わたしのこだわりブログ(仮)

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2014年11月19日
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マリア・テレジアの改革は凄い。
軍隊を強化する為に陸軍学校を設立し技術と士気をあげさせたり、初めて帝国内の国税調査を行ったり、司法も分離してきちんとした裁判ができるようにした。
また学校を設立して一般の子供も義務教育を受けさせ、かつ能力あるものに奨学金を与えている。

ところでマリア・テレジアは20年で16人の子供を産んだと紹介したが、子供の死亡率が高かったこの時代彼女も6人の子を成人前に亡くしている。
父が後継者に悩んだ事もあり、とにかく子供をたくさん産もうと考えたようだが、この医療のおくれた時代は出産後の女性の死亡率も高かった。
だから彼女は医療の進んだ国から医師を招き病院を設立している。

彼女の改革は帝国内の民の為、その為に骨格である帝国(ハプスブルグ家)の強化を図った。それが息子ヨーゼフ2世との違いなのだと思う。

カプツィーナ・グルフト(Kapu zinergruft) 3  マリア・テレジア以降

神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(Kaiser Joseph II)
フランツ2世(Franz II)
マリア・ルイーザ(Marie Louise)

M・・Maria-Theresien-Gruft
pict-カプツィーナ 9.jpg
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(Kaiser Joseph II)の柩 (非常に質素なのは本人の希望。)

マリア・テレジア・グルフト図(マリアテレジアの柩前がヨーゼフ2世後ろがヨーゼフ2世の妻子)
pict-カプツィーナ 10.jpg

神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(Kaiser Joseph II)(1741年~1790年)
マリア・テレジアとフランツ1世の長男
古い王政からの脱却、国家の近代化を計り国民の為の国家(ハプスブルグ家)であらんとしたマリア・テレジア。その後継が ヨーゼフ2世であるが・・。

啓蒙専制君主の代表のように語られるが、実際はどうなのだろう??
母の憎んだプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝し、マリア・テレジアの望まない方向に帝国を導いた。
彼は市民の為にたくさんの改革をしてよりレベルの高い近代国家を目指したらしいが傍らでフリードリッヒ2世にそそのかされてポーランド分割に参加している。
それはかつてフリードリッヒ2世が シュレージェン(Schlesien)を略奪した行為とさして変わらない


また改革自体もマリア・テレジアが始めていた改革と混同されて過大評価されている部分も多いのでは?と思う。(思いつきで根回しもなしに勝手に提案してすぐに撤回するような物もたくさんあったらしい。)
社会が変わりつつあったのは確かだが、いずれにせよハプスブルグ家衰退の序章はここから始まった。

1番目の妃 マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ(Maria Isabella von Bourbon-Parma)(1741年~1763年)
2番目の妃 マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン(Maria Josepha von Bayern)(1739年~1767年)
成人した子はなく、彼の死後帝位は弟レオポルド2世(Leopold II)が継承。

pict-カプツィーナ 17.jpg
上の写真右に横たわるのはヨーゼフ2世の夭折した娘。マリア・テレーゼ(Maria Theresia)(1762年~1770年)
右が1番目の妃 左が2番目の妃
pict-カプツィーナ 16.jpg

ところで マリア・テレジアは宗教界にもメスを入れている。典礼を減らして教会や修道院が増えるのに歯止めをかけた。ヨーゼフ2世はさらに聖職者の横行を止める? 葬儀の簡素令を出したそうだ
だからそれ以降に亡くなった妃や子供達の柩はとにかく質素になっている。

この政策は モーツァルトの葬儀が簡単で質素で、遺骸が行方不明になった事件にも関係 して来るそうだ。

※ 後先になりますが・・。「モーツァルトの墓地がうやむやになった諸事情」 を書いています。
2016年7月 シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)」

リンク  シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)

T・・Toskana-Gruft
pict-カプツィーナ 22.jpg
トスカーナ・グルフト(Toskana-Gruft)は トスカーナ大公だったレオポルド2世(Leopold II)の家族のブース である。(柵があり中には入れなかったので見落としたのかも知れないが、レオポルド2世の柩は見あたらなかった。)

レオポルド2世Leopold II)(1747年~1792年)
ヨーゼフ2世(Joseph II)の次に神聖ローマ帝国の皇帝。ヨーゼフ2世の弟でマリア・テレジアの3男。


ここで再び・・グルフトの見取図(この堂は10のブースに分かれている。)
pict-カプツィーナ 20.jpg
M・・Maria-Theresien-Gruft の上はその子供や子孫達になる。

Fr・・Franzensgruft
最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)(1768年~1835年)のブースpict-カプツィーナ 18.jpg
神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)の柩
pict-カプツィーナ 19.jpg
神聖ローマ皇帝フランツ 2世(Franz II)(1768年~1835年)
神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)
オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I.)(在位:1804年~1835年)として即位
父はレオポルド2世。

星1806年ナポレオンを中心に諸侯が同盟を結び帝国を脱退。、フランツ2世は同年8月に神聖ローマ皇帝の退位と帝国の解散を宣言。
つまり彼が最後の神聖ローマ帝国の皇帝なのである。


※ 彼の戴冠式の肖像画は宝物館に残されている。肖像とハプスブルグ家の三種の神器は番外で紹介予定。

Fe・・・Ferdinandsgruft
フェルディナント1世の柩
pict-カプツィーナ 21.jpg
フェルディナント1世(Ferdinand I)(1793年~1875年)
オーストリアの皇帝、ハンガリーの国王
2代目のオーストリア皇帝。父はフランツ1世

N・・・Neue Gruft
pict-カプツィーナ 23.jpg

マリア・ルイーザ(Marie Louise)の柩
pict-カプツィーナ 24.jpg
マリア・ルイーザ(Marie Louise) (1791年~1847年)
父はフランツ2世で、フェルディナント1世の妹。
ナポレオン1世の2番目の妃として有名。


最も憎むべき相手と結婚しなければならなったマリア・ルイーザは泣き続けたと言われている
それでも ナポレオンとの間に長男ナポレオン2世(1811年~1832年 )誕生

ナポレオンが退位してエルバ島に流されると彼女は帰国
二度とナポレオンの元に戻らぬようバルマ公国の統治をまかされ、その時護衛していたナイペルク伯と恋いに落ちて子供を出産している。(マリア・ルイーザは3度結婚した。)

ナポレオン2世はほとんど母に見捨てられた子だったようだ

星ところでナポレオン2世は21歳の若さで亡くなり当初はこのカプツィーナ・グルフトに葬られたそうだ。
リストにないし写真にもないので調べていたら後世ナポレオンを崇拝するアドルフ・ヒトラーによって他の墓所に運ばれたらしい


Fr・・・Franz-Josephs-Gruft
pict-カプツィーナ 25.jpg
中央がフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)の柩
左が前に「シシィとゲルストナーのスミレ菓子」で紹介したフランツ・ヨーゼフの妃エリーザベト(Elisabet)の柩
リンク ​ シシィとゲルストナーのスミレ菓子
pict-カプツィーナ 26.jpg

容量オーバーなので写真のみで終わらせてもらいます。

「ハプスブルグ家」関連Back number
リンク ​ バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)
リンク ​ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂
リンク ​ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩
    カプツィーナ・グルフト(Kapu zinergruft) 3  マリア・テレジア以降

リンク ​ ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日
リンク ​ ハプスブルグ家の三種の神器
リンク ​ 金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​
リンク ​ 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)
リンク ​ ハプスブルグ家の​分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓
リンク ​ 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑

リンク ​ マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)







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Last updated  2023年11月12日 03時14分20秒
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