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http://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/e/e3d0579b323c6fcd2d24e97817f725c5昭和61年、笹川良一率いる競艇界の総意で設立された笹川平和財団の会長に就任した。同財団は、800億円の基金を持つ日本最大級の財団法人である。 設立当時世界では強すぎる日本経済が問題視されていた頃。笹川の「笹川平和財団が民間の立場から国際協力・国際理解を推進することが日本の国際貢献に資することである」との考えに賛同した田淵は、理事長の河合三良(元・国際開発センター会長)とともに事業を積極的に進めた。現在も民間財団ならではのユニークな活動を行っている。平成3年損失補てん問題や暴力団との取引が発覚し、国会で証人喚問を受けた田淵は、責任を取って野村證券の会長職を辞任し相談役に退き、経団連副会長を辞任。平成7年再び取締役に就任したが、総会屋への利益供与が発覚し、すべての役職から退いたが、笹川平和財団の会長には留まっていた。失意のどん底に沈む田淵に対する笹川陽平(当時日本財団理事長)の配慮があったのかもしれない。http://pepecastor.blogspot.com/2008/03/blog-post_27.htmlところでこの事件審理中、フィリップ・ロンドー将軍のメモに、ジャック・シラクが日本に隠し銀行口座を持っていて70億円の預金があったということが記録されていたのです。ただならぬ金額です。このことは国家保安委員会でロンドーの前任者たちによって1996年に既に確認していて、国家に大不安をもたらす可能性があるとして、大統領の意志と関係を持たずに調査が続けられていたのです。東京相和銀行という二流の銀行で、なおかつ暴力団界との関係も取りざたされる不透明な金融機関に、シラクはなぜ銀行口座を持っていたのか、そのオーナー長田庄一とシラクの関係は何か、またその70億円という金はどこから来たのか、というのを2年間にわたって追跡調査した二人のジャーナリスト、ニコラ・ボーとオリヴィエ・トセールの調査報告書がこの本です。 未来においてフランスの大統領になるとは多くの人々が予想していなかった、70年代の保守ド・ゴール派のタカ派政治家だったシラクが、日本と急に親密な関係を持ち始め、今日まで五十数回にわたって日本との往復を繰返し、類い稀な親日家となった真の理由は何だったのでしょうか。その文化が好き、相撲観戦が好き、というだけではないことは確かでしょう。本書は76年にジスカール大統領と袂を分ち首相を辞任し、次期大統領になる野望に燃えてパリ市長となった頃から、シラク流の不透明なやり方で、パリ市公営事業の入札などで入ってくる裏金と、シラクに未来を託す日本の黒幕の後押しによって、シラクが急速に勢力を伸ばす過程も描いています。日本の黒幕は既に70年代から、日本の特定の利益のために働いてくれる都合のよい未来の大物としてシラクに接近していた、というのがこの本の前半部です。 いろいろな名前が出てきます。シラクに親しい日本女性たちも登場します。N画廊のマダム、女優S、セラピーアーチストCなど写真入りで出ています。長田庄一の持つ淡島のホテル、その豪華クルーザー("東相2世"という名前が見えます。東相とは東京相和銀行でしょうか)の舳先に立つシラクの写真なども見えます。そういう週刊誌ネタ的な部分はさておいて、なぜシラクが日本に70億円もの銀行口座を持つに至ったのか、その金はどこから来たのか、という最も重要なポイントに、この著者たちは笹川財団の名前を持ってきます。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E5%BA%84%E4%B8%80#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E5.9C.B0.E9.8A.80.E3.81.AE.E3.83.88.E3.83.83.E3.83.97.E3.83.90.E3.83.B3.E3.82.AF長田の出身地山梨県は、かつて東武鉄道の根津嘉一郎、若尾銀行・東京電灯の若尾逸平、山一證券の小池国三など、財界において俗に甲州財閥と呼ばれる一派を形成しており、長田もこうした地縁を最大限に利用した。また、池田勇人元首相ら政治家の知遇を得て、中央政界や大蔵省などにも強い繋がりを持ったことで業容が拡大した。http://www.rondan.co.jp/html/news/souwa/index.html また、裏金を蓄財するにはサラ金は非常に都合のいい企業であり、しかもあまり規模の大きくない方がメリットがあり会長はどんどん貸し出している。当行の二度にわたる第三者割当増資の資金も、実際は全てといっていいほどサラ金への迂回融資で成立している。法の網を潜りぬけた実質的には自己資金による増資である。http://ae.kotoeri.biz/「失われた十年」の最後の年、 東京相和と東邦生命が相次いで経営破綻しました。この東京相和銀行をメインバンクに、 東邦生命を運用資金借入のお得意先として 密な関係を築いていた企業、それがアエルです。当時はまだ日立信販でした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0_(%E4%BC%81%E6%A5%AD)アエルなど中小の消費者金融業者へ事業資金(貸付金)の融資を行う卸金融業「後楽園ファイナンス(登記上はフアイナンス)」を有し、多角面な経営を行っていた。 しかし2006年7月中間期連結決算で、金融事業が貸金業の環境変化による貸倒引当金等の損失計上が引き金となり過去最大の赤字を計上したことから、リゾート事業はモルガン・スタンレー系のセントレジャー・グループへ売却。 金融事業については後楽園ファイナンス子会社の「サイエンスファクタリング」「理想ゴルフサービス」を東京ドームが特別清算し、ファイナンス社はローンスターへバルク売りと噂される程の安価(500億円)で売却された。その後、2007年度連結決算で736億円の特別損失が発生している。http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%DD%BA%E4%C0%BF後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)社長。1910年10月28日生まれ、中国・旧満州遼陽出身。慶応義塾大学卒業後、満州中央銀行を経て、1950年後楽園スタヂアム入社。1978年社長に就任。1980年日本ボクシングコミッションコミッショナー就任。1984年、創立50周年記念事業として屋根付き球場建設を発表。1988年に東京ドームを完成させた。1996年6月14日逝去。同年、日本野球殿堂より特別表彰を受ける。http://shika.b1net.com/committee/general_affairs/020927.html鹿倉委員 これは東京都議会の資料というか警察の資料だね。昭和五十二、三年ごろから、後楽園飯店において、住吉会の幹部会が7、8、12月を除く20日に開催されてきたわけです。昭和五十二、三年ごろ、これは警察です。そして、東京ドームの社長は前の社長ですから保坂誠さんです。昭和56年6月から富坂防犯協会の会長になっているわけですね。それで、今の新しい林有厚氏に富坂防犯協会の会長は引き継がれているわけですけれども、やっぱりこれは我々から見て、この昭和52年から延々とずっとこの住吉会系の参加団体とのつき合いは切れていないんだと。なおかつ、その方が防犯協会の会長も兼ねているということはまさに区民から見てこれはおかしい、こう思います。絶対に今回のこの事件を受けて、厳しい姿勢を東京都とも相談しながらやっぱり対応することが私は筋だというふうに思います。ぜひ区長に関しては、今一言もお答えにならないのでどういう考え方かさっぱりわかりませんが、このことを好ましいと思っているんですか、好ましくないと思っているんですか。http://aishoren.exblog.jp/3461127/同刊行会 人間田辺宗英 後楽園スタヂアム S44.3.20 334P B6H HBI函http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/DocDetail?hdn_if_lang=jpn&txt_docid=NCID:BA33051543 後楽園の社長で、かつて銀座の鍋町ビル三階に田辺事務所を開き、右翼活動に専念した人物(117P)である。この事務所に報国新聞社もあった。あとがきに、かつてご協力なされた御芳名に、血盟団の佐郷屋留雄や、稲川会系・大行社の清水行之助(日本社会党の結成資金を提供、石原慎太郎の中後期にかけての裏方もおこなった)の名があがっており、人脈の一端が伺い知れる。正力松太郎のそつない序文には<その五尺の痩身にみなぎるものこれすべて"侠気"といってよく、まさに「男の中の男」ともいうべき人物であった>と譚を述べる。つまり田辺ルートの任侠の力も借りた、ということである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0_(%E4%BC%81%E6%A5%AD)元々後楽園球場建設のために設立された会社である。後楽園球場ならびに東京ドームは現在に至るまでプロ野球球団読売ジャイアンツの本拠地として定着しているが、同球団親会社である読売新聞グループ本社との直接の資本関係は無い(資本・融資関係では第一勧銀グループ・みずほグループに所属)。ただし読売新聞グループ本社系列の株式会社よみうりランドの大株主であり、札幌後楽園に宿泊すると無料で翌朝読売新聞が配られる(※東京ドームホテルでは朝刊紙を選択できる)など同グループと緩やかな関係はある。また、よみうりランド同様、多くの公営競技場や場外発売施設を関係を持っているが、これはかつて後楽園競輪場を運営していたことからの流れによるものである。https://www.fujisan.co.jp/zasshi-kensaku.asp?sid=159505&q=%91%E5%98a%90M%97pノンバンクの大和信用と後楽園フアイナンスを介した迂回融資という形で提供された。大和信用の大株主は後楽園フアイナンスで、いずれも保坂氏の影響下にあった。その保坂氏と、資金の供給元だった第一勧業銀行http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50289741.html調べてみたところ、白洲次郎の長男の白洲春正氏が、 下記の財団の役員になっています。川喜多記念映画文化財団(財団法人)同財団の役員構成 役員構成は、ご覧の通りテレビ業界方面では日本テレビ色が強い。http://www.producer.or.jp/kaiho/kaiho-2008/2008-04.html フランス滞在中は、 当時、 ヨーロッパで最も著名な映画学校に留学していた高野悦子さん (現・岩波ホール総支配人)。 前年、 イヴ・シャンピ監督と結婚して、 パリに新居を構える岸恵子さん。 文部省給費留学生の奥山長春さん。 東和映画パリ支局長の白洲春正氏。 といった凄い方たちが、 右も左も分らない私たちを応援して下さった。なぜか マスコミ嫌いの元社長がパリにいた時期に戻りますそういえば ジローさんもよみうりランドには縁はありました
2009年06月28日
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http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/100309白洲次郎 哲学の源流 父文平氏、晩年の洋館跡 大分・竹田で確認 市「新たな観光資源に」2009年6月5日 00:10 カテゴリー:文化九州 > 大分文平氏が晩年を過ごした竹田市荻町の洋館(1930年代)文平氏の洋館にあった暖炉の前で語らう人々 戦後復興に尽力し、連合国軍総司令部(GHQ)に「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白洲次郎氏(1902-85)。その父文平(ふみひら)氏が35年に他界するまでの晩年を過ごした大分県竹田市荻町の洋館跡地が、同市の調査で特定された。市は市民の証言や写真を基に、在りし日の建物や次郎氏のダンディズムに多大な影響を与えた文平氏の暮らしぶりを検証。埋もれた現代史に光を当て、観光資源として活用していく方針だ。 竹田市によると、2月に放映が始まったNHKドラマ「白洲次郎」(全3回、第3回は8月に放映予定)で「文平は大分県竹田市荻町で亡くなった」と紹介され、これをきっかけに市観光課などに問い合わせが殺到。市民に情報提供を呼び掛けたところ、文平氏と親交があった向井隆夫さん(92)宅から証言と写真が寄せられ、洋館の存在が浮かび上がった。 洋館跡地は、荻町中心部から西へ約2キロの熊本との県境近く。建物は約20年前に取り壊され、現在は建て替わった家に向井さん一家が住む。文平氏が亡くなった翌年に、遺族から隆夫さんの亡父が家屋を譲り受けた。その際の覚書も残る。 隆夫さんの長男雄二郎さん(57)によると、洋館は当時珍しかった大きな窓や暖炉、川の水をポンプでくみ上げ生活用水にする浄水設備を備えていた。薪で沸かした湯が流れ込み、温泉のようだったという。ほとんどがじゅうたんを敷き詰めた洋室で調度品をそろえ、水洗トイレもあった。5頭の馬と狩猟用に数匹の猟犬も飼っていたという。 文平氏は、士族の長男として1869年に兵庫県で生まれた。東京の築地大学校(現明治学院大)に学び、ハーバード大(米)やボン大(独)に留学。神戸を拠点に綿貿易で財をなして「白洲将軍」と称された。昭和初期の金融恐慌で事業が破綻(たん)し、知人の勧めで荻町に移り住んだとされる。 息子の次郎氏に通じる人生哲学は移住後も発揮され、養蚕業を興して生糸の生産を始めた。文平氏の生前から離れに住まい、事業を手伝った隆夫さんは「文平さんはベッドの下に自分の棺おけを用意していた」「次郎さんがジープに似た大きな車で文平さんの遺体を引き取りにきた」と記憶しているという。 市は貴重な史実を重視。首藤勝次市長は「建物はないが、観光名所にしたい」と話している。隠居というのが 最初の話であったというような気もしますが 新規事業の展開で 大分にいったようで 家がまえをみると 相当 金もっていたようです なんで話があいまいになってきたか よくわかりませんが 証言とエピソードで 具体的な掘り下げがほとんどない 白洲次郎伝説がみえてくる一つではあります
2009年06月28日
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http://www.iir.jp/blog-main/2009/06/2009nnqxgukn.html北康利センセイの講演から面白いものをピックして 注をつけてみました。インターネットの2チャンネルというのは、世の中を斜に構えて眺めている書き込みオタクが殆どだと思うが、この番組に関する実況書き込み欄が、“白洲次郎はかっこいい。あんな人になりたい!”といった類のコメントで埋め尽くされたというのは、素晴らしいニュースだった。注 最近は逆のようですが政治家や社会の制度を批判することは重要なことだけれど、本当に大切なのは我々国民自身がしっかりすること。こうすべきだ、と言って行動に移すことができない人がはびこっていること自体が最大の問題なのだ。このことについてはマスコミそのものにも大きな責任があるように思う。注 リクルート事件で 秘書に責任をなすりつけた宮沢喜一に ジローさんは私欲を図る人でないといわせたり セゾンを空中分解させた堤清二を ロックフェラーとコネを持つたいした人脈を持っていると評したり ゴマスリ永山時雄をもちあげたりとか 太鼓持ちはちがいます他人の偉業を褒め、自分とは違う人生の素晴らしい部分を見出して見習う、そういった社会にすることが必要ではないか。注 河野一郎と三木武吉の公職追放は触れなくて 平野力三の公職追放は触れるのはなぜなんでしょうある事実は取り上げ ある事実はスルーさて、三田藩の話に少し戻るが、商業を充実させ、独自の豊さを求めた藩士の中には財を成す者も多数現われた。そしてついに、三田藩士が神戸の高額所得者に名を連ねるようにまでなった。現在、ブランド和牛として名の知られた三田牛というのは、あの時代の方向性の果てに生まれたものであったし、それは福沢先生が主張した商業への志をかたちにした事業でもあった注 藩閥と結びついた 土地転がしは普通 ブローカー業といいます第二次大戦後、アメリカの占領下にあって、GHQは日本を二度と戦争を起こす脅威の無い国にしてしまうことを第一命題にして様々な方策を練った。その根幹にあったのは、農業立国にしてしまい、のんびりした社会に仕立てることで無用な国力をそぐ、というポリシーであった。財閥解体と農地解放は、まさにそうした精神の表れである。注 財閥解体や公職追放をうまく利用したのが 戦後の三等重役たちですが華族やお偉い方とお友達になったり ジローさんの視点にたつと 東北の農村から売られてきた 小作人の娘の姿はみえないようです
2009年06月26日
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http://tokyo.cool.ne.jp/nikkatsu/nikkatsu_no_rekishi/nikkatsu_no_rekishi.htm さらに新東宝の一部株主による猛烈な提携反対論があって、これは堀久作の会長就任を附議する新東宝の株主総会(27年9月5日)を合法的暴力で流会させ、一方堀久作個人に対しても就任を断念せしめるべくあらゆる工作が行われた。9月27日にいたり、堀久作、田辺宗英、許斐氏利、大澤武三郎が日活本社で会談した結果、(1)堀所有の新東宝株式43万6千株を時価で田辺が引取る、(2)堀の対新東宝関係債権3,800万円は田辺が肩替りする、(3)佐生現社長はそのまま留任させる、の3ヵ条を条件に、堀久作は新東宝乗り込みを中止した。田辺宗英小林一三の異父弟 後楽園ホールの社長 関東の興業界のドン 岩田愛之助の愛国社のスポンサーの一人会社側の立場にたち東宝争議を押さえ込んだ軍師の一人許斐氏利大化会のメンバーで 大陸浪人として活躍 戦後は東京温泉を作る 三浦義一先生の直系の一人大澤武三郎兄が 愛国青年連盟総務委員長の大澤平吉 愛国青年連盟のメンバー当然 浅草の顔役のひとり映画界の裏側というのは こういうことのようで
2009年06月20日
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http://tokyo.cool.ne.jp/nikkatsu/nikkatsu_no_rekishi/nikkatsu_no_rekishi.htm さらに新東宝の一部株主による猛烈な提携反対論があって、これは堀久作の会長就任を附議する新東宝の株主総会(27年9月5日)を合法的暴力で流会させ、一方堀久作個人に対しても就任を断念せしめるべくあらゆる工作が行われた。9月27日にいたり、堀久作、田辺宗英、許斐氏利、大澤武三郎が日活本社で会談した結果、(1)堀所有の新東宝株式43万6千株を時価で田辺が引取る、(2)堀の対新東宝関係債権3,800万円は田辺が肩替りする、(3)佐生現社長はそのまま留任させる、の3ヵ条を条件に、堀久作は新東宝乗り込みを中止した。田辺宗英小林一三の異父弟 後楽園ホールの社長 関東の興業界のドン 岩田愛之助の愛国社のスポンサーの一人会社側の立場にたち東宝争議を押さえ込んだ軍師の一人許斐氏利大化会のメンバーで 大陸浪人として活躍 戦後は東京温泉を作る 三浦義一先生の直系の一人大澤武三郎兄が 愛国青年連盟総務委員長の大澤平吉 愛国青年連盟のメンバー当然 浅草の顔役のひとり映画界の裏側というのは こういうことのようで
2009年06月20日
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http://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080316/1205645781一般的な 評価についてはこの通りなんですが 彼女の育ての親の経歴を見るとひっかかるところがありますhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%96%9C%E5%A4%9A%E9%95%B7%E6%94%BF大治郎は家族を日本に残していたが、1908年8月1日に病気で北京の知人宅で寝ていた彼を日本公使館付憲兵4名が襲撃。2名が入口で見張りに立ち、2名が中庭から家の中の大治郎に向けピストルを発射。ガラス窓を突き破った4発の弾丸で大治郎は射殺される。享年33。「中国人とあまりに親しくなりすぎた」為に殺されたとされるが、真相は未だ不明である。張善?という男浙江省の生まれ。上海の大学に学んだ後はやくざ社会を経て上海映画界の大立者となったとされる。プロデューサーとしての手腕を見込んだ長政は彼を信頼し、張は上海の主要な映画人を集め川喜多に協力するよう要請。と同時に国民党(重慶)と連絡を取り、上海映画人たちの中国国内での立場を確保している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80人脈に注意単純に 映画の買い付けという面で考えるのもいいのですが 映画の交流と称して 裏でいろいろあったということ それがあったからこそで それがなければ重信のインタビューなんてできません 小林一三の息子が小佐野の結婚式に出たりとか ジローさんの長男が 東宝東和の社長になったということは こういうことなんでしょうか
2009年06月20日
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http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/page010.html駿豆鉄道の経営権をめぐって社長の白井竜太郎と藤田謙一(堤康次郎)の間で対立、大化会会長岩田富美雄がピストルで堤を脅すhttp://www13.plala.or.jp/abete/shisho3.txt元東大細胞指導部書記の横瀬の場合はもつと惡質である。彼は一九四八年西部鐵道社長である父堤康次郎(元黒龍會幹部)の命を受け、同社の重役や、旅客係のスパイ伸俣重太と共謀して西武鐵道内の黨細胞を破壊したが翌年九月細胞が再建されると再び策動、東京都委員会に摘發されるに至つた。彼はその後分派主義者に財政的援助を與える役廻りになつている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%A4%E6%B8%85%E4%BA%8C、同級生だった氏家齊一郎などから勧誘を受け共産党に入党。横瀬郁夫のペンネームで積極的な活動を行っていた。共産党が所感派・国際派で分裂するなか、国際派の東大細胞に属し、党中央から除名される。http://www.shiokinin.com/series_seibu/series_seibu17.html横井は、先代堤康次郎が他界して5年ほどたった1969年後半から「西武鉄道」の株を買い漁り、当時「西武鉄道」副社長だった義明の異母兄である堤清二に「株を買い集めたが買い戻す気はないか」と買い戻しをもちかけたのが70年7月。当時義明はまだ36歳で、7つ年上の清二との間で、西武グループを分割統治する前兆はあった。そうした時期だっただけに横井は近いうちに清二と義明との間に内紛が起きることを察知し、「おもしろい」と睨んでの株買占めだった。この時のことを清二は「あんな奴、靴をぬいで張り倒してやりたかった」と親しい者に話していたことから、よほどきわどい話のやりとりがあったと推測することができる。http://www.tohokanko.com/enkaku.html1924年(大正13年)1月松下軍治の子息-松下吉郎は、やまと新聞2代目社主を引き継ぐ1936年(昭和11年)1月名古屋憲兵隊本部長:松田才二氏らの協力により、国華製作所(大阪砲兵指定工場)代表取締役1939年(昭和14年)1月満州国政府官僚:吉井武繁氏らの協力により、松記製作所(陸軍上海兵器指定工場)代表取締役1936年(昭和14年)3月後に東京引揚者協会事務局長、三菱自動車販売会社企画室長の村上顕親氏らと、東邦観光開発株式会社設立、松下吉郎:代表取締役就任1957年(昭和32年)3月旅行業574号取得 東京駅国際観光会館に業務本部を置き活動1969年(昭和44年)3月中央大学理工学部土木工学科卒業1969年(昭和44年)4月西友ストアー株式会社建設部入社 西友ストアー100店舗工事達成所長1970年(昭和45年)4月株式会社ディベロッパー西武建設部課長 西武八ヶ岳野辺山300万坪別荘造成工事所長1972年(昭和47年)4月西武都市開発株式会社技術部チーフ1973年(昭和48年)3月西武都市開発株式会社企画課長1976年(昭和51年)3月西武都市開発株式会社 退社1976年(昭和51年)4月東邦観光開発株式会社代表取締役就任1976年(昭和51年)4月株式会社マイカード設立、代表取締役就任http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E7%92%B0%E5%A2%83%E9%96%8B%E7%99%BA1972年に西武化学工業(現・朝日工業)が、西武グループの西武鉄道グループと西武流通グループ(セゾングループ)への分割の際に、西武流通グループ(セゾングループ)に入り、不動産・レジャー部門が西武都市開発として分離・独立、後に横浜の不動産会社・太洋不動産興業と合併した。1986年に両社の名前の一部をとり、西洋環境開発へ社名を変更した。火のないところに煙はたたずか仮面紳士ですな西武 セゾンと裏社会の関係は行間を読むと面白いです
2009年06月12日
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http://www.geocities.jp/showahistory/history01/02c.htmlやまと新聞 本社は京橋区三十間堀町1丁目1(昭和2年時)。明治19年10月創刊で合資会社。條野採菊を社長に福地桜痴の援助を受け創刊。社内に講壇を持ち、三遊亭円朝らが出入りしたため、これを速記して紙面化し躍進。一時は山縣有朋系の新聞となったり、昼刊を出していた時期もあったが松下家がオーナーとなり、社長を世襲。昭和2年時の社長は松下勇三郎。昭和3年5月に松下吉郎が社長に就任。昭和4年9月には社主が望月一郎となり、社長に藤波茂時子爵が就任、昭和5年11月に清水仁三郎が社長就任。昭和7年時の社長に波久津剣、夕刊紙となる。昭和8年時には岩田富美夫が社長。昭和13年時には主幹に津久井龍雄。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/snlist/210l.html明治17(1884)年10月創刊の「警察新報」が19(1886)年10月に「やまと新聞」と改題された。当初は警察種などの社会記事などで庶民読者に歓迎され、「読売新聞」と並んでいわゆる「小新聞」の双璧であった。その後明治33(1900)年に経営が松下軍治に移った。松下は事業家・相場師として著名で、山形有朋・桂太郎の藩閥勢力と近かった。このため「やまと新聞」の論調も藩閥系に近かったが、新聞の性格としては三面記事を中心とする通俗紙の色彩が濃かった。大正2(1913)年の憲政擁護運動では桂内閣を支持して群衆の襲撃対象となり、翌年のシーメンス事件では山本内閣倒閣運動の中心となった。大正4(1915)年に松下が死去すると社運は衰退し、経営も紆余曲折を経た。大正7年ごろから高畠素之などが入社し、国家社会主義の論陣をはる右翼思想新聞として存在を発揮したhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%A8%E6%96%B0%E8%81%9E1940年児玉誉士夫が経営を継承するも、新聞統制のため1944年4月を以て休刊した。[編集] 新夕刊1946年1月11日に児玉誉士夫らの手によって、『やまと新聞』を発展させた新聞として『新夕刊』が創刊される。戦後創刊した新興夕刊紙の代表格とされ、一時期「サザエさん」も掲載されていた。しかしまもなく児玉が戦犯として収監されると、経営権は児玉の腹心である高源重吉に移譲されるが、次第に経営に行き詰まり、1949年に三浦義一に再度経営権が移譲され、1950年3月20日に『日本夕刊新聞』に改題。1952年7月10日再び経営者が山崎一芳に移動し『新夕刊』に復題。山崎は経営するにあたり保全経済会をスポンサーに付けた。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/019/0666/01904030666017c.html○山崎証人 お答えいたします。昭和二十七年の春、幹部としてあそこにおりました――その当時は三浦さん個人の経営でありますから、どなたも別に代表とかなんとかいう名前をつけておりませんでしたけれども、栗原一夫君と大庭勝一君と後藤勇君の三人によつて経営をされておつたのであります。社主が三浦さんで、金が足りなければ三浦さんのところに行つて金をもらつて来て、給料を払い不足金を払うというような状態を続けておつたのでありますが、三浦さんもほとほと手を焼かれて、もう金が出ないという状態になつたときに、後藤勇君は国民新聞の政治部長をやつておつた当時からの私の古い友人でありますが、その後藤君が私のところに白羽の矢を立てまして、私は銀座に事務所を持つておりましたが、毎日々々実に根よく私を説得においで下さつたのです。http://www.geocities.jp/showahistory/history04/topics33b.html こんな抗議も無視して国民タイムスは7/1には「長嶋選手、司葉子と婚約」とまたも“ガセネタ”スクープ。当の長嶋本人は川上と同じ車に乗っていて、ふと外に目をやると自分の名前が出ている新聞が。慌てて読んで、初めて自分の「婚約」を知ったという。7/2には「嵐吹く山本富士子の結婚」とまたも偽のスクープを国民タイムスは出し、日活監督の牛原陽一と山本富士子が結婚するなどと大々的に書き立てた。こうした偽スクープの仕掛け人は後藤勇(50)で、昭和33年より国民タイムスを「売れる」偽スクープ路線へと転換させたが、新聞協会から「7月末までに退会せよ」との警告を発せられるに至った。 http://m.weblio.jp/c/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA/0#.E5.9B.BD.E6.B0.91.E3.82.BF.E3.82.A4.E3.83.A0.E3.82.BA国民タイムズ『国民タイムズ』は新創刊されたものの、再び経営に行き詰まり、大映社長の永田雅一が経営に乗り出して新社を設立。永田はここで同紙をスポーツ新聞に切り替え、今日の『東京スポーツ』が誕生した。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E6%B0%91%E6%96%B0%E8%81%9E1926年5月、根津嘉一郎の出資を仰ぎ共同経営に移るが、やがて根津と徳富は対立。遂に1929年1月5日徳富が退社し、『東京日日新聞』に移籍。後継社長に就いた伊達源一郎は1931年10月に「大夕刊」と称して夕刊紙に転換したが、失敗に終わる。1933年5月1日、窮した根津は経営を名古屋の新愛知新聞社(現・中日新聞社)に譲渡。新愛知傘下を期に編集方針を国防・軍事に重点を置くこととなる。1941年度には黒字決算に漕ぎ着け、再建に成功した。1942年、戦時体制下により『都新聞』と合併することとなり、10月1日『東京新聞』が誕生した。同時に新愛知は東京から撤退を余儀なくされ、『東京新聞』の主導権は都新聞側が握った。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1426382104山崎正友弁護士、ホテルニューオータニで北条浩、笹川陽平をまじえ、月刊ペン側弁護人・重富義男と懇談。会長の証人喚問をやめるよう依頼する。のち、笹川陽平、この会合のあったことを認める。「この段階で私は学会首脳に泣きつかれ、池田氏の証人出廷を防ぐたの裏工作に入りました。数人の情報マンを使ってめんみつに調査した結果、仲介人として笹川陽平氏に白羽の矢を立て北条浩氏が父親の笹川良一氏に依頼して承諾を得た上で、陽平氏が動きました。笹川陽平氏は人を介して『月刊ペン社』の取締役であった栗原一夫氏にわたりをつけ、栗原氏から原田倉治社長、そして重富弁護士(月刊ペン社監査役)にわたりをつけて、和解の話し合いに入りました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%A4%A7%E4%B8%83%E7%94%9F%E7%A4%BE帝大七生社出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』帝大七生社(ていだいしちせいしゃ)は、紀平正義を代表とした1925年創立のファシズム・右翼の団体。東大七生社とも称された。[編集] 概要東京帝国大学の上杉慎吉が指導にあたり、本部は当初は東京市小石川区の大塚坂下町の上杉邸に置かれたが、後に本郷区森川町の求道会館に移された。「至誠一貫報国尽忠」を掲げ、1927年6月には左翼団体に宣戦布告を行った。特に新人会との衝突が激しかった。会員には田中邦雄(血盟暗殺団学生行動隊員)のほか、四元義隆、浜崎長門、重富義男、工藤恒四郎などかいた。http://www.yanagiharashigeo.com/report/Journal6.htm 捏造スキャンダルの時事的背景 「月刊ペン」事件の被告となった隈部大蔵は、現在、埼玉県の東武越生線沿いの墓地に静かに眠っている。 一角は「大乗教団墓地」ともいわれ、中央には管長一家のひときわ大きな墓石が目を引く。隈部家の墓はそこからほど遠くない場所にある。 隈部は1920(大正9)年、熊本県で生まれた。父親は医者で、男では3人兄弟の末っ子として何不自由なく育った。戦争にとられ、フィリピン戦線で闘ったあと、ゲリラ(スパイ)養成所である陸軍中野学校二俣分校(静岡県)に三期生として入校。このときの“秘密戦士”としての経験が、同氏の戦後の活動に深い影響を与えたようだ。 ちなみに二俣分校の一期生には、戦後30年近くたってルバング島から帰還した小野田寛郎少尉がいる。隈部が新聞社を退社する間際に実名で上梓した『秘密戦の赤き花~生きている中野学校の魂』(日新報道、73年)にはそうした体験が赤裸々につづられている。小野田への深い思い入れも読み取れる。 隈部は戦後、経済企画庁などに勤務したあと、1957年に西日本新聞に入社し、東京で経済担当の論説委員として仕事をした。在社中の67年ごろから、ペンネームで創価学会批判本を立て続けに執筆・出版。その動機には、妻が熱心に信仰し、自らも属した「大乗教団」の教えが深く影響していたようだ。隈部が執筆した一連の批判本には、釈迦を“本仏”としていた同教団の当時の教義が色濃く反映されている。 その後74年7月に新聞社を退社すると、隈部は月刊ペン社の編集局長として迎え入れられた。同社の社長だった原田倉治は当時、右翼の“大物総会屋”として知られており、内閣調査室の民間機関の責任者だったともいわれる。
2009年06月12日
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