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弁護士事務所からの 苦情で 削除しました。暇だね
2006年01月30日
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http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1059892097/l100 最初、弥生時代の始りは徐福到来が原因ではないかと考えたが、この時代の始りは徐福到来より250 年以上早く、前 473年に呉が越に滅ぼされたことと大きく関わっている、との結論に達した。もし、渡来人の始まりが周、更には殷の成立時に迄遡らせるなら、下の日中比較年表を前に継ぎ足して、きちんと日中間の対応を取るとともに、中国側の遺跡や文献と、日本側遺跡の比較をする必要がある。日中の年表対比から見た渡来弥生人のルーツ中国側戦国時代の年表 日本側弥生時代薄明期の年表前473年 呉が越に滅ぼされる 約2500年前 高知県土佐市、居徳遺跡 金属器で殺傷前379年 越が呉に遷都する前334年 越が楚に滅ぼされる 約2300年前 土井ヶ浜遺跡 縄文人と異なる身体の渡来系弥生人 約2300年前 泉大津市池上曽根遺跡の始まり(大規模工房&蛸壺) 約22X0年前 吉野ケ里遺跡丘陵南端周辺で始まる前223年 楚が秦に滅ぼされる前222年 燕・代、秦に滅ぼされる前221年 秦が斉を滅ぼし天下を統一前219年 徐福、第2回出航日中の年表を対比すると渡来弥生人のルーツがわかる。土佐市の居徳遺跡は「呉」の滅亡頃と対応し、池上曽根遺跡や吉野ケ里遺跡の始まり、土井ヶ浜遺跡は「越」の滅亡以降と対応する。これは徐福が出航した時よりかなり早い時期に当り、徐福が弥生時代を作ったのでは無いことが分る。むしろ、「呉」「越」の滅亡により、呉・越の亡命者が渡来弥生人になったと考えるべきだろう。その後、仮に徐福が日本に渡来していたとしても、弥生時代の形成にほとんど役割を果たさなかったと言えそうだ。「倭人」を呉の太伯の裔とする説は「魏志倭人伝」の母体とされる「魏略」逸文や「晋書」「梁書」にも見られる。それ故、卑弥呼以前の日本人は自分達を「呉」から来た渡来人の子孫と考えていた訳で、「呉」からの渡来説は当時の日本人の認識とも一致している。
2006年01月25日
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http://www.muraokaya.co.jp/jofuku/zyofuku1.htm日本各地に残る徐福さんの伝説の中で一番色濃く、そしてその土地に溶け込んで語り伝えられているのは、この佐賀地方のようだ。諸富(もろどみ)に浮盃(ぶばい)という地名がある。土地の人たちはおじいさんや、おばあさんから、このように聞かされていたそうだ。「むかしむかし、徐福さんという偉いお方が、りっぱな船で沢山のお供を連れてここまでこられた。大きな盃を海に浮かべて、それが流れ着いたところから上陸された。それでそこを浮盃というのだよ」「大勢の人たちが生え茂っていた葦をかき分けて上陸なさったので、その当たりの葦は全部片っぽの葉が落ちて、いまでも片葉の葦しか生えてこないのだ」「そうして、河に落ちた葦の葉っぱがエツという魚になったと言うことだ」http://www.geocities.jp/horuhorushiho/johukuryuko.htmこのように、創られるときとは逆に、現在、徐福渡来伝説が語られる地で、語られていない様を捉えることも可能である。1950年の『日本伝説名彙』には、全国の13の「片葉葦」の伝説が記されている。その中で、佐賀県佐賀郡新北村寺井津の伝説は、次のとおりである。「金立神社の裏手の河岸に塩井の場で、金立権現御上陸の所といふ。そのとき権現様が葦を押わけ給ひしにより、片葉の葦となった。雨乞に権現様御降りのときは、この片葉葦を取って帰り、祓のためにする(注6)」と、1915年の佐賀郡誌を引いて記している。現在の佐賀県佐賀郡諸富町に伝わる徐福伝説と、内容は酷似している。しかし、登場する片葉の葦は、権現様の行為によると記録されたのである。http://www.city.joetsu.niigata.jp/kankou/ijin/ijin5.html五智国分寺を後にし、越後一の宮居多(こた)神社へ向う。居多神社は親鸞が上陸したのち、一番最初に参拝した神社であるといわれている。親鸞はここで『すえ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは』と詠み、早く赦免になるよう、そして念仏が盛んになるようと祈願した。鳥居をくぐり、石段を登ると小さな社と親鸞の像が見え、数人の参拝客が熱心に頭を垂れていた。 ここには親鸞にまつわる七不思議の一つ「片葉の葦(かたはのあし)」が群生している。親鸞が先の句を詠んだのち、居多神社に生えていた葦が一夜にして全て片葉になったという。片葉の葦は西方浄土を向いているとか、常陸(現茨城県)へ旅立った親鸞に引かれて関東の方向へ向いているなどといわれている。ぜひ見てみようと思い、探したのだがやはり5月は葦の季節ではない。諦めて次の目的地・国府別院に向った。http://www.infoseek.co.jp/OTitles?svx=101982&nh=10&nc=1&col=OW&qt=%CA%D2%CD%D5%A4%CE%B0%B1+&qp=0&lg=all&wd=0&st=0片葉の葦自体には いろんな伝承があるようですがいろんな背景があるものです。
2006年01月24日
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http://72.14.203.104/search?ie=EUC-JP&lr=lang_ja&hl=ja&q=cache%3AmpM3LupS7eoJ%3Ahttp%3A//www.geocities.jp/pingyanzi/Xuanan.HTM+%B3%D4%CB%F7%BC%E3+%BB%CF%B9%C4%C4%EB73年7月4日、毛沢東は王洪文、張春橋らと会談する際、「郭先生は『十批判書』の中で人本主義者と自称している。人本主義とは人民本位主義のことだ。孔子もまた人本主義者だ。郭先生と同じだ。郭先生は孔子を尊ぶだけでなく、法家に反対する。尊孔反法なら国民党も同じではないか。奴隷制は春秋戦国の間を境とする郭先生の歴史区分方にはわたしは賛成するが、始皇帝を罵倒してはならん」と郭沫若を名指して非難した
2006年01月18日
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http://www.tabiken.com/history/doc/R/R160C200.HTM
2006年01月16日
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愛知 静岡 山梨の徐福伝説については 富士宮下文書がベースになっているのですが 下記では その評価について まとめてみました。http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/fujinancho.htmlこちらのサイトでは以上、『底倉之記』『十津川之記』との類似及び間違いの継承を指摘した。両書の成立年代及び作者は不明であるが、文化六年成立の『南山巡狩録』に参考文献として挙げられている。少なくとも、文体から察して江戸時代のものと思われる。問題は、これら江戸時代に作られた軍記物が先か、それとも『宮下文書』が先かということだ。これについては、『宮下文書』を引用した歴史書を見たことが無いので、不明であると言わねばならない。確かに、私は原書を見たわけではない。しかし、三輪氏が『宮下文書』を要約するにあたって、信頼性に劣る他文献(『底倉之記』『十津川之記』)を混入させることは無いものと信じている。『宮下文書』の南北朝関連記事に信頼性は期待できないが、現地の伝承を調べる際には有益な情報もあるだろう。 伝承が先か、『宮下文書』が先か、という問題は残るが。当サイトは、「たとえ信頼性の低い史料といえど、少しでも史実が含まれているかもしれない」という立場にある。が、『宮下文書』については、ここに要約を載せただけでも、かなりご都合主義が目立つ。「噂を流したところ、世の人はすぐに信じた」「死んだというのは実は身代わりで、本人は生きている」などという辻褄合わせがあちこちに出てくる。流石に辛い。機会があれば、三河南朝、というよりは長慶天皇にまつわる各地の伝説についても、ごく簡単に触れたい。伝承間に連続性が無いため、深く追求するつもりは無い。と評しております。http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/gishi/gishi.htmlまた こちらでは こう解釈できるとみる見方もあります。これら「古史古伝」の内容は、出現した時代順が下るに従ってエスカレートしてきている。18世紀末に出現した『秀真伝』は、全文が「ホツマ文字」と呼ばれる「神代文字」の一種で書かれているものの、内容は、天照大神(アマテラスオオミカミ)を男神とするなど、『記紀』神話の異伝の範囲を越えるものではない。一方、1838(天保9)年に大分の国学者・幸松葉枝尺が発見したという『上記』は、全文がやはり「豊国新字」という「神代文字」で書かれ、神武天皇即位以前にウガヤフキアエズ王朝なる王朝が存在したことを記録している。さらに、富士山麓の神社に伝えられ、1883(明治16)年に初めて明かるみに出たという『宮下文献』は、秦の徐福が日本に渡ってきて書いたという設定になっているが、『上記』を受け継いだようにウガヤフキアエズ王朝について記録している。また、この文献では、高天原は富士山麓に実在していたことになっている。 以上のように、江戸末期から明治初期にかけて出現した「古史古伝」は、神武天皇以前の王朝を記すなど日本の歴史を過去へと引き延ばす傾向が見られる。しかし、全体としてみると、かなり荒唐無稽な部分のある『記紀』の神話が「史実」として信じられていたことを考え併せれば、それほど異常な内容とは考えにくい。 江戸後期に出現した上記(宗像本)を元に吉良義風が「上記抄訳」を出したのが明治10年。宮下文書(富士文書)の内容は全部吉良の本に遡れる。竹内文書も同じ。九鬼文書は竹内文書に遡れる。上記(宗像本及び明治初期に出現した大友本)に書いてあっても吉良の本に書いてないことはこれらの古史古伝には書いてない。従って宮下文書の成立年代の上限は明治10年。このような形の意見もあります。また このような記述もありますが富士山に渡来した五百五十八人の氏名 当時渡来した五百五十八人は、秦徐福、一男・福永、二男・徐万、三男・福寿、一女・天正女、二女・寿安女、三女・安正安、四女・次正女、孫・一丸、福正女、自蓮女 以上十二名男壱人:徐永、得正、藤光、件光、円光、円方、他 計三十五名老人女分:清日女、美目女、目永女、貞流女、他計四十五名妻有人男(夫婦者):利益、忠時、要領、能佐、活梢、経京、済明、天雲、光敬、陸清、慶山、金明、銀山、鉄山、鉄人、光宝、光清、伝保、清水、孝徳、田主、国正、信正、吾作、頼光、明仁、一保、二保、正道、玉志 他 計百三十八名夫有人女(夫婦者):竜永女、天竜女、明永女、小泉女、阿志女、宇志女 他計百十五人若人男(未婚):元定、信永、福元、徳成、健保、彦古、他 計 四十一名若人女:阿根女、貞目女、佐加女、要日女、利佐女、湯和女、他 計四十三名童男:真彦、千丸、大丸、忠子、源太、千丸、豊丸、金根子、銀坊、等計51名童女 :比売女、比久女、与黒女、玉江女、美比女、等四十八名。合計五百八十八名となっているさて よくつくったなあという気がするのみです。
2006年01月16日
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全体の調子は映画 市民ケーン または 薔薇の名前女忍者の登場は剣客商売風に阿弥陀寺を絡ませたのはこれは 参考文献にもある 網野サンの本より丹波者はこれは イコール サンカ本能寺の変に秀吉が関係していて 前野一族が関係していたと設定しているのは土岐信吉 反逆秀吉が意外に 信長を悪く描かせるように仕向けたのはこれは 八切止夫 信長殺しは 光秀ではない 信長の人物造形は参考文献にもある 明石散人氏の本からネタとしては こんなところでしょうか?建築関係に こった設定が見られるのは 著者のオリジナルのようです。ミステリーとしては いまいちなような気がしますし 経歴をみれば小説をだせたのも もっともな気がしますが 引き出しはいろいろありそうな方ですし 主人公に コンサルタントとしての著者の姿を垣間見れる 珍しい小説です。
2006年01月14日
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http://www.geocities.jp/ugn23323/johuku/densetu-kanagawa.htmlまずカラコなんですがhttp://www2.cc22.ne.jp/~otoya/7-sonohoka/7-08karako/7-08karako.html唐人といえば ある意味 朝鮮半島の方も含んだ時代ですが、カラコさんという意味なら 唐子踊りということで 上記のような意味もあります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8Fカラを韓とよむと 蘇我氏にも関係してきます 高麗という言葉も関係しますがhttp://plaza.rakuten.co.jp/KUMA050422/diary/200510250000/秦氏も朝鮮系と言われる面もありますが この方が 納得いく説明ができそうです。秦の時代には 唐はなかったはずですが あれも 徐福これも徐福としたい方には そう読めてしまうのでしょうがhttp://www.union-net.or.jp/cu-cap/okiagarikobosi.htm沖からあがってきた こぼしというのは 上記のことでだるまさんというのも 考えてみれば唐土からきたということなんでしょうか?http://www.miyagawa.com/syuha/7103.htmlだるまさんが 日本にはいってきたのが丁度 戦国時代以降とかhttp://www.morioka-times.com/news/0502/27/0502707.htmだるまさんは 養蚕とも関係してくるようですね。http://nopperi.hp.infoseek.co.jp/repo-/r-r.sinpo03.htmそれから 小法師というと 被差別民にもクロスしてきます。http://66.102.7.104/search?q=cache:hmf0E2VNQcgJ:members.at.infoseek.co.jp/Accord/BIGLOBE/SANKA/nip08285.htm+%E9%A4%8A%E8%9A%95%E3%80%80%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5&hl=jaまた この手の方々と 養蚕業は 結びついていたという噺もあります。http://park5.wakwak.com/~kcy/sagami_yousan.htm秦野は 養蚕が さかんであったということでは問題ありませんが このような背景が伝承には あるようですねそして 肝心な碑文ですが、よくある先祖自慢ではないかと思います。江戸時代には よくあったことですから福岡さんという家のご先祖の商売にも微妙に関係してくるので そのへんが明確でないとやたらなことはいえませんがある程度 身分の確実な人は源氏 その次は 平氏 また その次は藤原氏そして 最後は 渡来人のようですが。しかし 徐福研究というものは史料批判というのはやらないのでしょうか?たんなる牽強付会のようにも思えます。
2006年01月11日
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http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E4%BA%94%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%80%80%E8%8 1%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90&ei=UTF-8&fl=0&meta=vc%3D&u=www.m ars.dti.ne.jp/%7Etechno/column/sendai.htm&w=%22%E4%BA%94+%E6%86%B2%E6%B3%95% 22+%22%E8%81%96%E5%BE%B3+%E5%A4%AA%E5%AD%90%22&d=MxT5PA0DMEs1&icp=1& .intl=jpだから そんな律?をつくったのは聖徳太子に違いない?礼は吉礼(先祖を祀る廟礼などの祭祀)・凶礼(殯などを中心とした誄や諡の喪葬)・賓礼(外交儀礼)・軍令(軍隊と戦争)・嘉礼(冠婚)の五礼に分類されます。だから 五なんですね?http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/sigo02-6.htmlちなみに これの復活が1779年ですね白河本の作者さまの時代と ほぼ掛かりますが さてhttp://www.iris.dti.ne.jp/~muken/koten09.htm#%91%E6%82P%81@%82%CD%82%B6%82%DF%82%C9いろいろ言われますが ほんとうのところは良く判らないようです。昔のことですから。また ある程度 きちんとした 政治的意味をもって決めるのですから 学者もきちんとそろえないといけないまた それも古典によるわけですから上記のなかにもあるように中国でも その手の元本の成立が唐代ときては聖徳太子の時代にはどうなんでしょうか?
2006年01月10日
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http://72.14.203.104/search?ie=EUC-JP&lr=lang_ja&hl=ja&q=cache%3AwVjZftaxbiYJ%3Ahttp%3A//homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/saga.htm+%BD%F9%CA%A1++%B8%EC%CF%A4%B9%E7%A4%EF%A4%BB金立山(502m 佐賀県佐賀市) 「不老長寿の薬草を求めて徐福がこの山に来た」 日の隈山に登ってみる。白村江の戦いに敗れて、国土防衛のため危急の情報を速やかに伝える通報施設として、烽の山が何カ所か設けられた。この山はその一つである。秩父宮殿下登山記念碑(昭和7年)がある以外、信仰を示すものはない。 主要地方道31を金立から、長崎自動車道の下を弘学館に向かい、登山林道に入る。正現神社を過ぎれば後は一本道で、山頂駐車場に着く。(14:30) わずかに登り、木の鳥居をくぐると山頂で、金立神社奥の宮の石祠がある。木に囲まれ展望はなく、さらに雨とガスに閉ざされている。 駐車場に下から登山道が上がっており、それを少し下ると金立神社上宮があるが回らず。佐賀市金立町には金立神社本宮がある。 金立神社は祭神は保食神、罔象女命、徐福を祀る。前の二神は五穀豊穣、水神で崇敬された。徐福は秦の始皇帝の命で、不老長寿の薬草を求めて我が国に来たという伝説があちらこちらに残っている。 徐福はこの山ではどうやら薬草のクロフキを求めることができたようだ。下宮境内に薬草を授けた甲羅弁才天を祀つる堂がある。弁才天が不老長寿の薬草を授けたということは、弁才天は不老長寿の神でもある。 池の中島は、造園では不老長寿の島、蓬莱島を意図している。蓬莱島にいます神は弁才天ということになる。池中の弁才天を不老長寿の神としてよりも、蓄財の神、商売の神として崇めたから、才が財になって弁財天と書いた。日本人は語呂合わせが好きだから才と財を習合させたのである。どちらの字が書いてあるかによって御利益も違うようだ。 50年ごとに神事が行われ、徐福が上陸したとされる諸富町に「お下り」されるという。茨城県の西金砂山では、浜に漂着された祭神を、72年毎に「浜出し」する神事があり、ちょうど今年がその年に当たっていた。50年にしろ72年にしろ、人間には一生に一度ということであるから、お祭りを伝承するのは大変だろう。これも日本の産土神は人間くさく、神様も御慰みしてさし上げようという篤い気持ちからであろう。 車道を下ると幸音寺の石碑があり、不動明王、龍神観世音菩薩と書かれている。登山口の正現稲荷神社は京都伏見稲荷神社を勧請したものだが、かって行基が開いた岩蔵寺があり、その守護神であったという。かなり山道を上がるようなので、これも割愛してしまう。雨が降るとどうしてもこのように怠けてしまうことになる。(15:15)
2006年01月09日
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http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/jud.htmlよく 日本ユダヤ同祖説をあげる場合に、ハロー効果に利用されるのがヒゲの殿下の親爺さんのこの方ですが はっきりいって 詐欺まがいの片棒を担がされていることに いつのまにかなってしまうようです。徐福伝承でも、三笠宮のところに 神武天皇 イコール 徐福という説が持ち込まれて 三笠宮が これを評価したけど まわりの人間が大反対したという噺があります。嘘臭い噺でして どうしてオリエントの専門家に 古代日本史の噺を持ち込むのでしょうか?また 明らかに戦後ですよ。騎馬民族渡来説も出ていたご時世に 危険視されるわけ ありませんでしょ?バカらしいとのことでしょ。これも 心理学上のハロー効果でしょ。どうも北京原人の骨が皇居の地下にあるとか、日本が王制だと勘違いしている中国人のホラでしょ?それから私がいつ万世一家だなんていいました。漢族とタイ族と意外に近い親類関係から夏王朝がタイ族が作ったという説が ございまして殷 周 秦と 北からの 圧迫で タイ族がある部族は東南アジアに、またある部族は雲南にそしてある部族は日本にという見方をとる人もいます。司馬遷は ここのところをいじくり越ではなく 徐福がとしたんでしょうね。熊野信仰の反映の徐福よりも秦時代の影響よりも、江南から 雲南にかけての文化と 日本の 古層の文化 また人種としての共通性をみる人は多いですよねトピ主さまは たぶんご存知ないかもしれませんが。こういう見方は漢民族は 一つという 中国人はしませんよね。
2006年01月07日
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http://www.mantenbo.jp/arekore0.htm八丈島には どうやって 人が住み始めたか?http://www.nankaitimes.com/tenji/tanaba.htmlとはいっても いろいろ文献的にみると怪しいものもあるという噺http://www.pref.okinawa.jp/chiiki_ritou/simajima/minwa.html八丈島と 沖縄には 意外に 共通の噺があるが 徐福伝説については沖縄には あまりないという噺伊豆海島風土記に孝霊天皇の七十二年(前219)に秦の徐福来朝、時に皇仙術を好ませ給ひ、東の海上に遊行あり、爰において徐福をして童の男女千人を引き連れさせ、海に入れて蓬莱神山不老の薬を求めさせしむるに......以下略....とありますちなみに これは天明初年に行なわれた巡見の実地調査に基づいて纏められた七島の記録だそうですが。元ネタは宗福寺という和尚さんの記録からだそうですがhttp://www.geocities.jp/horuhorushiho/johukudokuhon.htm 後日談のなかで、日本渡来説が生まれたのは九〇〇年前半頃のようである。この説は日本から中国へ伝えられたようだが、日本の書物に日本渡来が記されるのがそれから三百五十年以上も経っていることから、日本渡来説を唱えたのは平安朝の由貫族社会ではなく、修験者などによるのではないかと思われる。『義楚六帖』の記述からも修験者の世界から渡来説が出たことはうかがえる。 http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/review/review2.htmこの本の中に 紹介されている行基図では 女護ヶ島として八丈島がでているようですがいくらかの伝承とあこがれを元に うまくこしらえたものだなそんな気がします。
2006年01月07日
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http://www3.ocn.ne.jp/~kmitoh/gensou/gosyado1.htmlこの神社の付近に 江戸時代のある時期まで 徐福塚があったということで徐福が来た 来たということにされるようですがさてhttp://www.haginet.ne.jp/users/susa/susatown/sisekitomeisyou4.html山口県には 黄帝社という 黄帝という神を祭る神社があるとのことhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D黄帝といえば 中国のアマテラスさまみたいなお方ある意味 漢の武帝をみたてたのが 岡田英弘先生の説ですし徐福も 黄帝の子孫とか日本には 孔子さまをはじめ 中国の方々も 神として祭られているのは 山のようにありますね。加藤清正の今に残る肖像も、関羽似のものがあります。丁寧に見ていくと面白いものです。
2006年01月06日
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日本海に突き出た海抜229mの断崖絶壁の頂上に鎮座する尾崎神社は、平安時代大同2年(807)の建立といわれている。 このころ修験者の聖地として山全体が権現としてあがめられ、飛龍大権現を祭神、脇士に仙薬を求めてきた中国の徐福が、航海の神として祀られ飛龍宮と称した。 明治初年の神仏分離で祭神を伊邪那岐命、伊邪那美命として神号を尾崎神社と改称する。地元のみる人が みれば こうなります。なにか カッコ付けたい気持ちはわかりますが事実を丁寧にみていくことが必要です。
2006年01月01日
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