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肖像画を見る限りでは、江戸時代の茶人のようなかつこうをしていますし、民俗学というと おとなしそうな学問のように 一般的には見えてしまいますが。桃太郎という誕生の本では、昔話の講釈のつもりなんですが、どう考えても 応神天皇はいなかったということになっているようにしか聞こえません。当時としては どうだったんだろうと思います。http://www.tabiken.com/history/doc/C/C172C200.HTMまた毛坊主考では 本願寺教団(当時の大谷家は皇室と親戚でした)で 親鸞の血脈の相対化(浄土真宗はいかにして誕生したかについて)で 当時としても かなり危ない論文のはずです。他にも 政治的にかなり 危ない立場にあったので、性の問題を取り上げないでいただけでなく、後半はかなり無難な研究に取り組んだのでしょう。そのために、民俗学自体が 矮小化された学問になってしまったようですが、60年?70年安保のころから 柳田さんのみなおしが始まり(ただ 冷静に見られる時代になった)、歴史学と民俗学の融合が試みられている時代になってきているわけです。
2004年10月31日
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もちろんいろんなイメージがあるが、鬼のイメージのひとつが疱瘡神とのこと幕末の頃に 妖怪の絵が盛んに出て鬼の伝説がそのあと 出てこないのも種痘の影響で 鬼が撲滅したということか?風雲児たちと 日本史鑑定と 酒呑童子の誕生を読んでそう感じました。鬼を病気と見れば 人間が勝つのが なんとなく理解はできるか?
2004年10月30日
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徳川家康は影武者で ささらの出という説を 提唱まだ 権現様という人も多かった時代の 静岡でもあり裏側に、伊藤、山県の元勲批判も込めたために後半生は完全に干された人生を送る参考文献が引用されていないなどの批判もあるが後世の研究で、家康の前半生ではいろんな疑問がでてくる点が指摘されている。他の大名家でも、系図に疑問はいろいろあるので応用されるべきところもあるかもしれない。
2004年10月29日
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サンカ小説で 名を馳せた、文芸座、人生座の創始者サンカ研究には、写真に出てくる方々は、エキストラだとか、学位論文は金使ったとか、シノガラとは フリーメイソンのパクリじゃないかとかいろんな風説があるお方ですが。赤穂にいたときに サンカ筋と繋ぎがあったとか、そもそも大分の出からしてとか、明治~大正にかけては 流民が反体制であり、それらのスパイをやっていたのが 彼らしいとか だから妙に協力者がいたのが表にでていないなど いろいろあるのですが、娘の博子さんは、このへんは とぼけた表現をされています。サンカ文字と てきやの符丁の関係とか、他の超古代史文献の噺とか 語られるべき点は多いのですが、それはまた今度ということで。
2004年10月28日
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アウトローや交通史の研究で名高い 在野の歴史家です。その方面での研究は評価が高いですが。物議をかもした忠臣蔵は就職運動だった説日蓮の調伏はパフォーマンスだったという説。また秀吉、勝海舟の論考の評価も待たれるところ。八切止夫も、ネタ本に使い、今もネタ本に使用している人も、影ながら多い。
2004年10月27日
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テキヤ屋さんの 場所割に この文字を使っていたという説があるようですが ほんとのところは どうなんでしょうか?三角寛の資料からは出てこないようですが、一種の符丁(暗号)のようなものと考えれば?しかしながら、サンカ研究者の多くは、三角が公開した「サンカ文字」を否定しています。というもの、サンカに直に接した者の多くが、サンカの識字率の低さを指摘し、かつ、サンカが独自の文字を用いていた痕跡さえも発見されなかったからです。 では、サンカ文字は存在した可能性は全くないかというと、伝達用に何らかの暗号のようなものを用いていたのではないか?と柳田国男を考えていたようです。====================================たとえばある村に施を好む富豪あり、または永煩いの病人などのために祈祷加持(かじ)に手を尽す家あれば、甲より乙に速かにこれを通知しいろいろのサンカの来訪する者絶えず。また彼等の仕事に都合よき村落の報謝宿のごとき、一覧表のごときものにてもあるにや。聞き伝えて来たらざることなし。およそこの徒の数全国を通じてきわめて多く往来錯綜(さくそう)を極めたるに、途上に相見ていかにして互いにサンカたるを認むるか。おそらくは掏摸(すり)などと同様に、綿密なる暗号または作法等の存するならんも、規律厳にして外間にありてはこれを知るあたわず。 ちくま文庫版『柳田國男全集4』pp467-468(「『イタカ』及び『サンカ』」)http://members.at.infoseek.co.jp/Accord/BIGLOBE/SANKA/nip08655.htmシノガラはフリーメイソンだし、研究の歴史上の部分は、木地師の伝承の写し、写真に出てくる人間はエキストラ 学位は金で ですから
2004年10月26日
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穢れというのが 象徴的な存在ということではなく、もう少し意味があるもので、穢れには穢れているもので夷には、夷ということがあったのかな?また 農が穢れとか 夷という存在になるとは思えずやはり 商業とか、工業とか 鉱業という存在ではないか?
2004年10月25日
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20人の人間を選択してそこから 一人の人間を浮かび上がらせる方法で秀吉という人間が どう表現できるか取り組んでみました。さて いかがでしょうか?
2004年10月24日
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お猿さんの影には この人が隠れている。太閤殿下はこの人になりたかったのかもしれない。古代史によらないでも この人は十分 説明できる。http://www.pandaemonium.net/menu/devil/marebito.htmlhttp://www.tabiken.com/history/doc/M/M236L100.HTMhttp://www.tabiken.com/history/doc/R/R232C100.HTMhttp://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/organ/22-b.html
2004年10月23日
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別巻だが、下人頭という表現が面白かった。http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/siryou/danzaemon.htmlこの人たちのことだが。横山光輝とは 別の形で 歴史マンガの形を つくりつつあるかな?
2004年10月22日
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本能寺の変は酒呑童子の物語(いわゆる鬼退治)に似ているという方もいます。星野之宣の 宗像教授伝奇考という中に、本能寺の変と 源頼光の鬼退治との共通性を取り上げている 漫画があります。酒呑童子も 魔王第六天 信長も魔王第六天と自称したようですが、光秀が、大江山を通り、桂川を渡るというところとか、光秀が自分のご先祖に源氏を見たとか、信長のある面での凶暴性、異常性とかかから、これを取り上げる人が多いようですが。そこから思うに信長が どうだから 光秀が という遺恨説の根拠が薄いのも、信長に痛めつけられた、浄土真宗や 天台宗の坊さんたちの 創作じゃないの?という気がします。 また事件の描写にしても どうもテレビや 小説では いろんな描写が本能寺の変では なされていますが、おおよそのところは、足利義教と 義輝の暗殺事件を元にしたものといっては 語弊があるかと思いますが、どうもそんな気がします。 鈴木真哉さんの鉄砲と日本人という本では 凱旋してから一ヶ月半も経たないうち、信長は本能寺で死ぬ。通説では、信長主従は最後まで大奮戦して死んだということになっているが、これは信長公記などの記事をそのまま取り次いだもので、とても真実とは思えない。信長側の人数は100人足らずで、甲鎧の用意もなく、信長自身の持弓、持槍を除けば、打刀以外に何の武器も持っていなかった。これに対して明智勢は1万3000、戦闘員はその半分ぐらいだったとしても、彼らは完全武装の集団だった。これでは初めから勝負になるはずもないのである。斎藤利三の息子の伝えた話によると、本能寺の門を破って乱入した明智勢が鉄砲を打ちかけると、信長の近侍たちが あわてて飛び出してきたが、なにぶん帷子一枚の素肌であるから、20人ばかりも打ち倒されたとある。残りの者も同様に 弓鉄砲の的となってなすすべもなく撃ち殺されたにちがいないが、大田牛一にしてみればそう書くに忍びなくて、故主の奮戦憚を仕立て上げたのだろう。としていますが、いかがでしょうか?網野善彦氏 増補 無縁 公界 楽、奥野高広氏 織田信長という本の中ではこの中には明智の手勢から さるお坊さんが信長の遺体を引き取り 葬ったという記載を引用しています。なぜさらし首にされなかったかが疑問ですが。 光秀がさらし首にしなかったらしいことが、信長の生存説をだしてしまうことになり、与力大名達を組織できずに、敗北してしまう要因になったように思います。
2004年10月19日
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漢字で表すと わかりませんが、馬屋の神さまとしますと それでは猿ではないですか?という言葉になります。比叡山に付属している形になっている 日吉神社というもののお使いの動物が猿というのも、天台宗の聖徳太子の扱いはわかりませんが、その存在が微妙にあるならば、 うなずける噺でございます。秀吉のあだ名は 猿ですが、このような意味が隠れていたのかということになり、それでは馬屋の人たちは どんな人たちだったのかがポイントになります。
2004年10月18日
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太閤殿下の甥にあたる方ですが、殺生関白といわれ、追放後自殺に追い込まれています。学術面に造詣が深く、仁政をひいた面もあったようで、そのへんの事情はわからないものですが。父親の親戚筋に、蜂須賀家や、川並衆があり、前野家が家老を務めていたのは、この流れからだろうと思います。秀吉の家が女系だとするなら 彼に順番が来るのが、ある意味 自然な流れで 末路が末路なので、低い評価がされがちですが、多少 見直されていいかたと思います。
2004年10月17日
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いわすとしれた太閤殿下の奥さんです。本姓が木下か 杉原かは はっきりしませんが、織田家の縁につながる、木下氏から 秀吉の一族で 先に 信長に仕えていた 杉原家を仮親に 秀吉と結婚との説あり。テレビや 小説では、円満な生活のようですが、彼女のお母さんがこの結婚を野合といっていたりとか、親戚の杉原家次が 恩賞の件で自殺したりとか、一族が 小牧長久手の戦で相当 捨て殺しにされたり また彼女の一族が 母方の一族に比べ、明らかに冷遇されたりなど 相当 不満だったようで、ですから、秀次や 秀頼も見殺しにされたのだと思います。彼女の墓には 女の一念 それ 岩をも貫くと 以前はかかれていたそうで、複雑な思いがするばかりです。
2004年10月16日
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本能寺を襲撃したとされる 明智光秀の家臣?という人間。妻は光秀の妹などとされているが、室町幕府の要人の家系に繋がり、妻は美濃3人衆の稲葉、吉田神道一門にも通じてる 名家の出の人物。光秀の家臣団の中では ピカイチの名門で 一門衆か、目付けのような存在。立花京子の 信長と十字架には出ていないが、本能寺の黒幕の中の人脈にも十分繋がった可能性があり、かれが実行部隊に何らかの関与はしていたことは間違いない。家康に叩きつけれた、検地反対とか いろんな説があるが。
2004年10月15日
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http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_mi.htm筒井氏は興福寺系の僧兵だが、こちらは延暦寺系の僧兵のように思えますが、僧兵といっても、坊主ではなく、たとえば、延暦寺が、京都の睨みに押さえていた 祇園社の場合は、支配下にある、犬神人を 僧兵のごとく 商工業者への押さえや、たとえば、法然の墓破壊などにつかってました。東浅井郡全般 とくに小谷のあたりは、鉢叩きの毛坊主が 大量にすんでおり、それらをうまく組織化して のしあがったのが この人という印象があります。秀吉の先祖もこのへんの出という伝承もあり、うまく組織化できたのも このへんが影響でしょうか?
2004年10月14日
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日知とか 良く分からないことは抜きにして 浄土真宗のお寺はこうして出来ましたとか 大名家の筒井氏はこうして僧兵から 戦国大名になりましたとか お坊さんにもいろいろありとか 歴史の裏を推論していくのに使える本です。ただ この時代に ここまでおれたのに、どうして 宗教の政治経済的理解が 思想史のみでしか語られないの?
2004年10月13日
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忍者の出とも言われるが、ほんとうのところは どうなんでしょうか?戦国時代の 東海地方では、伊賀甲賀の出の者が、ずいぶん入り込んできたようです。従来は 講談的解釈で これを忍者?ということで捉えてきたんですが、武士という概念を 考え直してみると、馬乗りの他に、足軽、小者、中間というものがいる、これらを雑兵としてみると、当然 領内の百姓から募集という考えもありますが、常備軍として抱えると費用がかさむ、そのへんのごろつきをかかえるのもいいんですが、本当に必要なときに集まらない。そんなときに、伊賀甲賀から集めてきたというのはいかがなものか?そう私は思うんですが いかがでしょうか?もちろん 伊勢御師の中に入りこんで、スパイのようなところから始まったのかもしれませんが、出稼ぎの一種からと。滝川一益もそこからでてきた 一人のような気がします。古代から近世まで ヨーロッパにいた傭兵隊長のようなものだったと思います。
2004年10月12日
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親爺の正信が、番匠(大工)か 桶屋というのは どちらも正しい。大工としての仕事がないときは 木屑をもらい、桶などをつくっていたのが実情で 木を切る場合にも、木を仕入れないといけない、また木を切るのは、いい刀が必要ということで、木地屋とも、刀鍛冶の縁にもつながる 大政所仲の妹を嫁にしたというのが 正しいところ。そのあと やれ どこどこの系図に結びつけたのだろうか。昔も今も 職人さんいうのは けんかぱやく、また酒も呑む、正則が 秀吉のところに駆け込んだのも、けんかで人を危め、故郷というか 大工の仲間からはずされて、仕方なくの武家奉公といった面もあるのかもしれない。同様な逸話もあるようです。ただ 秀吉が天下人になるに連れ、状況も変わり、大工仲間が支援してくれようになったのでしょうか?福島家の本姓は 星野というそうで、正則の家臣団には 星野という名前が多いのは そのためでしょうか?
2004年10月11日
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岡崎のすぐ近くの橋の上では 蜂須賀正勝と 秀吉が出会うわけですが。橋というのはまた面白い。いまでこぞ創作とされますが、橋は此世と異界の境をなす場所であり,ここでは妖怪や幽霊が出現するなどさまざまな怪異がおこるほか,あの世(冥界)という見えざる世界が露頭し,未来の出来事を垣間見ることができるところでありまして、外敵や疫病を防ぐ重要な境界地点と考えられ,境の神の祭祀の場であったと考えられます。そんな場所で 霊的な力があると考えられていた針を持っていた 針売りの秀吉が寝ていたというのもまた面白いものですが。これが一寸法師の物語に多少 かぶっているのも また一興です。蜂須賀党は岡崎にいっていなかったというのが通説ですが、蜂須賀党の根拠地のすぐ近くには 桶屋で知られる 福島正則の地元になります。針を扱っていたのは、連尺商人たちですが、連尺商人たちは、かなりの遠距離を商品をたずさえつつ、行商にまわった人たちで、中世になると武装した隊商をくんで 各地をめぐっていたそうです。夜盗ではなく そんな時代の反映なんかもしれません。松田修氏は、秀吉が放浪していたとされる土地に、水辺への誘いを受けているということを重視し、愛護の若との共通性を超えて、幼い秀吉の放浪が貴種離の系譜上に位置していることを注目し、秀吉(猿)が、川のほとりにたたずんでいる姿に注目しているが、これがあるなら 橋の上で出会うということは 義経と弁慶の話をある程度 踏まえていることにしても問題はないだろうかと思しますが、そこで 石川五右衛門の生まれとされる浜松が 秀吉の放浪する土地にはいっていること、後年の同じ地域の日本左衛門がでてくることにひっかけ 武士だなんだ、松平阿波だなんていっても、昔はおれらと同じだぜという気持ちが 作者をして 小六を夜盗にしたのかなという気がします。当然 作者はあとで 罰をうけたようですが。
2004年10月10日
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市川文書の管助が勘助という見方については 笹本正治先生は、否定されておられます。また いわゆる大内家元家臣説ですが、著者が山口県に関係しているというだけで疑問譜で、山口にひっぱろう ひっぱろうという言い方がみえみえですし、母親から聞いた伝承にしても、民俗学で語り尽くされたことを そのまま出しただけですし、また系図にしても、山本帯刀や山本兵部なんて 関係者もあがっているみたいですが、評判に乗じたものでしょう。江戸時代の系図なんて いいかげんなものです。無理に、歴史学につなげても、史料がありませんから、山本勘助の話題は、文学、民俗学の面から 牛久保、富士御師、軍師、石工、片目などのキーワードに注目して、どうして 勘助がでてきたのか、また それを 笹本正治先生が 著書の 武田信玄の中で出している 信玄が成功したのは、勘助に代表されるような 人々をうまく取り込んだという説につなげて、といていくのが重要なことだろうと考えております。
2004年10月09日
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小説本が 100円程度で 購入できるものが、かなり面白い。夜のドライブの名目ができる。マンション管理士についての本 中世の秋、華僑、木島日記3を購入のこと。せどりの楽しみもでてきたが さて
2004年10月08日
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雑賀の噺ですが、正統的に 纏めていて こういう立場でも学会の主流になれないというのは ある意味 おかしな噺でもありますが、良く調べてあるけど、基本的には それに忠実で 鎌倉新仏教と 旧の差が分かっていない。そもそも僧兵のことがわかっていない、また中上健司の指摘する 被差別との関連が掴めていない 抜けている、それだから 調べているけど、なにか抜けているのは このためかと思う。
2004年10月07日
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学術論文といえるものではないという見方もあるけど、データの収集をうまく編集して、スタンダードに耐える水準までもっていったのが、柳田先生の本ではないかと思う。論文ではなく、データであり、後学の人間がその後を追いかけるべきものなのです。気の利いた言い回しが 多く 熟読して見習いたい。
2004年10月06日
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中世期は、天皇家が一番と考えている人ばかりではなく、いろんな権力があったと考えてみると、別に、京都の映しを 江戸に展開しようという人がいてもなんら 不思議ではないし、それ自体が 別に 天皇家の簒奪と思う必要はないのかもしれない。写真もすばらしいし、うまい使い方もしているし、発想もいまでさえ 褪せないが、歴史的に考えてみるということを足して欲しい。
2004年10月05日
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1 古代研究中部地方から、中国地方までの古代史を 王朝ということばを使わず、歴史学の成果によらず、民俗学と考古学のみで考えてみる。1 ぐぐつ2 鉢屋3 将門の乱4 純友の乱5 産鉄6 ヤマトタケルのことなど7 古墳と銅鐸と鈴木さんのことなど8 コメの話9 華僑の噺2 武士の誕生従来の武家の見方系図による疑問土地から考える疑問蝦夷との関係酒呑童子周辺のこと武士と穢れを祓うと言うこと僧兵との戦い比叡山のことなど3 南朝のこと異形の王権南朝の足跡後南朝の世界南朝と被差別のこと三河、尾張、美濃、信濃のことなど服部家のこと楠木家のことなど4 山本勘助のことなど 1 モデル 2 軍師ということ5 倭寇のことなど6 秀吉のことなど フリーページに後少し7 石川五右衛門のことなど 1 黄金の日々 2 キリシタンのことなど 3 ごろつきの噺 4 大江山の鬼 5 後生の大泥棒 6 御霊するということ 7 史実から考えて 8 民俗学の誕生9 本願寺の誕生
2004年10月04日
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秀吉の家系を決めたのはこれは、戦国史の大家 桑田(茶器鑑定でいくら儲けた)忠親氏の師匠の渡辺センセイという方の 豊太閤の私的生活という本です。だいたいの小説も、これを幼年期はベースにして書いてるので、太閤伝説というのはこの方が創作したといっても過言ではないとさえいえます。秀吉の親爺はヤエモン 継父は、チクアミ 家業は農民の核家族で 立身出世の物語というようになにかしろの政治的意図により創作されたのでしょうなにしろ、この渡辺先生は、墨俣築城の創作伝説に大きな役割を果したり、蜂須賀家から先祖が夜盗といわれ困りますと泣きつかれ、伝記を作成したこともある いわゆる?の方です。ただ 最近は 百姓といっても 農民とは限らないし、秀吉の周りの系譜は、とても農民とはおもえないまた 秀吉の物語には、愛護の若という説教節の影響を受けている、また秀吉の政策運営はとても農民の感覚ではないなどの 見直しが入り、80年代以降から始まりつつある、民俗学と歴史学の融合がそれに拍車をかけています。当然 桑田先生は、この風潮がお気にめさなかったようで、民俗学と歴史学?とお冠だったようですが当然 桑田先生も、秀吉の戸籍について いろいろ発表はされていますが。裏の意味までみないと何の意味があるのかとさえ感じます。また秀吉の母には、知られていない子供がいたという噺ですが、まず女系家族と考え、また秀吉の出世に彼女の系譜が相当貢献していたこと、2人の父の存在が薄いこと。大政所がこぶつきなのに、次の男ができたこと(意外に彼女が美人だったかも)当時は女性の地位が意外に高く、また乱婚、雑婚だった点から、秀吉に含む意のある宣教師の報告であっても、かならずしもありえない噺ではないと私は思いますが。民俗学的に考えるのは すべて正しいとはおもえませんが、歴史学(史実)を元に考えるというのも、在る意味 何かの意図にのるだけの危険性を感じるのは 私だけでしょうか?
2004年10月03日
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図書館に行き、不動産の勉強のための本を読む、その周辺の本を今後 読むまくること。
2004年10月02日
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酒呑童子のイメージには、孫悟空のイメージが反映されているようで、また ゴリラのイメージもはいっているようです。よく 秀吉が猿に似ていたという説があるそうですが、実際にあった朝鮮の使節の人間は、猿というより犬に似ていると評していますし、またハゲネズミというあだなも今に残しています。猿というのは 民俗学上は、下記のようなイメージがあるようですhttp://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-81.htmlこれから考えてみると、どうも猿というのは 昔の人にしてみると河童、水神、厩神という言葉に代表されるような こっけいなイメージとは 少し違うものを感じたように思いますが いかがなものでしょうか?また 下記のような意味に 猿という言葉を解釈してみてはいかがでしょうか?http://www.infonet.co.jp/nobk/kwch/koretaka.htm秀吉という人間が猿に似ている だから こうだというよりも、秀吉の物語は、言葉に残されたものは、歴史というよりも 文学なのですから、当時の人の、まずイメージを知り、それから 歴史的に考えるほうが 価値がある。当然 秀吉だけではなく、他の人物についても どうようなことがいえるのではないかと この本を読んで 感じた次第です。
2004年10月01日
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