2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全9件 (9件中 1-9件目)
1
「協同的な学び」とは何か。その中での「教師の仕事」は何か。私の研究授業が近づいているせいか、久しぶりに(?)佐伯胖氏の本を読んでみる。佐伯氏は「『学ぶ』ということの意味」の中で「協同的学習」について次のように述べている。 ・・・・・ このような協同的学習も、実は、根底に「まね」と共通したプロセスがある。それは、「他者の身になって、その人の見える世界を自分の心の中で再現してみること」にもとづくということである。ただし、その結果は「相手のまね」ではなく、やはり心の中で、「協力しあう」ということを想像上で再現(シミュレーション)することが加わる。さらに、自分の役割と相手の役割を分離させて、こんどは相手にやるべきことを「教え」るのである。それが双方向でうまく一致すれば、「協同作業」が成立する。それはもはや「誰かのまね」ではなく、新しい行為の創造である。 ・・・・・「協同的な学び」の実現をめざすとき、まず「相手の見える世界を自分の心の中で再現してみること」が必要だということであろう。そのことが、「協同作業」につながっていくということである。それでは、そのための「教師の仕事」はどうあるべきであろうか。佐伯氏は、同書の中で、次のように述べている。 ・・・・・ さらに、もしも幸運に恵まれたならば、そういう第二の自我の役割をある程度担ってくれる人を、現実の他者の中に見いだす。その場合の他者というのは、匿名性をもった三人称的他者ではなく、個人的で親密な、秘密を打ち明けられるような語り合いをもつことのできる、二人称的他者である。その他者との実際の対話的交流を通して、自己内の心的対話はさらに広がり、豊になるそのような現実の他者との二人称的交流は、さらに心の中に第二の自我を育て、「なってみたい、本当の私」像を、より明確につくり出してくれるのである。 ・・・ (中略) ・・・ ここでいう二人称的他者こそが、学び手が出会う「師」というものであろう。 ・・・・・つまり、子どもと教師の間に「個人的で親密な、秘密を打ち明けられるような語り合い」がなければならないのである。もちろん、日頃から心がけられていることであるが、子どもが発したすべての発言に対して、本気でうなずき、よろこぶことができているであろうか。子どもの発言が価値あるものかどうかと評価することよりも、その発見を子どもといっしょに味わうことが大切なのではないかと考える。やはり、偶発的で、教師にとって「思いがけない」発言ほど大切たということであろう。
2006.09.29
コメント(0)

「地層を切り取った岩石から、化石がでてきた。」子どもたちの関心は、地層から化石へと移り変わる。幸いなことに、本校の理科室には、保管しきれないほどの化石がある。子どもたちには、同じように地層からでてきたものであると紹介し、その化石を観察させる。 子どもたちが観察した化石は「二枚貝(アサリやハマグリ)」「巻き貝」「アンモナイト」などである。子どもたちは、化石に「オス」と「メス」があることなども話題にあげながらいくつもの化石をスケッチしていった。最後に「いくつかの化石を観察して気づいたことはないか」と問う。すると「貝の化石が多い」と発表する。そこで、掘り出される化石のほとんどが貝の仲間であることを説明し、その理由を考えさせた。しばらくすると、とまどいながらも「地層は海でできたのかな」というつぶやきが聞こえてくる。このつぶやきと、前時で発見した粒の大きさの違いをヒントに、これから「地層のでき方」の追究をスタートさせる。
2006.09.27
コメント(0)

今日から理科では、「地層」の学習をはじめた。まず、地層の様子を写真で提示する。すると子どもたちから「しま模様になっている」ことが気付きとして発表された。その後、「どうして『しま模様』になっているのか」と問う。すると子どもたちは「土の色が違う」「土の種類が違う」などつぶやく。そこで、地層を「しま模様」が分かるように切り出した岩石を観察させる。はじめは分かりにくかったものの、しばらくすると「粒の大きさが違う」という声があがる。 そして、「地層の『層』は、土砂の色や粒の大きさの違いによってできている」ということをまとめていたときである。ある子どもが大きな声をあげた。「地層の中から化石がでてきた。」他の子どもたちは驚くが、確かに貝の化石がでてきたのである。ここで、子どもの関心は一気に化石に向く。次時は「地層の中」の化石を観察する。
2006.09.27
コメント(0)

今回、「栗を描く」取り組みの中で、もっとも子ども同士の相互作用が生まれたのは、10個の栗を「どのように配置するか」を話し合う場面であった。あるグループで、一人の子どもが10個の栗を山盛りに置こうとしたときである。同じグループの他の子どもが「ダメだ」と主張する。「バラバラに置かなければならない」というのである。はじめは、「バラバラに置く」ことの意味やよさは理解されない。しかし、実際に、1、2個の栗を少し離して置いてみる。すると、なぜが他の子どもたちから「おー」と共感の声があがった。そのグループでのやりとりは、他のグループにも影響を与えたようである。
2006.09.25
コメント(0)

2学期に入り、はじめての本格的な(?)図工の授業である。今回は、「栗」を描くが、次のような手順で進めてみた。(1)4人一組のグループに10個の栗を配る。そのとき、その栗を触ったりにおったりしながら、その感想を交流させる。(2)その10個の栗を「どのように配置するか」を話し合う。(3)黄色のチョークで大まかな下書きをする。(4)サインペンで下書きをする。(5)絵の具で色をつける。このとき、必要な色を話し合わせる。今回、子どもたちが選んだ色は茶・赤・黄・青・白の5色であった。 ほとんどの子どもが、2時間で作品を完成させることができた。今回、(2)のどう配置するか話し合うことが、子どもたちの「発想」に大きく影響を与えたようである。
2006.09.25
コメント(0)
6年生の理科では(本当は、6年だけではないのだが)、環境を年間通し意識して学習を進めていく。学年末には、その環境を取り上げた単元がある。本校の研究発表会は、毎年2月に予定されている。そう考えると、研究発表会での授業は、この「環境」の単元になりそうである。しかしながら、環境を考えるとき「環境問題」を取り上げるが、そのアプローチの仕方にいつも私自身納得しない。なんとなく、「ステレオタイプなラベルづけ」をしてしまっているような気がする。それでは、この「環境」の単元を教えるために、どのように構想していけばよいのか。秋田喜代美氏は、「子どもをはぐくむ授業づくり」の中で、次のように述べる。 ・・・・・ しかし一人一人皆異なるという意味で、異質なものからなる現実社会が抱えている問題は、不自由さやわかりあえなさや食い違い、葛藤など、負の感情を伴う経験を伴うものである。また、生き物やいのちの自然環境等、人が生きることに関わる現実の本質的な課題に出会いそこから学ぶ時、そこにはさまざまな矛盾やつらさ、苦しみ、痛み、不安、答えのとけなさやわからなさなどが伴う。対峙することでわかりあえることや互いにわかりあえないけれども認めていくという経験を、学校という学びの場で子どもたちが経験していくことが、共生しあえる子どもを育むために今もとめられているのではないだろうか。 ・・・・・「不自由さやわかりあえなさや食い違い、葛藤など、負の感情を伴う経験」を避けるのではなく、子ども自身が「対峙」していくような授業をイメージしなくてはならないであろう。本年度の研究発表会は2月9日である。今から頭が痛い。
2006.09.22
コメント(0)
本校の道徳の研究授業を見る。資料に葛藤資料を用い「モラルジレンマ」の授業であった。私も中学校に勤務していたとき、よくモラルジレンマで授業をしていたのだが、次のような疑問をいつも感じていた。モラルジレンマでは、2つの価値観が矛盾する状況の中で、ディスカッションを通して、それぞれの価値に対する見方(考え方)を高めていくということを目指している。そのために、子どもたちには、2つの価値観を「行ったり来たり」することが求められているのであろう。もちろん、終末はオープンエンドであり、どちらが正しいかを結論づけることが目的ではないのだが、その過程において、子どもたちは「二者択一」することが迫られる。しかし、この「二者択一」の中で、本当に子どもたちの価値観は高まっていくのであろうか。ただし、「二者択一」の課題設定よりも、「二者択一」させるために「状況を限定していく」ことに問題があると考える。松下良平氏(金沢大学)は、「知ることの力」の中で「道徳の原理を理解すること」として次のように述べている。・・・・・ 道徳の原理を理解するためには、禁止(あるいは推奨)されている行為(一般的な行為概念)には具体的にどのような行為が該当し、それをどのような状況でどのような事態を一般にもたらし、その事態がどのような意味で望ましくない(望ましい)かを、実際の状況の中で個々の事例を通じて身をもって知ることが必要である。そのさい欠かせないのが、他者による導きである。 ・・・(略)・・・ したがって、他者の導かれるとは、自己の活動の中に他者やその他者の関係するモノ・コトが入り込んでくることによって、当該の行為やそれがなされる状況やそれがもたらす結果の自己の注意や関心がむけられるようになり、それがどのような意味で望ましい/望ましくないのか、その価値づけの仕方を知らず知らずのうちに身につけていくということである。 ・・・・・道徳性を高めるためには「より具体的で、実際の(多様な)状況に応じる」ことが大切であるということであろう。これは、モラルジレンマで「状況を限定していく」ことと相反することである。つまり、どちらが正しいかということではなく、その状況のなかで、ルールをどう「適用」するかを問う必要があるのである。この「適用」は、単なるルールの確認や検証ではない。価値の「ばらつきや広がり」の中で、ルールそのものについて「切実に」思考することである。この考え方は、私がいま主張している理科における「先行学習の有効性」にもつながるところがある。ルールそのものではなく、そのルールの「適用」に重点を置くのである。つい、今のクラスでもモラルジレンマの授業をしてみたくなった。
2006.09.07
コメント(1)
今回、月刊初等理科教育に原稿を書く機会があった。特集のテーマは「教えて考える教育と問題解決」。「先行学習」を取り入れた実践(4年「もののあたたまり方」)を紹介したのだが、そのはじめに次のように書いた。 ・・・・・ 水の沸点を調べる実験での出来事である。 教科書通りに器具を準備し,実験をスタートさせた。1分ごとに温度を測定し,グラフを完成させる。遠目に子どもたちノートを見ると,どの子どもも温度が上がらない部分がはっきりとしたきれいなグラフを書くことができている。 しかしながら,ある子どもが「97℃で沸騰する」と声をあげる。よく見てみると100℃では沸騰していないのである。しかも,96℃,97℃,98℃と「ばらつき」がある。困った私は,「温度計が正確ではなかった」や「気圧が低かった」などと理由をつけ,「本当は100℃で沸騰する」と説明して授業を終えてしまった。 このような場面を体験した方も多いであろう。実験が上手くいかなかったとき,「本当の結論」を伝えることをしないまでも(上記の「温度計が正確でない」「気圧が低い」という理由の正当性そのものも疑わしいが),器具や条件を改善し,なんとか子どもたちに一目で「水は100℃で沸騰する」と分かるように,教師は悪戦苦闘する。 このようにして子どもたちが「水は100℃で沸騰する」と「発見」したことは,本当の「発見」といえるのだろうか。 ・・・・・ いかかがであろうか。この例は、もちろん、これまでの授業の中で私自身が経験してきたことであるが、8月に参加した奈良での日本教育学会全国大会の中で池田幸夫氏(山口大学)が「理論追究型授業」の問題点として提起されたことである。(池田氏は、そのなかで「理論依存型授業」の有効性を提案された。)この原稿の最後は「先行学習は、問題解決の対極にあるものではなく、問題解決の質を高めるものである。」とまとめた。「教えて考えさせる授業」が話題の中、もちろん(今回も)賛否両論あるであろう。10月中旬発売である。(今回も、原稿〆切を守れなかったことを反省している・・・・。)
2006.09.04
コメント(2)

夏休みも終わり、2学期がスタートした。(今年は、8月30日が始業式だったのだが・・・。)子どもたちは「食物連鎖マップを仕上げる」という夏休みの「宿題」で完成した「食物連鎖マップ」をもってくる。きれいに生き物を色づけしたものや、夏休み中に調べたくさんの生き物を書き加えたものなど、いろいろな食物連鎖マップが見られた。そんな中、次のような食物連鎖マップを見つける。「植物が連鎖のスタートであること」や「植物は日光によって養分をつくり出していること」などが強く意識されたのであろう。子どもたちは、楽しみながら、それぞれが「工夫したこと」を紹介し合うことができた。
2006.09.01
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1


![]()