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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)レジデンツ(Residenz)グロッテンホフ(Grottenhof)グロット(Grotto)とグロテスク(grotesque)キュビリエ劇場(Cuvilliés-theater)グロッテンホフ(Grottenhof)案内図で洞窟の中庭(Grotto Courtyard)前にある回廊がグロッテンホフ(Grottenhof)だ。「何でこんな物を作ったのだ?」と誰もがきっと思うだろうグロイ奇っ怪なオブジェが並ぶ。しかもそれは無数の貝殻で作られた代物だ。グロテスクと言う言葉はここから生まれたのではないか? と思ったものだが、調べて見ると、案外それは的外れでは無かった事が解った。1722年頃?ヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)の命で建築が始まったとされるこのグロテスクな回廊は前回紹介したアンティクヴァリウム(Antiquarium)の改築とほぼ同じ1581年から1586年頃作られたようだ。設計はこの宮殿を建てさせたデューク・アルブレヒト5世(Duke Albrecht V)の芸術顧問、フリードリヒ・ズストリス(Friedrich Sustris)。今は回廊のオブジェのみの見学であるが、上の絵のように中庭にはイタリアルネッサンス式の庭園が造られていたらしい。一番の目玉になるオブジェかつてはここから水が湧いていて、ちょっとした水飲み場にもなっていたのかもしれない。金の像はオリンポス12神の一柱ヘルメス(Hermēs)である。ローマ神で言えばメルクリウス(Mercurius)である。デザインはイタリア・ルネッサンス式と書かれているが、モチーフはローマの詩人オウィディウス(Ovidius)(BC43年~AD17年)の変身物語「メタモルポーセース(Metamorphoses)」を元に考案された。・・と解説されている。 (・・が、どこが変身か良く解らなかった。)ほぼ全てが貝殻で作られている。なぜ貝殻なのだろう? ぶっちゃけ、ちょっと気持ち悪かったです グロット(Grotto)とグロテスク(grotesque)レジデントの地図では洞窟の中庭(Grotto Courtyard)と記されている。つまりこれらオブジェは洞窟(Grotto)を意味している。どこが洞窟か? と言う疑問がわくのだが、実は設計者はメタモルポーセース(Metamorphoses)と言うよりは、ドムス・アウレア(Domus Aurea)からこれを発想したのではないか? と思われるのだ。ドムス・アウレア(Domus Aurea)は古代ローマ帝国第5代皇帝ネロ(Nero)(37年~68年)が建設した黄金宮殿であり、その建設はローマ大火の後の64年頃。再発見された1480年頃には地下に一部しか残っていなかったものの、芸術に造形の深かった古代ローマのネロ帝の屋敷。ラファエロさえもここの存在を知っていたと言うように多くの芸術家がドムス・アウレアを訪れ、学び、ルネッサンス芸術のインスピレーションを得たと言われている。(発見されたドムス・アウレア自体が洞窟のような地中にあったらしい。)そもそもルネッサンスは「再生」とか「復活」と言う意味ではあるが、古代ギリシャやローマを礼賛した復活と再生なのだ。(ドムス・アウレアは、ルネッサンスを起こした要因と考えてよいのかもしれない。)ここの設計者フリードリヒ・ズストリス(Friedrich Sustris)もまたドムス・アウレアに啓発されたのでは? と思われる。(ルネッサンスを意識した点。またドムス・アウレア詣での時期が一致している。)ところでドムス・アウレアの装飾は 大理石やローマン・コンクリート、モザイク等を使った贅沢な海辺のヴィラだったらしい。また動植物や人物など過度の装飾がほどこされた壁の図柄は、当時のルネッサンスの画家達が大いに模倣したと言われている。先に紹介したラファエロはヴァチカンを監修した時にこの古代のグロット(Grotto)から発見された図柄をヴァチカン宮殿で使用し、グロテスク装飾が完成した。(因みに現在のグロテスク装飾と言われるものは本来のグロテスク模様とは遠い。)つまり奇抜で奇妙で奇怪。おぞましい不調和を指す形容詞となったグロテスク装飾を最も端的に表現しているのがグロッテンホフ(Grottenhof)の装飾と言える。キュビリエ劇場(Cuvilliés-theater)レジデンス内にある劇場である。礎石は1750年。1753年完成。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世(Maximilian III)の命でフランソワ・デ・キュビエ(François de Cuvilliés )親子によって建てられた。壮麗なロココ様式のキュビリエ劇場マクシミリアン3世は自身も作詞作曲するなど音楽を楽しんだ人らしいが、職を求めてやってきたモーツァルトを追い返したと言われている。入り口の柱の彫刻次回レジデンツBack numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年12月29日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。さて、今回は元王宮の紹介です。ウィーンのような華やかさは見えませんが、ドイツらしい贅沢が伺えます。見学の所要時間がかかるので、なかなか紹介されていない所でもあります ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)レジデンツ(Residenz)アンティクヴァリウム(Antiquarium)ここは1180年から1918年までバイエルンに君臨したヴィッテルスバッハ家の本宮殿だった場所であり、バイエルン王国時代には王宮となり政務も執り行われていた場所です。1918年バイエルン最後の王ルートヴィヒ3世が退位しバイエルン王国が解体されると、その2年後には早くも博物館として一般公開されました。内部は、博物館や劇場になっていて見所はそれぞれありますが、個人的には宝物館のコーナーが好きです。場所は旧市街北。以前「世界の看板 1 (ミュンヘン・München)」で紹介したオデオン広場(Odeonsplatz)の所です。オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(将軍堂)。赤い屋根の建物がレジデンツ(Residenz)の一部。1385年にシュテファン3世(Stephen III)(1337年~1413年)の命で建設が始まったとされる。400年の歳月の中でルネッサンス、バロック、ロココと時代の様式が加わり増改築が行われてきた。それ故にかなり複雑な構造となっている。表示版がほとんど無く、レジデンツの見取り図でもあればルートが解ったはずなのにミュージアムの入り口が解らず行ったり来たりしてしまった。ライオンのゲートがそうかな? と入っては行けずに戻る事しばし・・後で地図を載せるが、入り口はこの通りにはなく、入り口に入る為のゲートはこの通りの外れの方か建物を外れて曲がった所にあった。つまり、オデオン広場(Odeonsplatz)からは最も遠い所にあったのだ・・実際の入り口はこんな所ではないが、なぜかミュージアムショップはこのゲートの右の入り口にある。Inperial Courtyard迷っているうちにたどりついたFountain Courtyard(噴水のある中庭)奧の三角屋根がCourt Church of All Saints(諸聖人宮廷教会の庭)。ここは教会の裏庭に位置する。因みに右の赤い屋根の部分が後に紹介するアンティクヴァリウム(Antiquarium)の外観である。同じく迷っているらしい人に遭遇する1755年当時のレジデンツ(Residenz)当時オデオン広場(Odeonsplatz)は無いか絵の左下が広場の位置。アンティクヴァリウム(Antiquarium)は上下の図ともにピンクで記した。下が実際の地図。向きを同じ方角に変えてあるが、美術館や劇場、教会などはこれら建物の右半分に入っている。レジデンツ美術館の入り口は赤い建物の部分。1755年の図には存在していない。※ 左のグレーの部分はおそらくバイエルン放送交響楽団「ヘルクレスザール(de:Herkulessaal)」の本拠と思われる。下が実際の入場口入館料は王宮と宝物館、劇場のセットで共通券で13ユーロ(2014年7月時点)荷物を預けるロッカーはなく、直接係員への預け方式になります。貴重品は持って行かない方が良いでしょう。カメラはほとんどの所で撮影OKです。入館して最初に入るのはたぶんレジデンツ宝物館Residenzmuseumのほうになるが、今回は先にレジデンツ内部の建物の方から紹介します。アンティクヴァリウム(Antiquarium)レジデンツの見所の一つになっているのがこのアンティクヴァリウム(Antiquarium)です。装飾が施された全長69mのこのホールは現存するレジデンツの建物の中では最も古い部屋だそうです。建設は1568年~1571年。デューク・アルブレヒト5世(Duke Albrecht V(1528年年~1579年))が古代遺物の骨董彫刻コレクションの為に建てた部屋だったそうです。「Antiquarium」と言う部屋の名前はそこから付けられたようで骨董部屋・・と言うところだろう。しかし、デューク・アルブレヒト5世の子供、ヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)とさらに孫にあたるマクシミリアン1世(Maximilian I)(1573年~1651年)の時代に宴会場に改装されている。つまり公的なダンスホールやダイニングホールになったのである。ちょっとセンスが悪いと思う。・・と言うか怖いけけど・・下が食器である。デルフト焼きっぽい感じです。(欧州にマイセン焼きのような磁器が作られるのは18世紀初頭。)16の天井画はイタリアとバイエルンで活躍したマニエリスムの宮廷画家。ピーター・キャンディッド(Peter Candid) (1548年~1628年)の作品。着座する女性の形で名声と美徳の寓意しているそうだ。ほとんど全ての女性が着座像の形で描かれている。北方ルネッサンスのインテリアらしいが、これはどう見ても暖炉と言うよりは廟(びょう)(ルネッサンス様式の墓)であるもしかしたらアンティックの廟だった物を後世暖炉に作り変えた可能性はある。反対側レジデンツ(Residenz)につづくリンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡) ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年12月21日
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前回に引き続き欧州のポストのお話です。前回は欧州のポストがなぜ黄色いのか?欧州のあらゆる郵便関連が黄色に統一されてるのはなぜなのか?郵便事業のルーツをひもとくと見えてくる納得の理由を紹介しました。赤色編のルーツを知る為にもを先に見ていただいた方が良いかもです。リンク先は下に表示。2015年12月「欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来」リンク 欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来今回はイングランドの赤色のポストのお話ですが、実は、ある意味イレギュラーなのが赤いポストの存在なのです欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポストイングランドのポスト時代が解るイングランドのポストの印アイルランドのポストイングランドのポストイギリスが発祥のように思われている郵便事業ですが、実はそうではなかった事は前回の「欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来」で了解してもらえたと思います。イギリスでの郵便の発祥は前回紹介したフランチェスコ・デ・タシスがマクシミリアン皇帝の許可の元、独占権を獲得。商業ベースでの駅馬車郵便事業を立ち上げた1516年と同じ年になっていますが、あくまでそれはロイヤルメールだけで一般に郵便事業が認められるのは欧州本土より遅れて1654年の事。また郵便馬車が走るのは1784年なので一般人が郵便を利用できるようになるのはかなり近代に近づいてからの事です。ではなぜイギリスが発祥のように思われたのか? それは世界初の切手の発行がイギリスだからだったからではないでしょうか?産業革命をいち早く成したイギリスは遅れていた郵便事業も一気に産業革命し、使いやすさの面で一気に欧州本土を抜いたようです。従来の郵便制度では、料金の支払い方法が不便であった事。また距離毎に値段も異なるし、値段自体が高かった事が1840年の切手の発明、発行に繋がったようです。残念ながら写真がありませんが、ビクトリア女王の肖像が描かれた1ペンスの切手、通称「ペニー・ブラック」が世界初の切手だそうです。時代が解るイングランドのポストの印イギリスで郵便事業を営む会社ロイヤルメール(Royal Mail)。もとは王室縁で、イギリス国内と植民地間の配達業務から発祥。(郵便事業は現在日本と同じく国営から民営化されている。)イギリスでポストが初めて建つのは1852年。柱の形をした箱だったので、ピラー・ボックス(Pillar box)と呼ばれたようだ。最初の1号はジャージー島に設置。各年代のピラー・ボックスにはその治世の王のイニシャルが記されている。ウィキペディアよりパブリックドメインになっていたので借りてきました。1856年型ピラー・ボックス(Pillar box)。これに刻印は見あたりませんが、当時の国王はヴィクトリア女王の治世。ヴィクトリア(Victoria)(Alexandrina Victoria)(1819年~1901年)(在位:1837年~1901年)よくよく見ると投函口がタテになっています。エドワード7世(Edward VII)時代のイングランドのポストエドワード7世(Edward VII)、 Albert Edward(1841年~1910年)(在位:1901年1~1910年)※ このタイプはエリザベス2世(Elizabeth II)印も存在している。ジョージ6世(George VI)時代のイングランドのポストジョージ6世(George VI)(Albert Frederick Arthur George)(1895年~1952年)(在位:1936年~1952年)エリザベス2世(Elizabeth II)型の種類は多い。エリザベス2世(Elizabeth II)(Elizabeth Alexandra Mary)(1926年~ ) (在位:1952年~ )イングランド湖水地方のポスト湖水地帯のものは環境の為か? 埋め込み型ですが、刻印はエリザベス2世のものです。基本イングランドのポストは初期の1号の形が踏襲されているようですね ポストの誕生は料金制度が確立されたから・・と言えるでしょう。欧州本土の郵便ポスト設置時期はわかりませんが、本土の方はポスト・ホテルが郵便局を兼ねて居たので、ポストの設置はもしかしたらイギリスより後になるのかもしれません。ところでイングランドのピラー・ボックス(Pillar box)は英国の植民地にも当然設置されていました。オーストラリア、キプロス、インド、スリランカ、ジブラルタル、香港、アイルランド共和国、マルタ、ニュージーランドなど英連邦のメンバーと英国の海外領土。バーレーン、ドバイ、クウェート、モロッコのようにイギリスの郵便局が提供する機関郵便サービスが行われている地域などに残っているらしい。アイルランドのポスト下はエドワード7世(Edward VII)時代のイングランドのポストをグリーンにしたものらしい。現在はアイルランドでは「An POST」と呼ばれる国営会社が運営している。近年のポストに王冠は無い。イングランドの隣にあるアイルランドは最初のイギリスの植民地だったそうだ。1169年。ノルマン人侵攻によりアイルランドはイングランドにより植民地化される。ちょうどポストが誕生する頃、アイルランドは連合法のもとグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の構成国となり、完全に英国に併合された。1922年アイルランド独立戦争が発生。北アイルランド6州は1922年の独立以後もイギリス統治下にとどまったそうだが、カトリックvsプロテスタントの民族宗教紛争が長らく続いていた。現在は平和的解決へ向かっていると言う。何でもするアイルランドの郵便局のマシンは進化?郵便配達事業の枠を超え、各種支払いやパスポート発行など、公共機関としての役割を兼ねた アイルランドの郵便局では運転免許の更新手続きもできるらしい ところでなぜイングランドは赤でアイルランドは緑なのか?イングランドは神聖ローマ帝国圏でポピュラーな黄色に対抗して独自色として赤にしたのではないか? アイルランドはイギリスに対抗して赤から緑に塗り替えたのではないか?ベルギーのポスト一番古そうな感じ ポストと言うより消火栓に見えるけど・・。イタリアのポストイタリアのポストは壁掛け型が多いらしい。なんか小汚いですね。マナーが悪いのかな?デンマークのポストは2色ある。ノルウェーのポストはオレンジ黄色と赤の中間色なのですかね また新しい国のが貯まったら紹介します
2015年12月13日
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Break Time(一休み)タイトル変更しました欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来公的な書類の輸送から発展した郵便事業庶民向け郵便サービスの始まり黄色のポストのルーツは黄色い馬車からいつか黄色のポストの特集をしようと写真を撮っていたが、驚いた事に日本でも最近わざと黄色いポストを設置する所が出てきたらしい。日本の場合は、「黄色い幸せのハンカチ」に引っかけたのか? 幸せを運ぶ黄色いポストとして縁起担ぎと観光誘致が目的らしいが・・。欧州の場合、長い歴史の結果が今の形を作ったわけで、そこに至った理由はまさに必然。今回は元祖欧州の黄色いポストに由来する欧州の郵便事業のルーツを再度紹介。以前紹介した内容に加えて編集しました。2009年07月07日「 馬車と駅馬車 」リンク 馬車と駅馬車2009年12月07日 「クリスマス臨時郵便局 1 (クリストキンドルと郵便ポスト) 」リンク クリスマス臨時郵便局 1 (クリストキンドルと郵便ポスト)フランス シャルルドゴール空港ゲート前のPOST公的な書類の輸送から発展した郵便事業15世紀まで馬車は王侯、高位聖職者、豪商の私有物に限られていたそうです。実際初期の郵便のルーツは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世( 1459年~1519年)のもと、皇帝の領地間などの文章の輸送業務の為に開かれた定期便が初めと考えられています。その時に皇帝マクシミリアン1世に郵便主任を命ぜられたのがフランチェスコ・デ・タシス1世( Francesco I de Tassis)(1459年~1517年)最初のルートは皇帝の弟であるブルゴーニュ公フィリップ(美公)が統治していたブルゴーニュとネーデルラント地域間の物資輸送。補給拠点や馬の交換の中継拠点をルート途中にもうける事で長距離輸送をも可能にしたのである。フランチェスコ・デ・タシスが郵便主任として開拓たルートはブリュッセル=インスブルック、パリ、レンヌ、リヨン、グラナダ、トレド、ブルゴス、ローマ、ナポリ。それは神聖ローマ皇帝を世襲にしたスペインハプスブルグ家とオーストリーのハプスブルグ家をつなぐルートである。「これは商売になる」と考えたフランチェスコ・デ・タシスはマクシミリアン皇帝の許可の元、独占権を獲得。商業ベースでの駅馬車郵便事業を立ち上げたそうです。時は1516年。それは公用郵便をタダで運送する代わりに、民間郵便の独占権を認めてもらう契約だったと言います。西はスペイン、南はイタリア、北はドイツ各地を広範囲に網羅する神聖ローマ帝国内の独占権を1805年まで一人締めです。(18世紀になると各国が国営化。)庶民向け郵便サービスの始まり手紙や小荷物を運ぶ・・と言う庶民の郵便のルーツは駅馬車の登場につながります。中世が安定して商業や手工業が発達。商いが広域に拡大してくると、水路を利用する輸送から、陸上輸送の方にも需要が生まれてきたようで一般庶民も乗る事のできる乗り合いの駅馬車の需用も増えたようです。最初は注文要請された場所まで行くチャーター便だけ。そのうちに一定の区間、(街道や街、港等の往復)を走るようになり、運行時間が決まった、定期輸送便へと進化。長距離便では、何泊もするものも登場。パリ~リヨン間を結んだ駅馬車(Diligence)は、夏は5日、冬なら6日もかかって両都市間をつないだと言われています。※ 以前 「ロンドンバス(London Buses )」で紹介しましたが、ロンドンではこの辻馬車の屋根に椅子を乗せて乗客を増やした・・と言う2階建ての駅馬車の発想が、2階建てバス(ダブルデッカー)の誕生となっています。(ロンドンに辻馬車が登場したのは欧州本土より遅れる事、1625年)フランチェスコ・デ・タシスはこれに目をつけ、もとは手紙だけを配送する荷馬車から客の乗れる少し高級な駅馬車に発展。あるいは、路線が既にできていた他社の駅馬車に手紙を一緒に運ばせたりして事業を拡大して行ったようです。考えれば、これが郵便車のルーツとなります。今に残るクレムスのポスト・ホテル(Post Hotel)また、駅馬車は各都市の主要ホテルを発着場所にしたので、当時郵便物はホテル止まり、あるいはホテルで委託を受ける・・と言う形になっていたようです。それがポスト・ホテル(Post Hotel)と呼ばれる存在です。上の写真は前に「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)」の所で紹介したものです。郵便自転車の色も黄色だったスイスでは現在も郵便バスが存在している。これは郵便物を運ぶ車に登山客を乗せてあげる為にバス化した珍しいパターン。スイスのPOSTオーストリーのPOSTスペインのPOSTスペインのPOSTドイツのPOSTスウェーデンのPOSTスロバキアのPOSTギリシャのPOST黄色のポストのルーツは黄色い馬車からフランチェスコ・デ・タシスは御者に華やかな制服を与え、馬車は全車美しい黄色に塗って走らせたそうです。鮮やかな馬車は宣伝効果も満点で、片手間の辻馬車メールから定期便の配達馬車に変え、さらに、ホテル止めのメールを地元の飛脚に顧客の家まで配達させたと言うことで現代の郵便事業そのものの基礎を作った人なのです。現在に観光で復刻され走っているニュールンベルグの黄色の郵便馬車長く欧州での庶民の郵便物を配送していた黄色の馬車。それ故、「黄色い馬車=郵便」 のイメージは強く、欧州のほとんどの国のポストは黄色になった。そして、御者が馬車の到来を告げる為に鳴らした角笛は、今も郵便のシンボル・マークとなって現在に継承されている。因みにイギリスではポストは赤です。日本はそれを真似したわけですが、イギリスがポストを赤に変えた理由は、その方が霧のイギリスで目立ったからのようです。現在赤いポストに変わっているのは、イギリス、イタリア、ノルウェー、アムステルダム、ベルギー、モナコは確認済みです。アイルランドはグリーンです。容量オーバーなので赤いPOSTは次回。2015年12月「欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポスト」リンク 「欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポスト」
2015年12月10日
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