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「自分の考えを表現し仲間と共有する活動によって『反省的思考』を組織すること」。私たちが「表現」を軸にした授業(子どもたちの活動)の可能性を探るとき、このことを中心に考えなければならないだろう。しかしながら、「『表現』を軸にする」というだけでは、具体的な授業をイメージしにくいであろう。「活動的で協同的で反省的な学び」。このことについて、佐藤学氏は「教師たちの挑戦」の中で、次のようにも述べている。 ・・・・・ カリキュラムづくりのもう一つの課題は、これまで「目標・達成・評価」の単位として組織してきた単元を「主題・探究・表現」の単位へと再構成することである。「目標・達成・評価」の単位として組織されてきた単元は、旧来の効率性を重視する「勉強」には有効な単元であるが、「活動的で協同的で反省的な学び」を中心とする授業に有効な単元とは言えない。「勉強」から「学び」への転換は、それにふさわしいカリキュラムと単元を要請しているのである。 すでに広見小学校では、赤渕さんの授業の事例に見られるように、多くの教師が教材と授業の展開を工夫して「主題・探究・表現」の単元としてカリキュラムを再構成する挑戦を積み重ねている。また学年ごとに取り組まれている総合学習においては、「目標・達成・評価」の単元ではなく「主題・探究・表現」の単元が自然に成立している。しかし、多くの知識を網羅的に組織した教科学習においては、今なお「目標・達成・評価」の単元学習が支配的であり、それらの単元を一挙に「主題・探究・表現」の単元へと再構成することは不可能である。これまで同様、教室に「活動的で協同的で反省的な学び」を実現する取り組みを持続しながら、一つひとつの単元を「主題・探究・表現」の様式へと再構成する挑戦を一歩ずつ推進する必要がある。この課題を達成するには少なくとも10年を必要とするだろう。 ・・・・・このことから、次の2つのことが分かる。(1)単元を一つの単位として実践を進めること。(2)「目標・達成・評価」の単元を「主題・探究・表現」の単元へと再構成すること。まず、できそうな単元から手をつけることも、一つの方法であろう
2006.04.30
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「授業デザインとは何か」と考えるとき、いくつかのキーワードを挙げられる。その中のいくつかの「ことば」について調べてみる。(三省堂より) ・・・・・省察:自らかえりみて考えること。しょうさつ。 見識:(1)物事の本質を見通すすぐれた判断力。また、それに基づくしっかりした考え。識見。(2)気位。往還:(1)行き来する道。街道。(2)人や車がゆききすること。往来。デザイン:行おうとすることや作ろうとするものの形態について、機能や生産工程などを考えて構想すること。意匠。設計。図案。設計:(1)機械類の製作や建築・土木工事に際して、仕上がりの形や構造を図面などによって表すこと。 (2)人生や生活の計画を立てること。 プログラム:(1)物事の予定。番組。(2)映画・演劇・コンサートなど各種の催しの、番組・組み合わせ・順序・筋などを書いたもの。(3)コンピューターに、情報処理を行うための動作手順を指定するもの。また、それを作成すること。プロジェクト:研究や開発の計画。企画。 ・・・・・単なるメモである。
2006.04.29
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「行きつ戻りつする往還過程」。この「往還すること」について、佐藤学氏は「教師たちの挑戦」のなかで次のように述べている。 ・・・・・ 「勉強」は階段を一段一段上がるように直線的で一方向的に組織される。いわば「制度の時間」によって組織されていると言ってよい。それに対して「学び」は「身体の時間」によって組織されており、未知の経験と既知の経験との間を往還し、過去の経験と現在の経験との間を往還する。「勉強」がプログラムの時間において組織されているのに対して「学び」はプロジェクトの時間として組織されているのである。 ・・・ (中略) ・・・ 広美小学校の佐藤校長は研修主任とともに、「勉強」から「学び」への転換をはかる上記の三つの課題を遂行するために、すべての教室で「活動的で協同的で反省的な学び」を実現することを提起した。「活動的で協同的で反省的な学び」とは、授業の中に教材のモノや事柄と対話する「活動」を組織することであり、教室において個と個の擦り合わせを実現する小グループの「協同」を組織することであり、自分の考えを表現し仲間と共有する活動によって「反省的思考」を組織することを意味している。 ・・・・・「プログラム」から「プロジェクト」へ。「行きつ戻りつする往還過程」を実現するヒントになる。
2006.04.28
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校内の研究会の中で、「授業デザイン」について分かりなおす場面があった。「新しい時代の教職入門」のなかで、藤江康彦氏(関西大学)は、「授業デザイン」について述べられている次の一文がきっかけになった。 ・・・・・ 本章では、さまざまなできごとが絡み合い、時間の流れの中で様相を変えていく、まるで生きて動いているようにみえる授業における教師の仕事を授業デザインととらえていきます。 ・・・・・これを読まれたある先生が、「授業が生き物のようであり、思ったとおりいかないのは当たり前である」と発言された。そして、「それは、発問が悪い、何とかするのが教師の仕事だ」と。これこそまさに「授業設計」である。しかしながら、この「思ったとおりいかない」部分を大切にしていくのが「授業デザイン」であろう。
2006.04.27
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「反省的実践」による授業研究。「授業研究とは何か」ということすら、私自身説明できないのであろう。佐藤学氏は「授業研究入門」の中で、「授業研究の課題と様式」について次のように述べている。 ・・・・・ 「反省的実践」を志向する「授業の探究」は、教室の事実と事実の間の見えない関係を読みとって、そこに生起している出来事の意味や経験の意味を探究する研究である。その出来事や経験の意味を「物語的認識」において表現し、その探究と表現を通して、実践者としての省察と選択と判断を支える実践的見識(practical wisdom)を一人の教師として個性的に形成するものである。 したがって、「反省的実践」を志向する「授業の探究」は、特定の授業を観察し記録し批評する事例研究(case method)として遂行されている。この事例研究が、「一つ」の研究であることをもう一度確認しておく必要があるだろう。「技術的実践」を志向する「授業分析」が、可能なかぎり「多数の事例」を対象として、どの教室にも応用可能な「一つの真理」(命題としての認識)を追求するのに対して、「反省的実践」を志向する「授業の探究」は、「一つの事例」を対象としてその教室でしか成立しえない「一つの出来事や経験」に対する「多様で多義的な認識」(物語としての認識)を追求する。言い換えると、「技術的実践」を志向する「授業分析」が、命題化された「正しさ」と「有効性」を追求して、授業に関する技術(プログラム)の「確実性」を拡大する研究に対して、「反省的実践」を志向する「授業の探究」は、ストーリーとして語られる認識の「おもしろさ」と「レリバンス(現実的な意味)」を追求して、「不確実性」の世界を探索しその探索の経験をかたどる研究なのである。 さらに、前者の「授業分析」が、唯一の認識と唯一の技術(プログラム)を求め論争し合うスタイルで研究を組織するのに対して、後者の「授業の探究」は、多様な認識と多様な方法を求め経験を共有し認識を交流するスタイルで遂行される点も、この二つの様式の違いとして指摘しておきたい。 ・・・・・「授業分析」から「授業の探究」へ。まだ、私自身にとって単なるメモであり、ただ書き出しただけにすぎない。
2006.04.27
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「授業デザインとは何か」を考えるとき、「反省的実践」ということばによく行き当たる。「反省的実践」とは何か。佐藤学氏は、「授業研究入門」の中で次のように述べている。 ・・・・・ わが国の授業は、今、大きな転換点を迎えている。その転換はさまざまなことばで語られているが、これまで受動的な位置におかれてきた子どもの学びを能動的な位置づけを与え、伝達と習得という閉じたシステムにおいて構成されてきた授業と学びを、対象(教育内容)の意味を構成し人と人との関わりを構成する多元的で重層的で力動的な実践として再構成する転換として見ることができるだろう。この授業におけるパラダイムの転換は、わが国だけの現象ではなく、欧米の授業にも共通する現象であり、「技術的実践(technical practice)」から「反省的実践(reflective practice)」への転換という概念で表現されてきた。 ・・・ (中略) ・・・ これまでの事例でも明瞭なように、「技術的実践」としての授業がプログラムや発問や指示の技術という「見える実践」として展開されるのに対して、「反省的実践」としての授業は、状況に対する「省察」や方略の「選択」や「判断」として、教育内容の意味と人と人との関わりを「デザイン」する「見えない実践」としていとなまれている。そして、「技術的実践」が、プログラムや授業技術という「科学的原理」に基礎をおいているのに対して、「反省的実践」は、教師の経験と認識に培われた「実践的見識」を基礎としている。 ・・・・・「見える実践」から「見えない実践」へ。「プログラムや技術」から「『省察』『選択』『判断』としてのデザイン」へ。「原理」から「見識」へ。私たちが授業観を転換する方向性であろう。
2006.04.26
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秋田喜代美氏(東京大学)の研究室を訪ねたとき、「新しい時代の教職入門」という本を頂いた。そのなかで、藤江康彦氏(関西大学)は、「授業デザイン」について次のように述べている。 ・・・・・ 本章では、さまざまなできごとが絡み合い、時間の流れの中で様相を変えていく、まるで生きて動いているようにみえる授業における教師の仕事を授業デザインととらえていきます。デザインということばからは、「事前の計画」という印象を受けるかもしれません。ここでは、「デザイン」ということばをもう少し広い意味にとらえたいと思います。授業に関する教師の仕事は、授業の計画をたて(plan)、授業を行い(do)そして評価する(see)という作業に分けられるとこれまでしばしば考えられてきました。この一連の作業の中で「授業を行う」ことは、事前の計画(plan)を実現する(do)ものとみなされていたのです。 ・・・(略)・・・ 授業デザインという考え方は、このような複雑性や曖昧性を授業の本質であるととらえています(藤岡[1998])。授業を行うという教師の仕事は、教師があらかじめたてた計画通りに子どもを操作し動かすことではありません。子ども一人ひとりの学びのストーリーを大切にしながら、それを編み上げてシナリオをつくる作業です。それは、授業前でも、授業中でも、授業後でも不断に続けられます。シナリオを編み上げてはほどき、また新しいシナリオを編み上げるということの繰り返しです。 このように考えると授業をデザインすることをめぐる教師の仕事は数多く考えられますが、以下では、とりわけ重要であると考えられる、「テーマを設定する」「コミュニケーションを組織する」「認識を共有する」という3つの点について考えてみたいと思います。 ・・・・・ 「子ども一人ひとりの学びのストーリーを大切にしながら、それを編み上げてシナリオをつくる作業」。これが授業をデザインするということである。早急に咀嚼しなければならない。
2006.04.25
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「わかり直すところに、全員が参加していく。」今回、秋田喜代美氏(東京大学)の研究室を訪問し、いろいろな質問に答えていただく中で、一番心に残った「ことば」である。わかり直すためには、次から次へとステップアップしていく学習ではなく、疑問やつまずきがあったとき、「たちどまって」「もどる」学習が必要である。 ふと、佐藤学氏の「教師たちの挑戦」を思い出す。佐藤氏は、そのなかで次のように述べている。 ・・・・・ 探求し合う教室を創造する教師は、「もどす」ことの意義を熟知している。しかも、「もどす」ことに熟練した教師は、高いレベルの学びに挑戦することに積極的である。課題が子どもに困難なときには、その前段に「もどす」ことで再出発できるし、グループ活動に「もどす」ことによって、一人ひとりの参加を促し、多様な個と個の擦り合わせを組織して高いレベルの学びを実現することが可能になる。 ・・・・・前へ、次へのステップではなく、「もどす」ことによって「高いレベルの学び」を実現することができる。やはり、「授業観の転換」が必要である。
2006.04.24
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秋田喜代美氏の研究室を訪ね、「表現」についても質問する。その中で、いくつかのキーワードになる「ことば」をメモすることができた。 ・・・・・「表現から理解を深める。」「自分の言葉におきかえる。」「つぶやきを他者に伝わるものに。」「思考をたどらせる。」「他者の思考のプロセスに沿う。」「わかり直すところに、全員が参加していく。」 ・・・・・このことからも「表現」のための「表現」ではないことが分かる。また、子どもたちの「表現」を重視することによって、「科学者のコミュニティのようにつながる」とも話していただいた。秋田氏がいくつかの著書の中で「知の著者」という言葉を使われていることもあわせて考えると、「表現」する意味(価値)として「他者とのかかわり合い」と「文化的実践」の両面からとらえていく必要がある。
2006.04.22
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秋田喜代美氏(東京大学教授)の研究室を訪問する。「授業デザインとは何か」ということを、私自身少しでも明らかにするためである。1時間という短い時間であったが、貴重なアドバイスをもらうことができた。ノートにメモしたことを振り返る。まず、「授業デザインとは何か」ということについて「『設計との違い』で考えると分かりやすい」と答えが返ってくきて、少しあっけにとられる。「授業デザイン」と「授業設計」の違いを考えていたはずなのに、「授業デザインとは何か」ということばかりに気をとられ、これまで私たちが行ってきた「授業設計」そのものについて振り返っていなかったのである。この「授業設計」について、次のような例を挙げて説明された。(もちろん、私の「ことば」でしか再現できないが・・・。) ・・・・・ 授業がうまい先生は、机間指導の中で、子どもの考えを把握し、それを指名によってつなげていくことができる。このことにより、あたかも「スムーズ」に授業が流れているように見える。しかしながら、その中で本当に子どもたちは理解しているのだろうか。 ・・・・・「そんな授業はしていない」といいたいところだが、あたかも「学びあっているような」授業を「演出」してこなかっただろうか。少なからず、子どもの反応を予想し、「一方向的」につなげて「授業設計」をしてきたことは確かである。秋田氏に「やはり、授業観の転換が必要ですね」と尋ねる。すると「そんな大変なことではない」と、あっさり斬られてしまった。そして、「普段の授業の中にある」と、付け加えられた。「反省的実践」が必要ということであろう。
2006.04.21
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「タケノコ」をスケッチするとき、実際に描いている途中にも対象との「やりとり」する子どもの姿があった。たとえば、タケノコの皮の「筋」の表現に仕方である。はじめ、タケノコの皮の筋をサインペンで描いている子どもと、描いていない子どもがいた。筋を描いていた子どもは、描いていない子どもに対して「どうして」と尋ねる。すると多くの場合、明確な答えは聞かれない。しばらくすると、お互いにもう一度皮を触ったりするとともに、絵の具を使って試しに描いたりしはじめる。結果、筋をサインペンで描く子どもと描かない子どもの両方がいた。しかしながら、このようなことが「対象」に対する「イメージ」を豊かに(もちろん、「豊かに」ということは曖昧なのだが・・・)するのであろう。
2006.04.20
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図工の時間に、「タケノコ」をスケッチする。やり方(手順)は、昨年取り組んだやり方と同じだ。ただし、導入の10分間を大切し、「対象」とのやりとりができるよう次のように工夫する。(1)教室の前にタケノコを並べる。それを眺め、グループでどのタケノコがよいか話し合い決める。(2)タケノコを持ちあげたり、触ったり、におったりする。(3)4人組のテーブル(4つの机をつけたもの)の真ん中にタケノコを置き、どのイスに座ってタケノコを描くか決める。もちろん、ジャンケンで決める場面もあったが、そのときにも、理由をまず説明させる。このような友だちとのやりとりの中で、タケノコとのやりとりも生まれてくる。このことが、タケノコを「よく見ること」につながっていく。
2006.04.20
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明日は、6年になってはじめての図工である。まず、私は「いつもの」八百屋さんにいって「春」の題材に適当なものを探す。そこで、すぐに目についたのが「タケノコ」である。昨年、何度かスケッチに取り組んだのだが、子どもの「表現」を豊かにする(豊かにするという言葉は曖昧なのだが・・・)ためには、「対象」とのかかわりが大切であり、子どもたちがかかわりやすい「対象」が必要であると考えている。八百屋さんに入ったとき、そのどっしりとした存在感、触ったときのトゲトゲした、また、やわらかな感じ、そして、店中に広がるにおい。「おもしろそうだ」とひらめいた。内田伸子氏(お茶の水大学)は、「想像力」のなかで「対象とのかかわり(やりとり)」にについて、次のように述べている。 ・・・・・ しかし、想像力が最も奔放であるとされるもっと幼い子どもの場合は事情は少し違うようだ。特に子ども時代の想像の素材となるのは、ただ単に子どもをとりまく環境なのではなく、自然世界であれ、人がつくったものであれ、子どもがそれと創造的な相互作用を起こすようなものでなくてはならない。大人も子どもの近くにいさえすればよいのではなく、子どもと実際にやりとりをしなくてはならないのである。幼いうちほど心や体をせいっぱいはたらかせ、実際に対象とやりとりすることを通じて、はじめて「経験」できるのである。 ・・・・・本物のタケノコを子どもたちに提示すれば(もちろん、提示の仕方も工夫しなければならないが)、「対象」とのやりとりが生まれるチャンスがたくさんあるであろう。
2006.04.19
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これまで私たちは教師は、課題や発問に対する「子どもの反応」し、その反応を「つなげて」授業することが多かった。もしくは、机間の中で子どもの考えを把握して、それを「並べて」スムーズに授業を進めることが、よい授業とされてきた。しかし、佐伯胖氏は「『学び』を問い続けて」の中で、「自ら問いを発すること」として次のように述べている。 ・・・・・ よくあるケースでもっとも避けなければならないことは、いわゆる「やらせ」としての発問である。すなわち、本来教師が言うべきことや、教師が自分で言いたいことを、わざわざ生徒に言わせる手だてとして発問するのである。当たり前のことをわざと言わせてみたり、教師のことばの続きを言わせたり、「先週説明したこと」を復唱させる意図で発問したり・・・。 要するに、「問う」ということを教えるのではなく、教師が頭に描く「答え」を当てさせるための発問はすべて非・教育的発問と言わねばなるまい。子どもたちは先生の顔色をうかがったり、先生の行動の片鱗からヒントをつかもうとする。物事の本質を問うてみるのではなく、先生をながめて答えを得ようとする。そういう授業を進める教師は、「子どもたちが自分に注意を集中してくれている」と得意になっているが、子どもたちは真実そのものへの関心よりも、教師との「心的交流」にばかり気をとられているのである。 ・・・・・こう考えると、いくつかの問題点が浮かび上がる。まず一つ目に、子ども一人一人の中で、その「発言」はつながっているのか。特に、発言しなかった子どもは、しっかりと理解できているのか。次に、発言した子どもについても、その考えが深まっているのか。最後に、「ハイ、ハイ」と手を挙げている子どもは、本当に「学びが好き」だといえるのかということである。私のクラスでも、発表をする(しなければならない)とき、子どもたちは私との心的交流を意識したり、私が求める「答え」を探っているように見える。私が求める「授業像」から転換する必要がある。
2006.04.18
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「楽しい理科授業(明治図書)」の5月号に、「新しい時代の授業像と指導案のフォーマット」として、西川純氏(上越教育大学教授)の「職員会議に置き換えたら・・・」という原稿が掲載された。私たち教師が、これまで当たり前だと思っていた「授業」に対する批判である。ぜひ、多くの教師に、このことを考えて欲しい。 ・・・・・ ある日の職員会議における校長の会議進行メモが次の様なものであった。 新しい入試方法について説明する。 予想される反応1:私学校長会との申し合わせを知らない教諭から「○○○」と いう質問が出る。 手だて:申し合わせを説明する。 予想される反応2:・・・・・・ 以上のようなメモがあり、そのように進行したとする。その1週間後、校長会で校長が、「予想したとおり、今度の申し合わせを知らない教諭から『○○○』という質問が出て、準備したとおりの説明をしたら納得したよ、あははは」と笑って発表していたら、みなさんはどう思うだろうか?「ふざけるな!申し合わせが重要であることが分かっていたら、そのことを事前に流せばいいじゃないか!情報を独り占めにして、小出しに出すことによって、会議の主導権を握るなんて姑息だ!」ではないだろうか? これを教室に置き換えて欲しい。筆者のめざす教室とは職場である。教師は子どもという職員の力を最大に引き出す管理職である。操り人形のように子どもを動かそうとするのではなく、子ども自身が自らの頭で授業に参加させようとするならば、できるだけ情報を公開すべきである。指導案には「予想される子どもの反応」という表現がよく見られる。しかし、子どもに対して極めて失敬ではないだろうか。 ・・・・・「できるだけ情報は公開すべき」。鏑木氏が主張する先行学習につながるところがある。また、協同的な学びの実現をめざすとき、指導案に書き込むだけの子どもの反応は予想することができないということが、昨年の研究の中で実感したことである。
2006.04.15
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秋田喜代美氏の「子どもをはぐくむ授業づくり」のなかに、「文化的実践への参加」について述べられている部分がある。 ・・・・・ 私も第? 部で使ってきた言葉だが、「本物の文化的実践への参加」という言葉が使われる。佐伯胖さん(1995年)の言葉を借りれば、それは「外側の文化へ向けて働きかけ、よりよいものを作り出そうとしている集団」が実践の共同体であり、そこへ「関係づくり、自分づくり」として参加することである。 この考え方に私も影響を受け、賛同している。だが、ものわかりの悪い私は、ちょっと待てよと思うのである。本物の文化的実践、外側の文化って何だろう。そして本物の文化的実践に子どもたちが参加するとは、学校での学びにおいてどういう教育活動を実際にデザインすることなのか、という点の曖昧さに突きあたるのである。 ・・・ (中略) ・・・ だれとのどのような活動を組織し授業をデザインすることが学校知の境界を組み替えることになり、ひいては子どもを育むことになるのかが考えられなければならないだろう。たとえば、茅ヶ崎市立浜之郷小学校の大瀬校長が「専門家や一芸に秀でた人を呼んできてはだめです。『学習参加』は『教えー教えられ』の関係をなくすのが目的だから。ほかの父母が二の足を踏む。普通の人が授業に入らないと」(毎日新聞、1999年7月6日朝刊より)と述べておられる。少なくとも学習参加という形態での活動では、普通の人、アマチュアの人にきてもらう学習をデザインすることを提案しておられる。そしてそれはもちろん、これはどのような学習内容のどの過程での参加かということが考えられなければならないのはいうまでもないだろう。 文化的実践に参加するとは、内容や対象を表す考え方ではなく、学びのとらえ方の理論を示すものであり、一つの展望なのだから、そのような細かい方法論の議論はなじまないという見解もあるだろう。だが、それだけでは十分な答えになりえない。 ・・・・・「文化的実践への参加」。まさしく私たちがめざしてきた協同的な学びであり、同じ「疑問」を秋田氏も感じられたのであろう。「学校での学びにおいてどういう教育活動を実際にデザインすることなのか」細かい方法論まで議論していく必要があるということである。
2006.04.14
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「授業デザインとは何か」「教師は何をデザインするのか」「これまでの授業設計・授業づくりと何が違うのか」。これらの疑問が、今の私の課題である。秋田喜代美氏の「子どもをはぐくむ授業づくり」を熟読する中で、つぎのことが明らかになった。教師がデザインするものは、子どもの「探究ー情報の共有ー表現(デザイン)」の往還過程、つまり、子どもの「デザインにもとづく活動」である。デザインすることをデザインする。言葉そのものには混乱しそうだが、こう考えると、これまでの授業づくりとは明らかに違う。「探究ー情報の共有ー表現(デザイン)」という過程だけを見ると「これまでもやっていた」という教師も多くいるであろう。しかし、この過程は、一方向ではなく、往きもどりする「往還過程」である。私たちが想像しているもの以上に、多様な方略ややり方が可能であるとともに、複雑なものである。このように考えると、やはり新しい「切り口」が必要である。
2006.04.13
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「教師が個々の活動を仕切り統制するのではなく、学びの環境をデザインすることによって、子どもたちが自分たちの学習をデザインする。」秋田喜代美氏は、「子どもをはぐくむ授業づくり」の中で、このように述べている。このことからわかるように、「教師のデザイン」と「子どものデザイン」を分けて考えなければならないだろう。それでは、教師と子ども、それぞれ何をデザインするのか。この文からわかるのは、教師は「学びの環境」、子どもは「自分の学習」である。まず、「子どもが行うデザイン」について考えてみたい。秋田氏は、同掲書の中で「デザインにもとづく活動」について、次のように述べている。 ・・・・・ このクラブの実践を開発してきた教育心理学者ミッチェル・レズニックらは、この実践について四つの原則を挙げている(1999年)。 ・・・ (中略) ・・・ 原則1について、デザインする活動によって、子どもたちにとっては学習内容が自分とつながりが深いものと感じられ、わがこととして積極的に参加できること、大人が伝達し教える学習に比べて、やらされている感覚ではなく自分で自分の学習を作っているという学習課程への自己統制観が大きくなることを指摘している。デザインしたモノを通して生徒が自らの学びをふりかえり互いに話し合う支柱がはっきりし、具体的な議論が可能になるからである。デザインとは、自分に関わるモノを通して、人とコミュニケーションする活動なのである。学校で敷衍している「正しい」「誤り」、正誤の二分法による評価ではなく、デザインする活動では、多様な方略ややり方が可能であるため、多面的認識を促すことができる。結果、自ずと学際的になり典型的な教科の壁を壊すことができる。 ・・・ (中略) ・・・ 子どもたちの学びの活動において、三章で「探究ー情報の共有ー表現(デザイン)」の往還過程が用意される必要性を述べた。この往還過程が学びがいのある意味のある学びにおいて不可欠なことには、学年も年齢も関係ない。幼い子どもでも、その子なりのこだわりとそこからに気づきをもち、誰かにそれを伝えようとし交わる。そこで感じた思いを様々な形で表し、そこから何か新たなことやモノを創り出していく。 ・・・・「子どものデザイン」。やはりわかりやすい(考えやすい)のは、「ものづくり」の例である。昨年取り組んだ「作品化」(モビールの例が一番適当であると考える)を「探究ー情報の共有ー表現(デザイン)」の往還過程で分析してみることが、今後のヒントになりそうである。
2006.04.12
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なぜ「デザイン」なのか。(「デザインする」とは、どういうことか。)秋田喜代美氏は、「子どもをはぐくむ授業づくり」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 教師が個々に活動を仕切り統制するのではなく、学びの環境をデザインすることによって、子どもたちが自分たちの学習をデザインし始める例を、紹介して述べた。デザインする活動を重視する実践は、内外いたるところで今昔行われている。 ・・・ (中略) ・・・ このグラフの実践を開発してきた教育心理学者ミッチェル・レズニックらは、この実践について四つの原則を挙げている(1999年)。 ・・・ (中略) ・・・ 原則4として、本物らしいものをデザインすることによって、自分がデザインしたモノや考えに対し、特別の所有感覚や、かけがえのないものとしていとおしみ大事にいたわるケアの感覚を育てることができる点があげられている。デザインとは、宛名をもった相手のある手仕事なのである。デザインすることによって、他の人は自分が作り出したモノに対してどのように反応するのか、どのように使うのかを考え、そこから応じてくれる他者への意識や信頼感が生まれるのである。またデザインではデザイナーの個性があらわれ、大事にされる。互いにデザインすることによって、そこに見えてくる差異から、互いに大事にしあい、信頼し連帯する共同体が生まれる。 生徒が自分の学習のプラン(計画)をたてることや目あてをもつことの重要性は、自己教育力という言葉とともに、これまでいわれてきた。しかし、それらは「計画ー実行ー評価」の流れで語られてきたように、直線的な流れの一方向過程であり、循環過程としてとらえている。これに対し、「デザインする」という活動は往還的にいきつもどりつしながら、一つの具体物や具体的作品を相手の応答を想像しながら仕立て上げていく過程なのである。 ・・・・・「学びの環境をデザインすることによって、子どもたちが自分たちの学習をデザインし始める」。「デザインとは何か」よくわからない原因にの一つに、「教師がデザインする」ことと、「子どもがデザインする」ことを、私自身が整理してとらえていないことがあげられるのであろう。だた、子どもの「デザインに基づく活動」とは、私が昨年取り組んだ「作品化」と方向性は同じだと感じている。
2006.04.11
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本校の先生方に「授業デザイン」という考え方が受けいれられない一番の原因として、私たちが「協同的な学び」の実現をめざすという「前提」が理解されていないことが挙げられる。やはり、昨年まで取り組んできた「協同的な学び」について、私自身がしっかりと分析し、咀嚼して「説明」していく必要がある。そこで、本棚の中の本を調べてみる。すると、秋田喜代美氏の「子どもをはぐくむ授業づくり」が手に止まる。しばらくの間、この「本」を熟読することで「協同的な学び」を分析し、咀嚼することを試みてみたいと思う。秋田喜代美氏は、この著書の中で「『もう一つの知』の模索」として、次のように述べている。 ・・・・・ 「貨幣的知識」「転移の信念」「切り離すわかり方」という従来の教育における三つの信念に対するもう一つのあり方として、三点のことを挙げてみたい。 第一に、誰かさんが築いてきた知の吸収と消費のみでなく、そこから知の著者となれる活動を経験すること、第二に持ち運び可能なものを、個人の頭の中の宣誓的知識や手続き的な知識に限定するのではなく、対象や状況に関わる関わり方として、会話のあり方や道具の使用が豊かにできるようにすることを知としてとらえ、その経験が可能となる学習環境を準備すること、第三に、学ぶ対象に対し論理的抽象的にわかるわかり方だけではなく、感情の絆をもって応え合いつながりあうわかり方を経験することである。 この三点は相互に関係しており、箇条書きで述べられるものではない。だがこれらを、授業における活動のあり方や学ぶもの同士の関係、学ぶ対象との関わり方、それらを支える学習環境やそのための道具立てから「振り返り」、これまでの学校知の形成を支えてきたあり方を考えなおしてみることが必要だろう。 ・・・・・秋田氏がいう「『もう一つの知』のあり方」とは、私たちがめざしてきた「協同的な学び」であろう。そう考えると「協同的な学び」の条件やこれまでとの違いを考えるキーワードとして、「知の著者となれる活動」「会話や独語の使用が豊かにできる」「応え合いつながりあいわかる」が挙げられるだろう。
2006.04.10
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また、美馬みのり氏・山内祐平氏は、「『未来の学び』をデザインする」のなかで、「学習のとらえ方と活動の意味」について、次のように述べている。 ・・・・・ これまで「ものづくりを通じた学習」や「ワークショップ」は主に、芸術を背景としたデザインの領域で行われてきました。 ・・・(略)・・・ しかしながら、その学習活動の過程や内容について明らかにされておらず、このような学習活動は、美術教育以外における通常の教科の学習活動でも意味があると予想されるものの、それがどのような効果をもたらすものであるか不明でした。 以上のような学習活動が説明できなかった理由は、背景となる学習論の枠組みと関係があります。これまで認知心理学では、人間の知的な営みについて、特に学習について、「知識獲得の行為」としてとらえてきました。「知識獲得」ということばでは、人間の心を容器と見立て、そこに材料である「知識」を注ぎ込むことが学習とされます。そしてこの「知識獲得」の概念は、あくまでも注がれる容器は「個人」のものであり、その行為自体も個人的なもの、したがって学習という営みは個人的なものとなります。これに対し、近年の研究成果から、人間の学習を「知識の獲得」という個人的な営みではなく、対話やコミュニケーションから生まれるものであり、そのときの状況や文脈とは切り離せないものであることが明らかになっています。 ・・・ (中略) ・・・スファード(1998)は従来の学習論の枠組みと状況的な学習論の枠組みを、獲得メタファと参加メタファとして対比させています。 ・・・ (中略) ・・・ 獲得メタファにおける知識や概念とは、所持するものであり、参加メタファに置いては、個人的・社会的にある共同体における実践や語りや活動を意味します。知っているということは、獲得メタファでにおいては、所有しているということになりますが、参加メタファにおいては、ある共同体に所属することであり、参加することとなります。ものをつくるということを中心にした活動は、このような共同体の中に埋め込まれているものなのです。 ・・・・・「ものをつくるということを中心にした活動」、私が取り組んできた「作品化」と共通するものが多い。
2006.04.07
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美馬みのり氏・山内祐平氏は、「『未来の学び』をデザインする」のなかで、「学びを構成する要素」を「空間」「活動」「共同体」という切り口で説明している。その「空間の重要性」について、次のように述べている。 ・・・・・ 従来の教室では、「学習」という人間の知的な営みを、個人の「知識獲得の行為」としてとらえ、それを効率よく行うために、黒板の前に教員が立ち、標準的な教科書を用いて、一斉授業を行ってきました。これに対し、新しい学習観では、何らかの社会的実践に役割を持って参加する過程を学習と考えます。初心者から熟達者まで様々なレベルや役割の人が活動する様子を見ながら参加することで、近い将来の自分の姿をそこにみつけ現在の自分の位置を意識化しそれが次の活動へつながっていくのです。すなわち大学では、ある領域の研究実践活動に周辺的に参加できる活動を、学習者に提供する必要があります。 ・・・ (中略) ・・・ 最初に見たメディアラボも、未来大学も、そこににるメンバーにとってはとても居心地のよい空間のように見えます。ある時は、みんなから見える、みんながいる「ひろば」に、あるときは自分の固有の「すみっこ」にいることができます。広場やガラス張りの空間では、互いの活動が見え、刺激を与えあうことになります。ちょっと先輩の姿が見えるという徒弟的な学びにも似ています。こういった環境の中で、コミュニケーションが活性化され、情報の流通が起こり、いろいろな形での学びが発生してくるのです。 ・・・・・最後に書かれている「コミュニケーションが活性化され、情報の流通が起こる」ということは、昨年まで私たちが求めていた「相互作用」であり、「いろいろな形での学び」とは、私が主張してきた「多元的な学び」である。また、「ひろば」と「すみっこ」は、2月の研究発表会で佐伯氏がいわれた「協同」と「孤独」ということであろう。
2006.04.06
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まだ4月5日であるが、今日は本校の校内の研究会だった。(「研究」を中心にした本校の特色がよくあらわれているのだが・・・。)その研究会の中で、新しい方向性を探るために「授業デザイン」という考え方を提案した。「授業デザイン」とは何か。研究会の中でも一番の議論になった。美馬のゆり氏・山内祐平氏は「『未来の学び』をデザインする」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・ 私たちが「デザイン」という言葉を使うのには理由があります。教科書にきちんと記述できること、すなわち、構造化された知識や目標が明確に決まったことを教えることについては、教育工学の領域を中心にここ数十年間研究されてきました。教育という営みに、工学的な設計方法を適用するというものです。学習目標を細かく分析し、やさしいものから難しいものへと段階を追って教育する方法です。一方、本書で取り上げたような、複雑で創発的な学びについては、長い間、職人的、芸術的なものとしてとらえられてきました。このような学びを成立させることができる人は、一種の達人として扱われてきたのです。 「デザインする」という活動には、必ずそこに目的があり、対象となる人がいます。デザインは人が媒介する活動であり、誰がやっても同じようにできる解の算出をめざす工学とは異質な要因を持っています。しかし、同時に芸術ほど属人的でもなく、一定の方法論は共有できる活動でもあります。 私たちは、デザインという営みが持っているこのような特徴に注目し、新しい学習環境を構築するときの中心になる概念として、デザインという言葉を使っています。そこでは目的、対象、要因、そこへ至るまでのプロセスなどを意識した活動という意味が込められています。 ・・・・・もちろん、この文だけでは「デザインとはなにか」ということに答えることはできない。しかしながら、私たちが昨年まで「協同的な学び」をめざすなかで、具体的にできなかった部分を明らかにするための「切り口」になるのではないかと考える。2月の研究発表会の中で、「どうして、そんな難しいことができるのか」「どうして、子どもたちはよく話し合うのか」という質問に対し、私は明確に答えることができなかった。また、「なぜデザインなのか」「これまでの授業設計と何が違うのか」という疑問に対して、いま答えられるのは「複雑で創発的な学び」、つまり、「協同的な学び」の実現をめざしているということである。
2006.04.05
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