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校内の研究会に、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)を講師としてお招きした。夕方、空港まで迎えに行き、食事をしながら研究会の打ち合わせをする。その中で、鹿毛先生からいろいろなお話を聞くことができた。タクシーの中から、食事を終えて別れるまでの2時間半、会話が途絶えることなく「知的に興奮する」話を聞くことができた。「授業デザイン」とは何か。この2ヶ月間悩み続けてきたことが、すーうと解決されたような気がした。(もちろん、「分かったつもり」の状態なのだが。)また、これまで「授業研究とは何か」よく分からないまま授業研究をしていた私のアイデンティティを確立するきっかけになるような気がした。いろいろ話をしていただいた中で、次のような鹿毛先生のことば(メモを取っていたわけではないので、私のことばでの言い換えになってしまうかもしれないが)が心に残る。「教師の暗黙知を『ことば』にしていく。」「授業の『語り方』を学んでいく。」短い時間であったが、「元気」をもらうことができた。うれしくなって、鹿毛先生と別れたあとも、ついつい飲みにいってしまった・・・。
2006.05.31
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「新しいジャガイモのでんぷんは、どうやってできたのだろう」という「テーマ」を設定した子どもたちであるが、おおよそ次の3つの「予想」が発表された。「葉でできたでんぷんが運ばれる。」「土の中にあったでんぷんを根が吸収する。」「種いもにあったでんぷんが移動した。」なかには「空気中にあるでんぷんが、葉から吸収される」などのような「予想」もあったのだが・・・。そこで、「どうしたら調べられるか」と問う。すると「葉や種いもを全部ちぎって、このあと新しいジャガイモがどうなるか調べる」や「土をバーミキュライトに変えてみる」などの考えが出されるが、他の子どもたちから「現実的ではない」ということが指摘される。そんな中「でんぷんがあるか調べればいい」という声が聞こえる。その後、「葉」「種いも」「土」「茎」「根」をヨウ素液を使って調べることになる。今回は、時間の都合から、葉について調べることにした。すると、ヨウ素液が反応し、青むらさき色に変化した。子どもたちからは、「葉にでんぷんがあった」という声があがる。このとき、半数ぐらいの子どもが「葉ででんぷんができる」と「納得」した様子だった。しかしながら、「まだよく分からない」という表情の子どもも、半数いる。今後、他の部分のでんぷんを調べるとともに、これらの考えを交流していく。
2006.05.31
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今日から新しい単元にはいる。ジャガイモを使って、生き物と養分について学習する単元である。今回、単元の導入では、これまで育ててきたジャガイモを掘り起こし、新しいジャガイモ(新しく育っているジャガイモ)を観察させる。根の先にいくつかの小さな新しいジャガイモを見つけ、子どもたちは歓声を上げる。しばらく、その新しいジャガイモを観察した後に、新しいジャガイモにヨウ素液をかける。多くの子どもたちが、濃い青むらさき色に変わった新しいジャガイモを見てつぶやいた。「新しいジャガイモには、いっぱいでんぷんがつまっている。」そこで、スーパーから買ってきたジャガイモを提示し、そのジャガイモにもヨウ素液をかける。もちろん、濃い青むらさき色に変化する。先ほど掘り起こした新しいジャガイモと大きさを比較させるとともに、ジャガイモの一株から、5個~10個ものジャガイモができる伝えると、「そんなにたくさんのでんぷんは、どこでできるのだろう」という疑問をもつようになる。この疑問をもとに、「新しいジャガイモのでんぷんは、どのようにできるのだろう」というテーマを設定した。次時は、それぞれの「予想」をもとに、一人一人のストーリーを大切にした追究をスタートさせる。
2006.05.31
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以前、このblogで「『主題・探究・表現』の単元へ」ということについて書いた。今回、会議(研究授業の事前研)のなかで、この「『主題・探究・表現』の単元」について「分かり直す」場面があった。それは、「主題」について考えたときのことである。これまでの理科の授業を振り返るとき、「ビー玉エンジンのひみつを探ろう」や「モビールをつくろう」などということが「主題」にあたるものであろう。そのなかで、「モビールをつくろう」など、「作品化」を意識した主題を子どもたちがもつとき、多元的な立場(興味・関心、得意・不得意など)が保証され、その多元的な立場から多様な考えが生み出される。このことは、単にすべての子どもの意欲を高め、学習への参加を保証するということだけでをねらうものではない(もちろん、このことが保証されることも簡単なことではないのだが)。その多様性を交流することで、より科学的な見方や考え方へ変容させようとするものである。つまり、子どもたちの見方や考え方を科学的なものに変容させるためには、多元的な立場から生まれる多様性が必要なのである。この多様性は「『目標・達成・評価』の単元」では生まれにくい。このように考えていくと「『主題・探究・表現』の単元」の意味や価値が見えてくる。また、この多様性を教師が本当に重要視するならば、一人一人の子どもの「主題・探究・表現」そのものを「本気」で評価しなければならないであろう。
2006.05.30
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「ものの燃え方と空気」の単元での最後の授業である。これまでに「ものの燃え方」と「空気」の関係について学習してきた子どもたちであるが、今回は、その学習を「いかいして」ガスバーナーのしくみを考える。教科書でも、この場面でガスバーを取り上げてあげてあり、教科書の流れもそういう意図であろう。ガスバーナーの学習は、これまでの子どもたちの追究とは、「直接的」には関係がない。また、ガスバーナーのしくみについて考えることは「発展的」な内容であり、このような取り上げ方が「一般的」である。子どもたちも、大きな歓声を上げながらガスバーナーを操作する。しかしながら、どうも「しっくり」こない。本当は、これまで学習してきたことと、ガスバーナーのしくみが新しく結びついて「分かった」ということを実感できるはずの場面である。この「結びついて分かること」について、日置光久氏は「展望日本型理科教育」のなかで次のように述べている。 ・・・ しかし、知識はハウスモデルより、ウェブモデルや大脳のシプナスモデルでとらえた方が適切である。子どもにとって説明力の大きな知識があって、そこからどれだけ、触手が延びて、知識同士が密接に絡み合っていくかということが大切である。そのことによってより理解が深まるとか、知識が増えたという状態になる。 ・・・もちろん、いろんな原因が考えられるが、単に学習内容を系統的に並べるだけでは、「知識同士が密接に絡み合っていく」こともなく、本当の理解の深まりにはつながらないのであろう。
2006.05.29
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鹿児島大学で開かれた日本理科教育学会九州支部大会に参加し、私も発表した。研究テーマは「協同的な学びの実現をめざした授業デザイン」。もちろん、「協同的な学び」、「授業デザイン」と「大きすぎる」テーマであることは、重々承知の上である(昨年も、似たようなテーマで発表したのだが、そのときには「授業デザイン」について、これほど「大変な」ことばだとは思ってもいなかった)。発表では「積み木ふりこ」の実践を中心に報告した。「思いがけない発言」や「分からないという素朴な声」を授業の中で大切にし、「複雑性」や「あいまい性」を授業の本質にするなど、「授業デザイン」について、今、私のできる限りで「説明」した。そんな中、「授業デザイン」について、ある校長先生から「これまでの私たちの取り組みの『発展』だと考えてよいのか」という質問を受けた。その場では「その通りです」と答えることになる。だたし、「『思い通りにならないこと』を、これまで教師の技術で「なんとかしよう」としていたところを、もっと価値ある部分と捉え大切にしていくことだ」と付け加えた。その校長先生とは、夜の懇親会でも話す機会があった。そこで話した中から、次のことが少し明らかになった。今の私は、分かる子どもが「分かり直す」こと、「複雑性」や「あいまい性」を大切にすることの「よさ」を、「質の高い課題」、つまり、「難易度をちょっと高いレベルに設定すること」とセットで主張していること。このことは、今年の取り組みの一つの主張になるところであろうが、「授業デザイン」という考え方を理解するには、十分ではないような気がする。しかしながら、挑戦意欲をもって今の自分の考えを「表現」し、いろいろな人と話すなかで、その考えが少しずつ明らかにしていくことができた。やはり、自分の実践を発表することは大切であり、一人で何日も考えているよりも成果が上がる。充実した研修であった。(ただ、芋焼酎を飲み過ぎたのには反省しているが・・・。)
2006.05.28
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鹿児島大学で開かれた日本理科教育学会九州支部大会に参加する。私も発表したのだが、鹿児島大学附属小の有村先生の発表のときに、「つい」質問してしまう。6年「土地のつくりとでき方」の実践報告で、内容は、子どもたちが一度自分がつくった地層のでき方に対する「モデル」を、「事実(剥ぎ取り標本)」と照らし合わせながら、何度もつくり直していくというものであった。質問したことは「子どもたちは、一度自分でつくった『モデル』をなかなか変えようとしないのではないか。その手だてを教えて欲しい。」である。有村先生からは「日頃から『観察力』を育てること」ということ答えが帰ってきた。また、そのなかで「スケッチ」の重要性にも触れられた。一度つくった「モデル」をつくり直すこと。このことは、まさに「分かり直す」ことであろう。「観察力を育てる」ということばに、「表現する」ことの「よさ」を明らかにするヒントが隠されているのではないかと考える。「しっかり観察すること」、「観察したものを自分の考えとして表現すること」などが要素としてあげられてくるだろう。
2006.05.27
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いよいよ「ものの燃え方と空気」の単元も終盤である。前回の授業で気体検知管で実験したデータにばらつきが出たものの(実は授業参観だったのだが・・・)、なんとかまとめまでこじつける。「ものが燃えると、酸素が約3%減り、二酸化炭素が約3%増える。」実験そのものがうまくいかなかった以上に、この結果からの考察が「いまひとつ」であった。何度か「もうちょっと考えてごらん」と声かをかけることで「酸素が減った分、二酸化炭素が増えた」などの考えが出されるようになる。そして、最後の最後に「たった酸素が3%減っただけで、ものが燃えなくなる」という発言を聞くことができた。このことが「ものが燃えるとき、つねに新しい空気が必要である」ことにつながるのだが、子どもの反応も「いまひとつ」である。反省すべき点は、前回と今回の授業だけにあったのではないと考える。これまでの授業の中で、私は「問題意識が高まっている」と感じていたものの、そうではなかったということであろう。もちろん、いろいろな場面で、子どもたちの「よい発言」が聞かれ、私はスムーズに学習が進んでいると捉えていた。しかし、それらの「よい発言」、つまり、疑問や予想、考えなどを「紹介する」だけでは、すべての子どもに「共有」するまでには至らなかったということであろう。この単元は、実験の数も多く、「意欲的」に活動しているように見えた。6年生では、内容も観察・実験の数も多い。ただ単に「観察・実験」を「こなす」だけでは、(子どもたちの姿は意欲的に見えても)ねらいに迫ることができないということである。しかし、活動の中で「認識を共有する」ということともに、活動そのものに対する「テーマの設定」についても考えていかなければならない。(今回の実践は、活動はあったがテーマがなかったのであろう。)
2006.05.25
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ドナルド・ショーン「専門家の知恵~反省的実践家は行為をしながら考える」(佐藤学・秋田喜代美訳)が届く。授業デザインについて考えるとき「反省的実践」がキーワードとなる。この本を読むのはまだまだこれからであるが、解説の中で秋田喜代美氏は「デザイン合理性」について述べているので紹介する。 ・・・・・ ショーンにおける「なすことによって学ぶ」ことの重視は、行為をしながら考えること、さらに、行為をしながらその中で「デザインする」ことを意味するものである。教えと学びは、デザインと発見の共同過程、「わたしとあなたとものとの対話」の中でデザイナーとなることである、とする。デザインすることによって、自己が関与しながら包括的に学ぶことができるのである。社会をデザインする過程では、同じ素材から異なった要素、特徴、関係性に着目し、選択や戦略や好み、ものの違いによって新しいものの見方が発見され、現象の背後にある価値や想定しているモデルが明らかになる。 ・・・ (中略) ・・・ 彼は、専門家の実践を「技術的合理性」ではなく、「デザイン合理性」、デザイン過程としての実践として認識することを主張する。 そのデザイン合理性の基礎構造として、デザイン過程を流れ(フロー)でとらえる。対象素材との対話、そこからデザインへの意図が創発してくる過程、共同でのデザイン状況との対話過程、さらに、実際にそのデザインを現実化していく中で生まれる問題とそこへの対処過程が相互作用し循環する過程、として捉えている。 ・・・・・まだ、単なるメモである。しかし、「教えと学びは、・・・・・ デザイナーになることである」ということから考えると、以前話題になった「教師と子ども、どちらがデザインするのか」ということに対する答えは、最終的には(あいまいな表現だが・・・)「どちらとも」ということであろう。
2006.05.24
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会議の中で、プレゼンのことが話題にあがる。分かりやすく効果的なプレゼンするために、どうすればよいか。我が家にもどり、パラパラとプレジデント2006.6.12号をめくっていると、大島武氏(東京工芸大学)のインタービューをもとにした記事を見つける。 ・・・・・ 前出の大島氏は、(1)A4サイズ一枚に骨格(レジュメ)をまとめ、(2)補足資料は二枚目以降に記し、(3)意見は口頭で伝える、という三ステップを提案する。「思考段階では、結論もデータも個人的な思い入れも、すべて頭の中に交ざっています。それを資料にまとめる際には、いったん分解して整理するという作業が必要です。また事実は資料で伝えるのに対し、自分の考えは口頭で伝えるように心がけたい。そのほうが思い入れが伝わりやすいし、プレゼンテーション力も養われ、一石二鳥です。」 ・・・ (中略) ・・・「相手が聞きたい順序で話すのが、プレゼンテーションの最大原則です。そして、話はできるだけ短く。そのためには、伝えたい内容の骨格と肉付けを意識することが大事です。話が三つあるなら、話の柱は三本。骨格を最初に単文で言い切り、聞き手の要望に応じて、肉付けの部分を説明すればよいのです。」 ・・・・・「事実」と「自分の考え」。「骨格」と「肉付け」。今週末の学会(日本理科教育学会九州支部大会)での発表に向け、今からプレゼンを考えなければならない・・・。
2006.05.23
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「授業デザイン」とは何かを考えるとき、これまで私たちが取り組んできた「授業研究」のあり方について考えさせられることが多い。佐藤学氏は「教師というアポリア」の中で、授業研究における「一つの神話」として次のように述べている。 ・・・・・ ここで、自己完結的な固有の理論領域として「授業研究」が主張されたとき、いくつかの仮説が暗黙に前提として設定されていた点に留意しよう。それらの前提により、「授業研究」は、一まとまりの「神話」を形成していたからである。いかに列挙してみよう。 ・・・ (中略) ・・・(2) 授業の過程は合理的な技術で構成されており、すぐれた授業の一般化により合理的技術の体型化が可能であるという前提。言い換えれば、教科内容の特殊性、子どもの認知の特殊性、教師の特性を越えた一般的な授業の理論(一般教授学)が存在しうるという前提(普遍的教授学の神話) ・・・ (中略) ・・・(2)の前提も、素朴な理論信仰と技術信仰からきている。はたして、医療技術を一般化し「医療技術学」の建設がなされれば、現実の医療が改善されると考える人がいるだろうか。医療以上に、知識基礎となる処理論の成熟を欠き、医療以上に複雑な内容と文脈で展開される授業において、ありえないことだが、仮に「教授技術の一般化」が行われ、一般的技術原理としての「教授学」が建設されたとしても、それらが形式的模倣以上の効果をどれだけ発揮するかは疑問であろう。 ・・・ (中略) ・・・そして、いかに揚げるこれらの暗黙に排除された諸前提こそ、過去30年間の「授業研究」の氾濫で、学校と大学の研究室から失われた授業の見方に他ならない。 ・・・ (中略) ・・・(2) 授業の過程は、合理的技術の適用過程ではなく、教師においては、複雑な文脈で展開される問題解決の過程であり、高次の省察と判断と選択を要求される意志決定の過程である。 ・・・・・もちろん、これまで私は「授業研究」に取り組んできた「つもり」だが、その中で何を「明らかにする」のかよく分からなかった。「授業デザイン」「反省的実践」という「ことば」に出会い、今後の方向性が少し開けたよな気がする。
2006.05.22
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今回、前回の授業の中で出された「酸素と二酸化炭素は、どのくらい変化したのか」という疑問から授業をスタートする。集気瓶の中でろうそくを燃やし、前後の酸素と二酸化炭素の量を気体検知管を使って調べる。授業前から課題意識の高まりもあり(あるように見えた)、スムーズに授業が流れると思ったものの、うまくいかない。二酸化炭素については、おおよそうまくいくのだが、気体検知器の使い方が徹底していなかったからか、酸素の結果がうまく出ない。気体検知器の数が足りなかったということも原因に挙げられるのだが、ろうそくを燃やす前に調べた酸素の「16%」という結果を「不思議がらない」子どもたちに困ってしまった。「空気中には、約21%の酸素が含まれている。」1週間前に学習した「内容」である。21%と16%の違いのとらえ方。単に円グラフを見せて説明した空気の構成。酸素の変化に対する問題意識の高まり。結果がうまくい出なかったこと以上に反省しなければならない点である。
2006.05.21
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この2週間、教育実習で学生といっしょに授業づくりをし、学生の授業を見ることが多かった。その中で、一般的に「分かる」ことに対する次の3つの誤解があると感じた(もちろん、3つだけではないのだろうが・・・)。(1)「分かりやくす」説明すれば、子どもたちが「分かった」という誤解(2)子どもたちが問題を解ければ「分かった」という誤解(3)子どもたちが「同じです」といえば「分かった」という誤解私たちも、日頃の授業の中で、分かっていても(本当は分かっていないということだろうが)ついつい陥りやすい誤解である。佐伯胖氏は、この「分かること」について「『わかる』ということの意味」の中で次のように述べている。 ・・・・・「わかる」ということは、実は、「わかっていること同士が結びつく」ということにほかならない。 ・・・・・こう考えると、本当に「分かる」ときは、一人一人の「分かり方」は異なるはずであり、(3)のような「同じです」という発言は「ありえない」のであろう。
2006.05.19
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校内の研究会の中で「主題・探究・表現」の単元のことが話題になる。その中で、一番答えるのに困った質問は、「理科では、これまでも『主題・探究・表現』の単元を構成してきたのではないか。何が変わるのか。」というものである。このblogでも書いたように、私はこれまで「ものづくり」を中心にした単元づくりに取り組んできた。また、科学の祭典のように、「ひみつを追求」し、だれかに発信するようなことも試みてきた。たしかに、形式は「主題・探究・表現」の単元である。研究会の中では「目標・達成・評価」についても意見がでる。「目標・達成・評価」は、絶対に大切だというものである。もちろん、学校の教育過程の中で行う学習なのだから、それぞれの単元に目標に対しての評価が必要であるし、「主題・探究・表現」の単元の中でも、その単元の目標に対してどうだったかという評価は必ず大切である。しかし、ここで問題にしたいのは、次の2点である。(1)一見して「主題・探究・表現」の単元であっても、子どもたちにとって「本物の探究」「本物の表現」になっていたか。(2)一見して「主題・探究・表現」の単元であっても、教師は「目標・達成」のみを評価してこなかったか。「探究」や「表現」を評価の対象にしていたか。つまり、教師が子どもたちの「主題・探究・表現」、「学び」そのものの価値を認め、子どもたちといっしょに味わっていたかということである。少なくとも、私の授業では、そうではなかったと考えている。
2006.05.18
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今回は、ものが燃えるときの二酸化酸素の量の変化について実験する。実験そのものは、石灰水を使って、ものを燃やす前と後のビンの中の空気について調べるものであり難しくはなく、結果も分かりやすい。しかし、その中で「予想以上」の子どもたちの反応があったので紹介する。まず、「ろうそくの火が消えたとき、ビンの中の二酸化炭素がどのように変化するだろうか」と問うたときである。課題設定のさせ方はいまいちだったが、多くの子どもたちが「ふえる」と答える中、ある子どもがその理由について、次のように発言した。「酸素が減った分、何かが増えているはずだ。」この発言が、まとめの場面にもつながっていく。まとめの場面では、もちろん「ろうそくが燃えると、二酸化炭素が増える」という考察が発表される。しかしながら、まだ「納得しない」表情の子どもがいる。その理由を聞いてみると、次のようなものであった。「窒素はどうなったのか。」「他に増えたり減ったりしたものはないか。」「酸素が二酸化炭素になったのか。」「酸素や二酸化炭素は、どのくらい変化したのか。」おかげで、次時(気体検知管を使って調べる)はスムーズに導入できる。
2006.05.17
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校内の研究会に、鹿毛雅治氏(慶應義塾大学)を講師としてお招きすることになった。鹿毛氏の著書をいくつか読んでいる中で、「反省的実践」について書かれている部分を見つける。鹿毛氏は、「反省的実践家としての教師」について、「成長する教師」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ しかし、教師の仕事を、このような「目標達成」の営みとして限定することはできない。佐藤(1994)は教職の特徴として、教師の責任は必然的に自分自身に帰されるという「再帰性」と、ある教育実践をすれば必ず成果が上がるということの保証はどこにもないという「不確実性」をあげ、これらの特徴は、必然的に「反省的実践家としての教師」という教師像を要請すると述べている。「反省的実践家としての教師」とは、「子どもたちが生きる複雑な泥沼のような問題状況に身を置き、彼らの学習を援助する活動の意味と可能性を洞察し省察しながら自らの実践を反省するという『活動過程における反省的思考』を展開して、親や同僚や他の専門家と協力して、より複雑で複合的な価値の実現をはかる実践を展開する」ような教師のあり方を指す。 ・・・・・「活動過程における反省的思考」と「より複雑で複合的な価値の実現」。授業デザインとは何かと考えるとき、キーワードになるであろう。
2006.05.16
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サッカーワールドカップ日本代表の23名が発表された。夜、あるニュース番組に、その代表に選ばれた中田英寿が出演していた。これまでの8年間(フランス大会から)を振り返り、キャスターの質問に中田が答えるという構成であったが、そのなかで「若手の選手にもの足りなさを感じていないか」という質問に対する答えがおもしろい。中田は、次のように答えた。「表現が苦手なんだと思う。表現がうまくいけば、チームとしての力も高まる。」最近、「表現」ということに敏感になっているせいもあるかもしれないが、「説得力」のあることばであった。さすが、世界のいろいろなチームを経験し、そのなかでコミュニケーションを大切にしてきた(イタリア時代のイタリア語でのコメントは見事であった)中田である。自分の力を発揮しチームの力を高めるために、「表現する」こと。「表現」を中心にして授業をデザインしていこうとする私にとって、力強い一言である。
2006.05.15
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1泊2日の理科の研修会に参加する。SSTA(ソニー教育財団科学教育研究会)若手教員研修会である。九州内の2年目から5年目の先生方が集まり、授業づくりについて研修されるため、私はアドバイスをする立場として参加する。教材づくりや予備実験を体験し、グループごとに指導案をつくる。10分程度の模擬授業がゴールである。私自身、今の学校に赴任してから、数え切れないほどの研究授業の事前研(指導案の検討)や教育実習の指導をしてきたこともあり、何とかなると思っていたのだが、思うようにいかない。結局、朝の4時すぎまで、指導案の検討をすることになる。うちのグループだけかと思ったら、ほとんどのグループが同じくらい時間がかかり、「徹夜」に近いグループもあった。グループで授業をつくる。これが、うまくいかない理由を考えてみる。まず、2年目から5年目の先生方ということで、それぞれに授業に対する「思い」や「こだわり」をもっているということが考えられる。また、その「思い」や「こだわり」は強いものの、そのことを「分かりやすく伝える」ことができないことも理由として挙げられだろう。数名の先生方の「思い」を聞いてみると、やはり「普段、こうやっている」や「こういう授業を見たことがある」という「経験」を根拠にしたものが多い。もちろん、教師の授業力が「見識」に左右されると考えるならば経験は必要である。ただ、具体的な手だてや考察がないものに対しては、反論するにも、こちらの「経験」を訴えるしか方法がない。しかし、徹夜に近い状況になっても「うまくいかなかった」議論も、模擬授業直前に、実際に教材を使って発問や指示を考える段階になって「動き出す」。それぞれの「思い」が相互作用を起こしお互いが「納得」するまでにはいたらなかったが、「うまくいかなかった」経験も、今後活かされていくことを期待している。
2006.05.14
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今週の月曜日が締め切りだった原稿(もちろん、ギリギリで間に合った)を読み直す。タイトルは「協同的な学びをめざした授業デザイン」。昨年度の実践を振り返り、授業デザインについて明らかにするため、あえて「授業デザイン」ということばを使う。あわてて書いた原稿ながら、読み返してみると、結構「的をえた」ことを書いていたので紹介する。 *****「授業デザイン」について,藤岡完治氏は次のように述べている。 ・・・・・「授業設計」が,授業の「動的な生命性」をあいまいなもの複雑なものとみなし,計画的意図的にコントロールしようとするのに対し,授業デザインはむしろ複雑性,あいまい性を授業の本質と見なす。 ・・・・・そして,藤岡氏は「授業」について次のように続けて述べている。 ・・・・・ 授業は,人間的なものであり,多様な生活様式や経験を有する個人が共有する,力動的で変化に富んだ発展的な場なのである。 ・・・・・ 「複雑性」と「あいまい性」を授業の本質と見なすこと。これまでの授業研究とは異なる視点である。そこで,次のような発言やつぶやきを授業の中で大切にする。 ○ 思いがけない発言やつぶやき ○「分からない」という素朴な声 また,このような発言やつぶやきをすべての子どもたちに期待するためには,これまで以上に挑戦的でダイナミックな授業の展開が必要である。そこで,本研究では「発展的な教材」を単元の導入から取り入れ追究の対象とする ・・・ (中略) ・・・ 今回の授業実践を終え,次の3点が指摘できる。 ○ 追究の中で,友だちの考えや発見に対して素直な(驚き・疑問・問い直し・納得など)「声」が多く聞かれた。 ○ 難易度の高い「発展的な教材」を追究の対象として取り入れても,子どもたちの意欲の低下はみられなかった。 ○ それまでの取り組みや実験の結果を見直す姿が多く見られた。 このことからも,授業の中で子どもたちが何度も「分かり直し」をしたことが分かる。思いがけない発言やつぶやき,分からないという声を大切にしたことで,一人一人の子どもに「分かり直す」子とを促すことができたと考える。 ただし,これらの発言やつぶやきは予測ができないことであり,これまでのような「きちんとした」指導計画などは立てづらい。また,1時間の授業も教師の「思うようにいかない」場面も多く発生するであろう。しかしながら,この「思うようにいかない」ことこそが「授業デザイン」の醍醐味である。「協同的な学び」,「授業デザイン」ともに,その具体像を授業実践の中で明らかにしていく必要がある。 *****5月27日(土)、日本理科教育学会九州支部大会の発表原稿である・・・。
2006.05.13
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本年度の研究の方向性を探るため、4月から「授業記録」をあまりこのblogに書いていなかったのだが、私自身の授業研究を「反省的実践」にするためにも、しっかりと書いていかなければならない(さぼっていたわけではないのだが・・・)。6年生の理科では、「ものの燃え方と空気」について学習を進めているところである。子どもたちは、これまでの学習の中で、ものが燃えるためには「空気の流れ」が必要だということ、「酸素」にはものを燃やすはたらきがあることを「発見」している。(ただし、この2つのことは、まだ十分に関係づけられていない。)今回は、前回の酸素を発生させものを燃やす実験で使用した「うすい過酸化水素水」を、「オキシドール」に代えて実験する。前回、オキシドールでも酸素を発生させることができることを知らせている。ほとんどの子どもたちが、集気ビンの中でろうそくが激しく燃えることを期待していた。しかしながら、今回は、前回ほど激しく燃えない。多くの子どもたちが納得していない様子であった。何回か試してみるが、結果は同じである。子どもたちからは、「激しく燃えない」「長く燃えない」という声が次々とあがる。そこで、「酸素は発生していないのか」と問う。すると子どもたちは、以前実験したふたをした集気びんのなかでろうそくを燃やしたときと比べたり、オキシドールから「泡」が発生していることを理由に「酸素は発生してる」と答える。しばらくすると、オキシドール内の過酸化水素水の濃さに着目した考えが述べられるようになる。「酸素の発生量」と「ものの燃え方」を、より関係付けてとらえられるようになったということであろう。ただ子どもたちは、ろうそくがどんどん燃えることを期待していて、残念そうな表情であったのだが・・・、。
2006.05.12
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本校の研究会の中で「往還する(させる)」ことが話題になる。「行きつ戻りつ」するなかの「もどる(もどす)」ことについて、それぞれの先生方の「とらえ方」に差があることに気づく。それらを整理すると、「もどる(もどす)」ことに次の3つのレベルがあることが明らかになった(もちろん、私自身がということだが・・・)。(1)「分かること」と「分からないこと」が明らかになり、新しい疑問(問い)が生まれ対象に「もどる」。(2)「分かっている」が、うまく説明(表現できない)ので「もどる」。(3)「分かっている」が、友だちのつまずきに「もどる」。多くの先生方が、(1)、または、(2)のレベルで「もどる」をとらえており、多くの先生が、これまでも「もどす」ことをしてきたと主張された。もちろん、これらのレベルも「もどる(もどす)」ことであり、私もこれまでこのレベルでもどしていたのである。しかしながら、この「もどる」ことは、スパイラル型であり、あくまでも「前へ(もしくは、上へ)」を目指した行為である。(私が昨年取り組んだ「説明活動」も(1)と(2)をねらったものである。)それに対し、(3)の「もどる」は、自分の中に他者の視点を取り込むことであり、これこそが「分かり直し」である。本年度の研究で目指す「もどる」という行為は、(3)のレベルを求めるべきであろう。(ただし、授業のおおまかな流れは、(2)のレベルであると考える。)「一人の「分かり直し」に全員が参加していく。」秋田喜代美氏の「ことば」であるが、少しずつ咀嚼できているような気がする・・・。
2006.05.11
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秋田喜代美氏の「子どもをはぐくむ授業づくり」を読んでいると、「デザインする」する主体が、「教師」と「子ども」の両方で述べられていることに気づく。「子どもが授業や学びをデザインするなんて」と違和感を持たれる先生も多いであろう。もちろん、私もその一人である。しかし、ここで考えなければならないのは、「デザインする」ということの「意味」である。私が昨年取り組んだ「作品化」も子どもたちの「ものづくり」を中心にした授業であり、一人一人の子どもたちが「自分の作品をつくりあげた」という点から見ると、子どもたちも「デザインした」といえるであろう。「教師が行うデザイン」と「子どもが行うデザイン」を整理して考えるとともに、「デザイン」についての咀嚼が必要である。秋田氏は、「子どもをはぐくむ授業づくり」のなかで、「専門家の教師」について次のように述べている。 ・・・・・ 実践家の専門性とはなにか。実践の知のありかたを生涯模索しつづけたドナルド・ショーンは、実践家の専門性は、学問の理論を現場にいかにうまく適用できるかという「技術的合理性」にあるのではなく、「反省的実践」と「デザイン合理性」にあるとする(ショーン、1994年)。不確実な状況の中で行為しながら省察する対象との対話過程、その対話からデザインへの意図が生まれる過程、協働でデザインを検討する過程、そしてデザインの実現化、実践していく過程でうまれる問題とそこへの対処過程をいきつもどりつする中に専門性を考えている。 ・・・・・デザインすることのキーワードは、「反省的実践」と「デザイン合理性」であるということである。これは、「教師」「子ども」の両方に求められることであろう。また、このことは私たち教師(実践家)が、これからの授業研究において、単に「大学の先生の理論」を具現化するのではないということも示している。
2006.05.09
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「授業デザイン」について考えるとき、「人工物科学」という「ことば」にぶつかる。この「人工物科学」という考え方(?)は、私たちが4月から求めている「授業デザイン」とは異なるものなのだろうか。サイモン氏の「システムの科学」を読む限りでは、まったく異なるものではない。向後千春氏(早稲田大学)は、「人工物としての教育デザイン」について、「認知心理学者 新しい学びを語る」の中で次のように述べている。 ・・・・・ サイモン(Simon,H.A.)は、「システムの科学」で、自然科学と人工物科学という分類をしました。ここでいう人工物とは、自然につくられた以外のものすべてをいいます。たとえば、都市のデザイン、経済現象、教育システム、輸送システム、政治制度など人間がかかわっているものすべてのものです。研究対象として、自然物を取り上げるか、あるいは人工物を取り上げるかということによって、その方法論は大きく変わってきます。 自然科学は、人の手に入らないものを対象とするため、それを徹底的に記述しようとします。記述すること自体に意味があります。そこから隠されたしくみや構造を明らかにしようとするのです。それに対して、人工物科学では、もともと人間がつくり出したものを対象としますから、それを記述する以上に、それをデザインしようとする力が働きます。人工物を記述しようとするのは、それをよりよくデザインし直そうという目的が意識されています。人工物は常に不完全であり(自然も完全ではないかもしれませんが、人工物はそれ以上に不完全です)、また、それ以外の人工物が変化することによって影響を受けますから、それを記述するのは、それを再設計し直すためなのです。 また、対象とする人工物を単体だけで記述することに、あまり意味はありません。たとえば、携帯電話はその使われ方が重要なのです。どう使われるかによって、次々とデザインし直されていきます。そのなかでは、はじめにデザイナーが意図していなかったような使われ方もあるだろうし、それが主流の使われ方になることもあり得ます。だから、こうデザインしたのだから、ユーザーはこう使うべきだという規範の話にはなりません。どう使われたのかだけがすべてなのです。これを設計・評価志向といいます。 ・・・・・「対象を記述すること。」このことが授業研究の中で何を指すのかについては咀嚼が必要だが、授業設計(指導計画や指導案も含む)や授業記録、指導技術などにあたるのだろう。携帯電話の例が分かりやすい。これまでの授業研究では、教師が意図する「使われ方」をしたのか、または、効果的だったのかを分析するのに対して、デザインというとらえによる授業研究では、どう使われるのかを観察し、デザインし直すこと大切にしていくということである。
2006.05.08
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「目標・達成・評価」の単元を「主題・探究・表現」の単元へ。「授業デザインとは何か」と考え、「表現」を中心にした授業を構想するとき、「『主題・探究・表現』の単元」について、理解を深めておかなければならないだろう。佐藤学氏は、この「『主題・探究・表現』の単元」について、「新しい時代の教職入門」のなかで次のように述べている。 ・・・・・ カリキュラムのデザインは、単元(unit)を単位として行われます。単元とは教材と学びの経験のひとまとまりの組織であり、教科(領域)のカリキュラムはいくつかの大単元によって組織されています。単元の組織には大別して2つの様式があります。1つは「目標ー達成ー評価」を単位とする様式であり、最初に到達目標を具体的に示し、次にその目標を達成するように教材と学習活動を組織し、最後に目標を達成できたかどうかをテストで測定する様式です。もう1つは「主題ー探究ー表現」を単位とする様式であり、単元の中心となる主題を定め、次に主題に接近する教材と学習活動を組織し、最後に学びの経験をリポートや発表で表現する様式です。私は前者を「階段型カリキュラムの単元」、後者を「登山型カリキュラムの単元」とよんでいます。この2つの様式のうち、前者は学びの「効率性」の追求に適した単元の様式であり、後者は学びの「発展性」の追求に適した単元の様式です。これからの時代の教育に求められるのは後者の単元の様式といえるでしょう。 ・・・・・「効率性」の追求から「発展性」の追求へ。この「発展性」こそ、これまで私が悩んできた「外へ向かう」ことを表す新しい「ことば」であろう。
2006.05.04
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連休のせいか、ふとコンビニで「アソシエ(5月2日号)」を購入し、なんとなく読む。ビジネス雑紙であるが、養老孟司氏の「森羅万虫」という連載を見つける。糸井重里氏との対談であったが、「詰め込み教育の誤算」について触れられている部分があった。 ・・・・・糸井 今朝、最高にいいアイディア思いついたんです。受験の団体戦(笑)。「おまえ、俺とチーム組まないか?」って誘い合って、5人くらいのチームを組んで申し込もうってね。例えば「東大は、養老・糸井とその仲間たち」とか(笑)。これで問題を解いていったら、チーム全員が受かる。全然できない子も含めて、呼ばれたっていうところに意味がある。個人では落ちたけれど、団体で受かった(笑)。全員が覚えていなくても誰かが覚えていればいい。そうすれば競争ではなくて、協力という関係が成り立ちます。養老 誘われないと参加できないっていうのがいいね。離れていく一方の人間関係も近くなる(笑)。糸井 コミュニケーション能力が問われます。人に聞けばいいんだから、聞く力のある人は、何でも知っているのと同じですね、団体戦だと。一般的に言われているバカでも「お前来いよ」って言われる子は優れていることになる。逆に、勉強が全然できない子が、俺がチームを作るって場合もありますよね(笑)。 ・・・・・「受験の団体戦」。もちろん、実現不可能だろうが「協同」という視点で考えが述べられている。(バカという表現も適当でないが・・・。)「全員が覚えていなくても誰かが覚えていればいい。そうすれば競争ではなくて、協力という関係が成り立つ。」「人に聞けばいいんだから、聞く力のある人は、何でも知っているのと同じ。」「聞く力」。私たち(教師)が共同研究を進めていく上で、一番必要な力である・・・。
2006.05.03
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美馬のゆり氏・山内祐平氏は、「『未来の学び』をデザインする」のなかで、「切り口」について次のように述べている。 ・・・・・ どのようにしたら、そのような環境をつくっていくことができるのでしょうか。モデルとなる例はあるのでしょうか。その足がかりとして、学びを構成する重要な要素と著者らが考える「空間」、「活動」、「共同体」という切り口で、話を展開していくことにします。そこから、「未来の学び」をデザインすることを考えていきましょう。 ・・・・・同じように、いくつかの本からこの授業デザインの「切り口」に関する記述を探してみた。 ・・・・・ 学校が公教育としての責任を担う学校ならではの学びを創出するためには、授業での活動のあり方や学び合う関係、そこで使われている道具を見つめてみることが必要であろう。 ・・・・・秋田喜代美「子どもをはぐくむ授業づくり」 ・・・・・ このように考えると授業をデザインすることをめぐる教師の仕事は数多く考えられますが、以下では、とりわけ重要であると考えられる、「テーマを設定する」「コミュニケーションを組織する」「認識を共有する」という3つの点について考えてみたいと思います。 ・・・・・藤江康彦「新しい時代の教職入門」 ・・・・・ 厳密な計画を立てたり膨大な知識に依拠したりする必要を縮減し、複雑であいまいな状況において自己を組織しつづけることを本質とする動的な授業のデザインを可能にするものは何か。それを授業デザインの「フェーズ」を手がかりに考えてみる。「フェーズ」とはある授業の場をその場たらしめている「側面」で、それには言語フェーズ、状況フェーズ、身体フェーズの三つがある。 ・・・・・藤岡完治「成長する教師」 ・・・・・これらの「切り口」について考察していくことが「授業デザイン」について理解を深め、研究の柱(視点)につながっていくであろう。
2006.05.02
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「勉強」から「学び」へ。このことを主張するとき、一人でコツコツとくり返し練習したり、テキストや教師の説明から知識を得る「勉強」は必要ないのか、また、この「勉強」こそ必要なのではないのかという「疑問」や「批判」があるであろう。市川伸一氏は「学ぶ意欲とスキルを育てる」のなかで「基礎に降りてくる学び」について、次のように述べている。 ・・・・・ ところが、「いずれ役に立つから」という理由で「基礎から積みあげる学び」を押し付けるだけでは、なかなか今の子どもはついてきません。学ぶということの実質的な意味づけや意義がわかるような、そういう学習も取り入れていく必要があるだろうということです。目的的な行動、「こういうことがやりたい」ということがあって、その課程で必要感を持って基礎を学ぶ。日常的には私たちは、そういう学習をたくさんやっているわけです。そこでは、実践性とか、実用性ということが重視されます。何のために学んでいるのか、ということが非常にはっきりしている。それをここでは、基礎に降りていく学びと呼びたいと思います。 ・・・ (中略) ・・・「基礎から積み上げていく学び」というのは、学習の2サイクルのモデルで言えば、習得のサイクルから入って、探究のサイクルへと入っていく学習にほかなりません。逆に「基礎に降りていく学び」というのは、探究の学習をしていると基礎基本の大切さ、必要性というものがわかってきて習得の学習に入っていく学習にあたります。どちらにしても、重要なのは、それぞれのサイクルで閉じてしまわないことです。学びの文脈が形成され、意義がわかり、意欲の出る学習となって、深まっていくわけです。 ・・・・・「勉強」と「学び」。バランスというよりも、その「リンク」を重要視するべきであろう。また、「基礎から積み上げていく学び」と「基礎に降りていく学び」のバランスが大切であり、このことこそ、学年の発達段階に応じた系統が必要である。
2006.05.02
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一つひとつの単元を「主題・探究・表現」の様式へ。私は、この佐藤学氏の主張に賛同する。しかしながら、多くの先生方から次のような「疑問」や「批判」の声が聞かれることが予想される。(1)佐藤学氏は、「勉強」から「学び」への「授業観の転換」を主張しているが、子どもたちにとって、「勉強」は必要ないのか。(2)すべての学年、教科、単元において、「主題・探究・表現」の単元に再構成することは可能なのか。また、そうすることが有効なのか。(3)これまでの授業は、本当にいけないのか。これらの疑問や批判に対する私たちの考えを明らかにしていくことも、研究の近道であろう。まず、今回は(1)について考えるが、佐伯胖氏や秋田喜代美氏から話を聞く中で、いわゆる「勉強」が不必要というわけではない。佐伯氏の「フルート」の話を聞くかぎり、コツコツと繰り返し練習することも「学び」の重要な部分である。2月の研究発表会の中でも、「孤独の学び」の大切さについて話された。「勉強」から「学び」へという主張(文化的実践への参加も含めて)は、「勉強」のための「勉強」になっていないかということであろう。つまり、問題なのは「勉強」と「学び」のバランスというよりも、「勉強」が自分の「学び」にどう生かされていくかという「文脈」の存在である。
2006.05.01
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