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天神祭りの為に来た訳ではありませんが、タイミングよく大阪にいました。そんな訳でブログは再び日本に戻ってしまいました <(;_ _)>ごめんなさい23日に到着したのでギャル神輿は撮れませんでしたが・・。24日、天神さんに行く途中にたまたま天四獅子の集合記念写真の撮影現場に遭遇。カッコイイ姿のお兄さんにナイスな女子。それに可愛いチビッコたちもいて思わずカメラを向けました。それから天神さんで再び彼らと遭遇。彼らの宮入、そして天四獅子の舞いと傘踊りをものすごいベストポジションで撮影。本当にたまたまでしたが、宮を出るまでしっかり撮りました。あまりに撮り過ぎて写真を選択するのが大変でした (;^_^A2015大阪 天神祭 天四獅子傘踊り巡行一昨日の大雨が嘘のように晴れて今日は最高の祭り日。JR天満駅のすぐ脇。天四獅子の一団の記念写真。裏手に見える塔は関西テレビです。天四は天神橋4丁目の事です。天神さんでお参りをしていたら彼らがやってきました。お囃子と踊りをひっさげで・・。詳しい事は全く知りませんが、天四獅子とは、獅子舞と傘踊りで天神祭りを盛り上げる団体のようです。衣装はカワイイし、元気に飛び跳ねているので明るくて元気が出てきます。よさこいのテンポに近い気がします。お囃子は太鼓、笛、三味線です。三味線は慶長年間(1596~1614年)に誕生したそうですから、当初は琵琶だったかもしれませんね。獅子舞どうしの競争のようです。重い獅子頭を持って全力疾走していいるので、若いと言えどしんどそうです。競争の後には、獅子舞を披露。重い獅子頭を掲げる前の人は大変でしょうが、後ろで頭を下げてしゃがんでいる人も苦労です。若く無いとできないなーと思います 境内前から撮影していたので写真は望遠です。良く写せた方です。至近距離ならもっといろんな角度から撮影できたでしょうが、残念ながら非常に遠く肉眼ではここまで見えません。宮からの退出です。彼らはまた踊りながら天四商店街まで帰るのです。因み天神橋筋商店街は日本一長いアーケードを持つ商店街です。ここは、1丁目。天四まで普通に歩いて15分以上はかかるから踊りながらならもっとかかる。いつもは商店街を巡行している時に見かける程度でしたが、偶然にも宮で見る事ができてもうけた気分です。祭りは参加するに限りますが、参加した彼らは一生の宝となる経験をした事でしょう。こう言う祭りのある所って羨ましいですね。お祭りは25日まで。天神祭りは日本三大祭りと言われ歴史があり、規模も大きな祭りです。それだけに桁外れなイベントが盛りだくさんですが、宮の催事の方は関係者でないとなかなか撮影できそうにありません。神輿の写真は後で載せる予定ですが、宮の神輿(「鳳神輿」「玉神輿」)や今日の船渡御(ふなとぎょ)と奉納花火は無理かも・・。祭りはつづくリンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 2015大阪 天神祭 スナップ写真
2015年07月24日
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ラストにルードビッヒ2世に関するリンク先を載せました。今回は頭の中がまだ「お墓」・・と言う訳ではないのですが、昨年予告を出したままになっていたミュンヘンにあるルードビッヒ2世の墓所と棺を紹介します。(こちらは本当に中身が入っています)ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)聖ミヒャエル教会(St. Michael)(Michaelskirche)ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)ルードビッヒ2世(Ludwig II)の棺ミュンヘンにある聖ミヒャエル(St. Michael)こと、ミヒャエル教会(Michaelskirche)は、ルードビッヒ2世の家系ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)の一つです。聖ミヒャエル教会(St. Michael)(Michaelskirche)聖ミヒャエル教会(St. Michael)は、その名の通り大天使ミカエルに献げられた教会です。しかしミヒャエル教会創建(1583年礎石~1597年完成)の時代はすでにルターによりカトリックは否定され宗教論争になっていた時代でした。(プロテスタントの台頭でカトリック教会はピンチ)当時バイエルンを統治していたヴィッテルスバッハ家のヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)はカトリック信仰を守る為にイエズス会と協力しカトリック教会の存続をかけてこの教会やカトリック大学を創設。なぜイエズス会かと言えば、ヴィルヘルム5世自身が幼少期よりイエズス会の教育を受けてきた事による。(おかげでバイエルンは宗教改革に対抗する旗手となった。)この教会は当時のイエズス会のローマの母堂(ジェズ教会)を元に造られた教会です。ジェズ教会のファサードは「世界初の真のバロック様式のファサード」と呼ばれいるように内部も礼拝堂と本堂はアーチでつながれたドーム式のバロックの構造です。(バシリカは無い)世界中のイエズス会系の教会はジェズ教会をモデルに建造されているのでミヒャエル教会も同様。内部はドーム式でバロックです。エントランスの形のみルネッサンス風ではありますが、イタリアから来たバロックをドイツ風に造った・・と言う所でしょう内部は新しくされているもののバロックの要素は沢山残されていて清潔で美しい教会です。特に目をとめたのが入り口にある大天使ミカエルをあしらった聖水盤です。何だかありがたい感じのする聖水盤です 主祭壇この主祭壇の真下にヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)があります。入場料2ユーロ。ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)740年の歴史のあるヴィッテルスバッハ家の墓所は他にもたくさんある。ここに埋葬されているのは36人程。ルードビッヒ2世の棺の他、創設者となるヴィルヘルム5世を含め、その子マクシミリアン1世(Maximilian I)などバイエルン国時代の家族墓所だ。(ここに葬られなかった王もいる。)ヴィッテルスバッハ家、最初のバイエルン公はオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)に遡るようだ。その子孫はバイエルンを拠点に神聖ローマ帝国の中で有力家系として発展。最初はローマ皇帝を選ぶ選挙権を持つ選帝侯であったが、ナポレオンが神聖ローマ帝国を解体するとナポレオンと契約を結び、バイエルンの領地は2倍になり王国に昇格するのである。バイエルン王国となるのは1806年から1918年まで。マクシミリアン1世に始まりルートヴィヒ3世で終わるまで7人の王が君臨。ルードビッヒ2世は4人目の王であった。ルードビッヒ2世(Ludwig II)の棺ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)第4代バイエルン国王(在位1864年~1886年)芸術を愛好する血統故か? ホーエンシュヴァンガウ城で育った彼はロマン主義に心酔していく。特に16歳で観たワーグナーのオペラ「ローエングリーン」の世界観を現実に造り上げる事に情熱を献げたのである。1864年3月、18歳で王位に就くと夢の城の建設に取りかかる。リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城、ノイシュヴァンシュタイン城。それだけでは無い。調度、絵画など装飾品のみならず、馬車やソリに至るまでこだわっている。その莫大な費用が国庫を揺るがしたのである。豪華な馬車を考えると何て質素過ぎる棺なのだろう側近も政府も敵に? 事件が起こったのである。1886年6月12日、ルートヴィヒ2世は逮捕され廃位させられた後、夏の離宮として使用されていたベルグ城(Schloss Berg)に送られ軟禁。翌13日、フォン・グッデン医師と夕刻散歩に出かけ行方不明。13日23時55分。二人を湖で発見の一報。(両者弱いながらもまだ息はあったはずなのだが・・。)6月15日付け新聞ではシュタルンベルク湖(Starnberger See)で二人は水死と発表された。遺骸はミュンヘンのレジデンスに運ばれ病理解剖と防腐処理がされているが検死結果は不明。1886年6月19日ミュンヘンで葬列後に聖ミヒャエル教会の地下墓所に安置された。しかし、心臓だけは1886年8月16日、アルトエッティング(Altötting)のホーリーチャペル(Heilige Kapelle)(Gnadenkapelle)に移されたそうです。夢見る美貌の王が創作したノイシュヴァンシュタイン城は、ディズニーのシンデレラ城のモデルになった。とも言われる女性のあこがれの城。王の悲劇と相まって超人気の観光スポットとなっている。それにしても死の真相は未だ不明。彼は本当に狂っていたのか? 単にオタクだっただけなのか?関連リンク先リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2015年07月16日
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「信長の墓所」は前回で終了ですが最後に書き残した(追記)分を載せました。 「信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓」からタイトル変更しました。写真は「大徳寺塔頭 高桐院」です。ここは細川家の菩提寺で光秀の上司、細川藤孝の墓と嫡男忠興、それにガラシャ夫人のお墓があります。信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓信長の墓所(追記)大徳寺塔頭 高桐院細川ガラシャの墓信長と義昭織田信長の上洛は1568年(永禄11年)。本能寺で滅するのが1582年(天正10年6月)なので正親町(おおぎまち)天皇(1517年~1593年)の在位期間(在位1557年~1586年)にすっぽり治まっている。この時代の将軍は室町幕府の13代 足利義輝、14代 足利義栄、15代 足利義昭である。信長の上洛は足利義昭(あしかがよしあき)の依頼により将軍になる為のサポートをした事に始まる。信長が畿内、隣国を平定。義昭を伴い上洛。1568年(永禄11年10月22日)内裏に参内して義昭は15代目の征夷大将軍となった。すべて信長のおかげであった。さらに信長は将軍御殿と荒廃した内裏の修理も行っている。朝廷に対しても将軍に対しても特別に敬意を示している事がうかがえる。また当時逼迫していた宮中の収入面においても今後困る事がないよう配慮した対策をしている。実は信長はかなり律儀で気配りのできる男だったようだ。戦いの都合、信長が焼き払った村や町にはちゃんとお金を渡し、後の税の軽減もしていたようだし・・。(信長公記より)ところが将軍 足利義昭の方はとんでもなくわがままで嫉妬深く非礼な男だった。1573年(元亀4年)将軍義昭が信長との約束ごとをことごとくやぶり問題行動を連発。義昭は信長に対して今までの恩に報いるどころか謀反を起こしては結局和睦し、またすぐに裏切る。かくして1573年(元亀4年7月)将軍義昭は信長反対派を集めて挙兵するもあっさり敗北して降参。都より追放された。道理の通らない事象に関しての信長の切れ方はハンパなかったがさすがに殺すのは問題有りと考えたようだ。もはや義昭に従う公家も無し。それでも朝廷もなぜか義昭の将軍職を解くことはなかった。(1336年より続いてきた足利幕府をどう扱ってよいか皆解らなかった・・と言う所が本音か? 正式な彼の退位は秀吉の時代に入ってからになる。)もともと朝廷は単なる形式だけのトップ。幕府が実質国を統治していたわけであるが、その幕府ももはや自力で何もできない体たらく。将軍職はお飾りの世襲制になっていたが棚からぼた餅で予定外に将軍になれた義昭はその職を非常に享受していた。それ故、都への出禁となれば信長への恨みはかなり強かっと思われる。明智光秀の立場ところで明智光秀は信長の上洛(1568年)時点では室町幕府を支える直臣の細川藤孝の家臣だったようだ。つまり幕臣だったわけである。細川藤孝は13代 足利義輝に仕え信長の擁立した15代 足利義昭にも仕えている。そんな関係もあり光秀は義昭が将軍になると義昭方(幕府方)の元で事務処理を担当していたようだ。今風に言うとおそらく細川の命で将軍の秘書として出向? と言うところだろう。(信長公記では1569年(永禄12年)義昭の居る六条の御所が三好らに包囲された時に御所の中で抵抗した勢力として明智光秀の名が出ている。また明智憲三郎氏の著書でも幕府方を明智光秀、信長方が朝山日乗と、二人が朝廷との間の事務処理をしていた事が示されている。)ではどこから明智光秀は信長の家臣になったのだろう?信長公記では1570年4月(元亀元年は4月から)には信長の命で家臣のように働いている記述がある。すでに信長の家臣になっていたのか? ひょっとすると光秀の給料は細川からでも出向先の義昭の事務所(幕府)からでもなく信長から支払われていたかもしれない。もしそうであるなら光秀は主君を3人持っていたわけで立ち位置が難しかったはずだ。1571年(元亀2年9月)比叡山焼き討ちの際は光秀はなぜか幕府方でなく織田方で出陣。焼き討ち後は滋賀郡をもらい坂本に居城を構えている。もしかしたらこれが正式に信長の家臣になった印か?1573年(元亀4年)信長が義昭に送った17ヶ条の意見書の中に明智光秀の事が登場してくる。「光秀が所領で徴収したお金をそこは延暦寺領だからと没収した件は不当だ。」信長は光秀に対する不当な対処を批判しているのである。義昭は信長に対して友好的な者に非情な態度をとる・・同じく17ヶ条の意見書の中で指摘しているが、実際信長に可愛いがられ、所領ももらった光秀を憎んでいたのではないか? また、所領ももらった光秀は普通であれば信長の家臣になったはずなのだが、義昭はそう思っていなかった? かもしれない。誰の家臣かはっきり明確にされていないまま光秀の存在があった可能性がある。だから・・と言うのは突拍子かもしれないが、本能寺の謀反はこうした光秀の微妙な立場が関係していて起こされた事件だった可能性も考えられる。今や光秀が天下をとりたかったとは思えない。光秀をそそのかした黒幕の存在。あるいは光秀を脅して決起させた黒幕の存在。あるいは光秀を追い詰めた存在がいたはずだ。ひょっとしたら、最初から光秀はスパイとして信長の家臣として送り込まれていた可能性も考えられる。言わずもがな、何となくそこに見え隠れしている誰かは形勢の良い方にすぐに鞍替えしてきた元上司である。(完)大徳寺塔頭 高桐院(こうとういん)1601年(慶長6年)に嫡男 細川忠興が父細川 藤孝の菩提を弔う為に、また細川家の菩提寺とするべく建立。忠興は、千利休門下の茶人なので茶室や庭が特に素晴らしい寺でした。細川 藤孝(ふじたか)(1534年~1610年) 光秀を見捨て変の後に出家。幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗る。嫡男 忠興の嫁として来た玉(ガラシャ)は光秀の娘。実は信長の勧めによる縁談だったそうだ。(1578年 天正6年婚)細川 忠興(ただおき)(1563年~1646年) ガラシャの夫であり利休七哲の一人。号は三斎こちらの寺は外の門から奧舎までのアプローチが非常に素晴らしいお寺です。ちょうど新緑の頃。まさに絵になる美しさです。竹林が青々とすがすがしい気で満ちていました。細川忠興(三斎) 作の茶室「松向軒(しょうこうけん)」1628年(寛永5年) 忠興(三斎) 66歳の時の作とされる。広間から見える庭は絶景秋の紅葉の時は朱で染まるこの庭。JR東海が「そうだ京都に行こう。」とポスターに起用しています。細川ガラシャと夫 細川忠興の墓所細川 玉(1563年~1600年)明智光秀の三女にして細川忠興の正室。キリスト教に帰依し洗礼名がガラシャ(Gratia)。逆臣の娘となり辛い日々が彼女をキリスト教の道に進ませたようだ。因みにガラシャの死は石田三成が彼女を人質にしようとした為に夫との約束通り自刃し、その後爆死。「遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛けた・・。」前回信長の死について私が提唱したのと同じではないか。墓石代わりの石灯籠は利休の遺品。秀吉が欲しがったと言う「天下一」と銘のある灯籠らしい。忠興(三斎)は利休切腹のおり、これを相続した。初代藤孝(中央奧)11代目までがここに眠る細川家の墓所信長の墓所リンク先リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年07月06日
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リンク先の追加をしました。一昨年ロンドンからベルギーまでユーロスターで移動。その時、ロンドンのセント・パンクラス(St Pancras station)駅のセキュリティーが空港並だったのには驚かされました。が、あちらは国際列車です。だから空港並警備も当然か・・。※ 2013年09月「ユーロスター(Eurostar)」でセキュリティーをこっそり写真撮ってました それにしても非常識すぎる今回の事件。誰も想定などできなかった。人に迷惑だけは掛けてはいけない・・が日本の母の教えだったはずなのに 自分ご都合主義のテロリストに対処する方法は無いのかもしれない。信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)阿弥陀寺説の疑問本能寺で消えた信長公清玉上人(せいぎょくしょうにん)の廟 信長公の墓所よりずっと右奧方面に置かれて居る。生没年が不明。石山本願寺や延暦寺の非道な坊主より、和尚として本来の使命を全うされた素晴らしい方だったに違いない。阿弥陀寺説の疑問阿弥陀寺が語る信長公との縁について疑問がある。「信長公記」に阿弥陀寺に関する箇所は見つからない。1.そもそも阿弥陀寺は信長の上洛よりずっと前に京都に創建されている。(信長の上洛は1568年(永禄11年10月))信長が京都に呼んだとか、逆に信長の上洛を手助けしたとか言う事実は無いだろう。2.また信長が阿弥陀寺に帰依した件は、何らかの理由により信長公より寺に寄進があったと推察。寺はそれをもって「帰依した」と解釈しているのだろう。何らかの理由とは、戦死した部下達の弔いの件か? あるいは将軍の代替わりに際しての挨拶の時に事情を知った信長から寺の維持費を賜ったか・・と言うところだろう。3.阿弥陀寺が本能寺より織田家臣の遺骸を持ち帰れた理由は前回説明した通り。阿弥陀寺はそう言う寺であり、誰も不審に感じ無かった事があげられる。4.では自害した信長の遺骸をたまたま焼いている所に清玉上人が遭遇? ・・と言うのはどうだろう。これは全くあり得ないと思う。なぜなら上人が到着する頃には100%寺は焼け落ちていたはずであり、まして日中である。裏の竹林で落ち武者が遺体を焼いていたらいくらなんでも目立ちすぎですぐに見つかったはずだ。(6月の日出は早い。本能寺の変は現在の暦で6月21日)だいたい木材だけで遺体を焼くのに何時間かかるか・・と言う点においても疑問しかない。5.白骨を法衣につつみ・・・帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる。の件そもそも変の当日に信長と断定できる遺骸のどこか一部でも持ち帰る事ができたのか? が最大の問題である。後日たまたま見つかった・・なら解らなくもないが・・。6.秀吉が真っ先にやって来た件は、遺骸の引き取りを行った寺が阿弥陀寺しか無かったからだろう。信長公の遺骨を出せ! と、本当に言ったか? が、まず疑問である。秀吉は本当に信長公の遺骸が阿弥陀寺にあるのか? 当初から阿弥陀寺にある・・とウワサされていた件に関して確認の為に行ったのではないか?後で書くが、秀吉は信長公の遺体が見つからない事を承知していたのではないか? と思われるからだ。7.阿弥陀寺で葬儀を執り行いたい。と、秀吉より申し入れがあった。・・と言う件。・・これも実はあり得ないと思っている。秀吉はもともと大徳寺を想定していたはずである。申し訳無いが、信長の葬儀を盛大に行いたい秀吉にとって阿弥陀寺では寺の格が低すぎるからだ。(阿弥陀寺は庶民派の寺である。)8.阿弥陀寺の場所が秀吉の怒りで縮小され移転された件。これは前回も書いたし、秀吉の御土居のところでも説明している通り、秀吉の都市改革の一環で洛中の寺のほとんどが寺町通り沿いか洛北の寺之内に移動をよぎなくされているから特別な沙汰ではない。寺領に関してもみんな小さくなっているし・・。(阿弥陀寺が特別大きかったのは無縁墓地が拡張して行ったからではないか?)阿弥陀寺に伝わる「信長公阿弥陀寺由緒之記録」なるものは宝永の大火(1708年)or天明の大火(1788年)で寺と共に消失していて、その後に造り直されたものらしい。その時に寺の箔付けに話を盛ったのではないか? と推察する。唐銅香炉「三足の蛙」 本能寺宝物館所蔵 内部撮影禁止なのでリーフレットの写真から借りてきました。本能寺の変の前夜、突然泣き出して危険を知らせた・・と伝承される香炉がこれである。三足の蛙はもともと後漢書の伝説より生まれた蟾蜍(せんじょ)と呼ばれる月に住むヒキガエル(月の精)だそうだ。もとは天女だった姮娥(こうが)が西王母より不老不死の薬を盗んで月に逃げてヒキになったらしい。※十五夜の元となる「月でうさぎが杵(きね)を突く」のウサギが実は姮娥(こうが)が杵(きね)を突いて不老不死の薬を造っている姿らしいのだなぜカエルでなくウサギに変わった?本能寺で消えた信長公明智光秀がさんざん捜索したにもかかわらず信長公の遺骸は見つからなかったようだ。だからこそ家臣の遺骸の中に信長公が混じっていた可能性は大である。何しろ焼け落ちた寺の残骸の下には信長はじめ小姓達の炭化したであろう遺骸が折り重なってあったであろうから・・。信長公記によれば、信長は最初は応戦したものの、手傷を負い、弓の弦も切れ、覚悟を決めて納戸に入り中から扉を閉め切腹したとされている。(以降の事は書かれていない。)一方、二条で応戦した嫡男織田信忠の方は「私が腹を切ったら縁の板を引きはがし遺体を床に入れて隠せ」と言い介錯(かいしゃく)は鎌田新助に頼み彼はそうした。隠した遺骸は後に荼毘に付されたと書かれている。信長公がかつてライバルの首を取った時の事を考えれば、自らの時の事も想定していたはず。二条の信忠のように隠して後に同じように掘り起こされてひっそりと荼毘に付された可能性は信長の場合も考えられる。しかし、信長は介添えを伴っていない。一人で入った先は納戸である。納戸の床下で切腹した可能性も考えられるが、それよりも遺骸を敵に渡さない最善の策が一つある。爆死である。「信長の墓所 1 (本能寺)」の時に紹介したが、本能寺の特殊性は種子島ルートの武器と火薬が手に入る事だ。(つまりここは織田家の宿所だけでなく武器の補給庫でもあった。)リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)中国に赴く秀吉や光秀が持って行っていたとしても、まだこの寺には多少の火薬が備蓄されていたはずである。そして万が一の時に備えて準備していた事も十分考えられる。信長公は切腹の後、爆死。時をして本能寺は焼けて屋根が落ちて全焼。遺体のかけらさえ残らず燃えて、何も解らないように焼けて消えてしまったのではないか? ・・と、言うのが私の推論である。つまり信長公の遺骸は本能寺と共に本当に灰燼(かいじん)に帰してしまったと言う結論になる。秀吉は本能寺の火薬の事は当然知っていた。もしかしたら親方がどのように最後を遂げるか・・も聞いていたかも知れない。だから彼は本能寺の灰と、香木で彫った信長公を納めた棺を荼毘に付した? そう考えると全ては納得がいくのである。日本最古の種子島銃(火縄銃)・・・下段天正11年の年紀がある信長、秀吉に仕えた家臣の火縄銃だそうだ。偶然入った大徳寺塔頭 龍源院にて撮影。信長の墓所・追加リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓back numberリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年07月01日
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