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Break Time(一休み)現在大阪に滞在中 用事も済んだので昨日から京都の観光に出かけています。そんな訳で今回ちょっとザルツブルグを中断して梅花祭りを紹介します待っている方、申し訳ないです (*_ _)人ゴメンナサイ北野天満宮 梅花祭り北野天満宮と御霊信仰菅原道真(すがわらみちざね)菅原道真公の祟り?梅苑北野天満宮参道梅花祭りの時はものすごい数の市が参道や周辺道路に立ちます。本殿 (参詣の行列は真ん中で拝みたい人。)現在、京都大学の試験中だそうで、街には受験生とその親たちが集まってきているそうです。何しろ菅原道真公は学問の神様ですから、学業成就と受験の合格祈願者がものすごいです 北野天満宮と御霊信仰菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を祀る北野天満宮は御霊信仰(ごりょうしんこう)の元に造営された神社です。(947年)御霊信仰(ごりょうしんこう)については以前、2014年5月「神田明神 (薪能)と御霊信仰」の中で取り上げていますが、祟る怨霊(おんりょう)を鎮めて御霊(ごりょう)とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を願う信仰の事です。リンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰簡単に言えば、平安時代に菅原道真の怨霊と思われる災いが多発した為に氏を讃え、祀る事で怒りを静めてもらおう・・と、神社が建立されたわけです。菅公の命日(2月25日)に毎年開かれる梅の花の開花祭り。梅の花は、菅原道真公の最も愛した花だそうで、この北野天満宮の印にもなっています。菅公と梅と牛はとても縁がある。菅原道真(すがわらみちざね)(承和12年6月25日~ 延喜3年2月25日)(845年8月1日~903年3月26日)平安時代(794年~1185年)中期(宇多天皇、醍醐天皇から重用)の政治家であり、漢詩人であり、学者であった彼はマックス、右大臣、右大将まで上り詰めている。ところが、菅公の勧めた朝廷への権力集中に反発する所(藤原時平)の謀略により道真は位階を落とされ大宰府へ左遷されたのである。(昌泰4年1月25日(901年2月16日)任)一応肩書きは「大宰帥の権官(ごんかん)」。しかし実態は中央で失脚した高官が飛ばされるポストなのだそうだ。そしてそこで菅公は憤死したと伝えられる。(延喜3年2月25日(903年3月26日)薨) 59歳。※ 薨(こう)・・・元皇族や三位以上の人が亡くなった時に使う言葉らしい。菅原道真公の祟り(たたり)?菅原道真公が亡くなった直後がら京の宮中で災いが多発。それを関係者は彼の怨念のせいだと考えたらしい。(40年以上も?)最初、彼を左遷に追い込んだ藤原時平の周りに早い死が訪れる。藤原時平も若干39歳で病死。 (延喜9年(909年)また醍醐天皇(だいごてんのう)の方も皇子が夭折したり・・と続き、恐怖で菅公の位階を右大臣職に戻したりしている。(923年)しかし延長8年(930年)、清涼殿に落雷が落ち高官達が焼け死ぬ?と言う一大事件が発生。醍醐天皇はこの3日後にショック? で亡くなっている。(45歳)天変地異はすべて御霊の所業とされていた時代。鎮魂の為の祭祀である御霊会(ごりょうえ)はそれ以前から行われていたようだ。もともと当時の平均寿命は短い。幼児の死亡率も高かった時代であり諸々、病気の治療法も解からなかった上に病は気から・・と言う事もあったであろう。因みに祇園祭(祇園御霊会)も、祟り神を慰撫し鎮魂する祭りだそうだ。個人的見解であるが寿命の短さは、平安時代から始まる貴族の化粧にもあったのではないかと思う。宮中では身分の高い者はそれを象徴するように女性も男性も顔に白粉を塗った。ところがその成分は良質なものほど鉛や水銀など毒性の金属からできていた。下級の者は穀粉(米粉など)で代用。鉛を原料とする鉛白(波布邇・ハフニ)水銀を原料とする伊勢白粉眉毛を全部抜いて白粉を塗る。それも女の子であれば10歳を越えた頃から・・。彼らの早死にの要因に鉛や水銀中毒が多分にあったのではないかと推察する。話はそれたが、菅公が左遷されて以降の宮中では、災いや怪異と言えば必ずと言っていいほど菅公の怨霊が疑われたのかもしれない。(少なくとも醍醐天皇の代は)天暦元年(947年)、村上天皇の時に近江国比良宮の祀官神良種や多治比文子、朝日寺の僧最珍らが相談して菅原道真公の神託があった北野の右近馬場に神殿を創建(北野天満宮)して神霊を祀ったのだそうだ。(何と菅公が亡くなってから44年後の事。)梅苑境内と境内横の梅林に合わせて50種1500本。2月上旬から3月下旬までが梅の見頃として梅苑が開催されていますが今年はまだ3分咲き?大人600円。お菓子とお茶付き梅の木にメジロが数羽。何てことでしょう。花芽が食われちゃってます梅苑に入るチケット600円には半券が付いていて、梅苑の中のお茶所で梅昆布茶とお菓子がいただける最後にちょっと望遠で今一ですが野点の写真を載せました。北野天満宮の東に位置する由緒ある茶屋街「上七軒」から芸妓さんと舞妓さんが来て野点茶会をしてくれるのです。野点拝服料1500円。撤饌(てっせん)と宝物館入場券(300円)付き
2015年02月25日
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ザルツブルグの街で一番目立つのは旧市街、メンヒスベルクの丘(Monchsberg)に建つホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)です。このホーエンザルツブルク城は完全なる要塞です。しかし、前回まで紹介したヴァッハウ渓谷 (Wachau)の街とは全く異色の経歴で城塞は建築されました。通常は、防衛の為に城壁が築かれ、要塞化して街に発展。城塞は街の人々を守る為に活躍するものなのですが、ザルツブルグは他と異なり司教が個人的に敵から逃れる為に建設した要塞がルーツなのです。司教の敵とは誰でしょう?司教が裏切った司教区のオーナーである神聖ローマ皇帝。また司教の贅沢と課せられた重税に耐えかねたザルツブルグの農民と鉱夫たちです。(農民達の怒りは16世紀にピークに達します。)つまりザルツブルグの大司教は本来尊敬されるべき立場にありながら、正反対の人物で、この要塞を築いた・・と言う事です。ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)大司教の非難場所としての要塞メンヒスベルクの丘(Monchsberg)メンヒスベルクの近代美術館(Museum der Moderne Monchsberg)ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)・・・・メンヒスベルクの近代美術館テラスから撮影場所とホーエンザルツブルク城はメンヒスベルクと言う同じ丘陵地にあります。ホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)大司教の非難場所としての要塞前回紹介したように街の成り立ちは、ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 がこのあたりの布教の為にバイエルン王のきもいりでサンクトペーター修道院(St. Peter's Abbey)を開設したことに始まります。(696年)その後798年にはカール大帝の進言で大司教区に昇格。(この頃は平和だったのかもしれません。)10世紀になると教皇庁が勢力を強め管轄司教区の人事権で諸侯と対立が始まりました。これが叙任権闘争で、11世~12世紀にはローマ皇帝の支配権下でも教皇庁と対立が激化。当時のザルツブルグ大司教は教皇側に付き、この司教区を作ったバイエル王(神聖ローマ皇帝)を裏切りました。大司教はバイエルン王の報復を恐れてメンヒスベルクの丘に逃げ場所を作ったのが発端だったとされています。ホーエンザルツブルク城は1077年に最初の着工がされ、それから700年かけて増改築が行われています。最初はちょっとした建物から始まり、13世紀から15世紀には堡塁(ほうるい)が築かれ、同時に豪華な司教の邸宅も中に建設。砲弾はは1525年には攻めてきたザルツブルグの市民に向けられ、籠城を勝ち抜いた後も市民の再びの襲撃を恐れて城はより堅牢な要塞にされたのだそうです。(そんなに達の悪い司教が中世にはいた・・と言う事が信じられませが・・)旧市街とホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)ホーエンザルツブルク城眼下の旧市街A・・・ザンクト・ペーター教会墓地と岩窟カタコンベB・・・ザンクト・ペーター教会とザンクト・ペーター修道院C・・・コレーギエン教会(Kollegienkirche)D・・・大聖堂(Domkirche) 周りがレジデンツE・・・ザルツブルグ祝祭劇場(Festspielhaus in Salzburg)F・・・ザルツブルグ大学ザルツブルグ地図一部写真下の青い四角がメンヒスベルクの近代美術館テラス写真右のピンクがホーエンザルツブルク城メンヒスベルク近代美術館(Museum der Moderne Monchsberg)テラスから海抜507m※ 残念ながらここに上った時は雨でした。メンヒスベルク近代美術館にあるカフェ・レストラン・バー M32メンヒスベルク山の急斜面に2004年にオープン(月曜休館)今回美術館もレストランも入っていませんが、見晴らしのよいこのレストランは昼はビジネスマンなどで人気のようです。(テラス裏手には車が乗り入れられるルートがあるようです。)展望テラスと美術館行きのリフト乗り場入り口リフトの乗り口が非常に解りにくい。リフトのあるグシュテンガッセ通りの建物はメンヒスベルクの岩壁に張り付いて建っていて、一見普通のビル。リフトはこの奧、岩山の下に位置しています。写真下、リフトのチケット売り場。美術館に行かなくてもテラスだけ上れます。但しリフト代は有料(ザルツブルグ・カードが使用できます。)岩山の下の洞窟からリフトに乗れるのですが、ちょっと怖い感じです。何しろこの山は実は崩れ安く、17世紀には突然崩れた岩により教会が2つ、民家13軒、230人の人が亡くなったそうです。現在は定期検査して気をつけているそうですが・・。ホーエンザルツブルク城からのメンヒスベルクの丘(Monchsberg)・・西方面(近代美術館は丘陵右)遠方の山はドイツ国境にある山ホーエンザルツブルク城からの北西方面手前が旧市街地区で対岸が新市街地区対岸、新市街裏の丘陵はカプツィーナベルク(Kapuzinerberg)天気の関係で晴天、曇り、雨が入り交じった写真になり色合いが異なってしまいました (カメラの違いもあるけど・・。)つづくリンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)
2015年02月19日
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季節がらクリスマスを盛り込んでいたようですが、今回は夏のザルツブルグを紹介します。それにしても教会などは変わらないはずなのに、何だか街が様変わりしてました ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)ハライン(Hallein)の塩ザルツブルグ(Salzburg)の首長ザルツブルグの守護聖人ルーペルト司教イン(Inn)川の支流であるザルツァハ(Salzach)川。 上流の旧市街方面を撮影ザルツブルグの街はハラインの川下。それをさらに下るとイン(Inn)川に合流する。ザルツブルグはどうしても通過しなければならない要所。ハライン(Hallein)の塩ザルツブルグ旧市街を流れるザルツァハ川上流15km。ドイツ国境に隣接するハライン(Hallein)の街は古来岩塩の採掘で知られた街です。デュルンベルク(Durrnberg)の山腹、バートデュルンベルク(Bad Durrnberg)岩塩坑で採掘された塩や、その通行税は中世ザルツブルグ司教の収入源となって司教区ザルツブルグを潤しました。最初に岩塩を発見したのは紀元前10世紀頃ここに定住していたケルト人だそうです。そしてそれは入植してきた古代ローマに引き継がれ塩を運ぶ為にザルツブルグ中心に道路網が整備。(ザルツブルグのレジデンツ広場界隈にはローマ時代の遺構がたくさん出土している。)ところがゲルマン民族の移動によりローマ帝国の街は壊滅されザルツブルグは1度荒廃。7世紀になって新たな布教者が現れるまでザルツブルグもハラインの塩も埋もれていたのです。後で紹介していますが、塩の採掘を再開して布教の資金にしたのがザルツブルグの初代司教です。ザルツブルグで買った塩ではありますがハライン(Hallein)のじゃないかも・・。もとは赤茶の岩塩で、1度煮溶かし、不純物を除いて精製したもの。何だかヒマラヤ岩塩に限りなく似ている気がします ※今回は行ってないのですが、バートデュルンベルク(Bad Durrnberg)岩塩坑では鉱山観光のアトラクションもあるそうです。(列車とバスでザルツブルグから小1時間。)2010年7月「オーストリア、ハルシュタット 2 (マルクト広場と塩) 塩の産地ハル(Hall) 」の中でも紹介していますが、ザルツブルグ交易の塩はハライン(Hallein)の塩だけではありません。近郊のザルツカンマングート(Salzkammergut)地方のハルシュタット(Hallstatt)からももたらされています。ハルシュタット(Hallstatt)の精製前の岩塩ウンタースベルグ山(Untersbergbahn)から写真左見切れている方角がザルツブルグ。写真右中手前見切れている当たりがーから先がハライン(Hallein)写真右奧の山当たりがザルツカンマングート(Salzkammergut)ザルツブルグカードで無料で乗れるウンタースベルグ山(Untersbergbahn)のロープウェイ乗り場である聖レオンハルト(St. Leonhard)村からハライン(Hallein)は目と鼻の先でした。(残念ながら山頂の天候が悪くそちら方面の写真は撮れませんでしたが別の回で紹介予定)ザルツブルグ市内地図赤い丸ABCDEは主要観光スポットのある場所ピンク1 写真撮影の橋ピンク2 ホーエンザルツブルグピンク3 メンヒスベルクの丘ピンク1・・の橋から撮影丘の上に見えるのがこのザルツブルグの象徴も言えるホーエンザルツブルク城(Festung Hohensalzburg)丘の下は旧市街。写真右のドームがコレギエン教会(Kollegienkirche)写真左のドームがザルツブルグ大聖堂(Dom)ザルツブルグ(Salzburg)の首長ザルツブルグと言う砦の持ち主は神聖ローマ皇帝に仕える諸侯ではなく、実はローマ教皇に仕える司教だったのです。布教の為の特別区は、一国となり、政治、軍事まで含む巨大な権力が司祭に集中。司祭はもはや布教ではなく、街を維持する政治をする事に追われる。しかも塩による財力が豊富なのでいつしか神に仕える者とは思えない行為までしだすのです。例えば王侯の宮殿のような大司祭の館(レジデンツ)。大司祭の愛人の為の館(ミラベル宮殿)。大司祭の夏の別荘(ヘルブルン宮殿)等々。そんな所が観光名所として現在も残り公開されているのは皮肉ですが、司教の王国・・と言うザルツブルグの特殊性がそこに見えて面白いかも・・。旧市街に渡る橋右に見える丘陵がメンヒスベルクの丘(Monchsberg)丘の上の白いのが現代美術館(あの丘の上までは地下トンネルの先からエレベーターで一気に上がれる。)ザルツブルグ4日の間、雨が8割。僅かの天気の間に撮影した写真です。この時は天気で喜んでいた後に傘が役に立たないほどのひどいドシャブリに合いました 旧市街旧市街と言っても市民が生活している街でもある。ザルツブルグの守護聖人ルーペルト司教696年頃ウォルムス出身のルーペルト(Rupert)(650年頃~718年)司教 はバイエルン公よりこのあたりの領地をもらいサンクトペーター修道院(St. Peter's Abbey)を開設した。また塩鉱の権利をもらってゲルマン族の侵入以来途絶えていたハラインの塩鉱を復活させ、布教の財源とした事から、ザルツブルグ(Salzburg)・・・Salz・burg(塩の砦)と街の名は決まったようだ。その後ルーペルト司教の活躍によりサンクトペーター修道院は東部アルプス一帯の布教活動の拠点となる。また彼の布教活動の成果を得て、ザルツブルグには司教座が置かれルーペルト司教は最初のザルツブルグの司教となっています。司教座になると、司教座聖堂が必要になる。最初は木造の簡素な聖堂が造られやがてそれは大聖堂建築に発展する。現在のザルツブルグ大聖堂(Dom)のルーツである。8世紀になると布教活動はカール大帝の政策と一致を見る事になり、より活発な布教活動が展開。798年にはカール大帝が教皇に進言してザルツブルグは司教区から大司教区に昇格。つづくリンク ザルツブルグ(Salzburg) 2 (メンヒスベルクの丘)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 3 (ホーエンザルツブルク城)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 4 (ザンクト・ペーター修道院)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 6 (カタコンベとトラップ一家)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 7 (ミラベル庭園 1)リンク ザルツブルグ(Salzburg) 8 (ミラベル庭園 2 北西エリア)リンク カフェ・ザッハー・ザルツブルグ(Cafe Sacher Salzburg)2009年12月15~18日 かつてザルツブルグ特集をしていました。ザルツブルク 1 (聖ペーター教会と街) 」ザルツブルク 2 (ホーエンザルツブルク城) ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教) ザルツブルク 4 (マルクト広場) ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市) ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市) 使えそうなところのみリンク入れました。リンク ザルツブルク 3 (司教座聖堂と大司教)リンク ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)リンク ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)リンク クリスマス市の名物グリューワイン
2015年02月13日
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発券機の所追記2014年8月「オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1」および「2」でオーストリアの国際特急列車の紹介をしているのですが、今回ザルツブルグ(Salzburg)へのアクセスは行き帰りもレールジェット(railjet)を利用しました。リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)街も駅もだいぶ整備されたようでこの数年でとても綺麗な最新の駅舎にかわっています。今後利用される方も多いと思うのでザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)の駅構内の写真を番外として紹介しておきます ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)QBBの発券機オーストリア領内西、ドイツに国境を近くするザルツブルグはもともと国際列車の通過駅の1つとしてできたようです。(1860年頃)欧州ではこの温室のようなガラスのドーム式タイプが多く見られます。19世紀の近代化の中で現れたアート的な鉄の建築が欧州駅舎のスタンダードになったのでしょう。モーツァルトの生誕地であり、音楽の都として賑わっている街は1996年にはさらに「ザルツブルク市街の歴史地区」としてユネスコ世界遺産に登録。より人気の観光地として観光客も増え、ザルツブルグを拠点にミュンヘンへの日帰りやインスブルックへの日帰り、あるいは移動へと来訪客は年々増えているようです。オーストリア連邦鉄道(QBB)のレールジェット(railjet)現在も西オーストリアのハブ駅として多くの国際列車が乗り入れする主要駅になっています。Line Salzburg たぶんザルツブルグ鉄道(Salzburg AG)です。ザルツブルグからローゼンハイム、ミュンヘンを結ぶ列車。下の列車は同じくミュンヘンとザルツブルグ間を結ぶバイエルンラントバーン(BOB)傘下のメリディアン鉄道(Meridian Eisenbahn) この列車は主に通勤用のようですが、ザルツブルグから、あるいは、ミュンヘンからの日帰り観光チケット(バイエルンチケット)で利用できる列車となっています。München ~ Rosenheim ~ Salzburgザルツブルグ、ミュンヘン間は高速列車のレールジェット(railjet)だと所要1時間28分くらい。しかし、バイエルンチケットでは高速列車は対象外、乗れるのはRE(地域快速)、RB(普通列車)で所要2時間くらい。僅かローカル線で2時間と言えど、かつては国が異なると電荷が異なる。ミュンヘン~ザルツブルグ間の鉄道計画は19世紀初めからあったもののなかなか困難なものだったようです。(国鉄、私鉄と2国間の会社が協賛しているライン)オーストリア連邦鉄道(QBB)ザルツブルグ社(Salzburg AG)ドイツ鉄道(DB)BOB傘下のメリディアン鉄道(Meridian Eisenbahn) もちろ欧州各国のユーロシティー(EC)、インターシティー(IC)、レールジェット(RJ)、シティー・ナイトライン(CNL)などの車両が運行。プラットホーム下の地下道写真左がQBBのラウンジ・・一等のチケットを持っている人のラウンジ列車の発券機手前赤いのがオーストリア連邦鉄道(QBB)。奧のがドイツ系と思われます。QBBの発券機ウィーン西駅で撮影言語は7ヶ国語対応。言語を選んでから発券操作に入る。入力項目などちょっと手間がかかるので時間に余裕を見てください。上の発券機以外にもインターネット予約でチケットを購入して日本でプリントアウトしてくれば発券機を使用する必要はありません。現地予約でプリントアウトしてない場合やその場購入の時に発券機が必要になります。また窓口購入も可能ですが、行列待ちがあること。また窓口発券をすると手数料がかかります。最近は事前にインターネット予約してプリントアウトしてくるのが一般的です。ただし、問題になるのは旅行取りやめになった場合です。QBBの窓口まで発券チケットを持っていけば、少しは戻るかもしれませんが、(前にも書きましたが)EU圏に居住していない者はカード決済したチケットの払い戻しがほぼ不可能なのです。国境がまたがる場合、同じ路線間でも、どちらの国でどのような買い方をするかで値段が異なってくる。ドイツの場合、早くチケットを購入すればするほど週末に限ってはかなり格安に購入する事ができる。一方オーストリア国鉄の場合、ローカル列車は超格安に買う事ができるが、特急列車などに関しての割引は無かったと思う。略号RJ(railjet)・・・・・・・レールジェットEC(Euro City)・・・・・ユーロシティ国際特急ICE(Inter City Express)・インターシティ高速列車IC(Inter City Train)・・・インターシティ特急REX (RegionalExpress)・快速急行列車RE (RegionalExpress)・・地域快速列車RB (Regional Bahn)・・・普通列車S (S-Bahn)・・・・・・・近郊列車U (U-Bahn)・・・・・・地下鉄改札が無いので日本とは異なるが、いわゆる駅中に相当するザルツブルグの駅舎内。もちろんショップも入っている。駅舎内に自転車は日本では不思議であるが、こちらでは電車に自転車を持ち込むのはあたりまえの光景。外観の写真が無かったのでのでRail Europeから借りてきてしまいました下の写真1870年頃の駅舎の模型(美術館で撮影)現在はこの駅舎の向こう側のプラット・ホーム上にドームがかかっているのである。(当時は駅舎側だけルーフがあったようです。)ところで、ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)は第二次世界大戦のおりに爆撃され、その時の不発弾が近年まで地下にうもれていたそうです。その不発弾の信管を抜く時に被害が出たとか・・。2007年8月、QBBはさらに不発弾の探索をしたと言いますが、まだ近隣に残っている可能性もあるらしいです。次回ザルツブルグを予定。しかし、以前1度特集しているのでどう載せるか思案中
2015年02月06日
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Break Time(一休み)未確認の謎の物体?写真を多く撮っていると、たまに予期しない物が写っている事があります それも現場でなく、家で写真を拡大してチェックしている時に発見。以前、ノルウェーの墓地で写り込んだオーブ(光の玉)は確実に危ないので消去しましたが、今度はそっち系ではない玉を発見。光の反射には思えないものが、写真2枚に連続で写り混んでいました。撮影は前回まで紹介していたヴァッハウ渓谷 (Wachau)。メルクを出て、シェーンビューエル城とシェーン・ビューエル修道院を過ぎて振り返って撮影。これもまた撮影した時には全く気がつかなかった物です。写真A-1晴天でまぶしいくらいの日差しの中、船のデッキ(屋外)で撮影。下から上がっているのは飛行機雲に見えますが、問題は上の方の点。以下2枚はそれを拡大したものです。写真A-2何でしょうね。 雲の変わった軌跡がついている所が光の反射とは思えなかった点です。写真A-3拡大すると明らかに中ピンクで周りが白いです。写真B-1もう一枚にも写っていました。時間はぼ一緒、船の方が移動しているので角度が違うのです。この前後にもたくさん撮影していますが、写り込んでいたのはこの2枚だけでした。Unidentified Flying Object未確認飛行物体 略してUFOそんなだいそれた写真ではないかもしれませんが、気になったので載せてみました 次回からザルツブルグを予定してます。現在写真整理中です。
2015年02月04日
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