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本能寺の変については、昔は 光秀の恨みか 野望かなんていう理由で論争をやっていたぐらいですが、今は 朝廷の関与とか もう少し 複雑な議論がなされているようです。光秀の家臣団には いろんな方がいまして、春日局の親父の斎藤利三の母親は、室町幕府の重臣の出 また家臣団には 元室町幕府の奉公衆が山のようにいます。たかが数年で光秀が家臣団を掌握できたか?戦国大名って 絶対君主では決してないはず?日朝の国交回復に急ぐかたがいるのも、すべては鹿島のためにという方が 群馬県にいるからという見方もできると思います。建設業界大手の株価指数と、これをリンクさせてみるのはいかがでしょうか?信長の家は?ですが、家康の家を、新田家の出と考えるより、時宗の聖としてみて、秀吉の家を近江から流れてきた これも時宗の聖としてみるとかマルクス主義ではなく、毛沢東や金日成はヤクザの親分とか、陰謀論ではなく、ポリシャビキの指導層には ユダヤ人をはじめ、異常に少数民族が多かった意味とか 確かに 唯物史観ではこのへんは教えてくれません。歴史の動きって 人物でわりきるほど 単純でないですが、歴史を動かすのも人物ではないかと思いますが、人物史観に立つ方って、講談本史観の方って多いです。(右派も左派も)
2005年01月13日
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http://homepage1.nifty.com/sira/amakusa/a_mokuji.html「兵書でも、人が窮するときは死を覚悟して乱をなすという。しょせん、いつまでも時節を待っていても命数には限りがあろう。大義を企てて志を天下にあらわそうではないか。ぐずぐずしていないで、明日すぐに相談しよう」と言った。 いずれもそれに同意し、翌日集まることを約束して連れだって帰って行った。 さて翌日、皆で小舟に乗ってある小島に漕ぎ寄せ、岩の上から釣竿を下ろして一か所に集まって相談した。 まず赤星が、「それがしが常々考えるに、この島の領主の先代の寺澤志摩守は武勇にすぐれ、政道も正しく、民百姓もよくなついて裕福に暮らしていたのに、今の兵庫頭は政道がことのほか乱れている。年貢のほかにも民に労役を課し、財宝をむさぼり、さまざまな悪政を行っているので、百姓どもははなはだ難渋して領主を恨み役人を憎んでいる。特に今年はどの国も不作で飢饉になりそうだ。この機に乗じて百姓どもを煽動して一揆を起こさせ、われわれは運を天に任せて先祖の武名をあらわして戦えば、志を遂げることもできよう。もしも武運つたなく討死するとしても、それはもとより覚悟の上」と、言った。 その言葉を聞いて蘆塚は、「それはよい思い付き。幸いこのあたりは種ヶ島が最初に伝わった所なので、百姓どもが鉄砲に熟達していて鹿や猿を撃っている。また、そのほかに猟師もたくさんいる。彼らを煽動して徒党を組ませ、一揆を起こさせようではないか」と、談合した。 浪人等が談合した島なので、この島は、現在、談合島と呼ばれている。 蘆塚はさらに工夫をめぐらし、「以前、異国から切支丹という宗門が伝わって諸国に広まり、中でも西国で盛んになり、この島の者どももその宗門を信じている。当時は法度が厳しかったため多くの者は表向き改宗したが、内心ではまだ信仰を続けている。さいわい、私と以前朋輩だった森宗意軒がこの島にいて切支丹宗を信仰しているので、彼を先導にして切支丹宗の不思議を現出し、愚民どもの心を惑わし、弁舌をもって引き入れようではないか。さすれば早くことがまとまるであろう」と、言った。 ほかの者たちも、「それはよい。われわれもその宗門を信じていたことがある」と同意した。こうして、相談は数刻におよんだ。島原の乱の始末を描いた 天草騒動という本のなかで 興味深く感じた点のひとつですが、ここに百姓とかかれている点に注目。佐世保で小学生の同級生殺人事件がありましたが、あの周辺は山村が多く、どうも百姓という 農民 農民は米を作っているというイメージがありますが、この本(かなり如何わしい史料ですが)をみる限りでは、山村にある鉄砲撃ちの武力に眼をつけたきらいがあるような印象を受け、通常いわれている 島原の乱とは 少し違う面も 浮かび上がってきます。
2005年01月11日
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最初 書店でこの本の装丁を見たときは 絶対 エンターブレインなんて 思いませんでした。他の出版社だとおもったのですが これが意外話の作り方とか 含めて 今の流行にのっていなといないけど(ただ 少しちがうとおもうけど この本もそれっぽい読み方をされているみたい)ストレートに書いている点は実にいいなと思う。SFファンタジーか 学園物主体な中で こういう異色のものが出せたという点もいいなと思う。どちらかというマニア色の強い版元さんだから もっと工夫はできるとおもうぞ。ということで 2人の恋の行方に注目か?
2005年01月10日
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美味しんぼにでてくる話で 北陸を中心に、親鸞の命日にお坊さんを呼んで みんなでお食事をするというイベントがあります。宗派の開祖の命日に、というイベントではほかでもありますがなにせ 最近まで親鸞の血脈がローマ法王のごとき身であるので、さもありなんですが。ちょうど このときは冬至の季節でございます。オオイゴというか ダイシの神も 親鸞と 偶然かどうかは知りませんが、小豆が大好きだそうです。小豆が 日本で普及したのも、これで 餡をつくり肉を食べられない僧などが これを食するようになったようです。あきらかに これにかけたんだろうなという気がしますが。さて
2005年01月09日
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http://homepage1.nifty.com/sira/amakusa/a_mokuji.html天草騒動といい、成立がよくわかりませんが、当時のキリシタンへの認識がわかる史料のひとつではあります。山田風太郎もこのへんをネタ本にしていたのでしょうか?さて 天草四郎はいなかったと題しまして どこから噺というか 話というか 妄想をはじめましょうか?熊本大学のとある先生の考証では 良質の史料においては 四郎の確認はできないようです。まあ島原の乱じたいが よくわからない部分があり 幕府が まちがいなく史料隠匿に走り、真実を隠匿して キリシタンの禁令を出して 鎖国の道につなげたという面があります。http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/exhibit/1999/amakusa.html以上 参考までにかの八切止夫が よく島原の乱で だされる旗にしても あれはプロテスタントのものであるとか(本来ならば カトリックでないといけない) また オランダ船が原城に砲撃を加えていること(よく 船員は協力したものだ)とか闇の日本史という本では、九州全域にひろがる 古代の女神信仰 それが薩摩では 阿弥陀如来を 女神に見立てることにより 浄土真宗がひろまり、肥前 肥後では、マリア観音を女神に見立てることにより、キリスト教がひろまり 両方とも 禁教されたとしていますが。考えれば わかりますが、明治時代以前に 個人で宗教に入り、その宗教が弾圧され 殉教というのが 日本人のなかでありえたか?経済的に、精神的に 個の確立が 江戸時代中期以前にありえたか? キリシタン布教の背景を考察し、それを同時代の中で見直して、果たして 天草四郎はいたか いなかったかを 考察してみたいと思います。
2005年01月08日
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蓮如の時代までは 本願寺というのは はっきりいわば 浄土真宗のなかでは どういう存在であったかについては はっきりいわば 親鸞の墓守でしかないわけです。また蓮如の時代に 北陸にでていき 勢力を加速度的に膨らましていく段階でも、はっきりいわば 当初は叡山の末寺の権威を利用した面があることは否定できません。宗教的にみて 親鸞の末裔がどれだけ意味があるか 私にはわかりませんが、他の宗派をみても 開祖の末裔だから偉いという面がよくわかりませんが、親鸞を持ち上げることにより はっきりいわば さまざまな宗教宗派の習合であった 念仏の一派が 親鸞を通して作り上げられてきたという可笑しい面が親鸞を持ち上げるときに でてきます。そんなことは絶対にないのです。浄土真宗本願寺派というものは、修験者や土俗的な宗教の上に 時宗を初めとする私僧たちの集団がのり その上に、いまや天皇家ともご親戚の親鸞の血脈と称する 大谷家がのっているのです。歴史を握るというのは恐ろしいことで 金日成が スターリンがレーニンが、毛沢東が 昔の同士たちを粛清して 革命はわれ1人でなれりとほざいているようなものが 親鸞についての言説のような気がしてなりませんが さて。日本の宗教史のゆがみのひとつともいうべき面だと思います。
2005年01月07日
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親鸞の師匠自体の 法然にしても、確実な存在証拠は意外とないようですが、さてもともと 念仏宗自体が、天台や真言と 山伏の系列の流れから 成り立つもので どうも 日本の宗教史の場合には 高僧をピックアップしすぎるきらいがありますが、真宗自体が 蓮如のころまで 比叡山の末寺で税金を払っていたことをお忘れなきようにお願いしたいものです。熊野 善光寺、などの聖が 常陸を中心に、念仏宗をおこしてきたのが、真宗のはじまりで 最初は 親鸞についての 伝説にすぎませんが、空海の伝承をベースにした越後の七不思議をもとに考えますと あれは明らかに、古代信仰をベースにしたもので、初期の真宗の状況がなんとなく うかがえます。それが 蓮如の時期に、再編集されたものではないか?そう思えます。親鸞の命日の報恩蔡にしても、冬至の時期に設定されているのが、どうも奇妙です。また古代信仰や 真言宗立川流の影響で 女人についての扱いが他の宗教と違うのでしょうか?聖、または巫女たちの中では妻帯者があたりまえでしたから それの肯定という意味からの妻帯なんでしょうか?あまり個人的な面から 真宗を解釈するのもおかしな気がします。どうように ダイシをタイシとして 聖徳太子の2歳の時点での肖像をあがめる(どうもこれジャクジではないかという気がしますが) 古代の若宮信仰をベースにしたものが 基礎にあるような気がします。このへんは 歴史学的な見方でなく、柳田國男 毛坊主考になんどもたちかえるべきです。思想も個人からでなく 社会が生み出したとみるべきで 親鸞もキリストになぞられてみるかたもありますが キリストも、聖書は さまざまな異教の伝承が入ったとみるべきで 親鸞も同じと考えるのが 当然なのです。そういう意味で 存在が不明瞭なんですから 人それぞれに親鸞の解釈があり それが当然なのです。半分以上は伝承ですから
2005年01月06日
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だいたい 浄土真宗の本といっても いろんなタイプがあるようで 本願寺派とか 高田派とか いろんな派があり それぞれ立場があるので、著者がどれに属しているかで 当然 論も違います。いまは存在が確認されているらしい 親鸞ですが 当時のよその文書から確認されているわけではなく、また系図についても、つくりだろうという見方があり、戦前は いなかったらしいという見方もありましたが、筆跡鑑定から 存在が確認されてるようです。そういう見方で 書店にいけば 空海や 日蓮のように 宗教本の一角に かならず親鸞本というコーナがありますか?果たして それでいいのかな?という疑問が私にはあります。どうも 日本の宗教史というのは 高僧史になりやすいし 当然 親鸞の本を買うのは 真宗のお坊さんになりますから いいにくいことがなかなか伝わらないということになり 柳田國男が残した 毛坊主考のような指摘がなかなか 広まらないというのは 悲しむべきことになります。
2005年01月05日
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「光秀行状記」明智滝朗、中部経済新聞社、昭和41、B6、1800円、ネットでみたところでは、この方が言い出しっぺのような気がしますが、原本をみていないので、この方が どのへんからを根拠にかはくわしくはわかりません。かの八切止夫は、天海は光秀の娘と 家臣の明智秀満の息子ではないかという説を 小説にしていますが いかがなものでしょうか?年齢的には こちらのほうがあうような気もしますが、また醍醐随筆という江戸時代の本では、光秀殺害当時の状況をわざわざ調べたが よくわからなかったとあり、当時の光秀の家臣もかなり 無事にあちらこちらに再就職できています、かばう人がいたんだなとみるべきでしょう。ただし 天海は 徳川王権の司祭のような立場にもあった方で、僧侶としても 日本の宗教史に残る方のような気がします。光秀と同一人物がなりたつほど 学識が光秀にあったのか?それが疑問です。
2005年01月04日
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http://www.honokuni.or.jp/toyone/shiki/matsuri/設楽の華まつりについての紹介
2005年01月01日
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