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昨日取り寄せていた本がやっと届いた。にわかにベストセラーとなっていて、なかなか入手しにくくなっている「本能寺の変 431年目の真実」である。その著者は明智憲三郎 氏。明智光秀の子孫の方である。苗字により一目解る本能寺の変の謀反者。光秀の子孫である苦悩が著者にはあったそうだ。なぜ光秀は主君織田信長を裏切ったのか? 光秀の出自から迫り、今まで定説とされて信じられてきた内容の矛盾を多方面から集めた文献を上げ考察。真実に迫った書なのである。そこには今まで誰も気付かなかった史実が見えてきた。内容も理路整然とし、明確な解析。光秀論としては、今後の定説になるであろう画期的な一冊となっている。そもそもなぜ定説に問題があったのか?それは定説の元となった光秀論が秀吉の書かせた「惟任退治記」(大村由己)による所が大きいからだ。歴史を歪曲し、己を良くする為に人物像をゆがめ、史実をゆがめても隠したい事が秀吉にはあった。さらに秀吉亡き後に時を待って書き上げられた信長の元で仕えた太田牛一の日記「信長公記」。これは公式に出版されなかった為にこれをパクッて軍記物「甫庵信長記」を出版した小瀬甫庵なる人物が話を歪曲してしまった。読み物として脚色され歩調され、自身の論評まで加えられた本書はベストセラーになって世に広まっていたのだ。加えてこれらを元に光秀、野望説を説いたのが1958年高柳光寿の「明智光秀」だそうで、定説を決定づけてしまったらしい。尚、真実の太田牛一の「信長公記」(池田家本)が出版され世に出るのは何と近年1975年の事。岡山大学付属図書館池田家文庫に原本が保管されていたそうだ。現在、新人物文庫にて現代語訳の「信長公記(しんちょうこうき)」が出版されている。その内容は非常に細かく、本当に日記としてコツコツ書き留めていた事がうかがえる内容である。(そこから見えてくる真実はたくさんあるはずだ。但し、本能寺の変の時に彼はそこにいない。誰かから聞いた話が元になっている。)定説を考えずにこうした本から入り直すと誰も気付かなかった発見がまだあるかも・・。因みにルイス・フロイスの日本史も中公文庫で出版されています。さて、本能寺に入るわけであるが、知らない方の為に先づ紹介したいのは、現在の本能寺が本能寺の変の場所ではない。・・と言うことだ。だから「本能寺跡地」と「本能寺」と言う紹介になるのである。秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転寺町通り御土居(おどい)本能寺跡地現在の本能寺本能寺が焼け落ちたのが1582年(天正10年)。寺はその後再建に進む。しかし上棟式直前と突然に秀吉から移転命令が出た(1591年)と言う。なぜ? しかし実は寺の移動を余儀なくされたのは本能寺だけではなかったのだ。秀吉の改革は前回紹介したように後に徳川家康に消し去られているので解りにくくなっているのであるが、信長亡き後、天下を納めた秀吉は京の洛中の改造を始めていた。所謂洛中の仕分けである。内裏近くに自分の館、聚楽第を築くと周りには有力武将の館を集め町人には町人・・と身分による棲み分けを決めたようだ。1589年(天正17年)2年の歳月をかけて御所を一新すると1591年(天正19年)本格的に京都街の大改造事業を開始。20日間で2000軒の屋敷が撤去されたと言う。京都全体を戦場にした応仁の乱(1467年~1477年)で長らく荒廃していた京の街を改造するにはちょうど良かったのかもしれないが・・。寺などは引っ越しも容易では無かったはずだ。寺町通りその時に洛中の寺は北(鞍馬口通り)~南(五条通)に至る通り、東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)に集められているのである。平安時代、東京極大路は御所にも近く、貴族の邸宅が集まっていたセレブ通りだった。が、そこに寺ばかり集まったので通りは「寺町通り」に変わった。(つまり寺町通りの起源は秀吉なのである)秀吉により集められた寺は約80ヵ寺を数えたと言う。その中には本能寺のすぐ上手にあった妙顕寺や妙覚寺も入っているし、織田家の菩提寺? であった阿弥陀寺もまた所領を減らされて洛中でも洛外に等しい場所に追いやられているのである。現代の地図に重ねた御土居(おどい)の位置と黄色のラインが寺町通り寺町通りのすぐ東に鴨川が流れている。この鴨川はよく氾濫し、当初寺が集められたのは敵の襲来を防ぐ目的と、川の氾濫を食い止める目的があったとも考えられている。オレンジが内裏その西隣のピンクが、聚楽第の場所である。レッドが再建された本能寺の場所。因みに向かいのグリーンは現在の京都市役所である。秀吉はまた、洛中と洛外を明確に分ける為に?あるいは敵からの防御の為に? 京の市中を囲むよう御土居(おどい)なる土塁と堀を建設している。※ 秀吉の治世が終わると水害に懲りた寺院は川の向こうの安全な場所に引っ越しした所もけっこうあるらしい。御土居(おどい)1591年(天正19年)豊臣秀吉が諸侯に命じて造らせた土塁と堀による障壁。そして堀の上には美観を兼ねて竹林が植えられていたと言う。※ この御土居の工事もまた洛中の住み替えの工事と平行して始まっている。江戸時代に家康により取り壊された為に現存するのは数カ所。たまたま撮影していた北野天満宮の裏庭の御土居(おどい)は今や貴重な史跡。左が土塁(その向こうが梅園)で、その外に堀が造られている。橋は近年かけられたもので、堀も近年整備されたものだろう。また御土居(おどい)における洛中と洛外を結ぶ出入り口は限られていたので、現在のような橋はここにはなかったはずだ。下は徳川時代初期の堀の図に多少手を加えました。全ての寺が洛中の寺町通りに集中していたわけではない。もとの位置から動かなかった大徳寺、北野天満宮。また、秀吉が許した本願寺(現在の西本願寺)はわざわざ洛中でも目立つ場所を与えられて移転してきているのである。オレンジの聚楽第は秀吉の時代にすでに無くなっているが地図に残した。参考までにパープルで円を描いた所は、当時の葬送地である。本能寺跡地本能寺の変・・1582年(天正10年6月2日)織田信長が天下統一を前にして無念にも明智光秀の謀反により亡くなった場所である。この付近本能寺の標識。前の道が蛸薬師通りであるから本能寺入り口がこのあたりだったのかも。とにかく行って驚くのはただの住宅街の中である。近年発掘調査をしたものの、今更住宅をどかす事もできないだろう。せっかく場所を特定したので地図で紹介しておきます。A・・現在の本能寺B・・本能寺跡地(下の赤い点が標識の場所) 織田信長が変の時に宿坊していた寺 西・・油小路通り 東・・西洞院通り 北・・三条通り 南・・蛸薬師通りC・・南蛮寺(イエズス会の京都の教会)跡地 信長が庇護していた教会D・・妙顕寺跡地E・・妙覚寺跡地 織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺オレンジが御池通りピンクが河原町通り。現在の本能寺京都市役所の正面、御池通りはさんで南側が本能寺の場所である。表玄関(寺町通り)裏口(河原町通り)ビルの狭間に入り口があるのだが、知っているならともかく初めてだと見つけにくい入り口である。御池通り側には本能寺会館があるが、寺の入り口は寺町通りか河原町通り側からのアクセスになるようだ。本能寺つづくリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓秀吉関連リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名高台寺は正室である北野政所寧々様が夫の菩提と実母の菩提を弔う為に1606年に建立した寺です。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月30日
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追記しました文字制限でどうしても縮められず2部構成になってしまいました 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)秀吉の出世大坂の陣後の家康家康の復讐?妙法院門跡秀吉の出世1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)1582年(天正10年6月27日)(清洲会議)本能寺の変後、織田家から完全に権力をはぎ取ると権威として冠位を受ける為に朝廷に取り入った秀吉。その出世は早かった。1584年(天正12年11月)従三位、権大納言1585年(天正13年3月)正二位、内大臣宣下1585年(天正13年7月)従一位・関白宣下、内大臣如元(正親町天皇のより関白に任じられる。)1586年(天正14年9月)豊臣姓を下賜される。11月後陽成天皇の即位に併せて太政大臣に昇進、豊臣政権誕生である。※ 後陽成天皇の在位期間は秀吉の時代から徳川家康の時代にまたがっている。秀吉は関白職を公家から武家に移して世襲とし、諸大名や武家に官位を配りまくったそうだ。しかし、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城で薨去し、翌年後陽成天皇より「豊国乃大明神」の神号をもらい豊国社で祀られるも、1615年(慶長20年)の大坂の陣で豊臣家が滅亡すると家康により秀吉の残したものはことごとく消されて行った。大坂の陣後の家康徳川家康は大坂の陣後から朝廷の人事にも介入。秀吉の重用していた後陽成天皇は退位させられ上皇にされ一線から外される。それも後任人事は望の皇子でなく、家康の希望する不仲の第3皇子の政仁親王への譲位である。それが後水尾天皇(ごみずのおてんのう)であり、これにより「禁中並公家諸法度」の公布など家康の思うままの朝廷が誕生したのである。家康の復讐?秀吉により官位を受けていたとは言え、秀吉の行為には苦渋の思いをさせられていた家康が秀吉の栄華の後を消し去るのは想像に難くないことだ。1584年(天正12年)織田信雄(次男)、徳川家康vs秀吉の戦いの因縁もあるし・・。また、神格化されて、次の政権の足をひっぱられては困るので、政敵に利用されない為にも完全に秀吉生前の偉功を消し去る必要があったのでは? と、想像できる。かくして1615年(元和元年)豊国社は破却され、社殿は壊され本当に何も存在しなかったように草の原にされ、秀吉の遺品や豊国の神仏お宝類はすく裏にある妙法院の物となった。大仏がすでに壊れていた事は幸いしていたかもしれない。もし大仏が残っていたら破壊されていたかもしれない。その当の大仏は高さこそ6丈3尺(約19m)と東大寺を越えていたものの、材質は銅像でなく木彫の漆喰造り、事もあろうに開眼1595年(文禄4年)のその翌年1596年9月5日(文禄5年)に起きた慶長伏見地震で大仏殿は残ったものの大仏自体が倒壊していたのである。まさに幻の大仏殿跡地に豊国神社は再建されている。方広寺(ほうこうじ)梵鐘だけは今日に残っている。現在の方広寺(ほうこうじ)は豊国神社隣。上の写真の梵鐘裏手の方向に豊国神社社殿がある。梵鐘には「国家安泰」とあり、「家康」の名が分断されている・・と呪詛の解釈をしたとも言われている。妙法院門跡は最初、秀吉が両親の供養の為に行っていた僧千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所(妙法院庫裏)として歴史に出てきた寺院である。大坂の陣で豊臣家が滅亡すると同時に方広寺はほぼ解体状態。すると当時の妙法院住職は徳川にうまく乗ったようだ。夏の陣後、同年1615年(元和元年)に縮小された方広寺住職をなぜか妙法院門跡が兼務している。豊国社のお宝も妙法院門主の管轄下に入り、同時に新日吉社や秀吉が後白河院や清盛の栄華にあやかろうと肝いりで堂の修復や塀や門を直した蓮華王院(三十三間堂)もまた妙法院門主の管轄下に入っているのである。※ その時組み込まれた新日吉社と豊国社は現在独立しているが観光客収入の多い蓮華王院(三十三間堂)はまだ管轄下にあるようだ。僧千僧供養の僧の食事を準備した庫裏(くり)・・キッチンである。土間に大きな釜土があった。門跡と言うのは皇族や貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指すらしい。が、確かに妙法院は皇族と深い関わりのある寺なのである。下は明治天皇が来訪された時の碑と建物。部屋も公開されていたが、よく来ていたらしい。要するにお坊さん個人の邸宅のようなもの。御所を追われた公家が逃れて来た事や、文化人も多く集まったと言う。公家のサロン的な役割もあったのだろう。円山応挙や伊藤若冲らが出入りしていたと言う。とにかく襖絵(ふすまえ)が素晴らしかったです。本尊は普賢菩薩。写真は普賢堂。偶然立ち寄ったら一年に1度のご開帳「五月会(5月14日)」で中を観覧し、僧千僧供養の食を出した庫裏や書院やお庭が見学できました。無料でしたが中は撮影禁止。(残念)普賢堂では花びらに願いを書き込み、法要奉修していただきました なんてラッキーな日。何にしても豊臣家が滅して大もうけしたのが妙法院なのである。豊国神社奉納絵馬秀吉に因んで瓢箪(ひょうたん)と草履の2種あるようだ。瓢箪(ひょうたん)には開運絵馬草履には出世絵馬と仕事絵馬があったがどちらも仕事が順調に行く事を願う内容が多かったです 日本人は働き者ですね。豊国神社宝物館内部豊国神社が再興されても妙法院門跡はお宝は戻してくれないようである。たいしたものはほとんど無い。逆にかわいそうである。秀吉の歯・・とか珍品はあったが・・。それにしても一つだけ家康を褒めるとすれば、秀吉の墓は破壊しても柩には手を出さなかった事だ。秀吉の功績は明治に入り評価され冠位が上げられた? (格上げ人事?)1915年(大正14年)贈正一位。豊国神社おわりBack numberリンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1他、秀吉関連リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月22日
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前回に引き続き、豊臣秀吉関連です。本当に偶然なのですが、今回京都の国宝「三大唐門」を巡っていました。別名「桃山の三唐門」。大徳寺、西本願寺、豊国神社の唐門がそうです。それらに共通していたのが豊臣秀吉です。大徳寺の唐門は秀吉の館の一つだった京都の聚楽第(じゅらくだい)にあったものを拝領した・・と大徳寺のパンフに書かれています。聚楽第は秀吉が居城として京都の町に築いた城ですが、甥の豊臣秀次に譲ったものの、彼を切腹させた後に徹底的に破壊した・・と言われる竣工してたった8年で消えた幻の館です。(現在の二条城より北の位置)西本願寺の唐門は、私感では最も見た目豪奢な門です。この唐門に関しては、京都の地に本願寺が移動してきた1591年(天正19年)に竣工されたもののようです。それにしてもウィキペディアには秀吉が大阪天満にあった本願寺を京都に呼んで創建させた・・と書かれていますが、本願寺発行の本の方に秀吉にかかわる記載がありませんでした。(・_・?) ハテ?そして今回紹介する豊国神社の唐門は、鳥井から正中、社殿の前にありました。豊国神社は明治に再建されたものですが、その唐門の出所は、遡れば秀吉が亡くなった時に居た伏見城の遺構だった? と言われています。それにしても天下統一を果たした豊臣秀吉ですが、これだけ京都の町に秀吉の残した遺構が多いにもかかわらず、織田信長よりも京での人気はかなり地味な感じがします。豊国神社(とよくにじんじゃ) 1「桃山の三唐門」について豊国神社別格宮弊社(べっかくぐうへいしゃ)豊臣秀吉豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)豊国神社(とよくにじんじゃ)、通称「ほうこくさん」大和大路通り1880年(明治13年) 明治天皇のご沙汰に寄り別格宮弊社に列せられ、社殿は旧、方広寺大仏殿跡地に再建されたのが現在の豊国神社である。前回紹介した豊国廟は、それから遅れる事、1898年(明治31年)秀吉公300年祭に遭わせて再建されたもの。御祭神はなんと豊臣秀吉です 人間なのに?以前御霊信仰で祭られた神田明神の平清盛 公や、北野天満宮の菅原道真 公などスペシャルな場合はありましたが・・。朝廷が許可を出すと明神になれるようです。別格宮弊社(べっかくぐうへいしゃ)は明治維新以降に作られた神社の等級や格を仕分けた社格制度の中で生まれた部門で、「国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなったや兵士を祭神として祀る神社」。武将が多いようです 東照宮・・徳川家康 建勲神社・・織田信長 上杉神社・・上杉謙信 etc因みに靖国神社も別格宮弊社の扱いです。唐門のせいで一瞬寺にも見えてしまいます。豊臣秀吉(1537年(天文6年2月6日)~1598年(慶長3年8月18日))豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)1598年(慶長3年8月18日)太政大臣を辞職し、8月に伏見城で薨去(こうせい)。しばらく秀吉の死は隠されたそうです。そして翌年1599年(慶長4年)東山大仏(方広寺)の鬼門に位置する阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に八幡宮(はちまんぐう)を建立し、自身の墓所とするよう遺言していたと言われています。一節には秀吉の死を隠したまま、墓所の社殿の建設は始まり、太閤坦(たいこうだいら)に日本初の権現造り社殿が造営されたそうです。秀吉の指示した、八幡神(やはたのかみ)は当時、武家の守護神になる神様として信仰を集めていたようです。が、想定外? 後陽成天皇より「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与えられ、新八幡宮にはならなかったのです。社殿の前には先に紹介した国宝の唐門唐門(からもん)・・・唐破風(からはふ)と呼ばれる屋根の形状からそう呼ばれる。下の写真にラインをひいてみました この独特の形状が唐破風です。かつては彩色があったかもしれません。ここから先、一般の参拝で立ち入りはできませんでした。何か行事の支度をしていたのでその為でしょうか?当時30万坪(100万平方メートル)あった豊国社は徳川家康の時代になると跡形もなく壊され消滅し、人々から忘れさられたと言います。拝殿。奧が本殿宝物館の肖像画より関白時代の秀吉公御画? 作品は江戸時代のものらしい。美化しすぎ?晩年の秀吉公秀頼の8歳の手形入りの掛け軸である。これが最も実物に近い肖像画なのでは? これでも美化されてる?秀吉の枕「夢を喰らう」と言われる獏(ばく)は中国より伝わる伝説の動物。そもそも「夢を喰らう」ではなく、「悪夢を祓う」が本当らしく、邪気を払う事から晩年の秀吉が愛用していた枕らしい。寝具に用いると病や悪気を祓う事から秀吉が病気で苦しんでいた事がうかがえる。2部につづく 同時にのせます。リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)
2015年05月21日
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写真追加しました前回保留にしていた織田信長の墓所を踏み込んで、大徳寺にも行ってきました。大徳寺は豊臣秀吉が主君、織田信長の為に葬儀を執り行い、かつ大徳寺塔頭に織田家の氏寺を創建しているのです。たまたま今回は特別拝観もあり、話も聞けましたし、最も信長に似ているだろう木彫を拝む事もできました。以下予定しているラインナップなのですが、今「信長公記」と「フロイスの日本史」を読んでいる所なのでもう少し待ってください。信長の墓所 1 (本能寺跡地と本能寺)信長の墓所 2 (阿弥陀寺)信長の墓所 3 (大徳寺塔頭 総見院)で、今回先に秀吉の墓所を企画する事にしました。実は一昨日、前から気になっていた豊国神社(京都)に行って来ました。京都国立博物館隣に神社がある事は知っていたのですが、疲れてなかなか行く事ができなかった場所なのです。その豊国神社には秀吉が豊国大明神としてまつられていて、かつ、遺言により、豊国神社管轄のお山に秀吉は埋葬されていたのです。遺体も灰もなき、織田信長の墓(供養塔)は全国に数十あり、どこも来訪者の多い所ですが、割と知られていないし、ガイドブックにも詳しく乗っていなかったのが豊臣秀吉の墓なのです。なぜ天下を取って大葬儀しをたにもかかわらず、マイナーなのか? それは明治になるまで完全に人々から忘れさられていた墓だったからなのです。秀吉の墓所(豊国廟)阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)豊国廟(ほうこくびょう)秀吉の本当の墓所豊国神社のパンフの地図もともと少しデフォルメされた地図ですが少し加筆しました。A・・豊国廟参道入り口B・・豊国神社飛地境内(現在その境内のほとんどは駐車場になっている)C・・阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)中腹の門所(実ここが本当の秀吉の墓所)D・・五輪の石塔(明治に造られた秀吉の墓)次回豊国神社も紹介する予定ですが、実は現在の豊国神社の場所は、明治になり建てられた物です。本来の豊国神社は阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)にあり、創建当時は30万坪(100万平方メートル)もあったそうです。明治政府により豊国神社の再興が認められたものの元の場所に同じ物を造る事はできなかったようです。秀吉の廟は阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に再建され、社殿は大和大路通りの旧方広寺大仏殿跡地に再建されています。※ 阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)は豊国神社飛地境内と言う事になります。A地点・・・かつての参道は現在公道になっています。近年参道として整備されたものの、実質この道は京都女子学園に向かう道です。なるべくありのままを紹介します東大路通りから参道に入ると緩やかな坂道になります。それをだらだらと10分ほど歩くと豊国神社飛地境内に入るのですが・・京都女子学園を通り過ぎると、そこは境内前の参道ではなく、バスの待機所含む有料駐車場となっていました。(仮にそこまでタクシーで行ったとしても、駐車場料金500円とられるらしいです。)※ バスは京都女子学園が契約していると思われる「プリンセスライン京都」のバスです。一般の方も現金でなら乗れます。そして3方面くらいに路線があり、市バスと同じ停留所に止まっています。駐車場の間を通り抜けると、神社の入り口が見えました。そして、階段上がってビックリ ここも駐車場になってる。見えるお山が阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)です。B地点・・・太閤坦(たいこうだいら)の社? 門? 拝殿?これが何なのか聞くの忘れましたが、お山の墓所を拝む拝殿なのかもしれない。とにかくこの下を通り抜けて向かうよう言われました。札は参拝の方に向けられたメッセージで、廟に進み参拝する人は、登拝料100円を払ってください・・と言う内容です。(少し前まで50円だったみたいです。)案内所のような社務所? 小屋? があるので、人がたまたまいればいろいろ話は聞けます。階段が多いので大変ですよ・・と豊国神社で聞いてはいましたが・・。Σ(^∇^; )))ゲッ!! 先が見えません。歩けど歩けど階段は続く。 へろ へろへろ~ (;@_@)ノやっとゴールか?C地点あれ? 門だけ?門の向こうにまたまた階段が・・(Ω_Ω)すでに麓の境内までが登りだった為にこの階段はきつい。豊国神社のパンフでは、565段の石段と書かれています。(おそらくそれは最初の鳥居から? と思われます。)ここから上までさらに3回ほど休みました。尚、この参道には一切明かりがない為に、暗くなると危険なので日のある時に登りましょう。後ろを振り返るとかなり急勾配です。もし、木が無ければ京都の町がとてもよく見えた事でしょう。豊国廟(ほうこくびょう)やっとたどり着いた山頂(標高193.5m)秀吉の廟は、囲いで被われて近づけませんでした。拝む所も、賽銭箱も無し。本当に何も無しです。高さ三丈一尺(約9.4m)こう見えて、かなり巨大な五輪の石塔です。この写真は石格子の隙間からカメラを入れて撮影しています。上まで高くて届かないのです。秀吉の本当の墓所新しいこの廟は、明治31年(1898年)秀吉公300年祭で再建されたものだそうです。だから見た目も味気ないものですが、本当にこの下には秀吉公が眠っているらしいです。なぜなら、本当にお骨は発見されているのです。間抜けな事ですが、遺体無き秀吉の墓ををなぜか山頂に造る計画ができたそうです。先ほど登ってきた565段の石段は全てその時に造られたもの。そして工事の途中、山腹で秀吉の柩らしい甕棺(かめかん)が出てきたそうです。中には秀吉らしい人が座る形で居たらしい・・と社務所の方に聞きました。しかし、工事は進み、もともと山頂に造る予定だった五輪の塔はそのまま再建され、本当に遺骨の出た、かつて本当に豊国の社殿があった場所をならして門を造ったそうです。それが先ほど紹介した中継点の門の場所です。秀吉公は遺言でこの阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の中腹に埋葬するよう言い残したそうです。それなのになぜ山頂に計画したのか? そもそも疑問です。では、そもそもなぜ豊国神社は無くなったのか?秀吉のお墓はなぜ消滅していたのか?それは次回豊国神社の所で紹介します。社務所でうられてていたお守りつづくリンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名前述の信長の墓所リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓
2015年05月15日
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Break Time(一休み)格式と豪華さを備えるホテル(ラグジャリー・ホテル)のみが加盟を許されるリーディング・ホテルズ・オブ・ザ・ワールド(The Leading Hotels of The World)と言うホテル・チェーンがあります。日本で登録されているのは、帝国ホテル東京、ホテル・オークラ東京、パレスホテル東京の格式ある高級ホテル3件のみ。オーストリアには7件あり、そのうち2件がウイーンとザルツブルグにあるホテル・ザッハー(Hotel Sacher)となっています。ホテル・ザッハーと言えば、かの有名なチョコレートケーキの「ザッハ・トルテ」を創出した老舗ホテルです。カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)ホテル・ザッハー・ザルツブルグ(Hotel Sacher Salzburg)カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)オリジナル・ザッハ・トルテ(Original Sacher Torte)ザッハー(Sacher) vs デーメル(DEMEL)ザッハ・トルテからホテルへホテル・ザッハー・ザルツブルグ(昨年7月)ザルツァッハ川畔、新市街側 マカルトシュテーク(Makartsteg)橋の所。実はここがホテル・ザッハーになったのは割と近年の事。前身はホテル「d’Autriche」とホテル「エスターライヒッシャー・ホフ(Österreichischer Hof)」 1866年ホテルとしてオープンしている。ザルツブルグがちょうどオーストリア・ハンガリー帝国(1867年~1918年)となるほぼ同時期のオープン。特に夏の音楽祭には世界中からザルツブルグにセレブが集まる為に高級ホテルの存在は不可欠。エスターライヒッシャー・ホフは当時から貴族のサロン的なホテルとして存在していたようです。それが1988年、現オーナーのギュルトラー・ファミリー(Gürtler family)がホテルを買い取りホテル・ザッハー・ザルツブルグが誕生する。正面入り口はシュバルツ(Schwarzstrasse)通り写真左側・・・カフェ。写真右端・・・オリジナル・ザッハ・トルテ(Original Sacher Torte)を販売しているショプで、店はホテルとは独立した入り口になっている。(カラヤンの生家は道路隔ててその前。)ロビー客室数83 内スイート30室1階階段脇にはここの常連と思われる著名人の写真が並べられている。カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)カフェは1階シュバルツ(Schwarzstrasse)通り側ここにも常連とおぼしき著名人の方々の写真が・・。カフェ・ザッハー・ザルツブルグのカフェは静かで落ち着いた雰囲気のお店。観光客っぽいお客様は他にはいませんでした。ケーキは十数種。驚いたのは昔と違い、ケーキの甘みが遠くなっていて日本人にも食べやすい甘さになっていた事。昔はもっと甘かった・・と思う。テーブルにあるスタンドはメニュー表でした。本のようなメニューが挟まれているのだが、案外使いにくかった。ウインナー・コーヒーとケーキオリジナル・ザッハ・トルテ(Original Sacher Torte) €4.90オリジナルのトルテは中程に薄くアプリコット(杏子)のジャムの層がある。※ザッハ・トルテに関しては、2009年12月デーメル(DEMEL) のザッハトルテで以前紹介しています。リンク デーメル(DEMEL) のザッハトルテ 1 (ウイーン王宮御用達菓子店)リンク デーメル(DEMEL) のザッハトルテ 2 (ザッハトルテの商標権争い)ホテル・ザッハーとデーメル、両者のザッハ・トルテに関し以前争いがありました。係争7年。1963年に示談が成立したそうです。ホテル・ザッハーの物はオリジナル・ザッハ・トルテ(Original Sacher Torte)とし、後から真似した? デーメルの方はデーメルズ・ザッハ・トルテ(Demel's Sacher Torte)とする。オリジナル・ザッハー・トルテ(Original Sacher Torte)前にも書いていますが、ホテル・ザッハーのトルテを考案したのはホテル創業者の父。フランツ・ザッハー(Franz Sacher)(1816年~1907年)です。フランツは当時時の宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich)の所で見習い料理人をしていたところメッテルニヒの依頼を受けた主任シェフの代役で1832年、このお菓子を考案したと言われている。僅か16歳の時だそうだ。フランツは修行を続け、その後1884年にデリカテッセンをウイーンに開業。そしてザッハー・トルテを販売。好評を博し、その得意顧客には以前スミレ菓子で紹介したシシィ(Sissi)こと皇妃エリザベート (Elisabeth)(1837年~1898年)もいた。リンク シシィとゲルストナーのスミレ菓子因みにデリカテッセン部門は1871年に「k.u.k. Hoflieferant (皇室および王室御用達)に認定されている。ザッハー(Sacher) vs デーメル(DEMEL)ところで、デーメルとの争いは、デーメルがザッハー・トルテを販売した事に始まるのだが、そのレシピはフランツ・ザッハーのレシピであった。だからこそ本家ザッハーが怒ったわけであるが、そのレシピの流出の理由は諸説ある。最も信憑性のあるのが1934年頃、アンナ・ザッハー亡き後、財政難となったザッハー家がホテル部門をギュルトラー・ファミリーに譲渡し、デリカ部門はライバルのデーメルの援助を受けた事。デーメル援助の見返りにデーメルの子女との政略結婚があり、その時にレシピがデーメルに「流れた?」 あるいは「売った? 」とする説である。何にしても秘伝のレシピが流出したのはこの頃のようで、後年、訴訟を起こしたのはザッハー側のようである。Apfelstrudel €4.30アップルストューデル、所謂アップルパイの事であるが、生地が薄くて、スライスされたリンゴがたくさん詰まっているザッハ・トルテからホテルへ1876年、フランツの息子エドゥアルド·ザッハー(Eduard Sacher)(1843年~1892年)の時に貴族向けの賃貸ルームを開業。それはエドゥアルド亡き後、妻のアンナ・ザッハー(Anna Sacher)(1859年~1930年)が引き継ぎ、支配人となり彼女の才覚により業績は伸び、ホテル・ザッハーが誕生。現在のホテル・ザッハーはギュルトラー・ファミリー(Gürtler family)が所有している。5つ星ホテルとしては珍しい個人所有のホテルだそうだ。Erdbeerschnitte €3.20所謂イチゴ・ショートである 静かで、落ち着いた素敵な雰囲気の中で優雅にカフェ・ブレイク。思った以上にケーキも甘くなくて、全て美味しかったです
2015年05月07日
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3日からまた急遽大阪に行く事になりました。行ったらまた京都などでかけてくるつもりではありあますが、ザルツブルグの資料を持っていけないので、ヘルブルン宮殿は中旬以降になると思います。<(;_ _)>ごめんなさいザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell und Mirabellgarten)セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡地クアガーデン(Kurgarten)残念ながら今回宮殿の内部は撮影していません (締まっていて入れなかったのだと思います。)ミラベル宮殿は現在ザルツブルグ市の役所として、また市公営の結婚式場として利用されていて、海外ウエディングとして日本からも参加でき、人気だと言います。かつてバロック建築家ヨハン·ルーカス·フォン·ヒルデブラント(Johann Lucas von Hildebrandt(1668年~1745年) の設計した宮殿は1818年の火災で焼失していますが、焼け残った西翼北のゲオルグ・ラファエル・ドナー(Georg Raphael Donner)の階段と大理石の間は、結婚式やコンサートなどのイベントで絶えず利用されているそうです。宮殿南西面宮殿南面のバラ園周りにに置かれている17基の大理石の壺最初にバロックの庭園を設計したヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エアラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach)(1656 年~1723 年)が置いたもの。しかし、現在のものは本物か? 周りが溶けてしまったのか? 大理石には見えない。宮殿南側ローズガーデンを西面からこのローズガーデンはかつてはオランジュリー(オレンジ園)だったようだ。ミラベル宮殿裏(西側)、ペガサスの泉転々としてここに落ち着いたペガサス像当初カピテル広場に設置されていたペガサスの像は1700年頃移設。フィッシャー・フォン・エアラッハがバロック庭園を手がけた時に移設されたものか?あるいは宮殿をバロックに変えたフランツ・アントン・ハラッハ侯(Franz Anton Fürst von Harrach)(1663年or1665年~1727年)(在位1709年~1727年 )が大司教になった時に移設したのかも・・。しかし、1818年の火災の後に撤去され、オークションにかかるなど数奇な運命を辿り再び戻ってきたらしい。ここで式を挙げた多くの新婚さん達がこの前で記念撮影するそうだ。北門の階段とその向こうがクアガーデン(Kurgarten)北門の階段にはユニコーンの像が置かれている。クアガーデン(Kurgarten)からのペガサスの泉越しのミラベル庭園とホーエンザルツブルグ城クアガーデン(Kurgarten)公園ローズヒルの向こうにかすかに見える建物がシェラトンホテル。ここは丘になっているセントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡地この北西エリアには30年戦争(1618年~1648年)の頃、ミラベル宮殿を守る砦が建設されていたようだ。装備が築かれるのはパリス・ガルフ・フォン・ロドロン(Paris Graf von Lodron)大司教(1586年~1653年)(在位 1619年~1653年)の時。ミラベル宮殿を守る砦、セントピタリス要塞(St. Vitalis-Bastei)跡と印されている。30年戦争で使用される事は無かったかも知れないが、ホーエンザルツブルグの要塞同様、ザルツァッハ川に面したこの宮殿の防衛の為に堡塁が築かれていたのは間違いなさそうだ。その跡地の遺構が後半紹介するドワーフの広場である。クアガーデン(Kurgarten)時代が代わり、ザルツブルグ市の所有が大司教からオーストリア皇帝に移るとフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)がここの整備を始めて1854年、ミラベル庭園とクアガーデン(Kurgarten)の一般公開を始めている。現在もシェラトン・ホテルに隣接してコンベンション・センターとクア・ハウス(スパ)が存在しているが、これがフランツ・ヨーゼフ1世時代に造られたクア・ハウス(温泉施設)の名残なのではないかと思う。(シェラトンに宿泊していて全く気付かなかった)※ 少なくとも第一次世界大戦(1914年~1918年)まで市民の憩いの場としてこうした施設も存在していたようだ。クアガーデンからのミラベル庭園方面ミラベル庭園ペガサスの泉の後側ライオンの階段がある。そこを上がると橋があり面白い像がたくさん置かれている広場? があった。この橋に据えられた像を見る限りでは戦争のイメージこれが要塞の堡塁につながる橋と思われる。全景はないのだが、堡塁跡と思われる広場は、ほぼ完全な円形の丘の上にあり、270度くらいの角度をカバーする事ができるだろう。橋を渡ると円形の広場にぐるっとドワーフの像が設置されている。これらドワーフは復元作品で、実はバロックの時代からこのドワーフは存在していた・・と説明している所もあるが、ちょっと疑問である。少なくともこの場所ではなかっただろう。どう見ても作品は1600年代ではない。風刺か? 変なおじさんの像もある。ドワーフ(dwarf)・・トールキンのフアンタジーでもお馴染みの伝説の小人族。人ではなく、妖精の種とも?ミラベル宮殿正面(雨の日の写真ですが・・)普通に役所なのである再度になりますが、バロックの宮殿と庭園に造り上げたのはフランツ・アントン・ハラッハ大司教の時代(1710年頃)で、ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ大司教の時(1606年)ではありません。つまり宮殿のルーツは愛人の為の邸宅であったが、その後の所有者により増改築され、立派になっていった・・と言うのがこの宮殿です。しかし、1818年の火災でバロックの宮殿は焼け、後年、少し質素なネオクラシック(新古典様式)で建て直されて現在に至るわけです。(その立て直しの年代がはっきりしていない。 断定できるのは、フランツ・ヨーゼフ1世の時代である事。)また、ぶっちゃけ、現在の庭園の彫刻はどれも撮影するほどの品ではなく、近景ではほとんど載せませんでした。(後年の安いレプリカか?)ザルツブルグは第二次世界大戦のおりに近くの駅舎が爆撃され、未だ不発弾がうまっているかもしれない場所です。(その時に被害が及んでいる可能性はあります。)近年庭園などは整備されつつありますが、昔の豪奢なスタイルに戻ったとは思えません。何しろ入園はタダ。財源は市から出ているわけですから、維持管理にそんなにお金はかけられないのでしょう。たぶんバロック時代の宮殿はもっと素晴らしいものだったに違いない・・と言う感想で「ミラベル宮殿と庭園」終わります。Back numberリンク ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)リンク カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)
2015年05月02日
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