2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全9件 (9件中 1-9件目)
1
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%C7%BF%B7%CC%D6%C4%AE 下谷万年町・・・「電車通りの向こう側、つまり北稲荷町から更に北へ、神吉町、山伏町と行って、その隣りに万年町という町があった。下谷万年町と言えば東京でも代表的な貧民窟とされていて、そこの小学校「万年小学校」は月謝を徴収しなかった。当時、東京の市立小学校は月謝二十銭ときまっていた。万年小学校は無料だったので、私たちは歌ったものだ。?―――万年学校、タダ学校―――?と。そして私たちの家は、決して金持ちではないが、人に憐れまれるほど貧乏ではない、と晴れ晴れしていた。しかし、こういう風に言う少年も居た。「万年町はいいぞ。おばさんが住んでいるから、よく遊びに行くんだ。するとさ、昼飯のお菜(かず)が無いときなんか、隣りの家へ行ってもらってくるんだ。お互い様だからかまわないんだよ。隣のおばさんだって、うちのおばさんことへ来て、おこうこ貰ってくよ、と台所から勝手に持っていくもん。まるで身内みたいなんだ」稲荷町のおかみさん達はそういうことをしなかった。それは家屋の構造がかなり原因していたのだと思う。万年町では明けっぱなしの家が多い。夏なんか余計だった。表通りを歩きながら覗くと、通りに面した家の、裏の家の、もう一つ裏の座敷の食卓のオカズまで見えたし、昼寝しているおかみさんの腰巻きの継ぎまで眼にはいるのだった。」 『鹿島孝二「大正の下谷っ子」』」http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/mannentyo.html 地図みると・・JRをはさんで上野公園の反対側http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/syouwa16/mannen.htmlhttp://www.uenogakuen.ac.jp/access/index.html最近 怪人20面相 K20をみましたバットマン マスクオブゾロ ブレードランナーオールウエーズ3丁目の夕日などのテーストを混ぜた印象を持ちましたノガミというバラック街が出てきますが ノガミは上野の符丁ということに気がついていた人は多いようですが 金城武が演じる遠藤平吉が バラックのリーダーの少年に俺もノガミの出というのは ただの上野ではちょっとちがうように見えますので 実態はこっちのように見えます。参考のサイトをみますと この当時 サーカスで生きている、というのが どういう意味をもっていたが わかりますね。平吉の俺はサーカスに戻りたいだけなんだという言葉は実に、重いのです。設定は 1949年のパラレルワールドですが 脚本の段階で 意外にリアルに作っていることがわかります下谷万年町といえば 三角寛のサンカ小説に出てくるところですが 怪人20面相というのは サンカじゃないかといわれる説教強盗にもちと似ているのかもまあ 難しいこと考えなくても 十分 面白いのですがそれから サーカスといえば 怪力男MPに追われて 山でなく サーカスで働いていた 日本語の面白い コインを曲げちゃう あの人を出してほしかったです
2009年01月27日
コメント(7)
なお発起人には名を重ねていないが 山種が美術館の構想を得て 最も早く相談したのは 美術の殿様として知られていた元侯爵細川護立であったといわれる細川は元熊本藩主細川家の裔で文化財保護委員や近代美術館評議員をつとめた一方 東西にわたるその美術コレクションは有名であった 山種は戦前の米問屋時代から 大量の肥後米を商っていた関係で 細川とも繋がりが生じていた山崎種二 その生涯と事業公家最高の五摂家から出た近衛文麿公爵は ちょうど廬溝橋事件の年に娘の温子が首相秘書官の熊本藩 細川護貞と結婚し ふたりの間にもうけた細川護煕が1993年に初の殿様宰相として総理大臣に就任するが 護貞の妹 細川敏子が新興軍需財閥 中島飛行機の中島知久平の甥 中島昭吉と結婚する重要な姻戚関係を持っていた 略 しかも近衛家は 江戸時代に酒造業で栄えた摂津伊丹の領主であり その酒造資金を長者番付最高位の小西新右衛門が近衛家に献上してきた。小西新右衛門が もうひとつの新興軍需財閥 理化学研究所総帥の大河内正敏の義兄弟であった持丸長者 国家狂乱篇 広瀬隆いろいろ繋がりはあって当然ですが 細川家と近衛家は 米を介して接点がありジローさんも 文平サンの時代には 米相場でも有名であった堂島の相場師だったわけですし 白洲家は伊丹に大邸宅があったわけですむかしからのご主人様ですねちなみに 理研の大河内サンの見出したのが 角サンで ジローサンには 目下にあたる訳です 角さんはだから ゴルフの一連のエピソードはなんだかなーという気にさせます
2009年01月17日
コメント(8)
翻訳家の徳川家広さんが近所にお住まいなので 無礼をかえりみず呼び出した徳川さんは 筆者より五歳年下だが 生前の白洲夫妻と会っているおまえんとこの爺さん(徳川家達のこと 実際には祖父ではなく徳川宗家としては三代前にあたる)女癖が悪いから 貴族院議長を近衛さんに替わってもらったんだ と妙なからみかたをされたそうだレジェンド 伝説の男 北康利 朝日新聞出版徳川は華族会館に宿泊することあり 四五年前のことなりし様なり 会館の給仕を鶏姦し その事がたび重なり 給仕より荒立てたる為 一万円を出金して 落著したることあり しかるに本人はさほどこれを悪事と思わず 改むる模様なし 先年 徳川を学習院の総裁と為すの内儀を定めたる処 松浦某が強硬に反対し もしこれを遂行するならば鶏姦の事実をあばくとまで主張したる為に ついにそのままになりたりのことなり 枢密院議長の日記 佐野真一 講談社現代新書http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1148620826/19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/27(土) 23:21:44 ID:1V2hKnNNO家達ってホモなの? 結婚二十年以上たっても四十近い妻に子供を産ませるぐらいだから夫婦仲はいいと思っていたのに20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/27(土) 23:52:24 ID:YNNez+oe0>>19 >>1921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/27(土) 23:53:30 ID:YNNez+oe0>>19 男性スキャンダルも女性スキャンダルもあるよ。22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 00:29:06 ID:JrZJmZvq0>>21 ソースまだあ?23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 04:14:31 ID:qKasHH4O0http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/kuratomi/Taro12-yanagita2.pdf 『徳川の貴族議員議長辞任(1933年)の真の原因は「女性問題」であったとする後藤武男の解釈を・・・』 『牧野伸顕(宮内大臣)が倉富に「徳川家達ノ陰事」を語って聞かせている。牧野の語った「陰事」は「女性問題」ではなかった。 徳川の性的な趣向は同性に向けられていたのである。』(『』内は引用です。)24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 04:20:17 ID:qKasHH4O0『柳田国男、官界を去る』(永井 和)からです。細川護貞サンにも そっちの趣味があったらしいし 折口サン 柳田サンにもですが ちなみに 妾が当たり前の時代に 女性問題もないもんだという気がしますが これのネタ元は 牧野伸顕閣下 それにしても 佐野さんの著書が出た後で 女性問題で辞任とジローさんにいわせているわけですよ北せんせーい お友達の徳川さんにグットジョブですー
2009年01月15日
コメント(3)
http://tanizoko2.hp.infoseek.co.jp/kuwahara_rennkei_si.html「茂丸が桂太郎をはじめ、政府高官や財界人の隠し子を、どんどん杉山の姓に入れている。心無い人からは「お前もどこの誰の子かわからん。杉山の姓くらいあてにならんものは無い。」といわれ、本当に悔しい思いをした。だから当事者を一人一人当たって、整理しているのだ。」と男泣きに泣きながら話したこともあったとのこと。頭山満の書について面白い話がありました。桑原さんが新聞記者をやっていた戦後すぐの頃です。当時新宿マーケットを開き、戦後の闇市を支配していた関東尾津組の尾津喜之助という日本一の大親分がいました。この親分が「金の鍋ですき焼きを食わせるらしい」と聞いた桑原さんは、「記事にするから、すき焼きを食わせてほしい」とノコノコ出かけて行ったそうです。そしたら、直接喜之助親分が直接出てきて、大き目のどんぶり位の金の鍋を袱紗から取り出し、自分ですき焼きを作り始めたのですが、どう見ても親分は怒ってる。「おれは日本一と自他共に認める大親分なのに、この若い新聞記者はどういう了見だ。ただじゃおかねぇ。」ってのが、ひしひしと伝わってくる。すき焼きを作ってる最中に親分が「桑原さん、あんたどこの生まれだい。」と聞いてきたので「福岡です。」と答えたら「じゃぁ、玄洋社はしってるかい。」との事。「えぇ、まぁ。進藤先生とは懇意にしてもらってます。」という感じで答えたそうです。そしたら、尾津親分の雰囲気が突然変わって、切々と身の上話を始められました。?「自分は若い頃、故あって人を殺めて刑務所に入った。5年7ヶ月の刑期で一生懸命真面目に勤めたが一日もまけてもらえなかった。出所のときは風呂敷包みひとつで、行くあてもない。刑務所の看守が「お前行くあてはあるのか。」と聞くので「ない」と答えると、東京の頭山満邸の住所を教えてくれ、「ここなら面倒を見てくれるから。」との事。頭山邸にいくと、座敷に案内され頭山翁から「大変だったな。何もないが飯だけは好きなだけ食え。」といわれて、他の食客と一緒に大部屋で暮らした。昼は仕事に行き、夜は頭山邸に帰ってきて飯を食って寝ることが出来る。中央に銀シャリのいっぱいに炊いてある釜があり、ご飯はそこから好きなだけとって食べることができた。しかし、飯を食う大部屋の床は3種に区切られていて、殺人強盗は土間、軽犯罪者は板の間、政治犯は畳の間であり、尾津親分はせめて板の間で飯が食える身分になりたいものだと、いつも思っていたとの事。 そのうち、頭山邸を離れることになったが、餞別として頭山翁から書をもらった。この書は手形(金券)代わりであって、都内に何箇所か書を五円で買い取ってくれる場所があった。(今もある「玄海」という水炊き屋などがそうで、この店の広間は頭山翁の掛け軸で一杯だった。)五円といえば当時なら女郎一人を泊まりで確保して2円なので、結構使いでがあった。自分は今いったように玄洋社と頭山先生には本当に世話になった。足を向けては寝られないといつも思っている。そうか、あなたは玄洋社の人か。なるほどたいした度胸だ。」と切々と真情を込めて語られたとのこと。桑原さんにしてみれば、世間知らずの若気の至りだったので、非常に恐縮したとの事ですが、玄洋社の力の源泉が、このような恩義によるネットワークであり、国が暗黙で認定している更生事業を行っていたというのは興味深い話でした。久作の著「近世快人伝」で奈良原が笑う「頭山の書」にも、実は意味があったわけで、個人的にも興味深かったです。また、このような恩を受けた人たちが日本中にいて、いっぱしの親分になっていたため、戦後、進藤先生が玄洋社を胸に収めると知ってからは、各地でかってに玄洋社を名乗るのがいたら、ものすごい圧力がかけられて潰されていたようで「関西玄洋社」とかいった分派が発生する余地が無かったとの事でした。? 冷静に調べると尾津喜之助親分は「光は新宿から」のキャッチコピーで日本最大の闇市「新宿マーケット」を立ち上げ、仕切っていた正真正銘、戦後すぐの日本では最大の親分でした。桑原さんもかなり無茶しーです。(^^;玄洋社の組織と影響力については よくわからない説明がされることが多いのですが、このあたりが 一番しっくりくる気がします。中国の戦国時代に侠を集めていた方々がいましたが そのへんが近いかなと 大日本国粋会の顧問に頭山がいた意味がわかります 児玉誉士夫や 田中清玄が戦後 街の有志のセンセイ方に影響力をもてたのも このような後ろ盾あってのことのようです 清玄と頭山の関係は以前のエントリーで触れましたが 尾津の親分が土間で飯食ったところで 畳で飯を食っていたのが 清玄だと思うと ちょっと笑えますいろいろ 小難しいことを語る方 この辺のことは ネットでも多いですが 時代劇でいうところの チンピラ方が 尾津の親分 センセイ方 出番ですと 出てくるのが 田中清玄センセイ 出される飯の格までちがうわけです ?
2009年01月14日
コメント(5)
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_03/shishi_05-03/shishi_05-03-03-02-03.htm これまで定置漁業には傍観者的立場をとっていた日魯漁業は、ライバル企業日本水産の進出に対抗するため、13年3月、すでに設立されていた大北漁業(資本金40万円)を買収すると同時に、個人漁業者18名を吸収して、新たに大北漁業株式会社(資本金300万円)を設立した。新会社は日魯漁業の全額出資で、代表取締役は真藤慎太郎、取締役には堤清治郎、近江清太郎らが就任した。北海道庁による統合勧奨は、多数の漁業権を集中した日魯漁業1社を核とする合同案であり、日魯漁業は単一企業合同の実現に奔走した。しかし、単一の合同に反対してきた林兼商店とその直系の択捉水産の同意が得られないまま、16年2月、北洋水産とその他3企業(東邦水産、北海道漁業缶詰、帝国水産)が大北漁業に合併し、北日本漁業株式会社(資本金2290万円)が新設された(『日魯漁業経営史』)。林兼商店と択捉水産は、昭和18年、戦時経済統制下の水産統制令によって強制的に日魯漁業に合併されるまで、12か統の定置漁業の経営を続けた。このような林兼商店などの反対はあったものの、険悪化する日ソ関係の下で、日魯が北洋鮭鱒漁業を全面的かつ一元的に統制することができたのは、満州事変に始まる十五年戦争の拡大と共に、日本産業が軍需優先の戦争遂行のための統制経済に組み込まれていく時代の風潮をうまく利用したこと、こうした社会環境の変化に適応させる形で、日魯漁業とその系列企業群を、農林・外務官僚との連携を保ちつつ、北洋漁業全体を統制する巨大な企業集団に作り上げた、平塚常次郎社長をトップとする経営幹部のリーダーシップと政治的手腕によるものであった(『北洋漁業の経営史的研究』http://j-net21.smrj.go.jp/establish/column/20040416.htmlようやく南氷洋漁業が軌道に乗り出し たとき、幾次郎にはいま一つの危機が迫っていた。中国戦線は泥沼の状態に陥 り、満州問題をめぐり、日本は国際的孤立を余儀なくされ、とりわけアメリカ との緊張関係が高まっていた。強まるのは、軍国主義の胎動である。産業界に も「新体制運動」が広まっていた。それは軍部を背景に、戦時革新官僚と迎合 的な経済人が、水産業をして臨戦態勢に駆り立てようとする「革新運動」であ った。民間事業会社を解体し、官営漁業会社を再編統合するのがこの運動であ った。政府の考え方は、日魯、日水、林兼の水産会社を統合し、中央統制機関 として帝国水産統制会社を設立しようという構想だった。統制会社に参加する かどうか、幾次郎は重大な決断を迫られたのであった。 幾次郎は自由な経済人である。経済は経営者の創意工夫と努力により、自由 な競争のもとで成立するというのが信念だ。だから経営に国家が介入している ことなど、とんでもないことだと考えている。だいたいが、幾次郎の林兼商店 は、国家の世話になど一度もなったためしがない。水産業で三本の指に数えら れるまでに発展を遂げたのは、幾次郎自身が先頭に立ち、従業員と一緒に汗水 流し、幾多の困難を乗り越え、切り開いてきたからだ。それよりも何よりも、 漁業、とくに遠洋漁業は平和な国際環境のもとでしか成立しない事業だ。戦争 が始まれば、開かれた海洋と漁場が閉ざされてしまう。大声を出してはいえぬ ことだが、幾次郎は戦争に反対なのであった。★農林大臣を糾弾した怒りの手紙 体制迎合は世の習いだ。そこには欲得も絡む。体制に順応することで、生き 延びようと画策する輩が出てきても、不思議ではない。大義名分もある。国運 を賭する大戦争だ。絶対に勝たねばならぬ戦争だ。ここは私心を捨てて、己を 犠牲にしても、国家の要請に応えねばならぬ、そういう類の大義名分だ。こう して水産業界も、挙国一致の名のもとに、統制・統合が図れていくのだった。 しかし、幾次郎は違った行動を取った。事業は経営の自由と相互の競争によっ て切磋琢磨され、産業の向上が実現するものだ。その競争を阻むような統制な り、統合はいかなる美名のもとでも、産業意欲を阻害し、結果において、水産 業の弱体を招くものだ――と、幾次郎は果敢に主張するのであった。 しかし、正論が通り難いのはいまも昔も変わらない。国家の重大事を奇禍と して、自らの利害を主張する者も現れる。水産業界の統制を熱心に推進したの は、ときの農林大臣井野碩哉という男だった。農林大臣は林兼の競合相手、日 本水産の元重役でもあった。漁業統制会社の設立は日本水産のかねての主張で もあり、いってみれば、井野は政界における日本水産の代弁者というわけだ。 これは林兼つぶしが狙いだ。幾次郎が怒るのも無理はない。幾次郎は農林大臣 に宛てに「戦時統制は戦力の増強と日本水産業の興隆を希う目的であるのに、 この非常時を機会として水産企業の覇権をたくらむ者があるから困る」と怒り の書簡を認めたのは、こうした事情があったからだ。http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50771150.html「(帝国水産)社内では、西村/金子/白洲と、林/木村の対立あり」(p80) ※参考: “水産工業 戦略の展開” pdf 水産の国家統制について, 日本水産のトップ田村啓三と植木憲吉は 強く抵抗したが, 専務の西村有作が先駆けて賛成した。 経営陣の ばらばらな姿勢の中には, 国家統制をめぐる日本水産の思惑と 主導権に関する駆け引きが隠れていた。 つまり, 第1に統制会社の主導権を握るとの思惑であった。 第2に, 帝国水産の設立は国家総動員法に基づく強権立法で あったが, その施行過程で漁業資本の根強い抵抗にあって, 結果的に漁業生産では現状維持に近い資本合同の形をとって, 水産物の流通過程だけを統制する統制会社になった。 (略) 冷凍・冷蔵技術を積極的に導入する主な動機は, 水産物の流通の 現状を改善するための大量加工・販売体制の構築のためであった。」 <以上引用> ※ジロさんは統制反対派と取れる様な記述がなされている割りに 統制派の西村専務と組むのは何故なのか。 「(昭和19年12月3日で有馬日記の次郎に関する記述が途切れたのは) 帝国水産を辞めたからだった。(略) 後に次郎が選んだ仕事、 それは専業農家だった。」この時期の水産会社の歴史というのは黒歴史的なところもあるようで それぞれ 微妙にいい分がちがうようですレジェンドは有馬日記を引用してますがヨハンセンの絡みとか 反統制派という見方よりも 派閥争いとみるべきではないか ただ辞めて 公職追放あわないで正解でしたが
2009年01月12日
コメント(1)
ttp://www.buaiso.com/news.html―― 武相荘のひとりごと ――――――――――б この頃とても気になることが有ります。 武相荘もお蔭様で開館7年が過ぎ、相変わらず大勢の来館者をお迎えしております。 NHKの次郎と正子のドラマなども制作中であり、それでまたお若い方々にまで関心を 持っていただくのは良いのですが、正子は物書きとして世に出たのである程度は 致し方ないとして、次郎は一部の雑誌などで、「日本一カッコいい男」とか、「日本で 初めてジーンズを履いた男」くらいはご愛嬌としても、「マッカーサーを怒鳴りつけた男」 と書かれるに至っては、白洲は筋を通してもそんな失礼な男ではなかったと言いたくなります。 情報化時代とは言え、白洲は自分の身長を公文書に175cmと申告し、正子も彼は6尺豊かな 大男とは書いていますが、最近の雑誌では遂に185cmに成長し、ゴルフのハンディキャップも 実際は「7」か「8」だったと思いますが、いつの間にかハンディキャップ「2」の名人に 成ってしまいました。 このまま後5年もすると、白洲の身長は2mを超え、ゴルフはタイガーウッズより 上手くなってしまうのでは・・・と、とても心配です。いわゆる白洲ブームなんて 半分は こんなものだという例ですねこの程度の基本事項で御本家から指摘されるぐらいということは 他も想像つきますよね この程度の内容で人に説教する方多いですねー 笑ってしまいますねー
2009年01月05日
コメント(13)
終戦の数ヶ月前から市場では 軍部に睨まれながらも軍需株が売られ 代わりに紡績や食品 百貨店などの平和産業株がかわれだしたということから 山種ならずとも 敗戦を見越しての戦後経済を指向する 株界の触角は鋭敏そのものであったのだ。昴進する悪性インフレにストップをかけるため 預貯金封鎖 新円発行の金融緊急措置令が出たのは 翌21年の2月だった。新円は一人100円 残りの旧円は毎月一定額しか新円でおろせない これで600億円に膨張した通貨は4分の一に減った このとき株式買い入れは預貯金が使えた 封鎖預金で買った株式を新円で売ると 2 3割はマージンを引かれるが 制限以上の新円が手に入るから 資金集めの抜け道になった。新円さえあれば金儲けの口はざらに転がっていた時代である。この抜け道を利用しようとして 株式売買はにわかに盛んになった。株を買い証券会社の買い付け報告書を銀行に持っていけば 簡単に封鎖預金をおろせるのだから当然の現象である。ところが 抜け道には必ず疑惑が生ずるもので 証券会社が株式を買わない者にも空の報告書を乱発しているという疑いがかかって 兜町に警察の手が入った 野村証券の瀬川能留 沢村正鹿らの証券界の首脳が 勅令違反の疑いで次々に拘引 留置されてしまった。証券界は大騒ぎとなり 業界を挙げて釈放に奔走した。幸い違反はほんの一部と分かって、全員が無罪放免になったが 戦後の混乱が招いたとんだ一幕だった。もうひとつ旧円が認められたのは 22年に実施された財産税の徴収だった。山崎種二 その生涯と事業 山種グループ記念出版会より売りの山種というか おいしんぼの京極万太郎さんのモデルの 山崎種二の評伝より 一番 インパクトのあった部分を引用してみました。児玉が中国からもってきた現金については 封鎖で使えなくなったとか 小佐野が如何に封鎖を乗り越えたかという点がよくわからなかったのですが 株をうまくかませて乗り切ったと考えれば なるほどと思いました。そこから 黒幕と政界と財界と そして野村証券との関係が始まっただなーと思いますが 山種もその一味なんだろーというのが この本にでてきた人脈から伺えます。
2009年01月04日
コメント(1)
http://www.baa.gr.jp/files/04NL_Archives/ShashiSanpo.html 今般、ここで取り上げようとするのは、文庫本『英語屋さん』に収録されている「料亭嵯峨」という作品である。戦後の財閥解体で、S本社は第二会社I不動産をつくった。その株の60%を社員及び縁故者で確保し、残りを一般公開することにした。ただし、その全てを4大証券会社が落札するようにしたい。そのような計画を実行するため、GHQ経済科学局のジョンソンに便宜を図ってもらおうとした。ジョンソンは、卑劣にも“日本人女性”を要求してきた。その舞台になったのが向島の料亭嵯峨である。I不動産の総務部次長だった源氏鶏太(本名:田中富雄)は、GHQの要人に“日本人女性を世話する”という厭な仕事に携わった。「料亭嵯峨」のストーリーは、事実に基づくものである。源氏鶏太「私の履歴書」(『私の履歴書 文化人5』1982年、日本経済新聞社)にもGHQ要人に便宜をはかろうとしたが、結果は失敗した旨の記述がある。4大証券会社は全く落札できなかった。別な2社の証券会社がI不動産の株を落札してしまう。I不動産側は落札価格より高値で株を買い戻さなければならない。総務部次長だった田中富雄(源氏鶏太)は、その任に当たり奔走した。さて、「料亭嵯峨」にも「私の履歴書」にも、源氏鶏太が株の買戻しの交渉相手である証券会社名は記されていない。「いったい、どこの会社だろう」というのが、私の疑問であった。最近ようやくその謎が解けた。I不動産の株を落札した2社の証券会社のうちの1社は山種証券であることが判明した。尾崎芳雄『山崎種二 その生涯と事業』(1989年、山種グループ記念出版会)に、以下の記述がある(228ページ)。 「泉不動産(現住友不動産)のときは全量を山種が落札した。・・すると住友の総務部次長田中某という人があわてて山種証券に駆け込んできた。なんとか譲ってほしいというのだ。住友の御大堀田庄三からも電話で依頼があったので、サヤをもらって譲渡した。このときの田中某とは後の作家源氏鶏太である。」 以上のように源氏鶏太の「料亭嵯峨」と「私の履歴書」、『山崎種二 その生涯と事業』の三点の文献を併せ読むと“真相”が浮かび上がってくる。ただし、細部は少々異なる。「記憶違い」「ぼやかし」の要素があるからであろう。http://www.al-chemy.biz/B/soro_24.htm 話を株式市場へ戻そう。集団売買が次第に盛況をみせるようになった頃、株式の入札がはじまった。戦後、GHQの方針によって解体された財閥の持株や財産税で物納された株式は一たん凍結されていた。それが入札形式で放出されたのである。財閥に集中していた株を広く一般の人に分散するというのが狙いであった。証券民主化運動の一環でもあった。CILC、SCLCなどと呼ばれた凍結株処理機関を通じ、財閥系中心の有力会社の株式が次から次へと公開入札に付されていった。そのトップを切ったのは東宝と私鉄三社であった。二十二年の秋のことである。これは商売になる。集団売買でたっている気配をみて、ソロバンをはじき、応札した。うまく安価で落とせば、サヤをとって売れる。入札代金さえ豊富にあれば文句なしにもうかる。もちろん、売れ残ってしまってはまずい。ところが、うまいぐあいに、買い手はあった。地方の財産家などを中心に結構お金をもっている人がいたのである。それに各財閥では解体されたとはいえ、そのまま株式が散ってしまってはえらいことだと考え、何とか食いとめるべく手を回していた。これなら落札した株を売りさばくのはいとも簡単だ。そこで積極的に入札した。なかでも泉不動産(現住友不動産)の時は全量落とした。何しろ発行株の八割に及ぶ。あたふたと泉不動産の責任者がかけこんできた。名刺をみると、総務部次長田中ナニガシとある。用件を聞いてみると、私の方で落札した株を何とか譲ってほしいというのである。住友銀行からも堀田さん、百瀬さんを通じ重ねて熱心な依頼があった。こちらにしてみれば、ソロバンになればよいわけだから、結局お譲りすることにした。この時の総務部次長が、有名な小説家、源氏鶏太その人だった。これに似た例は、住友不動産以外にもずい分あった。そういえば この前後に 住友銀行の堀田にたかっていた 元アカのつくった製紙会社と 土建屋がいましたが こんな裏事情があったんでしょうか
2009年01月03日
コメント(0)
田中清玄の銃撃事件は 清玄自伝との関係で 下記のように言われることが多いようですhttp://www.gameou.com/~rendaico/kuromakuron/60anpo2.htm 田中清玄はその後、東声会の銃弾に倒れる。東声会は児玉系であり、読売の渡辺恒雄の名も一時役員に名を連ねている。つまり、児玉の配下に狙撃されて、危うく一命をとりとめたことになる。 これらの史実は貴重ではなかろうか。れんだいこなりに評すれば、政府自民党のタカ派系が活用したのが児玉系右翼、ハト派系が活用したのが清玄系右翼で、この両者は暗黒社会でイニシアチブを廻り暗闘し続けていたのではなかろうか。2004.8.14日 れんだいこ拝清玄自伝の歴史では こうなるのですがいわゆる 任侠系の歴史では こういうことを言う方はいません実録 東声会というDVDと 三代目 山口組 猪野健治著を参考にしますと いわゆる 田中清玄銃撃事件の背景を私は こう読んでいます1 東亜連盟にいた 町井久之を 児玉 誉士夫がもり立てて 東声会ができ る2 在日朝鮮人系ということもあり 弱い 立場にあった 東声会をもり立てる ために 児玉のはからいで 山口組 と 兄弟分の杯を交わす3 山口組は 関東に出るために 東声会を利用することを考える やくざの論理では 弟分が 兄貴に尽くすのは当たり前4 山口組の進出に 正面からぶつかることになる 稲川会が猛反発 東亜同友会ができなかった理由のひとつがこれ5 東声会が 山口組の一派とされ 関東の親分サンたちから 総スカンを食らう6 児玉の顔を立て 山口組との関係を崩さず 関東の中で生きていけ しかも極道としての顔も立てる方法はないか 東声会の連中が考えたのが 田中清玄の銃撃だったのではないか7 この当時 山口組の力を背景にした清玄と 児玉との対立が はじまっており銃撃事件以前の 野村秋介による 河野邸の焼き討ちもこれが 背景にあると思われる8 田中を銃撃することにより 児玉と関東の親分サンたちへの顔がたち 銃撃するけど 殺しはしないし 町井が指を詰めるということで ぎりぎり 山口組との関係を保つということで 無事 解決大親分なら 黒幕を両天秤にかけて うまく利用するくらいが当たり前ですし それができてこそ 三代目ですただ わびるのではなく 男気をみせてこそですから 親子ふたりだけだからとか そんな理由で やくざは収まりません 次は全面戦争だよ いいんですか三代目というのが 町井のメッセージです男気とお金で動くのであって 軍国主義うんねんで 街の有志のみなさんが 動くか どうか もはや戦後ではないなんて いわれはじめた時代ですから
2009年01月02日
コメント(4)
全9件 (9件中 1-9件目)
1


![]()