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http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=bdyja1a4n8a65fa1a6c0kea3hf0a1a1baga0c0fe&sid=1835208&mid=1&type=date&first=1http://www.geocities.jp/horuhorushiho/johukuron.htm日本の方々には、こういう立場の方もおられるようですが、韓国は、韓国の立場から 香港、台湾の場合では 華僑という立場からでの 日本についての歴史的優位性を主張したい方がいるのでので やはり政治性は否定できないでしょう。(またこういう方々は、かならず日本は 中国がつくった 朝鮮半島の人間がつくった として 日本の多民族性を否定しますし、また それは平和的なものだったとして 弥生期の騒乱に触れようとしません)また 徐福研究もいろんな立場の方がおられるようですが?徐福の日本渡来だけが徐福研究ではないはずですが?それを紹介するのも、このトピの目的のはずではなかったかと思いますが、トピ主さまの主張をきかされるだけになったのは残念のような気がしますが。トピ主さまの経歴はわかりませんが、こういうところからもひもつきと判断されてしかるべきと思われます。また確かに神話の人物を歴史的人物ということで、解釈されるむきもありますが、神概念の具現化という見方もあります。歴史についての捉え方も、皇国史観の裏返しというだけのような気がしますが?失礼ないいかたですが、歴史学だけでなく、民俗学や、民族学 人類学、宗教学まで幅広く 勉強させることをお勧めします。共同研究は確かにすすむかもしれませんが、観光パンフレットや地域振興のためでしたら、弥生期の騒乱の扱いはどうするのでしょうか?ためにする研究でしたら、もともとの結論はゆがんだものになりますが?いまだに 東京大学がとか 時代遅れにとなりますが、研究というものは そんなものでしょうか?あえてのらないという見方もあるかと思います。倭寇についても、構成員のほとんどが 中国や朝鮮半島の人間であるのに、それを否定することは 歴史の歪曲であるという見方が一部にあります、徐福研究についての批判を 政治的な見方からとらえようとされているようですが、徐福の渡来論についての展開について 政治的色彩がどうしてもぬぐえないという点トピ主さまの主張に どうしても無理があると思う点から あえていいます。政治的といわれようがかまいませんね。論争というものは そういうものでしょう?
2004年12月30日
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1 憲法十七条 和をもってというのは、陰と陽の極の和である十七とは、太 子の不退転の決意を示すものを指し、たとえなんびとであろ うとも負けぬということで これで易姓革命を封じ、スメラ ミコトの血筋がヒノモトを統治するという意味をもつ。2 生誕 生誕伝承は 神秘的なものにみちあふれており、伝暦では、太子は正月一日に生まれたとあるが、それは ローマの穀霊アッテイスの死と再生に源流があるとされる見方もあるが、これも事実としてでなく、なんらかの信仰を踏まえたものとするべきだろうか?3 命日 2月22日になっているが、これは太陽暦では、4月11日で、キリスト復活蔡にあたり、これもユーラシア全体の死と復活の冬の祭りに由来すると みるべきである。この本自体は結論が?だし、問題もあるが、この点を踏まえただけで 太子の実像が 創作か 否かはともかく、記紀の枠組みと その伝える内容とは 違う面がでてくるように思えます。
2004年12月29日
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この本についての批判もうる覚えだけどきいていたし 著者の姿勢についても批判があるのをきいていたが、私にとっては 読みやすく また面白い本であり、人類の感覚の普遍なるものについて感じさせてくれる本であった。神話や 古代史のワンシーンの解釈にとって 相当 興味深いものを確実に提供してくれる本である。
2004年12月28日
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ゴットファーザーパート3の中で 実在の法王の発言でロンバルト枢機卿という方に、ヨーロッパは 石のようなものであり、キリスト教という水の中で 長い間浸されているようになっても、この石を割ってみると、中までは 浸されていないことを言わせています。ヨーロッパにしても、日本にしても民俗学 あるいは人類学というものは、この石の浸されていない部分を探そうというのが 当初の趣旨だったようで、そのために プロテスタント系の方や、日本の場合では 国学系(柳田も意識としては 上田秋成が目標)の方が はじめたようです。さて 仏さまについても、一般的な 教科書の知識ではよくわかりません、宗教史なんていうものは、高僧史にしか過ぎず、私には 聖徳太子のことさえ 理解していれば根本的には まったく宗教の理解には関係ないような気がします(親鸞なんて 空海の具象化にすぎません) 仏教についても、単なる 高僧史でなく、頭でなく、血と肉になるまで かんがえたいものでございます。さて、木魚 あれは なんだろうか?と考えてみますと、鉢たたきなんて職業が昔あったそうで、念仏講という形で、稲の虫除なんていうものをおこなっていたりして、またあれは あれで 一種の楽器のようなもので、そこから 猿楽 散楽というものにも繋がります。そして 仏さまの両脇にも 仏様があります。三位一体という思考でしょうか?またその近くには精霊が宿りやすいように、ヤドリ木があります。キリスト教も仏様も似たようなもので、これはキリスト教のうんぬんという話ではなく、根底に流れている アミニズム的なるもの それが意外に 世界共通であるということなんでしょうか?なにやら そう考えたほうが 都合がよいとさえ思えます。そして 仏さまの後ろには 浄土宗の聖人たちが 控えており その上に 鬼がいるわけですが、これも 中沢新一先生書かれるところの 精霊の王で 仏を 日本古来の神である 宿神が守護しているという見立てにつながるものと解釈できます、法然も 実在が明確に確認できるわけではないようです。浄土宗における 翁であり、宿神というのも 見立てられるようには思えますが こう考えてみますと 仏壇は 霊力の増幅装置のような思いがいたします。以上
2004年12月27日
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http://www.asahi-net.or.jp/~fk6n-ootk/tatibanadera.htm橘の意味について橘は「天地の神の恵みを受けて生れためでたい木」とされ、古くから不老長寿の意味を持つ特別な木として珍重されてきました。橘の「たち」は「立ち」から由来するとも言われています。「立つ」とは民俗学上神霊の出現を意味し、橘は神霊が現れて農作業の開始を告げる聖なる花とされてきました。そこから吉祥の文様として用いられてきました。また、柑子蜜柑(コウジミカン)の総称でもあり、柑子は「幸事」との語呂合わせによる所からも吉祥文とされています。伝説の国、「常世国(とこよのくに)」を象徴し、長寿を招く力があるとも考えられていて、別名を「常世花」(とこよばな)とも言われています。古伊万里にもよく使われている文様です。http://taimei.sugoihp.com/syokubutu.htm引用はここから、草花のイメージを考えるのも面白いのですが、聖徳太子生誕地に 橘の寺と 誰がつけたのか しりませんが、ネーミングセンスのよさに感動です。http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/asuka.html飛鳥の巨石についての考証のページ 橘寺周辺にも当然あるのは面白い。こういうものって キリスト教やユダヤ教にむすびつくのか?
2004年12月26日
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記紀なの古代史全般で 対象を民俗学的にかんがえてみようか?
2004年12月25日
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さて 徳川家康影武者説や2人説の背景にあるものを ひねり出して、どこまでできるか わからないが、家臣団の再分析から行い、従来とはちがう形をだしていきたい。
2004年12月24日
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この七不思議から 植物の変った噺とみるのも可ですが、類似というより元が 空海の説話であること、また比較的 よりしろに使われるような植物が描かれていることなどから、仏説話よりも、なにやら 神様の縁起話のような気がしないでもないし、親鸞の教えというよりも、精霊たちの姿が見えてくるような噺のような気がしますが、さて?当時の越後の状況、風土 そして 類似の説話などと 比較してみると 単純に お寺さんがいう 親鸞の教えとは ずいぶんちがう姿が見えてきます、蓮如の時代でむしろ 変質したような気がしますが?法然も、実在は明確に確認できるようなものではないようです、親鸞さえ こうなのですから、まだ仏教史というのは、高僧史でしかありませんから、まだ秘められている部分があるかもしれません。
2004年12月23日
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http://www.cuatro.co.jp/niigata/nanafushigi/kojima1.html越後の七不思議の 小島の八房の梅についてだが、桜や梅については下記の通り。 http://writer.gozans.com/writer/412/59.html http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/hanamanner.html桜については 稲との関係があるというのは面白い。神様が降りてくる 花について 奇跡をおこすことができるということだろうと思う。同様の逸話は 空海についてもあるが。興味 深いことに空海のほうには 八というキーワードはないようです。八といえば 源氏の八幡さまですが。http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-taidan/saiko1.htmこういう過程で 仏教を定義すると 上記までの噺は むしろあたりまえということになるが さて
2004年12月22日
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http://www.sol.dti.ne.jp/~shiraka/echigo7.html越後の七不思議 親鸞の逸話のお噺でございます。http://tokyo.cool.ne.jp/kiyone/nm01.htmlより同様な逸話は 親鸞にもありまして、越後七不思議のひとつ山田の焼鮒と申します。http://www.photo-time.net/0507_mystery.html以上が これについての考察のサイトです。 なかなか面白いです。これに付け足して、考えますに、やはり片面ということは 民俗学上 谷川センセイいうところの産鉄とか 柳田センセイいうところの神に捧げる生贄のこととかが 伺えて とても興味深いものがあります。また この噺全体が どう考えても空海の逸話のパクリであるとか、比叡山系の山王神社がでてくる(蓮如の時代まで、延暦寺の末寺であり、税金を上納していたようですが)など 親鸞も善光寺聖の出であるという説から、宿木という古代信仰にかかわることがぽろっとでてくるなど 親鸞時代の 浄土真宗の状況が この逸話から 窺い知ることもでき、とても興味深いものがあります。http://home.n00.itscom.net/hasegawa/etc.htm#%8Cq%82%AC%9E%D0かやの木についての逸話ですが、カヤノ実は食べたりすることもできるようで、木自体はご神木にもなっている場合もあるようです。逸話自体には、空海にもあり、親鸞の妻帯肉食問題なしという姿勢も、真言宗立川流の影響をいうひともあるので、真言宗の修験者のお供物に使われる、カヤノ実を持ち出したということは 親鸞もそちらとの関係はある程度 伺われるのではないかと思います。この説話を 自然現象の解釈に結びつける場合もあるようですし、また真宗のほうでは、超自然的な説話ははずすようですが、学者センセイの詰まんない 頭だけの解釈よりも 当時の親鸞が窺い知ることができなんだが 面白く思う次第です。
2004年12月21日
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http://www.infact-j.com/kashima/ryakureki.htmこちらが 鹿島昇センセイの経歴なんですが、最近でていた この人の評伝を立ち読みしながら考えたことがありまして、すこし整理してみました。この方の評伝の中にさらっとでてくるのが、かの八切止夫に あなたのネタ本は?と聞かれたというシーンがありますが、鹿島センセイは特にないといわれたようですが、評伝を見た限りでは 八切止夫と木村鷹太郎と そして これになります。http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=korea&key=1004075572桓壇古記というのが、鹿島先生のネタ本になっているのは、ほぼ間違いないとおもわれますが、これも由緒ある文書のようにいわれますが、和田文書とか、武功夜話みたいに、20世紀に書かれたような代物のようです。そして 新国民社と この大韓民国在郷軍人会日本支部との関係がよくわかりませんが、かの八切止夫も、鹿島センセイとは断定していませんが、韓国史観と呼び、鹿島センセイの出版社には、在日韓国人在郷軍人会という看板がかけてあると あてこすっておりましたが、当時はわかりませんでしたが、なるほど ひもつきか と最近になって気が付いた次第です。三人の天皇の中でも、口きたなくののしられているのが、かの伊藤博文です。韓国で人気がない日本人のナンバー1の方です。だからだよなという思いであります。高句麗の中国での歴史教科書での取扱をめぐり、中国と韓国でもめた件が今年ありましたが、その件の背景には、どう考えても 日本の皇国史観以上のものは 信じる政治的背景があるというのを覚えていただくべきだろうと思うのです。また トンデモという意味ではなくて、教科書にもでてくる殷 周の中国の古代王朝にしても、戦前までは伝説と言われており、それをバビロニアまでもっていく 鹿島説もあながちウソばかりではないのです。ただ政治的には、中国の文明は中国からという説をとりたいんだろなという気もしますが 中国や 韓国の教科書が国定ということもあり、あちらが日本に対しての要求の中に 首をかしげるものがあれば 断固として断るのも、当然なのであります。
2004年12月20日
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谷沢(聖徳太子はいなかった)永一センセイ 激賞の本ですが、専門書の割には わかりやすくおもしろかったですね。内容は宗教史のカテゴリーになってきますが、中世においては、寺院が経済や 場合によっては政治の中心であったわけですから、宗教の範囲で、この本を読んでしまうと それはとてももったいないことになってしまいます。誰かの保証があっての権威あっての先例が あの時代にはいかに大事か またそのためにいかに偽作、偽文書が作られたか?先行の旧仏教の対立のなかで 聖徳太子という存在を、親鸞が持ち出してきて、いかに新仏教を築いていったのか?そのあたり、教科書ではいまひとつわかりにくいところが、イデオロギーの面で さらっとしながら、触れているのが おもしろかったです。
2004年12月19日
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意外に的もでした。これはびっくりですね。聖徳太子の伝承が、意外に 中央アジアからあるので、そのへんについては注目したいです、ただしですね、それでは 太子の伝承を全部出して 遺物を再検討してみて 由来を解釈してみる点は必要です。それが誠実だ。それから記紀の枠組みを信じていないなら 最初から 思い切って それを出してみては 無理に誰かを決める必要はないですよ、でもそれを決めるのも戦略かな
2004年12月18日
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聖徳太子が、幼子で表現されうことが多いのは、聖徳太子の家の子供たちが殺されたから それを祭るという説もありますが、昔は男の子が 幼子が死にました、それの霊を慰め、また幼子の健康を祈るために、数多くの太子の幼子の像ができたのでしょうか?馬屋で生まれたから、イエスとのかかわりを言われ方もいますが さてキリスト教の行事としては、クリスマスと 謝肉祭という行事がありますが、多少 乱暴な解釈ながらも、日本古来からの行事として 同系統の 冬至、そして節分という趣向がございます。おもしろいことに、それが聖徳太子の生誕の時期にほぼ重なっているという印象があります。とても興味深いですが、クリスマスにしても、ゲルマンの行事をキリスト教が取り入れたもので、また カーニバルも同様です。聖徳太子の命日での聖霊会も、怨霊信仰での評価の向きもありますが、古来からの節分の要素を取り入れたものとみるべきでこれが 念仏踊りになっていったというのはいかがでしょうか?聖徳太子の物語には いろんな古代からの信仰 思いが編みこまれているのかもしれません。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9D%E8%82%89%E7%A5%ADカーニバルの起源についてhttp://akryoshi.kir.jp/kouza/display_all.php?theme_num=18http://mirakurusara.bufsiz.jp/page076.html
2004年12月17日
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法隆寺については 再建だ 非再建だという説がありますが、もうひとつ移築だという説もございます。http://www.rekishi.info/library/yagiri/ネタ元はこちらで とある宮大工さんの考証で それをかの八切止夫センセイが 自分の説にあわせるために、かなり捻じ曲げて引用したもの。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4322/kanzeonjikozu.htmlこちらのほうが、最近はやり(これが最初ではありませんが)の 移築説というところ、九州王朝の根拠にもなっています。http://www3.plala.or.jp/shaki/hounazo.htmそれに 当然 批判はありますが 怨霊を押さえる寺ではないかという説を付け加えると 面白いことになりますが。http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-49.htm怨霊というと うーんとみるむきもありますがこれも怨霊です。聖徳太子創作 架空にせよ なぜ為したか?説明できないそれにある偉大な大王がありその大王が不慮の死を遂げたたたりよけで 歴史をごまかすために、奈良までもってきた?では聖徳太子の実像はとなりますと またその大王って誰?そうなりますとますます霧の中になりますが さて
2004年12月16日
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http://gotta_ni.w1.catgate.jp/shiojiri/xsts_186.html必ずしも取り上げられるケースが 多いとはいえないが、秀吉の家系についての異伝のひとつだが、秀吉の父系のほうが、近江から流れてきたというので、最近 割に注目されるようになったものです。秀吉の諸伝も近江で 鍛冶屋の修行をしたとか、小野猿丸や、母系のほうが 木地師との関連があるという指摘などがあり、あながち異伝のみならずという印象もこれにはうけるが いかがでしょうか?法師とあり、僧が還俗してとあるが、この場合の法師というのは、僧侶という意味ではなく、毛坊主でいわゆる半俗人のようなものと思われるが、いかがなものだろうか?ちなみに 天台宗が、尾張に流れ着いて、時宗であり、当時の宗派というものが どういうものかがわかるのだが、さて 秀吉がこの寺で 一時 修行したのも 寺の成り立ちから考えると、江戸期とちがって 考えられるべきだろうか?まだ徳川家というより 松平家のご先祖も、時宗の流れ者だったらしいのは興味深いが、先日から 我が家の歴史つくりのために、我が家の家系図をちらりと眺めているが、我が家は基本的に男系ではなく、女系であり、その理由としては 男子が育たないこと、また商人として養子を迎えることがあった事情にもよるが、家族の概念が、江戸中期から以降はいまとずいぶん違うところがあった?のではないかと 考えています。さて どうなんでしょうか?
2004年12月15日
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1 なんで近くのお寺の住職の名前が出ているのかが 不明 2 紀州福邑善蓮なんていう坊さんみたいな名前の人との関連 があるが そのへんはさらに不明 ただ近所に紀州さまの飛 び地があつたのは意外か3 基本的に 3代前はわからないという法則のようで、明治 直前に書き換えている。4 大昔は俗名を書かない場合も多いようですな、女性は特に おばあちゃんとか コイサンとか 若奥様で通していた のかもしれない。 だから判りにくかったのもしれない。5 我が家は基本的に女系 男子がころころ死んでいるのもあ るし 養子というより 丸ごと 変っている可能性もあ る。6 比較的 きちんとしている家の系図は過去帖より作成され ると推測される、または墓碑からだろうが、当然 粉飾も あるということだが、初めて過去帖というものをみてわかったことだが、俗名が書いていない(わからない?)場合も当然あり、誰の子供とか 誰の父と書いていない場合もあり、系図が書かれるたびに解釈がこれでは当然 分かれるという あたりまえのことが認識できた。こんなところか。
2004年12月14日
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1 弥生時代の遺跡という定説があるが。2 規模が大きすぎ、また稲の起源は確かに古いが、水田耕作の 普及は意外に遅い。3 農民自体もあまりやりたがらず、関東では採集経済や畑作に頼っていた。4 種籾は借り物で、あくまでも公のものという認識が、かなり遅くの時代まであった。5 蝦夷をこき使い、農耕が始められた形跡がある。
2004年12月13日
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いろんな解釈がありますが、秦氏については、伊勢神宮の古老口実伝に、氏姓の知れないものは、秦氏とつけるとあり それは昔からのきまりだという解釈できる文言があります。単純に考えましょうか?大陸から あるいは、南洋から、瀬戸内を通り、日本海を通り、人の流れが、古代あったとします。古代の交通は危険があるものの、海や河が主体ですから、琵琶湖、難波、淀川主体に 人が集まります。その最初にきたのが、秦氏を初めとする古代氏族とします。あとから、朝鮮の王族(たとえば 蘇我氏)などが流れてきます。闘争や交易が行われ その下に、庶民(秦氏、賀茂氏)は服属します。と考えたとします。また 朝鮮の王族系でも、対立があったようですが。三王朝交代説などが出てきたのも、皇統が継続していないのも、何回も権力者が変り、日本が当時 ひとつではなかったという現れとするべきでしょうか?さて 私は基本的には日本書紀は信じていません、それは下記の理由です。 1 写本の段階で 加筆修正が当然あったと推定されるべきで 最初から一文字一句違わないという考えじたいが可笑しい。2 写本の成立過程 写本が分散しているが、その過程で 故意の修正がなかったというほうが可笑しい3 校訂の段階 決定版の国史大系の黒板(ウルトラー皇国史観)勝美センセイの弄くった可能性4 漢籍からの剽窃 史記を初めとするさまざまな漢籍から 相当の剽窃を行ってい る5 たとえば漢風のおくりな にみるように、同時代の概念でなく、編集された当時の概念で かかれているところが多い。6 焼却 桓武天皇の時代に、歴史書が相当 焼かれたとある。 また編纂時にも、墓誌等を強制的にあつめさせたとある。7 中世日本紀という概念 いわゆる古史古伝の源がこれだが、記紀がこれに染まっていな いとだれがいえようか?8 政治的配慮 神々の系譜を天皇中心にまとめて、日本国は昔から独立国とし アマテラスから編纂時の皇統まできちんと継続している そんなこと みなさん信じていますか?では どうするか?あくまでも相対的に考えるべきです。文字に縛られることなく、人類学、考古学、宗教学、民俗学のひとつのデータとして この本をよむべきと考えています。聖徳太子が 蘇我系統(原住民系)というのが母系からうかがわれる以上、また秦氏の伝承から 聖徳太子が秦河勝と同一だったと解釈できるようなところも在る以上歴史的に想定されることは、蘇我氏の業績を 天皇家の業績にして、日本書紀編纂時の王権(百済か?新羅か?それとも?)が 蘇我本家を滅ぼした事件を、天皇家に逆らうものを滅ぼしたということにしたいということで 王権は考えていたようで、その過程の中で、旧王家につながるものは、蝦夷だ、土蜘蛛だと人間扱いされない状態になります。(秦氏の本拠地は土器つくりが盛んで、またその系統は古墳に生き埋めにされていたような一族にもつながります)、また捕まえられたものは奴隷にさせられました。(奈良旧仏教のお寺には 奴隷が数多く収容されていました) また秦氏の本拠地のひとつの近江から伊賀にかけての寺の縁起でも 蝦夷を追い払い 寺を立てたという記載があります。聖徳太子の命日が節分につながるわけですが、これはどう考えても 鬼になるもの、夷なるものを追い払い、その恨みをさける儀式です。民俗学的には、鬼は鬼でしか追い払われないとしている以上また土蜘蛛たちの統領を、たたりよけに神として祭るということもあったようですが。このことから聖徳太子も 歴史的には鬼の統領であったのもかもしれないと私は妄想しています。これが利用されて 十月仏(マイリノホトケ) オクナイサマ、オシラサマ ダイシ、などの古代信仰と ホトケが習合すう場合には 西洋ならば サンタクロースに聖ニコラスのごとく まず聖徳太子が持ち出されてきたのかなとかんがえていますがなんだか関裕二氏のパクリみたいになりましたが、日本書紀を信ぜず、ゾロアスターだ ユダヤなど入れないと こういう結論になります。
2004年12月12日
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記紀というものはあらゆるものは天皇家からということにして、だから天皇家はおろそかにできないという考えがはいっていますが。また記紀への道は泥沼へのみちだと信じているのですが。さてhttp://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/jinmu.html神武天皇の場合は、稲の神の具現化という説がございまして。http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/応神帝はこうなるようです。http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-136.htm聖徳太子創建というお寺は数多くありますが 祭るということでは駄目なんでしょうか、仏教の導入でも天皇家が最初だぞ大本なんだということで。http://www5.pobox.ne.jp/~kochou/koten/tuina.htmそれに、神仏とのやりとりをして、鬼を退治する(聖徳太子の誕生日が冬至、命日が節分)堂童子の高貴たるものとしての聖徳太子の創造というものが なされたのではないか あくまでも仮説ですがhttp://www32.ocn.ne.jp/~thkudo/page/chrst.htm#5まだ上記の説は ドンデモかな?でもサンタクロースという存在が、異教の伝説を取り入れて、現在のサンタという存在ができたという事情があるということから、いまさらキリスト教の聖人のというのも変な話であります。http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1032875157以下 上記よりの引用75 :黒太 ◆KUROTAUc :02/09/27 01:55 キリストを裏切ったイスカリオテのユダも実在しないと思う。 いや、確かにイエスの弟子に湯田さんはいたと思うが、彼がイエスを売ったというのは 創作臭い。 マタイに書かれている、裏切者ユダの自殺に関する記述は古代オリエントの伝承に基いた創作と考えるのが自然かと思われ。 湯田は『陶器職人の畑』で自殺したとされるが、『陶器職人』とはずばり!!シュメールのニンフサルサグ バビロニアのイシュタール、カナーンのアシュタロトの称号である。 つまり湯田の自殺とは王の身代わりに選ばれた者を生贄に捧げる『聖王』の逸話を元にした話であると思われ。 そもそも、『イスカリオテのユダ』ユダ=イェフーダという名前はユダ部族の祖神の名前であり 後に犠牲とされる『聖王』の名前を意味する。 また、木に首を吊るという死に方も聖王の処刑方法の一つなり。76 :黒太 ◆KUROTAUc :02/09/27 02:01 さらに言えば、イエスの代わりに釈放されたバラバも実在しない可能性。 まず、釈放されたバラバの名前がイエスであること。 さらに、バラバ(barrabas)とは父の息子という意味であり聖王の添名の一つとされている。 バラバ・イエスとは「神の子イエス」を意味する。 仮にイエス・キリストなる人物が実在したとするなら、バラバ・イエスとは過越祭の生贄として イエスが引き渡された時に付けられた名前であると考えるのが自然かと思い思われ。磔にされた男はいても 伝承は創作というわけです、聖徳太子だって それでいいではないですか?その創作の思いを読んでいくのも価値があると信じています。ただ 噺はまだまだまとまらない
2004年12月11日
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秦氏についての論については いまは保留にします。まだよくわからないんので、ただ善光寺縁起を調べてみて おもしろいことに気が付きました。古来の、聖徳太子信仰の起源というものをたどれば、いろんなものがあげられると思いますが、太子信仰を全土に広げたのが、親鸞であり、浄土真宗であるのならば、浄土真宗の起源である(ひじょうに誤解されやすいいいかたですが) 善光寺にすべてがあります。http://www.osakanews.com/mite-mite-kansai/ippen030307.htm善光寺との聖徳太子とのかかわりは上記のようになります。http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/kame7.htmさて もうひとつ 阿弥陀さまですが、阿弥陀さまの性格は上記のようになります。http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain善光寺の奥の院には古代信仰が隠れているという論考です。阿弥陀さまも、アマテラスに関係が深い 仏様です。http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-51.html正八幡宮には「降臨」伝承の他に、次のような「漂着」伝承もある。「大隅正八幡宮縁起」は云う。震旦国(中国)の陳大王の娘・大比留女(おおひるめ)は、七歳のとき夢で朝日を受けて身籠もり、王子を生んだ。 王たちはこれを怪しみ、母子を空船(うつほぶね)に乗せて海に流したところ、「日本の大隅の磯岸に着き給う。その太子を八幡と号し奉る。(…)大隅国に留まりて、八幡宮に祭られ給えり」。母は「筑前国(…)香椎聖母大菩薩と現れ給えり」と。 この「漂着」伝承は、新羅などの朝鮮王神話とまったく同型の「倭族」神話である(たいへん原型に近い)。八幡神が南朝鮮の神であることをこれほど明白に語るものは他にない。ここにも八幡神は「太子」(童神)であることが述べられている。「オオヒルメ」は天照大神の造型の際、モデルとなった神格である。母神は香椎宮に現れたとあるが、つまり息長帯姫(神功皇后)であるということだ。http://w1.avis.ne.jp/~wakaomi/engi/index.htmlここで 注目したいのが 賀茂神城に関係が深い家紋の、本田善光が、信濃まで抱えてもっていったという点だ、どうかんあげても大人ではあるまい、子供、童子、大子 童子をイメージさせるものがあるように思います。http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kamo211.htm賀茂神社と秦氏との関係http://w1.avis.ne.jp/~wakaomi/doudouji.html仏堂や内陣は人が入れない神聖な空間に入ることができたのが堂童子であった。堂童子は一般に寺院近郷の住民がその任に当たっていた。僧籍を持たずに、仏堂の清掃や香華で供養にあたり、或いは法会の進行にかかわる労役奉仕を行った。しかし、薬師寺修二会の役割からわかるように、単なる労役奉仕者としてのみではなく、内陣(聖域)と外部(俗)を仲立ちする重要な役割を果たしている。 聖と俗との宗教的媒介者……神仏の使いとしての性格をもっていた。その為壮年であっても童子と呼ばれる。 http://www2.hokurikutei.or.jp/backnum/00dec/sj_folder/sj2.html善光寺の古式ゆかりある行事ですが、簡単にいうと 上記の説明でいいのではあにかという気がしますがさて善光寺の古式ゆかりある行事の説明に上記のような説明がありますが、古代信仰の上に、仏様たちがおかれている構造が見えてくる場合、神に対しては仏がおかれ、この童子に対して、聖徳太子が当てられたという構造がなんとなく、みえてきます。問題は聖徳太子という存在があり、それを取り入れたか?取り入れる過程で、聖徳太子という存在が作られたか?善光寺が意外に古いので、その点が微妙になります。ただ、昔の人が聖徳太子の存在を信じるということは、日本書紀を通してか、善光寺さんを通してかは疑問の余地がないと 私はおもいます。
2004年12月08日
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金枝篇という本に王殺しの話があります。それを邪馬台国の話に応用して、卑弥呼は殺されたとみるのが、かの松本清張になります。資料だけではだめで、昔の人のイメージをつかむことにより資料ではわからない歴史を探ることができます。イメージだけでなく、これを歴史に応用することで自分なりの歴史観をつかむことができるかと思います。
2004年12月07日
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1 殉教はどこまで本当か?2 キリシタンではなく 土俗信仰ではないか?3 隠れキリシタンなんて捏造ではないか?
2004年12月06日
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江戸時代というか バレ噺(いわゆるすけべ落語)にこんなものがあります。空海が、とあるカミサンに 腹がすいたので 芋をねだる。馬にやるんでと断ると、機嫌をそこねたタイシさまは、亭主を馬に 呪文を使い 変えてしまう。カミサンが、あやまると、馬から人間に戻しますが、おちで 一物だけは そのままにしてくれなんていうものがございます。宗教なんてという要素が奥に入った落語なんですが、この部分ですが 演じる方により これが空海になり、日蓮になり、親鸞になるようですが。さて 越後の七不思議なんていう伝承が 親鸞聖人のえらさを伝える伝承ということで 新潟県内に伝承されていますが、これ ほとんどが空海というか、真言宗にも同じ噺がこざいます。たぶん確認すれば天台宗にも似たような話があるのでしょうか?この点からも 浄土真宗の布教がどのようにおこなわれていったのかが 判るような気がします。親鸞に関しても、元を正せば、善光寺聖の集団に関係していたのではないかというのが、今に残る肖像画で 推測される研究もあります。空海の伝承が 高野聖の伝承であるなら、親鸞についての伝承が善光寺聖の伝承であっても それは自然なことになります。善光寺の縁起については かなり疑問がありますが、本田善光の紋がタチアオイである以上 賀茂神社系統に関係していること、歴史がかなりふるいことなど、信濃全体には、蝦夷の俘囚地が多いことから、善光寺の建立にも それに関係しており、親鸞もこれと関係をもち、将門の乱の跡地でもある、常陸まで流れて、布教活動をして、浄土真宗というものを組織化していったのだろうと思われます。http://honk.hp.infoseek.co.jp/gai2.htm当然 この宗教というより 宗派との関係から 親鸞の考え方ができてきたという見方もありますが、どうも今の宗教史というのは つまらんのは こういう見方をさけているからでしょうか?
2004年12月05日
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1 写本の段階で 加筆修正が当然あったと推定されるべきで 最初から一文字一句違わないという考えじたいが可笑しい。2 写本の成立過程 写本がどこにあり、その過程で 故意の修正がなかったという ほうが可笑しい3 校訂の段階 決定版の国史大系の黒板勝美センセイ自体の問題4 漢籍からの剽窃 史記を初めとするさまざまな漢籍から 相当の剽窃を行ってい る5 たとえば漢風のおくりな にみるように、同時代の概念でなく、編集された当時の概念で かかれているところが多い。6 焼却 桓武天皇の時代に、歴史書が相当 焼かれたとある。 また編纂時にも、墓誌等を強制的にあつめさせたとある。7 中世日本紀という概念 いわゆる古史古伝の源がこれだが、記紀がこれに染まっていな いとだれがいえようか?8 政治的配慮 神々の系譜を天皇中心にまとめて、日本国は昔から独立国とし アマテラスから編纂時の皇統まできちんと継続している そんなこと みなさん信じていますか?では どうするか?あくまでも相対的に考えるべきです。文字に縛られることなく、人類学、考古学、宗教学、民俗学のひとつのデータとして この本をよむべきと思います。
2004年12月04日
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風土記のこと伝承のこと蝦夷のことタイラノマサカドのこと武士のこと伝道のこと車善七のこと幕末のこと
2004年12月03日
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善光寺信仰に隠れているものとかhttp://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog27.htmエミシのことhttp://www.harimaya.com/kamon/column/aoi.html本田善光の門から 賀茂神社の系列がこれには隠れている点があげられるようです。http://www.asukanet.gr.jp/umayado/shotokutaishi/iwashimizu.html以下は私の個人的な推論です。南都大安寺は聖徳太子建立の熊凝精舎の後身です。大安寺と石清水寺との交流が維持され、そこで太子信仰が流入したのではないでしょうか。実は全国に広く分布する太子信仰の先駆けはこの地にもあったのでは?と思われます。聖徳太子信仰の流布を考える時、私は善光寺聖の全国行脚・浄土真宗の広まり・工人集団の信仰を考えていました。しかしさらに古くは聖徳太子絵伝を伝える四天王寺からの天台系信仰、南無仏太子(二歳)が手にしていた舎利の信仰が考えられるとのことです。聖徳太子が手にしていたと言われる舎利は、法隆寺舎利殿に安置されています。現在滋賀県国分には石清水八幡宮より移された聖徳太子二歳像が祀られています。法隆寺の舎利信仰に関わる二歳像より14年しか下らない元亨元年(1321)の銘を持つ南無仏太子像が石清水寺に安置されていたことは非常に気になるところです。常陸の国に隠れているもの系図に隠れているもの越後の七不思議の意味とか これは どう考えても 空海の伝承のパクリとしか思えない 空海の伝承が 高野聖であるなら、真宗の最初も そこから であろうか?そのへんで 親鸞をうまく相対化させたい。
2004年12月02日
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だから死なない、語られてきた。その霊の具現化であるんので、その霊の生まれ変わりとということで価値が出る。その霊には いろんな思いが入っている。前例である。
2004年12月01日
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