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天皇家の、お祭りは 冬至祭りの要素が多い、聖徳太子は冬至祭りの物語仏信仰以外の 土俗信仰を取り組む要素をその中にすでに持っていた?
2004年11月30日
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http://www.tees.ne.jp/~foundry/Main/M-11-2.html聖徳太子信仰の裏側にあるもの、すべては仏の道だけで考えてはいけないということ。
2004年11月27日
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http://www.ea.ejnet.ne.jp/~sakaki/1buzoku/sougenn.htmいまでこそ、寺社は、煤けた色に見えるが当時は、赤い色だったり、黄金色に輝いていたと思う。一面の白の雪の中に輝く色 それが 赤なのかもしれない。http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=9ha1a1a43a4nitbbw5da4ja4ba4n&sid=1835208&mid=1&type=date&first=1昔から 日本人は紅をどう感じてきたのか?
2004年11月26日
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http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/ASUKAISI/saruisi.htmlネットからの画像で これは、たぶんレプリカのほうの撮影だが、なかなかよくできたものではないかと思います。もともと、今の場所にあったわけではなく、天皇稜近くの水田から発掘されたとのこと、猿石という名前も後からつけられたものか?作られた目的としては、いわゆるマニ教とか、ゾロアスター教関係とか 奴隷収容所の標識とか?または 生贄の身代わりで作られた埴輪のプロトタイプとか さまざまな説があるようですが明確なところは判明せず。像には装飾もされていた模様。ペニスが見えていたりとか、見方によれば子供に見えなくもない、猿というのは、昔はうまやがみでもあるので、そこからの解釈もできないか?また石神さまという見方で考えると 道祖神や おしらさま 地蔵などのご先祖さまのように、これは見えなくもない。朝鮮半島からの伝来とみるも可だろうし、南洋からの伝来とみるも可だろうかとするもよし。遠く 中近東に思いを馳せるのも可だろうが、われわれのご先祖さまの作りたもうたもであるとみるべきだろう。問題はそれからだ。
2004年11月25日
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歴史を連続的に考えることができる本はいい。在る意味 毛嫌いしていた人でもあるし、この本については宣伝しすぎという気がしなくもないが、古代を歴史的に考える人は みな 日本書紀や 古事記 あとわけわからん 歴史書にひっぱられるだけで 今 残っているものからの 連続性を見ようとはしないから連続性を感じなければ 歴史とはいえない。、この本は 比較的 一般向けにかかれている点からみても とても貴重である。
2004年11月24日
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歴史家の評伝(これが評伝になるかは別にして)は あまり出ないし、もっとも語られるべき歴史家がそう多いわけではないですが、これは まさにかたられるべくして 書かれた本のひとつ著者の網野善彦は すでに故人とはいえ、一般的にも、またそうでない形でも 語れるべき歴史家でもあるし、そのポイントを 人間的な魅力の部分を含めて 中沢新一が、歴史学の面だけでなく、宗教、思想、哲学、人類学の面からも 語っているというのが 興味深い。欲をいわば、もう少し、幅広く、かたって欲しいが、それはまた今度ということで 遠くない日に期待を込めて本願寺教団の誕生以前 奈良で行われたシルクロード博というイベントがあり、一面に、飛天というテーマでの展示をみた際に、天使という概念は比較的 普遍な概念だったのだろうなという印象を得たことがあります。マニ教、ゾロアスター教 ネストリウス教と それぞれの文化の日本への渡来、また教徒たちの日本への渡来という概念を取り上げる人もいますがさて どうなんでしょうか?よく 秦人、ユダヤ人の渡来という人もいます、王朝という言葉を持ち出す方もいます、天皇という言葉も持ち出す方もいます。記紀によればという人もいます、人それぞれで解釈がちがいます。これは粉飾だ 歪曲だ 焼かれた 創作だという方もいます。果たして 本当でしょうか?何人というなかれ われわれのご先祖さまです。隠れている?だれでもわかるように指摘してください。王朝?ただの集団 組織です。天皇?偉いさまです、われわれの身近な意識から説明できないのなら そんなものは歴史ではありません。スターリン、レーニン、そしてロシア共産党、金日成 中国共産党 毛沢東 彼らが ほとんど マルクス主義の理論とは 無縁のところにいながら 革命の神になれたのも、ロジアにおいては もともと ロシア帝国の中にある 植民地の独立運動を利用し、第一次世界大戦に乗じて、ロシア帝国の崩壊により たまたま 生き残った ポリシャビキの統領がレーニン そして 先輩たちを蹴落として、その後を取るのが、スターリン そして歴史がそれを正当化し、いつまにか それがロシア革命という神話になっていった。毛沢東は?馬賊や山賊の親方に 加わった 地方インテリが 徐々に、先輩たちを蹴落として、皇帝気分で作ったのが 今の中華人民共和国、金日成も バルチザンのトップにうまく成りすまし、ソ連、中国、国内派、南派を粛清して 自分達が 日本を追い出したと 神話を作る。キリスト教はどうだろうか?ローマ帝国の奴隷対象の宗教で 何らかの理由で 処刑された前歴の良くわからない男に、ギリシャ神話に代表される たとえば バッカスの肖像がかぶさり、またヨーロッパでの布教に、異教を取り込む目的での、聖母マリア サンタクロースという概念が利用されたというのは どうだろうか?親鸞は いなかったとは 系図の上での可笑しさや、怪しさ、また史料的に実在が確認できないということで 大正時代までささやかれたものですが、毛坊主考を読むと、親鸞の末裔たちで 念仏の系譜が すべてになるのではないかという疑問を持ちます。さて猿石ですが マニ教だ ゾロアスター教の関連だという見方もあるが、特に異教的な面をみるのではなく、われわれとの連続性からこれについて考えてみるのはいかがだろうか?あれはもともと天皇稜近くの水田から出てきたものが 現在地に置かれたもので、奴隷の収容所の目印という見方もあるが、生贄の埴輪のプロトタイプというのはいかがだろうか?猿は河童であり 馬とも共通性があるというのが 民俗学でいわれるテーマであるが、たとえば、それが桃太郎に隠れている アミニズム(精霊信仰)であったり、母子信仰、また異形なるものへのあこがれ、おおいこ、若宮、八幡、王子信仰、お雛様、おしらさま そして まれびと(たとえば、サンタクロースにも取り込まれたような ナマハゲのような精霊)との関連をみるのは どうだろうか?そしてそれが 石神から 仏像につながるというのはいかがだろうか?たとえば 岡田英弘氏は 日本の文化文明というのは 華僑が作り上げてきたものではないかという指摘を、日本史の誕生という本で 繰り広げているが、坂上田村麻呂が 蝦夷を退治し、そのあとに、寺が創建されたという伝承は さほど珍しいものではなく、寺に寄進された 奴隷の源は、蝦夷や 土蜘蛛という王朝から敵視されたものたちだったとおもわれる。神が追われたのも、人が負われたからであり、仏さまの下に、神様(いろんな神様)が隠れているというのが 記紀により隠されたというのが この書物の本質だろう 思うがいかがなものであろうか?聖徳太子の 別名のうまやどのみこという言葉も、うまやのかみの奴隷のみこというニュアンスに聞こえなかったか?また病人や 生まれの環境から考えて、そういうニュンスがなかったのか?私はそれをおもうのであります。本願寺が 被差別者を かなりとりこんでいったさいに、聖徳太子を持ち込んでいったのも そういう理由があったのではないかと私はおもいますが?さて 仏さまたちは 古代信仰とまざり それを支配しようとして、古代信仰の担い手(毛坊主、山法師)たちは、のしあがろうとして つながりはじめる。人を葬るという概念と 経済的余裕ができ始め、寺というものができ始める。貨幣概念というのができはじめる、職人の集団ができはじめて、その集団を保証する 生き神さま または職能神が求められる、偽史が想像される、川の境目や 外れで 市ができはじめる、アジールが生まれはじめる。中沢新一の本にいわく仮面儀礼を生み出してきた本と野生の思考と貨幣経済の土台を作り出している思考とは、心のまったく同じ構造から生み出されている。民俗学と経済学とを結び付けている真実の環が、まさにここにあるといっていい、神話論理と資本論が同じ場所で語りだされ、お互いの理解が響き渡るような空間を作り出すことが不可能ではないことを、無縁 公界、楽は証明しようとしたんのである。 僕の叔父さん 網野善彦 中沢新一著より太子講という集団があります。これも聖徳太子との関連がないとはいえませんが、クリスマスの時期にも近く(これはキリスト教が取り込んだ異教との関連もあるようですが)、太陽が死にそうな時期にやってくる 神様の信仰ということではないか?もとはおおなごということばが 大子となり それが聖徳太子になったと指摘する向きもあります。だいしはもし 漢字を宛てるならば、大子と書くのが 正しいのであろうと思ひます。もとはおほごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんに神と尊い方のお子様の他には使わぬことになり、それも後にはたいしといって ほとんど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。柳田國男 日本児童文学8 日本神話伝承集 昭和4年仏教との関連 まれびとということ 貴人 賤しき人ということから太子はあがめられ たとえば 最後は いつのまにか 末裔たちが 皇室の縁にもつながることになった親鸞たちに 担ぎ出され、聖人ということで、世の中で 崇拝され、敬愛されるようになったのが 聖徳太子の全容ではないかと思います。
2004年11月23日
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http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%a5%b5%a5%f3%a5%bf%a5%af%a5%ed%a1%bc%a5%b9+%b0%db%b6%b5&hc=0&hs=0サンタクロースというと キリスト教の香りしかしないようですが、こうみると けっこう異教的な 香りがしますね、折口信夫のまれびとに代表されるような まれびとの概念、またなまはげのようなものは 在る意味 普遍的に存在していたという傍証のひとつにもなります。別にユダヤとか ゾロアスター教に求めなくてもということです。感覚的なものにすぎませんが、以前 シルクロード博で 飛天という展示をみて こういう概念も意外に 普遍的な概念で解釈できるという気がします。サンタクロースも、聖人の話が間に入り、キリスト教に取り込まれたようですが、これを参考にしてか まれびと おおいこの概念も、聖徳太子が間に入り、仏教に取り込まれたとしています。 「サンタ・クロース非聖人説」をとるにあたっても、聖ニコラウスとサンタ・クロースの関係を全面否定するわけではない。このことだけは、たびたび繰り返すだろうが、誤解のないようにしていただきたい。いまのサンタ・クロースは、ある存在が聖ニコラウスにすりかわって誕生した。だが、人々の記憶では、サンタ・クロースと聖ニコラウスはやはり同一人物なのである。こうした存在を、「影武者」といわなかったか。上洛の途上で武田信玄が死亡したとき、甲斐へかえるとき、信玄の死を秘密にするために、影武者がたてられた。聖ニコラウスが象徴するカトリック教的キリスト教信仰が死んだとき、聖者の蔭にかくれていた影武者が聖者とすりかわった。これが、「サンタ・クロース影武者説」である。 http://www32.ocn.ne.jp/~thkudo/bun/s1.htmさて
2004年11月21日
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もともと、今の場所にあったわけではなく、天皇稜近くの水田から発掘された模様とか作られた目的としては、いわゆるマニ教とか、ゾロアスター教関係とか 奴隷収容所の標識とか?または 生贄の身代わりで作られた埴輪のプロトタイプとか さまざまな説があるようですが明確なところは 不明とか装飾がされたようで、そのへんも気になりますが、異教的な面だけでなく、これが道祖神や、仏像に どう変形してくるかの連続性も興味深いが そのへんはどうなんだろうか?
2004年11月20日
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http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=bdyja1a4n8a65fa1a6c0kea3hf0a1a1baga0c0fe&sid=1835208&mid=1&type=date&first=1トピ主さまは、徐福は史実だと思う人、私は、いたかもしれないけど まだ確認できないし、伝説の周辺で遊びたいくち
2004年11月18日
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読ませていただきましたが、記紀や考古学上の成果の解釈というのはある意味 文学的になり 私には よくわかりません。ただ この伝説や伝承の核に華僑(あえて中国人とはいいませんが)の渡来があるのはたぶん そうだろうとは思います。ただ トピ主さまの発言の限りでは、とても徐福という人物がいたかもしれませんが その人物が日本にきた 証拠があり、それなりの人物として 日本史の中に溶け込んだ、だから教科書にいれろという意見には承服しかねます。なるほど 伝承や言い伝えがあるということですが。伝承や言い伝えは 歴史上の個人名が出た場合には そのまま受け入れがたいのは、聖徳太子の例なども含めて 民俗学や歴史学の鉄則みたいなものではないかと思います。個人的な感想にすぎませんが、徐福や、また古代から 近世まで継続される華僑の渡来(倭寇も含みます)は 一種のまれびとだったのかなと思います。史記が 普及し、ある程度 読まれるようになってきますと、徐福の存在が注目されるようになり。医師や薬師の、一種の職能神のような存在になり、それとともに熊野信仰の影響で その伝承が あちらこちらで創作されます。宮下文書も、それを取り入れたものでしょうし、紀伊の国に点在する伝承も、それが背景にあるのだろうと思います。徳川幕府の時代においては、朝廷の権威など 考えることなどありませんから、徐福の存在を どんどん持ち上げ、それに呉大伯を引っ張りだされます。それが 明治期にがらっと変わりますが、もともと船来信仰の送り柄ですから、徐福?観光目的にいいじゃないかとなるわけです。中国や韓国のお国の事情はしりませんが、いままでこのトピでは、古代だけに絞り、かたられてきましたが、中世、近世とみると こういう結論がでます。
2004年11月14日
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意外に伝説の形成は新しく 職能神として徐福が崇拝対象とされ、それが現実の歴史上に投影され、期せずして、神武天皇=徐福 の虚像を生み出す効果が出たものを、編集側がそれとは知らずに現実視して編集した。この集団は現在の風水のように方角にうるさく地名にこだわり、夕月が嶽だとか、その他多くの地名を出発地と思われる筑後の地名に変えたり、命名したりしたのだろう。徐福は日本列島のどこにも来てません。後世「史記」の記述に注目してあちこちに 上陸伝説が出来ますた。「楊貴妃渡来伝説」「義経蝦夷上陸伝説」。皆、誰も顔を 知らねえ。身元の知れない美人漂着、曰くありそうな気品のある若武者を泊めたり してこう言う伝説が生まれたのです。http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1059892097より
2004年11月13日
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民衆史観の方法論を使い、戦国大名を見直してみることはできないか?戦国大名といっても、人間の集団にすぎません、また戦国史をみる場合にも、英雄史観にしばらることなく、人間の集団としてみることはできないかと考えていました。たとえば お坊さん大名と見られがちな筒井家について調べてみました。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tutui_k.html以下は上記のHPよりの引用です。筒井氏は、大和国添下郡筒井を本拠とし、興福寺に属する僧兵から身を興した武士である。興福寺衆徒の棟梁的地位を常に保ちつづけた、大和における最強の武士であった。筒井氏の出自については諸説あり、一つは藤原姓とする。河内国枚岡から春日に遷宮の時、春日社の神奴として供奉した藤原四家の一つとするもの。これに対し、大神姓とするものがある。はじめ大神姓で、のちに興福寺衆徒となる時、藤原姓になったとするものだ。その他に筒井氏の家紋が梅鉢であるところから、菅原姓とするものもあるが、これは明かに付会の説だろう。 筒井氏の名は室町初期に至るまで表れない。それは、興福寺の勢力が強く表に出れなかったためと思われる。そして、室町初期にいたって、筒井順覚の名がようやく確認できるのである。筒井氏が衆徒となった時期など詳しい事はわからないが、寺中衆徒として今の筒井の地に根拠をおいて周辺の小武士団を併呑して力をつけていったものであろう。しかし、興福寺の成立からかんがえてみると これでは若干 問題があります。まず 大和の国は、古より人が多く住む国でありましたが、日本書紀やその他の歴史書には 土蜘蛛という種族がいたということが記載されています。ただし 古といいましても、岡田英弘先生いわく、神武天皇以下の欠史8代の記録は、日本書紀成立近くの出来事である。そして倭人伝にあるごとく 日本は華僑(渡来人)が作ったとしています。蝦夷や 物部氏、または土蜘蛛たちが 奴隷として寺院に寄進されていきます。なかには女奴隷も寄進され、日本で比較的 はやく遊郭ができたのも、興福寺の近辺ではないかという説もあります。ここから先は 簡単な形では 本来はいうべきではありませんが、その奴隷たちを 閉じ込めて、種モミを与えて 耕作を始めさせます。また 寺院というものはテクノクラートが集まるところでもありますので、彼らにいろんな技術を教え、そして 商売をさせ、寺の支配下で動かせます。その中で棟梁的な 立場の人間が自然にできてきます。いろんな呼び方がありますが、彼らが 興福寺では 衆徒などと 呼ばれたりします。最初は保元の乱に、院方が頼りにしたように、摂関家の暴力装置にすぎませんでした、平家への反乱も、あくまでも傭兵の立場というものでしかなかったと思われます。これが、鎌倉末から南北朝期を中心に、行人(ほとんど俗人)たちが経済力を中心に、寺院の実質的な支配権を握ります。ですから 筒井家の出自もこのような流れから考えるべきで 僧兵とっても、興福寺支配の商工業者、農民が組織されるわけですから 単純にお坊さん大名と認識するのは大間違いになります。ただ 筒井家が、単純に農民と思えないのは、家紋が梅鉢で 菅原家の出という説があり、これは一般的には ?とされているようですが、もともと菅原氏というのは 菅原氏の ご先祖が 生贄にされるのは嫌ですから、土器という埴輪をつくりますということで 菅原氏に改名したという因縁があります。大和で土器をつくる一族で この由緒をもつ 一族も多いようで、、筒井氏も もともと そういう一族から 興福寺の親分の藤原氏に取り立てられて、やがて 興福寺から自立して 戦国大名になっていったのではないかと思います。以上
2004年11月11日
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問題はありますよ。なんで サンカといわれたのか これではわからない。近世期の流民なら どうして箕作りがサンカになるかという点がわからない。ただし、近世期の飢饉で 流民が大量に発生しそれが 高度経済成長期に うまく社会に吸収したという説自体は十分 検証に値すると思われる。
2004年11月10日
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再編集本ですが、タイトルの割には まともな本です。聖徳太子について 古代から 現代までの とらえかたの歴史を描いており。聖徳太子が 変革運動の中で登場し、それにブレーキをかけてまわるという見方をしていますが、ひとつひとつがこまぎれて、もっと説明してほしかったこともあります。また参考文献ももっといれてほしかった。
2004年11月09日
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猿石について飛鳥にある 猿石あれは なんだろうか?ゾロアスター教まで持ち出すかも可であるが、若宮信仰というものまでにつながるちいさきこへの思いをあらわにしたシンボルではないかと思うが いかがか?柳田國男は 桃太郎の誕生という書を著し、またその弟子は 桃太郎の母という書で古代の信仰について 語っている。今に伝わる聖徳太子の像も、その表れか、童子の姿が多い。童子は 河童であり、猿であり、また馬であり、そして酒呑童子にもつながる。マレビトについて古代は騒乱の時代であった、騒乱の時代であるなら、それをまとめないといけないまとめるのは 人々が従うべき 素養と出自の方がよい、それなら天皇家の出に限ることになります。怨霊について聖徳太子の怨霊という方がいますが、善徳という蘇我氏の出の方がいてそれが 大化の改心で 殺されて、聖徳太子という人物が造詣されたとみるべきではないかと思います。うまやどという名前についてある意味 すごい名前です。厩戸皇子というのは、漢字で書くからわからないのでして、馬屋のいやしきミコある意味 猿神というものを、隠しているような気がします。また 聖徳太子が馬やで生まれたということももとを 正せば 牛馬を扱う人たちから 共感を呼びやすいということになります。日本書紀ということについて古代から今まで そのままの形で残っているほうが どうかしています。比較的 完全な形で残っているのが 鎌倉時代以降です。仮託するということについて柳田國男含めて、皇子は巫女や神子ではないか?と あちらこちらでの天皇家の皇子の伝承を掘り下げていますが天皇家というよりも、やはり仮託されたものが多いようです。系図や 伝承など 全般的に えらいさんに 自分の先祖を見出したいという面が みられるようです。アジールについて17条の憲法を改めて、読んでみると、網野先生いうところの無縁 公会 楽ということを思います。浄土真宗の成功の理由明治時代に、親鸞がいなかったという説が展開されたことがあります。理由としては 系図が不明瞭であること、他の資料で親鸞の実在が確かめられないなどですがただ 親鸞の奥さんの手紙がでてきたことや、大谷家が皇室と縁つながりになったというおとでいまでは いう人もいなくなりました。親鸞もえらかったのですが、蓮如の時代に、親鸞を通じて、聖徳太子を持ち出して、身分の低い者 卑しい者でも、信心さえすれば 極楽往生できる、妻を持っても、肉食しても大丈夫ということで 豪い儲かる宗教を思いつき ただの墓守からの成功のルートに乗ることになりまうs。大阪に城を作ったということについて特に 伊勢長島などが顕著なのですが、戦国大名と政治的に渡り合い、あちらこちらに解放区をつくり、勢力を伸ばしました。その栄光が当時の石山御坊になります。大阪は 当時は大坂と書きますが、坂の者とは、当時は卑賤の者ということになり本願寺がどういうところに 食い込んでいったのかが よくしのばれるように思います。
2004年11月07日
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里の浅井家というのが、さる関白家のご落胤をご先祖さまにするというのが 公称ではいわれています。浅井姉妹も そう認識していたようで、藤原の性を使用していたこともあったようですが、このご落胤さまが生まれる前から浅井家はあったようですから、系図の法則として、まず源氏それでも無理なら 平家 だめなら 藤原 それでもって古代の部族という原則からすると、無名の氏だったと考えるべきでしょうか?東浅井郡の近くに、愛知郡というのが あり、ここでは清和天皇の兄が隠れて、木地師の親分になったという伝説を 昔から伝えておりそれを真似したというのが 本当のところではないかと思います。浅井のご先祖さまの異伝としては 物部氏の子孫という説もあり、また東浅井郡は 塩尻という 江戸時代の随筆に、毛坊主で 尾張に流れていったらしい、秀吉のご先祖さまの生まれの地という伝承を伝えており秀吉と浅井氏は遠い親戚という系図を伝えております。あくまでも仮説にすぎませんが、古代からの部族が、浅井郡に閉じ込められていたが、南北朝の騒乱の際に、六角の一族に、使われ、諜報に使用さえていたが、戦国時代に そこから抜け出して、浅井郡中心に勢力を築いたというのは いかがでしょうか?そんな一族の末裔に生まれたのが、淀君であります。君とつけると遊女ということになり ほんとうは 淀の方になるそうですがそのへんはいかがなものでしょうか?秀頼は、状況証拠から考えて 太閤殿下の子ではないということで浮気でつくった子らしいといわれます。大柄であった 浅井長政の血を受け継ぎ、大坂の陣では 鎧を着て 陣中を回った 淀の方の子であり、当時の細川家の家老が 秀頼の服をきたところ、大きいので びっくりしたという話が今に残っています。どうも 太閤殿下は浮気を把握していたらしいというのは故田村栄太郎の説ですが、露と落ちではじまる 秀吉の辞世の歌も意味深く思えます。の生まれの地という 伝承もあります。
2004年11月06日
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本当だったという見方もあるし、疑わしいという見方もあるけど天皇の民俗学という見方から どうして そんな噺がでてきたか探していくべきうだろう。
2004年11月04日
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こちらは完全版のほうですが、前版のはしょったところが、多少あったのを さらに補足されたので とてもわかりやすいのはいい。当時 とても新鮮に感じた部分がいまではあたりまえですから、ひとつ不満なのが、劉備をいれるべきだったと思うが、高嶋先生いかがでしょうか?また 在る意味 特殊な中国という意識で書いているようですがこれって 日本の流民たちにも あてはまる部分があると思うですが これはいかがでしょうか
2004年11月03日
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ある意味 八切止夫が再発掘したに等しい人ですが。弟子筋の人には いっしょにされていい迷惑という見方もあるようです。著作を読んでみれば わかりますが、アングラというより 手堅い郷土史研究家という印象です。被差別部落の研究から入り、貝塚、登呂遺跡、白山信仰、邪馬台国、蝦夷とアイヌについての問題で 当時としては革新的な 説を提示しています。八切本人は否定しますが、引用からパクリまで 菊地からしていて八切の著作と 菊地の著作を読むと そのへんは興味深いものがあります。
2004年11月01日
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