2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全4件 (4件中 1-4件目)
1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%BA%81あわせて戦時中に貿易の統制を事実上行ってきた交易営団の廃止を命じた。このために、日本政府はGHQの方針に則って貿易を一元化して取り扱うために設置されたのが貿易庁である。ところが、この年の8月にGHQが制限付の民間による輸出(翌年には制限が解除)が認められるようになり、1949年以後は外国商社が日本国内に支店・事務所を設けて取引することが可能となった。この事態を受けて当時の第3次吉田内閣は産業・貿易振興を効率的に行うため、まず3月31日に食糧・原材料の両貿易公団を廃止し、続いて5月25日には商工省を通商産業省に改編して貿易庁などの外局を本省業務の一環に組み込んだ。これによって貿易庁は廃止された。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E7%A4%BC%E5%8A%A9石田 礼助(いしだ れいすけ、明治19年(1886年)2月20日 - 昭和53年(1978年)7月27日)は、昭和初期から中期(1930年代後半-1960年代)の実業家。昭和8年(1933年)三井物産取締役、昭和11年(1936年)常務取締役、昭和14年(1939年)代表取締役社長となり、三井物産の総責任者となった。昭和16年(1941年)に同社を退社後、昭和17年(1942年)からは産業設備営団顧問に就任。昭和18年(1943年)交易営団が設立されると総裁に就任するが、戦後にそれが要因となって公職追放され、神奈川県国府津(小田原市)に引きこもって晴耕雨読の日々を送る。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%99%B4向井忠晴1904年:東京高商本科を卒業し、三井物産入社。入社後は上海支店勘定掛、本店穀肥部長、大連支店長、ロンドン支店長等を歴任する。1928年:本店営業部長。1933年:同取締役。1937年:同常務取締役。1939年:取締役会長、三井合名会社常務理事。1941年:三井総元方理事長。1943年:辞任。1945年:貿易庁長官。1946年:公職追放。1952年:第4次吉田内閣に大蔵大臣として入閣。http://kotobank.jp/word/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B9%B8%E5%A4%AA%E9%83%8E永井幸太郎 ながい‐こうたろう?1887‐1983昭和時代の実業家。明治20年4月4日生まれ。42年高畑誠一によばれ鈴木商店にはいる。昭和3年日商(現日商岩井)設立につくし、20年社長。22年商工省貿易庁長官となり社長を辞任、24年社長に復帰。32年日本発条(現ニッパツ)社長。昭和58年1月23日死去。95歳。兵庫県出身。神戸高商(現神戸大)卒。ジローさんの 評伝の年表をみると 初代貿易庁長官とありますが 実際は この永井さんの次がジローさんですいろいろと伝説とちがいますようで
2009年07月14日
コメント(9)
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/415_1.html真金町で女郎屋を営んでいた祖母篠崎 歌丸師匠は、真金町のお生まれなんですね。歌丸 そうです。今も、ずっと住んでるんです。篠崎 お酉さま(大鷲神社)のすぐそばですか。歌丸 大鷲神社(明治後期)はい。昔、あの中で女郎屋をやっていたから、ど真ん中にいたんです。祖母がやっていたんですが、もう面倒も見切れないというので、廃止になる前に人に譲って、手を引いたんです。それで二丁目から一丁目の今の所へ引っ越したんです。篠崎 昭和三十三年に、売春防止法によって遊廓はなくなりますが、その前に廃業されたんですね。 終戦後間もなく、お酉さまのときに通ったことがありますが、格子の窓のような所にきれいな女性が何人もポーズをとって並んでいるんです。きれいだなあと思ったのを覚えてます。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E7%B1%B3%E4%B8%B8_(4%E4%BB%A3%E7%9B%AE)4代目桂 米丸(かつら よねまる、1925年4月6日 - )は、神奈川県横浜市出身の落語家。社団法人落語芸術協会最高顧問。本名は須川 勇(すがわ いさむ)。出囃子は『金比羅舟々』。生家は港湾荷役業の名門でミナト横浜の大親分、須川太助が祖父にあたる。惣領弟子で現在の落語芸術協会会長である桂歌丸が現在司会を務める日テレ『笑点』で真打昇進披露口上が行われた際にも同様の発言を行ったうえで、手締めの音頭をとった。http://www.google.co.jp/m/search?mrestrict=chtml&sa=2&q=%E9%A0%88%E5%B7%9D%E7%B5%84%E3%80%80%E9%B6%B4%E5%B2%A1&site=universal桂米丸 - 藪井竹庵 - Yahoo!ブログ神奈川県横浜市の港湾荷役業者の二代目須川組組長の家に生まれる。須川組は部屋頭に 後に東海荷役の親分となる鶴岡政次郎がいた事でも知られる。?.http://cheese.2ch.net/4649/kako/1008/10088/1008881595.html綱島一家五代目。 東京芝浦に「東海荷役」という港湾荷役会社を 経営し、戦後、港の六人衆のひとりに数えられた。 山口組二代目山口登氏と兄弟分、さらに 三代目田岡組長とも兄弟分になった。 正確に言うと鶴岡氏から見ると田岡氏は自分の 兄弟分の跡目、甥っ子のような存在だったが、 五部兄弟にひきあげたそうな。田岡氏の器量も さることながら、ひっぱった鶴岡氏の度量のスゴイ。 こういうのを出世兄弟の盃というそうです。 今はあまりききませんね。 この出世兄弟の盃のときに祝儀として美空ひばりの 興行権を譲った・・・という説もあります。 横浜国際劇場の裏に住み、葬儀も劇場で行われた。 盛大な葬式だったそうです。 稲川会の前身である「鶴政会」はこの親分の姓名の 頭文字をとったものですね。 これが鶴岡親分について私の知ってる全てです。http://www.tohkaikaiun.com/company/history.html東海海運・60年の歩み年 次経営上の主な出来事1949年05月東京都港区芝海岸通3丁目1番地を本社として資本金50万円を以て設立、初代代表取締役に鶴岡政次郎が就任。1951年04月本社を現在地に移転。1951年08月港湾運送事業法に基づき京浜港第2種(船内荷役事業)登録を取得。1951年12月上記に続いて京浜港第4種(沿岸荷役事業)の登録を取得。 資本金を150万円に増加。1953年02月資本金を250万円に増加。1953年05月資本金を300万円に増加。 川崎製鉄株式会社千葉製鉄所の開設に伴い千葉出張所を開設。1953年10月上記開設に伴い千葉港第2種(船内荷役事業)の登録を取得。1954年06月東京港の発展に伴い従来の業種では業務上狭隘を来たしたので京浜港第1種(一般港湾運送事業)の登録を取得。1954年12月千葉港第4種(沿岸荷役事業)の登録を取得。1955年11月沿岸関係業務として、一般区域限定貨物自動車運送事業の免許を取得。1955年12月資本金を500万円に増加。1960年10月代表取締役社長鶴岡政次郎の死亡により、後任として代表取締役社長に鶴岡元秀が就任。又、横浜営業所を開設。1961年04月資本金を600万円に増加。1961年07月資本金を900万円に増加。1962年05月横浜営業所の事業の拡張を図り、横浜税関の通関業者の免許を取得。1962年06月アラスカパルプ株式会社運輸総代行店として神戸事務所を開設。http://kotobank.jp/word/%E7%89%9B%E5%A0%B4%E5%8F%8B%E5%BD%A6牛場友彦 うしば‐ともひこ?1901‐1993昭和時代の経営者。明治34年12月16日生まれ。牛場信彦の兄。オックスフォード大卒業後、太平洋問題調査会、三菱石油につとめる。昭和12年近衛文麿(このえ‐ふみまろ)首相の秘書官。戦後は日本輸出入銀行監事、アラスカパルプ副社長、日本不動産銀行顧問などをつとめた。平成5年1月12日死去。91歳。京都出身。東京帝大卒。
2009年07月12日
コメント(0)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B2%A1%E5%B1%80理財局出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』理財局(りざいきょく)は日本の中央官庁である財務省の内部部局の一つである。国債、財政投融資、国有財産などの管理を主な業務としている。伊原隆1947年(昭和22年)9月2日 - 1951年(昭和26年)5月1日財務官室勤務http://library.main.jp/index/jst15375.htm書籍名 伊原隆遺稿集著者名 伊原 隆(横浜銀行 発行)著者紹介 昭和6年東京帝国大学法学部法律学科卒。大蔵属・理財局勤務、22年理財局長、27年大蔵事務官兼任・財務調査官、29年退官。東京銀行常務取締役、37年退任、参与。37年横浜銀行取締役頭取。
2009年07月10日
コメント(1)
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/topics/today/info_0901.htm100年前の今日(1909年1月31日)、銀行家の横田郁が生まれました。父は加藤高明内閣で司法大臣を務めた横田千之助。慶応大学経済学部卒業後、日本勧業銀行へ入り、一貫して営業畑を進み60歳で同銀行の頭取まで上り詰めました。そして一時は三菱銀行との合併が進められていた第一銀行(当時の頭取は井上薫)と1年半以上もかけて極秘裏に合併工作を推進。1971年10月に対等合併を成功させて初代頭取に就任、当時総資産第1位の銀行の舵取りを任されたのでした。http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/1018/bank-history2.htmlこうして三菱と第一との大型合併構想は1969年1月13日に白紙還元され、第一銀行の長谷川頭取が辞任、代わって井上薫会長が頭取職にカムバックした。 井上薫氏は事態がおさまるのを待って、新しい大型合併話の模索を始めた。新しい合併構想は井上頭取の意を受けた渋沢倉庫の八十島親義社長(前第一銀行常務)によって進められた。 八十島氏は当時の日本勧業銀行(特殊銀行)の横田郁頭取とは大学の先輩・後輩の関係にあり、かつ八十島の弟と横田頭取とが幼稚舎以来の慶応時代の同期であったことから、旧知の間柄にあった。 八十島氏はこの日本勧業銀行の横田頭取を第一銀行の井上薫頭取に紹介し、ここに合併話がトントン拍子で進むところとなった。井上頭取にしてみれば、三菱と違い、勧業銀行は預金量が第8位で、第6位の第一とほぼ同じであったことや非財閥系であったことなどから、文字通り「対等合併」の相手先としては願ってもいなかった。 こうして1971年3月初めに、合併合意書が出来上がった。18日に合併発表と決めていた。しかし、報道関係者がかぎつけ、急きょ1971年3月11日に帝国ホテルで合併の発表を行った。この合併によって預金量で日本一、そして世界で第7位のマンモスバンクの第一勧業銀行(Dai-Ichi Kangyo Bank 略DKB)(現みずほ銀行)が誕生したhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/015/0798/01503090798017a.html最後に渋沢倉庫の件でございまするが、渋沢倉庫は、資本金が五千万円、株数が百万株でございまするが、これは藤綱、田島両氏が同社の株式二割八分程度を買占めました上、話によりますと、社長以下全経営者陣の退陣を要求する臨時株主総会の開会を請求し、これに対して会社側が拒否しておるというような情勢でございまして、昨年十月頃から本年の二月半ばまでに両氏の買いました株数は、総株数百万株に対して、先ほど申上げました通り二十八万株に達しておるのでございまするが、これの対抗手段と申しますか、渋沢倉庫会社側ではそういう経営陣の更送の要求を拒否すると同時に、最近重役会において百五十万株、七千五百万円の新株発行をきめ、そのうち百万株を株主に割当て、三十五万株を一般公募といたし、十五万株を会社従業員に割当てるというようなことをやつて、持株比率の相手方との比率の向上と申しますか、向うから見れば低下でございますが、そういうことをやつたように聞いておるのでございまするが、先ほど申上げましたように、これが当該業界の大きな問題になりますれば私どものほうでより深く掘下げてみたいと思いますが、今日のところでは主として公正取引委員会の調査決定に待ちたいと、かような段階にあるわけでございます。http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics27c.html株買い占め暗躍の藤綱一派昭和27年、株の世界では藤綱一派と呼ばれる仕手グループが話題を集めていた。狙い目の企業の株を買い占めては、役員就任などを要求、高い値段で企業に株を買い取らせるのが手口だった。藤綱久二郎(57)は元東京株式取引所使用人であった相場師で、ほかに銀座や新宿で映画館などを経営していた川瀬留吉など十数人の金満家が付いていた。過去に、日本皮革、陽和不動産を買い占め、平和不動産では失敗、そして11月には資本金5000万円で安定株主の少ない渋沢倉庫を買い占めていると噂されていた。渋沢倉庫株は10月の200円台から11月には600円台に跳ね上がっていた。日本皮革は昨9月、資本金2000万円、安定株主が少ないところに目をつけ、藤綱一派は買い占め。日本皮革は4割配当をしていたが、ガードが甘いところに乗じられ、5、600円台だった株価は3月には1750円台に。藤綱一派が買い占めた株は4万数千株にのぼり、日本皮革経営者が1株1500円で買い取る事となった。日本皮革はそのまま上場廃止。藤綱一派は実際には高利に手を出しており、この仕手戦では5、600万円の損だったという。 陽和不動産は丸の内に進駐軍に接収中の旧三菱本館など三十数億円の不動産を所有していながら、資本金はたったの3600万円、総資産2億3900万円としていた。4月には発行株数72万株の34%にあたる25万株を藤綱一派は買い占め。380円の株価が1600円になったが、陽和不動産では無警戒のまま。藤綱一派が表に出てきて、役員にするように要求したところで初めて狼狽した。三菱系10社が1株1550円で買い取る事で事態を収拾、三菱系の陽和不動産、関東不動産、三菱地所の合併が決まった。昭和28年2/17、藤綱一派は渋沢倉庫の社長ら全役員の退任を要求、臨時株主総会を開くように訴えたが、渋沢倉庫側は2/27に拒絶した。渋沢倉庫株は1/24で1680円となっており、藤綱一派は全株の28%にあたる28万株を買占めていた。藤綱一派の田島将光(62)は、バックに大きな新興宗教団体がいて、50億円は融通出来ると豪語していた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E8%8B%B1%E6%A8%B9しかし、横井の執念はこれで抑えることはできず、既に買い占めた持ち株を抱えながら彼は当時の価格として4億以上を持ち出しあくまで買い続けた。また、久保に対抗できる大物として総会屋の田島将光を招き入れて経営陣に相対した[3]田島はその豪腕を発揮して、新田組・住吉一家・安藤組・銀座警察・殉国青年隊らヤクザ者をかき集めて最初の株主総会を流会させた後、再開された総会を会社側と横井側の同時開催という挙に出る。八十島サンのお父さんらしき方は 親徳さんという方で 渋沢家の理事で お姉さんの文子さんという方が 栄一の外孫に嫁に行ってますここに出ている 長谷川さんが 栄一の庶子なんで 微妙なところを井上が利用したようです 渋沢家の内紛がらみでしょうか高杉良の小説など 如何にきれいごとかがうかがえますが さて このときに田島サイドに法律家としてついたのが ジローさんの友人の松本センセイです また横田のお父さんも文平さんあたりと知り合いだったような企業小説は裏読みするとおもしろいな
2009年07月06日
コメント(4)
全4件 (4件中 1-4件目)
1
![]()

![]()