わたしのこだわりブログ(仮)

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2023年10月08日
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星 ラストに「ハプスブルグ家」関連Back number 追加しました。


さて、紹介していなかった案件を掘り起こしました。写真はウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper)が中心です。
内部の見学ツアーにまで乗っていたのに紹介する機会がなくて・・ぽっ
​​​​​​オペラに詳しい訳ではないので、その辺の話はできないですが、行かなくてもいいくらいに写真をたくさん載せました。

また、 こちらの歌劇場、元はオーストリア帝国時代の宮廷歌劇場として建築されたものです。
オープニングには実質最後のオーストリア皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)も妃と共に出席しています。

オペラに直接関係ないけど、 劇場ができた当時の帝国は近代を迎え複雑な時代
神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国の樹立。民族問題からの第一次世界大戦開戦。
そんな事情を踏まえ、 書いていたら結果的にハプスブルグ家帝国の終焉となる話になりました。​ ​​



劇場のこけら落としが1869年5月。
​この頃オーストリア・ハンガリー帝国の中で民族運動が激化 。オーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割するも汎スラブ主義の先頭にたつセルビア王国との関係がより悪化。
フランツ・ヨーゼフ1世の治世後半は民族問題で帝国の危機 が訪れる。
※ 本人は帝位についた時から大変だったと言ってます。

さらに1889年には、皇位継承者の息子ルドルフ(Rudolf)がマイヤーリンクで謎の死を遂げる。
1914年、次の皇位継承者であったフランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand)大公も暗殺された(サラエボ事件)。
この報復でオーストリアはセルビアに宣戦布告。

当初3ヶ月程度で終わるはずの戦いが、ロシアの参戦により自体はややこしくなる。
欧州各国が巻き込まれて第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)となった。
戦争中の1916年、フランツ・ヨーゼフ1世自身が肺炎で崩御。(86歳)
フランツ・ヨーゼフ1世の後を甥の子供がついだが、第一次世界大戦の敗戦により帝位も剥奪され、ここにハプスブルグ家の帝国は終焉する???

前半が劇場の写真と説明で後半がハプスブルグ家の落日となる話です。
※ 落日(らくじつ)とは、「沈み行く太陽」の意。帝国の終焉(しゅうえん)を当てています。


ウィーン国立歌劇場 とハプスブルグ家の落日

建築にまつわる悲劇
Schwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)​
宴席とTPO
Gustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)
Marbele hall(マルベル・ホール)
Tea Salon(ティー・サロン)
Concert hall(コンサートホール)
Wiener Opernball(ヴィーナー・オーパンバル)

ジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)
ステージのバックヤード(backyard)
暗黒の中世で失った文化 & ルネッサンス
西欧の再興
ドイツ語によるオペラの誕生
ヨーゼフ2世(Joseph II)​​​
ハプスブルグ家の落日
神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国へ
最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
ハプスブルグ家落日から世界大戦へ
敗戦と帝国の解体

ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper)の創建は1869年。 ​​​​
​​​​​​​​​​​​​​ それはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世

ベランダ上のアーチに、ドイツの彫刻家エルンスト ユリウス ヘーネル(Ernst Julius Hähnel)(1811年~1891年)作の 5 つのブロンズ像。
左からheroism(英雄主義)、tragedy(悲劇)、fantasy(ファンタジー)、comedy(喜劇)、 love(愛)が表現されている。
上の女性像はfantasy(ファンタジー)らしい。


さらにロッジアの正面ファサードの上に設置されたペガサス(天馬)に乗った 2 人の騎手(Erato and Harmony)の像(1876年)もエルンスト ユリウス ヘーネルErnst Julius Hähnel(1811年~1891年)作。

自分の写真が無ったので参考にウィキメディアから借り、部分カットで2者を並べました。

どちらがどちらの女神か不明。二人は共に天馬であるペガサスに乗っている。

「Erato and Harmony」は直訳すると「愛と調和」になるが、「Erato」は抒情詩・恋愛詩をつかさどる学芸の女神Erato(エラト)の事。(ギリシャ神話)
Harmony(調和)の女神は聞いた事が無いが、Harmonyを具現化した女神像かもしれない。



建築にまつわる悲劇
建築は アウグスト・シカード・フォン・シカードブルク(August Sicard von Sicardsburg)(1813年~1868年)
内装は エドゥアルド・ファン・デ・ヌル(Eduard van der Nüll)(1812年~1868年)
二人は親友で、共同プロジェクトをすでに幾つも行っている関係。

1860年、ウィーン宮廷歌劇場のコンペが行われ、二人のプロジエクトが採用された 。それは間違いなく二人の最も大きな重要な仕事。

※ 開業時はハプスブルグ家の持つ宮廷歌劇場(The Vienna Court Opera)であった。
※ ハプスブルグ家は神聖ローマ皇帝を世襲のように輩出した王家。
※ 神聖ローマ皇帝については以下の章、「ローマ教皇とカール大帝」で扱っています。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊

ところが ネオ・ルネッサンス(Neo-Renaissance)様式の建物は豪華さに欠けた?  皇帝や報道陣から多くの批判を受けたらしい。
さらに、 リング(環状道路)と同時に建築が始まった事で道路は当初予定より1mも高くなった
※ 道路は元々あった城壁を撤去した跡地を埋めて造られた。

歌劇場は本来階段を上がって建物に入る造りの予定だったのだと想われるが、フラットになってしまった。それは 埋没してるチェスト(たんす)に例えられて皇帝からもガッカリされたらしい

建築家エドゥアルド・ファン・デ・ヌルはそれを深く気にやみ自殺 してしまったそうだ。
さらにその10週間後? アウグスト・シカード・フォン・シカードブルクも亡くなった。
彼の場合はたまたま? 結核と診断され亡くなったらしいが・・。​​​​​

二人の建築家が創建の前年(同年)に亡くなっているので調べてみたら、そんな事情があったようです。
だから二人は落成を見る事はできなかった。無念だったでしょうね。しょんぼり

エドゥアルド・ファン・デ・ヌルはウィーン中央墓地の名誉墓に埋葬されたそうです。


1898年頃の歌劇場と劇場正面の道路がリング

写真はウィキメディアから借りました。
何も無いからか? 今よりも道が広い気がします。

この頃、 1897年5月、36歳のグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)がウィーン宮廷歌劇場(the Vienna Court Opera)の第一楽長に任命され10月、37歳で芸術監督に就任。
マーラー指揮の下で、ウィーンのオペラは、最高潮に達する。

​​​​​​


オペラハウスの左右翼側にはJosef Gasser(ヨーゼフ ガッサー)(1816年~1900年)作の 2 つの噴水がある。
左側はmusic(音楽)、dance(ダンス)、joy(喜び)、 levity(軽やかさ)、
右側はseduction(誘惑)、sorrow(悲しみ)、love(愛)、revenge(復讐)が表現されているそうだ。

こちらは、もともとは馬車用のスペースだったらしい。




1869年5月、こけら落とし(落成式)には皇帝夫妻(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリーザベト)が出席し、モーツァルトの「ドン ジョヴァンニ(Don Giovanni)」で開幕。 ​​​​​
​フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位:1848年~1916年)​は18歳で皇帝となり、その治世は68年。
旧態の帝国が近代に突入する激動の時代に皇帝となった。 彼は実質最後のオーストリア皇帝 である。

※ マリア・テレジアの玄孫(やしゃご)。妻は美貌で有名なヴィッテルスバッハ家のエリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)。

※ 以下でハプスブルグ家ルーツに触れています。
リンク ​ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩
リンク ​ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降

星フランツ・ヨーゼフ1世の時代、無用となった城壁を取り壊してその跡にリング(環状道路)(1865年完成)を造ると、リングに沿って次々建物が建造され今のウイーンの街ができあがった。
景観を考慮され建築技法はまちまちながらもネオ・クラシック、ネオ・ゴシックなど美しい建物が並ぶ。
歌劇場(オペラハウス)もその一つ
である。

前の道路がリング



メトロの路線地図を利用したので見づらいですが、 リング(環状道路)はイエロー で印ました。
歌劇場がピンクの円
王宮がグリーンの円
シュテファン寺院がブルーの 円​
他のカラーは地下鉄のラインです。

最寄り地下鉄駅はカールスプラッツ(Karlsplatz)です。

歌劇場(オペラハウス)は非常に立地の良い所にあります。
王宮にもシュテファン寺院にも歩いて行ける。
リング沿線には美術史美術館、国会議事堂など大方の主要機関が並んでいます。
リングの完成に合わせて移転するべく建設された所もあります。

※ 以前紹介しているウィーン造形美術アカデミーは、建物は道路より奥まっていますが歌劇場(オペラハウス)の斜め向かいです。
リンク ​ 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)


オペラ座エントランス

こちらは外からの左入口、左右対称に右もある。

星実は 歌劇場は第二次世界大戦のおり、1945年3月、爆撃を受けている。
​​ メインファサード(エントランスとその上階の シュヴィント・ホワイエ 、1階のティーサロン)、
また大階段は 奇跡的に破壊されずに残った
つまり、上の エントランス写真とこれから紹介する立派な大階段が1869年当時からの部分 。​​

エントランスからの中央階段

エントランス入って階段はすぐにあるから待ちの場所が無い。
これはガイドツアーに乗る人達のたまりです。

ガイドツアーは予約制。
自分の時は当日予約で入れましたが、今はインターネットで早くから時間取りをしないといけないそうです。
当然、音楽祭や舞台のある日はありません。
ガイドツアーの定員は30名。所要40分くらい。


「Feststiege(フェスティバルステージ)」とも呼ばれるメイン階段の壁と天井。

階段天井

上の写真、左右下方のメダリオンは二人の建築家の肖像。
彫刻家ヨーゼフ・セザール(Josef Cesar)(1814年~1876年)の作品。

天井画はフランツ・ヨーゼフ・ドビアショフスキー(Franz Josef Dobiaschofsky)(1818年~1867年)

タイトルは「Fortuna, ihre Gaben streuend」
何と訳せば適切かわからないが、Fortuna(フォーテュナ)は運命の女神。
幸運をもたらす女神とキューピッドが贈り物をばらまいている図となっている。







1945 年3月、ウィーン国立歌劇場が爆撃される。
1945年5月、ウィーン国立歌劇場の再建が発表。
1946 年、諮問オペラ建設委員会が設立。
1947 年、復興基金が設立された。
第二次世界大戦の終戦後、資材も乏しい中でウィーン国立歌劇場の再建が開始。
   完成まで10年。
1955年11月、ウィーン国立歌劇場は新しい講堂と最新の技術を備えて再開 。​

上の写真は再建中のウィーン国立歌劇場。
ウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りし、主要部のみ拡大させてもらしました。
星ウィーン国立歌劇場の苦悩は爆撃だけではない。
第二次大戦下ではナチス政権下に入った1938年~1945年。
多くのメンバーが追放され、また追われ、殺され、多くの作品が演奏を許可されなかった暗い時代があっ
たと言う。


​​Schwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)​
敢えてSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)と名がついサロン。
帝国時代にはウィーン王族やそのゲストの為サロン。 
​​​​​​​​​​​​​

ちょうどロビーの真上になる。




※ ホワイエ(Foyer)とは、劇場やホテルのロビー、待合室、玄関ホールなどをさす。また入口から観客席までの広い通路の事も指す場合がある。


マーラー、シュトラウス、カラヤンなど、偉大な指揮者の胸像が並ぶ部屋。
ここは偉大なる音楽家らを讃(たた)えて構成されている。



舞台の時は軽食が販売されたりするし、各種レセプション(reception)やバンケット(banquet)などに仕様変更されたりする。

下、2枚はウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りしました。

ちゃんとクロスを架けると違いますねスマイル


宴席とTPO
​集まりの違いについて少し・・。

​Reception(レセプション)​ は(会社などの)受付、(ホテルの)フロンのイメージがありますが、応接、接見、接待から歓迎の意味もあり、会議や歓迎会、また結婚披露宴のような集まりもさす。​

banquet(バンケット・祝宴) は、大勢の人が出席する特定の何か宴席の食事や祝宴そのもの。

Gala(ガラ・祝祭)が付くとまた違う
gala banquet(ガラ・バンケット) は確実に何か大きな祝賀会や祝宴会の集まり。

gala concert(ガラ・コンサート)
記念(祝賀)の音楽会。

gala dinner(ガラ・ディナー) は祝賀会(ディナー)の事であるが、内容はより具体的。​
regalでclassyでfancyと普通の集まりとは一線を画して断然 ​格が上がる。​
※ regal 帝王にふさわしい、王者らしい、堂々とした、荘麗な
※ classy 高級な、上等な、いきな、シックな、身分の高い
※ fancy 創造的発想
つまり、 ​より上品で豪華な催し。​ 服はイヴニングドレスである。


星さて、これら集まりには、 TPO(ティーピーオー)が重要 になる。​
TPOとは、Time(時間)、Place(場所)、Occasion(目的・場所・機会)の略。
つまり、 時と場合により服装や身だしなみに注意が必要だと言う事。

学生のみなさんは経験が少ないから難しいかもしれないが、何かに出席したりする時は必ず事前に誰かに持ち物や服装を聞いて、恥をかかないよう対策をした方が良いと言う事です。
※ あらかじめ招待状にドレスコード(dress code)と言う服装規定が示されている時はそれに従う。

確実に言いたいのは、聞く人を間違ってはいけないよ。 と言う事ですが・・。
経験ある目上の人、複数人に聞くのがおすすめ。今はインターネットでも良いか・・。ぽっ


グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)の胸像。

マーラーは 1897年5月、ウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に任命され、10月に芸術監督になっている。
1898年にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者になっている。
​ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督としては、1907年まで在任。​​

全くの余談であるが、以前ヴェニス紹介の冒頭で、トーマス・マン(Thomas Mann)(1875年~1955年)の小説「ヴェニスに死す(Death in Venice) 」(1912年発表)に関する思い出の話を書いた事がある。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia) ​​​​​​​​​​
​​​​
小説を原作に映画化(1971年公開)したのがルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)(1906年~1976年)監督で、映画化(1971年公開)で主人公のモデルとして起用したのがトーマスマンの友人であったグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)であった。
映画音楽で採用されたのもマーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」である。
※ この曲は、実際マーラーが妻にあてた、音楽のラブレターでもあったらしい。

マーラーと聞くと「ヴェニスに死す」の主人公、アッシェンバッハが浮かぶのだ。ぽっ


爆撃で破壊されなかったからこそ、当時の豪華さが忍べる部屋である。
職人ワザで造られたハイクオリティーな部屋。
修復があったとして、同じ物を作り直す事はできないだろう。


ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1908年~1989年)の胸像

1956年~1964年 ウィーン国立歌劇場の芸術監督になっている。

カラヤンについては、以前扱っています。
リンク ​ ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家



星Moritz von Schwind(モーリッツ フォン シュヴィント)による16枚の絵画がこのホールに飾られている事からSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)と呼ばれている。

Moritz von Schwind( モーリッツ フォン シュヴィント)(1804年~1871年) の専門はロマン主義の絵画である。ゲーテなど叙事詩の挿絵の素晴らしさから「詩人画家」という肩書きを持っている
また、 音楽の楽しさを絵画で表現した人との評価 もある。

オペラ「Der Freischütz (魔弾の射手)」から「Le nozze di Figaro(フィガロの結婚)」など有名作品が描かれている。




​​ Gustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)
正面ファサードの上にSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)​。
その右翼側の通路(階段の右側)がGustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)である。

中心の赤く囲った部分。かつては皇帝の席。今はVIP seat(貴賓席)。
手前の赤い囲みは本来は皇帝らのサロンだった場所。今はTea Salon(ティー・サロン)として何もない時に限り部屋の貸し出しもしている。

Gustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)

上の写真左が劇場への入口

そもそもは、飾られていたモーツァルトの「Magic Flute(魔笛)」をモチーフにしたタペストリーからTapestry Hall(タペストリー ホール)と呼ばれていた場所。
1997年5月、「グスタフ マーラーがオペラ ハウスで指揮者デビューして100 周年」その記念で名称変更 された。​


タペストリーは触れられないようアクリル版が付いているので反射で撮影が難しいし、色味が実際と少し違うかと思います。ゴブラン織りらしい。


奥にはマーラーの肖像画がかけられている。

Marbele hall(マルベル・ホール)
その名が示す通り、1950 年代に再建された大理石のホールである。
床だけでなく壁にはめ込まれた絵画も大理石の象眼(ぞうがん)なのである。

ヨーロッパの統一への願いから欧州各地から大理石が取り寄せられて使われている。
※ 床、ドア枠、大きなビュッフェテーブルはオーストリア(ザルツブルグ)産。

大理石の象嵌のデザインはハインツ ラインフェルナー(Heinz Leinfellner)(1911年~1974 年) 
こちらも劇場につながる扉は一カ所。

戸口も大理石。こちらの写真では少し色が黄味ががってます。

かつては、豪華なネオ・ルネサンス様式のホールで、上流階級のレセプション・サロンとして機能していた らしい。​
​当初のSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)を見てしまっているから、修復後の今は何とも味気なく感じる。
見学する必要ある部屋か? と思っちゃったもんね。どこかの社食みたいで。ぽっ
資金がなかったのだろうな? と思ったが、 調べて見ると建築家の独断があったらしい。

1949 年、再建の依頼を受け、全体的な芸術的方向性をになったのはエーリッヒ・ボルテンシュテルン(Erich Boltenstern)(1896年~1991年)。


以前のモデルに従った講堂の設計の依頼を受けたにも関わらず? そうしなかった?
​建​築家がモダンデザインに走った? 装飾のより強力な抽象化をねらったらしい。​​
デザインが簡素化され、部屋の柱も抜かれ、装飾や彫刻装飾が削減および簡略化され、絵画的なデザインも完全に放棄され、つまらない箱部屋になった?
​​これと対象に、 1946 年再開のミラノのスカラ座は、新しい設計(モダン仕様)に反対し、従来の姿に戻す再建がされた 。椅子、ベンチ、机、ビュッフェ、コートラック、ランプなどの調度品がすべて再現されている。
再建においては、 ミラノのスカラ座のような「元に戻す再建計画」の方が指示されるにいたった らしい。​​
早い話が、やっぱり失敗で、悪い先例になったみたいですね。しょんぼり


Tea Salon(ティー・サロン)
VIP seat(貴賓席)への入口であると同時に、かつては皇帝の休憩ルームだった場所
天井と壁は金箔が使用されている。
今はTea Salon(ティー・サロン)として部屋の貸し出しもされている。

見学ツアーでは立ち入りできない。遠くから撮影。しょんぼり
期待していたのはこう言うハイソな仕様。日本ではお目にかかれないからね。
でも、オリジナルらしいが時代的が複雑だったから、いろいろチャンポンな仕様ですね。


Concert hall(コンサートホール)

ここが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体である。

​​​​​​​​
講堂の収容人数は以前の 2881人から 2284 人に削減された。
​※ 減少は、 建築基準法と消防法規制の強化 によるもの。​
席数は1709席。
スタンディングスペース567席。
車椅子スペース4席。(車椅子同伴席4席)。



ステージ方面。ちょうどジャズフェスのセッティング中。







VIP seat(貴賓席)

かつての皇帝のbox席、それ自体がカーテンで閉まる。


中央の大きなシャンデリアは安全のためクリスタルガラス製の内蔵天井照明のリングに置き換えられている。
ガラスリングの重さは約3000kg。
1100 個の電球が仕様されている。
​​​​​​

お値段は、中央前席が高いのは言うまでもなく、近くても真横だと安い。
下は予約サイトの座席表である。

ドイツ語だったので オーケストラ・ピット(Orchestra Pit) 舞台・ステージ(Stage) をわかりやすく示しました。
右のカラーがそのまま値段順のカテゴリーかと思います。
つまり ​​1のピンクが特等席​​ で一番お値段が高い座席ですね。

下の写真は本来のオーケストラ・ピット(Orchestra Pit)の場所ですが、ジャズ仕様だったのでステージと変わらない位置に底上げされているようです。

オーケストラピットの広さは123㎡。
約110名の演奏者が収容可能。


Wiener Opernball(ヴィーナー・オーパンバル)
※The Vienna Opera Ball
arena seats(アリーナ・シート)の椅子をとっぱらって、そこは巨大なballroom(ボールルーム・舞踏場)となる。
ウイーンのオーパンバルはここで開かれる。

下の写真はウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りしました。


星​毎年2月灰の水曜日の前の木曜日に ウィーン国立歌劇場で行われる舞踏会はヨーロッパで最も格式高いデビュタントボール(debutante ball)の一つ。

※ キリストが磔刑にされ3日後に生き返った(復活)。それを記念する日が復活祭(Easter)。その復活祭(日曜日)の46日前の水曜日が灰の水曜日(Ash Wednesday)。四旬節の初日。
キリスト教徒にとっては重要な祭り。​
​​ デビュタントボールは、そもそも社交界にデビューする良家の子女らの君主へのお披露目の儀だった らしい。
※ お見合い相手探しも要素に・・。
初舞台となる舞踏会には純白のドレスに白く長いオペラグローブの着用が決められている

本来は上流階級や貴族の家柄の令嬢である事がまず第一条件。
当然、礼儀作法も備えていなければならない。
さらに20歳前後の才色兼備で洗練された容姿も端麗な女性と条件は高い。
だからここに出られる事は名誉な事。

それにしても基本女性のお披露目。パートナーは男性であるが、男性のデビューは言われないみたいです。
※ 現在は貴族の子女のみならず、資産家令嬢や世界的に有名な芸術家の子女が参加できるデビュタントもある。


​ルネッサンスの中で掘り起こされた古代の舞台劇​
ルネッサンスはすでに失われていた古代ギリシャや古代ローマ時代の文化、文明の礼賛(らいさん)、そしてその再興(さいこう)である。

オペラの素が考案されるに至ったのはまさにルネッサンス
期のイタリア・フィレンツェ である。​

その頃、偶然も含めて多数の過去遺跡の発見や書物の発見があった事もある。
当時の知識人や人文学者、また芸術家らがこぞってそれら過去の遺物を掘り起こし、 研究を行い、 礼賛し、 古代にあった文明を復興させようと活動した。

当然、分野外でも、知識人らのサロンで取り上げられ、新たに発信される。
​​
「ルネッサンス (Renaissance) は時代の一大ムーブメントとなって社会をも変えた。
※ メディチ家のフィレンツェでの隆盛はまさにその助けとなった。

前回「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」でプラトン・アカデミー(Platonic Academy)について書いているが、まさにその流れ( ルネッサンス)の中でイタリア音楽の再考も行われるに至った らしい。
※ プラトン・アカデミーは学校ではなく、いわゆるサロンである。集い、語らい学ぶ。メディチ家には人文学者を中心に人が集ったのだ。


ジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)
ではオペラは? どんなサロンから始まった?
それは、コンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)であった? 軍人の ジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)(1534年~1612年) のサロンで始まったようだ。

※ カメラータ(Camerata)によって造られた。みたいな事がどこも書かれているが、カメラータ(Camerata)は固有名詞ではない。 カメラータ(Camerata)の意は仲間・同士 である。
つまり、それらは 趣味を同じくするサロンの集い人である。オペラもまた、サロンの中で生み出された と言って良いだろう。
※ サロンからアカデミーに発展した例もある。
※ サロン文化はイタリアから発祥している。当時、イタリアの文化はどこよりも進んでいたらしい。

※ 以前、サロン文化をフランスに持ち込んだランブイエ(Rambouillet)公爵夫人やサロンについて書いています。
リンク ​ ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想) ​​
​​​​

ジョヴァンニ・デ・バルディは軍人として活動していない時、フィレンツェで過ごして居たようで、そこで趣味の音楽(彼は作曲もする)で仲間と集っていた。 自身が主催者としてサロンを開き、また音楽や芸術家の後援者にもなっていたと思われる。

※ コンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)については、前回「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」の中、チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)の所で触れています。軍人の肩書きですが、そもそも良家の子息達です。
リンク ​ レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)

※ ジョヴァンニ・デ・バルディは過酷であったマルタ包囲戦(1565年)にも参戦している軍人。
マルタ包囲戦に関しては「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」の中、「聖エルモ城塞(Fort St.Elmo)」で書いています。
リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦


これも前回触れたが、イタリアの傭兵トップは洗練され教養ある事を尊いとされていたから、大卒もあたりまえにいた。彼もまた 深い古典教育を受け、ラテン語とギリシャ語に堪能であった人物 とされる。また、 作曲の技術も学んでいた と言うから、全方位に優れた人だったのだろう。

バルディは現状のイタリア音楽をなんとかしようと古代ギリシャ音楽を復元する事を思いついた?
※ 1573 年初会合。活動は1577年~1582年頃?
そのサロンに集った仲間・同士(Camerata)の中には天文学者ガリレオの父ヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei)(1520年~1591年)もいたと言う。​​​​

星​​​​​​​​ 彼らが見つけた音楽は、歌うような台詞を用いる劇。フィレンツェやヴェネツィアなど裕福な都市で富裕層らの娯楽から発展して行く事になる
これがオペラのルーツとなる。
イタリア・オペラが正統派オペラの形式だと言われる所以だ

故に オペラはイタリア語が基本とされた。
それは国が変ったとしても 作曲者が英語やドイツ語を母国語にしていたとしても イタリア語の脚本で書れ、歌もイタリア語でうたわれていた。

※ イタリア語ではなく本来はラテン語だったのかもしれない。古代ローマ帝国がラテン語を公用語にしていたから学識ある富裕層はラテン語を学ぶ。立派な本もラテン語で書かれている。


星ドイツ語のオペラが登場するのは割と近世の事。


​​ 現在はイタリア・オペラとドイツ・オペラが存在する。
そしてここ、ウィーンではのどちらも演目される。

ドイツ・オペラの最大の功労者がヨーゼフ2世(Joseph II)(1741年~1790年)(在位:1765年~1790年)。マリア・テレジアの息子である。詳しくはヨーゼフ2世のところで紹介。


ステージのバックヤード(backyard)

黒い幕が舞台カーテン。

防火の為、ステージと客席を隔てるメインカーテンと、サイドステージとバックステージの防火用にさらに2枚の鉄のシャッターが3枚付けられている。
消防法の問題であろう、以前の木製の天井も鉄筋コンクリートに変えられている。








暗黒の中世で失った文化 & ルネッサンス
​​ なぜ古代の文化は失われたのか?​  ​ ​​​
​​​​​ 失われた古代の素晴らしい文化文明。
それを蘇らせたのがイタリアで発祥したルネッサンスだった

以前「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の所で「ローマ帝国の歴史はユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)あたりでだいたい終わっている。」と、紹介した。

星再征服を目指していた ユスティニアヌス1世であるが、不幸な事に彼の治世に
542年~543年頃、歴史的パンデミック(pandemic) が置きる。
エジプトで発生し、パレスティナ、そして​コンスタンチノープルへ疫病が運ばれ、人口の約半数を失ったと言う。疫病はさらに欧州、中近東、アジアに拡大。最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。

​さらに557年にはアナトリア半島一帯で巨大地震が起き、主要都市は壊滅状態。​
​その復興もできない中、 イスラム勢にどんどん領地を奪われ国庫は財政破綻。ローマ帝国領は縮小の一途 をたどって行く。​
星 人材も、お金も無く軍隊を組織できなくなったローマ帝国は滅亡して行った のである。​

星 ローマ帝国無き後の中世は暗黒時代に突入する。
警備を担当していたローマ兵が消えたのだ。もはや蛮族の侵入やイスラムの海賊の侵入を阻止できなくなった地中海含めて欧州は荒れに荒らされて壊滅し、古代の英知も失われて行ったと言う訳だしょんぼり

リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊


西欧の再興 & 神聖ローマ帝国の誕生
帝都の置かれた(東ローマ帝国)コンスタンティノポリスはともかく、西ローマ帝国が解体されてからの(元)西ローマ帝国内の惨状は特にひどい。何しろトップが実質、ローマ教皇であるから、軍隊が無い。自主防衛もできない。
だから ローマ教皇はフランク王国のカール王を神聖ローマ皇帝に任命し、西ローマ領の防衛の丸投げをした のだ。

訂正部分
カール(Karl)大帝=シャルルマーニュ(Charlemagne)大帝 ​神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年)


カール王率いるフランク王国の快進撃は続いていた。おかげで西ローマ帝国内の治安もようやく回復に向かう事になる。
当初はフランク王国が、そして後にドイツ諸侯らの会議と(選定公による)選挙により神聖ローマ皇帝が選出されるにいたったのはそんな歴史から始まっている。スマイル

※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「ローマ教皇とカール大帝」で詳しく書いています。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊


因みに、 ​ハプスブルグ家は、そうした諸侯の中で成功? 長きに渡り「神聖ローマ皇帝」を輩出し、もはや世襲化させた一族なのである。​​​​​
​​※ ハプスブルグ家はマリー・アントワネットの実家です。母(マリア・テレジア)は女であったので「神聖ローマ皇帝」にはなれなかった。だから、ほぼ婿養子(むこようし)の夫フランツが「神聖ローマ皇帝」として即位したのである。


ドイツ語によるオペラの誕生
ドイツ語によるオペラの創出に貢献したのがマリア・テレジアの息子であるヨーゼフ2世(Joseph  ) (1741年~1790年)(在位:1765年~1790年)である。​
これは、 ​彼のドイツ主義な政策からうまれたらしい。​

​​​ヨーゼフ2世(Joseph  II)​​​
父王亡き後、神聖ローマ皇帝となり、母と共に共同統治者となるも母とは対立。 なぜなら、母(ハプスブルグ家)と敵対して領地まで強奪されたプロイセンのフリードリヒ2世に傾倒していたからだ。​
※ フリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)は当時、啓蒙専制君主として本を出版し人気を博していた。実際、オーストリア領の強奪などやっている事は違ったが・・。
※ マリア・テレジアとフリードリヒ2世の戦争は以下に書いています。
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)

プロイセンのフリードリヒ2世のような啓蒙専制君主になりたくて、思いつきも含めていろんな改革を断行した皇帝だ。市民の為に良き君主として振る舞ったつもりだったらしいが、 改革の多くが挫折に終わっている。
​​
実際、死者の埋葬など葬送の簡素化 (薄葬令)は非常に評判が悪かった。
※ 墓碑の名前も一時期禁止された。モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)(1756年~1791年)のお墓不明事件はそこから派生している。
※ ハプスブルグ家の棺も、以降、当主以外はほぼ鉛棺(なまりかん)に変っている。


​高評価には学校の創設や病院の建設などがあげられているが、それは母がやってきた事と混同され過大評価されている部分があると思う。​
マリア・テレジアの出産数は多い。自身が経験した出産の不安などドイツ女性の事を考えてすぐれた医師を国内に呼び病院を建設したのは彼女だ。​​
​​
星過大評価されているらしい節はあるが、 彼のドイツ主義は評価できるのかもしれない。
1776年、ヨーゼフ2世はドイツ文化推進政策をかかげた。
大学の授業をラテン語からドイツ語にするなどドイツ主義が顕著(けんちょ)に見られ る。

​​またドイツ語による歌芝居や大衆演劇の一形であった オペレッタなどのジングシュピール(Singspiel)
ドイツ語使用度の向上も兼ね備えていたのかもしれないが 改革はドイツ演劇自体を高め、ドイツ語によるドイツ・オペラの誕生につながる事になる
今までオペラと言えばイタリア語。それは一部貴族階級のものでしかなかった。ドイツ語にする事で大衆に向けたのかもしれない。

​※ モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)(1756年~1791年)はジングシュピールの名作を遺している。1782年には皇帝の委嘱で「後宮からの誘拐(K.384)」を作曲。最晩年にはジングシュピールの傑作「魔笛(K.620)」を発表。
その「 魔笛(K.620)」はモーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラ と言われる。


ところで、ヨーゼフ2世は少し? 変わり者だったのかもしれない。それはカプツィーナ・グルフトの彼の棺を見れば解る。

ヨーゼフ2世(Joseph II)(1741年~1790年) (在位:1765年~1790年)の棺(手前)

自ら墓碑には「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」と入れている。
自分でも「満足のいく仕事は何もできなかった」と思っていたのだろうか?
遺言で自身の棺について「質素に」と言ったらしい。

※ 以下で​ハプスブルグ家の墓を書いてます。

ハプスブルグ家の落日

ハプスブルグ家最後の家系図​​



神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国へ
1806年、神聖ローマ帝国はナポレオンの進軍により解体され844年の歴史を閉じた。

つまり 最後の神聖ローマ帝国皇帝がフランツ2世(Franz II)(1768年~1835年) なのである。​​
​​​​同時にフランツ2世(Franz II)は ​初代オーストリア帝国皇帝として即位する​ 。(在位:1835年~1848年)

フランツ2世(Franz II)(1768年~1835年) 神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)
オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I) 初代オーストリア皇帝(在位:1804年~1835年)




カプツィーナ・グルフトにあるフランツ2世(Franz II)の棺

Kaiser Franz IIと書かれていた。


最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
下のポートレートはウィキメディアから借りました。​​​
フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位:1848年~1916年) 
​​​​​​
ハプスブルグ家帝国の終焉となる実質最後の皇帝。 彼はオーストリア国民には慕われていたらしい。
妻の美貌の方が有名であるが・・。

下のポートレートはウィキメディアから借りました。​​​結婚の時の写真らしい。
エリーザベト・フォン・エスターライヒ(Elisabeth von Österreich)(1837年~1898年)

生涯、美貌とスタイルの維持には務めていらしい。ウィーン王宮の部屋には美容器具が置かれていた。
以前扱っています。
リンク ​ シシィとゲルストナーのスミレ菓子

日本での人気も高いですが、エリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)は結構不幸な女性です。
予期せず、見染められて若くして結婚。結婚してからは義理の母にいびられ、生んだ世継ぎの息子は謎の死をとげ早世する。
以降彼女は喪服で過ごしたと言う。
宮廷にいる事をさけ、旅を続けたが、 1898年ジュネーブでイタリア人無政府主義者に心臓を一突きされ暗殺されている。

もともと、彼女に一目ぼれで母の反対を押し切り強引に結婚した夫フランツ・ヨーゼフ1世は泣き崩れたと伝えられる。

カプツィーナ・グルフトに収められている二人の棺

左がエリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)の棺。
中央がフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)の棺。


ハプスブルグ家落日から世界大戦へ
19世紀、 街は近代化を迎え美しいウィーンの街が誕生する一方、ナポレオンにより解体されたハプスブルグ帝国はどんどん縮小されていく

もはや 神聖ローマ帝国と名乗れ無くなった(1806年解体)ハプスブルグ家はかろうじてハンガリーを併合、1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国を樹立。
しかし、帝国内で民族問題が勃発 。​​​​​​​​​​​​

もともとイスラムとカトリックが入り混じった複雑な土地を領土に組み入れたのが最大の問題であったろう。
1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合する頃はセルビア民族問題が拡大。ロシアとの関係も悪化して行く。

そんな中で 1914年、軍事視察に出かけた皇位継承者であったフランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand )(1863年~1914年)大公夫妻がサラエヴォ(Sarajevo)(ボスニアの州都)でセルビア民族主義者により暗殺された。(サラエボ事件)

星オーストリア・ハンガリー帝国は報復としてセルビア王国に宣戦布告する事になる。
これが世界を巻き込んだ 第一次世界大戦の始まり なのである。
この時点でフランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848年~1916年)​はまだ皇帝であった。


​バルカン半島に軍事基地を持たない帝国には不利な戦いと解っていたが、立場上開戦しなければならない。​
フランツ・ヨーゼフは「もし帝国が滅亡しなければならないなら、少なくとも品位をもって滅亡すべきである」と言ったそうだ。
実際、 ​この大戦の後にオーストリア帝国は解体され、滅亡した。​
​​​​​​​

当初はドイツがロシアに圧力をかけて、簡単に終わると思われた戦いであったのに、 ロシアがセルビア側について参戦してきた。
そうなると同盟国が参戦しなければならないと言うルールからドイツと三国同盟関係にあるオーストリアもロシアに宣戦しなければならなくなった。

また、ロシアと三国協商関係にあったイギリスとフランスも参戦。
ややこしい展開となりヨーロッパ全土が巻きこまれて行く。
​それで 一部地域の紛争のはずが、「第一次世界大戦」となった のだ。​

この戦争では、 他民族帝国のオーストリアの軍事力の無さも露呈する。そもそも軍隊の言語も統一されていなかった そうだ。
また、戦争が長引けば食糧問題や経済問題でストライキも出てくる。
フランツ・ヨーゼフ1世は、国民の飢えを嘆き早くに戦争を終わらせたいと願ってはいたが、衰弱し始め1916年11月、肺炎で亡くなった。 享年86歳。
心労が死期を早めたのかもしれない。


敗戦と帝国の解体
次代はフランツ・ヨーゼフ1世の縁戚にあたるカール1世 (Karl I)(1887年~1922年) (在位:1916年11月~1918年11月)が戦下の中、1916年即位するも1918年、敗戦が決まる。

星敗戦と共にオーストリアは帝国から共和制に移行する。もはや皇帝はいらない。
ここにハプスブルグ帝国は消滅した

が、以前「金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​」を書いた事を思いだした。
そこで ハプスブルグ方式で行われた分割の埋葬は2011年のオットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)(1912年~2011年)が最後と紹介している のだ。
※ ​ 金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​
※ ​ ハプスブルグ家の​分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓

オットー・フォン・ハプスブルグは最後の皇帝となったカール1世 (Karl I)の長男であり、期間2年とは言え皇帝の皇子であった人。
身分こそ無くなったが、彼には金羊毛騎士団の主催者としての任が与えられていたらしい。

星スペイン版とは異なり、オーストリアの金羊毛騎士団はドイツ諸侯らに限られていた。でも、現在も存在しているようだ 騎士団そのものはまだ残っているらしい。
そしてそれを守るのはやはりハプスブルグ家の人々なのだろう。

※ 金羊毛騎士団と勲章はマクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)の時に妻の実家(ブルゴーニュ公領)からハプスブルグ家に継承された。

そんなわけで、 帝位こそなくなったが、 ハプスブルグ家の存在事態はまだ消えるわけにはいかないのかもしれない。
(おわり)


「ハプスブルグ家」関連Back number
ウィーン国立歌劇場 とハプスブルグ家の落日
リンク ​ バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)
リンク ​ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂
リンク ​ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩
リンク ​ カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3  マリア・テレジア以降

リンク ​ ハプスブルグ家の三種の神器
リンク ​ 金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​
リンク ​ 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)
リンク ​ ハプスブルグ家の​分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓
リンク ​ 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑

リンク ​ マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)





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Last updated  2023年11月12日 03時18分24秒
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