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シャーレの中のダンゴムシ。教室の後ろに置いていたのだが、休み時間のたびにその様子をのぞき込んでいる子どももいる。下の写真は、2日間たった様子である。子どもたちは、ダンゴムシの「食欲」に驚いている様子であった。ダンゴムシが枯れ葉を食べるは「なんとなく知っていた」ものの、これほどまでの量を食べるとはは思っていなかったのであろう。今回は、観察の結果をまとめただけであるが、今後、「食物連鎖マップ」をつくる中で「植物と動物の関係」について焦点化していく。
2006.06.30
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「授業をデザインするためには、教師自身が授業の中で『聴く』『もどす』『つなぐ』ことが本当にできているか丹念に確認することが必要である。」6月のはじめ、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)が校内の研究会で私に残された「ことば」である。この1ヶ月間、このことを気にしながら授業をしてきたのだが、最近、45分の授業の中で、子どもたちの様子を「観察(たぶん、適当なことばではない)」の仕方が変わってきた。以前は、「全体的に」子どもたちを観察し、その「ことば」を取りあげようとしていたのだが、最近は、1つか2つのグループのそばにいることが多くなってきた。佐藤学氏は、この「教師の活動」について、「授業を変える学校が変わる」の中で次のように述べている。 ・・・・・ 子どもたちの学びを中心とする授業を観察すると、教師たちの活動がこの二つの活動、すなわち個への対応としての「テーラーリング」と、個と個を響き合わせる「オーケストレーティング」に収斂していることを知ることができるだろう。 ・・・ (中略) ・・・ また、子どもたちが作業しているあいだ、ひたすら子ども一人一人のアイディアをメモして次の展開に備えている教師も多い。たしかに一人ひとりの作業を見て多様な考えをメモしておくことは大切だろうし、「机間巡視」よりもましといえるが、この作業のあいだにこそ、教師は「テーラーリング」に集中してほしい。どの教室にも援助を必要とする子どもがいる。その子たちへの一対一の「テーラーリング」は、ついてゆけない子どもへの具体的な援助となるだけでなく、授業の展開の可能性を異なった視点から教師自身が発見する絶好の機会となる。 ・・・・・ やはり、「気になる子ども」にしっかりと関わる必要があり、そうすることで「教育的瞬間」が捉えやすくなるということであろう。子どもといっしょに悩みながら問題を解決しようとする中で、「子どもが見ようとしている先の世界」を見ることが大切である。
2006.06.29
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「食物連鎖マップをつくる」活動の多くは、図書館やインターネットでの調べ学習である。そのなかで、いくつかの身近な動物について実際に観察して調べることにする。今回調べるのは「ダンゴムシ」。もちろん教科書の観察だが、グループで20匹捕まえることを伝えると、クラスの中は大騒ぎになる。休み時間のたびに校庭中を探し回る子どもたちである。今、子どもたちはお気に入りの動物からスタートし「食物連鎖マップをつくろう」としていて、「ダンゴムシ」の食物を調べることはそのこととは関係ない。しかし、「動物の食物」を意識しているせいか「ダンゴムシ」を調べることに違和感はなかったようである。なかには、「ダンゴムシから調べようかな」という声も聞かれる。シャーレの中に枯れ葉といっしょにダンゴムシ20匹を入れる。すぐに枯れ葉を食べはじめた班もあった。 脱皮しかけているダンゴムシもいて、教室の中心はダンゴムシである。
2006.06.28
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今日から新しい単元に入る。「動物に食べられる植物」について学習するのだが、活動の多くが取材や図書による調査になる。植物が光合成によりでんぷんをつくることと、その植物を食べる動物の関係を捉えさせようとするものであるが、どのような「テーマ」を設定すればよいか考える。悩んだ末、「食物連鎖マップをつくろう」というテーマにすることにした。まず、黒板にカエルの絵を描き、「カエルは何を食べる」と問う。すると「小さな昆虫などを食べる」と数名の子どもが答えた。そこで、ハエの絵を描き、カエルと線でつなぐ。次に「カエルを食べる動物は」と尋ねると、「ヘビや鳥」という答えが返ってくるので、鳥の絵を描きカエルと線でつなぐ。そして、この図を見ながら「このようなつながりを食物連鎖という」ことを子どもたちに知らせ(本当は、子どもたちの中から「食物連鎖」という声があがった)、「食物連鎖マップをつくる」ことを伝える。スタートは、お気に入りの動物から。多くの子どもたちが、すぐにできると思っていたのだろう。しかし、実際に調べはじめると案外難しい。どのような作品ができあがるか楽しみである。
2006.06.28
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藤岡完治氏は「成長する教師」のなかで「授業」について「授業は、人間的なものであり、多様な生活様式や経験を有する個人が共有する、力動的で変化に富んだ発展的な場なのである」と述べている。「人間的なもの」。今、私たちは授業を「生命論(このようなことばを使うと、なんだか「アカデミック」な感じもするのだが、今、適当なことばが見あたらない)」として捉えようとしているのであろう。清水博氏は、この「生命の科学」について「生命知としての場の理論」の中で次のように述べている。 ・・・・・ まず、少なくとも哺乳類は複雑な環境の中を生きていくために、未知の新しい出来事に遭遇しても、その場その場でリアルタイムに適切な判断をし、決断をしなければならない。このリアルタイムの判断をおこなう知、すなわち「リアルタイムの創出知」なくして無限定な環境状態の中で生命を維持していくことは困難である。この「リアルタイムの創出知」とは、結局、判断の基礎となる「常識」に相当するものである。常識の本質は「普遍の知」であり、多数の「個別の知」の集合の形では絶対に表現できないものである。この普遍の知(リアルタイムの創出知)の本質とは何かを科学的に理解することが、生命の科学の重要な問題であり、また「生命を捉えなおす」ためにも、この問題を解明しなければならない。しかし、この普遍の知は、これまでの科学の論理だけでは理解することができない。それは、科学の論理は本質的に個別の知に立った論理であるからである。 ・・・・・まだまだ咀嚼できているとがいえないが、授業研究の中で「ハツ・ツー」を求めるのではなく、「リアルタイムの創出知」を科学的に理解しようとしているのであろう。
2006.06.27
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「学びのストーリー」。今、私が「授業デザイン」について考えるとき、一番の問題(気になること?)になっているものである。藤岡完治氏は「成長する教師」のなかで、この「ストーリー」について次のように述べている。 ・・・・・ 一人ひとりの子どもが授業についてもっているストーリーは、それぞれの未来の学習を先取りした「作業仮説」である。 ・・・・・「作業仮説」。これでもまだよくわからない。そこで、清水博氏の「生命知としての場の理論」の中から、「ストーリー」と「作業仮説」ということばを探してみる。すると、あとがきの中で次のように述べられている。 ・・・・・ ところで、多くの「役者」がともに即興的に一つの劇を演じていくためには、すぐ先の未来の状態が大まかに共有されていなければならない。過去、現在そしてすぐ先の未来にかけてドラマの筋(ストーリー)がまったく見当がつかなければ、現在何をすべきかもわからない。このすぐ先の未来の状況の現在への回帰のことをフィードフォワードと呼んだ。同時的な創出と消滅のためには、フィードフォワードが必要なのである。フィードフォワードされるすぐ先の未来は現在のあり方を限定する「拘束条件」であり、役者自身への「作業仮説」として設定されるものである。したがって即興劇は各役者が自分自身に対する作業仮説を刻々と創出していく活動である。 ・・・・・まだ、単なるメモであろうが、「混沌とした情報の中にさまざまな法則性を見出して、未来に創造的に対応していく」ためには(清水博「生命を捉えなおす」)、「ストーリー」は欠かせないものなのであろう。
2006.06.25
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前回のblogで「フィードフォワード」について書いた。もちろん、私もはじめて耳にする言葉でもなく、これまでの授業のなかで取り組んできたと言われる先生も多いであろう。この「フィードフォワード」について、清水博氏は「生命を捉えなおす」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 余談になりますが、日本の社会は画一的なフィードバック社会であるために、その構成員は、時代の大きな流れを掴んで、その中で自分のあるべき態度を自立的に決定するというタイプの創造性が苦手であるばかりでなく、またその画一性から、個人がこういう行き方をとることを排除するように働く傾向があります。その代わり情報のフィードバックは非常に速く、その情報に対する対応は、(それが未知な原理の創造を含むことでなければ)きわめて俊敏に組織的におこなわれます。もちろんフィードフォワード制御もなされますが、それはフィードバック的フィードフォワード制御と言ってよいほど、目先の将来からのフィードフォワードであり、実質的にはフィードバック制御とあまり変わるところはありません。日本人の創造性は、マクロな状況への適応を主としたフィードバック面で発揮されていきたのです。フィードバック型社会では、行動目標をはじめから与えられているので行動をするための「ハウ・ツー」が重要な問題になります。これに対して欧米型社会は、フィードフォワード型社会であると思われます。このような社会では、遠い将来における目標の設定が重要な課題であり、長期的レベルでの自己の行動規範の表明が必要とされるのです。フィードバックとフィードフォワードの内の双方の制御が共存して生命システムは生きているのですが、一般的にシステムを取り巻く環境が分裂し、その状態が複雑で不確定になるほど、フィードフォワード制御が必要になります。 ・・・・・やはり、我々が取り組んできた「フィードフォワード」は、行動目標がはじめから与えられている「目標・達成・評価」のなかでの「フィードバック的フィードフォワード」であったのであろう。
2006.06.24
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なんとか「新しいジャガイモのひみつ」の追究が終了した。今回の実践は、7時間という指導計画であったが9時間かかってしまった。試行錯誤の中(Reデザインしながら?)の実践なので仕方ない部分もあるが、改善案を考え、次の実践につなげる必要がある。もし、もう一度授業するとするならば、次のように進めたい。1時間目:ジャガイモを掘り起こし、新しいジャガイモを観察する。そのとき、新しいジャガイモにヨウ素液をかけでんぷんを確認し、「新しいジャガイモのでんぷんはどのようにしてできたのだろう」というテーマを設定する。2時間目・3時間目:葉・種いも・土・茎・根のでんぷんを調べる。4時間目:尿糖試験紙を使って、それぞれの部分の糖を調べる。5時間目・6時間目:条件を制御して実験し、葉ででんぷんがつくられていることを調べる。7時間目:もう一度ジャガイモを掘り起こし、1時間目と比較する。(ジャガイモの収穫でもよいと思う。)ぜひ、もう一度挑戦したい。ただし次は、ジャガイモを(種いもを)植えたときからの子どもの思いを、もっと大切にしたい。例えば、発芽する様子や花が咲く様子も観察させたい。このことが、子どもたちの「こだわり」につながるであろう。
2006.06.23
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「新しいジャガイモのひみつ」の単元の学習が終了した。今回、この実践で2つのことを試んだ。一つは、生物単元において、単元の導入から「発展的な教材」を取り入れることである。このことについては、これまで「教材」そのものを追究の対象にしていたのに対して、生物単元では「テーマ」を少し高いレベルで設定することで、ある程度の可能性を示すことができたであろう。二つ目は「授業デザイン」という考え方で授業づくりに取り組むことである。特に気をつけたことは「もどす」という教師の活動、つまり「教育的瞬間を捉え、しかけ直すこと」である。このblogでも、授業の様子を紹介してきたが、「うまくいった」ときと「うまくいかなかった」ときがあった。この「しかけ直す」教師の活動について、佐藤学氏は「教師たちの挑戦」の中で次のように述べている。 ・・・・・ 授業における教師の仕事に中心は、「つなぐ」ことと「もどす」ことである。「つなぐ」ことは、授業の核心と言ってよい。 ・・・(略)・・・ しかし、教師の活動を個別に検証してみると、「つなぐ」よりも「切る」ことに終始している場合が多い。 ・・・ (中略) ・・・「もどす」活動はもっと軽視されている。授業の中で教師は「次はどうする」「次はどうする」という意識で「前へ」「前へ」と傾斜しており、その進行を前段に「もどす」ことや、教室全体やグループの話し合いに「もどす」ことは稀である。その結果、多数の子どもたちが置き去りにされ、一部の子どもたちだけの参加によって授業が進行することは多い。学び合う教室を創造している教師と一方的に授業を行っている教師との違いは、「もどす」ことによって教室全員の学びを保証しているかどうかにある。 ・・・・・「うまくいかなかった」ことを振り返ると、そのとき、「子どもたちは分かっている(分かる)はずだ」と思い込み、教師の意識が「前へ」「前へ」と傾斜していることが多い。特に、「そんな考えは、この単元の学習では重要ではない」という意識が、一番のやっかいもののようだ。
2006.06.22
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「種いものでんぷんはどうなるのか」。多くの子どもたちは「種いものでんぷんは発芽や成長のために使われるから、新しいジャガイモにはいかない」と反論するのだが、これまでの実験からは証拠を見つけることができない。しばらくすると「種いものでんぷんが新しいジャガイモに行っていないとはいえない」「少しぐらいは新しいジャガイモのでんぷんになっているのかも」という声が聞こえ出す。そこで「今、はっきりしないこと」を発表させた。「種いものでんぷんは、(単元の導入で掘り起こしたときから)その後どうなっているのか。」「葉でできたでんぷんが、種いもにも送られているのではないか。」そこで、畑で育てているジャガイモを1株掘りおこしてみることにした。すると、種いもは見あたらない。すでに、でんぷんが使われてしまってなくなっていたのである。また、観察しやすいように植木鉢で育てていたジャガイモも掘り起こす。すると、しおれて(触ってみると、ブヨブヨした)小さくなった種いもが出てきた。ヨウ素液をかけても、全く反応しない。(今にも、腐れて「なくなりそう」であった。)結局、子どもたちがたどりついた答えは「種いものでんぷんは、発芽や成長のために使われるが、残っていた少量のでんぷんは新しいジャガイモに送られているかもしれない」というもの。これこそ、思いがけない発言をきっかけにした「分かり直し」であろう。やっと解決した新しいジャガイモのひみつ。子どもたちは「納得」と「満足」の表情であった。
2006.06.21
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前回の授業で「葉ででんぷんがつくられていること」を実験で確かめた子どもたち。今回は簡単な「まとめ」をするつもりだったのだが、授業のはじめに出されたある子どもの「疑問」によって授業を大幅に変更することになる。「葉に日光が当たるとでんぷんができ・・・・」とノートに図を使ってまとめさせようとしたのだが、1つのグループが騒がしく、作業が進んでいないことに気づく。「種いものでんぷんはどうなるのか。」その子どもは、このことが分からないと、ノートにまとめられないというのである。多くの子どもたちは、「種いものでんぷんは発芽や成長のために使われるから、新しいジャガイモにはいかない」と反論する。しかしながら、これまでの実験を振り返ってみると「種いものでんぷんが、新しいジャガイモにいかない」証拠を見つけることができない。なかには「根にでんぷんがなかった」ことまでももち出す子どもいた。もちろん、これらの考えはすぐに否定されるのだが、子どもたちは、考えれば考えるほど分からなくなっていく。「種いものでんぷんはどうなるのか」。私自身、前回までに「解決」していたことだと思っていた。しかし、数人の子どもたちが、このことについて疑問をもっていたとともに、多くの子どもたちがうまく説明できず「分かったつもり」の状態だったのである。もっとも、私自身が「分かったつもり」であったのだが・・・。 「簡単にまとめよう」として「前へ」「前へ」と傾倒していたのであろう。
2006.06.21
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子どものストーリー形成としての「授業デザイン」。今後、子どもたちが「学びのストーリー」をもつことの「よさ」について分析していかなければならないであろう。(意欲面ではある程度理解できるものの、「分かる」こととの関係がうまく説明できない。)一人一人の子どもが「学びのストーリー」をもつこと。今、この「よさ」を私の「ことば」で語るとするならば「フィードフォワードしやすくする」ということであろう。この「フィードフォワード」について、清水博氏は「生命を捉えなおす」の中で次のように述べている。 ・・・・・ 全体の状況がほぼ一定で、将来の状態が見通せる場合には、フィードフォワード制御もフィードバック制御も実質的には大きな差はありませんが、混沌とした状態にあるときは、将来の状態を知るためには、一種の予知の能力が必要になります。それも将来の状態の一齣を断片的に掴むだけでは不十分で、現在から将来の状態に至る変化の法則を掴まなければ現在と将来の関係を知ることはできません。また将来を考えて、そこから現在のあるべき姿を知ることもできません。そのためには混沌とした情報の中で大きな流れ(法則性)を掴み、それによって自分の状態を変えていくことが必要とされます。さらにその将来が、自己の積極的な活動によって変わるときには、自己の活動のあり方を時間的に位置づけていく必要があります。 このように自己の世界に環境から入ってくる混沌とした情報の中にさまざまな法則性を見出して、未来に創造的に対応していくことは、自己の世界の中で新しいセマンティック(意味論的な)情報を生成していくということを意味しています。 ・・・ (中略) ・・・ たとえば国際社会の現状と未来について、さまざまな国の代表がその認識を述べるとすれば、その意味はすべて異なると想像されます。まして正しいとか正しくないとかいう類の問題になると意見の一致は容易ではありません。このようなことがおきるのは、対象の認識が、それを見ている人のセマンティックな背景のよるからです。しかし人々が見ているのは虚偽の世界かと言えば、そうとも言えません。各人のセマンティックスに立てば、それなりにリアリティが含まれており、その視点からは正しいとも言えるのです。このことは対象と自己の間の情報的な境界が曖昧であるという問題を意味します。ここからそもそも存在とは一体どういうものなのだろうかという疑問が湧いてくるのです。 ・・・・・「混沌とした情報の中にさまざまな法則性を見出して、未来に創造的に対応していく。」「自己の世界の中で新しいセマンティック(意味論的な)情報を生成していく。」まだ単なるメモであるが、「授業デザイン」について考えるとき、「フィードフォワード」が新しいキーワードになりそうである。
2006.06.18
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「授業デザイン」という考えにおいて、「学びのストーリー」が重要な部分をしめるということが分かってきた。しかしながら、「学びのストーリー」をもつことにより、子どもたちの学び、「分かる」ということがどのように変わるのか。そもそも一人一人の子どもがもつ「学びのストーリー」は、どのように授業の中であらわれるのか、これから「自分のことば」で語ることができるようにならなければならない。藤岡完治氏は、「学習者のストーリー形成としての授業デザイン」について「成長する教師」の中で次のように述べている。 ・・・・・ 動的な生命体としての授業において教師は、子ども(たち)も一人ひとりが個性的で、独自的な存在として、世界に開かれ、その時々の世界とかかわり、自己を「表現」しつづけている。また一人ひとり自らのストーリーを形成しそのストーリーに導かれて自己を表現している。 システムとしての授業においても確かに子どもは「学習計画」を立てている。しかしその多くは時間的未来に予定されている諸々の学習作業内容の列挙である。また多くの場合教師の意図に沿うものかどうかを点検してもらって承認を受ける。これでは子どもによる未知の世界に対するストーリー形成とはいえない。 子どもによる学習のデザインは「見通す」という行為のなかにあらわれる。「見通す」ということは、これからやることを気まぐれに列挙することとは違う。それはまずもって現在の欲求の所在を確かめることである。自己を含んだ場の全体のなかに自己を定位させることである。 「見通す」という子どものストーリー形成は、未来に起こることへの予期であり、それはいくばくかの危機を伴うものである。すなわち不安や恐れを伴うももなのである。「見通す」という形で表れる子どもによる学習の場のデザインは、ありたい自分への期待ばかりでなく、自己を含む無限定なもの、未知なるものに向かう意志の表明でもある。 ・・・・・「ありたい自分への期待。」「未知なるものに向かう意志。」これらが「学びのストーリー」に置き換えることができる「ことば」であろう。また藤岡氏は、「学びのストーリー」を「学びの方向」とも言い換えている。なんとなく使っていた「ことば」が、少しずつ明らかになる。
2006.06.17
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校内の研究会の中で、「学びのストーリー」のことが話題となる。私自身は、子どもたち一人一人が活動に対してもつストーリーだと考えているのだが・・・。 藤江康彦氏(関西大学)は「新しい時代の教職入門」の中で、テーマ設定に関する「授業における子どもの事実」として「子どもの思い」について次のように述べている。 ・・・・・ 子どもの思いとは具体的にどのようなものをさすのでしょうか。1つには、教育内容や教材にどのように関わりたいかということです。例えば、物語文の登場人物の言動をどのように解釈するか、数学の図形の証明問題をどのような手順で解くか、子どもは自分なりの感じ方や発想で解決し、表現しようとします。子どもなりのアイディアは即興的にひらめくようにみえるものでも、たいていの場合はそれまでの学習経験や生活経験の影響を受けています。2つには、自らの学習環境をどのように構成したらよいかということです。ここでいう学習環境の構成とは、他者との関わりや、空間やものの配置をデザインすることです。一人でじっくり課題に取り組みたい子どももいるでしょうし、集団で議論しながら課題解決を進めたい子どももいるでしょう。自分の席でやりたい子どももいるでしょうし、図書館で本を調べながら、あるいは床で車座になって話し合いたい子どももいるでしょう。学習環境の構成は、他者との関係性だけでなく、課題にどう取り組みたいと考えているか、どのような課題に取り組むかにもよります。 ・・・・・この「子どもの思い」と「学びのストーリー」は、おおよそ一致するものであろう。「教育内容や教材にどのように関わりたいか」「自らの学習環境をどのように構成したらよいか」「課題にどう取り組みたいと考えているか」、これらのことを授業の中で保証することで、子どもたちは「学びのストーリー」をもつことができると考える。そのなかでも特に「教育内容や教材にどのように関わりたいか」ということを大切にすることは、昨年から主張している「多元的な立場を大切にし、多様な参加の仕方を保証する」ことにつながるものであろう。
2006.06.16
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「葉ででんぷんがつくられるか」。子どもたちの追究もいよいよ終盤を迎える。次の三つの葉にヨウ素液をかけて調べる。A 前日にアルミホイルで包み、朝摘んだものB 前日にアルミホイルで包み、朝アルミホイルをはずし5時間日光に当てたものC 前日にアルミホイルで包み、そのままにしておいたもの結果は、おおよそ次の通りであった。 でんぷんがあったのはBのみ。しかし、いくつかのグループで「Aにも少しでんぷんがある」という結果が出る。このことが、子どもたちの「最後」の疑問になった。ある子どもが「でんぷんが全部新しいジャガイモに移動しなかったのかな」とつぶやく。はじめ、他の子どもにはこのつぶやきの意味は理解されない。しかし、しばらくすると、少しずつ納得の声があがる。「Bも、一度でんぷんがなくなって、またできたんだ。」「Cは、ずっとアルミホイルで包んでいたから、でんぷんが全部なくなったのかな。」今回の実験では、「条件制御」する意図もうまく伝えられず、結果も思うようにいかなかった。しかしながら、そのことがきっかけとなり、子どもたちは「分かり直す」ことになった。(私の都合のよい解釈に感じられるが・・・。)
2006.06.14
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これまで「新しいジャガイモのでんぷんはどうやってできたのだろう」というテーマで追究を進めていきた。そして今、子どもたちに残された問題は「葉ででんぷんがつくられているか」ということである。前時の中で、ある子どもが「日光が関係しているのではないか」と発表した。そのとき、他の子どもたちもインゲン豆の成長に日光が関係していたことを理由に、その考えに納得した様子であった。そこで、ジャガイモの葉をアルミホイルで包み「日光を当てない」実験をすることになる。しかし、その後の手続きがよくなかった。子どもたちに「条件制御」の仕方を考えさせる時間を十分に確保しなかったのである。ただ単に、教科書通りのやり方で実験をさせてしまったのである。(教科書の実験が悪いというわけではない。実験に対する見通しをしっかりともたせなかったということである。)そのため、実験の結果を予想させるとき、子どもたちにとまどいが生じた。実験の「意図」がつかめないのである。特に「すべて(三つ)の葉を朝までアルミホイルで包む」「一つを朝摘む」意味がほとんど伝わっていなかった。しかしながら、「葉ででんぷんがつくられているか」という問題意識の高さだけで、そのまま実験に入る・・・。
2006.06.14
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注文していた本が届く。石井順治氏(東海国語教育を学ぶ会)の「『学び合う学び』が生まれるとき」である。まだ、パラパラと目を通しただけであるが、ふと読み込んでしまったところを紹介する。 ・・・・・ 「学び合う学び」は、教師のプランをたどるような授業ではなく、子どもの内から生み出された考えが、リアルタイムで葛藤と共感を起こし、そこから新たな発見をつくり出すからドラマティックなのである。その世界は、教師の解釈と思惑で縛り、それを出すことだけに汲々とする授業では到底味わうことのできないおもしろさと充実感に溢れている。その「学び合う学び」への転換の第一歩が、まず、子どもの考えから出発することなのである。 ・・・ (中略) ・・・ では、学びを子どもから始めるには、何をどうすればよいのだろうか。何のはたらきかけもしないで、子どもから学びが始まるということはないのだから、子どもが学び始めるための教師の対応が必要である。その方法は一つではない。ある教師は、とにかく授業の要所要所で一人または何人かで考える時間をとり、そこで生まれる子どもの考えを取り入れる授業を心がけている。また、別の教師は、書く活動を多く活用し、書かれた子どものノートを見ることから授業の構想を練っている。 ・・・ (中略) ・・・ それにしては、教師はいかにも「受信下手」である。教えたいこと、わからせたいことを、どう指導したらよいかということにあまりにも偏った意識を持ちすぎたからだろう。そういう長年の蓄積が、教師のからだを「発信型」にしてしまった。これでは、子どもの内に生まれているものを聴き取り、受けとめることは難しい。 学びを子どもから始めると、教師の予測を超えるような子どもの考えが生まれることがあると述べた。しかし、それも教師が「受信」できなければ表に出てこないことになる。 ・・・・・「どう指導したらよいかということにあまりにも偏っていた」「それも教師が『受信』できなければ表に出てこない」。まだ単なるメモであるが、「授業」と「授業研究」についてより具体的に書かれており、これからの参考になる。
2006.06.12
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この2ヶ月間あまり、「授業デザインとは何か」ということを考え続けてきた。そんな中、ふと本棚に目を向けると1冊の本が目にとまる。森本信也氏(横浜国立大学)著の「子どもの学びにそくした理科授業デザイン」である。実は、この本を購入したのは3年前である。そのときは、その中に書かれていることが「よくわからなかった」というのが本音であり、それ以来、あまり手にすることもなかった。しかし、パラパラとめくってみると、今、私たちが求めている「授業デザイン」について「詳しく」述べられている。 ・・・・・ 藤岡の言葉を借りれば、それは「授業設計」に対する「授業デザイン」の提案である。すなわち、「授業デザインにあっては、教師も子どもも同じ系のなかにあって、それぞれが自己を表現し、互いに相手を解釈しあい、引き込みあい、互いに相手を前提にしながら振る舞っている」のである。したがって、授業デザインは「授業の前、中、後のどの場面にも見いだされる。意識するかしないかは別にして、授業中のある場面における教師の行為の選択は授業デザインの表現であり、評価は授業デザインの生成を意味している」のである。 ・・・ (中略) ・・・ 子ども個々の考え方や興味・関心を主軸とする理科授業の構想、それは、実態として「授業デザイン」という概念で包括的に説明できることが明らかになった。それでも、この概念は一般的に、子どもの学びへの即時的対応、すなわち評価とその支援というコンセンサス以外、明確な定義はなされていない。曖昧さ故、逆にいえば、その適用範囲は広大といえよう。また、そのことがこの概念の秀逸性を主張するもである。 ・・・・・まだまだ単なるメモであるが「力強い味方」を見つけたような気がする。
2006.06.09
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「茎に糖がある」。前時で子どもたちが「発見」したことである。この「発見」により、「土に糖があるかどうか」を調べなくてはならなくなる。なぜならば、「土の中に糖があり、その糖が根から吸収されでんぷんになる」と予想することができるからである。そこで、尿糖試験紙を使って調べる。土を水に溶かし、その泥水を尿糖試験紙につける。しかしながら、尿糖試験紙は反応しない。子どもたちからは「もう土からという考えはできない」という声が聞こえてきた。あと考えられるのは、「葉から」か「種いもから」かのどちらかである。しかし、「種いもだけでは、新しいジャガイモ全部のでんぷんは足りない」という考えが発表される。多くの子どもたちが、この発表に納得したものの、ある子どもが次のように発表する。「葉にあるでんぷんでも足りないと思う。」そこで、図を使って考えることにした。葉にあるでんぷんが新しいジャガイモに移動したとしたら・・・。ある子どもが「でんぷんが移動したら、しおれないのかな」とつぶやいた。5年生でインゲン豆の発芽について学習したときのことを思い出したのである。インゲン豆の子葉は、でんぷんが使われたあとは、しおれて落ちてしまったのである。しかしながら、しばらくすると「でんぷんが葉でできているんじゃないかな」という考えが出されはじめる。次時は、条件を制御して実験し「葉ででんぷんがつくられているか」を調べる。
2006.06.08
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前回の授業で、子どもたちの関心は「茎にでんぷんがなかったこと」に向く。今回も、図を使っていろいろ考えるが「茎にでんぷんがない」ことで、うまく説明できない。そこで、前回の授業の終わりに発表された「でんぷんが水に溶けやすい物質に変わったのではないか」という考えを取り上げ、この秘密の解明をめざす。 この発表を聞き、数名の子どもがインターネットなどで「でんぷんが糖に変わる」ことを調べてきた。また、なかには「アブラムシが植物の茎につき、甘い液を出す」ことから「糖」を説明しようとする子どももいた。そこで、「尿糖試験紙(薬局で市販されている尿の中の糖を調べるもの)」を使って、調べることにした。(この尿糖試験紙をつかうことは、鹿児島大附属小の原田浩毅先生の実践を参考にした。)尿糖試験紙に茎の断面をこすりつけるとみるみるうちに色が黄から緑に変わる。「茎には糖がある」という声があがった。 「茎の中に糖がある」。子どもたちは驚くとともに、満足そうな表情をしている。しかし、しばらくすると数名の子どもたちから「土にも糖があるんじゃないか」というつぶやきが聞こえてきた。「土のなかに糖があり、根から吸収されでんぷんになったのではないか」という新たな予想である。次時も、尿糖試験紙を使った追究が続く。(尿糖試験紙は、本当に優れものである。)
2006.06.07
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近くの中学校との合同研修会に参加する。(この手の研修会に参加するとき、いつも違和感を感じる。「小学校では」「中学校では」という風に質問されたり、意見を述べられたりするからである。どうも「私の学校では」ということではなく、一般的に「小学校では(中学校では)」ということが述べられているような気がする。これは、小学校と中学校では違うということを前提にしているのだろうが、小学校と中学校を往き来している私にとっては「授業をする」というレベルでは、本質的なのものには大きな差はないものに感じられる。)その中学校の発表の中に、「論理的思考力と批判的思考力を育てる」というものがあった。この2つは、PISA2003の結果の問題点とも関係があり、関心をもってっきていたのだが、2つの点に疑問を感じた。まず一つ目は、2つの思考力を各教科ごとに細かく分析してあることである。もちろん、分析そのものは必要であろうが、「分析=育成」ではない。分析したものを、どう「構造的」に育てていくかが大切だと考える。二つ目に、一つ目の疑問と考えがあるのだが、分析した項目ごとに「できていない」ものを「できるようにする」という教授観である。目標を細分化し、一つ一つを達成できているか評価する。まさしく「目標・達成・評価」、「授業設計」の教授観である。フィンランドでは、この2つ思考力を育てるために「プロジェクト学習」を取り入れている。この2つの思考力を育てるために、「文脈」や「意味づけ」が必要だということであろう。
2006.06.06
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鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)の話をもとに、これまでの自分の授業を見直す。「理科の授業をデザインするために」とレポートにまとめたので紹介する。 ***** 昨年まで,理科では「子どもたちの多元的な立場(興味・関心,得意・不得意など)を保証し,その多元的な立場から生まれる多様な考えから,すべての子どもの見方や考え方を科学的なものに変容させる」ような協同的な学びの実現をめざしてきた。そのなかで,「周辺にいる子ども」たちの考えを積極的に取り上げる「よさ」も見えてきた。 しかしながら,(多元的な立場にもとづく)こだわりのある多様な考えを大切にし,「周辺にいる子ども」たちのつまずきや素朴な疑問を積極的に取り上げていこうとするとき,事前に「きとんとした」指導計画を立てることは困難である。そこで,「授業デザイン」という考え方で,これまでの私たちの授業づくりを見直すことにする。「授業デザインという考え方」について,前回のレポートのなかで次のような引用をした。 ・・・・・ 授業デザインという考え方は,このような複雑性や曖昧性を授業の本質であるととらえています(藤岡[1998])。授業を行うという教師の仕事は,教師があらかじめたてた計画通りに子どもを操作し動かすことではありません。子ども一人ひとりの学びのストーリーを大切にしながら,それを編み上げてシナリオをつくる作業です。それは,授業前でも,授業中でも,授業後でも不断に続けられます。シナリオを編み上げてはほどき,また新しいシナリオを編み上げるということの繰り返しです。 このように考えると授業をデザインすることをめぐる教師の仕事は数多く考えられますが,以下では,とりわけ重要であると考えられる,「テーマを設定する」「コミュニケーションを組織する」「認識を共有する」という3つの点について考えてみたいと思います。 ・・・・藤江康彦「新しい時代の教職入門(秋田喜代美・佐藤学編著)」 ・・・・・「子ども一人ひとりの学びのストーリーを大切にしながら,それを編み上げてシナリオをつくる作業」。前回の教官研の中で,鹿毛先生がいわれた「Reデザイン」と同じ教師の仕事である。このように考えると,理科の授業を構想するとき,次の2つ視点が必要であると考える。(1)「Reデザイン」することを前提にした「授業設計」(2)「Reデザイン」しやすくするための手だて(1)では,あえて「授業設計」ということばを使った。事前に教材を研究したり,子どもの実態を把握したりしながら授業を構想するという点からいえば,これまでの「授業設計」とあまり変わりははない。ただし,予想される「子どもの反応」を「つなぎ」ながら構想することができないという点で,これまでと異なることも出てくるであろう。 *****今後、このことをもとに、本年度の「研究の柱」を明らかにしていく。
2006.06.05
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「周辺にいる子どもたちに起こっているストーリー。」鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)が本校の3つの授業を観察され、研究会の中でもっとも話題にされたことである。「周辺にいる子どもたちに起こっているストーリー」を大切にし、「教育的瞬間」をとらえ、「しかけ直す」。このことを取りあげるとき、多くの先生方が「普段の授業の中でやっている」「これまでもやってきた」と主張されるだろう。もちろん、私も毎日の授業の中でやっている。しかし、「うまくいく」こともあれば「うまくいかない」こともある(私は、うまくいかないことの方がほとんどなのだが)。そして、この「うまくいかない」ことに対して、これまでは「経験」「『うまくいく』先輩の授業」を頼りにしてきたことも事実である。「授業デザインという考え方」では、この「うまくいかないこと」を授業研究として積極的に取りあげようというのである。ただし、「ハウ・トウ」を求めるのではない。なぜなら、「ハウ・トウ」で「うまくいく」のであれば、とうの昔にできているはずである。鹿毛先生の話の中に「授業研究のやり方が変わる」という話があった。どうゆう研究会になるのかと尋ねると、「子どもの姿を語り合うようになる」という答えが返ってくる。以前、このblogでも書いたのだが、「見えない実践」を研究の対象にしていくことであろう。「そんな研究会は経験したことがない」といいたいところだが、これまでの研究会の中や、教師同士の会話の中に、このことにつながる要素はあるはずである。
2006.06.02
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校内の研究会に、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)を講師としてお招きし、話を聞くことができた。(実は、私の授業を見てもらい、コメントももらうことができた。)「授業デザイン」を中心にいろいろな話を聞くことができた。まず、「授業デザイン」とは「授業設計」の「対義語」であるということである。授業観の違いとして「授業設計」が「こうすれば必ずこういく」ことを求めるのに対して、「授業デザイン」は「省察することで次を見通す」ことだと説明された。また、「授業デザイン」の中心になるのは「教師のねがい」だということである。この「ねがい」やねがいを実現するための「アンテナのはり方」ということは、教師の「センス」にかかわることであり、この「センス」を鍛えるには「こうすればこうなる」という「ハウ・トウ」ではできないということであった。最後に、次の2つの「ことば」が心に残る。「授業の中で、一人一人の子どもたちにどんな体験がなされているのか。」「教育的瞬間をとらえる力が大切であり、現在進行形の中で立て直す。」私の「ことば」での言い換えであり、鹿毛先生の話を十分に伝えられていないかもしれない。私自身、「授業デザイン」についてはやく語ることができるようになりたい。このことも「みんなで伸びる授業をつくりたい」という「ねがいを鍛える」一つの方法であると考える。
2006.06.01
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「葉でできたでんぷんが運ばれる」「土の中にあったでんぷんを根が吸収する」「種いもにあったでんぷんが移動した」など、自分なりの予想をもって新しいジャガイモのでんぷんのひみつを追究しはじめた子どもたち。前回の授業で、「葉にでんぷんがある」という実験結果から、多くの子どもたちの考えが「葉」に傾きかけているように見える。今回は、葉以外の部分、「土」「種いも」「茎」「根」のでんぷんを調べる。実験の結果、でんぷんがあったのは「種いも」だけ。前回の結果も合わせて、自分の考えを整理させ、図を使って説明させた。私は、ここで「葉」か「種いも」かということが問題になると考えていたのだが、子どもたちの関心は「茎にでんぷんがないこと」にむく。そんな中、ある子どもが次のように発表した。「でんぷんは、水に溶けないから、水に溶けやすいものに変わったのではないか。」もちろん、この子どもは教科書などで「でんぷんが水に溶けやすい物質に変わること」を知っていたのだろう。しかし、これまでの実験の中で、何度か「でんぷんは水に溶けにくい」という説明を聞いたことと、「茎にでんぷんがないこと」を結びつけて、友だちに「分かりやすく」説明することができた。(もしかしたら、この子どもにとって「分かり直す」瞬間だったかもしれない。)「新しいジャガイモのでんぷんはどうやってできたのだろうか」。「葉から運ばれた」という考えと「種いもから運ばれた」という考えが衝突することを期待していたのだが、追究の方向を「茎」に軌道修正しなければならない。
2006.06.01
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