本気で心配してくれた人をバカにするってどうなっているのか私には分かりません。いわゆる「喉元過ぎれば何とやら」だったんでしょうか。そのうち仕方がないのか?と思うようになりました。でも私は忘れない。マツオカ先生の本気と思いやりと信じてくれる愛を私だけは忘れない、と思いました。マツオカ先生は私と話し合いをして私を励ますだけでなく、職員室で何かと話題になる私をかばってくれていたのでした。私は何もしていない、と先生に言うと「MYは立っているだけで目立つ」と言われました。私は小さい頃から目立ちたいと思ったりはしない子供で人から見られてどうか、なんて考えた事がなかったので目立つと言う意味が分かりませんでした。応援団を3年間やってるから目立つのか?生徒会執行部委員だから目立つのか?学級委員の仕事で人前に出る事があるから目立つのか?友達がみんな美人でスタイルが良いのに私だけぽっちゃりだから目立つのか?本気でそう思っていました。でも全部人からさせられた事ばかりで自分でしたくてしている事なんかないのに。友達の中で私だけ異質だからなのか?本当は今も分かりません。高校の同級生で一人だけ今も付き合っているOちゃんに聞いた事があります。「私がずっと学級委員に選ばれたのは何故?」するとOちゃんは「え、そうだっけ?」憶えていませんでした。彼女とは高校時代は親しくなくて大人になってから仲良くなったのです。彼女にとってどうでもいい事だったようでした。つまり忘れるくらいの事なんでしょう。それは、誰もが嫌がる学級委員を断われない私にやらせたって事なのかも知れないと思いました。もしかしたら理由がなかったのかな~~。つまり女子の多いクラスなのでその時の流れ?みたいな。女子の気持ちは侮りがたし。私には計り知れないナゾです。私は学級委員をしてとても大変でした。人前で話をし、クラスの行事を率先してやりまとめたり叱咤激励したり。余りに非協力的なので泣いてしまった事もあります。それなのに「学級委員だと思って威張っている」と言われた事もあります。すごくイヤでした。威張るなんて考えられない事でしたから。人に意見するのはすごく抵抗がありましたから。そう言えば人前に立つ仕事ばかりさせられていました。断われないばっかりに色んな仕事をしました。でも、それで度胸は付いたかもしれません。いい事もあるものですね。そう言えば、私はずーーーっと高校時代については不快な印象だけで思い出していたのですが大人から見たら、そう、とても不安定で分からない子だったかもしれませんね。大人から見たら、どんな女子高生だったのか今までその視点で考えた事がなかったので、これからは別の視点からも光を当ててみようと今、思いました。ようやく心が落ち着いてきました。高校時代を思い出すと不快な気持ちとマツオカ先生に出会えて「あんな大人になるのであれば死ぬ必要は無い」と思った事が強く溢れてきます。毎夜ベッドで泣いていた高校時代。人前では笑っていた高校時代。マツオカ先生に助けられてなんとか過ごした高校時代。大学に行くと、誰も私を色眼鏡で見る人はいなくて私がそのままでいられました。普通にしていると普通に見てもらえました。目立つと言われませんでした。だって変な人が沢山いたので私なんかさっぱり変り者じゃありませんでした。○○先生の娘と言う人もいませんでした。感想文なんて誰も気にしません。そこはのびのび出来て居心地が良くてようやく人間として生きる事を知ったのでした。思えば高校というのは実に狭い世界なのにそこにいる限りはそこしかないように思わされて抑圧され苦しめられた世界でした。本当は広い広い世界があったのに。外に行けばごくごく些細な問題だったのに目付きが悪い、態度が悪い、教室に溜まっていた。では、教室から出てバス停で話をしていると「バス停で溜まっていた」では、バスターミナルで話をしていると「ターミナルで溜まっていた」では、と私の家に行って女子だけ6人でインスタントラーメンを食べていたら「MYの家に溜まって何かしている」女の子なんか意味のないおしゃべりをしているだけなのにどんどん行き場が無くなって深夜に抜け出すしかなくなって行って。今思うと馬鹿馬鹿しいです。罪を作り出すだけの環境だったと思います。私は受け入れてくれる人なら誰でも良かったんですね。私は淋しくて淋しくて、誰かに受け入れて貰いたかったんですね。男性とも付き合いましたがそれも悲惨な事態を招きました。心の穴を埋めようとしてやる事はつまりネガティブな行動で自滅を促すようなものでした。子供は親に認めてもらえないと心に大きな穴を開けたまま生きて行くのでその穴を埋めようと必死でやる事は的外れで結局の所、自分で自分を追い詰めてしまう・・・。イコール、生きていくのが難しくなる。穴は大分埋まってきた最近の私です。その後マツオカ先生とは人間同士の付き合いをするようになりました。最近は音信不通ですが。私はマツオカ先生のような知的な大人になりたいと思いました。持っていないものほど欲しくなるのです!!だけど私は単なるお人よし~~~♪好奇心だけは旺盛なほにゃららです。ヽ(。_゜)ノ
January 20, 2006
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昨日の続きを書きます。私がマツオカ先生に守ってもらわなければいけなくなった発端の事件・2高校生活は元に戻ったように見えてじわじわと影響が出て来ました。家では怒った両親の棘に刺されていました。優しい校長先生が怒らないように、と言ってくれたせいで直接には怒られず、殴られる事も根掘り葉掘り聞かれる事も無かったのですがその代わりに無言の怒りの棘を全身から突き出した母が苛立ちを体中から発散させた父の怒りが毎日私を突き刺すようになりました。調度その頃両親は、全額借金で家を建てて鬼のような祖母から逃げ出した所でした。ですから私は両親の喜びに水を差したのでした。運動会で、競技と応援の両方が優勝と言う強い1年生に喜んでいた先生方や純粋に喜んでいた1年生たちにも水を差したのでした。そんな不愉快な存在になった私達でした。勿論いけない事をして皆の喜びを台無しにしたのでした。そんな中で、神社で一緒に打ち上げをした仲間は許してもらえる仲間だと思っていたのですがある日その中の数人から呼び出されました。「運動会の後で何をしていたのかお前が皆にぺらぺらと話しただろう」と言われました。知らない、と言っても「お前がしゃべっていたと聞いたぞ」と言われました。「ある事無い事、皆に喋りまくっているのはお前だろう!」と言われました。私は誰にも何も話していませんでした。濡れ衣もいい所でした。でも私はやっぱり何が何だか分からなくてぽか~~んとしていました。何が起きたのか、誰が何をしたのか、私がどんな立場に置かれたのか、さっぱり分かりませんでした。これは後になって知ったのですがある事無い事しゃべりまくって全てを私のせいにしていたのはKちゃんでした。結局の所、私は先生方、親、同級生、仲間全部から悪者として見られる事になってしまいました。自覚無しのうちにそうなっていました。鈍いにも程があります。私は孤立したものの、元々特別助けてくれる人もいなかったので悔しいけど平気だと思っていました。ある日、国語のSちゃん先生から呼び出されました。Sちゃん先生は30代後半くらいの女性で筋の通ったさばさばした感じの先生でした。Sちゃん先生は私を外に連れ出して正門の近くにある前庭に一緒に座りました。「実は校内読書感想文コンクールの発表があるんだけどMY(私)が1位なんだよ。でも今発表するとMYの名前が先生方に悪いイメージと重なって記憶されるから少し遅くなってからにしようと思う」と言われました。私は幼くてSちゃん先生が言っている意味が分かりませんでした。きっとSちゃん先生は私が先生方に悪く記憶される事を幾らかでも薄れさせたいと思っていたのでしょう。一晩家出した子が読書感想文で1位になったとあればやはりこの子がリーダーだろうと先生方は先入観を濃くするであろう事は疑いの無い事です。でも当時の私には全く想像も付かない事でした。それに、感想文は実の所、母が添削したのです。母は国語の教師で、赤ペンでしっかり添削しました。勿論私が頼んだ訳では無く、母が「こんな文は出せない」と言って勝手に添削しました。だから私としては感想文が1位になったのはうれしい事ではありませんでした。だって母が添削したんですから。荒削りの私だけの文章だったら1位にはならなかったかもしれませんから。それで尚の事本気にはなれずにボンヤリとSちゃん先生の話しを聞いていたのでした。Sちゃん先生はさばさばした人でしたが、なぜか私を擁護してくれました。大人になってから知ったのですがSちゃん先生も孤独で親と闘ってきた人でした。だから私の孤独や苦しみが見えたのかもしれません。それで私を助けてくれたんだと思います。校内読書感想文コンクールの授賞式は3学期になって行われました。せっかくのSちゃんの画策もあまり効果はありませんでした。2年生の春に修学旅行に行ったのですがある夜にクラスの女子達に呼び出されて責められました。何を責められたのか、もう憶えていませんが感情をぶつけられる理由が分からずやっぱり何が何だか分かりませんでした。2年生ではKちゃんも同じクラスでした。Kちゃんと私と、私達と仲の良い数人がクラスの女子に囲まれて責められました。未だにこの時の事は分かりませんが多分集団心理みたいなモノだったんじゃないかと思います。その後私はKちゃん達とは余り付き合わなくなりました。私は色んな出来事を吟味する事も無く暮していました。Kちゃんと付き合わなくなった理由は多分「何となく」です。仲良くする理由も、付き合わなくなる理由もその頃は確定したものはありませんでした。でも、付き合わなくなるまでに私はKちゃんから良くない事を沢山吹き込まれました。ある日、喫茶店でKちゃんが私ともう一人の女子にタバコを勧めました。私はそれまでタバコは大人のものと思っていたのでビックリしました。高校1年生がタバコを吸う事が出来るのか?何しろ運動会のあった秋に、Kちゃんに引き回されてたまり場に初めて行き初めて本物の不良を見たのでした。内心「高校3年生ってタバコ吸ってもいいんだ~」と驚いたのでした。タバコは大人のモノという認識しか無かったので私には吸うも吸わないも無かったのでした。そのしばらく後では高校1年生がタバコを吸っているのを見て「1年生もタバコを吸うんだ!」と驚きました。それでKちゃんにタバコを勧められてビックリしたものの、自分にとってタバコとは?なんて考えた事がなかったので勧められると「うん」と言ってもらってしまったのでした。考えない事の危険性を学ぶ事ができますね。私は考える事が無いと理解も判断も出来ない人です。私は家に帰ってお風呂場の湯船の中に浸かってタバコを吸ってみました。感想は「むせない」でした。こうして私は不良になろうとしました。なぜかと言えば、一晩の行方不明事件の後で皆から不良と言われたのでそんなに言われるのなら、何もしてなくても悪い悪いと言われるのならいっそ本当に不良になってやろう!!と思ったのでした。真面目に生きて行く事に見切りをつけたのでした。もういいやって。いいや、どうせ何をしたってしなくたって悪く言われるんだもの。高校の教師達はいつも冷たい目で私を見ました。先入観の目で見ました。2年生の後期から私は学級委員に選ばれました。男子を差置いて何故か私が選ばれました。さっぱり分かりませんでした。ずーーっと疑問でした。何故私が学級委員?少し前まで私は女子から弾かれていたのに?クラスのまとまりの邪魔をしているとみんなから責められたのに?勉強もしない、部活もいい加減な鈍くてボンヤリのこの私が?もしかしたら、その頃また読書感想文コンクールの授賞式があって私は2位でした。それが皆の思考に何か作用したのかもしれません。私としては母の添削にも関わらず2位になったので内心仕返しをしてやったりという気分でした。1位じゃないぜ、ふん。みたいな。学級委員になると、色んな用事があって職員室に行ったり相談室にプリントを貰いに行ったりします。その時に一部の先生に会うと「おうMYまた何かやったか!」と意地悪な声を掛けられました。それは3年まで続きました。私は1年の時にしか事件は起さなかったのに。ずーっと言われました。人間の先入観、思い込みは真実を捻じ曲げる力があります。<< 続く >>
January 19, 2006
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昨日の続きを書きます。私を守ってくれたたった一人のマツオカ先生。そのマツオカ先生に守ってもらわなければならなかった発端の事件について書きます。この話は多分全部を形にするのは初めてです。人にはなかなか言えない事でした。私は高1の秋の運動会で応援団に選ばれました。生徒会執行部の応援団員でもあったので選ばれました。私の入った高校は男女共学で、運動会は学年ごとにまとまって対戦するものでした。色んな準備を沢山しました。応援合戦用には「黄色いさくらんぼ」を選び、スコート姿の女子が高い壇の上で踊る事になりました。男子が少な目の割合だったので、女子が中心になりました。ぼうっとしている私は手伝い役でした。中心になっていたのは活発ではきはきしているKちゃんでした。Kちゃんは小柄でぽっちゃりタイプの大変なおしゃべりで行動的でした。誰もKちゃんにはかないませんでした。何がかなわないかと言えば、かなりマセていたため何も驚かないスレた少女だったのでどんな時にも誰もかなわないのでした。でも一見すると、小柄で可愛らしく振舞うため本性はめったに見えません。そしてその本性を見たのは私だけだったのかもしれません。特に大人はころりと騙されました。Kちゃんを中心にして男子が行動し、1年生連合は上級生を差し置いて競技も応援も両方が1位になりました。それですっかり浮かれてしまった私達運動会の応援団はちょっとしたお菓子や飲み物を持って近くの神社に行き10人くらいで打ち上げをしました。私の家は帰り時間についてはうるさかったのですが浮かれていたのですっかり大胆になってしまいワイワイと大騒ぎをしていました。今となっては何をしていたのかはっきり覚えていないのですがとにかくこっちの数人と騒ぎ、あっちの数人と騒ぎ、2人だけで話をし、又数人で騒ぐを繰り返していました。林に囲まれた人の来ない神社では時間も常識も遠くに感じて、私は時間なんかどうでもいい気分になって行きました。気付いた時には帰らなければいけない時間をとっくに過ぎていました。これが生まれて初めての反抗だったのだと思います。帰りたくない家なので、帰りそびれたらどうでも良くなってしまったのでした。どうせ遅れて殴られるのなら、もっと遅れたって殴られるのだし、どうでもイイヤと捨て鉢な気持ちでした。そのうち一人帰り、2人帰りして残ったのは男子が3人と私とKちゃんでした。多分11時近くに高校の近くで男子達と別れて私とKちゃんは歩いていました。すると国道の手前で男子達が警察官に職務質問されているのが見えました。Kちゃんが瞬時に近くの店の看板の陰に隠れました。私もつられて一緒に隠れました。後になって考えると、この時が大事な「選択」の分かれ道でした。私は何も考えずにKちゃんの真似をしただけでした。全く何も分かっていませんでした。何故隠れたのか?隠れる必要があったのは何故か?Kちゃんは警察官を見て何を考えたのか?Kちゃんはどんな少女だったのか?私は素朴な幼い子供だったので何も分かっていませんでした。あの時隠れずに警察官に見つかっていたら怒られただけで済んでいたかもしれません。やがて男子達から話を聞いた警察官はこちらに向かって来ました。私たちの隠れている看板の前を通り過ぎて高校の方へ行ってしまいました。Kちゃんはしばらくしてから国道の方に歩き出しました。すでにその時には家に真っ直ぐ帰れない気持ちになっていました。なんだか分からないけど警察に追われているのですから「遅くなってゴメンナサイ」だけでは済まないような気がしてとにかく逃げなければいけないと思ったのでした。おかしなもので、殴られる覚悟で帰ろうとしていたのに追われていると分かったら逃げなければならないと思ったのです。Kちゃんは「国道を歩いていると見つかるから」と言って脇道に入りました。そして一晩中2人で畑や田んぼの中を歩きました。今思えば、人に見つからないようにとKちゃんが人気の無い所を選んでいたのが分かります。私は眠くて眠くて、モウロウとしながら歩いていました。この時歩きながら寝る、を経験しました。ひたすら歩いていました。明るくなりかけた時にKちゃんは国道に出ました。その頃の事は眠くて私は殆んど憶えていません。Kちゃんは手を挙げて車を止めました。止まった車の後部座席に乗せてもらいました。その後は2人ともドロのように眠りました。時々目が覚めて見た景色や前に座っている三十代の男性二人の会話から車は新庄を抜けて庄内地方に入り酒田で用事を済ませてUターンして山形を通り過ぎて夕方に上山で止まりましました。上山の旅館では二階の座敷にご馳走を並べてありました。私とKはセーラー服のまま2人の男性と一緒に二階に行きご馳走を頂きました。私は疑いを知らない子供だったのでその男性たちがやたらとビールを勧める理由が分からず「ビールはお父さんの晩酌を少し飲んだ事があるよ」なんて無邪気に浮かれて話していました。何しろ前日の夕方に家に帰りそびれてから非現実的な出来事の連続となっていたので私には何がなにやら掴めずにいたのです。Kがトイレに行き、私一人になると男性の態度が一変しました。私の手を掴んで無理矢理隣りの部屋に引き摺り込もうとしたのです。すると、隣りの部屋には布団が敷いてありました。その頃の私は男女間の性については全く疎くて本当に何も知りませんでした。でも布団が敷いてあるのを見た時に鈍い私の中で危険信号が鳴り響きました。何だか分からないけど、とにかく全力で抵抗しました。暴れて騒いでいるとKがやって来て押入れの中から学生カバンを取り出し次いで私を引っ張って助け出すと階段を駆け下りました。Kに助けられて泡を食って逃げる私の目にそこの旅館の家族が一階の茶の間で団欒をしているのが見えました。5人くらいでお茶を飲みつつテレビなんかを見ているのが逃げる私の目にくっきりと焼き付きました。旅館の団欒の一瞬は日常的。布団に引きずり込まれそうになって逃げ出す私は非日常的。日常と非日常の一瞬の出会いの瞬間を私はとても強く記憶に刻み込みました。私にとってそれは晴天の霹靂でした。私が女だなんて、自分で意識した事も無く自分でそれを他人に許したことすら無いのに知らない中年の男性に踏みにじられそうになったんですから晴天の霹靂としか言いようがありませんでした。自分でも知らない事でしたから。自分が男性から見たら女だなんて知りませんでしたから。何しろ学校の廊下の水道で頭を洗って水を滴らせて平気だった少女です。後頭部を虎刈りにしてしまっても平気で歩いていた少女です。その後、肉体を憎んだ少女です。知るわけ無いじゃないですか、男性の肉欲なんて。旅館の外に転がり出るとそこにはタクシーが待っていました。そのタクシーに乗って逃げ出しました。Kはトイレに行った振りをしてカバンを押入れに隠し、タクシーを呼んでいたのです。なんと用意周到な16歳でしょうか。あの雰囲気からKは危険を察知していたのです。Kは何もかも知り尽くした16歳でした。片や私は何も知らない素朴な15歳でした。(誕生日が3月なので、いつも1歳若いんです)そうしてKと私は上山駅に行って下りの電車ホームに立っていました。何故そこでKが帰る気になったのかそこで逃避行を止める気になったのか。でもそこで帰っていなければ、又どんな危険な事に遭遇していたのか分かりませんからとにかくよくぞ帰ったと思います。私はと言えば、あまりの非現実的な出来事に圧倒されて本来の判断力の無さを倍増した無知になっていましたから帰るとか帰らないとか、そんな事を判断する状況には無かったのです。ただ、Kちゃんの先を見通す観察力と判断力に驚いていたのでした。するとそこへ私を布団に連れ込もうとした男性が来て私とKに千円ずつを握らせて「この事は黙っててくれ」と言って帰って行きました。電車の中ではKがいわゆる「口裏を合わせる」ために私に色々と教え込んでいました。一晩中歩いていて山形の近くまで行って電車で帰って来た事にしよう。と。車に乗せて貰って恐ろしい目に合った事は言わないようにしよう。と。高校のある駅で降りると、調度ホームに同級生達がいました。仲の良い子が私達を見つけると駆け寄ってきました。そしてそのうちの一人が「心配させてバカ!!!」と言って私とKちゃんの頬を叩きました。心配したために愛情から叩かれたのは初めてでした。親が言う事を利かないからと言って叩く往復ビンタとは違ってどこか甘い愛が感じられました。「私は今、愛情で叩かれた」と自覚できました。だから痛くありませんでした。叩かれて感動したのはこの時だけです。泣きながら叩いた友達を見ていて初めて私達が帰らない事で皆に心配を掛けた、と知りました。それまでは皆がどんな思いでいるかなんて考えてもみませんでした。親が怒る。親に殴られる。それしか考えていませんでした。高校に行くとすぐに校長室に連れて行かれました。親も来て、狭い校長室は沢山の先生方とでギュウギュウ詰めになりました。校長先生はとても優しい穏かな方なのであまり騒ぎにはなりませんでした。Kは先生方の前でわんわん泣いていました。涙をボロボロこぼして泣き続けました。大人の前では泣いていた方が反省しているように見えて受けがいい事をKちゃんは知っていたのです。そして当時の私はそんな事は考えてもいませんからとにかく非現実的な出来事の連続に神経がすっかりやられてしまってボーーッとしていました。その姿は教師達から見ると泣きじゃくるKが素直な子に反応の無い私はふてくされた子に写っていたようです。それでそれ以後、私がボスでKが着いて行ったと判断されたようです。何しろ優しい校長先生は余計な事を聞くなとオフレを出していたようで、細かい事は一切聞かれませんでした。それで先生達は見た所を情報源に考えを広げていったのです。だから私がボスでKが子分、と言うわけでした。何しろ私が教師の娘と言う事と知能指数がすごく高いと言う事が悪い方に取られました。でも大袈裟ではなく私は物凄く幼かったのです。多分、今の小学高学年より幼いと思います。不良が本当にいる事も知りませんでしたから。Kちゃんと仲良くしている事がどれほど危険な事か全く知りませんでしたから。あまりKちゃんが泣くので校長先生の計らいで「しばらく2人だけにしてあげよう」と言って全員が校長室から出て行きました。2人だけになると泣きじゃくっていたKちゃんがぴたりと泣き止みました。そして目に当てていた手を外して私を見ました。私はまだ意味が分からずKちゃんを見ていました。するとKちゃんはペロッと舌を出して「上手だろ」と笑って言いました。直前までKちゃんは泣きながらわんわん涙を流していたのです。私は意味が分かりませんでした。ただ「あれは嘘泣きだったんだ」と気付きました。そして何故嘘泣きが必要だったんだろう?と考えました。でもその頃の私には大人の事も事の裏側の事も全く解らず、Kちゃんのしている事の意味が解りませんでした。長くなったので続きは明日書きます。
January 18, 2006
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自分が一番正しくて、他の人はみんな愚かだと思っていた私の母は自分の子供にも沢山の事を要求して押し付けました。大変キツイ人だったので私はなかなか言い返せませんでした。ガミガミガミガミ怒る人でした。小学4年生の頃に、弟と私は両親の前に呼ばれて正座をさせられました。そして厳かに父がこう言い渡しました。「これから我が家はスパルタ式でやって行く」小学4年の私と2年の弟は何を言われたのか解りませんでした。所が2人でケンカをしているとケンカ両成敗と言って家の隅まで追い詰められて往復ビンタをされました。事情を聞きもせずに殴るという親の行為は私には愚劣な事にしか思えませんでした。だから絶対謝りませんでした。殴られても睨んでいました。私にとって泣かない、睨むというのがたった一つの自己表現だったんですね。悪かったら謝るけど、悪いかどうかを検討もしないで叩くのでは私は納得できませんでした。それ以前も居心地が悪かったのですがその「スパルタ式教育方」を取り入れてからと言うもの私の中には矛盾が膨らんでいきました。多分、父が何処からか仕入れて来てこれは良い!と思ったんでしょうね。父は父親のいない子供時代を過ごしたので私達が大きくなって来たら、どう父親をやっていいのか解らなかったんでしょうね。それでビシバシとスパルタ式を取り入れると子供が正しく育つと思いついたんでしょうね。父は短絡な思考の人なので仕方がないと言えば仕方ない事ですがそれを止めるのが妻じゃないか!!とか突っ込みたいです。結局それ以後に家の中の土台はどんどん傾いで行った気がします。いつも忙しくてイライラしていて怒っていて感情的な母に理性的な話をしても無駄だと私は段々気付いて行きました。でも一度だけ母に正面から立ち向った事があります。それは中学1年の時でした。字がとても上手な母は字が下手な私と弟にいつもガミガミ言っていました。書き方をこうしろああしろと言いましたが私と弟の字は上手になりませんでした。何しろ母は「この辺で私より字が上手な人は○さんと○さんくらいだ」と言っている人でした。「どうして私の子供が2人とも字が下手なんだ」と怒っている人でした。今思うと、とても傲慢な人で父はこの人のこういう強い所が好きだったんでしょうか?私が母に一度だけ立ち向ったのは中学1年の春か秋でした。私は2Hのシャープペンシルで宿題を書いていました。奥の六畳に私達4人家族の部屋があって宿題もそこでしていました。勉強机は部屋の外の広い廊下のような所にありました。でも何故かその時は自分の机ではなく六畳にいたのです。その頃は家族と一緒にいる事の方が良かったのでしょうか?私がノートに字を書いていると母が言いました。母「なんでそんな薄いペンシルで字を書いているの! あなたは字が下手なのだから濃い鉛筆で字を書きなさい!!」私「私はこれでいいの」母「字が下手な人は2Bの濃い鉛筆で書かないと 益々字が下手になるんだよ!! いつも言ってるじゃないの。なんで2Bを使わないの?!!」ガミガミガミガミガミガミ・・・・・・・・・・。自分だけが正しい母は私の言う事なんか全く聞く耳を持っていません。しかも、母が私を叱って自分に火の粉が飛ばないと分かると弟がしゃしゃり出て来て母に加勢してワイワイ口を出します。自分も字が下手なのに弟は自分は傷付かないと分かると攻撃態勢に入るのです。そしていかに薄い鉛筆で字を書くと字が下手になるか、濃い鉛筆を使うと上手になって行くかを2人掛かりでこんこんと言い続けたのでした。その頃の私は中学1年ですからペンシルの芯の濃さくらいは自分で選びたいわけです。私「私は字を書くとき力を込めて書くから 濃い鉛筆で書くと字が手に摺れて、 ノートが汚くなるから薄いので書いてるんだ」と幾ら言っても全く聞く耳を持たない母と弟。私は段々腹が立って来て追い詰められてしまいました。鉛筆の濃さまで母に従わなければならないのかと思うと腹が立ち、自分が怒られる状況に無いから加勢する弟の卑屈さに腹が立ち、ブッツンと切れてしまいました。そして私は自分に理由があるのにも関わらず、私の言い分を全く無視される事が悔しくて、泣きながらノートと2Bの鉛筆を持って来て泣きながら字を書きました。ガミガミ言っていた母と弟も私の剣幕に驚き、私の字が力のこもった字で2B以上に濃く書き残りそれを左隣りの行に字を書き連ねていくとどんどんすれて汚くなって行くのを見ていました。そして4~5行書いて「ほら!」と見せると母は腑に落ちないと言う顔で仕方無しに「ふ~~~~ん」と言いました。弟は黙って母や私の様子を見ていました。私は初めて泣きながら訴えたのでした。自分の考えを言い通したのでした。でも母は汚い私のノートを見ても自分が間違っていた事を認める事が出来なかったのです。だから「ふ~~~~ん」です。なのに「ふ~~~~ん」です。「『あらゴメンネ。言い過ぎたね』くらい言ってみろってんだーーーーっ!!!」って、その頃言えたら良かったのに。私は泣きながら理不尽な思いを胸に溜め込んでもうこの母親と弟には関わるまい、真に受けるまいと心に堅く誓ったのでした。ですからそれ以来、私は母に正面から持論をぶちまけた事はありません。一度頑張って闘ってみて、こんな人と闘うのは無駄だと見切りをつけてしまったのです。諦めないで闘い続ければ良かったのに。私ってすぐに諦めてしまうんです。人と争うのがイヤだったんです。自分が無視すればいいんだと思っていたんです。私の闘いで、もしかしたら母も変わったかもしれないのに。(夫は劇的に変わりましたから)今もあの時の母と弟の態度や顔付きをはっきり憶えています。自分の感情を剥き出しにしてしまった悔しさも憶えています。私にとって、泣きながら人に自分の考えを訴えるという状態はとても苦痛でした。もうこんなのはイヤだと思ったのでした。今では母も認知症で何を言っても笑って誤魔化す老婆となってしまいました。弟に至っては昔の事は皆忘れたそうです。ただ私に馬乗りにされて惨めだった事は憶えているそうで何故私が馬乗りなったのか、自分が大嘘吐きでずるくて卑怯なヤツだった事も恐がりでいつも泣いていた事も、威張り散らして私に「後ろを歩け!」と命令していた事もみんな忘れたそうです。いいなあ~忘れるって。都合の悪い事はみい~んな忘れるんだ~~。ふ~~ん。でも弟は高校2年の夏に私が仙台から帰ってきた時「恥ずかしいから昔の俺の事は言わないでくれ」と言っていました。だから高校2年の時は自覚があったんですね。この間馬乗りの話になった時に弟に言えば良かったのに、私はまた飲み込んだのでした。馬乗りになった理由を。だって修羅場になるのが嫌なんですね。やっぱり飲み込んでしまうみたいです。弟は自分が嫌な話をされると怒って立ち去り、その後数年間口を利かないと言う前歴があるんです。だから下手な事を言っても、と思ってしまったのです。何とかちゃんと口に出して言うようにしないと。でも口にすると、長い間に積もり積もった苦しみを一緒に噴出してしまうんじゃないかと恐いんですね。平常心で口に出せるのかどうかがとても不安なんです。少しずつだせるようにしないといけないですね。人に嫌な思いをさせたくはないんです。それが甘いのかなぁ。●ポンスケ●今日の夕方の娘の発言。娘「ワシに何か甘い物を・・・」私「良いよ~。何か探してきて」八畳の食品を入れている食器棚に向う娘。しばらくしてきぃーきぃー声で叫びながら戻ってきた娘。娘「ポンスケ!ポンスケ!!ポンスケ!!!」何事かと見ると、娘の手には100円のお菓子が。その名も「ポンスケ」だったーーーっ!!!ボックス型の揚げせんの名前が「ポンスケ」!!!面白くないですか?写真を撮りましたので笑って下さい。その名も「ポンスケ」!!!ああ~ずっと買っていたのは私なのに気付きませんでした~~~~っ!悔しい~~~。こんな素適なネタに気付かないなんて。娘にお株を取られた私でした。(- -ヾ
January 12, 2006
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一番強力なセーターを着ているのに今日は寒いです。今年一番の寒さでしょうか。今日は曇り空で低気圧が頑張っているらしくて頭痛とだるさで頭が働きません。今年の山形は久しぶりの大雪らしくて実家に行くのは諦めました。事故に合うのが恐いです。頭は働かないしぐらぐらするし寒いので冬に負けないように楽しい思い出を書こうかな~。●箸が転がっても可笑しいお年頃だった話●私が学生時代に仲良しで大好きだったK子ちゃんとはアパートが一緒でした。私が1階の南西の角部屋。K子ちゃんは私の部屋の外の脇にある階段を上った2階にありました。アパートの名前は菊○荘というので皆は「キクちゃん」と呼んでいました。私もK子ちゃんも大学3年になると段々夜中心の生活になりました。私は夜に油絵を描いていました。K子ちゃんはマンガを描いていました。K子ちゃんのお父さんは油絵の画家でK子ちゃんはその血を引いたらしくて絵が上手でした。K子ちゃんはなんでもさささと描きました。私は薄塗りを何度も繰り返して時間を掛けて油絵を描きました。他の友達は夜には寝ていたので深夜になると私とK子ちゃんの2人でインスタントコーヒーを飲んだりおしゃべりをしていました。ある夜K子ちゃんの部屋でいつものように話をしていた時、どちらが言い出したのだったか「箸が転がっても可笑しい年頃って言うけど本当かな?」なんて話になりました。「じゃ、やってみよう」と言うのでK子ちゃんが台所から箸を持って来ました。そして転がしてみました。自分達が馬鹿な事をしているという自覚がふつふつと湧いてきて笑いました。私とK子ちゃんはお互いを見て笑いました。「箸を転がして笑っている~~~っ!!!」と言ってはまた笑いました。もう一度、箸を転がして笑いました。箸なんかを転がして笑っている自分達が可笑しいとまた笑いました。そんな事で笑っている自分達を考えるとまた下らなくて笑いました。そうしてずーーーーーーっと笑っていました。涙を流して笑っていました。ドツボにはまって笑いが止まらなくなりました。床に転がって笑っていました。「お、お、お腹が痛い~~」「ダメだ可笑しくてダメだ~~」「止まらない~~~っ」「箸~~転がしてる~~」「バカみたい~~~~」ひぃひぃと笑いながら涙を流していました。そして何と朝になってしまったのです!!K子ちゃんの下の部屋に住んでいるK子ちゃんの高校からの友達のKIちゃんがネグリジェ姿でやって来ました。「朝から何をしてるの?」賑やかなので見に来たのです。それでKIちゃんに「箸を転がして笑えるかやってみたら可笑しくて夜からずっと2人で笑っていた」と言いながらやっぱり私とK子ちゃんは笑っていました。するとKIちゃんも私たちを見ながら「どうしてそんな事で笑っているの?」と言いながらも、すでに私たちの笑いの渦に巻き込まれていました。そして早朝に3人の二十歳の女の子が膝を突き合せて身を崩して笑い合ったのでした。もう~ずっと笑っていました。KIちゃんは仕事があるので仕方なく名残惜しそうに笑いながら去って行きました。私とK子ちゃんはまだ笑っていました。笑っていてご飯は食べられなかったので朝ごはん抜きで出掛けました。9時から授業があったので2人で出掛けました。大学まで道を歩くと16分くらい掛かるのですがアパートの近くの崖を上って行くと4分で行けます。それでその近辺に住んでいた学生はみんな崖を上って行きました。でも、笑いながら崖を上るのは大変です。足に力が入らずにしっかり上れないんです。しかも一晩中笑っていたために笑いのツボにはまり込んでしまいK子ちゃんと私はお互いを引っ張ったり助け合いながらやっとやっと進みました。ですが道の真ん中で笑い転げて地面に倒れたり、その辺にぶつかって動けなくなったりしました。その間も笑っていました。ようやく大学に着いた時には力尽きていました。いつもの倍は掛かりました。皆に一晩中笑っていた話をしました。そして講義中も笑いは消えずにずーっと笑っていました。座った近くの人もつられて笑っていました。その日は昼で授業が終わったので帰ったのですが帰り道も笑っていました。道を転げながら笑っていました。K子ちゃんも私も疲れ果ててしまったのですがやっぱり笑っていました。アパートに着いてお互いの部屋に帰り着きようやく落ち着いたんだったかな~。そこの記憶はあやふやです。私の人生で一番笑った記憶です。止まりませんでしたね~~~。箸が転がっているのを見ても10時間笑う事が出来るんですね~。今思うと、アパートの他の住人達がうるさいと言わないでよく許してくれていたものだと思います。毎日ワイワイと大騒ぎをしていたのに。怒られた事がありませんでした。アパートの皆さん、その節は騒いでばかりいて申し訳ありませんでした。m(_ _)m●今年最後に贅沢を●無職生活の無収入中に付き、珈琲はインスタントを飲んでいました。本来はブラジルの豆が大好きです。味はかなり落ちますが久久に豆を買いました。 セールス品なので新鮮ではないのかあんまり美味しく無かったですが豆は豆。今年最後の贅沢です。うふ。 ●冬のノボタン●11月の末に冬越しのためにようやく庭から掘り上げたノボタンは端々が力尽きて蕾が落ちましたが最近3個のお花が咲きました。 今年の春に地植えにしたら、巨大化してしまいました。ベンジャミンより大きくなって1メートル55センチくらいです。 どなたか徒長したノボタンをどうすれば良いのか教えて下さい!!ヽ(≧Д≦;)ノ来年は木になってしまいます!!
December 29, 2005
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昔、優しい音楽が嫌いだった。学生時代の友人達ははっぴいえんど(細野晴臣・鈴木茂等)、シュガーベイブ(山下達郎・大貫妙子)や中川イサト、大滝詠一が好きだった。「はっぴいえんど」のベストヒッツです。「細野晴臣」です。変人です。後に坂本龍一らと「Y・M・O」を作りました。「PARAISO」が好きでした。「鈴木茂」です。はっぴいえんどのギタリストでした。私は一人になってからの鈴木茂が好きでした。「シュガーベイブ」です。山下達郎、大貫妙子がいました。「ダウンタウンに繰り出そう~♪」は有名な曲です。聴くと「ああ~~」と言う人がいると思います。「山下達郎」です。「大貫妙子」です。この人も聴くと「ああ~」と言う人がいると思います。「中川イサト」です。ゆったりのんびり。「お茶の時間」がいいです。「大滝詠一」です。知っている人も多いと思います。私はその頃、ほのぼのした歌は嫌いだった。山下達郎も細野さんも大滝さんも鈴木茂も好きだったけど。フォークで好きだったのは唯一五輪真弓だけだった。苦しくて悲しくて切実で純粋な五輪真弓。ムーディーブルースの荘厳な音が好きだった。苦しみに正面からぶつかっているロックが好きだった。大好きなK子ちゃんちに皆で泊まりに行った時、皆で大貫妙子の「ピーターラビットは私の友達」というメルヘンチックな曲を聴いて可愛い可愛いと大騒ぎをしていた。ラジオから流れて来た曲に合わせて歌っていた。皆優しい曲が好きでフォーク系の音楽が好きだった。Jポップの走りの山下達郎や細野晴臣なんかが好きだった。K子ちゃんはロック・ジャズ・フォーク・Jポップ・ソウルなんでも聴いていた。くみちゃんは中川イサトや細野晴臣などのほのぼのした曲や変わった曲ををいつも流していた。私は皆に付き合っていたけれど本当は20歳を過ぎて「ピーターラビット」は無いだろうと思っていた。そんな曲を作る大貫妙子もどうなっているんだろうと思っていた。その思いを口に出すのも文章にするのもこれが初めてだ。だって皆と感性が違いすぎる事に直面したくなかった。大事な友達を失くしたくなかった。勿論友達はそんな事で私をはじき出したりする人はいない。でもあの暖かい雰囲気の中にいるのが大好きだった。皆愛されて育った人達だった。仲良くなってから知ったのだが仲良し6人のうち、教師の娘が4人もいた。どんなにイヤだと親から逃げても「教師の娘」からは逃れられないんだと思った。似た様な環境がもたらす共通点や基が話しやすかったり解りやすかったのかもしれない。でも皆親から愛されていた。教師の娘でも愛されていた。受け入れられていた。だから居心地が良かった。些細な事でガミガミ怒ったりしない。些細な事で追求したりしない。些細な事で命令したりしない。些細な事で馬鹿にしたりしない。人に要求しない。押し付けない。責めない。個性を認めて褒める人達だった。だから皆といると居心地が良かった。自分も幾らかふんわりした人になれる気がした。だけど優しい曲を聴くと内心反発心が湧いた。私が生きてきた中にはそんなほのぼのした思いになれるものは余り無かった。だって小さい時から闘っていた。小学4年で自殺をする必要性を認めた。そんな日々だったのだ。そう、私は何故友達のようにほのぼの出来ないのか?随分考えたものだった。皆と一緒に楽しめない自分が悲しかった。どこにいても馴染めない自分が悲しかった。家でも高校でも居場所が無くて当然だと思った。人間として好きな人はいなかったし、人間的に尊敬していたのも担任の先生だけだったからだから居場所が無くても当然だと思った。でもKちゃんたちと一緒にいて感じる孤独感は辛かった。もうどこにも行き場所がなくなってしまう。学生時代に住んでいたアパートは背中合わせに東側と西側に4~5部屋ずつ並んでいる二階建てだった。私の部屋は西側一階の南端。K子ちゃんの部屋は私の部屋の隣りにある階段を上った二番目の部屋だった。くみちゃんは東側の一階。k子ちゃんの友達のKIちゃんは私の二軒隣り。同じクラスで寮も一緒だったAちゃんはくみちゃんの上。Eは東斜め向かいのアパートにいた。近辺には同級生が沢山いた。自宅通学の人もK子ちゃんが好きで集まってくる人も沢山いた。K子ちゃんの部屋に行くためには皆私の部屋の脇の階段を上って行く。私の部屋の曇りガラスの窓越しに誰がK子ちゃんの部屋に行ったのか解ってしまう。窓を開けていれば声が壁に反響して皆の楽しそうな声が聞こえて来る。楽しそうだ。でも私は行けない。心にずっしりと圧し掛かる孤独感を癒すために友達を使いたくは無い。自分のために友達を利用したくない。純粋な友情を利用したくない。孤独で死にそうだと思いながら行ったら甘えてしまいそうで行けない。人に甘えた事が無いから、どんな風に自分の感情を出していいのか解らない。感情を出したら、どんな自分になるのか分からない。だから恐くて皆の所に行けない。行きたい程行けない。だから私は行かなかった。行けなかった。孤独感に潰されそうになるほどに孤独感と闘わなければならなかった。そして一人で絵を描いていた。自分を表す事の出来る私の唯一の手段だった。今思うと、絵があって良かったと思う。自分を支えるモノが一つでもあって良かったと思う。そうやって誰にも言わずに私は環境や性格と闘っていた。離れている母と闘っていた。だからほのぼのした曲に対して反抗心が出たのかもしれない。いつも闘っている人間はほのぼのした音楽に共感しないのかもしれない。私ってストイックな人間なんだろうか。とにかく自分の感情を出すのが下手でストレートに出せない。かくしてストイックな私は子供を育てながら愛情を注ぐ事を経験し、子供に愛情を与えてもらい自分を捨てて子供を育てる事を知り、自分のためだけに生きる事から離れ、優しい感情を認める事が出来るようになってようやく優しい音楽を「心が優しくなる音楽だ」と思えるようになった。今では教育テレビのみんなの歌の不思議な音楽も好き。優しくてふわふわしたボサノバや一十三十一も好き。人が好きと言った音楽はみんな聴いてみる。その人の何がその音楽を欲したのか、どこに惹かれたのかを考えてみる。どんな音楽もその人の心を揺さぶるのだからきっと素適な音楽。そんな風に思えるうようになった今は生きる事が大分楽になり、もう滅多に泣かないし孤独で死にそうだとは思わなくなった。心の拠り所があるので、一人でも大丈夫。人と違っていても大丈夫。弾かれても大丈夫。なんとか立って歩いている。今は中川イサトのCDが欲しいくらいに大貫妙子の「メトロポリタンミュージアム」を口ずさむくらいにほのぼのも好きになった。心の解放と共に好きな音楽も増えて行くようだ。◆音楽覚書◆●一十三十一(ヒトミトイ) ・試聴・Artist Data・Hatena::Diary●中川イサト・試聴・HP●山下達郎・HP●細野晴臣・HP・試聴●大貫妙子・HP・試聴●ボサノバ・ウィキペディア・goo私が特に好きなヴォーカルはガル・コスタです。普段聴く音楽では男性ヴォーカリストの声に惹かれるのにボサノバでは女性の声がとっても好きです。
December 27, 2005
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昨日書いた「青空の思い出」の中学編を書きます。小学校の時の青空の思い出は真夏の冒険の思い出でした。中学の青空の思い出は中学2年の夏です。中1の秋に腎臓を悪くした私は部活の体操部を止めてすぐに家に帰る様になりました。それまでは毎日集団下校をしていました。カバンは肩掛けカバンでした。学校の登下校は毎日決まったメンバーで行かなければなりませんでした。家の南隣りのカズちゃん、西北向かいのミエコ、ミエコの家から北に5件隣りのミユキちゃんと私の4人でした。中1の一時期、小学校から近所のボスだったミエコから集中的にいじめられた事があります。そんな時私は時間をずらして登下校していました。今思い出してみると、子供ながらに臨機応変だったなあと思います。ミエコとは中1の時はクラスが違うので朝さえやり過ごせば何とかなったのです。中2でクラスが一緒になると何故かミエコは私と仲良くなりました。はて、なんだったんだろう?ミエコが意地悪モードじゃない時は朝はもくもくと歩き、帰りは4人で走って行きました。私は徒競走が苦手で、走ればいつもビリでした。そんな私なのに肩掛けカバンをぼんぼん飛ばしながら走ると何故か早く走れるのです。そう、私にとって走る事は嫌な思いしかなかったのですがカバンをぶら下げて走ると早くて楽しかったのです。4人でワイワイ騒ぎながら、ぞろぞろと歩いている中学生たちの間を縫って家までの30分を10分で駆け抜けるのです。これは楽しかったです。私はひょっとして障害物競走なんかだとまだしも早いのかもしれません。それが私の病気で帰りは一人行動となりました。それからの10ヶ月間、通院と下校を一人で行いました。病院はバスに乗って18分。歩いて20分掛かる所でした。ある日は雪が深くて長靴でザクザク踏み分けて行った憶えがあります。運動はドクターストップを言い渡されていたのですが中学1年なんて、ちょっとした事でつい騒いだりしてしまいます。病気で体育を休んでいるので、珍しがった男子がからかいます。それを見た女子がやっかんで「体育休んでるくせに騒いでいる」と言って非難するのでした。私にしてみたら病気で顔が腫れて運動をしなくなったので太って遊び回りもできずに悲しい事だらけの上に、男子にはからかわれ、女子には非難されて、理不尽な思いの日々でした。それで中学2年の初夏に病気が良くなって体育が出来るようになった時に私はまずプール開きにいきなり出場しました。何と言っても昔の盆地ですから泳げる人が少なかったのです。それでクラスの女子でも数少ない泳げる私は一年のブランクもものともせずにクラスマッチで闇雲に気力で泳ぎました!!!ええ~~い、出ちゃえーー!!って出ちゃいました。ヽ(。_゜)ノそしてじっと我慢の日々だった病気の1年から解放されてさて部活をどうしようか~と考えた私は体が硬いので体操部に戻る事は出来ずに結局友達がやっていたバレーボール部に入りました。体力がないのでサーブさえ入りませんでした。何をするのも皆に追い付きませんでした。でも鈍い私なりに部活をやりました。そして夏休みになると部活の帰りにバレー部のキヨちゃんちに皆で寄りました。キヨちゃんちの隣りには同級生のノボル君の家があって男子が何人か集まっていました。何しろノボル君は小さい時からずっと一緒でしたので始めはからかったりいたずらしたりのふざけたやり取りをしていました。そういう事が何度か続いてノボル君ちに来ていたトシ君達の家の所に遊びに行こうと言う話になりました。そしてカンカン照りの暑い夏の日に私とキヨちゃん、ミエコとミチコさんの四人はトシ君達が住んでいる住宅に遊びに行きました。トシ君達の住宅の所は小学校が別だったので初めての場所でした。住宅の近くには中学の裏を流れる大きい川がありました。川原も広くて両岸には雑木林もありました。そしてトシ君達はその川を石で堰き止めてダムにしていました!しかも木を組んで縛り付けてイカダを作っていたのです!!!何しろ「十二少年漂流記」や「トムソーヤの冒険」が大好きだった私は一瞬にして浮き立ちました。興奮状態になった私はすぐに靴を脱いで男子数人と一緒になってイカダに乗りました!!イカダの初航海に乗せて貰ったのです!!生まれて初めてのイカダでした。でも残念ながら、彼らも初めてのイカダ作りで浮きを付けていなかったため沈み始めました。と言っても、足首まで沈んでも何のそので5~6人の男子と私は半ば沈み掛けたイカダに乗ってワイワイと浮かれていました。そしてふと岸を見た私の目に映ったのはしゃがみ込んでつまらなそうにしている女子3人でした。彼女らにはイカダはお呼びではなかったようでした。どうしてこんなにすごい物に喜ばないのか?と、ふと思った記憶があります。本当に彼女らは「何やってんの?」って感じでした。イカダなのに!!!水に木が浮いているのに!(半ば沈んでいましたが)結局、イカダはどんどん沈んで深い所には行けないので途中で戻りました。堰き止めた川岸には果物が冷やしてありました。スイカや瓜やきゅうりやトマトがありました。私たち女子は喜んで「わあー!!冷やしておいしそう~」と喜んだのでしたがトシ君が「畑から持って来た」と言ったので血が引きました。彼らは勤め人の子供達で農家の子は一人もいなかったのです。それで聞いてみました。「どうやって畑から持って来たの?」と。すると彼らは何の躊躇も無く「盗んで来た」と言いました。ほんの少しも後悔の色も反省の色もありませんでした。その場にいたバレー部の女子4人はたまたま農家の子はいませんでした。キヨちゃんは自転車店の娘。ミエコは桶職人の娘。ミチコさんは会社員の娘。私は教師の娘。でも農家の人達が毎日頑張って働いた畑から平気で盗むと言うのはとてもいけない事だと思っていました。しかも彼らは恒常的に盗んでいてそれが全く平気そうでした。悪い事だと思っていないのでした。それが解ってしまったので帰り道の女子4人の足は重かったのです。口も重くなり、誰かがやっと口を開きました。「もう行くのは止めた方が良いね」「うん、もう行かない」「そうだね、行きたくない」「止めようね」理由について口にする勇気がありませんでした。同級生の犯罪を目にしてしまった事で共犯者になったような気がしたのだと思います。それでその件に関しては二度と口に上る事はありませんでした。その後は誘われても断わりました。それで一生に一度きりのイカダの大冒険は後味の悪い物になりました。ようやく病気と制約から解放されて開放的な夏を満喫していた私でしたがちょっとばかり躓きました。でも、秋になるとトシ君達には私の家に来てもらってプロペラ飛行機を皆で作ったりしました。それでも輝く太陽と川面に反射した光、青い空と陽を浴びて風に揺れる雑木林。男子達が皆で積み上げた石に堰き止められてダムになった川。手作りのイカダ。病気から解放された喜びの夏。健康を取り戻した夏。まだまだ未来は限りなくて自分がどう生きて行くか全く知らない13歳の夏は光輝く思い出に彩られていました。青い空の思い出はやはり私を子供時代に引き戻し元気をくれるのです。そして私は今日も空を眺めています。心にはいつも青空を!現在画像のメンテナンス中に付き新しい画像アップできません。
December 20, 2005
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ブログを始めて8ヶ月が経ちましたが最近になって、毎日のように空の写真を載せている事に気付きました。それで何故、空に心が行くのか書いてみようと思いました。私が苦しい時や混乱している時や辛い時にいつも心の中で思い浮かべるのが青空です。その青空は山形の夏の空です。それは小学生の時の夏空と中学生の時の夏空です。小学生の時の思い出の夏空は真っ青で入道雲がもくもくと沸き立っていました。確か小学5年生の頃に、家から歩いて40分ほどの所にある工業団地まで友達と4~5人で歩いていったのです。それは友達の一人の子のお父さんがその工業団地の会社に勤めていたので会社の中を見せて貰う事になったからです。何故そんな成り行きになったのか残念ながら憶えていません。でも女の子4~5人で考えて決めてそして行動したのでした。田舎の昔の女の子は行動範囲が余り広くないので歩いて40分も掛かる知らない所に行くのは大冒険でした。皆でおにぎりと水を入れた水筒をぶら下げて帽子を被って遠足モードで出かけました。かんかん照りの真夏の日曜日でした。行きの途中までは裏道を行きましたが、途中からは幹線道路を行かなければなりません。バスやトラックや車がブンブン通り抜ける道は歩き慣れない所でした。しかも歩道が無くて危険なので一列になって歩いて行きました。私はここの所を思い出すといじらしくなるんです。危険だから一列になって話もせずに真面目に歩いていた田舎の素朴な小学5年の女の子達。学校の課題ではなく、自分達の話の中で持ち上がって計画された職場訪問。行った事の無い所に行く事も今までした事の無い事をする事もみんな大冒険という気持ちでした。そんな中で見た青空と入道雲は今も鮮明に記憶に残っています。特に入道雲は音が聞こえそうなほどのもくもくとした大きな雲でした。それで私は余りに大きな入道雲に恐怖を覚えて思わず俯いてしまったのでした。入道雲が恐いと思ったのはその時が初めてでした。最近その話を母にした事があります。「あなたって本当に感受性が鋭いのねぇ」と言われました。そうなの?と驚きました。皆そうではなかったの?そう言えば、あの条件だったから馴染みのある入道雲も他所のものに見えたのだろうか?と思いました。知らない所へ子供だけで出かけて行く不安感が入道雲の勢いに怖気づかせたのかもしれないと今になって思い至ったのでした。あの夏の日、バスや車の中からしか見た事のなかった工業団地の広い道を私達はどきどきしながら歩いて行き、友達のお父さんが働いている大きな工場に入れてもらい、人気の無いガランとした所を説明してもらいながら見学をし外でおにぎりを食べたのでした。いつもは賑やかであろう工場の中が静まり返っている様子は子供心にも寂莫感が伝わって来て不思議な緊張感がありました。そして誰もいない工場に入れてもらうと言う特別扱いをして貰ったうれしさも相まって普段感じた事のない感情に満たされた記憶があります。ですから、工場の庭先で食べたおにぎりは本当の遠足の時に付いている海苔も付いていない梅干しか入っていない塩にぎりでしたがとってもおいしくて特別の味がしたのです。帰り道もずーっと一列で歩いて行きましたが行きと違って、何か特別な事を経験した高揚感に満たされてみんな意気揚々と足取りも軽く不安感も払拭されてルンルン気分でした。それが帰り道の空はあまり憶えていないのです。行きの不安なワクワク感の記憶が強くて消えてしまった感じです。こんな職場見学はこれ一度きりでした。その時の真っ青な空と入道雲がいつも浮かんでくるのです。まだ無垢だった私の心の喜びと共にある幸せな青い空は幸福感と一緒に記憶してあります。だからあの青空を思い出すと幸福感に満たされるのです。中学生の時の空の思い出は明日書きます。
December 19, 2005
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先日、リンクして頂いているbobozさんの6日の日記のコメントに「昔すごい店を開発しました」と書いたら「聞きたい」と書いていただいたのである意味ですごい店の話を書こうと思いました。私は個性的なお店や面白そうなお店やシンプルでオシャレなお店を開発するのが大好きでした。独身の頃は行動範囲も広かったので昼に移動している限りは視界に入るものをかなりチェックするのです。歩きの時はじっくり眺めて楽しみ、バイクの時には駆け抜けていても脳裏に刻んでいました。24年ほど前の独身の頃には夫が仙台に住んでいて私は山形に住んでいました。それで私は土曜日の夜に職場から仙台に直行して夫の所に通っていました。帰りは遅い時もあり、早い時もありでそんな帰り道に気になる店を見付けました。国道48号線上、大学病院前を通り過ぎた八幡町の下り線側にあるボロボロに見える店でした。木造りの二階家で、店の前には大きな1メートル以上ありそうな木の車輪が置いてありました。賑やかな通りの中でその店だけすすけた感じでした。でもそのすすけ具合がとっても異彩を放っていて私の好奇心を刺激するのです。喫茶店の看板が出ていたので喫茶店らしいと言う事が解りました。そして気になりながら1年ほどは眺めていたのですがある時、開店している時間に店の前を通りかかったので意を決してバイクを止めて入ってみました。ドアも木造りりでした。中に入ると客は誰もいませんでしたがカウンターの中にいたマスターがキンキン声で「いらっしゃいませ~」と声を掛けて来ました。カウンターも床も木でした。真ん中が通路になっていて店の一番奥まで続いていました。向って右側がカウンターとストールがあり、左側には一段高くなった所にテーブルとベンチ式の椅子が3セットほど置いてありました。何もかもがすすけた感じの艶無しの木造りでした。テーブルが置いてある所の周りには奥行きが20~30センチの飾り棚があり、その上や壁には沢山の柱時計が飾ってありました。何十個もの柱時計がありました。それもすすけた感じでした。一番奥のテーブルに座って身繕いをしているとマスターがやって来て水を置きました。マスターは小柄な30代後半くらいの男性でした。そしてとってもマッチョでした。ムキムキの筋肉隆々の身体付きのマスターは白いランニングを着ていたのでマッチョ具合がすごく見えるのでした。頭は短く七分くらいに刈り込んでありました。そしてマッチョなムキムキマンの小柄なマスターはキンキン声で「ご注文はお決まりですか?」と聞いてきました。もう~~~マッチョを裏切るキンキンの甲高い声でした。入っただけで忘れられないインパクトを貰った店は私はここしかなかったですね~~。私は珈琲を頼み、トイレを借りました。店の奥の突き当たりに西部劇の酒屋の入口にある顔の高さ位までの元に戻る木の扉がありました。そこを抜けると左側にトイレがありましたがそこでも何かとってもインパクトが強かった・びっくりした!と言う記憶があるのですが、忘れてしまいました。トイレの奥にも何かありそうでした。珈琲を飲み終わると、マスターがサービスで昆布茶を持ってきてくれました。とっても不思議な空気感のあるお店でした。規格品にはない個性的なお店でした。それからは店が開いていれば寄るようになりました。私以外の客がいた時は何度かあったのですが繁盛しているとは言いがたかったです。それでも潰れずに開店してくれていてありがたかったです。通ううちにマスターと話しをするようになり、色々と聞きました。店は何もかも友人達と共に手造りした事。二階にはボディービルのジムがある事。マスターはボディービルのインストラクターもしている事。だからすすけた感じなんだ~と納得したのでした。多分仕上げのステンやニスを塗っていないんでしょうね。だからマスターはすんごくマッチョだったんですね。マスターは優しくて穏かな人でした。街の片隅にひっそりと自分の好きな事で生きているそんな素適な感じの人でした。私は結婚してからは夫と共にそのお店に行ったりもしました。でも夫が住んでいる所からは車で30分以上掛かるのであまりしばしばは行けませんでした。そして子供が生まれると喫茶店には行けなかったので、いえ、喫茶店どころか寝る間もなくてその店には行かなくなりました。道も街中から下落合に貫通するトンネルが掘られて近道が出来たため八幡を通らなくなり、今もその店があるのかどうか解りません。どうしたかな~マスターは。あの店は私が開発した店の中でもピカ一でした。あんなに個性的で面白くて素適に落ち着ける店はその後見つけていませんからね~~。今度、八幡を通ってみようっかな~~~♪そんなある意味すごいお店でしたよbobozさん。●今朝の雪景色●今はかなり溶けてしまいましたが、今朝の雪景色は今年一番の冬模様でした。冬の写真は寒さが伝わりますね。今年一番の寒さなり~♪
December 11, 2005
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娘の名前はちょっと変わっています。その名前をちょっと変えて呼んでいるうちにもうちょっと変形した名前になってそれもいつしか変形して・・・本名から6段階を経てピーになりました。全く本名には似ても似つきません。私は娘を意味無く呼ぶ時があります。「ピーーーたん!」と感情を高ぶらせて雄叫びます。すると最近私に慣れて来た娘は「マーたん!」と呼び返すようになりました(笑)それで「ピーたん!」「マーたん!」「ピーたん!」「マーたん!」と2人でずっと叫び合っている事があります。変な親子と言われても喜ぶばかりです。ふふん~♪そんな娘もおちょくりマンの息子も赤ちゃんの時ははいはいをしませんでした。2人とも座って右膝を立てて左膝を横にしたままズイリズイリといざっていました。それが結構早いんです。でも2人とも腕の力が弱くて逆上がりが出来ませんでした。そんな所が私に似たようで・・・。娘の事では忘れられない事が幾つかあるんですが1歳半の時の事はインパクトが強くて忘れられません。その頃住んでいたのは今住んでいる町の端っこでした。二市一町の境にある沼の近くで保護林に囲まれていました。3部屋と四畳分のサンルーム空間、台所とお風呂、トイレの安普請の平屋でした。ある日、何の気無しに奥の部屋に行きました。一番大きな八畳の部屋でした。大きな箪笥が3棹置いてあるだけでした。ガランと開いた部屋の真ん中に1歳半のピーがいました。10ヵ月で歩き始めたピーは1歳半では達者な足腰でした。口の方は足ほど早くはなく普通に話し始めていました。つまり片言を話すものの上手く意思の疎通が出来るまでには至っていませんでした。まだまだ赤ちゃんのピーが奥の部屋で一人でやっていた事。それは両足を広げて手を身体の横に広げてピンと指先に力を入れて左右にシャキン、シャキン、シャキンと揺れていたのです。それは右に傾けば右足を膝でくきっと曲げて左足をピンと伸ばして左に傾けば左の膝をきくっと曲げて右足をピンと伸ばして腕はペンギンさんのように宙に浮いて指先までピンと伸びきっていました。1・2・3・4・・・とリズミカルに一定のリズムに合わせて左右に揺れていました。とても切れ味の良い動きでした。それは不思議なシーンでした。1歳半の赤ちゃんと幼児の間の小さい子がペンギンのように手をしゃきんとさせて左右に踊っていたのでした。もう~~可愛いやら面白いやら謎やら不思議で不思議で、声を掛けたらピーはダンスを止めてしまうような気がして私は黙って見ていました。それでピーは後ろ姿で黙々と左右にギッコンバッコンしていました。絵に描いてみました。スキャンしました。マウス絵に挑戦しようとしたらダメでした。手がもっとぴしっとしていたんです。しゃきっしゃきっと左右に踊っていたんです。足なんかしっかり曲げて、しっかり伸ばして。だからこの子はダンスが得意なんじゃないかな~と思っていたんですがピーは習い事が大っ嫌いで人見知りが激しくて私から離れられませんでしたので残念ながら持って生まれたかもしれない才能を伸ばす事が出来ませんでした。(笑)本人に聞いても記憶に無いそうです。あれは一体何だったんでしょうね?●6歳の頃のピー●今は辛口で暴言を吐くピーですが6歳の頃は甘えっ子でした。手作りしたキティちゃんのケーキです。●今日の朝焼けと夕焼け●今朝の7時前の朝焼けです。朝焼けは爽やかです。一日の始まりはとても元気がもらえます。こちらは今日の夕方4時半頃です。神々しくて感謝したくなる落日でした。
December 9, 2005
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私が大学1年の時、初めて東京の現地集合での展覧会見学の研修会がありました。その頃の私は髪が長くて化粧をしてフレヤースカートに踵の高い、今で言うミュールを履きまるで女性的な容貌で東京に行っていました。その時に行った美術展の中でその後も大好きになった「アンドリュー・ワイエス」と「ルフィーノ・タマヨ」に出会う事が出来ました。「アンドリュー・ワイエス」はアメリカ人でお父さんは挿絵画家、息子も画家の3代続く画家一家です。アンドリュー・ワイエスはとても繊細な筆使いで田舎の生活を一点から見つめた静かな絵を描いています。近くから見ても草を一本一本描き上げているのに力強くて孤独な時間が流れているような絵です。アンドリュー・ワイエス「幻想美術館」「ワイエス・語る」ワイエスの他の絵「ルフィーノ・タマヨ」はメキシコの画家です。アースカラーの優しくてしっかりと地面に足を着けた骨太の絵です。それまで私は抽象画は意味が解らず好きになれませんでした。でもタマヨの絵は暖かくて強くておおらかでメキシコの激情的なエネレギーが内在している感じでした。大好きになりました。ジミー・大西のインタビュー(ルフィーノ・タマヨについて)私は高校の時の友人の部屋に泊めてもらい数日間を画廊巡りに費やして帰途に着きました。せっかく東京に来たので他にも色々と見ないと交通費がもったいないと思ったのでした。始めの頃は東京の地理が良く分かっていなかったので上野駅に着いた時には最終の急行列車の時間までにかなり時間が余っていました。それで思い立ったのが、高校生の頃に母と弟の3人で東京に来た時に泊まった五反田を見に行ってみようかな~~でした。まだ1時間半もあるので大丈夫だろうと思ったのでした。それで私は山手線に乗り込んで五反田に向かい、電車から下りて逆進の電車に乗って上野に向いました。ちょっと見るだけなのに、鈍行は時間がとても掛かってしまいました。そして上野に着いた時には、ちょうど東北本線の下り急行は出てしまっていたのでした。それで深夜の0時頃に困った私は時刻表を眺めていました。食費を削って電車代に廻し、学割の利く急行で6時間も掛けて東京に行ったのです。帰りの電車も乗車券と急行券を買っていました。その切符をどうしようか。窓口が開いたら相談しようと考えていたら男性から声を掛けられました。「もう電車は無いのにどうしたの?」え?と驚いて見ると30代~40代の男性が2人立っていました。「帰りの電車に乗り遅れてしまったので時刻表を見ていました」と言うと信用してもらえなかったようで警察の者だがと手帳を出して見せて、「何時の電車に乗るつもりだったの?」「どこに住んでいるの?」「どこに泊まっていたの?」「切符は?」「どこの学生?」等など質問されて答えていたのですが「ちょっとそこの交番に行って話をしよう」と言われて、上野駅の構内を刑事さんの後ろを付いて歩いているとやはり30~40代のジャンパーを着た男性が駆け寄って来て「そいつらがヤクザだ」と言って走り去りました。あっけに取られた私ですが流石にやばいと思い、何かあったら逃げ出す心づもりをしつつ後ろを付いて行きました。でも、刑事さんたちは上野駅を出てすぐの所にある交番に入って行きおまわりさんを交えて事情を話しました。ホッとした私は今さっき、構内で男性から「そいつらがヤクザだ」と言われた話しをすると刑事さんもおまわりさんも呆れ顔で「そいつらこそヤクザだな。深夜の駅は家出人を漁ろうとヤクザがウロついているからお嬢さんも気を付けないといけないよ」と言われました。言われて初めて自分がとても危険な所にいた事に気付いたのでした。家出娘と間違われて刑事さんの代わりにヤクザが声を掛けて来てウブだった私が付いて行ってしまったら・・・・・・・・(汗)とっても危険な状態でした。何でもそうですが、隙を見せると怪しいものを呼び寄せてしまうんですね。私はこれを肝に銘じて気を付けるようになりました。その後、上野本署までおまわりさんに連れて行かれて上野本署の椅子を借りて始発の時間までを過ごしました。上野本署ではずっと警察無線から情報が流れていました。殺伐とした内容でした。なかなか眠れないでいたら十代の少年が連れて来られて事情を話していました。もう、詳しい内容は忘れてしまいましたが何やら大変そうでした。上野本署の方々はとても親切で、お茶を出してくれたり毛布を貸してくれました。しかも始発が出る時間になると一人のおまわりさんが駅まで連れて行ってくれて窓口で事情を話して切符を手配してくれたのでした。指定席ではないので簡単だった記憶があります。でもおまわりさんは親切でした。ありがた~く感謝して急行でとことこ帰りました。仙台に帰って来て、大学でクラスメイトにその話をしました。するとその時に付いた名前が「ムショ帰り」でした。勿論ふざけていたのですが、私はしばらくの間「あっムショ帰りが来た」などとからかわれたのでした。そんな上野駅の思い出があります。それ以後はいくら時間が余ってもウロつかずに近くでちゃんと待っているようにしたのは勿論です。実は高校生の時にもっと危ない目に合いました。そのうち書きます。●尻尾が太い猫です●く~たんは顔が小さくて尖っているのに尻尾がとっても太いんです。
December 4, 2005
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昨日書いた柿の実の思い出の二つ目を書きたいと思いました。●柿の実の思い出●★二つ目・芋煮会のスケッチそれは私が中学3年生の時の事です。山形では秋になると芋煮会をします。今はやらなくなったようですが私が子供の頃は、小学校、中学校の全校生徒が参加する年中行事でした。特に小学校では地区毎にリヤカーに荷物を集めながら1年生から6年生までが集まって川原で火を起こして芋煮をします。火を起こして芋を煮る中心は上級生ですが低学年のうちはそれを見ながら手順を憶え、中学年では手伝いをして低学年の面倒を見る、という図式になっていたので私たちが子供の頃の人は多分みんな芋煮を作る事ができます。大人も芋煮会をします。職場の人と、友達と、地区の集まりで、沢山の人達が川原に集結するので大変な人出になります。学校で参加する芋煮会は無くなったかもしれませんが大人や家族でやる芋煮会はまだまだ健在で、休日ともなると川原は芋煮会でとても賑わいます。私が中学3年生の時に転任して来た美術の桜○先生は個性的な方でした。中学の芋煮会にスケッチをする事を持ち込みました。それで芋煮を食べた後はみんながスケッチをしました。絵の具を持って行って、色も付けました。その絵は数日後に各教室の前に展示しました。そして金賞・銀賞・銅賞を選びました。桜○先生は賞を選ぶのに自分ではなく各クラスの文化部委員に選ばせました。そして私はその時文化部委員だったので、私のクラスの絵を飾り、賞を付ける絵を選びました。自分のクラスメートの絵に点を付けると言うのはとても難しい事でした。私は散々迷って、まとまりがある絵や絵の具の使い方が上手に見える絵を選びました。その作業を終えて絵を眺めていると桜○先生が廻って来て私にこう言いました。「MYは自分の絵を選ばないのか?」私は小学5年生の時から週に一度絵画教室に通っていました。中学に入ってからはやっていませんでしたが小中学校では絵画教室に通っていた経験のある生徒は私だけだったので絵の具の使い方や構成などに少し差が出る事がありました。そのせいもあるんだとは思うんですが、桜○先生に聞かれて改めて自分の絵を見て驚きました。私の絵は皆と決定的に違う絵に見えました。私の絵だけ仲間はずれに見えました。どんな風に仲間はずれかと言うと皆の絵は楽しそうで暖色系の絵でしたが私の絵は寒色系でした。皆の絵は賑やかでゴチャゴチャしていて色んな色があって、何より人間がいました。私の絵だけ人間がいませんでした。私が何を描いたかと言うと川原の端っこに生えていた数本の柿の木を描いたのでした。青い空の下で裸の枝に付いていた柿の実が赤くてとてもキレイだったのです。その赤い実を描きたかったのです。それで私の絵は、バックが水色で数本の裸の木の枝とポツリポツリとぶら下がったオレンジ系の赤い柿の実と言うものでした。他には何も描きませんでした。本当は赤い色をはっきり描きたかったのですが上手に色が出せなかったので、せっかくの柿の実がボンヤリした色になっていました。それで私の絵はとてもシンプルで淋しい絵になっていました。描いた時はまあまあの出来だと思ったのでした。でもみんなの絵の中に置くと余りにも淋しい絵だと言う事が解ったのでした。私はカルチャーショックに陥り絶句していました。改めて見た自分の絵が浮いて見えて、みんなの絵との違いに驚いたのでした。私の孤独感があまりにも如実に柿の実の絵に表れていたので、私はしばらく言葉を失ったのです。桜○先生はもう一度、私に声を掛けました。「MYはどうして自分の絵を選ばないんだ?」私は上手く言葉に出来なかったので黙ったまま首を横に振りました。桜○先生は「そうか」とだけ言って立ち去りました。あの時のあの驚き。多分、自分がみんなと違うと言う事に初めて気付いたんだと思います。客観的に自分と皆を意識的に見た初めての事だったと思います。それで、この時のシーンが映画のように頭の中に残っているんだと思います。他者と自分の違いを認識した初めての出来事。ですから柿の実を見るとゴマ柿を守るために闘っていたタキちゃんと私が他者と違う事実に初めて遭遇した柿の実の絵を思い出すのです。それらは共に孤独をも呼び覚ます思い出でもあります。これからは、柿の実を見たらことのかさんが羞恥心と闘いながら素晴らしい写真を撮っている事も思い出すかもしれません。(ことのかさんの写真はとっても素晴らしいです)●光のステージ●一昨日の素晴らしい夕暮れでした。光が舞い踊っていました。ずっと見ていても飽きない美しいものでした。skiさんが言うように、私ってとても空が好きなんですね。特に夕暮れ時は大好きです。青空も太陽も大好きです。
December 1, 2005
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最近、ことのかさんのブログに柿の実の話が書いてあり、「柿の思い出は二つありますが、コメントでは書き切れないのでいつかブログに書きたいです」とコメントに書いたら、読みたいとことのかさんが返事を書いて下さったので今日は柿の実の思い出を書いてみようと思いました。●柿の実の思い出●★一つ目・タキちゃんのゴマ柿私が高校1年の秋まで過ごしていた家は農村地帯にありました。と言っても、そこは細い道の両側に家がびっしり立ち並んでいました。うちとうちの北隣りの床屋さん、うちの西北向かいの知彦君ちとミエコんち、その北側の魚屋さん以外は殆ど農家でした。私は小学校に入るまで母の実家にいたのでその地区では新参者でした。何故か近所には私と同じ年の子供が沢山いました。南隣りのカズちゃん。西向かいのタキちゃん。西北向かいの知彦君とその隣りのミエコ。北に5軒隣りにタカちゃん。その斜め向かいには男子がいてその隣りにはミユキちゃん。ごく近所でも私を含めて9人も同い年の子がいました。男子は一緒に遊ぶ事は珍しかったので女子でいつも遊んだのはカズちゃん・私・タキちゃん・ミエコ・タカちゃんの5人でした。そしてそこのボスがミエコでした。ミエコは頭と口の回転が早い子でした。それでボーっとしていた私とタキちゃんはちょっとした事で意地悪をされました。ですから一緒に遊ばないで家で一人遊びをよくやりました。タキちゃんはちょっと変わったところがある子でした。(私には言われたくないかもしれません(- -ヾ)タキちゃんの家の前は50cmほどの高さの太い石が組んで北側に6メートルほど、南側に12メートルほど囲んでありました。低い石垣なので隠す物では無く、敷地を示すものだったと思います。うちの敷地の出入口の門の調度向かい側がタキちゃんちの北の石垣側になっていました。ですからうちの敷地を出なくてもタキちゃんちの石垣が見えました。ミエコにいたぶられる事が多かったタキちゃんはその石垣の上に座って、よく足の垢こすりをしていました。タキちゃんはよく転ぶ子で、膝小僧はいつもかさぶただらけでした。そのかさぶた剥がしもしていました。一番記憶に濃いのは、その北の低い石垣と家の間に一本の柿の木が生えていたのですが、これが珍しくも甘いゴマ柿だったのです。ゴマ柿は焼酎で漬けなくても、そのまま食べられる甘い柿です。近所では他にありませんでした。ですから秋になると男の子たちがこの甘い柿を狙って長い棒を手にやって来るのでした。何しろおやつなんか貰えない時代でしたから甘い柿がなっていたら、男の子が狙わない訳がないんです。それで3~4人の男子が柿を取ろうとしているとタキちゃんが「うちの柿を取るな!」と叫びつつ長い長い物干し竿を振り回して、男子達に立ち向かって来るのです。その懸命で必死のタキちゃんの顔がとても記憶に残っています。タキちゃんのお父さんは、私がオタフク風邪で学校を休んでいる時に病気で亡くなりました。多分、小学1年生の頃だと思います。タキちゃんの家はお祖父ちゃんもいませんでした。だからお母さん、お祖母ちゃん、お姉ちゃんとタキちゃんの女性だけの4人家族でいつも必死で過ごしていました。ですからタキちゃんは自分の家の柿を自分が守らなければ、と思っていたんでしょうね。私はその様子を自分の家の玄関近くから見ていました。どうして助けてあげなかったんでしょうね。タキちゃんとはクラスの女ボスと共に闘ったという特別な記憶もあるのに、あんまり親しくなかったんです。この事件は小学5~6年生の頃の事です。クラスの女ボスのフキちゃんはお金持ちのお嬢さんでした。人に命令するのに慣れていたらしくて、私たちに色々命令していました。何故かクミちゃんという子がフキちゃんから嫌われていました。小柄で、お目目と髪の毛がくりくりの可愛くておとなしい子でした。当時の田舎の子供はみんなおとなしかったのです。特別な子以外は誰も自分の考えなんか口に出来ませんでした。それでフキちゃんに「クミちゃんの頭を叩け」なんて命令を受けても逆らえずに従っていました。クラスの女子が全員クミちゃんの前に順番に一列に並んで頭を叩いて行くのです。皆いやいやなので強くは叩きませんが悲しそうな顔をしたクミちゃんは反抗も出来ずじっと座って耐えていました。他に悪口を言え、というのもありました。人から命令されて行動するのはとても惨めです。自尊心が失われます。私はボーっとしている子供だったのですが段々耐えられなくなって、とうとう担任の先生に相談しました。担任のサトー先生(20代後半・男性)は「自分たちの事は自分たちで解決しろ」と言いました。サトー先生は元々は中学にいたので小学生の指導が苦手だったんだと思います。困り果てた私は、また我慢してクミちゃんをいじめるフキちゃんに加担する生活に戻りました。でも、とうとうある日我慢できなくなりました。それは図画工作の時間でした。外でスケッチをしていました。私は意を決してフキちゃんに立ち向かいました。「フキちゃんは悪い人だ」と言いました。フキちゃんは怒ってクラスの女子を全員周りに呼びました。フキちゃんは女子に聞きました。「MYが私を悪いと言っている。みんなはどう思う?」みんな怯えていました。誰も逆らえませんでした。一番の仲良しのミチコさんもいじめられる中心にいたクミちゃんさえ私の周りに立って言いました。「フキちゃんは悪くない。MYちゃんが悪い」「ほら見ろ。私は悪くない」とフキちゃんは宣言しました。勿論孤立と恐怖心とで参ってしまった私はおいおいと泣きながら、それでもまだ言い募りました。「フキちゃんが悪い!」すると不器用で転んでばかりいる、垢こすりの得意なタキちゃんが加勢してくれたのです!「MYちゃんは悪くない。フキちゃんが悪いんだ」勿論タキちゃんも泣いていました。恐かったのです。とっても。わんわん泣きながら、私とタキちゃんは「フキちゃんが悪い」と言い続けました。昔の朴とつな子供ですから、上手に言う事が出来なかったんです。するとフキちゃんも泣き出しました。「私は悪くない」と言いながら泣き出しました。フキちゃんとタキちゃんと私の3人は座って画板を膝の上に置いたまま泣いていました。その周りには恐怖で固まったクラスの女子が立って黙って取り囲んでいました。なんとも異様な光景だったと思います。男子は近付きませんでした。女子の闘いでした。その後の細かい展開は忘れてしまったのですが、なんとフキちゃんが豹変しました。穏かな人になったのです。それまでフキちゃんは人から注意をされた事がなかったのだそうです。それでショックを受けて泣いたようでした。そして初めて彼女は己の行いを客観的に見て反省したようで、変わったのです。それからのフキちゃんは普通の女の子になりました。私はフキちゃんの家の人が悪いんだと思いました。良い事と悪い事を教えなかった親がいけなかったのだと思いました。それ以後、しばらく私はフキちゃんと仲良くなりました。でも、たった一人加勢してくれたタキちゃんとはその後もなんと言う事はなかったのです。きっとタキちゃんは正義感から立ち上がってくれたのだと思います。なのに当時の私はその事をあまり認識していなかったようです。以前の生活にもどっただけでした。女子のいじめはなくなって平和になりました。(でも男子との闘いがのこっていましたが)タキちゃんにお礼を言っておけば良かったと思いました。一言も言ってませんでした。私は高校1年で引越してしまい、タキちゃんは二十歳頃に病気で亡くなってしまったそうなのでろくに話もしていませんでした。一度もキチンと話した事がありませんでした。遊びはしましたが、話しをしませんでした。残念です。どんな人だったのだろうか、と今頃とても気になりました。クラスでたった一人だけ加勢してくれた西向かいの同級生。何故加勢してくれたのかも聞きませんでした。子供ってそのまま受け入れるんですね。不思議にも思いませんでした。それで私は柿の実を見ると男子からゴマ柿を守って闘っていたタキちゃんを思い出し、ついで小学5,6年の頃にクラスの女ボスと泣きながら2人だけで闘った事を思い出すのでした。不器用なタキちゃんは近所の花嫁さんが嫁入りの行事をするのに見とれていて、花嫁さんがタクシーに乗り込む時にドアに手を掛けていて自動ドアが閉まった時に一緒に手を挟み、手を血まみれにして泣気ながら医者に連れて行かれた、という記憶もあります。そんな不器用なタキちゃんの柿の実の思い出です。もう一つは長くなったので明日書きます。●那須高原のイラストのような雲●27日の那須高原の夕方にはイラストみたいなくっきりした雲が出ていました。まるでディズニーアニメも雲のようでした。
November 30, 2005
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昨日、訛りに対して私が強く反応する事を書き、皆さんのコメントに返事を書いているうちに自分の感情が少し見えて来ました。多分、故郷に対する嫌悪感と言ったものが存在しそれが訛りに象徴されるのかもしれません。どんな嫌悪感かと言えば、田舎に染み込んでいる男尊女卑とプライバシーの無さでしょうね。今日はどんな時にそれを感じたのか書いてみたいと思いました。最初に男尊女卑をはっきりと感じたのは小学4年です。私の両親は同じ仕事をしていました。父は夜、食卓で毎晩ビールを1本飲んでいました。母は髪を振り乱して両手に沢山の荷物を持ち必死の形相で帰って来て、大急ぎで食事を用意しました。祖母は手伝いませんでした。その間、父はゆっくりビールを飲んでいました。同じ仕事をしているのに何故父はのんびりビールを飲み片や母は走り廻っているのだろうか?と思いました。しかも食事の後は母と祖母が片付けます。何故父は何もしないんだろうか?と疑問に思いました。それでせめてもと思って私が晩ご飯の用意をするようになったのです。母が街から買って来て主菜を出すだけで済む様に茶碗や納豆や漬物や味噌汁を用意しました。まあ、母はとてもキツイ人なので一度も私にお礼を言いませんでした。高校3年まで洗濯や掃除を含めた家事労働を続けて一度もお礼はおろか感謝もされませんでした。その理由を2年ほど前に勇気を出して母に聞いた所、「女の子だからやるのが当然だと思っていた」という返事でした。実に空しい労働でした。次は中学2年の時でしたか、放課後の部活が終わった後の事だと思います。人気の無いグランドでした。もしかしたら夏休み中だったかもしれません。クラスメートの男子が12段変速の付いたスポーツタイプの自転車に乗って来ました。私はそういうタイプの自転車を見るのが初めてでした。「カッコイイね。私も乗りたい」と言うと、その男子は「これは男の自転車だ。女は乗れない」と言いました。私は驚きました。男子しか乗れない自転車があるなんて。女の子が乗ってはいけない自転車があるなんて。女に生まれた事が理不尽に思えました。田舎ではよく「女のクセに」「女だから」「男のクセに」「男だから」と言われます。昔はとても言われました。男性も女性も言われました。今の時代は違っているかもしれませんが。私は決して子供達に言いません。一度も言った事がありません。「男だから」「男のクセに」「女だから」「女のくせに」本当に一度も言った事がありません。だって肉体的な違いはあっても人間性が一番問題なので。私は大人になって中型自動二輪の免許を取りバイクに乗りました。始まりは仙台での職場が交通の便の悪い所にあったので50CCのバイクを与えられた事からです。四苦八苦して水冷2サイクルのバイクを何とか乗れるようになりました。するととても気持ちが良くてバイクが大好きになりました。ある時、大型バイクに乗っている知人が「バイクの免許を取って中型のバイクに乗れば?」と言いました。私はすぐその気になったのです。(笑)でも、もうすぐ中免が取れる所で身体を壊して実家に帰りました。元気になってからバイトをしてお金を貯めて中免を取りました。その後、私は実家の近くの広告代理店に勤め始めました。隣りには喫茶店があり、そこには高校の後輩が勤めていたのでよく手伝いをしました。マスターがサボってばかりいたので私が仕事を抜け出して茶碗洗いを手伝っていたのです。ある時、カウンターで珈琲を飲みながら後輩と話をしていました。バイクの話をしていました。その頃はスズキGSX250Eというバイクに乗っていました。(当時のスズキGSX250Eと私・夫のカワサキZ400FX)すると私の左に一つ置いた席に座って珈琲を飲んでいた30歳くらいの男性の獣医さんが突然こう言いました。「24にもなって、結婚相手を選べると思うなよ! 女のクセにバイクになんか乗って、化け物が!!!」その獣医さんと私は直接話した事も無く、交流の無い方でした。私は驚いてしばしその人を眺めました。その人が私の人生の何に関わりがあると言うのでしょうか?その人が私の人生の何に責任を取ってくれると言うのでしょうか?しかも24歳ではすでに結婚相手を選ぶ権利が無い、と言うのです。挙句に、女がバイクに乗ると化け物だと吐き出すように罵ったのでした。今はどうか分かりませんが、25年前の私の住んでいた所ではこんな事も普通にありました。女性は蔑視されていました。女は若い内に結婚して、さっさと子供を産め!と言う事です。知らない人にまで言われるんです。本当にそう言う風潮が、文化が私は嫌いでした。夫の実家は農家なのでやはり男尊女卑が激しいです。いつも男性は酒を飲み、女性は仕事を全部終わしてから隅っこでご飯を素早く食べてまたそそくさと家事に戻るのです。私にはまるで女性が奴隷のように見えました。その間男性は食べ、飲み、話し、寛ぐのです。終いには酔っ払って罵り合いが始まります。惨めな思いを沢山しました。夫は末っ子なので、いつまでも末っ子扱いで軽く扱われバカにされました。夫が一晩中罵られて、小さい息子と私は隣りの部屋で寝るに寝られずまんじりと深夜まで起きていた事もあります。多分それらの文化が嫌いなんだと思います。一見のどかそうな田舎の風潮は親類が集まれば噂話に終始し、罵り合い、ズカズカとプライバシーに踏み込んできて言いたい放題になる。田舎の良い所は沢山ありますが嫌な所もある訳です。私の両親はそれがイヤで街の中に引越しました。近所の人が勝手に家に上がってお茶を飲んでいたりします。どの家も皆顔見知りです。些細な事もすぐに噂になります。私にとってそういう閉塞的な所がとても苦しかったんだと思います。だから、訛り=故郷=文化=閉塞感となってしまうのかもしれないと思いました。まだ充分検証したわけではないのですが。多分そう言う事が積み重なって私の中に嫌悪感を植え付けたのだと思います。●病気やつれしていた写真●17歳当時の私ですが、急性胃腸カタルになり自分で看病したのですが、誰もいない家の中で気を失って倒れていた事もありました。大学の寮で風邪で倒れた時に同室の人に看病してもらって涙が出そうなほどうれしかったのでした。私はとても淋しいのに誰にも言えない味方のいない孤独な少女でした。
November 19, 2005
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私が中学2年3年の時の担任はオシャレな英語の男性の先生でした。いつも上品でキチンとした40代前半の先生でした。ネクタイを毎日替えて、シャキンとしていました。夏になると白い麻の上下の背広を着ていました。未だに夏に白い上下を着たオシャレな教師なんて他所で見た事がありません。そのW先生は真面目な方でした。毎日レポート式の国語の課題を出してご自分でチェックしていました。私は、これでテーマのある文章を書く楽しみを覚えたのかもしれません。いつだったか私が書いた文章に「上手い!」と書いてあった事がありました。私の母は国語の教師で、私の書いたものなんてケチしか付けた事がありませんでしたから褒められて物凄く驚いた記憶があります。中学3年の卒業式の後に卒業アルバムに「何か一言書いて下さい」とW先生にお願いしたところ「こんなに個性的な生徒は珍しい」と書いて下さいました。私は普通にぼんやり過ごしていて、特に目立った事なんかした憶えがありませんでした。ですから何が個性的なのかずーっと分かりませんでした。私は客観性のない子供でしたから他人から見て自分がどう映っているのかなんてちっとも考えた事がありませんでした。今、これはオカシイかもしれないと思う事が少しあります。これは絶対!と言うのが一つご紹介します。それは高校1年生の時でした。私は暑がりでしたから、体育の授業の後は汗まみれになりました。それがとても不愉快だったので、体育が終ってから水道の水で頭をジャージャー流してから教室に行きました。私はそのためにタオルを用意する、なんて気の利いたことをしない鈍い子だったので制服にポタポタと滴を垂らして平然としていました。しかもヘアブラシも持っていなかったので髪はぐちゃぐちゃに乾きました。そしてそのまんま一日を過ごしていました。そうすると女子だけのクラスだったせいか世話焼きの子達が「この子は世話をしてあげないといけない」と思ったらしくて、タオルを用意して拭いて整えてくれるようになりました。次には水道で洗うのを手伝う人も出て来ました。結局3~4人掛かりで私の世話をしてくれるようになったのでした。今その光景を思い出すと笑えてきます。私は勿論女王さまではなく、まるで手間の掛かる子供でしたね~~。何でしょうね~~。あの情景は確かにおかしかったです。あ、もっとすごいのがあります。私はその頃床屋さんに行くのが嫌いでした。何しろ昔の床屋さんは窮屈でチクチクして痛かったのがイヤだったんです。しかも髪を伸ばしてフェミンレディなんてこれっぽっちも思い付きもしなかったので髪が伸びて邪魔になった時に私は生まれて初めて自分の髪を切りました。ある午後ののどかな日和でした~♪玄関先で鏡も見ずにチョキンチョキンと裁ち挟みで髪を切り始めたワタスィ。すると弟(当時中2)がやって来てここはこうしろ、ああしろと指導を始めました。抜けてる私ですから言われるがままに後ろも適当にジョキンジョキンと切りました。鏡がないのでどうなっているのか全く分からずにジョキンジョキンと切りました~~♪♪そうしていると最後の方で弟がもにゃもにゃ言いながらどこかに行ってしまいました。まあイイヤと、その後鏡を見て実に「サル」に近付いた自分を見てもしょうがないやとすぐに諦めました。翌日高校に登校すると校門に入ってから、後ろから来た同じ部活のキャツノリがこう言いました。「おいMY。後ろがトラになっているぞぉ」え?トラ?何がトラ?トラって何?振り返りキャツノリを見るとニヤニヤと小バカにした顔で通り過ぎるキャツノリ。その後教室でも友達が話題沸騰!!!どうやら後頭部がただ短いだけではなく薄い部分と長い部分なっていてそれがトラのシマシマになっていたらしいのでした。15~16歳の恥じらいを知る年頃の女子高生。皆はどうするこうすると騒いでおりましたが私ってば、どうりで弟が逃げ出した訳だ~と思っただけで見えないからと言って却下したのでした。つまり問題無し!て事でトラシマ頭のままで花の女子高生1年の私は通学し授業を受け、部活に行きました。人ごみでバスを待ったり乗ったりもしました。私ってば全く平気でした。しかも部活では「トラ刈り」と呼ばれましたが「なに?」ってなもんで、全く平気でした。ああ~~すごくないですか?あれは確かに個性的っちゃあ~個性的なヘアスタイルでした。昔は今のように色んなヘアースタイルをしていなかったのでジャキジャキトラ頭はさぞ醜く目立ったことでしょう~~~♪♪♪平気な私っていうのもすごくないですか?そんな女子高生でした。いえ、3年生頃には流石にロングヘアーになってました。友達に仕込まれました。実は子供の頃の私がどんな風に個性的だったのか未だによく分かっていません。白い麻の上下を着ていたW先生は結構若くして亡くなってしまったので聞く事は出来なくなってしまいました。私の親は私を客観的に見ていなかったので母に聞いても教えてもらえないですから。何がそんなに個性的だったんでしょか?あ、中学3年生の時に社会体制に反抗しているつもりになっていましたが。私、何をしたんだろう~~?●落日●夕映えが終わり、落日の後の静かな時間です。
November 14, 2005
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私は生まれた時から傍に猫がいました。猫がいない生活は、高校3年間と大学2年間、結婚直後の半年間くらいでした。大学3年の春頃でしたか家から通っていた友人が「捨て猫がいて、とても性格が良いから是非飼って欲しい」と頼み込んできました。人懐こくて可愛い子猫だと言うのです。その頃住んでいたアパートは猫を飼っても良い所だったのですぐにその気になりました。友人は電車とバスを乗り継いで片道1時間ほど掛けて私のアパートにやって来ました。彼女が持って来たのは魔法瓶の箱でした。その魔法瓶の箱から出て来たのは子猫とは言えない、中猫よりも大きい大人になりかけた茶色のシマ猫でした。内心ガッカリしました。子猫から付き合いたかったからです。でも頑張って連れて来てくれたAkちゃんに今更「大きい猫はいらない」とは言えませんでした。それで私が飼う事になった茶トランのオス猫は明るい性格に合う気がして「タム」と名付けました。一緒に暮らしてみるとこのタムは素晴らしい猫でした。とても賢くて、私の言う事が理解出来たのです。温和で楽しい性格でした。しかも何処に連れて行ってもパニックを起こさないとても珍しい猫でした。今まで60匹近くの猫と付き合って来た中で唯一の犬のようにテリトリーにこだわらない猫でした。ですから友達のアパートに連れて行っても、道中も騒がずにいましたし、行った先でも普通に匂いを嗅いで落ち着きました。普通の猫はまず道中大騒ぎをし、行った先では匂いを嗅ぎつつうろつき回り、落ち着くまで2~3日は掛かるのでした。ところがタムは行った先で外に放しても逃げ出してしまわずに、ちゃんと友人のアパートに戻ってくるんです。それで実家に連れて行く時はバスに乗り、電車に乗って行くのですが貧乏画学生ですから古いボストンバッグにタムを入れていました。タムはボストンバッグから顔を出し、満員バスでも電車でもパニックを起こさず普通に周りを見ていました。これは猫では有り得ない事です。知らない所で知らない人に囲まれたら猫はパニックを起こしてどこかに駆け抜けて行って行方不明になってしますのです。でもタムはどこでも誰でも平気なので何処に行く時も連れて行きました。私は夜が好きでよく徹夜をして絵を描いていました。すると朝方になるとタムが私を外に行こうと呼ぶんですね。私が外に出るとタムはアパートの周りの空き地に踏み込んで行き止まっては振り返って私を誘うのです。私が付いて行くとまた進み出し、止まって振り返って私が付いて来るのを確認します。そして又草の中に踏み込んで行き私と鬼ごっこを楽しみました。私はこんな風に人間に要求をしてコミュニケーションを取る猫は初めてでしたので驚くやら楽しいやらでした。私は親の望むタイプの子供ではなく親から受け入れて貰えなかったので私にとっては帰りたくない家でした。それで心の中にはいつも「受け入れてもらいたい」「愛して欲しい」という思いが溢れていました。その孤独感をタムは満たしてくれる存在でした。タムは目と目が合うだけで気持ちの通じる珍しい猫でした。心が通じる猫も初めてでした。だからとってもとっても大事な存在でした。あんな猫にはもう会えないんじゃないかな~と思っています。冬になってタムは私が留守中に交通事故に合いました。今と違って電話も携帯もありませんから、K子ちゃんが40分歩いて知らせに来てくれました。タムは後ろ左足を骨折していました。友達が国道の端でタムを見付けた時たまたま来ていた友人Tが気を利かせて自分の知り合いの獣医さんに連れて行ったそうです。車で40分掛かる所でした。治療に通うのが、貧乏学生にとってはとても大変でした。でもタムは3日経っても元気にならず、怪我をした足を下に横になる事に気付き鼻から血を出している事に気付いたので歩いて5分のいつも行く獣医さんの所に連れて行きました。すると事故に合った時に片肺を痛めていて出血しているので、急いで手術しないと危険だと言われました。「交通事故の治療は24時間以内が勝負です」と言われました。「交通事故でレントゲンを撮らないのはおかしい」とも言われました。輸血用に友達の猫達が急遽集められました。K子ちゃんが預かっていた姫。Eののんびり屋の飼い猫。もう一匹いたでしょうか?その時は必死だったのでよく憶えていません。友達の猫達に麻酔を掛けて血を採りました。次にはタムの血管に輸血するために前足の血管を捜しましたが、出血が進んでいて体が弱り針の入る血管が見つかりませんでした。でも一刻を争うので、私の友人達も抑えるのを手伝ってくれて7~8人掛かりで押さえ付けていましたがタムは肺が破れて苦しかったんだと思います。暴れました。暴れるのを皆で押さえ付けていました。するとタムは最後の力を使い果たすかのようにバネのように飛び跳ねて大声で叫びました。そしてそれっきり動かなくなりました。体が弱っているので心臓発作を起こしたのでした。私はドクターから聞くまでも無くタムがその瞬間に死んでしまったのが分かり近くのソファーに倒れ込んでしまいました。そのまま私は泣き崩れました。ずーーーっと泣いていました。友達も泣いて、皆で各々自分の猫を抱いて泣きながらアパートに帰りました。私の部屋には友達が皆お悔やみに来てくれました。一晩中、皆で付き合ってくれて泣きました。私はその後も泣きました。調度冬の終わり頃の3月頃だったと思います。2ヶ月間泣きました。毎日毎日泣きました。心の友を失ってしまった私は心の拠り所を失ってしまったのでした。あの日、出掛けなければ良かった。そうすれば事故に合った時にいつもの獣医さんで見てもらったのに。Tの言葉には耳を貸さなかったのに。いつも行っている獣医さんに見てもらう事がとても大事だと知っているのだから。家にいれば良かった。もっと早く気付けば良かった。後悔ばっかりして、自分を責めていました。泣いて泣いて疲れ果てた頃に春が終ろうとしていました。あんまり辛い別れだったのでもう猫は飼わないと思っていたのでした。そんな時に寮でも一緒で、アパートも一緒のAちゃんが付き合っていた人のアパートの2軒隣の人の所で猫の赤ちゃんが生まれたから飼ってと言いに来ました。3~4回は断りました。でもAちゃんの彼とその隣の人とで子猫を預かっていると言いました。「猫を拾った人は仕事で忙しくて殆ど家にいないから赤ちゃんの世話が出来ないの。だからうちと隣りで預かっているんだよ。MYちゃん黒猫可愛いから飼って~~~。子猫が可哀想だから飼ってぇ~~~~。」Aちゃんは人の弱みに付け込むのが上手い人でした(笑)10日ほど掛けて私を落としたのでした。しかも話しているうちにいつの間にか兄妹の二匹を飼う事になってしまいました。そうしてやって来たのが黒猫の兄妹尻尾が短くて平和な性格のジャムとアントンでした。始めはジャムとアントンの楽しい話を書こうとしたんです。するとまずはタムの話を書かなくては!と思って書き始めた所、長くて悲しい話になってしまいました。落ち込ませたらごめんなさい。●うちの変わり者のにゃんこ●箱入りく~たん。野生の動物全部のDNAを持っているように思えます。狐のようにシタタタタタ・・・と走ります。猫じゃない!!!
November 7, 2005
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娘の進路希望調査票を見た時に自分の子供時代を思い出しました。今は小学校の文集や卒業アルバムに「将来の夢」とか「なりたい職業」などを書く機会があります。私の時は、さてどうだったかしら?小学生の時には皆が看護婦さんだ幼稚園の先生だと言っていた時私は何にもありませんでした。何にもありませんでした。いえ、人間として正しくありたいとかそう言う思いはあったのですが小さい頃から何になりたいと言うのが全くありませんでした。それは中学生になっても変わらず何にもなりたいモノがありませんでした。でも中学3年の頃にはしたい事が出来ていました。それは仕事ではなく、こうありたい図でした。何かに書いた記憶があるんです。「小さな家で沢山の猫に囲まれて静かに暮らしたい」これが私の中学生の「将来の夢」でした。実はこれ、以前住んでいた家でかなり実現しました。それは自然林に囲まれた家で、人も殆ど見かけない所にありました。その家ではマムシが冬眠していた話やスズメバチが巣を作っていたり、タヌキやリスや雉やウサギやモグラを見かけると言う、とても自然に溢れた所でした。息子は恐竜博士だったので毎日家の周りを発掘したり冒険をしていました。猫は4箇所の引越しに付き合った元ちゃん(オス)(喜ぶと顔をかじるのでお客さんから恐がられていました)真っ白いかすみちゃん(メス)(気位が高くて賢くて気難しい子でした)真っ黒いゴルゴちゃん(オス)(恐竜のゴルゴサウルスから息子が付けました。 とても穏かで凛々しい子でした。 かすみちゃんと仲良しでした。)おバカな兄妹?・コウちゃん(オス)白黒猫とルーちゃん(メス)茶色の雉トラ。(頭が悪くて何を教えても憶えられなくて 落ち着きが無くて動き回ってばかりいて、 食器棚の中の物も何でも食べちゃって しょうも無いおバカな二匹でしたが 人懐こくてお客さんには人気者でした)その家ではこのくらいが一番猫が多い時だったでしょうか。おバカなルーは狩猟猫でした。ある夕方には野生のウサギを掴まえて来て窓の外でバリバリ食べてしまいました~~~。その数日後にはまた野ウサギを捕まえて来たもののきれいなままで放置していました。(飽きたのかい!!)ネズミやモグラは良く捕まえて来ましたが蛇も捕まえて来て、家の中で発見した時にはもうビックリですよ!!!息子がミニ四駆にはまっていた頃奥の部屋イッパイにコースを広げていたのですがそのコースの下にも蛇がいて「ひいぃーーーーっ!!!」箒とちり取りで外に掃き出しました。二段ベッドの下にも蛇がいた事があります。ルーには油断がなりません!でも病院に連れて行くと「え?何?何?」ってきょときょとするだけで暴れないんです。つまり治療しやすい猫なんです。逆にかすみちゃんは賢くて悪い事はしないんですがすぐに怒って大変です。病院に連れて行くと、パニックを起こしてビョンビョン跳ねまくり、噛み付く引っ掻く大変です。体調を悪くすると注射以上の治療は無理なので自然死を待つしかないのでした。でも2年半の間、週一で病院に通い注射を打ってもらっていました。大変でした~~。獣医さんも瞬間注射が上手になりましたね~。ぐずぐずしているとかすみちゃんに襲われてしまうからです。ですが、全ての病気をうちの猫たちにうつしたのはルーとコウなんです。あの二匹を拾ったばっかりに猫ヘルペスと猫エイズをもれなくうつしてしまったのでした。病気の猫を拾うリスクはかなり大変でした。ああっと大幅にずれました。まあ病院通いで大変でしたが中学生でやりたいと思った「沢山の猫と静かに暮らしたい」は、静かではなかったですが、今思い返してみれば実現していたと言う驚きの事実でした~~♪こんな私が今時の進路指導調査票に書き込むとしたらそれはそれは困ったでしょうね。だって就職・専修学校・高校→就職・専門学校・短大・大学なんて中学1年でどうやって決めるってんでしょうか。私の夢は調査票に書き込めないモノでした。うふ。●キレイだった夏空●太陽の輝きが大好きです。
November 6, 2005
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私はこどもの頃、泥遊びをしてとても幸せだった記憶があります。それは小学3~4年生の頃です。しかもただの泥遊びではありませんでした。その頃住んでいたのは田舎の農村地帯でした。車が一台しか通れない道をバスが無理やり通っていました。その道の両側に農家を中心に家が密集して建っていました。道は舗装されていない道でした。舗装されていないので、雨が降るとぐちゃぐちゃになるわけですが車やトラクターが通る真ん中は硬いんですね。それで端っこが柔らかいわけなんです。昔は田舎では側溝なんてありませんでしたから雨が降るとそこに雨が集まり、流れて行きます。その日は前日からの雨が上がってとても穏かな天気になりました。直前まで降っていた雨の名残りが道の両脇を流れていました。家の前を通る道は北から南に通っていました。道は北が上で南が下でした。ですから道の両脇は小さな川になって緩やかに北から南に流れていました。私はそこにしゃがみ込み棒を持って小さな流れに支流を作っていました。幅20cmほどの緩やかな流れに幅2cmの支流を40~50cmほど加えるわけです。棒で支流を作り、本流に戻してやる。私の作った溝に水が入り込み、川になります。支流を太くしたり、支流に支流を足したり、少しずつ下に向って移動して行きました。泥をただただ堀り進む事を、私はとっても熱中しながらずーーーっとやっていました。棒で掘るとそこに水が流れ込んで来て目の前で川になっていく様が面白くて面白くてどのくらいの間その作業に没頭していたのか憶えていませんがその間の私の脳の中には喜びが全力で溢れていたのでした。そうです。それはとってもとっても楽しくて、あれこそ「純粋な幸福感」に違いないと思います。その頃、私にはこういった純粋な幸福感をしばしば感じていた記憶が結構あったのですが、小学5年生の頃にふと思い出したのです。依然あった「純粋な幸福感」が5年生の頃には殆ど消えていた事を。あんなに熱中してささやかな事で得ていた「純粋な幸福感」をいつの間にか失っていた事を。その事に気付いた小学5年生の時に私はこの事の記憶を忘れないようにしようと自分に言い聞かせたのでした。私が小さい時に「純粋な幸福感」を持ち合わせていてそれが成長と共に失われて行くと言う事を、その事実を忘れないように記憶に留めておこうと。それを自分に言い聞かせたお陰で泥遊びをしていた言い知れぬ幸福感は今もかろうじて憶えているのです。そう言えば私の息子は2~9歳頃までレゴブロックが大好きで熱が出ても、眠くなってもトロトロしながらレゴをしていました。半分寝ながらも頑張ってレゴをしていた息子。熱で真っ赤になりながらもレゴをやっていた息子。あの時の息子の脳の中には、きっと「純粋な幸福感」が溢れていたのだろうと思います。子供しか持つ事が出来ない「純粋な幸福感」。それとも大人になっても「純粋な幸福感」を持ち得ている人がいるんでしょうか?成長期になって「純粋な幸福感」を失ったのは私だけだったのでしょうか?小さい子供が遊んでいる時、喜びで満ちている表情をしていますがもしかしたら脳の中では「純粋な幸福感」が溢れているのかもしれませんね~~。と思ったりする私でした。●レゴブロック 「赤いバケツ」 「アクションレゴバイオニクル」 url=http://item.rakuten.co.jp/apita/lg725-8745/" target="_blank"> 「アクションレゴレーサー」
November 5, 2005
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私は目の使い方を変える事が出来ます。ちょっと目の力を緩めると物が二重に見えます。それをやっている時、どんな目になっているかを知りたくて子供の頃、写真を撮る機会があればいつも二重に見えるようにしていました。だって、鏡に映った顔を見ようとすると二重になって目の様子なんか見えないんです。昔は今のように写真を簡単に撮る機会は少なく何か理由がある時に撮るので私がそうやって「物が二重に見る時に目がどうなっているのか?」をやる時は大抵親戚の集合写真なんかでした。ですから私が小学3~4年生の頃に撮った親戚の集合写真の私は全部より目です(笑)そうです。物が二重に見えるようにするとより目になるんですね~。それが分かってからは写真に映る時に二重に見る目は止めました。その後、私は初めて自分の顔を客観的に見ました。小学5年生の頃です。それまでは集合写真の中の自分を見つけても他人から見たらどんな顔か?なんて考えた事もなかったのでした。それが鏡の中の自分の顔を初めてつくづく見た日の事を憶えているんです。出窓の上に置いてあった母の鏡台に映る顔を見て「私の顔ってこういうんだ」と初めて意識して自分の顔をじーっと見たのが小学5年生の時でした。それまでは単に見分けていただけでその時から「自分」を意識したんだと思います。それまでは感情や感覚や意識の海の中に浮かんでいた感じで生きていましたがそれからは「自己」と言う意識が生まれたような気がします。私にとって小学5年生って色々と認識が出来た年頃だったと思います。皆さんは自分の顔を認識した時の事を憶えていますか?●猫の世界●●箱入りく~たん●猫は狭い所が大好き~~♪
November 3, 2005
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母は今や認知症ですが、昔の事ははっきり憶えています。私がブログで父の事を書いたら「素適なお父さんですね」とコメントした人が沢山いたんだよ、と母に言うと「素適って言うのとは違うよね~」と母。「そうだよね~。良く書き過ぎたのかな~」と私。そこで父の事、第二弾です。●父が面白い人だった記憶●私が高校3年の頃、父は大きい水槽を初めて買って金魚を育てていました。祖母の下から逃げ出し、ようやく時間やお金を楽しみに使えるようになったのでした。ある時、友人Mちゃんがうちに遊びに来ました。Mちゃんは制服で、父が家にいたので多分土曜日の午後だったと思います。居間の飾り棚の上に置いてあった水槽を眺めていた父に、Mちゃんが挨拶しました。「お邪魔します~」父は水槽の前に正座をして腕を組みじーーーっと金魚の動きを見ていました。それでMちゃんの挨拶に対してパッとこちらを見て「あ、どうも!」と軽く頭を下げて挨拶をしました。そして私とMちゃんはおしゃべりを楽しみ1~2時間後にMちゃんが帰る時に居間のドアを開けて挨拶をしました。「お邪魔しました~」父は1~2時間前と寸分違わぬ姿で水槽を観察していました。そして正座に腕組みのままこちらを見て「あ、どうも!」と会釈しました・・・。だって、正座して腕組んだまま1~2時間金魚を眺め続ける人って・・・。今思い出しても噴き出しそうになります。熱中すると、それしか目に入らなくなる人でした。退職した年には児童館の館長をやっていましたが拘束が少ないので、近くの畑を借りて野菜を育て始めました。出勤前の朝と、帰ってからの夕方毎日畑に行ってせっせと世話をしていました。ある年から「アマチャヅル」に懲りました。畑の空いている所にアーチを設け、ツルが這えるようにしました。庭の一部もアマチャヅルを植えました。いつの間にかアマチャズルだらけになっていました。そして収穫したアマチャヅルはすごい量になり、家族で飲んだ所で一向に減りませんでした。それが2年くらいで何倍にもなり、友人知人、色んな人に配りました。それでも減らずに、車2台分の車庫の2階イッパイ乾燥させたアマチャヅルが占領しました。その後数年間占領していたアマチャズル。今やうちの家族はアマチャズルだけは飲みたくありません。(笑)その後も実家に行くとアマチャヅルを持たされました。私の父はタツ○という名前なので父は自らを「アマチャズルのタツ」と呼んでいました。2~3年の間、アマチャズルは父のエネルギーを注ぎ込む中心になりました。その次にはアロエに燃えました。アロエは先を切って数日間乾燥させ栄養分のない粗い土に差し込んでおくと簡単に増やす事が出来ます。それで池の周りはぐるりとアロエの鉢だらけになりました。実家に行く度に増えて行きました。冬になると、シャッター付きの車2台分の車庫はアロエの鉢で埋まってしまいました。帰る時はアロエの鉢を二つくらい持たされるようになりました。勿論アロエも友人知人に配りました。でもどんどん増えて行きました。今も車の周りがアロエだらけの車庫を思い出すと笑えるくらいです。そんな短期集中型の父は私が中学、高校生の頃は「便所先生」と呼ばれていました。何故「便所先生」かと言えば昔は田舎の小・中学校のトイレはドッポントイレで(追記・汲み取り式のトイレでした。正しくはボットン便所)水洗トイレは珍しかったのです。で、新築の中学に赴任した父は教務主任だったので水洗トイレの使い方を普及すべく月曜日の朝会の時には必ず前に出て水洗トイレの使い方を説明したそうです。それで「便所先生」と呼ばれていたそうです。私は父と同じ中学になった事はないのでこれは高校の同級生達に聞いた話です。「便所先生」というネーミングだけでも笑えますが父はいつもツナギを着て外にいたらしいのです。そう言えば、日曜日にも登校して芝生の手入れをしていました。その頃は「芝生のタツ」と言っていました。それだけでも笑えます。いつだったか卒業アルバムを見せてもらったら扉の次のあたりで教師全員の写真があるわけですが正装してすましている先生方の中で父だけ白いツナギを着ていました!!「そうしてツナギなの?」と聞いたら「俺にはツナギが似合うんだ」と言っていました。一応数学の教師なんですが、外が大好きでいつも外で作業をしていたようです。時々バイパスから見える父の中学を指差して「あの土手の綺麗な芝生は俺の手入れであんなに綺麗なんだ」と自慢げに語るのでした。その父は数学の授業で宿題を忘れた男子には「くすぐりの刑」を発令し、父がくすぐりまくったそうです。女子にはと言えば、「授業中ちょんまげを結って耐える刑」をやったそうです。それで父は「タッちゃん先生」とも呼ばれていたそうです。そんな父なので、高校の同級生達に私が「便所先生の娘」だと分かると概ね笑いを伴った顔で喜ばれました。「MY!便所先生の娘って本当?」「うん本当」「うそ~~~!!!便所先生は面白かったよ!」「らしいね」「MYが便所先生の娘~~!!!!(爆笑)」私は笑いを貰うのがうれしかったのでニヤリとしたものでした。逆に弟は引越しをして父と同じ中学に入りひどくデリケートな思いをしたらしいです。子供の頃は神経質だった弟は父と一緒が辛かったらしいです。父はかなり極端で面白い人でした。真面目な話になると逃げ出す、父親としては頼れない人でしたが。過激な母をこよなく愛し、しかし子供を助けない父親でした。母との間に入るという事をしませんでした。それで、親切だけど父親の役目を果たさない人でした。真面目な話しは母を介してしかした事がありませんでした。会話の雰囲気が真面目になるとさ~っといなくなるのです。でも、すごく面白い人でしたね~。思い出すと笑うような事ばかりです。階段の踊り場の上の方に弟のお土産物の角笛が飾ってありました。父は私が部屋にいる時は必ずその角笛を「プップクプップップー」と鳴らすので「お父さん!」と私が叫ぶと「わっはっはっは~~~」と笑いながら寝室に入って行く、というのが大人になってからの恒例となりました。それは私が結婚するまで家にいた4年間程の間の二人のお馴染みのふざけ合いでした。やっぱり遠い記憶として抜粋すると楽しいものが多いですね~~♪愉快な人でした。いつも「わっはっはっは~~~」と笑っていました。そんな元気で明るい父を亡くしたから寂しくて母は24時間テレビを付けっ放しにするようになったのかもしれませんね。生前、母は父を「短絡、お人好し、危機管理能力がない!」とバカにしていたんですが。「亡くして分かる大切さ」という所でしょうね。う~~~~~ん。私も夫を大事にしないといけない、と今気付きました。そうだそうだ、せめて親切にしないと!(笑)●厳かな夕空●今日の夕空は事の外美しくて厳かな神秘がありました。●狙うく~たん●外に出て夕空を見て感嘆していた私と娘を発見して狙いを定めた、遊んで欲しいく~たんです。私は今日も顔と手を引っかかれました。マジで攻撃するんですよ。カーーーーッて威嚇しながら。夫と息子にはニャオン~と甘~~い声を出して擦り寄りくっ付いて寝るんですのに・・・・・(涙・涙)ふんだ。
October 23, 2005
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私の父は12年前に癌で3年の闘病の末68歳で亡くなりました。退職してから夏はパラグライダー、冬はスキーに燃えるスポーツ大好き人間でした。今思うとかなりおかしな人で、逸話は沢山あります。今日は父がニックネーム付けの迷人だった事を書こうと思います。私の父は数学の教師で、割り切れる事が大好きでした。昔の教師は沢山のプリント類を一字一字ロウを引いた特殊な紙に鉄のペンで字を書いてそれで印刷をしていました。「ガリ版刷り」と言っていたと思います。父はガリ版刷りの四角い文字を書くのが得意だったので色んな人に頼まれていました。父にガリ版書きを一番多く頼んでいたのは「怪獣オレゴン」という女傑でした。この「怪獣オレゴン」というニックネームは父が付けた物で、多分うちの家族しか知らないかもしれません。何故「怪獣」かと言えば、母と同じ年のその女傑の先生は誰しもが恐れる超強気の女傑だったからです。うちの母より恐かったらしいです。そして名前が「奥○玲子」さんと言う方でした。オク○のオとレイコのレを取って、怪獣らしくゴンを付けんですね。それで「怪獣オレゴン」になったわけです。私は大きくなるまで「怪獣オレゴン」の本名を知らなかったので、由来を知った時には力が抜けたものでした。「怪獣オレゴンは荒くて恐いぞ~~~!わっはっはっはぁ~~~」と父は笑いながら、いかに職場でオレゴンが猛威を振るったかを話すのでした。父は私が高校生くらいまで母を他の人に紹介する時は「マイワイフです」と言っていました。なんだって英語なんだろう~~?と今は思いますが、小さい時から「マイワイフです」と紹介しているのを聞いていたので私にとっては不思議ではなかったんですね。でも東北の田舎の数学教師が妻を紹介する時に英語って・・・・・。父が家で母を呼ぶ時には「ポー」と呼んでいました。英語で人に紹介をするくらいなので「ポー」とは多分フランス語かなんかで「妻」と言う意味なんじゃないか?と私は勝手に思い込んでいました。で、大人になってから父に聞いた事がありました。私「ポーって何の意味?何語?」父「オタカポッポのポーだよ」私「・・・・・・・・・。フランス語じゃなかったんだ!」私の母の名前は「タカコ」と言います。一方、オタカポッポは山形の特産品の木の彫り物です。オタカポッポのタカとタカコのタカを掛け合わせただけだったんですね~~。しかも語尾だけを使っていたとは!この辺の省略の仕方は私もよくやるので分かっちゃったりしますね~~(笑)でも、オタカポッポにはひっくり返りそうになりました。英語の「マイワイフ」とはえらく違いませんか?父の感性は父にしか分からない物があるんですね~。うちでは私が小学生の頃にシマリスをツガイで飼っていました。父はシマリスに「モンコとチャクロ」という名前を付けていました。何故「モンコとチャクロ」なのか?父はいつも猫を抱きながら歌を歌っていたのですがその歌と言うのが「もんちゃくろ~ もんちゃくろ~高崎せんせの もんちゃくろ~~♪」というナゾの歌でした。この「モンチャクロ」を二つに分解してモンコとチャクロにしてシマリスに付けたのでした。メスがモンコでオスがチャクロでしょうね~~。やはりかなり大人になってから父に聞いたら「高崎せんせい」と言うのは父が子供の頃に預けられていた祖母の実家の近所にいた楽しい担任の先生で、父はこの高崎先生から可愛がられていたそうです。そして高崎先生宅で飼われていた猫の名前が「モンチャクロ」だったそうです。それで猫をあやす時にいつも歌っていた訳です。日常には、聞いてみないと分からない事が沢山隠れていたりしますね。まさか二十年以上も聞いていた「モンチャクロ」に父の子供時代の幸せな思い出が潜んでいたなんて。でも、そもそも猫を抱いてあやす人がそれほどいるとは思えないんですけどね。父は他の人にも沢山ニックネームを付けていましたが思い出せません。母が憶えていれば今度聞いてみようかな~。●く~たんはお風呂場が大好き~~●最近、ふと見るとお風呂場の蓋の上で寛いでいます。●その後のグレイシマ猫のジル●昨日の朝から来なくなりました。一昨日はちょっと小走りになったり、日向ぼっこをしたりしてかなり元気になっていました。家を目差して出発したのかもしれないと勝手に思いました。
October 16, 2005
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バイクの話として、今日は新婚旅行の事を書きます。夫もライダーでしたので、というかそれがきっかけで親しくなったんです。それで3年半付き合って3月末に結婚したんですが、寒いので7月まで待って新婚旅行に行きました。だってバイクで北海道に行きたかったんです。(笑)今思うと、夫の会社もよく融通してくれたなあと思いますね。一週間を使って北海道に行きました。夫の会社が終わった夜のフェリーに乗って苫小牧に向かいました。●一日目・苫小牧→門別手前→日高(安旅館泊)苫小牧から海岸線を少し行き、左に曲がって日高を目差した所で時速80キロで走っていたら、路線バスや乗用車にどんどん抜かれて驚きました~。路線バスですよ!路線バス!!!北海道のスケールの違いを実感しました。事故ると死ぬ確立が高いわけです。ボロい旅館に泊まりました。●二日目・日高→日勝峠→帯広→池田→浦幌→音別→ 釧路→阿寒→屈斜路湖(川湯温泉の国民宿舎泊)音別近辺の海岸線は雨が降っていて、とても寒かったです。ドライブインやGSでは7月なのにストーブ焚いてました。この日の天気はころころ変わり、ツナギの上にカッパを着たり脱いだり大忙しでした。国民宿舎ではバイクで北海道を廻っているライダー達と親しくなって夜一緒に飲みました。●三日目・川湯温泉→摩周湖→弟子屈→標津→根付半島→羅臼(知床半島)→斜里→小清水→川湯温泉(国民宿舎泊)この日の標津近辺は確か真っ直ぐな道路が何十キロも続いていて、私は愛車初期型ガンマに最適な道路に出会えた喜びから思わず「ひゃっほ~~~~~ぅ!!!」と叫び思いっきり走り抜けてしまいました~~♪夫を置き去りにして。私のバイクはレーサータイプの高速用でしたが(ガンマレプリカ)その頃、夫が乗っていたのは峠のくねくね道を攻めるのに面白いスピードの出ないバイクだったんです。(ホンダCBX250RS)夫のバイクに付き合っていると100キロが限界でした。私のバイクは100キロからが本領発揮でした~~♪それで北海道の真っ直ぐで信号のない、車も人もいない道を走ると差が出てしまいました。ごめんなさいご主人。だ~れもいない真っ直ぐな道を駆け抜ける気持ちの良さ~~。根付半島から見ると、ロシア領の国後島や色丹島がすぐそこに見えました。領土問題の複雑さが頭一杯に広がりました。羅臼では又雨で、道がぬかるんでひどい状況でした。●四日目・川湯温泉→美幌→留辺蕊→大雪山の麓→層雲峡→川上→旭川→美瑛(友人宅)この日は天気が良くて楽でした。でも私のバイクはシビアなエンジンなのでしょっちゅうギアチェンジをしなければならず手や腕が痛くなって湿布をベタベタ貼りました。壮大な眺めの自然の中を移動するのは気持ちが良かったです。旭川のあたりからものすごく暑くなり、前日まで合羽でも震えていたのに暑くて暑くて眩暈がするほどでした。友人宅は一軒家でした。初夏なのに入り口近辺がブルーシートで覆われていました。冬用にシートが掛けてあり、面倒なので一年中そのままなんだそうです。ブルーシートが一年中掛けてある家を初めて見ました。北海道ならでわと思いました。●五日目・美瑛→富良野→芦別→滝川→月形→当別→江別→札幌(友人宅)富良野でラベンダー畑に行きましたが死にそうに暑くて、ライダーはみんな日陰でしゃがんでいました。東側の雨や寒さが堪えていたので盆地の急激な暑さに参りました。そして札幌が近付くにつれて道路は渋滞しノロノロ走りになって行きました。それまで百キロ単位で走っていたので渋滞は厳しかったです。札幌では迷いました~。●六日目・札幌空港に友人の夫を出迎えに→札幌のパルコで買物(友人宅)疲れがどっと出て沢山寝ました。夜はパルコで買ったジグソーパズルを完成させました。●七日目・札幌→恵庭岳→支笏湖→苫小牧(フェリー)恵庭の峠道は北海道で唯一のワインディングロードでした。そして「熊出没注意」の看板がありました。初めて見たので写真をとって来ました。熊をどうやって注意したら良いんですか~?と言う素朴な疑問が湧いたのは私だけ?私は三半規管が弱いらしくて乗り物に酔うのでバスやフェリーに乗ったらすぐ寝る事にしています。そして翌日の昼に仙台に着くまでぐ~ぐ~寝ておりました。私は夫を置き去りにして先に走ったのは標津近辺だけだと記憶しているんですが、夫は「二回私を置いて行った」と二十年言い続けています。なので私は、二回置き去りにしたのかもしれません。だってバイクの種類が違い過ぎたんです。昔の話です~。
October 15, 2005
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私は常識というのが良く分からない人間らしいです。高校生時代に母から毎日のように「あなたは非常識だ」と言われていたので「常識って何?」と聞いてみました。「昔から言われている事や大勢の人が言う事が常識だ」と暫し考え込んだ母が言いました。「皆が正しいと言ってやった戦争は人殺しです」と反論した私です。「多数決が必ずしも正しいとは言えない」と私が言うと母は怒り狂い「そうやって屁理屈ばかり言う!!大人に言われた事をしていれば間違いないんだ!!!」と吐き出しました。私は私の良い所を一つも見つけられない親の言う事なんか全く聞く必要は無いと判断したのでした。今思えば私の思いも良く分かり、かと言って母のあの性格で言う事も分かります。でも母は自分で考えていなかったんだと思います。だから言われた事をする。だから子供にも命令するだけ。子供を見ていない。本当に必要な物が見えていない。小学4年の頃に珍しく私の授業参観に出た母はそこで恥をかいたと何度も何度も言いました。それは国語の授業でした。作文を読み上げました。私の作文は実に正直でした。「私が珍しく勉強をしていると、通りかかった母が『漫画ばっかり描いて、何で勉強をしないんだ!!』と怒る。勉強をしないで漫画を描いていると『勉強しているのか?』と言う。母はいつも見当はずれな事を言う」というような内容でした。あの作文には子供のSOSが含まれていたと思います。自分の必要を母が気付いていない。母は自分に都合の良い事しか見ていない。私をちゃんと見て!そう訴えている気がします。でも母は家に帰るなり怒りました。「知り合いの前で恥をかいた。なんだあの作文は。あんな事を書くな!」あなたは母である事も国語の教師である事も失敗していると私は言いたかったですね~。当時は何も言えず「本当の事を書いて何が悪い」と思ったものでした。母は教師としての面子を潰されたと思ったんでしょうね。ですからその後は授業参観に来なくなりました。その話しはよほど母のプライドを傷付けたらしくてつい最近まで言っていました。「恥ずかしかった」と。母は人にどう見られるか、が一番大事なんです。ずれて来ました。母の事を書くとついカッカとしてしまうんです。私は決まり事でも納得しないとやらない所があって誰がやっているかとか、どれだけの期間やっているとか、そう言うのが全く大事ではないようなんです。自分が納得しないと動かないようなんです。それが、自分が良いよ~と思うとやってしまうらしいです。それがどんな事か自覚がないんですが、一つだけこれはおかしいんじゃないか?と言う記憶があります。それは17年ほど前に知り合ったKさん関係です。Kさんはとても真面目でしっかり者で温和で誠実で優しい人です。学校なんかでクラスに一人はいる優等生タイプのきちんとした人です。自分はキチンとしていても人に要求しません。お母さんに愛されたので、自分の子供にも沢山の愛を与えたいと願っている人でした。私はこのKさんが大好きでした。私にない物を沢山持っている魅力的な女性でした。一方的に押し掛けて行っていました。しょっちゅうお邪魔していました。するとある日、Kさんのご主人のお姉さんが乳癌で手術の為に入院しました。その家のご家族は皆仲良しでご主人のお姉さんも時々泊まりに来たり冬は一緒にスキーをしに泊ったりしていた話を聞いていたので一度もお会いしていないのに、これは大変だ、お見舞いに行かなくちゃ!と思っちゃったんですね~~~~~。そしてお見舞いに行っちゃったんですよ~~。一度もお会いした事がないのに、癌の手術なんていうデリケートな入院なのに、お花を買って会いに行ったんです。そして「私はKさんにお世話になっている○○です」と言って話しをして来ました。お見舞いを包んで持って行ったかもしれません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。大好きなKさんの義姉なので自分にとっても大切な人、って思ったんでしょうね~~。流石にこれは私ちょっと変?という疑問は後になって出て来ました。そうなんです。5~6年経ってからおかしい事に気付いたんです。それでKさんに言ってみました。「お儀姉さんに会った事も無い私がお見舞いに行ってお儀姉さん驚いてなかった?今思うと、私おかしいかな~と思って」優しいKさんはニヤッと笑いました。それで終わりでしたが、あのニヤリの後ろには色々あるかもしれませんね~~。(笑)確かに母が言うとおり、私は非常識な人間です。はい。その通りだと思う今日この頃です。でも、楽しい非常識人ですよ~~~~♪●夕方もちもちパンを作りました●夕方ピー(娘)が起きて、帰って来た夫と二人でお腹が減ったと言うので、すご~く簡単なもちもちパンを作りました。イギリスのお茶の時間風に紅茶も出しました。私とピーはレモンティー。夫はミルクティーです。私はとってもアールグレイが好きです。レモンは安い時に買っておいたものです。もちもちパンは以外においしかったです~♪●しどけない寝姿く~たん●これは夫が激写しました。女の子なのに~すごい格好なのではしたない所をカットしました。本当はかなりはしたない姿なんです。でもこれも笑えます~~♪
October 12, 2005
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私は独身時代に一度TVCMに出た事があります。勿論身内しか知らない事です。確か26歳の頃でしょうか。広告代理店に勤めていたのですが、美容室のTVCM依頼が会社に舞い込みました。社長は男性なので美容室には縁が無く夢を膨らませたんでしょうね~~。毎日、化粧もせず綺麗な服も着ず皮のツナギでバイク通勤している女の子が自分の会社にいるじゃないか・・・と社長は思ったんでしょうね~~。「MY(私の事)○日にバイクと皮のツナギとブーツで○○美容室の前に来い」と社長にいきなり言われ、私の承諾も了解も無しでしたよ。バイク使っても良い?とか、何も無しでしたよ。しょうがなくて行ってみると、バイクとツナギを貸すのかと思ったら私がガンマ(私の250CCのバイク)に乗って走って来て、角を曲がって店の前に止まる。をやれ、と言うんです。え~~~?!と思いながらもしがない社員ですから 渋々やってみましたよ。転ばない程度に角を曲がって店の前にキッと止まりましたよ。それを5回くらいやりました。一台のカメラで撮るので、角を曲がってくるシーンと店の前に止まるシーンをそれぞれ撮りました。フルフェイスのヘルメットを被っているので私の顔は全く見えません。それから仙台から呼んだモデルさんに私の皮のツナギを貸しました。このツナギは自分でデザインして、採寸して私の体にフィットしたフルオーダーで作ったこの世に一つしかないツナギとブーツでした。私の足は大きくて25センチの為モデルさんが履くとぶかぶかでした。所がツナギの方は、モデルさんが着たら「腰がキツイ~。胸が余ってる~」と言うじゃありませんか!!!!!驚きましたね~~~。モデルさんって皆細くてナイスバディかと思っていたんですよ。そしたら私の方が細くて胸が大きかったんですね~。今は幻の筋肉の付いた肉体でしたね~。余談でした。つまり社長は皮のツナギを着た人がヘルメットを取ると、そこに髪の長い素適な女性が現れて店に入って行き美容室で綺麗に磨かれてドレスを着て、フェミニンなレディになって店を出て行く・・・というベタな設定を考えたわけでした。若い女子社員が口出し出来る訳も無く・・・。ついでに私は店内で髪をいじられる後姿の客のサクラまでさせられました。勿論給料以外のものは貰ってません!!!ありがとうの一言も無かったですね~~。TVCMなんて珍しいので社員一同放送される日を楽しみにしていたんです。○時頃に○○の後に流れる、と言うんで各自の家でTVの前で構えていました。あ、これだ!!!このバイクに乗っているのが私。このブローされてるのが私。なんて両親に説明しました。それ以上、何も言えませんでしたね~。何しろ動きの無いカメラで撮っているのでバイクが走ってくる所の迫力が無い!!!止まる所の迫力が無い!!!モデルさんがヘルメットを取ったあたりでその先の展開が見えてしまってつまらない。と言うか動きが死んでる感じ?迫力が無い?面白くも無い?驚きもしない?楽しくも無い?ツマンナイ?ダサい?所詮田舎の広告代理店じゃなぁ~~~。って感じでしたね。正直な所。それで翌日は皆で「見た?」「見た」「・・・・・・・・・・・・・。」でしたね~~~。(笑)前日の盛り上がりがすごかったので、そのしぼみ様はあからさま過ぎてもう、寒~い風が吹いていました。流石に社長も失敗に気付いたらしくてその後一切その美容室のTVCMの話題は禁句となった・・・という笑い話です。翌年のCM撮りは田舎に行ってお花の中を歩くみたいな穏当なモノになっていましたね~。社長も学んだらしいですね~。今思い出しても可笑しくて~~可笑しくて~~~たまりません。今みたいにビデオやパソコンに取り込めたら笑いネタにしたんですが残念ながら残っていません。なのでベタで動きの無いしょぼいCMを想像して笑って下さい。ちなみに私の乗っていたガンマはこの写真の元になったバイクです。これはガンマレプリカです。●コスモス(秋桜)●爽やかな澄んだ空気を感じさせる花ですね。繊細だけど生命力が強くて逞しいです。●切って放っておいたネリネ●何故か受粉して種になったらしいです。切ったのにふっくらと膨らんでいました。
October 3, 2005
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昨夜のおかずは揚げ出し豆腐でした。私が揚げ出し豆腐を初めて食べたのは25歳の頃にOちゃんのお弁当のおかずを分けて貰った時です。Oちゃんは高校3年間同じクラスで、今も親しくしている唯一の友人です。彼女とは広告代理店で一緒に働きました。女性は2人だけだったので毎日一緒にお弁当を食べて椅子でお昼寝をしました。Oちゃんのお弁当はおばあちゃんが作っていました。Oちゃんは両親とは仲が良くなかったのですがおばあちゃんの為に東京から田舎に帰って来たくらい仲が良かったのでした。ある日、おばあちゃんが作ってくれたお弁当の中に見慣れない白いものがありました。「それ何?」と聞くとOちゃんは揚げ出し豆腐の説明をして私に分けてくれました。初めて食べた揚げ出し豆腐はとっても美味しかったです~♪Oちゃんのおばあちゃんの愛情の味がしました。私の母は仕事命の人で料理なんて殆ど出来合いでした。退職するまでご飯は私が作っていたので毎日私が作った野菜炒めと味噌汁に母が買って来た出来合いのおかずでした。誰にも料理の手ほどきを受けていない私はそうめんを煮る時にばらばらに入れると言う基本も30代になって友人から教えて貰いました。ですから朝に作るお弁当に水切りをして片栗粉を付けて油で揚げるなんて手間の掛かる物をつくるおばあちゃんがすごい人に見えました。ですから揚げ出し豆腐を作るといつもOちゃんのおばあちゃんが作ってくれたおいしい揚げ出し豆腐と毎日机を並べて仕事をしたOちゃんとの毎日を思い出します。Oちゃんはとても情の深い人です。例えば、私の家のオス猫のツトム君が車に轢かれて死んだと母から連絡が入った日の事でした。家が見える丘の上の公園にツトム君を埋めに行くから明るいうちに帰って来るようにと言う母の電話でした。仕事が終わって急いで帰り支度をしてツーリングバッグを閉めていました。さあ、帰ろうとバッグを手にした時Oちゃんが外から戻って来ました。そう言えば隣にいたOちゃんがいつの間にかどこかに行っていたのでした。Oちゃんは小さい菊の花束を私に渡して言いました。「ツトム君にあげてね」まさかOちゃんがわざわざツトム君の為にお花を探して買って来てくれるなんて。4才位だったうちの猫のために会社を脱け出してお花を探してくれるなんて。「なかなか花を見つけられなくてあせった~」とOちゃんはニコニコしながらいいました。私はOちゃんの心遣いに一瞬にしてやられてしまいました。体中に激流が走って一瞬暗闇に包まれ力が抜けてその場にしゃがみ込んでしまいました。そして急にツトム君が死んでしまった事が胸にこみ上げて来て泣いてしまいました。それまでは冷静に受け止めていたつもりでした。私は色んな感情を押し殺してしまうらしくて気付いていなかったのです。優しいツトム君を失った悲しみを仕舞い込もうとしていたようでした。それがOちゃんの優しい気遣いが呼び水となって、本心が表に出たようでした。ツトム君は実家で生まれた3匹の猫のうちの一匹でした。真っ黒でやせていて、知恵遅れでした。穏やかで優しくて素直でとてもいい子でした。危なっかしいので、母猫のジャム母さんがいつも側に付きっ切りでした。ツトム君は斜めに傾いでいてよたよたよたと歩きました。普通にニャ~とは鳴かずに気の抜けたような声を出しました。でも凶暴な白いオス猫が現れるといつも立ち向かうのは小さいジャム母さんとツトム君でした。それは勇敢な姿でした。いつもほわぁ~んとしているのにいざとなると頼りになるカッコイイ猫でした。父は事の他ツトム君がお気に入りで毎日ガウンの背中にオンブして歌を歌ってあやしていました。ツトム君はいつも従順に父の背中にオンブされていました。大抵、隅っこにぽわぁ~んと斜めに傾いで座っていました。事故の様子を見ていた隣人が言うにはいつもうちの猫達を襲っている白猫に追い駆けられて道路に飛び出して車に轢かれたそうです。残念でした。実家の前の道路は真っ直ぐで車はかなりのスピードを出して走ります。ツトム君はほぼ即死だったそうです。それを「ああとうとう死んでしまったんだ」と冷静に受け止めていたつもりでした。もう、Oちゃんたら思いやりの塊みたいな人なんだから。不意打ちでしたから、私も正直になれたんでしょうね。そんな風に、揚げ出し豆腐を見るとOちゃんの情の深さも思い出すのでした。揚げ出し豆腐のなんと奥深い事!!(笑)
September 16, 2005
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最近パソコンのやり過ぎか、右肩に激痛が走り左を向く事が出来ません。横になっても痛くて力の入れ加減で激痛にもだえ苦しんでいます。なので短く行こうと思います。ブログ巡りも程々にしなければなりません。(T_T)高校3年の頃の私ときたらお人好しと正義感があいまってピークを迎えていました。どんな事がピークかと言えばお悩み相談所みたいになっていました。毎日5~6人から相談の電話が来ました。1日に2~3時間も話していました。母にはいい加減にしろ、連絡が取れないと怒られましたが何しろ断れない私。しかも私は男性でも女性でも変わりなく対応したので男性からもよく相談されました。男性は同性に弱みを見せたくないらしくて家の揉め事や彼女の話をしました。その中にユキオちゃんという同い年の少年がいました。でもユキオちゃんは少年と言うよりはかなり大人びた人でした。やせて髪が長めで病的で退廃的な雰囲気の垢抜けた陰のある人でした。かなりもてたユキオちゃんは目立っていました。カッコイイと言われていました。ちょっと洒脱ないなせな感じがするユキオちゃんにはテイコという一歳年下の彼女がいました。テイコは顔が小さくて目が大きい手足が長くてスタイルの良い元気で活発でチャーミングな女の子でした。私はどちらかと言えばテイコと仲が良くユキオちゃんとは住む世界が違うような気がしていました。ユキオちゃんはセクシーなフェロモンを出している人でしばしば綺麗な女子から声を掛けられていました。テイコが知ると可哀想だったので私は見て見ぬ振りをしていました。もしかしたらユキオちゃんはそれで私を口が堅いと思ったのかもしれません。時々ユキオちゃんは私の家にやって来て車庫の前に座り込んで話をする事がありました。ユキオちゃんは体が弱いと言われていました。ある時、ユキオちゃんが初めて体の話をしました。良く晴れた秋の夕方でした。車庫の日陰の中で座り込んだユキオちゃんは「オレは肺が悪くて長く生きられないんだ」と言いました。繊細で美しい人が死ぬかもしれないと口にするのはとても似合っていました。私は言葉を失い、励ます言葉を見つけられませんでした。困ってしまった私を見てユキオちゃんはちょっと笑いながら「誰にも言うなよ」と言いました。私はそれまでユキオちゃんの事を気の多い浮気性な軽い人と思っていました。でも命が短いかもしれないと思いながら生きているのであれば日々の退廃的な雰囲気をかもし出している事の理由がこれなんだと気付きました。ユキオちゃんはその後も相変わらずダルそうに女の子に囲まれながらテイコに尻に引かれて学生生活を送っていました。私はそれを少し胸を痛めながら遠くから眺めていました。そして私は高校卒業と共に地元を離れ仙台の大学に進みました。貧しくも地味な寮生活をしていたので地元の友達とは疎遠になりました。そして22歳の秋か初冬の頃、仲の良い友達の家に車で迎えに行き一緒に出掛けました。友達は東京に住んでいて久々の帰郷でした。「そう言えばユキオちゃんが結婚したんだよ。家がそこだよ」と彼女が言いました。彼女はユキオちゃんとは家が近いので幼馴染みでした。私は体の弱い、死をも覚悟していたユキオちゃんが結婚できた事に驚き喜びました。そしてユキオちゃんの家の前を通った時です。家と道路の間にある畑で鍬を振るっている人がいました。その人は赤ちゃんをオンブして綿入れを着て長靴を履いて畑で鍬を振るっていました。車を止めてよく見ると、なんとユキオちゃんでした!!!そしてこちらに気付いたユキオちゃんは「おーーっ!MY(私の事)久しぶりっ!!」と大声を上げてこちらにやって来ました。嘘だ~~~~っ!!!死ぬんじゃなかったのか~~~っ?!!!赤ん坊を背負って綿入れまで着てそして鍬を振るっているよ~~~っ!!!すごい元気じゃないか~~~っ!!大声出して笑っているよ~~~っ!!!タフって言えるくらいじゃないか~~~っ?!!!肺の病気はどうしたんだ~~~~っ?!!!私にだけ打ち明けた事はどこに行ったんだ~~~っ!!!正直、私は内心パニックでした。近づいて来たユキオちゃんは結婚した事や今年赤ん坊が生まれた事を話しました。奥さんは外で働いているので自分が子守をしていると言いました。私と友達も平静を装ってこの5年の近況を話して別れました。その後の車の中での私と友達の大騒ぎったらありませんでした!!!だって結婚だけでも驚いたのに、プレイボーイで洒脱で退廃的でオシャレでスマートでカッコ付けマンできざっぽくてセクシーで大人びて・・・・・・。限りなく今見た状況とは相容れない記憶が溢れてくるのでした!!!「うそーっ!!!」「何あれ!!」「赤ちゃんオンブしてた!!!」「鍬で畑を耕していた!!!」「長靴はいてた!!」「綿入れ着てた!!!」「信じられない!!!」「女たらしが赤ちゃんオンブして畑耕してた!!」「あのユキオちゃんがーーっ?」「生活感溢れる姿だったーー!!」他の誰があの姿でもあれほどショックは受けなかったと思います。だってユキオちゃんは死ぬはずでしたから。(笑)もう、あれを見たら高校生の時の夕方に2人で病気の話をした感傷的な思い出は一瞬にして笑い話になってしまったのでした。それでも私はユキオちゃんが肺の病気で死ぬと言う話をした事を誰にも言いませんでした。ここで初めて告白しました。あれから死んだとも病気になったとも聞かないので多分元気に暮らしているんだと思います。いえ良かったんですけどね、元気に生きている事は。そう、良かったんですよ!感傷的な思い出を残すよりも逞しく生きて行く事の方が素晴らしいです。でも笑い話になっちゃった~~(笑)ユキオちゃんをあんなに変える事の出来た奥さんはさぞかし素晴らしい人なんだろうと思いました。テイコと結婚はしなかったそうなので奥さんを知らないわけですがど~んな人なのかお会いしてみたい!!!だけどあの打ち明け話はなんだったんでしょうね?(笑)●ホクシア●虫を退治したら元気に花を咲かせました。●紫式部●今年も淡い色の可愛い花を咲かせています。
August 30, 2005
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21日に書いた日記「再度挑戦・たった一人で闘っていたつもりだった中学生の話」はその4日前に書いて送信直前に消してしまったモノを思い出しながら書いたのですが、何故中学生の頃の出来事を書こうと思ったのか思い出したので、ここに書いておきます。不登校児の親がカウンセラーの話を聞いたり話をしたりする「わかばの会」でカウンセラーのS先生が話していたのが「今の女子中学生は関係図が複雑ですぐに変化するため自分の居場所を確保する為に必死になって疲れ果てている。」と言うモノでした。でも34年前に私が中学3年生で友達からされた事は、やはりすぐに変化する関係図でありそれは高校生の時には一層移ろいやすかったな~と思い出し、鈍かった私は沢山助けられていたんだと思って中学生の時の話を書いたのでした。勿論今の中学生の方が複雑ですが。その時の友人のミエコとは本当に変化に富んだ関係でした。ミエコは頭の回転と行動が速く、人の上に立つタイプだったので近所の女ガキ大将でした。それで、小学校までは母の実家にいて近所の子とは親しくなく、ぼんやりの私は些細な事でいじめられました。小学校5~6年になると私はおはじきが特別上手だったせいか仲間扱いされました。皆が右手の所を私だけハンディで左手でやっても私の一人勝ちになってしまうのでした。(仲間扱いされるようになった理由が他に浮かびません)中学1年になると、またいじめられました。理由は思い付きません。クラスは隣でしたが、家が斜め向かいなので登下校は一緒でなければいけなかったのです。(2~5人の集団登下校を決められていました)学校の行き帰りにいじめられました。堪らずに時間をずらした事がありました。私ときたらクラスメートに愚痴を言ってちょっとだけ仲良くしてもらった記憶があります。(笑)兎に角理由が分かりませんでした。中学2年になると私はミエコと同じクラスになりました。中1で腎臓を病んだ私は一年間運動を禁止され2年の途中で弱小バレーボール部に入りました。やりたかった水泳部も美術部も無く、1学期だけやった体操部にはもう体が付いて行きませんでした。バレー部にはミエコの他にミチコさんがいました。部活も一緒になったせいか急激にミエコと仲が良くなりました。と言ってもそれまでいじめられていたので私は何処かで距離を取っていた気がします。3年になると家に居たくない私は家族が寝付くまでミエコの家にいるようになりました。今思えば私の行動は失礼だったと思います。ミエコの家は二間の借家でした。そこに両親と姉3人とミエコの6人が暮らしていました。私は自分の食事と洗物を済ませるとミエコの家に行きミエコが二匹の猫とお風呂に入るのを見ていました。ミエコの家族が次々にお風呂に入り、色んなたわいの無いおしゃべりをして布団を敷き、電気を消す直前まで私はいたのです。ミエコの家は唯でさえプライバシーの無い状態だったので私がいたら、全部が見えてしまうのです。上の2人のお姉ちゃんは私を可愛がってくれましたが3番目のお姉ちゃんは怒っていました。怒って当然だと思います。今ならよく分かります。失礼な少女でした。皆が寝静まった自分の家にそっと入りながらとても居心地の良い思いがありました。誰もいない家が好きでした。起きているのが自分だけの夜が好きでした。家族が居ると緊張があり、理不尽に怒られ、母の気の向くままに注意をされ些細な事で指図されるので一人で居る方が楽でした。理解されず、否定され、いちいち指図されるなら一人の方がまだしも自分で慰め励ませるからなるべく一人で居たのだと思います。そして勉強をする振りをして図書館の本をせっせと読んでいたのでした。なぜミエコの家に入り浸りになったかを今思い出してみると、もしかしたらラジオを取り上げられたからだと思います。私は洋楽が好きでしたが、今と違って情報はラジオだけでした。洗濯をしながらいつもバックに流れていたのはビートルズだったりトミー・ロウだったりアーチーズだったり。勉強中も小型ラジオのチャンネルを合わせながら遠くミッドナイト東海の森本レオの番組を聴いていました。音が途切れ途切れでしたが当時の森本レオの話し方は新鮮でした。面白くてラジオを聞き入っている所を母に見つかりラジオを取り上げられたのでした。ミエコの家への逃避行動は私に出来るささやかな反抗の手段だったのかもしれません。当時はよく考えていませんでした。どのくらい続いたのか憶えていませんが兎に角毎日行っていました。ミエコの家はとても気さくで、子供にも発言権があってこそこそと生息しなくて済むのです。6人で言いたい放題話して、ののしり合ったり笑ったりが私にはひどく穏やかで優しい関係に見えたんです。だから居心地が良くて毎日入り浸っていました。その時期が終わると私はミエコの家には行かなくなり自分の机の前にいることが多くなりました。ある雨の日の夜にミエコがやって来て「私達は親友だと思っていたのに」と言いました。何をして私がミエコを裏切ったと言う事なのか今は憶えていません。でもミエコはショックを受け怒っていました。私はと言うと、お腹の中で「小さい時から私をいじめ続けて来たのに何時の間に親友になったんだろうか?」という疑問が頭をもたげて「ごめん」すら言いませんでした。少し前まで入り浸っていたのに、冷たい少女でした。そう、私の心の中はその時はとても冷たいものに満ちていました。15歳の薄情とでも言うのでしょうか。私はいざとなったら冷たい人間なのかもしれません。もしかしたらミエコがミチコさんと2人で組んで私をいじめたのはこの辺の事が絡んでいるのかもしれませんね。当時の私は人の心を立体的に組み立ててその人と成りを理解したり出来ない少女でしたから。でも激情型で言いたい事は全て言うミエコのその時その時の感情に合わせていては私の心が持たないと思いました。そしてその頃、親友って何?と考えていました。私が好きだったのはミエコの家族関係だったんですね。ミエコ個人が特別に好きだったわけではなかったんだと思います。今こうして文章にするとちょっとずつズレていた心が見えて来た気がします。随分長くなってしまいました。何が書きたかったんでしょうか。何時の時代も少女の心は難しい、と言う事を書きたかったのかもしれません。多分。●大きくなったおじぎ草●葉は閉じています。動かしたから。●一個だったネリネがいつの間にか増えていました●●ネリネの蕾が一つ●台風の風にやられて倒れていたネリネですが一本だけ今から咲く蕾がありました。
August 29, 2005
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四日前に長文を書いてアップ直前に消してしまった内容に、再度挑戦します!と言っても単に私の中学3年生の時の話なんですけれど。私はその頃読書に邁進していました。小学一年生から仲の良かったミチコさんが貸してくれた吉田とし著の「たれに捧げん」に大いに影響を受けたのでした。内容の要約「学生運動が日本中に吹き荒れていた1960年代後半。高校受験を間近に控えていた古賀奈緒子は、姉の夫の弟の南郷修(高校生)と出会い強く惹かれる。修さんは学生運動に身を投じて行く中で奈緒子に対して特別の感情を抱きながらも時代の波に翻弄され、街頭運動で亡くなる。」奈緒子の日記の形で書かれた二人の純粋な心の交流と恋の行方が美しく描かれています。とても切ない少女の切実な美しい思いと学生運動の厳しい動向が交錯し、私は心を揺さぶられ泣きながら読みました。私は世間知らずな田舎の素朴な少女でしたから、学生運動をテレビで見ながら段々その気になって行ったのでした。どうその気になったかと言うと、まずは新聞の一面を毎日読みました。そしてこっそりと誰にも言わずに一人で反体制運動を始めたのでした。とは言え田舎の素朴で幼い15歳でしたから出来る事と言ったら高が知れています。それで主人公と同じ受験生だった私は、受験体制に反旗を翻さんと行動に出ました。何をしたかと言えば、皆が必死で勉強をしている中で「一日一冊の読書」を目指しました!(笑)読書をして勉強をしない事で反体制運動をしているつもりになっていたのでした。そして毎日読書に明け暮れました。世界名作文集・日本の名作・児童文学・推理小説・SF・詩・冒険小説等等・・・・・・。歴史物と伝記とマニュアル物、専門書以外の図書館の本はかなり読み漁りました。家にある母の本も読みました。シャーロック・ホームズにルパンなどの洋物の推理小説類と週刊誌。そんな風に「たれを捧げん」を読んで震えた胸の感情の丈を読書に注ぎ込んだのでした。そんな時にいつものように図書館にいてカウンターでカードに名前を書き込んでいた時でした。図書館の入り口でミチコさんとミエコがこちらを伺っていました。ミチコさんは物静かな成績の良い優等生タイプで上品で、常に副学級委員長でした。ミエコは家がうちの斜め向かいで、自己主張のはっきりした元気の良い女ガキ大将的な、常に人垣の中心にいる派手で回転の速い口も達者なチャーミングな同級生でした。二人の共通点と言えば私が友人である事と部活(バレーボール)が一緒と言う事でした。それで二人が一緒にいる所を見たのはその時が初めてでした。ミチコさんとミエコはこそこそと話をしながら入り口の外で私を見ていました。二人は入って来ないで見ているんです。おかしな感じがしました。すると「やっぱり図書館にいた」「やっぱり豊君が係りだ」「豊君に会いに来ているんだ」「毎日豊君に会いに来ているんだ」「だから図書館に毎日来るんだ」と二人は聞えるように話し始めました。何しろ受験体制に抗議して社会体制と闘っているつもりだった私としてはあまりにも下らない理由に思えたわけです。図書館いの理由があまりにも下世話な内容にされてしまって私は内心怒りました。豊君は同級生で話しやすくて性格の良い人でしたが、全くそう言う関係では無かったのです。ミチコさんとミエコが急に下らない人種に見えました。相手にする気にもなれず無視しました。その後も教室の外で二人がひそひそ話していたり後ろを付いて来たり、他の子に話したりしていましたが、私が全く反応しないのでいつの間にか立ち消えになりました。そのころの私は大抵の場合人に合わせる断れない人間でした。(今も大差ないですが)中学一年の時にはミエコに集中的にいじめられた事もありました。所が私はイヤと言えないくせに何か事があると動じなくなるみたいです。何に反応するのか未だに分かりません。とにかくその時は「私は悪くない」故に二人の事は無視!と決めたんですね。分からないと言えば、あの時に突然ミエコとミチコさんが共謀して私をいじめたのは何だったのか未だに分かりません。例え私が豊君を好きだとしてもミエコもミチコさんも豊君が好きなわけではなく何に反応したのか私には理解できません。私には乙女の複雑な心は理解できません。そして一ヵ月後には何事も無かったように普通に付き合っていました。私は鈍い所があるのでいじめられたと言う自覚が無かったのでした。いつ自覚したかと言うと、これを書いている今自覚しました~~。(笑)本当に鈍くて助かる事ってありますね~。これが4日前に書いて消した日記でした。いえ、ちょっと主旨が変わってしまったかもしれません。15歳の私は繊細でデリケートで素朴で鈍くてお人好しで自己主張できなくて単純でマイペースな少女でした。●巨大化したノボタン●(夏だけ外に地植え)1メートル20センチくらいに大きくなってしまったノボタンです。剪定が分かりません!!!切り過ぎて枯れてしまわないかと思うと切れません!
August 21, 2005
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高校一年生だった時、私は今で言う部活は美術部でした。そこで初めて油絵の描き方を知りました。でも顧問の先生は年に3~4回しか来ないのでのびのびした部活でした。部長がきちんと仕切っていて、皆が互いにモデルになる5分間クロッキー。生物のデッサン。キャンバスの製作。油絵と近所の風景画デッサン。そこでは沢山の事を教えて貰いましたが、賑やかな中で自分と対話しながら絵を描くのが段々苦痛になって行きました。私は人と一緒にいると無意識のうちに人に合わせてしまうので一人になる時間が必要だったんだと今になると分かります。でも当時は突然やってくる苛立ちに自分が振り回されていました。美術部は毎年夏になると高山温泉地に合宿に行きました。二泊三日位だったと思います。近くの湖や森や温泉街をスケッチしました。帰って来てから学校で油絵に仕上げて秋の展覧会に出展しました。毎年泊まる所はケーブルカーの基地のある所の近くでした。そこにはバラ園がありました。宿泊する所は下が食堂になっていて、その食堂にはジュークボックスがありました。私はそこでサイモンとガーファンクルのレコードをよく聴きました。それはヒットしているA面ではなくB面の「フランク・ロイド・ライトに捧げる歌」でした。これはギター演奏だけの静かな静かな曲でした。心に染み込む美しい曲でした。サイモンとガーファンクルの中で一番忘れられない曲です。それまでわたしはフランク・ロイド・ライトの存在を知りませんでした。だから何故こんなに切なく美しい曲を二人が歌っているのか私には分かりませんでしたが、この曲は私の心を魅了して離しませんでした。それで何度も何度も聴きました。持って行ったお小遣いを殆どつぎ込んで聴き続けました。合宿では夕食の後、皆で揃って階段下の温泉街に行きました。20人くらいの高校生の男女がわいわいと楽しく観光をします。これが私には耐えられませんでした。何故か分からないないのですが、すごくすごくイヤでした。仲良く観光なんかしていられる気分ではなかったのです。心の奥から違和感が湧き上がってきて、とても耐えられないと感じました。それで私は少しずつ後ろに移動して、バラ園の茂みにこっそり隠れました。そうしてバラの茂みの中にずっと隠れていたのです。「何故あんな事に参加しなくちゃいけないのか?」「私は残っていてはいけないのか?」「何故皆が同じ行動をしなければいけないのか?」そういう思いがグルグル心を巡ってずっとしゃがんでムカムカしていました。そして戻ってきた部員の後ろにそっと付いて行き何事も無かったような顔をしていました。「MY(私の事)どこに行ってたんだ~?」と2~3人に聞かれただけで済みました。未だに集団行動はあまり得意ではありません。でも、あの頃のムカムカは当時は理解不可能でした。実はこれを書きながら気付きました。私は一人の時間が必要な人間だったのでしょうね。それであの頃の苛立った感情と何回も聴き続けた「フランク・ロイド・ライドに捧げる歌」は同じ時期の思い出です。もう、レコードもありませんし、CDを探した頃には見つけられませんでした。これを書きながら捜したら簡単に見つかったので驚きました。ネットは本当に便利ですね。調べ物に最適です。高3の時に急性胃腸カタル後のやつれた私。この頃の写真はこれしか無いようでした。この写真を見て今の私に気付く人はいません~(- -ヾちなみにこの日記は昨日消してしまった内容とは別です。昨日書いたのは中学3年の思い出でした。やっぱり同じ内容を書き直すのは難しいですね。
August 18, 2005
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