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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/087/0760/08704250760003c.html○小林(進)委員 次に、海部八郎氏との友誼関係があり、政界、官界、財界等に広い分野の知人が多いと言われている田中清玄氏や日本報道新聞社長の森路英雄氏から今回の事件で事情聴取をされたことがございますかどうか。○伊藤(榮)政府委員 何しろ検察当局では三けたの人からいろいろ事情を聞いておるようでございますが、そのそれぞれについてどういう人から事情を聞いたかということは報告も一々受けておりませんし、また報告がございましてもその中身については申し上げるわけにまいりませんので、御容赦をいただきたいと思います。○小林(進)委員 その御答弁なんでございますが、田中清玄氏に五万ドルの領収証のコピーを海部がつくって森路英雄氏に発表を依頼したとか云々というような、なかなか怪談に似たような話が紛々と飛んでおりますので、こういうこともできればひとつ早目にやはり世間の人に知らせていただきたいと思います。編注 上の文章だと わかりにくいのですが 下記だと簡単です森路 ええ ある時 彼が黙って、パッとレシートのコピーをボクに出した ある右翼の大物のレシートで英文で書いている 金額は大したことはないけど 海部はこいつはひでえ野郎だ リベートを外で取るって怒ってるんです LNGの問題で この大物にモノを頼んでおきながら コピーして ボクにわたして 書かそうというんだから裏切りですよ立花隆 巨悪vs言論 文春文庫編注森路英雄 トリ屋さん ブラックジャーナリスト海部八郎 不毛地帯 鮫島のモデルダグラスグラマン疑惑に 清玄センセイが名前があがったらしいですが ロッキードに児玉攻撃に積極だったのは いろいろ事情があったからのようで 海外での裏金操作が 竹中完爾こと 田中清玄の本業のようで 清玄を石油フィクサーというのも 裏金の処理を 複雑怪奇な石油業にはめ込んでしまうという意味のようですが 児玉センセイとは 同業者ということですかね
2010年01月25日
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http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/kouhen/4-1-1.htm所有者を調査したところ、児玉誉士夫氏であった。同氏は、北海道拓殖銀行より二千五百万円を借り、その土地に抵当権が設定されていた。.理想家であり、野心家である児玉氏に、知人を通じて紹介してもらい、面接の機会を得た。当時、地価千円~千二百円している土地であったが、予算がないので坪七百円で譲渡して欲しい旨、協力方を懇願した。児玉氏は抵当権設定については、なんら話されなかったが、ジッとして「しばらく考えさせてくれ」とのことであった。その後、数回にわたり児玉邸を訪ねたが、返事はもらえなかった。ところが、約一か月後、児玉氏より突然電話があり「あす、午前十時に丸ビル内の北海道拓殖銀行に、学校に出せるだけの金を小切手にして持参するように」とのことだった。翌朝、拓殖銀行丸の内支店で児玉氏に会い、小切手を渡した。氏は支店長に「借金の半額にも当たらぬが、これで抵当権を解除してくれ」といわれ、支店長の「かしこまりました」で売買契約が成立した。その際の児玉氏の言が印象的であった。「現在、自分に金がないため、局長には今回ひじょうに苦労をかけた。自分に金があれば、国家に寄附したかった。局長、どうか私の最後の財産だった土地に立派な大学を設立してください。局長、ご苦労さんでした。」私は「必ず立派な大学を建設して、ご期待に沿います」といって、別れた。 調布に土地が決定するいきさつについては、更に永野嘉信が次のように述べている。例の華道の先生から「調布に児玉誉士夫が持っている土地が約二万坪ばかりある」という話を聞いて、日曜日に私が行って面積を計算したら、どうも二万坪は無さそうだけれども、とにかくその場で原事務局長を呼んだんです。そして、「これは整地に金がかからず、良さそうじゃないか」ということで、一つの候補地とした訳なのです。それから、今度は校舎設立委員会(服部学順委員長)を組織し、その中で「候補地が一つではよくないから、他にいろいろと候補地を捜して、選考しよう」ということになり、他にも当たってみたんですけれども、結局、うまくゆかなかった訳なんです。 永野嘉信は、当時、人事係長であったが、彼が調布の土地を発見したという事実は、ここに書き留めておかねばならない。以後、原太助の述べるような経過で調布の地を入手できたのである。その土地に関する詳細な資料が現存している。ここにその一部を抜粋し提示しよう。 昭和二十六年九月 土地建物等購入に関する申請資料 電気通信大学 昭和二十六年九月三日 電気通信大学学長寺沢寛一 文部大臣天野貞祐殿 新校舎建設予定地及び附属建物並に附属設備等の購入計画について 本学新校舎建設予定地及び附属建物並に附帯設備等を左記の如く金弐千五拾万七千五百五拾円也で購入致したく存じますので格別の御詮議を以て至急御認可相成るよう別紙関係書類図面等添付此段申請致します。 記 (一)土地(地目山林)東京都北多摩郡調布町布田小島分天神西一四の一外十六筆(実測反数)五町二反三畝五歩(実測坪数)一五、六九五坪同上布田塚通四四五、四四六 (同)四反六畝一七歩 (同) 一、三九七坪 計 (地目山林) (同)五町六反九畝二二歩 (同)一七、〇九二坪右予定購入 金壱千壱百九拾六万四千四百円也(坪七〇〇円)(二)建物東京都北多摩郡調布町布田小島分二〇番地 家屋番号三三の二(1)木造スレート葺平家工場一棟三三坪五合(2)同石綿スレート葺平家工場一棟一四九坪三合七勺(3)同スレートモルタル塗平家工場一棟七三坪一合二勺(4)同同平家ポンプ室一棟六坪(5)同同平家ポンプ室一棟一坪二合一勺(6)同ルービング平家守衛室一棟三坪七合五勺 計(登記簿面) 六棟二六六坪九合五勺右購入予定額 金五百七万弐千五拾円也(坪当り一九、○○○円)(三)(一)の附随物及び附帯物 桐、松、檜、梅、等(別紙明細書に基づく) 二〇五本(1)立木類 青木等 (同) 八○株 雑木 (同) 一、八○○坪(2)周囲境界設備 檜生垣 (同) 一五五間 境界張鉄条網 (同 八八間 コンクリート囲塀 (同) 一四○間 計右購入予定額金四拾八万五千七百円也(四) (二)の附属機械設備(1)ポンプ室機械設備 (別紙明細書に基づく) 一式(2)ボイラー室機械設備 (同) 一式(3)浴室同 (同) 一式(4)冷凍機室同 (同) 一式(5)屋内外配管設備 (同) 一式(6)送電設備 (同) 参台(7)鑿井 (同) 一式 計右購入予定額 金弐百九拾八万五千四百円也合計購入予定額 金弐千五拾万七千五百五拾円也所有者 東京都目黒区柿ノ木坂一三八番地 児玉誉士夫代理人 東京都世田谷区玉川等々力町一ノニ〇四七番地 山本孝次郎 いわゆるお役所との取引は どうだったのか なにかカラクを感じますし 土地購入の経緯が気になります また当時は 児玉センセイは 柿ノ木坂にお住まいのようで 当時 柿ノ木坂にはおもしろいものがありましたが このへんとの関係はどうだったのでしょうか
2010年01月21日
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http://canpan.info/open/news/0000001889/news_detail.html坪内 主人公・王長徳がオーナーをしていたクラブ・マンダリンというお店について詳しく書いてありますよね。昔、「アルスグラフ」っていう雑誌があって、増刊号で銀座を特集した時に、マンダリンの綺麗な写真が載っていた。連日、賭博が行われていたとかで、そのスキャンダルを暴いたのが三田さんだったということは、この本を読んではじめて知りました。康 厳密に言うと、こういうことなんです。当時の読売新聞は社会部帝国主義の時代だった。そのボスが女優の香川京子の亭主だった牧野拓司。まだ本田靖春が新米のチンピラ記者だった頃の話ですけど、読売で「東京租界」という連載特集を組んで、マンダリンの話を取り上げた。立役者が牧野で、その下に三田がいたんだ。坪内 「アルスグラフ」の中でも、確か、東京租界という言い方をしてましたね。香港かと思うぐらいにエキゾチックで、戦後のあの時期の銀座・新橋辺りって面白かったんだなって思いましたよ。で、うちのお袋も、戦前、上海にいて、実は父親よりももっとディープな環境にいたんですよね。うちの祖父が児玉機関の吉田(彦太郎)さんをすごくかわいがっていたらしくて、僕も「吉田の彦ちゃん」という呼び名を聞いたことがあるぐらいだから。王さんの息子さんがやっていた宝石屋にも、十年ぐらい前まで、お袋はよく行っていた。だから結構事情に詳しくて、上海時代の話を聞いたりすると、中国マフィアの話もよく出てくる。赤幇(ホンパン)とか青幇(チンパン)とか。王さんがそれとどう関わりがあったのか。この本には、そういう話は全然出てきませんよね。康 ご本人は、終戦直後、中国国民党の軍属・将校みたいな形で日本に乗り込んできたと言っている。実際にはどうだったのか。坪内 国民党の将校だとしたら、青幇でしょうね。康 可能性はあります。蒋介石は青幇ですから。当時は、終戦直後、日中国交が断絶したまま、大使館じゃなくて、代表部というのがあったわけですけど、その代表部に王さんが自由に出入りしていたことは、僕は知っているんですよ。国民党となんらかの関係があったのも確かでしょう。ただ、どこまで深い付き合いがあったのか。関係者がほとんど生きていないから、真偽のほどが明らかではない。実は、その点については、個人的に、言いづらい部分がいっぱいあるんです。つまり、日中戦中に、国民党が割れて、親日の汪兆銘政権が誕生したでしょう。その南京政府駐日大使館侍従医を僕の親父がやっていたこともあって、戦後は「漢奸」(売国奴)と言われて、戦犯として代表部に逮捕されてしまったわけだから。王さんとはまったく逆の立場。ひとつ言えるのは、終戦直後、彼が、いわゆる「第三国人」の特権を利用することによって、新橋界隈で強引な商売を展開して、いろいろトラブったことは事実。あの辺りは松田組が抑えていたから、そこに膨大な利権料を払って、闇物資を流しながら儲けていた。それがこの本のアウトラインですよね。夏目さんも、お金を借りて揉めたっていう話を随分してましたよ。ただ、タイトルに「帝王」とあるけれども、当時の東京の闇市を全部押さえていたような印象も受ける。そこは誤解されるかもしれませんね。まあ、全体としてちょっとオーバーな語り口であることは確かなんだ。坪内 著者が、闇市というものをよくわかってないんじゃないかっていう気もしたんですよ。僕らの子どもの頃は、まだ闇市の名残がいろいろあって、イメージできるものが具体的にあったわけですね。新橋駅前ビルの地下とか、有楽町の交通会館の雰囲気とか。行けばすぐに元闇市だとわかった。その辺りを、理解していない感じがする。康 当時の闇市について少し話をしておくと、池袋は極東、新宿は尾津組とかに分かれていて、新橋も松田組が押さえていた。彼らが三国人とも結合しているわけだけれど、三国人はただの供給源であって、ダイレクトに闇市をコントロールしていたわけではない。僕も、砂糖とか食料品を、仲買人のところに持っていったことがある。自分自身、三国人ですから、そこに流れてくる物資を横流しする。闇市の現場に持って行くわけではなくて、ヤクザの親分のところですけどね。そうやって、ある時期までは、割合自由に儲けることはできた。ただ、この本にも書かれてありますが、最終的には、王さんも、新橋にあった会館の不法占拠事件で裁判に負けることになりますよね。はっきり言えば、三国人の力が社会的にも法的にも弱ってきた結果でしょう。http://www.wako.ac.jp/souken/touzai_b01/tz_b0109.html 隠退蔵物資摘発運動と朝鮮人の協力 遠藤 敗戦から一九四七年の二・一闘争まで、たとえば、国鉄労組の立場からだと、隠退蔵物資摘発運動というのがあったんです。仙台にも航空廠があって、その倉庫には大豆がいっぱいあったりしましたが、それを摘発しました。また、日本陸軍が、蔵王のふもとの農家の蔵などに、建築資材と称してバターや缶詰などの食料物資を隠していました。その情報をよく知っているのが朝鮮人だったんです。釘などの建築資材は、国鉄が引き取って、その後の鉄道建設の基本材料にしましたが、報せてくれた朝鮮人たちには、食料などの物資を、ある程度まとめてポンと渡すということはよくありました。 高橋 共産党が最初に手をかけたのは、隠退蔵物資の摘発でした。全国的にやりましたが、それを一生懸命手伝ってくれたのが朝鮮人たちでした。 遠藤 そして、情報をよく知っていました。 ―M もしかすると、アメリカ軍が朝鮮人に情報を流したということがあるのではないでしょうか。GHQが最初日本の軍事物資の処分についてやっていて、実際の兵器になるものは破壊しているわけですから。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/001/1380/00109231380017c.html それからキヤラコ事件というものがありまするが、目下東京地方檢察廳において捜査中のものであります。被疑者は佐々木在久、大野圭演、泊利一、平山寅雄という者でありまして、佐々木は弊原男爵の甥であり、大野は朴烈の伜であり、泊は滿洲國高官であると名乘りまして、大倉喜七郎、中島知久平共有の無籍物のキヤラコ五萬七千反が桂公爵邸や野村大使邸の地下室に保管してあるが、大倉からこれを正規のルートによる賣捌き方を依頼せられていると稱しまして、G・H・Qの輸送證明書のごときもの及び朝鮮獨立促進青年同盟の加工委託及び輸送證明書を作成いたしまして、漆原徳藏ほか數名を欺岡いたしまして、代金名下に百九萬八千圓を騙取いたしまして、全部遊興に使用したことがわかつておるのであります。http://mindan-tokyo.org/bbs/history.php ? ? 1945年の日本の敗戦により民族解放が実現した。在日同胞は8月18日に杉並で「在日朝鮮人対策委員会」が組織されたのを皮切りに、全国で数多くの同胞団体が組織された。しかし、こうした群小組織を一体化するため同年10月に結成された「在日朝鮮人連盟(朝連)」は、発足当初から共産主義の左派が独占するようになり、これに不満を抱いた同胞青年たちは11月に「朝鮮建国促進青年同盟」を組織した。 同年11月、秋田刑務所から出所した戦前からの同胞指導者であり、後に民団初代団長となる「朴烈」は、左派に独占されていた朝連に入ることを拒否し、共産主義化に反対し決起した「朝鮮建国促進青年同盟」と「新朝鮮建設同盟」を主軸として民主勢力を糾合、共産主義者らの妨害をのりこえて1946年10月、日比谷公会堂で2000名の同胞が集い「在日朝鮮居留民団」を結成した。 東京においては、12月に豊島、板橋、練馬の3区連合支部が結成され、翌47年2月に文京、台東、北、墨田、江東、江戸川による6区連合支部と、中野、新宿、世田谷、目黒、渋谷の5区連合支部が相次いで結成された。 民団東京本部は、こうして結成された各支部組織の代表が集い、1947年2月28日に文京区内において「在日朝鮮居留民団東京本部」結成大会を開催し、今日の民団東京本部がスタートした。 民団は1948年、韓国政府の樹立とともに在日同胞の公認団体として同年9月、正式に認められた。また、韓国動乱の時には祖国防衛のために641名の青年学徒義勇軍が編成され、第一線に参戦している。 闇市については いまでも三国人と 日本人やくざの闘争という点から語られることが多いのですが ここにあげたものを裏読みするだけでも ちがう風景も見えてきます 田岡 稲川の親分にしても その傘下には 在日の親分衆が かなりいるらしいことを思えばうまく利用したというのが ホントのところではないかと思いますこのさいの三国人とヤクザと米軍の仲介役を務めたのが 児玉センセイの子分連中だったのではないかと思います
2010年01月19日
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http://www2.hannan-u.ac.jp/lib/material/recommended/recommend_0812.html このほど刊行された『上海日記』は、故堀田善衞宅で遺族により発見された二冊のノート(2007年夏)と、堀田善衞歿後十年の回顧展(2008年10月~11月、神奈川近代文学館。図録の表紙は、集英社刊 2008年11月スタジオジブリが描く乱世。 堀田善衞展 展覧会図録スタジオジブリの描く無国籍の木造戦艦で飾られている。宮崎駿は堀田と深くながい交流をもった)の準備中に、文学館に寄贈された「堀田善衞文庫」の蔵書・資料の中から発見されたもう一冊のノート(2008年6月)とから成り、「滬上[こじょう]天下」(堀田自身のことば。滬[こ]は上海の古称)のただなかで、1945年8月6日から46年11月29日までに書き継がれた思索の記録である。戦中秩序の錯乱と?倒[てんとう]によって自身をもふくめた生活者たちに生じた人心の壊乱[かいらん]と彷徨[ほうこう]と悲哀を繊細に感受しつつ、乱世に生きる単独者の思考をいかに紡いでいたか――この『上海日記』は、「上海客死」を覚悟した27歳の若き堀田善衞の、憂愁と愛と游魂[ゆうこん]にいろどられた青春の遺譜[いふ]というべきものだ。 胸部疾患により召集解除になった堀田は1945年3月10日の東京大空襲に遭遇しその悲惨を目撃した。酸鼻[さんび]をきわめる焼け野原を視察する天皇裕仁の「異様な儀式」と「現人神」に平伏する<日本人>の「憂情[ゆうじょう]」とに絶望し、この不可思議な「重い疑問」をつきつけられた堀田はやがて敗戦必至とみえた日本を“棄て”上海経由でヨーロッパに渡ろうと試みる。だが、日本軍が支配する異郷の「滬上[こじょう]天下」は、英・仏・米の帝国主義による植民地支配が深刻な爪跡を残し、ヨーロッパとアジアとが切り結び陰謀渦巻く魑魅魍魎[ちみもうりょう]の国際都市でもあった。亡命ロシア人やユダヤ人、インド、東南アジア、南米からの流れ者、さらに南京・重慶・延安にそれぞれ拠点をもつ複数の異なった政治権力(蒋介石[しょうかいせき]派や毛沢東派など)がひそかに放つ地下工作員や特務機関、スパイ、テロリスト、労働者、苦力[クーリー]、やくざなど、さらにそれらにくわえ日本の軍関係者や民間の邦人のうち、戦争遂行徹底派、闇のパイプをもち巨額の金銭を駆使する和平工作派、利権を漁る軍属や商人や投機屋など異様なる者どもが暗躍し、有象無象の多数の人々が入り乱れ混在する巨大な魔都――それが上海であった。この異貌[いぼう]の卑猥なる魔界ではだれもが複数の顔をもっていても不思議ではなかっただろう。 こういう猥雑[わいざつ]で秩序なき上海で堀田は、中日友好協会の武田泰淳と親しく接し、多くを得ている。8月11日に日本の敗戦を号外が伝えると、武田は「日本民族は消滅するかも知れぬ」と語り、堀田は「中国人のうつりかわり」を「人の心の内面の問題」として考え抜こうとしている。だから堀田は「いまーのーとき」(W.ベンヤミン)の現場を自分の眼で確かめるべく「路上の人」を選ぶのだった。だが、いやそれだからこそなおさら敗戦国の日本人としての敗残の悲哀は深まるばかりだ。 われらの生は 孤独の深みでなんと広いのだろう ――堀田善衞詩集 「滬上[こじょう]天下」には特務機関たる名取機関(名取洋之助)や水谷機関(水谷文一。児玉誉士夫の仲間)が跳梁跋扈[ちょうりょうばっこ]し、堀田もそれらと一定の関係を持ったらしいが(『日記』には名取洋之助の名が出てくるだけだが)、虹口[ホンキュウ]や外灘[バンド]を歩き回り、出来の悪い映画を観ては、安酒場で酒を呷る堀田は、ともに既婚者たる禁断の恋(名取機関に関係していたNとの恋、のちの堀田夫人)をことばを絞り上げるように切々と綴っている。そのころ「世界は終わりに近づく」というヴァレリーの詩句が堀田をとらえていたにちがいない。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%96%E6%B4%8B%E4%B9%8B%E5%8A%A9名取洋之助出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』名取 洋之助(なとり ようのすけ、1910年9月3日 - 1962年11月23日)は、戦前から戦後にかけて、日本を代表する写真家、編集者。実業家名取和作の子。母方の祖父は三井財閥の大番頭朝吹英二。目次1 生涯2 名取洋之助写真賞について3 著書4 写真集5 主要展覧会6 主要文献7 関連項目8 外部リンク [編集]生涯東京に生まれ、慶應義塾普通部に学ぶも、成績不良で予科に進めず、18歳でドイツに渡る。ベルリン遊学中、国立美術工芸学校のウェイヒ教授を通じてバウハウスのデザイン思想を知る。教授の地元ミュンヘンの美術工芸学校に入り、やがて教授が経営する手織物工場のデザイナーとして働くうちに9歳上のドイツ人女性エルナ・メクレンブルク(のち妻となる)と同棲。エルナが撮った火災現場写真を洋之助が組写真にして写真週刊誌に持ち込んだところ高値で採用され、そのことが機となってベルリンの総合出版社ウルシュタイン社に認められ、ヨーロッパ最大の週刊グラフ誌の契約写真家となり、その身分のまま帰国。戦前は、1933年に木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三らとともに日本工房を設立し(翌年、名取との意見の対立により、木村、原、伊奈、岡田が脱退し、日本工房は事実上崩壊。太田英茂らの参加を受け、改組されて第2次日本工房となる)、1934年には、対外宣伝誌『NIPPON』を創刊。土門拳、藤本四八などの写真家、山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策などのグラフィックデザイナーを用いつつ、従来の日本のレベルをはるかに超えた内容の誌面を提供しつづけた。http://yaplog.jp/tangguohao/archive/64 名取洋之助は戦前のドイツで腕を磨いた写真家で、帰国後日本のメディアのレベルがあまりに低いことを知り、「日本工房」を設立、対外宣伝グラフ誌の「NIPPON」を創刊し、報道写真とグラフィック・デザインの先駆となりました。土門拳もここで写真家としてのスタートを切っており、クオリティの高い誌面は今みてもうっとりするほど美しいのです。かれはのち上海に拠点をうつし、外国向け写真配信社を設立、同様のグラフ誌「Shanghai」、「Kanton」をつくりました。中国には骨をうずめる覚悟で出向いたようですが終戦後戦犯指定され、やむなく帰国しています。 岩波文庫は彼の最晩年の仕事と言えるでしょうが、庶民の生活のほんのひとコマを切り取ったカットの数々からは、報道写真家・名取洋之助の「写真は芸術ではない。物を考えるための記号・象徴である」というポリシーが健在であったことを強く感じました。 南京路からバントを望むカット。左に和平飯店北楼、右に南楼が見える。 河の向こうは当然荒野の時代。ロレックスの自動巻が25石で795元。文房具屋の店先にはパーカー、シェファーという文字も見え、共産中国にぜいたく品?というこちらのお堅い先入観をみごとに打ち壊してくれる秀逸なカット。 私はむしろ名取洋之助という名前に反応してこの本を買ってしまったのですが、それは父方の叔父がこの日本工房におり、上海支局に一時在籍してたこと、戦犯指定されて中国を去った名取が、新中国政府の招聘で取材に出かけていたという意外性からでした(岩波と新中国のつながりの強さを考えると、写真家が誰なのかということは些末な問題なのかもしれませんが)。 叔父に聞く上海はまさに小説や紀行文に出てくるような様子で、はじめての上海を「漢口から夜に着いて、黄包車(人力車)の車夫に『どこでもいいから旅館に行け』と言ったんだ。どこをどう走ったか、どの旅館に泊まったのかは全く覚えてないんだけど、翌朝目が覚めたら隣に中国女が寝てたことだけは覚えてるなあ」と笑い、「中国服がとてもよく似合う、中国語がペラペラの美人」(叔母ではない)との同棲生活を「彼女と一緒に昼ころに起きてさ、橋(ガーデン・ブリッジ)を渡って南京路のジミーズ・キッチンか五馬路の安い飯屋で昼飯を食べて、そのあとはウィンドーショッピングに古着屋めぐり。気が向いたら編集部に行って仕事をするんだ」と、遠い目をして懐かしむのでありました。 叔父の記憶が確かなうちに当時の話を聞いておきたいと思い、数年前、隠居先の長野の山奥を訪ねたことがありました。 本人記憶は定かながら、上に書いたような生活をしていたもんですから姪には話しにくいことも多々あるらしく、時折言葉を濁らせつつもぽつぽつと上海生活を語り、話題は日本工房のグラフ誌に及びました。「確か地下室にしまったんじゃないかなあ」という言葉をアテに本の山をあさったところ、どうやって大陸から持ち帰っやら、湿気てすっかりカビ臭くなった「Shanghai」の1937年創刊号が、古いグラフ誌の束に紛れて出てきました。小さい頃叔父の家で英語もわからないまま、美しさに夢中でページをめくった「NIPPON」の誌面にとても似ています。 蒋介石政権の腐敗ぶりや汪兆銘政権の正当性を説く記事を英語がわからないから斜めにすっ飛ばしましたが、奥付の住所にたどり着いたところで目をむきました。CHING CONG KAN,76 Jessfield, Shanghai(意味がわからない方…ごめんなさい、ここで語ると長くなるんで、「特工総部」でぐぐってみてください) 興奮ぎみに「おじちゃんこれ一体どういうこと?」と詰め寄るも、「え?ボクはピアス・アパート(編集部は虹口のピアス・アパートにあった)しか知らないなあ。それ何なの?」と逆に聞かれる始末。間接的とはいえまさか身内がこの場所に関わっていたとはと、びっくり仰天の発見でありました。 叔父が「日本工房がおかしくなりはじめたのは、名取さんが日本軍とかかわり始めた頃からだった。でもあんな時代だったから、資金調達にはそれしか方法がなかったんだなあ」てな意味のことを言ってましたが、世界に通用するレベルの報道写真とグラフィックを目指した名取洋之助にしてみれば、果たしてこれは妥協レベルのものだったんでしょうか。 名取洋之助は1961年に亡くなっていますから、56年の中国取材は「死ぬまでにもう一度」という悲願の実現にも思えます。彼はファインダーを通して中国にどんな将来を感じたのか、淡々と切り取られた1枚1枚の写真からは思い入れにせよ諦観にせよ、撮影者の感情らしい感情はほとんど見えてこなくて、報道写真家の徹底したポリシーを感じるのみですが、政治や国家の思惑などとは関係なく、庶民の生活は永遠に動き続けているということは如実に感じられ、そこにまた名取洋之助の偏屈と美学を感じてしまうのでありました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%8976%E5%8F%B7ジェスフィールド76号出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ジェスフィールド76号(極司非爾路76號)は、日中戦争下の上海で日本軍によって設立された対重慶特務工作機関。後に汪兆銘政権が樹立されると、正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称した。ライカビルに 亜細亜産業がなぜ あったのかという背景のひとつではあります 特務機関とマスコミとの意外に知られていない点かもしれません
2010年01月13日
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http://www.ohba.ne.jp/history/33.html このとき、「ホテル・テイト」と同時に丸の内にやはり貿易庁直営の「ホテル・トウキョウ」も開業することになった。これは現在の住友銀行である。ここの理髪室もやるように言われたが、身体は一つしかない。そこでこちらは、父の古い弟子で、店が戦災で焼けて困っている蜂須賀常二氏に譲ることにした。http://web2.nazca.co.jp/hjk5689/page018.html編注創業が1947年 廃業が1959年現在地は住友信託ビルhttp://report.jbaudit.go.jp/org/s27/1952-s27-0304-0.htm 通商産業省で、外国貿易使節団に使用させるため賃借したホテル・トウキョウ、ホテルヤシマ、芝パークホテル、ホテル洛陽およびホテル浪速に国費で支弁した施設等について、賃貸借契約が解除されたのに長期にわたり有益費の償還等の処理をしないままホテル経営者に使用させているものがある。 右のホテルに使用していた建造物は民有のもので、昭和22年8月、通商産業省(当時貿易庁)が経費総額233,271,694円を使用してその土地、建物、工作物等に対し水道、ガス、照明、暖房装置等の新設および模様替工事等を施行したものであるが、25年4月から右ホテルが民営に切り替えられることとなったので同年3月31日本件賃貸借契約を解除し、これを所有者に返還したものである。しかして、国が前記のように施設したものについては、当初の賃貸借契約において、契約の終了または解除の際当事者間で協議のうえこれを定めることとなっていたものであるから、賃貸借契約の解除とともにすみやかに施設費については善後処理をしなければならなかったのに、その処理が進ちょくしていないのは遺憾である。 すなわち、本件国費支弁で施設したもののうち、帳簿価額6,611,407円の施設等については、26年10月から28年8月までの間に各所管財務局に引継を了し、売渡または貸付けの処理をしたが、残余の226,660,287円については明らかに有益費と認められるものたとえば水道、ガス、照明、暖房、通信、作業装置等があり、すみやかにこれが評価を行い求償等の処置を講ずべきであるのに、民営切替時以来ホテル経営者の使用に任せたままとなっている。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/026/0106/02604270106030c.htm○ 山田委員 現在大手町のホテル・トウキョウの中に事務所を持っておられます阪田誠盛といいますか、この人に対してはどのくらいの貸金がしてありますか。 ○渡部証人 これも先ほど申し上げましたが、約三億……。 ○山田委員 この人は何を担保にしております。 ○渡部証人 土地並びに家屋でございます。豊分町の担保並びに熱海の別荘の土地、建物一切です。 ○山田委員 どうもこの人の担保物などにつきましてはとかく異論が出ているようですが、この人がいわゆる右翼団体に関係があるというようなことから、担保物としては大した価値はないけれども、うるさいから貸しておくということが言われておりますが、どうなんです。 ○渡部証人 別にうるさいから貸したというわけではございませんで、この人はやはり導入その他に関連しまして、その導入金の裏金利の一部は担保が不足になっておるかもしれませんけれども、最初は全部一番抵当で貸しておるわけです。 ○山田委員 阪田さんがあなたの方に導入した得意先はどこですか。 ○渡部証人 その導入した得意先というのは私の方でわからないのです。その預金者はもう無記名その他になっておるために、一々その預金先を調査しておりませんから、先ほども答弁した通りです。 ○山田委員 阪田さんが預金した導入先はわからぬというけれども、金額が一体どのくらいあるのか明確にして下さい。 ○渡部証人 預金の多いときけ三億四、五千万円あったと記憶しております。一番最後のときは一億二、三千万の預金がまだ残っております。 ○山田委員 この阪田さんは、中国のかつての児玉機関で鳴らした児玉氏と連絡があって、この児玉氏を通して金が入れられているという話もある、そういうことについてあなたは長い間取引があったわけですから、何か明確な話を聞いてないですか。 ○渡部証人 児玉氏の手を通して預金されたということは全然聞いておりません。http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200907140000/貿易庁の主軸は あきらかに 三井物産の人脈であるということhttp://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50650124.html白洲次郎と関連のあった 中西伸次という人が 三井物産から里見機関にいた点についてこの大手町と丸の内のホテルトウキョウが同じものであるという前提ですが 阪田さんも微妙なところに 事務所をかまえていたものです
2010年01月08日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E7%94%B0%E9%BE%8D%E5%A4%AB勝田龍夫(しょうだ たつお 1912年2月22日 - 1991年5月28日)は、元日本債券信用銀行会長。父は朝鮮銀行頭取、大蔵大臣等を務めた勝田主計。妻は西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘。[編集] 来歴・人物東京府下豊多摩郡渋谷町中渋谷(現・渋谷区)に、愛媛県松山市出身の大蔵官僚勝田主計・伊与子の4男として生まれる。東京府青山師範附属小学校(現・学芸大付属小)、東京府立一中に入学。その頃、一中においてサッカー部が創設されキャプテンになる。1930年(昭和5年)、一中卒業と同時に、同校地にあった旧制府立高等学校に入学。サッカー部を創設した一員になる。その後、文士志望で文学部行きを母に大反対され、京都帝国大学法学部に入学。1937年(昭和12年)、朝鮮銀行入行。戦後、朝鮮銀行は解散させられたが、その一部の残党組が設立したとされる日本不動産銀行に移り、以後、1969年(昭和44年)頭取に就任。1973年(昭和48年)には会長に退く。日本不動産銀行も1977年(昭和52年)、日本債券信用銀行と改称した。上海支店 ニューヨーク出帳所などに勤務の後 企画院に出向 海軍主計官などを経て 軍需省東京地方燃料局石油課長として終戦を迎えた 戦後 朝鮮銀行を退職 様々な会社に関係したとされるが このころの足跡ははっきりしない銀行の墓碑銘 有森隆 講談社http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/026/0106/02604270106030c.htm○山田委員 現在大手町のホテル・トウキョウの中に事務所を持っておられます阪田誠盛といいますか、この人に対してはどのくらいの貸金がしてありますか。○渡部証人 これも先ほど申し上げましたが、約三億……。○山田委員 この人は何を担保にしております。○渡部証人 土地並びに家屋でございます。豊分町の担保並びに熱海の別荘の土地、建物一切です。○山田委員 どうもこの人の担保物などにつきましてはとかく異論が出ているようですが、この人がいわゆる右翼団体に関係があるというようなことから、担保物としては大した価値はないけれども、うるさいから貸しておくということが言われておりますが、どうなんです。○渡部証人 別にうるさいから貸したというわけではございませんで、この人はやはり導入その他に関連しまして、その導入金の裏金利の一部は担保が不足になっておるかもしれませんけれども、最初は全部一番抵当で貸しておるわけです。○山田委員 阪田さんがあなたの方に導入した得意先はどこですか。○渡部証人 その導入した得意先というのは私の方でわからないのです。その預金者はもう無記名その他になっておるために、一々その預金先を調査しておりませんから、先ほども答弁した通りです。○山田委員 阪田さんが預金した導入先はわからぬというけれども、金額が一体どのくらいあるのか明確にして下さい。○渡部証人 預金の多いときけ三億四、五千万円あったと記憶しております。一番最後のときは一億二、三千万の預金がまだ残っております。○山田委員 この阪田さんは、中国のかつての児玉機関で鳴らした児玉氏と連絡があって、この児玉氏を通して金が入れられているという話もある、そういうことについてあなたは長い間取引があったわけですから、何か明確な話を聞いてないですか。○渡部証人 児玉氏の手を通して預金されたということは全然聞いておりません。○山田委員 先ほど問題になったレインボーの責任者はだれです。○渡部証人 レインボーの責任者は坂内シノブだったと思いますが……。○山田委員 さっきも問題になっておるのですが、どうも不明確なんで、もう一ぺんお尋ねするのですが、郵政省の互助会から六百万円の金が預金されたときの互助会の責任者はだれだったのですか。○渡部証人 互助会の名前は郵政互助会として預金されております。当時折衝したのは大野さんという理事。○山田委員 大野だれですか。○渡部証人 名前はちょっと忘れました。○山田委員 旧朝鮮銀行の当時の整理の衝に当っている者の名前は何というのですか。そしてあなたの方の折衝した人の名前は……。○渡部証人 朝鮮銀行のは星野喜代治さんが責任者であります。そこに頼みに行きました。○山田委員 これが全部証人が当ったということは理解できないのですが、証人に話を持ってきた人はだれですか。○渡部証人 この話を持ってきたのは宮地さんという人でございます。その人が紹介しております。○山田委員 宮地さんというのは、宮地何という人です。○渡部証人 宮地智覚という人でございます。○山田委員 宮地智覚という人はどういう人ですか。○渡部証人 この宮地智覚という人は三原橋の橋の建築をやった人で、あそこの権利を持っております。○山田委員 旧朝鮮銀行は閉鎖機関になっておるが、閉鎖機関ですから二千五百万の金を出すについては、われわれには理解ができないのですが、一体何でもかまわない、金さえ持ってくれば預かるという態度で臨んだものか、それとも預かる過程においてあなた方の方から何か質疑があったかどうか伺いたい。○渡部証人 これは一度に二千五百万預金していただいたわけじゃないので、最初一千万だった。それをふやしていただいたわけです。別に何もそれ以外のことはございません。○山田委員 最初一千万であと千五百万で、いずれにしても二千五百万であることは間違いない。(細田委員「全部で三千五百万だ」と呼ぶ)そういう点で、だれがそれを持ってきたのか伺っておきたいわけです。○渡部証人 それは私がお願いに行きまして、係の者が行って預金はもらってきました。○山田委員 係の人はだれです。○渡部証人 預金の係はだれであったか覚えておりませんが、預金の係をやりました。○山田委員 どういう名義でそれは預金されていますか。○渡部証人 朝鮮銀行閉鎖機関として預金されております。勝田には 傷がある俺が守ってやらないといけないんだ 上森は親しい友人につぶやいた 傷とは 勝田が貿易庁事務官だった終戦直後に 三万円のわいろを受け取ったとして収賄容疑で逮捕されたことだった 最高裁まで争ったが 五十一年に懲役一年六月が確定した 頴川が頭取に就任したころ 勝田の過去を暴露する怪文書がばらまかれた その後 頴川は情報誌を発行するという男に酒場に呼び出される 男は手帳を見せながら 怪文書を書いたのはおれなんだ ある人に頼まれたとささやいた ある人とは そのころ事業展開を図っていた不動産会社の経営者、暗に裏取引での融資を要求していた銀行が食い尽くされた日 共同通信社会部日債銀のスキャンダルについては 福島交通の小針 東亜企業の町井 三正の満井があがってきますが 裏社会の方の立場でいわせると 前科者のいいとこのボンボンに 銀行の金をスレスレの方法で 政界工作に使わせ 不動産銀行つくりました その課程で 逮捕されたあとには世話しただろう 工作には手助けしたろ 偉くなったじゃないか 敵をつぶしてやっただろう少しは恩返して 融資してくれてもいいだろう 担保不十分 いいだろう こんなところだったみたいですね 前科者で疵もちが 銀行の頭取に座るから 大変なことになったみたいですね
2010年01月05日
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