2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全7件 (7件中 1-7件目)
1
小康を得て ふたたび上京したのは 大正末の頃だった上京後は 新劇運動に首を突っ込み 築地小劇場の向こうを張って 高橋義信 五月信子らと 劇団 先駆座を作って浅草で公演したり 自活のために看板屋を開業したこともあった日本の右翼 猪野健治著 三浦義一の項よりhttp://www.shimintimes.co.jp/yomi/aruku/146.htmlhttp://www.nakamuraya.co.jp/salon/index.html大正12年 中村屋サロン脚本朗読会メンバーの希望を取り入れ、麹町平河町の相馬私邸内に土蔵劇場を開設、先駆座と命名。http://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E6%9C%88%E4%BF%A1%E5%AD%90五月信子とは映画女優。本名前川しのぶ。松竹蒲田撮影所に入り、帝国キネマに転ずる。のち高橋義信と共に近代座を組織して舞台に立ち、映画にも出演した。作品の主なるものに「嬰児殺し」「鴎5熱の恋」「ラシャメンの父」などがある。明治31年(1898)生。http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p09.html中村屋サロン脚本朗読会 一方、黒光と雨雀は「朗読会の開催」という共通の目標を持っていました。 根っから演劇や朗読が好きだった黒光と、自分の作品が同志社大学で朗読されたのを機に自信をつけていた雨雀は、 中村屋の2階での朗読会の開催に意欲を燃やします。会の名前は雨雀の作品「土」にちなんで「土の会」。やがて試演することになり、平河町にあった相馬愛蔵、黒光の家の2階で行うこととなりました。建物が土蔵だったので「土蔵劇場」、劇団名は「先駆座」としました。観劇は会員制とし、申込み順で一番が島崎藤村、二番が有島武郎など名だたる名前が連なりました。 雨雀の作品が上演されたことはいうまでもありません。 残念ながら「土蔵劇場」は関東大震災で建物が崩壊し、その幕をとじることになります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E6%84%9B%E8%94%B5また、愛蔵は店の裏にはアトリエをつくり、荻原碌山、中村彝、中原悌二郎、戸張狐雁らの出入が盛んとなり、大正4年には、インドの亡命志士ラス・ビハリ・ボースを右翼の重鎮・頭山満に頼まれてかくまい、大正7年には、長女俊子がボースと結婚した。その縁で、中村屋は日本初のインド式カレーを学び発売することにつながった。三浦義一先生の 演劇青年だった時期の周辺を洗ってみました 早稲田系の プロレタリア文学系統のサロンにも多少 入っていた時期もあったようで 以前 あげたエントリーに 共産党の準党員だったというのもなるほど納得できますまた 義一先生と 玄洋社 黒龍会系列の接点がいまいち わからなかったのですが 中村屋ですか なるほどそれにしても 文学史においては 左翼系の話題は どんなつまらない話題でも取り上げられますが 右翼系が絡むと 意図的に避ける雰囲気があるようです困ったもんだとおもいます
2009年05月31日
コメント(2)
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sanda_sizoku/23_hattori/hattori.html服部駒子は三田藩儒者白洲退蔵の長女として三田屋敷町に生 れ、明治六年神戸山本通四丁目北側に家族と共に移る。 宣教師のタルカット、ダットレー女史が当初前田兵蔵方で男 女の生徒を教えていたが人数が増え二十四人となったので、明 治七年この私塾を神戸北長狭の退蔵の持ち家に移された。退蔵 長男文平は姉駒子と共にこの私塾で英語を学んでいたが、明治 八年女学校『神戸ホーム』となったので、東京築地英語学校を 経て米国ハーバード大学に留学、後ドイツのボン大学に学んだ。 神戸ホームは明治十三年に『神戸英和女学校』と名称を変え た、翌年駒子は第一期生として卒業式を待たずして服部俊一と 結婚し、明治二十一八年(一八九五)二月二十一日に没した。 服部俊一は山口藩士竹内良安の次男。明治四年藩儒服部東陽 の養嗣子となり、明治八年東京工部大学生の頃義兄服部章蔵の 英語による聖書講義に接して信仰心を起こし、昭和十年新栄教 会でタムソンより受洗。明治十四年工部大学機概科を卒業し農 商務省兵庫造船所に勤め。この間任地の関係で神戸教会に出席 していた。明治十九年海軍省艦船局勤務となったがわずか一年 で官界を去り、明治二十年尾張紡績会社の創業に当りイギリス に渡り同地の工場で学んだ。明治二十一年帰一国取締役兼支配人 となり、同社が東洋紡績会社になると、取締役に就任。 クリス チャン実業家として、数多くのキリスト教事業に援助を与えた。 大正九年退職。http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sanda_sizoku/23_kobejogakuin/kobejogakuin.html九鬼隆義の初めからの願いどおりに、旧三田藩の子女で創設 初期の神戸英和女学校に学んだ人々も多く、途中退学した人も含め その名を列挙すれば次のようになる。第一回生浜口のぶ・甲賀ふじ・ 村山きよ・九鬼好子・小寺英・白洲駒子・甲賀ふみ・伊藤きの・前川 てる・第三回生和久山きそ、第四回生川本たつ・川本なつ・村山ゆき、 第五回生川本さき、第六回生木村のぶ、第七回生村山とし、第八回生 渡辺よう・前田小美、第九回生松原こまつ・渡辺すな・木村えつ、 第十回生小寺つね、第十一回生鈴木ゆきえ等が学んだ。 http://wapedia.mobi/ja/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E5%B9%B8%E6%AC%A1%E9%83%8E松方 幸次郎(まつかた こうじろう、慶応元年12月1日(1866年1月17日) - 昭和25年(1950年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。父は内閣総理大臣松方正義。妻は九鬼隆義の次女好子http://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BF%8A%E4%B8%80服部俊一 はっとり‐しゅんいち1853‐1928明治-大正時代の実業家。 嘉永(かえい)6年3月8日生まれ。農商務省兵庫造船所などにつとめる。明治20年尾張紡績の創業につくし、21年取締役兼支配人。尾崎紡績と合併した三重紡績が、大正3年さらに大阪紡績と合併して創立された東洋紡績の取締役となった。昭和3年3月15日死去。76歳。山口県出身。工部大学校卒。本姓は竹田。http://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E7%94%B0%E6%AD%A3%E9%A6%99奥田正香とは生年: 弘化4.3(1847) 没年: 大正10.1.31(1921) 明治大正期の実業家。尾張(名古屋)藩士。藩校明倫堂で学び,明治1(1868)年,同校の国学助教見習になる。その後数年,伊勢,名古屋で役人生活を送った。そのころ大蔵省8等出仕に任ぜられたが,知人が7等であることを知るや,これを辞して名古屋で味噌醤油醸造業を始めたというエピソードに人となりをうかがうことができる。醸造業で得た資産を基盤として県会議員となり,一時期議長も務める。米商会所頭取,名古屋株式取引所理事長,名古屋商業会議所会頭なども務めるが,特に26年から大正2(1913)年まで長く商業会議所会頭職にあり,電話架設,鉄道建設,名古屋港築港工事の完成など,名古屋商工業の近代化に必要な経済環境整備に尽力した。 一方で多数の会社設立,経営に参画していった。最初に手がけたのが尾張紡績と名古屋電灯(ともに明治20年創業)である。日露戦争後には尾張地方紡績大合同の路線を敷くうえで大きな役割を果たした。このほか発起人,また社長ないしは重役に就任した主な企業に,明治銀行,日本車輌,名古屋倉庫,名古屋瓦斯などがある。名古屋財界は一般に土着派,近在派,外様派の3グループに分類されているが,外様派グループの中核的存在が奥田であった。奥田グループは構成企業数と兼任役員数では3グループのなかでも最大であったが,これを支えたのが県外から起用した上遠野富之助,兼松煕,安東敏之,岡本桜であった。また県知事深野一三,名古屋市長加藤重三郎とは,いわゆる三角同盟といわれる緊密な関係にあった。しかし熱田遊郭移転問題をめぐる稲永疑獄事件で盟友に嫌疑がかかったのを機に,大正2年職務一切を退き,覚王山で仏道生活ののち生を終えた。名古屋市教育委員会編『明治の名古屋人』,村上はつ「明治・大正期における名古屋旧有力商人の企業者活動」(『経営史学』14巻3号)この人脈をみると ジローさんがトヨタに顔が効いたり 四日市の石油コンビナートの争奪戦に出てきたりというのが 納得できますまた 文平さんの勤め先を 大阪紡績と見る説と 鐘紡とみる説がありますが ここの人脈からすれば 大阪紡績でしょうまた 文平さん ジローさんを豪快な人に見せたい演出もあるようですが これをみると 人脈は大切です
2009年05月24日
コメント(4)
白洲文平関連年表 1891 白洲退蔵没 第一次 松方内閣設立1892 日本綿花設立1894 大坂に綿糸の取引所設立 ボストンで白洲文平コレクション 開催1896 岩下清周 大坂三井支店長へ 白洲文平 樺山伯を始め要人と 会う 松方幸次郎 川崎財閥の後継 になる1897 北浜銀行設立 十五銀行松方家の傘下に入る1901 大坂の商品先物取引所が三品 取引所になる1902 白洲次郎誕生1912 藤田伝三郎死去1915 北浜銀行事件起きる1922 積善銀行破綻1927 白洲文平 綿糸相場で破綻 若槻内閣から田中内閣へ1928 白洲商店破産文平さんが あちらこちらの有力者とコネを保ちながら 相場渡世を渡りあるくもという印象を保ちますが 果たして どのあたりの商社の提灯だったか どのあたりの政治家と交流があったか なんとか浮かび上がらせたいものです
2009年05月11日
コメント(3)
白洲文平関連年表 1891 白洲退蔵没 第一次 松方内閣設立1892 日本綿花設立1894 大坂に綿糸の取引所設立 ボストンで白洲文平コレクション 開催1896 岩下清周 大坂三井支店長へ 白洲文平 樺山伯を始め要人と 会う 松方幸次郎 川崎財閥の後継 になる1897 北浜銀行設立 十五銀行松方家の傘下に入る1901 大坂の商品先物取引所が三品 取引所になる1902 白洲次郎誕生1912 藤田伝三郎死去1915 北浜銀行事件起きる1922 積善銀行破綻1927 白洲文平 綿糸相場で破綻 若槻内閣から田中内閣へ1928 白洲商店破産文平さんが あちらこちらの有力者とコネを保ちながら 相場渡世を渡りあるくもという印象を保ちますが 果たして どのあたりの商社の提灯だったか どのあたりの政治家と交流があったか なんとか浮かび上がらせたいものです
2009年05月11日
コメント(4)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10029318&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JAゴタ続きの正金 試みに正金創立以来の重役更迭の跡を顧みるに、初期頭取の中村道太は本店が大隈系である上に、仲々狭気があり大胆の男であったから随分思い切った貸付をしていたものだ。 それが十四年下半期の決算に際して紙幣整理や銀塊安で正金の業跡が悪化し整理を必要としたに拘らず平常通り配当をしようとして時の蔵相の松方の知る所となり、重役の木村利右衛門等が松方に大叱言を喰うた所以であった。 そこで敗けぬ気の中村は友人関係などで融通した不良貸を自分一身に引受け、これなら文句はあるまいと十五年七月頭取の地位を去った。これが為め一時副頭取の小野光景が頭取となり、次いで明治十六年の一月の総会には取締役の一人の白須退蔵が頭取に互選せられた。 白須は摂津三田藩士、森有礼に先だちて廃刀論を唱えた程の男で、明治四年廃藩置県後、神戸に出て島三商会を興して貿易に従事し、正金には十五年の八月以来取締役となっていたので、小野の後を承けて頭取に就任したが、松方は別に思う所あって十六年三月白須を退け第百銀行頭取の原六 カを頭取に推し、正金の整理に当らしむることとなったものである 当時右の如く頭取の更迭が頻繁なりしを以て正金に対して種々の悪宣伝が行われ、株価は下落して額面割れとなったので、株主も動揺し解散説を唱えるものも出て来たので松方は正金の神戸支店長たる深沢勝興の意見に聞き原に命じ反対株主の株を悉く買上せしむると共に、内部の整理を実行せしめたのである。 園田幸吉の改革 原に依って一通り整理が成ったが前述の反対株主の株の買収は松方蔵相の意に従ってやったものだが原個人の名義で之を実行したので、後に株価が騰貴するや、原が銀行の金を利用して旨いことをやったと云う理由で、株主重役間に改革派なるものが出て来て原の排斥を企てた。原も嫌気がさしていた所へ日銀理事の約束で帰朝した園田孝吉が、川田小一 カの総裁就任の為めに、沙汰止みとなって遊ぶこととなったので、原の辞意あるを幸い園田が後任となった、米国のシャマン条例に依る銀塊安の為めに損をすると、若尾逸平などの配当主義の重役が矢釜しく云うので園田も一旦辞表を出したが、松方に引止められ、その職に当っていると角等の不正事件が暴露し、茲に小泉信吉、山川勇木などを重用して正金の大改革をなすこととなった 園田の正金内部の改革は一通りは出来たがしかし当時正金内部に実勢力を持っていた取締役の相馬永胤が兔もすれば、園田の虚をつかんとする気勢があって、正金内部に対する威圧はさ程大なるものでなかったが之に反し中上川は、三井銀行の整理を着々進行せしむると共に、三井の内部に対して□然たる勢力を持つこととなって、茲に先輩の益田を凌ぐの勢いを呈し、一時三井に中上川時代を現出する事となった。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10018587&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA意気地がなくなったのか、それとも当世流行の綱紀粛正でもやってるのか、とにかく現在の十五銀行には相場をやるような重役さんがあることを聞かないが、昔の十五銀行にはなかなかヤマ気のあるのがいた。備前岡山の殿様池田章政が頭取だった時代の支配人山本直成は、公岩倉具視の家令であったが、公卿さまの家令には似気ない相場ずきで、炭鉱株の買占めなどもやったことがある。その後明治二十六年、兜町に独眼竜の名を馳せた丸上株式店の半田庸太郎が夜の立合で突然八千枚の炭鉱株を売出して、市場を驚かしたことがある、これが十五銀行の持株だ。この時買方に廻ったのも雨敬一派であるが、これは雨敬側の勝利となり、山上の売崩しは失敗に終った。 それやこれやで十五銀行の業績は非常に悪化し、重役の改造が叫ばれるようになって、前に正金の頭取だった園田孝吉が池田章政に代って十五銀行の頭取になった。園田を推薦したのは松方正義で、爾来十五銀行内に蟠窟する岩倉の勢力が駆逐されて、薩州系がこれに取って代ったのであるhttp://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_diary/japanese/1896/dy8960509x.html黒田清輝日記【1896.05.09】 河村鐵 樺山資英 大久保 樺愛 白洲某(日本銀行)氏等と紅葉館ニ集る 内へ歸つたのハまさに十二時ならんとした頃http://wapedia.mobi/ja/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E5%B9%B8%E6%AC%A1%E9%83%8E松方 幸次郎(まつかた こうじろう、薩摩国鹿児島に生まれる。明治17年(1884年)に東京帝国大学を中退し、同年エール大学に留学し明治23年(1890年)帰国。明治24年(1891年)第一次松方内閣組閣に伴い、父の首相秘書官となる。一時、新聞事業経営や官途についたが、明治27年に浪速火災保険の副社長に就任し関西における財活動を開始した。明治29年(1896年)川崎財閥創設者・川崎正蔵に要請されて株式会社川崎造船所初代社長に就任。それをきっかけとして大阪舎密鉱業(31年)、神戸瓦斯(同)、神戸新聞(32年)、神戸桟橋(41年)、九州電気軌道(同)、九州土地信託(同)、川崎汽船(大正9年)、国際汽船(同)、神港倶楽部、ベルベット石鹸、日本ゴム蹄鉄、の社長に就任し、その他11社の役員をつとめ、一方神戸商業会議所会頭、明治45年(1912年)衆議院議員に当選し神戸の政財界の巨頭であった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E9%9A%86%E7%BE%A9九鬼隆義好子が嫁いだ松方幸次郎は、明治の元勲・松方正義の次男
2009年05月08日
コメント(11)
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-60.htm ☆姫路藩の皮革専売☆ 姫路藩の家老、河合道臣(寸翁)は、累積債務73万両、極度の財政危機に喘いでいた姫路藩の財政危機を乗切るため、倹約令の発布を手始めに、種々の施策を打ち出した。藩が独占して姫路木綿を大坂の商人を通さず江戸で販売する専売システムを思いつき、絹、皮革、藍、砂糖、東山焼、竜山石などを次々と藩の専売にしていった。 徳川中期以後、「白靼革」を中心に広汎な発展を遂げつつあった姫路藩における皮革業は、藩の統制下に組入れられるようになった。姫路藩は「革会所」を設置し、枚数に応じて運上金を賦課した。藩は進んで皮革業を保護・奨励した。領内「斃牛馬」からとれる原皮だけでなく、大阪から原皮が移入され、白靼革の生産が行われた。http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/24_sirasu/sirasu.html。現在、三田の 誇る三田牛も、退蔵が飼育を奨励したことから盛んになったと言われている。http://www.nara-wu.ac.jp/fusyo/class/sakamotog/tokusannbutu/koube/kutu.htm神戸靴 神戸の「履きだおれ」と形容されるなど名を馳せた神戸靴。現在は婦人靴にその精神を注ぎ、独特の地位を確立。 開港以来、神戸の外国人居留地を中心に、そこに住む外国人等の靴の修理や新調を行うために、当時の草履や鼻緒をつくる職人が従事したことに始まる。 明治22年、三田市住んでいた平野永太郎が製靴を学ぶために6年間アメリカに留学し、帰国後現在の中央区元町2丁目に、「神戸屋製靴」という紳士靴屋を開店した。そこへ本格的製靴技術を学ぼうと、地方の若い仕事熱心な靴職人たちが、武者修行と称して集まり、技術を磨いた。横浜で軍事用靴が発達したのとは違い、神戸の靴は皇族からの注文を受けるなど、本格的紳士靴が発達し、当時、神戸の「履きだおれ」として全国に名を馳せた。http://blhrri.org/kenkyu/burakushi/burakushi_16_5.htm次に、明治に入って洋式皮革が製造され、それが発展していったいきさつについて次のようにいう。日本の洋式皮革製造の始まりは、陸奥宗光がドイツ式兵制を採用するに際して皮革の製造が必要であったため、明治四年に和歌山に設立した和歌山西洋鞣革靴伝習所である。 そしてこの伝習所を源流として明治十年前後に、西村勝三の桜組(のちの日本皮革株式会社)、大阪網島の梶原黒兵衛の製造場(そこで製造した熟皮を陸軍ご用達の藤田伝三郎に売っていた)、藤田組製革場、大倉組などの創業があった。しかしこれらの製革の目的はいずれも大部分は陸軍に納めるところにあり、一部が靴、革具用として市場に出たにすぎない。それに対して、帯革などの工業用具の製作に目をつけて成功したのが、新田製革場(のちの新田帯革製造所)である。http://www.toukutsu-kyokai.jp/kutsu_kinenbi.html これからは武士の時代では無いと、武士を捨て商人になる決心をしたのは三平26歳の時、明治維新の七年前のことです。 オランダ商人の小銃転売に成功し巨利を得た三平は、禁制を破り朱の密売で捕らえられました。 今の執行猶予にあたる「親類預け」中にまた商売を行い、謹慎破りで石川島人足置場に収容されます。 特赦で放免された年、小泉信子と結婚し名前も三平を勝三に改め、神田弁慶橋に銃砲店を開きました。 そこで短銃の革袋も手掛けたのが、彼が革製品を取り扱う最初でした。その後、貿易の中心であった横浜に移り、屋号も「伊勢勝」と称しました。 時代は明治に入り文明開化が進み、勝三も新しい時代に適応する各種の事業を試み始めます。 外国米の輸入、東北米の買入、米相場、胴鉄販売、雑貨販売、牛の飼育、洋服裁縫店、綿羊の飼育、房総漁産会社、陶器販売など手掛けたが大部分は失敗に終わっています。 しかし後に偉大な失敗者と言われるほど彼の失敗の軌跡は将来の成功を暗示していました。 それは国益を重視し、私利を後にした失敗だったからです。 明治三十九年・勲五等、瑞宝章授与、翌年七十二歳没する。【靴の生産開始】 明治二年兵部省が誕生し、日本の近代的兵制の構想者と言われる兵部大輔・大村益次郎から「これからの日本は、国民皆兵の制を敷き、洋式訓練を施す時代になり、兵士には洋服を着せ靴を履かせる事になるが、すべて外国より調達するようでは、国家の一大損失になる。 商工業にたずさわる君らこそ、そうした事業を積極的に起こして、自給自足できるように努力をしてほしいと思う」と言われました。 そこで、築地入船町に造靴工場を設け「伊勢勝造靴場」の看板を上げ陸軍兵士用の靴の生産を開始しました。明治三年三月十五日、勝三35歳の時であった。退蔵さんが 明治初期の靴産業にからんでいたのではないかという噺 ドンピシャに決まる形ではありませんが 土地ころがしで 陸奥宗光 藤田伝三郎並びに長州閥とどうコネをつけたのか また文平さんたちがどうして明治学院に通っていたかとか 三田藩の武器を誰に売って 土地転がしの金をつくったかが 浮かび上がってきます まちがいなく儒学者あがりとは ずいぶんちがう人だったように思えます
2009年05月07日
コメント(2)
西南の役で後の男爵 藤田伝三郎が 戦場へ送り出した人夫の日給80銭の半分を誤魔化し私服をこやしたのが発覚 80万円の返還請求訴訟が出されると 会津小鉄から 上阪仙吉と改名していた彼が1万円で手打ちを請け負ったそしてすぐさま 大坂難波於多福茶屋に代理人を呼びつけ やいやい ごたごといわんと判おさんかい いきなり抜き打ちに肩先へ切り込んだ 警察も傷害罪で一応は逮捕した が岩倉具視がフィクサーでは無罪放免 訴訟は刑事事件になったからと裁判所は棄却し うやむやにしてしまった 藤田からの解決金は値切られて半分の五千円きりだっただが 明治初めのことゆえ 現在の五億円に近い小鉄の丸儲けである明治の首領 岩倉具視 八切止夫会津小鉄初代の噺です元ネタに疑問がありますが すでにエントリーとしてあげましたが この小鉄親分の 兄貴分が 大沢善助で その息子の徳太郎さんあたりと 白洲長平さんあたりが 同志社で同窓だった可能性があり そこから 交流があつたように思いますが 上記をみますと 退蔵さんの時代から 大沢家と付き合いがあったようにも見えますそして 退蔵さんののし上がった経緯や 文平さんの事業内容をみてみると ジローさんが 周囲から あの子と遊んではいけませんと言われていたのも 周りの人たちが いかにもだったからと みるべきではないかと思いますね
2009年05月05日
コメント(2)
全7件 (7件中 1-7件目)
1