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http://unkar.jp/read/academy6.2ch.net/history2/114353429247 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2006/05/13(土) 00:00:17 ID:ohNjLjzo0池田の権力の源泉(カネ)は築地の「米田中」で開かれていた「末広会」(財界人の池田を応援する会)。 でも本人の書いたもので、そこまでたどり着くのはおそらく無理だろう。 自分の場合は、三井物産の水上達三社長の「私の商社昭和史」と三井合名理事長だった向井忠晴の追悼本(非売品)の対談で、吉田茂→向井忠晴→高木陸朗というラインで「池田を盛り立ててやれ」という指令が下っていた事実を知った。http://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E9%81%94%E4%B8%89水上達三 みずかみ‐たつぞう?1903‐1989昭和時代の経営者。明治36年10月15日生まれ。三井物産にはいり、北京支店長代理で敗戦をむかえる。昭和22年の財閥解体により設立された第一物産の常務となる。34年大合同で再建された三井物産の副社長、36年社長、44年会長。経済同友会代表幹事。平成元年6月16日死去。85歳。山梨県出身。東京商大(現一橋大)卒。高木陸朗というのは 黒の機関の 巻末ページに出てくる 中日実業の 高木陸郎のことのようで 人脈的にも 符合しますhttp://d.hatena.ne.jp/tobira/20090204/1233709704■[今日の栄一] 1925(大正14)年2月4日 (84歳) 中日実業副総裁、高木陸郎からの報告 【『渋沢栄一伝記資料』第55巻掲載】是より先、当会社副総裁高木陸郎、北京に於て中華民国執政段祺瑞と会見し、当会社のため参戦・兵器両借款問題の解決促進方を要望し、又、王正廷とも会見して、政局安定のため、外交総長就任を勧奨する所あり。是日栄一、当会社書翰により、右会見顛末の報告に接す。出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年-昭和六年 / 2部 実業・経済 / 6章 対外事業 / 2節 支那・満洲 / 5款 中日実業株式会社 【第55巻 p.44-51】・『渋沢栄一伝記資料』第55巻目次詳細http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/55.html高木陸郎(たかぎ・りくろう、1880-1959)は、三井物産、東亜通商会社社長、南満鉱業会社社長を経て中日実業副総裁となった人物です。『渋沢栄一伝記資料』第55巻p.44-51には、『中日実業会社書類(一)』からの転載として、中日実業の専務取締役春田茂躬から渋沢栄一に宛てた書簡や、その別紙として高木による段祺瑞(だん・きずい、1865-1936。 中国の軍人、政治家。)、王正廷(おう・せいてい、1882-1961。中華民国の外交官)との詳細な会談録が紹介されています。なお『渋沢栄一伝記資料』中、段祺瑞の名は主に第55巻の中日実業株式会社、日華実業協会の項目に、王正廷の名は第55巻の中日実業株式会社、日華実業協会の項目のほか、第36巻「日華学会」の項で中華基督教青年会創始者として、また第39巻では1923(大正12)年に飛鳥山邸に招待された賓客として出現しています。http://d.hatena.ne.jp/jyunku/searchdiary?word=%b9%e2%cc%da%ce%a6%cf%ba%20 この高木陸郎の裏の顔が上記にありますhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB陸満普大日記 昭和7年 昭和7.10.1~7.10.5 「満受大日記(普)其21」 陸軍省 憲兵司令官 外山豐造 昭和6年11月19日 「陸満普受第四五七号 邦人秘密情報機関設置ニ関スル件報告(通牒) 昭和六年十一月十九日 憲兵司令官 外山豐造 陸軍大臣 南次郎殿 首題ノ件左記報告(通牒)ス 左記 前満州日報編集長 竹内克己 右者従来往々反軍的行動アリシ者ナルカ十月二十九日満州日報社株主総会ニ於テ編集長ヲ辞シ大連ニ国際情報局ヲ設置正式ニ関東庁ノ許可ヲ 受クヘク準備中ノ処許可ノ可能性ナキ為メ私信ノ形式ニテ欧文情報ヲ発行シ希望者ニ配布シツツアリト 因ニ本名ノ情報関係連絡者次ノ如シ、 里見甫 満鉄南京駐在員 波多野貫一、時事新聞記者 鵞澤與二、時事新聞北京特派員 高木陸郎、中日実業副総裁 日笠芳太郎、満日東京支局顧問(久原系) 小林和助、大連取引所長」ジローさんの裏の顔がまた一枚という感じですが 吉田茂の側近の財界人というと 四天王以外にも 財閥系の人間がいたはずですが その系統が 後年 財界の主流を取れていないというのが 面白いなとおもうんですが さて どんなもんかと
2009年08月28日
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http://research.php.co.jp/research/economy/policy/post_9.phpメンバー幹事??北 康利 (作家、東京座会コアメンバー)井上 潤 (渋沢資料館館長)岩間芳仁 (日本経団連 産業第三本部長)徳川家広 (翻訳家)中略 第14回(2008.07.09)朝妻一郎に学ぶ人生の知恵朝妻一郎(株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役会長)第13回(2008.06.20)これまでのヒアリングに関するメンバー討議第12回(2008.05.30)これまでのヒアリングに関するメンバー討議第11回(2008.04.21)永山治に学ぶ人生の知恵永山治(中外製薬株式会社 代表取締役社長)第10回(2008.04.03)福澤武に学ぶ人生の知恵福澤武(三菱地所株式会社 相談役)第9回(2008.03.12)中村邦夫に学ぶ人生の知恵中村邦夫(松下電器産業株式会社 代表取締役会長)第8回(2008.03.05)犬丸一郎に学ぶ人生の知恵犬丸一郎(元・帝国ホテル社長)第7回(2008.02.22)茂木友三郎に学ぶ人生の知恵茂木友三郎(キッコーマン株式会社 代表取締役会長CEO)第6回(2008.02.18)安田善次郎に学ぶ人生の知恵安田弘(安田不動産株式会社 顧問)第5回(2008.01.23)辻井喬に学ぶ人生の知恵辻井喬(本名 堤清二)(セゾングループ創業者、小説家・詩人、財団法人セゾン文化財団理事長)第4回(2007.12.14)渋沢栄一の業績とその現代的意義について渋澤健(シブサワ・アンド・カンパニー株式会社 代表取締役)第3回(2007.12.03)中内功に学ぶ人生の知恵中内潤(学校法人中内学園流通科学大学理事長)第2回(2007.10.30)松下幸之助に学ぶ人生の知恵北康利(作家)、佐藤悌二郎(PHP総合研究所 取締役)http://www.jimin.jp/jimin/info/aso_sugao/index.html安田 弘(安田不動産顧問) 昭和8年東京生まれ。学習院大経済学部卒。ジャーディン・マセソン・ジャパン社長、会長を経て、現在JPモルガン・アセット・マネジメント取締役相談役、マンダリン・オリエンタル東京取締役上席相談役、安田不動産顧問、安田商工教育会(安田学園)理事長。麻生総理とは又従兄弟(またいとこ)の関係。やんちゃ坊主だった麻生総理を叱(しか)っていたことから、いまでも「弘ちゃんは怖い」と言われるという。
2009年08月26日
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http://www.a-human.net/career/dfierf0000001sjr.htmlキャリアインタビュー:原田雅弘氏2007年2008年2009年2007年1月11日キャリアインタビュー:原田雅弘氏(1)まず、原田社長のこれまでのキャリアについてお聞かせください。私は、1970年に同志社大学法学部を卒業、大沢商会(主に海外ブランド品を取り扱う商社)に入社しました。大沢商会では、ゴルフやテニスなどのスポーツ用品の営業やマーケティングを担当。同社には10年ほどお世話になりましたが、縁あって英国商社、ジャーディンマセソンに移りました。 ジャーディンマセソンでは、当初はスポーツ用品、次いでクリスチャンディオール、ダンヒルの化粧品事業を担当しました。同社を退社した87年以降は、アディダス、エスティローダー、フェラガモジャポンの日本法人の運営に参画しました。 そして、98年には、コサリーベルマン(オランダに本社のある商社)の社長に就任。さらに、当時コサリーベルマンの主力取扱ブランドだった「PUMA」の日本法人の設立を主導し、2003年の設立以来、プーマジャパン株式会社の代表取締役社長を務めています。プーマジャパンの設立にはいろいろとご苦労があったのでしょうか?日本におけるPUMAブランドの事業展開や、コサリーベルマンの経営状況を考慮し、PUMAの日本法人設立を同社役員会で提案したのは2001年末のことでした。 私のこの提案は承認され、早速実行に移したのですが、PUMAとコサリーベルマンとの販売代理店契約が、2003年で切れるという時間的制約がありましたし、また、外部にこの動きが漏れてしまうと、PUMAの国内販売にネガティブな影響を与えてしまうリスクがありましたから、迅速、かつ隠密裏に進める必要がありました。 実際、限られた時間の中で、多数の取引先との交渉や、PUMA本社とのすり合わせなどで世界を飛び回りました。例えば、あるアメリカの大手時計ブランドのCEOとのミーティングは、先方が多忙なためなかなか調整がつかず、私がスイスまで出向いてようやく会うことができたほどです。 おかげさまで、奇跡的に02年末にはすべて決着がつきました。PUMAの販売代理店契約の解消直前でした。もし交渉がうまくいかなかった場合、PUMAも、コサリーベルマンも深刻な収益減に見舞われていたかもしれませんし、またPUMA事業に関わっていた従業員が路頭に迷う可能性もありました。 しかし、私の当初の思惑通り、PUMA、コサリーベルマン、そして従業員の3者すべてにとってハッピーな形となりました。「Win-Win」ならぬ、「Win-Win-Win」の展開になったのです。ですから、大変な仕事ではありましたが、つらさを感じることはなかったですね。今、「奇跡的に・・・」とおっしゃいましたが、単に運が良かっただけではなく、原田社長のご尽力によるものだと思います。ところで、原田社長の最初のキャリアの転機は、大沢商会を退職し、ジャーディンマセソンに入社された32歳の頃ですね。当時はどんな状況だったのでしょうか。 転職は、ヘッドハンターからの誘いがあったというのが第一の理由です。 大沢商会ではすばらしい人たちに恵まれましたし、スポーツ用品の営業・マーケティングをずっと担当できたので、とてもいい経験をさせてもらったと思っています。 ただ30歳になった頃から会社の経営状態がおかしくなりつつありました。前向きな仕事よりも、数字のつじつまを合わせるような後ろ向きの仕事に汲々とする日々が続くようになりました。当時すでに中間管理職でしたが、このまま現在の仕事を続けて、キャリア的に意味があるのかと疑問を持ち始めていたのは確かです。なるほど。当時の会社の状況が、ご自身のキャリアを見直す機会となっていた。そこにタイミングよく声がかかったのですね。原田社長にとっては初めての転職だったわけですが、不安は感じませんでしたか?まったく不安はありませんでした。むしろ、新たな職場で新たなチャレンジができるという期待が大きかったです。それに、若いうちなら、まだいくらでもやり直しがきくと考えていましたしね。 余談になりますが、ジャーディンマセソンに入社したのは80年1月だったのですが、直前の12月は、大沢商会が年末の最も忙しい時期でまったく引継ぎをする時間がありませんでした。そこで、ジャーディンに入社後に時間をもらい、大沢商会での引き継ぎをやらせてもらいました。(笑)補足ジローさんが大沢商会の会長に就任したのも 前回のエントリーの件にも関係した大沢にとっての外貨獲得の関係と もうひとつブランドメーカとのジローさんの個人的なつながりが望まれたという仮説をかんがえたのですが それらしき証言を発見しましたこれも掘り下げていけば 面白いテーマになるとおもうのですが>30歳になった頃から会社の経営状態がおかしくなりつつありました。前向きな仕事よりも、数字のつじつまを合わせるような後ろ向きの仕事に汲々とする日々が続くようになりました。このような面が出てくると どうしても白洲次郎伝説が崩れるから 一次資料がないとか どうでもいいエピソードだけになるんでしょうか銀座の勘定 廻されて 迷惑顔の大沢の経理 晩年はこんなのなら 風の男も寂しいものです
2009年08月23日
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たとえば 捕鯨船で有名なT漁業が 五十七万ドルという特割カードを取得して 木塚がウイルソン貿易と争ったことがあるそのときの 相場は10パーセントだったが T漁業の平追輸出係長の希望額は 12パーセントであった 57万ドルの12パーセントというと ざっと2500万円である赤いダイヤ 梶山季之著 集英社文庫より日本の外貨準備高が 少なかった時代に ドルの獲得に応じて 外貨が使える カードが配布され それが他人にプレミア付きで 譲渡できたそうです現ナマより 場合によっては 効果的な 政治献金に使えそうです
2009年08月23日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00767920&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA又た銀行類似会社の主なる目的は預金貸付手形割引金銭貸借及び荷為替等なれども是れ亦兼業を為すこと甚だ多く (一)倉庫業(二)物品運送業(三)貸金業(四)物品の保管及び委託売買並に一般信託業(五)土地建物の管理差配売買並に有価証券の売買及び之が仲立業(六)絹綿糸及び之が織物売買製造並に仲立業(七)材木製造立木種苗庭園植物農産物販売購買並に肥料販売購買其他の付属業 又質屋会社に兼業するものありて (一)貸金業(二)建物賃貸業(三)有価証券商品の売買業(四)和洋毛織物卸小売業(五)古物売買業(六)両替 此等を其兼業の主なるものとす 昔はこんな事業形態がありましたhttp://attackers.main.jp/post_7.html現物の取り扱いの噺が出てこなくて白洲邸には綿糸の倉庫もないのは 綿糸の商品手形の割引をしていたのではないかとおもうのですが これなら 白洲商店というハッピを着ていた たぶん京都弁のお兄さんたちが何をしていたかが わかりますまた 昔は 株屋のことを 株式現物問屋といったそうで 白洲商店という言い方もおかしくないようです相場の出来高の問題から 綿花では疑問もあるし まして 初期投資がかかる輸入業では無理があるので いろんなところから 金を引き 糸屋や織屋の手形の割引あたりから 商売を始めて そこから綿糸相場を始める担保の関係から 株式も扱いはじめ 商品や 株式の仲買店を始める相場師単独では 20年以上も持つのはかなり疑問なので 上記のような本業があったとおもうのですが これが正しいのなら 白洲商店は実体は商社というより 金融屋です 説明が面倒なので 商社ということなんでしょうかね 自己売買による相場の失敗と 不良債権の増加が 白洲商店の破綻の原因でしょうかジローさんが 新聞記者をしたり 金融屋のセールフレザーに入るのも つながります
2009年08月01日
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