2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全8件 (8件中 1-8件目)
1
あやかりたいこと白洲は犬養健を台湾にやって 國府との親善を図るとともに、バナナの大量輸入を考えていたこともあるし、いまでもこの計画に未練をもっている。白洲はあの播磨工廠払い下げにあたっても、神戸製鋼の依頼をうけて 骨を折った。また鳩山が出てくることに全面的な嫌忌を感じており これが阻止を策している。等々 彼を巡る噂とりどり 沙汰様々 まるで落花粉々である。破れズボンに汚れた帽子 陽当たりのいい畑に出て 彼は麦を踏んでいる。世間の噂など全く風馬牛 百姓に成りきったようなポーズを取っていることもある。と思うと、神戸一中時代からの友人 今出日海や河上徹太郎とウイスキの杯を嘗めながら 近代文学を論ずる夜をも、持っている。そこで 麻生和子夫人はジロさん いささかキザねというのである。この時 ジロさん 少しも騒がずそういう和坊こそ キザだよ自由党の陣笠どもにとっては なんとも羨ましい一情景というべきであろう。ワンマンの愛娘をとらえて、ずけずけ口の聞ける身分にせめて五分間でもなりたい。せつない悲願であるかな やである巷説に曰く 右にワンマン 左手に淀の君 あやかりたいかな ジロさんにkawade夢ブック 白洲次郎 白洲次郎まかり通る。よりうまいという一文です。脇には 高尾太夫もいましたすね。武相荘いっていきました。上記はそこでの収穫の一つ いろいろ収録されて 白洲本としては ピカ1です。まだ売っているはずです。センスのいいお住まいで、いい感じで周囲にとけ込んでいました。蔵書もみましたが 一番びっくりしたのが 白洲正子所有の骨董品の数々 徳川家綱?いったいいくらすんだよという気がしました。ほんものの生活には 天井知らずの金がかかったはずで それを考えない人は幸せでいいなという気がします。
2008年01月31日
コメント(2)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/015/0512/01502240512025c.html小泉秀吉君 私は去る十二月十九日の本会議におきまして、総理大臣並びに運輸、通産両大臣に対し、航空政策に関して緊急質問をいたし、それぞれ一応の御答弁を得たのでありまするが、その後、情勢の推移に鑑みまして、ここに再びこの問題について質問をいたす次第であります。 私は前回質問のうちにおきまして、日本と外国との合弁会社を作る場合に、航空法の定めるところによつて資本の三分の一以内の外国資本を入れ、形式的には適法の形をとつていても、その会社の使用する飛行機はことごとく外国のものをチャーターしたり、又外国人の飛行士のみを使つたり、その他経営の実権は事実上外国の支配下に置かれ、日本側の自主性を失う虞れのあるような新規の会社の出願がある場合には如何なる措置をとるのか。又このような会社が出現すれば、我が国の将来に対し重要なる使命を有する航空機工業の育成発達は期しがたいと思うが、これに対する所見を質したのでありましたが、これに対しまして、総理大臣に代つて緒方国務大臣、又石井運輸大臣、小笠原通産大臣から、それぞれ私の質問の趣旨は尤もであり、今後の航空会社の免許に際しては、実質的に、我が国の自主性を守り得るよう処置いたしたいし、又航空工業の育成についても自主性を確立して、使用機の国産化に努力したい旨の御答弁がありましたので、私は一応これに満足しておつたのであります。 然るにその後諸般の情報を総合いたしますると、必ずしも安心を許さざるものがあり、我が国航空事業の将来に対し、好ましからぬ暗影を投ずることになるのではないかを憂うるものであります。即ち、目下運輸省に対して国内定期航空事業の免許を申請中のものは六、七社に及び、その事業を許すべきか否かの断を下す時期もすでに切迫しているようでありますが、その中に日米航空株式会社というのがあります。この会社は日米合弁の会社で、日本側としては、一流実業家が表面に立ち、二、三有力な事業家がこれに協力され、アメリカ側はパン・アメリカン航空会社のダラス・B・シヤーマン氏が免許申請者になつておるであります。その事業計画は、札幌、東京、名古屋、大阪、福岡というようないわゆる幹線航空路と、金沢、新潟、高松、大分、鹿児島というようなローカル線と、殆んど日本の全土に亘つておりまして資本金は御多分に漏れず三分の一だけがアメリカ側になつており、形式上は一応適法のもののごとくに組立てられておりますが、設立関係者間の内部の事情は、この会社の使用する飛行機はことごとくパン・アメリカンの関係あるアメリカ飛行機を使用するため、この資産の総比率は実に九対一となり、あまつさえその経営については、主としてアメリカ側がその衝に当り、日本側はただ単に資本金を三分の二負担しておるに過ぎないものらしいとさえ噂されておるのであります。若しこれが事実といたしますれば、運輸大臣の先般の御答弁にいわゆる形式だけは整つているが、実質は全く自主的性格の失われた会社というのに該当するように思われるのであります。 更に私の申上げたいのは、パン・アメリカン航空会社の性格であり、その歴史であります。私の知る限りにおきましては、パン・アメリカン航空会社は、御承知のごとく一九二七年ジュリアン・テリー・トリツプという人によつて創立されて以来、第二次大戦の直前まで米国の国際航空の事実上独占会社として南米、太平洋、大西洋の航空路を開拓し、今日の国際航空における世界の王座を占める基礎を築いたのでありますが、この間、アメリカ政府の絶大なる支持と援助のもとに競争者を斥け、その前進を阻む者は巨大なる資本の力と政治力を含む権謀とを以てこれを屈服し、あたかも燎原の火のごとく世界航空網の支配力を拡大したのであります。特に後進国の航空事業を支配して、その自主性ある発展を阻んで来たのであります。例えば中南米においては、コロンビア航空会社を初めとしてブラジル、ドミニカ、ホンジニラス、メキシコ、コスタリカ、ヴエネズエラ、パナマ等、各国の航空会社は、その資本構成は形式上ことごとく二分の一以下の株式をパン・アメリカンが所有しておるに過ぎないのに、実質的には全くパン・アメリカンの支配下にあり、かくして中南米諸国の航空は大部分がパンの支配下に隷属して、その自主性を失つている現状と存じます。 第二次大戦中及び終戦後には、更にその歩武を進めまして、今やその航空路線は、北はアラスカ、東は欧州並びに中東に延び、西は南太平洋よりフイリピン、インド、パキスタンに進み、更に中国航空公司を支配して、シビル・エア・トランスポート会社を創設して極東地区に活躍中であり、次に狙われているのが即ち我が日本であります。尤もパン・アメリカンの世界航空の支配力は、その極限に近ずきつつあるもののごとく、アメリカ政府も、パン・アメリカン独占的横暴を許さざる情勢になりつつあると承わつております。アメリカ政府がこうした態度をとるに至つた理由としては、第一に、パン・アメリカンがしばしば競争者を欺瞞したため、相手方の反感を買つたこと、第二に、権利獲得のために政治的策謀が目に余るものがあり、アメリカの民間航空局が憤激するに至つたこと、第三に、航空機のメーカーがパンのために巧みに操縦されて苦汁を嘗めさせられたこと、第四に、諸外国の航空会社はパンを国際航空運賃の撹乱者とみなして排斥していることなどによると言われております。それにもかかわらず、今やパンは日本に対して頻りに食指を動かしているというのが現在の段階であると申されております。仄聞するところによりますれば、この日米航空会社においては日本全土に航空網をめぐらして、その巨大なる資本力をバツクにして、極めて低廉なる料金を以てサービスをする計画であるとか聞いておりまするが、低廉なる料金と行き届いたサービスとは誰しも望むところであり、今後飛行機を利用する国民はさだめし喜ぶことでありましよう。併し、たとえ目先は喜ぶといたしましても、この目前の利益のために我が国の航空事業が半永久的にパンのために支配せられ、自主性ある我が国航空事業が遂に芽を出すことも成長することもできず、又我が国の産業上極めて重要なる航空工業も発育することができないということになりますれば、由々しいことであります。目前の小利と国家百年の大計と、事の軽重先後を勘案して、高邁なる識見を以て断を下すことこそ、政治家のまさになさねばならぬ責務の一つであると存ずるのであります。 尤も現在の日本の国内定期航空はおおむね日本航空会社一社で只今やつておりまするが、これに対し多くの非難があるではないか、それだから有力なる競争会社を作ることは望ましいことであるという説も出て参ります。この説は一応尤もであり、又日本航空に対するいろいろの非難があることは事実であります。果して然らば、監督官庁としての運輸大臣は、これが刷新改善のために断々乎として有効適切なる手を打つべきではないでしようか。又競争会社を作らせることも結構ではあるが、それも相手によりけりであります。先ほど申述べたような、いわば狼のような相手を、発達幼稚な段階にある我が国の航空界におびき入れる必要はなかろうと思うのであります。日本の航空界は微力である、だから外国の有力会社に見ず転でおんぶするのだというイージーゴーイングな考え方をとる前に、自力を以て起ち上る工夫をとるべきであると信ずるのであります。 最近新聞紙の報ずるところによりますると、日米航空会社の発起人の一人である某氏は、インドに呼びかけて日印合弁の製鉄会社の計画を進めて来られたらしいが、その計画は、丁度この日米航空とは逆に、日本側が事業経営の実権を握るものであつたために、インドの民族感情の反撃に会つてその計画は挫折しかかつているとのことであります。これは、いやしくもインド民族にして、渇すれども盗泉の水を飲まざるていの自主独立の志ある限り当然のことでありまして、私は心ひそかにインドの国民に対し敬意を表しているのであります。然るに、日米航空の日本側の発起人は、かくのごとく我が日本民族の感情を理解せざると同様、他国の民族感情に対しても無感覚であり、ひとえに損得収支の商業主義によつて行動しているもののごとくに見受けられるのであります。私は、日露戦争直後にアメリカの鉄道王ハリマン氏が南満株道の買収を計画したときに、時の外務大臣小村寿太郎氏が決然起つてこの計画を破棄せしめた歴史を今想い起すのであります。小村氏の功罪を今ここで論じようとは思いませんが、彼の憂国の至情と耿々たる一片の志とは、今日の日本人に対し深い反省と又示唆とを与えるものと信ずるのであります。この意味におきまして、日本民族将来の運命に対し何らの愛情も持たないように見ゆる日米航空会社の発起人は、アメリカ側の会社も日本側の人たちも遺憾ながら適当なものではないと断ぜざるを得ないのであります。白洲次郎が パンアメリカン航空とくんで 様々なことをやろうとしていたという噺を すでに紹介したんですが これの元ネタを探していたのですが たぶんそれがこれで この某氏が たぶん白洲次郎ということなんでしょうか? 白洲次郎の関連本は 航空利権とのからみが出ているのですが その最初の発端が、パンアメリカン航空と組んで、国内の航空路線に入ろうとしたということがあったようですが 歴史の経過を見ると ダメになったようです。 このへんは もう少し知りたいものですが なんだか 白洲と村上ファンドとか 竹中平蔵が ダブルのは 私だけでしょうか?ハゲタカファンドの手先ですかね?このへんの評価や 歴史の流れを無視しての 白洲の評価?また そのあたりをみないで 白洲のエッセイを見る?なんだかおかしいです。
2008年01月28日
コメント(12)
正子の連れ合いが 戦後の一時期 吉田茂の側近だったということは、もちろん当時も知られていた、だが そんなことより 白洲次郎の真骨頂は 戦前のケンブリッジに遊学した本格派のデイレクタントとして 生涯その生き方を貫き通したところにあるのではないか。私などはそう思っていて なんとはなしに ベルエポックのパリに名を馳せた あのバロン サツマこと 薩摩治郎八のような人物を想像していた。では このような私の白洲次郎像は その後どうなっていったかというと 今回 白洲次郎本並べて一気読みの壮挙を成し遂げての結論は他でもない なーんだ やっぱり私が考えていた通りでいいんじゃないかである。ところが 世間の潮の流れは必ずしもそうではない。まったくデイレッタント一代では何が不足だというのだろうか。白洲次郎を安っぽい 昭和の国士や侍に祭りあげようとする愚かしい動きも そこそこに見える小説 新潮 徹底読み比べ 白洲次郎本 山口文憲著よりこれでいいんじゃないですかネタで 議員や大臣になった談志師匠は 昭和に残る落語家で 一流の生き方をした方ですがでも 國士なんていう方いないでしょ?白洲次郎も ほんとのところ 何をやったのかはっきりしないんですから
2008年01月26日
コメント(3)
持つべきものは友達にして 情けは人の為ならずという噺です。http://www.okudogo-golf.co.jp/about/woods.html中国大使を務めていた頃の吉田茂元総理大臣と親交のあった榊谷仙次郎氏を坪内が厚情をもって対応し、この榊谷氏の豪邸を買い取り、同氏の窮地を救いました。数年後当時の日本商工会議所会頭・永野重雄氏が榊谷氏と同郷であったことから、この豪邸を譲ったそうです。吉田元首相は永野氏と相談の上、榊谷氏への厚情に感謝の気持ちを込め、豪邸の玄関にあった松を坪内に贈ったのです。その使者には、吉田元首相の側近として、諸外国との交渉にあたり、日本復興の原動力となり、後の国会にも強い影響力のあった白洲次郎氏が訪れて移植しました。http://www.dokokyo.or.jp/ce/ce0707/aruku_01.html上記が榊谷仙次郎について 整理されたものです。吉田茂が 中国の大使とありますが 領事の間違いではないかとおもいますがhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/008/1294/00811181294017c.html○小松委員 存じてなければお尋ねすることも控えなければなりませんが、三建工業のごときは、三浦義一さんの紹介によつてあなたの方の工事をしておるというようなことが世間でうわさされておる。あなたの方の会社と三浦義一さんとは非常に深い関係を持つておる。その他資材の購入についても、三浦さんの紹介によつて相当の資材を納入しておるものもあるということであります。そこに三浦さんを介していろいろの政治方面に活動したというような疑惑が生じておるのであります。 そこで私は別にほかの方面で伺いますが、先ほども委員長からお尋ねがあつたんですが、あなたの方の工事で請負業者の談合が行われておりはしなかつたか、こういう話と、それから請負業者の利益はどのくらいだというようらお問があつたのですが、私はそれに関連して伺いたいのですが、あなたの方の工事を請負つている請負業者の方たちの中で、あるグループがあつて、そうして新しい工事を請負つた人たちから何割かをはねて、それをあなたの方にこの人たちが積立てておる。それをいろいろ政治方面にも献金しておるといううわさがあるのであります。こういうことをあなたはお聞きになつたことはないか。またうわさでは、あなたの方の理事に清水さんという理事がおりますか、その清水さんがこういう仕事をしておるというような、これもうわさですが、そういううわさもあるのです。こういうことはあなたはお耳にしたことはないか。http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/wakayamaport/kouho/vol14/npo.htmlもともとは西本建設の本社ビルとして建てられたものです。西本建設は現在の三井建設の前身で、戦前は満州鉄道の建設に携わるほどの大きな会社だったと聞いています。 とても重厚なつくりで、天井も高く、昭和2年に建てられ、80年も経ています。歴史はすご く感じる建物ですね。上記にあげた 三建も 西本組と関係のあった会社で 現三井住友建設の源流です。どうも 吉田系というのは 満州閥との関連がうすいような印象をうけますが 実はそうでもないという気がします。そのつながりの中に 三浦義一 田中清玄 四元義隆がいるようで その彼らと 吉田をつないでいたのが 白洲だったのではないかと思います。
2008年01月14日
コメント(8)
それに 小川商会が破産になって 債権者から責任を追求されるなんて みっともないことは 御免こうむりたいからな 白井(白州次郎)が まぜっかえすように言ったが 厚田(渥美健夫)は 真剣な眼差しを白井に向けながら うなずいている高杉良 作の会社蘇生 講談社よりこの本はいまは ユニマットの傘下の大沢商会が 倒産から 蘇生までを 描いたものです。冒頭は 当時 非常勤の取締役会長になっていた白洲次郎らしき人物のお言葉です。 一連の白洲次郎の伝記を読んで勘違いしている方も多いのですが この方 別に 東北電力の会長を辞めてから ビジネスから引退して ゴルフざんまいだったわけではなく あちらこちらの会社の顧問的な存在だったわけですね。 なぜか 大沢商会の会長をしていたことは どの本にもでているんですが 戦後 最大級の倒産事件までになった時期に会長だった時期には触れてませんが どうなんでしょうか? いいときには 銀座でのつけは 大沢商会で 大沢がやばくなったら マミヤカメラの株を コスモの碓井優に押しつけ 残りを外資の証券会社経由で売り 自分の経営責任を追求されそうな外資ではなく なんとか ごまかしてくれそうなセゾンの堤サンに 大沢商会を押しつけたというのが 当時の裏事情だったのかも?
2008年01月13日
コメント(3)
http://www.melma.com/backnumber_45206_3338572/(編集部より)長野朗氏の略歴が判明しました。 下記の通り、これはI教授からのご指摘です。~~~~~~~~~~~~~~~~ 明治二一(1888)年四月三日生(原籍福岡県三池郡二川村/現在高田町)、久留米市明善中学校入学、同校卒業 。四二 (1909) 年 陸軍士官学校卒業(二一期) 同年一二月歩兵少尉に任官。 大正元年 (1912) 、中支那派遣隊として漢口に駐在、翌二年一〇月帰還、同年歩兵中尉に進級。三 (1914) 年、青島攻囲戦に参加、同年一二月凱旋。 大正八 年一月より一二月まで語学留学生として北京に滞在 専ら支那語及支那事情の研究に従事す。九年八月より十年八月まで支那駐屯軍司令部(天津に在りて経済及地理資源の調査に従事、九年四月、大尉に進級。 十年 (1921) 年一一月 予備役となり支那研究に従事。(注1)後掲「年譜」によれば、一〇月一二 (1923) 年四月 支那駐屯軍司令部嘱託として天津に赴き一三年一一月まで軍司令部調査班経済主任として、兵要地誌の調査に従事。一三 (1924) 年一一月より一五 (1926) 年四月まで東方通信社東京本社に勤務、一五(1926)年 支那問題研究所創設。拓殖大学講師を兼任 昭和二年 千倉武夫の紹介で権藤成卿と出会い、以後私淑。(同年二月、権藤、『自治民範』を刊行。この頃、拓殖大学教授に就任。昭和四 (1929) 年頃迄まで在任か(注2) 三(1928)年 東亜経済調査局理事(理事長・大川周明) 七(1932)年四月 橘孝三郎、稲村隆一、和合恒男達と、自治農民協議会を設立し、農民新聞を機関紙とする。一二(1937)年七月 権藤帰幽。四元義隆夫人と臨終に立ち会う。 昭和二二(1947)年 職業軍人として公職追放。二八 年四月 全国郷村会議を結成。教授(専任-担当科目なし)に任じられる(大学人事課発令簿)(注3) 三六(1961)年一〇月 清水市(現静岡市清水区)鉄舟寺の境内に、自治学顕揚の碑を建立、「天下為公、大同の世」の実現を誓う。五〇 (1975) 年 六月二一日 永眠。享年八七歳。郷里の父祖以来の墓地に埋葬。 * なお本略歴作成に当たっては、一、拓殖大学人事課所蔵履歴書 大正一五年八月付、二、昭和二年五月付け、三、遺著『自治論』巻末にある「年譜」(注1)を参考にした。(注2)卒業アルバム 昭和二年三月・三年三月刊行・巻末教職員住所名簿に名前あり(昭和4年記載なし)(注3) 昭和二九~三〇年頃「中国研究」担当教員として募集要項に名前ありこういう人たちが 四元義隆 または 田中清玄の周囲にいたらしいということがわかりますが 1937年の段階では 四元は まだムショの中で、ちなみにこの夫人は西郷家のお姫様です。獄中結婚?前からの婚約とか?血盟団のよくわからない点の一つではあります。
2008年01月07日
コメント(0)
田中清玄が 丸善石油化学の取締役で 矢板玄が 三菱化成の取締役という時期もあったようなんですが いったい彼らは 何をしにその会社にいたんだろうとおもうのですが?海外の石油開発での 裏金作りという線もあるんですが これだけでは少ないなと思うのですが さて一つ これが本業だったのではないかという物を見つけました。http://www.usedboat.or.jp/Log/Recall7-Pasocon1.htm戦後(しか知らないのだが)一貫して、石油業界には正規の流通の他に業転市場と呼ばれる流通世界があった。 石油メーカーから特約店とか商社など石油流通業者に卸されるのが正規ルートとして、どこから出た玉か判らないままにブローカーや商社間で取引されるのが業転である。 特にその市場がたっているわけではないが、それなりの相場形成が成り立つだけの流通量があった。全体量の2割を占めていたのではないか。業界紙はその相場を重要な情報として掲載した。 他の商品相場と異なるのは必ず現物の授受を伴っていたことである。 その時々背景は異なっていたようだが、話を昭和40-50年代にしぼると業転市場が成立する要因が明確に存在した。それは生販ギャップと言われる生産量と販売量のギャップである。単なる換金市場ではなく、構造的に必要な市場であった。。 当時石油メーカーの製造設備は通産省の許可対象であった。販売力があるからといって必ずしもそれだけの設備許可は与えられない。そこには天下りとか、いろんな要件が絡むのである。 経済は右肩上がりだから設備は常に不足気味である。フル操業に近い。販売力より生産能力の多い会社は生産した製品を全部自社で販売したと言いたい。販売力のないことを認めると次の許可割当で不利になる。そのために闇の世界の業転市場に流すのである。 そこに闇の紳士もうごめく。三菱石油を舞台にした泉谷某のスキャンダルを覚えている方も多いだろう。 役所に楯突く出光は常に買手側であった。 正規の流通ルートが建前の世界なら業転はフリーマーケットである。まさに需給で動く世界である。そしてそこに石油ならではの条件が働く。 1)石油は連産品である。ガソリンが欲しいからといってガゾリンだけを作ることは出来ない。原油の得率に応じて他の製品も産出される。 2)石油はバルキーな商品であり、危険物である。どこにでも置くことは出来ない。製品毎のタンクの容量が大きな制約条件となる。 3)需要に変動がある。例えば豊水で水力発電が増えると石油火力の稼動が落ち、C重油の消費が減る。するとC重油タンクが一杯になって軽油は足りないのに原油を処理することが出来ない。暖冬で灯油が余ると灯油タンクが一杯になって原油処理が出来ず、他油種が不足する。 こういった条件の中で価格が形成される。略官の介入 石油精製において製造設備が官の許可制であったことは既に述べたが、毎月の生産量もなんらかの形で官の統制下にあった。法によらないので<生産調整>等の名前で呼ばれたが、実質統制に他ならない。ただこの統制は石油業界の希望するところでもあった。 ところで1980-82年は、わが国の石油精製の歴史の中で例外的に<統制>のない時代だった。第2石油ショックの直後で、政府はとにかく潤沢に石油を供給させるために一切の統制をはずした。石油業界はレセフェールの状態におかれた。 私が価格予測モデルを構築したのは実はこの時期だったのである。自主的な原油処理・製品生産、そしてその結果としての需給・在庫要因から形成された業転価格をデータとして使用した。価格は見事にマーケット要因を反映していた。 しかし1983年頃よりガゾリンの生産調整が再開されたのであった。各社の自主生産が大幅な生産過剰を招き、製品の値崩れを招いて石油連盟は生産調整の実施を通産に要望したのである。(石油連盟が正式に要請した証拠など残っているはずもないが、その辺は官と業界との阿吽の呼吸である。田中清玄は ダミー会社を いくつか所有していましたが 帳簿だけのやりとりなら それで十分のはずです。また そのバックには 石油業界のドンがひかえていれば 実に簡単に この取引ができるはずですが 払いも多そうだから 儲けがそれほどあったかは疑問ですが。また清玄と山口組の関係も丸善石油を媒介にしたものがあったのでしょうか
2008年01月06日
コメント(2)
次郎の気持ちは決まった。セール フレーザー商会の仕事が一段落していたこともあり、田村社長の申し出をありがたく受けることにしたのである。昭和12年(1939年)3月、まず買収先の日本食糧工業に入社して合併準備を行い 同年12月 共同漁業と合併後名前が変わった新生 日本水産の取締役外地部長に就任した。35歳という若さであった。缶詰、鯨油の輸出先拡大が主な仕事 鯨油はマッコウ油とナガス油に大別されるが 前者は蝋燭や洗剤、口紅などの原料になり、後者はマーガリンなどに加工される。鯨油マーガリンは この当時 オランダ ドイツ イギリス デンマークなどで大規模生産が行われており 次郎の仕事の中心はこれらの国への日本産鯨油の売り込みにあった。白洲次郎 占領を背負った男 北康利著 講談社http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm吉田茂との係わりに関して、白洲次郎は、「吉田さんの奥さんは牧野伸顕の娘さんで、 牧野伸顕は鹿児島出身で、大久保利通の二男なのです。 (参照:大久保・牧野家系図)僕の女房は、やはり鹿児島出身で樺山愛輔の娘です。 そんな関係で牧野伸顕を知っておったから吉田さんも知っていたということです。 吉田さんが英国の大使をしている時分(昭和11~13年)によくロンドンに行ったんです。 そのころ、私は日産コンツェルンの外国関係の責任者だったんです。 まだ若くて、三十歳ちょっとくらいです。 その時分にロンドンに行ってよく話したりしまして、 はじめて大人の付合いがはじまったということでしょうね。」北サンの本では、日本水産の取締役で 白洲次郎自身の回想(ここの出典はよくわかりませんが)では 日産のとなってますが ほんとうはどっちなんでしょうか?兼任という可能性もありますし 日水も日産グループの中の一つであり 田村家も 鮎川義介と親戚ですから 関連があってもおかしくはないのですが。このへんは 無知か 意図的に 北サンの本 または最近の白洲次郎ブームから 外されています。
2008年01月02日
コメント(3)
全8件 (8件中 1-8件目)
1


![]()