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続編 「西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑」のリンク先をラストに追加しました。
織田信長の政策の一つに「兵農分離」と言うのがある。
それ以前の戦いでは畑仕事の暇な農閑期(のうかんき)にしか人を徴集できなかった。つまり大きな戦は農閑期に限られたと言う事だ。
そこで織田信長は農民にお金を払って兵として正式に雇い入れる・・と言うスタイルを思いついた。
これならいつでも戦に出る事が可能。武芸に励む事も可能。
農家の方も家督を継げない次男三男に就職の道が開けたのだから喜んだであろう。
そしてそこに兵隊のプロが誕生したのである。
※ 織田家には給料を支払うだけの収入があった。
一方欧州の方は、ローマ帝国が滅んでからはカール大帝(742年~814年)が立て直しを図るまではあらゆるものが零(ゼロ)になってしまっていた。
つまり 欧州の歴史はローマ帝国の崩壊で一度リセットされ、カール大帝以降に全く新しい方法で体制作りが始まった
のである。
そんなわけで、欧州でもカール大帝の頃まではかつてのような兵隊のプロは存在しておらず、農民が主に領地を守る自主防衛の為に戦いに参加していたにすぎなかったようだ。(侵略者、蛮族との戦い)
西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)
騎士の誕生
騎士道の高まりが騎士を増やした
疑似戦争 トーナメナント
お金のかかる馬と武具
ウィーンの新王宮の美術館から
時代はたぶんハプスブルク家出身 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)の頃。彼は中世最後の騎士と呼ばれている
。
※
マクシミリアン1世は
「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の中、「金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳」にて説明しています。
彼は金羊毛騎士団を設立したルゴーニュ公の1人娘マリー・ド・ブルゴーニュと結婚し、妻の相続する領土を守った騎士なのである。
そして彼は金羊毛騎士団と金羊毛勲章を継承し、ハブスブルグ家にもたらした。
リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)
騎士の誕生
日本においても、西洋においても、戦争と農業は密接に関係している。
農業の大切な時期には当然誰も行きたがらない。かの十字軍の遠征でさえ、農閑期(のうかんき)に出発し、とっとと聖地奪還して次の農繁期(のうはんき)までには帰国すると言うのが当初の予定だったのだ。
つまり 初期の戦(いくさ)と人材の関係には農繁期(のうはんき)と農閑期(のうかんき)の問題があった
と言う事だ。。
そこで欧州の領主は農民に一定期間の徴兵を納税代わりの義務として課せるようになる。
戦争に特化した傭兵が現れるのはこの頃(11世紀頃)だ。
最初は農民が自分達の代わりに雇ったらしいから・・。
しかし傭兵の裏切りにあう事もしばしば。彼らはお金の高い方に動く。 やがて王は彼らと長期契約で土地を与える代わりにきちんと武装して兵力となりえる臣下を持つに至った。
(当時は財源が乏しく与えられるのは土地くらいしかなかったらしい。)
これが即、騎士と言う訳ではないが、これがルーツになるのだろう。
土地をもらい受け、領主となった彼らは代々武芸に励み、土地とその職を相続していく事になる。
騎士階級となる臣下の誕生である
。
※ ところで英語のKnightには「騎士」だけでなく「従者」の意味もあるそうだ。
戦士と言うだけでなく臣下と言う意味か?

マントの下の防具
もはや甲冑を超えてますね。
騎士道の高まりが騎士を増やした
以前紹介した 「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」 騎士をめざした貴族の子弟
(2013年9月)
ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)
でも既に紹介しているが、南フランスでは財産は子に均等に相続されるものの、北フランス、イングランド、ドイツでは長子相続と言う制度がとられていた。
つまり 騎士道の華やかなりし頃のイギリス、ドイツ圏ではほとんどの財産が長子のみに引き継がれ、
長男が亡くなれば別であるが、 通常は次男以下の息子には何も与えられないので自力で自活の道を探すしかなかった ようだ
。
そこで家督を継げなかった者達の中で騎士をめざした者達が増えたようだ。もちろん聖職に進む者も多かったろうが・・。
一方領主の側にも理由があった。
素晴らしい領主の周りには立派な騎士が集まる・・と考えられ、競って優秀な騎士を求めたからだ。
自ら騎士道の手本を示して騎士と騎士道のブームを造った一人がイングランドのヘンリー王子
だ。
※ イングランド(プランタジネット朝)のヘンリー若王(Henry the Young King)(1155年~1183年) ヘンリー2世の次男。
彼については騎士ウィリアム・マーシャル(William Marshall)のところで触れているが、当初彼は次男であった為に有能な騎士のウィリアム・マーシャルと共に自ら騎士として道を求めたようだ。
粘り強さと賢さ。王となっては立派な騎士が彼に集まるのを見て当時優勢だったフランドル伯フィリップでさえ一目置いたらしい。
残念ながら熱病で亡くなり、彼の意志を継いで騎士ウィリアム・マーシャルが十字軍として聖地に向かっている。


疑似戦争 トーナメナント
最初の騎士がいつくらいから出たのか定かでないが、 騎馬による槍試合が騎士のスタイル
となり、その戦法を最も得意としていたのがフランドル伯だったようだ。
蛮
族がせめてくる以外は余計な戦いは禁止され、あっても小競り合い程度が続いた時代、トーナメントと言う疑似戦争ゲームで戦っていたのがフランドル伯とイングランドのヘンリー王子だ。(他にももちろんいただろう。)
彼らのトーナメントは一騎打ちかと思いきや、数百人規模の本格的な戦い
だったようだ。
当然怪我人や死者も出るし、負ければ鎧(よろい)を取り上げられたり馬を持って行かれたりと損害も大きい。(捕虜はお金を払って鎧や馬をひきとったらしい。)
つまり勝てばゲームと言えど大きな利益が得られ、戦功によっては騎士に昇格できるチャンスだったわけである。
そんな中前出の騎士ウィリアム・マーシャルは負け知らず。強さと信頼の置ける彼は ヘンリー2世、ヘンリー若王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として貴族にまで昇進している。
( 爵位や領地をもらい。王の親族と結婚。一国一城の主になる。みんなの目指した英雄騎士である。
)



お金のかかる馬と武具
出世を目論む者達がトーナメナントに参加し、賞金を稼いだり名を挙げる事で領主に取り立てられる?
しかし、それは簡単な事ではない。
武具を身につけるには相当なお金が必要。
最高の騎馬はパレード用の馬と比べると10~30倍の値がついていたらしいし、騎士の正式な装備にはそうした馬3頭分くらいかかったらしい。
騎士になるには、血統も必要だったらしい。騎士見習いにとなるべく推薦をもらい、他の騎士の元に武芸の奉公に行く事がいつしか慣例
となっていた。
そこで教 えを請い、武芸を磨き、騎士道を学ぶ。
馬に乗り武器を使えるようになるまで幾星霜(いくせいそう)。
最初は誰か騎士のサポートからスタートだろう。何年も従者を続けて20年と言う場合もあったらしい。
貧しい農家の子がいきなりトーナメントに参加できる事はほぼなかったであろう。ウィリアム・マーシャルのような例外はあったであろうが、彼でさえ最初の従者時代と騎士なりたての頃は貧困だったらしい。
賞金を稼げなければ結婚もできない。だから騎士は案外晩婚だったようなのだ
。
トーナメント用の甲冑
棒で突くだけと言っても走った馬からなので相当の衝撃らしい。
たから防具も盾もどんどん大きく強くなって行ったのだろう。


防具の背中。フィット感が、技巧の極致。
実用工芸品ですね。![]()
しかし、これもトーナメントで使用すればボコボコになったらしい。
脱ぐのに鍛冶屋のお世話になる事も・・。
もっと凄いのが下の武具。スカートの様な回しがついている。
こちらは金槌での殴り合い用の武具らしい。これもマクシミリアン1世の時代。
この武具は使用されなかたものなのか? あるいは後から修復補正したものか?
危険が無いようにどんどん改良されているのだろうけど・・。そもそもどこから脱ぐのかな?
この武具には脇の開きもない。

そうそう姫を守る騎士・・は後世ロマン派の時代の小説から生まれた話で実際には従者と言う立場故、そんな色っぽい事はほぼ無かったのではないか?
次回 これら甲冑の展示されていた ウィーンの新王宮の美術館を紹介します。
リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)
「西洋の甲冑 」back number
リンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)
リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)
西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)
リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑 2023年11月10日
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