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「ちょと 待って」玄関を出ようとしていた孫の孝之の背に向かって口をついて出た言葉は遠い昔に亡くなった主人に何時も朝出かける度にかけていた言葉と同じ響きを含んでいた。「何 忘れ物?」「ううん 背中に糸くずが」そう言いながら文子は一歩踏み出すと孝之の紺のスーツに指を伸ばした。孝之は動きを止めて指先の動きを待っていてくれた。文子は孝之の背中には糸くずなど付いていなかったけれど、孝之の背に、流れて行った年月を指先で嗅ごうとしたのである。「もし もし おばあちゃん 僕 孝之 加茂大学 合格したよ うん 今日発表だったんだ そう・・・それでおばあちゃん家(ち)に下宿するからね よろしく・・・あ お母さんに代わるね お母さん・・・はい」「おめでとう 孝ちゃん 良かったね」「そう それでね おかあちゃん家(ち)に厄介になるけれど 私の使っていた部屋 あの部屋片付けたら使えると思うんだけど どう?」「それは 良いけれど 中にいれている物とか整理しなくっちゃね それに襖も張替えなくっちゃ」「それは 孝之が行ってからすると思うから心配しないで 合格したのが後期試験だったから日にちが余り無いの 入学式が5日になっているから 兎に角 準備できる物は準備して孝之をそちらに行かすわ また夜電話する」その夜掛かってきた電話では娘と孫の孝之とで入学式に着るスーツを買いに行ったそうであったが手頃な孝之に合うスーツが見つからなかったとかで買わず仕舞いだったとか文子は・・・叉、孝之達はしまつをして買いそびれたに違い無い・・・折角だから良い物を買って・・いやいやいっそ私が買ってやろうかしらと心密かに思っていた。それなのに孝之の言った事といったら「それがねえ おばあちゃん・・おじいちゃんの紺のスーツを着てみたら僕にぴったりなんだよ だから新しいのを買うのもなんだから入学式はこのスーツを着る事にしたよ」幾らなんでもおじいちゃんの残していった物はと思い電話を娘に代わってもらうと娘までも「そうなの・・今、孝之が着ているんだけどあつらえた様にぴったり・・・本人もえらく気に入ってどうしても、これを着て行くと言っているし 今時のメイドインチャイナより縫製も確りしているみたいだから」文子は型も古いし晴れの入学式にお古ではとは言ってみたものの一度言い出したらあまり強い事も言えなくて不満の残ったままになってしまった。それに直ぐに話しは変わって入学式の付き添いを頼まれてしまっていた。そんな電話が有った二日後、孝之は大きなリュックを背負い手にはバックを抱えてやって来た。そしてふたりで夕食を済ませた後暫らく孝之が二階へ上がっていたかと思うと鼻歌を口ずさみながら下りて来た。孝之はお気に入りの前髪を掻き揚げながら「どう ファッションショー 似合うでしょ おばあちゃんも見たら納得すると思うんだけど」文子は孝之を見た一瞬、忘れかけていた遠い記憶を蘇えらせていた。孝之の肩のラインが亡くなった主人と瓜二つ。・・・そう云えば主人が亡くなったのは何時だったかしら・・孝之がみっつぐらいのヨチヨチ歩きで腰に胆汁を抜くのに下げていた容器を孝之に引っ張られるのを気をつけていたのでは・・・・・・・・・そう そう 確か・・・孝之の幼稚園の入学式にも私がついていったし・・・はやいものねえ~孝之が大学に入るようになって体型が主人にそっくりになっているなんて・・・「おばあちゃん・・・どう 良いでしょ これ着て行くよ」「孝之がそれまで言うなら 仕方ないでしょ」文子は口ではそうは言ったものの今までの不満は知らず知らずの内に影を潜め胸の底よりホンワリ温かい物が立ち込めてきていた。そして文子は・・・・そうだ 孝之の入学式には浅紫の訪問着 『そよ風』を着て行く事にしよう・・・と思った。それでそれは我知らず文子の頬に密やかな笑みを含ませていた。「おばあちゃん そろそろ行こうか 今日は良い天気だよ 鍵忘れないでね」「はい はい」玄関の戸を開けると眩しいばかりの春の光に溢れていた。文子はそんな柔らかな逆光の只中に立つとふっと口をついて言葉を漏らした。「ちょと 待って」
2007年03月28日
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うらら・・・うらら・・・柔らかな日差しを窓外に眺めながら知らぬ間にうつらうつらしながら昨夜見た夢を反芻していた。ところで・・どんな夢だったのだろう?思い出せないなんだか甘い夢だったような、ちょっぴり酸っぱい夢だったようなまあ 思い出せなくても良いか 穏やかにいち日が過ぎて行く。スイッチをオンにしたテレビからは甲子園の歓声が流れた。四角い箱の中で若者達が生きづいている。春は甲子園から・・・我が家も下の息子が旅立ちの用意に余念がない。別れと出会いが折り重なってやって来るのだろう。より良き人々に出会いますように。
2007年03月26日
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「あ!見つけた」『うん』と言う物は得てして思わぬ所に転がっているものである。朝、店のシャッターを開けると おっと踏んじゃいけない。鈍い黄金色した固まりが鎮座ましましているじゃないですか 人知れず何方様でありますでしょう。態々(わざわざ)の御裾分け。まあ まあ これも『うん』の内。憂うべきかはたまた喜ぶべきか今更嘆いても始まらないので良い方に考えて『運』と思って、丁寧に紙に包んで胸の内に仕舞わせてもらいました。それもこれも言えば犬神さまと言うよりも不幸にして己の運を落ち零して行った人の成せる業。「ああ もったいなや ありがたや」
2007年03月24日
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暖かったとは言え、外に放り出していたので冬枯れでだめかと思っていたシクラメンが今朝ふっと気がつくと健気にも可愛いピンクの花芽をもたげているではないですか。「あ!・・・・咲こうとしているんだ」「放って置いて手入れはしていないけれど 生きようとしている」「頑張って 綺麗な花を咲かせておくれ」そこで慌てて柔らかな春の日差しの当たる所へ暫し移動してあげました。軒の隅っこの日陰から出してあげた鉢植えのシクラメン。いっぱい いっぱい 光を受けて 喜んでいました。 今日は何か良い事あるかな~ふ ふ ふ ほっ~ やっぱり良い事ありました。
2007年03月22日
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鼻をつく酸の匂いが立ち込めた実験室に入って来た礼司は組み立てられたガラス器具の中で何かの反応が進んでいるのを目にしながら菅原教授を探していた。「菅原先生・・・いらっしゃいませんか~」冷えた床に無機質の乾いた液体反応音が響いていたのみと思われたが、その蔭から声が降って来た。そして教授の厳(いか)つい顔が湧いて出て来た。「いよ~悪がきの御登場か」「いらっしゃったのですね 相変わらず先生は口が悪いですね」「な~に 君の頭の悪いのに比べたら 可愛いものだよ」「また~」礼司はボサボサの頭を掻きながらペコリと頭を下げた。「先生・・・卒業出来ました どうも有難う御座いました」「それは おめでとう よかったね 頑張ったじゃないか まあその辺に座りたまえ」教授は人事(ひとごと)の様に言っていたが礼司には卒業審査会で菅原教授が強く押してくれていた事を他の教授より聞いて知っていた。「はい!どうにかやっと先生達の授業内容が何を講義していたか分かってきたみたいです」「そうか 遅いよ・・いや遅くはないか まあこれからだろうね卒業してからが勉強の始まりって所だろうね 卒業しても何時でも来てくれ なんなら身を預かっても良いよ」「かんべんしてくださいよ 卒業したんですから」「まあそう言わずに・・・そうか悪がきも もう卒業か 大学生活は楽しかっただろう」「ええ そりゃ 真面目に目一杯遊びましたから 後半はちょっぴり勉強もしましたがね」「そうか・・少しは勉強もしたか まあまあ おめでとう コーヒーでも飲むか」それを聞いた礼司はすぐさま立ち上がって三角フラスコに水を満たし沸石を放り込むと三脚の台に乗せガスバーナーに点火した。やがて熱せられた三角フラスコは沸石からあぶくを沸き立たせながら蒸気を上げて行く。小さなビーカーにネスカフェをスパチュラで掬い取って入れる頃には水は完全に沸騰していた。そしてふたつのビーカーに御湯を注いでコーヒーは出来上がった。なんの変哲も無い安物のコーヒー。手で持ち上げるのも熱いだけのコーヒーしかし礼司には最高に上手かった。「先生 ここのコーヒー一番うまいですね」「そうか うまいか ここのコーヒーがうまいと言うようになると皆卒業して行くだよな~」そう言うと教授は寂しそうに微笑んでいた。礼司は俯いてコーヒーの入った熱いビーカーに唇を持って行った。苦い味が口中に広がり甘い想いでが立ち昇った。
2007年03月20日
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「風は冷たいけれど晴れているから、公園へ散歩に行こうか」息子達に言うと「お父さん、公園に新しい遊具が出来ているよ」お喋りをしながら歩いて行くと、なる程、ブランコと滑り台が設置されていました。櫻の樹の蕾は未だ固く結ばれたままでしたが木蓮の花は青い空に咲き零れていました。そして寒風を遮る垣根樹の陽だまりには黄色いタンポポの花が顔を出していました。その花にオレンジ色の羽の蝶が戯れていたのです。吹く風は冷たかったけれど春は陽だまりの中に遣って来ていました。
2007年03月18日
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確定申告も済んで、やっと落ち着つき、春が来るかな~と思っていると気が緩んだのか風邪を引いてしまいました。「ふぁ ふぁ ふぁくしょん!」そう言えば近日、寒くなっているなあ~それでも甲子園の組み合わせも決まったようだし、春も もうまじか 櫻の花も膨らんで来たかなあ~。この寒さで 花の蕾も『休眠打破』にて目覚めるのでは では 私も叉ぼつりぼつりと書いていく事にしますか。
2007年03月16日
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少し気ぜわしくなりましたので 来週半ば過ぎまでお休みにします。
2007年03月07日
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それは弥生三月、昼下がりの事でした。街は朝から低く雲が垂れ下がり時折、小雨が降っておりました。そんな街中を傘を差したお嬢さんがフレアのスカートを身につけて歩いていたのです。それを見た北風さんは言いました。「どうだい 春風さんよ あのお嬢さんのスカートをちょっとまくってみてくれないかね」春風さんは言いました。「お安い御用だよ 見ていてごらん」と言ったかと思うと突如、吸い込んだ暖かい突風をお嬢さんに吹きかけたのです。お嬢さんは手には傘を差していたので急に吹いた風にスカートを押さえる暇もありません。増してや身につけていたのがフレアのスカートだったから、それは華が咲いた落下傘の様に見事に風に膨らんで開いたのです。「どうだい 春だね~良い眺めだろう」春風さんは鼻高々です。そして今度は北風さんに言いました。「北風さんよ 今度は君の番だよ あのお嬢さんのスカートをまくってみては」それを聞いた北風さんは春風さんに負けじとばかりに思いっきり息を吸い込んで スーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー注意報 これから日本列島に寒冷前線が下りて来て冷たい北風が吹くとやら、所により雪も舞い散るとか。
2007年03月05日
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桃の花の甘やかな香りに鼻を擽(くすぐ)られた内裏さまは両腕を大きく挙げて伸びをした。一年ぶりに暗い箱から出てきてまだ朦朧としている。「ふ ふ ふ やっと御目覚めの様ね」「や これは 雛さまか・・・して見るに、そちもお顔のあちこちに眠りの影を残している様な」「あら・・そうかしら・・・」お雛さまは目元に指を添えて唇を薄く噛んではにかんでみせた。すると忽ちお雛さまのお顔には仄(ほの)かな色香が浮かび上がってきた。その頃になると内裏さまも、ようようお部屋の明るさにも目が慣れて、しきりに周りに気が行きだしてきてキョロキョロしながら、ふと口からお言葉が零れた。「あれ~三人官女は?いったい・・・・・何処?」「あ~三人官女ねえ~気になります?・・内裏さまは、わらわが眠っている間に官女達においたをなさっていらしゃったでしょ・・・わらわが知らないと思っておられました?それで」「・・・・・・・・・」「ふ ふ ふ 良いじゃありませんか それよりも五人囃子達は何処(いずかた)かに?」「ああ五人囃子達か 五人囃子達はじゃのう そう~三人官女達が居ないが如しじゃのう~」「あら・・内裏さまったら」画してお雛さまと内裏さまはお互いの思いを胸に秘めながら薄く笑って慎ましく二人だけでひな祭りの甘酒を酌み交わしているのでした。春の夜に秘めやかな忍び笑いがこぼれています。
2007年03月03日
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自意識がぷんぷんと匂いたつと、その底に顔を顰(しか)める腐敗臭が混ざるけれど、そう言って自意識が湧いてこないと、気力すら見いだせない。望ましいのは抑制の効いた自意識なんだけれどな~ どうもそれが難しい。近頃、弛緩したまま無気力になっているみたいだ。だらり だらりと自分自身を裏切り続けている。いったいこれはどうした事なんだ。何かを待っていると言うのか、何も待ってやしない。明日に何かが有ると言うのか、何も有りやしない。明日は今日の続きだと知っているのに。見てみろ今夜も眠ってしまえば目覚めると何時の間にか今日になっている。
2007年03月01日
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