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back numberのリンク先追加しました。今回は織田信長公の墓所として最も本物が納骨されていそうな墓所の紹介です 本能寺の変の時、すみやかに本能寺にかけつけ、明智軍の目を盗み、信長公の遺骨を持ち出して自らの寺に隠した? (埋葬した)と伝承されている寺なのです。(実はこの寺、近年までほぼ地図にも載っていなかった。)現在、寺は御所の北、寺町通り沿い京都市上京区鶴山町にあります。墓地を有する一見普通の寺なのですが、実は本能寺の変の当時はかなりの広大な寺領(八町四方の境内と塔頭11ケ寺)を有し境内に市もたつ寺町を形成するような大寺だったようです。前に紹介した豊臣秀吉の御土居(おどい)建設と街の整理と言う名目で寺領を大幅に縮小され1587年(天正15年)現在の場所に移転させられている。信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)蓮台山 阿弥陀寺の場所蓮台野にあった阿弥陀寺の役目無縁所 阿弥陀寺浄土宗、蓮台山 阿弥陀寺。法然上人が開山した知恩院が総本山で、その末寺にあたるらしいが、寺の伝承にある信長公との特別の縁については確証が見つからない。もし接点があるとすれば戦没者を弔って回る清玉上人(せいぎょくしょうにん)に信長公より特別の配慮と寄進があったかもしれない事だ。現在の寺は京阪線の出町柳駅から割と近い。寺町通り沿いにある。最初は近江国坂本(滋賀県)にあったとされる。 開祖は清玉上人(せいぎょくしょうにん)1555年、細川家家臣、飯尾元運の協力で近江より上洛。京では管領代(かんれいだい)の旧跡、芝薬師町に寺を創建。(現在の今出川大宮)管領代は細川家のみの官職。細川晴元と将軍足利義輝に仕えた三好長慶(みよしながよし)の管轄下に入ったようだ。少なくとも1560年には室町幕府により千部経読誦も行われているので当初は足利幕府のバックアップもあったかもしれない。しかし1564年に三好長慶が亡くなり1565年に13代足利義輝が亡くなってからは不明。何しろ三好の家督を継いだ甥の義継と、15代足利義昭と彼を擁立した織田信長とは敵対関係になるからだ。本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置されていて、毎年6月2日には「信長忌」の法要があり、堂内も参詣する事ができるらしい。寺領の位置確認です。秀吉の御土居(おどい)の時の地図に足しましたA・・阿弥陀寺 a・・現在の阿弥陀寺(1587年移転)H・・本能寺 h・・現在の本能寺(1592年移転)M・・妙覚寺(織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺)D・・大徳寺(秀吉が葬儀をした寺)J・・聚楽第(1587年築の秀吉の平城)蓮台野にあった阿弥陀寺の役目当初の阿弥陀寺の場所は西は智恵光院通り、東は堀川通り、北は寺之内通り、南は今出川通りあたり。前回紹介したように船岡(舟岡)山麓はもともと遺体捨て場に近い古来の風葬地。仏様の座る蓮華座から転じた蓮華台。略して? 蓮台と野が合体して蓮台野は葬送の地名になった。貴人の火葬場のあった船岡山西の麓(蓮台野)に向かう千本通りは遺体を運ぶ道となり供養の為に千本の卒塔婆が建てられそれが通りの由来に。(紫野とは冥途の入口とも・・)1555年蓮台野に近いこの地に無縁所で,墓所たることを認められて阿弥陀寺が創建されたようだ。阿弥陀寺の山号は蓮台山。つまり最初から供養の寺として創建されている。応仁の乱(1467年~1477年)の後をひきずっていた京都、しかも時は戦国の時代である。阿弥陀寺の清玉上人(せいぎょくしょうにん)は行き倒れの者はもとより、戦場で無くなった兵士の遺骸をこの寺に集め葬り供養していたと思われる。清玉上人はまさしくその為に京都に呼ばれて寺を創建したのではないかと推察する。墓地入り口(工事中でした。)本殿裏手に広がる墓地は表側から見るよりもかなり横に広い。それにしても墓地バックの家々はいただけない昔は御土居(おどい)があった場所かもしれない。誰かが3000坪あるらしい・・と言っていた。立て札には 「織田信長公 本廟」とある。 左手側に家臣森蘭丸らの墓石が並ぶ。森蘭丸はちゃんと今もそばに居る。1917年(大正6年)、信長公の位階追陞(いかいついしょう)の件で宮内庁が来訪。宮内庁の公式記録では1582年(天正10年6月)に従一位太政大臣を贈位贈官。1917年(大正6年11月)に正一位を贈位 と、なっているらしい。これは信長公の廟がここが本物だと認定された事を意味している。右が織田信長の墓、左が二条で切腹した嫡男 織田信忠の墓。本当に二人の遺灰が入っているかは定かではない。(移転もしてるし・・。)ただ、清玉上人が本能寺や二条より戦没者の遺骸を引き取り弔いをして旧 阿弥陀寺にて埋葬された事は確かとされる。無縁所 阿弥陀寺無縁所と言うのはおそらくこの寺がどこの権力下にも属していない・・と言う事で、寺内不可侵の権限を認められた寺だったと言う認定?だから宗派関係無く、敵も味方も関係無く、誰でもこの寺に入る事が許され、逆に1度なりと入った者は寺によって守られた・・と推察。(だから信長の遺灰を渡さなかった? )戦いがあれば遺骸の収容に戦場に赴き、敵味方関係無く弔い、災害が発生している場所に赴く事もあったろう・・。本能寺の変ははまさにそれだったかもしれない。本能寺の変の時1582年(天正10年6月2日未明)明智光秀は主君織田信長公を急襲、本能寺に火の手が上がる。寺が燃える黒煙は阿弥陀寺からも見えたはずだ。二条の屋敷か? あるいは妙顕寺か? 妙覚寺か?清玉上人は阿弥陀寺の塔頭の僧侶や門徒を連れて黒煙の方向に進む。本能寺が現場だと言う事に気付いたのはおそらく近くに来てからの事だったろう。何にしても阿弥陀寺から本能寺まで徒歩で、かつ荷車を引いていたとしたら1時間じゃすまなかったかもしれない。上人が到着する頃にはすでに事は収まり寺は完全に焼け落ちた後だったと推察できる。(ひっとすると種子島からの火薬の備蓄もあったろうから爆発も起きたかもしれない。)北から近づくので本能寺境内は当然裏手門が近い。阿弥陀寺住職が死没者の遺骸を引き取りに来た・・と言えば中に入る事は容易かったはずだ。なぜなら阿弥陀寺はそう言う寺だったからだ。そして、そう言う和尚 故、たまたまどさくさの中、信長公の家臣より? あるいは本能寺住職により遺骸を預かった可能性がある。実際、上人は明智光秀の陣を訪ね遺骸の収容の許可を取っている。「本能寺にて討死にせる者と、同じく二条城にて自刃せる嫡子信忠公、並びに討死した者らの供養する事を申し出、百十余名を収容し、各々法名を授与し丁重に葬り、合祀位牌を作成し弔った。」次回 阿弥陀寺説の疑問つづくリンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)back numberリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓
2015年06月25日
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back numberのリンク先追加しました利休切腹の要因となった木彫は利休と共に処刑されたようですが、江戸期に利休の像が造られ、今再び金毛閣楼上に安置されている・・と言う事です。そもそも利休の像は自身が造ったのではなく大徳寺側が造り置いたものと思われます。(裏目に出たが利休への感謝の気持ち?)だからこそ? 利休は秀吉の問い詰めに対して何も弁明しなかったのかもしれません。何しろ秀吉と共に仲の良かった大徳寺117世、古渓宗陳(こけいそうちん)和尚もまた秀吉の怒りを買い1588年に大隅(九州)へ流されているのです。(1590年に赦免され帰洛。利休の切腹は1591年)もし大徳寺が置いたものとわかれば即刻大徳寺はお取りつぶしになっていたでしょう。(大徳寺自体が「存亡の危機」と認識していたようです。)「黙して語らず」利休は大徳寺と尊敬する古渓宗陳和尚を守ったとも考えられます。しかし、秀吉の怒りはそれが理由ではなかったと思います。例えば古渓宗陳和尚の島流しは秀吉の母(大政所)の菩提寺を大徳寺内に建立する事に意見した事だったと思われます。(菩提寺は先祖を弔う寺で、まだ生きている大政所を祀る場所ではありませんし、出家したわけでもなかったようですから・・。)秀吉は古渓宗陳和尚を九州においやった年(1588年)母の為に天瑞寺を創建しています。(明治維新後に廃寺となり現在その跡地は龍翔寺となっている。)前回淀殿の第一子、鶴松の事に触れていますが、秀吉を振り返ると、やたらとあちこちの神社仏閣で祈祷したり寄進したりと無節操に莫大なお金を使っている事が伺えます。大仏の事もしかり千人法要もしかり・・です。神頼みが度を過ぎていた? 寺の権力と力に悩まされた信長公の時代を振り返れば彼らが謀反を起さないような封じ込めの策があった事は解りますが、病気平癒の祈祷の連発は問題外です。まして本来神と仏は別物なのに節操なく手を出す秀吉に和尚として、あるいは友として、参謀として古渓宗陳和尚や利休が意見したのでは? と思えてなりません。老境の秀吉に彼らの忠言を真摯に受け止める器が無くなっていた・・と言うのが案外真実かもしれません。信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)信長公の葬式古の京の三大葬送地大徳寺塔頭 総見院さて、今回は豊臣秀吉が主君織田信長を祀る為に建立した大徳寺塔頭の一つ、総見院を紹介します。そこには織田信長はじめ彼の家族の供養塔が並んでいました。(大徳寺は春と秋に特別一般公開をするようですが、通常は大徳寺本坊を含めて塔頭も非公開が多い。)そもそも大徳寺は遺体無き信長の葬儀を秀吉が盛大に執り行った場所です。そして総見院は信長公の菩提を弔う為に秀吉が寄進して建立した秀吉の都合による菩提寺です。信長公の葬式1582年、本能寺の変(天正10年6月2日)の100日後、10月11日に秀吉主催の信長公の大葬礼が催されました。それは足利将軍の七仏事の作法にのっとって7日間盛大に執り行われたと言います。喪主は秀吉の養子になっていた信長の四男、秀勝(羽柴秀勝)(1568年~1586年)で、葬送の時、彼は柩の後方を担ぎ、秀吉が位牌と太刀を持ったらしい。(彼は名目上の喪主であった。)葬儀の導師は古渓宗陳和尚。柩の中には香木で彫った信長像と本能寺の灰が入れられ荼毘に付されたと言う。(木彫は香木なのでそれほど大きな物ではなかったはずだが、その香りは京都の街に広がり、秀吉が信長公の葬儀を行っている・・と言う事を京都中に知らしめたらしい。)古の京の三大葬送地前々回「秀吉の御土居(おどい)を紹介しましたが、大徳寺は御土居の中でも御所より上の洛北にあります。実はこの界隈は「古の京の三大葬送地」として知られた場所だったようです。蓮台野・・船岡山麓は古来は風葬地。後に皇族の火葬など荼毘に付される場所だったそうです。また大徳寺は前回紹介したように当時の戦国大名にとって重要な寺。洛中にあり、身分の高い人達の葬送の場所はここしかなかったと思われます。他の二つの葬送地は洛外(秀吉の御土居の外)鳥辺野(東)・・秀吉の墓で紹介した阿弥陀ヶ峰から清水山にかけての一帯。「秀吉の墓所(豊国廟)」の所では書かなかったが、阿弥陀ヶ峰は冥途の入り口として平安時代から葬送地として絶えず煙の上がる場所だったそうです。化野(嵯峨野)・・古来風葬の地だった化野は遺棄され野ざらしになった遺体が散乱。それを哀れに思った弘法大師が建てた無縁仏の供養寺が後に法然により化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)となったと言う因縁の地。大徳寺境内図から赤で囲った所が大徳寺本坊。下の円・・千利休が切腹する一因となった山門。上の円・・国宝の唐門。ピンク・・総見院大徳寺塔頭 総見院1582年、(天正10年10月11日)の大葬儀後、秀吉は一周忌に間に合わせるべく、信長の菩提を弔う為の寺を大徳寺内に建立する。それが総見院である。1583年、(天正11年)建立。開祖は葬儀を執り行った大徳寺117世の古渓宗陳和尚。正門と土塀は創建当時のままらしい。鐘楼は信長公臣下の堀久太郎秀政が信長公の為に鋳造したもので創建当時のもの。 重要文化財塔頭とは、その寺院の敷地内にある門徒の僧侶の個人的寺。大徳寺の場合、戦国大名達がこぞって塔頭を建立して菩提寺とした所が多いようだ。それ故、利休に縁ある大徳寺塔頭の見せ場はそれぞれの寺の持つ茶室である。総見院にも3つばかり庵がかまえられている。奧の堂に信長公の位牌や木彫が安置されている。手前の塚は茶筅塚である。茶筅塚は感謝の意を込めて使用の終った茶筅を焚き上げ供養する所。(茶に縁ある寺らしい)1585年秀吉は大徳寺にて大茶会を開いていて、この総見院で秀吉が茶を点てたと言われる。その時にもらったのか? 利休が秀吉に贈ったと言う侘び助ツバキ(推定樹齢400年)が今もある。(日本最古の侘び助として京都市指定天然記念物になっている。)本堂内撮影禁止の為に外から撮影したものを拡大してみました。古渓宗陳和尚座像の左の戒名が織田家の物。その左隣に信長の木彫の座像があるが撮影禁止。衣冠帯刀の信長の木造座像(高さ三尺八寸 約115cm 等身) 重要文化財1998年指定大徳寺パンフより天正11年5月、七条大仏師宮内卿法印康清作 当時一級の仏師であり、生前の信長公を見ている人物であった事から本人に限りなく似ているのではないか? とされている。一周忌法要の為に秀吉の依頼で製作されたものとされ、束帯姿なのは亡くなってから冠位と位階があげられている為。贈・太政大臣、右大臣、内大臣位階も生前は正二位で、亡くなった後に贈位・正一位に任ぜられている。寺の敷地北側に墓地があり、その一番奥に織田信長公一族の七基の五輪石塔が並んでいる。みんなほぼ同じ形なのだが、真ん中のが信長公のもの。戒名は 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士実際どれかにお骨は入っているのだろうか?正室の帰蝶様や側室お鍋の方のもありました。正室である斎藤道三の娘、濃姫。ドラマにはよく出てくるが実際は嫁いだ後の事が不明。死没の年代も不明。そもそも帰蝶(きちょう)の呼び名は後世誰かが「胡蝶(こちょう)」を誤読したのでは? と考えられている。(確かに帰蝶は不自然です。)次回 信長の墓所 3 (阿弥陀寺)です。レンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)back numberリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年06月19日
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茶道の完成に至る重要な位置を占めている大徳寺です。改めて目次も追加し加筆もしています。写真も追加しました。「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の紹介の前に先に大徳寺の紹介を簡単に挟みます。大徳寺は茶人、千利休との関係から当時の戦国大名にとって重要な寺でした。大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)大徳寺と一休さんと茶人大徳寺を救った一休さん茶の道を造った村田珠光(むらたしゅこう)わび・さびを造った武野紹鴎(たけのじょうおう)大徳寺と千利休と戦国大名禅僧の茶人に習った千利休大徳寺と戦国大名の係わり三門(金毛閣)と利休の切腹秀吉と利休の関係聚楽第の破壊の真相? 利休との関係あり?開山、開堂は鎌倉末期1315年(正和4年)。開山禅師は大燈国師(だいとうこくし)宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師。臨済宗大徳寺派の大本山である。(広い寺域に、別院2ヵ寺。塔頭21を有している。)勅使門(ちょくしもん) 重要文化財前後唐破風、左右切妻、屋根檜皮茸の四脚門。大徳寺と一休さんと茶人大徳寺を救った一休さん創建当初は、後醍醐、花園両天皇からの帰依を受けるも、足利幕府の時代は幕府との折り合い芳しくなく、これと言ったスポンサーもなく、在野(ざいや)の禅院となっていた。1467年~1477年に勃発した応仁の乱の時はすでに大徳寺もほとんど灰と化していたようだが、その再建を担った住持が誰もが知っている大徳寺47世(1474年)、一休宗純和尚である。トンチで有名な「一休さん」ですよ。※ 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)和尚 1394年2月1日(明徳5年1月1日)~1481年12月12日(文明13年11月21日)仏殿 重要文化財一休さんの人脈により堺の豪商から資金を調達。1479年には仏殿を再建。現在の仏殿は1665年に再度再建されたもの。茶の道を造った村田珠光(むらたしゅこう)この一休和尚の元に参禅したのが「侘び茶の開祖」村田珠光(むらたしゅこう)だそうです。※ 村田珠光(むらたしゅこう)(1422年or23年~1502年) もともと連歌をたしなむ茶人だった珠光が30歳になって禅僧になったのである。それにより高級な唐物道具を必要とする従来の茶のスタイルとは全く違う簡素ながら精神的な深みを追求する茶禅一味の精神を追求した茶道ができた。これが後に利休が言う「道は珠光」である。以降、大徳寺はもとより禅僧と茶人の深い関わりが寺に人を呼ぶ事になります。わび・さびを造った武野紹鴎(たけのじょうおう)そしてつづく大徳寺90世、大林宗套(だいりんそうとう)に参禅したのが茶人、武野紹鴎(たけのじょうおう)です。※ 武野紹鴎(たけのじょうおう) (1502年~1555年) もとは堺の豪商の肩書きを持つ茶人で、若い頃に連歌を習っていた事が、奇しくも茶道の新たな道の提案に繋がったようだ。わび・さびの原義は武野紹鴎の考案した茶室のサイズから由来する。4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称したらしい。※ 千利休(1522年~1591年)は17歳の時に武野紹鴎に師事していたらしい。大徳寺と千利休と戦国大名「術は紹鴎、道は珠光より」 by千利休禅僧の茶人に習った千利休先輩茶人武野紹鴎(たけのじょうおう)と村田珠光(むらたしゅこう)の茶湯の術と道を極め完成させたのが千利休である。※ 千利休(せんのりきゅう) 1522年(大永2年)~1591年4月21日(天正19年2月28日)彼もまた堺の商家出身。若い頃から茶の湯に親しみ、先に述べた師、武野紹鴎(たけのじょうおう)と共に茶の湯を改革。もともと堺の南宗寺に参禅していたようで、その本山が大徳寺なのであった。大徳寺と戦国大名の係わり千利休は大徳寺111世、春屋宗園(しゅんおくそうえん)や大徳寺117世、古渓宗陳(こけいそうちん)に帰依。時を同じく古渓宗陳と豊臣秀吉の信望は厚くそこに大徳寺和尚と秀吉と千利休の密接な関係が生まれたようだ。もっとも秀吉より先に利休に関わっているのは親方である織田信長である。織田信長が堺を直轄地にした時より親交を持つ。1575年10月(天正3年)信長は堺の茶人17人を招き、妙覚寺で茶の湯の会を催している。その時の茶頭が千宗易(せんそうえき)。後の千利休居士(せんのりきゅうこじ)である。白天目茶碗、九十九髪の茶入れ、乙御前の釜、三日月の茶壺、煙寺晩鐘の掛け軸など名品にかこまれたこの茶会は「それぞれ一生の思い出となるありがたい茶会であった」と太田牛一は信長公記で語っている。※ 信長公記(しんちょうこうき)とは、信長旧臣の太田牛一が記していた織田信長の記録。茶の湯は戦国期に武士のみならず富裕な商人にまで波及。その中から茶人が排出されたわけだが、もともと公家の嗜みであった茶の湯。それを楽しむ事自体がステータスだったと言える。このように千利休と関係の深い大徳寺に戦国大名がこぞって寄進し塔頭を建立。大徳寺は潤ったのである。三門(金毛閣)と利休の切腹大徳寺 三門(金毛閣) 重要文化財千利休が秀吉により切腹させられる要因の一つになった三門or山門or金毛閣。もとは応仁の乱後に一休宗純の参徒、連歌師宗長などが一階を寄進。後に利休が2階増築分を寄進して金毛閣と名付けられた。山門・・龍宝山の門三門(三解脱門)・・空門、無相門、無作門「なぜ利休のまたの下を通らなければならないのか?」完成記念に楼上に等身大の利休像が設置された事が秀吉の怒りをかった発端と言われている。かくして茶人 千利休は1591年4月21日(天正19年2月28日)、聚楽第にて切腹させられるのである。その首はさらしものにされ、利休の木彫で踏みつぶされたと言われている。※ 切腹の裏話として「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の冒頭でも書いています。リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)裏側の仏殿前から撮影。秀吉と利休の関係1582年(天正10年6月)、天王山の戦いにおいて秀吉が勝利すると利休はねぎらいの茶を天王山麓の「妙喜庵・・茶室(待庵)」でたてている。1587年天正15年には秀吉の主催した北野大茶湯で主管を勤め、聚楽第の作庭にも参加。一説には千利休も政治に携わるなど二人の密月は続いていたはずだった。それが突然の謹慎からの死罪宣告。しかも世に代表する茶人である。戦国大名らもこぞって恩赦に走り回ったが結局刑は執行されてしまった。秀吉との間にどんな確執が生まれたと言うのだろう?聚楽第の破壊の真相? 利休との関係あり?以前聚楽第について少し触れてますが聚楽第は秀吉が政務と居城をかねて京都の町に築いた平城です。1586年(天正14年)2月に着工~翌1587年(天正15年)9月完成。作庭には利休があたり、茶室を造り、聚楽第内に利休の居もあったと言う。秀吉自身が彼を気に入り公儀以外の一切をまかせていた関係がくずれるのは、淀殿に鶴松が生まれた事(1589年 天正17年)からではないだろうか?鶴松は1591年(天正19年)8月に短い生涯を送っているのであるが、利休が切腹させられたのが天正19年2月。それは鶴松が病に倒れて秀吉が病気平癒の為に神社仏閣に加持祈祷を連発していた頃の事だ。もしかしたら利休は親ばかになってメチャクチャやっている秀吉に何か諫める事でも言ったのではないか? 鶴松は利休の切腹後に結局亡くなり、その年1591年(天正19年)12月に甥の豊臣秀次に家督を譲ると同時に聚楽第を手放している。利休の亡くなった聚楽第に居すのが嫌だったのではないか?1593年8月29日(文禄2年8月3日)淀殿が第二子、秀頼を出産すると秀吉は甥の秀次を追放(1595年7月)して切腹させた。そして翌月8月に聚楽第を徹底的に破壊している。竣工してたった8年で消えた幻の館、聚楽第。なぜか? それが疑問だったが、聚楽第自体が利休の作品だったのでは? と言う気がしてきた。利休の面影ある(存在を感じる)聚楽第が嫌で消し去るようにメチャクチャに破壊してしまったのではないか? この理論、当たらずとも遠からず・・と言う気がする。聚楽第に関する資料が無いのも秀吉が抹消したからなのではないか?当時の聚楽第と周辺の様子を伝える貴重な資料として桃山当時、描かれた六曲一隻(ろっきょくいっそう)の屏風。(作者不明)をウィキメディアから借りてきました。三井記念美術館所蔵 聚樂第屏風圖 部分のさらに部分拡大聚楽第の場所は御所より西、現在の堀川通りより西あたり。聚楽第の推定場所2018年01月、陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)を祀る晴明神社(せいめいじんじゃ)を紹介した事がある。晴明神社の二の鳥居をくぐった所にある晴明井は、かつての聚楽第で千利休も茶の湯に利用していた水と言われている。かつて聚楽第内にあった千利休の屋敷跡の碑リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)大徳寺唐門 撮影禁止の為に大徳寺の本から借りてきました。 国宝「桃山の三唐門」として前に紹介した京都の国宝三大唐門の一つで、聚楽第にあった門だと伝えられている。前の唐門は明智光秀の寄進した門であったらしい。それも本能寺の変の直後に白銀千両が届けられたと言う・・。次回、「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2015年06月13日
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リンク先名変更1576年(天正4年)2月、織田信長は安土城に転居した。(現在の滋賀県近江八幡市)つまり本拠とする安土城が完成したと言う事なのだが、信長はこの時に京都にも上洛の時に使用する屋敷の建設を思いついたようだ。(信長公記より)屋敷は調度、関白の二条晴良の屋敷跡の庭地を気に入り工事に当たらせた。余談であるが、この頃は大阪で石山本願寺の僧兵が挙兵し天王寺を奇襲。それに対処していた頃である。この頃信長が上洛時に宿所にしていたのは妙覚寺である。前回紹介したが、変の時に織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺である。上洛する時の為に京に屋敷を造るのは自然な事。信長もそれに習って屋敷を建てたのか? と思いきや、1577年(天正5年)7月より上洛時は二条の新邸に移ったものの、屋敷の完全なる完成を見るとあっさり皇室に献上してしまうのである。1579年(天正7年)11月(誠仁親王)に二条の新邸をあけ渡すと、信長は再び妙覚寺に居を移している。1580年(天正8年)2月。最初に上洛した時の宿所はやはり妙覚寺であったが、その5日後に本能寺に宿坊を変えている。日蓮法華の妙覚寺はもともと妙顕寺の僧であった日実が教義や後継問題の対立から離脱して開いた寺である。また、本能寺も同じく教義の解釈から妙顕寺に破却されて日隆が創建(1415年)した法華宗の寺であった事から、妙覚寺と本能寺は親しく繋がっていた可能性がある。二条の新邸建築以降は、上洛が重なる時は信忠に妙覚寺を譲り、信長は本能寺に宿坊したのではないか?と推察。本能寺に度々立ち寄るものの、本能寺の資料による本能寺への投宿は4回だけだそうだ。回数的に言えば妙覚寺のが圧倒的に多い。だからこそ4回目の本能寺投宿は府に落ちない・・ 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)法華宗の寺、妙顕寺、妙覚寺、本能寺本能寺の再建織田信長と本能寺と種子島と鉄砲現在の本能寺は法華宗本門流の大本山となっている。本能寺の「能」の字「䏻」はヒでなく去になっている。これは度重なる火事をきらって・・こちらを使用していると言われている。寺町通りから入ると右に宝物館があり、正面に本殿が見える。ビルの左側は本能寺会館である。本殿と言ってもここに信長が宿坊していたわけでは無いし、まして場所も全く関係ないのであまり感慨はない。ほとんどみんなが目指すのは、この右脇の奧に位置する信長廟である。信長廟前の拝殿河原町通りの路地から入ると信長廟の裏手にあたり、ビルが途切れたすぐ右が信長公の廟となっている。(実際はお墓ではなく供養塔であるが・・。)右の石柱は350年目の祈念碑である。信長公の供養塔1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)の一ヶ月後、3男、織田信孝が父の菩提を弔う為に建立。中には信長公の太刀を納めて供養としていると言う。なぜなら、本能寺で織田信長のお骨は発見されなかったからである。(これについては阿弥陀寺の回で・・。)本能寺の再建本能寺自体の再建は同年1582年(天正10年10月)速やかに始まり、秀吉からも山城の国鴨川村40石の朱印地を寄進されたと言う。また大納言からの支援の他、種子島からも浄財が運ばれたと言う。その後1592年に前回紹介した秀吉の都市改革で移転を余儀なくされ現在地に。割と新しい物に見えるが・・。信長公の供養塔の左隣が変の時に戦没した諸霊の供養塔森蘭丸、兄弟の名前ももちろん載っている。いつもなら慎重な信長が、この時、ただのお小姓衆を30人ほど連れて本能寺に宿坊していたそうた。まるでお小姓衆の慰安旅行に思えてしかたがない なぜ彼は油断したのだろう?織田信長と本能寺と種子島と鉄砲信長、本能寺への3度目の宿坊が、石山本願寺に勅使を贈る直前1580年(天正8年)2月である。目的は武器の調達だった可能性も・・。まもなく、石山本願寺は白旗を揚げて大阪を撤退する意志を固めてきている。織田信長と言えば、長篠の戦い=鉄砲である。長篠の戦い1575年(天正3年5月)では鉄砲を用いて武田軍に勝利した事で知られているが、本能寺もまた鉄砲と火薬を調達できる独自ルートを持っていたのである。本能寺の資料に寄れば1462年~1486年にかけての法華宗の布教は種子島まで到達していたそうだ。日典上人の殉教。続く日良上人の努力により種子島、島民全てを本門法華宗に改宗させていた。そして1543年種子島に鉄砲(火縄銃)と火薬が伝来すると本能寺の有力檀家である島主種子島氏が本能寺を通じて足利将軍や管領・細川晴元に献上。さらに「本能寺の変」後には、本能寺として秀吉にも火薬を送っている事が寺の文章に残っているそうだ。鉄砲の日本伝来と普及に関して、その信憑性に疑問もあるが、確かに本能寺には鉄砲と火薬を手に入れる独自の種子島ルートがあったのは事実のようだ。鉄砲の普及に関しては当然、堺の商人の活躍があったのではないかと思う。宣教師達は16世紀後半の堺をベニスのようだと称している。そして富裕で利便のよい堺を狙って武将たちがやってくる堺の商人が屈服したのが織田信長であり、信長、長篠の戦いの鉄砲は、堺の鉄砲鍛冶の造った日本製だったと言われている。(大阪城を築くのは秀吉ではなく信長だったのだ。)しかし火薬の材料の一つ硝石だけは輸入に頼らざる終えなくて明や琉球から輸入されていたそうだ。信長が必要としたのは種子島経由の火薬ルートなのかもしれない。天正10年頃妙顕寺、妙覚寺、本能寺は非常にご近所なのである。そして信長が布教を許し庇護したイエズス会の南蛮寺もまたすぐお隣さんである。ただ、小説「信長の柩」で出てきた南蛮寺と本能寺を結ぶ地下通路は現実には不可能と思われる。なぜなら両者の間には西洞院川(にしのとういんがわ)が存在していたからだ。ところで前にも紹介していると思いますが、1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)当時季節と暦(太陰太陽暦である宣明暦)にだいぶ差異が生じていたのでユリウス暦orグレゴリオ暦にすると実は本能寺の変は1582年6月21日になるそうです。信長の墓所つづくリンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年06月04日
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