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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ラートハウス、この後、塔、装飾、レストランを予定していますが、今回は塔で終わりそうです。ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)新市庁舎(Neues Rathaus)市庁舎塔(Rathausturm)塔に上れるのを知っている人は案外少ない。ラートハウスの1階には市のインフォメーションもあるが、他は一般の店舗になっていて、その地階には有名なビアレストラン、ラッツケラー(Ratskeller)が入っている。塔の下は中庭へのゲートでもある。ラートハウスの内部を少し紹介今も現役の市庁舎である。階段の反対側にエレベーターが付いている。展望塔に上る人はこれで1度4階に上がり乗り替える仕組みになっている。下は塔のオープン時間と料金の案内。だいたい毎日、午前10時から午後7時くらいまで。昨年の値段表であるが、大人は2.5ユーロ。料金は4階の乗り替えの前に支払うようになっている。展望所は時計の上の所に位置している。360度塔の周りを一周して景色を楽しむ事が可能。外側からの写真は前回の写真を見てね。それにしても雨に祟られているようで、タワーに上がった時は結構な雨が降っていました。降る頃にやっと晴れて来た写真を載せています。南東方面の旧市庁舎(Altes Rathaus)南南東の聖ペーター教会(Peterskirche)前々回に紹介したノイハウザー通りからカールス門に繋がる通り。緑の屋根の建物はデパート。西から北西方面、カールス門方向。見える教会はフラウエン教会(Frauen Kirche)北側はラートハウスの中庭と建物。外から見ると解らないが、ラートハウスはほぼ四角形ラートハウスの中庭からのタワーどうしても今日載せたいのでこのまま行っちゃいます。Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計) ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月29日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)新市庁舎(Neues Rathaus)カリヨン(carillon)とグロッケンシュピール(Glockenspiel)ラートハウスの仕掛け時計新市庁舎(Neues Rathaus)の時計塔(下から)いくつかあるゲートの上には必ずバイエルンの紋章である僧侶が装飾されている。上は時計塔の下のゲートであるが、この塔に昇る為のゲートはここではない。時計塔は鐘楼の中程に位置している。 Tower・・の部分が展望階の部分ところで前回、このラートハウスは1867年~1908年の建築と紹介したが、実は2期に分けられて建築されている。東部(写真右)側が1867年~1874年にレンガ造りで建てられ、塔のある西部(写真左)側が1899年~1908年にわたって建築されている。建築としては、フランダース地方の市庁舎を手本にしているそうだ。塔の高さは85m塔のトップにはやはりバイエルンの修道僧がいた。(肉眼では見えません。)ちゃんと鐘のカリヨンはついているようだ鐘は全部で43個。総重量7トンあるそうだ。カリヨン(carillon)とグロッケンシュピール(Glockenspiel)たくさんついた鐘を鍵盤で操作して音を鳴らし演奏するカリヨン(carillon)は前にブルージュで紹介しましたが、(2014年3月「ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン)」)、その鍵盤(バトン)部分が無くなり、直接鉄筋をたたいて音を鳴らす(カリヨンの簡易式)に発展したものが、ドイツのグロッケンシュピール(Glockenspiel)のようです。※ そもそも当初は、鍵盤はあったらしいが、壊れたのでその行程を飛ばして金属棒をたたく事になったらしい。それ故、グロッケンシュピールは鍵盤打楽器に分類されるようだ。しかし、鍵盤打楽器としては、鉄琴やベルリラに相当するようであるが、当初のカリヨンやそれを用いた仕掛け時計なども今はグロッケンシュピールとして括(くく)られているようだ。新市庁舎の時計塔にあるグロッケンシュピール(Glockenspiel)は、鐘とからくり人形と時計の付いた複雑なもの。※ 市の説明書が無いので今現在の動力は不明。時計の上の部分が展望台。360度ぐるりと見わたせる。※ こう見えてエレベーターが設置されていて上までいける。それにしても最初から市役所として建てられているのに・・フランボワイヤン調である。古く見えて建設されたのは1867年~1908年とかなり新しい。エッフェル塔だって1889年には存在していたのだから、たぶん中には鉄骨が入っているはず。ネオ・クラシックと言うが、実はわざと歴史があるように古い意匠で造った・・と言った方が正しいのかもしれない。その為か? 建物に多数据え付けられている装飾のオブジェにビクトリア時代の怪物の趣向が見えるのだ。上はラートハウスの正面左の角。別の回にまたいろいろ紹介しますからくり人形のステージ部分カラクリ人形のステージは2段に別れていて、それぞれテーマが違う。ラートハウスの仕掛け時計上段は1568年に行われたバイエルン公ウイルヘルム5世(Wilhelm V)と公爵令嬢レナーテ・フォン・ロートリンゲン(Renata von Lothringen)との婚姻を記念して行われた馬上槍試合が再現されている。それにしてもなぜ400年前の彼なのか?前ケルン選帝侯がプロテスタントに転向して内乱を起こしたことからウイルヘルム5世はカトリックを死守してバイエルンに対抗宗教改革を起こしている。またケルン選帝侯をヴィッテルスバッハ家の世襲としたり、カトリックの大学を創設したりと尽力している事から英雄視されていたのだろうか?下段は桶屋のダンスである。延々とクルクル回るだけなのでストーリー性は無い。内容についてはいろいろ異なっていてはっきり解らないがペストが猛威を振るっていたさなかも桶屋が踊りを踊り続けた・・と言う話に由来しているようだ。ただ桶屋がビール樽を造る桶屋と言う説もあるし、棺桶屋だと言う説もある。人形はほぼ等寸で、青銅製、1体75kgあるそうだ。口上とラッパが吹かれ槍試合は開始される。青白の馬がバイエルンで赤白の馬がートリンゲンを表しているらしい。すなわち青と白側がバイエルン公ウイルヘルム5世(Wilhelm V)であり、赤と白側が公爵令嬢の出身ロートリンゲンを表している。青白側のバイエルンが勝ち赤白側の騎士は倒れる。先に紹介したようにただ回っているだけなのである。一説には神に感謝し市民をはげます為にこの踊りはあり奉納されいるらしいのだが、総じて意味が良くわからない。もしかしたらラートハウスの地下にはビールを飲む酒場が存在するので、ビール職人が陽気に踊っているところかもしれない。つづくBack numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場) ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月20日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)民族衣装 レーダーホーゼン(Lederhose)新市庁舎(Neues Rathaus)マリエン広場(Marienplatz)と30年戦争旧市庁舎(Altes Rathaus)前回、ミュンヘンの誕生はハインリッヒ獅子公(1129年~1195年)が塩の独裁権を獲得して1158年に開いた商業都市だと言う事を紹介しましたが、実はそれは1180年までの話です。ハインリッヒ獅子公は忠誠を誓っていた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世(赤髭王バロバロッサ)の怒りをかい選帝侯会議で所領を奪われバイエルンから追放。フリードリッヒ1世がハインリッヒ獅子公の代わりにバイエルンの領地を与えたのがヴィッテルスバッハ家のオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)です。1180年以降、1918年までヴィッテルスバッハ家がバイエルンに君臨する事になったのです。※ 神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世は1189年 第3回十字軍の総司令として最大規模の十字軍兵士を率いて出征したものの聖地に辿り付く前に溺死(1190年)してしまった王様です。2015年1月「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)」で少し紹介しています。民族衣装 レーダーホーゼン(Lederhose)をはいた紳士南バイエルンからチロル地方の男性が着用する民族衣装。(今は祭礼服)ハーフパンツは革製である。たまたま通りかけた祭りに着用のおじさんを見つけて撮影させてもらった。着用のレーダーホーゼン(Lederhose)は上等な物のようだ。残念ながら彼の奥様は普通に洋装でした 新市庁舎(Neues Rathaus)とマリエン広場(Marienplatz)新市庁舎(Neues Rathaus)前回紹介したノイハウザー(Neuhauser)通りの先に昔からのミュンヘンの中心地である市庁舎(ラートハウス)のある広場にたどり着く。マリエンプラッツ駅のほぼ真上にあるこのマリエン広場の北側正面に、見るからに古そうなネオ・ゴシックの市庁舎があるのだが、これは1867年~1908年に建造された新市庁舎(Neues Rathaus)なのである。私的には、このラートハウスの壁面や樋(とい)に無数に付いた奇っ怪なオブジェやガーゴイルに非常に興味をそそられたのである。(1日見ても飽きないほど面白いのがいろいろあるから別の回にタップリ紹介したい。)が、たいていの観光客のお目当ては、この新しい市庁舎についた時計仕掛けの人形劇にある。詳しくはこれも次回にしたいが、毎日午前11時、午後は5時に仕掛け人形は動き、それを見る為に広場には人が集まるのだ。また、市庁舎の塔からの絶景を楽しむ事も可能であるし、仕掛け人形をより良く見る為に、これまた超古い聖ペーター教会の鐘楼(階段のみ)に昇る事も可能だ。(両者とも昇ったので適当に紹介していく予定。)聖ペーター教会からの新市庁舎とマリエン広場マリエン広場(Marienplatz)と30年戦争1638年に広場に設置されたマリア像(Mariensäule)に因んで名付けられたと言うマリア広場がマリエンプラッツ(Marienplatz)である。実はこれが設置された理由はドイツ全土が戦場となった「30年戦争(1618年~1648年)」に遡る。17世紀、神聖ローマ帝国内で勃発したプロテスタントとカトリックの戦いはやがてヨーロッパ全土を巻き込む国際戦争に発展。もはや宗教戦争と言うよりは、国家間の小競り合い、欧州の覇権を有する権力闘争に発展した。大きく見ればハプスブルクvsフランス、スウェーデンで、ドイツはその両者の狭間で翻弄させられたのである。マリア像は1638年と言う30年戦争中に建立されている。どうもこの像は選帝侯マクシミリアン1世の願掛けにより建てられたようだ。(ミュンヘンとランツフートが戦場になる事を免れる事を願う?)実際スウェーデンに占領されるものの、金銭により被害を最小限に留めて戦いは終結した。バイエルンの守護神としてのマリア崇拝がここに始まったと言うわけだ。。三日月の上に立つ金の聖母マリアの像もともと像はフラウエン教会にあったものらしい。マリア像の台座にはプットがヘビやドラゴンと戦っている像がついている。30年戦争は、ずっと続いていたわけではないものの、戦死、疫病、饑餓による死で人口が半分に減ったと言う大被害を出した。プットの先の敵はそれらを暗喩したもののようだ。新市庁舎からの聖ペーター教会(Peterskirche)方面マリエン広場(Marienplatz)からの旧市庁舎(Altes Rathaus)旧市庁舎(Altes Rathaus)写真はラートハウスの塔からの撮影。1470年ヨーク・フォン・ハルスバッハにより建てられた旧市庁舎。当初はミュンヘン最初の城壁の一部だった・・とも・・。現在は戦後の修復工事後からミュンヘン市客の接待なとで使用されいるらしい。旧市庁舎の表?新市庁舎(Neues Rathaus)につづくback numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り) ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月15日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)ミュンヒナー・キンドル(Munchner Kindl)通過税の徴収と商業都市ミュンヘン誕生カールス門とノイハウザー(Neuhauser)通り改めてミュンヘンの起源から・・。2015年2月「ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)~4 (ザンクト・ペーター修道院)」の所で、ザルツブルグが修道院と塩により繁栄した街である事を紹介していますが、ミュンヘン(München)もまた修道院と塩により繁栄した街なのです。ミュンヘンはムニヘン(修道士達の家)から由来した地名であり、最初にきっかけとなったベネデイクト会派の修道院の門前町として栄えた街です。以前「ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)」では、古代ローマが滅びた民族大移動の事と、その後のカール大帝の欧州遠征の事を紹介しました。異民族(ゲルマン民族)の流入で荒れたフランク王国の再編の為に尽力したカール大帝(742年~814年)の活躍はかつてのフランク王国をかえり見る時に必須です。と、同時にカール大帝の政策によりそうようにカトリックの再布教の為にドイツ・アルプス山麓に拠点を置いて布教に励んだベネディクト会派の修道院の存在も重要なのです。フランク王国のみならず今の欧州の礎(いしずえ)になる歴史がそこに見えます。ミュンヒナー・キンドル(Munchner Kindl)ミュンヘン市の紋章が街の起源を明確に表しています。「Munchner Kindl」は直訳すると「僧院の小坊主」。(見習い修道僧の事と思われる。)739年、聖ボニファティウス(672年頃~754年)がフライジングに開いた司教区がゲルマニアの最初の司教区となった。(フランク王国にキリスト教を布教した人としてドイツの守護聖人として祀られている。)その司教区で746年ドイツ・アルプス山麓テーゲルンゼー(Tegernsee)にベネディクト会派の修道院が創設。さらにその分院としてイザール(Isal)川畔にできた僧院の村がミュンヘン(München)市の起源です。左手に聖書、右手の2本指は不明。黒衣の修道士・・とも呼ばれるベネディクト会のフード付きの黒装束を身に付けている。。実はこの紋章は13世紀より使用されていたようですが、16世紀になると持ち物は特産物のビールやラディッシュ(ミニ大根)になる時もあったようです。※ ビールとラディッシュはミュンヘンの特産物。他にプリッツェル(Brezel)もミュンヘンの特産物で、その特異な形は僧侶の腕組み姿を表しているとか・・プリッツェルはレストランで必ず出されます。しかし、無料ではなく、食べた分精算されるので注意です。通過税の徴収と商業都市ミュンヘン誕生フライジング司教区の収入はイザール川を通過する岩塩に対する税金で、莫大な収益があったそうだ。そこに割って入ったのがハインリッヒ獅子公(ザクセン公ハインリッヒ3世)(バイエルン大公ハインリッヒ12世) (1129年~1195年)。塩の交易路と課税を巡って対立となり、結果、1158年に収益の3分の1を司教に渡すと言う約束で、ハインリッヒ獅子公の独占的塩税の徴税が認められた。かくして通過税の徴収の為にイザール川畔に商業都市ミュンヘンが誕生する。※ザルツブルグで集められた塩もこのイザール川を通過して売られて行った。つまり塩はあらゆる所で通過税を取られていた事になる。ミュンヘン市街略図ミュンヘンも城壁に囲まれた都市でした。地図の黄色の道路がかつての城壁跡で中が旧市街。青色のラインは西のカールス門から始まるノイハウザー通りとカウフィンガー通り、街の中心、市庁舎のあるマリエン広場まで続く。ノイハウザー通りとカウフィンガー通りK・・カールス門(karistor)とカールス広場(Karlsplatz)M・・聖ミヒャエル教会(Michaelskirche)F・・フラウエン教会(Frauen Kirche)NR・・新市庁舎(Neues Rathaus)とマリエン広場(Marienplatz)AR・・旧市庁舎(Altes Rathaus)カールス門(karistor)とカールス広場(Karlsplatz)噴水の向こうに見えるのがカールス門カールス門の向こう側がかつての城壁の中内側からのカールス門カールス門内側前 サテュロスと少年の泉 1895年Matthias Gasteiger(1871年~1934年)昨 ドイツの彫刻家ノイハウザー(Neuhauser)通りミュンヘンオリンピック以前はカールス通りと呼ばれた。実は12世紀にはすでに存在していたらしい。ショッピング、ビアガーデン、グルメレストラン・カフェ、観光スポット、文化スポットが並ぶ。この日は天気が悪く人出も少ない。こちらではかなり雨が降っていても傘を差す人は少ない。そもそも持っている人が少ない?リヒャルト・シュトラウスの泉(Richard-Strauss-Brunnen ) 1962年Hans Wimmer(1907年~1992年) ドイツの彫刻家泉のレリーフはドイツ、ロマン派の代表する作曲家リヒャルト・シュトラウスのオペラ、サロメの情景から描かれている。バックの建物は16世紀の建物でルネッサンス様式。聖ミヒャエル教会(Michaelskirche)もこの通りにある。2015年7月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」を見てね リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)この近くにあるフラウエン教会(Frauen Kirche)は別の回にやります。リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)ドイツでは、シカ、イノシシ、ノウサギや野鳥類の料理が多いと言う。狩猟が盛んだった・・と言う名残だろう。フラウエン教会の路地を過ぎると通りはカウフィンガー通りに変わるしばらく歩くとマリエン広場に到着マリエン広場と新市庁舎ラートハウス天気の時の写真は次回に・・。旧市庁舎(左)とマリエン広場ペーター教会の時計塔からのノイハウザー通りとマリエン広場ピンクの円あたりがカールス門M・・聖ミヒャエル教会F・・フラウエン教会ブルーの円がマリエン広場次回マリエン広場とラートハウスBack numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月06日
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