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追加
ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)
騎士ウィリアム・マーシャル(William Marshall)
騎士をめざした貴族の子弟
足のクロスの謎
テンプル教会には何人かの騎士が眠っている。
中でも円形ドームの下に眠るウィリアム・マーシャル(William Marshall)親子の墓は特別な存在である。
騎士ウィリアム・マーシャル(初代ペンブルック伯)
(William Marshal, 1st Earl of Pembroke) (1146年~1219年)
ウィリアム・マーシャル(William Marshall)は日本では全く・・と言っていいほど知られていないが、彼は 騎士の王道を進み、中世のイングランドで最も成功した一人
です。
幼少より奉公に出て修行し、トーナメントで実戦参加、戦場を渡り、騎士を育て、やがて戦場を退いて政治に携わる。
ウィリアム・マーシャルの 主君はイングランド王家(プランタジネット朝)であった。
そこでヘンリー2世、ヘンリー若王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として重要(ちょうよう)された
。
親子でも敵対する時代に、互いに敵になりながらも、一度側近になれば、とことん忠誠を誓う信用と信頼のもてる男であった為、 世代が変わりながらも歴代の王に仕え続けた
のだ。 それはこの時代とても希有(けう)な事なのだ
。
ウィリアム・マーシャルは身内だけでなく、 敵対する武将からも一目置かれ信頼された
。
彼の正義は騎士道に忠実であったのだ。
1170年に彼はヘンリー王子の武芸指南役に任命され4年でヘンリー王子を騎士に育てた。
二人は師弟として、またそれ以上に強い友情でも結ばれていたようだ。
騎士道を復活させ、騎士道に邁進(まいしん)。黄金期を造ったと言う。
残念ながら若きヘンリー王子は1183年に熱病死するが、ウィリアム・マーシャルは 1183年から1186年まで十字軍にも参加
している。
これがヘンリー王子との約束。・・だとも言われているが、参加に関しては、ヘンリー2世の代理で参加した・・と言う方が理屈が合う。(理由は前回紹介したトマス・ベケット暗殺事件である。)
この十字軍参加でウィリアム・マーシャルは聖地でのテンプル騎士団の活動に感銘
したそうだ。
それ故、 死ぬ時はテンプル騎士団として埋葬されることを誓ったとされ、その遺言通りウィリアムは死の直前にテンプル騎士団に入団してこの教会に埋葬された
。
何にしても財産も何も持たない一介の騎士から領地、名誉、爵位を受けて貴族に上り詰めた英雄的な騎士なのである。
氏名不明の騎士の彫像(Effigy of Knight)
上の4体は、大戦の時の空爆で天上ドームが崩落。教会や墓のダメージは大きく、左上の墓以外名前も不明。
写真下は・ウィリアム・マーシャル初代ペンブルック伯とその子供のお墓
左上・・ウィリアム・マーシャル初代ペンブルック伯
(William Marshal, 1st Earl of Pembroke) (1146年~1219年)
右上・・ウィリアム・マーシャル、第2代ペンブルック伯
(William Marshal, 2nd Earl of Pembroke)(1190年~1231年)
ジョン王の娘と結婚するが、子供をもうけることなく死去。
右下・・氏名不明の騎士の彫像(Effigy of Knight)
もしかしたらリチャード・マーシャル、第3代ペンブルック伯
(Richards Marshal, 3nd Earl of Pembroke)(1191年頃~1234年)
結婚するも、子供をもうけることなく死去。
左下・・ギルバート・マーシャル第4代ペンブルック伯
(Gilbert Marshal, 4th Earl of Pembroke )(1194年~1241年)
2度の結婚をするが、子供を得ることなく死去。
注・・実はマーシャル家は2世代目のペンンブルック伯家となる。ペンブルック伯家は幾度も家系が断絶して爵位が数え直されていると言う。
マーシャル家もまた2代から5代目まではウィリアム・マーシャルの子息であるが、不思議なことに息子たちは全員子供が無く、爵位は娘婿に継承される
。
写真上の右と写真下がウィリアム・マーシャル初代ペンブルック伯
写真左が父親と同名の長男ウィリアム・マーシャル、第2代ペンブルック伯
上下逆であるが1941年のダメージ以前に撮影された上の二つの墓の写真
ウィリアム・マーシャル
ヘンリー1世の高官だったジョン・フィッツ・ギルバートの息子に誕生するも3男で家督権の無い彼は11歳で家を出され知り合いの伯爵家で騎士となるべく修行を積んだ。
騎士をめざした貴族の子弟
騎士階級の 者は、主君より与えられた(騎士の)称号と義務、それに不随して得た領地は共に相続され子に引き継がれたそうだ。(現在
は一代限りの称号も多い。)
しかし、南フランスでは財産は子に均等に相続されるものの、 北フランス、イングランド、ドイツではほとんどの財産が長子のみに引き継がれ、次男以下の息子には何も無与えられなかったと
言う。
つまり 嫡子以外は早々に家を出され自ら生計を立てねばならなかった
。
結婚においてもしかり、貴族の子息と言えど、長子でないものは自分でトーナメントや軍隊で稼いで財産を得てからでないとできなかったので、30過ぎても独身の騎士は多かったと言う。
それ故、 12世紀末、十字軍の進軍や、テンプル騎士団の影響もあり、家を出る若者達の間で騎士ブームが起きたのもうなずける話
である。
成功すれば一攫千金なのだから・・。
ウィリアム・マーシャルも自らの力で未来を切り開いた人であるが人望故か? 運も良かった。
ヘンリー2世がウィリアム・マーシャルを気に入り、縁談を持って来た。逆玉である。
相手は富豪の女性イザベル・ド・クレア(Isabel de Clare)(1172年~1220年)
この結婚によりペンブルック伯爵などの爵位のほか、アイルランドのレンスターやペンブルック城など、イザベルがウェールズに有していた権利までも得たのだ。
二人はかなり歳が離れていたと言うが仲がとてもよく10人の子供にめぐまれた。
ギルバート・マーシャル第4代ペンブルック伯

ギルバート・マーシャル第4代ペンブルック伯もウィリアム・マーシャルの3人目の子息である。彼はトーナメントの事故で亡くなった。
先に紹介したように、 ウィリアム・マーシャルの息子には全員子供が無く、爵位は最終的に娘婿に継承された。
ところで家を継承する世継ぎができる前に早世したのは 彼の仕えたプランタジネット家も同じであった。
ウィリアム・マーシャルが仕えた主君は6人。そのうち早世したヘンリー王子とリチャード1世とジョン王はヘンリー2世の子息である。
世継ぎがいなければ長子でなくても王位や爵位が回ってくる事も多々あったようだ。
足のクロスの謎
彫像の足は交差し、ライオンなど動物? のようなものを踏みつけている。
踏みつけられている物は騎士叙任時の象徴の言われからおそらくプライドを具象化したもの
?
足のクロスは十字軍騎士の特徴・・と言う説もあるがこの墓の主、ウィリアム・マーシャル、第2代ペンブルック伯は騎士として戦いはしているが十字軍に参加はしていない。
逆に初代ウィリアム・マーシャルは十字軍に参加しているが足はクロスしていない。
つまり 足のクロスが十字軍騎士の特徴と言うのは間違いで、単に当時の流行のスタイル? の可能性が高い
。
あるいは当時 騎士の間で流行したスタイル
(叙任式の騎士のスタイル)の可能性がある。もちろんそれはクロス(十字架)を意味しているのだろうが・・。
なぜなら 当時の騎士道はテンプル騎士の活躍もあり、非常に尊い、清くレベルの高い武士道であったからだ
。
騎士の叙任式には数々の儀式が執り行われる。それは今となってはどれも秘技である。
別の回に紹介できれば・・。
話は変わるが、 十字軍兵士の墓と言われる物をあまり欧州で見かけた記憶が無い
。
王家に並ぶような有名な騎士や修道僧の立派な墓はたまに見かけるが・・。
ウイーンのハイリゲンクロイツの僧院で聞いた話であるが、 遠い異国の地で亡くなった遺体を持ち帰る事は基本不可能なので、あり得ないそうである
。(遺体は腐るし荷物になる)
しかし、 どうしても故郷に連れ帰らねばならなかった時、遺骸を釜ゆでにして、肉をそぎ落とし、骨だけ持ち帰ったそうだ
。
このテンプル教会にどれだけの本物のテンプル騎士がいるのかは不明である。
なぜなら彼らのほとんどは中東で亡くなっているのだから・・。
テンプル教会 back number
リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)
リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)
ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)
十字軍についてのback number
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)
騎士修道会についてのback number
リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)
リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)
リンク ロンドン(London) 1 (テムズ川)
リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)
リンク ロンドン(London) 3 (テムズ川に架かる橋 2)
リンク ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)
リンク ロンドン(London) 5 (タワー・ブリッジ 2
リンク ロンドン(London) 6 (バトラーズ・ワーフ)
リンク ロンドン(London) 7 (シャッド・テムズのカフェレストラン)
リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)
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